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巴波川に関して色々 [栃木市の河川と橋]

今回は、この私のブログ名でも使わせて貰っている「巴波川」に関した、あれやこれやです。
「巴波川」、この川の名前を読める人は、栃木県内の人、それも県南のこの川の流域に住んでいる人か、その知人や関係者位では無いでしょうか。
「巴波川」を広辞苑で検索しても出て来ません。「うずまがわ」と読みますが、「巴波」を「うずま」と読ませるのは他に有るのでしょうか。
ちなみに<漢字源>にて、「巴」(ともえ)の文字を検索しても、読み方が「うず」とは出て来ません。
<字音>では「ハ」とか「ヘ」だけで、<意読>で「ともえ」と出てきます。そして「巴」を用いた難読語として、巴西爾(ブラジル)・巴波那(ハバナ)・巴比倫(バビロン)・巴拉圭(パラグアイ)・巴黎(パリ)の最後に巴波川(うずまがわ)が出てきます。
もう一方の「波」(なみ)の文字も、読み方が「ま」とは出ません。<字音>では「ハ」だけです。
そこから導くと「巴波川」は、「ははかわ」とか「ともえなみかわ」としか読めなくなります。とても「うずま」とは成らない訳です。

「栃木郷土史」(栃木郷土史編纂委員会著・歴史図書社発行)の第六章第二節「栃木の水系」に、
<一、うづま川>として、<川原田村鹿島神社御手洗沼に源を発している。うづま川は宇津間川・巴波川等の字をあてているが、元禄度箱森村書上に、一、鶉妻川 幅十間、村東方ヲ通リ申候。水上壱里 北方川原田村ト申所ヨリ出水ニ而流申候而栃木ヘ落合申候 とあり、鶉妻川の字を用いている。
元来、うづま川西方箱森村より薗部村地内にかけてなだらかな起伏多く、うずらがおびただしく棲息していたので、一名うづらが岡と呼ばれ、江戸時代、死刑場及牢屋等あつた現入舟町の禊教分院及其の東北方は、薗部村鶉島といった。(後略)>

それではどこで「巴波川」の文字を当てるようになったのでしょうか。
栃木県文化協会発行の「栃木の水路」の四章「母なるうずま」の中に<うずま川の名称>として、上記の説を記していますが、更に<江戸時代後期になると栃木町では巴波川の文字をあて、さらに渦川の文字をあてるものもあらわれる。小学校の教科書として編さんされた改正栃木県地誌略(明治十五年一八八二刊)には、「渦川は標茅が原および真名子山中より流出し・・・・・」と書いている。 (中略) 水流中へ水が湧き出るさまに「巴波」「渦」の文字をあてたものであろうか。このようにかわった文字をあてることは文化・文政(1804~1829)ごろの栃木町の文人好みのものであった。>とも。

結局ハッキリした事は分かりませんが、現在は「巴波川」の文字に統一されています。
が、ここで又ひとつ、新たな疑問が湧き上がりました。
上記の二つの文献の抜粋にて、最初の「栃木郷土史」では「うづま川」と、後の「栃木の水路」では「うずま川」と表記していました。

私が若い頃に参加していたアマチア写真同好会の名称は「うずま写友会」と表記しました。
うづま写友会作品目録.jpg
(うずま写友会、写真展作品目録)
うづま写友会写真展会場.jpg
(うずま写友会、初期の頃の写真展風景、まだ現在の文化会館が出来て無く、商工会議所ホールを借りて開催をしていました。)

同じころ栃木市で初めてだと思いますが、「うづまっこ」という月刊タウン情報誌が創刊されました。この月刊誌では、編集室だよりに「うづま有情」、他に初期の頃連載漫画「うづま君」やうづま文芸等々、うづま川との表記に基づいていました。
タウン情報誌うづまっこ.jpgタウン情報誌うづまっこ2.jpg

そこで、「巴波川」に関連した書籍や資料について少し調べてみました。
まず、「うずま」との表記を使っているものです。
①栃木市発行の「目で見る栃木市史」やその他の「栃木市史」
②藤岡町発行の「藤岡町史」や「ふじおか見てある記」
③平凡社発行の「栃木県の地名」
④「角川日本地名大辞典9 栃木」
⑤下野新聞社発行の大嶽浩良著「下野の明治維新」や荒井邦著「巴波川 部屋河岸」
⑥栃木市文化のまちづくり協議会発行の石塚倉子遺著「室の八島」
など、多数確認出来ます。

一方、「うづま」との表記を使っているものは、
①金剛出版発行の坂本冨士朗著「うづま記」
②東京新聞出版局発行の牧口正史著「巴波川 江戸期の歌人石塚倉子の生涯」
と、あまり確認出来ませんでした。他に「うづま」の表記が見られるものとして、
①「うづま焼」 入舟町
②「うづまクリニック」 川原田町
③「うづま運転代行サービス」 小平町
などが、確認出来ました。

それでは実際に巴波川に架かっている橋に表示されている「巴波川」のひらがな表記を見ていきたいと思います。但し範囲は栃木市街地です。上流部より川を下って見ていきます。表記の無いものや確認出来ないものは除きました。
それではまず「うずまがわ」「うずまかわ」と表記された橋です。
①前原橋 ②新高瀬橋 ③原ノ橋 ④嘉右衛門橋 ⑤泉橋 ⑥開運橋 ⑦常盤橋 ⑧幸来橋 ⑨公園橋 ⑩開明橋 ⑪平成橋 以上11橋確認出来ました。
嘉右衛門橋1.jpg開運橋1.jpg公園橋1.jpg

次に「うづまかわ」「うづまがわ」と表記された橋です。
①小平橋 ②大川橋 ③新橋 以上3橋だけでした。
大川橋1.jpg新橋1.jpg

これまで私は、巴波川に架かるこれらの橋を沢山撮影してきていますが、今回分かった事は橋名表示部分は良く撮影して有るのに、川の名前の銘板部分は意外に写していなかったのです。当然「巴波川」と言う事は分かり来たことだったので、改めて写真に撮る必要も感じませんでしたからね。
今回掲載した川名部分の写真は今回改めて撮影をしてきた物です。

以上から、「巴波川」のひらがな表記は、一般的には「うずまがわ」ですが、「うづまかわ」でも又良しです。
電子辞書の「漢字源」で「渦」を検索する時、「うず」と入力すると「渦」の漢字がヒットしますが、「うづ」では出て来ません。ただその意味の解説に、<{名}うず(うづ)。うずまき。水流がへこんだところに旋回してできるまるいうず。「旋渦」。>と表記されていて、「うづ」とも表記されています。

冒頭に紹介した栃木市初の月刊タウン情報誌「うづまっこ」でも、「うづま今昔 栃木の心巴波川」と題して記事が載っていたことが有ります。その中で「うづま川-その名の由来」が有りましたので、一部重複に成る所も有りますが抜粋して紹介させて頂きます。
<うづま川には、鶉妻川・渦川・宇津間川・それに現在の巴波川という字が使われていた。「元禄度箱森村書上」によると 鶉妻川(うづまがわ)幅十間、村東方ヲ通リ申候。水上壱里、北方川原田ト申所ヨリ出水ニ而流候而、栃木ヘ落合申候。と書かれている。また「大日本地名辞典、坂東、第六巻」には、巴波川は古名寒川にてウヅマとは渦巻の義なり、巴波の文字を仮りたるも真理なきにあらず。 とある。この書から考えると、巴波川のうづまとは渦を巻く川という意味からきているようだ。しかし、何時頃から巴波川という字が使われるようになったかは判明できない。面白い説には、鶉が巴波川に棲息していたことから、うづま川となったというものもある。>

「母なるうずま」であり「栃木の心巴波川」では、一年中色々な催しが企画され行われています。
先日はこのブログでも紹介した通り「ダックレース」が有りました。そしてまた、まさに今日も巴波川では「流し雛」が行われていました。
流し雛1.jpg流し雛2.jpg
流し雛3.jpg流し雛4.jpg

折り紙で折ったお雛さまに思い思いの願い事を書いて巴波川に流していました。そこには、コロナ収束を願ったもの、世界平和を、戦争が起きない様にと、長生きが出来ますよう、100点採れるようになど大きな願い、ささやかな願いが巴波川のさざ波にゆられて流れて行きました。

巴波川ではこの後、五月の青空に向かって、多くの鯉幟が泳ぐ姿が見られることでしょう。




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