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日光例幣使街道「富田宿」を歩く [歩く]

今年も10月の声を聞いて、昼間のウォーキングも苦に成らない陽気になって来ました。
先日も久しぶりで「日光例幣使街道」の「富田宿」を歩いて来ました。
この街道は、私が若かった頃は栃木から佐野や藤岡方面に行くとき、必ず通る所でしたが、現在は「富田宿」の町並みの直ぐ西側を並行する形で、片側二車線の「富田バイパス」を通る為、この旧道を車で通行する事は無くなりました。
富田バイパス.jpg
すっかり交通量の少なくなったこの街道を、のんびりと周りの景色を眺めながら歩き、途中街道筋から脇道にも入り込んで、富田宿を満喫しました。
例幣使の一行が通った様に富田宿南の、古橋村(現在の栃木市岩舟町静和)との境界から歩き、宿内を南から北に縦貫して、北の宿外れで下皆川村(現在の栃木市大平町下皆川)との境界まで歩きます。
富田宿概略図.jpg
大平町が昭和57年3月31日に発行した「大平町誌」には、「富田宿」の項に≪富田宿が例幣使街道の宿駅となったのは、公式には正保三年(1646)からであるが、実際には元和三年(1617)徳川家康の霊柩を日光に埋葬する為、3月29日霊柩を奉護する行列がこの地を通行したときにはじまるということが出来る。≫と記しています。又、富田村の中を通過する往還の長さは「25町58間」(約2.83km)、そしてこの内富田宿を形成するのが「12町12間」(約1.33km)、宿の入口と出口にそれぞれ木戸が設けられた。としています。しかし現在街道を歩いても木戸がどの辺りに有ったのか記すものは何も有りません。
栃木県文化協会が昭和53年10月31日に発行した「栃木の街道」の「日光例幣使街道・富田宿」の中で、≪富田宿右手に薬師堂が有るが、ここが富田宿の入口で、往還には木戸が有った。≫と記していますが、現在は薬師堂が何処に建てられていたのか、確認出来ませんでした。
現在、岩舟町と大平町の境界付近を流れる小河川(河川名は上流の大平町側では「猿淵川」、下流の岩舟側では「静和川」)と呼ばれています。)に架かる橋(正明橋)を渡り、暫らく行くと右側に、小さな神社が祀られています。社殿前の鳥居は小柄で有りますが重量感の有る物。扁額等が無い為、神社名や祭神等は分かりません。その神社の先を進むと又街道の右側に火の見櫓が見えて来ます。この辺までに恐らく宿の入口となる木戸が有ったのでしょう。
富田宿1.jpg富田宿2.jpg
火の見櫓の脇を過ぎて150m程行くと、左に入る細い道が有り、その角に「真言宗豊山派 玉正寺」と大書した看板が建てられています。その脇に「富田坊玉正寺」と刻した古い石柱。ここから西に向かうと140m程、現在は富田バイパスの西側にその寺院は有ります。
「光明山持光院玉正寺」は大同二年(807)玄意法師の創立と云います。天正十九年(1591)徳川家康より朱印地10石与えられています。春には境内の梅や桜の花が咲き誇ります。
玉正寺1.jpg玉正寺2.jpg
歩を先に進めます。少し先に信号機の有る、少し広い道路と交差します。交差する道路は県道311号線(小山大平線)、右に曲って500m程行くと東武日光線の踏切となります。その踏切の直ぐ北側に「新大平下駅」が有ります。交差点の北西側角の家の門脇に「日光例幣使街道 富田宿本陣跡」と刻した石碑が建てられています。
本陣跡の碑.jpg富田宿3.jpg
先に掲示した富田宿の概略図ではこの場所は十字路では有りません。西に抜ける道は無く元は丁字路で、この突き当りに陣屋が有ったと思われます。
更に北上すると、道路左手に「八坂神社」が祀られています。
「八坂神社」は旧村社、主祭神は「素盞鳴命」。永享年間(1429~1441)、富田氏が中根に築城の折りに城内に牛頭天王を祀ったのを、寛永十七年(1640)現在の地に移したと伝えられています。(大平町誌より)
八坂神社.jpg八坂神社2.jpg
八坂神社を過ぎて更に北に歩を進めると、又道路の左側にポツンポツンと2棟モダンな洋風の木造建築の建物が現れます。最初の建物は「五月女醫院」、
富田宿4.jpg富田宿41.jpg
そして次の建物が「大平下病院」の文字が確認出来ます。
富田宿5.jpg富田宿51.jpg
これまでほぼ真直ぐ北に向かって進んで来た街道筋も、この大平下病院の辺りから緩やかな曲線を描いて、北東方向に向きを変えていきます。丁度カーブした辺りに左に入る細い道路が県道312号線(大平下停車場線)で、ここ例幣使街道からJR両毛線「大平下駅」前までの200m程の区間です。
富田宿6.jpg大平下駅.jpg
駅に入る丁字路を越えた所に、今度は通りの右手に連子格子の家なども有って、かっての富田宿の面影を伝えています。
富田宿7.jpg富田宿8.jpg
本陣跡の有った交差点から大分進んできました。そろそろ富田宿の出口の木戸が有った辺りに来ている筈です。残念ながら現在はその場所を記すものは何も有りません。すると前方の道路が急に広がる場所に出ます。街道の右手に朱塗りの堂宇が2棟建っています。街道近くに建つ二間四面、向拝付銅板吹きの屋根、最近塗り替えられたように鮮やかな朱色の堂宇。正面に「地蔵尊」と記した扁額が掲げられています。
その地蔵尊の手前で、道路から更に奥に入った間口3間・奥行き2間、同じく朱塗りの建物。正面に掲げられた扁額に「冨明山新田院 宗光寺」と記されています。時宗の寺院 開基は小山七郎左衛門宗光。沿革はこの寺は中世より時宗大本山相模国藤沢の遊行寺(元は清浄光寺)の末寺。かつて小山宗光は時宗を深く信仰していたので、永正二年(1505)この地に一寺を建立し、自分の名前をとって宗光寺と名付けた。(大平町誌より)
この場所の先で街道は異常に広くなっています。現在の道路は真直ぐに抜けていますが、明治初期の様子を表した「迅速測図」を良く観察すると。この場所で街道は少し筋違いになって右にずれています。これは私の勝手な予想ですが、この筋違いだった場所が、かって富田宿の出口の木戸が有った所ではないかと考えています。
富田宿地蔵尊.jpg富田宿宗光寺.jpg
そこから更に先に進むと、春には桜の花がトンネルの様になる桜通りの交差点を抜けた所、街道左手に朱塗りの鳥居が建つこじんまりとした社が現れます。鳥居の横に「樋下正一位稲荷神社」とした表示が有ります。
樋下正一位稲荷神社.jpg
その前を過ぎて暫らく進むと街道は再び県道11号に合流する交差点に出ます。この交差点の所で県道には行かず、そこから再び右手斜め前方に進む細い道路が、かつての例幣使街道に成りますが、その道路もその先は新たに区画整理された住宅街に変わり、かつての街道筋は無くなってしまいました。
現在県道の交差点から少し入った道路脇に忘れられたように、火口や傘など上部が落ちてしまった常夜燈が建っています。常夜燈の手前には一対の狛犬が残っています。
常夜灯の竿の部分と言うのでしょうか、正面に「太平山」、右側面に「日光山」、左側面「御神社」、そして背面には建立年月でしょうか「文政二皇紀己卯十一月」と刻されていました。文政二年は1819年に成ります。
この常夜灯の建つ位置は、富田村と下皆川村との境界に当たる所に成ります。
常夜燈1.jpg常夜燈2.jpg
ここでかつての富田村を縦貫する日光例幣使街道の南の古橋村の境界から、北の下皆川村の境界の区間を、ずっと見て歩きました。まだまだ分からない所が多い「富田宿」、また何時か歩いて見たいと思います。


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古河 歴史と伝統が息づく町を歩く [歩く]

今日は、「歴史と文化を歩く会-栃木-」のメンバー20名で、茨城県古河市の街を、「古河市観光ボランタリーガイド協会」の方に案内をお願いをして巡って来ました。
JR古河駅西口前にてガイドの方と待ち合わせを行い、いざ古河の街巡りスタートです。
古河駅前.jpg
(本日のスタートとゴール地点、JR古河駅西口)
最初にガイドさんから古河市の成り立ちと現況について、説明が有りました。
≪平成17年に古河市と三和町・総和町とが合併して現在の古河市に成り、現在14万4千人ですが、人口は減少している。≫これは、大方の地方都市に共通して言える事で、私達の栃木市も同様です。
≪その歴史は、800年前、下河辺氏がこの地に入った、その当時は砦程度か。室町時代に古河公方が館を構え、江戸時代には徳川家の大老職や老中職と成った譜代大名が、古河城主となっている。その中でも特に土井家は150年間古河城主と成っている。≫説明はもっと細かく話されていましたが、私の頭に入って残ったのはこの程度。さすがに地元のガイドを20年もされてきているベテランだと最初から関心させられました。
最初に向かった所は、「日光道中古河宿道標」です。
現在古河の街中を縦貫するメインストリートは鍛治町通りとの交差点の北側にも直進して抜けていますが、この北に抜ける道路は昭和13年に開通していて、以前の日光道中は南側から古河宿内を北上この場所で突き当たると、日光道は左へ、右は筑波道と左右に分かれ、日光道中は左に折れた後140メートル程で直ぐ又折れて北方向に進んで行きます。この形態は栃木市の万町交番前交差点と同じです。
江戸時代、日光例幣使街道栃木宿の北の木戸が有った、現在の万町交番前交差点から北側に直進する道路は「北関門道路」と呼ばれ、昭和7年に開通。それ以前は古河宿と同じように左に折れた後60メートル程で再び北に折れ、嘉右衛門新田を抜ける道路と成っています。
古河市の道標は大きな四角柱で上部は常夜燈の形状。南面に「左日光道」、西面には「右江戸衜」と大きく刻されています。東面には「東筑波山」と大きく刻されその下に、「下妻・結城」他もう一つ地名が小さく刻されています(江川と読めそう)。北面にはこの常夜灯を建てた年月や建てた人の名前、揮毫した人の名前等が刻されています。常夜燈の脇に古河市教育委員会による説明板が建てられていました。
道標南東面.jpg道標北西面.jpg日光道中道標説明板.jpg
(日光道中道標南東側) (道標北西側)        (道標脇に立てられている説明板)
次は西に向かう「日光道中」へ。この辺りは「かぎのて銀座」と呼ばれ、かっては賑わった場所だったと言います。
かぎのて銀座.jpg
(道標の建つ交差点から西に入った通り、「かぎのて銀座」)
その先の交差点にて右に曲って北に向かう道路が日光道中。現在は「よこまち柳通り」と言うこの通りは、明治期から昭和初期に花柳界で賑わっていた所と言います。現在は「武蔵屋」という立派な店構えのお店がその名残を伝えています。
よこまち柳通り.jpg武蔵屋.jpg
(旧日光街道、現在は「よこまち柳通り」以前は花柳界が有り賑わっていた)(武蔵屋さん)
私達はその建物を遠目に見て、西側の「杉並通り」方向に歩きます。
「杉並通り」は、通りの北側に江戸時代が偲ばれる武家屋敷の面影を残すお屋敷が目を見張ります。
古河の町歩き1.jpg
(武家屋敷の面影残す「杉並通り」を歩く)
次に訪れた所は土井家も菩提寺「正定寺」です。境内東側の入口に建つ「黒門」は、昭和8年文京区に有った土井家の江戸下屋敷から移築されました。
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(正定寺の朱塗りの門、手前右手にかつて池が有り弁財天が祀られていた)(黒門を見学)
境内にて古河領内高島村(現在の栃木市大平町)出身の、徳川四代将軍家綱公の生母「お楽の方」の供養塔や、土井家墓所を見学しました。
古河の町歩き2.jpg古河の町歩き3.jpg
(「お楽の方」の供養塔、隣りが岩船地蔵尊)  (土井家墓所)
墓所の正面に建つ二基の宝篋印塔は初代土井利勝夫妻(左側が利勝、右側が奥方)を供養した物。墓所は元東京浅草の誓願寺に有ったもので、大正12年の関東大震災後の東京復興計画によって移転をせまられ、昭和2年に当地に移されたと言います。
次に永井路子旧宅を見学。
永井路子旧宅.jpg永井路子旧宅中庭.jpg
(歴史小説家・永井路子旧宅)        (店藏奥の和室縁側からの眺め)
計画では永井路子旧宅については、外から見学で予定していましたが、邸内に入り座敷にも上がって、旧宅内の雰囲気にも浸ることが出来ました。その為20分程の遅れが出て来ました。少しスピードをアップして次の見学予定の「古河歴史博物館」へ向かうことに。
煉瓦造りの建物.jpg古河第一小学校.jpg
(古河街角美術館と篆刻美術館の間の通りを南へ)(古河第一小学校の煉瓦門)
途中、煉瓦積みした建物が多く見かけられます。石畳みの通りを先に進みます。古河で一番古いと言う「古河第一小学校の東側に沿って南へ。この小学校、昨年改築されて新しい校舎に変わった様です。
雪華を刻した歩道.jpg
(歩道に敷き詰められた六角形の石畳には色々な図柄の雪華が描かれている)
足元の六角形の石畳みにひとつひとつ異なる六角形の図柄が刻されています。これらの図柄は藩主の土井利位が20年の歳月を掛けて観察を続け、183種の雪の結晶を「雪華図説」に著した図柄を刻したものだそうです。尚これらの雪の結晶の図柄は古河市内の小中学校の校章にも成っているとの事です。
途中、時間の関係で「古河文学館」前も素通りして、古河城の諏訪曲輪(出城)の跡に建てられた「古河歴史博物館」へ到着。ガイドさんより前もって館内の案内を博物館の学芸員の方にお願いして有りましたので、展示物の説明を詳しく聞く事が出来ました。
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(かつての古河城諏訪曲輪跡に建てられた、古河歴史博物館)
最初に受付横の展示ホールで、オランダ製の大きなストリートオルガンの生演奏を実演して頂きました。前もって大きな音が出ますとの説明がされましたが、実際予想以上の音量で驚きました。
館内の展示品の説明を聞きながら、後のスケジュールの時間が気に成って時々時計を確認、20分の遅れが解消されていません。もっと聞いていたいところですが、申し訳なかったのですが、途中で説明を打ち切って頂きました。
つぎは博物館を出てすぐ前の「鷹見泉石記念館」の見学へ。
鷹見泉石記念館全景.jpg
(鷹見泉石が最晩年を送った武家屋敷を平成2年に記念館として開館)
この建物は土井家の元家老を勤めた者が入った場合が多かった。元治元年には、水戸天狗党100名余が一時収容された屋敷でも有りました。
邸内にて天然記念物に指定されている古木「楓樹」や、古河城二ノ丸御殿に有ったと伝えられる石燈籠などを見学しました。
古河の町歩き5.jpg石燈籠.jpg
(江戸時代以来の古木「楓樹(ふうじゅ)」) (重量感たっぷりの石燈籠)
今日は、秋の彼岸の入りです。庭には赤い曼珠沙華の中に、白色の曼珠沙華の花も丁度咲いていました。
古河の町歩き6.jpg
(竹林には赤や白の曼珠沙華が咲いていました)
いよいよ帰りの電車の時間が迫って来ています。古河駅に12時丁度に戻る計画でしたが少し遅れるのがハッキリして来たのでこの後は、ゴールに向かって歩く事に。
両毛線が昼間のこの時間帯、1時間に1本の為、目的の電車に乗り遅れると、次1時間待ちと成ってしまう為です。それでも何とかガイドさんの案内で、最終的には時間に間に合わせて古河駅に到着する事が出来ました。
古河の町にはまだまだ見たい所が残っています。歴史博物館の展示物も、もっとゆっくりと鑑賞したいと感じました。
本日の総歩数は7,582歩でした。
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日暮れ後ウォーキングへ [歩く]

今朝は花火の音で目を覚ましました。今日の開催を知らせる花火です。今日は近くの栃木第三小学校の運動会の日です。
天気予報の通り曇り空、時折薄い雲を透かして白い太陽が現れます。気温は少しひんやりと感じられ、最近の残暑から一転した陽気です。幸い今日は一日曇り空と成って、体を動かすのにも苦にならない運動会日和に成りました。
ここ数日、30℃を越える気温で午後になると毎日のように青空に真っ白な積乱雲が黙々と湧きあがり、その後急に空気が冷たく変わると、決まった様に夕立となる為、暑さが治まった後のウォーキングも控えていました。
積乱雲2.jpg
(真っ青な空に湧き上がる積乱雲)
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(積乱雲をバックに、田圃の稲穂は重そうに頭を垂れています)

現在、台風18号がゆっくりと方向を東に変え沖縄から九州方向に進んできて、西日本に激しい風と雨をもたらしていますが、まだ私の住む栃木県は雲は多いものの、予報でも降雨は今夜遅く、日付が変わる頃と伝えていましたので、陽が暮れてから久しぶりのウォーキングに出掛けました。
巴波川沿いを歩くと、先日まで川岸にロープで結ばれていた川船が今日は見当たりません。先日歩いた時には、屋形の中に照明を付け影絵にして、御大尽の舟遊びの雰囲気を演出していました。
巴波川舟遊び図1.jpg
(川面に浮かび上がる屋形船、後方に宵闇に沈む白壁土蔵)
屋形の障子に映る影は、花魁らしき女性が御大尽に御酌をしています。又一方では扇子を持って踊る芸者さんらしき影も。
巴波川舟遊び図2.jpg
(屋形船の障子に映る人影が、巴波川の川面にも映る)
今日はもうこの風景も見られ無くなっていました。既に今年はこうした演出を終了したのか、それとも近づいて来ている台風に備えて、一時避難をしたものか。
今は光を失った巴波川を横目にウォーキングを続けました。
本日の総歩数は、9,052歩でした。

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ニホニウム通り(埼玉県和光市)を歩く [歩く]

埼玉県和光市に「ニホニウム通り」と命名された通りが出来たと言うので、歩いて見ました。
スタート地点は東武東上線の和光市駅南口です。ニホニウム通りは和光市に有る「理化学研究所」の研究グループが113番目の新元素を発見したことを記念して、和光市駅から理化学研究所までの延長1.1キロメートルの歩道に、その新元素名「ニホニウム」を付けたものだそうです。
和光市駅南口.jpg
そしてその駅から理研までのニホニウム通りの路面に、原子番号1番の水素「H」から113番のニホニウム「Nh」までの元素記号を入れた青銅製の路面板を埋設するという事で、駅前からそのプレートを辿って、原子番号1番「水素」、2番「ヘリウム」、3番「リチウム」と順番に見つけて歩きます。
1水素.jpg2ヘリウム.jpg3リチウム.jpg
原子番号6番「炭素」、7番「窒素」、8番「酸素」などの知った名前を見付けては、足取りも軽くなります。
6炭素.jpg7窒素.jpg8酸素.jpg
初めて聞いた様な原子名では、チョッと足も止まってしまいます。比較的歩行者も少なく順調に進むと、原子番号39番「イットリウム」の先が無くなりました。場所は丁度東京外環自動車道がトンネルと成って下を交差する地点で、歩道の脇に新たに建てられたモニュメントが目に入りました。
ニホニウム通り1.jpgモニュメント1.jpg
(歩道に埋設されたプレートが並ぶ)(ニホニウムの記号Nhのモニュメント、下は東京外環道)
モニュメント2.jpg
(モニュメントの左側面には原子番号の「113」が。今歩いて来た歩道にはプレート)
モニュメント3.jpg
(モニュメントの右側面には理化学研究所のマークが。この先の歩道上にプレートは無い)
ここまで原子番号1番「水素」から39番「イットリウム」まで39枚のプレートが続いて埋設されて、途中歩道の街灯にも「二トリウム通り」を示す幟なども有りましたが、このモニュメントの前で終わっています。
39イットリウム.jpgニホニウム通り2.jpg
少し辺りの脇道を探してみましたが、やはりプレートは見当たりません。そこでとりあえず理化学研究所の所まで歩く事にしました。東京外環自動車道を渡り、東側の側道に設けられた歩道を南に歩きます。
ニホニウム通り3.jpg
(写真右手の草地の下を東京外環自動車道が走っています。脇の歩道を歩きます)
車道を渡った門に、又別のモニュメントが設置されています。元素の周期表を表わしたプレートです。原子番号113番のニホニュウムの所が、一段と輝いています。
モニュメント4.jpgモニュメント5.jpg
(交差点角のポケットパークに建てられた、元素周期表のモニュメント)
ニホニウム通り4.jpgニホニウム通り5.jpg
(ニホニウム発見の町をPRする表示も) (歩道沿いに「ニホニウム通り」の道路標示も建つ)
東京外環道路の東側に沿った程を、理化学研究所に向かって歩きます。
ニホニウム通り6.jpg
(理化学研究所への歩道を歩く。この辺りにはプレートはまだ埋設されていません)
途中、県道109号線と国道254号線(川越街道)の広い車道を横断しますが、ここは歩道橋を利用して渡る事に成ります。県道を渡る歩道橋の上からこれから歩く歩道上に、何故か路面板1枚が埋設されているのが見えました。近づいて確認すると、原子番号83番「ビスマス」の表示が有りました。(その時点ではなぜこんな所に1枚だけ設置されているのか疑問でしたが、帰宅後調べてみると、≪ニホニウム原子は原子番号30番の「亜鉛」を加速して、原子番号83番の「ビスマス」にぶつけ、核融合させる方法で合成したもので、その寿命は出来てからたった1000分の2秒と短く、瞬く間にほかの元素へと壊変して行きます。≫という事で、現在設置された39番までにある「亜鉛」と一緒にニホニウムにとって欠かせない原子「ビスマス」のプレートだけ先行して、決められた設置箇所に埋設されている事が分かりました。)理化学研究所ホームページや東京新聞ほっとWebの記事等を参考にしました。
ニホニウム通り7.jpg30亜鉛.jpg83ビスマス.jpg
(県道の歩道橋から)(所定の場所に有った「亜鉛」)(1枚離れて先行設置の「ビスマス」)
国道254号線(川越街道)の歩道橋を渡ると、理化学研究所前に。そこから少し南に下がった所に西門。その西門の脇に、120センチメートル四方と言う大きなサイズの、ニホニウム(Nh)のプレートがまだ埋設されずに立て掛けられていました。
理化学研究所西口.jpg
(理化学研究所西門脇に立てかけられた、原子番号113番の「ニホニウム」のプレート)
和光市ではこのニホニウム通りの有る市道の名称を「524号」と「527号」から、ニホニウムの原子番号に因んだ「市道113号」に変更をしています。
モニュメント6.jpg
(市道113号線となる「ニホニウム通り」、右側が和光市の市章)
※帰宅後に確認をしたところ、路面板の埋設は現在原子番号1番「水素」から39番「イットリウム」と原子番号83番「ビスマス」の合計40枚で、残りは寄付金の集まり具合にも寄りますとの事でした。
 
「ニホニウム通り」1.1キロメートルのウォーキングでは少し物足りなかったので、その後は理化学研究所の敷地の周囲を一周(約3キロメートル)して、そこから西隣の「和光樹林公園」のジョギングコースなどを歩いて来ました。総歩数15,244歩と成りました。
蒸気機関車.jpg理化学研究所正門.jpg
(和光市立第四小学校に有ったC1285)  (理化学研究所正門)
※C1285蒸気機関車は理化学研究所の東側に隣接している、和光市立第四小学校の校庭の南端道路際に展示されていました。近くの説明板には1970年12月に日本国有鉄道から無償貸与を受けて、この地に配置されたと記されています。
和光樹林公園1.jpg和光樹林公園2.jpg
(和光樹林公園の芝生広場)         (ジョギングコース1,000m)
※アンツーカーのジョギングコースは、とても歩きやすかったです。多くの和光市民がジョギングを楽しんでいました。
ついでに、和光市のマンホールの蓋もしっかり撮影して来ました。
和光市マンホール蓋1.jpg和光市マンホール蓋2.jpg
(和光市のデザインマンホール蓋)(標準マンホール蓋、中央に和光市の市章)
和光市マンホール蓋3.jpg和光市マンホール蓋4.jpg
(和光市配色違いのカラーマンホール蓋、2種類)
ちなみに和光市のデザインマンホール蓋の図柄と成っているのは、市の花「ツツジ」と市の木「イチョウ」です。中央の市章のデザインは、輪に光の漢字をデザイン化したもの。


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巴波川沿いを行燈の絵を見て歩く [歩く]

今日、太陽が沈んだ後にウォーキングに出発しました。時間的には夕方7時近かったので、巴波川沿いに設置されている行燈に灯がともった景色が見られると、カメラをぶらさげて出かけました。
栃木市役所裏手、パーキングタワーの脇から巴波川左岸沿いの遊歩道に入りました。
巴波川行燈1.jpg
(常盤橋の上流側行燈は電気配線が無く、ソーラーライトでしょう?光が柔らかく感じました。)
常盤橋の橋詰を抜け、倭橋から幸来橋へと、行燈の光りに浮かび上がる栃木市内の観光名所の切り絵を見ながら歩きました。まだ西の空に太平山のシルエットが僅かに残っています。
巴波川行燈2.jpg巴波川行燈3.jpg
(常盤橋から倭橋へ)(倭橋から幸来橋へ、中央奥の幸来橋のバックに太平山のシルエット)
幸来橋の欄干から下流側を眺めます、巴波川左岸に連なる「塚田歴史伝説館」、土蔵の白壁がライトアップされて暗闇に浮かび上がっています。川の両岸に行燈が明るい光の列を見せています。
ここで、幸来橋を渡って巴波川の右岸を歩きます。
巴波川行燈4.jpg巴波川行燈5.jpg
(幸来橋の上から下流側を。左手が塚田歴史伝説館の土蔵群)(行燈に岩舟の風景も)
幸来橋から下流側の巴波川橋に。対岸の行燈に赤く見える一つが目に入りました。カメラでズームアップして確認すると、その行燈の図柄は旧栃木駅の駅舎でした。赤く見えたものは駅前に描かれた赤い車でした。
行燈に描かれた観光名所をひとつひとつ確認したり、スポンサーとして名前が出ている会社や団体名を確認して歩きました。
巴波川行燈6.jpg巴波川行燈7.jpg
(巴波川橋の西橋詰付近より上流側を振り返る)    (目に留まった赤い車の図柄の行燈)
その後は行燈の光りを後にして、栃木駅前を回り大通りへ、途中から雨粒が落ちて来て、次第に雨足が強くなってきました。念の為持参した傘に身を任せ、ショートカットして急いで帰宅しました。
今日の総歩数は、7,528歩に成りました。

箱森町の鬼瓦見て歩き [歩く]

これまで栃木市内の、嘉右衛門町や大町そして万町の鬼瓦について見て歩きましたが、今回は栃木瓦の発祥の地ともいうべき、「箱森町」の鬼瓦を見て歩きました。
箱森町を歩いていると、今でも〇〇瓦店という看板を見かけることが出来ます。瓦屋さんが多い所ですから立派な鬼瓦も多いと思いましたが、意外と新しくなった建物では瓦葺の家も少なくなっています。
皆川街道、現在の県道75号(栃木佐野線)沿い、泉川町との境界、箱森町の西の端に有る瓦屋さんの建物の屋根の上に大きな鬼面の鬼瓦が据えて有りました。大棟の西側端に口をギュッと結んだ「吽形」の鬼、そして反対側東側にはガッと口を開けた「阿形」の鬼の顔に成っています。
幸栄瓦工業(阿形).jpg幸栄瓦工業(吽形).jpg
(阿形の鬼面)                      (吽形の鬼面)
この鬼瓦の有る建物は、幸栄瓦工業㈱さんです。道路沿いの塀の上にも瓦が載っていますが、そこに「おすまし顔の猫」の形の瓦?が置かれています。お洒落な感じがしました。
幸栄瓦工業.jpg幸栄瓦工業(猫形).jpg
(箱森町の西の端、幸栄瓦工業㈱さん)        (塀の上に猫の置物も瓦製)

鬼瓦にお目出度い七福神の内の、大国様と恵比寿様を付けたものも、栃木市内に幾つか見付けましたが、箱森町の中にも有りました、これまで気が付かなかったのですが、「とりせん」さんの近くの屋根の上を飾っています。ただ少し気に成った事が有ります。その前の屋根の端の棟と棟が合わさった場所についている丸い瓦「棟巴瓦」の端部についている文様が左右で異なっています。恵比寿様の前には「笹りんどう」の文様、大国様の前には「ミツウロコ」の文様が付いています。機会が有ったら訪ねてみたいですね。
稲葉工業(恵比寿様).jpg稲葉工業(大黒様).jpg
(東側が釣竿を持った恵比須様)        (西側が俵に乗った大国様)
同じく「とりせん」さんの近くで見る土蔵の屋根に据えられた鬼瓦、こちらは家紋が付けられているのでしょう、見難いですが「丸に揚羽蝶」の紋の様です。気に成ったのはその前の棟巴瓦に描かれた屋号紋なのでしょうか、「入り山形に漢数字の三、更にその下にカタカナのフ」、判じ絵では無いでしょうが、どのような意味が込められているのでしょうか。
もう一つ、こちらは鍋山街道沿いの瓦屋さんの屋根の上に見つけました。この形は屋根の形が切妻では無い寄棟屋根の場合に成ります。鬼瓦の中央部にはこちらも揚羽蝶の文様が見られます。
神谷瓦店1.jpg長瓦店1.jpg
(棟巴瓦の判じ絵屋号紋?の意味が気に成ります)(良く見る鯉が描かれた東鬼台)
箱森町を歩いて見ると、敷地の広い家が多く、建屋が道から奥まった所に建っている為、鬼瓦の形や図案がどのようなものか確認出来ない場合が多く残念でした。

「栃木瓦」はその昔、「カイロ灰」や「野州麻」「下駄」などと共に、栃木の地場産業を支えて来ました。栃木の市街地を貫流する巴波川、その右岸、幸来橋近くのポケットパークの中に、「栃木瓦」を紹介する展示がされています。
栃木瓦1.jpg栃木鬼瓦1.jpg
(栃木瓦を紹介展示している「幸来橋」近くのポケットパーク)   (大棟用鬼面付き鬼瓦)
菊水化粧鬼瓦.jpgビン張り菊水化粧鬼瓦.jpg
(展示されている「菊水化粧鬼瓦」)       (展示されている「ビン張り菊水化粧鬼瓦」)

市内の鬼瓦を見て歩くと、新しい発見が有ると同時に、多くの疑問も生まれて来ます。これからももっと調べて行きたいと思います。

県庁堀川流域を歩く [歩く]

先日、「元県庁堀」を見て歩きましたが、その時 堀に架けられた「清水橋」や「鶉橋」の親柱に、「県庁堀川」と言う河川名が表示されている事に気付きました。これらの橋は比較的最近新しく架け替えられたもので、残念ながら竣功年月表示が有りません。「元県庁堀」には他に「御幸橋」と「栃木橋」が架けられていますが、昭和6年12月架設された「御幸橋」の親柱のひとつには「元縣廰堀」と表示されています。「栃木橋」こちらも竣功年月表示は有りませんが「県庁堀」との表示に成っています。
県庁堀川銘板.jpg元県庁堀銘板.jpg
(鶉橋の親柱、「県庁堀川」と成っている) (御幸橋の親柱、「元縣廰堀」と成っている)

県庁堀が作られた当時の「杤木縣廰圖」(明治六癸酉九月)には、堀に繋がる川は、県庁堀と巴波川との間の舟運を目的に同時期に造られた漕渠(運河)しか描かれていません。
薗部村鶉島に県庁が建てられた後、南側と東側とに市街地が形成されますが、明治19年7月発行「栃木町」の迅速測図(2万分1)を見ても、県庁堀の西側から北側にかけての一帯は、一面に水田が広がっているのみです。
その当時の県庁堀には相当の湧水が流れ出てもいた様です。
その後、大正6年7月30日、大日本帝国陸地測量部発行の2万5千分1「栃木」の地形図には、県庁堀の北西部近くに北西方向箱森から一筋の河川が合流して居ているのが確認出来ます。
現在の県庁堀を確認すると、更に堀の西側に柳橋の日限富士浅間神社方向から一筋、そして北東側の栃高グランドの東側に沿って、北側の錦町から一筋と水路が合流しています。
戦後の復興期から高度経済成長期と時代が流れ、栃木町の周辺にも住宅が建てられるようになると、その生活雑排水の流入による河川の汚染が深刻な問題となって来ました。昭和40年の頃市内では、「川をきれいにしよう」という事が盛んに叫ばれ、巴波川に鯉は放流されたり、白鳥がお目見えしたのもこの頃です。
その後、下水道の整備が進み、次第に環境も良くなってきました。
何時だったか、県庁堀脇を歩いていた時、「県庁堀川木炭浄化施設」と言う説明板が、栃木県栃木土木事務所と栃木市の名前で建てられていました。
県庁堀川木炭浄化施設説明板.jpg
(元県庁堀脇に立てられていた「県庁堀川木炭浄化施設」の説明板)
そこには≪木炭浄化システムを日本で初めて川の中に直接設置するもので、川の水がどのくらいきれいになるかを調べる実験施設です。≫と説明されていました。改めて見直すと、そのに「県庁堀川について」の説明も記されています。
≪県庁堀川は、旧赤津川分水堰付近を源とし、現在地(旧栃木市市役所南側)を通って、入舟川と分かれて巴波川に合流する流域面積約1.26k㎡の河川で、堀の周りは約1,100mあります。≫以上の説明文に添えて「県庁堀川流域図」が記されていましたので、それを参考に流域図を作成して、その流域を実際に歩いてみました。
県庁堀川流域図.jpg
県庁堀川の流域界は、北側は「旧赤津川」、東側は「巴波川」、そして西側は「清水川」の三つの河川に囲まれ、南側は皆川街道のによって仕切られた範囲で、ここは私が生まれてから現在まで生活をして来た場所です。
まず一番北の端は、旧赤津川の分水堰で、本流から分かれ南に流れる水路です。箱森町の十二社から東に新栃木方向に行く道路に、昭和12年10月竣功の「榮橋」の親柱を確認する事が出来ます。最終的に県庁堀に繋がる水路はこの橋の少し上流側で、旧赤津川から分かれたものですが、現在は県道32号の新道が通った為、分水堰は無く、周辺の景色も全く変わってしまいました。私が1980年にこの分水堰付近を撮影した写真が有りました。
旧赤津川分水堰付近.jpg旧赤津川分水堰の現状.jpg
(1980年撮影、旧赤津川分水堰付近) (堰は現在モスバーガー栃木店の北側辺りでした)
水路は「榮橋」下流から南西方向にカーブして、明治33年から昭和5年の路線変更に成るまで、鍋山人車鉄道が通っていた「旧鍋山街道」の下を流れ、箱一自治会の公民館の脇を南流、「レユーナ特別養護老人ホーム」の西脇を南東方向に流れて、元県庁堀の北西部に合流しています。
鍋山街道と交差.jpgレユーナ西側水路.jpg
(旧鍋山街道に架かる橋の下、U字溝に変わる)    (中央奥の三角屋根がレユーナ)
旧鍋山街道のコンクリート橋の高欄の長さは、2メートル以上あり、私の子供の頃は2メートル程の小川が流れていて、ドジョウやザリガニなどを採りました。

又、柳橋町に有る「日限富士浅間神社」の北側にて、清水川の分水堰で東側に分流した水路は、柳橋町の住宅街の中を南東方向に流れ、元県庁堀の南西部付近に合流しています。
清水川分水堰.jpg浅間神社方向からの水路.jpg
(清水川の分水堰、右方向が本流)(住宅街の中を抜ける水路、この手前で県庁堀に合流)
私が子供の頃はこの清水川の分水堰で良く水遊びに興じていました。水路の土手で「ノノヒロ」を採って来て味噌を付けて食べ、空腹を満たしていました。

今回は、栃木高等学校の許可を得て、校庭内に平成7年復元された県庁堀も見学させて貰いました。堀は校舎や体育館が建つ区域とその北側のグランドとの境を東西に続いています。
北堀西方向.jpg北堀東方向.jpg
(中央部に架かる橋から西側を撮影)      (中央部に架かる橋から東側を撮影)
私の子供の頃はまだ小学校にプールが無かったので、夏休みには友達と誘い合って栃高のプールに行きました。深いプールで足が着かなかったので、少し怖い思いをしました。その頃は校庭内の堀は埋められて、プールが堀の西側の位置に有りました。
現在、復元された県庁堀の脇、昔のプールが有った辺りに成るでしょうか、当時のプールに有ったスタート台の一部が残されて有りました。
復原された県庁堀には、地下水が汲み上げられて、勢いよく堀を流れていました。
プールスタート台.jpg汲み上げ水.jpg
(昔のプールに有ったスタート台)     (復元された県庁堀水面に湧き上がる水)

県庁堀川の流域範囲は、そのまま私の生活域にも成っていた事を今回知る事が出来ました。

元県庁堀、見て歩き [歩く]

今日は朝から気持ちの良い五月晴れと成ったので、上着を一枚減らして家の近くに有る栃木県の土木遺産「元県庁堀」を見て歩く事にしました。
この「県庁堀」は明治5年(1872)11月に落成した、栃木県最初の県庁舎が有った所。その当時は巴波川の西側は栃木町では無く、薗部村の鶉島と言いました。
栃木県庁は三島通庸が栃木県令に成った明治17年(1884)9月に、宇都宮町へ移転しましたので、ここに県庁が有った期間は僅か12年間に過ぎません。県庁舎は移転しましたが現在その跡地は、県立栃木高校や栃木市立中央小学校の敷地として利用されています。
堀は長方形をしていますが、北側の一辺が栃木高等学校の中に成る為、歩いて一周する事は出来ません。今回は北東側の角から堀沿いの道を南に歩き、南東角を回って南側を西に歩く。南西角から北に向きを変え、北西の角から東に折れて、県庁堀が旧鍋山街道の下に潜り、栃木高等学校内へ消える点迄歩いてそこから同じコースを戻りました。距離的には片道約900メートルに成りました。
写真と共に「元県庁堀」を見て歩きます。
まずスタート点は堀の北東側角です。
元県庁堀北東角.jpg元県庁堀北東角から西方向.jpg
(元県庁堀北東部角、堀の内側には栃木高校)(北側の堀は栃高校内に入り側道は有りません)
堀の角に立って見ると、堀の北側には家が迫り、堀に沿った道が有りませんので、東側の堀に沿っている道路を南方向に歩きます。この道路は南から北方向への一方通行と成っていますから、前方からの車に注意しつつ堀沿いの歩道を歩きます。
元県庁堀東側の道.jpg
(元県庁堀の東側の辺と成る道路から南方向を望む、奥に元市役所別館の時計塔が見える)
100メートル程歩くと堀に橋が架かっています。「清水橋」と橋の親柱に表示が有ります。この橋を渡る道路は、栃木高等学校の南側を通る道路で、明治33年に鍋山人車鉄道の軌道が敷設された所で、ここから東の巴波川に架かる「開運橋」(その当時は「トロッコ橋」と呼ばれていました。)の間には、鍋山人車鉄道会社の旅客及び荷物取扱い所などが有った様です。(昭和5年に街の中を通っていた路線が女子高方面に変更に成っています。)
清水橋.jpg清水橋橋名.jpg
(現在の「清水橋」、橋の北西側正面奥が栃木高等学校)
更に堀に沿って南に160メートル程歩くと、二つ目の橋「御幸橋」の東橋詰に出ます。
御幸橋.jpg
(御幸橋、橋の東南橋詰より歩いて来た北方向を望む。)
この橋はその名前に有る様に、明治32年11月15日から4日間、近衛師団北関東大演習の時に明治天皇が。又、大正7年11月13日から7日間行われた陸軍特別大演習の時大正天皇が、共に行在所と成った栃木高等学校への途中、御渡りした場所に架かる橋で、現在のものは「昭和6年12月架設」と親柱のひとつに刻されています。
御幸橋1.jpg御幸橋2.jpg御幸橋3.jpg
(御幸橋の親柱には橋名・河川名・架設年月、残る一つには「みゆきはし」と刻されています。)
この御幸橋の南西部に最近まで栃木市の市役所別館として利用されていた、大正10年(1921)11月竣功の旧栃木町役場庁舎(国の登録有形文化財)が建っています。私はこの建物を結構気に入っています。
元栃木市役所別館.jpg
(大正10年11月竣功の旧栃木町役場庁舎)
尚、「元県庁堀」の内ここ御幸橋が架かる南東部分は、町役場庁舎の他にも多くの見どころが集まっている場所です。栃木市街地を貫流する「巴波川」とこの県庁堀との間を舟で行き来をする為の「漕渠(運河)」が、御幸橋の南東側で繋がっています。ここに建てられている県庁堀の説明板に、明治六癸酉九月の「杤木縣廰圖」が掲示されています。
県庁堀説明板1.jpg県庁堀説明板2.jpg
(堀の内側に県庁堀の説明板が建つ)     (県庁が作られた当時の県庁敷地の図面)
図面を見ると漕渠が県庁堀に繋がった場所の、県庁敷地内に舟で運んだ荷物の荷揚げ場が描かれていますが、その後埋め立てられてしまいました。又、図面では堀は東西南北供直線で囲まれていますが、現在は
御幸橋の南側から堀の南東側角まで、少し東側に膨らむ様にずれています。明治19年7月に発行された栃木町の迅速測図を確認すると、既に荷揚げ場は無く、その近辺で堀は少し東にずれた形で描かれています。
県庁堀漕渠分岐.jpg水草1.jpg
(堀は御幸橋の南側で少し東側に曲っている。写真左手の橋は漕渠に架かる「学橋」)
元県庁敷地の南東側の角に立つと、堀の東側方向と南側方向が見渡せます。東側の堀は御幸橋の南で東にずれている為に、脇の道路も鉤の手に折れている為、漕渠に架かる「学橋」の先で「神道栃木」に突き当たる形に成ります。
<堀の南東部角からの景色>
南東角から西方向.jpg南東角から北方向.jpg
(南東角から南側の堀を撮影)      (南東角から東側の堀を撮影。正面奥は「栃木橋」)
ここから南側の堀沿いの道を西に向かって歩いて行きます。堀にはカルガモや緋鯉真鯉がゆったりと泳ぐ姿が見えます。
カルガモ.jpg鯉.jpg
東の角から130メートル程歩いた所に木橋が架けられています。県庁が置かれた当時、南側の堀の中央付近に表門に入る橋が架けられましたが、その当時の橋を模した様です。
木橋.jpg
更にその先に架かる橋は、この県庁が置かれた土地の地名「鶉島」を採り「鶉橋」(うずらばし)と命名されています。
鶉橋.jpg鶉島1.jpg
(元県庁敷地の南西側に架かる「鶉橋」)     (「鶉橋」親柱に付いた橋名プレート)
鶉橋から40メートルほどで堀の南西部角に着きます。

<堀の南西部角からの景色>
南西角から北.jpg南西角から東.jpg
(南西角から西側の堀を撮影)      (南西角から南側の堀を撮影。正面奥は「鶉橋」)

ここから西側の堀沿いの道を北に向かって歩いて行きます。西側の堀沿いの元県庁敷地内には現在は一般の民家が建てられています。当初は「県令」や「大参事」の住まいが建てられていた所です。
堀には綺麗な水が流れ、水草を見ているとピンクの桜の花びらが、水草に留まっています。その桜の花びらが何処から流れて来たものか、その先で発生元がすぐわかりました。堀の対岸に枝を張った八重桜が満開の花びらを5月の風に任せて舞って水面に落ちていました。
水草2.jpg水草3.jpg
南北約315メートル、一直線に伸びた堀沿いの道を一気に歩き北西の角へ。

<堀の北西部角からの景色>
北西角から東.jpg北西角から南.jpg
(北西角から北側の堀を撮影)       (北西角から西側の堀を撮影)
北西角から東に35メートル程で、堀は行き止まりに。その先を横断する道路は、旧鍋山街道でした。以前は鍋山人車鉄道が走っていた所です。私は小学校6年間この道を通り、栃木第二小学校へ通っていました。道路の東側は、栃木高等学校の校内に成ります。
鍋山街道脇の堀.jpg
(道路の手前で県庁掘りは塞がれています。ブロック塀の先は栃高校内)
私の家の近くに残る土木遺産ですが、今回改めてグルッと見て回りました。見慣れた風景でも有り、何処か新鮮な感じもしました。

昭和初期の看板建築が残る石岡市へ [歩く]

そこは、まるで昭和初期の映画撮影セットの様な商店が建ち並んでいます。
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(茨城県石岡市国府・府中の旧水戸街道の町並み)
茨城県石岡市、私の住む栃木市からも東の方向に望む事の出来る、加波山から筑波山に連なる筑波山地の東麓に広がる街です。その石岡市の東側に位置する常陸府中は、奈良時代に栃木市と同じように常陸国の国府が置かれました。府中の街の北側には常陸国分寺や常陸国分尼寺も建てられました。
江戸時代に入って元禄13年(1700)には水戸徳川家の分家と成る松平頼隆が、常陸府中藩主として入封、その城下町として栄えました。
この街の中央をほぼ縦貫する形に成る街道は、かっての水戸街道でここ府中宿は千住宿から14番目の宿場町でも有りました。
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(店頭の街灯が趣の有る蕎麦店「東京庵」)
現在、町の中央部に多く残る昭和5年から7年頃に建てられた看板建築と言うスタイルの店舗兼住宅は、昭和4年(1929)3月14日に発生した「石岡大火」により、石岡町の中心市街地の4分の1を焼失した為、その後の復興において、その当時流行していた「看板建築」が多く建てられ、まさに映画のオープンセットの様な町並みが出来上がりました。
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(最上部に屋号を掲げた「玉川屋」の味の有る看板建築)
現在では既にシャッターを下ろした店舗も見られますが、多くが今も商売を続けておられます。
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(十七屋履物店:昭和5年建築、木造2階建て看板建築) 
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(久松商店:昭和5年建築、木造2階建て看板建築)
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(福島屋砂糖店:昭和6年建築、木造2階建て商家建築)
そんな建物のいくつかは「登録有形文化財」に指定されています。
私が車を駐車したのはその町の中心地に建つ「丁子屋」脇の駐車場でした。
石岡市5.jpg石岡市10.jpg
(丁子屋店舗:江戸時代末期、木造2階建ての商家建築)
この建物も江戸時代末期に建築された建物で、元は染物屋だったと有りますが、現在は観光施設の「まち蔵藍」と成っています。先の「石岡大火」の難からも逃れて残った貴重な建物で、中は駄菓子屋風で、お土産なども販売していました。
この「丁子屋」から直ぐ南の道路際に大きな石の鳥居が建って、その参道の奥に立派な社殿が見えます。「金刀比羅神社」で、祭神は大物主神です。≪文政10年(1827)讃岐国象頭山(香川県琴平山)の金毘羅大権現の御分霊を勧進して、「こんぴら信仰」のよりどころとして多くの人々の参詣を集めている。≫と参道脇の案内板に記されていました。
石岡市2.jpg石岡市3.jpg
(国府平の森 金刀比羅神社の社殿)   (神社参道右手に建つ、正岡子規の句碑)
又、境内には正岡子規が第一高等中学校在学中の明治22年(1889)春、水戸の学友を訪ねて徒歩で旅行し、その時著した「水戸紀行」の中に、≪二日目は、小雨の中土浦「總宜園」(跡地に句碑有)で霞ヶ浦を眺め、「醤油の名所、石岡まで辿りつき萬屋に宿を定め」る。≫と石岡に1泊している事を記した案内板と、「二日路は筑波にそふて日ぞ長き」の句碑が建てられていました。

現在は市街地に入る南側にて国道6号線が分岐して、東側をバイパスする様に北東方向に伸びています。多くの車がこの分岐で右に進み、左の旧道に入ってくるのは少なくなっています。

永野川沿いを歩き、榎本城址と榎本宿を巡る [歩く]

私が所属している歩く会の4月例会が去る14日に行われました。今回は大平町の運動公園から永野川の土手上の道を歩いて下り、大平町真弓から榎本まで行き、永野川左岸の榎本城址周辺からその南側の榎本宿の寺社等を、現地榎本に住む会員の案内で巡って来ました。
永野川沿いを歩き榎本宿を巡る1.jpg
永野川沿いを歩き榎本宿を巡る2.jpg
(大平町運動公園から榎本宿までの、永野川沿いの歩行ルートとポイント)
※説明図には、永野川の現在の流れに合わせて、明治初期に作られた迅速測図に表わされた大きく左右に蛇行を繰り返す永野川の旧河道の様子も表示しました。

大平町運動公園を出発して最初に向かった所は、真弓地区の北端に有る「磯山」(真弓山とも称していた)。西側の山の斜面から登り山頂に有る天狗岩へ、標高51メートル、比高は僅か15メートル余りの小さな山ですが、しょっぱなからの坂道に、早くも息が上がります。
天狗岩の上からは北西方向に、太平山や晃石山の山並みが連なっています。手前に栃木市立大平中学校の新築された校舎が有り、左手方向に目をやると、大平町の桜の名所「さくら通り」の桜並木がまだ満開の状態を見せています。
磯山山頂天狗岩より西方を望む.jpg
(大平町真弓の磯山山頂、天狗岩からの眺望)
この磯山の北側部分は「天狗岩」など大きな岩肌を露出させていますが、南側中腹には、下野押領使藤原秀郷が信濃一の宮諏訪神社を勧進して創立したと伝える、元郷社の「諏訪神社」が祀られています。
社殿前から南に真直ぐに続く参道を歩いて、永野川右岸に向かいます。
真弓諏訪神社参道.jpg
(諏訪神社参道、両側に杉の大木が続いています。)
町田橋を渡り永野川の左岸へ。黄色の絨毯を敷いた様な菜の花が群生する永野川の土手上の道を、川の流れと共に南に歩きます。春の陽光を浴びながら歩く川沿いの道は気持ちの良いものです。
途中、榎本宿の旧街道の中央を流れていた堀割の水を供給した永野川に設けられた「榎本堰」の取水口を見学。(元々は榎本城の濠へ供給していたものか?)
榎本堰.jpg
(コンクリート製の堰が永野川を横切り、左岸の取水口を抜けた用水堀が榎本へのびる)
榎本堰から少し歩くと、永野川の東側真弓南部地区に成ります。この地域にかつての小山氏の出城「榎本城」が有りました。
ここで最初に訪れたのが、集落に一番北側うっそうとした竹林に埋もれる様に一軒の大きな家屋。既に住んでおられる方も無く、屋根の大棟や軒の瓦も一部落ちています。この家は「大平町誌」の郷土出身の人物でも大きく取り上げられている、川連虎一郎義路の実家に成ります。
「川連虎一郎義路」は真弓村関宿藩領の割本名主、川連一郎兵衛義種の子。尊王攘夷の志士たちと交わり、水戸天狗党が太平山に滞留した時、藤田小四郎と通じ、軍用金や兵糧を献じた。元治元年(1864)8月3日、佐幕派の関宿藩家老杉山対軒派に捕えられ、洲崎で斬首されました。23歳であったと云います。
そこから更に少し南に行った道路の脇に「大平町史跡 榎本城跡」と刻した石碑が建てられ、石碑の後方にその説明板が建てられています。
榎本城址.jpg
(永野川左岸土手上から榎本城跡を眺める。中央奥の林の手前に石碑が建っている)
榎本城址の碑.jpg
(「大平町史跡 榎本城跡」の石碑と説明文を見る、歩く会の参加者)
城の跡は殆どが田畑と成ってしまっていますが、石碑後方の林の中に僅かに濠や土塁の跡らしき地形を覗う事が出来ます。
榎本城堀跡.jpg観音堂旧蹟.jpg
(榎本城の濠跡らしき地形)             (木立の中に建てられた石碑と祠)
石碑後方の林の南側に回り込むと、濠の跡らしき地形が残っている。又その林の中に入って見ると中に小さな石の祠脇に、「観音堂旧蹟」と刻された石碑が建っています。石碑の建てられた時期は碑陰の日付で、「大正十一年三月」と分かりますが、実際この場所に観音堂が何時まで建っていたのか?又、現在近くに有る「真弓南部公民館」の所に建つ観音堂との関係はどうなのか、分からなかった。

此処榎本城の建てられた場所は現在の住所区分では「栃木市大平町真弓」と成っています。最近までなぜ真弓に有るのに真弓城とせずに榎本城としたのかチョッと不思議に思っていました。
又、榎本はその真弓の南隣りの集落で「榎本宿」の有った地名で有るとこれまで考えていましたが、改めて大平町の地名を調べて見ると「下都賀郡小志」の中に、「榎本」は明治7年(1874)4月に榎本村に改名していて、それ以前は東水代村と称したと有り、更に時代を遡ると延喜年間(901~922)に、西御正水代郷水代村が分かって二村となり、西水代と東水代と成ったと有ります。
一方「真弓」は、明治22年(1889)4月1日合併によって「瑞穂村大字真弓」と成りましたが、それ以前は真弓村と称しました。更に時代を遡ると、西御庄榎本郷と称したと有りました。「真弓」が「榎本」だったのです。
ここで、「西御正」とか「西御庄」と有るのは「下都賀郡小志」に記載されたものをそのまま記しましたが、「西御荘」のことと考えます。平安末期に摂関家領荘園として立荘されたと言われる「中泉荘」で、旧栃木市の中央南部、旧大平町、小山市の西の一部、旧岩舟町の東の一部、旧藤岡町の北の一部などを包含する地域。「西御荘」とも記されている。(角川地名大辞典より抜粋)事を知りました。

榎本城跡を後に、南隣りの「大平町榎本」に向かいます。
榎本宿については以前(2015年3月24日付け)、「大平町榎本宿の事」と題して書きましたので、今回は見て歩いた場所について記します。
榎本宿旧街道(東西方向).jpg
(榎本宿を横断している旧街道。宿の東側から西方向を望む。突き当りが八坂神社)
榎本宿旧街道(南北方向).jpg
(榎本宿を縦断する旧街道。南方向を望む。道路両側の堀は暗渠化されている。)
榎本宿の石仏.jpg榎本宿の常夜燈.jpg
(旧街道沿いに建つ野仏。後方の大屋根は榎本大中寺)(県道36号の南側に建つ常夜燈)
妙性院.jpg近藤出羽守綱秀の墓.jpg
(榎本宿南の端と成る寺院「妙性院」)    (妙性院境内に有る近藤出羽守綱秀の墓)
復旧した千部橋.jpg橋中央部が流失した千部橋.jpg
(復旧して通行可能と成った旧千部橋)(2015年9月の豪雨で中央部が流失した旧千部橋)
2015年9月に発生した豪雨の影響にて流出して通行不能となった、永野川に架かる「旧千部橋」は現在復旧されて通行が可能になっていました。
この橋の直ぐ上流側に県道36号(岩舟小山線・旧国道50号線)には昭和37年(1962)1月竣功の「千部橋」が有る為、通行には大きな影響は有りませんでした。元々この「旧千部橋」は昭和9年(1934)3月に架橋された老朽化が指摘されていました。同じく榎本地区北側に架橋されている「両明橋」も同じ昭和9年竣功でしたが、両明橋は豪雨が発生した1か月前にたまたま修繕が行われていた為、難を逃れています。
修繕後両明橋.jpg両明橋57年1月.jpg
(2015年8月修繕された両明橋)     (旧千部橋と同じ昭和9年竣功、修繕前の姿)

千部橋を見学した後は、永野川を遡り再度榎本宿内に戻り、宿の西に建つ大中寺と八坂神社へ。大中寺では本堂の裏手の墓地の一番奥に建つ「本多大隅守忠純の墓」を確認しました。
本多大隅守忠純の墓.jpg
(本多大隅守忠純の墓)
手前に建てられた説明板によると、≪忠純は徳川家康の懐刀といわれた宇都宮城主本多上野介正純の実弟であり、榎本城二万八千石の城主である。≫と記されていました。
榎本村の旧村社八坂神社は榎本宿を横断する旧街道が宿の西の端で直角に折れ、南に向かうところの西の突き当りに鎮座しています。本殿部分は覆屋で保護されています。中を覗くと本殿左右の側面そして背面の胴羽目に立派な彫刻が施されています。
榎本八坂神社.jpg八坂神社本殿彫刻.jpg
(八坂神社正面鳥居越しに拝殿を拝する)    (本殿側面の胴羽目彫刻)

永野川に架かる「両明橋」を渡り橋詰の天台宗寺院「東明寺」を見た後、永野川右岸の土手上の道を遡ると、東明寺の裏手に永野川の旧河道の名残りが確認出来ます。河川改修で以前東側の榎本だった所が川の西側に1軒残されてしまったそうです。
永野川右岸に残る旧河道.jpg西野田本郷の尊武神社.jpg
(永野川右岸に出来た旧河道の跡)        (大平町西野田本郷に有る「尊武神社)
最後に訪れたのは、西野田本郷の集落の外れにポツンと建つ小さな神社で、社殿の前に赤く塗られた鳥居がひとつ建てられていました。鳥居にも社殿にも神額等は掲げられていない為、説明を受けないとどのような神社なのか分かりません。
説明に依ると、初代榎本城主「美濃守高綱が自刃の地近くに有り、「タカツナサマ」と呼ばれているそうです。この場所は丁度永野川の対岸(東側)に榎本城が有ります。この榎本城主美濃守高綱が自刃に至った経緯については、「大平町誌」の中世・榎本城を説明した中で、「下都賀郡誌」の掲載文と、この西野田本郷の「タカツナサマ」(尊武神社)の写真を載せています。

私はこれまで歩いたり自転車に乗ったりして、榎本周辺を何度か巡っていますが、今回案内された地元の人でなければ気が付かない場所を確認する事が出来、満足した「歩く会」に成りました。
榎本堰を横目に帰路に就く.jpg
(永野川の榎本堰を横目に、右岸の土手上の道を歩いて帰路に)