SSブログ

岩国の錦帯橋で私、新年早々失敗しちゃいました。 [橋梁]

昨年の正月休みに、長崎の眼鏡橋を堪能して来たので、今年は是非日本三大奇橋のひとつ、山口県岩国市の錦帯橋を見に行こうと、昨年の夏から旅行計画を立て、宿泊も錦帯橋近くのホテルに予約を取って先日行ってきました。
が、私を待っていたのは予想もしていない姿の、錦帯橋でした。その姿が次の写真です。
錦帯橋1.jpg
(橋の高欄部分が全体的にシートで覆われてしまった錦帯橋)
ホテルの部屋から錦帯橋.jpg
(錦帯橋が見えるホテルの部屋を取ったのだけれど)

計画していた時はグーグルマップのストリートビューを使って、撮影ポイントをあれこれ検討、上流側の橋から錦帯橋の全体像を狙おうとか、河原に下りて岩国城をバックに収めるとか、夜はライトアップされ暗闇に浮び上がるアーチ橋を写そうかと、あれこれ考えていましたが、全てあきらめました。確認不足でした。

なぜこんな姿に成っているのか、宿泊したホテルの方が説明してくれました。
錦帯橋は木橋の宿命で、鋼橋やコンクリート橋より寿命が短い為、5年毎に定期点検を行っているが、今丁度その時期に当たっている為で、錦帯橋全てに老朽化調査・保全工事用の吊足場を設置、足場部分や橋の側面をシートで覆っているのだそうです。
確認をしたら錦帯橋の左岸橋詰に、工事概要を記した掲示が建てられていました。それによると工期は「令和元年9月9日から令和2年3月16日まで」と成っていました。

気を取り直して周辺観光へ、まずは錦帯橋を渡ります。橋詰のチケット売り場で「入橋券」往復310円を購入して、あこがれの錦帯橋を渡ります。
錦帯橋入橋券.jpg
(錦帯橋入橋券、この写真の様なライトアップされたアーチ橋を撮影したかった)

1985年9月10日に発行された吉田巌編「橋のはなしⅡ」(技報堂出版)に、この錦帯橋について≪錦帯橋 - 城の代わりの橋≫と題して書かれています。一部抜粋させて頂き紹介いたします。
≪山口県岩国市を流れる錦川に、その名のとおり、川を横切る帯のように架かる見事な橋が錦帯橋です。五径間からなり、中央の三径間が、世界でも珍しい木造のアーチ橋になっています。この錦帯橋はいまは岩国城の城門橋ですが、建設当時(1673年)は城は有りませんでした。歴史は1615年(元和元年)の家康の「一国一城令」にまでさかのぼります。この「令」によって岩国城は廃却されていたので、正確な意味での城門橋ではありません。この「令」より58年後、城をおけない岩国藩の「城」というシンボルの代わりに、この錦帯橋が架けられたのです。(後略)≫
錦帯橋2.jpg
(錦帯橋の中央3径間のアーチ橋は勾配が急の為、部分的に階段状に作られていました)

地形図を見ると、錦帯橋の架かる錦川は岩国市を西から東へと流れていますが、かつて岩国城が建てられていた標高200メートル程の山が北側に突き出て地形と成っていた為、錦川はヘアピンカーブの如く大きく迂回して、山の西麓から北麓を巡り東麓に流れています。岩国城はこの錦川を城の三方を守る堀に見立て建てられてもの。廃城となった後も城山の東麓は吉川家代々の居住地となり、錦川の対岸となる「錦見地区」は城下町として開けています。

錦帯橋を渡ると「横山地区」です、かつて藩主や上級武士が住んでいたところで、今も立派な長屋門などが残っています。川沿いの道を歩いていると、銅像やら胸像、石碑などが並んで建てられていますが、その後方に気になる像が目に留まりました。
佐々木小次郎の像.jpg説明碑.jpg

「剣豪佐々木小次郎の像」です。横に据えられた石碑に説明文が記されています。
≪「先祖以来、岩国の住、姓は佐々木とうう、名は小次郎と親からもらい、また剣名を”巖流”ともよぶ人間は、かくゆう私であるが・・・・・」 吉川英治氏の小説「宮本武蔵」の一説である。 当地では、古くから佐々木小次郎が、ここ錦帯橋畔において、柳の枝が燕を打つのを見て、燕返しの剣法「巖流」を自得したと言伝えられている。≫と。そして又その横に、「岩国城」と題した歌の歌碑がたっています。歌詞がこの地を端的に表していると思いました。

岩国城歌碑.jpg
(佐々木小次郎の像の脇に建つ「岩国城」の歌碑)

そこから「吉香公園」周辺をぶらりと歩いていると、園内には多くの石碑が建てられています。
一番目立ったのが、錦帯橋から50メートル程の、公園入口に長裃姿に大刀を差し、右手に扇子を持ち錦帯橋の方向をジッと見つめる「吉川広嘉公像」です。
吉川広喜公像.jpg錦帯橋記全景.jpg
(「吉川広嘉公像」 左後方に写る石碑が「錦帯橋記」です)(「錦帯橋記」と篆額に有る石碑)

台座の裏側に銅像の人物に付いて説明されてます。冒頭部分だけ紹介します。
≪錦帯橋の創建者吉川広嘉公は旧岩国藩主三代目の領主で1621年第二代藩主広正公の長男として生まれた その天性の聡明さは岩国城を築き岩国の町を開いた藩祖広家公譲りのようである。(後略)≫

その銅像の左後方に見える玉垣をめぐらした石碑が「錦帯橋記」、弘化2年3月(1845年4月)岩国藩士の儒学者「玉乃九華」(名を惇成という)が撰した文を、明治8年9月明治前期の書家「桂洲伊藤信平」が碑文と篆額を書いています。
錦帯橋記(碑文).jpg
(「錦帯橋記」の篆額の文字と碑文を書き写しました)

江戸時代の儒学者が記した文書で、私には読み解く事が出来ませんが、一字一字漢字を拾って読んで行くと何となく内容が分かってきます。しかし読み下し文を書く力は有りません。

園内に建つ他の石碑も見てみます。
さくらの名所100選の碑.jpg日中友好の碑.jpg
(さくら名所100選の地「吉香公園・錦帯橋」)  (「日中友好の架け橋-錦帯橋」の碑)

さくらの名所らしく、吉香公園も錦帯橋の右岸堤も沢山の桜の木、さぞかし桜の咲く時期は見ごたえのある錦帯橋が見られるのだろう、出来ればもう一度桜の咲くころに訪れて見たいものです。
「日中友好の架け橋-錦帯橋」の碑は、中国語・英語・日本語の三ヶ国語で記されています。
日本文を見ると、2004年11月6日、岩国市と杭州市の交流促進のために錦帯橋友好協定が締結された事。なぜ杭州市なのか、それが1673年に創建された錦帯橋の架橋に、杭州市出身の高僧であり医師でもあった独立(どくりゅう)の存在が有っと伝えられている事などが記されています。

今回、残念ながら日本の代表的な名所として、「山は富士、滝は那智、橋は錦帯」と、並び賞される、その橋の優雅さを見る事は叶いませんでしたが、メンティナンス中の時期に来たことで、錦帯橋に対する岩国市民の、錦帯橋に対する強い愛情を知る事が出来た気がします。





nice!(0)  コメント(0)