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永野川の洪水被害に思う [栃木市の河川と橋]

10月12日から13日、関東地方を縦断した台風19号の豪雨により、栃木市内に甚大な被害が発生してしまい、多くの人達が一夜にして、通常の生活を奪われ、今も不自由なつらい生活を送っています。
その中でも、永野川流域では多くの箇所で、堤防の決壊や越流により、大量の泥水が市街地に流れ込んでしまいました。
JR両毛線永野川鉄橋右岸の線路部分が被災.jpg
(JR両毛線永野川鉄橋脇右岸の土手が決壊、線路の盛土が流失しレールが宙吊り状態に)
二杉橋下流左岸堤防決壊.jpg
(二杉神社下流の永野川左岸の土手が決壊、緊急対応として大型土嚢を積み上げています)
錦着山西側付近.jpg
(錦着山の南西側に永野川の水が流入し、道路やフェンス等が破壊されている)
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(栃木工業高校北側の永野川河川敷内の木々に、多くの瓦礫が引っかかっている)

これまでも永野川の氾濫では、幾度となく橋の流失や洪水被害を起こしています。しかし、私の70年余の人生で経験した中では、今回はこれまでで一番大きな被害となりました。
私の高校時代は、永野川の上人橋を渡り栃木工業高校に通学していましたが、その時も台風で上人橋の一部が流失、通行する事が出来なくなりました。復旧するまでの間、下流の高橋を渡って通学した事は、今も忘れられません。
上人橋左.jpg上人橋右.jpg
(前方の橋が改修工事中の上人橋。永野川右岸の土手上の道が通学路でした)

特に私が3年間学んだ栃木工業高校が、2015年9月の豪雨被害から、やっと立ち直った矢先、今回又も被害を蒙ったとのニュースを見聞きし、何とも悔しく、つらい思いで一杯になります。
私が通っていたころの永野川流域は人家も少なく、河川敷も今の様に整備されてなく、雑木が生い茂っていましたが、永野川が氾濫して校庭に濁流が侵入して来ることなど、夢にも考えていませんでした。
1966年上人橋周辺(錦着山頂より).jpg
(私が通学していたころの永野川、上人橋付近の風景。錦着山上より撮影)
1968年撮影栃工校全景.jpg
(私が通学していたころの栃木工業高校周辺の風景。南側遊覧道路より撮影)
1975年撮影栃工校全景.jpg
(栃木工業高校全景、錦着山上より撮影。あの頃は平和だったのに)

その当時から比べれば、永野川の堤防も立派になって来ていると考えられるのですが、それが逆に被害が発生しやすくなっているのは、永野川上流域の開発に伴い、川に流入する雨水が増加した為か、もっと大きくみると、地球環境の変動によるものなのだろうか。地球温暖化により、日本近海の太平洋の海水温上昇で、日本に接近する台風がこれまでより成長、。今回の台風19号がまさにそうした背景に因るものなのか。
そう考えて行くと、このままでは同じような被害が今後も繰り返されると、考えなければならない。とんでもない事です。

永野川は巴波川の支流と言われますが、川の流域は圧倒的に永野川の方が広くて長くなっています。その上流は鹿沼市の山中深く百川渓谷まで遡ります。
今回の台風19号は、栃木県の北西側山間部に多量の雨を降らしました。その結果足尾山地の沢水を源流とする、旗川や秋山川、永野川そして思川の下流域が増水・氾濫しています。

今後の対策として、どんな事が有効なのか。これまで巴波川流域で行ってきた遊水池の確保も、その一つですが、栃木市街地の巴波川の氾濫を見ると、それも完全では無いことが今回明らかになりました。
土手の高さをもっと高くする事も考えられますが、これは流域全体を考えないと、一部高くするとその場所の前後に被害をもたらしやすくなります。昔から土手の嵩上げは利害関係が絡んで、容易な事では無いと聞いています。
まして巴波川を観光資源としている栃木の中心部は土手の嵩上げは、抵抗が有ります。それでは、宇都宮市の中心を流れる「釜川」の様に、川を二段にして、上の水位が上がったら、オーバーフローをさせて、下段の水路に逃がす構造にするか。
永野川の場合はその流域に大規模な遊水池を確保するとか。今と成っては遅いが千塚町の産業団地の様な場所は他にないのだろうか。
早急に、栃木県や栃木市そして市民の総意を結集して、河川改修を進めなければ、又、今回と同じような被害を出してしまうと恐れます。
自然の力に対抗するためには、みんなの力を結集して当たらなければ、到底かないません。


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永野川に架かる「諏訪橋」のこと [栃木市の河川と橋]

先日、東日本の多くの河川で、大きな爪跡を残した台風19号。栃木市内では大平町蔵井を流れる永野川に架かる「諏訪橋」が、増水した水の勢いで橋脚1カ所が流出、そこに架かっていた橋桁2本が水中に落ちてしまいました。
諏訪橋(2019年10月).jpg諏訪橋(2019年10月)流出.jpg
(橋桁2径間が流失した「諏訪橋」。橋長51.5m、幅員3.5m、複合橋)

この「諏訪橋」は昭和9年(1934)に架設されたもので、現在栃木市内の巴波川・永野川に架かる橋の中で3番目に古い橋と成っています。ちなみに1番古い橋は、巴波川に架かる「嘉右衛門橋」で昭和2(1927)の架設です。
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(昭和2年架設の嘉右衛門橋。橋長13.1m、幅員5.4m、鋼橋)

2番目は同じく巴波川に架かる「倭橋」で昭和5年(1930)架設です。
倭橋.jpg
(昭和5年架設の倭橋。橋長13.6m、幅員5.2m、鉄筋コンクリート橋)

3番目の昭和9年(1934)に架設された橋は、5ヶ所に成ります。その内巴波川には「巴波川橋」とその下流の「相生橋」の2橋が残っています。
巴波川橋.jpg相生橋.jpg
(昭和9年架設の巴波川橋。橋長14m、幅員5m)(同じく相生橋。橋長14.1m、幅員5.5m)

一方永野川には、今回被害を受けた「諏訪橋」の外に「両明橋」そして「千部橋」の3橋が有りますが、3橋共大平町に成ります。
このうち「千部橋」は、前回2015年の豪雨の際に一部が流出しましたが、復旧されています。
又、「両明橋」は幸いにも2015年8月、豪雨被害が発生する前月に修繕を終えた為、被災を免れています。
千部橋.jpg両明橋.jpg
(昭和9年架設千部橋、前回流出部は補修された。)(同じく両明橋。2015年8月修繕が行われた)

巴波川の「嘉右衛門橋」など4橋が架かる場所の川幅は14メートル程度なのに対して、永野川に架かる3橋は橋長が50メートルから60メートルと長い橋でした。
したがって、今回流出した「諏訪橋」は悪条件の中一番寿命を保った橋と言うことに成ります。この古い橋が今まで残っていた要因としては、橋の幅員が3.5メートルと狭く、橋を通る市道21118号線は永野川左岸蔵井の県道蛭沼川連線を起点とし、橋を渡った右岸の橋詰までの道路で、自動車は殆ど通行せず、近くの大平中学校の生徒さん達が自転車通学するのに、現在主に利用されている橋だからでしょう。
「諏訪橋」が利用できなくなってしまった為、生徒さん達は下流の県道が通る「山下橋」を回りこむ必要が有ります。そちらは交通量が多い為、注意して通学して貰いたいです。

この「諏訪橋」は橋の中央部から左岸側は鋼橋(1径間)、右岸側は鉄筋コンクリート橋(4径間)と言う、複合橋でしたが、昭和9年架橋当初からこの様な変わった形式だったとは思われませんので、初めは両明橋などと同様の鉄筋コンクリート製の橋であったものと思われます。
諏訪橋(2015年4月).jpg
(被災前の「諏訪橋」、下流側右岸より撮影)

それが、後に今回と同様の原因で、橋の左岸側の部分が流出して、現在の様な鋼橋部分に改修されたものと思われます。それがいつごろの事か分かりませんが、私が初めて諏訪橋の写真を写した昭和57年(1982)1月には、現在の姿に成っていました。
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(昭和57年1月に上流から撮影した「諏訪橋」、左奥の森は蔵井の元村社諏訪神社)

今回の台風で栃木市内は甚大な被害を蒙りました。4年前の豪雨で被災した時、50年に1度と言われました。ですから今回の台風接近でも、どこか前回の様には成らないと思い込んでいました。しかし、今回の災害は100年に1度の規模だったと言う。もし来年も同様の災害が発生したら、今度は200年に1度、いや千年に1度となるのか。
このような被害を二度と起こさないために、どんな対策が必要なのか、今回の被害実態を詳しく分析して、対策を進めて頂きたいと願うばかりです。
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たった4年で50年に1度クラスの災害が再発、栃木市の巴波川 [栃木市の河川と橋]

昨夜は、台風が通過するまで不安で深夜まで、家の脇を流れる清水川の水位を注視していました。
清水川は巴波川の支流で、幅約2メートル護岸の高さ約1メートル弱のU字型のコンクリート製の水路です。
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(箱森町から柳橋町へと流れる清水川、両岸には水田が残っています)

普段は水深は5センチメートルにもなりません。初夏にはカルガモの親子が歩いて行き来する風景も見られます。
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(今もカルガモの親子が散歩する姿が見られる)

その水路が、2015年9月10日の豪雨では、私がここに居を構えて初めて水位が護岸を越えて溢れました。幸い家の対岸は水田が残っている為、水路から溢れた水はそちら側に流出する為、我家には被害は有りませんでした。
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(2015年9月10日の豪雨で水田に溢れた清水川)

ですが、今回の台風16号は超大型でこれまでに無い雨や風が発生するとの情報で、事前の対策の必要性が叫ばれていました。我家でも、家の中に飛ばされそうな物は回収、非常食、車のガソリンは満タンに等々、対策を打って台風の通過するまで、家の中で待機していました。
雨が次第に強くなり、清水川の水位も徐々に増してきました。
台風の通過予定は、夜の9時頃から日付けが変わる頃との予報で、テレビニュースが伝える各地の様子を見ながら、万が一の事を色々想定、雨戸は閉めたが2階の出窓が風で飛ばされてきた物でガラスが割れたら、その時はどうするかとか。
夕方を過ぎて次第に辺りが暗くなって、清水川の水位を観察するのが難しくなる。まだ10センチメートルの余裕が、いや、後10センチメートルで溢れてしまう。これ以上水位が上がらない様に願う。水量が増えると共に流れも激しくなって来たように思える。
テレビニュースの台風の現在地が気になる。思う様に進んでいない。まだ伊豆半島あたりだ。
突然テレビの画面が暗くなった。停電に成ってしまいました。すぐに用意した懐中電灯を使う。電気が使えなくなると不安が一層増してくる。こんな状態が何時間も続いたらと不安になる。前回の15号台風で被害に会われ何日も停電の中で過ごした千葉県の被災者の皆さんのご苦労が改めて大変な事で合ったとつくづく思い知らされました。
清水川の水位を雨戸を少し開けて確認する。雨が吹き込んでくる。外はすっかり暗くなって川面がハッキリ確認できない。
停電が解消されたので、テレビニュースで情報収集。栃木市の避難勧告が出ている。ここは土砂災害警戒区域には成っていない。巴波川・永野川流域の浸水想定区域にも指定されていない。4年前も何んとか被災を免れている。このまま家で待機する。
深夜近くなると、風はまだ吹いているが、雨は止んで少し静かになった。注意して外に出て、懐中電灯で家の周りを点検。清水川はすでに溢れて対岸の水田も、我家の脇の青地もすべて川の様にゴウゴウと水が勢いよく流れている。まるで幅40メートルも有る川が出現したように見える。これは4年前の豪雨の時よりも悪い状況に思えた。この状態が更に悪くなるのか、これで収まるのかまだ予断を許さない。

日付けが変わって10月13日、午前1時頃もう一度状況把握に外に出てみた。
清水川はどうなったか。暗闇の中懐中電灯の光の先に、ゴウゴウと波立って流れる景色は変わっていない。
水位は下がっていないが、増加もしていない。雨もあれから降っていないので、これ以上悪くならないだろうと判断した。

気が付いたら朝を向かていた。青空と太陽の光が見えた。すぐさま清水川の様子を見に行く。
対岸の水田は、稲刈りの後で水を蓄えて、まるで田植えを終えた様な風景が広がっています。
水路もすっかり水位を下げていました。ただ濁った水が勢いよく水路の中を流れています。
清水川(今日)2.jpg清水川(今日).jpg
(深夜溢れた清水川も朝には半分ほどに。稲刈り後の田圃はまるで田植え後の様に)

昨夜のニュースで巴波川は小平町で水が溢れ出ている。と言っていた。4年前の豪雨と同じ状況なのか。
又、永野川では下皆川で越流が発生しているとの情報も。
翁島脇を流れる巴波川.jpg沖の橋上流側.jpg
(水が溢れて流出した、小平町翁島付近の今朝の様子、まだ大量に水が流れていました)

今朝のニュースではその状況が更に悪化して。死者が出てしまった所も。永野川の諏訪橋(大平町蔵井)が流失。その他各地で道路が冠水して通行が出来ない所が多発、交通渋滞が起きていると言う。
更に、浄水場が機能停止して、栃木市・大平町の一部で断水が発生しているという情報も出た。

なぜ、こんな被害が、改めて自然の計り知れない力に、脅威を感じるばかり。

栃木の街は昔から毎年のように、洪水の被害に見舞われていました。その様子は栃木市室町の片岡写真館第二代館主、片岡武氏がその命を懸けて記録した多数の写真で知る事が出来ます。
それを昭和26年、栃木街に流れ込んでいた赤津川の流路を変更して、吹上町新田橋付近より南流させ、錦着山北西部にて永野川に落とす赤津川分水路工事が竣工して以降は、以前の様な洪水の発生は無くなったと言います。実際、私が物心付いてから、4年前の大洪水が起きるまで、洪水被害を感じた経験は一度も有りませんでした。
それが僅か4年で再発するとは、正直言って考えられませんでした。
この間、巴波川の上流域には、新しい遊水池も完成して、巴波川の水位が上がった時には、越流堤から遊水池に水を溜める様に対策を進めて来ています。
今朝、これらの遊水池を見て回りましたが、それらの遊水池には水はそれほど溜まっていません。深夜には恐らく満々と水を蓄えていたと思われます。下流側への水の流出量を一時的に減少させる効果は出ていると思われますが、下流側栃木の街は多くの道路が冠水、商店街は軒並み店内に水が流れ込んでしまいました。
第4遊水地.jpg第4遊水地2.jpg
(第4遊水池、中央に越流堤、右が巴波川)    (第4遊水池を上流方向から)
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(第6遊水池、下流側から)            (第6遊水池、上流側から)

今回の様に長時間雨が降り続けると、こうした洪水は防ぐことが出来ないのか。まだほかに対策する方法は無いのか。素人の私には考えが及びません。


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太平山神社表参道(通称あじさい坂)登り口脇に建つ石碑 [石碑]

栃木県立自然公園のひとつ、太平山(おおひらさん)自然公園は栃木市域のほぼ中央に位置する、標高341メートルの太平山を中心とした自然公園ですが、その山上に鎮座する太平山神社の表参道登り口(通称あじさい坂)の道路脇に建つ石碑を調べました。
石碑全景.jpgあじさい坂登り口.jpg
(太平山あじさい坂登り口左脇に建つ石碑) (あじさい坂登り口、今は緑が溢れています)

石碑後方にビッシリと並ぶ赤い幟旗は、通称六角堂として知られる太平山連祥院(たいへいざん れんしょういん)に奉納されたものです。
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(六角堂、堂内にはご本尊の虚空蔵菩薩や愛染明王像、不動明王像が安置されています)

石碑の近くに寄ってまず上部の篆額を確認します。
「故田村代議士記念碑」と陽刻されています。この題字を書かれたのは碑文最後、日付け「昭和二十七年四月十五日」の下に、「衆議院議長 林譲治 篆額」と刻されています。
「林 譲治」という人物は、高知県宿毛町出身の政治家で、この石碑を建てた当時第41代の衆議院議長(昭和26年3月13日~昭和27年8月1日)を務めていました。
碑文は紀念碑建設委員会の撰文。書は「臨江閣主 片柳香遠 敬書」と文末に記されています。

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(石碑上部篆額、「故田村代議士記念碑」)  (碑文部分拡大写真、漢字とカタカナの文章)

碑陰を確認してみると、石碑の上半分程に「寄附者芳名」として、寄附金額と寄附者の役職・名前がずらっと並んで刻されています。又、下半分には「建設委員」の役職・名前が同様にずらっと並んでいます。
そして、石碑左下部分に大きな文字サイズで、「建設委員長 撰文起草者 松永和一郎」と、副委員長2名の名前が刻されています。
この「松永和一郎」という人物は、小野寺村(現栃木市)出身の政治家で、大正9年10月から大正12年9月まで県会議長を務めています。
碑文を書いた「片柳香遠」という人物に付いて、「臨江閣主」と石碑に刻されていますが、「臨江閣」をウィキペディアで検索すると、≪臨江閣(りんこうかく)は、群馬県前橋市大手町にある、近代和風建築の迎賓施設。本館、別館、茶室は国の重要文化財に指定されている。≫と、記されています。
「閣主」と言えば、そこの主(あるじ)と言うことに成るのでしょうが、「臨江閣」が当初群馬県の迎賓館との位置づけで、市内の有志らの協力と募金で建てられた公館とすれば、その館主役を担っていた人物だったのか、ハッキリしません。
昭和39年11月1日号の「とちぎ市政だより」の記事の中に、この「片柳香遠」と言う名前が有りました。
記事のタイトルは「歳末たすけあい運動第一号」・「趣味の揮毫展示会」と言うもので、栃木市文化協会と公民館との共催で、市内に住んでいる絵画、書道、文芸等の同好家約四十名が、色紙や短冊に揮毫し、これを展示即売して、その益金を歳末たすけあい運動に寄附するという中に、書道家のひとりに「片柳香遠」さんの名前が出ていました。

さて、肝心のこの石碑に記された「田村代議士」という人物に付いて、碑文を読んで行くことにします。
建立が昭和27年(1952)と言うことで、私が生まれた時より後に建てられた、若い石碑ですから、まだ風化も少なく文字はハッキリと読むことが出来ました。漢字とカタカナの送りで読むのも違和感が有りませんでしたが、文中に見慣れない漢字が何カ所かありました。
色々と調べて行くうちに、「口編に人」と言う字が「以」であることや、国構えの中にカタカナの「イ」が2個並んで入っている文字が「四」であることが、やっと解明出来たりと、手こずりました。それでもまだ読み解けない文字や雑草に隠れて見えない部分等が残りましたが、碑文の内容は解明できました。
以下に碑文と碑陰の内容を読み移した結果を添付します。
碑文はカタカナ部分はひらがなに変え、解明した繁体字などは新字体とした。又、碑陰については、寄附金額については削除しました。

碑文読み写し.jpg碑陰読み写し.jpg
(碑文を読み移しました)            (碑陰、寄附金額欄は削除しています)

石碑の人物「田村順之助」は、安政5年(1858)8月17日に栃木県下都賀郡水代村、田村政七の長男として生まれました。
藤森天山や松本暢に学ぶと有りますが、天山は文久2年(1862)10月8日に亡くなっていますので、その時順之助はまだ4歳の子供でしたから、松本暢から多くを学んだものと考えます。
松本暢や川連虎一郎は大平町出身の勤王の志士ですが、ともに藤森弘庵(天山)の門人でした。
こうして熱烈なる自由民権信奉者となり、明治17年(1884)加波山事件に連座して投獄されています。出獄後は栃木県議会議員に当選、明治23年11月から明治25年3月まで副議長として県政の刷新振興に尽くされました。
明治25年以来衆議院議員に当選12回、在職通算25年の長きにわたって国政に参画しています。
昭和14年1月19日、81歳で亡くなられていますが、その晩年は家政を顧みる事も無く政治活動に没頭していたため、資産を使い果たし酷い貧乏の身となり、更に配偶者や子供に先立たれ、全く孤独の身となられ寂しく他界された様子が、碑文に刻されています。

碑陰に刻された建設副委員長の一人、「田村恭助」氏は田村順之助の本家筋の人物で、父親はビール醸造用大麦の国内需給をはかり、栃木県のビール麦生産量のシェアを全国トップクラスの基礎を築いた、田村律之助で、田村恭助氏は石碑建立当時水代村村長を務めていました。
尚、この太平山あじさい坂の中間点辺りには、田村律之助の胸像も建てられています。
田村律之助胸像.jpg
(太平山あじさい坂の途中に建てられた、田村律之助の胸像)

今回参考にさせて頂いた資料は、「大平町誌」(発行大平町)、「栃木人 明治・大正・昭和に活躍した人びとたち」(石崎常蔵著)、「とちぎの天台の寺めぐり」(天台宗栃木教区宗務所編)、「ウイキペディア」、「とちぎ市政だより」です。
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