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街路樹の百日紅の花が満開です [草花]

箱森町には栃木市街地から放射状に延びる10本の県道の内、3本が通っています。
町の東端を北に向かう県道37号(栃木粟野線)と、西端を西北西に向かう県道75号(栃木佐野線)、そしてもう1本は栃木インターチェンジの入口が有る県道32号(栃木粕尾線)で、町の中央部を北西方向に延びています。
そして今、この県道32号の道路の両側に植えられている街路樹の、百日紅の濃いピンクの花が満開にに成っています。
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今日、栃木市は4日ぶりに30℃を越え、湿度も高く蒸し暑い1日となりました。それでも8月も後2日、市内の小中学校は9月2日(月)が2学期の始まりと聞きました。秋はもうそこまで来ています。
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第7回栃木市民スポーツフェスティバルで地元を応援してきました [祭]

毎年8月に行われている、栃木市民スポーツフェスティバルが今日、4日間の日程を全日好天に恵まれ終了しました。
今年で第7回目となる今回の大会は、8月18日の日曜日に栃木市総合運動公園陸上競技場での開会式に栃木市長並びに栃木市議会議員各位、そして栃木市内各地域の選手役員等が参加して実施されました。
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(栃木市総合運動公園陸上競技場での開会式、選手団の入場行進)
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(大川栃木市長さんの主催者挨拶)      (大阿久市議会議長さんの来賓挨拶)
選手団の入場行進が行われている間、主催者側席に立つ「とちすけ」が、行進の音楽に合わせて、その短い脚を上げてズット一緒に行進の動きをしているのが、とてもかわいらしかったです。暑い日だったので大変だった事でしょう。

開会式終了後、さっそく総合運動公園体育館を主会場に、各種競技種目ごとに試合が始められました。出来るだけ多くの競技場に出向いて応援をしようと思いましたが、18日に行われた競技は、体育館で一般と小学生による、綱引き・玉入れ・長縄跳び。野球場では社会人軟式野球や壮年男子と一般女子のソフトボール。多目的広場では学童及び一般女子のフットベースボール。テニスコートではソフトテニス。と盛りだくさんで、応援できなかった競技も有りました。
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(社会人軟式野球)
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(一般女子ソフトボール)
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(一般女子フットベースボール)        (全員揃って拳を上げ勝利を喜ぶ選手たち)

19日月曜日にはゲートボールの種目だけが、泉川町の栃木市屋内運動場で行われました。
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(ゲートボールの試合会場、泉川町に有る屋内運動場)

24日土曜日も天候に恵まれ、野球場では学童の軟式野球。多目的広場にてグランドゴルフ。そして体育館主競技場にて一般女子と男女混合のソフトバレーボールが実施されました。
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(学童軟式野球)
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(多目的広場で行われたグランドゴルフ)
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(体育館主競技場のソフトバレーボール)

そして本日25日日曜日、朝の内は秋を思わせるような涼しい風が吹いていましたが、次第に暑さを増して体育館の中の競技は応援するのも少し大変でいた。そんな事を言うと、競技をしている選手に申し訳ないですが。
今日、大会最終日もこれまでの競技の決勝戦や、新たに体育館補助競技場で卓球(硬式とラージボール)。体育館主競技場にて一般女子バレーボール。テニスコートにて硬式テニスが行われました。又遠く離れた都賀町赤津の「赤津ターゲットバードゴルフコース」でターゲットバードゴルフの試合が行われましたが、こちらには応援に行けませんでした。
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(壮年男子のソフトボール)
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(体育館補助競技場では硬式とラージボールの卓球試合が行われる)
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(テニスコートの硬式テニス)
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(体育館主競技場で行われた一般女子のバレーボール)

各競技場では、選手たちが日ごろの練習の成果を発揮して、熱戦が繰り広げられていました。
最後に観戦した一般女子バレーボール(9人制)の決勝戦では、驚くほど粘り強いラリーの応酬で、応援しているこちらも拳に力が入り、見ているだけでなぜか疲れてしまうほどでした。結局フルセットの上最後も20点同点でジュースとなり、最後まで目の離せない試合でした。試合終了後は観客席から両方のチームに惜しみない拍手が贈られていました。
この市民スポーツフェスティバルが終わると、今年の夏も終わりを告げるようなそんな気持ちで、栃木総合運動公園を後にしました。

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山形県寒河江市に残る旧西村山郡役所と郡会議事堂 [建物]

先日、山形県をマンホールカード収集の為に訪れました。山形県には2013年4月に山寺(宝珠山立石寺)を訪れて以来になります。今回は東根市を始めに2・3カ所を巡り、寒河江市に向かいました。
寒河江駅前の観光案内図を確認すると、近くの寒河江公園の一画「さくらの丘」に郷土館を発見、せっかくここまで来たので、寄り道して見学をすることにしました。

寒河江市郷土館の建物は、旧西村山郡役所と旧西村山郡会議事堂という、2棟の県指定有形文化財で構成されています。
郷土館に到着したのは、午後2時30分を過ぎていたため、東向きの郡役所は太陽が西に傾き始めて、写真撮影は逆行状態になってしまいました。
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(旧西村山郡役所、正面より撮影)
この建物は、明治11年12月の竣工。案内板によると山形県内はもとより、全国的にも最も早い時期の郡役所の様です。
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(旧西村山郡役所、向かって左斜め方向より撮影)

では、この旧西村山郡とはどこなのか、山形県は大きく4つの区域に分割されています。北東側は新庄市を中心に真室川町、金山町、最上町、舟形町、鮭川村、戸沢村、大蔵村の「最上地域」。北西側は酒田市・鶴岡市を中心に遊佐町、三川町、庄内町の区域で「庄内地域」。県南地域は米沢市を中心に白鷹町、南陽市、高畠町、川西町、長井市、小国町、飯豊町の区域で「置賜地域」。そして県央部に位置する区域は、山形市を中心に天童市、東根市、尾花沢市、大石田町、村山市、河北町、寒河江市、西川町、大江町、朝日町、中山町、山辺町、上山市を含む地域でここが「村山地域」となる。

この村山地域が、明治11年(1878)に行政区域として、東西南北の4つの区域に分割発足しています。そしてその一つが、「西村山郡」ですが、この西村山郡を構成したのは、現在の「寒河江市」「河北町」「西川町」「朝日町」「大江町」の1市4町でしたが、現在も残る西村山郡は市制を敷いた「寒河江市」を除く前記の4町で構成されてます。
ちなみにこの明治11年8月には、栃木でも都賀郡が下都賀郡と上都賀郡とに分かれています。

太政官が「郡区町村編成法を布告したのが明治11年7月ですから、早くもその年の12月4日に、この郡役所の建物が建築されたことに成ります。この時の山形県令はその後、栃木県の第三代県令となった、「鬼県令」「土木県令」とも呼ばれた、三島通庸でした。

三島通庸(みしまみちつね)と山形県との関わりは、明治7年(1874)12月3日に酒田県令となったのが初めてで、その後三島は翌明治8年8月31日、坂田県を鶴岡県に改め、県庁を鶴岡に移しています。そして明治9年8月22日には、鶴岡・旧山形・置賜の三県を統一させた山形県を誕生させ、初代の県令となりました。

そして、旧西村山郡の初代郡長となった人は「海老名季昌(えびなすえまさ)」という人物で、幕末に会津藩家老を務めた人です。

話を建物に戻します。この建物はもともとは寒河江南町に有った寒河江代官所跡地に建てられています。現在地には≪明治初期の洋風建築の遺構として価値が高いことから移築復元して永久に保存することにしたものである。≫と案内板に記されていました。
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(旧西村山郡役所の説明板)

擬洋風建築は、一見洋風に見える建物に和風の意匠が取り込まれ上手く融合させた建物。
洋風意匠として、下見板張り壁、バルコニー、ファンライト、デンティル、玄関ポーチ・柱、上げ下げ窓など。
和風意匠として、垂木・装飾、幕板・装飾など。
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(下見板張り壁と上げ下げ窓)         (デンティル・軒蛇腹と垂木装飾)
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(郷土館内部展示の様子)

郡役所に向かって、左手方向に建つ旧西村山郡会議事堂
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(旧西村山郡会議事堂正面)

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(旧西村山郡会議事堂、向かって左斜め方向より撮影)

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(旧西村山郡会議事堂の説明板)
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郷土館内部の展示の様子。ドア上のアーチ状採光窓がファンライトです)

明治初期の建築物で空調設備など無い為、見学していても暑くて大変でしたが、担当の職員の方に館内を説明・案内して頂いたので、色々なお話を伺う事が出来ました。
山形県内にはこの様な明治初期の擬洋風建築の郡役所が他にも残っているとの事、機会が有ったら又山形県を訪れてみたいと思いました。
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栃木市道1009号線、都賀町大柿中郷に建つ石碑 [石碑]

今回の石碑は、栃木市道1009号線の道路脇に建てられています。と言っても、市道1009号線が何所なのか分からないと思いますので説明しますと、都賀町大柿を通過する国道293号を「大柿十字路」から西走すると、道路右手に野の花自然園「花之江の郷」、そこを通過すると右手に分岐する道路が現れます。この右手の細い道路が国道293号の旧道に成り、現在はこの分岐点を起点に市道1009号線と成っています。ここから逆川に沿って西走すると信号機のある丁字路が有りますが、市道1009号線はそのまま直進します。旧国道はここを左折していました。以前は直進方向には「この先行き止まり」の案内が有った記憶が有りますが現在は見当たりません。直進した先に「ハーモニーヒルズゴルフクラブ」への入口が出来た為でしょうか。丁字路をそのまま直進、ゴルフ場の入口を通過すると道路右側に薬師堂が現れます。
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(信号機の有る丁字路から600m、道路脇に建つ薬師堂。西側から撮影)

その先200mで逆川に架かる「中郷橋」を渡り更に250m進むと道路が少し北方向に向きを変えます、今回紹介する石碑はこの道路が方向を変える地点に建てられています。
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(道路脇に建つ石碑、道路はここから北北西に向きを変えています)

市道1009号線は更に北北西方向に遡ること1200m進むと、逆川に架かる「新野上橋」が現れます。
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(逆川に架かる「新野上橋」、左側の古い橋は「野上橋」です。北側より撮影)(橋銘板)

「新野上橋」を渡って200m先で、西方町真名子に入ります。西方町真名子に入って300m、逆川に架かる「真上橋」の上に達します。この橋の手前で分岐が有り右に折れる細い道が市道1009号線になります。この先は山を越えて1本北側の沢を流れる赤津川を渡り、栃木市立真名子小学校北側を東走して、県道37号(栃木粟野線)に突き当たります。しかしこのルートで都賀町大柿と西方町真名子間を通行するのは地元民がほとんどで、まさに地元の生活道路と思われます。私もこのルートで通過したのはこれまで3回だけです。一度は山の中を抜ける途中で、道路の前方に2匹の小鹿が現れ、私の車に驚いて山の中に逃げて行きました。西方町の真上や小沼では、こうしたシカやイノシシに田畑を荒らされるのを防ぐために、田畑の周囲に電気柵をめぐらしています。

尚、分岐を直進して「真上橋」を渡る広い道路は、市道2006号と名称が変わり、西方町真上を山の奥に進んでいきます。
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(逆川に架かる「真上橋」を北側から撮影。)                  (橋銘板)

「真上橋」を渡って市道2006号を1700m程進むと、前方には砕石工場が現れ、道路はその工場の中に入って行く様な感じと成る為。道路の探索はここまでとし、引き返すことに。
工場敷地入口に架かる逆川の橋の脇に「一級河川上流端」の石柱が建てられています。
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(市道2006号の先に現れる「大和砕石(株)真名子工場」)

平日にこの真上への道路に入ると、この砕石工場関係のダンプカーが引っ切り無しに通行していますが、日曜日に訪れるとダンプカーの姿は消え、ほとんど車の通行は無くなります。

以上の文章での説明ではなかなか上手く言い表せていないので、逆川流域の概略図を作成しました。
逆川流域概略図.jpg
(逆川流域概略図)

それでは市道1009号の脇に建てられた石碑をジックリ観察します。
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(石碑の表面中央に大きく竣工記念碑と刻されています)(碑陰には碑文が刻されています)

石碑正面右側には「中郷野上線道路改修」、中央に大きく「竣工記念碑」、そして左側に「昭和五十三年九月吉辰」そして「勲五等土屋大□書」と刻されています。碑陰には碑文が右半分に、そして左側半分に「土地提供者」や「記念碑建設委員」「寄附者芳名」などが刻されています。
碑文は読みにくかったですが何とか読めましたので、書き写してみました。
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(碑陰に刻された碑文と関係者の名前一覧を書き写しました)

碑文冒頭の「中郷野上両部落」は、都賀町大柿の地名。続く「幹線道路延長2,476米」に相当するのは、信号機の有る丁字路から西方町真名子との境界までの距離に相当します。
この道路改修によりそれまで劣悪な環境に有った町道が改善されたことが、碑文に記されています。

この石碑の外に市道1009号の先、真上橋を渡って進む市道2006号の道路脇にも同様の竣工記念碑が建てられていました。石碑正面右側には「都賀真上線村道改修工事」と有ります。
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(西方町真上、市道2006号脇に建つ「竣工記念碑」)

碑陰に事業概要が刻されていますが、その中に「工事延長 二千七十米」と有りますが、この距離は市道1009号の西方・都賀の境界から、真上橋をわたり市道2006号をずっと遡って、大和砕石(株)真名子工場までの距離に相当します。
これら2基の石碑により都賀町大柿宿坪の丁字路から大和砕石(株)真名子工場に至る約4,500mの道路の改修の歴史を今、振り返ることが出来るのでした。
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今日からマンホールカード第10弾が配布開始しました。 [マンホールカード]

これまで4ヶ月間隔で新しいマンホールカードが追加配布されて来ていましたが、今年4月の配布がシステム変更の都合とかで延期された為、昨年12月の第9弾から8ヶ月が経った今日8月7日、待望の第10弾が配布開始されました。
この第10弾で新たに配布されるマンホールカードは、47自治体61種類との事。
我が栃木県内では、宇都宮市と鹿沼市の2種類が新たに加わりました。

早速、宇都宮市と鹿沼市とを回って、この2枚をゲットして来ました。
宇都宮市2マンホールカード.jpg鹿沼市マンホールカード.jpg
(今日ゲットした、宇都宮市と鹿沼市が第10弾にて配布を開始したマンホールカード)

宇都宮市の配布場所はJR宇都宮駅構内の「宇都宮市観光案内所」の為、駅前の駐車場に車を止めて行きました。県都の表玄関に位置する為途中交通渋滞で時間をロスしましたが、幸い一番近くの駐車場が空いていたので20分以内で済み、駐車料金も掛かりませんでした。
それでもシッカリ「餃子像」を写真に収めてきました。実際の餃子をデザインしたマンホール蓋の設置場所は宇都宮市の中心「二荒山神社」の直ぐ東側、宮島町の老舗餃子店などが立ち並ぶ「餃子通り」です。今回は時間が無かったので、前に餃子を食べた時に撮影した写真を添付いたします。
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(JR宇都宮駅西口バスロータリーの2階に建つ「餃子像」)(設置場所の餃子通り)

次は鹿沼市の配布場所、「まちの駅、新・鹿沼宿」を目指します。
宇都宮から鹿沼街道を西走する事40分程で到着、夕方5時半を回っていたのでこちらの駐車場も空きが有りました。本館内の案内処で無事にカードをゲットしました。
カードに描かれているデザインマンホール蓋の設置場所は、まちの駅から南へ50メートル程の石橋町交差点北東側歩道上に有ります。
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(「まちの駅新鹿沼宿」駐車場入口に建つ常夜灯)(設置場所の古峯原宮通り北側歩道)

今回の第10弾では、お隣茨城県で4種類、群馬県で1種類、埼玉県が3種類、福島県1種類が新たに加わりました。又、計画を立てて収集して行きたいと考えています。

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「道の礎」に刻まれた歴史の一コマ [石碑]

東北自動車道栃木インターチェンジ出口から県道栃木粕尾線に出て左折、直ぐ東北自動車道の下を潜り抜けると、右手側道の脇に少し雑木が茂っている。
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(通称鍋山街道を北上して、東北自動車道の下を抜けた右手側道脇に雑木が茂る)

雑木に隠れる様に一基の石碑が建っています。雑木の右側は東北自動車道の側道で、その右手奥に見えるこんもりとした小丘が、吹上町と野中町との境が山頂を通る米山。そしてこの石碑の建つ場所も野中町ながら、直ぐ北側の田んぼは吹上町と言うロケーションになります。

今から4年前の、2015年11月29日に撮影した頃は、まだ雑木も小さく石碑の姿は見えていました。
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(2015年11月29日撮影、東北自動車道側道脇に建つ石碑)

以前に撮影をした石碑の写真には、石碑の表面に雑木の枝が枯れた状態でこびり付いていますが、何とか碑文を読むことが出来ました。石碑上部の篆額には篆書体文字が陽刻されています。最初は何んと書いてあるのか全く分からず、調べて行くうちに右から左に「道の礎」(みちのいしずえ)と記されていることが分かりました。この篆額の文字を記した人物は、この石碑が建てられた昭和47年(1972)11月当時の栃木市長だった、柴新八郎氏です。
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(石碑前景と石碑上部篆額部分。2015年3月11日撮影)

碑文を読み移しました、文末に昭和四十七年十一月吉日東北自動車道吹上地区地権者会と記して締めています。比較的新しい石碑で、現代仮名遣いの文章で、私にも容易に読むことが出来ます。
石碑には直ぐ脇を走る東北自動車道が計画され竣工開通するまでの間、地元地権者の対応が記されています。
≪昭和41年10月通過路線が確定発表されたが地区民の予想に反して美田の中央を縦断した為一同驚愕憤激し路線の変更を叫び猛反対運動を展開した≫と、ではその当時地元吹上地区の人達が描いたルートはどんなものだったのでしょうか。確かに岩舟小野寺地区から皆川小野口地区はそのルートの大部分が、太平連山の西側から北側の山裾を縫う様に通っています。又、都賀地区から西方地区も観音山から西方城址の有る城山の東側の山裾を走っています。それに対して皆川地区の東部から吹上地区の全ルートに関しましては、ほとんどが開けた田んぼの中を通過しています。
元々栃木市の周辺は豊かな水田が多く、その為工業団地造成も思う様に進まない土地柄でしたから、この東北自動車道路で多くの田んぼが潰れるのは、どれだけ無念な思いだったものか。その気持ちが碑文の最後に見られました。
≪思うにこの道の礎は正に父祖の培いし流汗の農地である 茲に国土開発と地域発展に寄与する為先祖伝来の土地を提供し併て地権者会の活躍を後世に伝えるためこの碑を建立する≫と。

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(碑文部分を読み、そのまま書き写してみました)

東北自動車道と北関東自動車道の交差する、この栃木市に生活する一人として、東西南北のどこへでも容易にアクセスする事が可能になっています。この便利さを享受出来る幸せをもっと感謝しなければならないのかも知れません。「道の礎」と記された石碑は、そんな事を思い起こさせるものでした。
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