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栃木市箱森町の鷲宮神社 [栃木市の神社]

今回は、地元の鷲宮神社について調べてみました。
私の写真集の中に、今から50年程前に撮影をした、鷲宮神社の写真が一枚有ります。
その頃の私は、栃木市内の神社仏閣の写真を撮影して回っていましたので、その中に偶然ですが、この鷲宮神社の写真も有りました。
1968年6月撮影鷲宮神社.jpg
(私が昭和43年6月に撮影した、箱森町の鷲宮神社の写真です)

写真には改築されたばかりの新しい拝殿の姿が写っていました。そして、その写真の左端に石碑が写っていますが、その石碑を確認すると、「鷲宮神社拝殿改築記念碑」とあり、「昭和43年4月15日竣工」の日付けが碑陰に刻まれていました。
鷲宮神社(箱森町)石碑1.jpg鷲宮神社(箱森町)石碑2.jpg
(境内の西側塀際に建てられた「鷲宮神社拝殿改築記念碑」、表と裏)

栃木県神社誌(昭和39年2月発行)によると、この「鷲宮神社」について、旧村社、栃木市箱森町453番地、主祭神は天日鷲命(あめのひわしのみこと)、由緒沿革については、天正年間の創立とのみわかり、由緒は不詳である、と記されています。
又、栃木市老人クラブ連合会の伝承活動昭和63年度「栃木市の社寺」には、「運営及び由来」に、≪中世期日向野四郎兵衛の祖先が、武州に戦い鷲神に祈り生還することを得、勧請し守護神とした。天明年間村の鎮守としたが、明治年間まで同家が奉幣していた。現在は自治会が運営している。・・・(後略)≫
他に、栃木県の地名(平凡社・1988年8月25日発行)には、「箱之森村」の解説の文中に、≪約一町四方の郭をもつ中世の御辺(ごへん)館跡は、江戸時代に名主日向野が祖の館として名付けたといい、今も当地一帯を御辺とよぶ。この北東に箱森小屋城があったとみられる。名主日向野が勧請したという鷲宮神社に隣接して松樹院があり、境内に長沼宗光が草庵を結んだと伝える阿弥陀堂があった。これを宗光の通称にちなんで悪五郎堂とよんだ。明治初年に松樹院は廃寺となり、同堂は南坪に移された。≫
これらの文献からも、この鷲宮神社の由緒はハッキリしないのが実態と考えます。

そもそも鷲宮神社の名称が有る神社は栃木県内には、先の栃木県神社誌に登載されているものは、7社しか有りません。良く目にする「星宮神社」は156社、「稲荷神社」が98社、「八幡宮」78社と数が多い神社です。ただ神社には地域性が強いものも有ります。例えば数的には79社と多い「温泉神社」ですが、栃木県南地域では、見る事は有りません、そのほとんどが県北の那須・塩谷地区です。
栃木県内の「鷲宮神社」7社の内2社が栃木市内に有ります。その一つがここ箱森町の「鷲宮神社」で、もう一つは都賀町家中の「鷲宮神社」になります。
鷲宮神社(都賀町)3.jpg鷲宮神社(都賀町)2.jpg
(都賀町家中の鷲宮神社、毎年11月23日の勤労感謝の日には、盛大に例大祭が行われます)

「鷲宮神社」で有名なのは、埼玉県久喜市鷲宮一丁目にある神社で、そのホームページを開くと、「関東最古の大社」「お酉さまの本社」と称しています。
同じ「鷲宮神社」と称していますが、主祭神を見ると、我が箱森町は先に記したとおり「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」、都賀町家中の鷲宮神社の主祭神は、同じ「天日鷲命」の外、「大己貴命(おおなむちのみこと)」「豊受姫命」「火産霊命」の四柱です。一方埼玉県の「鷲宮神社」の主祭神は、「天穂日命(あめのほひのみこと)」「武夷鳥命(たけひなとりのみこと)」「大己貴命」の三柱です。

私は普段神社に参拝する際(寺院の場合も)、そこに祀られている神様(仏様)について、ほとんど気にしていませんし理解していません。こうして改めて調べて行くと、神社と言うものが全く理解できなくなってしまいます。良く日本の神様は「八百万(やおよろず)の神」と称し、実に多くの神様の名前が出てきます。
旧栃木市内に有る神社に祭られている神様だけでも84柱も有ります。その中には、同じ神様でも呼び方や違う漢字で表す神様も居りますので、混乱して来ます。
例えば「大山祗命(おおやまつみのみこと)」を祀っている神社が6社有ります。「大山咋命(おおやまつみのみこと)」読みは同じですが漢字一字が異なっています、3社有りました。他に「大山津見命(おおやまつみのみこと)」の漢字を使っているのが1社。「大山祗神(おおやまつみのかみ)」「大山咋尊(おおやまつぎのみこと)」と書くところが各1社見られました。

「鷲宮神社」に戻ります。栃木県内に7社有ると書きましたが、その内5社が主祭神に「天日鷲命」を祀っています。後の2社は「武夷鳥命」を祀っていました。
鷲宮神社(真岡市)1.jpg鷲宮神社(真岡市)2.jpg
(真岡市鷲巣に鎮座する鷲宮神社、主祭神は「武夷鳥命」になります)
鷲宮神社(佐野市)1.jpg鷲宮神社(佐野市)2.jpg
(佐野市犬伏上町に鎮座する鷲宮神社、主祭神は「天日鷲命」、配神に「武夷鳥命」など)

それぞれの神社の成り立ちが、そこに秘められているのかもしれません。

我が箱森町の「鷲宮神社」は、旧村社と成っています。箱森町の中には他にも「十二社神社」や「雷電神社」の無格社、そして指定社の「錦着山護国神社」が、先の栃木県神社誌に登載されています。その他にも町内には「弦巻神社」や「長江八幡宮」も祀られています。他に無くなってしまったものか「熊野神社」や「小川八幡宮」などもかつては祀られていたようです。
明治4年(1871)の太政官布告に伴う「社格制度」、村社も「一村一社」と言う事で、「鷲宮神社」が選ばれたものと思われます。それも昭和21年(1946)に廃止されました。
現在、この「鷲宮神社」は箱森町西部自治会によって管理されています。 昭和24年度版栃木市勢要覧に有る、「町内別人口及世帯」では箱森町として441世帯・2,230人と記されていますが、その翌年の昭和25年度版では、箱森町西部193世帯958人、箱森町東部176世帯864人、箱森町一丁目99世帯465人、と三つの町内に分割されています。ちなみに現在は自治会は箱森町東部が更に二つに分かれ、「東部」「中央」「西部」そして「一丁目」の4自治会と成っています。但し栃木市の人口統計では分割されず箱森町2,311世帯5,537人(令和2年3月31日現在)と成っています。

冒頭に紹介した「鷲宮神社拝殿改築紀念碑」の碑陰に有る「寄附者芳名」には、寄附金額と名前が刻まれていますが、その中に「東京都」とか「越谷市」「鹿沼市」などの外に、「萬町」「泉町」「箱一」「錦町」などの住所が付記されています。住所の但し書きのない人達は、地元の箱森町西部に在住されている方達であると思われます。

箱森町の鷲宮神社の例祭は、毎年11月23日に行われていますが、かつての賑わいは無くなりました。
それでも地元のお囃子保存会の演奏披露やバザーなどが行われているようです。
私はこの日、神前に参拝した後、境内で販売している、藁苞(わらずと)に米粉を卵の形にこねて作った団子を入れたものを、買って帰ります。この団子を食べるとその年風邪をひかないと、子供の頃から大人たちに聞かされていました。
鷲宮神社(箱森町)幟旗.jpg鷲宮神社(箱森町)卵団子.jpg
(鷲宮神社例祭に掲げられる幟旗) (例祭に販売される卵型団子を入れた藁苞)

この藁苞に入れた卵型の団子については、先の真岡市鷲巣の鷲宮神社にも有り、地元では「つとっこ」と称して神前に供える古式の伝統が受け継がれています。
この神社の有る真岡市鷲巣は旧二宮町長沼の直ぐ南に位置していますが、二宮町長沼と言うと、下野国長沼淡路守宗政より七代、従五位駿河守宗光が正慶二年、由緒ある皆川庄筥森に来て如来堂(松樹院)を建て、念仏三昧に入り、この地で入寂したと言う話に、何か繋がりを感じるものが有ります。
箱森の成り立ち、鷲宮神社の由来等々、地元の事と言いながら、知らない事ばかりです。

※参考資料 栃木県神社誌(昭和39年2月11日、栃木県神社庁発行)
         私見皆川氏・長沼氏と栃木郷(平成15年11月吉日、岸慶蔵著)
         目で見る栃木市史(昭和53年3月31日、栃木市発行)
         栃木市の社寺(栃木市老人クラブ連合会、伝承活動昭和63年度)
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近龍寺境内片隅に置かれた、石造りの梵鐘 [梵鐘]

栃木市の市街地中心部にある浄土宗の古刹、三級山近龍寺。
近龍寺本堂.jpg
(浄土宗の寺院、三級山近龍寺の本堂。栃木市指定文化財になっています。)
その境内の片隅、鐘楼に向かって左手奥、枝振りの良い松の木の下で、枝に隠れる様に置かれた、石造りの梵鐘が有ります。
鐘楼.jpg
(鐘楼、その向かって左手奥、松の木の下に石造りの梵鐘が置かれています)
近くに寄って見ます。形状的には一般的ですが、吊る場合は上部の竜頭の両脇にフックを掛ける金具がついています。高さは竜頭部も含めて約130センチメートル程度でしょうか。
石造りの梵鐘1.jpg石造りの梵鐘2.jpg
(松の木の下、宝篋印塔と並ぶ、石造りの梵鐘) (梵鐘の高さは、竜頭上部まで約130㎝)
鍾身の袈裟襷は、水平方向に上帯・中帯・下帯の三本、垂直方向に四本の縦帯で円周上に四分割しています。正面の縦帯には、「三級山近龍寺」と陽刻され、その下に蓮華文の撞座が施されていますが、この撞座の位置は通常縦帯と中帯の交点に有るのが一般的です。
乳の間には一区画に縦横五列で、25個の「乳」と呼ばれる丸い突起が、規則正しく配列されて、円周上に四区画有りますから、合計百個になります。通常は他に縦帯の上部に2個の乳を付けて、総計百八個という煩悩の数と同じになっているようです。
乳の間の下側、池の間と称する部分に、何やら文字が陰刻されていますので、円周上時計回りに確認をしていきます。

正面縦帯部分.jpg池の間1.jpg
(正面から撮影、縦帯に山号と寺号)  (左隣の池の間①に刻まれた文言)
当寺の山号・寺号の有る縦帯に向かって左隣の池の間(説明上、第1区とします)に刻された文字は、右から左に
   「梵誉 三誉 名誉」 と住職さんの名前(誉号)でしょうか、3名並んでいます。
   「鋳物師大工 野村惣兵衛 藤原久信 同名 六郎兵衛」と、鋳物師3名の名前が並ぶ。
   「元禄十丁丑歳十月二十七日」 日付けです、西暦では1697年12月10日になります。
   「高五尺  口經二尺五寸七分」 鍾身の寸法で高さ約151cm、直径が約78cmです。
   「重量五二二瓩」 重量は522kg 
   「供出價額四百六十四円五十銭」 求めに応じて差し出した時の金額464円50銭。

次、左隣の池の間(第2区)には文字は確認されません。更にその左は正面の縦帯の180度反対側に当たりますが、その縦帯には「南無阿弥陀佛」の文字が陽刻されています。その下方中帯との交点に撞座が付いています。これは一般的な位置になります。
背面縦帯部分.jpg池の間3.jpg
(縦帯部分に「南無阿弥陀佛」と陽刻)    (池の間③の左端に日付け等陰刻有り)
更に左に回り込み、池の間(第3区)を確認します。その池の間の左端に文字が陰刻されています。
  「昭和十八年十月二十七日」 この日付、梵鐘を供出した日か、このレプリカの完成日か。
  「近龍寺第二十六世鏡誉」  昭和18年10月27日当時の住職さんでしょうか。

次の池の間(第4区)、ここは最初の正面縦帯の右隣に位置する区域です。
池の間4.jpg
(正面縦帯の右隣、池の間④に整然と陰刻された文言)
この池の間(第4区)に陰刻された文字は、以下の通りです。
    經白
    天下和順日月清明
    風雨以時災厲不起
    國豊民安兵才無用
    崇徳興仁務修禮譲
    頌白
    一聴鍾聲當願衆生
    脱三界苦速證菩提

これらの文の意味を、Web版「新纂浄土宗大辞典」に求めました。
まづ「經白」の部分については、「祝聖文」として記されていました。その意味の部分を抜粋させて頂きます。
≪天下は太平であり、日と月は清らかに明るく照らし、風と雨も時に応じ、災害と疫病も起きず、国は豊かに人々は安らかに過ごし、兵や武器を用いる争いごともなく、人々は徳を崇め仁を尊び、務めて礼儀と謙譲の道を修めます。≫という意。
又、「頌白」の部分については、「聴鐘声功徳文」の解説に有りましたので、その意味の部分を抜粋させて頂きます。
≪ひとたび鐘の音を聴けば、人々共に三界の苦しみを脱して、速やかに悟りを成就することを願う。≫との意。
これで一周し、全て確認出来ました。
以上の内容より、私が思うに、この石造りの梵鐘は、昭和18年の第二次世界大戦時に出された「金属類回収令」により、供出を余儀なくされた際、近龍寺の関係者の方々が、せめてその姿を残そうと石を刻んで造ったレプリカと考えます。寸法的には元の梵鐘の方が、記された寸法より判断すると、一回り大きかったと思われます。

ここで、現在鐘楼に設置されている梵鐘についても確認しておきます。
ただ、鐘楼にのぼることは出来ませんので、下から確認できる範囲で、調べてみます。
鐘楼の梵鐘1.jpg
(近龍寺鐘楼で毎朝6時に、時を告げる梵鐘)
鐘楼の梵鐘2.jpg鐘楼の梵鐘3.jpg
(撞木を受ける撞座の有る縦帯部分)    (撞木の反対側の縦帯部分)
撞木の有る部分に写る縦帯部分には、中央に「三級山 近龍寺」と大きく陽刻され、その右側に「昭和三十一年八月」の日付け、そして左側に「第二十六世 鏡誉」の名前(誉号)が同じく陽刻されています。
昭和18年、戦争の為に供出され、終戦後11年新しい梵鐘を迎えられたことに成ります。どちらも近龍寺第26世住職、鏡誉さんの時でした。
その縦帯の左隣の池の間に、「善野佐治平」「岡田嘉右衛門」等々発起人の名前が陰刻されています。
又、その180度反対側縦帯部分には、「南無阿弥陀佛」と大きく陽刻され、その右隣池の間には石造り梵鐘にもあった「經白」以下の「祝聖文」が、又、左隣の池の間には、同じく「頌白」以下の「聴鍾声功徳文」が、陽刻されています。この部分が梵鐘の正面に当たるのかもしれません。
鐘楼の梵鐘5.jpg鐘楼の梵鐘4.jpg
(正面より左側面の縦帯部分)        (鍾身の上部、竜頭部分)
側面に当たる縦帯部分に「鋳物師高松市藤塚町 多田丈之助宗春」の名前が陽刻されています。

鐘楼の天井に設置した金属の吊り具が、梵鐘の上部笠形をしっかりと銜えこんだ竜頭の穴に通されています。見ているとここだけで良く重い鍾身を壊れずに支えているなと感心します。
乳の数も縦帯の上部にそれぞれ2個付いていて、総数で煩悩の数と同じ108個に成っています。
外にも池の間の一区画に文章の様な物が陰刻されています。その冒頭部分にピントを合わせて、何とか読んで行くと「寛文二年近龍寺が時鍾所となり・・・・」の文字を確認出来ました。
栃木市発行の「目で見る栃木市史」の中に、「時の鐘」についての解説文が載っていました。一部を抜粋して紹介します。
≪人口も増加、町がにぎわいを見せるようになると、町民に時刻を知らせるための時の鐘も必要になってくる。こうして領主阿部対馬守に願って時鐘所を町のほぼ中央にあたる近龍寺に設けたのが寛文二年(1662)であった。・・・(後略)≫
昭和31年8月、江戸時代より栃木の街に時を知らせた、近龍寺の梵鐘が復活しました。

今もなお毎朝6時には、「ゴォゥン~・ゴォゥン~」と、栃木の街に時を知らせる、近龍寺の鐘の音が、響わたっている、と聞きます。

※参考資料:
  ・「目で見る栃木市史」(栃木市発行)
  ・Web版「新纂浄土宗大辞典」
  ・ウィキペディア「梵鐘」


    



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我家の玄関先で、今年もツバメが巣作りを始めています [自然の恵み]

早いもので今年も、もう5月半ばになります。我家の庭の草花も春から初夏へと変わって来てます。
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今、我家の玄関先では二羽のツバメが、巣作りに追われています。
ここ数年毎年見る風景ですが、いよいよ今年も始まったなと言った感じです。
今年、ツバメが姿を見せ始めたのは、四月の中頃からでした。例年巣を作る玄関先を飛び回る姿が有りました。しかし、その割に一向に巣作りを始める気配が有りませんでした。
どうしてだろう、今年ここには作らない気なのか。考えている内に一つの答えにたどり着きました。まだ巣作りの条件が出来ていないのではと。それは、巣作りの為の濡れた泥がまだ手に入らないからだと。
意外とこの考えは当たっていたと思います。
5月11日の朝、その日が訪れました。昨日から家の周りの水田に水が入れられてのです。ツバメはその時を待っていたのです。
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(5月11日撮影、今年もツバメの巣作りが始まりました)

朝起きると、玄関ポーチのタイルの上に、沢山の藁くずと泥が散乱、天井脇の壁は泥が付着しています。
まだ、壁に上手く付着せずに、下に落ちてしまう様でした。
当分は玄関先の掃き掃除を、何度もしなければ、ならなくなりました。

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(5月13日撮影、少し巣の形が見えてきました)

手抜き工事をしないで、シッカリと壁に接着して欲しいものです。一度巣全体が落ちてしまった事が有りましたから、最初の基礎造りが肝心です。

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(5月15日撮影、だいぶ大きくなって来ました)

二羽のツバメ(夫婦でしょう)が交互に、材料を運んで来ては、着々と巣を広げています。
キッチリとした広さを確保して欲しい。昨年は少し小さかったのか、誕生が遅れたちびのヒナが、巣から落ちて亡くなりました。先に生まれた兄さんヒナに、押しのけられて巣から落ちてしまったのか。
今年はそんな事が無いことを願っています。

まだ、巣作りは続いています。これから卵を産んで温めて、ヒナが誕生して、成長して巣立つまで、目の離せない日が続きます。
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太平山東麓、太山寺観音堂横に建つ石碑「開運千手観世音記」 [石碑]

今回の「開運千手観世音記」と題した石碑は、太平山の東麓登り口近く、真言宗豊山派寺院「寳樹院太山寺」の観音堂横に建っています。
栃木市街地中心部より、県道太平山公園道を進む、一直線に太平山東麓の國學院大学栃木短期大学の前まで来ます、その先は真っ直ぐに登る六角堂方向には行かず、分岐を右に折れて太平山遊覧道路の長谷川平方向に入ると、直ぐ右手に目的の太山寺山門前駐車場入口に成ります。
太山寺山門.jpg
(太山寺山門)
山門の脇に「本堂・庫裡・山門落慶記念」の碑が建てられています。
本堂庫裡山門落慶記念.jpg
(「本堂・庫裡・山門落慶記念」の碑)
太山寺に関しては既に2014年11月27日付で紹介しましたので、ここでは省略させて頂きます。

山門を潜り、本堂の前に向かい参拝を済ませます。本堂前の栃木市指定天然記念物、樹齢約370年の「岩しだれ桜」は、花の季節も終わり、今は枝一杯に緑の葉で覆われています。
本堂前.jpg
(写真右手に緑の葉で覆われた「岩しだれ桜」、その後方に本堂、左手に細い石段)

今回巡る石碑は、本堂左手に有る急勾配の狭い石段を登った先、栃木県指定重要文化財「木造千手観世音立像」を祀った観音堂の左手奥に建てられています。
弘法大師像.jpg観音堂への石段.jpg
(石段登り口左横に建つ弘法大師像とお地蔵様)   (観音堂へ向かう108段の石段)

108段有る急勾配の石段を、手摺りに助けられて登り切ると、正面に観音堂が迎えてくれますので、ここでもまず参拝をすませます。
観音堂.jpg
(栃木県指定重要文化財の木造千手観音立像を祀った観音堂)

観音堂に向かって左手奥の山際に、宝篋印塔と並んで目的の石碑が建っています。
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(今回巡る石碑が宝篋印塔の左横に建ています)

私は、この石碑を50年以上も前に写真に収めていました。1969年です。この石碑が建立されたのが昭和37年(1962)ですから、まだ7年しか経っていなかった事に成ります。その頃はまだ石碑には興味ありませんでしたが、無意識に撮影をしたものです。
太山寺石碑「開運千手観世音記」.jpg開運千手観世音記(碑文).jpg
(今から50年以上前に撮影しました)        (碑文を書き写しました)

碑文は、建立時期が戦後で新しいものですから、現在の文体で読みやすかったです。一部に現在では使われていない漢字が有りましたので、漢字変換出来ない字は現在の漢字に変えています。
碑文冒頭に「開運千手観世音記」とあります。撰した人物は、元栃木女子高等学校の教諭だった日向野徳久先生です。書は同じく元栃木女子高等学校教諭の関澤芳夫先生です。
碑文には、太山寺の由緒・変遷と観音堂に祀られた千手観世音像が今、文化財として日の目を見るように成った経緯等が記されています。

次に石碑上部の篆額部分に注目します。篆字体で書かれている内容は、「慈眼視衆生」という仏教経典の中に有る一句です。この五文字の篆字体を解読するのは簡単では有りませんでした。特に4番目の「衆」を紐解くのは時間を要しました。≪冠部に「目」が横に成っていて、その下に「入」に似た文字が3個並んだ形をしています。≫
「衆」の漢字について、「漢字源」の≪解字≫に、≪会意。「日(太陽)+人が三人(おおくの人)」で、太陽のもとで多くの人が集団労働をしているさま。上部は、のち誤って血と書かれた。≫と、説明されていました。

「慈眼視衆生(じげんししゅうじょう)」とは、≪観世音菩薩が慈悲の眼で一切衆生を平等に見る≫という意味になるとの説明が有りました。

篆額部分.jpg篆額の落款部分.jpg
(石碑上部篆額部分)              (篆額の左下の落款印部分拡大)

この篆額の字を揮毫した「鴇 昌清」という人物は、真言宗豊山派の第18代管長で、大僧正と言う僧階の最上位に登られた方です。
落款の文字についても調べてみました。右側は「大嘉」、左側は「豊山管長」と読みましたが、右側の「大嘉」については、「鴇 昌清」が用いた「号」なのか、自信が有りません。今、図書館等が閉館している為、これ以上調べる事が叶いません。

石碑の裏側、碑陰中央には縦に≪月輪坊太山寺中興三十世僧正徳純建之≫と、そして左下に≪石工 森戸清泉刻之≫と刻まれています。
この「徳純」と言う人物は、碑表の碑文中にもその名を見る事が出来ます。
≪・・・適々栃木市文化財保護委員長聖泉高田安平翁 同委員大浦倉藏翁 いづれも好古篤学の士なり、夙にその荒廃を憂へこれを世人に愬ふること歳あり、時恰も柴崎徳純僧正当山に来住し、寺門興隆堂宇すべて旧観を改む・・・≫と。

私が50年も以前に、無意識に撮影した石碑の写真。今回その石碑の内容を調べるうちに、実に多くの事を知ることが出来ました。改めて石碑の魅力に心ひかれた感じがしました。

参考資料:
 目で見る栃木市史(栃木市発行)、五體字類(法書会編)、広辞苑(岩波書店)、漢字源(学研)
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ルピナス(のぼり藤)の花、初めて見ました [草花]

栃木市惣社町の、国府公民館前の畑に、色鮮やかな花が群生していました。
初めて見る花で、濃い紫色から、淡いピンク色の花が、緑色の草原からニョキニョキと筍の様に、頭を突き出しています。道路脇に咲き誇る様が見事な為、つい脇道に車を止めて、手持ちのカメラで撮ってきました。
ルピナス群生1.jpg
ルピナス群生2.jpg

調べてみると、ルピナスは、花の様子がフジに似ており、花が下から咲き上がる為、ノボリフジ(昇藤)とも呼ばれる。(ウィキペディアより)と、有りました。
この花畑は地元の住民有志でつくる「国府地区ルピナスの郷づくり実行委員会」が地元を盛り上げようと、育ててきたそうです。

チョッと写真を逆さにしてみました、本当に藤の花が垂れ下がっているようです。
ルピナス群生3.jpg

栃木市の新しい名所になれば良いですね。
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