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人目に触れることなく、山中に建つ石碑 [石碑]

今回紹介する石碑は、「目で見る栃木市史」の中にも掲載されている、太平山中の古戦場跡「草鞍山千人塚」に、昭和7年5月地元皆川村仏教会の8寺院と草鞍山の土地所有者2名とが発起者と成って、建立された「天正年間草鞍戰死諸靈碑」です。
千人塚の碑1.jpg
(草鞍山千人塚に建てられた「天正年間草鞍戰死諸靈碑」)

上記「目で見る栃木市史」には、石碑の写真と共に「(六)古戦場 1.大館山・草鞍山古戦場」と題して、次のような説明が乗っています。抜粋させて貰います。
≪天正12年(1584)北条氏直が来襲したとき、皆川方が拠点とした一つである。岩船山、富士浅間、太平山等の防禦線が破られたあと、大館山を中心に激戦がつづいたがやがてこれも陥ち、戦場は角堂山にうつり、さらに草鞍山方面へうつった。いまの栃木カントリークラブのコースあたりはそのとき両軍が争奪をくりかえした戦場であった。草鞍山は敵方・味方を問わずその戦死者を葬った塚があるところで、千人塚という地名が生じた。≫
栃木市内の石碑を見て歩いている私にとっては、以前から是非現地を訪れたいと、ずっと思っていたところに成ります。ただ草鞍山が太平山中のどこに有るのか分からなかった。
「草鞍山千人塚」の場所が確認できたのは、平成27年3月皆川地区街づくり協議会歴史文化部が発行した「皆川の歴史と文化」という全紙サイズのパンフレットでした。そこには皆川地区のマップ上に、地区内の社寺や歴史遺産等の所在を記してあり、「3.千人塚(草倉山古戦場)」として、「栃木カントリークラブ」と「太平台カントリークラブ」のゴルフコースに挟まれた、山中に③の番号が記されていました。
皆川の歴史と文化.jpg草鞍山案内.jpg
(「皆川の歴史と文化」表紙部分)         (皆川地区マップの千人塚を記した部分)

目的の石碑の建つ場所は分かりましたが、その場所へ行くルートを探さなければ。その場所は二つのゴルフ場のコースに挟まれた場所の山の中。夏場では雑草や木々が茂って視界が悪くなりそう。蛇や山蛭などに遭遇するのも嫌なので、行くとすれば冬場と決めた。
最初にトライしたのは1年前、現地に入れそうなルートを見つけ向かった。しかし栃木市の山間部はどこもそうであるが、イノシシやシカから田畑を守る為、里山の周辺はフェンスや電気柵で防禦しています。
私が入ろうとした山道もフェンスが設けられ閉鎖されていました。
里山を囲むフェンス.jpgフェンスで閉鎖された山道.jpg
(フェンスで囲まれた里山)             (千人塚への道もフェンスで閉鎖)

そこで、ゴルフコースを横切って行けるか、栃木カントリークラブのクラブハウス受付に出向いて、事情を説明したが、ゴルフコース内を横断するのは危険と言う事と成り、断念をしました。

そして1年が経った先日、「皆川の歴史と文化」を作成発行を行った、皆川地区街づくり協議会歴史文化部会のメンバーの方の案内で、皆川城内町の神社仏閣を巡った際、傑岑寺ご住職のお話を伺う事ができました。そのお話の中に、「草鞍山千人塚」の事が図らずも出てきました。
傑岑寺本堂.jpg傑岑寺墓地より草鞍山方向を望む.jpg
(杉木立等に囲まれた傑岑寺本堂)      (傑岑寺より南南東、太平山方向を望む)

そこで、「歴史文化部会」の方に、千人塚に建つ石碑へ行く方法を確認して、早速行ってきました。
問題のフェンスの鎖を解除して中に入り、フェンスを開放することなく又、鎖で止めて山の中へ入りました。中に入るとイノシシを捕獲する為に仕掛けられた檻が有りました。
イノシシ捕獲用檻.jpg枯葉で滑る山道.jpg
(山中にはイノシシ捕獲用檻が仕掛けられている)(山道は落葉で滑り易くなっています)

暫らく行くと、山道の直ぐ脇まで栃木カントリークラブのゴルフコースが迫っていて、ゴルフを楽しんでいる姿が有りました。しかしコースの周辺には電気柵の電線が張り巡らされており、ゴルフ場に入れない様になっていました。
山道近くまで迫るゴルフコース.jpg電気柵でコースには入れない.jpg
(ゴルフコースが道路脇まで迫っている)    (電気柵でコース内には入れません)

更に山道を進むと、ゴルフ場から遠ざかり雑木の真っただ中を登ります。落葉で覆われた山道は滑りやすく足を取られます。入口からおよそ15分程歩いていくと、前方の木々の間に石碑の黒い影が見えてきました。
前々から来て見たかった石碑の前にやっと立つことが出来ました。

碑表.jpg碑陰.jpg
(碑表、逆光に成って見難い)        (碑陰、中央部に「建碑寄附及び発起者の名前)

石碑表に近づいて題字を確認します。石碑中央に大きく「天正年間草鞍戰死諸靈碑」の文字。その上に梵字でしょうか、一字陽刻されています。題字の向かって左横に少し小さい字で、「廣照十二代之孫 皆川庸一書」と、揮毫した人物の氏名が刻まれています。
碑の題字.jpg題字揮毫者.jpg
(「天正年間草鞍戰死諸靈碑」と大きく陰刻)  (「廣照十二代之孫皆川庸一書」とある)

碑陰の情報を見ると、石碑の建立は「昭和7年5月吉日」と成っています。皆川の瀧青年会が建碑に当たっての労力奉仕をしています。又その後の管理も担当するようになっています。「瀧青年会」は建碑された草鞍山の西側に位置する、皆川城内の字「滝の入」の組織でしょう。
建碑された通称「千人塚」の土地所有者2名からそれぞれ、「壹畝歩」(30坪=約99.2㎡)の土地の寄附を受けています。発起者は当時の皆川村8寺院と上記土地所有者2名。石工は栃木の岩崎重明氏です。
碑陰上部.jpg碑陰下部.jpg
(碑陰上部、「建碑寄附」者名が並ぶ)  (碑陰下部、「發起者」の名前が並ぶ)

私が期待をしていた、千人塚の名前の由来などを記した碑文は、刻まれてはいませんでした。

皆川氏を扱った軍記本「皆川正中録」の「巻之三」に、ここ「草倉山の戦い」の話が出ています。「皆川勢草倉に出張之事」の一部抜粋してみます。軍記物だけに読むと面白いものです。

≪皆川山城守広照は七月十八日早天、草倉を以て防禦の地点と定め、これが大将としては家老客分たる牛久大和守吉隆・関口石見守盛綱、総奉行として佐山信濃守政道、その他 (中略) 名将勇士三百騎、軍師として安塚内匠介・片柳兵庫等総勢八千余騎なり。
 皆川家の定紋打ちたる左二ツ巴の旗数十旒、その他家々の旗幟幾百となく朝風に翻し、陣幕広く打廻し鉄砲の筒先を並べ弓を張り威風凛々と待受けたり。
 城内にては山城守広照水浴して身を潔め、石裂山に向って合掌なし
 何卒急難を救い給へ
と一心不乱に念じければ、不思議や北の方より朝霧深く立こめて皆川城の上より草倉山の頂上まで押つゝみ、城内の様子更に見えざりけり。
小田原方は太平山に陣取りて、山上より城内の動静を窺はんとすれども測りしれず、しばし躊躇の体なりしが、北条左京太夫氏直は自ら陣頭に進み、軍兵を励まし鬨の声を放って山上より一度にドッと攻め下る。
 此時草倉に控へし皆川勢スワとばかりに相応じ、挑み合ひしが、氏直大音にて、
 矢車に時うつすな槍を進めよ
と下知しければ、小田原勢六百余騎虎豹の如くにひきつれて突かゝる皆川勢も心得て犇めき叫ぶその中にも高嶽靭負・塩田小次郎・板垣六郎太郎・早乙女弥七・塩田又次郎等四五十騎抜きつれて切りまわり火花を散らして戦ふうち、小田原方は、後陣の内より鉄砲の選手二・三十人小高き所より発砲しければ、この筒先に塩田又次郎・早乙女弥七・板垣六郎太郎・村上文四郎等の勇士をはじめ雑兵数多斃れたり。・・(後略)≫

此の「皆川正中録」は、何時頃誰によって書かれた物かハッキリしていません。江戸時代中頃の作品とも言われます。歴史上実際に有った事をベースにしているものの、軍記物として創作・装飾されたところも多々有る様です。この軍記物、講談師に演じて頂ければ、さぞかし聴きごたえの有る話になりそうです。

石碑に有る「天正年間」とは、広辞苑を引くと≪安土・桃山時代、正親町・後陽成天皇朝の年号。1573年7月28日~1592年12月8日≫の期間。そして、天正元年(1573)は廣照の父俊宗が、北条氏との戦いに戦死をし、皆川広照が皆川城主となった年。同時に15代将軍足利義昭が京都から追放され、室町幕府が滅亡した年です。
そして天正十年(1582)6月2日、本能寺の変で織田信長が明智光秀の軍に急襲され、自害しています。
天正年間は日本の中央においても、一地方の栃木においても、動きが慌ただしくなっている時代でした。

「皆川廣照伝」を著わした近藤兼利氏は、その著書の中の「第三・考察 二、草倉戰考」にて、次の様に書き出しています。
≪天正十二、三年の頃、小田原の北条氏政、氏直親子が大挙して下野国に来り、藤岡城附近に集結し、先ず一部を先遣して太平山の皆川の出城を奪取して太平山を焼払い、次で主力も山を占領して皆川城に向い攻撃を開始した。広照また全力を提けて出動し共に主力を以て草倉に決戦を展開する。激戦数回、三月に亘って戦い尚勝敗定まらず、多数の死傷者を出して休戦となった。講和に当り氏政の養女を広照の側室となし北条、皆川今後提携すべきを誓ったという。・・・(後略)≫そしてこの草倉の戦いについて詳細に考察を進めていますが、ここでは省略します。ぜひ原本をお読みください。

太平山の北麓、草倉山の山中に建つ一基の石碑、今私達の記憶から忘れ去られようとしている。ただ現在も、最寄りの寺院となる傑岑寺においては、毎年9月16日に草倉山戦死者の霊を弔う施食会を執り行っていると、先の住職のお話の中に有りました。

参考資料:
 ①目で見る栃木市史(編集、栃木市史編さん委員会)
 ②皆川の歴史と文化(編集、皆川地区街づくり協議会歴史文化部)
 ③日向野徳久考註「皆川正中録」(考訂並考註、日向野徳久)
 ④皆川廣照伝(編者、近藤兼利)
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佐野市の朝日森天満宮に詣でる [自然の恵み]

今日は佐野市の朝日森天満宮に詣で、参道に咲く紅白梅を堪能して来ました。

佐野市にはこれまで何度も訪れていますが、こちらの社は初めての訪問でした。
参道入口脇の駐車場に車を止めて、参道の両側に咲く紅白の梅の花を見ながら社殿前に進み、参拝して来ました。
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早春の皆川城内町を歩く [歩く]

今日は、栃木市郊外の皆川城内町を歩いてきました。朝から良く晴れ、青空が広がっています。それでも空気がまだチョッピリ冷たく感じますが、歩くには丁度良い感じです。
皆川城址南麓の公民館駐車場に車を止め、持明院から東宮神社、傑岑寺を巡って来ました。
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(持明院への途中、白山台近くで最初の春色を見つけました。)

持明院山門脇の枝垂桜は、まだまだ色ずくのは先の様です。参道の石段を登りお参りをして、高台に有る本堂前から広がる関東平野を望むと、青空の先、地平線上に筑波の霊峰から北に連なる足尾山や加波山が霞んで見えていました。
筑波山遠望.jpg
(持明院の本堂前から望む関東平野)

そこから東宮神社に向かいましたが、こちらはまだ春の訪れを見つけられませんでした。
東宮神社2.jpg東宮神社1.jpg
(東宮神社本殿)                 (東宮神社拝殿)

東宮神社から表参道をへ出て、県道栃木佐野道を渡り、更にその南を流れる藤川を渡って、栃木特別支援学校の前へ、そこから田園地帯を西に真っ直ぐ伸びる道路を歩いていきます。
そこから見る皆川城址は、まだ冬の装いのままでした。
皆川城址遠望.jpg
(冬の装いが残る皆川城址)

道路の突き当たり、山の中腹に建つ傑岑禅寺へ、趣のある山門を潜って本堂前へ。杉木立に囲まれた山の東面は陽だまりに成っているのか、梅の老木には春の色が溢れていました。
皆川城内町の早春2.jpg皆川城内町の早春3.jpg
皆川城内町の早春4.jpg
 
今日の歩行数は、10,369歩になりました。
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上空からの本州四国連絡橋 [橋梁]

先月、北九州空港から羽田へ向かう飛行機の窓から、ひたすら眼下に見える風景を眺めていると、雲の切れ間から瀬戸内海の島々が現れては又、雲の陰に消えていきます。
昨年は、羽田から福岡空港への途中、富士山の姿を窓越しに見る事が出来たので、今回は逆ルートで又、富士山を観られればと計画しましたが、天気予報的には期待できない雲行きでした。
富士山.jpg
(飛行機の窓越しに望む富士山、昨年1月撮影)

飛行機には滅多に乗ることが有りませんが、新婚旅行で北海道に行った帰り、眼下に現れた風景が、まさに日本地図を見ている様で、真っ青な海に緑の山並み、ハッキリと東北の海岸線が見えたときの感激は、今も忘れられません。
そんな気持ちで、ずっと移り変わる雲の行方を追っている内に、島から島へ延びる一筋の線を発見しました。急いでカメラのレンズをズームアップして見る。間違いなく本州四国連絡ルートのひとつ、しまなみ海道の超大吊橋群を捕らえました。
来島海峡大橋.jpg
(瀬戸内しまなみ海道の「来島海峡大橋」、手前が四国側今治市)

「瀬戸内しまなみ海道」は、本州側「広島県尾道市」と、四国側「愛媛県今治市」を、大小七つの橋で結んだ全長約60kmの自動車専用道路ですが、雲の切れ間から姿を現したのは、その一番四国側に当たる、「来島海峡大橋」です。写真手前(下)が四国側に成ります。
写真には連続して三つの吊り橋が写っていますが、手前から「来島海峡第三大橋」(橋長1,570m)、「来島海峡第二大橋」(橋長1,515m)、「来島海峡第一大橋」(橋長960m)で、合わせて「来島海峡大橋」です。

そこから4分程経つと再び雲の切れ間から新たな吊り橋の姿が見えてきました。
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(本州四国連絡橋、児島・坂出ルートの「北備讃瀬戸大橋」)

本州四国連絡橋の3ルートの中で、一番最初に開通した岡山県倉敷市と香川県坂出市とを結ぶ、「児島・坂出ルート」となる「瀬戸大橋」で、ルート上には6橋が架けられていますが、私の視界に現れたのはその中で、四国坂出側の「南備讃瀬戸大橋」(橋長1,648m)と「北備讃瀬戸大橋」(橋長1,538m)です。南側は半分雲に隠れて来ていました。

橋影が視界から消えた後6分程で、今度は神戸市と淡路市とを結ぶ「明石海峡大橋」(全長3,911m)が、眼下に姿を現しました。
明石海峡大橋.jpg
(神戸市と淡路市とを結ぶ、「明石海峡大橋」、主塔の高さは海面上約300mにも)

吊橋の規模を示す中央支間長(塔と塔の間の距離)は1,991mで現在世界第一位に成っています。
考えてもいなかった「本州四国連絡橋」3ルートの橋の一部ですが、上空から見る事が出来てラッキーでした。
今回の旅行の一つの目的は、北九州市の「若戸大橋」を見る事でした。

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(北九州市の洞海湾に架かる「若戸大橋」。日本で最初の長大橋)

幸い「若戸大橋」を訪れた時は、季節外れの雨が上がった後で、朱色の橋が夕焼けを浴びて、黒い雨雲をバックに浮かび上がって見えました。
「若戸大橋」は北九州市の洞海湾に架かる、若松区と戸畑区を結ぶ橋長が627mの吊り橋で、着工は昭和33年(1958)、開通したのは昭和37年(1962)9月27日、この橋は日本での長大橋のさきがけで、建設当時は東洋一の吊橋でした。
現在で、日本国内には更に大きく長い、多くの長大橋が、架橋されています。

吊橋で、世界的に有名なものは、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコの、「ゴールデン・ゲート・ブリッジ(金門橋)」だと思いますが、私は40年程前に訪れ、その壮大な姿を写真に収めました。
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(南橋詰より)                    (北橋詰より)

私にとってこの時が初めての海外、それも一人旅でした。ですからサンフランシスコ空港に到着した時、「タクシーはこちらへ」と促され、そこにはリムジンが止まっていて、ホテルまで向かいました。親切な運転士に相応なチップを渡しましたが、あとで考えると、私は白タクの餌食に成ってしまったようです。それでも無事にホテルにたどり着きました。翌日早速今回の旅の一番の目的地「ゴールデンゲートブリッジ」へ。まずホテルの前からタクシーに乗って南側(サンフランシスコ市側)から橋を渡り、北側橋詰に有る展望台へ。しかし、逆光でシルエット状にしか見えない、数枚写真を撮って、すぐに南側橋詰に戻って貰い、タクシーを降りました。必要以上の金銭を財布に入れていなかったので残金が僅かに。仕方なくそこからブラブラとサンフランシスコ湾の波打ち際を歩いて、もう一つの吊り橋「ベイブリッジ」に移動しました。

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(サンフランシスコ市とオークランド市とを結ぶ「ベイブリッジ」)

現在、世界最長の吊り橋は、今回私が上空からわずか1分間程ですが、雲の切れ間から眺めた、1998年完成の「明石海峡大橋」(中央支間長1,991m)、に成ります。2位が1981年完成したイギリスの「ハンバー橋」(中央支間長1,410m)、3位が1964年完成アメリカニューヨークの「ベラザノ・ナロウズ橋」(中央支間長1,298m)、そして4位が1937年完成の「ゴールデンゲート橋」(中央支間長1,280m)、となています。記録はどんどん破られていっています。

今度は是非、現在世界一位と言う「明石海峡大橋」を近くで眺め、渡ってみたいと思います。

※参考資料:「橋のはなし Ⅰ」吉田巌編(技報堂出版)、編者は「本州四国連絡橋公団の理事をされていました。この書籍は吊橋の事が詳しく解説されています。
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都賀町原宿の、磐根神社入口脇に建つ「大正湧泉記念之碑」 [石碑]

栃木市都賀町原宿に鎮座する「磐根神社」の参道入口に建つ、石の鳥居の左脇に幾つかの石仏や石碑が並んでいます。その中に後方で他より背の高い石碑が目に留まりました。
磐根神社(原宿).jpg
(磐根神社の入口に並ぶ石造群)

石碑上部の篆額部分には、「大正湧泉記念之碑」と篆書体の文字で浮き彫りされています。
揮毫した人物は「正三位勲四等子爵戸田忠友篆額之書」と、碑文冒頭に刻まれています。
「戸田忠友」は、下野宇都宮藩の最後の藩主。明治の版籍奉還で宇都宮藩知事となったが、明治4年(1871)の廃藩置県で藩知事を免職に成っています。明治17年(1884)の華族令で子爵に成っています。大正元年(1912)に正三位に昇叙されています。(最終的には、従二位)
大正湧泉記念之碑.jpg大正湧泉記念之碑(碑文).jpg
(大正湧泉記念之碑)                (碑文書き写し、原文は漢字・カタカナ文)

碑文には、≪古来より原宿の地は水利に乏しく、唯一の水源として頼むのは、西方用水の残流荒川だけで、近年上流にて水田が著しく増加した為、夏季には往々流れが断絶。農民の困苦は年をおいて甚だしく、加えて大正3年初夏には雹害旱災が相次ぎ、畑作物は壊滅に帰し、水田の収穫も又危ういものになった。
ここにおいて有志等会合を以て、湧泉開鑿を行うことを決めて、あちこち場所を探索し、ついに現在の泉地を選定する。直ちに敷地を購入し、7月15日起工、経費5,037円、夫役4,980人を投じて、大正6年10月1日竣工、既成改田17町8段5畝歩を得る。組合員一同終始和合協力して、僅かな失敗も無く、湧水も予想以上に豊富であった。この成功は神明の加護によるものである。事業の終了に際して、関係者一同相謀って、その由来を碑に記し、後世子孫に伝える。≫との内容が記されています。

ここで言う「大正湧泉」はどこに有ったのだろうか。まずは都賀町原宿の場所を再確認してみたい。
「都賀町原宿」周辺の概略図を作ってみました。
都賀町原宿周辺地名概略図.jpg
(栃木市都賀町原宿周辺概略図)

原宿の北側には西方町本郷、東側には都賀町家中、西側は都賀町木、南は木野地町等に隣接し、中央を北関東自動車道が横断、又、県道177号(上久我栃木線)が縦断しています。
西側の都賀町木との境には、思川の小倉堰から取水した西方用水の一つ「荒川」が流れています。

更に詳しく石碑が建つ原宿の「磐根神社」周辺を確認する為、国土地理院発行の2万5千分の1地形図「下野大柿」を基に、概略図を作ってみました。
都賀町原宿上付近概略図.jpg
(原宿の旧村社「磐根神社」周辺概略図)

「下野大柿」の2万5千分の1地形図の発行は意外と遅く、最初に発行されたのが、昭和46年12月28日です。そこには荒川の河道は描かれていません。地図記号で描かれていたものは①都賀町立木村小学校の「文」記号、(昭和55年3月31日、統合により廃校)。②磐根神社の鳥居記号、③玉塔院の「卍」記号、そして④記念碑記号です。(現在神社前に有る石碑とは場所が異なっています。)

昭和52年9月30日発行の地形図を見ると、県道栃木粟野線沿いに煙突の地図記号が追記されています。
三和酒造(株)の煙突です。創業は明治中期ですが、すでに廃業されています。製造していた銘柄は創業以来の「多喜水」、他に「大平冠」も造られ、合わせて二種と聞きました。

平成元年6月1日発行の地形図を見ると、荒川の河道が新たに描かれています。上記の概略図中央を左右に蛇行して左下に向かう線が荒川に成ります。これを見ると以前の荒川は現在石碑の建つ「磐根神社」の直ぐ西側を流れています。又、木村小学校の地図記号が消えています。

平成15年1月1日発行の地形図を見ると、北関東自動車道が現れました。その結果、概略図右上に有った記念碑記号が自動車道のルートに当たり、無くなっています。又、蛇行していた荒川の河道も直線的に改修されました。

平成30年8月1日発行の最新の地形図を見ると、北関東自動車道周辺の田畑や道路が直線的に改修されています。上記概略図には破線で表示しています。これは北関東自動車道整備に併せて、周辺の区画整理及び灌漑排水、農道整備を進めた結果になります。(県営土地改良総合整備事業、赤津南部地区)

「大正湧泉記念之碑」の碑陰を見ると、≪北関東横断道路の建設に伴い 大字原宿愛宕北127-3に建設されて居りました記念碑を神社境内に移転します。 平成8年1月吉日≫のプレートが埋め込まれていました。

やはりこの記念碑は、かつての地形図に記されていた場所に建っていたことが、確認されましたが、その「大正湧泉」の場所が何所なのかは、区画整理が行われた後では確認は難しいのかもしれない。
都賀町史を開くと、「水利について」と題する項目が有ります。その一部を抜粋します。
≪当町は小倉川(思川)に北から東にかけて包まれるような形になり、また西の方には西方村真名子の方から流れ出してくる赤津川が流れており、二大水源となっている。地質的には、赤津川から東が沖積層であり、西が洪積層であるというが、西の方が山からの湧水などを集める小さな河川もあり、比較的水利に恵まれていた。しかし、沖積地の方は扇状地であり水利に恵まれず、小倉川からの用水を利用した。西方村から赤津地区を流れる小倉用水と、家中地区を流れる桑原用水がある。家中では、桑原用水が出来るまでは水田は少なく、竹筒に入れた米の音を聞かせると死人が生き返るとか病気がなおってしまうと言われたとつたえられているほどである。 しかし、、田植えの頃など、水を一斉に使うので特に下流の方は水不足の問題があった。そこで、地下水を掘り出す湧泉(ユウセン)があちことに作られた。≫として、「明治湧泉」「川久保湧泉(金剛湧泉)」「万延湧泉」「文久湧泉」等々の湧泉名が列記されています。そして≪これら以外にも、西方村地内から、大正湧泉、雷神湧泉がひかれ・・・・(後略)≫と、ここに「大正湧泉」の名前が出てきました。

「大正湧泉」は北隣の西方地内に有って、そこから原宿まで水路を開鑿して、灌漑用水を確保したもので、磐根神社入口に建つ石碑は、そんな地域の歴史を静かに伝えているものでした。

※参考資料:
  ・国土地理院発行、2万5千分の1地形図「下野大柿」
  ・都賀町史:都賀町発行



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立春の日光連山を望む [自然の恵み]

今日は立春、朝から良く晴れて我家からも男体山が輝いて見えました。
せっかくだから、私が知っている近くの日光連山ビューポイントに移動して写真に収めました。

まずは少し高い場所へ。標高が80メートル程の錦着山上が、近くて日光連山全体を望むことが出来るポイントです。
錦着山上からの日光連山.jpg

そして、もう一ヶ所は、錦着山の西麓を流れる永野川に架かる、上人橋上からの眺めです。
永野川「上人橋」上からの日光連山.jpg

午後に成って少し雲が広がってきました。少し吹く風も肌に冷たく感じられます。ここ数日、暖かい日が続いていますが、天気予報ではこの暖かさも明日まで、その後は本格的な寒さが到来すると、注意を呼び掛けていました。
まだまだ、雪化粧をした日光連山を楽しめそうです。

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広島県呉市の市街地で、戦艦大和のデザインマンホール蓋を巡りました [歩く]

広島県呉市と言えば、明治の初めに鎮守府が置かれ、先端技術を集積した軍港都市。戦艦大和が建造された地としても有名です。
今回、その呉市を訪れ市街地を歩いて、戦艦大和をデザインしたマンホール蓋を探して、撮影して来ました。
市街地を歩くと、街中に川が流れ、そこに幾つもの橋が架けられています。私の好きな街の風景です。おのずと川沿いを歩く事に。
呉市の街並みは明治初期に海軍が、鎮守府と工廠を併設させ、水道や鉄道と言った社会基盤の整備を進めた為、三方を山に囲まれ、瀬戸内海に続く入江に注ぎ込む、「堺川」と「二河川」のふたつの川の河口近に出来た平坦地に、道路が碁盤の目の様に直交する、街並みが広がっています。

JR呉駅前から北東に一直線に伸びた「今西通り」を中心線として、左右対称に二つの川が並行して流れています。駅前を横断する国道31号を左に320メートル程行くと、「二河川」に架かる「二河大橋」。右に315メートル程行くと、「堺川」に架かる「昭和橋」へ。その先、呉郵便局前交差点を左に320メートル程行くと、「二河橋」へ。右に316メートル程行くと「堺橋」。といった具合に成っています。
呉市街地の道路と橋 概略図.jpg
(広島県呉市、JR呉駅周辺道路と河川概略図)

栃木市に住む私は、街中を縦断して流れる「巴波川」とそこに架かる多くの橋、そしてその橋の名前に興味を持ちました。
巴波川はその源流の一つ、川原田町の白地沼から藤岡町の渡良瀬遊水地内で、渡良瀬川に合流するまでの間に、現在、人道橋を含め49橋架けられています、その間の距離はおよそ24.5キロメートルとすると、平均の橋間距離は約491メートル。栃木の市街地(栃木外環道の「蟹田橋」から栃木小山線に架かる「平成橋」までの間)だけを考えると、その流域距離は約3キロメートル、そこに19橋架かっていますから、平均橋間距離は約167メートルということに成ります。
呉市の「堺川」を見ると、市街地(河口から相生橋まで)だけですが、流域距離は約1878メートル、その間の橋の数は17ヵ所ですから、平均橋間距離はおよそ110メートルですから、歩いていると次々と橋が現れるので、つい夢中になってしまいます。

今回歩いたのは「堺川」に沿って、「亀山橋」から「花見橋」までです。その480メートルの間で6つの橋を鑑賞出来ました。一番気に入った橋は「堺橋」、昭和7年(1932)の架橋と言う。昭和42年(1967)まで路面電車の「呉市でん」が上を走っていたそうです。
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(堺川に架かる「堺橋」、下流側左岸より)     (堺橋の欄干と親柱)

「五月橋」の親柱の上にはガス燈が有ります、とても洒落た形状をしていて、現在も夜になるとオレンジ色の暖かい光を放っているそうで、点灯した様子を見て見たかったです。
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(堺川に架かる「五月橋」の欄干と親柱)  (親柱の上にはモダンなデザインのガス灯)

その五月橋の右岸橋詰に、戦艦「大和」の主錨の複製が展示されていました。
寸法は、全高5.472メートル、全幅2.834メートル、重量15トンと説明が有りました。
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(重量感あふれる戦艦大和の主錨)

それでは、その戦艦大和をデザインしたマンホール蓋が設置されていると言う、美術館通りに向かいます。
堺川を渡り南東方向へ進むと、アケードの有る商店街、そこも通りすぎると広い道路に出ます。国道185号です。右折して国道を南西方向に進むと、JR呉線のガードが見えてきます。そのガード下を抜けると、道路左手にワインレッドの3階建てのビルの前へ。旧呉海軍下士官兵集会場(青山クラブ)の建物で、現在は「海上自衛隊呉集会所」です。建物の外壁には、アニメ映画「この世界の片隅に」の風景や人物などが描かれています。
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(旧呉海軍下士官兵集会場の建物)   (アニメ映画「この世界の片隅に」のワンカット)

そのビルの前を過ぎ、左に折れると目的の「美術館通り」。赤レンガ敷きの広い歩道に街路樹が並び、多くの彫像作品が展示されています。
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(呉市立美術館への案内表示)       (「美術館通り」 日本の道100選の一つ)

「美術館通り」入口に早速、戦艦大和を描いた二枚のマンホール蓋が設置さえていました。
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そのまま歩道を歩いていくと次々と違うデザインのマンホール蓋が見つかりました。
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呉美術館前に「日本の道100選」を示す碑が建てられています。
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美術館通りの端に、「入船山」「旧呉鎮守府長官官舎」の表示を付けた趣のある門扉が有ります。「入船山記念館」です。
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(「入船山記念館」の門扉)                 (旧呉海軍工廠塔時計)
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(旧呉鎮守府司令長官官舎)

「入船山記念館」入口付近の歩道にも、戦艦大和のマンホール蓋は設置されていました。
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「美術館通り」の端まで来ましたが、ここまで見つけたマンホール蓋は8枚です。10枚有るというので、記念館の人に尋ねると、残りの2枚は少し離れた「呉海軍墓地」近くに有ると言われたので、思い切ってそちらも尋ねる事にしました。
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(呉海軍墓地標柱)(墓地内には多くの艦艇と共にした戦没者の為の慰霊碑が建っている)
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(戦艦大和戦死者之碑)             (「呉海軍墓地の沿革」碑) 

近くの道路上に目指した最後の2枚のマンホール蓋を発見しました。
このデザインは、戦艦大和の最後の姿を描いたものだと言います。
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戦艦大和のデザインマンホール蓋を探しながら、かつての軍港として発展した呉市の街を僅かながら垣間見た感じです。

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