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三杉川の橋巡り③ [栃木市の河川と橋]

今回も市内を流れる三杉川に架かる橋を巡って行きたいと思います。
1回目、2回目とも寄り道も有って、1回で三杉川に架かる橋を3橋づつしか回れなかった。今回は少しスピードアップして、多くの橋を巡って行きたいと思います。

早速、前回最後に見た「中妻南橋」の下流に架かる橋を探していきます。
「中妻南橋」を渡ると直ぐ東北自動車道のアンダーになりますが、その手前に三杉川の左岸に沿って細い道が通っています。その道を350メートル程進むと鋼桁橋が現れました。「杉本橋」です。
7杉本橋.jpg
(「中妻南橋」から下流側350メートルに架かる「杉本橋」)
橋長は11メートル弱、幅員3メートルと小ぶりです。現在の橋は1982年に架けられていますが、地形図上ではそれ以前より橋が有った事が確認出来ます。ただ橋名の「杉本」は何から命名されたものか、架橋地点の字名は「上耕地」としか確認できません。気になるのは周辺に「杉本」と言う姓のお宅が何軒か確認出来、それらとの関係性が有るのか、もう少し調査が必要です。
先を急ぎます。三杉川はこの後東北自動車道の下を抜けて東側に流れて行きます。そこで東北自動車道のアンダーを抜けて、東側に沿って走る側道に出て南に進み、次の橋を目指します。
この側道は最初の「中妻南橋」から東北自動車道のアンダーを抜けて来た道路に成ります。側道上に橋が現れました。
この橋も鋼桁橋です。橋の長さは23メートルと三杉川に架かる橋としては比較的長くなっています。幅員はガードレールタイプの高欄間は4メートルほど有りそうですが、橋詰に建つ道路標識には「2.0t」「2.2m」と表示されています。橋長が長い割りに橋の中程に有る橋脚が心もとなく、その為耐荷重が2トンしか無い為、大型車両の通行には耐えられないのでしょう。
8中川原橋2.jpg
(鋼製の桁を支える橋脚が何とも心もとない)
そこで橋自体の幅員は4メートル有る所、その橋の両側に幅員2.2メートルに抑える鉄パイプのポールを設置して通行制限を行っている様です。実際ポールは根元からへし曲げられていますが、それでもコンクリート製のブロックが頑張っています。
8中川原橋.jpg
(東北自動車道側道に架かる「中川原橋」、南側から撮影)

橋の名前は「中川原橋」、架橋場所の字名から命名された様です。直ぐ脇の東北自動車道の高架橋に掲示されている占用許可標識に<岩舟町大字小野寺字中川原地先>の場所名が確認出来ます。

次の橋は側道をそのまま南に進んで行くと、道路の左手に見えてきます。私が行ったときは丁度橋の高欄の付け替え工事の真っ最中でした。
9石橋橋.jpg
(高欄付け替え工事中の「石橋橋」)

橋の名前は「石橋橋」で、石橋は現地の字名になります。昔この辺に石の橋が架けられていてそこから地名が「石橋」と成って、今度は石橋に架かる橋に成るから「石橋橋」となった訳。こんな命名は他にも有ります。栃木市柏倉町の藤川には、「土橋橋」と名付けられた橋が有ります。命名の経緯は同じでしょう。現在架かる橋はきちんと高欄の有るコンクリート橋ですが「土橋橋」です。
土橋橋.jpg
(栃木市柏倉町の「土橋橋」)

先に進みます。又、側道を真っ直ぐ南進して行くと、Y字路が現れますのでここで側道から外れ、左の道を200メートルほど行った所で又、三杉川の橋を渡ることに成ります。今回4番目の橋は「小野寺橋」です。
現在の橋は昭和34年(1959)3月に竣功したもので、橋の上流側左岸に「小野寺橋竣工記念碑」が建てられています。
10小野寺橋.jpg10小野寺橋竣功記念碑.jpg
(「小野寺橋」と上流側左岸に建つ竣工記念碑)
題字は昭和10年12月から10年間小野寺村村長だった野尻金一郎氏によるものです。

5番目の橋は「小名路橋」です。「小名路」は大字小野寺の小字の一つに成ります。橋長18.7メートル、有効幅員6.5メートル、昭和57年(1982)3月に竣工しています。
11小名路橋1.jpg11小名路橋橋名板.jpg
(「小名路橋」橋詰より下流側を望む。写真左側は上岡の小丘)

三杉川はこの「小名路橋」から一直線に南流して上岡の小丘に遮られ、流路を小丘の西側に変えています。
この直線状の河道は昭和59年頃人工的に開鑿されたもので、それ以前は小名路橋の下流から「く」の字に西方向に蛇行していました。橋の西詰から南西方向に走る道路は旧河道の右岸に沿っていた道路の残りです。
11小名路橋2.jpg
(かつての三杉川の河道は、写真右側に見える道路に沿って南西方向に蛇行していました)

新しい河道は「く」の字の上下を結んだ直線状で、その間約100メートルの間隔で、6番目の橋「湊橋」そして7番目の橋「新小名路橋」と、三つの橋が並んでいます。
12湊橋.jpg12湊橋銘板.jpg
(下流側に架かる「新小名路橋」より上流「湊橋」とその上「小名路橋」を望む)

13新小名路橋.jpg
(「新小名路橋」 後方の山並みは唐沢山地、その手前に「岩舟JCT」を望む)

三杉川は上岡の小丘の西麓を蛇行しつつ更に南流しています。そして上岡の地で架かる「上岡橋」そしてその下流下岡に架かる「下岡橋」を潜り、岩舟町古江に向かって流れて行きます。
14上岡橋.jpg14上岡橋竣功記念碑.jpg
(「上岡橋」橋詰の桜の古木とその脇に建つ「上岡橋竣功記念碑」)

以前来た時は、橋の袂の桜の古木が満開でした。桜の木の横に建つ石碑には「上岡橋竣功記念碑」と刻されています。碑陰には「昭和三十年三月竣工」「総工費七拾万圓也」等の文字が確認出来ます。
又、桜の咲く頃に訪れたいですね。

橋を渡らずに、先ほどの道路を更に南下して行くと、三杉川が左手から右手方向に流れて行きます。架かる橋は土地名を採った「下岡橋」に成ります。ここで今回9橋目に成ります。
この橋の写真は17年前にも撮影しています。現在の橋は2005年1月竣工です。

15旧下岡橋.jpg15現下岡橋.jpg
(1993年11月撮影の「下岡橋」と2005年1月竣工の現在の「下岡橋」)

今回はここまでにします。今回の9橋の位置関係が判る様に頑張って模式図に表してみました。少し小さくて見にくいでしょうが、参考にして下さい。図の右手方向が北になっていますので、三杉川はこの間北から南に蛇行しつつ流れています。
三杉川中流域北部模式図.jpg
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三杉川の橋巡り② [栃木市の河川と橋]

前回に引き続き三杉川を下り、架けられている橋を見ていきます。
今回の最初の橋は、「谷津橋」になります。
前回最後の「榊橋」を潜り抜けた三杉川の流れは、その後も東北自動車道の北側に沿って西に向かって流れて行き、字中山から字田代に変わった所で東北自動車道の高架橋「田代橋」を抜け、東北自動車道の南側に流れを変え、その先で4番目の橋「谷津橋」に至ります。
4谷津橋.jpg4谷津橋橋名板.jpg
(谷津橋、前方奥に東北自動車道のアンダー、その向こう側に主要地方道栃木佐野線)

渡る道路は市道61007号線で、この道路は主要地方道栃木佐野線から字田代にて南に入る道路。曲がって直ぐ東北自動車道のアンダーを潜り、三杉川の「谷津橋」を渡り、三杉川の支流「羽田川」に沿って、字羽田から字広戸へと、太平連山の馬不入山の北麓の沢深く入って行きます。
羽田川の源流となる馬不入山(うまいらずさん)の北麓の柳沢には、都賀郡出身の世界的偉人、天台座主第三世となった「慈覚大師円仁」の史跡のひとつ、独鈷水御堂が有ります。今回そこまで足を伸ばしてみました。
独鈷水御堂への入口.jpg独鈷水御堂.jpg
(慈覚大師円仁ゆかりの史跡「独鈷水御堂」入口)(柳沢の奥高台にある「独鈷水御堂)

ここに参るのは7年ぶりになります。このブログにて2015年1月7日「独鈷水御堂」として紹介をしています。
久しぶりで周辺の山肌には、太陽光発電施設のパネルが並び、以前とは少し趣が変わった気がしました。
太陽光発電用パネルが並ぶ.jpg

寄り道をしたついでに、羽田川に架かる橋で、名前が確認できた橋を上流側から載せておきます。
羽田川.jpg羽田橋.jpg
(羽田川に架かる羽田橋)

大芝原橋.jpg大芝原橋橋名板.jpg
(大芝原橋)

羽田農道橋.jpg羽田川農道橋銘板.jpg
(羽田川農道橋)

川入橋.jpg川入橋銘板.jpg
(川入橋)

三杉川に戻って来ました。羽田川との合流点の直ぐ下流に東北自動車道の高架橋が迫っています。
三杉川と羽田川の合流点.jpg東北自動車道高架橋「川入橋」.jpg
(左側の三杉川に右側から羽田川が合流)(合流点の直ぐ下流で東北自動車道を潜る)

三杉川の5番目に架かる橋は丁度東北自動車道の高架橋の下側に隠れる様に架かっている「川原田橋」です。
5川原田橋.jpg5川原田橋2.jpg
(東北自動車道の真下に架かる「川原田橋」) (下流側から見た川原田橋、手前の堰は「水神堰」)
地形図にてこの橋の存在を確認出来るものが一枚有りました。昭和40年3月国土地理院発行の2万5千分1の「栃木」の地形図です。(前回も記しましたが、この地域を最初に確認出来るものです。5万分の1スケールの地図は有りますが、詳細内容は記載されていません。)
この地図で三杉川の上流から橋の地図記号が記載されているものを列挙すると、「境橋」「榊橋」「谷津橋」そしてここ「川原田橋」と確認出来ます。
昭和44年4月に修正された地形図が発行されますが、その中には多くの橋の地図記号が省略されてしまって、県道に架かる「境橋」だけ地図記号が残っているだけで、ここ「川原田橋」は、三杉川の線と道路の線がただ交差して表示されているだけとなっています。「谷津橋」も「榊橋」もしかり。
その次に発行された、昭和49年11月発行の地図は「東北自動車道」が表示された為、「川原田橋」はその陰に隠れて地図上からは忘れ去られる橋と成りました。

三杉川はここまで太平連山の北麓に沿う形で西流してきましたが、この辺りからその流れをゆっくりと南に向きを変えて行きます。太平連山がここで切れた為です。こうして太平連山の西端を回り込み、その後しばらくは三毳山の方向へ南流していきます。
前回に引き続き今回も説明用の概略図を作ってみました。文章の未熟なところを少し補いたいと思います。
三杉川上流域概略図2.jpg

三杉川が字中妻にて流れを西から南に変えると同様、東北自動車道も三杉川に沿って南に方向を変えています。又、同じように県道も南に向きを変えていますが、しかし元々県道はもう少し先まで西に向かい、村檜神社や慈覚大師円仁が少年時代に勉学修行に励んだと言う大慈寺の前まで行ってから、南に方向を変えていました。
葛生町に向かう県道が交差する十字路も以前は丁字路で南へ抜ける道路は、昭和59年1月発行の地形図に初めて描かれています。又、新しく三杉川の右岸に沿って南に進むバイパス道路は平成25年8月発行の地形図で現れています。
三杉川、6番目の橋は「中妻南橋」です。その名の通り字中妻の南部に位置します。
6中妻南橋.jpg6中妻南橋銘板.jpg
(6番目の「中妻南橋」)         (橋桁の橋銘板、2003年11月の竣功)

この「中妻南橋」は、葛生町から藤坂峠を越えてきた道路が、小野寺交差点を真っ直ぐに県道を横切った道路が三杉川を渡る場所に架けられた橋になります。この道路は橋を渡った後、東北自動車道のアンダーを抜けた後、東北自動車道の東側側道の形で、南進をしていきます。
現在架かる橋は、2003年(平成15年)11月です。最初の橋はその道路の状況から、東北自動車道の建設と合わせて作られたと考えられますので、1972年には有ったと考えます。
ただ地形図の図暦を比較して見ていくと、現在の架橋位置とは違ったようで、新しいバイパス道路の建設に伴い架橋場所が変えられたと考えられます。

橋ひとつ見ても、その地域の開発過程を窺い知ることが出来、面白いものです。
今回もあちらこちらと、寄り道をしてしまい、巡った橋は又3橋だけでした。次回から少しペースを上げて行きたいと思います。
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久しぶりに栃木市内の橋を巡ります [栃木市の河川と橋]

久しぶりに栃木市内の河川に架かる橋を、見て回りたいと思います。
今回巡るのは「三杉川」です。
「三杉川」は現在の大きくなった栃木市の西端、岩舟町小野寺を縦断する様に流れる河川で、その下流域は佐野市との境界を成しています。最終的には佐野市高山町と栃木市藤岡町都賀との境界付近で、渡良瀬川左岸に合流しています。
この「三杉川」の源流は、小野口町に有る「あさひヶ丘カントリークラブ」と、岩舟町小野寺に有る「桃里カントリー倶楽部」との間辺りの沢水を集めたもので、この川筋がかつては栃木市と岩舟町の境となっていました。
三杉川源流.jpg
<写真右の山が小野口町、左が小野寺で、三杉川はこの山合から流れ出ています。ガードレールの付いた道路は主要地方道栃木佐野線です。>

この三杉川が最初に潜る橋は、主要地方道栃木佐野線が通る橋で、その橋名はかつてが架橋場所境界線で有った事から、「境橋」と命名されています。合併前はこの橋の橋詰に「栃木市」「岩舟町」と記した道路案内標識が立てられていました。
1境橋.jpg1境橋銘板.jpg

橋を抜けたすぐ先で、左岸から小河川が合流しています。この水路は東方向に有る「廻峠」の南方、太平連山の最高峰「晃石山」北麓に有る、「エヴァンタイユゴルフクラブ」周辺の沢水を集めた「八幡沢」になります。読み方は「はちめざわ」と、国土地理院2万5千分の1の地形図に記されています。

三杉川はこの後道路から離れて行き、南側をほぼ平行に走る「東北自動車道」との間で、多少蛇行しながら西流していきます。

次の橋は「山中橋」で、県道から南に折れて、高速道路のアンダーへ向かう脇道(市道61006号線)に架かっています。
この橋の名前は、その地域の字名「山中」から命名されています。
2山中橋.jpg2山中橋橋名板1.jpg2山中橋橋名板2.jpg
「山中橋」を渡り、高速道路のアンダーを抜けた先の林道沿いに数軒の家屋が建っていますが、ここの住民の姓は全て「山中姓」となっています。

高速道路のアンダーの通路の脇に水路が有り、山中橋の直ぐ脇に落ちています。梅ヶ入沢に成ります。
梅ヶ入沢を遡って見ます。アンダーを抜けた先の細い道路(市道61006号線)を進んでいきます。
梅ヶ入沢1.jpg梅ヶ入沢2.jpg
<梅ヶ入沢からの水が流れるアンダー内の水路。写真手前で三杉川に落ちる。>

暫らく行くと沢に架けられた橋が現れました。ガードレール型の高欄に橋名板が付けられています。「竜胆郷橋」と有ります。
竜胆郷橋.jpg竜胆郷橋橋名板.jpg

この辺は竜胆(りんどう)の群生地でも有るのでしょうか、辺りに人気が無かったので、聞くことが出来ませんでした。橋の先に1軒人家が有りましたが、その先は「林道山中広戸線」と言う事で、広戸に抜けられるのでしょうが、今回はここで引き返し、三杉川に戻る事にします。

山中橋の下流85メートルの所に、高欄の無い単純桁橋が架かっています。「榊橋」です。この橋名も現地の字名を採って命名したものでしょう。橋長6メートル、幅員3メートル程の小さい橋です。
3榊橋.jpg
何の表示も無いので何時架けられたものかは不明です。そこで国土地理院発行の地形図の図暦をたどってみました。
国土地理院の2万5千分1の地形図で、三杉川上流域は「栃木」の区域に入り、一番古い物は昭和40年3月の発行になります。(それ以前にも発行された地図が有りますが、何故か画面の左半分が空白状態となっています。国土地理院の発行窓口にお聞きしたところ「はっきりした事はわからない」という回答でした。)
地形図を見ると現在の場所に橋の地図記号が描かれています。
ただ先に見た山中橋はまだなく、県道から山中橋に真っ直ぐ通っていた道路もまだ有りません。地形図には山中橋の袂で三杉川に合流している「梅ヶ入沢」の川筋は描かれ、沢の脇に建つ人家も出ており、その家に向かう道路は「榊橋」を渡り、三杉川の左岸沿いの道を「梅ヶ入沢」の合流部まで遡り、沢沿いの道で沢に向かって行くルートになります。言葉では説明が下手なので概略図を用意しました。
三杉川上流域概略図.jpg
①東北自動車道が開通したのは、1972年(昭和47年)11月13日の為、昭和40年発行の地図には当然描かれていません。
②山中橋の竣工時期は、1993年(平成5年)5月です。県道から山中橋へ向かう道路はその時期に開通したものと思われます。地形図に道路が現れたのは1997年(平成9年)5月発行の物からです。

ちなみに最初の「境橋」が竣功したのは、銘板から1992年3月ですが、これは新しく架け替えられた物で、昭和40年3月発行の地形図にも当該地点に橋の地図記号を見る事が出来ます。

今回は上流から3橋しか巡ることが出来ませんでした。次回も三杉川を下って行きます。
三杉川はこの後も主要地方道栃木佐野線と東北自動車道との間を西流して、「田代」にて東北自動車道の高架橋「田代橋」を潜って、東北自動車道の南側に流れを変えます。そこで市道61007号線が通る「谷津橋」を潜りますのでそこにコマを進めます。
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杣井木川排水機場周辺の風景 [栃木市の河川と橋]

杣井木(そまいき)川排水機場は、小山市大字中里の永野川が巴波川に合流する手前300メートルの地点で、永野川左岸から合流して来る杣井木川の落ち口に建設された、小山市大字押切や大字中里等の巴波川と永野川とに囲まれた地域の湛水防除施設です。
杣井木川排水機場全景.jpg
(永野川の左岸、写真中央の施設が杣井木川排水樋門、その左堤内に排水機場の建物)
2013年5月25日杣井木川流入部2.jpg杣井木川樋門銘板.jpg
(杣井木川樋門を永野川対岸より撮影)     (樋門の銘板、1991年12月設置の表示)
樋門の設置場所から下流側に80メートル程の、同じく左岸土手に新たに設置された排水装置だろうか、土手の堤内側から16本の鋼管が伸び、堤外側(永野川側)に管の開口部が並んでいます。これで堤内側の水を堤外へ排水するものと思われる。私がこれまで見た排水機場の中には、この様な装置は見たことが有りません。この杣井木川排水機場でも以前は見ていませんでした。
排水管(堤内側).jpg排水管(堤外側).jpg
(永野川左岸土手の堤内側に並ぶ16本の鋼管)(堤外側土手上部に管の開口端が並ぶ)

この施設は、永野川の水位が上昇して、永野川の水が杣井木川へ逆流して来るのを、水門を閉鎖して防ぎ、杣井木川から永野川への自然排出が出来なくなった水を、ポンプの力で強制的に永野川に排水するものです。そのカラクリは素人の私には良く理解できていませんが。
こうした排水機場は、思川や渡良瀬川などで、その支流の川からの落ち口に設置されています。
三杉川排水機場.jpg西前原排水機場.jpg
(三杉川排水機場)                   (西前原排水機場)
与良川第一第二排水機場.jpg塩沢排水機場.jpg
(与良川第一・第二排水機場)             (塩沢排水機場)

排水機場の仕組みについて、解説した掲示が塩沢排水機場に有りました。これを見て私も少しは排水機場について理解する事が出来ましたので、参考に解説図部分を抜粋して添付いたします。
排水機場の仕組み.jpg
(塩沢排水機場の平常時と洪水時の、排水の仕組み)

この杣井木川排水機場が設置されたのは、先に掲示した排水樋門の銘板に有る通り、1991年12月で今からたった28年前の事です。それより前の1982年1月に私がこの付近の風景を撮影した写真が有りました。現在の風景と比較してみると、だいぶ様子が変わっていることが見て取れます。
撮影ポイントを下に添付した「巴波川・永野川合流点周辺の河川及び道路の変遷図」の中に△印で表示しています。

1982年赤.jpg2019年赤.jpg
(撮影ポイント赤△印:現在の排水機場前の道路から西方向を写す。)
写真手前の橋は杣井木川に架かる橋で、川はこの橋の左方向で永野川に合流します。奥に写る橋は永野泡に架かるかつての「落合橋」です。この頃は、永野川左岸には土手らしい土手は有りませんでしたから、この地点からも「落合橋」を望むことが出来ました。
現在の写真では道路左側は、高い永野川左岸の土手が視界を妨げています。

1982年靑.jpg2019年靑.jpg
(撮影ポイント青△印:同上の撮影ポイントから振り返って南方向を写す。)
永野川が前方で大きく右にカーブしています。写真奥の所で左方向から流れてくる巴波川に合流する事に成ります。現在の写真は土手の上からほぼ同じ方向を撮影しています。

1982年緑.jpg2019年緑.jpg
(撮影ポイント緑△印:永野川に架かる「落合橋」の上流側左岸から橋を撮影)
写真に写る「落合橋」は新たに土手を作るために不都合だったのか、2000年9月に上流側に「新落合橋」が架橋され、元の場所には2004年3月現在の「落合橋(人道橋)」が架けられました。

1982年橙.jpg2019年橙.jpg
(撮影ポイント橙△印:巴波川に架かる「昇明橋」の上流左岸より永野川との合流点を写す)
写真右奥から真っ直ぐ流れてくる川が巴波川。左側より手前に流れてくる川が永野川。永野川左岸に土手は見られません。現在の写真は巴波川左岸土手の上から移していますが、前方は永野川の土手で続いています。

巴波・永野合流付近の河川・道路の変遷図.jpg
少し見難い図に成ってしまいましたが、1980年代の道路の様子を実線で描き、現在の道路土手河川等を破線で重ねて描いています。排水機場前の道路は土手が出来る前は、永野川近くを通っていましたが、築堤後は、堤内の土手脇に沿う形に変わっています。落合橋下流側の土手が出来上がったのは1994年頃に成ってです。上流側は更にその後整備されることに成ります。
土手が造られたことで、内水氾濫を防ぐためにこの「杣井木川排水機場」も作られたと考えます。

こうして栃木市並びに、小山市・佐野市など渡良瀬川水系に多くの排水機場が設置されましたが、昨今の気象状況の変化で、自然の猛威はそうした人間の行動をあざ笑う様に、破壊しています。
しかし、私たちも平穏な生活を得る為、更なる英知を出し合って、河川管理を強化していく事が必要になっています。今もこうした排水機場の活躍で、被害を小さく止めていることも、忘れてはならない事です。
縦軸斜流ポンプ.jpgポンプ銘板.jpg
(与良川第一排水機場内に設置されている「立軸斜流ポンプ」2基と銘板)
感謝の幟旗.jpg
(2015年9月の豪雨被害の翌年、小山市生井の桜堤に立てられた感謝の幟旗)

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永野川の堀ノ内橋が新しくなっていました [栃木市の河川と橋]

永野川の下流域、栃木市大平町西水代と小山市大字上泉の境界をまたぐ堀ノ内橋が新しい姿に変わっていました。この橋に接続する栃木市側の道路は、永野川右岸土手から土手下に下りる為の市道22268号線、土手下の市道22290号線は永野川右岸の土手下に沿って、国道50号バイパス道の下から南に進み県道160号(和泉間々田線)の永野川に架かる「昇明橋」の橋詰まで伸びていますが、こうした永野川両岸を往来する地元の住民の為の、生活路の確保を目的とした橋梁に成っています。
(新)堀の内橋1.jpg
(永野川に新しく架けられた「堀ノ内橋」)
(新)堀の内橋2.jpg(新)堀の内橋3.jpg
(新しいく立派になった堀ノ内橋、自動車も安心して通行出来ます)(橋の銘板)

橋の直ぐ上流側には、国道50号(岩舟小山バイパス)に架かる、「新永野川橋」が見えます。
(新)堀の内橋4.jpg
(堀ノ内橋の上流側に架かる国道50号バイパスの「新永野川橋)
ただこの「新永野川橋」を川沿いに住む方が渡る場合、川沿いの道路は接続されず、西側は橋から500メートル、東側は300メートル離れた交差点まで回り込んで渡ることに成る為、この堀ノ内橋が重宝となります。

元々この地点には橋が有りました。現在も新しい橋の下流側にまだ残っていますが、先日の台風の影響で高欄が破壊された為か、それ以前から新しい橋への切り替えでか、橋は通行止めと成っていました。
(旧)堀の内橋 1.jpg(旧)堀の内橋 2.jpg
(写真手前が、これまで地元民に利用されていた堀ノ内橋)(通行止めとなった以前の橋)

これまでの橋は、土手よりも低い所に架けられていた為、川が増水した時は橋は水を被ってしまいます。
今回の台風でも高欄が完全に破壊されています。
新しい橋が完成した事で今回も生活路は、確保される事と成りました。

これまでの堀ノ内橋は、昭和の名残が感じられ、味の有る風景が見られ、これまで何回か訪れその姿を写真に撮っていましたので、紹介します。
2013年5月25日堀の内橋.jpg
(2013年5月25日撮影、上流に「新永野川橋」も見えます。)
堀の内橋下流堰57年1月.jpg
(昭和57年1月撮影、下流側の堰)
堀の内橋57年1月撮影.jpg
(同じく昭和57年1月撮影、堀ノ内橋。後方で新永野川橋の架橋工事が行われている)

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永野川の洪水被害に思う [栃木市の河川と橋]

10月12日から13日、関東地方を縦断した台風19号の豪雨により、栃木市内に甚大な被害が発生してしまい、多くの人達が一夜にして、通常の生活を奪われ、今も不自由なつらい生活を送っています。
その中でも、永野川流域では多くの箇所で、堤防の決壊や越流により、大量の泥水が市街地に流れ込んでしまいました。
JR両毛線永野川鉄橋右岸の線路部分が被災.jpg
(JR両毛線永野川鉄橋脇右岸の土手が決壊、線路の盛土が流失しレールが宙吊り状態に)
二杉橋下流左岸堤防決壊.jpg
(二杉神社下流の永野川左岸の土手が決壊、緊急対応として大型土嚢を積み上げています)
錦着山西側付近.jpg
(錦着山の南西側に永野川の水が流入し、道路やフェンス等が破壊されている)
栃工高北側の永野川.jpg
(栃木工業高校北側の永野川河川敷内の木々に、多くの瓦礫が引っかかっている)

これまでも永野川の氾濫では、幾度となく橋の流失や洪水被害を起こしています。しかし、私の70年余の人生で経験した中では、今回はこれまでで一番大きな被害となりました。
私の高校時代は、永野川の上人橋を渡り栃木工業高校に通学していましたが、その時も台風で上人橋の一部が流失、通行する事が出来なくなりました。復旧するまでの間、下流の高橋を渡って通学した事は、今も忘れられません。
上人橋左.jpg上人橋右.jpg
(前方の橋が改修工事中の上人橋。永野川右岸の土手上の道が通学路でした)

特に私が3年間学んだ栃木工業高校が、2015年9月の豪雨被害から、やっと立ち直った矢先、今回又も被害を蒙ったとのニュースを見聞きし、何とも悔しく、つらい思いで一杯になります。
私が通っていたころの永野川流域は人家も少なく、河川敷も今の様に整備されてなく、雑木が生い茂っていましたが、永野川が氾濫して校庭に濁流が侵入して来ることなど、夢にも考えていませんでした。
1966年上人橋周辺(錦着山頂より).jpg
(私が通学していたころの永野川、上人橋付近の風景。錦着山上より撮影)
1968年撮影栃工校全景.jpg
(私が通学していたころの栃木工業高校周辺の風景。南側遊覧道路より撮影)
1975年撮影栃工校全景.jpg
(栃木工業高校全景、錦着山上より撮影。あの頃は平和だったのに)

その当時から比べれば、永野川の堤防も立派になって来ていると考えられるのですが、それが逆に被害が発生しやすくなっているのは、永野川上流域の開発に伴い、川に流入する雨水が増加した為か、もっと大きくみると、地球環境の変動によるものなのだろうか。地球温暖化により、日本近海の太平洋の海水温上昇で、日本に接近する台風がこれまでより成長、。今回の台風19号がまさにそうした背景に因るものなのか。
そう考えて行くと、このままでは同じような被害が今後も繰り返されると、考えなければならない。とんでもない事です。

永野川は巴波川の支流と言われますが、川の流域は圧倒的に永野川の方が広くて長くなっています。その上流は鹿沼市の山中深く百川渓谷まで遡ります。
今回の台風19号は、栃木県の北西側山間部に多量の雨を降らしました。その結果足尾山地の沢水を源流とする、旗川や秋山川、永野川そして思川の下流域が増水・氾濫しています。

今後の対策として、どんな事が有効なのか。これまで巴波川流域で行ってきた遊水池の確保も、その一つですが、栃木市街地の巴波川の氾濫を見ると、それも完全では無いことが今回明らかになりました。
土手の高さをもっと高くする事も考えられますが、これは流域全体を考えないと、一部高くするとその場所の前後に被害をもたらしやすくなります。昔から土手の嵩上げは利害関係が絡んで、容易な事では無いと聞いています。
まして巴波川を観光資源としている栃木の中心部は土手の嵩上げは、抵抗が有ります。それでは、宇都宮市の中心を流れる「釜川」の様に、川を二段にして、上の水位が上がったら、オーバーフローをさせて、下段の水路に逃がす構造にするか。
永野川の場合はその流域に大規模な遊水池を確保するとか。今と成っては遅いが千塚町の産業団地の様な場所は他にないのだろうか。
早急に、栃木県や栃木市そして市民の総意を結集して、河川改修を進めなければ、又、今回と同じような被害を出してしまうと恐れます。
自然の力に対抗するためには、みんなの力を結集して当たらなければ、到底かないません。


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永野川に架かる「諏訪橋」のこと [栃木市の河川と橋]

先日、東日本の多くの河川で、大きな爪跡を残した台風19号。栃木市内では大平町蔵井を流れる永野川に架かる「諏訪橋」が、増水した水の勢いで橋脚1カ所が流出、そこに架かっていた橋桁2本が水中に落ちてしまいました。
諏訪橋(2019年10月).jpg諏訪橋(2019年10月)流出.jpg
(橋桁2径間が流失した「諏訪橋」。橋長51.5m、幅員3.5m、複合橋)

この「諏訪橋」は昭和9年(1934)に架設されたもので、現在栃木市内の巴波川・永野川に架かる橋の中で3番目に古い橋と成っています。ちなみに1番古い橋は、巴波川に架かる「嘉右衛門橋」で昭和2(1927)の架設です。
嘉右衛門橋.jpg
(昭和2年架設の嘉右衛門橋。橋長13.1m、幅員5.4m、鋼橋)

2番目は同じく巴波川に架かる「倭橋」で昭和5年(1930)架設です。
倭橋.jpg
(昭和5年架設の倭橋。橋長13.6m、幅員5.2m、鉄筋コンクリート橋)

3番目の昭和9年(1934)に架設された橋は、5ヶ所に成ります。その内巴波川には「巴波川橋」とその下流の「相生橋」の2橋が残っています。
巴波川橋.jpg相生橋.jpg
(昭和9年架設の巴波川橋。橋長14m、幅員5m)(同じく相生橋。橋長14.1m、幅員5.5m)

一方永野川には、今回被害を受けた「諏訪橋」の外に「両明橋」そして「千部橋」の3橋が有りますが、3橋共大平町に成ります。
このうち「千部橋」は、前回2015年の豪雨の際に一部が流出しましたが、復旧されています。
又、「両明橋」は幸いにも2015年8月、豪雨被害が発生する前月に修繕を終えた為、被災を免れています。
千部橋.jpg両明橋.jpg
(昭和9年架設千部橋、前回流出部は補修された。)(同じく両明橋。2015年8月修繕が行われた)

巴波川の「嘉右衛門橋」など4橋が架かる場所の川幅は14メートル程度なのに対して、永野川に架かる3橋は橋長が50メートルから60メートルと長い橋でした。
したがって、今回流出した「諏訪橋」は悪条件の中一番寿命を保った橋と言うことに成ります。この古い橋が今まで残っていた要因としては、橋の幅員が3.5メートルと狭く、橋を通る市道21118号線は永野川左岸蔵井の県道蛭沼川連線を起点とし、橋を渡った右岸の橋詰までの道路で、自動車は殆ど通行せず、近くの大平中学校の生徒さん達が自転車通学するのに、現在主に利用されている橋だからでしょう。
「諏訪橋」が利用できなくなってしまった為、生徒さん達は下流の県道が通る「山下橋」を回りこむ必要が有ります。そちらは交通量が多い為、注意して通学して貰いたいです。

この「諏訪橋」は橋の中央部から左岸側は鋼橋(1径間)、右岸側は鉄筋コンクリート橋(4径間)と言う、複合橋でしたが、昭和9年架橋当初からこの様な変わった形式だったとは思われませんので、初めは両明橋などと同様の鉄筋コンクリート製の橋であったものと思われます。
諏訪橋(2015年4月).jpg
(被災前の「諏訪橋」、下流側右岸より撮影)

それが、後に今回と同様の原因で、橋の左岸側の部分が流出して、現在の様な鋼橋部分に改修されたものと思われます。それがいつごろの事か分かりませんが、私が初めて諏訪橋の写真を写した昭和57年(1982)1月には、現在の姿に成っていました。
諏訪橋57年1月.jpg
(昭和57年1月に上流から撮影した「諏訪橋」、左奥の森は蔵井の元村社諏訪神社)

今回の台風で栃木市内は甚大な被害を蒙りました。4年前の豪雨で被災した時、50年に1度と言われました。ですから今回の台風接近でも、どこか前回の様には成らないと思い込んでいました。しかし、今回の災害は100年に1度の規模だったと言う。もし来年も同様の災害が発生したら、今度は200年に1度、いや千年に1度となるのか。
このような被害を二度と起こさないために、どんな対策が必要なのか、今回の被害実態を詳しく分析して、対策を進めて頂きたいと願うばかりです。
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たった4年で50年に1度クラスの災害が再発、栃木市の巴波川 [栃木市の河川と橋]

昨夜は、台風が通過するまで不安で深夜まで、家の脇を流れる清水川の水位を注視していました。
清水川は巴波川の支流で、幅約2メートル護岸の高さ約1メートル弱のU字型のコンクリート製の水路です。
清水川.jpg
(箱森町から柳橋町へと流れる清水川、両岸には水田が残っています)

普段は水深は5センチメートルにもなりません。初夏にはカルガモの親子が歩いて行き来する風景も見られます。
カルガモ1.jpgカルガモ2.jpg
(今もカルガモの親子が散歩する姿が見られる)

その水路が、2015年9月10日の豪雨では、私がここに居を構えて初めて水位が護岸を越えて溢れました。幸い家の対岸は水田が残っている為、水路から溢れた水はそちら側に流出する為、我家には被害は有りませんでした。
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(2015年9月10日の豪雨で水田に溢れた清水川)

ですが、今回の台風16号は超大型でこれまでに無い雨や風が発生するとの情報で、事前の対策の必要性が叫ばれていました。我家でも、家の中に飛ばされそうな物は回収、非常食、車のガソリンは満タンに等々、対策を打って台風の通過するまで、家の中で待機していました。
雨が次第に強くなり、清水川の水位も徐々に増してきました。
台風の通過予定は、夜の9時頃から日付けが変わる頃との予報で、テレビニュースが伝える各地の様子を見ながら、万が一の事を色々想定、雨戸は閉めたが2階の出窓が風で飛ばされてきた物でガラスが割れたら、その時はどうするかとか。
夕方を過ぎて次第に辺りが暗くなって、清水川の水位を観察するのが難しくなる。まだ10センチメートルの余裕が、いや、後10センチメートルで溢れてしまう。これ以上水位が上がらない様に願う。水量が増えると共に流れも激しくなって来たように思える。
テレビニュースの台風の現在地が気になる。思う様に進んでいない。まだ伊豆半島あたりだ。
突然テレビの画面が暗くなった。停電に成ってしまいました。すぐに用意した懐中電灯を使う。電気が使えなくなると不安が一層増してくる。こんな状態が何時間も続いたらと不安になる。前回の15号台風で被害に会われ何日も停電の中で過ごした千葉県の被災者の皆さんのご苦労が改めて大変な事で合ったとつくづく思い知らされました。
清水川の水位を雨戸を少し開けて確認する。雨が吹き込んでくる。外はすっかり暗くなって川面がハッキリ確認できない。
停電が解消されたので、テレビニュースで情報収集。栃木市の避難勧告が出ている。ここは土砂災害警戒区域には成っていない。巴波川・永野川流域の浸水想定区域にも指定されていない。4年前も何んとか被災を免れている。このまま家で待機する。
深夜近くなると、風はまだ吹いているが、雨は止んで少し静かになった。注意して外に出て、懐中電灯で家の周りを点検。清水川はすでに溢れて対岸の水田も、我家の脇の青地もすべて川の様にゴウゴウと水が勢いよく流れている。まるで幅40メートルも有る川が出現したように見える。これは4年前の豪雨の時よりも悪い状況に思えた。この状態が更に悪くなるのか、これで収まるのかまだ予断を許さない。

日付けが変わって10月13日、午前1時頃もう一度状況把握に外に出てみた。
清水川はどうなったか。暗闇の中懐中電灯の光の先に、ゴウゴウと波立って流れる景色は変わっていない。
水位は下がっていないが、増加もしていない。雨もあれから降っていないので、これ以上悪くならないだろうと判断した。

気が付いたら朝を向かていた。青空と太陽の光が見えた。すぐさま清水川の様子を見に行く。
対岸の水田は、稲刈りの後で水を蓄えて、まるで田植えを終えた様な風景が広がっています。
水路もすっかり水位を下げていました。ただ濁った水が勢いよく水路の中を流れています。
清水川(今日)2.jpg清水川(今日).jpg
(深夜溢れた清水川も朝には半分ほどに。稲刈り後の田圃はまるで田植え後の様に)

昨夜のニュースで巴波川は小平町で水が溢れ出ている。と言っていた。4年前の豪雨と同じ状況なのか。
又、永野川では下皆川で越流が発生しているとの情報も。
翁島脇を流れる巴波川.jpg沖の橋上流側.jpg
(水が溢れて流出した、小平町翁島付近の今朝の様子、まだ大量に水が流れていました)

今朝のニュースではその状況が更に悪化して。死者が出てしまった所も。永野川の諏訪橋(大平町蔵井)が流失。その他各地で道路が冠水して通行が出来ない所が多発、交通渋滞が起きていると言う。
更に、浄水場が機能停止して、栃木市・大平町の一部で断水が発生しているという情報も出た。

なぜ、こんな被害が、改めて自然の計り知れない力に、脅威を感じるばかり。

栃木の街は昔から毎年のように、洪水の被害に見舞われていました。その様子は栃木市室町の片岡写真館第二代館主、片岡武氏がその命を懸けて記録した多数の写真で知る事が出来ます。
それを昭和26年、栃木街に流れ込んでいた赤津川の流路を変更して、吹上町新田橋付近より南流させ、錦着山北西部にて永野川に落とす赤津川分水路工事が竣工して以降は、以前の様な洪水の発生は無くなったと言います。実際、私が物心付いてから、4年前の大洪水が起きるまで、洪水被害を感じた経験は一度も有りませんでした。
それが僅か4年で再発するとは、正直言って考えられませんでした。
この間、巴波川の上流域には、新しい遊水池も完成して、巴波川の水位が上がった時には、越流堤から遊水池に水を溜める様に対策を進めて来ています。
今朝、これらの遊水池を見て回りましたが、それらの遊水池には水はそれほど溜まっていません。深夜には恐らく満々と水を蓄えていたと思われます。下流側への水の流出量を一時的に減少させる効果は出ていると思われますが、下流側栃木の街は多くの道路が冠水、商店街は軒並み店内に水が流れ込んでしまいました。
第4遊水地.jpg第4遊水地2.jpg
(第4遊水池、中央に越流堤、右が巴波川)    (第4遊水池を上流方向から)
第六遊水地1.jpg第六遊水地2.jpg
(第6遊水池、下流側から)            (第6遊水池、上流側から)

今回の様に長時間雨が降り続けると、こうした洪水は防ぐことが出来ないのか。まだほかに対策する方法は無いのか。素人の私には考えが及びません。


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巴波川に新しい橋が架かりました [栃木市の河川と橋]

先日、久しぶりに巴波川の上流域までウォーキングしました。
ひとつの目的は、巴波川の源流の一つ、川原田町の白地沼の南側、二股沼に整備していた「巴波川第5・第6遊水池」の現状を見てみようと思っていたからです。
そうしたら驚きです、予想もしなかった所で新しい橋が巴波川に架かっているでは有りませんか。
前原橋1(2019年6月).jpg
(川原田町前野を流れる巴波川に新しい橋が架かっています)

この場所は栃木市大町と川原田町との境界近く、巴波川が「川原田東市営住宅」の東側を北から南に流れた後、向きを南西方向に変え、西側を南北に縦断する県道37号(県道栃木粟野線・通称粟野街道)に行く手を塞がれた形となった巴波川の流れは、再び道路から離れ流れを南東方向に変え、街道から離れ南側で大町の「とちぎメディカルセンターとちのき」の東側を南流していく、巴波川と粟野街道とが最接近する所です。
前原橋(2019年6月).jpg前原橋(2017年12月).jpg
(左側に巴波川・右側粟野街道、北側から撮影) (2017年12月撮影のほぼ同地点)

この場所には以前にも、車が通行可能なコンクリート製の桁橋が架けられていましたが、ハッキリした取り付け道路も無い様な所でした。
前原橋上流方向1.jpg前原橋上流方向2.jpg
(新しい橋の高欄に「前原橋」の橋名が)  (以前掛かっていた桁橋。2016年3月撮影)

巴波川流域では現在河川整備が進められてきていますが、この下流側でも昨年(2018年)の8月ごろまでの計画で、堤防・法面保護のための護岸整備工事が行われていました。
前原橋下流方向1.jpg前原橋下流方向2.jpg
(新しい橋の下流側、高欄に「巴波川」の銘板)    (以前の下流側の巴波川の様子)

橋桁には新しい橋銘板が確認できます。
それによると、橋梁自体は今年の3月に完成したようです。ただまだ取り付け道路が整備出来ていない様で、通行出来ない様にロープが張られています。
取り付け道路が整備されることで、この巴波川左岸地域の道路網の環境も改善されていくものと期待されます。
前原橋2(2019年6月).jpg
(新しい橋の橋銘板)



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永野川に架かる二杉橋と睦橋 [栃木市の河川と橋]

現在、栃木市街地の西域を流れる「永野川」に渡された橋梁は、錦着山西側の「上人橋」、下って「高橋」そして「睦橋」、次が県道の太平山公園線の「二杉橋」、そして「大柳橋」の5カ所です。この内明治期初期に発行された地形図の中に記された橋梁は、「睦橋」と「二杉橋」の二橋だけに成ります。
実際は仮橋の様なものが架けられていたか分かりません。明治14年(1881)12月17日付けにて、薗部村戸長の篠木惣吉より第二代栃木県令藤川為親宛てに作成された「下都賀郡薗部村・村誌」には、≪長野川渡セシ橋梁≫として下記の記載が認められます。
  字岩崎
  一、板橋 渡り拾間 横六尺
  字坂下ヨリ錦着山通
  一、板橋 渡り拾間 横六尺
  字藪合ヨリ太平山道
  一、板橋 渡り拾間 横四尺
  字坂下同南栃木町道
  一、板橋 渡り拾弐間 横六尺
これら板橋が架けられた場所が、何処に当たるのかは更に調査したいと思っています。

ここでは明治初期作成された地形図に記載された、先の二橋に付いて筆を進めたいと思います。
先ずは「睦橋」です。
現在の睦橋は、平成9年(1997)3月の橋銘板が付いています。架橋場所は明治初期の地形図上に記された架橋箇所とほぼ同一の場所に成ります。
睦橋1.jpg
(現在の睦橋を上流側より撮影、後方は太平山)
睦橋3.jpg睦橋2.jpg
(睦橋東橋詰より上流側を望む。高橋と右手奥錦着山)  (睦橋高欄のモニュメント)
その前の睦橋は現在の橋より下流側に、迂回する様に架けられていました。そして今回新しい橋に架け替える時に、旧橋を残したまま最初の架橋場所に戻したものと考えます。
睦橋周辺概略図.jpg
(睦橋周辺概略図 ( )内は旧字名です)
睦橋4.jpg
(右のメイン道路の先に現在の睦橋、左側の細い道路の先に旧睦橋が有った)
1988年11月睦橋.jpg
(現在は撤去されているが、旧睦橋。1988年11月撮影)
1997年11月旧睦橋.jpg1997年11月新旧睦橋.jpg
(睦橋の脇、永野川沿いの堤道を走る西中生達)(旧睦橋の奥に新睦橋が写る写真)

次は「二杉橋」です。
二杉橋.jpg
(永野川上流左岸より撮影した二杉橋、西橋詰に大きく変わった鳥居が建っています)
現在の二杉橋は昭和60年(1985)3月に竣功しました。架橋箇所は、県道太平山公園線でも有る為、架け替え前と同一ですが、橋の両側に広い歩道部分を確保し、渡る人や車にやさしい橋に生まれ変わりました。
橋の西詰に道路を跨ぐ様に建てられている、太平山神社の鳥居も通過車両に考慮して一段と大きな鳥居に変更されました。
二杉橋高欄.jpg二杉橋橋脚.jpg
(高欄のデザインは何を表しとものか?)  (現在の二杉橋の橋脚と下部構造)

昭和54年(1979)4月に、以前の二杉橋の所で大勢の釣り人が、永野川に釣り糸を垂れている光景を写真に収めていました。
1979年4月永野川.jpg
(二杉橋と下流側大堰との間で釣り糸を垂れる釣り人達。後方は太平山)
1979年4月二杉橋付近.jpg
(大勢の釣り人の奥に、架け替え前の二杉橋の姿が写っています。)
1979年4月永野川二杉橋.jpg
(二杉橋の橋脚上に陣取って釣る人も。川の上流側奥に錦着山が見える)
二杉橋(1981年撮影).jpg
(1981年に撮影した架け替え前の二杉橋、左端に鳥居が覗くが小さく分かり難い)

現在の橋が架けられ位置は、架け替え前と同じ所ですが、明治初期作成の地形図に記された橋の位置と異なっています。明治初期に架けられた橋の位置は、現在位置より下流側で、橋の取り付け道路も左岸は橋詰に祀られている二杉神社の南側(現在は北側)を通っていた様です。
二杉橋周辺概略図.jpg
(二杉橋周辺概略図、二杉橋を渡って直線状に伸びる道路が、太平新道)
明治の初期にはまだ太平新道は出来ていませんでした。
その当時の二杉橋を渡る道路は、現在の西中学校の北側、そして栃木商業高等学校の南側を東西に走る道路を西に真直ぐに来て永野川の手前で二杉神社の社殿を避ける様に少し南側にカーブして、永野川を渡っていました。
「二杉橋」については、以前(2016年2月13日)にこの「巴波川日記」にて紹介しましたが、その時は架橋の場所が現在と違っていた事に気が付いていませんでしたので、今回追加して紹介しました。

※今回参考にさせて頂いた資料・文献は、
  ・明治前期測量2万分1フランス式彩色地図「栃木」 (財団法人日本地図センター発行)
  ・村誌 下都賀郡薗部村
  ・薗部乃里 (大塚紀子著)
  ・Google マップ
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