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無花果を食べる [食]

先日、ご近所さんから家で採ったと言う無花果の実を頂きました。
無花果と言うと、子供の頃は母の実家に無花果の木が有ったので、この頃になると熟した実をもぎって食べた記憶が残っていますが、大人になってからは全く食べなくなりました。
私の子供の頃は戦後10年以上が経っていましたが、まだまだ食料は十分では有りませんでした。ですから自ずと自然に実っている柿や無花果、柘榴などを勝手にとって食べていました。
ですから久々の無花果の実です。
頂いた時はまだ熟し切っておらず、少し早いのかもと思いましたが、熟すころまで待つと野鳥に先を越されてしまうのだと、話してくれました。
無花果は追い熟はしないと言いますが、少し置いておくと外観の色が濃くなって、全体的に赤紫色に色付いてきたので、果物ナイフを使って縦に四等分して、スプーンを使い皮を残して食べました。
無花果1.jpg無花果2.jpg
もちろん子供の頃はこんな上品な食べ方などせず、手で二つに裂いてガブリとかぶりつく様に食べていました。

無花果は「花の無い果物」と書きますが、調べてみると身の中の赤い粒々したものが、無花果の花なのだそうです。だから無花果の花を食べていると言う事です。
その味は、あっさりとした上品な甘さ。子供の頃はもっと甘かった記憶がよみがえって来ましたが、それは食生活の変化の所為かもしれません。

無花果と言えば、実をもぎって採ると、もぎった所からベトベトした汁が出ますが、その汁をイボに付けると、イボが取れるとか無くなるとか言われて、子供の頃付けた記憶が有ります。
私は子供の頃は生活が不衛生だったのか、良く手足にオデキやイボが出来ていました。
無花果4.jpg無花果3.jpg
(もぎった所から白いベトベトした汁が) (無花果を二つに裂いて中身をガブリと食べた)

無花果の汁を付けた効果が有ったのかどうかは、記憶に残っていませんが。
そんな子供の頃を思い出しながら、懐かしい無花果を食べました。
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母から聞いた話ですが。

私の母が生前、話してくれたものですが。
今、NHK朝のドラマ「エール」で、主人公の最初のヒット曲「船頭可愛や」を実際に歌った音丸さん(ドラマ中では藤丸さん)が、終戦間際の頃栃木の街に一時疎開をしていたと。
その疎開した家が、母の生家の近所で、お風呂を母の家に来て入っていたのだと言っていました。
母は既に他界しており、改めて確認する事は出来ませんが、記憶違いだったのか。

ちなみに「音丸」さんについて、ウィキペディアで調べてみても、その中に栃木での疎開の事は何も触れられてません。下野新聞の当時の縮刷版が有るか、栃木市図書館に行って聞いてみたが、その当時の縮刷版は発行されていないとの事で、新聞記事に有ったかどうかも分かりませんでした。

母の話はまだ続きます。その頃、第三小学校の北側に軍隊が駐屯していたとの事。その軍隊が移動すると言うとき、送別の会が開催され、丁度疎開していた「音丸」さんが、慰問して歌を披露したのだそうで、その日軍の車が「音丸」さんを迎えに来たとき、母の父親(私の祖父ですが)もその迎えの車に一緒に載せて貰って行ったのだそうです。

この話、私は母の作り話とは思っていません。実際に有った事だと信じていますが、裏付けする資料を見つけられていないので、ここだけの話です。

主人公のモデルとなった小関裕而さんは、福島県のご出身ですが、2017年6月に福島駅周辺を散策した時、たまたま福島駅東口広場にオルガンを弾く小関裕而さんの銅像を見つけました。残念ですが写真を撮って来ませんでした。その時私は同じく東口広場に建つ「松尾芭蕉と曾良」の銅像が気になっていたからかも知れません。
福島駅東口奥の細道銅像.jpg
(「芭蕉と曾良の旅姿立像」 平成元年奥の細道三百年記念として福島商工会議所が建立)

同じ福島駅の西口広場に建つモニュメントには、朝の8時から夜の8時まで1時間おきに、小関裕而さんが作曲したメロディーが流れる機能が付けられているそうです。
福島駅西口モニュメント1.jpg福島駅西口モニュメント2.jpg
(福島駅西口駅前広場モニュメント)(モニュメントの概要を記す銘板の一部「古関裕而氏について」)

その中で「船頭可愛や」は夜の7時に流れ、最終の夜8時は「君の名は」になっています。
残念ながら時間的に聞いてくることは出来ませんでしたが。
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この「巴波川日記」も今日で丸6年経ちました

このブログを書き始めたのが2014年9月24日、明日で7年目を迎えます。
当初は毎日更新をしました。それまでにため込んでいたテーマが有りましたから。
それが、次第に2日間隔、3日間隔となり、最近では一ヶ月に一度やっと更新する状況。
ひとつのテーマを書くため、色々資料を集めたり、現地確認に行ったり等々。又、最近専業主夫を始めた事で、なかなか筆が進まない事も。

このブログで最初に書いたテーマは、栃木市内の寺院堂々巡りと題して、我家の菩提寺でもある湊町の、「白旗山勝泉院」でした。その白旗山、昨日大施餓鬼会が天候に恵まれ執り行われました。
白旗山勝泉院山門.jpg
(秋晴れの下、大施餓鬼会で白旗山勝泉院の山門を入る人達)

今年は例年の様な大勢の檀徒が境内一杯集まり、本堂から塔婆が出てくるのを待って、自分の名前の有る塔婆を探すのにごったがえする風景は有りませんでした。
前もって届いたご住職からの案内で、三密をさけて、名前のあいうえお順で、三つの時間帯に分散させる手段が採られた為でしょう。
私も指定された時間に合わせてお寺に向かいました。すでに本堂の周囲に塔婆が並べられて有りました。来られた皆さんも自分の名前の書かれた塔婆を取って、それぞれのお墓に向かって行かれます。
本堂周りに並んだ大施餓鬼会の塔婆.jpg
(本堂の周りに並べられた、大施餓鬼会の塔婆)

人の動きがスムースに進んでいる感じが覗われました。井戸で手桶に水を汲むのに多少行列が出来ていましたが。

このブログで「白旗山」の事を扱ったのは4回有ります。
1回目が上記したように2014年9月24日、2回目が2015年6月20日でこの回は、現在は境外になりましたが、テーマは「白旗八幡宮と力石」。
白旗八幡宮.jpg力石.jpg
(白旗山の鐘楼東側、境外に鎮座する白旗八幡宮)(神社境内に祀られている力石)

3回目は2016年11月22日で「栃木の鬼瓦」と言うテーマの中で、本堂の鬼瓦の写真を扱っています。
本堂の大棟を飾る鬼瓦.jpg箱棟と鬼瓦.jpg
(本堂の屋根、箱棟の両側で睨みを利かす鬼瓦)

そして今年の6月9日に「白旗山勝泉院の梵鐘」をテーマに扱いました。
鐘楼.jpg梵鐘.jpg
(白旗山の梵鐘は、人間国宝・香取正彦さんの作品。口径三尺「約91cm」、重量約二百九十貫目「約1,088kg」、広島の平和の鐘と同じ年に産声を上げました。)

これからもテーマを変えて白旗山を紹介していきたいと考えています。
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古い1枚の写真について [懐かしい写真]

私が写真撮影に興味を持ったのは子供の頃で、中学生の頃には今では見なくなったハーフサイズのカメラを使って友達の写真などを撮って遊んでいました。高校に入学と同時に写真部に入部、一眼レフカメラを入手しました。
高校一年の夏休みに、友達と自動二輪車の運転免許試験場に行き、免許証を取ることが出来ました。バイクに乗る様になって、私の写真撮影エリアーは大きく広がりました。
その頃はフィルムは24枚とか36枚撮りで、撮影も一ヶ所で数枚、時には1枚しか撮りません。ですから今その頃の写真を見ると、どこで撮影したものか全く記憶に無い写真も結構あります。

そんな写真の一枚が今回の内容です。
1968年万福寺.jpg

この写真、1968年に撮影されたもので、この写真の前後には栃木市泉町の「雲龍寺」、壬生町の「円宗寺」「壬生寺」「興光寺」「高雄神社」、そして栃木市に戻って「近龍寺」や「神明宮」「長清寺」「正覚寺」などの神社仏閣が写っています。他に、同様に場所が特定できない神社も混ざっています。

数年前に、近隣の寺院を「堂々巡り」と題して、このブログで紹介させて頂きました。その為現地を確認して歩いていますが、その中でも上の写真の建物を持つ寺院に巡り合っていませんでした。

ずうっと疑問に感じていましたが、先日たまたまインターネット上にて、栃木市旭町の「満福寺」の公式ホームページを閲覧した時です。その中に「昭和40年頃の当山」との説明書きの有る上空から撮影したと思われる写真を見ていると、建物の配置や形、電柱や木の状態が同じである事に気付いたのです。

私の記憶に残る「満福寺」と言うと、この建物のイメージだったのです。
1979年6月万福寺.jpg
(満福寺旧本堂、現在は「太子堂」)
この写真は1979年に撮影したものです。
ですから、全然想像もしていなかった寺院です。
栃木市旭町の満福寺の写真と分かっても、信じられない感情が強く残っています。
小学生の頃は、良く神明宮の周り、第二公園の瓢箪池の周りで遊んでいましたが、満福寺まではテリトリーに入っていませんでしたから。

念の為に、写真左奥に写るお堂の形を、現在満福寺の「太子堂(旧本堂)」に向かって左手側に建つ「観音堂」の外観と良く比較してみると、同じである事が分かります。
2013年万福寺観音堂.jpg
(2013年撮影、満福寺観音堂)

「満福寺」の事に関しては、2014年12月2日に「三鬼尊を祀るお寺」として、このブログ「巴波川日記」の中で紹介しておりますので、今回はこの何所か分からなかった、古い写真の寺院が、かつての「満福寺」だったと判明したうれしさで、書いています。

もう一つ、私の記憶に残る「満福寺」と言うと、やはり北側の築地塀の風景ですが、この風景も今はもう見る事が出来ません。
1974年12月万福寺北側.jpg 

現在の「満福寺」は、伽藍や周辺整備が進み、本堂も新しく江戸時代と同様に南向きに建てられました。
2014年万福寺本堂.jpg
(2011年新しく建てられた本堂「大毘盧遮那殿」)
2014年万福寺.jpg
(以前の本堂は「太子堂」として改修されています。)
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