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栃木市の煙突のある風景(その2) [懐かしい写真]

2月5日に「栃木市の煙突のある風景」として、国土地理院発行2万5千分の1地形図「栃木」の中で、煙突の地図記号の有る風景を中心に、手持ちの写真を探して紹介しました。今回は「その2」として、地形図「下野大柿」「小金井」「下野藤岡」にまたがる、栃木市の範囲についても、「煙突」の記号を探してみました。
「下野大柿」の地形図を眺めてみると、昭和46年発行地図に1ヶ所煙突記号が見つかりました。栃木市西方町元、市立西方小学校の西方に有る、地酒「杉並木」の名前で良く知られている、創業文化八年(1811)と言う老舗の「飯沼銘醸株式会社」になります。(栃木市内では一番古い酒蔵のようです)
昭和52年発行地図には、煙突記号が2個記されていますが、平成元年発行地図では又、1個に戻っています。「下野大柿」の最新地図は、平成15年(2003)発行になりますが、まだ煙突記号は有りました。私が2011年3月に撮影した写真にも、立派な煙突が1本建っています。しかし現在はこの煙突も撤去されてしまった様です。
2011年3月飯沼酒造4.jpg2011年3月飯沼酒造1.jpg
(2011年3月に撮影した西方町元、飯沼銘醸(株)の煙突。現在は無くなりました。)

この「下野大柿」の地形図には、昭和52年発行から別に1ヶ所煙突記号が増えています。東北自動車道と北関東自動車道が合流する「栃木都賀ジャンクション」の東側、県道37号(栃木粟野線)の道路沿いに有ります。「多喜水」と言う日本酒を造っていた元の三和酒造の煙突になります。現在は廃業して名前も変わってしまっていますが、今もコンクリート製の煙突が建っています。
都賀町の煙突2.jpg都賀町の煙突1.jpg
(栃木市都賀町木の粟野街道沿いに建っている、元三和酒造の煙突)

平成元年発行の「下野大柿」の地形図には新たに1ヶ所が追加となり、3ヶ所となりました。増えたのは梓町のゴミ焼却施設、現在の「とちぎクリーンプラザ」の煙突です。現在の施設は平成十五年(2003)に完成した建物です。(煙突もすっかりイメージが変わりました)
栃木クリーンプラザ1.jpg
(栃木市梓町、国道293号沿いに建つ「とちぎクリーンプラザ」の煙突)

昭和55年発行の「小金井」の地形図、栃木市区域に煙突記号が2ヶ所見つかりました。一つは樋ノ口町の県道31号(栃木小山線)沿いに有った会社、フドー(株)栃木工場の煙突です。現在はこの工場も煙突も無くなりました。
1999年2月フドー化学(樋の口町).jpg
(1999年2月に撮影した、小山街道沿いのフドー(株)栃木工場の煙突)
もう一つは国府町の会社、不二ラテックス(株)の煙突です。ただこちらは平成九年発行の地形図では、無くなっています。私もこの会社の煙突は撮影していませんでした。

他に栃木市内では、地形図に記載されていない煙突も有りました。たまたま私の写した写真に残っていた煙突は、大平町下皆川の「黒龍」と言う日本酒を造っていた、創業明治元年の大平酒造(株)の煙突になります。
1974年3月大平酒造.jpg
(1974年3月撮影、栃木市大平町下皆川の大平酒造(株)の煙突)
手前の火の見櫓を撮影したものですが、背景に写っている煙突がそうです。
この煙突は現在も残っていましたので、先日行って撮影をして来ました。
大平酒造1.jpg大平酒造3.jpg
(大平酒造(株)店舗前にて撮影)        (咲き出した梅の花、背景の煙突)
大平酒造2.jpg
(大平町下皆川、臼井産婦人科駐車場付近から望む、大平酒造の煙突)

そして、現在は無くなってしまいましたが、藤岡町藤岡に有った岩崎醤油(株)の煙突です。私が写真を撮ったのは2014年3月ですから、今から2年前です。今回再確認に出かけましたが、すでに無くなっておりました。
2014年3月岩崎醤油(藤岡町)1.jpg2014年3月岩崎醤油(藤岡町)2.jpg
(栃木市藤岡町藤岡、県道9号線沿いの岩崎醤油(株)の煙突。現在は有りません)

栃木市では有りませんが、「小金井」の地形図に煙突記号の有る、小山市小薬の若駒酒造(株)です。こちらは創業が万延元年(1860)という事で、小山市の酒蔵で一番古いそうです。
2013年11月若駒酒造(小薬)2.jpg2013年11月若駒酒造(小薬)1.jpg
(2013年11月撮影、小山市小薬東端、県道296号より望む若駒酒造(株)の煙突)

こうして見て見ますと、煙突は酒蔵や味噌・醤油などの醸造業に多く見られることが分かります。そして酒蔵などは、西方町・都賀町・大平町・旧栃木市などそれぞれの地域に存在をしていることにも、興味を感じます。私は日本酒は殆ど飲みませんが、それでもお正月やお祝いの席では欠かせない飲み物で、最近では海外でも日本酒が注目されている話も聞きます。
それでもこうした煙突は次第に消えていく運命に有るのかも知れません。

栃木市の煙突のある風景 [懐かしい写真]

煙突の有る風景、最近は少なくなりました。旧栃木市内を歩いて今も見る事が出来るのは、嘉右衛門町のヤマサ味噌工場と小平町の益子醤油工場位になりました。
栃木の煙突1.jpg栃木の煙突2.jpg
(ヤマサ味噌の煙突、南側直近から)(旧日光例幣使街道、大町からヤマサ味噌の煙突を)
栃木の煙突3.jpg栃木の煙突4.jpg
(益子醤油の煙突、東側直近より) (我家の庭から見える益子醤油の煙突)

平成25年8月1日国土地理院発行の最新の2万5千分の1地形図「栃木」を確認すると、「煙突」の地図記号が記されている所は、以下の5ヶ所です。
①大平町富田の日立アプライアンス。
②祝町の星野酒造。(現在は有りません、今はヨークベニマル栃木祝町店となっています。)
③小平町の益子醤油工場。(前出)
④嘉右衛門町のヤマサ味噌工場。(前出。但し地図に記されている位置は油伝味噌付近)
⑤岩舟町三谷の南部清掃工場。(現在は撤去されて更地、最近栃木市の新たな斎場を建設する場所として発表されました。)
栃木の煙突5.jpg栃木の煙突6.jpg
(祝町に有った、星野酒造の煙突。今は全て無くなってしまいました。昭和53年撮影)

地形図「栃木」に初めて煙突の地図記号が記されたのは、昭和40年3月25日発行の地形図からで、そこに記されたのは、以下の4ヶ所になります。
①大平町富田の日立製作所栃木工場(現在の日立アプライアンスです。)
②平井町の栃木市斎場(現在の施設は昭和54年の供用開始と有りますのでそれ以前)
③箱森町東部のゴミ焼却場
④旭町の栃木刑務所
栃木の煙突13.jpg
(1978年5月撮影、元栃木刑務所の煙突)

平成元年7月1日発行の地形図「栃木」にては、煙突の地図記号が8ヶ所となり現在までで、一番記載数が多かった時期で、実際に栃木市内の煙突が一番多かった時期と考えられます。
①大平町富田の日立製作所栃木工場(前出)
②祝町の星野酒造。(前出)
③小平町の益子醤油工場。(前出)
④嘉右衛門町のヤマサ味噌工場。(前出)
⑤平井町のヤマサ味噌工場(平成15年発行地形図からは消えています。)
⑥城内町二丁目の栃木市衛生センター(平成15年発行地形図からは消えています。)
⑦平柳町一丁目の工場(詳細不明、平成9年発行地形図から消えています。)
⑧岩舟町三谷の南部清掃工場。(前出)
栃木の煙突10.jpg
(平井町のヤマサ味噌工場の煙突が見える。現在は有りません)

地形図には記載されたことが有りませんが、私がかって撮影した写真の中に煙突が写っている物が有りました。それは、以前の栃木市役所(入舟町)と、以前の栃木郵便局(万町)です。
栃木の煙突7.jpg栃木の煙突8.jpg
(元の栃木市役所の煙突。西側の旧栃木市公民館は現在駐車場です。昭和38年撮影)
栃木の煙突11.jpg栃木の煙突12.jpg
(旧市役所に残る煙突、近い将来取り壊される。)
栃木の煙突9.jpg
(元万町交番の隣りに有った栃木郵便局にも煙突が有りました。昭和39年撮影)

もっと身近な煙突と言うと、銭湯の煙突なども有りますが、栃木市内では銭湯自体が殆んど消えてしまいました。でもこれらの煙突は地図には表示されません。地図に記される条件は、それほどハッキリした規定は無く、ただ「特に大きなもので好目標となるものを表示している。」様です。現在残っている煙突も、近い将来取り壊されて無くなって行くのでしょう。

昔、栃木旧県庁堀でハクチョウを飼っていた? [懐かしい写真]

私が初めてハクチョウの写真を撮ったのは、今から50年前になります。
白鳥1.jpg白鳥4.jpg
撮影をした場所は、栃木市入舟町の旧栃木県庁堀でした。堀の南西部に架かる「鶉橋」の脇、丁度昔の栃木市図書館の裏手(南側)に木の柵が造られていました。その場所からハクチョウが堀に下りられるように、スロープが有りました。
白鳥2.jpg白鳥3.jpg

その後、私のアルバムにハクチョウが現れるのは、1978年1月4日でした。この日は前日に栃木市にも雪が降ったので、雪化粧をした栃木の街並をカメラに収めようと1日街中を撮り回りました。その中に巴波川の「幸来橋」と下流の「巴波川橋」との間辺りで、二羽のハクチョウが泳ぐ姿が有りました。
1978年1月4日雪の栃木1.jpg1978年1月4日雪の栃木2.jpg
そして、その年の夏に同じ場所で、たった一羽で泳ぐ姿をカメラに収めています。
白鳥6.jpg白鳥7.jpg
手前に写っているのは、今はもうなくなってしまいましたが、巴波川の水位を確認する水位計です。

最後にハクチョウを撮影したのは1981年の夏、旧県庁堀の南東側、旧栃木町庁舎の横、「御幸橋」「学橋」「栃木橋」の三つの橋に囲まれた県庁堀と巴波川との間を舟が通る為に造られた漕渠との合流点です。ハクチョウを見に良く子供連れの市民が訪れているのを、記憶しています。
現在は「河骨」が群生し夏には川面の小さな黄色い花を付けています。
河骨1.jpg河骨2.jpg白鳥5.jpg
「河骨(コウホネ)」と言えば、「女人平家」や「安宅家の人々」の作品で有名な作家「吉屋信子」が、「ふるさとを思う心は」として寄せた「野州百話」の巻頭文の中で、少女時代を過ごした栃木町の思い出を語っています。
≪栃木というと、レンゲの花のじゅうたん、巴波川に浮かぶカワフネの黄色いかわいらしい花、野州の春は柴らしかった。≫と。
今、巴波川には河骨は見かけません。





栃木西中学校の思い出 [懐かしい写真]

今年の4月に中学校を卒業して50年ぶりに同窓会に参加をしました。半世紀の時の流れにも関わらず、どの顔も昔の面影が残っていて、懐かしい昔話に花を咲かせました。
今から50年前の栃木西中学校は、栃木市街地からは外れ、学校の南には田圃が広がっていました。私は旧鍋山街道沿いに住んでいた為、通学距離は約2.2kmとクラスの中では遠い方でした。
毎日柳橋町の日限富士浅間神社の脇を通り、田圃の中の道を抜け、栃女高の脇を通って、一人歩いて通っていました。今はすっかり変わって、田圃は住宅地に成ってしまいました。
1965年3月西中全景2.jpg柳橋町にて日光連山を望む(昭和40年10月).jpg
(学校の南側は田圃が広がっていました)(3年間通った通学路、柳橋町西部は一面田圃)
私が通た小学校は、その当時栃木市内の小学校としては、一番新しかった。木造の校舎から最新の鉄筋コンクリート3階建ての校舎、しかも水洗トイレでした。ところが中学校に進学して入った校舎は、木造2階建て、トイレは南校舎と北校舎との間渡り廊下途中に有った昔ながらの造りでした。
栃木西中学校の前身は、昭和22年5月5日に開校した「栃木第二中学校」。当初、栃木第二小学校の南舎の18教室を借用して授業を行ていた。現在の地に新校舎を建設移転したのは、昭和25年8月でした。校名を栃木市立栃木西中学校と変更したのは、昭和25年4月1日でした。今考えれば、そんなに老朽化した校舎では無かったのでした。
中学校3年間の思い出は、驚くほど有りません。クラブ活動も多分「社会クラブ?」だったと思います。ところが3年生に成った年、どうした事か学校の方針が変わったのか、全員運動クラブに所属しなければならなくなりました。私はもともと運動音痴で、大の苦手部門。色々と悩んだ上、クラスメイトが部長をしていた「剣道部」に入部しました。たちまち足の裏などに豆が出来それがつぶれて痛い思いをした。当然大会に出ても勝てる訳は有りませんでした。
1965年9月運動会1.jpg1965年9月運動会3.jpg
(運動会の風景)           (各クラブのデモンストレーション)
部長はさすがに強く、下都賀地区大会でも個人優勝をしていたと思う。得意技「籠手抜き面」は面白いほど良く決まっていました。
1965年9月剣道部1.jpg
(剣道クラブの記念写真)
卒業後は殆ど中学校の事は関心が無くなりました。
その学校に又関わる事になったのは、自分の子供達が通うようになった為です。その時はすでに校舎は以前の木造では無く、立派な4階建ての鉄筋コンクリート製の校舎に替わっていました。
西中運動会.jpg西中運動会1.jpg
(新校舎は鉄筋4階建てになった)    (校歌の歌詞にも有る太平山もまじかに)
トマトウーマン.jpgトマトマン.jpg
(トマトマン&トマトウーマンの登場)
同じ中学校で、私の子供達もそれぞれの経験を積んでいました。きっと彼らも良い思い出を作る事が出来たものと信じています。
先日栃西中の写真を撮って来ました。野球部のボンネットの裏から校舎が良く見えました。
栃西中新校舎.jpg
(学校の南側は住宅が建ち、校舎が望める唯一のポイント)


栃木秋まつりの思い出 [懐かしい写真]

栃木市の秋祭りと言うと、豪華絢爛な人形山車が思い出されますが、現在この人形山車が引き出されるのは、隔年となっていて残念ですが今年は出ない年に当たります。しかし以前は5年に1度しか出ませんでした。人形山車が出ない年も、仮葬パレードやお囃子パレード、などの催しが行われました。
そんな秋祭りに一つの思い出が有ります。私が高校に通っていた時ですから、かなり昔の事に成ります。旭町の神明宮の境内にて、秋祭り協賛「素人のど自慢大会」が行われました。そののど自慢大会にクラスメイトが出場すると言うので、皆で応援しようと出かけて行き、クラスメイトの出番に舞台下から大声援を送りました。選曲した歌はその当時人気が有った、舟木一夫の「高校三年生」。制服だった黒の詰襟学生服姿で歌った。
1968年秋祭り素人のど自慢大会1.jpg1968年秋祭り素人のど自慢大会2.jpg
出場者は小さい子供からお年寄りまでいましたが、応援団は私達が断然盛り上がっていました。もちろんクラスメイトの歌も上手かったけれど。審査員の先生方も真剣に審査され、最後いよいよ結果発表となります。
下位から順に発表が有りますが、クラスメートの名前が呼ばれません。4位まで来た後何故か今度は1位の発表に成りましたがそれも無く、2位でも無く、いよいよ最後の最後3位で待ちに待った名前が呼ばれました。これに大喜びをしたのは舞台の上の当人では無く、応援団の方です。4位の商品も意外と沢山有って、舞台下の我々が分け合って持ち帰る事に成りました。
1968年秋祭り素人のど自慢大会3.jpg1968年秋祭り素人のど自慢大会4.jpg
秋祭りの時期になると、その時のことがいつも思い出されます。若い頃の楽しい思い出です。

1年続きました [懐かしい写真]

丁度昨年の今日、このブログ「巴波川日記」を書き始めました。何も分からないままのスタートでしたが、栃木市の身近なテーマについて、思いつくままに書いて来ました。その中で私が中学の頃からの趣味で、撮り集めた栃木近辺の風景写真を、懐かしい風景として紹介して来ましたが、1年間で殆んど使い切りました。以前は24枚撮りや36枚撮りのフィルムを買って、撮影すると写真店でフィルムを現像して、印画紙に焼き付けて貰わないと、写真として見られません。現在ではデジタルカメラで何十枚・何百枚も撮影して、パソコンのハードディスクやコンパクトディスク等に簡単に保存して、又表示して観賞する事が出来、ありがたい事に殆んどお金が掛からなくなりました。これからも身の回りの風景を撮って行きたいと思ています。今、何気なく撮った風景が、10年後、20年後変わっているかも知れません。
1枚の写真で表現できるのは1ヶ所の事象です。それは私の場合、橋であったり、神社仏閣であったり、石碑や石仏であったりします。そして1枚の写真では、撮影したその瞬間の現実しか表現できません。そこに時間の流れや、時代の変化を見る為に、写真の場合「定点撮影」と言う手段を使い、同じ場所で時間・年代を変えて撮影した、2枚・3枚と言う複数の写真で、時の流れを表現します。
そういう事で、2年目開始の今日は10代の頃のホームグランドの様な、錦着山周辺の写真で、時間の流れを感じて頂きたいと思います。栃木工業高校に通学していましたので、錦着山の横を毎日歩いて通っていました。その頃永野川に架かる「上人橋」が、台風の為流失し通行が出来なくなった事があり、下流の「高橋」を一時渡っていた事も思い出されます。

最初の写真は、錦着山の上から筑波山方向を撮影したものです。1966年3月に撮影したものです。そして対比写真として2014年11月撮影の写真を添付しました。
筑波山遠望1.jpg
筑波山遠望2.jpg
次の写真も同じく錦着山の上から東方向を撮影した、1968年の写真と2014年11月の写真です。
錦着山より2.jpg
錦着山より1.jpg
次の写真は、以前栃木市の流れるプールが有った、永野川右岸の風景で、1966年4月のプールが出来る前の写真と、1015年3月の比較写真です。
水道山2.jpg水道山1.jpg
2015年水道山.jpg
どの写真も約50年と言う時間の流れの中で、住宅地が広がっている事が見て取れます。その一方市街地の中心部では次第に空き地が増加して来ている事を私達は感じています。
これから50年間後、栃木市の姿がどのように変わって行くのか?私自身でそれを見る事は出来ませんが、明るい未来が来ることを思い描きたいと思います。

栃木市旭町神明宮の思い出 [懐かしい写真]

私の子供の頃、遊び場と言うと、通っていた第二小の校庭、日限の浅間さんとその周辺の田圃や清水川。少し足を伸ばして巾着さんから永野川の河原。町場の方では神明さん。第二公園の瓢箪池の周りや、神明宮裏手の児童公園。そこには滑り台や鉄棒、ブランコなどの遊具が有った。売店が有って、もんじゃ焼きも出来たが、子供の頃は小遣い銭なんか滅多に持っていなかった。ただただ同じクラスの仲間と公園の中を駆けずり回って時間を潰した。
そんな神明宮の裏手、北東側に有った公園は、湧水が有ったのか神社の境内との間に川が有った。川に粗末な板橋が渡されて、その先に稲荷神社が祀られていた。
神明宮の稲荷1.jpg
稲荷神社は少し小高くなっていて、その周りで良く遊んだ。神社の拝殿前には小さな白狐の置物が奉納されて、所狭しと並んでいました。
神明宮の稲荷2.jpg神明宮の稲荷3.jpg
現在神明宮の裏手もすっかり変わっています。公園も売店も無く、整備されてせせらぎ公園の様になっています。
神明宮の稲荷6.jpg
稲荷神社は表参道の左側に移され、瓦葺だった屋根も現在は銅板葺に葺き替えられています。今も奉納された沢山の白狐の置物並んでいます。
神明宮の稲荷4.jpg神明宮の稲荷5.jpg

昭和50年代の栃木市 [懐かしい写真]

私の古い写真も、残り少なくなってきました。今回は昭和50年代の巴波川とその分流に架かる橋の有る風景を中心に紹介します。
現在の新生栃木市の人口は、約16万人ですが、昭和50年以降に生まれた人は約40%を占めるまでになっています。今回紹介する風景を知らない人も多くなってきました。

栃木駅近くに有った「イトーヨーカドー」、いつの間にか無くなっていました。そして写真の手前に橋の高欄が写っています。親柱に「とちのきはし」と刻まれています。現在は道路も広がり、橋も暗渠化されて姿を消しています。
昭和55年とちの木橋.jpg1980年とちのき橋.jpg駅前西中通り.jpg
室町の元下都賀郡役場跡に作られた公園と瀬戸ヶ原公園との間、巴波川に架けられた「公園橋」、この橋もいつの間にか立派な二連橋の架け替えられていました。現在の「公園橋」がいつ竣工したものか、橋の銘板が見当たらないため分かっていません。市役所の公園管理部署に問い合わせれば分かるのでしょうが、まだそこまでは追及しておりません。
昭和55年公園橋.jpg公園橋2015.jpg
そして、瀬戸ヶ原公園と西側の富士見町の間に架けられた「瀬戸河原橋」も幅が広くなっていました。
昭和55年瀬戸ヶ原橋.jpg瀬戸ヶ原橋2015.jpg
下を流れるのは直ぐ上流側の堰から巴波川の水を分流している、通称「九十九曲り用水」で、下流の沼和田町や大平町の牛久・川連・土与の一帯の農業用水となっています。
次の写真も同じ九十九曲り用水に架けられた「新開橋」から、下流側を写したものです。左岸(左側)に栃木カトリック教会が見えます。用水掘りは新開橋の下流部で又、分流されています。
右側は「富士見橋」に向かって流れ、左側の流れは教会の南を流れ、旧日光例幣使街道の脇を流れ、更に南流して栃木駅の南、上牛久方面に流れています。最初の「とちのきはし」も、この用水堀に架かったものでした。
昭和55年新開橋下流.jpg新開橋下流2015.jpg
この「新開橋」の東側橋詰の石碑が1基建っています。正面に「新開橋架橋記念碑」と刻されております。裏面に「工事費之内寄附者連名」と題して多くの方の名前が記されています。「昭和5年5月18日建之」と有ります。現在の「新開橋」の竣功年は昭和33年3月となっていますので、この記念碑は以前に架けられていた木橋の物と思われます。こうして「記念碑」を建立したのは、架橋に於ける近隣住民の多くの願望が有った物と想像されます。
新開橋.jpg新開橋1.jpg新開橋2.jpg

次は、みつわ通りの巴波川に架かる「相生橋」です。写真は昭和55年頃撮影したものです。正面奥に「イトーヨーカドー」の鳩の看板が見えます。みつわ通りにも多くのお店の看板が見えます。人の往来もまだ多かったです。現在は、看板も歩行者も無く寂しく感じます。
昭和55年相生橋.jpg相生橋2015.jpg
この「相生橋」を上流側から移した写真も有りました。同じ時に撮ったものです。写真左隅に見えるのが「相生橋」、その背後に「いせや」の建物も写っていました。巴波川はこの場所で又、分流されて右側に真直ぐ流れていくのが、「沼和田用水」です。そして写真右隅に見える橋が「境橋」です。昔は巴波川や県庁掘りに白鳥が泳いでいるのが見られました。
巴波川分岐1980.jpg巴波川分岐2012.jpg
ちなみに現在の「相生橋」は昭和9年9月の竣功と有ります。高欄の親柱の側面に陰刻されています。橋の北東側橋詰に有る「片岡写真館」は創業明治二年で、栃木県最初の写真館です。最近立て替えられた建物は、明治期の栃木警察署を模したものだそうです。
相生橋親柱0.jpg相生橋親柱1.jpg
一方、「境橋」の竣功は昭和4年1月と、こちらは親柱正面に大きく陽刻されておりました。「境橋」の橋名プレートは新しく付け替えられています。
境橋.jpg境橋親柱.jpg
最後は、「境橋」の下流、大通り(通称南関門通り)に架かっている「片柳橋」です。この橋の高欄も新しい物に変わっていました。昭和55年頃に撮影した時は、橋の銘板が外され橋名が分かりませんでした。現在は新しい高欄に「片柳橋」と「沼和田用水」のプレートが取り付けられています。
昭和55年片柳橋.jpg片柳橋2015.jpg
1979年4月片柳橋1.jpg片柳橋2013.jpg旧片柳橋.jpg片柳橋名板.jpg2000年2月片柳橋2.jpg


栃木市 昭和40年代、覚えていますかこの風景② [懐かしい写真]

これまでも、何回かご紹介した栃木市の昭和40年代から50年代の懐かしい風景について、今回又古いフィルムから探し出しました。覚えていますか、以前はこんな風景でした。
昭和44年富士見町川柳行灯.jpg新開橋上流2013.jpg
上の写真は昭和44年新開橋の上より上流側を撮影したものです。8月湊町巴波川の百八灯流しの頃、富士見町は川岸に川柳行燈を立てて七夕祭りを盛り上げていました。
昭和40年幸来橋.jpg幸来橋2013.jpg
上の写真は昭和41年8月の幸来橋です。橋の西詰に「二荒山神社」の祭礼提灯が架かっています。又、この時の橋は、大正十四年(1925)竣工の古い橋です。現在の橋は1992年11月竣工したものです。
幸来橋掛替工事1992年4月.jpg幸来橋完成記念1992年11月.jpg
幸来橋掛替工事の最中、巴波川の川底から昔の木の幹が掘り出されて話題になりました。そしてその年の11月無事に橋の渡り初めの記念式典が開催されました。
昭和49年栃木駅1番線ホーム.jpg2011年栃木駅ホーム.jpg
上の写真は昭和49年撮影の両毛線小山方面ホームです。以前の駅舎の内側になります。駅舎の外観の移り変わりについては、2014年11月9日にこのブログにて紹介しました。
昭和50年栃木駅東武線ホーム.jpg2014年栃木駅から太平山を望む.jpg
(昭和50年栃木駅東武線ホームの写真です)
昭和50年栃木駅ホーム.jpg
(同じく昭和50年両毛線ホームから東武線ホームを撮影しました)
昭和41年神明宮.jpg神明宮2015.jpg
上の写真は昭和41年撮影の栃木町の総鎮守神明宮の写真です。社殿はそのままですが、社殿脇の桜の木が大きく成長しています。この4月2日に訪れた時は、丁度桜が満開になっていました。
昭和41年郡役所.jpg郡役所跡2015.jpg
最後の写真はやはり昭和41年撮影の巴波川と下都賀郡役場の風景です。郡役所跡は現在室町駐車場に成っています。巴波川はここで流れを大きく変え、南向きから東東向きに変わり、ここで又堰に依り流れを二つに分岐します。手前に流れてくるのが、沼和田用水です。この沼和田用水に架けられている橋が、「境橋」(みつわ通り)と「片柳橋」(南関門通り)です。一方堰を越えて落ちて沼和田用水の北側を流れるのが、巴波川の本流です。この巴波川本流に架かる橋が、「相生橋」(みつわ通り)と「関門橋」(南関門通り)になります。

栃木市旭町に有った栃木刑務所 [懐かしい写真]

栃木市の大通り、神明宮参道入口角に有る「とちぎ蔵の街観光館」に入った時に、「栃木市鳥瞰図」と題したB2版の大きな絵地図が掲示されていた。
栃木市観光協会が昭和26年9月1日に、市制15周年記念と称して発行したもので、著作者は栃木県下都賀郡赤津村原宿の加藤周一氏、地図好きの私としては、早々に購入して自分が生まれた頃の栃木市の様子を眺めては、一人懐かしんでいる。見れば見るほど本当に良く当時の様子が表現されていると、感心するばかりです。
栃木市鳥瞰図(昭和26年10月発行).jpg
(栃木市観光協会発行、栃木市鳥瞰図)
この鳥瞰図には、今では無くなってしまった建物が沢山描かれています。
その一つが、旭町の定願寺裏手に有った「栃木刑務所」です。
描かれている絵を見ると、周囲には高い塀と堀が廻らされています。この堀は杢冷川が利用されています。刑務所の北側を通る道路に架かる「旭橋」、(以前は東雲橋と言った。江戸時代はこの場所に栃木町の東側の木戸が設けられていた。現在「東雲橋」と呼ぶ橋は同じ杢冷川の権現山通りに架かっています。)その脇に刑務所に入る正門が有りました。
栃木市鳥瞰図旭町付近抜粋.jpg
(栃木市鳥瞰図より旭町近辺を抜粋)
私が昭和53年(1978)5月に周辺を撮影した写真が有ります。その当時は私も若かったので、刑務所の正面入口を撮影するのは、何故か憚れましたので撮っていません。
1978年5月栃木刑務所3.jpg1978年5月栃木刑務所1.jpg
(北側道路沿いに設置された看板、背後が刑務所)(東側の堀となった杢冷川)
1978年5月栃木刑務所0.jpg1978年5月栃木刑務所2.jpg
(周囲を廻る大谷石の高い塀、鳥瞰図に見える煙突も有る)

栃木刑務所の歴史を紐解くと、創始は明治5年5月栃木県庁に聴訴局なるものを設け、獄務を統括し栃木と宇都宮に栃木囚獄、宇都宮囚獄と称しそれぞれに懲役場を設置した。栃木囚獄は明治5年10月10日、栃木県下都賀郡薗部村に懲役場されました。
明治10年10月栃木薗部村懲役場を廃止し、監獄署を栃木県下都賀郡栃木旭町に新設し、「栃木県監獄署」と称する。
昭和23年に栃木刑務所と改称される。そして昭和54年に現在地(栃木県栃木市惣社町、思川右岸)に移転される。
栃木刑務所は、法務省東京矯正管区に属する、女子刑務所になります。

移転後の跡地には、現在栃木文化会館や栃木図書館等の文化施設が建てられ市民に活用されています。
2013年6月栃木文化会館1.jpg2013年6月栃木文化会館0.jpg
(元刑務所北側通りと旭橋)          (元刑務所東側を流れる杢冷川)
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