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とちぎ秋まつりに、昔を懐かしむ [祭]

今日の夕方、ウォーキングを兼ねて、蔵の街大通りの「とちぎ秋まつり」会場へ行ってきました。丁度昼間の山車巡行が一段落して、各町内とも夕食休憩になるところでした。又、夜の巡行に向けて、照明用の提灯飾りを取り付ける作業など始まっていた。
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(今年の秋祭りの山車会館付近の様子)
それでもまだ一ヶ所、銀座通りの入口交差点辺りに人だかりが出来て、激しいお囃子の演奏が聞こえて来ました。そこでは祭りのひとつのハイライト、「ぶっつけ」が行われていて、3台の人形山車が向かい合って、互いに負けじとお囃子を必死で演奏し合っています。山車と山車の間では、祭り衣装に着飾った大勢の男衆や少女達が、提灯を振ったり扇子を振って、お囃子を盛り上げています。そしてその周囲にはそれを見よう、写真に撮ろうとする観衆が合わさって、騒然となっています。
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(銀座通り入口付近での「ぶっつけ」の様子)
暫らく「ぶっつけ」でのお囃子の競演を楽しんだ後、たこ焼きと肉まんを土産に、家路に着きました。

夜は昔の秋祭りのアルバムを振り返って見て、昔を懐かしみました。
最近はデジタルカメラなので、何枚も撮影して後でパソコンに取り込んで、整理する事が出来て便利になりましたが、それ以前のフィルムの頃は24枚撮り・36枚撮りを祭撮影の時は、2本3本とフィルム交換して撮影をする状況でした。私が最初に秋祭りを撮影したのは昭和41年(1966)でしたが、その頃はまともに見られるものは有りません。枚数もたった6枚でした。
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(初めて撮影したのは神武天皇の人形でした)(明日の巡行を待つ静御前の山車)

それから5年後昭和46年(1971)には、私もカラーフィルムを使うようになっていました。
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(この頃、大通りは全面通行止めの規制はしていません)
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(当時は大通りに横断歩道橋が有った為、山車は通過出来ずUターンしました)

昭和51年(1976)は、栃木市制40周年の年に当たりました。
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(やはり祭りのハイライトはお囃子の競演「ぶっつけ」でした)
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(歩道橋の南と北の山車が、橋を挟んでの「ぶっつけ」も有りました)

昭和56年(1981)、旧栃木第二小学校(現在の栃木中央小学校)校庭に山車が勢揃いした時見に行きました。
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(秋晴れの下、旧栃二小校庭に勢揃いした人形山車)
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(旧栃二小から湊町を通って帰る室町桃太郎の山車)(当時は電線対応も大変でした)

昭和61年(1986)は栃木市制50周年の節目の年と成りました。
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(大通りに勢揃いして、夜の巡行が始まります)
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(この年に初めて大町の弁慶が、巡行に参加しました)
年号が昭和から平成に変わり、平成3年(1991)に開催された秋祭りは、文化会館北側の駐車場に人形山車が集合いたしました。
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(旭町の文化会館北側駐車場に集まった山車)
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(華やかな祭り衣装)     (毎回元気な子供達に担がれる倭町一丁目の獅子頭)

平成8年(1996)、この回は栃木県立栃木高等学校が創立百周年の年と成り、祝賀の為万町1丁目・2丁目・3丁目の山車が栃高の正門を入り勢揃いをしました。
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(県立栃木高等学校から戻る万町の人形山車)
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(電線地中化工事が済み、電柱が消えすっきりした蔵の街大通りの巡行)

平成13年(2001)の秋祭りも例年通り華やかに開催されましたが、たまたまこの年準備をしている今泉町閑古鳥の組み立て風景を見る事が出来ました。
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(クレーンでニワトリを吊り上げ組み立てを行う)(巡行する泉町の山車「閑古鳥」)

その5年後、平成18年(2006)の秋祭りの頃は、仕事の関係で地元にいなかった為、残念ながら祭りを見に来ることが出来ませんでした。又、この後「とちぎ秋まつり」の開催が、これまでの5年毎から2年毎へ変更となり、次の開催が平成20年(2008)と成りましたが、この時もまだ単身赴任の状態が続いて見る事が出来ませんでした。平成22年(2010)の春に戻って来ましたから、さっそくその年の秋祭りは見物に出ました。
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(この時に初めて嘉右衛門町の仁徳天皇の山車が参加している事を知りました)
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(夜空に揺れる多くの提灯、「ぶっつけ」は見ているだけで興奮して来ます)

そして最近は2012年・2014年そして今年2016年と、2年毎に開催されている山車巡行を毎回満喫しています。
各町内会で所有・保存していた山車の収納に関して、昭和43年(1968)8月15日に、元栃木宿内の室町・倭一・倭二・萬一・萬二・萬三の6台を保管する山車収納庫が神明宮の境内に建設されました。
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(現在も神明宮の境内の一角に残されている元の山車収納庫)
その後これらの人形山車を3台づつ交換展示する「とちぎ山車会館」が平成7年(1995)2月10日にオープンしています。
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(いつでも秋祭りの気分が味わえる山車会館)(建物は「栃木県マロニエ建築賞」を受賞)
現在は他の、泉町「閑古鳥」・大町「弁慶」・嘉右衛門町「仁徳天皇」のそれぞれの山車についても、各町内に立派な収納庫が造られています。

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(快晴となった最終日、栃木駅前にて秋祭りに来栃された観光客を出迎える山車)

茶の間からの、蔵の街花火大会 [祭]

今日、永野川緑地公園河川敷を会場に、第3回蔵の街花火大会が開催された。
しかし、天候は朝から雨がぱらつき、ジッとしていると少し肌寒さを感じた。夕方から少し雨脚が強くなって花火大会の開催を危ぶんだが、ポスターには「雨天決行」となっている。
例年なら、歩いて永野川の土手の上から、川の対岸で打ち上げられる花火を見物するが、今回は悪天候となったので、外出する事は断念をしました。
花火大会の開始時間19時、遠くから花火が打ち上げられる音が響いて来ました。予定通りに花火の打ち上げが開始された様です。西の窓を開けると、西の闇の中に花火の光りが輝いては消えるのがハッキリと見えました。
大輪の花火が輝くと、闇に消えていた家や電柱がシルエットとなって、又浮かび上がります。
スターマインなどは、空高く上がらない為、低い所は近くの住宅に遮られて、上半分ほどしか見る事が出来ません。大玉は高く上がってくれるのでよく見えたのですが、低くたなびく雨雲の陰に隠れてしまうのか、逆に上半分が雲に遮られて見る事が出来ません。
窓際にカメラを据えて、束の間の花火の光の撮影を試みました。満足とは言えませんが、我家の茶の間で窓越しに見る花火に、暫し時間を忘れカメラのシャッターを切っていました。
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茶の間で、お茶を飲みながら、のんびりと見る花火も、地元の花火大会ならではの事、ありがたいものです。でも天気が良ければやはり近くまで行って、花火を見上げ、腹の底まで響く花火の音を感じてみたいとも思いました。

「10万人栃木まつり」の思い出 [祭]

最近、ウォーキングも少し陽が傾いて涼しくなったころに、家を出る事が多くなりましたが、週末などは栃木の市街地を歩くと、遠くから太鼓をたたく音が聞こえる様になりました。夏祭りのお囃子の練習が始まっている様です。錦町や小平町そして十二社の境内と思しき方向からも、調子の良いリズムが、いよいよ祭りが近くなってきている事を知らせてくれます。
大通りに面した店舗のガラス戸には、神明宮神幸祭のポスターが貼られています。今年は7月24日(日)の午後5時から、蔵の街大通りを御神輿が渡御します。私も若かりし頃に担がせて頂いた経験が有りますが、早朝9時から神輿巡行をスタートさせて、旧栃木町の五ヶ町を全部回りました。
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(昨年の神明宮神幸祭の様子)
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市内の各町内の神輿が大通りに繰り出す連合渡御も、以前は沢山の神輿が集まり、大通りは人で溢れました。
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(蔵の街大通りでの、神輿連合渡御の様子。1980年7月撮影)
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8月に入ると、幸来橋下流の巴波川で行われる「百八灯流し」、そして蔵の街大通りを中心に開催される「栃木夏祭り」、最近は祭りの名称も変わって、「蔵の街サマーフェスタ」となりました。
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(幸来橋下流部の巴波川で行われる「百八灯流し」の様子。2013年撮影)
私が小さかった頃は、旭町第二公園の広場に櫓が組まれ、盆踊り会場になりました。両親と手つないで見にいった記憶が残っています。沢山の人出で櫓の周りで踊る所は、なかなか見る事が出来ませんでした。観客の後で櫓の上で演奏される、「栃木音頭」や「栃木小唄」の歌や囃子、三味線の音が今も耳に残っています。
しかし私が10代の頃の夏祭りの記憶は不思議と残っていません。
現在の様に、蔵の街大通りを会場に、盆踊りが開催されるようになったのは、昭和50年(1975)の事です。この年の4月10日に栃木バイパス道が、箱森町の十二社から大平町川連の間が仮開通した事で、大通りを全面通行止めにした祭りが可能になったのでした。
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(蔵の街大通りにて開催された「栃木まつり」盆踊り大会の様子、1977年撮影)
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その当時、栃木青年会議所の提唱によって企画された、「10万人栃木まつり」は更に時をさかのぼる事2年前、昭和48年(1973)に第一回が開催されました。この時の祭りのメイン会場となったのは、栃木東中学校の校庭で、中央に立派な「盆踊り櫓」が組まれました。
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3日間の祭りの期間の初日は、メイン会場の櫓をステージとして、10代20代の若者が主体となった「栃木ヤングフェスティバル」、会場には沢山の若者がステージ上で演奏されるプロのタレントの演奏を楽しみました。私も観客の1人として出かけ、写真を撮って来ました。
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フィナーレは大きなキャンプファイヤーの炎を中心に、歌や踊りで夏の位置やを、一緒に楽しみました。
この時の、10万人栃木まつり・ヤングフェスティバルのテーマソングは、「もう一度ふるさとを」でした。
今も懐かしく思い出します。
一番だけ紹介します。≪若さみなぎる この町の 力あふれる 若者よ 素直な心で 見つめて欲しい 忘れかけてた ふるさとを 唱えヤング 踊れヤング ランララ・ランランランララー≫
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今は遠い昔の思い出に成ってしまいましたが、栃木まつりはその時代・時代に合わせて、変化し続けられています。
今年も又、栃木の夏祭りを楽しみたいと思います。


栃木県民の日 [祭]

栃木県民の日は、6月15日水曜日です。平日という事で昨日(11日)と今日(12日)の二日間、県内各地でイベントが開催された様です。私の地元栃木市においても、「県名発祥の地 十千木縁日」と銘打って、多くのイベントが企画されました。
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(イベント会場となった「とちぎ山車会館前広場」)
私も、「とちぎ山車会館」や「とちぎ蔵の街美術館」の入館料が無料になるという事で、「無料」という言葉に誘われて、イベント会場である「とちぎ山車会館前広場」まで出かけて来ました。
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(入館料が無料となった「とちぎ山車会館」と「とちぎ蔵の街美術館」)
私が興味が有ったイベントは、「栃木の歴史写真パネル展示」でした。片岡写真館所蔵の明治期の栃木市街地各所を撮影した写真と合わせ、現在の姿を比較して観賞できるように展示されていました。栃木県内で最初の写真館が栃木で営業をした御蔭で、今もこうして自分が育った町の歴史を写真で目にすることが出来るのは、恵まれたと思います。
「とちぎ山車会館」の中は、撮影が出来ませんでしたが、展示物や秋祭りの人形山車の映像をゆっくりと堪能出来ました。又、山車会館前のイベント会場には、栃木市のゆるキャラ「とち介」君も姿を見せていました。
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(栃木の歴史写真パネル展示)                (イベント会場に「とち介」君の姿も)

6月15日が栃木県の「県民の日」と制定された由来について調べて見ると、「栃木市史 資料編 近現代Ⅰ」(昭和56年3月31日発行)の第一章「栃木県設置」と言う項目に、江戸から明治に世の中が変わる時代、政治・行政のしくみが、新しく変わる中で、「栃木県」が生まれる経緯が、その章の冒頭部分「概説」に表わされていました。
「概説」には、≪慶応4年(1867)鳥羽伏見の戦いに始まる戊申戦争は下野国へも波及し、・・・・(中略)・・・・明治4年4月1日出庁を栃木町にうつし、定願寺に日光県出庁を設け、間もなく県号を栃木県と改めたのである。≫と記され、ここで「栃木県」の名称が初めて表れました。
明治4年(1871)の廃藩置県で、旧栃木県と宇都宮県の2県となり、明治6年(1873)6月15日にこの二つの県が合併して、ほぼ現在の栃木県の形が誕生したのです。この合併日「6月15日」を栃木県の誕生した日として、県民の日と制定されたのでした。

6月15日の「県民の日」当日にも、栃木県庁をはじめ県内各所にて、イベントが開催される様です。時間が有ったらどこか参加したいと思います。
今日の帰路、嘉右衛門町にて、通りを走る懐かしい「ボンネットバス」に行き合いました。これも今回のイベントの一つで、バスの窓から乗っている子供達の元気な声を残して、バスは通り過ぎて行きました。
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(嘉右衛門町通りを走る、昔懐かしいボンネットバス)

栃木・蔵の街かど映画祭で「路傍の石」を観賞 [祭]

今日と明日の2日間、9回目を迎える「栃木・蔵の街かど映画祭」が開催されています。
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(今年も上映会場となっている、中田蔵と旧関根邸)
昨年は、栃木高校講堂での「オープニングセレモニー」から出かけ、横山郷土館にて「しもつかれガール」、太田蔵にて「六人姉妹」などを観賞しました。
今日は11時から大田蔵にて上映された、山本有三原作の「路傍の石」を観賞して来ました。
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(今年の映画祭のパンフレットと、太田蔵の入口で手渡された上映プログラム)
「路傍の石」は、栃木市民であれば誰でも知っている、山本有三の代表的な小説で、「たったひとりしかない自分を、たった一度しかない一生を、ほんとうに生かさなかったら、人間生まれてきたかいがないじゃないか」と、主人公尋常小学校6年生の、愛川吾一に対して担任の次野先生が諭す言葉の一節は、栃木市内各所に、石碑に刻されて建てられています。
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(太平山謙信平の山本有三文学碑)    (旧県庁堀の南東角付近に建つ文学碑)
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(栃木駅北口広場に建つ山本有三文学碑)  (巴波川公園橋西橋詰の文学碑)
この小説「路傍の石」はこれまで4回、映画化されています。今回上映された映画は、パンフレットには1960年公開の、久松静児監督作品と出ていましたが、実際に上映されたものは、昭和13(1938)年公開の、日活製作 田坂具隆監督作品で、最初に映画化されたものでした。パンフレットには(下視ラ16mm)と記された作品がいくつか有りました。何の事か不明でしたが、会場にて説明が有った中に、「下都賀地区視聴覚ライブラリー協議会」と言う団体の所蔵フィルムと有りました。その団体の略称だと分かりました。
78年前に公開された作品という事で、想像は出来ましたが、古い16ミリフィルムでの上映の為、映像も音声もあまり良くありませんでしたが、それでもスクリーンに映し出される懐かしい栃木の街の風景が、随所に出てくるので、スクリーンから目が離せませんでした。
冒頭に巴波川沿い塚田邸の長い黒塀をバックに、主人公の吾一少年が架ける場面が写し出されます。その後に川に架かる木橋を渡るシーンが続きます。普通に考えると「幸来橋」となりますが、作品がつくられた頃は「幸来橋」はコンクリート橋に架け替えられています。次の場面でも吾一少年達が川に架かる小さな木の橋を渡る場面が有ります。周りの建物の様子から泉町の旧平柳河岸付近と思われます。ただ撮影が行われた数年前に、映画に出てくる橋の直ぐ上流側に、現在も残る「嘉右衛門橋」コンクリート橋が竣工しています。そうすると映画に映し出された橋は、撮影の為に架けられた「セット」だったのか、実際に当時有ったものなのか、色々と想像が広がります。
又、先の次野先生が吾一少年に話した「たったひとり・・・・・・」の一節の元になる、有名な「吾一が鉄道の鉄橋にぶら下がる事件」の撮影が行われたと云われる鉄橋が、現在「栃木市総合運動公園」西隣りに、旧栃木駅駅舎の北側に、一緒に移設保存されています。
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(現在移設保存されている旧栃木駅の駅舎)  (駅舎の北側に保存された両毛線の鉄橋)
今回の映画作品は、第一部・第二部の構成で、各60分と言う長いもので、16ミリフィルムが4リールになっています。その為2台の映写機を使用して交互に映写する方法で上映されましたが、途中で1台が止まるアクシデントが発生しました。何とか1台の映写機で無事上映が終了できました。
私も20代に栃木県立図書館で「16ミリ映写機取扱い講習」を受け、実際に映写会を行った経験が有りましたが、映写機へのフィルムのセットに手こずった事や、ランプが切れる不安を感じていた事が、フッと思い出されました。
結局今回は、「路傍の石」の作品だけでなく、その後に上映されたガッツ石松さん出演の「ガッツ親父とオサム」・「栃木市市制祝典実況」そして、昨年も見た「六人姉妹」の全ての上映作品を鑑賞させて頂きました。
入場無料で、栃木の懐かしい風景などを沢山見る事が出来、大満足の一日でした。

下野市グリムの森イルミネーションを見て来ました。 [祭]

今日は、陽が暮れてから下野市「グリムの森」で行われている「グリムの森イルミネーション」を見に行って来ました。
駐車場の出入りが、一方通行となっていたので、多くの車が来ていましたが、意外とスムースに車を停めることが出来ました。
ここ「グリムの森」を訪れるのは初めてです。正面入り口から入園しました。
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入口の横に「祝 下野市制施行10周年」の文字が明るく照らし出されていました。入園料無は魅力です。
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園内は「グリムの森」らしく、グリム童話に因んだイルミネーションが目を引きました。園内には多くの子供連れの家族の姿が目立ちました。
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今、多くの場所にて色々嗜好を凝らしたイルミネーションが造られ多くの人出でにぎわっています。
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我が栃木市でも幸来橋周辺の巴波川や新大平下駅前等でも行われています。
寒い冬の夜は暗く長く、外出をする気が薄れる所ですが、こうしたイルミネーションで色とりどりに輝く光の芸術を眺めていると、何故か幸せな身持ちにしてくれます。
近年は一般の家庭でも家をデコレーションして楽しむ様に成って来ています。30年以上前にアメリカに行った時、12月に成ると多くの家で、家の中から外までクリスマスイルミネーションを広く行っていました。
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(1982年12月24日テキサス州ハイランドパークのクリスマス・イブ)
今、そんな風景が日本の地方の町でも普通に見られるようになりました。

第20回栃工祭(学校公開) [祭]

今日は、我が母校である県立栃木工業高校の栃工祭(学校公開)を見学に行って来ました。もう20回目と成るそうです。第一回は私が在学中に行われました。久しぶりに母校の正門を潜りました。
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構内に入ると、本館の前に「真」「善」「美」の三つの庭が迎えてくれます。石庭に波目の模様を真剣に付けていた事を思い出されます。
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昇降口から1階の廊下を入ると最初に写真部の作品展示が有りました。栃木の町の風景や人物を撮った、モノクローム写真は、どれもこれも素敵な作品です。
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私も栃工写真部の大先輩に成るのですが、どうも作品の内容では私などとても敵いそうも有りません。
1階廊下の奥の突き当り、階段下の収納スペースに写真部暗室が有ります。ここも私の時に写真部が暗室として使用するようになった所です。
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機械実習棟に足を運びます。鋳造室や鍛造室は公開されていませんでした。機械実習室に案内されました。汎用旋盤が整然と並ぶ風景も以前と殆んど変わりません。
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説明に依ると先の台風18号による増水により学校全体が浸水被害を被り、実習室の多くの設備が使えなくなってしまったとの事で、ここの旋盤等もこれから修理をしなければならない状況。又マシニングセンターなどのコンピューター制御の設備は修理も利かないと言い、大変な被害にあわれたことを改めて知らされました。
溶接作業室ではアセチレン溶接の実作業をやって見せてくれました。保護眼鏡を付けて作業の手際を拝見しました。
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私はこの溶接作業の授業はあまり好きでは有りませんでした。作業手順を誤ったら、逆火して爆発するのではと、ビクビクしていましたから。
構内をあちらこちら歩き回り、昔の事を思い出し、ひとり感慨に耽っていました。
家に帰り、第一回学校公開当時の写真を引っ張り出してみました。
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(写真部作品展示、前日遅くまで準備に追われていました。)
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(当時の私の写真部の仲間たち)
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(当時の機械実習室)
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(電気科・電子科の展示の様子)
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(「外人との英会話」と言う企画も有りました)
今回の学校公開には大勢の方が見学に訪れていました。先の浸水被害の後片付けも大変だったと思いますが、今日の生徒たちの笑顔や元気な掛け声を聞いて、早く完全復旧をされるよう願ってやみません。
最後に栃木工業高校の校訓、「和顔愛語」の言葉を添えて終わります。
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うずま冬ほたるが点灯しました。 [祭]

今日のウォーキングはいつもの市街地コースです。日が暮れてから巴波川に架かる「幸来橋」に着きました。11月に入り栃木市中心部の巴波川の両岸と橋の欄干に、今年も白色発光ダイオードを使ったイルミネーションが続いていました。「うずま冬ほたるキラフェス2015」光のページェントです。
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(巴波川の川面に写るイルミネーション、明るく光るのは幸来橋の親柱)
尚、今年は「幸来橋」の部分は色鮮やかな、赤・青・緑を散りばめ、クリスマスツリーの装いに成って、これまでとは一味違った雰囲気となっています。
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(幸来橋の欄干と親柱は、赤や緑の発光ダイオードにて飾られました。)
「うずま冬ほたる」が点灯している区間は、上流側は「常盤橋」の下流、横山郷土館前から、下流側は瀬戸河原公園とうずま公園間に架かる「公園橋」までの約600mの間に成ります。
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(下流側の公園橋に輝くイルミネーション)
又、今年は9月の豪雨により巴波川に架かる「倭橋」と「巴波川橋」もダメージを受けた様で、現在安全確保の為橋を通行止めにして補修工事を行っています。少し不便に感じますが、安全第一ですからね、少し辛抱しましょう。

舟に乗った花魁道中 [祭]

真っ青な秋晴れの元、栃木市の第5回歌麿祭りのメインイベントとなる、歌麿道中が行われました。
今年は9月に栃木市内に多大な被害をもたらした豪雨により、巴波川にも多くの土砂が流れ込んでしまった為、例年行われた舟に乗っての歌麿道中は行われないとの情報も有りましたが、実際今日、幸来橋に行くと規模を縮小して舟乗り込みを実施するという事で、13時の開始時間を待ちました。
時間通りに幸来橋のたもとより塚田邸の黒塀の有る巴波川左岸を歌麿道中が始まりました。大勢の見物人が巴波川を挟んだ右岸より、ゆっくりゆっくりと進む豪華絢爛な道中絵巻を見つめ、又多い思いのカメラアングルで写真を撮っています。
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(塚田邸の黒塀をバックに進む歌麿道中)
次は舟に乗り込んでの、船上絵巻となり、私が持ちうける目の前を、栃木町代官役に扮した鈴木俊美栃木市長等の舟と、花魁役の女性や禿役の少女等をのせた舟が遡上しました。
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(艶やかな花魁を乗せた舟が目の前を進む)
巴波川の水も今日は驚くほど澄んで、体長7~80cmにもなる真鯉や緋鯉が群れ泳いでいました。
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(舟に乗っての歌麿道中を、巴波川橋の上から眺める多くの見物人)

巴波川流域下水道フェスティバルに行って来ました。 [祭]

今日、栃木市城内町2丁目にある、巴波川浄化センターを見に行ってきました。
巴波川浄化センターの周りは良くウォーキングしている所ですが、施設の中に入った事はこれまで有りませんでした。今日「巴波川流域下水道フェスティバル」が開催され、施設内を見学する事が出来ると言うので、テクテクと歩いて行ってきました。
午後1時過ぎに会場に到着しましたが、すでに大勢の人が来ているのでビックリしました。
丁度会場入り口にて、栃木市のマスコットキャラクターの「とち介」と、下水道マスコットキャラクター「スイスイくん」が出迎えていました。記念に写真を1枚撮りました。
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最初、管理棟内に入って、掲示されたパネルで、下水道や浄化センターの仕組みについて、教えて頂きました。その後外に出て実際に浄化施設を案内してもらいました。広い施設を歩いて回ると約20分以上かかりました。敷地内には「ドクターヘリの離着陸場」も有り、地域の防災拠点としての位置づけにもなっている様です。
この施設は「流域下水道」と言って、2つ以上の街の下水を集めて処理を行っていて、栃木市と壬生町の下水を処理していて、栃木県が工事や管理を行っている。今は栃木市に合併している、都賀町や西方町の下水道とも幹線で繋がっています。
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栃木市にはこの「巴波川浄化センター」ともう一ヶ所藤岡町に「渡良瀬川下流流域下水道大岩藤浄化センター」が有ります。こちらは、旧大平町と旧岩舟町そして旧藤岡町の下水道を処理していましたから、「流域下水道」でしたが、現在は全て栃木市に成りましたから定義の上では「公共下水道」に成ってしまいますね。
施設がとても大規模でなかなか理解できませんが、「浄化センターのしくみ」の説明を見ると家庭用の浄化槽を大型にしたもので、基本構成は同じなのが分かりました。
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こうした施設でしっかりと管理する事で、私たちの街を流れる河川が良い環境を保っていられることを、改めて再確認をすることが出来ました。
今日は勉強に成りました。