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太平山(おおひらさん)の名前について

自分ではまだまだ元気だと思っているのですが、最近「加齢」が原因と言われる病気に、罹りはじめています。目は加齢黄斑変性に、この9月中旬ごろからは、帯状疱疹に罹り一ヶ月以上もその痛みに耐えて来ています。最近大分痛みも和らいで来ましたが、自然と体を動かす事を避ける生活に成っています。
先日開催された「第6回栃木市ウォーキング大会」についても、第1回から毎年参加して来ましたが、今年は参加を見合わせました。
今は、図書館で借りて来た本を読んだり、インターネットで国土地理院の地図を見たりして、過ごしています。

今回はそんな生活の中で、最近気に成っている「太平山」(おおひらさん)の名前に付いて、少し調べてみました。
太平山遠望.jpg
(栃木市街地の西に聳える「太平山」、栃木市役所駐車ビルからの遠望)

「太平山」(おおひらさん)は、栃木市民であれば、その呼び方を間違える事は無いでしょうが、漢字で「太平山」と書いて「おおひらさん」と読むのは、全国的にも我が栃木市だけでした。
栃木市図書館にて、「日本山名辞典・改訂版」(2011年8月10日・三省堂発行)を見ると、「太平山」と付いた山名は次の4種類が有る様です。
   ①たいへいざん・・・・・・・・・6座(秋田県3・山形県1・東京都1・島根県1)
   ②たいへいやま・・・・・・・・・1座(秋田県)
   ③おおひらさん・・・・・・・・・・1座(栃木県)
   ④おおへらやま・・・・・・・・・・1座(福岡県)
全体としても「太」の漢字を当てているのは上記の9座だけに成ります。
それに対して「大」の漢字を使う「大平山」は90座も有り、呼び方も次のように8種類も有ります。
   ①おおひらやま・・・・・・・・・・59座
   ②たいへいざん・・・・・・・・・・12座
   ③おおだいらやま・・・・・・・・・・9座
   ④おおひらさん・・・・・・・・・・・・5座
   ⑤おおびらさん・・・・・・・・・・・・2座
   ⑥おおだいらさん・・・・・・・・・・1座
   ⑦だいひらやま・・・・・・・・・・・・1座
   ⑧たいへいやま・・・・・・・・・・・・1座
この中で栃木県内に有るのは、栃木市の「おおひらさん(太平山)」と、日光市の「たいへいざん(大平山)」そして、芳賀郡の中央部、益子町と茂木町の境にある「おおひらさん(大平山)」の3座です。
ただ、芳賀郡に有る「おおひらさん」は国土地理院の地形図では「芳賀富士」と記されています。所在地は益子町大平と成っていますから、「大平山」とも呼ばれますが、標高272mの山ですがその姿が富士山に似ている事から「芳賀富士」の名前で呼ばれる事が一般的なのでしょう。
日光市の「たいへいざん」は他に「おおひらやま」とも呼ばれる、中禅寺湖の南方にある標高1960mの山で、その南麓には渡良瀬川の源流の一つ松木川が流れています。

栃木市の「おおひらさん(太平山)」の山上東側には、「太平山神社(おおひらさんじんじゃ)」が鎮座していますが、「太平山」と名付けたのは「山名」か「神社名」か、どちらが先か少し調べてみましたが分りませんでした。
太平山神社3.jpg太平山神社1.jpg
(表参道中間点に建つ「隨神門」の神額)        (太平山神社・社殿)
太平山神社2.jpg太平山神社4.jpg
(表参道、あじさい坂先の青銅製鳥居神額)(社殿前三光台下に建つ青銅製鳥居神額)
「太平山神社」もかつては、色々と別の名前も有った様ですが。

話しは変わりますが、私の母校「栃木西中学校」の校歌は、この「太平山」から歌い始めます。
栃西中正門.jpg栃西中校歌.jpg
(栃木市立栃木西中学校正門より)                (栃西中校歌の1番歌詞)

≪おおひらやまにみはるかす ゆたけきひろの さかえあり・・・・・・≫
「おおひらさん」では無く、「おおひらやま」と歌います。なつかしい。


栃木市の山「太平山」は「大」では無く「太」の「おおひらさん」です、色々読み方書き方有りますが、間違い無いようにしましょう。


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薗部用水竣功記念の碑と片柳用水之碑について [石碑]

栃木市薗部町3丁目、錦着山の南西側、永野川に架かる上人橋の南東橋詰に、栃木市水道庁舎が有りますが、その庁舎正門東側の道路脇に、高さが3メートル以上にもなろう石碑が一基建てられています。脇に聳える大きな木の枝に覆われている為、大きいのですがチョッと見逃され易い石碑です。
私も最近に成って、この石碑の存在に気付きました。
栃木市水道庁舎.jpg薗部用水竣功記念碑.jpg
(栃木水道庁舎正門の手前木の影に建つ石碑)  (木の枝で碑文が読み難くなっている)

石碑正面上部の篆額を確認すると、「薗部用水竣功記念」と刻されています。この篆額の文字は「栃木縣知事小平重吉書」と有ります。そしてその篆額の下に、「1951」の数字が大きく刻されています。この数字は更にその下に刻されている碑文より、薗部用水の竣工年であることが判明しました。
篆額部分.jpg
(石碑正面上部、篆額には「薗部用水竣功記念」、その下に「1951」の数字も)

幸い碑文は私が苦手な漢文体では無く、口語体に成っています。ただ、「ひらがな」では無く「カタカナ」が使われ、句読点の無い文章の為、少し手こずりましたが読む事が出来ました。
少し長文に成ってしまいますが、碑文の全文を記して行きます。(ひらがなに変えています。)
≪薗部町の大偉業であった耕地整理は明治三十八年成ったが安定用水の便なく不安は絶えなかった僅かに長宮約八町歩開田の為新設した俗称三角池は永野川流床の影響により湧水枯渇しその用をなさず年々用水不足の悩みは続けらん特に大正十二年関東大震災後は一層この悩みを増した遂に数十ヵ所の灌漑井の設置もみたがその負担は莫大かてて加えて農地改革に遭遇し解決不容易ならざるものがあった茲に栃木市永年の懸案にある赤津川改修は吹上村地内より分水永野川に放流の計画であることを知る斯くては当町三区用水事情は益々悪化を来たしその上洪水時の被害を併せ考え西部片柳平井の二ヶ町と共に赤津川改修反対同盟に参加し赤津川改修期成同盟と対立して運動を展開した偶栃木市会議長出井喜三郎殿同副議長大垣庄司殿栃木警防団長本澤與四郎殿この対立を案じ調停に立つ同じ想に奔走した寺内顕は分水赤津川を渇望の用水に利することに着眼し一項を加えて調停の円満解決をみる爾後分水工事進渉するに従い下田三合免長宮耕作者有志は相謀り基礎的計画を樹て各方面に交渉す然るに窃にこれを利せんとするあり事業遂行は困難を極めた茲に用水期成委員長糸井米蔵副委員長前橋泰一郎仝牛久幸一仝日高謹一郎の四氏は憤然として立ち一致協力一年に亘る寝食を忘れての東奔西走に凡ゆる障害を克服しこの間増山主一氏の後見と助力は遂に昭和二十五年十月赤津川筋に作物施設並に河川敷占用許可に成功して薗部用水誕生の緒はなつくよって薗部用水組合を結成し新たに委員二十三名を挙げ分担を定め組織的活動を開始用水取入口は赤津川改修附帯工事に用水路は土地改良工事としての要請は県当局の採択する処となり昭和二十五年十一月取入口樋門工事に着工続いて栃木県技師大阿久甲子三殿の設計監督の下に樋門排口下流水路の築溝に着手遂に昭和二十六年四月三十日鉄筋混凝土開閉式樋門及び伏越樋管二ヶ所暗渠五ヶ所延長壱千五百六十五米余待望の薗部用水は竣工した本事業に対して関係諸庁の甚大な援助と平井町の応援泉川有志の協力泉川入田用水の水利権加入の容認等々大方の御援助によって竣工をみたこの用水は今や滔々と長宮十町三合免五反田下田二十五町歩に灌漑し贔て本田全域に及ぶ幾年月悩みに悩んだ用水不安は一掃され豊に実る稲田を見る毎にこの難事業を完成された郷土の先達に敬虔な感謝の誠を捧げ農民道に癒々精進すべき絆にせんと銘して建つ≫とし、日付は≪昭和二十六年五月三日≫そして撰文は「寺内顕」氏、書は「鳩山武男」氏、碑文を刻んだのは「森戸清泉」氏と成っています。

「薗部用水竣功記念」の碑.jpg碑文一部.jpg
(石碑正面の雰囲気)            (碑文の一部を撮影しました)

そして、今回はもう一基「片柳用水之碑」も併せて、石碑の内容について探りたいと思います。
「片柳用水之碑」は、栃木市片柳町二丁目に有る「いずみ公園」の北東側角部に建てられています。
いずみ公園1.jpgいずみ公園2.jpg
(いずみ公園、この下を片柳用水が流れる) (いずみ公園の表示、左奥に石碑)
こちらの石碑の存在は結構前から分かっていました。25年前に子供達を連れて、この「いずみ公園」で遊んで以来、何度か足を運んでいました。この石碑の碑陰を最初に撮った写真は1994年3月12日の日付が写り込んでいます。
この石碑が建立された時期は、碑文末尾の日付より「昭和62年(1987)4月吉日」と有り、石碑の中では比較的新しいものです。碑の正面には大きく「片柳用水之碑」、その下に「栃木市長 永田英太郎」と刻されています。そして碑陰には、「栃木県文化財保護審議会会長 日向野徳久撰、栃木市文化功労者 池澤 洸謹書」の碑文が刻されています。
片柳用水之碑(正面写真).jpg片柳用水之碑(碑陰写真).jpg
(「片柳用水之碑」の正面)             (「片柳用水之碑」の碑陰)

こちらの碑文も長文ですが、比較する為にも全文紹介したいと思います。
≪片柳用水之記≫と題されています。≪片柳用水は大皆川不動出水に源を発す。これを永野川に落し、水丈に応じ泉川村地内大口堰場に蛇籠と並杭を以て川幅一面に締切り片柳村田地五十余町歩岩出村田地六町歩の用水に分つ。片柳村は地頭所より不動尊別当宝珠院に毎年御供米二斗七升を献納するのが江戸時代からの慣習であり、岩出村用水堀に対しわが用水堀を東郷堀といい、戦国時代末期皆川俊宗がこの地を支配せし時に起源す。水路は箱森村西南端を経薗部村を縦断して片柳村に入り、江戸時代には東片柳村西片柳村の境界をなした。明治四十年大字薗部の耕地整理により同地内におては河身を変更して現況の如くなり。大正五年片柳用水組合は永野川左岸皆川村大字泉川字下元の山林一反三畝歩を購入、同地に池を掘り東郷堀水量の増加を図った。これより後開田は増加の一途を辿り、鶴巻堰御前大堰卵塔場堰杭堰塚田堰殻田堰漆田堰高堤堰を以て六十二町七反七畝を潤し用水組合員百二名に及ぶ。昭和二十四年赤津川分水工事施工に伴い用水取入口の破壊されることを危惧したが、県当局も片柳用水の重要性を認識新取入口を設置、土手敷及び赤津川川敷等約六十二メートルの間に暗渠を設け永野川の水を取入れ灌漑に支障なきを図った。さらい耕作者一同は永久施設としての確保を願い同三十一年栃木県知事に請願、県単独事業を以て電動機を設置して解決を得た。然し同三十三年頃より東郷堀流域の都市化著しく用水堀は生活用排水路と化し汚染甚だしく、鑿井して電動機を以て揚水灌漑するのやむなきにいたり水利組合の機能を喪失した。よって同六十年組合員一同相謀り片柳土地区画整理組合の事業遂行を機に都市下水道幹線水路に供し、水利組合を解散することを決議し市当局の援助を得てこれが完成を見るに至った。
嗚呼 中世末以来すてに四百余歳その間清冽な水の滾々としてこの沃野を潤し此の地を養い来たりし東郷堀はいまここに下水道と化す。まさに桑滄の変を目のあたりする思いして深き感慨に堪えず浅学を顧みずその由来を叙べる次第である。≫

これら2基の石碑の共通点及び相違点は何か、「薗部用水」と「片柳用水」は何処に有ったのか、二つの石碑の碑文の中には幾つかの地名が出て来ています。まず「薗部用水」の碑文の中には、「薗部町」「長宮」「三角池」「赤津川」「永野川」「下田」「三合免」「平井町」「泉川」「五反田」などが確認出来ます。一方「片柳用水」の碑文には、「大皆川」「泉川村」「片柳村」「岩出村」「宝珠院」「東郷堀」「箱森村」「薗部村」「赤津川」などの地名が確認出来ます。
これらの地名の位置関係を知る為、一枚の概略図を用意しました。
石碑の建立場所.jpg
(薗部町周辺概略図 今回紹介する2基の石碑の建つ場所も図中に記しました。)

概略図には「永野川」「赤津川」「東郷堀」「片柳用水」の川筋がどのように流れているか知る事が出来ます。しかし、ここには「薗部用水」が何処なのか記載されていません。それは私自身が今もって「薗部用水」の位置を確認出来ていないからです。
「薗部用水竣功記念」の碑文の中には、「薗部用水」の位置を示す内容は記されていません。それは碑文を撰文された方が、石碑建立発起人のひとりであり、薗部町用水組合の顧問と云う立場の人物で、薗部用水を知り尽くしていた為、特に碑文に記すまでも無かった、むしろこの「薗部用水」を竣功に至るまでの多くの難問を解決しつつ、完成に導いた経過を碑文に刻んで後世に伝え残したかった気持ちの表れと考えられます。
現在の薗部町は、昭和45年の住居表示変更実施により薗部町一丁目から四丁目と分かれていますが、明治14年の「下都賀郡薗部村 村誌」によると、その頃の薗部村の範囲は以下の様に記されています。
  一、 東ハ下都賀郡栃木町ト巴波川ヲ以界ス
  一、 西ハ同郡岩出村ト沢切ヲ以界ス
  一、 南ハ同郡片柳村ト太平道ヲ以界ス
  一、 北ハ同郡箱森村ト片柳村用水堀を以界ス
村誌・下都賀郡薗部村(表紙).jpg薗部村誌(村の境界).jpg
(下都賀郡薗部村 村誌の表紙)       (薗部村村誌の冒頭部分抜粋)

その当時薗部村の東は巴波川まで有りました。昭和12年に栃木町から栃木市と成った時にそれまで薗部町の字であった、「字鶉島」辺りが「入舟町」「錦町」に、「字祝町」辺りが「祝町」、「字藤宮」「字柳橋」「字三ツ橋」辺りが「柳橋町」と成り、栃木市薗部町から分かれています。
「薗部用水竣功記念」の碑文に出てくる地名にその当時の字名が現れています。先の「村誌」末尾に明治初期の薗部村の地図が折り込まれて添付されています。以下その地図の一部を抜粋添付します。
薗部村村誌折込図(一部抜粋).jpg
(薗部村村誌の末尾に折り込み添付されている地図の抜粋)
地図左側に太い濃い蛇行線で描かれているのが永野川、右上に斜めに太く直線的に描かれているのが「田沼道」、現在の栃木県道75号(栃木佐野線)、その間地図の中央部を上から下へ細かく蛇行している太い線が「片柳村用水堀」に成ります。地図上部に位置する「箱森村」との境界と成っています。
少し文字等が読めない為、薗部町六道付近の主な字名を記した概略図を作成しました。描いた道路状況は明治前期測量の迅速測図を参考にしています。
旧薗部村の主な字名分布.jpg
(明治初期の薗部村の主な字分布概略図)

明治14年の薗部村村誌に「片柳村用水堀」の存在が確認出来ましたが、それではもう一つの石碑「片柳用水之碑」の碑文から、その実態を検証して行きたいと思います。
碑文は≪片柳用水は大皆川不動出水に源を発す。≫と云う文言から始まっています。この片柳用水の源流と云う「大皆川不動出水」の場所は何処なのか、碑文に≪片柳村は地頭所より不動尊別当宝珠院に毎年御供米二斗七升を献納するのが江戸時代からの慣習であり・・・≫と記されています。宝珠院は現在も大皆川町に有る天台宗の寺院で、感應山寶珠院皆川寺といい、嘉祥三年(850)慈覚大師円仁の開基と伝えられています。現在その本堂に向かって左手方向に「不動堂」が建てられています。
宝珠院.jpg不動堂.jpg

御堂の正面右に「不動尊由来」と題した説明額が掲示されています。そこに、
≪この不動尊は、寶珠院住僧義寛和尚の建立で(年代不詳)はじめ東大皆川地区にあった。「不動裏」「御手洗」の地名が残っている。ところが年月を経て老朽化したので、明治40年(1907)現在地に移築、再び倒壊のおそれが出たため、平成元年(1989)当山檀徒と大皆川町信徒の皆様の浄財により新築再建されました。≫と記されています。元々「大皆川不動出水」はこの不動尊を冠した出水で、現在はその名残を見る事は出来ません。ただ、明治19年8月の作成された迅速測図「栃木縣下野國下都賀郡皆川城内村」を見ると、千塚・宮方面から南流して来た永野川の流れが、南側岩出村の舌状台地に阻まれ流れを大きく東に変える内側に位置する大皆川村の中ほど、55と朱書きされた等高線の境に、小さな湖沼が描かれています。それから流れ出した水路が永野川の左岸をほぼ並流し、その先にて錦着山の裾野に沿って西側から南側へと流れ、元栃木県令別荘の所で錦着山東側から流れて来た「風野堀」と合わさり、薗部村地内を流れる「片柳村用水堀」へと繋がっています。
現在は少し流路は変わっていますが、大皆川町の南側を永野川の左岸に沿って東に流れ泉川町に入り、「タキザワハム泉川工場」の北側を流れ、赤津川に架かる「九反田橋の西側で永野川に落ちている水路が、かつての「大皆川不動出水」からの流れに相当するものと思われます。
現在の風景を流れに沿って追ってみます。
大皆川不動出水跡付近.jpg
①明治前期測量地図に現れていた湧水地の有ったと推定される付近。写真左奥の大きな瓦屋根が覗いていますが、宝珠院本堂の屋根に成ります。
大皆川の水路.jpg
②大皆川町の南を流れる永野川の左岸の田圃。写真左側に永野川の土手が見えます。又、写真右奥に皆川城址となる「城山」。明治前期作成の地図に現れている水路は、田圃の北のへり55メートル等高線の下を東に流れていました。
大皆川の水路2.jpg
③水路は雑草が生い茂る荒地を抜け泉川町方向に流れています。写真右奥に「タキザワハム泉川工場」の建屋が見えます。
泉川町の水路.jpg
④タキザワハム泉川工場の北側を流れて、工場東側に流れて来ました。
赤津川九反田橋.jpg
⑤永野川と赤津川との合流点近く、赤津川に架かる「九反田橋」。大皆川町から流れて来た水路は写真左奥に写る赤く塗られた水門を潜り永野川に落ちて行きます。手前に写る水門は赤津川分水路の新たな「片柳用水」の取入口です。
東郷堀取入口.jpg
⑥上の取入口から入った水は、土手の下を潜って東側に抜けて来ます。その先は土手と田圃の間を暗渠に成って流れています。
東郷堀暗渠部出口.jpg
⑦暗渠部を抜けて再び顔を見せた水路。永野川の左岸土手の東側を土手に沿って南に下って流れています。水路の先に錦着山が見えます。
しかしこれは現在の姿、風景です。「片柳用水之碑」では、大皆川不動出水から流れ出した水を、≪これを永野川に落し、水丈に応じて泉川村地内大口堰場に蛇籠と並杭を以て川幅一面に締切り・・・≫そして片柳村と岩出村のそれぞれの取り分で分けたと記しています。一度永野川の流れに落して、改めて永野川から取り入れていたので先の明治前期に作成された水路とは流れが異なっています。
それでは永野川へ何処で落として、何処で取水したのか。大皆川不動出水は何処に有ったのか。

栃木市図書館で「角川 日本地名大辞典9栃木県」(角川書店)の「大皆川村」のページを調べると、≪村の東端字不動裏に不動堂があり・・・≫と記しています。確かに先に記載した宝珠院不動堂の「不動尊由来」に中でも≪はじめ東大皆川地内にあった。≫と、記していましたから、不動出水も大皆川のもっと東方向、泉川との境近くに有った事に成ります。
大正6年7月発行の2万5千分1栃木の地図の永野川の流れに沿って大皆川と泉川の境界付近を虫眼鏡で追ってみたが、やはり地形図にはそれらしい沼や永野川への落ち口も確認出来ませんでした。ただその下流にて、永野川右岸から岩出村方向に向かって水路が描かれています。又、更にその下流永野川左岸、現在のさくら保育園の辺りから、錦着山西側から南側に伸びる水路が描かれています。
これらが片柳用水之碑に有る「岩出村用水堀」と「東郷堀」だと一人確信しました。
それから「角川 日本地名大辞典」でもう一つ発見しました。それは「泉川村」のページの中に≪大皆川村の湧水から引いた三ツ又堀≫です。この堀が先に私が思い違いをした、大皆川村から泉川村を流れ現在の九反田橋の近くで永野川に落ちる水路であると。

話しは少し変わります。「片柳用水之碑」の碑文では、≪岩出村用水堀に対しわが用水堀を東郷堀といい、戦国時代末期皆川俊宗賀この地を支配せし時に起源す。≫と、片柳用水堀の名前を「東郷堀」と伝えていますが、前に記している様に明治前期までは、「片柳村用水堀」と有り、まだ「東郷堀」とはなっておりません。
「東郷堀」と云う名称は、明治38年3月起工して明治40年3月に竣功した大事業、薗部町耕地整理に伴い、これまで錦着山の南麓から東方向に箱森村との境を流れ、かつての字五反田から、字亀甲渕、そして字下田方向に流れ、現在の栃女高辺りの字御前ノ木の東側を南流、片柳村に流れ込んでいた流路を、現在の様な直線状の水路に変更しています。
薗部町記念塚から錦着山方向.jpg錦着山よりの東郷堀.jpg
(薗部町記念塚手前、東郷堀に架かる日進橋上より)(錦着山上より東郷堀を望む)

この耕地整理事業以前の薗部村の農地は道路が網の目状に入り組んだ状況でしたが、耕地整理にて区域内の道路を明治24年に初代栃木町長根岸政徳の尽力によって改修された太平新道を基準に、並行直角に整備しています。合わせて区域内の水路も同様に変更され、片柳村用水堀も現在の様に、錦着山南麓より直線状に進み、太平新道に直角に交わるルートに成りました。しかし太平新道を越えた南側は耕地整理の区域外の為、水路は太平新道に沿って栃女高の前を東進して、字御前ノ木の南東端で従来の用水堀に繋がれ、太平新道を潜り南側の現在の片柳郵便局の東横から、片柳村の従来の水路を流れる形に成ったものと思われます。
旧片柳用水(女子高東).jpg女子高南側の片柳用水.jpg
(栃女高の東側に暗渠と成って残る旧片柳用水) (栃女高の南側を流れる片柳用水)

そしてこの耕地整理の完成の後、出来上がった堀に付いて「片柳堀」という事も有りましたが、丁度日露戦争も終わりになり、最後に大勝利を得た、露軍バルチック海軍を撃滅した日本海軍司令官東郷平八郎閣下の名を残したいと、耕地整理事務所のメンバーの発言で異議なく「東郷堀」と名付けられたというエピソードが、栃木市老人クラブ連合会の伝承作業として作成された「栃木市の社寺Ⅱ」の中に記されています。
私はその資料の中に記された「一文」に、又、多くの疑問を抱く事に成りました。その一文とは、
≪この堀は阿部氏の屋敷(旧栃木県令別荘跡)の南端から箱森町との境を流れて片柳町の用水堀に灌ぐ堀で薗部町の用水には使用できなかったのです。≫と記されているのです。
薗部町の中央部を縦貫する「東郷堀」を流れる用水を、地元薗部町は利用できない。それでは薗部町の用水はどうしていたのか。と? 一方、薗部用水イコール東郷堀だ、という話も耳にします。まだまだ調べたいことは山積みです。

「薗部用水竣功記念」の碑が建立されたのは、昭和26年5月3日と碑文最後に刻されています。この年同様に赤津川分水工事も竣功しています。そこには薗部用水の取入口を赤津川改修附帯工事とするなど歩調を合わせて進めた内容も碑文に見えます。そしてこの事業の中で≪関係諸庁の甚大な援助と平井町の応援泉川有志の協力泉川入田用水の水利権加入の容認等々大方の御援助によって・・・・≫と記された通り、「泉川入田用水の水利権を得られたことが、どんな影響をもたらしたのか、農業経験の無い私にとって用水の水利権は、なかなか理解が困難な問題として残ってしまった。

今、薗部町1・2・3丁目及び片柳町1・2丁目の区域は宅地開発が進み、農地は点在する程度の住宅街に変わっています。
薗部町に残る水田.jpg
(薗部町1丁目地内に残る田んぼ。写真中央奥に正覚寺 右端に錦着山)

「片柳用水之碑」の碑文の最後で以下の様に結んでいます。
≪嗚呼 中世末以来すでに四百余歳その間清冽な水の滾々としてこの沃野を潤し此の地を養い来たりし東郷堀はいまここに下水道と化す。まさに桑滄の変を目のあたりする思いして深き感慨に堪えず浅学を顧みずその由来を叙べる次第である。≫
農業用水路としての役目を終えた「東郷堀」には、今殆んど水は流れていません。ただ降雨後の雨水の排水路とし、今後も地域の為に残って行くのでしょう。
東郷堀の現在2.jpg東郷堀の現在1.jpg
(現在の薗部町記念塚脇の東郷堀)    (今、すっかり水が消えた東郷堀)

今、片柳町2丁目いずみ公園の下流域、新しい住宅の建ち並ぶ中、整備され真直ぐと流れる水路沿いの桜並木、春には水路をピンクに染めていました。
片柳用水と桜1.jpg片柳用水と桜2.jpg
(元片柳用水路沿いの桜並木 2014年3月撮影)

「薗部用水」と「片柳用水」の2基の石碑、その碑文の中で多くの事を語っています。そして私に多くの疑問を抱かせました。やがてこれらの石碑も風化し文字も薄れ、忘れ去られるのかも知れません。

(参考資料)
薗部村村誌・栃木市史(通史編)・とちぎの天台の寺めぐり(天台宗栃木教区宗務所編)・わが町さんぽ(長沼英雄著)・銀治のブログⅢ歴史と文化を歩く(夢野銀次著)・栃木市の社寺Ⅱ(栃木市老人クラブ連合会編)・明治前期測量2万分1フランス式彩色地図「下都賀郡栃木町と皆川城内村」(日本地図センター)・日本地名大辞典(角川書店)・2万5千分1栃木地形図(大正6年7月30日・大日本帝国陸地測量部・現国土地理院発行)
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栃木市嘉右衛門町通りにかわいい例幣使の行列が

本日、栃木市嘉右衛門町通りの、油伝味噌店より岡田記念館(代官屋敷)までの間で、地元の栃木第三小学校の4年生の児童による、「子ども例幣使行列」が行われました。
畠山陣屋跡前を通過する例幣使行列.jpg
(岡田記念館の畠山陣屋跡の前を進む「子ども例幣使行列」)

日光例幣使は江戸時代、正保4年(1647)から毎年4月の日光東照宮の例大祭に奉幣する為に、朝廷から派遣された奉幣使で、慶応3年(1867)まで221年間、1回の休みも無く続けられました。
日光例幣使は、毎年4月1日に京都を発って中山道を下り、上野国の倉賀野宿にて中山道より分かれて、佐野の天明宿から犬伏を抜けて私達の栃木市に入り、岩舟町・大平町そして栃木の市街地中心を抜けて、ここ嘉右衛門町通りに入って来ます。
嘉右衛門町通りを抜けた先は、都賀町・西方町を抜け、鹿沼市楡木にて日光西街道(壬生通り)に合わさり、4月15日に日光に到着するのが慣例に成っていました。
平澤商事前を通過する例幣使行列.jpg
(嘉右衛門町通りの老舗の一つ平澤商事前を通過する「子ども例幣使行列」)

この「子ども例幣使行列」は今年で4回目になるそうです。かつて日光例幣使街道となった、嘉右衛門町通りの有る地元、栃木第三小学校の4年生の児童が、「郷土の歴史」の学習の中で、自ら例幣使の行列に扮して、かつての例幣使街道に思いを馳せる。参加した児童達はどのような思いを感じたでしょうか。
その「子ども例幣使行列」の先に立ち、横や後ろに立って行列を見守る、印半纏を着た人達がいます。
この嘉右衛門町の通りは、普段は人の通りも少なくひっそりとした感じの通りですが、今日はこの子供達の行列を見に来た、児童の家族の人達や、御近所の皆さんで大混雑に成りました、その見物客の群れが行列の進行と共に移動、次第に人の群れが大きく成って行きます。そして私が予想していた以上に、この通りの自動車の通行量も激しく交通の整理も大変そうに感じました。
交通整理する旦那衆.jpg
(行列の周囲で通行車の誘導や見物人の整理をする、印半纏を着た旦那衆)

印半纏を着た人達は、この行事を共催している「栃木の例幣使街道を考える会」や、「嘉右衛門町伝建地区まちづくり協議会」の皆さんでしょうか、地元自治会やコミュニティーの会長さん、そして嘉右衛門町通りの老舗の店主の顔も見えます。
「子ども例幣使行列」に寄り添って、見物人の整理や案内、通行する車の誘導等を行い、子供達の行列が安全に進むように見守っておられました。こうして一つの行事を通して多くの人達が協力し、大きな輪になっている事を今回感じる事が出来ました。今後ともこの「子ども例幣使行列」が恒例となり、人と人との交流の場のひとつに成ればと思いました。
嘉右衛門町通りの旦那衆.jpg
(行列途中の休憩で、嘉右衛門町神明神社前で記念写真に写る印半纏の旦那衆)

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栃木城址に建つ石碑について [石碑]

栃木市城内町一丁目、市立栃木第四小学校東側の住宅街の中に、小丘と小さなL字形の堀の有る公園が整備されています。
栃木城址2.jpg
(栃木城址公園。栃木城の名残りとして、小丘の北西側に土塁と堀が残っています)

栃木市役所のホームページに依ると、「栃木城址公園」に付いて≪市立栃木第四小学校の東側に残る館城の跡:天正19年(1591)皆川広照が築き、18年後の慶長14年(1609)広照が徳川家康の怒りに触れ、取り壊されました。現在あるのは、東丸の北西部の土塁と堀の一部が残り、堀ぎわには昔の名残を留める武家屋敷の白壁の塀がおよそ30軒残っています。≫と紹介しています。
坂本邸1.jpg
(栃木城址の北西脇に見える、武家屋敷の名残りを残す建物)
栃木城址説明板.jpg
(公園内には栃木城址の説明板が建てられています)

公園の広さは3,600.6㎡。主な施設として噴水・池・記念碑・トイレ・水飲み・四阿・ベンチ・遊具(すべり台、砂場、ラダー)が整備されています。
栃木城址1.jpg
(城址の小丘上に一基の大きな石碑が建っています。写真右手奥。)

それでは石碑の元へ。栃木城址に建つ石碑、恐らく「栃木城」の由緒に付いて記されているものと予想していましたが、その考えは外れておりました。
石碑の上部に刻された篆額の文字は、私には全く読む事が出来ません。
揮毫部分1.jpg
(石碑上部に刻されている、解読困難な四文字の篆書体の漢字)
とりあえず写真に収めて、調べる事で何とか解読出来ました。右から左へ「陰徳陽光」と書かれている様です。その意味を解く為「四字熟語」に有るか調べてみると、「陰徳陽報」と言う一字違いの言葉が見つかりました。この言葉は、中国前漢武帝の時代に編纂された「淮南子(えなんじ)」の巻十八、人間訓で≪誰にも知られないように善い行いをすると、必ずよい報いがあるということ。≫と出ていました。恐らく石碑の「陰徳陽光」も同様の意味が込められている様に思われます。

次に碑文を読んで行こうと思いますが、これまた難解な漢文体です。背の高い石碑ですので、一行に64文字、13行(最後の行は58文字)という事で、ビッシリと826個の漢字が刻されています。
碑文部分1.jpg
(826個の漢字が整然と刻された碑文の一部)

とても読み下す事が出来ませんが、碑文の文字を部分的に読んで繋げていくと、おおよその内容が理解出来て来ました。
先ず碑文一行目に「坂本金一郎」や「明治二十二年四月町村制施行翌月選挙栃木町助役」の文字。碑文中ほどに「君重任助役七回補佐町長三世在職實二十三年終始一貫忠実奮勵」、そして碑文後半に「翁家譜又見其履歴先祖素手于藤原氏中世永禄元亀頃爲皆川山城守之家臣主家滅亡前賜其城址是城内之所存名」などと刻されています。これらの文言よりこの石碑は、明治22年4月の町村制施行から、初代の栃木町助役と成り、その後23年間の在職中「根岸政徳」「大塚惣十郎」「櫻井源四郎」の三代の町長に仕えた、坂本金一郎氏の顕彰碑で有る事がわかりました。

その碑文の後に四言十六句が古詩の形で添えられています。その詩の部分を抽出します。
  主将奏功 侍良参謀 主人興家 有内助籌 三代町長 助役忠實 終始一貫 奏功輔弼
  今也発展 市制新施 斯月斯日 將建頌碑 内外祝福 大擧盛式 神靈有感 亦應無極

下野新聞社が昭和47年に発行した「郷土の人々 栃木・小山・真岡の巻」に、この坂本金一郎氏に関する記事が載っています。
≪太っ腹の坂本助役≫として、≪初代の助役は明治22年の町村制施行から44年までつとめた坂本金一郎氏である。坂本は城内町の大地主で、初代戸長高田俊貞のもとで副戸長をつとめていた。仕事に精通し少しぐらいの事にはびくともしない、ふとっ腹の助役であり、根岸政徳・大塚惣十郎・櫻井源四郎・望月磯平と四代の町長につかえてきた。明治42年には自治功労者として知事表彰を受けています。≫と紹介されていました。補佐をした町長が、三代と四代と解釈の仕方で差が現れたものと思われますが、どちらにしても栃木町の創成期に、首長を補佐して多くの事業を推し進めてこられた方です。

碑文全文を必死に書き写しました。文字が小さくなって読み難いと思いますが、興味の有る方は是非現地にて直接石碑を確認下されば幸いです。
栃木城址に建つ石碑の碑文.jpg
(書き写した碑文全文)

石碑の建立年月は碑文最後の日付けとすれば、「昭和十二年四月」と刻されています。
碑文の撰ならびに書は、「従四位勲四等七十七翁安達常正」と刻されています。
安達常正と云う人物は、教育者で明治39年(1906)5月22日に栃木県師範学校長として栃木県に赴任されて来ました。その後、大正10年(1921)9月に奈良県女子師範学校長と成っています。


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秋晴れの夏日 [自然の恵み]

今朝は、稲刈りのコンバインの音で目を覚まされました。
日曜日の朝はゆっくりですが、外に出ると10月とは思えない太陽の陽射しが肌を指してきました。
見上げると空は真っ青です。その青い空をジッと見ていると、やはり秋です。トンボが沢山飛び交っています。
庭の蠟梅の枝の先には、そのトンボ達が止まって休んでいました。
真っ青な空にトンボ1.jpg
(蠟梅の枝の先に止まるトンボ達)
真っ青な空にトンボ2.jpg真っ青な空にトンボ3.jpg

昼過ぎにはデスク上の温度計は32.4℃を表示していました。先日、もう使わなくなった扇風機をそろそろ片付けようと思っていた所ですが、今日はそんな扇風機を再び使用していました。まだ暫らくは様子を見ましょうか。

夕方には家の横の田んぼも、すっかり稲刈りが終わっていました。
これから日に日に秋が深まって行きます。
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栃木市箱森町の五家について

私が住む栃木市箱森町には、かつてこの地にて勢力を揮っていた「箱森の五家」と言われる、五つの氏族が有ったという事を、最近聞きました。
私自身もこの地に生まれてからずっと住んでいますが、父の代に移って来て商売を始めていますので、完全によそ者に成ります。実際我家の苗字は箱森には、2軒しか見当たりません。
では「箱森の五家」とはどんな人達なのか、この地域に多く見られる苗字に付いて、ゼンリン住宅地図を基に調べてみました。
結果、上位の四家は容易に判明する事が出来ました。
圧倒的な第1位は「森戸」さんで、82軒が箱森町全域に分布している事を、確認出来ました。そして第2位となったのは「稲葉」さんで29軒有りました。第3位は「日向野」さんの28軒。そして第4位は「長江」さん27軒です。
第5位に入った苗字は「鈴木」さんで、第4位の長江さんと同数の27軒確認されました。しかし「鈴木」さんと言う苗字は栃木県の苗字ランキングの1位で栃木市に於いても、特に箱森町に多く有る苗字では有りません。
その反面、1位の「森戸」さん、3位の「日向野」さんと言う苗字は、苗字の全国ランキングでは共に3千番代と少なく、全国的な苗字では有りません。ただ都道府県の分布的には栃木県が一番多くなっています。その栃木県内であって、栃木市が一番多く、更に箱森町が栃木市内でも一番多く集まっている苗字なのです。
まさに箱森町の苗字と言っても過言では有りません。
昭和60年版のゼンリン住宅地図を基に、箱森町における主要苗字の分布状態を図にしました。
箱森町における主要家名分布図(縮小版).jpg
先に記したデーターは2016年版の住宅地図に依る為、数値的に多少の差異が有りますが、その傾向性は殆ど変っていません。
分布図を見ると緑色のプロットがまず目につきますが、これが「森戸」さんです。
箱森地内には幾筋かの川の流れが有りますが、東の境に沿って流れてるのが「巴波川」で、現在大町や小平町との境界を成しています。その西側に見えるのが「荒川」、そして旧赤津川の蛇行している河道が見えます。この旧赤津川沿いに多くの緑色の点が分布しています。そしてその西側の十二社神社の周りにも緑色の点が見えます。更にそこから南方向に目を向けると、鷲宮神社の南側、悪五郎堂の周辺にも緑色の点が集中しているのが確認出来ます。
箱森町の悪五郎堂(神社)に関しては、今年の7月20日のこのブログで紹介していますが、森戸家の先祖と言われる長沼宗光の隨神仏と云われる阿弥陀仏と観音の二体を安置、又悪五郎の霊をも合祀していたもので、元は鷲宮神社境内内に建てられていましたが、明治維新の神仏分離に伴い、数回場所を変え現在の地に納まりました。悪五郎堂の屋根の鬼瓦には、森戸家の家紋と同じ「丸に橘」の紋が付いています。
悪五郎堂鬼瓦.jpg
(箱森町の悪五郎堂の屋根の鬼瓦に付けられた「丸に橘」紋)
第2位となった「稲葉」さんは、弦巻神社の西側の字御辺北西部に集中しています。又、第3位の「日向野」さんは鷲宮神社の北東側、館野川の南側から清水川の右岸に集中して分布している事が分かります。
私が一番興味を持っている苗字が、第4位の「長江」さんです。館野川の源流となるかつての字舘野や鷲宮神社の直ぐ西側の字御辺に集中しています。
字舘野の地は、北側に大沼が有り西側は大沼から流出した水の流れが反時計回りに大きく円弧を描いて、南側の舘沼に繋がり、まるで堀割の役目を担っている様です。そしてこの三方を守られた内側が字舘野で、かつては「箱森城(舘野城)」が有ったと所に成ります。そしてまさにこの場所に「長江」さんが沢山住んでおられます。現在その中央部付近に、石の鳥居を建てた小さな神社が祀られています。社殿前に建てられた新築記念の石碑には「長江八幡宮」と刻されています。
長江八幡宮1.jpg長江八幡宮2.jpg
(箱森地内、かつての字舘野の中ほどに祀られている「長江八幡宮」)
そして、字御辺もかつての館跡で弦巻神社や鷲宮神社が祀られ、この地域の中心地的存在の場所でした。こうした場所に居を構えていた「長江」一族は、やはり特別な存在で有ったのではと考えられます。
弦巻神社.jpg箱森鷲宮神社.jpg
(弦巻神社参道入口の鳥居、奥小丘上に石の祠有り)(箱森・鷲宮神社)
それでは箱森五家の残りの一つは何家なのか。箱森地内で6番目に当たるのが、「田村」さんで18軒程確認されます。十二社神社周辺と鷲宮神社周辺にまとまって見えます。ただ「田村」さんと言う苗字は全国ランキングでも56位で、栃木市内でも樋ノ口町や城内町方面に多く確認される苗字に成り、箱森町との特異な関連性は確認出来ません。

次に住宅地図では無く、電話帳から苗字と箱森町との関連性について調べてみました。電話帳の方が同じ苗字が並んでいる為集計は意外とスムースに出来ました。但し最近は携帯電話やプライバシー保護の高まりで、電話帳への掲載が減少している為、今回調べた電話帳は2003~2004年版で、個人欄に出ているデーターを集計しています。
結果は、住所が箱森町の電話番号の軒数の多い順に、下表の様になりました。
電話帳掲載軒数1.jpg
(電話帳にて箱森町の掲載軒数が10軒以上確認出来た苗字一覧)

この電話帳からの調査結果でも、「森戸」さんの苗字は箱森町に集中している事が明瞭です。市内に160軒の「森戸」さんの内、43.13%となる69軒が箱森町に有ります。第二位は箱森町の北隣りに位置する川原田町で17軒です。
第2位は「日向野」さん、栃木市内130軒の23.85%31軒、そして南隣りの薗部町に9軒確認されました。
第3位の「長江」さんは更に特異な状況で、栃木市内に32軒しか無いのに、その81.25%の26軒が箱森町に住んでいます。
長江さんの苗字について、これまで私は勝手な想像を描いていました。それは会津田島に所替えののち、下野国都賀郡に来た時に会津から同行した家臣の一部が故郷長江郷の地名を名乗ったのではと。しかし最近色々文献を調べてる中で、「栃木の苗字と家紋・下巻」(遲澤俊郎著・発行下野新聞社)の中に、「長江」姓に関する記事が掲載されていました。それによると、≪その家系を記述すると、初代義景は桓武平氏の流れを引く鎌倉権五郎景政の孫に当たり、摂津国西成郡長江庄に居住したため、長江太郎と称した。(中略)、十二代目の長江七郎景綱が箱森長江氏の初代である。二歳の時、父景平を河内国金剛山で亡くしたが、母方の実家長沼氏に養育され、長沼氏の一族筥村氏の領する箱森の地に貞和三年(1347)17歳の時に居住したと記録されている。その子孫は長く皆川氏に仕えたという。≫と、記されていました。
第4位「鈴木」さんは、箱森町に22軒有りますが、栃木市内に336軒も有るので、その比率は6.55%で箱森町との特異性は感じられません。
一方、第5位の「稲葉」さんは、同じく箱森町22軒ですが、栃木市内の軒数が75軒と少ない為比率的には29.33%と高くなっています。
電話帳での調査結果でも、箱森五家の内「森戸」「日向野」「長江」「稲葉」の四つの苗字は、箱森町との強い関連性が確認出来ました。が、やはり残りの一つがハッキリ出来ません。

困った時は、現場確認です。箱森町のかつての中心はやはり「鷲宮神社」の祀られている、字御辺周辺です。鎌倉時代後期の正慶2年(1333)の頃、遁世した第七代長沼城主長沼宗光(俗称悪五郎)が皆川庄筥森に移り、如来堂(後の松樹院)を建て、念仏三昧に暮らしたと伝えられる所。その近くに有る地域の墓地を調べてみました。
鷲宮神社東隣の墓地.jpg
(鷲宮神社境内の東隣りにの墓地、奥に見える瓦葺きの屋根が鷲宮神社拝殿)
墓地内には高さ3メートル程の大きな墓標が沢山建てられています。そのほとんどが「箱森の五家」に当たる苗字が大書されたものです。
「森戸家累世之墓」「日向野本家累世之墓」「稲葉家累代之墓」「長江家歴代之神靈」これら四家の苗字の他にも「小川家累世之墓」や「荒井家累世之墓」も目に留まりました。
他には箱森町地場産業の一つ瓦製造業の「幸田家」や「神谷家」などの名前も見られました。
もう一つ余談に成りますが、私が以前に錦着山(別名箱森山)の山内に建つ石碑に付いてこのブログの中で紹介をしていますが、その中で「錦着山護国神社」の境内の片隅に建つ1基の石碑に、明治10年西南の役にて戦没された「田村半次」さんの碑が有りましたが、その「田村半次」さんのお墓がこちらの墓地に祀られておりました。
田村半次之碑.jpg田村半次之墓.jpg
(錦着山護国神社境内に建つ「田村半次之碑」)(字御辺の墓地に眠る「田村半次之墓」)
ちなみに電話帳調査による「田村」さんは第6位で箱森町内に18軒有りますが、栃木市内183軒の分布では、樋ノ口町22軒で、箱森町は2番目に成っています。

箱森の五家の残り一つの苗字は「小川」さんだと云う話が有ります。また「荒井」さんだと言う人も。
電話帳調査では、「小川」さんは箱森町内に7軒、栃木市内には87軒見られますから比率は8.05%です。
「小川」さんに関しては、「栃木郷土史」(栃木郷土史編纂委員会著)の、第二章皆川氏の進出と土豪の分解過程の「箱森村」の中に、≪土着勢力の一翼をなしたものに、小川伊兵衛があったが、同家は、家臣団に編入される前帰農してしまった。やはり、大沼東南方に小川八幡神社があったことが、古記録に見えている。≫と、かつては土着土豪の一つであった事が記されています。
又、「荒井」さんは6軒、ただ市内には33軒と少ない為比率は18.18%と高く、市内では箱森町が一番多くなっています。

栃木市史資料編近世(栃木市発行)第一章領地と支配の中に、「元禄17年(1704)2月、慈眼山金剛寺諸堂修復勧化牒」と言う資料が掲載されています。その中に「皆川先祖譜代家臣次第不同」が有りその内「箱森村」には先の氏族の先祖と考えられる名前が17名記されています。内訳は「日向野」さんが4名、「森戸」さんが2名、「小川」さんが3名、「稲葉」さんが2名、「荒井」さんが2名、「田村」さんが1名、そしてこれまで出ていなかった「膝付」さんが2名、「大根田」さんが1名となっていました。ちなみにこの時の箱森村の名主として「日向野安右衛門」の名前が記されています。
現状、ここまでしか手元情報が有りません。五家を確定する為には、もっと地元の人達から話を聞くしか有りません。
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