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太平山あじさい坂中程に建つ「鈴木宗四郎翁之碑」 [石碑]

太平山のあじさい坂を登って行くとその中程に、右方向に分岐する細い道が有り、その入口にこじんまりした石造りの鳥居が建っています。鳥居に掲げられた扁額には「窟神社」の文字が浮き彫りされています。
窟神社入口.jpg窟神社扁額.jpg

鳥居を潜って少しその細い道を進むと、正面に大きな岩で組まれたような洞窟が有り、その手前には「太平山弁財天」の標柱が建てられています。
窟神社.jpg

洞窟の左脇にはふくよかなお顔の小さな石造りの弁財天様。洞窟の中には水が溜まっており、その奥を覗くと暗闇の中に小さな石の祠が祀られています。
弁才天の石像.jpg窟内に祀られた石祠.jpg

洞窟の所から左方向の道を進むと、又、元のあじさい坂に合流します。丁度その合流点からあじさい坂の左側の少し奥に石碑が1基建てられています。石碑上部の篆額には「鈴木宗四郎翁之碑」と、篆書体の文字で書かれています。揮毫をされた人物は、石碑の最初の行に刻されていますが、その当時の「陸軍大将正三位勲一等功二級男爵鮫島重雄」です。

普通、こうした顕彰碑を建立する際は多くの発起人や賛同者が有って、それらの人達から寄附を募って建碑の費用を捻出します。そうしてそうした関係者の氏名や寄附した金額等を碑陰に刻する事が多く見かけられます。これまで調べた石碑においてもそうした碑陰に刻された名前から、顕彰された人物の人間関係を知る事が出来ますので、今回も碑陰についても確認してみましたが、この石碑の裏面には何の記載も確認できませんでした。
それではこの石碑に有る「鈴木宗四郎翁」とは、どのような人物なのでしょうか。
碑文最終行の日付けは「明治44年12月」、そしてこの碑文を撰された人物は「縣社太平山神社社司 岡田順平」と刻されています。
明治期の石碑の為、碑文は私の苦手な漢字一色の漢文体、読む事が出来ません。読める漢字を一字づつ拾い、内容を類推して行きます。
碑文の冒頭部分に≪明治四十年五月三十日鈴木宗四郎君歿、享年六十二≫と有りますから、生まれは江戸時代後期、弘化元年(1844年)に成ります。
≪栃木県下都賀郡栃木町平井の豪農≫、≪父親の名前は鈴木磯衛、母親は寺内姓≫
≪明治六年五月第一大区1一二三及六小区学区取締補助≫その後、平井村・片柳村・薗部村等の戸長や≪神道中教院太平出張所事務掛≫などを務め、≪十八年任下都賀郡皆川城内外八邨戸長尋轉栃木町外十三邨戸長兼前任≫と、翁は高田俊貞・田中貢・岩上条三郎に次いで第四代の栃木戸長となりました。明治22年5月町村制実施に伴い廃官、地方行政等に関わった在職期間はおよそ17年と成っています。
又、≪東窮奥羽西抵肥筑足跡所及五十有二國≫のごとく、日本国内各地を訪れ、≪躋名山渉大川≫と、名山に登り大川を渡り、神社仏閣を見て回っています。
鈴木宗四郎翁と太平山神社との関係を碑文に探すと、まず先に記した様に明治9年≪神道中教院太平出張所事務掛≫を務めた外、≪君開太平山公園也≫と太平山公園の造成にも力を注いでいます。
明治23年、根岸町長の時、それまで狭く曲がりくねった栃木から太平山に達する道路(行程30町)を改修していますが、この時翁は率先して工事の監督を行っています。更に明治37年10月から12月に太平山神社への参道≪長二百四十餘間路傍鑿溝渠栽櫻樹≫の整備にも工事監督をしています。
こうして鈴木宗四郎翁は太平山神社と深く関わっていたことが理解できます。そして又、この石碑がこの太平山神社参道脇に建立された事にも、納得いたしました。
鈴木宗四郎翁之碑.jpg篆額部分.jpg
(あじさい坂を登ると、中程左手奥に建つ石碑) (石碑の篆額部「鈴木宗四郎翁之碑」)
鈴木宗四郎翁之碑(碑文).jpg
(碑文を書き写しました、難読部分は□記号としています)

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