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西方町の薬師堂 [堂々巡り]

久しぶりに市内の堂宇を巡りたいと思います。今回は栃木市西方町の薬師堂です。
旧西方町(現栃木市)発行の「西方町の民族」を見ると、薬師堂についての記事が有ります。そこには西方町に有る薬師堂の名前が、四カ所載っています。
最初に今井の今宿薬師堂です。ここのご本尊は鉄造りの薬師如来座像で、国の指定重要文化財となっています。像の高さは89.7cm 鎌倉時代に造られた極めて優れた鉄仏になります。背面に建治三年(1277)十二月十八日の年紀が有りますが、作者は不明です。そのような貴重な仏像を収納している堂宇の為に、火災や盗難から守れるよう、昭和39年1月29日に竣功したお堂で、二間四面宝形造りで正面の扉は鋼鉄で作られまるで大型金庫の扉のようです。
金井薬師堂1.jpg金井薬師堂2.jpg
この薬師堂については昨年(2014年)10月3日のブログで「市内寺院堂々巡り(第9回)」で書いています。その時は知らなかったのですが、先の本の中に≪古くはここに真言宗東安寺派の末寺である「薬王院」が有って薬師堂を守っていた。明治41年に東安寺に合寺され、院の跡には「原・薬師堂集落センターた。≫と有りました。
次が、本郷の梅南薬師堂です。こちらの薬師堂についても、今年(2015年)8月26日にブログ「西方町本郷下宿の薬師堂」に書いています。その時もまだこの「西方町の民族」本を入手していませんでしたので、堂宇の情報を持っていませんでした。
下宿薬師堂1.jpg
≪本郷の薬師堂が建てられたのは安永八己亥年(1779)である。薬師堂の隣りに建っている地蔵堂の棟上には、薬師堂が建てられた時の棟札が有って、・・・・・・(中略)・・・・・お堂本体の文化財的な価値は高いと思われる。現在は、残念ながら御本尊が失われていて十二神将だけが遺されている。≫との説明文が載っています。
三番目は、元の古宿薬師堂です。私が初めてこの薬師堂を確認したのは2013年11月19日に成ります。堂宇の南側に稲荷神社が祀られています。この薬師堂も二間四面宝形造りですが、周囲は金属製のサイディングで覆われ、正面の扉も金属製で窓も有りません。
古宿薬師堂1.jpg古宿薬師堂2.jpg
≪厳重な戸締りがなされていて、江戸時代後期の作といわれるご本尊はお祭りの時にしか拝顔できないようになっている。≫と説明が載っています。
最後は、本城の大沢田薬師堂です。私はまだこのお堂の所在地を確認していませんが、先の本には≪大沢田の薬師堂には礼拝窓があって、薄暗い堂内ではあるが御尊顔が拝されるようになっており、厨子の造りにも歴史が感じられる≫と説明が載っています。今度是非参拝したいと思います。
他に西方町真名子に有る「円満寺」にも薬師堂が有ります。こちらの薬師堂は都賀三十三薬師霊場の三十二番札所に成っていました。こちらは昨年(2014年)10月24日堂々巡り25回で紹介をしました。
像の高さ約36cmの木造薬師如来座像です。
円満寺薬師堂1.jpg
(正面石段の上が円満寺本堂、薬師堂は写真左隅に見えます。)

西方町本郷下宿の薬師堂 [堂々巡り]

今回は栃木市西方町本郷に有る、下宿薬師堂を巡ります。
西方町本郷は東隣りに県道3号線(宇都宮亀和田栃木線・金井家中バイパス)が通る西方町金井。西隣りは東北自動車道が通る都賀町富張。北側に国道293号線が通る西方町元。南に北関東自動車道が通る都賀町原宿が隣接しています。本郷自体にも北から南に県道177号線(上久我都賀栃木線)が通っています。
下宿薬師堂はこの県道177号線の西側を、ほぼ並行してしている旧道沿いに建てられています。
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西方町史の中「第五章村社会と百姓の暮らし」に、天保八年(1788)の下宿村絵図を見る事が出来ます。
西方町本郷は明治九年に、深見内・田谷・下宿の三か村と、この三か村に分散して存在した菅原新田が合併して本郷村となったものです。
下宿村の絵図を見ると薬師堂はほぼ中央に当たります。薬師堂の北隣りには一回り小さい地蔵堂も並んで建っています。現在もそのままの状態で見る事が出来ます。
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この堂宇の前を北から南に抜ける道に、絵図には「粟野より栃木町江大道」と記されています。更に絵図には薬師堂の裏手方向に「照明院」や下宿村の「名主政右衛門」「高札」なども記されています。
現在は照明院は有りませんが、跡地と思わしき所に「菅原神社」が祀られ、西隣に「下宿公民館」も建てられています。又周辺には立派な門構えの家屋を見る事が出来ます。
薬師堂は東向き二間四面宝形造りです。
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(2014年3月22日に訪れた時、薬師堂の脇に梅の花が咲いていました。)
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集落の周囲は現在も水田が広がる長閑な田園地帯です。

西方町元の法円寺 [堂々巡り]

今回は栃木市西方町元にある法円寺を巡ります。
法円寺は国道293号線を都賀町大柿より西方町金崎方面に向かい、東北自動車道の下を潜ってから700mから800m辺りで、道路の左手(北側)田圃の中に瓦屋根を載せた背の高い建物が見えます。その脇に赤い屋根の堂宇も見えます。そこが今回の目的「法円寺」に成ります。
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法円寺は山号を朝日山と称し、日蓮宗の寺院です。御本尊は宗祖図顕の十界互具の大曼荼羅であり、釈迦牟尼仏をお祀りしています。
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現在の寺の場所は慶応三年(1867)に周辺の信徒十五名が協議の上、「朝日堂」を開山した所です。明治十九年に公許を得て信仰に励んだが、縁あって大前村(現足利市)の妙隆寺住職の斡旋を受けて、相模国高座郡小出村(神奈川県茅ケ崎市)芹澤に有った長上山法円寺を招来しました。法円寺の開基は長雄院日勝上人で、元和元年(1615)九月の創立です。

※本記事は西方町発行の「西方町の民俗」より引用させて頂きました。

益子町の圓通寺 [堂々巡り]

今回は益子町の円通寺をお参りして来ました。
栃木市にも同じ寺号「円通寺」が有りますので、どんなお寺なのか興味も有り、参拝に行って来ました。
場所は益子町を通る国道121号線にて、益子の市街地から北上、益子町七井中央の交差点で国道123号線に交わる一つ手前の交差点「風戸」を右折し、直ぐまた右に分かれる細い道に入ります。入口に「名越大本山圓通寺」と刻した石柱が建てられています。細い道を450m程行くと、右に入る道が有り角に「円通寺⇒」の案内板が有ります。右折して暫らく行くと目の前に圓通寺が現れます。
表山門の前に駐車スペースが有りましたので、車を停め境内に入ります。
圓通寺表門は応永九年(1402)の建造であると言い伝えられており、国の重要文化財に指定をされています。門の前に説明板が立っていました。
大澤山圓通寺1.jpg大澤山圓通寺2.jpg
門の左脇から山内に入ります。表門の裏側から奥に参道が伸びています。参道の両側にはモダンなデザインの白亜の建物が建っています。老人福祉施設でした。参道の百日紅の奥、階段の上に赤い大きな屋根が見えます。圓通寺本堂に成ります。
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こちらの圓通寺は「大澤山虎溪院圓通寺」と号する寺院で、応永九年浄土宗鎮西流名越派の第五祖良榮理本上人によって開創されました。本堂前の「當山沿革」に記されておりました。
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本堂に向かって左手方向に朱塗りの鮮やかな柱を持つ観音堂が建っています。
大澤山圓通寺7.jpg大澤山圓通寺8.jpg
本堂と観音堂の間を抜け裏手に向かうと、左手に立派な梵鐘の鐘楼、正面階段の上に県指定の重要文化財「一切経塔」が建っています。
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山内は閑静なたたずまいで、心穏やかに参拝出来ました。

平柳町二丁目の古宿薬師堂 [堂々巡り]

今回巡るのは、栃木市平柳町二丁目の古宿薬師堂です。
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所在は、県道2号線(宇都宮栃木線)の道沿いに有ります。宇都宮方向から栃木市に向かってくると、県道2号線は平柳町東口の交差点で、県道309号線(栃木環状線)と分岐して市街地方向に進みます。現在この交差点は、都市計画道路3・3・3号小山栃木都賀線の整備が進んでいる所です。交差点を抜けると、道路は歩道の無い二車線道路に成ります。200m程進むと、道路右側「ホームセンター、カンセキ栃木店」の出入り口手前に、目的の古宿薬師堂が建っています。
薬師堂は南向き入母屋造り瓦葺で、屋根の正面全体が向拝として前面に反り出ています。1969年に撮影した時は、屋根瓦等老朽化が見られましたが、現在は修復されて美しい堂宇がよみがえっています。
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この薬師堂は天保二年(1831)の建立、御本尊は薬師如来、真言宗豊山派に成ります。
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「伝承活動昭和63年度、栃木市の社寺」(栃木市老人クラブ連合会)に、この薬師堂の古事来歴が載っています。≪本寺如意輪寺の本寺として西証寺建立の時、その境内に現在の薬師堂が建立された、西証寺の跡については今は古宿公民館として使用している。近くに寺屋敷西証寺(ラント)の呼び名が残っている。≫
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堂宇に向かって右手に、2体の地蔵尊や十九夜塔・庚申塔が並んで祀られています。そしてその後ろの塀際にも石塔・石仏が祀られています。

藤岡町中根の青蓮寺跡観音堂 [堂々巡り]

今回は、栃木市藤岡町中根の観音堂を訪ねます。
この観音堂の場所を説明するのは、結構厄介な所です。実際私も所在探すのに、とても苦労をしました。
渡良瀬遊水地の北側を西から東に通る、県道50号線(藤岡乙女線)、その藤岡町中根の道路の南側に、中根の八幡宮が有りますが、この八幡宮の南東約100mの田畑の中に、一見普通の家屋に見間違えるのが、今回訪れる観音堂に成ります。
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(中根観音堂を南側より撮影、左側の木立の中に中根八幡宮が有ります)
観音堂は平成三年(1991)再建されたものです。ただ観音堂に通じる道が見当たらず、田圃の畦を通って堂宇の前まで行くことが出来ました。堂宇は東向き二間四面瓦葺に成っています。
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(観音堂を正面、東側から撮影。後方の木立の中が中根八幡宮となります)
昔は青蓮寺と言う大きな寺院が有り、境内も約7000㎡位あったと云われています。現在は境内が約1000㎡で、堂宇の南側には、庚申塔や十九夜塔などが13基並んで建っています。
中根観音堂4.jpg中根観音堂5.jpg
(境内に南側に並ぶ石塔)
観音堂の横に、元藤岡町教育委員会が立てた如来坐像の説明板があります。≪像内には墨書銘が確認でき、銘文から、仏師は大宮で、天正五年(1577)石塚民部がこn像を修復し、宝永四年(1707)青蓮寺住職隆照の願いにより檀家の助力を以って仏師の教運が再び修復している事が分かります。製作年代は中世末で、数多い藤岡町の木彫仏像の中で最も古いものです。≫などと記されています。
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(堂宇の横に建てられた「如来坐像」の説明板)
尚、この観音堂が建つ台地は、中根八幡遺跡となっていて、畑地などに縄文時代後期から晩期が中心の、土器や石器が数多く採取されています。

この記事は、藤岡町教育委員会が発行した「ふじおか見てある記」を参考にさせて頂きました。

エラワン廟(バンコク) [堂々巡り]

先日、大変無残にも20名もの死亡者と、125名の負傷者を出した、タイ王国バンコクのエラワン廟。
なぜ、どうして、このような神聖な場所に爆発物を仕掛け、多くの罪の無い人たちを、死傷させる暴挙に出たのか。今、タイの警察が必死になって、犯人の行方を捜しています。ニュースによると次第にその足取りも掴みつつあると、その様子を伝えています。
私もこのエラワン廟には何度か足を運んだ事が有りますが、いつ行っても多くの参拝者や観光客が溢れていました。
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(参拝者で賑わうバンコクのエラワン廟)
場所はバンコクの中心地、エラワン廟の北側に東西に通る道路は「プルンチット通り」でこの通りを東方面に進むと、日本人が多く住んでるスクンビット通りにつながります。西側には南北に通る「ラーチャダム通り」が有りその交差点の南東角にこのエラワン廟が祀られています。
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(祠の前にひざまづいて参拝する人が後を絶たない)
「プルンチット通り」には上に、高架鉄道BTS(スカイトレイン)や「スカイウォーク」も通っています。又交差点の北西側には、バンコクでも最大級のショッピングモール「セントラルワールドプラザ」やそれに隣接して、伊勢丹なども有り、バンコクに駐在する日本人も良く出かけるエリアーです。
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(エラワン廟の前を通る、スカイトレイン(BTS)やスカイウォーク。)
1956年にホテル建設の工事の無事を祈願して建設をされた祠で、その後仕事や恋愛などの願い事が、良く成就すると言う評判で、現在も参拝者が絶える事が有りません。
その為周辺の歩道上には供物の花やロウソク・線香を売るお店がずらりと並んで、直ぐ脇の道路には後から後から観光客を乗せたバスが横付けされて、混雑をしています。
丁度交差点の角付近に、廟の出入り口が有り、入口を入ると中央の祠に、ヒンズー教の三大神の一人である、四面神ブラフマーが奉られています。バンコクのパワースポットの一つで、いつも多くの参拝者が真剣な面持ちで祈願をしています。
願い事が成就した人は、御礼参りに訪れ、ブラフマー神に感謝の意を現すため、タイ舞踊の踊りを依頼します。ですからエラワン廟に行くとこの伝統舞踊を見る事が出来ます。

タイ王国は国民の95%が仏教徒と云われます。街を歩くと托鉢をして歩くお坊さん達に良く出会います。そんなタイでは、仏教徒の男子は出家するのが、望ましいとされ、社会的にも推奨されていると聞きます。ですから、会社の中でも、従業員が「出家」をする話を耳にします。会社も休職扱いになるようです。現在でも「出家」をすることで、親孝行な息子、一人前の男子と評されるようです。
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(エラワン廟の脇に、願いが叶った人が奉納するタイ舞踊を踊る建物が建っている)
タイでは良く「タンブン」と言う言葉を耳にします。「タンブン」とは、福徳を成す。善を行う。功徳を積むこと。という意味で、寺院や僧侶に喜捨寄進をしたり、困っている人を助ける事にまります。タイの商店や会社内においても、寄付箱が置かれ、その中にお金が沢山入れられています。ちょっとしたお金が有ると何の戸惑いも無く、寄付箱にお金を入れるのです。
それは、そうして善行を積むことで、今度生まれて来るときは、来世も幸福になりたい。来世こそ幸福になりたい。と言う思いが込められているのだそうです。
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(暗くなっても参拝者が絶えない、エラワン廟)
バンコクには、日本国外で一番日本人が多く住んでいる都市だそうです。早く安心して暮らせるように成ることを祈りたいと思います。そして今回犠牲になられた方々のご冥福と、負傷された人達の一日も早いご回復をお祈り申し上げます。

近龍寺境内に楠木正成・正行の像 [堂々巡り]

先週は盂蘭盆会の為、墓参りやら、両親の実家への訪問、新盆となった親戚への訪問等々非日常的な週でした。更に家族全員が揃う時で、食事もいつもより少し豪華。又、昼の間は暑い事も有って、高校野球のテレビに釘付け状態。その為セーブしている体重もここ数日で増加してしまいました。
でも、この時期の楽しみの一つは、叔父さんから昔の古い話を聞くことが出来る事です。
以前から近龍寺の境内に「楠木正成と正行」の像が有る事は知っていましたが、それがどういうものか知りませんでした。近龍寺のホームページにもこの像の事は、記されていません。
それを今回聞くことが出来ました。
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≪近龍寺の「楠木正成と正行」の像は、「桜井の別れ」と言う古典文学「太平記」の名場面のひとつ。西国街道の桜井の駅で、楠木正成・正行父子が決別する所を石像にしたと言います。桜井の駅で別れた後、正成は湊川の戦いで戦死、今生の別れとななりました。この逸話は戦前の国語や終身・国史の教科書に必ず載っていて、戦前は多くの小学校に置かれていたそうです。この近龍寺の像も元は、栃木第三小学校に有ったもので、戦前教育を受けた人は誰もが良く知っている話だそうです。しかし戦後そうした教育に問題が有ったとして、GHQの指示で撤去する事になったそうです。
この像がどのような経緯で、近龍寺に置かれたのかは、分からないそうです。≫

近龍寺の山門を入ると、正面に本堂が有り、向かって左手に「三仏堂」、右手に鐘楼堂が建てられています。その鐘楼堂の並びに、この「楠木正成・正行の桜井の別れの像」が有ります。
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栃木市都賀町臼久保の薬師堂 [堂々巡り]

都賀町臼久保は、桜や蓮の花で有名な「つがの里」の北隣りに当たります。
栃木の市街地からは、県道37号線(栃木粟野線)を北進、北関東自動車道の下を抜けて、その先赤津川に架かる「大橋」の手前を左折して、大橋の下流側の橋、「臼久保橋」を渡って、少し細い道を西に進むと、東北自動車道の上を渡る「臼久保橋」も渡って、東北自動車道の西側に出ます。道を下って行くと、左側から立派な道路が合流してくるので、その道に戻る様に進むと、道路の右手に広い駐車場が有ります。
「つがの里」の第五と第六の駐車場です。その駐車場の間の道路に入って坂を上った所に有る、第四駐車場が最寄りの駐車場に成りますので、ここに車を停めて、薬師堂に向かいます。
臼久保の薬師堂は、「つがの里」北側に有る「ファミリーパーク」の西の奥、木立の中に有ります。
バーベキュー広場とアスレチック広場の間の道を西に進むと突き当りに堂宇が見えてきます。
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堂宇は東向き二間四面、入母屋造り向拝付の瓦葺のしっかりとしたものです。
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正面虹梁の上には見事な龍の彫り物が施されています。
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境内には栃木市指定天然記念物の、樹齢約150年の高野槇が有ります。
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「つがの里」は延暦八年(789)勝道上人によって、この地に建立された出井山華厳寺の跡で、江戸時代には下野観音霊場二十二番札所、都賀観音霊場三十番札所となっていました。
明治初期の廃仏毀釈の為に廃寺となり、明治五年に焼失しました。現在「つがの里」の有る観音山の東中腹には、観音堂が移築されています。
華厳寺とこちらの臼久保の薬師堂とは、関係が有ったかどうか資料が無いので分かりません。
都賀町史に依りますと、都賀町に残る薬師堂は、
①平川の薬師堂
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②家中桜本・尊照院の薬師堂
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③家中宿・光明寺の薬師堂(現在は有りません、薬師像は本堂内に祀られています)
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④家中本郷・宝蔵院跡の薬師堂
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⑤家中本郷東の墓地前・玉蔵院跡薬師堂
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⑥家中・中荒井の薬師堂(私はまだ確認出来ていません)
⑦家中・中新田・西光院跡の薬師堂
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⑧原宿・玉塔院の薬師堂
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⑨臼久保・東光寺跡の薬師堂
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⑩富張・長福寺の薬師堂
長福寺薬師堂.jpg
⑪深沢の通称・市兵衛薬師(個人の所有地内の為、まだ確認していません)
⑫大柿仲坪の薬師堂
⑬大柿中郷の薬師堂
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これらは管理されている寺院や地域の人達に依って、長く守られ信仰され続けて来ましたしかし、これからは人口の減少が確実に進んで行くため、これらの地域に根差した民間信仰も、次第に廃れて行ってしまうのかも知れません。上記の薬師堂の中にも盗難等で、御本尊を失ってしまった所も有ると聞いています。
地域も財産をどのように維持管理していくのか難しい時代に成ってきました。

栃木市藤岡町の猿田彦大神(堂) [堂々巡り]

栃木市藤岡町の堂宇をグーグルマップで探していた所、繁桂寺の南方に「猿田彦神社」の文字に気が付きました。画面を航空写真に切り替えてみると、宝形造りらしき屋根の形で、お堂らしかったので、車で現地確認をしました。
藤岡町の市街地を貫く、県道9号線(佐野古河線)を南進して、藤岡市街地の南で左手から合わさる、県道11号線の合流点の直ぐ南側で、旧道が右方向に分岐しています。この分岐した旧道を少し進むと、道路の右手に目的の「猿田彦神社」が現れます。
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建物は二間四面でしょうか、道路に面した正面は解放されて建物の中が見えています。中央奥に「庚申塔」が祀られています。
庚申塔は青面金剛像が陽刻されています。塔の上部に「猿田彦大神」の扁額が掲げられています。
猿田彦大神2.jpg猿田彦大神3.jpg
神社となっていますが、建物は堂宇の装いで、入口には鰐口が下がっています。
虹梁の上の蟇股になるのでしょうか、龍の彫り物が立派です。
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以前、藤岡町教育委員会が発行した、「ふじおか見てある記」と言う小冊子に、この「猿田彦大神」(庚申塔)についての説明が載っておりました。
≪藤岡下郷4耕地(向高間、原、小出山、南山)の崇神。手足の痛みを代わってくれる庚申様として、遠方からの参拝者、近隣のお年寄りの信仰が厚く、毎日の清掃と献花が絶えない。(中略)町内で最も古い庚申塔で、寛文七年(1667)に建立されたものである。≫
又、持ち物の三股の形が十字で有る為「かくれキリシタン庚申」との説も有ると記されています。
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「庚申」はもともと中国の道教から来たものと有ります。
人間の体内には三尸(さんし)の虫と言うのが住んでいて、いつもその人の悪行を監視している。この虫が庚申の夜、人間の睡眠中を覗って体外に抜け出し、天に昇り、天帝にその人間が行った悪事を告げるとされ、そして人の命を短くするとも云われています。と説明されています。
これをさせない為、その晩は神々をまつり、徹夜で飲み明かすという風習が古くより行われていました。これを「庚申待ち」とか「宵庚申」といわれる行事で、これらを総称して「庚申」という事です。
仏教では、庚申の本尊を「青面金剛」としています。青面金剛は恐ろしい形相をしていますが、これは庚申の夜祭を守護しているからだとも言われています。
神道では「申(さる)」ということで、猿田彦神(さるたひこおかみ)を結び付けています。猿を庚申様のお使いにみたて、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿信仰にもなっていきました。
この猿田彦神社は昔の神仏習合の名残りの様に思えます。
(この記事を投稿する際、寝ぼけていて未完成の状態で投稿してしまいました。その間訪問して下さった皆様には、大変失礼をいたしました)