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太平山神社表参道(通称あじさい坂)登り口脇に建つ石碑 [石碑]

栃木県立自然公園のひとつ、太平山(おおひらさん)自然公園は栃木市域のほぼ中央に位置する、標高341メートルの太平山を中心とした自然公園ですが、その山上に鎮座する太平山神社の表参道登り口(通称あじさい坂)の道路脇に建つ石碑を調べました。
石碑全景.jpgあじさい坂登り口.jpg
(太平山あじさい坂登り口左脇に建つ石碑) (あじさい坂登り口、今は緑が溢れています)

石碑後方にビッシリと並ぶ赤い幟旗は、通称六角堂として知られる太平山連祥院(たいへいざん れんしょういん)に奉納されたものです。
六角堂.jpg
(六角堂、堂内にはご本尊の虚空蔵菩薩や愛染明王像、不動明王像が安置されています)

石碑の近くに寄ってまず上部の篆額を確認します。
「故田村代議士記念碑」と陽刻されています。この題字を書かれたのは碑文最後、日付け「昭和二十七年四月十五日」の下に、「衆議院議長 林譲治 篆額」と刻されています。
「林 譲治」という人物は、高知県宿毛町出身の政治家で、この石碑を建てた当時第41代の衆議院議長(昭和26年3月13日~昭和27年8月1日)を務めていました。
碑文は紀念碑建設委員会の撰文。書は「臨江閣主 片柳香遠 敬書」と文末に記されています。

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(石碑上部篆額、「故田村代議士記念碑」)  (碑文部分拡大写真、漢字とカタカナの文章)

碑陰を確認してみると、石碑の上半分程に「寄附者芳名」として、寄附金額と寄附者の役職・名前がずらっと並んで刻されています。又、下半分には「建設委員」の役職・名前が同様にずらっと並んでいます。
そして、石碑左下部分に大きな文字サイズで、「建設委員長 撰文起草者 松永和一郎」と、副委員長2名の名前が刻されています。
この「松永和一郎」という人物は、小野寺村(現栃木市)出身の政治家で、大正9年10月から大正12年9月まで県会議長を務めています。
碑文を書いた「片柳香遠」という人物に付いて、「臨江閣主」と石碑に刻されていますが、「臨江閣」をウィキペディアで検索すると、≪臨江閣(りんこうかく)は、群馬県前橋市大手町にある、近代和風建築の迎賓施設。本館、別館、茶室は国の重要文化財に指定されている。≫と、記されています。
「閣主」と言えば、そこの主(あるじ)と言うことに成るのでしょうが、「臨江閣」が当初群馬県の迎賓館との位置づけで、市内の有志らの協力と募金で建てられた公館とすれば、その館主役を担っていた人物だったのか、ハッキリしません。
昭和39年11月1日号の「とちぎ市政だより」の記事の中に、この「片柳香遠」と言う名前が有りました。
記事のタイトルは「歳末たすけあい運動第一号」・「趣味の揮毫展示会」と言うもので、栃木市文化協会と公民館との共催で、市内に住んでいる絵画、書道、文芸等の同好家約四十名が、色紙や短冊に揮毫し、これを展示即売して、その益金を歳末たすけあい運動に寄附するという中に、書道家のひとりに「片柳香遠」さんの名前が出ていました。

さて、肝心のこの石碑に記された「田村代議士」という人物に付いて、碑文を読んで行くことにします。
建立が昭和27年(1952)と言うことで、私が生まれた時より後に建てられた、若い石碑ですから、まだ風化も少なく文字はハッキリと読むことが出来ました。漢字とカタカナの送りで読むのも違和感が有りませんでしたが、文中に見慣れない漢字が何カ所かありました。
色々と調べて行くうちに、「口編に人」と言う字が「以」であることや、国構えの中にカタカナの「イ」が2個並んで入っている文字が「四」であることが、やっと解明出来たりと、手こずりました。それでもまだ読み解けない文字や雑草に隠れて見えない部分等が残りましたが、碑文の内容は解明できました。
以下に碑文と碑陰の内容を読み移した結果を添付します。
碑文はカタカナ部分はひらがなに変え、解明した繁体字などは新字体とした。又、碑陰については、寄附金額については削除しました。

碑文読み写し.jpg碑陰読み写し.jpg
(碑文を読み移しました)            (碑陰、寄附金額欄は削除しています)

石碑の人物「田村順之助」は、安政5年(1858)8月17日に栃木県下都賀郡水代村、田村政七の長男として生まれました。
藤森天山や松本暢に学ぶと有りますが、天山は文久2年(1862)10月8日に亡くなっていますので、その時順之助はまだ4歳の子供でしたから、松本暢から多くを学んだものと考えます。
松本暢や川連虎一郎は大平町出身の勤王の志士ですが、ともに藤森弘庵(天山)の門人でした。
こうして熱烈なる自由民権信奉者となり、明治17年(1884)加波山事件に連座して投獄されています。出獄後は栃木県議会議員に当選、明治23年11月から明治25年3月まで副議長として県政の刷新振興に尽くされました。
明治25年以来衆議院議員に当選12回、在職通算25年の長きにわたって国政に参画しています。
昭和14年1月19日、81歳で亡くなられていますが、その晩年は家政を顧みる事も無く政治活動に没頭していたため、資産を使い果たし酷い貧乏の身となり、更に配偶者や子供に先立たれ、全く孤独の身となられ寂しく他界された様子が、碑文に刻されています。

碑陰に刻された建設副委員長の一人、「田村恭助」氏は田村順之助の本家筋の人物で、父親はビール醸造用大麦の国内需給をはかり、栃木県のビール麦生産量のシェアを全国トップクラスの基礎を築いた、田村律之助で、田村恭助氏は石碑建立当時水代村村長を務めていました。
尚、この太平山あじさい坂の中間点辺りには、田村律之助の胸像も建てられています。
田村律之助胸像.jpg
(太平山あじさい坂の途中に建てられた、田村律之助の胸像)

今回参考にさせて頂いた資料は、「大平町誌」(発行大平町)、「栃木人 明治・大正・昭和に活躍した人びとたち」(石崎常蔵著)、「とちぎの天台の寺めぐり」(天台宗栃木教区宗務所編)、「ウイキペディア」、「とちぎ市政だより」です。
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