山本有三、今年没後50年。三鷹市の山本有三記念館へ。 [建物]
<たったひとりしかない自分を、
たった一度しかない一生を
ほんとうに生かさなかったら、
人間、うまれてきたかいが
ないじゃないか。>
この言葉、栃木市民なら誰もが、一度や二度、いやそれ以上、何度となく目にし、そして空で口ずさむことが出来る言葉と言っても、過言ではないと思います。
言わずと知れた、栃木市の名誉市民第一号となられた、栃木市出身の小説家であり劇作家でもあり、政治家としても活躍した、「山本有三」の代表的作品、「路傍の石」の一節です。
この言葉を刻した文学碑が、市内のいたる所に建てられています。
(太平山上、謙信平の西端に建てられている、山本有三文学碑)
(栃木駅北口ロータリー東側と、境町瀬戸河原公園に建つ山本有三文学碑)
そして今年は、その「山本有三」没後50年に成ることから、現在「栃木市立文学館」において、「没後50年 山本有三宛書簡から見る交友」と題した企画展が、開催されています。
(山本有三没後50年の企画展が開催されている、栃木市立文学館)
その受付にて、山本有三関連施設(栃木市立文学館・山本有三ふるさと記念館・三鷹市山本有三記念館)の3館連携コラボイベント・スタンプラリーのシートを手にしました。
市内に有る2か所は、これまでも何度も見学をしていますが、三鷹市の記念館はまだ行ったことが有りません。以前より行きたいと思っていたので、今回これをきっかけに、三鷹市まで足を延ばすことにしました。
栃木駅からは、東武日光線で栗橋乗換、JR線で新宿を経由して中央線で三鷹駅へ。時間的には2時間ちょっと。電車賃は1700円もかからない。
JR三鷹駅から目的の「三鷹市山本有三記念館」までは、徒歩で10分ほどだ。
東西に走るJR中央線の三鷹駅の下には、西北西から東南東に約30度の傾きを以て、玉川上水が交差している。
(三鷹駅南口東側に、玉川上水に架かる「三鷹橋」、後方に三鷹駅のホームが見える。玉川上水はこの三鷹駅ホームの下を流れている。)
したがって駅南口から玉川上水の脇の道を、東南東方向に歩けばよく、迷うことはない。
(写真左側の、気が鬱蒼としている中を玉川上水は流れている。玉川上水は、羽村取水口から四谷大木戸までの約43kmにわたる水路で、承応3年(1654)に完成しました。これにより、多摩川の水が江戸市中の広い範囲に供給され、江戸が大きく発展することが出来ました。国指定史跡に成っています。)
尚この道は、三鷹駅から「三鷹の森ジブリ美術館」へ行くルートにも当たるので、途中ジブリ美術館への案内板が目に付きました。
(三鷹の森ジブリ美術館への案内表示。歩道上にも何やら動物の足跡も、こちらへ歩けとのサインか)
目的の山本有三記念館までは、700m程の距離であるが、その丁度中間点、歩道の脇に「太宰碑」や、「玉鹿石(太宰治入水の地)」を見ることが出来る。
(「太宰碑」には、「乞食学生」の中の一節が刻まれ、玉川上水の水路脇に座る太宰の写真が見える。現在の玉川上水は、先に掲載した写真の様に木々が鬱蒼と茂り、水の流れを見ることが難しくなっています。道路わきに置かれた「玉鹿石(ぎょっかせき)」は太宰の故郷、青森県北津軽郡金木町産。太宰治はこの近くで、昭和23年(1948)6月、自ら玉川上水に入水し、その39年の生涯を終えました。)
あちらこちら見物しながらも、目的の山本有三記念館前にたどり着きました。
(写真は三鷹市山本有三記念館の入口。入口の門の手前左側に、大きな石が置かれています。)
(石の脇に建てられた説明板によると、「名作を記念する”路傍の石”」として、この石の由来が記されています。抜粋して紹介いたします。<小説「路傍の石」執筆当時の昭和12年、有三は中野旧陸軍電信隊付近の道ばたでこの大きな石を見つけ、この家の裏庭に運び込んだと伝えられています。この石は、作品の名に因み、いつしか”路傍の石”と呼ばれ親しまれるようになり、・・・(後略)>
ただ、小説「路傍の石」から連想される路傍の石は、このようながっちりとした大きな石ではなかったと思います。「路傍の石」の作品の中には、次のように書かれています。
<何のことはない、吾一は路傍の小石のようなものだった。奉公に出されて以来、いや、父親にほうり出されて以来といった方がいいだろう。あつちへ蹴飛ばされ、こつちへ蹴飛ばされしていたが、今度は、母と娘で貸間をやっている家の台所に、ほうり込まれてしまった。・・・(後略)>
「路傍の石」は、そんな誰にも気に留められず、知らず知らずに蹴飛ばされ、蹴飛ばされする、道端の小石でしかない存在だった。
記念館の前にどしりと構えた、大きな岩のような石では無い。ただ、ただ小石のような人間が、苦労し努力をして、人生最後において、大きな人間に成長する。そんな希望をこの石は込めているのかもしれない。
門から中に入ると、右手に「山本有三先生顕彰碑」が建てられています。石碑に嵌められている山本有三の肖像は、栃木市太平山上の文学碑の肖像と同じもので、石井鶴三の作です。
敷地の中には、記念館を見学に来た人たちだけでなく、その建物等をスケッチする人達の姿も、数人いました。
記念館の外観は、趣のある洋風建築美しくといった感じ。周辺には大きな木々もあり落ち着いた空気に包まれている。
玄関は北側に位置し、その横には暖炉の外側部分が石積みになっているが、その石積みの幾何学模様が美しく感じられた。
山本有三は、この家に昭和11年から進駐軍に接収される、昭和21年まで約10年間居住して、この家で代表作「路傍の石」を執筆しています。
玄関は重厚な二重扉に、外扉は前回となっていますが、その先の内扉に入室が気後れします。その重い扉を開けて中に踏み入ります。
入った右手に受付カウンターが有り、そこでスタンプラリーのシートを出して、スタンプを押します。受付のスタッフの方が、私が栃木から来たことを知って、歓迎してくれました。室内での写真撮影に関して確認をして、室内を見学しました。
建物は地上2階・地下1階建てに、屋根裏部屋もあり、そこは子供の遊び場にもなっていたようですが、その部分は非公開エリアに成っていました。一階の食堂や応接間そして、イングルヌックと呼ばれる空間の3か所に、それぞれ異なったデザインの暖炉を見る事が出来ます。
「イングルヌック」とはスコットランドの古語で、「暖かくて居心地がいい場所」という意味だと説明が有りました。
二階への階段の踊り場の明り取りの窓には、幾何学模様のステンドグラスが、色鮮やかな光を放っています。
2階の一室に和室が残されていました。ここも元は洋間だったものを有三が和風に作り替え、和書斎としたそうで、外観やその他の部屋の洋風デザインの中で、異質の落ち着いた空気が流れているようです。室内は部屋数も多く展示品も多くじっくりと見て廻りました。
室内の見学を終え、次に外に出てから玄関の有る北側から、南側へ回り込みます。
南側からの建物の外観は、北側のデザインと全く異なっています。一階の石のテラスは栃木県産の大谷石が使われています。この大谷石は暖炉の外側部分の石積みにも使われています。
記念館の建物の南側には、現在「有三記念公園」となっています。この自然空間には、山本有三が愛した築山の竹林や、故郷栃木から運ばせた石で造った池などが有りました。
その後、スタンプラリーの残りの1か所、「山本有三ふるさと記念館」に行って、スタンプラリーのシートを完成させました。
(最後、3ヵ所目の山本有三ふるさと記念館。これまでも何度か見学していますが、今回改めてじっくりと館内を見学してきました。)
なんとか3ヵ所の山本有三関連施設を巡って、とち介スタンプを押し、スタンプラリー達成しました。
そして、前々から一度行ってみたかった「三鷹市山本有三記念館」も見学出来ました。
今、栃木市図書館に通って、山本有三の作品を一冊ずつ借りては、読んでいます。
作品を読んで、山本有三の魅力を再発見しています。
たった一度しかない一生を
ほんとうに生かさなかったら、
人間、うまれてきたかいが
ないじゃないか。>
この言葉、栃木市民なら誰もが、一度や二度、いやそれ以上、何度となく目にし、そして空で口ずさむことが出来る言葉と言っても、過言ではないと思います。
言わずと知れた、栃木市の名誉市民第一号となられた、栃木市出身の小説家であり劇作家でもあり、政治家としても活躍した、「山本有三」の代表的作品、「路傍の石」の一節です。
この言葉を刻した文学碑が、市内のいたる所に建てられています。
(太平山上、謙信平の西端に建てられている、山本有三文学碑)
(栃木駅北口ロータリー東側と、境町瀬戸河原公園に建つ山本有三文学碑)
そして今年は、その「山本有三」没後50年に成ることから、現在「栃木市立文学館」において、「没後50年 山本有三宛書簡から見る交友」と題した企画展が、開催されています。
(山本有三没後50年の企画展が開催されている、栃木市立文学館)
その受付にて、山本有三関連施設(栃木市立文学館・山本有三ふるさと記念館・三鷹市山本有三記念館)の3館連携コラボイベント・スタンプラリーのシートを手にしました。
市内に有る2か所は、これまでも何度も見学をしていますが、三鷹市の記念館はまだ行ったことが有りません。以前より行きたいと思っていたので、今回これをきっかけに、三鷹市まで足を延ばすことにしました。
栃木駅からは、東武日光線で栗橋乗換、JR線で新宿を経由して中央線で三鷹駅へ。時間的には2時間ちょっと。電車賃は1700円もかからない。
JR三鷹駅から目的の「三鷹市山本有三記念館」までは、徒歩で10分ほどだ。
東西に走るJR中央線の三鷹駅の下には、西北西から東南東に約30度の傾きを以て、玉川上水が交差している。
(三鷹駅南口東側に、玉川上水に架かる「三鷹橋」、後方に三鷹駅のホームが見える。玉川上水はこの三鷹駅ホームの下を流れている。)
したがって駅南口から玉川上水の脇の道を、東南東方向に歩けばよく、迷うことはない。
(写真左側の、気が鬱蒼としている中を玉川上水は流れている。玉川上水は、羽村取水口から四谷大木戸までの約43kmにわたる水路で、承応3年(1654)に完成しました。これにより、多摩川の水が江戸市中の広い範囲に供給され、江戸が大きく発展することが出来ました。国指定史跡に成っています。)
尚この道は、三鷹駅から「三鷹の森ジブリ美術館」へ行くルートにも当たるので、途中ジブリ美術館への案内板が目に付きました。
(三鷹の森ジブリ美術館への案内表示。歩道上にも何やら動物の足跡も、こちらへ歩けとのサインか)
目的の山本有三記念館までは、700m程の距離であるが、その丁度中間点、歩道の脇に「太宰碑」や、「玉鹿石(太宰治入水の地)」を見ることが出来る。
(「太宰碑」には、「乞食学生」の中の一節が刻まれ、玉川上水の水路脇に座る太宰の写真が見える。現在の玉川上水は、先に掲載した写真の様に木々が鬱蒼と茂り、水の流れを見ることが難しくなっています。道路わきに置かれた「玉鹿石(ぎょっかせき)」は太宰の故郷、青森県北津軽郡金木町産。太宰治はこの近くで、昭和23年(1948)6月、自ら玉川上水に入水し、その39年の生涯を終えました。)
あちらこちら見物しながらも、目的の山本有三記念館前にたどり着きました。
(写真は三鷹市山本有三記念館の入口。入口の門の手前左側に、大きな石が置かれています。)
(石の脇に建てられた説明板によると、「名作を記念する”路傍の石”」として、この石の由来が記されています。抜粋して紹介いたします。<小説「路傍の石」執筆当時の昭和12年、有三は中野旧陸軍電信隊付近の道ばたでこの大きな石を見つけ、この家の裏庭に運び込んだと伝えられています。この石は、作品の名に因み、いつしか”路傍の石”と呼ばれ親しまれるようになり、・・・(後略)>
ただ、小説「路傍の石」から連想される路傍の石は、このようながっちりとした大きな石ではなかったと思います。「路傍の石」の作品の中には、次のように書かれています。
<何のことはない、吾一は路傍の小石のようなものだった。奉公に出されて以来、いや、父親にほうり出されて以来といった方がいいだろう。あつちへ蹴飛ばされ、こつちへ蹴飛ばされしていたが、今度は、母と娘で貸間をやっている家の台所に、ほうり込まれてしまった。・・・(後略)>
「路傍の石」は、そんな誰にも気に留められず、知らず知らずに蹴飛ばされ、蹴飛ばされする、道端の小石でしかない存在だった。
記念館の前にどしりと構えた、大きな岩のような石では無い。ただ、ただ小石のような人間が、苦労し努力をして、人生最後において、大きな人間に成長する。そんな希望をこの石は込めているのかもしれない。
門から中に入ると、右手に「山本有三先生顕彰碑」が建てられています。石碑に嵌められている山本有三の肖像は、栃木市太平山上の文学碑の肖像と同じもので、石井鶴三の作です。
敷地の中には、記念館を見学に来た人たちだけでなく、その建物等をスケッチする人達の姿も、数人いました。
記念館の外観は、趣のある洋風建築美しくといった感じ。周辺には大きな木々もあり落ち着いた空気に包まれている。
玄関は北側に位置し、その横には暖炉の外側部分が石積みになっているが、その石積みの幾何学模様が美しく感じられた。
山本有三は、この家に昭和11年から進駐軍に接収される、昭和21年まで約10年間居住して、この家で代表作「路傍の石」を執筆しています。
玄関は重厚な二重扉に、外扉は前回となっていますが、その先の内扉に入室が気後れします。その重い扉を開けて中に踏み入ります。
入った右手に受付カウンターが有り、そこでスタンプラリーのシートを出して、スタンプを押します。受付のスタッフの方が、私が栃木から来たことを知って、歓迎してくれました。室内での写真撮影に関して確認をして、室内を見学しました。
建物は地上2階・地下1階建てに、屋根裏部屋もあり、そこは子供の遊び場にもなっていたようですが、その部分は非公開エリアに成っていました。一階の食堂や応接間そして、イングルヌックと呼ばれる空間の3か所に、それぞれ異なったデザインの暖炉を見る事が出来ます。
「イングルヌック」とはスコットランドの古語で、「暖かくて居心地がいい場所」という意味だと説明が有りました。
二階への階段の踊り場の明り取りの窓には、幾何学模様のステンドグラスが、色鮮やかな光を放っています。
2階の一室に和室が残されていました。ここも元は洋間だったものを有三が和風に作り替え、和書斎としたそうで、外観やその他の部屋の洋風デザインの中で、異質の落ち着いた空気が流れているようです。室内は部屋数も多く展示品も多くじっくりと見て廻りました。
室内の見学を終え、次に外に出てから玄関の有る北側から、南側へ回り込みます。
南側からの建物の外観は、北側のデザインと全く異なっています。一階の石のテラスは栃木県産の大谷石が使われています。この大谷石は暖炉の外側部分の石積みにも使われています。
記念館の建物の南側には、現在「有三記念公園」となっています。この自然空間には、山本有三が愛した築山の竹林や、故郷栃木から運ばせた石で造った池などが有りました。
その後、スタンプラリーの残りの1か所、「山本有三ふるさと記念館」に行って、スタンプラリーのシートを完成させました。
(最後、3ヵ所目の山本有三ふるさと記念館。これまでも何度か見学していますが、今回改めてじっくりと館内を見学してきました。)
なんとか3ヵ所の山本有三関連施設を巡って、とち介スタンプを押し、スタンプラリー達成しました。
そして、前々から一度行ってみたかった「三鷹市山本有三記念館」も見学出来ました。
今、栃木市図書館に通って、山本有三の作品を一冊ずつ借りては、読んでいます。
作品を読んで、山本有三の魅力を再発見しています。