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新潟県燕市五千石に建つ巨大な石碑 [石碑]

私が今まで見た中で一番大きい石碑が、新潟県燕市五千石に建っています。
この石碑は、「信濃川治水紀功碑」と題するもので、信濃川と大河津分水路の分岐の地に建てられたものです。先月、この地に有る「信濃川大河津資料館」を訪れ展望フロアーから大河津分水路などを眺めていた時に目に留まり、新ためてその前に建った時、その大きさに驚かされました。
信濃川治水紀功碑1.jpg
(信濃川と大河津分水路の分岐に建つ、巨大な石碑)

石碑上部の篆額には、「信濃川治水紀功碑」と篆書体で書かれています。揮毫をした人物は、碑文冒頭に刻されていますが、「議定官 元帥 陸軍大将 大勲位 功二級 載仁親王」と言う人です。
信濃川治水紀功碑(篆額).jpg
(「信濃川治水紀功碑」の文字が浮き彫りされた篆額)

石碑は大正13年に建てられたものですが、表面は非常に綺麗で、碑文の文字もハッキリと刻されています。これだけ鮮明なのは、碑文の文字数が1,252文字に成るものの、石碑が大きいく、1文字1文字のサイズが5センチ角ほどにもなっている為と思われます。
碑文は大正期に架かれた物の為、私の苦手な漢文体、漢字の羅列にどう読んだらいいのか、頭を抱えてしまいます。
幸い石碑の前に説明板が有り、それを読むと石碑の内容が概ね理解する事が出来ました。
信濃川治水紀功碑(説明板).jpg
(石碑前に建てられた、説明板を写真に収めてきましたので、添付させて頂きました。)

それによりますと、石碑の大きさは、高さが7.2メートル、幅は2.5メートル、厚さ42センチメートルと有ります。石碑の重さは何んと26トン(仙台石巻産)、台と成っている石は50トン(弥彦産)で地中でガッチリと石碑を支えています。
碑文を書き写しました。旧字体の漢字も多く使われていて、どうしても文字を再現できない所も有りました。(■記号で表示) 
信濃川治水紀功碑2.jpg碑文(縮小版).jpg
(石碑正面写真)             (碑文を書き写しました。文字は一部新字体に変更)

碑文は、内務大臣 水野錬太郎の撰文。書は比田井鴻と言う書道家です。(現代書道の父と称されています。)

碑文によりますと「大河津分水路」は、越後平野を水害から救う為に、信濃川の水を分水して日本海に流す為の水路です。その構想は江戸時代享保年間に遡り、寺泊の「本間数右衛門」「河合某」らが、幕府に嘆願書を出したもので、信濃川が最も日本海に近づく大河津付近から約10キロメートルの人工水路を開鑿して分水するものです。しかしこの計画は幕府の承認が得られず、明治新政府に代わって急に建設する事が決定されます。しかしその工事も中止となります。その後明治29年・30年と続いて大洪水が発生し、大河津分水路の建設工事再開が決まりました。
明治42年に着工、大正11年工事完了通水、大正13年3月23日晴れの竣工式が挙行されました。

分水地点のジオラマ.jpg
上の写真は、信濃川大河津資料館展望フロアーに有る大河津分水路のジオラマの一部を写したものです。
写真左上に分岐点、そこから真下に流れている細い流れが、「信濃川」の本川。左上の分岐から右方向、横に流れる太い流れが「大河津分水路」です。
分水路右隅の施設が「可動堰」。分岐近く信濃川本川に有る施設が「新洗堰」。その右側に「旧洗堰」も見えます。更にそのすぐ右側の小さな建物が、私が行った大河津資料館(銘板に赤いマーク)です。

石碑近くの堤防上から分水路方向を眺めると、左奥に可動堰、そして手前正面には残された旧可動堰の一部が見えます。後ろに聳えている山並みは左が弥彦山、右が多宝山です。(標高は共に634m)
可動堰1.jpg

視線を反対側の南に移すと旧洗堰、その右奥の建物が「国土交通省北陸地方整備局信濃川河川事務所「大河津出張所」で分岐点の先端部に有ります。
洗い堰1.jpg

今年の10月12日から13日にかけて関東地方を縦断した台風19号により、私の住む栃木市内も甚大な被害を被りました。そしてこの信濃川においても上流の千曲川流域で大きな被害が発生しています。
信濃川河川事務所の「分水路だより」(令和元年11月1日号)を見ると、冒頭に「令和元年台風19号による出水報告・大河津水位観測所で観測史上1位の水位を観測」と、そしてこの分水路において≪信濃川上・中流域の洪水を日本海に流し続け、越後平野への氾濫を防止しました。≫と、記されています。見事に役目を果たしています。
それでも近年、こうした自然災害も規模が大きくなってきており、ここ大河津分水路においても、現在分水路河口部の改修工事が進められていと「水路だより」は記していました。
私達はこれで大丈夫だと安心せずに、今有る問題点を常に考え、対策を重ねていくことが大切であると、この地を訪れて考えさせられました。
 
※参考資料:国土交通省北陸地方整備局信濃川河川事務所発行各種パンフレット。
          ・越後平野発展の礎、大河津分水路(2016年1月プリント)
          ・分水路河口の改修始まる(2016年5月プリント)
          ・分水路だより№55(令和元年11月1日号)


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藤岡町甲の六所神社 [栃木市の神社]

栃木市藤岡町甲の本郷地区は蓮花川の蛇行によって形成された、緩い河岸段丘の上に有り、字本郷東は台地の東方向に張り出しています。そんな台地を北側から東側へと回り込む様に、現在の蓮花川が静かに流れています。
台地の東端となる本郷東に、今回訪れた六所神社が有ります。
六所神社.jpg
(藤岡町甲の本郷東の台地の上に祀られた「六所神社」)

私が訪れた12月の始め、鎮守の森には木漏れ日の中に紅葉が輝いていました。
六所神社の紅葉.jpg
(六所神社境内の紅葉)

参道を進み拝殿にて参拝を済ませ周辺散策へ。
この神社の主祭神は「天照皇大神」、配神として「伊弉諾命」「伊弉冊命」「月読命」「誉田別命」「素盞鳴命」が祀られています。主祭神と配神合わせて六柱を祀った社から、「六所神社」です。
六所神社1.jpg六所神社2.jpg
(六所神社正面拝殿)                            (「六所神社」神額)

昭和39年に発行された「栃木県神社誌」によると、栃木県内に見られる「六所神社」は、当社の外には宇都宮市宝木町二丁目の一社が見られるのみです。神社の由緒沿革には、≪寛文11年上野国邑楽郡藤岡町より、当字部落に移住し、前住地の氏神六柱を勧請した。≫と、記されています。
寛文11年(1671)は、江戸時代の第4代将軍徳川家綱のころ、上野国は群馬県、邑楽郡は栃木県の南隣に接する、利根川と渡良瀬川とにはさまれた地域、現在の館林市を中心に周辺の板倉町・明和町・千代田町・邑楽町・大泉町などの区域です。藤岡町は上野国邑楽郡では無く下野国下都賀郡に属する地域に成りますが、寛文11年頃は館林藩は徳川綱吉が藩主で25万石の親藩ですが、当時渡良瀬川の左岸に位置する藤岡は古河藩領でした。「藤岡町史」に有る年表の中に、≪寛文9年(1669)から延宝3年(1675)、藤岡村ほか、古河藩領の領民らが、宇都宮西原新田開発のため移住≫との記載が有ります。このことから藤岡の地から宇都宮の此の地に移り住んだ人達が居たことが確認出来ました。
グーグルマップにてこの宇都宮に有る六所神社を検索すると、社殿の横の建物に「藤岡公民館」との表示もみられ、その繋がりを物語っています。
それでは、移住前の藤岡町の「六所神社」は何所なのか、私は当初県内に残るもう一つの藤岡町甲に鎮座している「六所神社」と考えていました。このブログを書いた時は、そのように書いてしまっていましたが、その後更に調べて行くと、現在の「藤岡神社」が元々は「六所神社」で有った事を知りました。
確かに藤岡町甲は、昔は甲村でであり藤岡では無かった訳ですから。
現在の藤岡神社境内に建てられた説明板には、≪天慶3年(940)の創立にして、旧くは六所大明神と称せられ、藤岡町の総鎮守とされています。御祭神は、伊弉諾命、伊弉冉命、天照皇大神、月読命、天児屋根命、天宇受売命の6神を奉斉しています。(中略)文政4年(1821)紫岡神社と称せられるも、明治8年(1873)藤岡神社と改称します。≫と記しています。
藤岡神社.jpg六所大明神1.jpg
(古くは「六所大明神」と称した「藤岡神社」)   (藤岡神社の鳥居に「六所大明神」の神額)

それではもう一社、藤岡町甲の六所神社の由緒沿革は、「栃木県神社誌」によると、≪持統天皇の8年正月28日の創立で、天正5年4月13日兵火にかかり、ことごとく焼失した。寛永5年3月15日再建し、昭和33年本殿雨覆、幣殿拝殿を改築現在に至る≫と、記されています。
持統天皇は第41代天皇(690年2月14日~697年8月21日)、その8年と言う年は694年と成りますから、相当に歴史の有る神社です。
六所神社4.jpg六所神社3.jpg六所神社5.jpg
(拝殿向拝部を飾る彫刻)


現在の社殿は昭和33年に改築されたものです。
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(本殿廻りに施された彫刻)

拝殿に向かって左手奥の木立の中に、「六所神社」「社殿改築記念碑」と刻した大きな石碑が建てられています。揮毫したのは当時の内閣総理大臣、岸信介です。
碑陰には寄附をされた人達の名前と金額がびっしりと刻されています。その数478名、上段半分ほどに大字出身寄附者237名、その下に「本郷」124名、「中耕地」70名、「高取」47名の名前が連なります。
最下段には建築委員会35名。左下部に設計者、棟梁、副棟梁、鳶の名前そして宮司の名前を読み取ることが出来ます。
境内に建つ石碑.jpg社殿.jpg
(境内に建てられた「社殿改築記念碑」)      (社殿を西側より撮影)

今も地元の人達に愛されている様子が、境内の整備状態から窺い知ることが出来ます。
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マンホールカード第11弾、那須塩原市と真岡市へ [マンホールカード]

今日12月14日、マンホールカードの第11弾が配布開始となりました。
栃木県内は、那須塩原市と真岡市の2枚が今回新たに配布されます。

那須塩原市の配布場所は、塩原温泉街の中に有る「塩原もの語り館」と言うことで、これから冬を迎えるので、降雪や路面凍結等の心配が有る為、今日良く晴れたので思い切って車を走らせて、行ってきました。
西那須野から国道400号で塩原温泉街の配布場所へ、隣接の駐車場は満車でしたが、丁度1台が出たのでラッキーでした。
受付で簡単なアンケートに答えるのですが、受付番号を見ると、私は6番目でした。
マンホール蓋の現物の設置場所を教えて頂き、無事に現物の写真撮影も出来ました。同じようにマンホール蓋の写真を撮る人が次々と来て、写真を撮っていました。
那須塩原市マンホールカード.jpg那須塩原市キティ.jpg
(那須塩原市のマンホールカードです)   (現物のマンホール蓋も写真に収めました)

ここに来るのは2015年10月、紅葉を見に来たのが最後で、久しぶりの塩原です。今回はすでに紅葉は終わっていて、配布場所の裏を流れる箒川周辺も、殺風景になっていました。
12月の塩原温泉.jpg塩原温泉の紅葉(2015年10月).jpg
(今日の箒川に架かる「紅の吊橋」)      (紅葉シーズンの「紅の吊橋」周辺)

ここまでスムースに来たので、思い切って真岡市へ向かうことに。
国道4号線をひたすら南下して、宇都宮から真岡市へ。真岡市は何度か来て、街の中も歩いているので、配布場所の「久保記念観光文化交流館」も分かっています。近くの駐車場に止めて無事に本日2枚目をゲット。
真岡市マンホールカード.jpg真岡市マンホール蓋.jpg
(真岡市のマンホールカード)    (配布場所前の歩道に設置されたマンホール蓋)

久保記念観光文化交流館1.jpg久保記念観光文化交流館2.jpg
(真岡市のカード配布場所前歩道) (久保記念観光文化交流館店舗前ディスプレイ)

これで栃木県のマンホールカードは収集完了です。
栃木県内は現在総数14枚が配布されています。
内訳は、栃木県流域下水道1枚、宇都宮市2枚、足利市2枚、日光市2枚、栃木市・佐野市・大田原市・下野市・鹿沼市そして本日の那須塩原市と真岡市が各1枚と成っています。
次回(来年4月予定)は、どこの自治体がカードを作成・配布するか楽しみです。
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岩舟町に建つ二つの「土器開祖」の石碑 [石碑]

栃木市岩舟町には、何故か2ヶ所に「土器開祖」と刻した石碑が建てられています。
ひとつは、大字静字茂呂の市道1054号線、「すみれ保育園」の少し北側の道路の脇に、建てられています。石碑には「土器開祖 新井藤吉翁之碑」と有ります。
新井藤吉翁之碑1.jpg
(市道1054号線の道路脇に建つ、「土器開祖 新井藤吉翁之碑」)

そしてもう一つは、大字曲ケ島字新区、市道1064号線の道路脇、新区公民館前に建てられています。石碑には「土器開祖 新樂平五郎之碑」と有ります。
新樂平五郎之碑1.jpg
(市道1064号線の道路脇に建つ右側が、「土器開祖 新樂平五郎之碑」)

それでは何故、岩舟町に「土器開祖」が二人いるのか。その答えは、岩舟町史を開くと直ぐに解決しました。答えとなる部分、岩舟町史の第四節窯業の部分より、抜粋させて貰います。
≪窯業の歴史は、茂呂と曲ヶ島の二つの流れがある。茂呂における歴史には、新井藤吉と、その子孫たちの苦闘の歴史が、曲ヶ島やきは新樂平五郎を元祖と仰ぐ佐山清之丞の苦心が秘められている。≫
以上の様に元々岩舟町の窯業の発展には、茂呂地区と曲ヶ島地区の二つの流れ(歴史)が有った為、それぞれに開祖となる人物が存在していたので、両方の地区でそれぞれ石碑を建立された訳です。

それでは最初に茂呂地区の、新井藤吉翁之碑について見ていきます。
新井藤吉翁之碑(碑表).jpg新井藤吉翁之碑(碑陰).jpg
(碑表には大きく碑銘のみ)(碑陰には碑文と下部には発起人や世話人の名前が並びます)

碑陰に刻された碑文には、碑銘に有る新井藤吉翁の生れは、時代を遡る事江戸時代、寛政3年2月15日と成っています。それから茂呂の此の地で、土器生産を完成させた経緯が記されています。
それは、藤吉翁一人の苦労に留まらず子孫代々の改良が加えられて、完成されたものでその間時代の流れに翻弄されつつも、事業を拡大した様子が覗えます。
石碑が建てられたのは昭和19年9月20日、碑文を撰文したのはその当時岩舟村長の石川光士氏です。

曲ヶ島の新区公民館の前に建つ、新樂平五郎之碑について見ていきます。
新樂平五郎之碑(碑表).jpg新樂平五郎之碑(碑陰).jpg
(碑表、中央に碑銘、右側に開業五十年祭と有る)(碑陰には発起者と賛成者の名前)

こちらの石碑が建てられたのは、先の茂呂地区の石碑より早く、昭和2年4月と成っています。
碑銘に有る「新樂平五郎」という人物に関しては、碑陰に「祖師東京今戸生新樂平五郎」とのみ有るだけ、ハッキリしません。ここは「岩舟町史」に助けて貰います。
≪曲ヶ島の土器製造は、明治維新ののち、東京の今戸焼の職人新樂平五郎が曲ヶ島へ移住、曲ヶ島向坪の土をもって火鉢やほうろくなどの日用土器を焼いたにはじまる。佐山丈右衛門の四男清之丞は、これに興味をおぼえ、平五郎の弟子となり、向坪にかまをつくって日用土器の生産を開始した。新樂平五郎というよき指導者にめぐまれたことが幸いした。明治十年(1877)佐山倉吉の長女トキと結婚、本家から独立してやきものだけで生活が出来るようになった。これが刺戟となって近隣のものも清之丞から技術を学び、土器生産をはじめるものがあらわれその数も六軒におよんだ。≫と説明されています。

この石碑が建てられた昭和2年4月と言うのは、佐山清之丞が結婚をし独立をした、明治10年から丁度50年が成った時で、碑の表に有る通り「開業50年祭」を記念する建碑だったのです。
二つの碑の背面の内容を書き写しました。
新井藤吉翁之碑(碑文書き写し).jpg新樂平五郎之碑(碑陰書き写し).jpg
(新井藤吉翁之碑の碑陰)                 (新樂平五郎之碑の碑陰)

今、栃木市街地から県道11号(栃木藤岡線)を南下して、国道50号(岩舟小山バイパス)の跨線橋を抜けて、岩舟町曲ヶ島の新区地区を通過する時、道路の両側に大量の茶褐色した土管が積まれた風景を見る事が出来ます。土管を焼くための窯の煙突でしょうか。煙突には(有)葛生陶管の社名が見えます。
曲ヶ島新区の土管.jpg葛生陶管の煙突.jpg
(県道栃木藤岡線脇に大量の土管が積まれています) (2本の煙突が見えます)

ここ(有)葛生陶管さんの関係者でしょうか、「土器開祖 新樂平五郎之碑」の発起人の一人に「葛生信次」氏の名前が並んでいます。他に石碑の建つ新区公民館周辺には「佐山陶管有限会社」の看板を付けた家屋も見られました。

一方茂呂地区周辺を巡ってみても、土管を製造していそうな風景は見られませんでした。ただ古い岩舟町の住宅地図を確認すると、茂呂新田周辺に「栃木製陶」とか「青木陶管工業」「富山陶管工場」の会社名が確認出来ました。ただ現在の住宅地図には、これらの会社名は掲載されていません。
茂呂地区に残る煙突.jpg
(茂呂新田地区に残るかつての「富山陶管工場」跡と思われる煙突)

小さな二つの石碑に、かつて岩舟町の一大産業だった、窯業の歴史を知る事が出来ました。


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太平山あじさい坂中程に建つ「鈴木宗四郎翁之碑」 [石碑]

太平山のあじさい坂を登って行くとその中程に、右方向に分岐する細い道が有り、その入口にこじんまりした石造りの鳥居が建っています。鳥居に掲げられた扁額には「窟神社」の文字が浮き彫りされています。
窟神社入口.jpg窟神社扁額.jpg

鳥居を潜って少しその細い道を進むと、正面に大きな岩で組まれたような洞窟が有り、その手前には「太平山弁財天」の標柱が建てられています。
窟神社.jpg

洞窟の左脇にはふくよかなお顔の小さな石造りの弁財天様。洞窟の中には水が溜まっており、その奥を覗くと暗闇の中に小さな石の祠が祀られています。
弁才天の石像.jpg窟内に祀られた石祠.jpg

洞窟の所から左方向の道を進むと、又、元のあじさい坂に合流します。丁度その合流点からあじさい坂の左側の少し奥に石碑が1基建てられています。石碑上部の篆額には「鈴木宗四郎翁之碑」と、篆書体の文字で書かれています。揮毫をされた人物は、石碑の最初の行に刻されていますが、その当時の「陸軍大将正三位勲一等功二級男爵鮫島重雄」です。

普通、こうした顕彰碑を建立する際は多くの発起人や賛同者が有って、それらの人達から寄附を募って建碑の費用を捻出します。そうしてそうした関係者の氏名や寄附した金額等を碑陰に刻する事が多く見かけられます。これまで調べた石碑においてもそうした碑陰に刻された名前から、顕彰された人物の人間関係を知る事が出来ますので、今回も碑陰についても確認してみましたが、この石碑の裏面には何の記載も確認できませんでした。
それではこの石碑に有る「鈴木宗四郎翁」とは、どのような人物なのでしょうか。
碑文最終行の日付けは「明治44年12月」、そしてこの碑文を撰された人物は「縣社太平山神社社司 岡田順平」と刻されています。
明治期の石碑の為、碑文は私の苦手な漢字一色の漢文体、読む事が出来ません。読める漢字を一字づつ拾い、内容を類推して行きます。
碑文の冒頭部分に≪明治四十年五月三十日鈴木宗四郎君歿、享年六十二≫と有りますから、生まれは江戸時代後期、弘化元年(1844年)に成ります。
≪栃木県下都賀郡栃木町平井の豪農≫、≪父親の名前は鈴木磯衛、母親は寺内姓≫
≪明治六年五月第一大区1一二三及六小区学区取締補助≫その後、平井村・片柳村・薗部村等の戸長や≪神道中教院太平出張所事務掛≫などを務め、≪十八年任下都賀郡皆川城内外八邨戸長尋轉栃木町外十三邨戸長兼前任≫と、翁は高田俊貞・田中貢・岩上条三郎に次いで第四代の栃木戸長となりました。明治22年5月町村制実施に伴い廃官、地方行政等に関わった在職期間はおよそ17年と成っています。
又、≪東窮奥羽西抵肥筑足跡所及五十有二國≫のごとく、日本国内各地を訪れ、≪躋名山渉大川≫と、名山に登り大川を渡り、神社仏閣を見て回っています。
鈴木宗四郎翁と太平山神社との関係を碑文に探すと、まず先に記した様に明治9年≪神道中教院太平出張所事務掛≫を務めた外、≪君開太平山公園也≫と太平山公園の造成にも力を注いでいます。
明治23年、根岸町長の時、それまで狭く曲がりくねった栃木から太平山に達する道路(行程30町)を改修していますが、この時翁は率先して工事の監督を行っています。更に明治37年10月から12月に太平山神社への参道≪長二百四十餘間路傍鑿溝渠栽櫻樹≫の整備にも工事監督をしています。
こうして鈴木宗四郎翁は太平山神社と深く関わっていたことが理解できます。そして又、この石碑がこの太平山神社参道脇に建立された事にも、納得いたしました。
鈴木宗四郎翁之碑.jpg篆額部分.jpg
(あじさい坂を登ると、中程左手奥に建つ石碑) (石碑の篆額部「鈴木宗四郎翁之碑」)
鈴木宗四郎翁之碑(碑文).jpg
(碑文を書き写しました、難読部分は□記号としています)

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