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栃木市内を流れる、もうひとつの赤津川 [栃木市の河川と橋]

かつて赤津川と言えば、栃木市民にとっては、毎年のように市内に洪水災害をもたらす、暴れ川として困った存在の川でした。
その赤津川は源流を栃木市の北端西方町真名子の男丸まで遡ります。鹿沼市との境界となる大倉山(455m)の南麓の沢水に求めています。そしてこの赤津川は栃木市街地の洪水対策の為に昭和23年から26年にかけて、吹上町の新田橋の下流部で、それまで南東方向現在の栃木市総合運動公園方向に流れていた河道を遮断して、真っ直ぐ南に開鑿して、「赤津川分水路」として錦着山の北西部で永野川に繋いでいます。が、今回紹介をする赤津川は、タイトルの通り上記の赤津川では無く、栃木市内を流れるもうひとつの赤津川に成ります。

もうひとつの赤津川は、大平町蔵井で永野川に堰を設け、その水を右岸から取水して、大平町の真弓・西水代・伯仲を縦断する様に流れ藤岡町蛭沼に入り、西前原の排水機場を抜けて渡良瀬遊水地内で、江川と合流しその後巴波川に流れ込んで行く「赤津用水路」の事で、国土地理院地図上には「赤津川」と表記されています。
新西野田堰1.jpg
(大平町蔵井の永野川に設けられた、新西野田堰)
新西野田堰2.jpg
(堰の上流側右岸に有る、赤津用水の取水門)
新西野田堰3.jpg
(取水された水は永野川右岸の堤を抜けた後、開水路と成り南流していく)
この後赤津用水は大平中学校の東側の道路脇を流れて行きます。この間住宅街の幾筋もの通りに架かる橋を潜りますが、それらの橋の名前は確認できません。親柱に橋名板が埋め込まれていた跡が残っていますが、銘板自体は外されて載っていません。
大平中学校東側を流れる赤津用水.jpg
(左手の建物は「大平中学校」、赤津用水は奥から手前に流れています。)

そこから「さくら通り」の下を抜け、今まさに満開を迎えている「さくら樹木公園」の北側から東側にかけて流れています。
大平町の桜公園脇を流れる赤津川.jpg
(大平運動公園の東端に位置する「さくら樹木公園」はいままさにいろんな品種の桜の花が、ピンク色の花びらをほころばしています。)

赤津用水はこの後「県道蛭沼川連線」に架けられた「新愛宕橋」の下を流れ、県道の東側に流れを変えます。
2021年新愛宕橋.jpg
(県道蛭沼川連線に架かる「新愛宕橋」。橋高欄の向こうに色とりどりの桜が咲いています。)
新愛宕橋銘板1.jpg赤津用水銘板1.jpg
(「新愛宕橋」の親柱には、嬌名と河川名が表示されています。)
河川名として「赤津用水」と表示されています。この赤津用水には多くの橋が架かっていますが、私が確認した中で河川名が表示されているのは、この「新愛宕橋」だけです。
此の橋名の「愛宕」はどうして命名されたものか、今のところ私は確認できていません。「愛宕」とは神社名に良くありますが、付近にそれらしい神社は見当たりません。架橋地点の北東側に有る磯山に鎮座しているのは「諏訪神社」ですし。

次に架かる橋は「中才橋」ですが、現在の橋には橋名等の表示が有りません。高欄は普通の白色のガードレールタイプで親柱も有りません。
2021年中才橋.jpg
(現在の「中才橋」、橋の高欄は白色のガードレール式で何の表示もされていません)
1993年8月に私が撮影した時は親柱も有りそこに「中才橋」と表示が有りました。
1993年中才橋.jpg
(1993年撮影した時の「中才橋」、橋名が確認出来ます)

この「中才橋」の名前は地名から命名されています。国土地理院2万5千分1地形図「栃木」を見ると、架橋地点の左側に「中才」の地名が表記されています。

この後赤津用水は県道から離れて南東方向「ゆうゆうプラザ」の西側に出て、そこから又南流しています。
県道小山大平線の下を抜けた後は、ほぼ南北に縦断している市道1071号線の道路の西側に沿って流れています。
ゆうゆうプラザ南側より道路脇を南流する赤津川.jpg
(写真右端の道路の奥に「ゆうゆうプラザ」を遠望出来ます。赤津用水は道路脇を流れています)

暫らく土地改良で碁盤の目の様に整然と開けた田んぼの中の道路を南に向かうと、やっと親柱が建つ橋が道路脇に現れました。この橋を渡って真っ直ぐ西に向かうと、市立大平南中学校に突き当たります。
みづきばし1.jpg
(学校への入口となる橋、高欄が「ハ」の字状に造られています)
みづきばし2.jpg
親柱に掲げられた橋名は「みづきばし」、左右共に同じひらがなの橋名で河川名は有りません)

赤津用水はそのまま真っ直ぐに南流を続けて、主要地方道岩舟小山線(旧国道50号線)に架かる「下宿橋」を抜けて行きます。この橋なんの変哲も無く、高欄も白色のガードレールタイプですが、橋桁側面にしっかり橋銘板が付いていました。さすが元国道に架かっている橋です。
下宿橋.jpg銘板下宿橋の.jpg

赤津用水はまだまだ、ひたすら一直線上に南に向かって流れ、国道50号の所で西側に200メートル程移動しますが、その後も又整然と区画された水田の中の真っ直ぐな水路を流れて、大平町西水代から大平町伯仲を抜け、藤岡町蛭沼へと変わります。
竣工碑1.jpg竣工碑2.jpg
(国道50号の南側、田んぼの片隅に建てられた「大平南部土地改良区 竣工記念」の碑)

この大平町から藤岡町に変わる所で再度西側に100メートル流路を変えています。この境界線の堤上に1本の石碑が建っています。
赤津川の土手上に建つ石柱.jpg石柱の追記文.jpg
(赤津用水の本流と支流の合流点の堤の上に建つ「堤高標」)
「堤高標」と大きく陰刻された下側に、「大正元年八月十二日」「大字伯仲」と刻まれています。又、側面には「追記 新規事業の実施に当り地元より消滅を惜しむ声あり 由って新川の名と共に神の倉堤の名が語り継がれんことを祈念して水入の地よりこの地に移す」と刻した石版が新たに埋め込まれています。
恐らく土地改良事業によって、元々この石碑が建っていた場所が消滅した為、「新川」や「神の倉堤」の事を後世に語り継ぐため現在の場所に移設したもので、それは「昭和五十五年一月 大平南部土地改良区」のことになります。
碑文に有る「神の倉堤」や「水入の地」とは何所だったのか、元々この「堤高標」はどんな目的で建てられたのか更に調査が必要です。

この石柱の建つ場所から南側は、いよいよ藤岡町蛭沼と成ります。そしてここからの赤津川(用水)の流れは、西側を縦断して走る県道蛭沼川連線とおよそ80メートルの間隔を保つように並行して南流していきます。そして南の主要地方道藤岡乙女線に架かる「倉前橋」との間、五カ所に橋が架けられていますが、これら五つの橋の名前が確認出来ました。
藤岡町蛭沼を流れる赤津川.jpg
(写真中央を流れるのが「赤津川(用水)」手前から3番目の橋の右側に石柱が建つ)

それらの橋名は上流側から、「3-204-2号橋」・「三蔵橋」・「川端橋」・「寺西橋」・「赤津橋」です。
三王寺大桝塚古墳遠望.jpg
(南側の「倉前橋」から赤津川(用水)の上流方向を望む。中央奥、茶色の小丘が古墳)

「寺西橋」の南東部の小丘が「山王寺大枡塚古墳」です。小丘の標高は23.7メートルで古墳の上に国土地理院の三角点が設置されております。
山王寺大桝塚古墳1.jpg
(山王寺大桝塚古墳 全長96m、後方部幅48m、前方部長さ48mの前方後方墳)
三角点.jpg
(古墳の頂部に設置されている、四等三角点「蛭沼」、後方に赤津川(用水)を望む)

「寺西橋」の名前は、この古墳の上に山王寺という古寺が有った事から、寺の西側部に架かる橋と言う事です。
寺西橋.jpg
(かつての古寺の名残の卵塔、後方に赤津川に架かる「寺西橋」)

主要地方道藤岡乙女線の「倉前橋」を抜けた赤津川(用水)は南西方向に進み、西前原工業団地内にて、富吉方向から流れてきた「静戸川」を合わせ、新しくなった西前原排水機場に流れ込みます。
静戸川との合流点.jpg
(西前原工業団地内にて右岸に静戸川が合流する。前方奥に排水機場の建物)
西前原排水機場.jpg
(新しくなり、周辺整備が進む西前原排水機場)
渡良瀬遊水地内へ.jpg
(渡良瀬遊水地内に流れてゆく赤津川(用水)、この後江川と合わさり巴波川に落ちて行く)
 
大平町の蔵井で永野川から分かれた赤津川(用水)の、約9.5キロメートルにわたる橋巡りでした。
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巴波川に関して色々 [栃木市の河川と橋]

今回は、この私のブログ名でも使わせて貰っている「巴波川」に関した、あれやこれやです。
「巴波川」、この川の名前を読める人は、栃木県内の人、それも県南のこの川の流域に住んでいる人か、その知人や関係者位では無いでしょうか。
「巴波川」を広辞苑で検索しても出て来ません。「うずまがわ」と読みますが、「巴波」を「うずま」と読ませるのは他に有るのでしょうか。
ちなみに<漢字源>にて、「巴」(ともえ)の文字を検索しても、読み方が「うず」とは出て来ません。
<字音>では「ハ」とか「ヘ」だけで、<意読>で「ともえ」と出てきます。そして「巴」を用いた難読語として、巴西爾(ブラジル)・巴波那(ハバナ)・巴比倫(バビロン)・巴拉圭(パラグアイ)・巴黎(パリ)の最後に巴波川(うずまがわ)が出てきます。
もう一方の「波」(なみ)の文字も、読み方が「ま」とは出ません。<字音>では「ハ」だけです。
そこから導くと「巴波川」は、「ははかわ」とか「ともえなみかわ」としか読めなくなります。とても「うずま」とは成らない訳です。

「栃木郷土史」(栃木郷土史編纂委員会著・歴史図書社発行)の第六章第二節「栃木の水系」に、
<一、うづま川>として、<川原田村鹿島神社御手洗沼に源を発している。うづま川は宇津間川・巴波川等の字をあてているが、元禄度箱森村書上に、一、鶉妻川 幅十間、村東方ヲ通リ申候。水上壱里 北方川原田村ト申所ヨリ出水ニ而流申候而栃木ヘ落合申候 とあり、鶉妻川の字を用いている。
元来、うづま川西方箱森村より薗部村地内にかけてなだらかな起伏多く、うずらがおびただしく棲息していたので、一名うづらが岡と呼ばれ、江戸時代、死刑場及牢屋等あつた現入舟町の禊教分院及其の東北方は、薗部村鶉島といった。(後略)>

それではどこで「巴波川」の文字を当てるようになったのでしょうか。
栃木県文化協会発行の「栃木の水路」の四章「母なるうずま」の中に<うずま川の名称>として、上記の説を記していますが、更に<江戸時代後期になると栃木町では巴波川の文字をあて、さらに渦川の文字をあてるものもあらわれる。小学校の教科書として編さんされた改正栃木県地誌略(明治十五年一八八二刊)には、「渦川は標茅が原および真名子山中より流出し・・・・・」と書いている。 (中略) 水流中へ水が湧き出るさまに「巴波」「渦」の文字をあてたものであろうか。このようにかわった文字をあてることは文化・文政(1804~1829)ごろの栃木町の文人好みのものであった。>とも。

結局ハッキリした事は分かりませんが、現在は「巴波川」の文字に統一されています。
が、ここで又ひとつ、新たな疑問が湧き上がりました。
上記の二つの文献の抜粋にて、最初の「栃木郷土史」では「うづま川」と、後の「栃木の水路」では「うずま川」と表記していました。

私が若い頃に参加していたアマチア写真同好会の名称は「うずま写友会」と表記しました。
うづま写友会作品目録.jpg
(うずま写友会、写真展作品目録)
うづま写友会写真展会場.jpg
(うずま写友会、初期の頃の写真展風景、まだ現在の文化会館が出来て無く、商工会議所ホールを借りて開催をしていました。)

同じころ栃木市で初めてだと思いますが、「うづまっこ」という月刊タウン情報誌が創刊されました。この月刊誌では、編集室だよりに「うづま有情」、他に初期の頃連載漫画「うづま君」やうづま文芸等々、うづま川との表記に基づいていました。
タウン情報誌うづまっこ.jpgタウン情報誌うづまっこ2.jpg

そこで、「巴波川」に関連した書籍や資料について少し調べてみました。
まず、「うずま」との表記を使っているものです。
①栃木市発行の「目で見る栃木市史」やその他の「栃木市史」
②藤岡町発行の「藤岡町史」や「ふじおか見てある記」
③平凡社発行の「栃木県の地名」
④「角川日本地名大辞典9 栃木」
⑤下野新聞社発行の大嶽浩良著「下野の明治維新」や荒井邦著「巴波川 部屋河岸」
⑥栃木市文化のまちづくり協議会発行の石塚倉子遺著「室の八島」
など、多数確認出来ます。

一方、「うづま」との表記を使っているものは、
①金剛出版発行の坂本冨士朗著「うづま記」
②東京新聞出版局発行の牧口正史著「巴波川 江戸期の歌人石塚倉子の生涯」
と、あまり確認出来ませんでした。他に「うづま」の表記が見られるものとして、
①「うづま焼」 入舟町
②「うづまクリニック」 川原田町
③「うづま運転代行サービス」 小平町
などが、確認出来ました。

それでは実際に巴波川に架かっている橋に表示されている「巴波川」のひらがな表記を見ていきたいと思います。但し範囲は栃木市街地です。上流部より川を下って見ていきます。表記の無いものや確認出来ないものは除きました。
それではまず「うずまがわ」「うずまかわ」と表記された橋です。
①前原橋 ②新高瀬橋 ③原ノ橋 ④嘉右衛門橋 ⑤泉橋 ⑥開運橋 ⑦常盤橋 ⑧幸来橋 ⑨公園橋 ⑩開明橋 ⑪平成橋 以上11橋確認出来ました。
嘉右衛門橋1.jpg開運橋1.jpg公園橋1.jpg

次に「うづまかわ」「うづまがわ」と表記された橋です。
①小平橋 ②大川橋 ③新橋 以上3橋だけでした。
大川橋1.jpg新橋1.jpg

これまで私は、巴波川に架かるこれらの橋を沢山撮影してきていますが、今回分かった事は橋名表示部分は良く撮影して有るのに、川の名前の銘板部分は意外に写していなかったのです。当然「巴波川」と言う事は分かり来たことだったので、改めて写真に撮る必要も感じませんでしたからね。
今回掲載した川名部分の写真は今回改めて撮影をしてきた物です。

以上から、「巴波川」のひらがな表記は、一般的には「うずまがわ」ですが、「うづまかわ」でも又良しです。
電子辞書の「漢字源」で「渦」を検索する時、「うず」と入力すると「渦」の漢字がヒットしますが、「うづ」では出て来ません。ただその意味の解説に、<{名}うず(うづ)。うずまき。水流がへこんだところに旋回してできるまるいうず。「旋渦」。>と表記されていて、「うづ」とも表記されています。

冒頭に紹介した栃木市初の月刊タウン情報誌「うづまっこ」でも、「うづま今昔 栃木の心巴波川」と題して記事が載っていたことが有ります。その中で「うづま川-その名の由来」が有りましたので、一部重複に成る所も有りますが抜粋して紹介させて頂きます。
<うづま川には、鶉妻川・渦川・宇津間川・それに現在の巴波川という字が使われていた。「元禄度箱森村書上」によると 鶉妻川(うづまがわ)幅十間、村東方ヲ通リ申候。水上壱里、北方川原田ト申所ヨリ出水ニ而流候而、栃木ヘ落合申候。と書かれている。また「大日本地名辞典、坂東、第六巻」には、巴波川は古名寒川にてウヅマとは渦巻の義なり、巴波の文字を仮りたるも真理なきにあらず。 とある。この書から考えると、巴波川のうづまとは渦を巻く川という意味からきているようだ。しかし、何時頃から巴波川という字が使われるようになったかは判明できない。面白い説には、鶉が巴波川に棲息していたことから、うづま川となったというものもある。>

「母なるうずま」であり「栃木の心巴波川」では、一年中色々な催しが企画され行われています。
先日はこのブログでも紹介した通り「ダックレース」が有りました。そしてまた、まさに今日も巴波川では「流し雛」が行われていました。
流し雛1.jpg流し雛2.jpg
流し雛3.jpg流し雛4.jpg

折り紙で折ったお雛さまに思い思いの願い事を書いて巴波川に流していました。そこには、コロナ収束を願ったもの、世界平和を、戦争が起きない様にと、長生きが出来ますよう、100点採れるようになど大きな願い、ささやかな願いが巴波川のさざ波にゆられて流れて行きました。

巴波川ではこの後、五月の青空に向かって、多くの鯉幟が泳ぐ姿が見られることでしょう。




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栃木市ダックレース見てしまいました。 [栃木市の河川と橋]

今日、用事が出来た為、久しぶりに自転車に乗って栃木の街に出かけました。
巴波川の脇の道を通るとチョッとした人の群れが。
何だろうと巴波川の川面を見ると、何やら無数の黄色い物体が流れていました。みかんの様な。
ダッグレース2.jpg

良く見てみると、樹脂製のアヒルが大量に流れています。良く子供が湯船に浮かべて遊ぶおもちゃです。
何時もバックに入れて持ち歩いているカメラを取り出し、早速撮影しました。
ダッグレース1.jpg

対岸の柵に張られた横断幕を見ると、「TOCHIGI Duck Race」の文字が。
プラスチック製のアヒルを川に流して、競争させている様です。
ひとつひとつのアヒルさんを見ると、ひっくり返って腹を上にしたまま流されているもの、ごちゃごちゃかたまって流れるもの、一匹離れているもの、川岸につかえて係員に助けられているもの、色々です。
同時にスタートしたのでしょうが、それでもアヒルの列は長く伸びています。どこで差が付いたのでしょうか。
そんな事を考えて流れて行くアヒルさんを見ていると、チョッと心がほっこりします。

そしたらこんな看板を目にしました。
ダッグレース3.jpg
「巴波川沿いでのレース観覧や応援等はお控えください。」と。
知らずに見ていましたが、見てはいけないものを見てしまったような、少し気恥ずかしくなり、その場を後にしました。
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三杉川の橋巡り④ [栃木市の河川と橋]

三杉川の橋巡りも、今回で4回目。
前回は頑張って、9カ所の橋を巡って来ました。前回は下岡に架かる「下岡橋」まで見て来ました。
下岡を抜けるといよいよ栃木市岩舟町の西端「古江」の集落に流れて行きます。
「下岡橋」から南流する事500メートル余りで、下岡と古江の境界に至ります。
三杉川はそこで90度流れを東方向に変えます。
樋の口橋南側より.jpg
(右側の橋が「樋の口橋」、中央の流れが三杉川。奥左の小丘が上岡、右が下岡)

川の左岸に沿って走る道路はそこで三杉川と交差する形と成り、橋が架けられます。「樋の口橋」です。
樋の口橋1.jpg樋の口橋橋名板.jpg
鉄筋コンクリート製桁橋で、橋桁中央部にこれまたコンクリート製のガッチリとした橋脚が橋桁を支えています。親柱はガッチリとした直方体のコンクリート製で、その一ヶ所に竣工年月を記した銘板が埋め込まれています。「昭和三十一年二月竣功」となっています。橋の南東側橋詰に「堤塘擴張工事記念碑」「大正十一年五月」「大字古江」と刻した石碑が建てられています。他に「小野寺経栃木町二里半」側面に「御成婚記念」と刻した道標も建てられています。
樋の口橋西側より.jpg樋の口橋2.jpg

三杉川はこの「樋の口橋」の下流で直角に折れるように再び南流をします。そしてその曲がった先に橋の幅員が1.5メートル程の人道橋が架かっています。橋桁には木製の丸太が使われており、まさに土橋の造りになっています。
番場橋1.jpg番場橋2.jpg
橋名は「番場橋」、大字古江の字名に番場という地名が有り、その地名から命名されたものと思われます。

この後、三杉川は大字古江と東隣りの大字新里との境界線として田圃の中を南流して行きますが、古江の集落の東端で東西に横断のする、市道1052号線の三杉川に架かる「東川橋」のしたを潜り、南に望む三毳山に向かって流れて行きます。
東川橋1.jpg東川橋橋名板.jpg
東川橋2.jpg
(東川橋より下流方向、三毳山を望む。最高峰は229メートルの青龍ヶ岳)

写真に写る三毳山の左側山裾にこんもりとした小丘(標高55メートル)が見える。「天狗山」と言います。
明治32年11月に当時の栃木町を中心に栃木第二中学校(現在の県立栃木高等学校)を行在所として実施された、近衛師団小機動演習の演習場の一ヶ所で、この天狗山の山頂を御野立に三杉川流域を中心に繰り広げられた演習をご覧になられています。
この件に関しては、この巴波川日記2018年5月22日の「草むらに埋もれる石碑の残骸」にて記しています。

三杉川はこの後三毳山に向かって流れ、三毳山北麓を東西に走るJR両毛線の手前で西南西に流れを変え、そこから両毛線の線路と平行して、西隣の佐野市へと流れて行きます。
此の流れを変えた場所で、東側から三杉川左岸に小河川が合流しています。これは三杉川の支流のひとつ「谷田川」です。
谷田川の上流は岩舟総合運動公園の北方の山の中に至ります。この谷田川には公園内を縦貫する間、多くの橋が架けられました。上流側から紹介すると「希望橋」「桜橋」「コスモス橋」「かたらい橋」そして「出会橋」です。
希望の橋1.jpg希望橋2.jpg
桜橋1.jpg桜橋2.jpg
こすもす橋.jpgこすもす橋2.jpg
かたらい橋1.jpgかたらい橋2.jpg
出会い橋1.jpg出会い橋2.jpg
谷田川を合わせた後、西南西に260メートル程流れた所に、小野寺地区での最後の橋「三杉橋」が有ります。
三杉橋3.jpg三杉橋4.jpg
(左側道路の先に新しい「三杉橋」、右側道路は前の橋の取り付け道だった。旧橋は撤去済)

この橋は三杉川に架かっている橋の中では、一番新しい橋(2016年2月竣工)に成ります。
三杉橋1.jpg
(小野寺地区を流れる三杉川に架けられた最後の橋「三杉橋」奥に岩舟山を望む)
三杉橋2.jpg
(三杉川の下流方向を望む。右岸側は栃木市岩舟町古江、左岸側佐野市町谷町です。)

今回巡った三杉川に架かる橋、4ヶ所の位置を又頑張って模式図に表してみました。参考に見て下さい。
三杉川古江付近の模式図.jpg

三杉川はここで一旦栃木市から離れ、佐野市内を流れることに成ります。
何時か佐野市内を流れる三杉川についても、巡ってみたいと思います。


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三杉川の橋巡り③ [栃木市の河川と橋]

今回も市内を流れる三杉川に架かる橋を巡って行きたいと思います。
1回目、2回目とも寄り道も有って、1回で三杉川に架かる橋を3橋づつしか回れなかった。今回は少しスピードアップして、多くの橋を巡って行きたいと思います。

早速、前回最後に見た「中妻南橋」の下流に架かる橋を探していきます。
「中妻南橋」を渡ると直ぐ東北自動車道のアンダーになりますが、その手前に三杉川の左岸に沿って細い道が通っています。その道を350メートル程進むと鋼桁橋が現れました。「杉本橋」です。
7杉本橋.jpg
(「中妻南橋」から下流側350メートルに架かる「杉本橋」)
橋長は11メートル弱、幅員3メートルと小ぶりです。現在の橋は1982年に架けられていますが、地形図上ではそれ以前より橋が有った事が確認出来ます。ただ橋名の「杉本」は何から命名されたものか、架橋地点の字名は「上耕地」としか確認できません。気になるのは周辺に「杉本」と言う姓のお宅が何軒か確認出来、それらとの関係性が有るのか、もう少し調査が必要です。
先を急ぎます。三杉川はこの後東北自動車道の下を抜けて東側に流れて行きます。そこで東北自動車道のアンダーを抜けて、東側に沿って走る側道に出て南に進み、次の橋を目指します。
この側道は最初の「中妻南橋」から東北自動車道のアンダーを抜けて来た道路に成ります。側道上に橋が現れました。
この橋も鋼桁橋です。橋の長さは23メートルと三杉川に架かる橋としては比較的長くなっています。幅員はガードレールタイプの高欄間は4メートルほど有りそうですが、橋詰に建つ道路標識には「2.0t」「2.2m」と表示されています。橋長が長い割りに橋の中程に有る橋脚が心もとなく、その為耐荷重が2トンしか無い為、大型車両の通行には耐えられないのでしょう。
8中川原橋2.jpg
(鋼製の桁を支える橋脚が何とも心もとない)
そこで橋自体の幅員は4メートル有る所、その橋の両側に幅員2.2メートルに抑える鉄パイプのポールを設置して通行制限を行っている様です。実際ポールは根元からへし曲げられていますが、それでもコンクリート製のブロックが頑張っています。
8中川原橋.jpg
(東北自動車道側道に架かる「中川原橋」、南側から撮影)

橋の名前は「中川原橋」、架橋場所の字名から命名された様です。直ぐ脇の東北自動車道の高架橋に掲示されている占用許可標識に<岩舟町大字小野寺字中川原地先>の場所名が確認出来ます。

次の橋は側道をそのまま南に進んで行くと、道路の左手に見えてきます。私が行ったときは丁度橋の高欄の付け替え工事の真っ最中でした。
9石橋橋.jpg
(高欄付け替え工事中の「石橋橋」)

橋の名前は「石橋橋」で、石橋は現地の字名になります。昔この辺に石の橋が架けられていてそこから地名が「石橋」と成って、今度は石橋に架かる橋に成るから「石橋橋」となった訳。こんな命名は他にも有ります。栃木市柏倉町の藤川には、「土橋橋」と名付けられた橋が有ります。命名の経緯は同じでしょう。現在架かる橋はきちんと高欄の有るコンクリート橋ですが「土橋橋」です。
土橋橋.jpg
(栃木市柏倉町の「土橋橋」)

先に進みます。又、側道を真っ直ぐ南進して行くと、Y字路が現れますのでここで側道から外れ、左の道を200メートルほど行った所で又、三杉川の橋を渡ることに成ります。今回4番目の橋は「小野寺橋」です。
現在の橋は昭和34年(1959)3月に竣功したもので、橋の上流側左岸に「小野寺橋竣工記念碑」が建てられています。
10小野寺橋.jpg10小野寺橋竣功記念碑.jpg
(「小野寺橋」と上流側左岸に建つ竣工記念碑)
題字は昭和10年12月から10年間小野寺村村長だった野尻金一郎氏によるものです。

5番目の橋は「小名路橋」です。「小名路」は大字小野寺の小字の一つに成ります。橋長18.7メートル、有効幅員6.5メートル、昭和57年(1982)3月に竣工しています。
11小名路橋1.jpg11小名路橋橋名板.jpg
(「小名路橋」橋詰より下流側を望む。写真左側は上岡の小丘)

三杉川はこの「小名路橋」から一直線に南流して上岡の小丘に遮られ、流路を小丘の西側に変えています。
この直線状の河道は昭和59年頃人工的に開鑿されたもので、それ以前は小名路橋の下流から「く」の字に西方向に蛇行していました。橋の西詰から南西方向に走る道路は旧河道の右岸に沿っていた道路の残りです。
11小名路橋2.jpg
(かつての三杉川の河道は、写真右側に見える道路に沿って南西方向に蛇行していました)

新しい河道は「く」の字の上下を結んだ直線状で、その間約100メートルの間隔で、6番目の橋「湊橋」そして7番目の橋「新小名路橋」と、三つの橋が並んでいます。
12湊橋.jpg12湊橋銘板.jpg
(下流側に架かる「新小名路橋」より上流「湊橋」とその上「小名路橋」を望む)

13新小名路橋.jpg
(「新小名路橋」 後方の山並みは唐沢山地、その手前に「岩舟JCT」を望む)

三杉川は上岡の小丘の西麓を蛇行しつつ更に南流しています。そして上岡の地で架かる「上岡橋」そしてその下流下岡に架かる「下岡橋」を潜り、岩舟町古江に向かって流れて行きます。
14上岡橋.jpg14上岡橋竣功記念碑.jpg
(「上岡橋」橋詰の桜の古木とその脇に建つ「上岡橋竣功記念碑」)

以前来た時は、橋の袂の桜の古木が満開でした。桜の木の横に建つ石碑には「上岡橋竣功記念碑」と刻されています。碑陰には「昭和三十年三月竣工」「総工費七拾万圓也」等の文字が確認出来ます。
又、桜の咲く頃に訪れたいですね。

橋を渡らずに、先ほどの道路を更に南下して行くと、三杉川が左手から右手方向に流れて行きます。架かる橋は土地名を採った「下岡橋」に成ります。ここで今回9橋目に成ります。
この橋の写真は17年前にも撮影しています。現在の橋は2005年1月竣工です。

15旧下岡橋.jpg15現下岡橋.jpg
(1993年11月撮影の「下岡橋」と2005年1月竣工の現在の「下岡橋」)

今回はここまでにします。今回の9橋の位置関係が判る様に頑張って模式図に表してみました。少し小さくて見にくいでしょうが、参考にして下さい。図の右手方向が北になっていますので、三杉川はこの間北から南に蛇行しつつ流れています。
三杉川中流域北部模式図.jpg
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三杉川の橋巡り② [栃木市の河川と橋]

前回に引き続き三杉川を下り、架けられている橋を見ていきます。
今回の最初の橋は、「谷津橋」になります。
前回最後の「榊橋」を潜り抜けた三杉川の流れは、その後も東北自動車道の北側に沿って西に向かって流れて行き、字中山から字田代に変わった所で東北自動車道の高架橋「田代橋」を抜け、東北自動車道の南側に流れを変え、その先で4番目の橋「谷津橋」に至ります。
4谷津橋.jpg4谷津橋橋名板.jpg
(谷津橋、前方奥に東北自動車道のアンダー、その向こう側に主要地方道栃木佐野線)

渡る道路は市道61007号線で、この道路は主要地方道栃木佐野線から字田代にて南に入る道路。曲がって直ぐ東北自動車道のアンダーを潜り、三杉川の「谷津橋」を渡り、三杉川の支流「羽田川」に沿って、字羽田から字広戸へと、太平連山の馬不入山の北麓の沢深く入って行きます。
羽田川の源流となる馬不入山(うまいらずさん)の北麓の柳沢には、都賀郡出身の世界的偉人、天台座主第三世となった「慈覚大師円仁」の史跡のひとつ、独鈷水御堂が有ります。今回そこまで足を伸ばしてみました。
独鈷水御堂への入口.jpg独鈷水御堂.jpg
(慈覚大師円仁ゆかりの史跡「独鈷水御堂」入口)(柳沢の奥高台にある「独鈷水御堂)

ここに参るのは7年ぶりになります。このブログにて2015年1月7日「独鈷水御堂」として紹介をしています。
久しぶりで周辺の山肌には、太陽光発電施設のパネルが並び、以前とは少し趣が変わった気がしました。
太陽光発電用パネルが並ぶ.jpg

寄り道をしたついでに、羽田川に架かる橋で、名前が確認できた橋を上流側から載せておきます。
羽田川.jpg羽田橋.jpg
(羽田川に架かる羽田橋)

大芝原橋.jpg大芝原橋橋名板.jpg
(大芝原橋)

羽田農道橋.jpg羽田川農道橋銘板.jpg
(羽田川農道橋)

川入橋.jpg川入橋銘板.jpg
(川入橋)

三杉川に戻って来ました。羽田川との合流点の直ぐ下流に東北自動車道の高架橋が迫っています。
三杉川と羽田川の合流点.jpg東北自動車道高架橋「川入橋」.jpg
(左側の三杉川に右側から羽田川が合流)(合流点の直ぐ下流で東北自動車道を潜る)

三杉川の5番目に架かる橋は丁度東北自動車道の高架橋の下側に隠れる様に架かっている「川原田橋」です。
5川原田橋.jpg5川原田橋2.jpg
(東北自動車道の真下に架かる「川原田橋」) (下流側から見た川原田橋、手前の堰は「水神堰」)
地形図にてこの橋の存在を確認出来るものが一枚有りました。昭和40年3月国土地理院発行の2万5千分1の「栃木」の地形図です。(前回も記しましたが、この地域を最初に確認出来るものです。5万分の1スケールの地図は有りますが、詳細内容は記載されていません。)
この地図で三杉川の上流から橋の地図記号が記載されているものを列挙すると、「境橋」「榊橋」「谷津橋」そしてここ「川原田橋」と確認出来ます。
昭和44年4月に修正された地形図が発行されますが、その中には多くの橋の地図記号が省略されてしまって、県道に架かる「境橋」だけ地図記号が残っているだけで、ここ「川原田橋」は、三杉川の線と道路の線がただ交差して表示されているだけとなっています。「谷津橋」も「榊橋」もしかり。
その次に発行された、昭和49年11月発行の地図は「東北自動車道」が表示された為、「川原田橋」はその陰に隠れて地図上からは忘れ去られる橋と成りました。

三杉川はここまで太平連山の北麓に沿う形で西流してきましたが、この辺りからその流れをゆっくりと南に向きを変えて行きます。太平連山がここで切れた為です。こうして太平連山の西端を回り込み、その後しばらくは三毳山の方向へ南流していきます。
前回に引き続き今回も説明用の概略図を作ってみました。文章の未熟なところを少し補いたいと思います。
三杉川上流域概略図2.jpg

三杉川が字中妻にて流れを西から南に変えると同様、東北自動車道も三杉川に沿って南に方向を変えています。又、同じように県道も南に向きを変えていますが、しかし元々県道はもう少し先まで西に向かい、村檜神社や慈覚大師円仁が少年時代に勉学修行に励んだと言う大慈寺の前まで行ってから、南に方向を変えていました。
葛生町に向かう県道が交差する十字路も以前は丁字路で南へ抜ける道路は、昭和59年1月発行の地形図に初めて描かれています。又、新しく三杉川の右岸に沿って南に進むバイパス道路は平成25年8月発行の地形図で現れています。
三杉川、6番目の橋は「中妻南橋」です。その名の通り字中妻の南部に位置します。
6中妻南橋.jpg6中妻南橋銘板.jpg
(6番目の「中妻南橋」)         (橋桁の橋銘板、2003年11月の竣功)

この「中妻南橋」は、葛生町から藤坂峠を越えてきた道路が、小野寺交差点を真っ直ぐに県道を横切った道路が三杉川を渡る場所に架けられた橋になります。この道路は橋を渡った後、東北自動車道のアンダーを抜けた後、東北自動車道の東側側道の形で、南進をしていきます。
現在架かる橋は、2003年(平成15年)11月です。最初の橋はその道路の状況から、東北自動車道の建設と合わせて作られたと考えられますので、1972年には有ったと考えます。
ただ地形図の図暦を比較して見ていくと、現在の架橋位置とは違ったようで、新しいバイパス道路の建設に伴い架橋場所が変えられたと考えられます。

橋ひとつ見ても、その地域の開発過程を窺い知ることが出来、面白いものです。
今回もあちらこちらと、寄り道をしてしまい、巡った橋は又3橋だけでした。次回から少しペースを上げて行きたいと思います。
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久しぶりに栃木市内の橋を巡ります [栃木市の河川と橋]

久しぶりに栃木市内の河川に架かる橋を、見て回りたいと思います。
今回巡るのは「三杉川」です。
「三杉川」は現在の大きくなった栃木市の西端、岩舟町小野寺を縦断する様に流れる河川で、その下流域は佐野市との境界を成しています。最終的には佐野市高山町と栃木市藤岡町都賀との境界付近で、渡良瀬川左岸に合流しています。
この「三杉川」の源流は、小野口町に有る「あさひヶ丘カントリークラブ」と、岩舟町小野寺に有る「桃里カントリー倶楽部」との間辺りの沢水を集めたもので、この川筋がかつては栃木市と岩舟町の境となっていました。
三杉川源流.jpg
<写真右の山が小野口町、左が小野寺で、三杉川はこの山合から流れ出ています。ガードレールの付いた道路は主要地方道栃木佐野線です。>

この三杉川が最初に潜る橋は、主要地方道栃木佐野線が通る橋で、その橋名はかつてが架橋場所境界線で有った事から、「境橋」と命名されています。合併前はこの橋の橋詰に「栃木市」「岩舟町」と記した道路案内標識が立てられていました。
1境橋.jpg1境橋銘板.jpg

橋を抜けたすぐ先で、左岸から小河川が合流しています。この水路は東方向に有る「廻峠」の南方、太平連山の最高峰「晃石山」北麓に有る、「エヴァンタイユゴルフクラブ」周辺の沢水を集めた「八幡沢」になります。読み方は「はちめざわ」と、国土地理院2万5千分の1の地形図に記されています。

三杉川はこの後道路から離れて行き、南側をほぼ平行に走る「東北自動車道」との間で、多少蛇行しながら西流していきます。

次の橋は「山中橋」で、県道から南に折れて、高速道路のアンダーへ向かう脇道(市道61006号線)に架かっています。
この橋の名前は、その地域の字名「山中」から命名されています。
2山中橋.jpg2山中橋橋名板1.jpg2山中橋橋名板2.jpg
「山中橋」を渡り、高速道路のアンダーを抜けた先の林道沿いに数軒の家屋が建っていますが、ここの住民の姓は全て「山中姓」となっています。

高速道路のアンダーの通路の脇に水路が有り、山中橋の直ぐ脇に落ちています。梅ヶ入沢に成ります。
梅ヶ入沢を遡って見ます。アンダーを抜けた先の細い道路(市道61006号線)を進んでいきます。
梅ヶ入沢1.jpg梅ヶ入沢2.jpg
<梅ヶ入沢からの水が流れるアンダー内の水路。写真手前で三杉川に落ちる。>

暫らく行くと沢に架けられた橋が現れました。ガードレール型の高欄に橋名板が付けられています。「竜胆郷橋」と有ります。
竜胆郷橋.jpg竜胆郷橋橋名板.jpg

この辺は竜胆(りんどう)の群生地でも有るのでしょうか、辺りに人気が無かったので、聞くことが出来ませんでした。橋の先に1軒人家が有りましたが、その先は「林道山中広戸線」と言う事で、広戸に抜けられるのでしょうが、今回はここで引き返し、三杉川に戻る事にします。

山中橋の下流85メートルの所に、高欄の無い単純桁橋が架かっています。「榊橋」です。この橋名も現地の字名を採って命名したものでしょう。橋長6メートル、幅員3メートル程の小さい橋です。
3榊橋.jpg
何の表示も無いので何時架けられたものかは不明です。そこで国土地理院発行の地形図の図暦をたどってみました。
国土地理院の2万5千分1の地形図で、三杉川上流域は「栃木」の区域に入り、一番古い物は昭和40年3月の発行になります。(それ以前にも発行された地図が有りますが、何故か画面の左半分が空白状態となっています。国土地理院の発行窓口にお聞きしたところ「はっきりした事はわからない」という回答でした。)
地形図を見ると現在の場所に橋の地図記号が描かれています。
ただ先に見た山中橋はまだなく、県道から山中橋に真っ直ぐ通っていた道路もまだ有りません。地形図には山中橋の袂で三杉川に合流している「梅ヶ入沢」の川筋は描かれ、沢の脇に建つ人家も出ており、その家に向かう道路は「榊橋」を渡り、三杉川の左岸沿いの道を「梅ヶ入沢」の合流部まで遡り、沢沿いの道で沢に向かって行くルートになります。言葉では説明が下手なので概略図を用意しました。
三杉川上流域概略図.jpg
①東北自動車道が開通したのは、1972年(昭和47年)11月13日の為、昭和40年発行の地図には当然描かれていません。
②山中橋の竣工時期は、1993年(平成5年)5月です。県道から山中橋へ向かう道路はその時期に開通したものと思われます。地形図に道路が現れたのは1997年(平成9年)5月発行の物からです。

ちなみに最初の「境橋」が竣功したのは、銘板から1992年3月ですが、これは新しく架け替えられた物で、昭和40年3月発行の地形図にも当該地点に橋の地図記号を見る事が出来ます。

今回は上流から3橋しか巡ることが出来ませんでした。次回も三杉川を下って行きます。
三杉川はこの後も主要地方道栃木佐野線と東北自動車道との間を西流して、「田代」にて東北自動車道の高架橋「田代橋」を潜って、東北自動車道の南側に流れを変えます。そこで市道61007号線が通る「谷津橋」を潜りますのでそこにコマを進めます。
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杣井木川排水機場周辺の風景 [栃木市の河川と橋]

杣井木(そまいき)川排水機場は、小山市大字中里の永野川が巴波川に合流する手前300メートルの地点で、永野川左岸から合流して来る杣井木川の落ち口に建設された、小山市大字押切や大字中里等の巴波川と永野川とに囲まれた地域の湛水防除施設です。
杣井木川排水機場全景.jpg
(永野川の左岸、写真中央の施設が杣井木川排水樋門、その左堤内に排水機場の建物)
2013年5月25日杣井木川流入部2.jpg杣井木川樋門銘板.jpg
(杣井木川樋門を永野川対岸より撮影)     (樋門の銘板、1991年12月設置の表示)
樋門の設置場所から下流側に80メートル程の、同じく左岸土手に新たに設置された排水装置だろうか、土手の堤内側から16本の鋼管が伸び、堤外側(永野川側)に管の開口部が並んでいます。これで堤内側の水を堤外へ排水するものと思われる。私がこれまで見た排水機場の中には、この様な装置は見たことが有りません。この杣井木川排水機場でも以前は見ていませんでした。
排水管(堤内側).jpg排水管(堤外側).jpg
(永野川左岸土手の堤内側に並ぶ16本の鋼管)(堤外側土手上部に管の開口端が並ぶ)

この施設は、永野川の水位が上昇して、永野川の水が杣井木川へ逆流して来るのを、水門を閉鎖して防ぎ、杣井木川から永野川への自然排出が出来なくなった水を、ポンプの力で強制的に永野川に排水するものです。そのカラクリは素人の私には良く理解できていませんが。
こうした排水機場は、思川や渡良瀬川などで、その支流の川からの落ち口に設置されています。
三杉川排水機場.jpg西前原排水機場.jpg
(三杉川排水機場)                   (西前原排水機場)
与良川第一第二排水機場.jpg塩沢排水機場.jpg
(与良川第一・第二排水機場)             (塩沢排水機場)

排水機場の仕組みについて、解説した掲示が塩沢排水機場に有りました。これを見て私も少しは排水機場について理解する事が出来ましたので、参考に解説図部分を抜粋して添付いたします。
排水機場の仕組み.jpg
(塩沢排水機場の平常時と洪水時の、排水の仕組み)

この杣井木川排水機場が設置されたのは、先に掲示した排水樋門の銘板に有る通り、1991年12月で今からたった28年前の事です。それより前の1982年1月に私がこの付近の風景を撮影した写真が有りました。現在の風景と比較してみると、だいぶ様子が変わっていることが見て取れます。
撮影ポイントを下に添付した「巴波川・永野川合流点周辺の河川及び道路の変遷図」の中に△印で表示しています。

1982年赤.jpg2019年赤.jpg
(撮影ポイント赤△印:現在の排水機場前の道路から西方向を写す。)
写真手前の橋は杣井木川に架かる橋で、川はこの橋の左方向で永野川に合流します。奥に写る橋は永野泡に架かるかつての「落合橋」です。この頃は、永野川左岸には土手らしい土手は有りませんでしたから、この地点からも「落合橋」を望むことが出来ました。
現在の写真では道路左側は、高い永野川左岸の土手が視界を妨げています。

1982年靑.jpg2019年靑.jpg
(撮影ポイント青△印:同上の撮影ポイントから振り返って南方向を写す。)
永野川が前方で大きく右にカーブしています。写真奥の所で左方向から流れてくる巴波川に合流する事に成ります。現在の写真は土手の上からほぼ同じ方向を撮影しています。

1982年緑.jpg2019年緑.jpg
(撮影ポイント緑△印:永野川に架かる「落合橋」の上流側左岸から橋を撮影)
写真に写る「落合橋」は新たに土手を作るために不都合だったのか、2000年9月に上流側に「新落合橋」が架橋され、元の場所には2004年3月現在の「落合橋(人道橋)」が架けられました。

1982年橙.jpg2019年橙.jpg
(撮影ポイント橙△印:巴波川に架かる「昇明橋」の上流左岸より永野川との合流点を写す)
写真右奥から真っ直ぐ流れてくる川が巴波川。左側より手前に流れてくる川が永野川。永野川左岸に土手は見られません。現在の写真は巴波川左岸土手の上から移していますが、前方は永野川の土手で続いています。

巴波・永野合流付近の河川・道路の変遷図.jpg
少し見難い図に成ってしまいましたが、1980年代の道路の様子を実線で描き、現在の道路土手河川等を破線で重ねて描いています。排水機場前の道路は土手が出来る前は、永野川近くを通っていましたが、築堤後は、堤内の土手脇に沿う形に変わっています。落合橋下流側の土手が出来上がったのは1994年頃に成ってです。上流側は更にその後整備されることに成ります。
土手が造られたことで、内水氾濫を防ぐためにこの「杣井木川排水機場」も作られたと考えます。

こうして栃木市並びに、小山市・佐野市など渡良瀬川水系に多くの排水機場が設置されましたが、昨今の気象状況の変化で、自然の猛威はそうした人間の行動をあざ笑う様に、破壊しています。
しかし、私たちも平穏な生活を得る為、更なる英知を出し合って、河川管理を強化していく事が必要になっています。今もこうした排水機場の活躍で、被害を小さく止めていることも、忘れてはならない事です。
縦軸斜流ポンプ.jpgポンプ銘板.jpg
(与良川第一排水機場内に設置されている「立軸斜流ポンプ」2基と銘板)
感謝の幟旗.jpg
(2015年9月の豪雨被害の翌年、小山市生井の桜堤に立てられた感謝の幟旗)

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永野川の堀ノ内橋が新しくなっていました [栃木市の河川と橋]

永野川の下流域、栃木市大平町西水代と小山市大字上泉の境界をまたぐ堀ノ内橋が新しい姿に変わっていました。この橋に接続する栃木市側の道路は、永野川右岸土手から土手下に下りる為の市道22268号線、土手下の市道22290号線は永野川右岸の土手下に沿って、国道50号バイパス道の下から南に進み県道160号(和泉間々田線)の永野川に架かる「昇明橋」の橋詰まで伸びていますが、こうした永野川両岸を往来する地元の住民の為の、生活路の確保を目的とした橋梁に成っています。
(新)堀の内橋1.jpg
(永野川に新しく架けられた「堀ノ内橋」)
(新)堀の内橋2.jpg(新)堀の内橋3.jpg
(新しいく立派になった堀ノ内橋、自動車も安心して通行出来ます)(橋の銘板)

橋の直ぐ上流側には、国道50号(岩舟小山バイパス)に架かる、「新永野川橋」が見えます。
(新)堀の内橋4.jpg
(堀ノ内橋の上流側に架かる国道50号バイパスの「新永野川橋)
ただこの「新永野川橋」を川沿いに住む方が渡る場合、川沿いの道路は接続されず、西側は橋から500メートル、東側は300メートル離れた交差点まで回り込んで渡ることに成る為、この堀ノ内橋が重宝となります。

元々この地点には橋が有りました。現在も新しい橋の下流側にまだ残っていますが、先日の台風の影響で高欄が破壊された為か、それ以前から新しい橋への切り替えでか、橋は通行止めと成っていました。
(旧)堀の内橋 1.jpg(旧)堀の内橋 2.jpg
(写真手前が、これまで地元民に利用されていた堀ノ内橋)(通行止めとなった以前の橋)

これまでの橋は、土手よりも低い所に架けられていた為、川が増水した時は橋は水を被ってしまいます。
今回の台風でも高欄が完全に破壊されています。
新しい橋が完成した事で今回も生活路は、確保される事と成りました。

これまでの堀ノ内橋は、昭和の名残が感じられ、味の有る風景が見られ、これまで何回か訪れその姿を写真に撮っていましたので、紹介します。
2013年5月25日堀の内橋.jpg
(2013年5月25日撮影、上流に「新永野川橋」も見えます。)
堀の内橋下流堰57年1月.jpg
(昭和57年1月撮影、下流側の堰)
堀の内橋57年1月撮影.jpg
(同じく昭和57年1月撮影、堀ノ内橋。後方で新永野川橋の架橋工事が行われている)

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永野川の洪水被害に思う [栃木市の河川と橋]

10月12日から13日、関東地方を縦断した台風19号の豪雨により、栃木市内に甚大な被害が発生してしまい、多くの人達が一夜にして、通常の生活を奪われ、今も不自由なつらい生活を送っています。
その中でも、永野川流域では多くの箇所で、堤防の決壊や越流により、大量の泥水が市街地に流れ込んでしまいました。
JR両毛線永野川鉄橋右岸の線路部分が被災.jpg
(JR両毛線永野川鉄橋脇右岸の土手が決壊、線路の盛土が流失しレールが宙吊り状態に)
二杉橋下流左岸堤防決壊.jpg
(二杉神社下流の永野川左岸の土手が決壊、緊急対応として大型土嚢を積み上げています)
錦着山西側付近.jpg
(錦着山の南西側に永野川の水が流入し、道路やフェンス等が破壊されている)
栃工高北側の永野川.jpg
(栃木工業高校北側の永野川河川敷内の木々に、多くの瓦礫が引っかかっている)

これまでも永野川の氾濫では、幾度となく橋の流失や洪水被害を起こしています。しかし、私の70年余の人生で経験した中では、今回はこれまでで一番大きな被害となりました。
私の高校時代は、永野川の上人橋を渡り栃木工業高校に通学していましたが、その時も台風で上人橋の一部が流失、通行する事が出来なくなりました。復旧するまでの間、下流の高橋を渡って通学した事は、今も忘れられません。
上人橋左.jpg上人橋右.jpg
(前方の橋が改修工事中の上人橋。永野川右岸の土手上の道が通学路でした)

特に私が3年間学んだ栃木工業高校が、2015年9月の豪雨被害から、やっと立ち直った矢先、今回又も被害を蒙ったとのニュースを見聞きし、何とも悔しく、つらい思いで一杯になります。
私が通っていたころの永野川流域は人家も少なく、河川敷も今の様に整備されてなく、雑木が生い茂っていましたが、永野川が氾濫して校庭に濁流が侵入して来ることなど、夢にも考えていませんでした。
1966年上人橋周辺(錦着山頂より).jpg
(私が通学していたころの永野川、上人橋付近の風景。錦着山上より撮影)
1968年撮影栃工校全景.jpg
(私が通学していたころの栃木工業高校周辺の風景。南側遊覧道路より撮影)
1975年撮影栃工校全景.jpg
(栃木工業高校全景、錦着山上より撮影。あの頃は平和だったのに)

その当時から比べれば、永野川の堤防も立派になって来ていると考えられるのですが、それが逆に被害が発生しやすくなっているのは、永野川上流域の開発に伴い、川に流入する雨水が増加した為か、もっと大きくみると、地球環境の変動によるものなのだろうか。地球温暖化により、日本近海の太平洋の海水温上昇で、日本に接近する台風がこれまでより成長、。今回の台風19号がまさにそうした背景に因るものなのか。
そう考えて行くと、このままでは同じような被害が今後も繰り返されると、考えなければならない。とんでもない事です。

永野川は巴波川の支流と言われますが、川の流域は圧倒的に永野川の方が広くて長くなっています。その上流は鹿沼市の山中深く百川渓谷まで遡ります。
今回の台風19号は、栃木県の北西側山間部に多量の雨を降らしました。その結果足尾山地の沢水を源流とする、旗川や秋山川、永野川そして思川の下流域が増水・氾濫しています。

今後の対策として、どんな事が有効なのか。これまで巴波川流域で行ってきた遊水池の確保も、その一つですが、栃木市街地の巴波川の氾濫を見ると、それも完全では無いことが今回明らかになりました。
土手の高さをもっと高くする事も考えられますが、これは流域全体を考えないと、一部高くするとその場所の前後に被害をもたらしやすくなります。昔から土手の嵩上げは利害関係が絡んで、容易な事では無いと聞いています。
まして巴波川を観光資源としている栃木の中心部は土手の嵩上げは、抵抗が有ります。それでは、宇都宮市の中心を流れる「釜川」の様に、川を二段にして、上の水位が上がったら、オーバーフローをさせて、下段の水路に逃がす構造にするか。
永野川の場合はその流域に大規模な遊水池を確保するとか。今と成っては遅いが千塚町の産業団地の様な場所は他にないのだろうか。
早急に、栃木県や栃木市そして市民の総意を結集して、河川改修を進めなければ、又、今回と同じような被害を出してしまうと恐れます。
自然の力に対抗するためには、みんなの力を結集して当たらなければ、到底かないません。


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