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柏倉川に架かる橋梁を巡る。 [栃木市の橋梁]

今回は、柏倉川に架かる橋を巡ります。
柏倉川はその名前の通り、栃木市街地の西方、皆川地区柏倉町の西北端、佐野市葛生地区との境界を成す山塊より湧き出る沢水に、その源を発する河川です。その後聖徳太子神社が祀られている「柏倉温泉太子館」の前を縦断した後、東南東に流れて皆川城内町の街中で、同じく西側から流れて来た藤川の左岸に合流をしています。

私が、この柏倉川に架かる橋の名前を求めて、初めて柏倉川の流域を訪れたのは、今から37年前の1月の事でした。以下に紹介するのはその時撮影をした写真です。下流側から遡っています。
①最初の写真は柏倉川の一番下流部に架かる「観音橋」で、柏倉側はこの後南側を流れている「藤川」に合流しています。橋の右手に橋の名前に成った「観音堂」が見えます。この写真ではまだ昔の姿の藁葺屋根ですが、現在は建て替えられて瓦葺の立派な堂宇に変わっています。又、バックには皆川城址の城山の南麓に建つ「皆川中学校」の校舎が見えています。
1982年1月観音橋.jpg

②次の写真は「谷津橋」です。「観音橋」の一つ上流側に架かる橋です。橋名の「谷津」は、この地区の字名に因ったものです。高欄も新しく感じます。「谷津橋」の銘板が確認出来ます。
1982年1月谷津橋.jpg

③三枚目の写真は「久保山橋」ですが、この橋は県道126号(栃木田沼線)を西に走り柏倉町に入った所、県道から脇道を少し北に入った所に架かっている橋です。橋名の由来は確認出来ませんでした。
1982年1月久保山橋.jpg

④次は「石尊橋」です。県道126号から右に分かれ、「太子館」方面への道を進むと、道路が柏倉川の右岸から左岸に渡る所の橋に成ります。橋名はこの橋の北方に位置する山の山頂に祭られた「石尊神社」に因んで命名されました。
1982年1月石尊橋.jpg

⑤次の写真は柏倉川に架かる橋では無く、柏倉温泉「太子館」の池に架けられていた橋を撮影した物です。柏倉川はこの池の東側を北から南に、聖徳太子神社の参道を横切る様に流れていました。当然参道にはその当時は苔生したコンクリート製の桁橋が架けられていましたが、高欄には橋名などの表示は見られませんでした。
1982年1月太子館.jpg

柏倉川は聖徳太子神社が祀られている「寺山」の北側の山麓に沿って、柏倉町北西の山懐に入って行きます。この先は道路と河川が交差を繰り返している為、その交差地点に橋が架けられています。最初に現れる橋が⑥「種入橋」その後⑦「たつみがえり橋」そして最後が⑧「栃目木橋」と成ります。
1982年1月種入橋.jpg
(種入橋を上流側から撮影。バックに写るのが寺山、左奥先端部に聖徳太子神社)
1982年1月たつみがえり橋.jpg
(たつみがえり橋の横に「一級河川上流端」の標柱が建てられています。)
1982年1月栃目木橋 (1).jpg
(栃目木橋を下流側から撮影。道も流れもまだ山中に向かって続いています。)

この最後の「栃目木橋」を確認・撮影をして戻りました。その当時私が橋探索に利用していたのは、国土地理院発行2万五千分1の地形図でしたが、その当時も現在の最新版に於いても、太子館より奥の地点で道路と河川が交差するポイントは上記の3ヶ所で、そこから先は道路も無くなるし、川の記載も無くなっています。
今回改めて現地に向かったのは、ゼンリン住宅地図にて更に上流に橋が記載されている事を確認した為です。
今回は全てを確認していませんが、平成に成ってから機会あるごとに撮影した写真を含め、以下紹介をしていきます。
①観音橋:平成15年(2003)6月に新しい橋に架け替えられています。
2013年7月観音橋.jpg
                     (2013年7月撮影)
②谷津橋:河川の護岸工事が行われた結果か、橋が架け替えられています。
2013年5月谷津橋.jpg
                     (2013年5月撮影)
③久保山橋:河川の護岸工事が行われていますが、橋は以前のままです。
2013年5月久保山橋.jpg
                     (2013年5月撮影)
④石尊橋:橋は新しく架け替えられ幅が広くなっています。「せきそんばし」です。
2013年5月石尊橋.jpg
                      (2013年5月撮影)
⑤柏倉温泉太子館入口に架かる橋:新しい橋に架け替えられています。
2015年1月太子館.jpg
                      (2015年1月撮影)
⑥種入橋:以前のままの橋です。「たねいりはし」の表示に成っています。
2015年1月種入橋.jpg
                       (2015年1月撮影)
⑦たつみがえり橋:以前のままの橋です。
2015年1月たつみがえり橋.jpg
                        (2015年1月撮影)
⑧栃目木橋:以前のままの橋です。「とちめきはし」の表示に成っています。
2019年1月栃目木橋.jpg
                         (2019年1月撮影)
⑨空久保橋:今回初めて確認をしました。「そらくぼはし」の表示に成っています。
2019年1月空久保橋.jpg
                         (2019年1月撮影)
柏倉川の橋銘板コレクションです。
観音橋銘板.jpg谷津橋銘板.jpg
久保山橋銘板.jpg石尊橋銘板.jpg種入橋銘板.jpg
たつみがえり橋銘板.jpg栃目木橋銘板.jpg空久保橋銘板.jpg
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群馬県板倉町の雷電神社を詣でました。 [建物]

今日、群馬県邑楽郡板倉町の雷電神社に行って来ました。
板倉雷電神社4.jpg
(板倉雷電神社、本社正面を大鳥居を通して撮影しました)

境内の周りには今、蠟梅の黄色い花が咲き、ほのかな甘い香りが溢れていました。
平日の為か参道の茶店は開いておりませんでしたが、参拝に来られた人が、蠟梅や社殿をバックに写真を撮られていました。
板倉雷電神社3.jpg
(社殿前には蠟梅の黄色い花が、ほのかな香りを発しています)
蝋梅.jpg
(咲き始めた蠟梅の黄色い花、バックは雷電神社社殿屋根の千木)

私も本社から奥宮などを、社殿に施された多くの素晴らしい彫刻装飾を観賞しながら参拝して廻って来ました。

<本社・社殿正面>
拝殿正面彫刻.jpg
拝殿正面彫刻1.jpg拝殿正面彫刻2.jpg

<本社・社殿左側面>
本殿左側面彫刻.jpg
本殿左側面彫刻2.jpg本殿左側面彫刻1.jpg

<本社・社殿後面>
本殿北面彫刻.jpg
本殿北面彫刻1.jpg

<本社・社殿右側面>
本殿右側面彫刻.jpg
本殿右側面彫刻1.jpg本殿右側面彫刻2.jpg
上の写真左側に写る彫刻が描く物語が、私が唯一分かった「浦島太郎」の作品です。
「竜宮城の乙姫様に見送られ、左脇に土産の玉手箱を抱え、海亀の背に乗って帰る浦島太郎の図です。」
その他の彫刻が表す物語も有名な物なのでしょうが、私には思い当たる物は浮かんできませんでした。


<奥宮・社殿正面>
奥宮正面.jpg
奥宮向拝部彫刻.jpg
奥宮向拝部彫刻1.jpg奥宮向拝部彫刻2.jpg

此処、板倉の雷電神社は昔から栃木町の人達からも、篤く信仰されていたと聞きます。
社殿前の大鳥居の脇に有る手水舎は江戸時代に、そんな栃木町の雷電講が寄附をしたもので、水舎脇に建てられた石碑には、「栃木町同盟講社」と「水舎寄附」の文字が刻されています。碑陰には栃木町で良く見聞きされる人達の名前がズラッと並んで刻されています。残念ながら表面に苔が付いたり風化等により判別が出来ない名前も多くなりました。

板倉雷電神社1.jpg板倉雷電神社2.jpg
(社殿前大鳥居横の水舎)              (水舎の傍に建てられて石碑)

私の叔父からも、「若い頃は自転車の載って参拝して、御札を頂いて来た。」と、懐かしく話してくれます。今では自動車で40分足らずで行くことが出来ますが、車が今の様に発達していなかった頃は、延々と広がる田んぼの中の道を、ペダルを漕いで行かなければならなかった。それでも往きは下りで多少は楽だったものが、復路は上り坂と成る為、大変だったと思われます。

見事な彫刻作品を鑑賞し、蠟梅のほのかな香りを嗅いで、家路に着きました。
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三池炭鉱の産業遺産を巡る [建物]

この正月休みを利用して九州北部を旅した。目的地は二ヶ所、長崎市と大牟田市です。
長崎市では眼鏡橋を、そして大牟田市では明治日本の産業革命遺産として平成27年(2015)7月に世界文化遺産の構成資産として登録された三池炭鉱関連資産を見て廻りました。

大牟田市の三池炭鉱を訪れたのは世界遺産に登録された事とは別に、その地が栃木市と少なからず繋がりが有ったからです。私が栃木工業高校を卒業する数年前の昭和39年(1964)に、栃木市に三井三池製作所栃木工場が誘致され、私の同級生の中からも多くが就職していました。
大宮町・国府町の萱場地内の工場敷地は32,769坪の広大な土地で、南側は県道宇都宮街道、北側は東武宇都宮線とに挟まれ、北西部には東武野州平川駅が有り通勤には便利な場所です。
私の就職したのは宇都宮市内の工場でしたから、通勤時の電車の窓から良く三井三池製作所を眺めていました。線路際にタンクやパイプが複雑に入り組んだ、石油コンビナートなどで良く見かけるプラントの小規模な施設が設置されていました。
同社に就職したクラスメートの話でも、仕事の関係で出張する事が多い、現地で組み立て作業を行う為と、良く話していました。

(株)三井三池製作所が三井鉱山(株)より分離独立して設立されたのは、昭和34年(1959)でしたが、この頃国内の石炭産業は斜陽化により大量解雇が行われ、三池争議などの労働争議が起きていた時期であり、栃木工場にも九州から大勢の社員が移って来ていたと云います。
三井三池製作所栃木工場では、忘年会などの飲み会の時には、必ず「三池炭鉱節」を歌って盛り上がっていたと聞きました。故郷を懐かしんでいたのかも知れません。
「月が〜あ 出た出た、月が〜あ 出た。三池炭鉱の 上に〜い出た。あんまり 煙突〜が 高い〜いので。さ〜あぞや お月さん けむた〜あかろ。 サノヨイヨイ。」
そんな歌の歌詞に出てくる、煙突を私も一度見てみたいと、この大牟田の地を踏んだのでした。

長崎市を出て、諫早市を経由、有明海に沿って走り、回りこんで大牟田市に到着したのは、14時30分。
私はこれまでイメージだけで、三池炭鉱はもっと福岡県の北域に有るものと勝手に思っていました。それが実際は福岡県の南西端、熊本県との県境、有明海に面した土地で、三池炭鉱の一部、万田坑は熊本県荒尾市に成ります。
まず、JR鹿児島本線の大牟田駅前の観光案内所に寄って、観光パンフレットを貰いました。

最初に「三池炭山創業碑」を見る為駅近くの笹林公園へ。昭和5年(1930)に建てられた石碑の側面には、官営時代を中心に三井による経営が始まる以前の、三池炭山の歴史が刻されていました。
次に向かったのは、目的の煙突です。それは明治28年(1888)開坑の、三池炭鉱の主力坑の一つ、宮浦坑跡(宮浦石炭記念公園)に1本建っていました。
煉瓦積みの煙突の高さは31.2m、直径は上部が2.9m、下部が4.3m、使用されている耐火赤煉瓦約138,000枚と説明板に記されていました。
以前は、大浦坑、勝立坑、万田坑など明治時代の坑口には、いずれもこのような煉瓦の煙突が建てられていましたが、現在はこの1本だけが残されているのだそうです。
三池炭山創業碑.jpg宮浦石炭記念公園.jpg
(三池炭山創業碑)                (宮浦石炭記念公園に建つ煙突)

次に向かったのは「宮原坑」。明治31年(1898)の開坑です。さすが世界遺産に登録されているだけ有って、広い駐車場が整備されています。その先に我が国で現存する最古の鋼鉄製櫓という、明治34年築の「第二竪坑櫓」が聳え立っています。
宮原坑1.jpg
(宮原坑第二竪坑櫓と巻揚機室)
櫓の高さ:22.05m、鋼板リベット止めラチス組み。櫓上部に取り付けられた滑車(シーブ)に、巻揚機からの鋼索(ワイヤーロープ)を介して、竪坑内にケージを吊り下げ、支える役割を持っています。人馬昇降、排水、揚炭機能を担っていました。
宮原坑2.jpg宮原坑3.jpg
(巻揚機室)                     (排水管)

車を更に南に走らせ県境を越えて、熊本県荒尾市原万田へ。
「万田坑」は明治35年(1902)の開坑。宮原坑に続き開鑿された坑口で、当時炭鉱業界の模範となるような坑口施設を作るため三井が総力を挙げて建設したと説明されています。
明治時代に作られた炭鉱施設としては、わが国最大規模を誇っていました。
万田抗1.jpg
(万田坑)

現地に着いた時は既に最終入場時間を過ぎていた為、門の中に入場する事が出来ず、外観見学のみと成りました。

大牟田市まで来たついでに、市役所に立ち寄り、マンホールカードを貰ってきました。
大牟田市役所.jpg大牟田市マンホールカード.jpg
(国登録有形文化財指定の、大牟田市役所本庁舎旧館)  (大牟田市マンホールカード)

大牟田市のマンホールカードのデザインと成っているのは、大牟田市公式キャラクターの「ジャー坊」君です。昨年のゆるきゃらグランプリーに於いて、最後までトップ争いを行い残念ながら一位の座を逃しましたが、投票活動における組織票争い等で、全国的なニュースとなり、一躍有名になったキャラクターです。
背景に「三池炭鉱宮原坑」が描かれています。
訪れた日が1月4日(金)、丁度仕事始めで市役所が開いていたので、カードを入手出来ました。ラッキーでした。
尚、三池炭鉱の見どころはまだまだ有るので、機会が有ればまた訪問したいと思っています。
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長崎眼鏡橋と諫早眼鏡橋 [橋梁]

私の蔵書の中に「眼鏡橋 -日本と西洋の古橋-」と言うタイトルの1冊の本が有ります。
工学博士太田静六著で、昭和55年10月20日初版発行です。
眼鏡橋の本.jpg
その頃私は、栃木市内の河川に架けられた橋の写真を、探し回っては撮影して歩いていましたので、書店でこの本を見付け、ページをめくってみて、そこに多くの石橋の写真が掲載されていたので、早速購入したものです。
そこにはヨーロッパの今から2000年以前に建設された多くの石造りのアーチ橋・水道橋の写真などと共に、日本の九州地方に分布する石造りアーチ橋の写真が多数掲載されていました。
石造りのアーチ橋は栃木市内では、私の知っている限りでは、錦着山東南麓に架かる「八雲橋」ただ一ヶ所です。大正5年6月に石工の大塚藤吉さんに依って完成されたもので、どのような経緯で石造りのアーチ橋の形を採ったのか興味が有ります。
八雲橋1.jpg八雲橋2.jpg
(錦着山南東麓、風野堀に架かる石造りアーチ橋) (要石に陽刻された「八雲橋」の文字)

抑々、日本における石造りアーチ橋の分布は、そのほとんどが九州地方に偏っていると云います。上記の本に依ると造られた年代が分かっている中で一番古いと云われるのが、長崎市の中島川に架かる、あの有名な眼鏡橋で、寛永11年(1634)に長崎の唐寺・興福寺2代目住職黙子如定(もくすにょじょう)が架けたとされています。その後、明治の末までに架橋された石造りアーチ橋の数は、一番多いのは熊本県で150橋前後。次は鹿児島県ですがその数は熊本の半分以下の70橋位。三番目が大分県の50橋で、四番目が長崎県の約35橋であると書かれています。
私はこの「眼鏡橋」の本を入手してから、一度は長崎を訪れて実際に長崎眼鏡橋を見てみたいと思っていましたが今回、正月休みを利用してやっと見て来る事が出来ました。
現在の長崎眼鏡橋は、上記の本が発行された昭和55年の2年後、昭和27年(1982)の7月に発生した長崎大水害で半壊した為、翌年の10月に修復されたものです。
 <長崎眼鏡橋のデータ>
   ・橋の長さ:22m、橋の幅:3.65m、川面までの高さ:5.46m、
   ・2つの半円を描く石造り2連アーチ橋
   ・昭和35年(1960)、国の重要文化財に指定される。
 
私が実際に橋の上に立ったのは1月3日の午後3時30分、幸いに空は真っ青に晴れ渡り、風も無く最高の観光日和に成っていました。
長崎眼鏡橋の撮影ポイントは、下流側に架かる「袋町橋」の上からと、眼鏡橋と袋町橋の中間点の川の中に設けられた飛び石からの2ヶ所、二連アーチ橋が川面に映った姿が、まさに眼鏡の形を見せてくれています。
この日も多くの観光客がこの姿を写真に収めて居りました。
長崎眼鏡橋1.jpg長崎眼鏡橋2.jpg
(下流側「袋町橋」の上から撮影した「長崎眼鏡橋」) (左岸下流側親柱に「眼鏡橋」の文字)

長崎眼鏡橋3.jpg長崎眼鏡橋4.jpg
(下流側の川中に渡された飛び石上から撮影) (左岸上流側に建てられた「黙子如定の像」)

前出の「眼鏡橋」の本によると、≪中島川には橋が多く、かつ江戸時代には固有名詞がなく、呼ぶのに不便であったので、「長崎図誌」の著者が、上流の阿弥陀橋を第一橋として、順次下流の橋に番号をつけたという。例えば眼鏡橋は第十橋といった具合である。 (中略) なお現在の橋銘は地元の研究家、宮田安氏の説によると、明治15年頃に、当時の漢詩人、西道仙がつけたものが大部分だという。≫ 
第一橋から紹介すると、①阿弥陀橋、②高麗橋、③大井手橋、④編笠橋、⑤古町橋、⑥一覧橋、⑦芊原橋、⑧東新橋、⑨魚市橋、⑩眼鏡橋、⑪袋町橋、と成っています。

昭和57年(1982)に発生した長崎大水害により6つの石橋が全壊、眼鏡橋と袋町橋は半壊しています。半壊の2橋はその後復原修復され、その他の石橋は架け替えが行われました。
残念ながら今回私は、上記の全ての橋を見て来る事は出来ませんでしたが、機会が有ればまた訪問したいと思っています。
すすき原橋.jpg
(東新橋の橋上より上流方向を写す。手前の車が通行するのが「芊原橋」その奥が「一覧橋」)

翌日は、諫早眼鏡橋を見る為長崎市を後にしました。諫早市は長崎市の東隣りに位置しており、長崎自動車道を利用すると諫早眼鏡橋の有る諫早公園に、40分程で到着しました。
諫早眼鏡橋は、石造りアーチ橋の中では、一番早く国の重要文化財に指定されたものです。
昭和33年11月の指定は、長崎眼鏡橋の指定(昭和35年2月)より1年3ヶ月早いものでした。
<諫早眼鏡橋のデータ>
   ・橋の長さ:49.25m、橋の幅:5.5m、アーチ頂上の下面から常水面まで5.4m
   ・半円よりは小さな欠円の石造り2連アーチ橋
   ・一つのアーチスパンは17.35m、アーチ面を形成する円の半径は9.7m
   ・天保9年(1839)の架橋
諫早眼鏡橋1.jpg
(諫早公園内の池に移設された諫早眼鏡橋)

この眼鏡橋は、元は直ぐ北側を流れる本明川の450m程下流側に架けられていたものです。
前出の「眼鏡橋」の本によると、≪本明川は昔から氾濫の歴史を繰り返してきた。(中略) 昭和32年7月25日から26日にかけて襲来した未曽有の集中豪雨による大氾濫の結果、全市が水没して死者行方不明者数十人を出すという諫早史上、最大の惨事をひきおこした。(中略) この時に起こった本明川の氾濫が如何に凄まじいものであったかは言語に絶する程で、本明川に架けられていた昭和の現代橋はみな流失した。その中で、ただ一つ石造眼鏡橋だけが頑として動かず、そのため上流から流下してきた流木その他が眼鏡橋に塞止められてダム状になり、このダム状に溜まった濁水が、堤防を破って市街に奔流したため被害を一層大きくする結果と成った。≫
その昔、洪水のたびに橋が流出しては、不便を感じていた為、頑丈な石橋を架けたのだが、橋が壊れなかった事で、堤防の方が壊れたのだと、何とも言えない現実でした。その結果、この眼鏡橋を爆破して壊してしまえと云う市民の声が湧きあがり、それもやむなしと云う状況に成りました、一方当時の市長さんや有識者達に依る文化財保護運動とも相まって、眼鏡橋を解体して他の場所に移建する事となって現在の場所に設置されたと、その経緯が記されています。

諫早眼鏡橋2.jpg
(諫早眼鏡橋の五分の一の縮尺で精巧に作られた、本物そっくりのミニ眼鏡橋)
上の写真は、諫早公園の一角で見つけた、諫早眼鏡橋の精巧な五分の一縮尺で造られた模型だそうです。実際の眼鏡橋を諫早公園に移築復元する為に、橋の組立て方や強度など技術的なデータを収集する目的で造られたものと、脇に建てられた「眼鏡橋模型建設記念碑」にその経緯が記されていました。

眼鏡橋見学の後、商店街に設置されている眼鏡橋をデザインしたマンホール蓋の撮影と、そのマンホール蓋の図柄を採用したマンホールカードを貰って、長崎県を後にしました。
諫早眼鏡橋3.jpg諫早眼鏡橋4.jpg
(諫早市のデザインマンホール蓋)         (諫早市が配布しているマンホールカード)
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2019年の元旦、いつもの年と変わらぬ一日を過ごす。 [歩く]

明けましておめでとうございます。
2019年1月1日、我家では例年と変わらぬ、穏やかな一日で迎えました。と言うものの実は少し違う、例年家族四人が揃って新年を迎えるのだが、娘が年末年始の休みを利用して旅行に行ったため、親としては少し不安な日々を過ごしている。
一人欠けると倅としては退屈になると思ったのか、何を考えてかジグソーパズルを買って里帰りをして来ました。昨夜はNHKの紅白歌合戦を観戦しながら、年越しそばを頂いた。
今朝は起きられれば初日の出を見ようかと思いきや、目覚めたのは7時を回っていました。新聞を取りに東向きの玄関のドアを開けると、眩しいほどの太陽の光が射しこんで来ました。思わず玄関先で初日の出を拝んでいました。
元旦の我家の行事は、ニューイヤー駅伝のテレビを見ながら、御屠蘇とお雑煮を頂く。今年は食事の後テレビを見ながら、ジグソーパズルに取り掛かる事に。絵柄は正月らしく「富士山」、パッケージから500ピースを取り出す、先ずは簡単な周囲のピースを並べて枠を完成そこから中に攻め込む。
しかしピースはどれも同じに見える。早々に絶望感が広がる。こんなのとても無理だ。年寄りには根気が欠如して来ている。後は倅に任せて届いた年賀状を見て、出していなかった人への年賀状を印刷。その間ジグソーパズルの富士山の姿が徐々に姿を現してきています。午後一時ごろには残り少なくなったピースが面白いように隙間を埋めて遂に完成しました。
ジグソーパズル「富士山」.jpg
(500ピースのジグソーパズルで見せる「朱に染まる絶景富士」)

ニューイヤー駅伝を見終えてから、初詣に出掛けます。朝から御屠蘇を頂いているので車は利用できませんから、例年通り歩いて神明宮へ向かうことに。昨日からずっと飲んだり食べたりで、運動不足気味に成っていますから、少し歩く必要が有ります。まずは新栃木駅前の郵便局へ回り、年賀状を投函。そこから駅東へ抜け、今泉保育園前から神田町へ。杢冷川の東雲橋を渡りそこから真直ぐ進むと目的の神明宮に至る。
神明宮は拝殿前から参拝者の列が伸びています、最後尾は昨年と同等大鳥居の所。
午後3時40分に列の後に付きます。行列のその先の神明宮拝殿の大屋根が新春の西陽を受けています。
初詣「神明宮」.jpg
(2019年最初の西陽を受ける神明宮拝殿の大屋根)

初詣を済ませて一路我が家への道を戻ります。歩いていると薄っすらと汗をかいて来ました。風も無く穏やかな新年の初ウォーキング。今日の歩数は11,217歩でした。
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