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皆川先祖譜代家臣録と佐山信濃守政道

今から40年も前の話ですが、「栃木市の歴史」や「栃木の民話」など多くの著書を持つ日向野徳久先生の講演を聞きに行った時の事です。≪栃木市内でこうした郷土の歴史の話をすると、良く「我家の先祖は皆川の家臣だった。」とか、逆に「△△町の〇〇と言うものだけれど、我家の先祖は皆川の家臣ではないでしょうか」などの質問がされます。≫と。
実は私も同じような疑問を持ったことが有り、本宅に質問をした事が有りました。答えは簡単、「家は百姓の出だ」で、それ以上話になりませんでした。
そこで今回は皆川家の家臣団に付いて調べてみました。
栃木市図書館に行くと。「皆川廣照伝」という近藤兼利著、昭和33年8月15日発行の本の中に附録として、「皆川先祖譜代家臣録(千八百余名記載)」と言う資料が、巻末に掲載されています。
資料を見ると「皆川城内村」「柏倉町」「岩出村」など地域別に大勢の氏名が羅列されています。そして資料内には(慶長十六年十一月六日家臣帳)の文字や資料末尾の所に、
    皆川家臣一千七百八十有余者 奉納祠堂物米三百五十俵 
   右所志者奉手向乎歴代之尊霊者也
    干時寛永乙亥年九月   日
此処に記された日付を見ると、慶長16年(1611)は皆川広照が松平忠照お家騒動により改易され、栃木城が取り潰しと成った慶長14年から2年後に当たります。家臣帳がこの年何の目的で作られたのか。
又、寛永乙亥年は1635年の事、既に皆川広照は歿しています。
この「皆川先祖譜代家臣録」を分析すると、名前が記された村落は北は眞名子村や大柿村・深沢村、南は赤間村・江川村・小池島村、東は原宿村・木野地村・川原田村、そして西は大久保村・柏倉村・小野口村・立花村・白岩村などのと、戦国時代に皆川領のほぼ全域に渡っています。皆川領は北東側は宇都宮氏や壬生氏、南東側は小山氏し、西側は佐野氏と境を成す南北に細長い領域を有していました。

この家臣録に出てくる苗字の数は408、総記載者名は1,795名に及びます。
地域的に見て行くと名前の掲載が多いのは「皆川城内村」と「栃木村」が同数で164名、当然と言えば当然の結果なのでしょう。次は「眞名子村・木村・高谷大和」の三地域まとめてに成りますが116名。次も複数地域の合計に成りますが「富田村・茂呂宿村」と「原宿村・吹上村・片柳村」とが同数で106名。6番目が「山田村」97名、7番目「武井村・牛久村」75名、8番目「川連村」70名、9番目「横堀村」69番目」、10番目「薗部村」60名。と言った状況に成っています。

次に1,795名の氏名を見て行きます。その中でもっとも多く見られる苗字は「関口氏」で68名居ります。特に多く分布する地域は大皆川村・柏倉村でそれぞれ10名居ります。さらに細堀村と新井村で合わせて10名、小野口村・皆川城内村でそれぞれ5名などです。
次に多かったのは「熊倉氏」と「大橋氏」で、共に36名の名前が見えました。熊倉氏は16名が川連村に名を連ねていました。一方大橋氏は川原田村に10名、真名子村・木村・高谷大和に合わせて10人、そして皆川城内村と岩出村にそれぞれ5名と成っていました。
次が「石川氏」34名、その内7名が志鳥村に名前を連ねていました。5番目に多く見られたのは「寺内氏」です、29名有りました。多く見られた地域は大皆川村で9名確認出来ました。
以下、「渡部氏」28名、「大島氏」23名、「田村氏」22名、「山田氏」20名、「鈴木氏」20名となっています。
こうして見て行くと自分と同じ苗字がどうなっているか気になって来ますが、「佐山」姓は「青木氏」・「田中氏」・「日向野氏」・「山井氏」などと同じく16名確認出来ました。特徴的なのは16名中10名が「曲ヶ島村・中根村」に10名が集中して見られた事です。そして「栃木村」3名、大皆川村2名、薗部村1名と言った分布に成っています。「佐山」という同一苗字でも調べてみると地域によって使用している家紋に違いが見られます。岩舟町曲ヶ島では「下がり藤」紋。栃木市大町では「丸に抱き柏」、平柳町では「丸に蔦」、薗部町では「丸に隅立て四つ目」、大皆川町では「梅鉢」や「丸に横木瓜」などを確認しています。家臣録には有りませんでしたが藤岡町緑川の集落も「佐山」姓が多く見られますが、この地域では「丸に橘」紋が確認されました。
下がり藤.jpg丸に抱き柏.jpg丸に蔦.jpg
(下がり藤)             (丸に抱き柏)          (丸に蔦)
丸に隅立て四つ目.jpg梅鉢.jpg丸に横木瓜.jpg
(丸に隅立て四つ目)        (梅鉢)             (丸に横木瓜)

「皆川正中録」の「巻之三」に佐山信濃守政道という人物が登場して来ます。そのくだりを少し抜粋してみます。≪草倉の陣中より緋縅しの鎧に下り藤の紋付けたるを着し、鹿角の前竪物の兜を着て栗毛の駒の太く逞しきに、皆川家より拝領の二つ巴の紋つけたる鞍置きたるに打乗りて、大薙刀を持ち進出て申しけるは、「朝倉殿の目覚ましき御働き感じ入り候。某は皆川山城守の家臣佐山信濃守政道と申す者なり。少しく御相手仕らん」と大薙刀を水車の如く振廻して切ってかかるを心得たりと互いに切結ぶに、・・・・・(後略)≫と、記されています。佐山信濃守政道の付けた紋所は「下がり藤」。岩舟町曲ヶ島の「佐山氏」の先祖という事に成ります。
ちなみに現在のゼンリン住宅地図にて、岩舟町曲ヶ島における苗字の分布を調べてみると、名前が掲載されてい「佐山」姓は65世帯で一番多くなっています。次が「葛生」姓が34世帯、3番目が「茂呂」姓で13世帯と成っています。(掲載氏名総数217世帯、平成27年12月31日現在栃木市町内別人口一覧における岩舟町曲ヶ島の世帯数は306と成っています。) その中でも一番南の端、西側に藤岡町赤麻、南側に藤岡町中根と境を成す「字向」の約30軒の集落に於いては殆どが「佐山」姓を名乗っています。他の姓を持つ家は6軒程確認されました。
こうして「皆川先祖譜代家臣録」を見てみると、色々興味の有る事や、疑問に思う事などが出て来ます。更に調べて行きたいと思います。

今回、参考にさせて頂いた資料
     皆川廣照伝    近藤兼利編        昭和33年8月15日発行
     考註皆川正中録 日向野徳久考訂並考註 昭和38年11月3日発行
     ゼンリン住宅地図栃木(岩舟町)2017
     
  
  
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佐野市を、天明宿中心に歩いて巡って来ました。 [歩く]

今日は「歴史と文化を歩く会-栃木」の12月例会で、メンバーなど17名と、お隣佐野市に出掛けて、天明宿を中心に史跡や神社・仏閣などを歩いて巡りました。
コースは、JR佐野駅から城山公園⇒観音堂⇒安蘇沼氏古城跡⇒オシドリ伝説の歌碑⇒金町通り・金吹通り⇒宝龍寺⇒金山神社⇒観音寺⇒惣宗寺(厄除け大師)⇒例幣使街道⇒JR佐野駅です。
佐野の街にはラーメンを食べに良く出かけていますし、3年程前には例幣使街道を歩いて、佐野の街を西から東へ横断した事も有りますが、今回のコースでは初めて行く場所が殆んどでした。
最初の「城山公園」は、駅の北側に隣接する史跡公園です。JR両毛線と東武佐野線とが乗り入れる駅舎は、平成15年(2003)に橋上駅に建て替えられた為、改札口を出た所の南北自由連絡通路を、北口「城山公園方面」に進むと、直接城山公園の芝生の広場に出る事が出来ます。
佐野駅.jpg南北連絡通路.jpg
(橋上駅舎の佐野駅)          (南北自由連絡通路、正面奥が北口、城山公園方面)

この公園は「佐野城跡」と言う佐野市の指定史跡に成っており、「ふるさと佐野100選」の案内板によると、≪三の丸・二の丸・本丸・北出丸の4つのゾーンからなる。明治22年9月、公園として開設された 春日岡城跡・佐野城跡とも言われるが、城は未完成のまま廃城となる。本丸の高さは約55.8m 南北約305m、東西約110m≫と記されています。
史跡佐野城址の碑.jpg佐野城址説明板.jpgふるさと佐野100選.jpg
(史跡 佐野城跡の碑) (佐野城跡案内板)         (ふるさと佐野100選案内碑)

ここで20分程自由散策と成りましたが、ここでそんなに時間取るのと始め思いましたが、園内を巡ると意外と広く、案内板の説明文を読んだり、石碑を見て歩くとあっと言う間に出発の時間に成っていました。
公園内の橋1.jpg公園内の橋2.jpg
(二の丸・本丸間の空堀に架かる橋)      (本丸・北出丸間の空堀に架かる橋)

次の目的地「観音堂」に向け城山公園を後にします。途中、久保町に有る真言宗豊山派の「金成院」と「西宮(蛭子)神社」に立ち寄り、その由緒沿革等を記した記念碑等を確認しました。
金成院.jpg蛭子神社.jpg
(久保町の遍明山金成院本堂)           (久保町の西宮神社、蛭子神社とも)

金成院の由来については境内に建てられた「山内整備事業記念碑」より抜粋すると、≪抑 大日如来を本尊とする金成院は、明治41年金胎寺・成就院・光明寺が合寺して成立した。金胎寺は、はじめ小野寺保に「八幡山松樹院金胎寺」として創建されたが、天文年間佐野秀綱により吉水郷に移され、更に元亀2年秀綱の曾孫昌綱によって再建されたと伝える。慶長7年唐沢山城主佐野信吉は、幕命により春日岡(城山公園)に新たな築城の工を起こし、天命の街割りを行った。金胎寺もその一環として吉水郷より現在地に移築された。(中略) 成就院は金胎寺第三世妙慶の開山になる寺であり、光明寺は朝日森天満宮別当で金胎寺の隠居寺であった。(後略)≫と記されていました。
西宮(蛭子)神社の説明板によると、「蛭子」には「ヒルコ」とルビがふられています。その下に「えびす様」と成っています。由緒沿革には≪(前半略) 当地西宮神社は「栃木県神社誌」によると大永3年(1523年)今から486年前、佐野根古屋青柳(今の栃本)に勧進したのが始まり唐沢城主佐野盛綱が祭るその後、唐沢の居城が春日岡(城山公園)に移るに伴い、東組屋敷に祭る。(中略) 元和2年(1616年)393年前小山城主本多上野介正純に給れ、翌元和3年社は正純の命により安蘇沼北久保に所替となる(現在地) (後略)≫と有りました。

西宮神社より東方向に向かう細い道を進むと観音山公園への登り坂に成ります。この小丘の東側中腹に引地山日向寺観音堂とその北隣りに日枝神社が祀られています。
この観音堂が栃木県内に分布する、「下野坂東三十三観音霊場」のひとつ、第二十七番札所・富岡の「引地山観世音」に成ります。栃木市の三級山近龍寺(二十四番)や出流山満願寺(二十九番)なども同じ霊場に入っています。
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(富岡町、引地山日向寺観音堂の彫刻)     (富岡町、日枝神社の彫刻)

≪後醍醐天皇の頃、富士泉応院の法師が天皇より賜わった観音像を同天皇の子、護良親王の死を悲しんだ南の局が泉応院から譲りうけて祀ったのが始まりで、当時は山の西に草庵を建て根光寺と言った。根光寺は南朝方であることから、北朝方の足利氏ににらまれ、本尊は沼に捨てられてしまった。その後越名の漁夫の網にかかり、阿武塚沼のほとりに安置されたが、阿曽沼の殿様に毎夜観音様が夢枕に立ち、元の所に帰りたいと云うので、永享三年富岡の岩山に移し、引地山日向寺観音堂と成りました。≫と伝えられます。
お隣に建つ日枝神社社殿ともども向拝部虹梁の龍の彫刻がなかなか立派な物です。

次の目的地は県道67号(桐生岩舟線)を横断して、南側の浅沼町へ向かいます。
ここに鎌倉時代に阿曽沼出羽守広綱が創建したと云う、浅沼八幡宮が有ります。社殿に向かい境内の右隅に一基の大きな石碑が建てられています。「佐野市指定史跡 阿曽沼城之跡」と刻され、その碑陰には朗々と歌われる詩歌の如き碑文が刻まれています。
浅沼八幡宮.jpg阿曽沼城之跡碑.jpg
(浅沼八幡宮社殿)                    (佐野市指定史跡 阿曽沼城之跡の碑)
碑文冒頭部を抜粋してみます。≪今ひらけゆく浅沼のあたり、むかし佐野庄阿曽沼郷の地、火山灰洪積地のはて、黒々とした沈黙をたたえる水面を、おしどりの遊ぶ、安蘇の沼のほとりであった。 鎌倉に源氏の幕府はじめられようとする十二世紀末、阿曽沼城は阿曽沼民部四郎広綱によってこの地に築かれ、以来四百年 戦国のおたけび山野を駆けるさなかまて、城の盛衰は、阿曽沼氏歴代とともにあり、その哀歓は、浅沼の地と人とともにあった。・・・(後略)・・・≫

そしてこの境内のいっかくに建てられた、「おしどり塚歌碑」も見学しました。
おしどり塚の歌碑.jpgふるさと佐野100選2.jpg
(浅沼八幡宮境内のおしどり塚歌碑) (ふるさと佐野100選「おしどり塚歌碑」)

ふるさと佐野100選「おしどり塚歌碑」説明文によると、≪自然石を使った碑面に「日くるればさそいしものを 安蘇沼のまこもがくれの ひとりねぞうき」とあり、裏面には天保2年(1831)とある。碑はもと相生町の千鳥が渕にあったが、明治年間に現在地へ移したものといわれ、昭和44年市の有形文化財に指定された。≫

佐野市の鳥に指定され、佐野駅前広場のモニュメントとして、この目地を訪れる人を迎え送る。又、佐野市の下水道のマンホール蓋の中央に描かれる、「おしどりのつがい」の姿がこの地に有る事を今回知る事が出来ました。
おしどり像.jpgおしどりマンホール蓋.jpg
(佐野駅前広場のおしどりのモニュメント)  (佐野市街地に設置されているマンホール蓋)

次はいよいよ「天明宿」へ入ります。
佐野東高校(元の佐野女子高)の脇を抜け、金屋下町・金吹町・金屋仲町と右に左に通りを抜けて、大祝町の宝龍寺へと歩を進めます。
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(金屋仲町の元影澤医院の建物)     (国登録文化財の日本基督教団佐野教会)
影澤医院の建物は現在「日本クリケット協会」の本部と成っています。佐野市は、「クリケットのまち佐野」・「日本のクリケットの聖地」を目指して活動を展開しています。

細い路地をくねくねと歩きやっと次の目的地、大祝町の宝龍寺に到着。ここの見学は市指定文化財の「銅造阿弥陀如来座像」です。
宝龍寺.jpg銅造阿弥陀如来座像1.jpg
(大祝町の宝龍寺)                   (宝龍寺境内の銅造阿弥陀如来座像)
この阿弥陀如来座像は横に立てられた説明文によると、元禄七年(1694)天明の鋳工 丸山孫衛門尉藤原信次の作。像の高さは409cm。
この後に見学した、金井上町の観音寺に有る、同じく「銅造阿弥陀如来座像」は、寛文九年(1669)斎藤伝七郎久重、太田小左衛門尉藤原秀次、大川久兵衛藤原信正等三人の天明鋳物師たちの合作。
像の高さは313cm。こちらも市指定文化財に成っています。
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(金井上町の観音寺)                  (観音寺境内の銅造阿弥陀如来座像)

金井上町の観音寺への途中、「かねがみさま」と呼ばれて、鋳物師たちの信仰を集めていた「金山神社」にも立ち寄りました。
金山神社.jpg金山神社本殿.jpg
(金山神社拝殿正面扉に施された彫刻)       (金山神社本殿の彫刻)

観音寺の次に訪れたのは、西隣りに当たる「惣宗寺」です。佐野厄除け大師の名前で広く知られている寺院で、毎年正月三箇日の初詣には大勢の初詣客で大混雑となります。私もこれまで何度も訪れていますが、今回の参拝させて頂きました。
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(惣宗寺本堂の大伽藍)            (佐野東照宮社殿は県の有形文化財に指定)

最後の見学地は、又天明宿の町並みを見ながら、金井上町から大和町・天明町を歩き、大蔵町の星宮神社に向かいます。途中江戸街道では2階建て蔵造り、外壁は黒漆喰の呉服商の旧店舗「太田邸」や、昭和2年築の洒落た洋館「小島邸」を、そしてかつての日光例幣使街道(現県道67号)にて、江戸後期から明治に建てられた見世蔵が軒を連ねている風景を見せています。これは同じ例幣使街道の宿場町として栄えた「栃木の町並みにも共通するものです。
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(太田邸の見世蔵を見学するメンバー)         (小島邸の洒落た洋館)
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(日光例幣使街道に見世蔵が並ぶ)     (土蔵の屋根のハナブカに土佐の文字)

栃木市の多くの見世蔵の屋根、鬼瓦の前にちょこんとついている「ハナブカ」、目的は良く理解していませんが装飾のひとつと思います、現在の味噌饅頭店「新井屋」の屋根のハナブカを見ると「土佐」と読める。これはこの建物が旧土佐屋薬局の一つの名残りと思われます。
この味噌饅頭店の横の道を北に進んで行くと大蔵町の星宮神社に突き当たります。

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(星宮神社の銅造鳥居を見学する)     (星宮神社拝殿)
星宮神社の銅造鳥居は、≪享保二十乙卯年(1735)三月金屋町総鋳物師棟梁大工職という刻名がある。天明鋳物の名匠たちが協力し、天明宿の総氏子が奉納した明神鳥居である。昭和33年に市の有形文化財に指定された。高さ424cm、柱周囲106.05cm≫(ふるさと佐野100選説明文より)

ここから佐野駅まで戻り解散と成りました。
今回佐野市天明宿を巡り、あらためて天明は鋳物の街であることを実感しました。市内のいたる所に鋳物の作品を見る事が出来ました。今回天候にも恵まれ気持ち良く歩く事が出来ました。本日の私の総歩数は20,092歩に成りました。
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(佐野の街中に建つ天明鋳物製の公衆電話ボックス)
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地元栃木市のマンホールカードをゲットして来ました。 [マンホールカード]

今日12月14日(金)、マンホールカードの第9弾が配布開始されました。
今回はやっと地元栃木市のマンホール蓋がカード化されたので、さっそく配布場所と成った「栃木市観光協会」の「観光総合案内所」(栃木市倭町14-1)に行って、ゲットして来ました。
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(栃木市のマンホールカード) (カードを配布している栃木市観光協会の観光総合案内所)

自宅から歩いてカードが貰えるのは最初で最後でしょう。
地元の御馴染みのデザインマンホール蓋のカードを手にして、ひとり満足しています。
明日は同じく今日配布開始と成った、佐野市の「さのまるくん」デザインのカードでも貰いに行こうか、それとも思い切って日光いろは坂を登って、日光市のカードをゲットするか、又楽しみが出来ました。
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栃木市のマンホールカードが出来ました [マンホールカード]

本日、下水道広報プラットホーム(GKP)のインターネットホームページに、同プラットホームが企画・監修している「マンホールカード」の、第9弾にて配布される内容が公開されました。
今回新たに配布が開始されるものは60種類、この中に私がずっと待っていた1枚が有りました。それは私の地元「栃木市」のマンホールカードです。
私がこのマンホールカードの存在を知り、収集を始めたのが今から2年前です。2016年8月の第2弾配布の中に、栃木県の自治体で最初に足利市が名乗りを上げ、新聞の栃木版にそのニュースが掲載されたのを見て興味を持ったのが初めてでした。
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(栃木県内最初のカードとなった足利市のマンホール蓋とそのモデルの足利学校門)

以前からマンホール蓋のデザインが自治体によって異なるのを写真に撮って、県内各地はもとより近県まで足を延ばして多くのデザインマンホール蓋の写真を収集していたので、このマンホールカードの収集も始めた訳です。
今現在で丁度100枚のマンホールカードを収集しましたが、以前から地元のカード発行をズーット期待して待ち続けていたので、今回のニュースには喜んでいます。
今回配布される栃木市のカードのデザインは、旧栃木市内ではおなじみの図柄に成ります。それは栃木市観光のシンボル的な風景、巴波川とそこに泳ぐコイ、そして川沿いに連なる黒塀と土蔵「塚田歴史伝説館」、その左下に「新生栃木市」の市章が描かれたデザインです。
このデザインマンホール蓋は、旧栃木市内の街中を歩けばどこでも見る事が出来るものですが、ただカラー版の蓋はこれまで有りませんでした。それが今年の3月の末に偶然カラフルに色付けされた蓋を、旧栃木市役所別館近くの路上で発見しました。この時私はいよいよ4月の第7弾でカードが出るのではと、密かに期待を膨らませておりました、がそれは見事に裏切られました。そして8月の第8弾でも空振り、少し諦めていましたが今回見事にカード化が実現しました。
栃木市マンホールカード1.jpg栃木市マンホールカード2.jpg
(今回カード化される栃木市のマンホール蓋とモデルと成った巴波川の風景)

101枚目の節目のカードは地元栃木市のカードと決めました。
そして今回の驚きはもう一つ有りました。栃木県内で同時に3ヶ所、カードが配布される事に成ったのです。栃木市とお隣「佐野市」そして「日光市」です。栃木県内で3枚同時発行は今回が初めてです。
配布開始となる12月14日(金)が今から待ち遠しいです。


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秋深まる栃木市郊外を走る [自然の恵み]

今年も今日から12月に突入しました。今朝も冷え込みは少なく、暖かな日が始まりました。
昨日も一日風も無く穏やかで暖かかったので、久しぶりに自転車に乗って、栃木市郊外の紅葉を探して走り回りました。
太平山の南麓、大平町下皆川の両毛線に沿う道路を、南に下り大平町富田の旧例幣使街道富田宿を走り抜けて、更に街道から外れて南方向岩舟町静和に入ります。
下皆川の秋景色.jpg
岩舟町静和の東光寺薬師堂前の大銀杏が黄色く色付いています。
東光寺大銀杏の黄葉.jpg
ここで東武日光線の踏切を渡り、真直ぐ南に走ります。我家から南方向への関東平野はなだらかな下り坂になるので、快適に自転車を進める事が出来ます。南に行くという事は、逆に帰りは登り道に成るのですが、それでも関東平野、極端な勾配は無く体力の落ちた私でも、何とか走れる環境です。
東武日光線静和役付近で再び線路を渡り、国道50号線の高架橋下を潜って赤塚山の裾野を時計方向に回り込み、岩舟町静和から岩舟町静へ。

岩舟町静は西に足尾山地の南の先端「三毳山」が南北になだらかな曲線を描いて広がっているのを望む事が出来ます。(写真下)
午後に成ってしまうと太陽が山の西側に掛かってしまう為、少しシルエットに成って来てしまいます。山並みの右側一番高い所が三毳山の主峰「青竜ヶ岳」(229m)、そして左側の高くなっている所が「中岳」(210m)です。
岩舟町静の秋景色三毳山.jpg

北の方向には遠く太平の山並みが東西に連なっています。右奥に「太平山」(341m)、中央一段と高く突き出てるのが、連山の最高峰「晃石山」(419m)、そして左に連なるのが「馬不入山」(345m)。手前の色付いた山肌を見せているのが「冨士山」(94m)に成ります。(写真下)
岩舟町静の秋景色.jpg

東側には先ほど走って来た赤塚山、そして直ぐ目の前には色付き始めた里山がせまります。
岩舟町静の紅葉1.jpg岩舟町静の紅葉2.jpg

ここから家に戻る事にしました。ここ静和の標高は27m程度、我家の有る箱森町の標高は約49m、従ってその比高は22mに成ります。この22mを登って行く事に成りますが、この2点間は直線距離で10kmも有りますからその間の平均勾配は僅か0.1度程度で、登り坂とは言えませんがそれでも往路の快適感は消え、所によっては必死でペダルを漕がないと、前に進まなくなります。幸い昨日は無風状態だったので助かりました。富士山の裾野を回り込んで北上、復路は太平の山々を左に見て箱森町に戻りました。

大平町西山田の秋景色.jpg
(大平町富田西部より望む太平の山並み、山麓には西山田のぶどう団地が広がっています)

久しぶりのサイクリングでしたが、天候に恵まれて気持ち良く廻ってこられました。走った距離は約30kmでした。
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