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永野川に架かる「諏訪橋」のこと [栃木市の河川と橋]

先日、東日本の多くの河川で、大きな爪跡を残した台風19号。栃木市内では大平町蔵井を流れる永野川に架かる「諏訪橋」が、増水した水の勢いで橋脚1カ所が流出、そこに架かっていた橋桁2本が水中に落ちてしまいました。
諏訪橋(2019年10月).jpg諏訪橋(2019年10月)流出.jpg
(橋桁2径間が流失した「諏訪橋」。橋長51.5m、幅員3.5m、複合橋)

この「諏訪橋」は昭和9年(1934)に架設されたもので、現在栃木市内の巴波川・永野川に架かる橋の中で3番目に古い橋と成っています。ちなみに1番古い橋は、巴波川に架かる「嘉右衛門橋」で昭和2(1927)の架設です。
嘉右衛門橋.jpg
(昭和2年架設の嘉右衛門橋。橋長13.1m、幅員5.4m、鋼橋)

2番目は同じく巴波川に架かる「倭橋」で昭和5年(1930)架設です。
倭橋.jpg
(昭和5年架設の倭橋。橋長13.6m、幅員5.2m、鉄筋コンクリート橋)

3番目の昭和9年(1934)に架設された橋は、5ヶ所に成ります。その内巴波川には「巴波川橋」とその下流の「相生橋」の2橋が残っています。
巴波川橋.jpg相生橋.jpg
(昭和9年架設の巴波川橋。橋長14m、幅員5m)(同じく相生橋。橋長14.1m、幅員5.5m)

一方永野川には、今回被害を受けた「諏訪橋」の外に「両明橋」そして「千部橋」の3橋が有りますが、3橋共大平町に成ります。
このうち「千部橋」は、前回2015年の豪雨の際に一部が流出しましたが、復旧されています。
又、「両明橋」は幸いにも2015年8月、豪雨被害が発生する前月に修繕を終えた為、被災を免れています。
千部橋.jpg両明橋.jpg
(昭和9年架設千部橋、前回流出部は補修された。)(同じく両明橋。2015年8月修繕が行われた)

巴波川の「嘉右衛門橋」など4橋が架かる場所の川幅は14メートル程度なのに対して、永野川に架かる3橋は橋長が50メートルから60メートルと長い橋でした。
したがって、今回流出した「諏訪橋」は悪条件の中一番寿命を保った橋と言うことに成ります。この古い橋が今まで残っていた要因としては、橋の幅員が3.5メートルと狭く、橋を通る市道21118号線は永野川左岸蔵井の県道蛭沼川連線を起点とし、橋を渡った右岸の橋詰までの道路で、自動車は殆ど通行せず、近くの大平中学校の生徒さん達が自転車通学するのに、現在主に利用されている橋だからでしょう。
「諏訪橋」が利用できなくなってしまった為、生徒さん達は下流の県道が通る「山下橋」を回りこむ必要が有ります。そちらは交通量が多い為、注意して通学して貰いたいです。

この「諏訪橋」は橋の中央部から左岸側は鋼橋(1径間)、右岸側は鉄筋コンクリート橋(4径間)と言う、複合橋でしたが、昭和9年架橋当初からこの様な変わった形式だったとは思われませんので、初めは両明橋などと同様の鉄筋コンクリート製の橋であったものと思われます。
諏訪橋(2015年4月).jpg
(被災前の「諏訪橋」、下流側右岸より撮影)

それが、後に今回と同様の原因で、橋の左岸側の部分が流出して、現在の様な鋼橋部分に改修されたものと思われます。それがいつごろの事か分かりませんが、私が初めて諏訪橋の写真を写した昭和57年(1982)1月には、現在の姿に成っていました。
諏訪橋57年1月.jpg
(昭和57年1月に上流から撮影した「諏訪橋」、左奥の森は蔵井の元村社諏訪神社)

今回の台風で栃木市内は甚大な被害を蒙りました。4年前の豪雨で被災した時、50年に1度と言われました。ですから今回の台風接近でも、どこか前回の様には成らないと思い込んでいました。しかし、今回の災害は100年に1度の規模だったと言う。もし来年も同様の災害が発生したら、今度は200年に1度、いや千年に1度となるのか。
このような被害を二度と起こさないために、どんな対策が必要なのか、今回の被害実態を詳しく分析して、対策を進めて頂きたいと願うばかりです。
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たった4年で50年に1度クラスの災害が再発、栃木市の巴波川 [栃木市の河川と橋]

昨夜は、台風が通過するまで不安で深夜まで、家の脇を流れる清水川の水位を注視していました。
清水川は巴波川の支流で、幅約2メートル護岸の高さ約1メートル弱のU字型のコンクリート製の水路です。
清水川.jpg
(箱森町から柳橋町へと流れる清水川、両岸には水田が残っています)

普段は水深は5センチメートルにもなりません。初夏にはカルガモの親子が歩いて行き来する風景も見られます。
カルガモ1.jpgカルガモ2.jpg
(今もカルガモの親子が散歩する姿が見られる)

その水路が、2015年9月10日の豪雨では、私がここに居を構えて初めて水位が護岸を越えて溢れました。幸い家の対岸は水田が残っている為、水路から溢れた水はそちら側に流出する為、我家には被害は有りませんでした。
2015年9月1.jpg2015年9月2.jpg
(2015年9月10日の豪雨で水田に溢れた清水川)

ですが、今回の台風16号は超大型でこれまでに無い雨や風が発生するとの情報で、事前の対策の必要性が叫ばれていました。我家でも、家の中に飛ばされそうな物は回収、非常食、車のガソリンは満タンに等々、対策を打って台風の通過するまで、家の中で待機していました。
雨が次第に強くなり、清水川の水位も徐々に増してきました。
台風の通過予定は、夜の9時頃から日付けが変わる頃との予報で、テレビニュースが伝える各地の様子を見ながら、万が一の事を色々想定、雨戸は閉めたが2階の出窓が風で飛ばされてきた物でガラスが割れたら、その時はどうするかとか。
夕方を過ぎて次第に辺りが暗くなって、清水川の水位を観察するのが難しくなる。まだ10センチメートルの余裕が、いや、後10センチメートルで溢れてしまう。これ以上水位が上がらない様に願う。水量が増えると共に流れも激しくなって来たように思える。
テレビニュースの台風の現在地が気になる。思う様に進んでいない。まだ伊豆半島あたりだ。
突然テレビの画面が暗くなった。停電に成ってしまいました。すぐに用意した懐中電灯を使う。電気が使えなくなると不安が一層増してくる。こんな状態が何時間も続いたらと不安になる。前回の15号台風で被害に会われ何日も停電の中で過ごした千葉県の被災者の皆さんのご苦労が改めて大変な事で合ったとつくづく思い知らされました。
清水川の水位を雨戸を少し開けて確認する。雨が吹き込んでくる。外はすっかり暗くなって川面がハッキリ確認できない。
停電が解消されたので、テレビニュースで情報収集。栃木市の避難勧告が出ている。ここは土砂災害警戒区域には成っていない。巴波川・永野川流域の浸水想定区域にも指定されていない。4年前も何んとか被災を免れている。このまま家で待機する。
深夜近くなると、風はまだ吹いているが、雨は止んで少し静かになった。注意して外に出て、懐中電灯で家の周りを点検。清水川はすでに溢れて対岸の水田も、我家の脇の青地もすべて川の様にゴウゴウと水が勢いよく流れている。まるで幅40メートルも有る川が出現したように見える。これは4年前の豪雨の時よりも悪い状況に思えた。この状態が更に悪くなるのか、これで収まるのかまだ予断を許さない。

日付けが変わって10月13日、午前1時頃もう一度状況把握に外に出てみた。
清水川はどうなったか。暗闇の中懐中電灯の光の先に、ゴウゴウと波立って流れる景色は変わっていない。
水位は下がっていないが、増加もしていない。雨もあれから降っていないので、これ以上悪くならないだろうと判断した。

気が付いたら朝を向かていた。青空と太陽の光が見えた。すぐさま清水川の様子を見に行く。
対岸の水田は、稲刈りの後で水を蓄えて、まるで田植えを終えた様な風景が広がっています。
水路もすっかり水位を下げていました。ただ濁った水が勢いよく水路の中を流れています。
清水川(今日)2.jpg清水川(今日).jpg
(深夜溢れた清水川も朝には半分ほどに。稲刈り後の田圃はまるで田植え後の様に)

昨夜のニュースで巴波川は小平町で水が溢れ出ている。と言っていた。4年前の豪雨と同じ状況なのか。
又、永野川では下皆川で越流が発生しているとの情報も。
翁島脇を流れる巴波川.jpg沖の橋上流側.jpg
(水が溢れて流出した、小平町翁島付近の今朝の様子、まだ大量に水が流れていました)

今朝のニュースではその状況が更に悪化して。死者が出てしまった所も。永野川の諏訪橋(大平町蔵井)が流失。その他各地で道路が冠水して通行が出来ない所が多発、交通渋滞が起きていると言う。
更に、浄水場が機能停止して、栃木市・大平町の一部で断水が発生しているという情報も出た。

なぜ、こんな被害が、改めて自然の計り知れない力に、脅威を感じるばかり。

栃木の街は昔から毎年のように、洪水の被害に見舞われていました。その様子は栃木市室町の片岡写真館第二代館主、片岡武氏がその命を懸けて記録した多数の写真で知る事が出来ます。
それを昭和26年、栃木街に流れ込んでいた赤津川の流路を変更して、吹上町新田橋付近より南流させ、錦着山北西部にて永野川に落とす赤津川分水路工事が竣工して以降は、以前の様な洪水の発生は無くなったと言います。実際、私が物心付いてから、4年前の大洪水が起きるまで、洪水被害を感じた経験は一度も有りませんでした。
それが僅か4年で再発するとは、正直言って考えられませんでした。
この間、巴波川の上流域には、新しい遊水池も完成して、巴波川の水位が上がった時には、越流堤から遊水池に水を溜める様に対策を進めて来ています。
今朝、これらの遊水池を見て回りましたが、それらの遊水池には水はそれほど溜まっていません。深夜には恐らく満々と水を蓄えていたと思われます。下流側への水の流出量を一時的に減少させる効果は出ていると思われますが、下流側栃木の街は多くの道路が冠水、商店街は軒並み店内に水が流れ込んでしまいました。
第4遊水地.jpg第4遊水地2.jpg
(第4遊水池、中央に越流堤、右が巴波川)    (第4遊水池を上流方向から)
第六遊水地1.jpg第六遊水地2.jpg
(第6遊水池、下流側から)            (第6遊水池、上流側から)

今回の様に長時間雨が降り続けると、こうした洪水は防ぐことが出来ないのか。まだほかに対策する方法は無いのか。素人の私には考えが及びません。


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巴波川に新しい橋が架かりました [栃木市の河川と橋]

先日、久しぶりに巴波川の上流域までウォーキングしました。
ひとつの目的は、巴波川の源流の一つ、川原田町の白地沼の南側、二股沼に整備していた「巴波川第5・第6遊水池」の現状を見てみようと思っていたからです。
そうしたら驚きです、予想もしなかった所で新しい橋が巴波川に架かっているでは有りませんか。
前原橋1(2019年6月).jpg
(川原田町前野を流れる巴波川に新しい橋が架かっています)

この場所は栃木市大町と川原田町との境界近く、巴波川が「川原田東市営住宅」の東側を北から南に流れた後、向きを南西方向に変え、西側を南北に縦断する県道37号(県道栃木粟野線・通称粟野街道)に行く手を塞がれた形となった巴波川の流れは、再び道路から離れ流れを南東方向に変え、街道から離れ南側で大町の「とちぎメディカルセンターとちのき」の東側を南流していく、巴波川と粟野街道とが最接近する所です。
前原橋(2019年6月).jpg前原橋(2017年12月).jpg
(左側に巴波川・右側粟野街道、北側から撮影) (2017年12月撮影のほぼ同地点)

この場所には以前にも、車が通行可能なコンクリート製の桁橋が架けられていましたが、ハッキリした取り付け道路も無い様な所でした。
前原橋上流方向1.jpg前原橋上流方向2.jpg
(新しい橋の高欄に「前原橋」の橋名が)  (以前掛かっていた桁橋。2016年3月撮影)

巴波川流域では現在河川整備が進められてきていますが、この下流側でも昨年(2018年)の8月ごろまでの計画で、堤防・法面保護のための護岸整備工事が行われていました。
前原橋下流方向1.jpg前原橋下流方向2.jpg
(新しい橋の下流側、高欄に「巴波川」の銘板)    (以前の下流側の巴波川の様子)

橋桁には新しい橋銘板が確認できます。
それによると、橋梁自体は今年の3月に完成したようです。ただまだ取り付け道路が整備出来ていない様で、通行出来ない様にロープが張られています。
取り付け道路が整備されることで、この巴波川左岸地域の道路網の環境も改善されていくものと期待されます。
前原橋2(2019年6月).jpg
(新しい橋の橋銘板)



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永野川に架かる二杉橋と睦橋 [栃木市の河川と橋]

現在、栃木市街地の西域を流れる「永野川」に渡された橋梁は、錦着山西側の「上人橋」、下って「高橋」そして「睦橋」、次が県道の太平山公園線の「二杉橋」、そして「大柳橋」の5カ所です。この内明治期初期に発行された地形図の中に記された橋梁は、「睦橋」と「二杉橋」の二橋だけに成ります。
実際は仮橋の様なものが架けられていたか分かりません。明治14年(1881)12月17日付けにて、薗部村戸長の篠木惣吉より第二代栃木県令藤川為親宛てに作成された「下都賀郡薗部村・村誌」には、≪長野川渡セシ橋梁≫として下記の記載が認められます。
  字岩崎
  一、板橋 渡り拾間 横六尺
  字坂下ヨリ錦着山通
  一、板橋 渡り拾間 横六尺
  字藪合ヨリ太平山道
  一、板橋 渡り拾間 横四尺
  字坂下同南栃木町道
  一、板橋 渡り拾弐間 横六尺
これら板橋が架けられた場所が、何処に当たるのかは更に調査したいと思っています。

ここでは明治初期作成された地形図に記載された、先の二橋に付いて筆を進めたいと思います。
先ずは「睦橋」です。
現在の睦橋は、平成9年(1997)3月の橋銘板が付いています。架橋場所は明治初期の地形図上に記された架橋箇所とほぼ同一の場所に成ります。
睦橋1.jpg
(現在の睦橋を上流側より撮影、後方は太平山)
睦橋3.jpg睦橋2.jpg
(睦橋東橋詰より上流側を望む。高橋と右手奥錦着山)  (睦橋高欄のモニュメント)
その前の睦橋は現在の橋より下流側に、迂回する様に架けられていました。そして今回新しい橋に架け替える時に、旧橋を残したまま最初の架橋場所に戻したものと考えます。
睦橋周辺概略図.jpg
(睦橋周辺概略図 ( )内は旧字名です)
睦橋4.jpg
(右のメイン道路の先に現在の睦橋、左側の細い道路の先に旧睦橋が有った)
1988年11月睦橋.jpg
(現在は撤去されているが、旧睦橋。1988年11月撮影)
1997年11月旧睦橋.jpg1997年11月新旧睦橋.jpg
(睦橋の脇、永野川沿いの堤道を走る西中生達)(旧睦橋の奥に新睦橋が写る写真)

次は「二杉橋」です。
二杉橋.jpg
(永野川上流左岸より撮影した二杉橋、西橋詰に大きく変わった鳥居が建っています)
現在の二杉橋は昭和60年(1985)3月に竣功しました。架橋箇所は、県道太平山公園線でも有る為、架け替え前と同一ですが、橋の両側に広い歩道部分を確保し、渡る人や車にやさしい橋に生まれ変わりました。
橋の西詰に道路を跨ぐ様に建てられている、太平山神社の鳥居も通過車両に考慮して一段と大きな鳥居に変更されました。
二杉橋高欄.jpg二杉橋橋脚.jpg
(高欄のデザインは何を表しとものか?)  (現在の二杉橋の橋脚と下部構造)

昭和54年(1979)4月に、以前の二杉橋の所で大勢の釣り人が、永野川に釣り糸を垂れている光景を写真に収めていました。
1979年4月永野川.jpg
(二杉橋と下流側大堰との間で釣り糸を垂れる釣り人達。後方は太平山)
1979年4月二杉橋付近.jpg
(大勢の釣り人の奥に、架け替え前の二杉橋の姿が写っています。)
1979年4月永野川二杉橋.jpg
(二杉橋の橋脚上に陣取って釣る人も。川の上流側奥に錦着山が見える)
二杉橋(1981年撮影).jpg
(1981年に撮影した架け替え前の二杉橋、左端に鳥居が覗くが小さく分かり難い)

現在の橋が架けられ位置は、架け替え前と同じ所ですが、明治初期作成の地形図に記された橋の位置と異なっています。明治初期に架けられた橋の位置は、現在位置より下流側で、橋の取り付け道路も左岸は橋詰に祀られている二杉神社の南側(現在は北側)を通っていた様です。
二杉橋周辺概略図.jpg
(二杉橋周辺概略図、二杉橋を渡って直線状に伸びる道路が、太平新道)
明治の初期にはまだ太平新道は出来ていませんでした。
その当時の二杉橋を渡る道路は、現在の西中学校の北側、そして栃木商業高等学校の南側を東西に走る道路を西に真直ぐに来て永野川の手前で二杉神社の社殿を避ける様に少し南側にカーブして、永野川を渡っていました。
「二杉橋」については、以前(2016年2月13日)にこの「巴波川日記」にて紹介しましたが、その時は架橋の場所が現在と違っていた事に気が付いていませんでしたので、今回追加して紹介しました。

※今回参考にさせて頂いた資料・文献は、
  ・明治前期測量2万分1フランス式彩色地図「栃木」 (財団法人日本地図センター発行)
  ・村誌 下都賀郡薗部村
  ・薗部乃里 (大塚紀子著)
  ・Google マップ
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幸来橋と開運橋と、その親柱に付いて [栃木市の河川と橋]

栃木市内を歩いていると、時に思わぬものを発見する事が有ります。
「え、こんな所にどうして、このような物が!?」と。
栃木市民であれば、巴波川に掛かる「幸来橋」と「開運橋」の名前を知らない人はいないと思います。
どちらも縁起の良い言葉が付られているので、郷土のお酒にもこれらの名前を付けたお酒が有るのか、市内の酒屋さんの看板に「幸来橋」「開運橋」の名前を見る事が有ります。
酒店の看板1.jpg
(栃木市内のお酒屋さんで、見かけた看板)
これらの橋は当然の様にこれまで何度か架け替えられています。
現在の橋は、「幸来橋」(こうらいばし)が平成4年11月(1992)に竣功しています。そしてそれまでの橋は大正14年7月(1925)の竣功でした。それ以前の橋は私が生まれる前の事ですから写真で見ただけですが木橋が架けられていました。
2000年幸来橋.jpg
(現在の「幸来橋」、平成12年撮影)
旧幸来橋親柱2.jpg
(架け替え前の「幸来橋」、平成3年6月撮影)
一方「開運橋」(かいうんばし)は少し新しく平成12年6月(2000)の竣功で、以前の橋は昭和12年4月(1937)の竣功でした。
開運橋.jpg
(現在の「開運橋」、平成25年6月撮影)
1980年頃開運橋.jpg
(架け替え前の「開運橋」、昭和55年撮影。後方に栃木セントラル劇場やウズマコーポが写る)

ところが、これらの架け替え前の橋の親柱が、市内の一般家庭の庭先に、庭石や石灯籠の様な感じで飾られていました。どうしてなのかは私が知る由も有りません。
でも偶然に見つけた時はその姿を、懐かしく感じました。
旧幸来橋親柱1.jpg旧開運橋親柱1.jpg
(旧幸来橋の親柱)                  (旧開運橋の親柱)

こうした架け替え前の親柱を記念に残している所も有ります。私が見つけたものでは、栃木県内では思川に架かる小山市の「観晃橋」の旧親柱のひとつが、祇園城跡公園の南側、現在の橋の北東側橋詰ポケットパークに展示されています。
観晃橋3.jpg旧観晃橋親柱1.jpg
(思川に架かる現在の「観晃橋」)          (橋詰に残る「旧観晃橋」の親柱)
観晃橋1.jpg観晃橋2.jpg
(現在の「観晃橋」の親柱。竣工は平成4年7月)

もう一つ、下野市と真岡市との境、鬼怒川に架かっていた「旧大道泉橋」の親柱のひとつが、今は解体撤去された旧大道泉橋が架かっていた東側橋詰近くに祀られている「石尊神社」境内に、残されています。
旧大道泉橋親柱1.jpg
(旧大道泉橋の親柱が、旧の「大道泉橋架設記念碑」と共に残されています。)

残念な事に最近新しく架けられる橋には、この親柱を持たないものが多くなっています。2007年5月竣工した新しい「大道泉橋」もその例に洩れず、親柱が有りません。親柱は橋のシンボルであると思っているのですが。
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巴波川の遊水池 [栃木市の河川と橋]

今日、久しぶりに巴波川の源流のひとつ、栃木市川原田町の「白地沼」まで歩いて遡って来ました。
「白地沼」はかって「標茅が原(しめじがはら)」という平安時代以来東国の歌枕として、都まで聞こえた名所に位置し、湧水がコンコンと湧いていましたが、現在は全く湧き出る水も無く涸れ沼と化しています。
現在の白地沼.jpg
(現在の白地沼、沼の東側に「標茅が原」の説明板が建てられています)
白地沼(1980年).jpg
(1980年8月に撮影した時の白地沼)
今回歩いて驚いたのですが、この「白地沼」から少し流れた場所に有った「二股沼」が大きく姿を変えようとしているのです。
元々「二股沼」は北側の「白地沼」から流れて来た水と、東側から流れて来た水が合流する場所となります。上記した通り現在「白地沼」は涸れ沼化して殆んど水の流れは見られませんので、この「二股沼」から流れ出ている水の殆んどは東側から流れ込んでいる水と言って良いと思います。
この東側から流れ込む水路の水を遡ると、思川の七ツ石西方に有る「桑原用水堰」から取水していると言う、「桑原用水」にたどり着きます。
この「二股沼」を遊水地とする「遊水地整備工事」が進められているのです。
巴波川第六遊水地造成中.jpg
(二股沼の北側から見た状況、整備工事の看板が立てられています)
桑原用水末流落ち口.jpg
(二股沼の東側から見た状況、桑原用水からの水が流入しています)
巴波川の上流域、栃木環状道路の北側、大町から川原田町に有っては、巴波川も細い灌漑用水路だった為、台風や豪雨時には氾濫する事が多かった様です。特に最近は流域近くに住宅が増え、市街化が進んで来た為、洪水が発生すると家屋への浸水被害も生じる様になっていていました。その為河川を管理する栃木県が「一級河川巴波川 河川改修事業」の一環として「遊水地」の整備を進めて来ている様です。
事業計画は一期区間と二期区間とに分かれて、一期区間は栃木市箱森町北東部から大町北部にかけての巴波川沿いで、既に完了をしていて、下流側から「第一遊水地」、「第二遊水地」、「第三遊水地」が出来ています。
巴波川第一遊水地.jpg
(第1遊水地、北側から撮影)
巴波川第二遊水地下.jpg
(第2遊水地下流側、周囲はフェンスによって囲まれています)
巴波川第二遊水地上.jpg
(第2遊水地上流側、こちらも周囲をフェンスで囲っています)
巴波川第三遊水地.jpg
(第3遊水地、左側の建物は「とちの木病院」、右側が巴波川の河道、中央に越流堤)
現在工事を行っているのは第二期区間、巴波川の最上流域で川原田町、市道114号線(吹上合戦場線)の巴波川に架かる「二股橋」の上流域で東側から流れてくる水路の南側部分が「第6遊水地」、水路の北側部分を「第5遊水地」とする区域の様です。
巴波川第五・第六遊水地造成中.jpg
(手前の橋が「二股橋」、第5・第6遊水地整備工事の真っ最中)
二股橋(2016年3月).jpg
(昨年3月に撮影した「二股橋」、北側に水田が見えます)
この他に「二股橋」の下流側、栃木市営川原田東団地の北北西の位置に、「第4遊水地」が計画されている様ですが、まだ工事は着工されていない様子です。
巴波川第四遊水地予定地.jpg
(第4遊水地の計画地と思われる地点)
これらの河川改修事業が流域の洪水対策となって、安心で安全な生活に寄与していく事になるのでしょう。
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永野川に新しい橋が出来ました。「新千塚橋」 [栃木市の河川と橋]

今日、永野川に新しく架けられた「新千塚橋」を渡って来ました。
新千塚橋4.jpg新千塚橋5.jpg
(開通した「新千塚橋」)                      (「新千塚橋」のネームプレート)
「広報とちぎ」の12月号に、「新千塚橋の開通を祝うテープカット」の写真が掲載されているのを目にして、既に開通している事を知りました。
「新千塚橋」の架橋工事が進んでいる事はずいぶん前から確認をしていました。
P1210426.jpg
(2015年11月29日撮影、下部工事中も「新千塚橋」)
国道293号線が永野川を渡る場所に架かる「尻内橋」の下流側で、その下に架かる「千塚橋」とのほぼ中間点辺りに、この新しい橋は架けられています。
目的は永野川の右岸(西側)に、栃木市が新たに造成を進めている「千塚産業団地」へ、永野川の左岸を川とほぼ並行して走る県道33号線(栃木粕尾線・通称鍋山街道)から進入する為の、まさに玄関口となる橋です。
8月22日に進入路から確認した時、既に橋は欄干も付いて完成している様に見えましたが、まだ通行止めの柵が設けられていました。
新千塚橋2.jpg
(2017年8月22日撮影、まだ通行止めの柵が見える「新千塚橋」)
「広報とちぎ」の記事によると、「新千塚橋」の開通式は「千塚産業団地」の造成工事完成を祝って、10月14日に竣工式と合わせて行われたと、記されていました。
新千塚橋7.jpg
(「新千塚橋」の欄干、すっきりしたアルミ製か?、親柱は無し。)
親柱がない為「橋名」や「河川名」等の表示も有りません。最近は橋名プレートを埋め込んだり、ボルトで固定したものは直ぐに持ち去られてしまうので、表示しないのも仕方ないですが、何故か悲しいです。私としては石やコンクリート製の親柱を立てて、そこに「橋名」などを陰刻すれば取られずに済むと思っているのですが。これは橋好きの私の思いに過ぎませんが。

「新千塚橋」を渡ると、永野川の右岸には西側の山麓までの間、広い造成地が目に飛び込んできました。今はまだ建物は一つも建てられていませんが、数年後には多くの会社が進出して、この「新千塚橋」を多くの車両が行き来する事に成るのでしょう。
新千塚橋6.jpg
(「新千塚橋」の橋上から永野川上流方向を望むと、三峰山(鍋山)の姿が見えました。)
造成地の中に整備された道路を走っていると、広い造成地の中ほどに、大きな木が残って立っています。その木の下に白い石の鳥居が一つ見えます。以前からこの地に祀られていた神社が、移動される事無く「千塚産業団地」内に公園地として残された様です。
新千塚橋9.jpg
(造成地内に昔のまま残された神社)
鳥居に掲げられた石製の神額には「雷電神社」の文字が刻まれています。祠の横には青面金剛像を陽刻した石仏や「大塚邑」の地名の有る「庚申塔」などが祀られています。
新千塚橋10.jpg新千塚橋11.jpg
(雷電神社の神額)          (神社の祠の横に祀られている庚申塔)
この産業団地の建物はきっとこの雷電神社に守られ、雷の被害に遭う事は無いと信じます。
新しい橋が一つ架けられることにより、新しい風景がそこに造られていきます。
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東宇津間川(栃木市)の水路を求めて [栃木市の河川と橋]

栃木郷土史の中に安永七年(1778)三月 下野国都賀郡平柳村 星宮大明神之神主 林和泉守源宣安と記された古文書の内容を紹介して、≪東宇津間川も巴波川も水源地は河原田であって「しらじ沼」より発し、東宇津間川は合戦場南方二ツ橋下より田中坪を経て星宮神社を廻り、杢冷川に合流している。≫と記されています。
東武日光線合戦場駅の北西部、川原田町の北東部「白地沼」にその水源のひとつを持つ、巴波川は白地沼から南流すると、その左岸に合戦場方面より流れて来た桑原用水から分かれて来た流れのひとつが合わさり二股沼を形成します。さらにそこから南流した巴波川は「市営川原田東団地」の東側を迂回するように流れ、前野の南側で川原田地内から分かれ、大町へと流れ込みます。
巴波川分岐水門.jpg
(大町の最北部に造られた分流水門。現在は写真の右側を巴波川本流が流れています)
大町北部に入った巴波川はここで二つの流れに分かれています。南西方向への流れは粟野街道に向かい、新高瀬橋を潜った後粟野街道に沿って南流、栃木環状線の蟹田橋の下を抜けて栃木の市街地へと流れる巴波川本流となります。
一方分岐を南東方向に進む水路は鹿沼街道の二ツ橋の下を抜け、平柳町一丁目へと流れ込みます。
東宇津間川1.jpg二ツ橋.jpg
(分岐水門左側から南東方向への水路) (鹿沼街道に架かる「二ツ橋」の下を流れる)
平柳町一丁目の中央部を縦貫するように一直線に南流、栃木環状線を抜けかつてゴルフ練習場が有った場所から変わった住宅地の西側に沿って南流しています。その南側で平柳町の星宮神社境内の西側に沿って流れ
星宮神社1.jpg星宮神社2.jpg
(星宮神社境内入口左側に細い水路が認められる)(水路脇に建つ「花崗石橋寄付人標」)
その後再び南流をし、新栃木停車場線を抜け住宅街の中を平柳町一丁目の南端へ向かいます。
東宇津間川2.jpg東宇津間川3.jpg
(星宮神社南方住宅街を真直ぐ南流する水路が確認出来ます)
泉町との境界となる道路に沿って東に向きを変え、日ノ出町交差点にて宇都宮街道の下を潜って日ノ出町へと流れ込みます。
東宇津間川4.jpg
(平柳町一丁目と泉町との境界となる道路沿いを暗渠となって日ノ出町交差点方向へ)
東宇津間川5.jpg東宇津間川6.jpg
(日ノ出町の住宅地内を暗渠となって流れる)
町制50年を記念して昭和62年3月31日付にて発行された「日ノ出町史」によると、宇都宮街道と小金井街道とに挟まった場所は、昔は湿地帯で湧水による沼地が幾つも有ったことが記されています。この辺りにも「浅沼」や「深沼」と呼ばれた二つの沼が有ったが、今はどちらも埋め立てられてしまったそうです。私が現地を確認して歩いていた時、居合わせた地元の老人も、この辺りに二つ沼が有った話をしてくれました。
浅沼跡.jpg
(浅沼を埋め立てた跡と思われる児童公園が住宅街の中に残っています。)
その後、小金井街道北側に有る杢冷川の水源となる用水堀に合わさって行きます。
東宇津間川7.jpg東宇津間川8.jpg
(小金井街道北側に残るプールの様に整備された用水堀)
先の「日ノ出町史」に依ればこの所にも「丸沼」「中沼」「足袋沼」という三つの沼が有ったと記されています。現在は用水堀には地下水が汲み上げられて、綺麗な水が貯えられ、大きな鯉が何匹も遊泳しています。

又、小金井街道の南側、現在日ノ出町公民館が建つ場所にも、「三角沼」と呼ばれた沼が有ったと記されています。

こうして巴波川から分かれ、大町北側から平柳町一丁目、日ノ出町と辿って来たこの水路の流れが、先の古文書に記された流れに合致していることから、この巴波川からの分流こそが、東宇津間川であると思われます。
勿論流路は時代の変化に伴い多少変化をしています。特に平柳町一丁目の流域は、昭和4年4月の東武日光線開通もあり、東側の東武日光線の線路と西側日光例幣使街道との間に挟まった地域は昭和の初めに大きく姿を変えています。
大町大杉神社境内南東隅に大きな石碑が建てられています。
耕地整理記念碑(大杉神社境内).jpg碑陰.jpg
(栃木市大宮村耕地整理記念碑)  (碑陰には「紀要」が刻されています)
この石碑の碑陰に刻された「紀要」を読むと、大正15年1月工事着手、昭和7年3月工事完了と記されています。万町交番の所から北に抜ける、「北関門道路」もこの時に完成開通をしています。

開発に伴い流れを変え、暗渠となって私達の視界や記憶から消えて行こうとしていますが、かって平柳村や大杉新田等の水田を潤した東宇津間川の水路は今も雨水や生活排水などを受け入れてます。


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長沼川(栃木市)について [栃木市の河川と橋]

「長沼川」と聞いても、それが栃木市の何処を流れているか、御存じの方は殆ど居ないと思います。知っている方と言えば「市内の河川を管理されている専門の市職員」だけではないでしょうか。私もこの河川の名前を教えて頂いたのは「市役所の河川維持管理の窓口ですから。
「長沼川」は、現在の大町に有る「八幡宮」の西側60メートルの所、県道32号線を北から南に横断するように流れる水路です。
此の所には昔、「栃木の三名水」と称された「八幡水」が湧いていました。(他は杢冷川の水源「杢冷水」と、圓通寺境内の「独鈷水」。)
県道32号線として道路が拡張される以前は、この場所に「八幡橋」と言う橋が架けられていました。
1986年6月八幡橋.jpg
(以前の「八幡橋」、後方奥に写る煙突は「油伝味噌」に有った物、現在両方共無い)
以前はこの湧水池は縦に細長い形をしていた事からか、「長沼」と呼ばれていました。
「栃木市史」史料編近世や、「栃木郷土史」の巻頭写真に、天保七年、天保八年ころに作成された古地図が掲載されていますが、それらの古地図の中に「長沼」が描かれています。そして「長沼」から流出した水路が、現在の嘉右衛門町や小平町を流れ、最終的に巴波川に合流しています。
長沼川1.jpg
(天保8年の古地図を参考に「長沼」周辺の水路を表わしました)
古地図には「長沼」との記載は有りますが、水路には「長沼川」との記載は確認できません。この名称は昭和に成って河川管理を進める上で、管理上からその水路に名付けられたものと考えられます。
以前にも「長沼」に関しては、このブログにて書いていますが、その時には水路の名前はまだ確認出来ていませんでした。
今回「長沼川」として改めてその流路の風景を巡ってみましたので、紹介いたします。
長沼川2.jpg
(県道32号線より南側を望む。この辺がかって長沼の有った所に成ります。)
長沼川3.jpg長沼川4.jpg
(左の写真中央の道路は、栃三小と嘉右衛門町通りを繋ぐ道。正面奥の建物は油伝味噌店の石蔵等です。右側の写真は嘉右衛門町と小平町との境界を流れる「長沼川」)
長沼川5.jpg長沼川6.jpg
(上の左の写真は、以前有った小平保育園の北東部辺りを南流する「長沼川」。右の写真は妙唱寺の西側の墓地の中を貫流する「長沼川」です。)
長沼川7.jpg長沼川8.jpg
(上の左の写真は、妙唱寺墓地の南側「寺内歯科」の西側駐車場辺りを、暗渠化して南流し、住宅地の間を流れて行く「長沼川」。右側は巴波川左岸の翁島の北側のへりに沿って流れる「長沼川」。水路右岸は翁島の茶室に成ります。)
長沼川9.jpg
(最後の写真は、手前の巴波川に長沼川が落ち合う所に成ります。写真左側が翁島です。)
写真を撮っていると、巴波川からカルガモ2羽が、長沼川方向に泳いで行く姿が有りました。
今回辿った所は、長沼川の本流で水路もはっきりと確認が出来ましたが、先の天保七年の「小平柳村川東絵図」には、長沼の南端から水路は二方向に分かれています。今回確認しなかった流れは嘉右衛門町通り(旧日光例幣使街道)のひとつ西側を並行して走る道路に沿ってほぼ南流する様に描かれています。
現在も残るその裏通りには、暗渠化された水路が有り、翁島の東側で巴波川に合流する手前の先の本流にその落ち口を見る事が出来ます。
街の風景は大きく変わりましたが、栃木の街の中を流れる多くの水路は今も江戸の昔の流れを殆んどそのまま残しています。


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蛇行の姿を今に留める旧赤津川(栃木市) [栃木市の河川と橋]

赤津川と言うと、昭和26年に竣工した分水路が出来るまで、幾度となく栃木の街に洪水をもたらした河川として知られた名前でしたが、先の赤津川分水路が開鑿されて、吹上町の新田橋下流部から真直ぐに南の方向に流して、錦着山北西部の泉川町地内にて西方向から流れて来た永野川の左岸に落す事で、栃木の街を洪水の災禍から解放をすることが出来ました。それまで吹上町から野中町、箱森町、小平町を激しく蛇行を繰り返し、巴波川に架かる小平橋の直ぐ下流部で右岸に合流していた以前の河道は、現在も旧赤津川として残っています。
その旧赤津川の河道も、栃木環状線(県道309号線)より北側は、栃木総合運動公園の造成と、その公園の前から環状線との間の区域で行われた「栃木市運動公園前土地区画整理事業」の竣工に伴い、その姿を大きく変えてしまいました。
運動公園前の住宅地を流れる旧赤津川.jpg
(運動公園から真直ぐに南方向に流れている現在の旧赤津川)
しかし、環状線の南側となる箱森町と小平町の区域を流れる「旧赤津川」の河道は、明治19年発行の地形図「迅速測図」に初めて描かれた時の河道とほぼ同じ姿を今に留めています。
国土地理院のホームページにて戦後の昭和22年頃から現在に至るまで撮影された栃木市街地の空中写真を閲覧することが出来ますが、戦後早々に米軍によって撮影された空中写真を見ると、その頃の旧赤津川流域の様子がハッキリと写っています。
現在、栃木外環道路の内側に位置する箱森町や小平町は、殆んどが宅地に変わっていますが、昭和22年の写真を見ると、一面に田んぼが広がり、集落は旧赤津川流域付近に点在をしているだけです。
この地域が住宅地に変化した要因として考えられるのは、県道32号線(栃木粕尾線)が栃木環状線を抜けて、大通りまでの間、従来の細い道路から拡張されて歩道付きの二車線道路に整備された事。更にいまだ完全な形には至っていないものの、この県道32号線から南の方向へ、小平団地を抜ける新道が部分的にでも開通した事で、従来田んぼの中に位置した星宮神社周辺が、全面的に住宅地に変わった事が、この地域から田んぼが消えた大きな要素と考えます。
それだけ大きく変化をしたこの地域に有って、以前からこの地を西に東に大きく蛇行を繰り返して流れていた旧赤津川だけはなぜ、昔の河川の姿を今も殆んど変わることなく現在に至ったのか。
ここまで文書だけでダラダラと説明して来た為、状況把握がもう少し理解して頂けるよう、この地域の河川の姿と周囲の姿を、模式図に表わしてみました。
旧赤津川流域模式図.jpg模式図の凡例.jpg
(箱森町・小平町を流れる旧赤津川とその周辺を模式図に描いた物)

模式図の右側部分上から下に向かって、荒川を合わせた巴波川が流れています。その他にこの箱森町から南の小平町にかけては、幾筋もの小さな水路が南流していますが、その中で大きくその流路を左右に蛇行させている河川が、旧赤津川です。
旧赤津川は模式図の左上「栃木環状線」と「県道32号線」が交差する「箱森町交差点」の東側、メンズプラザアオキ栃木店とユニクロ栃木店の間付近で、栃木環状線の下を潜って、南側に移ります。
環状線の下を抜ける旧赤津川.jpg
(栃木環状線の北側、メンズプラザアオキ栃木店の東側で暗渠化して道路を横断する)
そこから、近くの「はこのもり保育園」の西側を回り込む様にして流れて、県道32号線に沿って1本裏の道路沿いを東南東方向に流れています。
とちぎコミュニティープラザ.jpgはこのもり保育園.jpg
(旧赤津川左岸の建物は「はこのもり保育園」に併設されてる「とちぎコミュニテープラザ」)
がってん寿司栃木店やモスバーガー栃木店の北側を流れ、その先で県道32号線の下に潜り南側に流れを移していきます。
深町橋跡辺り.jpg
(モスバーガー栃木店の北側を流れる、旧赤津川の流れ)
以前は現在の河道より南側迄流れて来ていましたが、32号線の拡張工事に伴い現在の位置に変わりました。
深町橋(1991年)付近.jpg
(私が1991年に撮影した現在のモスバーガ栃木店の南側付近に有った深町橋)

現在、拡張された県道32号線の下を潜る場所に橋らしい構造物は有りませんが、以前はこのところに「赤津川橋」と称する橋が架かっていました。しかし今この場所で昔の名残を留めてるのは、橋の北側に建つ長い板塀に囲まれた旧家だけに成りました。
現在の赤津川橋辺り.jpg1980年赤津川橋 周辺.jpg
(暗渠化され県道の下を潜る旧赤津川)(1980年に撮影した赤津川橋、後方の家は今も変わらない)
旧赤津川は県道の南側に移ると、新しく開発された住宅地の中を160メートル程南流して、星宮神社の西側で又90度流れを変え西方向に180メートル程流れて行き、再度流れを南に変えています。
星宮神社北西部付近.jpg
(星宮神社北西部の新しい住宅地の入口付近から、流れを西に変えた旧赤津川)
新しい住宅地から西に流れるとこの辺では少なくなった田んぼの中を流れて行きます。
小平町入口付近.jpg
(旧赤津川の両側には収穫期を迎えた田んぼ、川岸にはヒハンバナが咲いています)
この辺りが旧赤津川の蛇行が一番西側に寄った所で、橋の東側に「小平町入口」の表示板が建てられています。橋の西側には、明治30年(1897)に敷設され、昭和5年(1930)にそのルートを変更する迄、鍋山人車鉄道が通っていた、旧鍋山街道が走っています。
旧鍋山街道脇を流れる旧赤津川.jpg
(旧鍋山街道の東側に沿って流れる旧赤津川)
旧鍋山街道によって行く手を阻まれた流れは、道路に沿って40メートル程流れ、又住宅の裏手に姿を消していきます。
地形図を見ると旧赤津川の流れは、ハウディーズカフェの東側付近で大きく方向を東北東に変え、旧小平団地の北側付近で新しく通った道路の所に、姿を現します。
新道付近1.jpg新道付近2.jpg
(旧小平団地を南北に縦断して開通した新道から見える旧赤津川)(補強整備された護岸)
旧赤津川の大蛇行はこの新道付近で又流れる方向を南東から南へと変えて行きます。今から2年前に発生した豪雨による洪水は、赤津川分水路が昭和26年(1951)に竣工して以降、60年以上経過した現在に昔の悪夢をよみがえられました。この地域の被害も大きなものに成りました。恐らくこの地域には旧赤津川上流からだけでなく、東側を流れている巴波川からの逆流も激しかったのではないかと考えられます。
若葉幼稚園付近.jpg
(U字状に蛇行する旧赤津川が、一番南の端となる場所に有る若葉幼稚園付近)
小平町の住宅地を南流して来た、旧赤津川は若葉幼稚園付近で又大きく蛇行して向きを北に変え、その後東側を南流している巴波川の右岸に合流して行きます。
巴波川合流点.jpg小平橋.jpg
(旧赤津川と巴波川との合流点) (合流点の直ぐ上流部に架かる、巴波川の小平橋)
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