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栃木市都賀町新名地の馬頭観音堂 [堂々巡り]

今回は、栃木市都賀町家中、新名地の馬頭観音堂を巡ります。この馬頭観世音は、当所鷲宮の半田仙衛門さんが、思川で投網を使って漁をしていた時、網にかかったものと云われています。
さて、この馬頭観世音菩薩様はどこから来られたのか。以前都賀町が発行していた「広報つが」において、歴史再発見と言うコーナーが連載された事が有りましたが、その中でこの「馬頭観音の故地を尋ねて」と言う記事が出ておりました。そこには当時都賀町文化財委員の皆さんが、調査をされたそうで、結果としては、鹿沼市下粕尾に有る常楽寺と言う、録事尊で有名な寺院にたどり着いたそうです。
洪水によって流されてしまった観音様でありますが、川の底からひろわれ、新たな家中の地において、手厚く祀られ守り続けてこられた訳です。
現在観音堂の場所は、隣りに「新名地集落センター」が有ります。観音堂に行くには、旧日光例幣使街道の「東武日光線家中駅」入口の交差点を駅と反対方向に曲ります。県道296号線(都賀小山線)に成ります。ここを600m程東進すると、道路の右側に「新名地」と記したイチゴの赤い実を模った道標が立っています。
道標が示す方向に300m程南進すると、道路左手の木立の中に、観音堂が建っています。
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南向き二間四面宝形造りの堂宇の正面に鰐口が。その後方に文字が消えかかって読み難いが、「馬頭観世音」と分かる扁額が掲げられています。
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観音堂に向かって右側手前に銀杏の大木が1本、その根元に小型ですが数多くの「馬頭観音」と刻した文字塔が祀られています。
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下粕尾から来られた馬頭観世音様は今ここで地元の皆さんと共におりました。

栃木市樋ノ口町の地蔵堂 [堂々巡り]

今回は、栃木市樋ノ口町に有る地蔵堂を巡ります。
この地蔵堂の存在を知ったのは、2013年10月24日に成ります。雨が降っている中、何を考えたかウォーキングに出かけ、小山市思川方面に向かっていましたが、高谷町の萬福寺付近まで来た時、雨足が激しく成って来て、足元が濡れて来たので、これ以上行っても仕方がないと、引き返した時に偶然に見つけたのでした。
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(2013年10月雨の中、初めて堂宇の存在を知りました)
その時はどのようなご本尊をお祀りした堂宇なのか、堂宇に何も手掛りが無く分かりませんでした。その後栃木市図書館で閲覧した栃木市老人クラブ連合会伝承活動63年度「栃木市の社寺」に、「延命地蔵尊」として紹介されているのを、見つけました。
その古事来歴に付いて、≪慶長14年(1609)頃、修行僧六部により開寺された、海叶寺境内にあった付属の建物であった。海叶寺は嘉永六年(1853)三月廃寺となり、延命地蔵尊堂が残り、その後改築を重ね、信仰者が多く今日に及んだ。鳥害、ローガイ等流行病平癒祈願が叶えると言われております。≫
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(樋ノ口町の稲荷神社。赤い鳥居が目に留まります)
地蔵堂の場所は、樋ノ口町でもJR両毛線の北側に位置し、県道243号線が樋ノ口町北東部を通過している西側に赤い鳥居の有る「稲荷神社」の所で、神社南側の道を西に100m程行った所の交差点を右折すると、直ぐ左手に数基に石仏が並んでいます。その奥にまだ最近建て替えられたと思われる、東向き二間四面銅板葺き宝形造りの堂宇が建っています。
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(水田の中に建つ地蔵堂、背景に見えるのが太平山)
石仏の紀年銘を見ると、享保十三年(1728)~元治元年(1864)に建てられております。
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(地蔵堂の入口脇に並ぶ「十九夜供養」などの石仏)
先日、訪れた時先ほどの「稲荷神社」で桜の木に防虫剤を散布しておられた古老と話しを交わした時、地蔵堂は4年ほど前に建て替えたと教えて頂きました。今もしっかり地元の皆さんによって守られている様でした。

栃木市高谷町の萬福寺 [堂々巡り]

今回は、栃木市高谷町の萬福寺を巡ります。
正式には、「宝明山円明院萬福寺」と号して、小山市小薬に有る浄土宗称念寺の管理に成っています。本尊は馬頭観世音菩薩で、建立年月日は延宝八年(1680)と言われています。昔は寒川郡鏡の天台宗の僧によって高谷萬福寺開山の折りに移向したものと言われています。昔と言いますんで状況は変わっていると思いますが、寒川の鏡(現在の小山市鏡)には、同じく馬頭観世音菩薩を本尊とする「日鏡山普門院観音寺」と号する寺院が存在しますが、真言宗豊山派の寺院です。
ここ萬福寺は「都賀三十三観音霊場、二十四番札所」でした。ご詠歌が有ります。「よろず世の宝をこめし萬福寺 のちの世までもたのおしきかな」
ちなみに管理を行っている、称念寺も同じく「都賀三十三観音霊場、二十五番札所」となっておりました。こちらの御詠歌は「あけくれに仏の御名を称念寺 二世安楽を小薬の里」となります。
萬福寺の場所は、栃木市城内町の「ヤオハン」の南側の道(県道243号線)を東に進み仲仕上町を出た所で、交差点を右折します。南進して樋ノ口町の「稲荷神社」の角を今度は左折、高谷町に入った所の交差点で、又右折して180m、萬福寺の前に出ます。
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道路の脇に建つ門柱に「寶明山萬福寺」「馬頭観世音菩薩」と刻されています。門扉の前に「庚申塔」の文字塔や、十九夜供養塔、馬頭観世音等、数基の石仏が祀られています。敷石供養塔には「寛政十年」(1798年)の紀年銘が見えます。
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(2013年10月24日激しい雨の中訪れた時、境内の柿の実が多数落ちていました)
門扉から真直ぐ伸びる参道の正面に東向き二間四面、宝形造り向拝付瓦葺観音堂。
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向拝には素朴で荒削りですが、ボリュウム感のある龍の彫刻が有ります。
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堂宇の裏手、境内の南西の竹林に隠れる様に大小数基の無縫塔が祀られています。
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尚、入口門扉の脇に、「大旱魃紀念」と刻した石碑が建てられていました。内容は昭和十五年の初夏に発生した大旱魃に伴い、高谷地区の住民が協力して、その難関を乗り切った「私心を捨て公共精神の成果を記念したものでした。
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(入口脇に建つ「大旱魃記念碑」と碑文を読み写した内容)
最後に私が1969年に撮影をした萬福寺の写真です。
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栃木市惣社町の観音堂 [堂々巡り]

今回は、栃木市惣社町に有る観音堂を巡ります。
県道2号線(宇都宮栃木線)を栃木の市街地を抜け、惣社町に来る。道路の左手に「大神神社」の杜が広がっている。杜の南端に一の鳥居が有り、そこから北に参道が伸びている。県道はその鳥居の少し南側を東西に走っているので、神社の入口を過ぎると、又視界が大きく開けます。ここで左手前方奥にコンパクトながらスリムで均整の取れた堂宇が確認できます。それが今回訪問する観音堂に成ります。
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(1988年11月撮影した観音堂の写真)
栃木市老人クラブ連合会が、昭和63年度の伝承活動として、「栃木市の社寺」と言う本を発行しています。栃木市内の寺院や堂宇を巡っている私にとっては、非常にありがたい情報を沢山提供してくれています。
今回の観音堂に付いても記載が有りました。以下引用・抜粋させて頂きます。
荒川観音堂2.jpg荒川観音堂3.jpg
≪名称は荒川家同姓観音堂。宗派は真言宗、本尊は馬頭観音と千手観音。建立年月日は不明≫と有ります。そして、建立の意味について、
≪大化改新により、各国に国府が置かれ、国司が任命され、行政組織の確立を見た。その時、馬の飼育の責任者を「馬の司」(ウマノツカサ)と称した。荒川家がその職に有ったものと思われる。荒川家の守り本尊は千手観音でした。戦が起こると馬が徴発され、国府に集結、それから戦場に向かった事でしょう。馬を飼育していた人々はさぞや可愛い馬を偲び、傷つき、倒れたであろう馬を思い、馬の霊を慰める為に、馬頭観音を建て、観音堂に千手観世音と馬頭観世音をお祀りしたことが始めと思います。≫
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(2013年10月11日撮影したもの)
≪明治35年の台風で観音堂が破壊されたため、暫らく西光寺に預けられました。その後、元の敷地は転々と人手にに渡り、建立する事が出来ませんでしたが、幸いもとの敷地が荒川同姓の所有となったので、昭和23年2月13日目出度く落慶の運びとなりました。その後昭和57年土地改良区域に編入され、今までの敷地に居られなくなったが、土地改良関係者のご厚意により、現在地に新築、昭和59年12月2日落慶の運びになりました。≫という事です。

栃木市国府町の宿薬師堂跡 [堂々巡り]

今回は栃木市国府町の宿薬師堂跡を巡ります。
今回訪問した場所には、すでに薬師堂は無く、その跡地には「国府町宿薬師堂跡」と彫られた石碑が建っています。背面に「平成二十二年十二月吉日」となっています。
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場所は、栃木市立東陽中学校の北東側に有る集落の中、東武宇都宮線野州大塚駅前から南に向かう、県道296号線を南進し、県道2号線の「大塚町南」の交差点を横断、更に南に進んで行く。道路は集落に入ると狭くなってきますが、道なりに進むと道路の左側に、火の見櫓の有る「栃木市消防団第12分団第3部の建物が現れます。ここの奥に昔薬師堂が有りました。
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私が1969年に撮影をした薬師堂の写真が有ります。それには、西向き二間四面向拝付瓦葺宝形造りのお堂が写っています。
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この薬師堂は、国府の宿ほぼ中央に有り、古くから同じ国府町に有る「勝光寺」に属していました。依って真言宗智山派となります。
昭和58年北隣りに公民館と併用する形で新築されました。地図の上には「国府集落センター」として記載されています。
境内地には、地蔵尊・十九夜様・光明真言供養塔・馬頭観音等の石仏や、八坂様・愛宕神社等の祠が祀られています。
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栃木市内には、同様に取り壊された堂宇の跡地に、そこにかって仏堂が建てられていた事を記念する石碑が建てられている所が残っています。
都賀町木、木の北「大師堂跡」や、
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岩舟町鷲巣「薬師堂跡」です。
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こうした地域の住民の手によって信仰され守り継がれた堂宇の中には、老朽化に伴い再建継続する事が難しくなっている物も多く有ります。それでもせめてもの証として、記念碑を残す形を採られたものと思われます。
都賀町木の「大師堂」に関しては、元々789年勝道上人によって創建された華厳寺の一宇「観音堂」で、1774年に再建されました。その後明治初期の廃仏毀釈の法難に遭い廃寺に成りましたが、当地の信仰厚い人々によって1873年この地に移築されていました。2000年に都賀町の歴史的文化遺産として、ゆかりの山内である現在の「つがの里」に再移築されています。
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栃木市藤岡町石川の日蓮堂 [堂々巡り]

今回は、栃木市藤岡町石川、渡良瀬遊水地の北東側堤防の北側に有る、日蓮堂を巡ります。
藤岡町石川へは、栃木市の「ふれあいバス部屋線」を利用すると、栃木駅前から「70分間のんびりバスの旅」を満喫しながら、終点の「部屋南部桜づつみ公園」まで連れて行ってくれる。これで運賃300円です。一つ手前の「石川入口」停留所で降りても良いのですが、せっかくですので終点まで乗ります。
「部屋南部桜づつみ公園」にて、渡良瀬遊水地を周囲堤の上から眺められます。堤防の外側は渡良瀬第2調節池が広がっています。
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ここから巴波川左岸堤防上の道を上流に向かって歩きますと、前方奥に太平山の山並みが横に広がっています。堤防の内側、右手に「石川の集落」。そして堤防横に高い木がそびえている所が石川の「八幡宮」に成りますので、堤防から降りて、神社の境内に向かいます。
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八幡宮の社殿は石の鳥居を潜り階段を登った高台の上に有ります。参拝をして右手の階段から降り、前方に見える火の見櫓方向に向かいます。
途中道路の両側に石柱が建っています。振り返って見ると石柱に「下都賀郡」「部屋村役場」の文字が彫られています。ここには元部屋村の役場が有った所です。
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火の見櫓の周辺は墓地が有り、道路の脇に数基の石仏が祀られています。その中に、十九夜供養塔や地蔵尊と並んで、「溺死精霊慈濟塔」と大書された石碑が有りました。紀念銘は文化十三年(1816)となっています。この石碑は、この地域が過去から何度も洪水の被害にあって、多くの人命を奪われていた事を、物語っています。
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道路の先、突き当りを左に曲るとその先に、目的の「日蓮堂」が見えてきます。
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日蓮堂も八幡宮と同じように少し高くなった石段を登った上に有りました。
お堂の正面に「日蓮宗大法山妙経寺」と書かれた木札が掲げられたいます。
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この「日蓮堂」の由緒等の文献をまだ見つけられていません。お堂の北隣り道脇に一基石塔が建てられています。
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江戸から明治、この付近は巴波川の舟運の中継点として大いに栄えた「部屋河岸」や「新波河岸」などが有った所です。現在は自然豊かな田園地帯が広がったいます。

栃木市志鳥町の観音堂 [堂々巡り]

今回訪問するのは、栃木市志鳥町の観音堂です。
志鳥町は太平連山の最高峰晃石山(標高419.1m)の北麓に位置し、東北自動車道の南側となっている為、通常用の無い人は足を踏み入れる事が無い袋小路の地形に成っています。2003年3月に永野川に架かる「大砂橋」が出来てからは、県道75号線(栃木佐野線)大皆川町から「栃木特別支援学校」に向かう為の広い道路が通った事で、以前よりスムースにこの志鳥町に来ることが出来るようになりました。このエリアーは東側半分が皆川城内町滝の入。西側半分が志鳥町大沢となります。
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(中央の一番高い山が晃石山、写真左端が太平山に成ります)
今回の観音堂は西側の山の中腹に祀られています。山への入口に「正観世音菩薩入口」の石柱が建てられています。登り坂の道を進むと、石段の上の高台に堂宇が見えます。
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(志鳥観音堂への道)
周りを杉木立と竹林とに囲まれ、南東方向を向いた二間四面瓦葺の観音堂です。
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境内に1基青面金剛像が祀られていました。
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(青面金剛像の石仏)       (観音堂前より入口側南東方向を望む)
観音堂の詳細は分かりませんが、地元の人達に依って信仰され、守り伝えられて来たものと思われます。
昭和52年8月発行「栃木郷土史」(栃木郷土史編纂委員会編)の中に、東山道のルートに関する記事が載っています。東山道の栃木市近辺のルートは、現在まだ確定を見ていません。三毳山の中に三毳の関跡や東山道跡の案内が有ります。が、ここを東山道が通ったとする意見に、異を唱える人もいる様です。又、下野国府へのルートに関しても、大平町から北東に斜めに入る説の他に、≪本県の最大の考古学者、丸山瓦全翁は、下津原より小野寺村を通り、志鳥岩船山後を経て国府村に至るのではないかと考証された。無論決定的の意見ではない。≫ここで「志鳥」と言う地が出て来ています。又、延喜式東山道の条に、下野国駅馬、足利、三鴨、田部、衣川、新田、磐上、黒川、各十疋。と有ります。ここで、三鴨駅の場所は、岩舟村下津原の辺りと有ります。
尚、志鳥の地名について、「和名類聚鈔」に栃木附近の地名と思われるものに、委文(シトリ)、大和(ヤマト)、山後(ヤマシリ)、高家(タカイエ)等の地名が見えます。委文(シトリ)は現在の皆川村の志鳥。と記されています。いにしえの京の都にも、下野国都賀郡委文(シトリ)の地名は知られていたのでした。今はただ長閑な田園風景が広がっています。

栃木市西方町の甘露寺 [堂々巡り]

今回は、栃木市西方町の甘露寺を巡ります。
甘露寺は「道の駅にしかた」の北西に見える山の中腹に有ります。西方町本城から、西方城址の有る城山(標高221.3m)の北麓を、東側から西側に回り込み、西方町真名子に通ずる旧道沿いに入口が有ります。東北自動車道のアンダーパスの東側に、「工業団地東」の信号機の有る交差点から西に100m程、東北自動車道アンダーパスの手前に右側に入る道路が有ります。旧道になります。この道路に入り東北自動車道の下を潜り、更に100m程西進すると右に入る坂道が有ります。角に「甘露寺」の石灯籠が立っています。坂を上ると中腹左側に甘露寺の前に出ます。
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(2014年4月の訪問時に撮影)       (今回2015年7月4日撮影)
駐車場はその上に有りますが、寺院の裏手には「西方総合公園」が有りますので、そこにも駐車場が有ります。
今回私は少し離れた思川の小倉堰の有る公園の東側「ふれあい広場」の駐車場に車を置いて、公園内を散策して甘露寺に向かいました。
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(西方総合公園案内図。甘露寺は図の左側「噴水広場」の南隣りに成ります)
前に来たのは、2014年4月で本堂の前の枝垂れ桜が満開の時でした。
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(4月本堂の前は枝垂れ桜や水仙の花が咲いて鮮やかになります)
今回はアジサイの花もすでに盛りを過ぎていました。梅雨空で時折小雨がぱらつく中、参拝をしました。本堂の脇に錦鯉が泳ぐ池に、黄色の蓮の花が1輪咲いていました。
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入口の階段を上がった右手に「本堂落慶記念碑」が有ります。碑文に甘露寺の由緒・縁起が記されています。縁起には、≪下野国都賀郡西方郷那智山天中院甘露寺は、従二位権大納言甘露寺元長郷の創建にして、南紀那智山を移す所なり。甘露寺元長郷の母公は西方三代綱泰の息女にて、父母両霊の菩提のために創建す。時に人皇百五代後柏原院の御宇大永二年(1522)三月、参内して当山開創のことを奉す。那智山天中院甘露寺号及び三嶺を賜う。因って開山して城北の地に熊野十二社詞を建て奉勅願那智山と称し、宝祚葛歳国家泰平祈願の道場として大宝殿を設け釈迦文殊普賢三尊を荘厳す。佛師恵心僧都彫刻なり。方丈厨子庫裏楼門悉く備わり法城厳然たり。然るに後関白豊臣秀吉の命関東に及ぶに当たり、当山の大旦那西方太郎左ヱ門綱吉その命に抗し天正十五年(1587)十二月、西方城落ち国郡諸士離散し、一家流離し、僧侶も悲風に逢い離散す。寺門を鎖し庭に荒草長し狐狸の棲み堂塔舎院皆亡滅す。然る後、実相禅寺二世紅谷長宅大禅師、元和二年(1616)当地に来り、草庵を結び、西方山甘露寺を再興す。加州大乗寺の住の月船大禅師、甘露寺号を大書し額を金殿に掛く。寛永三年(1626)長宅大禅師示寂し法を関月長鎖大和尚に系す。元禄年中漸り堂舎・庫門に至るまで造立し、七世悦堂大和尚に至り、丈余の三界万霊塔石を造立する外銅鐘成り堂塔を荘厳して後代にのこす。≫と記されています。
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(境内に祀られている像。「すこやか観音像」「瑩山禅師之像」「道元禅師求道之像」
緑に包まれた静かな寺院でした。

栃木市藤岡町部屋の圓城寺 [堂々巡り]

今回は栃木市藤岡町部屋に有る圓城寺を巡ります。
少し前の事になりますが、2014年1月24日の夕暮れ時の事です。藤岡町の蛭沼から部屋に向かって県道50号線を東に車を走らせていた時、道路の左手前方に夕日を受けてオレンジに光る大きな建物が目には行って来ました。大きな瓦屋根は東大寺の大屋根を見るような感じを抱きました。
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(2014年1月24日に撮影)
この辺に寺院は有ったのかと、思いつつ早速その方向へハンドルを切りました。近くに行くと、広い敷地の中にドッシリとした寺院の建物が建っていました。時間の余裕があまり無かったので夕日を受けた姿を数枚写して立ち去りました。
建物の前に寺号を記した石柱が建てられていましたが、浅学の私には読み方が分かりませんでした。
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その後インターネットにて検索をしましたが、その結果近くの巴波川の右岸堤防の直ぐ脇に「圓城寺」と言う名前を見つけました、真言宗智山派の寺院です。

国土地理院発行の2万5千分1の地形図「下野藤岡」にも寺院記号「卍」が記されています。又、明治前期測量の迅速測図には、「延浄寺」として「卍」記号が載っております。

位置的に少しずれが有りましたので、その年の3月16日に再度現地を訪れました。
巴波川に架かる「巴波橋」の北詰めから巴波川右岸の堤防の上を少し遡ると、堤防の直ぐ下の道路脇に、寺号を刻した石柱が建っていました。向かって右側石柱に「寶峯山」、左側石柱に「圓城寺」となっています。
国土地理院発行の2万5千分1の地形図の寺院記号「卍」が記された位置に確かに寺院が存在しました。
そしてその寺院の後方に前回発見した大きな寺院の建物を見る事が出来ました。
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(2014年3月16日撮影)
今回改めて圓城寺を巡り又新たな事実が分かりました。立派な新しい寺院に行き、境内の左側に建つ石碑背面の碑文を確認した所、「圓城寺境内移転・本堂建立事業沿革概要」と有りました。内容を見るとすでに平成二十一年(2009)十一月二十二日に落慶大法要が執り行われておりました。したがって現在はこちらの建物が圓城寺の本堂に成っております。境内はまだ整備中のようです。
先ほどの碑文に圓城寺の由緒も記されていました。それによると、
≪当山は平安末期養和元年(1181年)の創建にして、元禄年間には智積院の直末に遇され、伽藍を造営して薬師如来、不動明王を安置し江戸・明治・大正と繁栄を極めたりと伝えられる。されどもこの間度々災害に合う、特に昭和十六年・二十二年は甚大なる被害を被り、これに伴う防災事業協力により境内の変遷縮小をみる。大正十三年建立の旧本堂も老朽化が進み将来を案じ、総代・大字区長と謀り、平成元年境内移転を発願し新境内をこの地に定め・・・・・。≫と有りました。
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間口7間奥行き6間寄棟造り、瓦葺屋根の大棟の両端に「鴟尾」を備えた立派な本堂です。
境内については、これからも暫らく整備が進むものと思われます。

栃木市岩舟町の恵生院 [堂々巡り]

今回訪問するのは、栃木市岩舟町の恵生院です。
恵生院の場所は、北関東に広がる足尾山地の最南端に位置する標高127.7mの岩船山の南方に有ります。岩船山は古来より「死者の魂の集まる所」として、日本三大霊山、日本三大地蔵の一つとして名を連ね、関東一円の人々の信仰を集めている高勝寺が山の上に有ります。
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(岩船山、西側より撮影)
恵生院の直ぐ南側には、旧日光例幣使街道(現在の県道67号線)が東西に通っています。寺への入口はJR岩舟駅入口の信号機の有る変形交差点を、「岩船山入口」の方向に入り、70m程で左手に茶褐色の高麗門、門の脇に「学校法人恵生院学園 いわふね幼稚園」の看板が立っています。
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(恵生院への入口、前方奥に岩船山が望める)
注意して車のまま門を潜ります。門を入ったその先に真直ぐに伸びる広い道が有ります。右手に幼稚園に続き堂宇や朱塗りの門の有る塀が伸びています。道路の先に駐車場が有りましたので、車を停め境内に向かいます。
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(赤門に向かって左手に建つ十九夜堂と中に祀られる十九夜供養塔)
朱塗りの門は閉ざされていて中に入れない為、幼稚園側の脇からお邪魔させて頂きました。
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(お寺の前の道、道路正面奥が入口の門が有ります。西側駐車場前から撮影)
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(本堂の前方に位置する赤門。脇のお堂は分かりませんでした。)
現在、境内では本堂新築工事が行われていました。先ほどの門の脇に工事内容を記した掲示が有り、工期は平成25年8月21日から平成28年5月31日となっております。
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(本堂新築工事現場。基礎工事が進んでいました。)
境内には鐘楼堂や観音堂などが有ります。
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恵生院は正式には「皇王山恵生院吉祥坊宝蔵寺」と号し、真言宗豊山派の寺院です。
創建は天平宝字四年(760)、勝道上人によると伝えています。ただこの年は勝道上人が薬師寺に入る前で、糸藤と称して出流にて修行している時期です。恵生院は中興の祖法流第一世として大僧都宥秀を仰ぎ、文明元年(1469)を開基の年としており、天平宝字より文明に至る700年間の事は一切不明です。おそらく文明元年勝道上人を流祖と仰ぐ修験者によって創建されたものであろうと、「岩舟町の歴史」に記されています。明治20年(1887)火災に遭い、明治31年に再建されました。
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(2014年1月に訪れた時撮影した取り壊し前の本堂)
又来年には立派な本堂が姿を折らわすことになります。その時又訪れたいと思います。
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(赤門脇の掲示板に見えた本堂完成予想図)