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タイ王国の首都バンコクの橋巡り [橋梁]

テレビのニュースでは、今日から本格的なゴールデンウィークに入る中、新型コロナウイルスの感染拡大防止の外出自粛要請で、人影が消えた各地の様子を、昨年の映像と比較して流していました。
私も感染するのは嫌だし、他の人にうつすのはもっと嫌なので、極力自宅に引き籠もる生活を続けています。体力が衰えるのを少しでも抑える為、朝はラジオ体操第一・第二を、そして本当に久しぶりに縄跳びに挑戦をしました。最初はビックリするほど体が動かず、1回も飛べない始末。それでも毎日続けていると、10秒・20秒と続く様になって来て、今は何んとか40秒程度まで、連続で飛べるようになって来ました。
それでも、時間を持て余す為、家の周りを掃除するので、埃だらけだった家の周りが、少し見られる様になって来ました。
そんな事で、このブログの話のネタも過去に撮影した写真がベースになって来ています。
今回は10年程前に撮影したバンコクの橋を取り上げました。

バンコクと言えばタイ王国の首都で、「天使の都」とも呼ばれています。その街を流れる川と言えば、チャオプラヤ川が有名です。この川にはバンコク域内だけでも12カ所に架橋されていますが、今回はその中で私が歩いて渡った二つの橋をまず紹介します。
最初に渡った橋は、戦勝記念塔から真っ直ぐ西方向に走る「ラチャウィティ通り」がチャオプラヤ川を渡る場所に架かる「クルントン橋」です。この橋は曲弦トラス式6径間で、1957年に開通した4車線、全長366メートルの立派な橋です。が、老朽化の為に2012年8月28日から、6輪トラック以上の大型車両は通行禁止に成っています。
クルントン橋(.jpg
(曲弦トラス式6径間のクルントン橋、右岸橋詰のレストランより撮影)
クルントン橋1.jpgクルントン橋(親柱).jpg
(4車線、両側に歩道も付いています)(橋の親柱です。タイ語表示が有りますが読めません)

次に渡った橋は、「クルントン橋」の一つ下流側の「ラーマ8世橋」です。
タイ国政府観光庁ホームページによると、≪ラーマ8世橋は、ラタナコシン島からトンブリーへの交通渋滞を緩和するための王室プロジェクトとして建てられました。ウィスカサット通り(Wisut Kasat Road)とアルンアマリン通り(Arun Amarin Road)を結ぶチャオプラヤー川を渡るこの橋は、非対称の斜張スタイルで世界5番目に長い橋としてバンコクのランドマークにもなっています。≫と、紹介されています。
非対称斜張橋で、2002年5月7日に開通、全長475メートル、主塔高さ160メートルに成ります。

ラマ8世橋(公園より).jpg
(ラーマ8世橋、右岸橋詰下流側の「ラーマ8世公園」より撮影しました)
ラマ8世橋(主塔と親柱).jpgラマ8世橋(ライトアップの主塔と親柱).jpg
(斜張橋の主塔と親柱) (ライトアップされた主塔と親柱、ナイトクルーズの船上より撮影)

次はチャオプラヤー川からはなれます。バンコク中心部主要交通システムのBTS(通称スカイトレイン)に乗って、少し北に行ったモチット駅の直ぐ目の前に有る「チャトチャック公園」です。公園の南隣には「チャトチャック市場」も有り、休日には多くの人が訪れます。公園内では木陰で休む時に、下に引くゴザを貸し出すサービスが有ります。そんな公園の北の橋近くに有る池に3番目に紹介する橋は有ります。
チャオチャック公園内の橋1.jpg
(チャトチャック公園内の池に掛けられている橋)
チャオチャック公園内の橋2.jpgチャオチャック公園内の橋3.jpg
(休日公園には沢山の人が憩いを求めて集まります)(緩やかな曲線を描く橋)

チョッと変わった形の橋が王宮近くの運河に架けられています。その形は有名な画家ゴッホが描く「アルルの跳ね橋」の片側だけにした様な形の橋です。
王宮近くの運河に架かる跳ね橋1.jpg王宮近くの運河に架かる跳ね橋2.jpg
(ゴッホの名画「アルルの跳ね橋」の片側だけにした様な橋)
この橋は、スクンビットから乗り合いバスで王宮へ出かけた時、バスの終点近くで見つけました。

スクンビットから王宮方面に移動する手段としては、水上バスで行く方法も有り、私も何度か利用しました。水上バスが走る運河の名前は「セーンセーブ運河」と言い、バンコクの街の中心部を東西に横断しています。
セーンセーブ運河の水上バス2.jpgセーンセーブ運河の水上バス3.jpg
(セーンセーブ運河の水上バスは、いつも満員状態です)
セーンセーブ運河の水上バス1.jpg
(運河の川面に白波を立てて走る水上バス)

この「セーンセーブ運河」には、人が歩いて渡る小さな橋から、パヤータイ通りの様に車線が八つも有る広い橋等、多くの橋が架けられています。そんな運河の西端、民主記念塔の東、マハーカーン砦の脇の運河に架かる橋が「パーンファーリラート橋」です。
パーンファーリーラート橋1.jpg
(右側の橋が「パーンファーリーラート橋」です。左奥がマハーカーン砦)
パーンファーリラート橋(親柱).jpgパーンファーリラート橋(親柱の飾り).jpg
(背の高い堂々とした親柱)     (親柱中程の装飾品)

親柱の装飾と言い、高欄の装飾と言い、他には見られない豪華な橋です。
この橋の外にも、セーンセーブ運河に架かる橋には、親柱や高欄に嗜好を凝らした橋が有ります。
私が気付いたものを紹介します。

№2高欄.jpg№4高欄.jpg
(マハトタイウット橋の高欄)            (チャロエンラット橋の親柱)

№8高欄.jpg№9高欄.jpg
(シャレルムラ56橋の象の親柱)   (シャレルムワールド55橋の高欄)

外にも気になる橋がまだまだ沢山有ります。出来る事なら又、行ってみたいものです。
その為にも、早くこの「ステイ・ホーム」が終わって欲しいです。

今回参考にした資料は、グーグルマップですが、著名な地名等は日本語や英語で記載されていますが、マイナーな地名はタイ語記載のみの為、読解不可に成ります。簡易翻訳機能で確認を試みたりしましたが、誤解釈の心配も有りますので、ご容赦下さい。

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太平山謙信平に建つ石碑を巡る [石碑]

前回、太平山謙信平に建つ「根岸政徳君碑」について書きましたが、その中で謙信平には他にも多くの石碑が有ると言いました。今回はそれらの石碑を見て歩きたいと思います。
太平山謙信平の地名由来の案内板が現地に建てられています。
「謙信平」地名由来.jpg
(謙信平に建てられた、地名のいわれを説明する案内板)

謙信平は太平山上に鎮座する「太平山神社」の南東方向に位置し、標高200mから230mの馬の背の様な地形が、東西方向に広がり、中央部を横断するように遊覧道路が通り、道路に沿って太平山名物の団子や焼き鳥・卵焼きや土産物を販売する飲食店が軒を連ねています。
道路南側の広場に多くの石碑が点在しています。石碑の場所を記した謙信平の概略図を作ってみました。
石碑は西から東に向けて番号を付し、その番号順に巡って行きます。

太平山謙信平周辺石碑分布図.jpg
(謙信平の石碑分布図、左側から右側に№1から№10の石碑が建っています)

それでは早速、石碑巡りをスタートします。
最初は謙信平西側の小丘の頂上に建つ、「山本有三文学碑」です。
山本有三文学碑小.jpg山本有三文学碑碑文.jpg
(最初の栃木市名誉市民、山本有三文学碑)(小説「路傍の石」の一節を撰して碑文に)

大きな卵状の自然石に「山本有三先生の寿像レリーフ」と、栃木市民であればだれもが口ずさむ事の出来る、先生の代表作の一つ、小説「路傍の石」の中の一節を刻したプレートが嵌め込まれています。碑陰には「1963年3月、栃木市建設、 撰文 高橋健二、寿像 石井鶴三、 鋳造 伊藤忠雄」と刻したプレートが埋め込まれています。 
私は中学生の頃、建てられたばかりのこの石碑の前で、友達と記念写真を撮っています。その写真を見ると石碑の周りは雑木一本無く広々としていました。現在石碑は木々にうずもれる様にひっそりと建ています。

2番目の石碑は、文学碑の建つ小丘から下った前方に建っています。石碑正面から眺めると、外観の感じがさき程の文学碑と同じようです。卵状(チョッと扁平ですが)の自然石に二か所プレートが嵌め込まれています。
「さくら名所100選の地」碑.jpg「さくら名所100選の地」碑1.jpg
(「さくら名所100選の地」の碑)    (石碑に嵌め込まれた「太平山のさくら由来」の碑文)
右上の長方形のプレートに、「さくら名所100選の地 太平山県立自然公園 平成2年3月3日 財団法人日本さくらの会」と刻まれています。左側の花びらの形をしたプレートには、当時の栃木市長鈴木乙一郎による「太平山のさくら由来」が刻まれています。

3番目の石碑は、前回(4月11日付)紹介した、栃木町の初代町長「根岸政徳君碑」です。山本有三文学碑への東側登り口脇に建てられています。(ここでの説明は省略します)
根岸政徳君碑1.jpg根岸政徳君碑(碑文).jpg
(初代栃木町長、「根岸政徳君碑」)     (「根岸政徳君碑」の碑文、書き写し)

4番目の石碑は、飲食店「松乃屋」の前方、広場の中央付近に南向きに建つ「松根東洋城句碑」になります。
東洋城句碑.jpg
(松根東洋城句碑)
この句碑は、碑陰に「昭和11年(1936)4月、栃木渋柿会」と、建立時期と建立者が刻まれています。
松根東洋城は大正4年(1915)に、俳誌「渋柿」を創刊。関東大震災により印刷所が被災した為、栃木市内に移ってきました。「目で見る栃木市史」には、≪東洋城はしばらく岡田嘉右衛門邸内に在住、その住居を無暦庵と号していた。≫と、記しています。「渋柿」は昭和27年(1952)まで、栃木市内にて発行されていました。
石碑に刻まれた句は、「白栄や 雲と見をれば 赤痲沼」です。
ここ謙信平からは、南方に広がる関東平野の奥に、かつては赤麻沼が白雲の如く、望まれた様です。現在は渡良瀬遊水地の葦原が広がっています。地平線には東京スカイツリーや新宿副都心のビル群を望むことが出来ます。

5番目の石碑は、東洋城句碑から少し東に行った場所に西向きに建てられています。ズッシリと重量感溢れる自然石に数名の人物により思い思いの言葉を寄せ書きしたものを、碑文として刻んだものです。
達筆な文字は、思う様に読む事が出来ません。刻まれた文字や絵を頑張って移し書きしてみました。
水戸天狗党鎮魂碑.jpg水戸天狗党鎮魂碑(碑文).jpg
(水戸天狗党を偲んだ鎮魂碑)        (碑に刻まれた寄せ書き文を書き写し)

石碑右上から大胆に書きつけられた文字は、「懐昔 勤王士義旗此地揚 方々頼無事 題石米元章」、そしてこれを書いた人物は「秋月種樹(あきづきたねたつ)」です。日向国(現、宮崎県)、高鍋藩世嗣、幕末・明治期の政治家、明治天皇侍講、書家としても有名な人物。
石碑中央下部に小さな文字で、この石碑の由来とも言うべき文章が刻されています。
「紀元二千五百四十一年六月二十四日 太平山同遊者 
    秋月種樹 佐藤保之 清水文敏 海老沼俊三 坂倉利吉
    清水徳太郎 石川久三 清水益平 字埜秋琴 堀川孝
    及徳太郎之細君阿三子 文敏之女阿甲子也 余亦
    在同遊喜而記之     坪井晋 誌」
日付けは、明治14年6月24日、水戸天狗党が滞陣した太平山を訪れた秋月種樹一行、義士を偲んで寄せ書きし、それを石碑に刻みました。その意味でこの石碑は、「水戸天狗党鎮魂碑」であり、「天狗党滞陣記念碑」とも言われています。碑文中には他12名の名前が見えますが、この中で確認出来た人物は、「秋月種樹」の外は「佐藤保之」です。この人の名前は「下都賀郡小誌」の冒頭沿革の文中に見つけました。その部分を抜粋します。≪明治十一年十一月、郡区編制法施行に臨み、始めて郡役所を栃木町に設け、本県四等警部佐藤保之を以て郡長に任じ、下都賀寒川の両郡を統治す・・・(後略)≫と、記されています。尚、上記の名前には出て来ていませんが、石碑右下に「高田俊貞」、初代栃木町戸長の名前が刻まれています。興味深い石碑です。

6番目に向かう石碑は、これまで見て来た広場から南側に一段下がった山肌を巡る道の脇に建っています。そして6番目の石碑の直ぐ隣には、7番目の石碑も建てられています。
謙信平の石碑⑥⑦.jpg
(飲食店の並ぶ広場から、南側に一段下がった山際に建つ2基の石碑)

先ず6番目の石碑です。碑の上部「題額」には、「添野五耕翁碑」と刻まれています。
添野五耕翁碑.jpg添野五耕翁碑(碑文).jpg
(修復された「添野五耕翁碑」)         (「添野五耕翁碑」碑文書き写し)

「題額」の文字は従二位勲一等宮中顧問官子爵品川彌二郎が揮毫したものです。
撰文は碑文冒頭に有りますが、「本県平民  森保定」ですが、「森鷗村」と言う号の方が、良く知られています。碑文の最後に明治27年8月の日付けが見えます。
石碑の人物「添野五耕」は、文化四年(1807)絹村大字延島(現、小山市)に生まれています。
「下都賀郡小誌」の「郡の誉」に「故添野覺平」として載っております。一部抜粋させて頂きます。
≪・・(前略)・・殖産興業に力を致し私費を投じて用水路を開鑿し、荒蕪の地を開拓して良田となす、偶々洪水ありて絹川沿岸に築設しある田川堤塘の缺壊に遭遇し、私財を抛ち復旧修築して被害民永遠の災厄を免れしめたり、同村は古来養蠶業盛んに行われ殊に紬織物の生産地として名聲を博し、斯業の改良發達は地方の福利に關する影響多大なるを以て、・・・後略・・≫このことは、石碑の碑文中にも刻まれています。養蚕の開発・普及にも尽力をした偉人です。
何故、絹村の人物の顕彰碑がここ太平山謙信平に有るのか、先ほどの「下都賀郡小誌」に答えが有りました。≪明治24年8月11日歿す時に65歳、時の郡長佐藤保之氏等有志と謀り、永く其功績を傳へんが為に碑を太平公園に建設し、・・(後略)・・≫ と。下都賀郡の人々にとって、太平山はどこからも見える山で、信仰を集めていたことが窺えるます。
この石碑、私が2017年1月に訪れた時は、真ん中で縦に割れてしまっていましたが、今回訪れた時には、接着剤と金属バンドで立派に修復されていました。
添野五耕翁碑(修復前).jpg添野五耕翁碑(修復後).jpg
(2017年1月に撮影、中央部から割れています)(接着剤と金属バンドとボルトで固定修復)

右隣に建つ7番目の石碑は、碑面一杯にビッシリと漢字を並べた碑文が刻まれています。その冒頭に「綽軒中島先生遺愛碑」と有ります。
綽軒中島先生遺愛碑.jpg綽軒中島先生遺愛碑(碑文).jpg
(綽軒中島先生遺愛碑)             (「綽軒中島先生遺愛碑」碑文書き写し)

今回訪問しましたら、石碑の脇に「埼玉県久喜市の久喜・中島敦の会」によって、碑に刻まれた人物の紹介文が設置されていました。(石碑を見て歩く人にとって、こうした案内板が有る事は、ありがたい事です。)
綽軒中島先生紹介版.jpg
(「綽軒中島先生遺愛碑」脇に建てられた案内板)
「栃木郷土史」の「維新栃木の聡明」の節の(四)庶民教育中に、「明誼学舎」の事が掲載されています。
≪明治12年中島靖の栃木町入船町に開いた皇漢学の私塾で、明治39年2月没するまでの27年間続いた。門弟千三百余人、明治栃木の指導層にある人々の総ては、恐らくその門人というも過言であるまい。氏は埼玉県久喜町(現、久喜市)の儒者中島撫山の長子で真に高行清節の士であった。≫と。
今回最初の石碑の人物、山本有三も幼少の頃、父の言いつけでこの塾に通い、漢詩・論語の素読、日本外史等を学んでいます。

8番目は謙信平の駐車場の南の端、展望の地に建つ「関東の富士見百景」の石碑。
「関東の富士見百景」碑.jpg富士山遠望.jpg
(「関東の富士見百景」の碑)      (石碑の場所から関東平野と富士山を望む)
「関東の富士見百景」は、平成17年11月に、国土交通省関東地方整備局が主催して選定をした、128景233地点。この地点名は「太平山県立自然公園謙信平」になります。
私も時々この場所に来ては、富士山の眺望を楽しんでいます。

9番目の石碑は、遊覧道路を六角堂方向に下る途中、「県立太平少年自然の家」の入口の近くに有ります。
木立をバックに遊覧道路に面して建てられていますが、車ですと見過ごしてしまいます。直ぐそばに駐車場が有りますから、そこを利用すれば便利です。
この石碑は、「新井青幹句碑」になります。
新井青幹句碑.jpg
(新井青幹句碑)
碑陰に、「昭和五十年十一月二十三日除幕 新井青幹句碑建立委員会樹石」と刻まれています。
「かなかなの しづかにをれば ふたつかな    青幹」

最後、10番目の石碑は「史蹟慈雲律僧之墓」です。
9番目の句碑に向かって左側の木々の中に有る。目の前に先程の駐車場が有り、遊覧道路から駐車場に入る分岐に木製の「慈雲律師の墓入口」と書かれた標柱が建てられています。
慈雲律師の墓入口案内.jpg史蹟慈雲律僧の墓入口.jpg慈雲律僧の墓.jpg
(慈雲律師の墓入口の標柱) (墓所入口に建つ石碑) (「慈雲菩薩道空墖」と刻まれた墓石)

墓所への入口に建つ「史蹟 慈雲律僧之墓 入口」の碑陰には、「昭和十年十月吉日建之 發願者特志一同」と刻まれています。
木立に囲まれた墓所には、「當山律院完基 慈雲菩薩道空 墖」と刻まれた石碑が一基。右側面には「明治元戊辰歳九月廿二日寂 弟子慈門建之」と見えます。

「慈雲律師」について、「目で見る栃木市史」に掲載されています。抜粋させて頂きます。
≪越前【福井県)の人である、日光律院にいたが、安政五年(1858)太平山内の法泉院に転住した。加持祈祷に妙を得、多くの人々の病苦を救い、窮民にめぐみ、近村の子弟をあつめて学問を教えた。二杉橋を俗に律僧橋というが、これは慈雲律師が托鉢して資金をつのり、この橋をかけたゆかりによる。≫
「栃木郷土史」の第四編最近世、第一章第五節の当代の代表人物には、(二)「名僧慈雲律師」として、更に詳しい人物紹介が掲載されています。

現在、新型コロナウイルスの感染拡大防止の為、「ステイ・ホーム」が叫ばれ、外出自粛要請が行われており、多くの人達が我慢の毎日を過ごしています。「開けない夜はない」です。
何時か自由に外出が出来る様に成ったら、太平山に登って関東平野を見渡せば、リフレッシュ間違いなしです。そして、時間が有ったら謙信平の石碑を見て頂きたいです。
 
今回の参考資料:
  ・目で見る栃木市史(昭和53年3月31日、栃木市発行、編集栃木市史編さん委員会)
  ・下都賀郡小誌(昭和52年2月28日、歴史図書社発行、編者下都賀郡役所)
  ・栃木郷土史(昭和52年8月20日、歴史図書社発行、著者栃木郷土史編纂委員会)
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今回は全く私の趣味「橋」の話題 [橋梁]

時節柄、毎日毎日家籠りの生活を続けています。昨日は一日心地よい晴天、本来なら行楽日和と成るところ。それでも新型コロナウイルスに感染しない為、そして感染を広げる事にならない為、我家の敷地から一歩も出ずに過ごした。今日は幸いと言うか、朝から雨で家籠りにも、諦めが付きます。
ここの所ずっと外出を控えているので、昔のアルバムを引っ張り出しては、それを眺めて時間を潰す事が、多くなっていますが、その中で今までずっと疑問を抱えていた、一枚の橋の写真が有りました。そこの、この際その写真に写る橋の事を調べる事としました。
ウェーコ吊橋2.jpg
(テキサス州ウェーコ市のブラゾス川に架かる「ウェーコ吊り橋」)

その写真は、40年ほど前にテキサス州のダラスから車で、フリーウェー(一級州間高速道路)35Eを南に走り、州の首都「オースチン」を経由して、更に南の「サン・アントニオ」まで、ドライブをした時に撮影をしたものですが、それが何所で撮った写真か全く記憶に残っていなかったのです。
写真に写る橋は吊り橋で、近くに銘板が設置されている所から、結構有名な建造物と思われ、橋大好き人間としては、それを分からないままにする事が、如何にも諦めきれないので、時間に余裕が有る今こそと考え、グーグルマップを利用して、フリーウェー35のルート上を毎日の様に探し回っていました。そして遂にその橋を見つけ出すことが出来ました。
テキサス州.jpgテキサス州内関連都市.jpg
(テキサス州の合衆国内のロケーション)    (テキサス州内の案内図)

グーグルマップには、「ウェーコ・サスペンション・ブリッジ」と記されています。その橋が架けられている場所は、ダラスのダウンタウンから南に約140キロメートルの都市「ウェーコ」の中心部です。西北西から東南東方向に流れる、ブラゾス川右岸のブラゾスと左岸イースト・リバーサイド間に架けられています。
周辺の状況を、グーグルマップを参考にして概略地図を作成してみました。
ウェーコ吊橋周辺概略地図.jpg
(ウェーコ吊り橋の架橋場所概略地図)

橋の名前が分かったので、それで検索をすると、有りました。やはり歴史的建造物として、「アメリカ合衆国国立史跡登録」と成っています。
その解説文を引用させて頂きます。関係の薄い部分は削除しています。
≪ウェーコ・サスペンション・ブリッジは、テキサス州ウェーコ市のブラゾス川に架かっている。主径間475フィート(145m)を持つ、単径間吊り橋です。竣工は1870年、その主塔には約3万個におよぶ煉瓦が使われています。橋の架かる場所は、ウェーコ市中心部の北部に有り、川の南西側(右岸)のインディアン・スプリング・パークと、北東側(左岸)のドリス・ディ・ミラー・パークを継いでいます。”インディアン・スプリング・パーク”は、「そこは凍るような冷たい水が湧く泉」の有る川岸で、ウェーコの町の起源と成る所で、かつてヒューコ・インディアンが定住していました。
1869年以前は、ブラゾス川を渡る唯一の方法は、渡し船に依らなければ成らなかったが、それも時間は掛かるし、時には厳しく危険を伴うものでした。地元のビジネスマン達は、産業をサポートしていくには橋が必要で有る事を理解していました。彼らは州より承認を受けた「ザ・ウェーコブリッジ会社」を設立して、資金調達と建設のプロジェクトを立ち上げました。
戦後ウェーコに移り住んだ、オースチンの弁護士で銀行家のジョン・ティ・クリント氏は、「フリント&チャリバン」という商社を設立、単身ニューヨークに出かけ架橋の為の契約を行いました。
1868年10月に雇用された技術者トムズ・エム・グリフィスは、橋建設の為の建材やケーブルを、ニュージャージー州トレントンの「ローブリング会社」より、調達を始めました。建設地にて材料を調達するには、当時のウェーコ地区では機械工場が不足していて、最も近い鉄道ルートも100マイル(160km)以上離れていました。又、十分な技能を有した職人達のいる最寄りの町「ガルベストン」は、ここから212マイル(341km)以上も離れていました。
原材料は「ガルベストン」にて蒸気船に載せて輸送し、「ブライアン」にて牛が引く荷馬車に積み替えて、輸送しました。「ブライアン」から「ウェーコ」への道路は、路面がデコボコした悪路で、19世紀のテキサス州基準に対しても劣っていました。
吊橋のケーブルを支持する対の二重主塔は、地元で製造された約3万個の煉瓦にて築かれました。その時代の土木技術としては、高く評価をされるものでした。
初めて通行料を徴収したこの吊橋は、1870年1月1日に開通しました。
径間が475フィート(145m)有るこの橋は、テキサス州にて最初の重大な吊り橋と成りました。この橋は、駅馬車が互いに通行が出来る為の、十分な広さが有りました。
橋の建設費用は14万ドルでしたが、ブラゾス川を当たる為の唯一の橋だった為、歩行者や牛が渡る為の通行料5セントにて、速やかに償却する事が出来ました。
1889年に、この橋は「マクレナン郡」に売却され、通行料は無くなっています。
1913年から1914年に掛けて、橋の大規模補修が行われ、古い材料を交換して、ハイグレード材のトラスを設け、両サイドに歩行者用歩道を備えた、強固な橋と成りました。
1971年に開通100周年を越えて、馬車橋から自動車橋へと変換したウェーコ吊り橋よりより大きく、安全が保障された橋が建設され、州歴史委員会はウェーコ吊り橋の引退を判断しました。
この橋によってウェーコの町は、小さな開拓の町から、主要な商業の中心地にと発展する事が出来ました。今日、この橋は徒歩での通行のみと成っています。国立史跡登録が成されています。≫
ウェーコ吊橋1.jpg
(約3万個の地元産煉瓦で造られた、重量感のある対の二重構造主塔)

下を流れる「ブラゾス川」についての、少し調べていました。
このブラゾス川はアメリカ合衆国を流れる川の中で、長さが1,390kmで14番目にランクします。日本の川で流路延長が一番長い信濃川でも、367kmですから、比較になりません。ちなみに合衆国で一番長い川は、ミズリー川で、3,768kmにもなります。
≪ブラゾス川はテキサス州を流れる大きな川の一つで、かつては東テキサスと西テキサスの境界を示すために使用された事も有ります。川はテキサスの歴史、特にオースティンも入植地と、テキサス革命の時代と密接に関連していた。≫との説明が有りました。

日本とアメリカとでは、国土面積が比較になりませんので、参考になりませんが、栃木県内の吊り橋で同じような規模の物は無いか探しましたが、チョッと見当たりません。現在は架け替えられて姿を消しましたが、日光市足尾町の渡良瀬渓谷に掛けられていた吊り橋が思い浮かびました。
砂畑橋(渡良瀬川).jpg砂畑橋(渡良瀬川)2.jpg
(日光市足尾町、渡良瀬川に架かっていた旧砂畑橋)

この吊橋の写真は、2002年2月に撮影したもので、青空に白亜の門構えのケーブルを吊る主塔が印象的でした。竣工は主塔部分に銘板が有り、「昭和三十八年三月竣工」と表示されていました。自動車一台通過するのがやっとでした。残念ながら2010年3月に現在の橋(桁橋)に架け替えられ、残念ですが吊り橋は姿を消しました。

テキサス州ウェーコの吊り橋は、この砂畑橋より約100年前に架橋されたものですが、スクラップ&ビルドのアメリカにて、現在まで保護され残されて来ているのも感動です。
グーグルマップには、このウェーコ・サスペンション・ブリッジの表示の下には、ランドマーク・ブリッジと付記されていました。この吊橋はまさに、ウェーコ市の象徴と成る建造物だったのです。
再度、訪れて見たいと思いますが。

参考資料:グーグルマップ
       ウィキペディア「アメリカ合衆国の河川の一覧」「ウェーコ(テキサス州)」など

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太平山謙信平に建つ「根岸政徳君碑」 [石碑]

太平山県立自然公園の謙信平には、数基の石碑が建てられています。その中で多くの市民に知られている石碑は、西端小丘上に建てられた「山本有三文学碑」でしょうか。
今回紹介する石碑は、この文学碑と同じ小丘の上に建てられたいます。小丘東側から文学碑への登り口の右脇に建つ高さが3メートル近くある大きな石碑です。
根岸政徳君碑が建つ小丘.jpg
(山本有三文学碑への登り口右側に石碑が建てられています)

木の陰に隠れる様に建つ石碑に、気付く人は殆んど居ません。「山本有三文学碑」と記した道標に従って、小丘の石段を登って行ってしまいます。

根岸政徳君碑正面写真.jpg篆額部拡大写真.jpg
(石碑正面全体写真)              (石碑上部篆額部、拡大写真)

石碑の上部、篆額の文字を読んでみます。「根岸政徳君碑」と篆書体で陽刻されています。
揮毫された方は、元初代栃木県令で、明治33年当時、貴族院議員従三位勲一等男爵の鍋島幹です。
碑文の撰は、新潟県知事正五位勲四等文学士の千頭清臣。書は梨本宮家令従七位勲八等の日高秩父に成ります。
碑文全文を書き写しました。
根岸政徳君碑(碑文).jpg根岸政徳君碑(碑陰).jpg
(「根岸政徳君碑」の碑文書き写し) (碑陰には発起人31名の外、108名の名前が)

石碑の「根岸政徳」と言う人物については、碑文中にその生い立ちから経歴に至るまで記されていますが、私の苦手な漢文表記の為、容易に読み下すことが出来ません。文中の漢字を拾い上げて推測するのが精一杯です。
明治期以降の栃木市内の著名人をまとめた、下野新聞社発行の「郷土の人々(栃木・小山・真岡)」の中に、「初代町長が手腕発揮」のところで、≪・・・明治22年の町村制施行で新たに栃木町としてスタートするわけであるが、初代町長には、現在の旭町裁判所西側に有った足利藩戸田家の陣屋で代官をつとめていた根岸政徳が選ばれた。根岸は、戸長鈴木宗四郎から過渡期にある栃木町を引き継ぎ、見事な手腕を持って新しい行政の体制確立に力を尽くすのである。・・(後略)≫
それでは、何故太平山上謙信平のこの場所に建碑されたのか。昭和52年に発行された「栃木郷土史」(歴史図書社発行)の中に、第五節 産業施設の開発の部分に、≪明治維新後における道路の発達は、主として商業の自由を目的としたものであったが、・・(中略)・・太平道は24年初代栃木町長根岸政徳の尽力により改修された。≫と記されている。今回の碑文中にも、≪太平祠四時風光之美鳴・・(中略)・・公園文人雅客尋奇訪秀者不絶踵唯道路険悪莫人不苦・・(中略)・・作一新路坦坦如砥登山如往平地於是崇神訪勝之人曰加多≫と刻まれています。現在の県道太平山公園道が整備されたことで、太平山に訪れる事が容易となり、益々発展する事と成った事で、その功績を讃えこの地に建碑されたのである。

石碑の背面には多くの建碑に関係した人びとの名前が連ねられてます。その数は発起人を含め139名、他に「太平神社社務所」や「倭町三丁目」「栃木米麻取引所・仲買中」「河合町」「石町」等の団体名も見られます。発起人冒頭の人物「大塚惣十郎」は、根岸政徳町長の後を引き継いだ、第二代栃木町長です。その他、その当時の町会議員の名前も多くみられます。これらは多く当時の栃木町の有力者達です。

山本有三文学碑の前には、「山本有三」の説明板が建てられていますが、市内に建つ多くの石碑にも、出来れば同じような説明板が有れば良いのにと、いつも感じています。
山本有三文学碑小.jpg山本有三説明板.jpg
(太平山謙信平に建つ「山本有三文学碑」)    (山本有三氏の説明板)






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外出自粛、庭の草花を見て過ごす [草花]

4月最初の週末、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐために、不要不急の外出を自粛するようにと、テレビのニュース等で繰り返し言われています。どこで感染するか分からない現在、おとなしく家で過ごすことにしました。
そんな中、皮肉にも今日の天気の良い事。初夏を思わせる陽気、そして風も無く穏やかです。のんびりと家の庭先に咲いている花を眺め、写真に収めています。
園芸の趣味は無く、育ち過ぎた枝木を下ろす程度で、ほとんど手入れをする事は無い庭の草木ですが、それでもその時期になると律儀に花を咲かせて、目を楽しませてくれます。

現在一番元気に咲いているのは、ハナカイドウです。
ハナカイドウ2.jpgハナカイドウ1.jpg

スイセンはもう終わりに近づいて、今残っているのは3輪だけです。
スイセン1.jpg

芝桜のだいぶ咲いて来ました。手入れしていないので以前より少なくなってしまいました。
芝桜1.jpg

今年、結構良く花を付けた蝋梅も、すっかり枯れ枝の様な姿を見せていましたが、最近枝に緑の新芽を付け始めました。我家で一番大きなナツツバキの木の枝先にも新芽が出て来ています。あまり大きく育たない様にこまめに枝を切って、高さを調節していますが、それでもドンドン枝を伸ばしています。
蝋梅の新芽1.jpg夏椿の新芽.jpg
(蝋梅の新芽)                 (ナツツバキの新芽)
家の脇を流れる清水川、その川岸にも今、菜の花が咲き、土筆がたくさん頭を出し、冬知らずのオレンジの花が沢山咲いています。
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(川岸に群生する、冬知らずの花)                (たくさんの頭を出している土筆)

この清水川の土手にも、間もなく雑草が生い茂り、除草作業に追われるようになります。
そう考えると、多くの草木が芽生えるこの季節が一番良いのかもしれませ。
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散り始めました、小平橋の桜 [自然の恵み]

昨日は一日中、強い風が吹き荒れていましたが、今日は風も収まり、日差しも暖かくなりましたので、近くの桜を見に行ってきました。
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巴波川に架かる「小平橋」、橋詰の桜は満開を過ぎて、散り始めています。川面には散った桜の花びらが流れています。
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カルガモの夫婦でしょうか、川岸で戯れています。
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桜の花をクローズアップして撮影しました。
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川岸には菜の花も咲いており、ピンク色をバックに菜の花の黄色が浮き上がっています。
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菜の花に桜の花のコラボレーションは、よく見る春の風景です。
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土手には、たくさんの土筆が頭を出していました。
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今年の桜の花見は、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、不要不急の外出自粛要請が出ている中で、遠出が出来ないため、近くで楽しんでいますが、この小平橋の桜で十分満足できました。
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