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巴波川右岸に鎮座する大平町横堀の春日神社 [栃木市の神社]

栃木の市街地を抜けた巴波川は、東武日光線とJR両毛線の「巴波川橋梁」の下を通過した後、沼和田町と城内町二丁目との境界となって、流れを一度大きく東にカーブさせ、「弁天橋」の下流で、再び南に大きく流れを変えて、浄化センター、衛生センターの西脇を流れ、「金橋」「愛宕橋」を潜ると、その先で大平町横堀と大平町北武井の境界として南流しています。
春日神社(横堀)12.jpg春日神社(横堀)13.jpg
(途中の巴波川の土手には、菜の花や桜・桃などの花が咲き誇っていました)
私もたまにはこの辺まで足を伸ばして、歩いて来る事が有りますが、その度に巴波川右岸、大平町横堀に桜の木が並ぶ参道を持つ神社を遠目に見ては、一度桜の咲く時期に訪れたいと思っていました。
今年はその気持ちが強まったので、桜の咲くのを待って今日、自転車を飛ばして行って来ました。
前回は昨年(2015)6月3日に訪れ参拝をしていますが、その時参道入口に掲げられた、神社の説明板に今日4月10日が例祭と有り、御神楽奉納も行われると記されていましたので、時期的に桜も見られると思い、巴波川の左岸の土手上の道を下って来ました。
巴波川の左岸から対岸に、ずっと桜の並木が満開の花を付けて並んでいます。
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(巴波川の対岸に太平山をバックに春日神社の参道の桜を望む)
巴波川に架かる「吾妻橋」を渡って、春日神社参道入口前に自転車を停めて、参道入口の朱塗りの鳥居を潜り、その先に拝殿前まで続く桜のトンネルとなった150メートル程の参道を進みます。
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(巴波川に架かる吾妻橋西橋詰に春日神社参道入口、朱塗りの鳥居と祭りの幟旗)
今年は開花が早いと言われていますが、こちらも参道は桜の花びらが盛んに舞い落ちて言います。桜の花に混ざってすでに緑色の葉も見られました。
春日神社(横堀)4.jpg春日神社(横堀)5.jpg
(桜のトンネルとなった参道)        (石の鳥居の奥に拝殿を望む)
拝殿ではすでに神事が始められているのか、中に大勢の人達が座って、神主さんが唱える詔の声だけが、拝殿から漏れて来ています。
春日神社(横堀)6.jpg春日神社(横堀)7.jpg
(春日神社拝殿)               (神楽殿には奉納神楽の準備も出来ていました)
その場で参拝するのは少し躊躇われたので、暫らく境内内を散策しました。でいれば奉納されるお神楽も、見たかったのですが時間の余裕も無かったので、諦めました。
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(境内に祀られた石宮)               (人丸神社)

春日神社の主祭神は、天児屋根命(あめのこやねのみこと)。
配神は、武甕槌命(たけみかづちのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)、比売神(ひめがみ)
大平町誌に記されている春日神社(旧村社)大字横堀によりますと、境内地は1,719.97坪。氏子数は100戸。沿革については、≪当社は徳川将軍家安泰祈願のため、後光明天皇の承応元年(1652)旧2月15日、信濃守大森頼直(藤原姓)が、大和国(奈良県)三笠山より勧進建立したという。将軍家の崇敬厚く三ツ葉葵の紋章使用や、将軍家宣公御台所寄進の錦の御戸帳 信濃守寄進の石鳥居や50石の御朱印地等があった。・・・・・(後略)≫と出ていました。

150メートル程の参道を抜けると、寛文五年(1665)と刻された石の鳥居の右手、境内の端に「松長山久遠院大森寺跡地」と刻した石碑が建てられております。そしてその傍に、小さな石祠や無縫塔などが祀られています。石碑に記されてる通り明治初めの廃仏毀釈により廃寺となった、久遠院(天台宗)がこの地にあったのでした。
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(松長山久遠院大森寺跡地の石碑)         (石碑の脇に祀られた石祠や無縫塔など)

栃木市城内町二丁目に有る天台宗の寺院、星住山圓通寺が平成十四年八月に発行した、「寺史照顧(円通寺開山と中興)慈覚大師・等海法印・高慶大師」の本の中に、「第三の五、高慶大師記録 (豪弁文書)」の記事が載っていますが、そこに横堀の久遠院大森寺の開山で圓通寺22世豪弁について、詳しく記されています。
帰りに圓通寺によって参拝させてもらいました。
圓通寺1.jpg圓通寺2.jpg
(星住山圓通寺本堂)                     (独鈷泉の水面を覆う桜の花びら)

日限富士浅間神社大祭 [栃木市の神社]

栃木市柳橋町の清水川左岸に鎮座する、日限富士浅間神社にて今日、春季大祭が執り行われましたので、参拝に行って来ました。
通称「日限の浅間さん」と呼ばれていますが、この神社の事については、前に一度このブログにて紹介を致しました。(昨年6月24日)
正月三が日とこの4月1日には昔から大勢の参拝者で賑わっていました。私も子供の頃から参拝と言うより、遊びに来ていました。昭和30年頃はこの周辺は一面の田圃が広がって、人家は殆ど有りませんでした。
神社の西側を北から南に流れる清水川は、神社の上流側に堰が有り、神社の境内などと同様、格好の遊び場でもありました。
清水川堰1.jpg清水川堰2.jpg
(日限富士浅間神社北側に有る、清水川の堰。今も住宅街の中に昔の名残を留めています)
以前は県道75号(栃木佐野線)の脇に建つ、石の鳥居から清水川の左岸沿い150メートル程の参道に、奉納された木の鳥居が、ビッシリと並んで建っていました。現在参道の鳥居は数が減って少し寂しくなりましたが、新しく奉納された鳥居も見られ、まだまだ信仰を集めている様子を覗わせています。
日限浅間神社1.jpg日限浅間神社2.jpg
(県道75号線脇に建つ石の鳥居)   (清水川沿いの参道に並ぶ奉納された木の鳥居)
時々青空をのぞかせる、花曇りの天気の中、神社の境内に有る桜は丁度見頃を迎えていました。
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(桜の花が見ごろを迎えた神社境内)      (境内左手に建つ、昭和9年建立の建築記念碑)
拝殿の前で、手を合わせ参拝をする人が、後から続々と訪れていました。参拝した人達が願いを込めて献灯した蝋燭の炎が、暖かな光を発していました。
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拝殿の向かって右手に建つ神楽殿にて、御神楽が舞われて、大勢の参拝者が観賞をしています。
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私も暫らくお神楽の演奏と舞をゆっくりと、堪能しました。どこか近くの老人施設の人達でしょうか、職員さんに連れられ車椅子に乗って参拝をされ、御神楽を観賞したり、境内の桜を楽しんだり、記念写真を撮ったりしていました。おそらく若かりし頃の思い出を懐かしんだご老人もおられたのかも知れません。
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私も子供の頃の思い出を、静かに奏でられる笛や太鼓の音と共に振り返るひとときでした。



平柳町1丁目鎮座の星宮神社 [栃木市の神社]

今日の午前中は陽射しも有り、暖かさにつられて栃木市内の散策に出かけました。嘉右衛門町から東へ折れて新栃木駅前通りを進み、途中で左手に入る細い路地を抜けて行くと、杉木立に覆われた平柳の星宮神社の前の通りに出ます。
ここに来るのは4年ぶりになりますが、神社境内入口付近がすっかり綺麗に改修され、車いすでも拝殿前まで楽に行ける様、入口段差部にはスロープが設けられ、参道の敷石も新しくなっていました。
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(星宮神社前より、ここに神社専用駐車スペースが2台分有ります。)
神社境内入口に向かって左側、塀際に十九夜供養の石仏などが祀られていますが、それらと並んで「花崗石橋寄付人名■」と刻された石柱が建てられています。石柱の右側、星宮神社境内との間に、幅1メートル弱の水路が流れています。現在付近に石橋は確認出来ません。おそらく以前この水路に石の橋を架けたものではないかと想像致します。
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(神社入口左手の石仏群)           (神社境内西側に沿って流れる水路)
この星宮神社境内の西側に沿て流れている水路は、明治十九年発行の迅速測図を確認しますと、大町の北部において、巴波川から分岐したもので、この神社から更に南に流れ、杢冷川につながっています。
石の鳥居を潜り参道を進みます。右手に社務所が有ります、今日は閉まっている様です。玄関には「社務所」と書かれた木札の他に、「宮本公民館」の木札も掲げられています。地元自治会の集会場も併設されている様です。
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(拝殿正面)                          (社務所兼宮本公民館)
左側には手水舎、そしてその先にこれは最近設置されたモニュメントでしょうか、「なでうなぎ」との表示が有ります。
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(参道左側に設置されている「なでうなぎ」
半球盤の上面に八角形の方位図と十二支の文字が描かれています。中央の球面上に三匹の「うなぎ」が泳ぐ様に造られています。説明が難しいので写真を見て下さい。
傍に「なでうなぎの由来」が有りました。説明に有ったように私もうなぎと自分の干支の文字をなでさせてもらいました。
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(「なでうなぎ」の由来が記されています)   (「なでうなぎ」上から見るとこうなっています)
拝殿前に進み、参拝を済ませます。この星宮神社の祭神は、「磐裂命」「根裂命」「経津主命」であると拝殿前に記されています。
参拝の後、境内の中を散策させて頂きました。拝殿前の狛犬はドッシリとした感じで、とても重量感が有ります。
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(重量感たっぷりの狛犬。後方に写る天水桶は昭和46年10月13日の日付が有ります)
境内には沢山の石の祠が祀られています。参道左側に建つ神楽殿の左側に六社、神楽殿に近い方から「須賀神社」「大杉神社」「御祖神社」「稲荷神社」「血方神社」「産泰神社」です。
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(参道左手に並ぶ境内社、六社)           (神楽殿)
社殿の左手奥にも「白山神社」「山神社」「水神社」「神明社」「稲荷社」「大国社」が祀られています。
社殿右手奥は、宮司さんのお住まいへ通じている様です。
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(社殿左側奥に祀られている境内社)      (社殿右側、奥の宮司さんのお住まいに続く)
神社の由緒については、境内に説明板等見かけませんので分かりませんが、社殿西側の木立の中に、背の高い大きな「星宮神社改築記念碑」と大書した石碑が建てられています。その碑陰に寄付者芳名がビッシリと刻されています。「昭和9年4月13日竣成」と有りますので、この日付が現在の社殿が造られた時と考えられます。
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(星宮神社改築記念碑)                (星宮神社本殿、左側面)
神社については素人で何も分かってませんが、星宮神社は明治初期の神仏分離以前は、虚空蔵菩薩を祀っている事が多く有った様で、ここの神社も先ほどの「なでうなぎ」の由来文に記されていますが、≪当神社の御祭神のお遣いであるうなぎは・・・・・(後略)≫とあるところから、やはり虚空蔵菩薩に関係している物と思われます。
機会が有ったら、宮司さんにお尋ねしたいと思いました。

大平町川連の天満宮 [栃木市の神社]

今日、栃木バイパスを南進、片柳町のJR両毛線の跨線橋を渡り終え大平町川連の天満宮前を通過した時、天満宮境内に紅梅・白梅が目に飛び込んできました。
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そこで、車を脇道に停めて春の訪れをカメラに収めました。
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ここ川連天満宮は「大平町誌」によると、かっては愛宕神社と称し川連城主代々の信仰を受けた。その後火災にあい社殿が焼失した為慶長年間に再興されています。現在の社殿は昭和10年(1935)4月15日に新築されたもので、元は現在地よりも幾分東に有りました。昭和55年(1980)の道路改修により西側に移転しました。主祭神が菅原道真の天満宮に改称したのは、昭和27年(1952)の事だそうです。
神社境内の南隣りの道路際に、「大平町史跡 川連城跡」と刻した大きな石柱、そしてその脇に「大平町教育委員会」「大平町文化財保護審議会」による説明板も建てられています。ただ城跡を示すものは現在は殆ど認められませんし、築城当初の様子も文献等が無い為、詳しい事は不明という事です。
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説明板によると、≪栃木市の大平町川連と片柳町とにまたがって位置する川連城は、応仁年間(1497年頃)川連仲利が築城したが、永禄6年(1563)皆川俊宗によって占領され、その後修築されたといわれる複郭の平城で、東西380メートル、南北500メートルという大規模なものである。-中略- 城の南側には城下繁栄策により村が形成されたが、江戸時代になると例幣使街道が通過し、富田宿と栃木宿をつなぐ中継点となった。≫と紹介されています。
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川連城については、もっと知りたいと思いました。



大平町下皆川の日枝神社 [栃木市の神社]

杉の花粉が飛び交う時期になって来ました。少し抵抗が有りましたが大平町下皆川、太平山東麓の杉木立の中に祀られている日枝神社を訪れました。
栃木市のほぼ中央に位置する太平山は、栃木県南部に広がる関東平野のいたる所から望むことが出来る、東の筑波山、西の太平山と並び称される山で、山内や山裾に多くの神社や寺院が建立されています。
この日枝神社は太平山の東麓に位置しますが、太平山の参道あじさい坂の脇にある、六角堂として有名な「太平山連祥院」や元は太平山中腹に有ったと言われ、現在は栃木の市街地に建つ「星住山圓通寺」や「白旗山勝泉院」などの多くの天台宗の寺院が、慈覚大師円仁を開基としているのと同じように、慈覚大師円仁の勧請によって創建されたと伝えられています。
創建の時期は、淳和天皇の天長二年(825)と云われ、圓通寺と同じ年になります。
主祭神は大山昨命になります。古くは「日吉山王大権現」と称したと云い、その時の神額が現在同じ下皆川に有る「薬王山長楽寺」の寺宝となっているそうです。
下皆川の集落の中央を北から南に貫く様に通る細い旧道の脇に朱塗りの日枝神社一の鳥居が建っています。現在は鳥居の横に車道が造られ、逆に鳥居の前には石の常夜燈や神社名を刻した石柱が集められ、又鳥居の下にはどこの、何のための石か分かりませんが、十数個積まれ、鳥居を潜り抜けることは出来ません。
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鳥居の脇を通って真直ぐに太平山麓に向かう参道を進みます。240m程で山際に建つ二の鳥居の前に着きました。石の鳥居には「日枝神社」と刻した石製の神額が掲げられています。この石の鳥居の先は参道両側を杉木立がそびえています。
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二の鳥居から拝殿前までは約120m、途中からなだらかな石段を足元に注意して登ります。三の鳥居を潜り更に十六段の石段を登ると拝殿前の広場に出ます。正面拝殿前に石燈籠や狛犬が建っています。
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左手手前には神楽殿、拝殿の脇には小さな祠の境内社が祀られています。
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杉木立に包まれた境内は、時の流れが止まったような静寂の中に有りました。


大平町真弓の諏訪神社 [栃木市の神社]

栃木市大平町真弓の北の端、大平町蔵井との境に標高51mの小丘が有ります。北側から東側にかけて永野川が流れるこの小丘は、磯山と称して南麓中腹に「健御名方命」(タケミナカタノミコト)を祭神とする、「諏訪神社」が祀られています。
磯山の西の麓に沿った、県道252号線の旧道と思しき道の脇に、この諏訪神社の参道の入口が有り、石の鳥居が建っています。「諏訪神社」と刻した神額が掲げられています。鳥居の左手前には「郷社 諏訪神社」の石柱も建てられています。鳥居を潜り参道を進んで行くと、約100m程歩いた所で、二つ目の鳥居が現れます。
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(参道入口に建つ石の鳥居、神額「諏訪神社」)(参道途中に建つ、二番目の鳥居)
参道はその約80m先で車道を横断、その先は両側に杉木立がそびえる中を、参道が真直ぐに伸びています。杉並木の参道を更に100m程進んで行くと、参道の右手杉木立の先に、赤や青、黄色などで鮮やかに染められた滑り台やブランコなどの遊具の有る児童公園が見えます。公園に向かうとその奥に二階建ての家屋が見えます。
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(杉並木の参道の奥、社殿を望む)  (参道右脇の児童公園。奥の二階屋が社務所)
参道に戻り先に進みます。約30m程で三つ目の石の鳥居が有ります。鳥居の前後に石段が有ります。前が7段、後ろが24段です。鳥居を潜って石段を登った左手に手水舎、その裏手に古い井戸の後らしきものが有ります。手水舎の先に御神璽やお守の授与所が有ります。又右手の奥に先ほど児童公園に有った二階建ての建物の裏手二階部分から境内に通ずる橋が渡っています。建物は神社の社務所でした。
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(三番目の石の鳥居、ここから石段を登る)(社務所2階より境内に至る橋が架けてある。)
神社の社殿はここから更に一段高い所となり、21段の石段を登る事になります。石段手前左側に立札が立てられ、諏訪神社の祭神や由緒、例祭の碑に智などが記されています。
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(社殿前に向かう最後の石段)         (石段の脇に立てられた神社の由緒板)
最後の石段を登り拝殿の前に出ました。まずは参拝を済ませて、社殿の周りを散策しました。
拝殿中央に「諏訪大明神」と記した神額が掲げられています。その両側に安政六年(1859)と記した奉納額が掲げられています。「奉納百首歌合 花月雪」と題し、その後に百首の和歌が繊細な崩し字で記されてます。奉納板 川連榮四郎、 催主 真弓連となっていました。150年以上経ても、文字もシッカリ読む事が出来る、立派な奉納額です。
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(拝殿正面、神額の左右に「奉納百首歌合 花月雪」の奉納額)   (諏訪大明神の神額)
拝殿の屋根を見上げると、大棟の所に漆喰で出来ているのか、龍の装飾が施されています。このような装飾の屋根を私は初めて見ました。
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(拝殿の屋根、大棟の部分の龍の装飾)
境内には他に、「愛宕神社」や「龍神社」「白山社」「三日月社」「琴平社」などがお祀りされています。他に杉木立の中数基の石碑も建立されています。
社殿の裏手は岩場に成っていて、大きな石も見受けられます。岩場の脇にコンクリート製の円筒の構造物が建っています。前に立札が有り、それによると≪この水槽は昭和18年株式会社日立製作所栃木工場がこの大平の地に操業を開始した際、工場の工業用水供給の為建造され、その後昭和40年まで重要な役割を果たした当時を偲ぶ由緒ある建造物として爾今この水槽を永く保存するものである。≫と記されていました。
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(社殿裏手の岩場、右側に円筒の構造物が見える)     (構造物前に立つ説明板)
岩場の上に立つと北西方向に、太平山から晃石山の山並みが一望出来ます。
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今から40年以上も前になりますが、この岩場に天狗の足跡が有るという言い伝えを聞き、見に来た事や、白鷺が何羽も巣をつくっていると聞いて、見に来たりそんな思い出も有る磯山でした。

栃木市岩舟町の富士山に登って来ました。 [栃木市の神社]

今日は岩舟町静に有る、栃木市岩舟文化会館の裏手の富士山に登って来ました。
山頂に「浅間神社」が祀られており、その社殿の裏手に、建設省国土地理院設置の四等三角点「浅間神社」93.82mが有ると言うので、神社参拝と合わせて確認する事としました。(平成27年1月国土地理院発行2万5千分1の地形図「下野藤岡」には、富士山の標高は93.7mと記されています。)
「栃木市岩舟公民館」の駐車場に車を停めさせていただいて、登山の始まりです。富士山の周辺の標高は約30mですから、比高は60m強という事になります。
私の住まいの近くに有る「錦着山」は標高80.5mで、周辺は50m近くありますから、こちらは比高30mという事になりますので、これから登る「富士山」は、「錦着山」の2倍の高さとなります。初めて登るので楽しみです。
丁度文化会館の裏手に浅間神社の参道が有りました。参道入口に「浅間神社」と刻した、立派な石の鳥居が建てられています。鳥居の向こう側にほぼ一直線に山頂に向う石段が有ります。
石段は、きっちりしたものでは無く、登り道に登りやすいように平石を並べた格好です。脇にステンレスパイプ製の真新しい手すりが有ります。
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少し登り出した所で、もう私の心臓はバクバクして来ました。手すりが付けられている理由が直ぐ理解できました。早速手すりに助けてもらいながら参道を登って行きます。
途中から石段から岩場に変わってきました。手すりにシッカリつかまって、足場を一歩一歩確認しながら上を目指します。自分の体力の衰えを改めて知らされながら、必死の思いで足を運んでいきます。手すりにつかまった手で自分の体を引き上げます。
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やっと岩場の上に神社の屋根が見えて来ました。最後の気力を絞って拝殿の前に出ました。まずは拝殿向って参拝を済ませ、直ぐ脇に有ったベンチに座り込みました。
ここまで写真を一枚も写していません。そんな余裕などまったく有りませんでした。今日の最初の一枚はベンチに座ったまま撮影した浅間神社拝殿の写真でした。
良く登っている「錦着山」の登山道はスロープで山肌をジグザグに徐々に登って行くのに対して、この富士山は殆ど直登状態で、それも半分以上は岩場を登るのですから、シンドイ訳です。
一休みをして心臓が落ち着いてきたので、山頂を散策します。社殿の裏手に回ると有りました、三角点を示す国土地理院の建てた白い表示棒です。その脇の地表に露出した盤石に埋め込まれた、四等三角点 基本 №100580 建設省国土地理院と刻んだ金属製の丸いプレートが埋め込まれています。これまで見て来た柱石を建てた三角点とは異なる形式の三角点です。
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社殿の前に六角柱の石碑が建てられています。「享和三癸亥歳中冬十五日」とその一面に刻まれていますから、1803年の陰暦11月15日に建立されたものです。正面には「庚申猿田彦太神」、真後ろの面には「天下泰平五穀成就郷中安全」等、六面にそれぞれ刻まれています。
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展望は冬枯れの木立の間より、太平の山並みや三毳山。南に国道50号バイパス、多くの車が途絶えることなく走っています。夏季は木々に覆われて展望は望めそうも有りません。
下りも手すりを頼りに、一歩づつ足場を確認して山を下りました。高さはさほどでないと考えていましたが、地元の方が「富士山」と名付けた事に、納得できる山でした。



今年も残すところ、後4日間です [栃木市の神社]

今年、2015年も残すところ4日、今年も多くの災害や事件が有りましたが、せめて年末年始は穏やかに新しい年を迎えたいものです。テレビの番組も特番が多くなり、3時間、4時間と言う長時間物が多く、とても全部見ていられません。街に出ると何故か道路はどこも車が溢れ、渋滞して来ました。
リタイヤー族としては、毎日が日曜日の生活で、毎日同じ日常の繰り返しのはずですが、やはり周囲の雰囲気からか、どことなくせわしく感じる今日この頃です。
私の正月の過ごし方と言うと、元日の朝はゆっくりと起きて年賀状が届くのを待ちながら、ニューイヤー駅伝のテレビ観戦、それから地元の神社に初詣に出かける。2日と3日は殆ど「箱根駅伝」のテレビ観戦で過ごす。あっと言う間に正月三が日が終わってしまいます。
子供が小中学生の頃は、毎年「栃木市元旦マラソン大会」に参加をしていたので、1月1日は早朝から栃木総合運動公園の陸上競技場に出かけ、スタンドの上から声援を送っていた。
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(1999年大会にて)              (2002年大会にて)
この栃木市元旦マラソン大会も2016年は第40回目を迎える伝統の大会です。派手さは有りませんが、「1年最初の日を走ろう」と言う愛好者が毎年集う大会です。が、我家も子供達が大人になると、参加する事も無くなってしまいました。
今は、家族全員が揃う正月、揃って近くの神社に初詣に行くのが恒例になりました。一昨年の正月は太平山神社まで歩いて参拝しましたが、途中参道の階段は子供に後ろから押し上げてもらう有様、ここ二年間は旭町の神明宮に参拝、境内に設けられた「知恵授けの輪」を無限大の記号を描く様に3回潜って、「知恵」を授かっています。
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太平山神社への初詣は、車で行く場合、普通に行くと渋滞にはまる可能性が有るので、午前中早めに登るか、元日を避ける方が無難なのか。太平山神社に参拝した後は、見晴台から栃木市の街並みを一望したり、謙信平から岩船山方向を遠望。運が良ければ富士の霊峰を拝むことも出来る。
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そして太平名物三点セットを食べる。
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あ~! 三点セットが食べたくなりました。

皆川城内町の東宮神社(飾り馬と流鏑馬) [栃木市の神社]

栃木市皆川城内町の東宮神社へ先日久しぶりに出かけた。この神社についての最初の思い出は今から60年ほど昔のことで、本当におぼろげにしか浮かんでこない。それは5月大祭に行われた草競馬の風景なのか、ともかく大変な人出に、沢山の五色の旗が立ち、高く組まれた櫓、響く太鼓の音。それらが断片的に思い出される。両親に連れられて歩いてだが、何処をどう行ったのか、社殿の様子などは記憶に有りません。
その後は暫らく私の意識から遠ざかっていました。そして1978年(昭和53年)5月流鏑馬を見に行きました。その時も東宮神社の境内には大勢の人が来ていました。拝殿の前に1頭の神馬。たてがみの所に色鮮やかな飾りを付け奉納馬のお披露目のようです。
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(1978年5月祭りの日の境内の様子)        (綺麗い飾りを付けた神馬)
その後社殿の裏手に有る馬場に場所を変えて、流鏑馬が行われます。馬場に立てられた3ヶ所の的に向かって馬に乗った射手が矢を放ちます。1番目の的(早稲)、2番目の的(中稲)、そして3番目の的(晩稲)。矢が当たった的の収穫がその年は豊作となると言う占いとなります。
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(1978年5月撮影、五色の旗が立つ神社裏手の馬場)(流鏑馬の矢の行方を見守る観衆)
その年はその後地元の乗馬クラブによる草競馬も行われました。子供の頃見た光景もこんなだったのかも知れません。
今回、晩秋の東宮神社を訪れました。県道75号線(栃木佐野線)を栃木の市街地から西に進み、永野川に架かる「対嶺橋」を渡ると直ぐに、道路の右手に大きな鳥居。皆川城内町の東宮神社参道入口です。現在鳥居から社殿に向かう参道の途中に、東北自動車道が横切ってしまっている為、トンネル(正式にはボックスカルバートと言うらしい)を抜けると、目の前に境内への石段が現れます。
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(県道75号線脇に建つ鳥居)     (高速道路のトンネルの先に境内に登る石段)
車の場合は右手の坂を上がると駐車スペースが有ります。
石段を登ると正面に拝殿、右手に神楽殿、左手に社務所が有ります。
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(拝殿前境内の様子)
拝殿のまえには奉納された立派な狛犬や石灯籠が建てられています。
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(左側、吽形の狛犬)                       (右側、阿形の狛犬)
拝殿にて参拝を済ませ、振り返って南の方向を見ると、遠くに太平山から晃石山、馬不入山が広がっています。境内の直ぐ前には東北自動車道の遮音壁が無愛想な姿を見せています。
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(拝殿の前から南の方向を望む)
拝殿の脇を通って横側から本殿を拝みます。拝殿から一段高くなった本殿は一間社流造の見事な建物です。彫刻も見事で、特に向拝の竜の彫刻は恐ろしいほどの迫力が有ります。
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(東宮神社本殿)              (本殿向拝で睨みを利かす、見事な彫刻の竜)
東宮神社は、社伝によると天喜元年(1053)源義家が奥州下向の時、東国鎮撫を祈願して創建したものと云われております。その後、鎌倉時代の中期長沼宗政の孫の四郎宗員の時に、皆川氏が皆河荘へ入部、永享元年(1429)淡路守秀宗の時、神社の西方に皆川城を築き、それ以降東宮神社は皆川氏の守護神となり、手厚い保護を受けました。
東宮神社の祭神は、武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売大神の四柱で、皆川氏の始祖藤原秀郷であることから、藤原氏の氏神である春日大社をこの地に勧請したものと云われます。
訪れた日は天気も良く境内の柿の実もすっかり熟れて来ていました。
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(2015年12月神社境内にて撮影)

藤岡町に建つ田中正造翁の銅像と霊祠 [栃木市の神社]

先日、太平山の田村律之助翁の胸像の事を書いた時に、栃木市内にどれほどの人が銅像建立という形で、その功績を顕彰されたのかと、思いめぐらした。 宗教的には歴史的に著名な僧侶が、栃木市内の寺院等に見る事が出来ます。慈覚大師円仁(岩舟町下津原高平寺別院誕生寺)そして高慶大師(城内町2丁目圓通寺)です。
藤岡町藤岡、新開橋北詰の藤岡文化会館駐車場入口付近に建つ、田中正造翁の銅像は立派な鬚を蓄え、羽織袴で直立し、杖を両の手で支え、はるか前方の谷中村をジッと見据えている。
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像の高さは3.3m、大きな玉石を積み上げた台座を含めると7mにもなる。像の前に立って見上げると威圧感を感じる。作者は富山市小杉町の砂原放光氏で、昭和53年(1978)6月に藤岡町と田中会そして藤岡栃木ライオンズクラブによって建設されました。名盤の「田中正造翁」は足利市在住の島田宗三氏の筆跡。
脇に雨宮義人撰文になる、正造の生涯を記した碑も建てられています。
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但し、田中正造自身は銅像建立については、強く否定をしていたと云われています。
同所、藤岡文化会館の裏手にある「藤岡歴史民俗資料館」には、田中正造翁の遺品も多く展示されています。
銅像の前を流れる渡良瀬川左岸を約1km程遡ると、道路の右手田圃の先、大きな木立の中に神社の社殿らしき建物が見えてきます。ここが田中正造翁の遺骨の一部とカツ子夫人を祀った「田中霊祠」です。
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入口に説明板が建てられていました。境内には秋の深まった今、落ち葉が引きつめられ、参道脇のモミジが赤く色付いています。
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