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下野市天平の丘公園の下野淡墨桜が満開に [自然の恵み]

今日、昼過ぎ頃から花曇りの天気から青空が広がり、気温もドンドンと上昇して来たので、桜の名所を何所か見てこようと、車で下野市の天平の丘公園に向かいました。
ソメイヨシノはさすがにまだだろうと思い、ここには色んな品種の桜が有るので、早咲きの桜をあてにしてきましたが、予想通り会場に着くとピンクの花を付けた木々が目に入ってきました。
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「史跡下野国分尼寺跡」近くの駐車場に車を止めて、ピンク色に染まる木々の有る方へ行くと、すでに桜の木の下では、花見の宴に興ずる一団が下りました。風もなく暖かい日差しの中、子供と芝生の上でボール遊びや、バトミントンをする家族連れなどで、元気な声が飛び交っていました。
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枝振りもよく立派な木が大きく広げた枝いっぱいに薄ピンクの花びらを付けています。何の品種か近くに立てられた案内板を確認すると「下野淡墨桜(しもつけうすずみさくら)」と紹介有れています。
淡墨桜3.jpg
「下野淡墨桜」の特徴は、ピンクのつぼみから淡白色に花が咲き、満開を過ぎるとうすずみをかけたような色に変わるところから名づけられた。3月下旬が見ごろ。と説明が有りました。
現在はまだうすずみ色に変わっていませんので、これからが本当の見ごろを迎える様です。
淡墨桜2.jpg
まだ五分咲き程の木々も有りますから、これからが一段と華やかになっていきます。
「天平の花まつり」会場には、この外にもすでに満開を迎えている木々が有りました。
神代桜.jpg山高神代桜.jpg
「神代桜」や「安行寒桜」などの品種が枝いっぱいに花を付けて華やかでした。
安行寒桜.jpg
天気予報では明日は朝から青空が広がり、花見に絶好の日和になるようです。
家の近くの巴波川小平橋の桜が、私の一番お気に入りの場所ですが、今日の陽気でグッと蕾も膨らんで、木全体も薄っすらとピンク色を帯びてきました。今週末が見ごろになりそうです。楽しみです。

 
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栃木市吹上地区の米山に登る [石碑]

栃木市吹上地区の米山は標高86メートル程、周囲約500メートルの小丘。周辺田畑の標高が60メートル程有りますから比高としては26メートル程になります。
米山遠望1.jpg
(赤津川に架かる平和橋上から上流側を望む。正面奥の小丘が米山です。)

近くの三角点は米山から北西650メートルの吹上中学校の校舎南側に有り標高は81.7メートルですから、米山の山頂は丁度吹上中校舎の2階ほどの高さになります。東側を赤津川が南流しています。山の南東側半分が野中町で、南側中腹に長宮神社が祀られています。この神社は明治40年10月15日吹上村大字野中の神饌幣帛料供進指定村社となっています。
長宮神社入り口.jpg
(米山の南端部に建つ長宮神社の石の鳥居)
長宮神社境内.jpg
(鳥居を潜り杉木立の中の参道を進むと高台に社殿が見えてくる)
神楽殿.jpg社殿.jpg
(中段部に建つ神楽殿)      (上段部の拝殿、左横に「水神社」等の境内社が並ぶ)

山の北西側半分は吹上町で、山頂近くには墓地が有り、中央部に米山薬師如来の石仏が祀られています。
この米山薬師は、この吹上の地に昔から住まわれている塩田家が一族の永遠の繁栄を祈願して、新潟県の上越市と柏崎市との境に聳える霊峰米山(標高993メートル)の山頂に祀られている米山薬師を勧請されたと云われています。米山薬師は三河(愛知県)の鳳来寺薬師と、日向(宮崎県)の法華嶽薬師と共に、日本三薬師の一つとして知られています。
米山薬師入口.jpg米山薬師.jpg
(米山薬師への階段と脇に建つ石碑) (山頂部墓地内に鎮座する米山薬師如来)

米山薬師が祀られている塩田家一族の墓地への入口は、米山の西側に有りました。周辺には最近新しい住宅が建てられ、以前は道路脇に建てられていた案内の石碑も現在は米山登り口階段脇に移されています。
上端が尖った自然石の案内の石碑には「日本三體米山薬師」「塩田一族之墓入口」、そして碑陰には「紀元貮千六百年 昭和拾五年五月 一族一同 式臺 本碑 建之」と刻されています。
「栃木口語り 吹上 現代故老に聴く」(野村敬子・原田遼・共編、2010年11月10日 瑞木書房発行)の書籍の中にこの米山薬師のお話が詳しく語られています。その中に≪米山の薬師様への石段は六十三段ですが、この六十三段は七×九で七難九厄をよけるとされています。登ることに意味があります。≫と述べられています。私も一段一段数えて石段を登ってみました。確かに63段を数えました。

墓地のほぼ中央に米山薬師が祀られています。薬師様はお座りになられ、両手で薬壺を持たれています。後方の大きな舟形光背には、「奉本願吹上村米山薬師」と「寛文四甲辰禾五月八日」の文字が並んで刻されています。寛文4年は1664年で甲辰の年で、今から355年前に建てられた薬師如来様です。

この塩田家墓地の一段高くなった右奥の墓所に大きな石碑が建てられています。
塩田家譜之碑.jpg碑銘.jpg
(塩田家墓地の右奥に建つ石碑)   (石碑上部の碑銘、篆書体文字が陽刻されています)

石碑上部の碑銘には「鹽田家譜之碑」と篆書体にて陽刻されています。碑文に目を移すと、先頭行に少し大きな文字で「鹽田氏畧譜碑」と、ただ本文は容易に読むことが出来ません。私の苦手な漢文の文章体で、どのように読んでいいのか皆目見当が付きません。見たこともない漢字を含めて646文字が整然と並んで刻されています。
最終行に、「明治三十九年九月二十九日  當家十一代孫奥造朝眞謹撰并書」と有り、この碑文が書かれた日付けと、文を作り清書した人物が「塩田奥造」であることがわかりました。
塩田氏畧譜碑(吹上町).jpg
(石碑の碑文部分を書き写してみました。難読文字も多く読み間違いも有りますが)

「塩田奥造」と言う人物に付いては、いまさら紹介するまでも無い、栃木市吹上町出身の偉人の一人です。
下野新聞社が昭和47年4月7日に発行した「郷土の人々(栃木・小山・真岡の巻)」より抜粋させて貰いますと、≪塩田は、吹上村の名主嘉門の長男として嘉永二年十月十五日に生まれた。壬生天狗党事件、出流天狗党事件のさい、吹上藩士として活躍、その後官軍に味方して会津戦争に参加している。明治にはいって五年に吹上村外九ヵ村の戸長となり、十三年県議、二十二年田中正造が議長のとき副議長をつとめた。二十三年新井とともに衆議院に打って出て三回当選した。しかし、ニ十七年の衆院選に敗れるとあっさり政界を去り、東京火災保険会社取締役となり実業界に入った。(後略)≫、その後も多くの銀行・保険・殖産等数々の事業に関係し活躍をし、昭和2年(1927)2月6日、79歳で亡くなられています。

米山よりの展望.jpg
(米山の山上からの展望)

米山からの展望は雑木が生い茂っている為、木々の間より吹上の町を垣間見る程度でした。
最後に米山薬師様にお参りして、山を下りました。

<今回参考にさせて頂いた文献>
・「郷土の人々(栃木・小山・真岡の巻)」下野新聞社・昭和47年4月7日発行
・「栃木人(明治・大正・昭和に活躍した人びとたち)」石崎常藏・2017年4月1日発行
・「栃木口語り 吹上 現代故老に聴く」野村敬子・原田遼・共編、2010年11月10日 瑞木書房発行
・「吹上地誌(中部編)」吹上地区まちづくり協議会・平成22年1月26日発行
・「吹上郷土誌」吹上尋常高等小学校・大正2年8月25日発行



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栃木市岩舟町小野寺の藤坂峠に建つ石碑 [石碑]

栃木市の中心市街地から西隣の佐野市葛生地区に自動車で抜けるルートは、現在3ルートが有ります。
ひとつは北東側から新会沢トンネルを抜けて会沢町に入る①「国道293号線ルート」、
新会沢トンネル.jpg
(国道293号線の新会沢トンネル。右側道路奥には旧「会沢隧道」有り。それぞれ一方通行)

二つ目は東側の柏倉町から、琴平神社が祀られている鞍掛山を越え長坂町に入る②「県道210号線ルート」、
琴平峠.jpg
(県道210号線鞍掛山の峠、佐野市と栃木市との境界)

そして三つ目は南東側の小野寺町から藤坂峠を越えて中町に入る③「県道282号線ルート」になります。
藤坂峠脇の石碑2.jpg
(県道282号線藤坂峠、佐野市と栃木市との境界)

これらの三つのルートを走って栃木市街地中心の倭町交差点から、佐野市葛生駅前までの距離と所要時間を私の車のカーナビにて検索してみました。
検索結果は、①国道293号線ルート:17.2kmで27分間。②県道210号線ルート:16.7km、31分間。③県道282号線ルート:16.8km、29分間。その違いは距離にして500メートル程度、所要時間も4分間程の差異しか有りません。
倭町交差点と葛生駅前との2点間の直線距離は11.4kmです。その最短距離に一番近いルートは、②の県道210号線ルートなのですが、鞍掛山の峠の標高が約310メートルと他の2ルートより高く、その為山間部ではヘアピンカーブなど含めて大小40か所のカーブを走るため、所要時間が一番掛かってしまう結果になりました。
一方走行距離が一番長い北回りの、①国道293号線ルートが、所要時間が一番短くなっています。ちなみのこのコースの標高の最高点は会沢トンネル部で約180メートル、一方南回りの小野寺町の藤坂峠の標高は一番低く約160メートルになっていました。

今回紹介する石碑は、この一番標高が低い小野寺町から佐野市中町に抜ける、藤坂峠の佐野市との境界手前、道路の右手脇の雑木の中に隠れる様に建てられています。
藤坂峠脇の石碑3.jpg
(県道282号線の道路脇、雑木に埋もれるように建つ石碑)

車を道路脇に止め、石碑の内容を確認するためガードレールをまたいで雑木の中へ。
石碑は道路から見えた物のほか、少し小さな石碑そして石仏3体が並んで祀られています。
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(雑木林の中に、大小2基の石碑と、馬頭観世音などと刻された石仏が建つ)

一番大きな石碑には「隧道竣工記念碑」そして碑銘の左横に小さく「栃木懸會議員野尻金一郎書」、その下に更に小さな文字で「石工小田鐵碩」と刻されています。碑銘の文字を記した「野尻金一郎」という人物は肩書に有る通り、昭和9年(1934)の県議会補選に当選し、同10年9月まで県政発展に貢献。同年12月推されて第12代小野寺村長となり、同20年(1945)12月まで務め、戦時下の最も困難で多難な時代の村政につくした人です。<石崎常藏著の「栃木人」より>
碑陰には工事に関係した人達の名前が列記されているようですが、雑木が石碑に覆いかぶさるようになって上部が確認できない状態です。下部に≪小野寺村長 野尻金一郎、仝前村長 越沼忠三郎、仝助役 栗原真三郎、仝収入役 阿部善三郎≫等31名の名前が確認できます。
隧道竣功記念碑1.jpg隧道竣功記念碑2.jpg
(碑面に「隧道竣工記念碑」と大きく刻くされている)(碑陰は雑木に覆われ確認出来ない)

その右隣に建てられた石碑には「殉難者之碑」の文字。碑陰を見ると、「昭和十年三月二十七日殉難」として4名の人の出身地と名前。又、「仝年七月八日殉難」として1名の名前が刻されています。そして左端に「建碑寄附者」として、「一金拾五圓也 佐野町 金井歯科醫院」、その下に「一金拾圓也 岩舟村 川島石材店」が確認できます。この隧道工事にて亡くなられた方々を慰霊する為に建てられた石碑です。
殉難者之碑1.jpg殉難者之碑2.jpg
(「殉難者之碑」と刻された石碑)       (碑陰には工事中に亡くなられた5名の名前が)

現在は切り通しになっているこの藤坂峠に、かっては隧道(トンネル)が造られていたことを、これらの石碑が伝えています。それではこの「藤坂隧道」は昭和10年頃に造られたようですが、何時また姿を消してしまったのか。
私の手元に国土地理院発行5万分1「栃木」の地形図が3枚有ります。それらを広げて見ると、明治42年発行の地形図には確かにトンネルは出来ていません。次の昭和32年発行の物に、小野寺の中妻を北上する道路が葛生町との境界線付近で破線で記されています。またその右横の境界線の両側にトンネルの記号らしき物が記されていますが、道路はつながっていません。そして三枚目の平成11年発行の地形図では、すでにトンネルは消えています。ただ道路東側に石碑の地図記号が記されています。

文章での説明が上手くないので、概略図を用意しました。中央の石碑記号のある場所が「藤坂峠」、峠の南西側に標高324メートルの諏訪岳、北東側にはかって標高344メートルの絹ヶ岳が有りましたが、現在は石灰採掘のため姿を消しています。そしてその絹ヶ岳の北麓に有った切通坂を越えて東西に通っていた県道126号線はその区間の通行が出来なくなってしまいました。
藤坂峠周辺概略図.jpg
(藤坂峠の有る佐野市と栃木市との境界付近の概略図)
※略図中、茶色で描いた道路は明治42年発行の5万分1地形図「栃木」を参考にしています。

藤坂隧道に話を戻します。殉難者之碑より隧道は昭和10年頃に完成したのは確かなようです。それでは何時消えたのか、それを確認する為、岩舟町の資料を調べてみました。そして判明しました。
まず、岩舟町が昭和49年3月に発行した「岩舟町の歴史」の中に掲載された年表を確認すると、≪昭和10年(1935)藤坂隧道開通≫の記載が有ります。又、同じく岩舟町が昭和52年(1977)に発行した「二十年の歩み 岩舟町合併20周年記念特集号」に掲載された年表に、≪昭和46年(1971)2月藤坂トンネル取りこわし工事≫の記載が有り、「姿を消した藤坂トンネル」と説明された「トンネル」の写真が掲載されています。
写真を見た限りでは、トンネルの幅や高さは分かりませんが、入り口側から出口側が見えることから、そんなに長くなかった(20メートル程か)様です。
なぜこの年藤坂トンネルが取り壊されたものか、その理由を記したものは確認できません。それ以降ここ藤坂峠は幅広の切通しと変わり、現在では多くのダンプカーが往来する道路となっています。
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南柏倉から皆川城内町を貫流して永野川に合流する藤川に架かる橋を巡る [栃木市の橋梁]

今回は、柏倉町から皆川城内町の中央部を貫流する川に架けられた橋を、巡りたいと思います。
川の名前は「藤川」。その源流は柏倉町の西の端、佐野市(旧葛生町)との境界を成し、琴平神社が祀られている鞍掛山(標高338メートル)の南麓の沢水になります。
琴平神社参道登り口.jpg藤川上流端.jpg
(琴平神社参道登り口)             (県道の北側山中に消えてゆく藤川最上流)
丁度琴平神社の参道登り口から東方向の皆川城内町に向かう県道126号線に沿って、「藤川」も東に向かって流れています。
県道126号線標識.jpg県道126号線.jpg
(県道126号線の路線標識)        (県道の右手を流れる藤川)

参道登り口前より少し県道を70メートル程下がって行くと、道路右手に鞍掛山北麓の沢と南麓の沢から流れ出た二筋の水の流れが合流しているのが、確認できます。
そこから更に600メートル程行った所で、これまで南側の山裾を流れていた「藤川」が、県道と交差して、道の左側(北側)に流れを変えますが、この所に架けられた橋が「柏倉橋(かしわくらはし)」です。
柏倉橋.jpg柏倉橋銘板.jpg
(柏倉橋より西方鞍掛山を望む)               (柏倉橋の橋銘板)

橋は特別な高欄は無く、白いガードレールが設置されているだけです。当初はこのガードレール部分に、嬌名と河川名の銘板が取り付けられていたようですが、盗難にあったのか現在は見当たりません。幸い橋桁に取り付けられている銘板は残っておりましたので、「柏倉橋」の嬌名を確認することが出来ます。
柏倉橋から300メートル程下ると、道路右手奥の山懐から一直線に水路が迫ってくるのが見える、「滝の沢」
です。土石流危険渓流の注意標識が立てられています。この沢水が藤川に落ちる地点で、藤川が県道の北側から南側に流れを変えます。ここに架かる橋の高欄も白色のガードレールで、表示版は何も設置されていません。ただ橋詰めに「一級河川最上端」と刻した石柱が目に留まりました。
橋の北東側に立派な長屋門を構えたお屋敷が見えます。
無名の橋1.jpg一級河川上流端の標柱.jpg
(橋詰に「一級河川上流端」の石柱が立てられた名前の分からない橋)

次の橋は250メートル程下がると現れました。そしてその先にもう一つ橋が架かっています。その間僅か40メートル程です。この場所で藤川の流れは県道の南側から北側に、そしてそこでU字ターンして、すぐまた県道の南側に流れを戻しています。
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(二つの名前表示の無い橋が連続する)    (県道北側でU字状に流れる藤川)

昔の道路はこの藤川の流れの北側を迂回していましたが、現在は橋を二つ架けて直線道路に成った様子が覗えます。
ここから100メートル程先に、栃木市の「ふれあいバス・皆川樋ノ口線」の折り返し点「南柏倉公民館前」バス停が左手に有った。更に500メートル程緩やかな下り道を進むと、県道から右手に折れて南側の打越(おっこし)の南麓に抜ける市道14266号がS字状に進み、その途中に藤川に架かる橋の高欄が見える。
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(県道から南側を望むと、S字状の道路上に橋の高欄が見える)

橋の元に向かうと、高欄の親柱に橋銘板が設置されているのを確認できます。
土橋橋銘板.jpg土橋橋銘板2.jpg
(藤川に架かる「土橋橋」の橋銘板)     (藤川なのに「柏倉川」と表示されている)

橋の名前は「土橋橋」、チョッと妙な感じのする名前ですが、恐らくこの名前はこの場所には以前は土橋が有って、地区の人達が「土橋」「土橋」と呼んでいた事で、新しく橋が架け替えられた時、そのまま命名したものと思われます。ちなみのこの周辺の小字名に「土橋」という名は確認出来ません。
もう一つ妙に感じたのは「橋銘板」にある川の名前です。「藤川」では無く「柏倉川」となっています。こちらも恐らく地元の人達はこの川は柏倉を流れている川であるから単純に、「柏倉の川」で「柏倉川」をそのまま使用したものと考えます。この藤川の支流で北柏倉地区を流れているのが「柏倉川」と呼ばれています。ですからそれを「北柏倉川」と、そしてこちらを「南柏倉川」と呼べばスッキリします。が、下流域で皆川城内町の流れはどう呼べば良いのか。基をただせば、なぜ「藤川」と呼ばれるようになったものか、それも疑問に思います。
一筋に流れる河川では、このように地域で名前が変わる例はいくつも有りますが。

ここから市道を進み次の橋を探します。次の橋は市道のすぐ左側の田んぼへ向かう場所に有りました。幅員が狭いので車では通行できません。この無名の橋を渡り、藤川の左岸の土手道を歩いていきます。
藤川の左岸を川沿いの土手道を進むと次の橋も無名橋、更にその次の橋も無名橋です。
無名橋Ⅰ.jpg無名橋Ⅲ.jpg
(藤川には地元の人達の農作業の便に寄与するため、小規模の橋が多く架けられています)

藤川の下流側の先に皆川城址の城山を望むことが出来ます。
この藤川はあの皆川城址の南側を流れています。先はまだ遠いです。
続く無名橋.jpg
(水田地帯の中を流れる藤川、下流奥に皆川城址の城山が望める)

県道126号線に戻り皆川城内町に入っていきます。次に藤川がこの県道と交差する所は、「醍醐橋」です。その間藤川にはいくつかの土橋が架けられていますが、農作業の便に寄与する程度の小さな「橋です。
一方この「醍醐橋」は高欄を備えたコンクリート桁橋ですが、残念ながら橋銘板などは見当たりません。
この橋の名前もどのような経緯で付けたものか興味があります。「醍醐」の意味を調べてみると、≪五味の中で最も美味い味、最も優れている≫と、なかなか立派な意味のようです。更に調べてみたいと思います。

次の橋は「伊勢屋橋」です。栃木市史民族編の中に「皆川宿」の絵図が掲載されています。「皆川小学校」の文字が見えますからいつごろの様子になるのでしょうか。この絵図の中心を右から左へ走る道路が現在の「主要地方道栃木佐野線」その北側の町屋の裏手を街道と並行して描かれているのが藤川です。
ここで現在の(有)日向野建設(絵地図では醤油醸造所・幸島本家)の前で北側に入る細い道路が有ります。
路地の左角には「造酒屋(幸島分家)」、右角には「いせや(旅籠)」、路地を進むと藤川に架かる橋が有り(現在の伊勢屋橋です)、橋を渡った左側に「うらいせや(旅籠)」が描かれています。
私が1982年1月に現地を巡った時撮影した写真が有ります。店の看板には「幸島商店」と見えます。
1982年1月撮影幸島商店.jpg元旅籠いせや跡.jpg
(伊勢屋橋に向かう路地西側角の家屋)    (同じく路地東側角に建っていた家屋)

なぜ「伊勢屋橋」と命名されたか理由は明快になりました。
1982年1月伊勢屋橋.jpg伊勢屋橋銘板.jpg
(かつての伊勢屋橋は今も変わりありません。左奥に金剛寺本堂が見えます)

次の橋は現在の皆川中学校の構内に架けられた「希望の橋」です。1988年3月に校舎側と川向こうのグランドとの間に架けられた歩道橋です。
希望の橋(1993年5月).jpg希望の橋銘板.jpg
(皆川中学校の校舎北側、グラウンドへ続く「希望の橋」 後方に皆川城址)

次の橋は皆川中学校の東側を北に抜ける道路に架けられています。「仲倉橋」です。現在の橋は1988年6月に架け替えられています。私が初めてこの地域の橋を撮影した橋の写真と並べてみます。
1982年1月仲倉橋.jpg2013年5月2日仲倉橋.jpg
(架け替え前の仲倉橋、皆川城址南麓に皆川中学校の校舎)(現在の仲倉橋)

次の橋は「落矢橋」で、現在の橋は2000年3月に架け替えられています。同様に以前の写真と並べてみます。
1982年1月落矢橋.jpg2013年落矢橋.jpg
(架け替え前の落矢橋)              (現在の落矢橋)

この橋の名前も興味があります。何か歴史的な物語がそこに有るのではと。
先ほどの仲倉橋ともの落矢橋との間で、北側から柏倉川が合流してきています。そして藤川はこの後大きく流れを南に変えて、県道に架かる「新皆橋」の下を抜けて南流していきます。
新皆橋3013年7月.jpg
(主要地方道栃木佐野線と藤川の交差点に架かる「新皆橋」、上流側から撮影)

主要地方道栃木佐野線を渡り藤川右岸沿いの道を歩きます。
新皆橋のすぐ下流側に橋名表示の無い小ぶりの橋が架けられています。現在の橋は他と同様白色のガードレールの有る形状ですが、私が初めて来た1982年1月の時はコンクリート製の高欄が有り、そこ橋の上で地元の子供たち数人が遊んでいる風景でした。最近は街中を歩いてもなかなか人の姿を見かける事が少なくなりました。
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(架け替え前の橋の様子)          (現在の橋、上を走るのは市道14254号線)

更に下流に向かって行きます。藤川はここで東北自動車道の下を抜けて、東にゆっくり流れを変えていきます。高速道路の両側には側道が設けられていますが、その側道もその西側で山にさえぎられて無くなるため、この側道を利用する人は多くないと思われます。私も高速道路のアンダーを抜けて南側の田園地帯に。藤川の左岸を進み、途中無名の橋を一つ過ぎて、藤川最下流に架かる「砂畑橋」に向かいます。
2013年5月2日砂畑橋上流橋.jpg2013年5月2日砂畑橋上流方向.jpg
(高速道路の南側、中央奥に写る建物は栃木特別支援学校)(砂畑橋より上流方向を望む)

「砂畑橋」は市道14232号線が通っています。まっすぐ北上すれば東宮神社の参道前に出ます。現在の橋は1981年2月に架け替えられています。橋の上から下流側を望むと、前方奥で北から流れてきた永野川の右岸に合流しているのが確認できます。
2013年5月2日砂畑橋より下流方向を.jpg
(砂畑橋の上より下流側、永野川との合流点を望む)

これで柏倉町から皆川城内町を横断するように流れてきた藤川の橋梁巡りを終了します。
最後に今回見て回った藤川流域の概略図を準備しました。文章では伝えられなかった姿を、別の角度から確認できればと思います。
藤川流域橋梁分布図.jpg
(藤川流域橋梁設置分布概略図。赤点が橋が架けられている場所を表しています)

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