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「赤い靴はいてた女の子」と童謡詩人「野口雨情」 [石碑]

昨年、北海道小樽を旅しました。
小樽運河沿いを散策した際、運河の北端辺りに有った「運河公園」の隅に建つ「詩碑」が目に入りました。
赤い靴親子像全景.jpg

「詩碑」の上部には、3・4歳に成るのでしょうか、ピカピカの赤い靴を履いた女の子。その子の手を取って座る和服姿の女性、そして隣にスーツ姿の男性が一緒に座る像が乗っています。
台座の正面に「赤い靴 親子の像」、その下に野口雨情が作詞した童謡「赤い靴」の一節が、記されたプレートが付いています。
赤い靴親子像近景.jpg赤い靴詩.jpg

今まで、私が知っている「赤い靴はいてた女の子」の像は、横浜山下公園内に建てられている、少女の像でした。
童謡「赤い靴」の歌詞に有るように、<横浜の 波止場から 船に乗って・・・>ですから、違和感もなく、その少女像を見てきました。
赤い靴履いてた女の子像.jpg赤い靴履いてた女の子像2.jpg

なぜ、北の小樽の地に「赤い靴」の少女像が建つのか。
小樽の「詩碑」の台座の横面に、なぜ小樽の地に赤い靴の少女と家族の像が建てられたのか、その由来となる話が、<童謡「赤い靴」と小樽の街>と題して掲示されています。
赤い靴親子像説明板.jpg

童謡「赤い靴」には、その歌のモデルとなった少女が実在していたと。女の子の名前は「きみ」ちゃん。2歳の時にお母さん「かよ」と一緒に、静岡から函館に渡ってきます。母親はそこで新たに男性「鈴木志郎」と結婚。少女はそこで外国人宣教師夫妻に預けられ、その後宣教師夫妻が帰国する時に、少女は重い結核の為、横浜から米国に渡ることが出来ず、東京の孤児院でわずか9歳で亡くなってしまいました。
母親は、娘を宣教師夫妻に預け、それ以降の事情は知らなかったらしく、童謡の詩に有るように、宣教師夫妻の国に行って幸せに暮らしていると信じ続けていたのでした。

野口雨情が、この「赤い靴」を作詞したいきさつも記されています。
<母の再婚相手「鈴木志郎」は、1907年札幌の「北鳴新報」に就職して、そこで「野口雨情」と出会い、家族ぐるみの交流を深め、そこで外国人宣教師夫妻に預けた娘の話を打ち明け、それが雨情の詩となり、1922年童謡「赤い靴」が生まれた。>と。

野口雨情は、この「赤い靴」を始め多くの童謡を作詞しています。
「青い目の人形」や、「七つの子」、「黄金虫」、「シャボン玉」、「あの町この町」、「兎のダンス」、「証城寺の狸囃子」、「船頭小唄」などなどです。これらの歌は私が子供の頃、良く口ずさんだ歌ばかりです。ですから不思議なくらい、今でも歌うと歌詞がスラスラ出てきます。

北原白秋、西條八十、そして野口雨情。童謡界の三大詩人と言われていますが、この野口雨情が亡くなる晩年を、栃木県宇都宮ですごしています。雨情が棲んでいた家屋が、現在も保存されて残されています。
野口雨情旧居.jpg
野口雨情旧居案内板.jpg

先日、その野口雨情の旧居と、雨情が生活した羽黒山周辺を少し散策してきました。
雨情旧居の脇には、二基の石碑が建てられています。
一つは台座の上に、馬の頭部と、その首にしがみついて目を閉じる少女の上半身の像です。台座部分にその像の題名でしょうか、「童心馬」と陰刻されています。さらにその下に童謡「あの町この町」の一節が刻されています。
そしてもう一基、「詩人野口雨情 ここにて眠る」 揮毫した人は、その当時の宇都宮市長 佐藤和三郎。碑陰を見ると、「先生愛用の筆と硯を納め 宇都宮雨情会これを建てる 昭和四十一年四月十二日」と有りました。この石碑は雨情の筆塚の上に建てられている物でした。
因みに先の「童心馬」の碑も、宇都宮雨情会が建立したもので、昭和六十三年五月二十九日と記されています。
童心馬像.jpg筆塚.jpg

先に掲載した「野口雨情旧居」の写真を見て頂くと、家の裏側は竹や雑木に覆われて見えますが、建屋の直ぐ裏手は羽黒山の山裾が迫っている所で、現在は宇都宮市の「土砂災害警戒区域」に指定されています。又旧居の北側には、県道4号線(鹿沼街道)が東西に通っています。
旧居の直ぐ東隣に現在、和菓子店「乙女屋」鶴田店さんが有り、店舗内にて「雨情」のパンフレットを配布して頂けると言う事で、一部頂いて来ました。パンフレットは、「宇都宮市明保地区明るいまちづくり協議会」が発行したものです。
パンフレットによると、<昭和18年2月に軽い脳出血に侵され、体調も思わしくなく、また東京への空襲が激しくなったため武蔵野市吉祥寺から疎開して療養の生活を求め、現在の宇都宮市鶴田町はへ。・中略・ 雨情が移り住んだころの羽黒山麓辺りはまだ純農村で、雨情の屋敷は1.7ヘクタールの柿園とイチゴ畑に囲まれ、脇の鹿沼街道は閑散とし、療養生活には静かな環境でした。以下略・・>

周辺の概略図を作成しましたので、参照して見てください。
野口雨情旧居周辺概略図.jpg

この宇都宮市鶴田町の羽黒山は、標高約150メートルで、比高は20メートル程あります。山頂に「稻倉魂命」を祭神とする羽黒山神社が祀られています。
羽黒神社.jpg

社殿の前方にも、雨情の詩碑が建てられていました。大きな自然石に「蜀黍畑」の詩が陽刻されたプレートが取り付けられています。「蜀黍」は「モロコシ」と読むそうです。
モロコシ畑の碑.jpg

この石碑は、野口雨情生誕百年を記念して、宇都宮雨情会が建立しています。

この羽黒山頂からの眺望もなかなか良く、東方向には宇都宮の市街地が広がっています。かつて雨情が見た時には、一面の田畑だったでしょうが。
羽黒山頂からの眺望.jpg

又、雨情旧居の道向う、鹿沼街道の北側歩道脇にも雨情の詩碑が建てられています。こちらの石碑にも、童謡「あの町この町」の一節が陰刻されています。
「あの町この町」詩碑.jpg

こちらの詩碑は、昭和三十三年四月二十七日に建てられています。周辺に建てられた雨情の石碑、四基の中では、最初に建てられたものです。

これらの石碑の他にも、周辺には雨情の名前を付けたものが散見されました。
先ず、鹿沼街道を東方向に行くと、鶴田町を北から南に縦貫する、「宇都宮環状道路」との交差点に有る陸橋の名称に、「宮環・雨情陸橋」と「雨情」の名前がありました。そして更にその先に進むと「駒生川」に架かる橋の名称も、「雨情橋」となっていました。
宮環・雨情陸橋.jpg雨情橋.jpg

この町を散策していると、野口雨情がその作品とともに、この町の人達の心の中に、生き続けているような、そんな感じを抱きました。









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壬生町の精忠神社境内に建つ「畳塚碑」 [石碑]

栃木県壬生町の市街地中心部に、かつての壬生城の一部が残っています。その城跡の北西部に「精忠神社」が有ります。
精忠神社の門.jpg
(精忠神社入口に建つ御門)

精忠神社の拝殿.jpg
(精忠神社拝殿)

入口の門の脇に立てられた神社の案内板によると、「精忠神社」の祭神は、精忠霊神(鳥居彦右衛門元忠公)に成ります。
この神として祀られる「鳥居彦右衛門元忠」とは、どのような人物だったのでしょうか。2019年に発行された「壬生藩」中野正人・笹崎明著(現代書館)を借りると、<鳥居元忠は忠吉の三男として天文八年(1539)三河国渡(渡里とも、愛知県岡崎市)に生まれた。長兄忠宗は渡合戦で戦死、次兄仁蔵(本翁)は出家していたので元忠が家督を継いだ。 十三歳の天文二十年、今川氏の庇護下にあった当時十歳の竹千代(家康)に近侍するため父に従って駿府に赴いた。><家康の幼少期からの側近>でした。
其の後、常に家康の元に居て、戦乱の世を家康のために忠義を尽くした。その遺功により譜代大名鳥居家の家祖として崇拝されてきました。
正徳二年(1712)、近江国水口より壬生藩へと国替えとなった鳥居忠英(ただてる)は、壬生城の隅に壬生氏の祖「鳥居元忠」を祀りました。
そして、寛政十一年(1799)神祇官領吉田家より「精忠霊神」の神号をうけています。

その「精忠神社」社殿の丁度真後ろに、「畳塚碑」と篆額に刻した石碑が建てられています。
畳塚碑1.jpg
(社殿の真後ろ、玉垣に囲まれて建つ「畳塚碑」)

畳塚碑2.jpg畳塚碑3.jpg
(石碑の上部「篆額」に刻された「畳塚碑」の文字は、正五位子爵鳥居忠一が揮毫しています。)

この石碑が建てられた時期は、碑陰に<即位式御大典紀念大正四年十一月>の記載が有りますから、大正四年(1915)十一月十日に京都御所紫宸殿にて行われた「即位の礼」を紀念してその時に建てられたと思われます。

この石碑が建てられた場所には、鳥居元忠が慶長五年(1600)の伏見の戦いで自刃した時、その血で染まった畳を石函に入れて納められています。この血染めの畳はその後、関ヶ原の戦いで勝利し、天下を取った徳川家康が、江戸城中の伏見櫓の階上に置いて、登城する諸大名に鳥居元忠の忠義を手本として示していました。
王政復古によって江戸城が明け渡され事で、壬生藩の所蔵する事となり、鳥居氏の壬生上稲葉赤見堂邸にて保管され、その後明治17年鳥居氏の旧臣等が謀って、石函に入れ精忠神社の裏に納め「畳塚」と称していました。
「畳塚」案内板.jpg
(「畳塚」の手前に建つ説明板)

石碑の碑文にはそれらの経緯が記されていますので、書き写しました。
畳塚碑(碑文).jpg

この碑文を見ると<元忠>の文字は見えません。
碑文冒頭に出てくる、<我鳥居氏中宗龍見公>に見える<龍見>が<元忠>の戒名の院号のようです。
漢文で記されている為、読み砕くのは私にとっては困難な作業で、お手上げ状態です。
一つ一つ単語の意味を調べて、そこから文章全体の意味を推し量るのが一杯で、間違って解釈をしているかも知れません。
例えば単語の意味を見ると、「中宗」は「中興の主」・「殉國」は「国のために命をなげ出す事」・「藺席」は「リンセキ(むしろ)」・「斑斑」は「まだらなさま」などなど。
漢字自体も「旧字体」が多く使われ、読むこともままならず、書き写す事が出来ただけで、少し満足感が味わえました。
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渡良瀬遊水地周辺に分布する「決潰口跡」の碑を巡る [石碑]

栃木市を貫流する一級河川「巴波川」や「永野川」では、令和元年の東日本台風(台風19号)の際に、堤防決壊や溢水等が多くの箇所で発生、大規模な浸水被害をもたらしました。
現在、これら決壊箇所を始めとして、大規模な河川改修工事が進行しています。栃木市街地中心部を流れる「巴波川」に対しては、栃木第三小学校上流に架かる「原の橋」から市街地を抜けた「学悠館高校」北東部に架かる「平成橋」の間を地下トンネルで結び、増水した水を市街地をバイパスして下流に放流する事業計画が進行しています。
「災害は忘れたころにやってくる」とよく言われています。
栃木市でも昭和25年頃までは、毎年のように巴波川が溢れて、市街地を水浸しにしていたと言われています。栃木市内の老舗写真館が発行した写真集「片岡寫眞館」(片岡惟光編)には、明治43年の「大洪水」の貴重な写真が多数掲載されています。
その洪水も、昭和26年に完成した赤津川分水路によって、以前のような災害は殆ど発生しなくなりました。数年前まで私はこう考えていました。「栃木市は、映画館も大規模ショッピングモールも、工業団地も無い。でも、海も無いし険しい山も無い、関東平野の豊かな田園地帯に囲まれた地域で、大きな自然災害も無い安全な街。住むには最高の街だと。」
でも、ここ数年再発する台風や豪雨で発生した浸水被害等を目の当たりにすると、災害に対する備えは常に大切なことだと考えを改めています。

そこで、今回巡る石碑は栃木市の南部に広がる「渡良瀬遊水地」の周辺に建てられた「決潰口跡」の碑に成ります。
この「決潰口跡」の碑、私が確認したのは全部で五基です。
1基目は、栃木市藤岡町部屋で、巴波川に架けられた橋「巴波橋」の上流左岸の堤防の上に建てられています。【題字揮毫者は当時の部屋村長 島田清一氏】
2基目は小山市の渡良瀬遊水地第2調節池の北東側、生井桜づつみ公園内に建てられています。
【題字揮毫者は当時の生井村長 立野 茂氏】
栃木市藤岡町部屋に建つ碑.jpg小山市生井桜づつみ公園に建つ碑.jpg

3基目は群馬県板倉町海老瀬地先、渡良瀬湧水地北エントランス入口から堤防上道路を少し南に行った所に建てられています。堤防に沿って走る県道佐野古河線を走ると、堤防の上に建っているのを見ることが出来ます。 【題字揮毫者は当時の群馬県知事 伊能芳雄氏】
4基目は埼玉県加須市向古河地先、3基目と同様に県道佐野古河線を走ると三国橋の手前、東武日光線の新古河駅東口に通ずる丁字路近く、渡良瀬川右岸堤防上に見ることが出来ます。
【題字揮毫者は当時の北川辺領水害豫防組合管理者 出井菊太郎氏(旧北川辺名誉町民第一号)】
群馬県板倉町海老瀬に建つ碑.jpg埼玉県加須市向古河に建つ碑.jpg

そして最後、5基目は同じく埼玉県加須市ですが、場所は少し離れて新川通地先、利根川の右岸堤防上、カスリーン公園内に建てられています。【題字揮毫者は当時の埼玉県知事 大沢雄一氏】
埼玉県加須市新川通カスリーン公園に建つ碑.jpg

これらの5基の石碑の建立位置をしるした、概略図を作ってみましたので、参考にして下さい。
渡良瀬遊水地周辺地図.jpg

これら5基の石碑はその外観形状はまちまちですが、石碑の表の題字は全て同じで「決潰口跡」です。そして、碑陰に刻された碑文の内容も概ね同文、異なる点は石碑が建てられた堤防の決壊に伴い、被災を受けた地域の違いです。
碑文冒頭の、<利根川の治水のために カスリン台風に因る異常な降雨を集めた利根川>の部分、そして<は昭和二十二年九月十五日夜半>の部分、さらに<昭和十年と昭和十六年>以降碑文最後までの文言は全て同一文章になっています。そして最後の日付も<昭和二十五年九月十五日>と、その後に続く撰文者<利根川上流工事事務所長 横田周平>も全て同じでした。
碑陰に刻された碑文を書き写しました。5基全て紹介します。
栃木市藤岡町部屋に建つ碑文.jpg
小山市生井桜づつみ公園に建つ碑文.jpg
群馬県板倉町海老瀬に建つ碑文.jpg
埼玉県加須市向古河に建つ碑文.jpg
埼玉県加須市新川通カスリーン公園に建つ碑文.jpg

碑文に記されている通り、これら5基の石碑は、昭和22年9月15日の夜半に関東地方を襲った「カスリン台風」により、相次いで堤防決壊をしそれぞれの地域にて大規模な洪水被害をもたらした事実と、その原因として防災対策の不備を指摘し、不断の治水の必要性を後世の我々に伝える為の、防災祈念碑でした。

埼玉県東村(現在の加須市)における、利根川本流の堤防決壊は、その碑文にも記されている通り、<その濁流は遠く東京都を浸しました>という、大きな被害をもたらしています。
この⑤の「決潰口跡」の碑が建てられた場所は、現在「カスリーン公園」として整備され、平成9年9月16日「カスリーン台風の碑」も新たに建立され、被害の状況等を写真等で紹介をしています。
カスリーン台風の碑.jpg

私が現地を訪れた今月22日も、公園周辺では「利根川・江戸川流域治水プロジェクト いのちとくらしをまもる防災減災 国土強靭化対策工事」の真っ最中でした。
「決潰口跡」の碑文で訴えている「不断の防災対策」が今、しっかりと進められています。
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壬生町下馬木地区神明宮境内に建つ石碑 [石碑]

壬生の市街地の北側に下馬木という地区が有ります。国土地理院が発行する2万5千分1地形図「壬生」を広げると、壬生の市街地から北西にのびる国道352号と北関東自動車道とが交差する地点右脇に「下馬木」の地名が記されています。
「下馬木」の読みは「げばき」です。インターネットのグーグルマップにて「下馬木」の地名で検索すると、北関東自動車道の更に北側、県道221号(国谷家中停車場線)北側に広がる「嘉陽が丘ふれあい広場」の近くに「下馬木公民館」が表示されました。住所は「栃木県下都賀郡壬生町上稲葉1058」となっています。
しかし、壬生町の字名を調べてみると、昭和29年11月3日に壬生町と稲葉村とが合併した当時の資料によると、大字壬生の地域に「下馬木」「下馬木東」「下馬木西」「下馬木前」などの小字名が見えますが、大字上稲葉の地域には「下馬木」という小字名は見当たりません。ただ、「下馬木」という地域は壬生町と稲葉村との境界に有ったようです。
昭和30年8月20日、栃木県町村会発行の「栃木県市町村誌1955年版」に掲載されている、「稲葉村」の地図には、壬生町との境界線の北側に「下馬木」の文字が記されています。

「下馬木」の場所が大よそ分かったところで、今回の目的の石碑が建つ「神明神社」を、又グーグルマップにて検索すると、周辺の「神明神社」としては、壬生町安塚や、栃木市嘉右衛門町などが出ました。同時に「神明宮」として栃木市旭町の住所の外に、壬生町壬生乙2898イの所在が表示されました。
この「壬生町壬生乙2898」の住所が、上記の境界近くに位置する事が確認されたので、早速現場確認に行ってきました。チョッと分かり難い所でしたが、何とかたどり着くことが出来ました。
神明神社.jpg
(壬生町壬生乙の北の境界近くに建つ神明宮、社殿に向って左脇に石碑が建てられています。)

社殿は東向きに建てられていて、境内の北側に建つ建物には「下馬木公民館」の表示板が掲示されています。
石碑を眺めてみましょう。
石碑全景.jpg篆額部分拡大.jpg
石碑正面上部に「篆額」、その下に碑文が私の苦手な漢文体で刻まれています。文字ははっきり見ることが出来るので、書き写しました。
下馬木溝渠碑(碑文).jpg

石碑上部の篆額には、「下馬木溝渠碑」と篆書体で書かれています。揮毫した人物は、「正五位子爵貴族院議員鳥居忠文」です。
この鳥居忠文という人物については、「シリーズ藩物語・壬生藩」に詳しい。壬生藩祖「鳥居元忠」から数えて13代目に当ります。大名の身分は12代「鳥居忠宝」までで、忠文が家督を継いだのは明治になってから。
碑文は、「伊東久賢」の撰文及び書と有ります。石工は「栃木泉町 清水政次郎鐫」と石碑左下隅に彫られています。碑が建てられたのは、「明治30年(1897)3月」です。

碑文の内容は、此下馬木地区は水利に恵まれず、畑ばかりで水田が出来なかった為、「増田才兵衛」「葭葉吉五郎」「殿塚久米右衛門」「葭場禮助」という四人の人物が中心となって地区住民一丸となって、大工事の末に下馬木用水を完成させた事が記されています。
この「下馬木用水」は壬生町の歴史の中でも、石碑に刻まれ残されていたことも有り、「壬生町史」の通史編や民俗編、「栃木県土地改良史」等、多くの文献に掲載されることとなりました。

今回参考にした資料:
・壬生町史、通史編及び民俗編 壬生町発行
・シリーズ藩物語 壬生藩、現代書館発行
・栃木県の地名、 平凡社・1988年8月25日発行
・栃木県土地改良史 栃木県土地改良事業団体連合会発行
・25000分1地形図「壬生」国土地理院発行
・栃木県市町村誌1955年版、栃木県町村会発行
・栃木県町村合併、第四巻 栃木県発行
・グーグルマップ




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大平町榎本の街中に建つ常夜燈 [石碑]

栃木市大平町榎本の街中に、一基の常夜燈が建っています。常夜燈と言えば、神社や寺院の境内では普通に見られますが、街中の道路脇に建つ常夜燈は、それほど見ないと思います。栃木市内にて私が確認したものでは、この榎本の物を含めても、三基だけです。
先ず榎本の常夜燈の姿を紹介します。
常夜燈(榎本)1.jpg
見た感じは、すらっと背が高くて、竿の部分や基礎・中台そして火袋など、どこも四角形を呈していて、余計な装飾も無く、スッキリとしています。
道路脇を流れる用水堀の上に、平石を渡してその上に建てられています。
なぜ、この場所に建てられたのか。
元々、街道の道路脇に建てられていたが、明治時代に入って、道路の中央に有った水路を、道路の両脇に移動したときに常夜燈はそのまま水路の上に建つ形になったものと推測されます。

では、常夜燈は榎本のどの辺りに建つの、概略地図を作成して見ました。
榎本周辺地図.jpg
元々、ここ榎本は日光街道の小山宿と、日光例幣使街道の茂呂宿・同犬伏宿(現佐野市)とを結ぶ脇往還の中ほどに位置しています。上の概略地図にオレンジ色で着色した道路がかつての往還に成ります。
佐野方面から東進して来て、大平町西水代にて永野川に架かる千部橋渡った先で道路は丁字路に突き当たります。往還はここを左折して北進します。100メートル程で常夜燈の前に成ります。
そこからさらに北進する事400メートル程行くと、道路は又、丁字路に突き当たります。小山方面はここを右折して東進します。
此の東西にのびる通りが、榎本の本町通りで、先程の南北にはしるのが、榎本の荒町通りに成ります。この鉤の手に曲がった二つの通りが榎本宿の主体ですが、荒町は以前は「新町」と書いたようで、榎本宿では新しく開けたエリアで、「本町」が先に拓けたエリアと言う事に成ります。この本町の北側に中世から近世初頭に、小山氏一族の支城「榎本城」が有り、その城下町として形成されたエリアで、それを物語るように、此の東西にのびる道路の西の端に「八坂神社」が。そして通りの南側に沿って並ぶように三つの寺院が配されています。
榎本・本町通り.jpg
上の写真は、本町通りを西方向に向かって写したもので、通りの両側に水路が有り、通りの西の突き当りに「八坂神社」を望むことが出来ます。
榎本・荒町通り.jpg
この写真は、荒町通りの常夜燈付近から北方向を写したものです。やはり通りの両側に水路が有り、右手に常夜燈が写っています。前方の交差点は昭和37年頃に開通した「新道」(現在の県道36号線)です。

常夜燈のことに話を戻します。先の概略地図を見ても分かるように、この常夜燈の建てられた場所は丁度「荒町」の町並みの中央地点に当っています。
常夜燈を正面(道路側)から見ると、「竿」の部分に篆書体文字で刻されているのは、「両社大神宮」。
そして、南側面には「享和三癸亥八月十五日」と、おそらくこの常夜燈が建立された日付でしょう。西暦では1803年9月30日に成ります。時代的には江戸時代後期に入ったころ、栃木市を見ると、喜多川歌麿が「深川の雪」を書いていたころです。
常夜燈(榎本)西面.jpg常夜燈(榎本)南面.jpg

ところで、正面に彫られている「両社大神宮」とは、どこに祀られたどんな神社なのか。常夜燈の北側面にその答えは有ります。
常夜燈(榎本)北面・東面.jpg常夜燈北面一部拡大.jpg
そこには3行になって、「大権現」の名称がやはり篆書体文字で彫られています。
右が「秋葉大権現」 中央が「金毘羅大権現」、そして左側が「妙義大権現」(チョッと自信がないが)の三社です。上部の文字を拡大しても篆書体文字の解読は難解です。

「秋葉大権現」は、「秋葉山本宮秋葉神社」の公式サイトで確認すると、「火防の神様」 創建は和銅二(西暦709)年と伝えられる。江戸時代には全国に秋葉講が結成される。
住所は、静岡県浜松市天竜区春野町。そこに標高885メートルの秋葉山が聳える。
祭神は、火之迦具土大神(ヒノカグツチノオオミカミ)

「金毘羅大権現」は、香川県琴平町の象頭山に天竺から飛翔し鎮座した山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神。本地仏は不動明王、千手観音、十一面観音など諸説ある。明治初年の神仏分離・廃仏毀釈が行われた以降は、大物主とされた。金毘羅権現は海上交通の守り神として信仰されてきた。

「妙義大権現」は、公式サイトによると其の由緒は、「妙義神社は、奇岩と怪石で名高い妙義山の主峰白雲山の東山麓にあり、老杉の生い茂る景勝の地を占めてる。
創建は、「宣化天皇の二年(537)に鎮祭せり」と社記にあり、元は波己曽(はこそ)の大神と称し後に妙義と改められた。
古くより朝野の崇敬特に篤く、開運、商売繁盛の神、火防の神、学業児童の神、縁結の神、農耕桑蚕の神として広く世に知られ、関東、甲信越地区より参拝する者が多い。
住所は、群馬県富岡市妙義町妙義。

どれも考えてみれば、遠方の神社ですが、江戸時代後期はこうした「講」が盛んだった証しの常夜燈なのでしょうか。

次に東面(裏側)を見てみます。
常夜燈裏面文字拡大.jpg
ここも篆書体文字。これをどう読むか、色々調べた結果、確実ではないですが「永代夜燈」と考えられます。「常夜燈」と同じと考えます。

最後に、先日常夜燈の寸法を計測してきましたので紹介します。ただ、全高さや笠部分は手が届かないので、測定できませんでした。
常夜燈の概略寸法.jpg

付け足しで、栃木市内の外の二ヵ所の常夜燈を簡単に紹介しておきます。

一基目、これも大平町です。日光例幣使街道の富田宿の北の出口付近。残念ながら破損をしていて竿の部分まで、その上の火袋等は有りません。
常夜燈(下皆川).jpg
常夜燈(下皆川)北面・東面.jpg常夜燈(下皆川)西面.jpg
建立された時期は、文政二年(1819)です。榎本の常夜燈から16年後に成ります。
これに関連した記事を2017年10月11日の、「日光例幣使街道富田宿を歩く」の中で少し書いています。

もう一基の常夜燈は、川原田町の粟野街道分岐点に建っています。
常夜燈(川原田).jpg
常夜燈2(川原田).jpg常夜燈3(川原田).jpg
建立された時期は、安政四年(1857)です。榎本の常夜燈から54年後で、この10年後には徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸から明治に時代が変わります。
こちらの常夜燈に関しても、2016年11月19日の、「川原田町粟野街道の分岐に建つ常夜燈」と題して書いていますので、興味のある方はそちらも覗いて見てください。

今回参考にした資料:
・明治前期測量2万分1フランス式彩色地図「栃木県小山市下都賀郡大平町地区」、日本地図センター発行
・栃木県の地名、平凡社発行
・秋葉山本宮秋葉神社、インターネット公式サイト
・金毘羅権現、ウィキペディア
・妙義神社、インターネット公式サイト

尚、今回の現地調査では、常夜燈の近くに住む知人からも、地元ならではの貴重なお話をお伺いでき参考に成りました。

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無法松之碑 [石碑]

この間の三連休を利用して、九州に旅しました。
北九州空港からバスに乗ると、JR小倉駅には40分程で到着します。
小倉駅南口前に、祇園太鼓のモニュメントが有ります。
小倉祇園の像.jpg
台座部に「小倉祇園太鼓」の説明文が刻されています。
小倉祇園太鼓の説明.jpg
<小倉祇園は豪快にして優雅な北九州年中行事の花である。起源は細川三斉公の築城の頃に発し、小笠原氏の入国後はさらに盛大になり 歴史を重ねてこんにちに至った。三百年の傳統と光栄にかがやくゆかしい文化財である。毎年七月十一日十二日の両日におこなわれる祭禮には全市に祇園太鼓の列があふれ、老若、技を競って打ち鳴らす。父祖伝来のばちさばきは勇壮軽妙 千変万化して 見る者をして恍惚たらしめるものがある。梅雨あけの空にとどろく太鼓のひびき、山車の上にゆれる笹ちょうちんの灯、太鼓祇園の光景は城下町小倉の美しい情緒を傳えてあますところがない。>と。

小倉祇園太鼓について、今年の祭ガイドブックから抜粋させて頂くと、
<小倉祇園太鼓は、全国的にも珍しい両面打ちです。巡行する山車の前後に据えた太鼓と、ヂャンガラ(摺り鉦)が織りなす独特の調べが特徴で、太鼓は皮の張り方により面の音が異なります。低く腹に響く音がする面を「ドロ」、甲高い音の面を「カン」といい、軽やかな音で踊るように打ちます。二つの音をヂャンガラに合わせて「品良く力いっぱい打つ、地味に叩いて良く鳴らす」というのが正調です。>となります。駅前の「祇園太鼓」のモニュメントも三人構成になっています。

新型コロナ感染拡大の影響を受けて2年連続中止を余儀なくされていた祭も、今年は3年ぶりで復活しました。私が小倉に到着した日は、「宵祇園」に当り、夕方から町内各所で太鼓の音が鳴り響いていました。私も太鼓の音に引かれて、宿所を出て近所の公園や街中での、小倉祇園太鼓の演奏に酔いしれてきました。
太鼓共演1.jpg
町内廻り.jpg
 
小倉祇園太鼓と言うと、映画「無法松の一生」が思い出されます。私が子供の頃に両親に連れられて、映画館に見に行った記憶が有ります。
歌謡曲にも、村田英雄のデビューシングル「無法松の一生」が、1958年7月に発売されています。

この「無法松」と呼ばれた人物は、小倉の作家岩下俊作の小説「富島松五郎伝」の中に作り出された架空の人物、人力車の車夫「松五郎」です。
<小倉、古船場の木賃宿宇和島屋を寝ぐらとする人力車夫、富島松五郎は度胸の良さと喧嘩っ早さから「無法松」と呼ばれていた。ある時、怪我をして泣いていた子供を家へ連れて行き、吉岡大尉の夫人、良子に一目惚れをしてしまう。或る年の祇園祭りの夜、松五郎は内に秘めた恋心を祇園太鼓にたくし、敏雄と教師の前で見事な妙技を披露する。・・・・>(富島松五郎伝より)
私が見た映画では、松五郎を演じた三船敏郎が、撥さばき鮮やかに太鼓を打つ姿が思い出されます。「これが祇園太鼓の流れ打ちだ!」 「今度は勇み駒だ!」 「今度は暴れ打ちだ!」 と、太鼓のリズムは急ピッチにエスカレートしていく。

今年の4月19日未明の「旦過市場」の火災は、テレビニュースにもなり周知のとおりですが、この旦過市場の横を流れる「神嶽川(かんだけがわ)」を上流側に少し遡上した点に架かる「天満橋」の右岸、古船場町側に「無法松之碑」が建てられています。
無法松之碑全景.jpg
正面の石碑には、「無法松の一生」の原作「富島松五郎伝」の作家、岩下俊作が書いた「無法松之碑」の文字が碑面一杯に、大きく・力強く刻まれています。石碑裏側には、「昭和三十四年三月四日」の日付が刻まれています。石碑が建立された時期でしょうか。この日付の前年、1958年(昭和33年)4月22日公開された三船敏郎主演の映画が、その年の第19回ベネチア国際映画祭で最高の「金獅子賞」を受賞しています。

無法松之碑太鼓左.jpg無法松之碑太鼓右.jpg

街中にいつまでも響く太鼓とヂャンガラの音に、後ろ髪を引かれつつ宿所に戻りました。

今回参考にした資料:
・2022小倉祇園太鼓ガイドブック
・「日本名作シナリオ選 上巻」日本シナリオ作家協会発行

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巴波川廃川敷開田記念碑から [石碑]

巴波川と永野川の河道図.jpg
冒頭に何か分からない線図を掲示して見ました。赤と青、2色で描かれた線図。
この線図に描かれた線が、何を示しているのか。ちなみに上下に同じように並んでいるのは、その違いを比較するためのものです。
少し情報を増やしてみたいと思います。
巴波川と永野川の河道図1.jpg
既に分かったと思いますが、北(N)の方角を示す記号があります。上下に同じ地域の地図が並んでいます。
上側の図は栃木市大平町の大字名が緑色で、小山市の大字名が茶色で表示されています。
赤の線で描かれているのは県道で、青色は河川の河道になります。上が「永野川」下が「巴波川」と言う事になります。
一方、下側の図は上図の大字名が全て村名となっています。道路の名称も現在の物ではありません。

上側が現在の様子を表した図で、下側は明治前期に発行された迅速測図を基に作成したものです。
現在の河道と比較して、明治前期頃の河道は各所で蛇行して流れていたことが確認できます。又、同様に道路の様子も現在はいかにもスッキリとした物に変わりました。

今回は小山市生駒付近に見られる巴波川の河道の変貌を探っていきます。(明治前期の図の生駒村と下初田村の間に見られる、コブの様に流れている所になります。)

その部分を更に詳細に作図して見ました。
小山市生駒付近の巴波川河道の変遷.jpg
上の図の中央部を上から下に描かれているのは、現在の巴波川の河道になります。架かっている橋は現在の物です。
新田橋の所を見ると、明治期の河道が記されていますが、現在の河道から大きく左岸側に蛇行して、コブの様になっています。
その蛇行した川の流れを、ショートカットして現在の河道を開鑿した事が見てとれます。目的は何だったのでしょうか、そしてそれは何時頃行われたのでしょうか。
これまで私は、先ず地形図からその変化を絞ってきましたが、国土地理院発行の地形図で調べていくと、厄介なことに丁度この辺り、小山市大川島や生駒で地形図の境界が有り、大川島は「下野藤岡」、生駒は「小山」に分かれます。ちなみに2万5千分1の「小山」の地形図で調べてみると、昭和7年11月30日発行では、巴波川は大きく東に蛇行した明治期の河道と変わっていません。次に昭和22年9月30日に発行されたものも、更新されず前回のまゝになっています。次に発行された昭和40年8月30日の地形図でやっと、巴波川は新しい現在の河道が開鑿され新田橋が記されています。
地形図で道路や河川の変化を調査していくと、いつも昭和初期の空白期間にぶつかります。それは先の大東亜戦争の前後に地形図の更新がされていない為です。

最近インターネット上で、国土地理院から空中写真の閲覧が可能な情報が公開されています。それを検索していくと、確認できるもっとも古い空中写真は、昭和16年(1941)4月11日(撮影計画機関:陸軍)撮影が有りましたが、その写真を確認すると、既に巴波川は新しい河道に変わっています。
やはり地形図に反映されるのはタイムラグがあり、正確な変化時期を特定するのは不可能です。

別な観点から、新田橋がいつ架橋されたのか分かればそれが一番ヒントになるのか、小山市がインターネット上に公開している情報の中に、小山市が管理している橋梁の一覧が有りました。その表に有りました「新田橋」橋の長さが45.6メートル、RC橋(鉄筋コンクリート橋)と有りますから、巴波川に架かる「新田橋」で間違いないと思います、架橋年は1936年(昭和11年)となっています。
新田橋.jpg新田橋1.jpg
(巴波川に架かる新田橋、右岸橋詰より撮影、車での通行は無理そうです。)

結果的に、新田橋が架かる巴波川の河道は、昭和10年頃に開鑿されたものと推察されます。

現地新田橋近くの、巴波川左岸堤防内法面に石碑が建てられています。近くに鳥居と小さな石の祠が祀られています。水神様でしょうか。
巴波川左岸堤防脇に建つ石碑.jpg
石碑正面には「巴波川廃川敷 開田記念碑」と有ります。この石碑の題字は「枢密顧問官陸軍大将男爵奈良武次書」と記されています。
碑陰に回ってみるとそこには、「紀元二千呂百年記念 開田成功之碑」として碑文が刻されています。
石碑正面.jpg碑陰に刻まれた文.jpg

写真では碑陰に刻された碑文が読めませんので、書き写てみました。
碑文.jpg
(線引きした右側が石碑の表面で、左側が碑陰に刻まれた碑文と関係者の氏名が記されています。)

碑文には、「紀元二千六百年の聖代を記念して後世に伝える為の事業を起そうと話し合い、その結果巴波川の改修に因って出来た廃川敷がそのまま荒れ果てたままになっているのを、開墾して美田に変えようと話がまとまり、関係する村民老幼婦女に至るまで、協力し合って見事に開田に成功したので、其の仔細を石碑に刻む。」と、其の分脈には美辞麗句が踊っています。

紀元二千六百年は西暦に直すと、1940年に当ります。この時代は前年に中国大陸で満州国とモンゴルとの国境線での紛争「ノモンハン事件」が起き。翌年1941年12月には、日本海軍が米国真珠湾を奇襲、太平洋戦争に突き進んで行った時で、まさに挙国一心となる時代背景でした。

巴波川の河道に戻ります。明治前期の地形図には、前出の詳細図の様に、小山市生駒での蛇行地点で、巴波川の流れは二俣に分流しています。右側の本流はU字に流れ、生駒橋を潜って南流しますが、左側に分かれた流れはL字に流れ、其の後生駒橋の東にある「蔵前橋」を潜って南流しています。
巴波川の本流から分かれたこの流れは、江戸時代から有る農業用水「品川用水」で、かつては「八ヶ村用水」と称していました。八箇村とは、小山市史資料編近世Ⅱに掲載されている資料、「文化二年(1805)三月 三蔵堰普請一件熟談につき願書」の中に記されていましたので、一部抜粋して引用させて貰います。<中郷下河原田村・小袋村・井岡村・鏡村・中里村・寒川村・迫間田村・新波村(都賀郡)八ヶ村用水之儀は、水上上河原田村地内字亀甲にて巴波川に堰を張用水を繰上品川と唱ひ段々分水致、・・・(後略)>と。ここで上河原田村は、現在の小山市生駒に成ります。
昭和16年に撮影された空中写真にも、巴波川は現在の河道に変わっていますが、「品川用水」の河道は明治期の河道に残っています。
昭和40年発行の地理院地図には、巴波川に設けられた堰から取水した水路が明治期の流れと同様の河道を辿って、蔵前橋を抜けて南の下河原田付近を巴波川の左岸堤防内側に沿って描かれています。
ここで巴波川に設けられた堰が「亀の子堰」に成ります。
亀の子堰.jpg
(巴波川の亀の子堰。左岸の水門が「品川用水」の取水口に成ります。右岸側から撮影)
先に引用した文化二年の古文書に出てくる「上河原田村地内字亀甲の巴波川の堰が、現在の堰の場所なのか明治19年の迅速測図に描かれている巴波川に二俣分岐点に当るかは、分かりません。

現在の品川用水路は、亀の子堰から取水後、巴波川の左岸堤防内側に沿って流れ、新田橋上流部辺りで暗渠に入り、「巴波川廢川敷開田記念碑」の正面を開渠になって生駒の蔵前橋に向っています。
先に掲示した石碑の写真で、石碑や医師の祠の前を流れる水路がこの「品川用水」に成ります。
ここから、その先の品川用水に沿って下って行ってみたいと思います。

蔵前橋上より上流側を写す.jpg
(上の写真は、蔵前橋の上から上流側を撮影したものですが、橋は2本の水路を渡しています。)
左側のコンクリート製の水路が「品川用水」で、右側の水路は巴波川上流の川島堰から取水した「清水川用水」の分流で、ここからさらに南流して与良川に落ちていきます。

蔵前橋下流の品川用水.jpg
(上の写真は蔵前橋の南側から、蔵前橋方向を撮影したものです。)
写真中央奥に白く写るのが「蔵前橋」で、写真右隅に「清水川用水の分流が見えます。

品川用水はこの後西方向に流れを変えて、巴波川の左岸堤防内側に沿って、「本郷橋」近くまで流れ、橋の手前で南に向きを変えて、小山市小袋方向に流れていきます。
下河原田を南流する品川用水.jpg
(上の写真は、大字下河原田字町屋付近。真直ぐ手前に流れてくるのが「品川用水」。前方の堤防が巴波川。分かり難いですが、本郷橋の高欄が堤防の上に覗いて見えます。さらにその左手奥に、太平・晃石の山並みが横に連なって見えます。
更に下流に移動します。南流する品川用水は国道50号の下を抜け、大字小袋そして大字井岡へ。
井岡付近の品川用水.jpg
(井岡の集落の東側を南流する品川用水)

この後品川用水は、水田地帯を潤しながら、大字鏡から大字迫間田方に向って流れていました。

江戸時代、寒川郡の村々の稲作に欠かせない水を供給していた「八ヶ村用水(品川用水)」は現在も、河川改修や土地改良などで姿を変えつつも、絶えることなく小山市西南部の田んぼを潤し続けています。

今回参考にした資料は:
・国土地理院2万5千分1地形図「小山」昭和7年・昭和22年・昭和40年発行。
・明治前期測量2万分1フランス式彩色地図「下都賀郡榎本村」「寒川郡中里村」
・小山市史 史料編近世Ⅱ (小山市発行)
・思川西部土地改良区ホームページ








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栃木市内で見つけた橋供養塔 [石碑]

栃木市内に架かる橋を見て回ると、よく橋の近くに石碑が建てられているのを見ます。
その多くは、橋を架けた記念としての「竣工記念碑」ですが、変わった所で橋を供養する碑が確認出来ます。
私がこれまで確認した「橋供養塔」は、栃木市内では3基、小山市中里の巴波川の堤に1基です。

最初に見つけたのは、永野川に架かる橋を見て回った時に、大平町西水代と榎本とを渡す旧「千部橋」の右岸橋詰に建つ「橋供養塔」です。
2013年5月25日千部橋(旧).jpg
(前方に架かる橋が、永野川の「千部橋」、その手前道路左手に笠石を載せた石塔が建っています。)

千部橋供養塔.jpg
(供養塔の隣に小さな石の祠も祀られています。後方に写る橋は上流側に架かる新しい「千部橋」で、かつてはこの道路は国道50号線でしたが、南側に新たに50号バイパスが開通した現在は、主要地方道岩舟小山線となっています)

供養塔を少し詳しく見ていきます。
1993年8月旧千部橋西橋詰供養塔.jpg供養塔西側側面拡大.jpg
(供養塔の道路側に面した部分には「千部橋供養」と刻され、向かって左面中央部分には「前方橋・・・」の文字が読みとれ、その右横に「享保十・・・・」、左側には「・十一月三・」と何とか読みとれますが、その下側は風化されてハッキリ読めません。

供養塔北側裏面.jpg供養塔北側裏面部分拡大.jpg
(石塔背面にも一面に、文字が刻まれています。周辺の村々の名がビッシリ並んでいます。
並木村・中村・真弓村・小林村・初田村・上泉村・下泉村・小袋村・押切村・新井村・古橋村・駒場村・曲嶋村等が確認出来ました。)

以上の断片情報から、この供養塔が建てられたのは「享保十年」ですから、西暦1725年と言う事で約300年前に建立されたもので、恐らくその時に旧「千部橋」も竣工したものと思われます。

次に見つけた「供養塔」は、巴波川の下流、小山市中里に架かる「雷電橋」の左岸下流側堤に建つ「土橋供養塔」に成ります。
土橋供養塔(小山市中里).jpg
土橋供養塔正面(小山市中里).jpg土橋供養塔碑文(小山市中里).jpg
この石碑は風化も無く文字もハッキリと読み取ることが出来ましたので、その内容を書き写しました。

建立年は「萬延元庚申年」と有りますから、西暦1860年となります。前の「千部橋供養」の塔から135年後となります。
下部に有る「椙木寄進連名」の「椙」は「スギ」の木の国字。又、寄進された金額、「一分」とか「二分」とかが幕末の価値でどの程度なのか、興味が有りますが算出が難しそうです。単純には4分が一両ですが、時代によって物価が変わりますから、価値がどの程度かは簡単では有りません。

その隣に建つ小さ目の石塔もチョッチ気に成ります。石碑中央に刻まれた文字は「奉□□庚申供養塔」。日付けは「元文五庚申□ 八月吉日」と有り、西暦1740年です。こちらの石塔は「中里村」と刻されています。この二つの供養塔、共に庚申年に建てられています。こちらも橋の架橋に関連が有るのか疑問が残ります。「庚申」の上部の二文字がハッキリしないからです。

橋供養塔のあとの二つは、藤岡町史を見ていて、その存在を知ったものです。掲載部分を抜粋紹介します。
<笹良橋供養碑、三鴨地区の幡張に、願成寺という真言宗の寺がある。ただし、現在は墓所のみが残されていて、寺務は大字甲の浄光院で行っている。(中略) 墓所の入口近くに「永代橋供養」と刻まれた石塔がある。碑面に、「寛政七乙卯年四月朔日 願主贈法印権大僧都廻□(文字欠け)橋免畑三反歩 幡張村 大谷田村」とある。寛政七年(1775)四月一日に、法印廻□が中心となって橋が造られ、維持管理は幡張・大谷田両村の畑、三反歩(30a)の収益金で賄われたことを示している。碑の両側面には、三五の町村と、村役人と思われる人たちの名が刻まれている。(後略)

この資料を基に現地を訪れ、所在を確認しました。
5万分の1地形図「古河」平成11年2月1日発行を見ると、東北自動車道の佐野藤岡ICの南側に「西幡張」の地名が出ている。そしてその西側には佐野市の「越名町」があるが、そこに向かって東から西に向かって天狗の鼻の様な舌状台地が出ていますが、この舌状台地までが栃木市藤岡町で、かつてはこの舌状台地の北西部に「越名沼」と言う大きな沼が有りました。そして沼から流れ出た水の流れは、この舌状台地の西から南に回り込んだ後は、ふたたび南流して、その南方で西から流れてきた渡良瀬川の左岸に落ちています。
この越名沼と渡良瀬川との間に、佐野と古河とを結ぶ街道が通っていますが、その街道筋に架けられたのが「笹良橋」に成ります。
現在、越名沼は水田地帯に変わりましたが、そこを北から南に流れる川が現在の「三杉川」に成り、かつての「笹良橋」辺りに現在の「笹良橋」が架かっています。
そして、現在西幡張の舌状台地の西側を流れる三杉川に架かる橋の名称は、かつて台地の上に有った寺の名前を採って、「願成寺橋」と名付けられました。
三杉川と願成寺橋.jpg
上の写真は、三杉川で前方に架かる橋が「願成寺橋」、その左側の小丘が西幡張の願成寺跡に成ります。かつて手前には「越名沼」が広がっていて、舌状台地は元は、中世の城郭「小南城」があったと、藤岡町史に載っております。
願成寺橋.jpg
上の写真は「願成寺橋」の南東側から撮影しました。左側に三杉川、右側の小丘上に墓所が見えます。ここに目的の「永久橋供養」の石塔が建っています。
永代橋供養塔(藤岡町).jpg
小丘の上に登ってくると、墓所の入口に六地蔵、その右手桜の老木でしょうか、その手前に建てられているのが「永代橋供養」の石塔です。
近くで観察します。正面の程度は良く、刻まれた碑文もハッキリと確認出来ますので、その内容を書き写しました。

永代橋供養塔正面(藤岡町).jpg永代橋供養塔碑文(藤岡町).jpg
内容は前記の藤岡町史に記載された通りなので、省略いたします。

最後の供養塔も、藤岡町史にその所在が出てきます。
<なお、大字赤麻の中妻に、もう一基「橋供養塔」が建立されている。安永九年(1780)に、天下泰平・国土安穏を願って石川弥吉が建てている。ただし、対象とした「石橋三箇処」の詳細は不明である。>と。

この情報を基に供養塔に建つ場所を見つけるのに、難渋しました。
2万5千分の1の地形図「下野藤岡」平成27年5月1日発行を見ると、藤岡町赤麻の周辺を探すと、「中妻」と言う地名が有るので、その「中妻」と記された区画の南側に神社の地図記号「鳥居」が有るので、先ずそこを見に行きました。「赤麻八幡宮」です。石碑は神社仏閣・公民館等に建てられるケースが多いからですが、残念ながら空振り。次に「中妻」と思しきエリアーの道路を歩いて探しましたが、見つかりません。だいたい「中妻」の範囲がハッキリ分かっていないのです。
歩いていても、人影が有りません。やっと見つけた老人に尋ねても、「知らない・分からない」と言う返事です。
「中妻」と思しき場所をくまなく歩いて道路脇等を探しましたが結局見つかりません。
歩いていても「中妻」周辺には川も水路らしき場所も無いのです。
そこで、藤岡町歴史民俗資料館へ。職員の方に尋ねると、資料の中に所在地の住所が判明、ゼンリン住宅地図から、私が歩いて探した場所より更に東側、地形図に有る「東の向」に向かう道路脇に、石仏と見間違いそうな供養塔を見付ける事が出来ました。
石橋三箇處供養塔.jpg
この前の道路を、車で通過していましたが、石塀の陰に入ってしまい、見過ごしていたようです。
石橋三箇處供養塔2.jpg石橋三箇處供養塔3.jpg
供養塔自体が、上部に石仏が乗った形の為、歩いて近くに寄って、台座部分に刻まれた文字を読んで初めて、目的の供養塔で有ることが、確認出来ました。
石橋三箇處供養塔(碑文).jpg
上は石塔に刻まれた、正面・側面の文字の内容です。書き写しました。

内容は「藤岡町史」に書かれていたものですから省略します。が、まだなぞは多く残されたままです。石橋とはどのようなもので、それも三箇処も、何所に架けられていたのか、地元の歴史研究者が「詳細不明」と言われているので、よそ者の私に分かる筈が有りません。今回の調査はここまでです。

今回参考にした資料:
・「藤岡町史 資料編 古代・中世」 藤岡町発行
・「藤岡町史 資料編 近現代」 藤岡町発行
・地形図5万分の1「古河」明治42年12月28日 大日本帝國陸地測量部発行
・地形図5万分の1「古河」昭和34年6月30日 地理調査所発行
・地形図5万分の1「古河」平成11年2月1日 国土地理院発行
・地形図2万5千分の1「下野藤岡」平成27年5月1日 国土地理院発行
・明治前期測量 2万分1 フランス式彩色地図 「栃木縣下野國下都賀郡赤麻及び下生井村」


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岩舟町小野寺につたわる小野小町伝説 [石碑]

<はなのいろは うつりにけりな いたずらに わがみよにふる ながめせしまに>
小倉百人一首にもある、有名な小野小町の和歌ですね。平安時代の女流歌人で六歌仙のひとり。絶世の美人と言われ、美人の代名詞にもなっている。しかしこの小野小町は出生や没年など不明な所が多く、その為か全国各地に小野小町に関する伝説が有るのだそうです。「群書類従正編」には小野小町は小野篁の孫、出羽国司だった小野良実の娘と言われていますが、父とする良実についても、不明な点が多いと言われています。

そして、我が栃木市にも「小町の墓」などと言うものが有ります。そこは栃木市の西の端、岩舟町小野寺の里です。
小野小町の時代は、丁度慈覚大師円仁が活躍した時代に重なります。その円仁が少年時代修行をした、小野寺山大慈寺の境内、薬師堂の近くに現在、小野小町の碑が建てられています。
私が向かった日は、春の日差しも暖かく、境内には桜を始め、春の花が咲き誇っていました。
大慈寺薬師堂.jpg
(天平九年開山別格大慈寺。正面奥が薬師堂)
大慈寺境内.jpg
(春の花が咲く境内、六地蔵と鐘楼)
小町の碑.jpg
(薬師堂脇に建てられた「小町の碑」)

この「小町の碑」に関して、「小野の小町と大慈寺の薬師如来」を記した、佐野市在住の田口巳喜男さんの著書「東山道を往く」(昭和62年5月3日発行)を見つけましたので、一部抜粋させて頂きます。
<前略・・・小野小町は晩年一人旅立ち、この地で病にかかったため、大慈寺の薬師堂にこもって祈願を続けたところ、病気は全快した。その時、薬師如来の慈悲深い顔が悲しくなり、如来と同じ蓮の上へ身を投げたと云う。 小町の死を哀れんだ村人がその地にお墓を建て、供養したと云われている。今は同町の小野寺から葛生町へ通ずる道路の「西の沢の岩山」を中心に「身投げ堂」という地名が残っている。・・・後略>

この薬師堂が向く東方向150メートル先に、「小町墓」と刻した自然石が有ります。前記の「東山道を往く」に掲載されている写真を見ると、「小町の墓」と言われる石は、田圃の畔の草むらに埋もれるように転がっている唯の大きな石ころにしか見えません。
現在は写真の様に雨風をしのぐ為、東屋の中に祀られています。
小町の墓(全体).jpg
(綺麗に整備された「小町の墓」)

「小町墓」と刻された石の背後を良く見ると、何やら文字が刻まれている様に見えますが、不鮮明で判読する事は出来ません。
小町墓.jpg
(風雨から守るために、東屋状の建屋に収められた「小町の墓」)

昨年、京都市山科区小野の「随心院」を訪れました。京都市の地下鉄東西線は、その名の通り西の「太秦天神駅から、東の南禅寺近くの「蹴上駅」まで京都の街を東西に横断していますが、蹴上駅から東側終点「六地蔵駅へは方向を大きく南に変えていきます。山科・東野・椥辻と過ぎるとその名も「小野駅」とする、小野の里が有ります。小野駅を出れば随心院まで350メートル程で、歩いても5分程度で行くことが出来ます。
ここは小野小町が、仕えていた仁明天皇が嘉祥三年(西暦850年)に崩御された後、宮仕えを辞め暮らしたところと言われ、小町の屋敷跡には、「化粧の井戸(けわいのいど)」と言われる井戸が残っています。小町が朝夕この水で化粧をこらしたと伝えられています。又、随心院の裏手竹藪の中には、当時の貴公子たちから小野小町に寄せられた恋文を埋めたところと伝えられる「小町文塚」が有ります。
化粧の井戸.jpg小町文塚.jpg
(小野小町屋敷後に残る「化粧の井戸」と「小町文塚」)

尚、随心院の入口の前には、冒頭に記した小野小町の歌碑が建てられていました。
小野小町歌碑(随身院).jpg

今回参考にした資料は
・「東山道を往く」田口巳喜男著
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岩舟町小野寺で、石碑見て回り [石碑]

栃木市の西の端、岩舟町小野寺で、石碑を巡ります。と言っても、小野寺地区に建てられた石碑を全てとはいきません。もちろん全てを把握している訳でも有りませんので。
今回巡る石碑の所在を、最初に概略図に描きました。図中に6ヶ所記念碑地図記号を載せました。記号に付された番号は、石碑が建てられた順番を表しています。
小野寺地区の石碑所在概略図.jpg
(岩舟町小野寺地区、石碑所在地概略図)

この概略図は昭和33年に撮影された空中写真を基に作成していますが、現在地との関連が分かる様に、県道栃木佐野線の新道部分を黒の破線で、又、東北自動車道のルートをピンクの2点鎖線で追記しています。
石碑の古い順に確認して行きます。
①は概略図左上隅。謡坂(旧道)脇に建つ「坂路改修紀念碑」です。昭和4年頃の建立と思われます。
謡坂に建つ石碑.jpg
(坂道を登った先が佐野市側に成ります)

②は概略図右隅。藤坂の佐野市との境界道路脇に建つ「隧道竣工記念碑」です。昭和10年頃の建立と思われます。現在は隧道は有りません、昭和46年2月に取り壊し工事が行われました。
藤坂に建つ石碑.jpg
(石碑を右手に見て、坂道を下って行くと佐野市葛生町方面に向かいます。)

③は概略図中央付近上側、住林寺の右側道路脇に建つ「溜池工事記念」の碑です。昭和27年頃の建立と思われます。
西根の大芝原溜脇に建つ石碑.jpg
(石碑の後ろ側が溜池に成っています。)

④は概略図右下、三杉川と高速道路が交差している辺りに建つ「水神堰改修紀念碑」です。昭和31年頃の建立と思われます。
三杉川水神堰の脇に建つ石碑.jpg
(三杉川左岸、堰の直ぐ脇に建てられています。石碑手前に取水用の水門が見えています。)

⑤は概略図の③の石碑の下側、旧県道の小さな交差点の角に建つ「野尻金一郎翁の顕彰碑」です。昭和33年頃の建立と思われます。
旧県道脇に建つ石碑.jpg
(西根の旧県道の小さな交差点の北西側角に建てられています。奥に向かう細い道路を進むと、③の石碑の前に行きます。)

最後⑥の石碑は概略図中程、⑤の下方向、石橋と小名路の間の三杉川左岸に建つ「小野寺橋竣工記念碑」です。昭和34年3月に建てられています。
三杉川小野寺橋の橋詰に建つ石碑.jpg
(石碑の横を流れるのが三杉川。この川の流れの先に小野寺橋が架かっています。かつての県道岩舟中線に当たります。写真に写っている橋は2012年3月竣功の「三杉川小野寺橋側道橋」です。)

それでは順番にもう少しジックリ石碑を眺めて行きます。
①の謡坂に建つ「坂路改修紀念碑」について。この石碑については昨年の10月9日に「謡坂(栃木市)に建つ石碑」と題して公開していますが、今回はチョッと別な角度から。
坂路改修紀念碑.jpg坂路改修紀念碑(碑陰).jpg
(石碑正面からの写真と碑陰に記された「改修貢献者芳名」や「寄附者芳名」並びに「工事関係者氏名」の書き写し文)

石碑の題字を「謡坂改修記念碑」では無く「坂路改修紀念碑」とした理由が、碑陰の記載内容から納得できます。この石碑は小野寺地区で大正11年から昭和4年までの間に行われた、謡坂だけでなく、長尾坂・中妻坂・中坂改修や縣道西耕地地内改修等、複数の改修工事をまとめて紀念する為に建てられた石碑だからです。
「記念」と「紀念」の違いは、広辞苑に依ると、「記念」の項に<(「紀念」とも書いた)後々の思い出に残しておくこと。また、そのもの。後略>と、同様に使われても良いようですが、「記」と「紀」のニュアンスの違いは無いのか漢字源を開いてみた。「記」の項には<「字音」は、キ/しる・・す 「意読」は、しる・・す/おぼえる/き  「意味」は幾通りか有りますが、{名}書きとめたもの。記録や文書。>一方「紀」の項には、<「字音」は、キ 「意読」は、おさめる/のり/いとぐち/しるす/き 「意味」はこちらも幾通りも有りますが、{名}順序よく、または年を追って書きしるした書。>と言う少し違った記載も。

石碑の題字を揮毫した「栃木縣會議長 松永和一郎」と言う人物は明治6年(1873)6月古江村(明治22年の町村制施行に際して古江・新里・三谷・上岡・下岡・小野寺の六ヵ村が合併して小野寺村大字古江となる)に生まれています。大正4年(1915)9月、推されて下都賀郡会議員、同5年(1916)4月より第八代小野寺村村長、同8年(1919)栃木県会議員に当選、昭和2年(1927)1月、宇都宮市長に当選するなど、広範囲に活躍をされた人物です。

②の藤坂峠の佐野市との境界手前で、雑木に隠れる様に建つ「隧道竣工記念碑」を見てみます。この石碑に関しては少し前の2019年3月17日付「栃木市岩舟町小野寺の藤坂峠に建つ石碑」で公開をしました。その際は碑陰部分は雑木に覆われて十分に確認出来なかった為、今回改めて石碑の裏側の確認を行いました。
隧道竣功記念碑.jpg隧道竣工記念碑(碑陰).jpg
(石碑正面写真と碑陰に記された内容を書き写した文)

そこで気に成った部分は、碑陰の工事施行関係者の中に、「小野寺村長 野尻金一郎」と有ります。ただ石碑表の「隧道竣工記念碑」の題字を揮毫した人物は「栃木県会議員 野尻金一郎書」と刻されている点です。
碑陰冒頭に隧道工事の起工日と竣工日が記されておりますが、石碑のひび割れとその補修の為か、
   起工昭和■年十二月二十五日
   竣工昭和十年■月三十日
とハッキリと確定できなかったのです。
揮毫者の野尻金一郎は、明治21年(1888)8月14日下都賀郡小野寺村に生まれた人物で、昭和9年(1934)の県会議員補選に当選しました。翌年の県議会選挙には立候補をせずに昭和10年(1935)12月より第12代小野寺村長として村発展の為に、村政に尽くしてます。
石碑は丁度その頃に建てられた為、違う役職名で名を連ねる状況となったと考えられます。
ちなみに上記①の石碑の中にも、功労者の一人に「栃木県農会議員 野尻金一郎」として名前を連ねています。

③の「溜池工事記念」の碑は、県道から西に入った、住林寺の北西裏手の道路脇に建てられています。道路は狭く車1台がやっと通れる程度で、その先に建つ人家で行き止まりの様です。
「溜池工事記念」の碑.jpg「溜池工事記念」の碑文.jpg
(石碑正面写真とそこに刻された内容を書き写した文)

石碑の丁度後ろ側が溜池に成っています。確認をした時は2月だったので、水は無く枯れた葦原がひろがっていました。
この石碑にも貢献者に「元県会議員 野尻金一郎」の名前を確認しました。

④の「水神堰改修記念碑」は三杉川左岸の堰の直ぐ上に川側に正面を向けて建てられている為、石碑正面は対岸からの確認で、夏場は周辺が蔦に覆われて、石碑が隠れてしまうほどで、やはり石碑の調査は冬場が適していることを実感させられた石碑です。
水神堰改修記念碑.jpg水神堰改修記念碑(碑陰).jpg
(石碑正面写真と碑陰に刻された内容を書き写した文)
冬の水神堰.jpg夏の水神堰.jpg
(冬の水神堰と夏の水神堰、夏はどこに石碑が建っているのか分からない)

三杉川を挟んでの確認の為、石碑の題字「水神堰改修記念碑」は何んとか読み取れたのですが、題字を揮毫した人物及び石工の確認は出来ませんでした。
碑陰冒頭に記された通り、この水神堰の改修は、「災害復旧工事」として、国庫補助金と村補助金にて行われています。竣工したのが昭和31年3月と記されていますから、むらの補助金とは「小野寺村」と言う事に成ります。その年、昭和31年9月30日に、小野寺村・岩舟村・静和村の三村が合併して新生岩舟村が誕生しています。
この石碑は、小野寺村時代の最後に成ります。

⑤の石碑は、これまでも何度もその名前が出て来ている、野尻金一郎翁の「顕彰碑」です。今回巡っている6基の石碑の内5基は道路改修や堰や橋梁改修等、土木事業の竣工を記念して建てられた石碑ですが、この石碑は地元の出身で、小野寺村の発展に尽力した人物を、その功績などを世間に知らせる事を目的に建てられた「顕彰碑」に成ります。
野尻金一郎彰徳碑.jpg野尻金一郎彰徳碑(碑文).jpg
(石碑正面写真と正面下側に刻されている碑文の書き写しです)

石碑正面最上部の篆額「彰徳碑」を揮毫した人物は、当時農林大臣だった赤城宗徳氏です。篆額の下にネクタイを締めスーツ姿の野尻金一郎翁の顔が線刻されています。その左に「昭和三十三年一月建之」と有ります。その下に刻された碑文の中に、<・・・東奔西走席温まる日なく一意専心郷土住民の福祉増進に没頭せらるこの間における翁の功績はわが郷土史上特筆大書せらるべきもの多し・・・>等々讃辞の言葉で埋め尽くされています。
これまで見て来た石碑の多くにも、野尻金一郎翁の関係が覗われます。

碑陰に回って見てみます。
野尻金一郎彰徳碑(碑陰).jpg
(碑陰の記載内容を書き写しました。)

この顕彰碑を建てる為に、協力して寄附をしてくれた個人・団体・法人含めて368の名前が刻されています。
上記の書き写し文を良く見ると不思議な点に気付きますか。名前は13段になっていますが、下段2段は建設委員関係者ですが、上から11段は協力者芳名に成ります。
各段の並んだ名前の数が違っています。上から1段目25名、2段目28名、3段目から5段目が30名、6段目35名、7段目から11段目が37名となっています。
ところが、実際の石碑を眺めているとその違和感が無いのです。
野尻金一郎彰徳碑(碑陰写真).jpg
(碑陰の写真)
石碑の幅一杯に名前が並んでいます。
これは石工さんが、上の方の名前が小さく、見にくくなってしまう事を配慮、字のサイズを変えて大きくしている為と分かりました。さすがです、佐野市相生町の石工、小田鉄碩さん。

最後⑥の「小野寺橋 竣工記念碑」を見ていきます。
小野寺橋竣功記念碑.jpg小野寺橋竣功記念碑(碑陰文).jpg
(石碑正面写真と碑陰の書き写し文)

この石碑の題字を揮毫したのも、ここまで何度も出てきた、野尻金一郎氏です。
橋が竣工したのは、昭和三十四年二月と碑陰にあり、この時の野尻金一郎の関係は、碑陰工事委員の冒頭に連ねる、「相談役小野寺顧問 江田浅次郎・阿部善三郎の二人と共に刻されています。
野尻金一郎氏の揮毫した字を見ると達筆な人物だと、改めて感心させられます。

この橋が完成した時期は既に小野寺は合併した後で、岩舟村大字小野寺となっていますから、上段には、栃木県知事や県会議員、栃木土木事務所長などの関係者の列には、岩舟村長 相良行一、助役 寺内正、収入役 大竹菊次郎の三役の名前等が大きく刻されています。

現在は橋ひとつ新しく架けられても、こうした記念碑を建てる事は少なくなりました。土木技術が発達して架橋工事の難易度が下がった為でしょうか。確かに今でも大型プロジェクトで大規模工事で架橋された橋であれば、その経緯を刻した記念碑が建てられるのでしょうが。

岩舟町小野寺地区に建てられた6基の石碑を見て来ましたが、小野寺には他にも石碑は建てられています。機会が有ったらそちらも見て回りたいと思います。
小町の碑.jpg小野寺城址の碑.jpg
(小町の碑と小野寺城跡の碑)

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