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青の洞門と耶馬渓三橋を巡る [橋梁]

「青の洞門」と聞いて、それがどのようなもので、何処に在るか分かりますか。でも、もしわからなくても、「恩讐の彼方に」と聞いて、あ、どう言うものなのか分かる方は、多いと思います。
「恩讐の彼方に」は、文藝春秋社の創設者で、「芥川賞」や「直木賞」を設定し、作家の育成や地位向上に大きな功績を残した、大正から昭和にかけて、多くの文芸作品を発表した作家「菊池寛」の短編小説の題名です。私も高校生時代にこの作品を読んだ記憶が有ります。
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(青の洞門近くに設置された「恩讐の彼方に」の作者菊池寛の肖像と説明盤)

小説の概要は、江戸時代のこと、主人のお妾さんとの密通がばれてしまった、主人公の男が、主人を殺害して其の妾の女性と一緒に逃げ、さらに生きるために峠道で、行きかう旅人達を、脅したり殺害して金品を奪って生活をしていたが、ある日そんな生活から逃れるため、女を置いて一人諸国を放浪する。其の後出家をして尚、これまで自分が犯した悪業の数々に苦しみつつ旅を続けていたが、豊前の国の山国川を遡り羅漢寺に向かう途中、山国川沿いの絶壁に有る鎖渡りの難所で多くの通行人や馬が、川に落ちて命を落としていることを知り、其の岩山に隧道を掘ることを決心する。
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(山国川上流側より、青の洞門の有る競秀峰の岩壁を望む)

一人其の岩壁に向いノミとツチを持って、ひたすら岩壁を削り続けること五年十年。一方、殺害された主人の息子が成人をし、親の仇を打たんと全国を探し回る。そしてついに仇討ちの相手を目の前にする。しかし目にした仇の相手は、掘り進んだ洞窟の中でただひたすら、目の前の岩盤に向い、髪も髭も伸び放題の痩せ細った老僧の姿。逃げも隠れもしない、その場で切って捨てても貰っても良いと言う。そこで隧道が貫かれるまで待つこととする。その日が一日も早く来るようにと、仇打ちの若侍も一緒に掘ることに。
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(青の洞門内の岩壁に残る、手掘りの鑿のあと)

終に隧道の最後の岩が砕かれて貫通をする。その劇的なクライマックスの場面を小説から抜粋させて頂くと。<・・・彼は「アッ」と思わず声を上げた。その時であった。了海のもうろうたる老眼にも、紛れもなくその槌に破られたる小さな穴から、月の光に照らされたる山国川の姿が、ありありと映ったのである。了海は「おう!」と、全身をふるわせるような名状しがたき叫声をあげたかと思うと、それにつづいて狂したかと思われるような歓喜の泣き笑いが、洞窟を物すごく動揺めかしたのである。
「実之助どの。ごらんなされい。二十一年の大誓願端なくも今宵成就いたした。」こう言いながら、了海は実之助の手を取って、小さい穴から山国川の流れを見せた。・・・(中略)・・・実之助は、了海の前に手を拱ねいてすわったまま、涙にむせんでいるばかりであった。心の底から湧き出ずる歓喜に泣くしなびた老僧の顔を見ていると、彼を敵として殺すことなどは、思い及ばぬことであった。敵を打つなどという心よりも、このかよわい人間の双の腕によって成しとげられた偉業に対する驚異と感激の心とで、胸がいっぱいであった。彼はいざり寄りながら、再び老僧の手をとった。二人はそこですべてを忘れて、感激の涙にむせび合うたのであった。>
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(青の洞門の有る山国川沿いの岩壁と、洞窟内に作られた明り取りの窓)

以上は、小説「恩讐の彼方に」のストーリーですが、実際この青の洞門を悲願30年を懸けて、342メートルにおよぶ隧道を貫通させた人物は、「禅海和尚」という越後の人、仏道修行の為回国行者となって諸国を巡り、享保(江戸の中期、1716年6月22日から1736年4月28日)の頃この地に来ました。たまたま、山国川ぞいの岩壁にかかる鎖渡の桟道で、踏み外して墜死する惨事を目撃、仏道修行者として、この危難を取り除き、衆生救済の門を開かんものと大誓願を発し大岩壁に向って鑿と槌をふるい、目的を達成させたのが実際の話になります。
小説の21年よりも実際は長く、30年の月日を懸けていたのです。
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(青の洞門を背景に、鑿と槌にて岩盤に向かう禅海和尚の像と説明盤)

この山国川は、大分県と福岡県との県境にそびえる英彦山東麓の山中に源流を持ち、大分県中津市山国町から、耶馬渓町・本耶馬渓町を流れ、中津市三光に至って福岡県築上郡上毛町と接する地点から大分県と福岡県との県境を流れ周防灘に落ちています。
その中津は、かつて豊前の国の中心に位置し、鎌倉時代この地方を治めていた野仲氏は、我が下野国の名族「宇都宮氏」の分流。豊前守護職に任じられた宇都宮信房の弟・重房が、野仲郷を所領して、野仲氏を名乗ったのがはじまり。意外なところで身近に感じます。
 
山国川の上・中流域の渓谷は耶馬渓と呼ばれ景勝地も多い、又、この耶馬渓には「耶馬渓三橋」と呼ばれる、石造りアーチ橋が有り、今回これらの橋も巡って見てきました。上流側から見ていきます。

【馬渓橋】
・中津市指定有形文化財
・1923年(大正12年)10月竣工
・5連石造りアーチ橋、橋長:82.6m、支間:13.9m、拱矢(アーチの高さ):4.8m
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(馬渓橋全景、右岸上流側より撮影)
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(馬渓橋説明板、右岸橋詰設置)
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(馬渓橋右岸橋詰に建つ「山国川水害復興記念碑」と「馬渓橋周辺の河川整備に至るまでの経緯」の碑)

【羅漢寺橋】
・大分県指定有形文化財
・1920年(大正9年)9月竣工
・3連石造りアーチ橋、橋長:91m、径間長:26.8m、拱矢:4.6m
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(羅漢寺橋全景、下流側の羅漢寺大橋の橋上より撮影)
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(左岸橋詰に設置された、羅漢寺橋の説明盤)
羅漢寺橋親柱(河川名).jpg羅漢寺橋親柱(橋名).jpg
(羅漢寺橋親柱に刻まれた、河川名と橋名)

【耶馬渓橋】
・大分県指定有形文化財
・1923年(大正12年)3月竣工
・8連石造りアーチ橋、橋長116.0m、最大支間12.8m、拱矢:3.0m
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(耶馬渓橋全景、左岸橋詰より撮影)
8連の石造りアーチ橋は、日本でこの橋だけです。橋の長さも、石造りアーチ橋では日本最長です。
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(耶馬渓橋説明盤、左岸橋詰に設置)
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(耶馬渓橋左岸橋詰に設置されているモニュメント)

今回は、大分県に足を延ばして、石造りアーチ橋を見て回りました。そして耶馬渓の観光名所の中心的「青の洞門」も歩いて潜り抜けてきました。
日本国内の石造りアーチ橋の9割近くが九州地方に分布しています。その数約1,800基にもなります。その内大分県は、石橋王国とも言われる熊本県に負けず劣らず、約500基を占ると言われています。今回紹介した中津市だけでも53基。もっとも多いのは豊後大野市の115基、そして宇佐市には100基。その宇佐市の中でも、院内町には65基が集中して分布、設置密度も高く「日本一の石橋のまち」と称しています。
短時間で多くの石造りアーチ橋を見たいのであれば、まさに宇佐市院内町がお勧めといえます。
荒瀬橋遠望.jpg鳥居橋遠望.jpg
(橋髙18.3mと院内町最も高い「荒瀬橋」と石橋の貴婦人と呼ばれる「鳥居橋」)

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(「分寺橋」と「鷹岩橋」の橋詰に建てられた「石工顕彰碑」)

院内町にはこんな所にも、石造りアーチ橋のデザインが施されていました。
院内町マンホール蓋.jpg院内町消火栓蓋.jpg
(院内町のマンホール蓋と消火栓の蓋)

今回参考にした資料
・旺文社文庫「父帰る・恩讐の彼方に」 菊池寛著
・大分県中津市観光パンフレット
・「いんない石橋マップ」宇佐市発行観光パンフレット

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