SSブログ

関門海峡を歩いて渡ってきました。 [歩く]

本州から九州へ渡るためには、現在多くの手段が有りますが、今回は徒歩にて渡りました。ルートは、山口県下関市みもすそ川町から、福岡県北九州市門司区門司を結ぶ、関門トンネル人道で全長780メートルに成ります。
関門海峡横断記念スタンプ.jpg
両方の出入り口にてエレベーターを利用して、約55~60メートル程地下に降り、関門トンネル自動車道の下側に有る人道です。

下関側の「関門トンネル人道入口」近くには、「壇ノ浦古戦場址」が有ります。
壇ノ浦古戦場址.jpg
「安徳帝御入水之処」の石碑に、
  二位尼辞世
 今ぞ知る  みもすそ川の  御なかれ  波の下にも  みやこありとは 
                          長門本平家物語
 と刻されています。
安徳天皇御入水之処.jpg

又、源義経の「八艘飛び」の像と、対して 平知盛の「碇潜(いかりかづき)」の像が、海峡をバックに建てられています。
壇ノ浦の源平.jpg
源義経の像.jpg平知盛の像.jpg

外に、天保製長州砲が関門海峡に向って、睨みを聞かせています。
長州砲2.jpg長州砲1.jpg

関門トンネル人道入口の建物脇に、「関門隧道建設の碑」や関門国道建設事務所初代所長を務めた「加藤伴平」氏の碑などが建てられていました。
関門隧道建設の碑.jpg
加藤伴平之碑.jpg加藤伴平碑文.jpg

周辺観光はこれ位にして、関門トンネル人道へ向かいましょう。先ずエレベーターに乗って、地下約55メートルへ
下関側入口.jpg下関側エレベータ.jpg

地下のエレベータルームに来ました。
下関側.jpg
トンネルを断面下説明図が有りました。トンネル上段は自動車道、その下側に人や自転車(但し乗って通行は出来ないようです。)が通行できる構造になっています。

記念スタンプ.jpg記念スタンプ台紙.jpg
エレベータールームに記念スタンプ台が設置されていました。スタンプ台紙の下側の空白の円の部分に、左半分を下関側で押して、右半分を門司側のスタンプを押して完成するようになっています。
冒頭に乗せたスタンプ台紙が、両方で押したスタンプの完成形に成ります。
それでは、トンネルを歩く事にしましょう。トンネルは少し下り勾配で真直ぐ門司方向に伸びています。
関門トンネル人道.jpg

トンネルは全長780メートルですが、山口県と福岡県との境界までは、下関口より400メートルとなっています。中央部位まで来ると、前方の道路は登り勾配になっているのが分かります。県境に来ました。
山口・福岡境界線.jpg
下関門司境界表示.jpg
ここから前方は九州・門司に成ります。この地点は「海面下58メートル」との表示が有りました。
ここから380メートル登り勾配を歩くと門司のエレベータールームです。
ここで、スタンプ台紙に右半分を押して、エレベータで約60メートル上り地上に戻ります。
門司側エレベータ.jpg門司側入口.jpg

無事に地上に戻ってきました。ここは九州・福岡県北九州市門司区門司です。
トンネル通過に約10分間かかりました。ちなみに通行料ですが、歩きは無料でした。

門司側人道トンネル入口の建物の裏手の高台上に、立方体の形をした「慰霊碑」が建てられています。碑陰には「殉職者」52名と、「病没者」37名の名前が列記されています。
関門トンネル工事中に、事故や病気でお亡くなりになった方々を慰霊する為に、昭和33年3月8日に建設省により建立されたものです。
慰霊碑1.jpg慰霊碑の碑陰.jpg

海底のトンネルを歩いて渡るのは、最初少し不安が有りましたが、難なく関門海峡の下を渡り切りました。さて、それでは又、歩いて下関口に戻ることにします。
nice!(0)  コメント(0) 

無法松之碑 [石碑]

この間の三連休を利用して、九州に旅しました。
北九州空港からバスに乗ると、JR小倉駅には40分程で到着します。
小倉駅南口前に、祇園太鼓のモニュメントが有ります。
小倉祇園の像.jpg
台座部に「小倉祇園太鼓」の説明文が刻されています。
小倉祇園太鼓の説明.jpg
<小倉祇園は豪快にして優雅な北九州年中行事の花である。起源は細川三斉公の築城の頃に発し、小笠原氏の入国後はさらに盛大になり 歴史を重ねてこんにちに至った。三百年の傳統と光栄にかがやくゆかしい文化財である。毎年七月十一日十二日の両日におこなわれる祭禮には全市に祇園太鼓の列があふれ、老若、技を競って打ち鳴らす。父祖伝来のばちさばきは勇壮軽妙 千変万化して 見る者をして恍惚たらしめるものがある。梅雨あけの空にとどろく太鼓のひびき、山車の上にゆれる笹ちょうちんの灯、太鼓祇園の光景は城下町小倉の美しい情緒を傳えてあますところがない。>と。

小倉祇園太鼓について、今年の祭ガイドブックから抜粋させて頂くと、
<小倉祇園太鼓は、全国的にも珍しい両面打ちです。巡行する山車の前後に据えた太鼓と、ヂャンガラ(摺り鉦)が織りなす独特の調べが特徴で、太鼓は皮の張り方により面の音が異なります。低く腹に響く音がする面を「ドロ」、甲高い音の面を「カン」といい、軽やかな音で踊るように打ちます。二つの音をヂャンガラに合わせて「品良く力いっぱい打つ、地味に叩いて良く鳴らす」というのが正調です。>となります。駅前の「祇園太鼓」のモニュメントも三人構成になっています。

新型コロナ感染拡大の影響を受けて2年連続中止を余儀なくされていた祭も、今年は3年ぶりで復活しました。私が小倉に到着した日は、「宵祇園」に当り、夕方から町内各所で太鼓の音が鳴り響いていました。私も太鼓の音に引かれて、宿所を出て近所の公園や街中での、小倉祇園太鼓の演奏に酔いしれてきました。
太鼓共演1.jpg
町内廻り.jpg
 
小倉祇園太鼓と言うと、映画「無法松の一生」が思い出されます。私が子供の頃に両親に連れられて、映画館に見に行った記憶が有ります。
歌謡曲にも、村田英雄のデビューシングル「無法松の一生」が、1958年7月に発売されています。

この「無法松」と呼ばれた人物は、小倉の作家岩下俊作の小説「富島松五郎伝」の中に作り出された架空の人物、人力車の車夫「松五郎」です。
<小倉、古船場の木賃宿宇和島屋を寝ぐらとする人力車夫、富島松五郎は度胸の良さと喧嘩っ早さから「無法松」と呼ばれていた。ある時、怪我をして泣いていた子供を家へ連れて行き、吉岡大尉の夫人、良子に一目惚れをしてしまう。或る年の祇園祭りの夜、松五郎は内に秘めた恋心を祇園太鼓にたくし、敏雄と教師の前で見事な妙技を披露する。・・・・>(富島松五郎伝より)
私が見た映画では、松五郎を演じた三船敏郎が、撥さばき鮮やかに太鼓を打つ姿が思い出されます。「これが祇園太鼓の流れ打ちだ!」 「今度は勇み駒だ!」 「今度は暴れ打ちだ!」 と、太鼓のリズムは急ピッチにエスカレートしていく。

今年の4月19日未明の「旦過市場」の火災は、テレビニュースにもなり周知のとおりですが、この旦過市場の横を流れる「神嶽川(かんだけがわ)」を上流側に少し遡上した点に架かる「天満橋」の右岸、古船場町側に「無法松之碑」が建てられています。
無法松之碑全景.jpg
正面の石碑には、「無法松の一生」の原作「富島松五郎伝」の作家、岩下俊作が書いた「無法松之碑」の文字が碑面一杯に、大きく・力強く刻まれています。石碑裏側には、「昭和三十四年三月四日」の日付が刻まれています。石碑が建立された時期でしょうか。この日付の前年、1958年(昭和33年)4月22日公開された三船敏郎主演の映画が、その年の第19回ベネチア国際映画祭で最高の「金獅子賞」を受賞しています。

無法松之碑太鼓左.jpg無法松之碑太鼓右.jpg

街中にいつまでも響く太鼓とヂャンガラの音に、後ろ髪を引かれつつ宿所に戻りました。

今回参考にした資料:
・2022小倉祇園太鼓ガイドブック
・「日本名作シナリオ選 上巻」日本シナリオ作家協会発行

nice!(0)  コメント(0) 

巴波川廃川敷開田記念碑から [石碑]

巴波川と永野川の河道図.jpg
冒頭に何か分からない線図を掲示して見ました。赤と青、2色で描かれた線図。
この線図に描かれた線が、何を示しているのか。ちなみに上下に同じように並んでいるのは、その違いを比較するためのものです。
少し情報を増やしてみたいと思います。
巴波川と永野川の河道図1.jpg
既に分かったと思いますが、北(N)の方角を示す記号があります。上下に同じ地域の地図が並んでいます。
上側の図は栃木市大平町の大字名が緑色で、小山市の大字名が茶色で表示されています。
赤の線で描かれているのは県道で、青色は河川の河道になります。上が「永野川」下が「巴波川」と言う事になります。
一方、下側の図は上図の大字名が全て村名となっています。道路の名称も現在の物ではありません。

上側が現在の様子を表した図で、下側は明治前期に発行された迅速測図を基に作成したものです。
現在の河道と比較して、明治前期頃の河道は各所で蛇行して流れていたことが確認できます。又、同様に道路の様子も現在はいかにもスッキリとした物に変わりました。

今回は小山市生駒付近に見られる巴波川の河道の変貌を探っていきます。(明治前期の図の生駒村と下初田村の間に見られる、コブの様に流れている所になります。)

その部分を更に詳細に作図して見ました。
小山市生駒付近の巴波川河道の変遷.jpg
上の図の中央部を上から下に描かれているのは、現在の巴波川の河道になります。架かっている橋は現在の物です。
新田橋の所を見ると、明治期の河道が記されていますが、現在の河道から大きく左岸側に蛇行して、コブの様になっています。
その蛇行した川の流れを、ショートカットして現在の河道を開鑿した事が見てとれます。目的は何だったのでしょうか、そしてそれは何時頃行われたのでしょうか。
これまで私は、先ず地形図からその変化を絞ってきましたが、国土地理院発行の地形図で調べていくと、厄介なことに丁度この辺り、小山市大川島や生駒で地形図の境界が有り、大川島は「下野藤岡」、生駒は「小山」に分かれます。ちなみに2万5千分1の「小山」の地形図で調べてみると、昭和7年11月30日発行では、巴波川は大きく東に蛇行した明治期の河道と変わっていません。次に昭和22年9月30日に発行されたものも、更新されず前回のまゝになっています。次に発行された昭和40年8月30日の地形図でやっと、巴波川は新しい現在の河道が開鑿され新田橋が記されています。
地形図で道路や河川の変化を調査していくと、いつも昭和初期の空白期間にぶつかります。それは先の大東亜戦争の前後に地形図の更新がされていない為です。

最近インターネット上で、国土地理院から空中写真の閲覧が可能な情報が公開されています。それを検索していくと、確認できるもっとも古い空中写真は、昭和16年(1941)4月11日(撮影計画機関:陸軍)撮影が有りましたが、その写真を確認すると、既に巴波川は新しい河道に変わっています。
やはり地形図に反映されるのはタイムラグがあり、正確な変化時期を特定するのは不可能です。

別な観点から、新田橋がいつ架橋されたのか分かればそれが一番ヒントになるのか、小山市がインターネット上に公開している情報の中に、小山市が管理している橋梁の一覧が有りました。その表に有りました「新田橋」橋の長さが45.6メートル、RC橋(鉄筋コンクリート橋)と有りますから、巴波川に架かる「新田橋」で間違いないと思います、架橋年は1936年(昭和11年)となっています。
新田橋.jpg新田橋1.jpg
(巴波川に架かる新田橋、右岸橋詰より撮影、車での通行は無理そうです。)

結果的に、新田橋が架かる巴波川の河道は、昭和10年頃に開鑿されたものと推察されます。

現地新田橋近くの、巴波川左岸堤防内法面に石碑が建てられています。近くに鳥居と小さな石の祠が祀られています。水神様でしょうか。
巴波川左岸堤防脇に建つ石碑.jpg
石碑正面には「巴波川廃川敷 開田記念碑」と有ります。この石碑の題字は「枢密顧問官陸軍大将男爵奈良武次書」と記されています。
碑陰に回ってみるとそこには、「紀元二千呂百年記念 開田成功之碑」として碑文が刻されています。
石碑正面.jpg碑陰に刻まれた文.jpg

写真では碑陰に刻された碑文が読めませんので、書き写てみました。
碑文.jpg
(線引きした右側が石碑の表面で、左側が碑陰に刻まれた碑文と関係者の氏名が記されています。)

碑文には、「紀元二千六百年の聖代を記念して後世に伝える為の事業を起そうと話し合い、その結果巴波川の改修に因って出来た廃川敷がそのまま荒れ果てたままになっているのを、開墾して美田に変えようと話がまとまり、関係する村民老幼婦女に至るまで、協力し合って見事に開田に成功したので、其の仔細を石碑に刻む。」と、其の分脈には美辞麗句が踊っています。

紀元二千六百年は西暦に直すと、1940年に当ります。この時代は前年に中国大陸で満州国とモンゴルとの国境線での紛争「ノモンハン事件」が起き。翌年1941年12月には、日本海軍が米国真珠湾を奇襲、太平洋戦争に突き進んで行った時で、まさに挙国一心となる時代背景でした。

巴波川の河道に戻ります。明治前期の地形図には、前出の詳細図の様に、小山市生駒での蛇行地点で、巴波川の流れは二俣に分流しています。右側の本流はU字に流れ、生駒橋を潜って南流しますが、左側に分かれた流れはL字に流れ、其の後生駒橋の東にある「蔵前橋」を潜って南流しています。
巴波川の本流から分かれたこの流れは、江戸時代から有る農業用水「品川用水」で、かつては「八ヶ村用水」と称していました。八箇村とは、小山市史資料編近世Ⅱに掲載されている資料、「文化二年(1805)三月 三蔵堰普請一件熟談につき願書」の中に記されていましたので、一部抜粋して引用させて貰います。<中郷下河原田村・小袋村・井岡村・鏡村・中里村・寒川村・迫間田村・新波村(都賀郡)八ヶ村用水之儀は、水上上河原田村地内字亀甲にて巴波川に堰を張用水を繰上品川と唱ひ段々分水致、・・・(後略)>と。ここで上河原田村は、現在の小山市生駒に成ります。
昭和16年に撮影された空中写真にも、巴波川は現在の河道に変わっていますが、「品川用水」の河道は明治期の河道に残っています。
昭和40年発行の地理院地図には、巴波川に設けられた堰から取水した水路が明治期の流れと同様の河道を辿って、蔵前橋を抜けて南の下河原田付近を巴波川の左岸堤防内側に沿って描かれています。
ここで巴波川に設けられた堰が「亀の子堰」に成ります。
亀の子堰.jpg
(巴波川の亀の子堰。左岸の水門が「品川用水」の取水口に成ります。右岸側から撮影)
先に引用した文化二年の古文書に出てくる「上河原田村地内字亀甲の巴波川の堰が、現在の堰の場所なのか明治19年の迅速測図に描かれている巴波川に二俣分岐点に当るかは、分かりません。

現在の品川用水路は、亀の子堰から取水後、巴波川の左岸堤防内側に沿って流れ、新田橋上流部辺りで暗渠に入り、「巴波川廢川敷開田記念碑」の正面を開渠になって生駒の蔵前橋に向っています。
先に掲示した石碑の写真で、石碑や医師の祠の前を流れる水路がこの「品川用水」に成ります。
ここから、その先の品川用水に沿って下って行ってみたいと思います。

蔵前橋上より上流側を写す.jpg
(上の写真は、蔵前橋の上から上流側を撮影したものですが、橋は2本の水路を渡しています。)
左側のコンクリート製の水路が「品川用水」で、右側の水路は巴波川上流の川島堰から取水した「清水川用水」の分流で、ここからさらに南流して与良川に落ちていきます。

蔵前橋下流の品川用水.jpg
(上の写真は蔵前橋の南側から、蔵前橋方向を撮影したものです。)
写真中央奥に白く写るのが「蔵前橋」で、写真右隅に「清水川用水の分流が見えます。

品川用水はこの後西方向に流れを変えて、巴波川の左岸堤防内側に沿って、「本郷橋」近くまで流れ、橋の手前で南に向きを変えて、小山市小袋方向に流れていきます。
下河原田を南流する品川用水.jpg
(上の写真は、大字下河原田字町屋付近。真直ぐ手前に流れてくるのが「品川用水」。前方の堤防が巴波川。分かり難いですが、本郷橋の高欄が堤防の上に覗いて見えます。さらにその左手奥に、太平・晃石の山並みが横に連なって見えます。
更に下流に移動します。南流する品川用水は国道50号の下を抜け、大字小袋そして大字井岡へ。
井岡付近の品川用水.jpg
(井岡の集落の東側を南流する品川用水)

この後品川用水は、水田地帯を潤しながら、大字鏡から大字迫間田方に向って流れていました。

江戸時代、寒川郡の村々の稲作に欠かせない水を供給していた「八ヶ村用水(品川用水)」は現在も、河川改修や土地改良などで姿を変えつつも、絶えることなく小山市西南部の田んぼを潤し続けています。

今回参考にした資料は:
・国土地理院2万5千分1地形図「小山」昭和7年・昭和22年・昭和40年発行。
・明治前期測量2万分1フランス式彩色地図「下都賀郡榎本村」「寒川郡中里村」
・小山市史 史料編近世Ⅱ (小山市発行)
・思川西部土地改良区ホームページ








nice!(0)  コメント(0)