SSブログ

ドライブスルーの話

今、世界は新型コロナウイルスの感染拡大と言う、大きな問題に直面しています。
テレビのニュースでは、朝から晩まで、この話題で持ちきりです。
中国の武漢にて爆発的な感染拡大となり、世界中が注目をしました。そして、ウイルス感染者が多発した、クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」に対する、日本国の対応にも注目が集まりました。
そして今、感染者は世界中に拡散して、多くの国が感染拡大を抑え込む事に、必死になって対応しています。
感染拡大を抑え込む手段として、感染の有無の検査を行い、感染が確認された人を早期に隔離して、二次感染者を出さないことが重要であるとして、検査の強化が求められています。

お隣の韓国においては、ある宗教団体の集団感染も有り、騒然となりましたが、自動車に乗ったまま検査場に乗り付けて、車の窓越しに検体を採取して検査を行う、ドライブスルー方式を導入、検査数を確実に増加させました。その結果多数の陽性判定者を出して、その対応に一時苦心されましたが、結果として感染者を隔離する事で、感染の拡大を封じ込める事に成功されました。素晴らしい対応だと思います。

車から降りることなく、乗ったまま目的を達成することが出来る「ドライブスルー」。現在私の住む街ではまだそれほど多くは見られませんが、私の記憶では最初に「ドライブスルー」を行ったのは、栃木環状線と太平山公園線との交差点角に有る、「マクドナルド栃木バイパス店」だったと思います。
今では同じファストフード関係で、「モスバーガー栃木店」。そして「スターバックスコーヒー栃木倭町店」などが、ドライブスルーを行っています。
先の日曜日、モスバーガー店のドライブスルーには、車が列を成していました。
ドライバスルー6.jpg
(写真は平柳町二丁目のマクドナルド環状線栃木店)
ドライバスルー3.jpg
(モスバーガー栃木店、休日と有ってドライブスルーは行列が)
私が利用している、調剤薬局でもドライブスルーでの対応窓口が有りました。
ドライバスルー5.jpg
(ドライブスルーの窓口の有る調剤薬局)
又、チョッと特別な所としては、栃木警察署近くにある質屋さん、こちらもドライブスルーで利用出来る様です。
ドライバスルー4.jpg
(ドライブスルーで利用できる質屋さん)

日本国内には、他にもいろいろな業種のドライブスルーが有ると思いますが、ドライブスルーの発祥地はやはり自動車王国のアメリカでしょう。
ドライバスルー2.jpg
(約40年前のアメリカ、テキサス州ダラス郊外の風景)
日本国内でもよく見る看板が目に着いたので、写真に収めました、ここで初めて私はドライブスルーを体験しました。次の写真もアパートの近くに有ったドライブスルーの写真現像プリント取次店です。この写真もこの取次店に依頼をしたものです。
ドライバスルー1.jpg
(スーパーの駐車場内に建つ、写真現像プリントのドライブスルー取次所)

私がその当時驚いたのが、銀行の窓口がドライブスルーで利用出来た事です。さすがにそこは写真を撮ることが出来ませんでしたが。小切手を渡して現金を受け取ることが出来ました。
40年程前の事ですが、さすがにアメリカは自動車社会の先進国だなと、色んな場面で関心をしていました。
それらのドライブスルーの殆どが現在、日本国内でも行われていると聞きます。ただ写真の取り扱いはデジタルカメラの普及で、現像に出す必要も無くなったし、プリントも自宅で出来る様に成っていますが。
nice!(0)  コメント(0) 

小平橋の桜が早くも見頃に [自然の恵み]

一昨日、まだ1分咲きとお伝えした「小平橋の桜」、今日見に行った所、早くも見頃を迎えていました。
小平橋の桜(見頃に).jpg
(巴波川に架かる小平橋の橋詰に咲く桜が、5分咲きへ)

一昨日は殆ど蕾の状態だったものが、一気に開花していました。昨日も1日良く晴れて、暑いと感じる様な陽気でしたから、桜も慌てて開花を始めたのかもしれません。
見た感じでは、5分咲き程度に成っているでしょうか。
小平橋の桜(五分咲き).jpg
(今日、見頃を迎えた、小平橋の桜)

今年の開花状態は、異常と思えるほど早い咲き具合ですが、比較する為に2017年3月25日に撮影をした写真が有りましたので見てください。
小平橋の桜(2017年3月25日).jpg
(2017年3月25日撮影の小平橋の桜、まだ全然開花していない状態です)

全然開花していないですね。川岸も茶色の肌を露出させ、草花もまだほとんど見られません。
この年5・6分の開花状態になったのは、10日も遅い4月4日です。次の写真がその時撮影したものです。
小平橋の桜(2017年4月4日).jpg
(2017年4月4日撮影の小平橋の桜、やっと5から6分咲きの状態です)

この現象も、地球温暖化によるものなのでしょうか。この夏の暑さが心配です。

nice!(0)  コメント(0) 

栃木旧市内の桜の開花状況 [自然の恵み]

昨日の強風、春の嵐の後、今日は風も弱まり、たっぷりの日差しを受けて、初夏の様な陽気となりました。
昼近くに、自転車の乗って、家の近くの桜の開花状態を確認に出かけました。

家の近くで、私が最も好きな花見スポット、巴波川の小平橋橋詰に向かいます。
開花しています。1分から2分咲きでしょうか。巴波川の水量もかなり少なく成っています。川床が半分くらい露出しています。
小平橋の桜(一分咲).jpg小平橋の桜(まだ蕾が多い)).jpg
(小平橋の右岸橋詰の桜は、1から2分咲きです)(まだまだ蕾の方が多いです)

次の目的地へ向かう途中、嘉右衛門町の妙唱寺本堂前の枝垂桜がピンクに染まる枝を垂らしていました。
妙唱寺枝垂れ桜.jpg
(妙唱寺本堂前の枝垂桜は見頃に成っていました)

自転車を飛ばして、新栃木駅前通り沿いに植樹された、巴波桜の状況を見に向かいました。
巴波桜は早咲きなので、やはり多くの木々はピークを過ぎてしまった感じです。まだ花付が良い所を写真に収めてきました。
新栃木駅前通りの桜.jpgうずま桜満開.jpg
(満開となった、新栃木駅前通りの巴波桜)(巴波桜はすでに満開に成っていました)

暫らくは安定した天候が続きそうですから、小平橋脇のソメイヨシノも直、満開を迎えるでしょう。
その日が来るのが楽しみです。
nice!(0)  コメント(0) 

西方町との境界近く、都賀町富張に建つ石碑 [石碑]

今回、気になった石碑は、都賀町富張の北東の端、西方町の元と本郷との境界近く、道路の脇、木の陰に隠れる様に建っていました。
和賀井翁壽鑛碑1.jpg
(都賀町富張の北欧の端、木の陰に隠れる様に建つ石碑)

碑表上部の篆額には、篆書体文字にて「松壽軒碑」と、陽刻されています。
その下の碑文冒頭には、「和賀井翁壽壙碑」の文字が刻まれています。この石碑は「和賀井翁」の顕彰碑のようですが。
和賀井翁壽壙碑2.jpg和賀井翁壽壙碑(碑陰).jpg
(碑表篆額部分、「松壽軒碑」の篆書体文字)(碑陰の左下部、建築惣代4名の苗字が並ぶ)

この石碑に関する資料を探していた時、元都賀町文化財保護審議委員長だった植木誠治さんが、かつて「広報つが」の文化財めぐりの連載の中で、「都賀町の私塾」について書いていました。の記事冒頭で、この石碑の人「和賀井翁」についても述べています。その部分を一部抜粋して参考に掲載させて頂きます。
≪幕末から明治初年にかけて、我が町で私塾を開き門弟を教えていた人達がいた。赤津地区では和賀井栄順の善覚院、土屋麓の土屋塾、家中地区では佐山諒斉の渡辺塾(醤油製造業の渡辺文六が諒斉を招き開いた塾)である。和賀井翁寿壙碑は、富張九六四番地、若林イシさん宅の入口にあり、磊山土屋翁寿蔵碑は大柿南嶺の土屋宅にある。渡辺塾は中新田足銀東にあったが碑はない。町史によれば栄順は修験者であり、大和聖護院の梨甚栄の弟子となり、権大僧都法印になったという。退隠後、都賀郡富張村にきて善覚院に住み、手習などを教え、子弟の数一五九名の多数となった。(後略) ≫

碑文を書き写しました。漢字の中には普段は見慣れない物も有り、間違って書き写した漢字も有るかもしれない。文章が漢文体なので、今回も私には、どのように読んだら良いのか、全く分からない状態です。ただただ漢字一字一字を辞書でその読み方、意味を調べて、そこから何となく文章の意味を推し量る事が精いっぱいになっています。
松壽軒碑(碑文書き写し).jpg碑文の一部.jpg
(碑文を書き写してみました)      (碑文の一部、見慣れぬ漢字があちこちに)

篆額の文字「松壽軒碑」を揮毫した人物、元老院議官従三位勲二等子爵岩下方平は、幕末から明治維新に活躍した人、薩摩藩士から、倒幕活動に尽力、王政復古の大号令では、徴士参与として小御所会議に参席している。新政府においては、京都府権知事や大阪府大参事などを務めている。

碑文を撰した人物は、市内藤岡町の人、森鷗村。幕末から明治の儒学者。藤岡にて鷗村学社を開き、門下生には栃木県におけるビール麦栽培の基礎を作った「田村律之助」(太平山あじさい坂中程に、胸像が建てられてます)や、実業家の岩崎清七などがいます。

調べて行く中で、石碑の主役である「和賀井翁」に関する情報が中々得られません。つたない知識で碑文を何度も読み返しても、ハッキリした人間像を描けません。その一つの原因は、碑文には具体的な時間軸がほとんど記されていまい点に有ります。唯一日付けが出ているのは、文末の「明治二十一年戊子十一月」と言う建碑に関わる日付けのみです。「和賀井翁」が何時生まれたのかと、何時どこどこへ移った等の具体的記載は有りません。
碑文冒頭に有るのは、「下毛の都賀郡富張村にて、数十年間、郷の弟子たちに教授していた。」 それは何時か。生まれについては「翁原姓は吉水、幼名は新六、後に栄順と称する。阿蘇郡吉水村の人」と記されていますが、何時かは分かりません。「出自は藤原秀郷の裔孫で吉水小太郎、諱は国綱」などと記されています。大和聖護院にて修行を積んで、権大僧都法印となっている。「門主の二品雄仁法親王の入峰修行に従った」と記されていますが、この雄仁法親王は伏見宮邦家親王の第二王子で、天保2年(1831)に聖護院で出家した人物。
和賀井翁は「退隠の後、富張村の善覚院に住み、塾を開き近隣の子供達に手習いなどを教えた」と有るが、何故富張村に来たのか、何時「和賀井」姓を名乗ったのか読み取れなかった。

そもそも碑文冒頭の「和賀井翁壽壙碑」の、「壽壙」とはどんな意味が有るのか。熟語で調べても出て来ません。単語で見ると、「壽」は①ながいき・長命、②とし・よわい、③ことほぎ・いわい。などの意味。一方「壙」は①あな・はかあな、②ひろの、何もないがらんとした野原、③むなしい、④むなしくする・からっぽにする。などの意味が有りますが、これら二つの漢字を合わせた意味はどうなるのか。

そこで最初に引用した「広報つが」の「都賀町の私塾」の抜粋した文章の中に有った、もう一つの私塾「土屋塾」の石碑の紹介には、「磊山土屋翁寿蔵碑」と記されています。この「寿蔵」の意味を調べてみると、≪存命中に建てておく墓。寿冢(じゅちょう)≫との説明が有りました。もしかしたら「寿壙」も同様の意味に成っているのではと思われますが、和賀井栄順が何時死去されたのか分からないので、それも検証出来ませんでした。今回も難解な石碑を選んでしまいました。その上、今は新型コロナウイルスの感染拡大を予防する為、栃木市内の図書館も全て閉館となっていることも有り、調査が思う様に出来ませんでした。これは言い訳かも知れませんが。

碑文の解釈はあきらめて、「和賀井」という苗字について調べてみると、面白いことが分かりました。この苗字は全国的にみると、非常に珍しく、都道府県で一番多いのは栃木県(約38%)となっています。更に県内では栃木市が一番多くて約63%となっています。そしてその栃木市内でも西方町が75%を占めていますし、その西方の中でも大字本郷周辺に集中していました。ちなみにちょっと古いですが2004年の旧栃木市の電話帳を見ても、たった2軒しか「和賀井」姓は載っていませんでした。

「西方都賀の郷土史」(早乙女慶寿著)に、その土地出身の著名な人物列伝が有りました。その中で西方町では190名の名前の中に和賀井姓が10名、都賀町では89名の列伝に1名、確認されています。
同書の「第二章 江戸時代の西方、都賀の姿」に、≪西方記録の西方郷は下野国都賀郡皆川庄西方郷とあり。江戸時代の西方郷は、城附五千余町、峰村、冨張村、下宿村、富加見内村、金井村、柴村の六ヶ村であったが、慶長年中西ノ原に引退き村を建てた。所謂古宿村、中宿村、大沢田村、新宿村である。又同年富加見内村(又深見内村とも書く)から田谷村出る。開発人は和賀井四郎右エ門。(後略)≫と、記され「和賀井」と言う人物が田谷村を開発した事がわかりました。又、江戸時代の山木菅太郎知行所の田谷村名主は和賀井勇蔵と記されています。さらに、上記人物列伝にて西方町出身の和賀井姓10名中9人は、「大字本郷田谷」の出身です。

石碑の裏面、碑陰に刻まれている文字を確認すると、大勢の名前が並んでいます。その内容は、大橋村8名・元村22名・深澤村5名・原宿村10名・本郷村18名・臼久保村6名・富張村55名、の名前が確認出来ました。そしてその後に「特別賛成」として22名の名前。更に「協議會頭」として14名の名前、最後石碑の左下には「建築惣代」として、越路身壽・中田定吉・伊東孝三郎・成瀬良治という4名の名前が並んでいます。

これら碑陰に並ぶ人達は、石碑を建てる事に賛同した人達だろうか、富張村の関係者が多いのは、和賀井翁が居住していた所であり、当然の事でしょう。
西方町・都賀町の大字.jpg
(石碑が建てられた周辺の村々。青字は西方町、赤字は都賀町の地名)

上図の中央部、富張・本郷・元の境界近くに石碑の地図記号を付しました。
この概略図により、碑陰に刻まれた地名が、全て石碑の建つ周辺に分布していることがハッキリ分かります。

最後にこの「和賀井翁壽壙碑」の手前右側に、もう1期石碑が建てられていました。
線刻不動明王像.jpg署名部分.jpg
(石碑には不動明王が線刻されています)(左下部に「藤原勝重謹寫」「石工清水■」とある)

碑表には、見事な不動明王の姿が線刻されています。和賀井栄順が修行した聖護院が、本尊を不動明王としている事が関連しているものと思われます。

※参考資料:
    広報つが 2007年3月号 「歴史再発見」 文化財めぐり 
                      都賀町の私塾(文化財保護審議委員長 植木誠治著)
    ウィキペディアより、「岩下方平」「森鷗村」「聖護院」を参考に致しました。
    「西方都賀の郷土史」(早乙女慶寿著)
    
    






nice!(0)  コメント(0) 

大平町運動公園近くの「さくら樹木」園のさくらが見頃に [草花]

先週の3月14日土曜日、東京で桜(ソメイヨシノ)の開花が発表されました。統計を取り始めてから最も早い開花だそうです。
昨日には、私の知人から大平町運動公園近く、「さくら樹木」園の桜が見頃になったとの、電話連絡がありました。ここの桜の木々は、彼が育てたものを寄贈したもので、色々な品種が有って長期に亘って、何かしらの品種の花が咲いていると教えてくれました。
今朝、薄曇りでしたが、次第に青空が広がって来たので、早速見に行ってきました。
大平町さくら12.jpg
(おおひら桜まつり実行委員会による「おおひら桜まつり三十周年記念植樹」とある)
大平町さくら10.jpg
(「さくら樹木」の標柱側面に、寄贈者名が記してありました)
大平町さくら1.jpg
(さくらを見に来ている人の姿も見受けられました)
大平町さくら2.jpg
(色々な品種の桜の木が有り、すでに葉桜に成った物、まだまだ開花に成らない物も)
大平町さくら4.jpg
(青空にピンクの桜の花が引き立ちます)
大平町さくら3.jpg
(白い桜ピンクの桜の競演も見られます)

彼に案内して頂き、色々品種の名前を教えて貰いましたが、どれがなんだか分からなくなってしまいました。広い園内を歩いて見て回ると、花の色も形も微妙に異なっていて、見飽きません。
大平町さくら6.jpg大平町さくら8.jpg
大平町さくら5.jpg大平町さくら7.jpg
大平町さくら9.jpg大平町さくら11.jpg

例年よりも早く、桜の花見を満喫する事が出来ました。

※この場所は、大平町に有る「栃木市大平運動公園」の東端、赤津用水路の右岸に成ります。駐車場は運動公園の駐車場を利用。
nice!(0)  コメント(0) 

西方町元に建つ「中宿湧泉完工記念」の碑 [石碑]

栃木市西方総合支所ふれあいプラザの駐車場南西隅に建つ石碑について、調べてみました。
中宿湧泉完工記念碑1.jpg
(「中宿湧泉完工記念」の碑、後方は栃木市社会福祉協議会西方支所)

石碑上部には、「中宿湧泉完工記念 理事長上田善市書」と刻まれています。この題字を揮毫した「上田善市」氏は、第11代の西方村村長に成ります。
中宿湧泉完工記念碑(碑表).jpg中宿湧泉完工記念碑(碑陰).jpg
(「中宿湧泉完工記念」の碑表)       (「中宿湧泉完工記念」の碑陰)  
 中宿湧泉完工記念碑(碑文).jpg中宿湧泉完工記念碑(碑題).jpg
(「中宿湧泉完工記念」の碑文書き写し)     (碑上部の題字部分)

石碑を撮影に行ったときは、丁度石碑に電柱の陰が掛かっていました。石碑隣の現在栃木市社会福祉協議会の西方支所の場所は、昔は保育園だったのか、今も多くの子供たちが敷地内の遊具で遊んでいました。
近くでカメラを持ってうろうろしていると不審者と思われては困るので早々に退散して来ました。
後日、子供たちのいなそうな午前中に出かけましたが、今度は碑の表側は逆行で陰に成ってしまい文字が読めない状態でした。碑陰側の文字はハッキリと確認出来ました。
撮影してきた写真を基に碑文を読み、書き写してみました。

西方町史を見てみると、「中宿湧泉と水田の拡がり」と題した一文が有りました。一部抜粋してみます。
≪小倉堰からの取水によって大きな三本の分流を有する西方村でも、その水の枝川が行き届かない所には水の苦労があった。小倉堰から取水できる水量は水利権とからんで制限されているので、特に下流(南部地区)においては不足分の水の補充には井戸からの汲み上げや、湧泉の拡大が必要であった。・・(中略)・・大字本城の中宿・大字元の峰地内から富張(栃木市)に至る地域の水不足を補うために、昭和20年に、集中暗渠による中宿湧泉の計画が矢部藤七村長によって進められたのも、このような背景があったのだろう。この工事は、早くも22年6月には完成して人々に喜ばれたが、使用材料が木材中心であったため、日ならずして所々に陥没が生じる欠点も表面化し、25年からコンクリート工法による復旧工事を必要とする問題も出た。そのため、次の大森昇、上田善市を含めて三代の村長の関わる工事となり、31年まで工事が続いた。この湧泉の完成により、大字本城南部と大字元の西部地区は良質米の穫れる美田地帯となった。戦後間もない頃の食糧不足を補うために、地元農家にとってこの湧泉はありがたいものであった。(後略)≫

碑文冒頭に出てくる、昭和20年2月当時西方村長職に在り、小倉堰普通水利組合管理者であり、中宿湧泉を計画起工された「矢部藤七」氏については、「栃木市西方公民館」の玄関前方のロータリーの中央に胸像が建てられています。

西方総合支所前.jpg
(栃木市西方公民館前に建てられた「矢部藤七翁像」)

矢部藤七翁の胸像が乗る台座の背面に据えられた碑文に、翁の略歴や功績について記されています。
碑文を書き写しました。
台座背面の碑文.jpg
(矢部藤七翁像台座背面の碑文書き写し)

※参考資料:西方町史(発行西方町)
nice!(0)  コメント(0) 

北九州市小倉の街を歩く [歩く]

北九州市小倉は、「銀河鉄道999」の作者である漫画家松本零士さんが、中学から高校時代に暮らしていました。北九州市ではそんなゆかりから、平成30年度の下水道100周年を記念して、「銀河鉄道999」のキャラクターなどを描いた、9種類のデザインマンホール蓋を制作し、JR小倉駅周辺に設置しました。
そんなニュースを聞きつけて、今回、小倉の街を訪問する計画を立て、街中を歩いて見つけてきました。
JR小倉駅.jpgモノレール.jpg
(JR小倉駅)                     (モノレールが運行している)
九州の玄関口JR小倉駅は、新幹線停車駅であり立派な駅舎で、モノレールも有ったので驚きました。
小倉祇園太鼓の像.jpg森鴎外京町住居跡.jpg
(駅南口前の小倉祇園太鼓像) (駅南口ロータリー南西側に建つ「森鴎外京町住居跡」の碑)
南口から出ると、駅前に「祇園太鼓」の像が目に入りました。小倉祇園太鼓と言えば、私が小さいころ「無法松の一生」と言う映画を見に行った記憶が有りました。
駅前のロータリーを南西方向に進み、商店街に入る辺りに1基の石碑を見つけました。
「森鴎外京町居住跡碑」の標柱と説明文を記した石碑です。碑文によると森鴎外は≪第十二師団軍医部長として赴任、明治32年6月から同35年3月まで小倉に来住した。(後略)≫との事。この石碑の建つ場所に住居が有ったそうです。
マンホール蓋と案内表示.jpg
(商店街の通路上に設置された松本零士さんのデザインマンホール蓋)
アーケードの有る商店街の通路を進むと、目的のデザインマンホール蓋が設置されていました。
昼の紫川.jpg
(北九州市小倉南区から北区を縦断して北流、響灘に注ぐ二級河川の紫川)
小倉駅南口の繁華街の西側を北流する「紫川」。川の西側に小倉城の天守閣が木々の上に姿を見せています。
八坂神社.jpg小倉城.jpg
(小倉城内に鎮座する八坂神社)      (美しく蘇えった小倉城天守閣)
北側から堀を渡り小倉城内に入ると、小倉祇園の八坂神社参道の大鳥居が建っています。鳥居の前を抜けて進むと、天守閣北東側のお堀越しに石垣の上に聳える天守を望む。
小倉城天守閣は、江戸時代の末期、1837年に失火により焼失。1959年に現在の天守閣が再建。再建60周年を迎えた2019年にリニューアルオープンしてと言い。まだ新しくなって1年も経っていないので、美しい姿を見る事が出来ました。
宮本武蔵と佐々木小次郎の像.jpg
(剣豪佐々木小次郎と宮本武蔵のモニュメント)
天守閣前の広場に建つ「宮本武蔵と佐々木小次郎」のモニュメントも、今回のリニューアルと同時位設置されたと言います。
小倉県庁跡.jpg
(小倉城公園の北側、小倉北区室町二丁目に残る「小倉県庁跡」のレトロな建物)
レトロな建物の脇に建つ案内板によると、≪廃藩置県に先立つ明治4年4月、「西街道鎮台」が小倉に設置された後、同年11月から、福岡県に合併される明治9年4月までの4年半の間、小倉県庁が有った。(中略) 明治9年4月18日に福岡県に合併された後、裁判所、警察署等を経て、現在に至る。≫と、記されていました。
常盤橋.jpg
(紫川に架かる木の橋「常盤橋」、擬宝珠を載せた親柱)
常盤橋の東橋詰に建つ「常盤橋の由来」によると、≪常盤橋は江戸時代の初め頃、小倉の城下町の東曲輪(主として町人が生活していた地域)と西曲輪(主として武士が生活していた地域)を結ぶ、重要な橋として架けられ、当初は大橋と呼ばれていました。この橋の西勢溜(橋詰)が長崎街道の起点となっていたため橋の周辺は幕府役人や旅人の宿などが立ち並んでにぎわっていました。(後略)≫という歴史の有る場所でした。そんな由来も有って、平成7年3月完成のこの「常盤橋」も昔のイメージとしての、「木の橋」として架けられた様です。
伊能忠敬測量200年記念碑.jpg
(伊能忠敬 測量200年記念碑)
木の橋「常盤橋」の東橋詰近くに、「伊能忠敬 測量200年記念碑」が有りました。
この懸念碑は、北九州市の「1級都市基準点 第2001号」ともなっています。「東経130°52′40″.497 北緯33°53′お9″.732 標高4.068m」
碑文によると≪(前略) この小倉城下・常盤橋は、九州伊能測量の始発点であり、小倉の五街道(長崎街道・唐津街道・中津街道・秋月街道・門司往還)の起点として意義深き地点である。 (後略)≫と説明されています。
火の橋.jpg海の橋.jpg
(「室町大橋」・火の橋)               (「紫川大橋」・海の橋)
紫川の小倉都心部流域に関して、100年に一度の大雨に耐えられる安全な川づくりを進めるとともに、道路や公園、市街地整備などを一体的に整備し、民間と行政が協力しながら、北九州市の顔づくりを進める、「紫川マイタウン・マイリバー整備事業が、平成2年度から平成26年度まで(河川事業は継続)が行われ、その10カ所の橋はそれぞれ、海・火・木・石・水鳥・太陽・鉄・風・音といった自然をテーマにデザインされているそうで、「室町大橋」(火の橋)は紫川で昔行われていた鵜飼の漁火をモチーフにしていて、弓状の柱の先から高さ1メートルものガスの炎が吹き出すそうです。(金・土・祝祭日の夜間、夏季19時~22時、冬季18時~22時。30分おきに10分間ずつ点火)
「紫川大橋」(海の橋)は、海にもっとも近く、潮の香りが強く感じられる橋。照明灯が船のマストを、後脚が船の舳先をイメージしてデザインされている橋だそうです。

夜の小倉の街も少し歩いてみました。
夜の小倉駅.jpg夜の小倉駅前.jpg
(夜のJR小倉駅)                    (JR小倉駅前)
夜の紫川.jpg
(イルミネーションの光で、名実ともに「紫川」が現れました)
夜の小倉城.jpg
(暗闇の中に浮かび上がる小倉城天守閣)

小倉の街を歩き回り、9種類のデザインマンホール蓋を写真に収めることが出来ました。
マンホール蓋01.jpgマンホール蓋02.jpgマンホール蓋03.jpg
マンホール蓋04.jpgマンホール蓋05.jpgマンホール蓋06.jpg
マンホール蓋07.jpgマンホール蓋08.jpgマンホール蓋09.jpg

街歩きの総歩数は、23,542歩になりました。
nice!(0)  コメント(0)