SSブログ

西方町との境界近く、都賀町富張に建つ石碑 [石碑]

今回、気になった石碑は、都賀町富張の北東の端、西方町の元と本郷との境界近く、道路の脇、木の陰に隠れる様に建っていました。
和賀井翁壽鑛碑1.jpg
(都賀町富張の北欧の端、木の陰に隠れる様に建つ石碑)

碑表上部の篆額には、篆書体文字にて「松壽軒碑」と、陽刻されています。
その下の碑文冒頭には、「和賀井翁壽壙碑」の文字が刻まれています。この石碑は「和賀井翁」の顕彰碑のようですが。
和賀井翁壽壙碑2.jpg和賀井翁壽壙碑(碑陰).jpg
(碑表篆額部分、「松壽軒碑」の篆書体文字)(碑陰の左下部、建築惣代4名の苗字が並ぶ)

この石碑に関する資料を探していた時、元都賀町文化財保護審議委員長だった植木誠治さんが、かつて「広報つが」の文化財めぐりの連載の中で、「都賀町の私塾」について書いていました。の記事冒頭で、この石碑の人「和賀井翁」についても述べています。その部分を一部抜粋して参考に掲載させて頂きます。
≪幕末から明治初年にかけて、我が町で私塾を開き門弟を教えていた人達がいた。赤津地区では和賀井栄順の善覚院、土屋麓の土屋塾、家中地区では佐山諒斉の渡辺塾(醤油製造業の渡辺文六が諒斉を招き開いた塾)である。和賀井翁寿壙碑は、富張九六四番地、若林イシさん宅の入口にあり、磊山土屋翁寿蔵碑は大柿南嶺の土屋宅にある。渡辺塾は中新田足銀東にあったが碑はない。町史によれば栄順は修験者であり、大和聖護院の梨甚栄の弟子となり、権大僧都法印になったという。退隠後、都賀郡富張村にきて善覚院に住み、手習などを教え、子弟の数一五九名の多数となった。(後略) ≫

碑文を書き写しました。漢字の中には普段は見慣れない物も有り、間違って書き写した漢字も有るかもしれない。文章が漢文体なので、今回も私には、どのように読んだら良いのか、全く分からない状態です。ただただ漢字一字一字を辞書でその読み方、意味を調べて、そこから何となく文章の意味を推し量る事が精いっぱいになっています。
松壽軒碑(碑文書き写し).jpg碑文の一部.jpg
(碑文を書き写してみました)      (碑文の一部、見慣れぬ漢字があちこちに)

篆額の文字「松壽軒碑」を揮毫した人物、元老院議官従三位勲二等子爵岩下方平は、幕末から明治維新に活躍した人、薩摩藩士から、倒幕活動に尽力、王政復古の大号令では、徴士参与として小御所会議に参席している。新政府においては、京都府権知事や大阪府大参事などを務めている。

碑文を撰した人物は、市内藤岡町の人、森鷗村。幕末から明治の儒学者。藤岡にて鷗村学社を開き、門下生には栃木県におけるビール麦栽培の基礎を作った「田村律之助」(太平山あじさい坂中程に、胸像が建てられてます)や、実業家の岩崎清七などがいます。

調べて行く中で、石碑の主役である「和賀井翁」に関する情報が中々得られません。つたない知識で碑文を何度も読み返しても、ハッキリした人間像を描けません。その一つの原因は、碑文には具体的な時間軸がほとんど記されていまい点に有ります。唯一日付けが出ているのは、文末の「明治二十一年戊子十一月」と言う建碑に関わる日付けのみです。「和賀井翁」が何時生まれたのかと、何時どこどこへ移った等の具体的記載は有りません。
碑文冒頭に有るのは、「下毛の都賀郡富張村にて、数十年間、郷の弟子たちに教授していた。」 それは何時か。生まれについては「翁原姓は吉水、幼名は新六、後に栄順と称する。阿蘇郡吉水村の人」と記されていますが、何時かは分かりません。「出自は藤原秀郷の裔孫で吉水小太郎、諱は国綱」などと記されています。大和聖護院にて修行を積んで、権大僧都法印となっている。「門主の二品雄仁法親王の入峰修行に従った」と記されていますが、この雄仁法親王は伏見宮邦家親王の第二王子で、天保2年(1831)に聖護院で出家した人物。
和賀井翁は「退隠の後、富張村の善覚院に住み、塾を開き近隣の子供達に手習いなどを教えた」と有るが、何故富張村に来たのか、何時「和賀井」姓を名乗ったのか読み取れなかった。

そもそも碑文冒頭の「和賀井翁壽壙碑」の、「壽壙」とはどんな意味が有るのか。熟語で調べても出て来ません。単語で見ると、「壽」は①ながいき・長命、②とし・よわい、③ことほぎ・いわい。などの意味。一方「壙」は①あな・はかあな、②ひろの、何もないがらんとした野原、③むなしい、④むなしくする・からっぽにする。などの意味が有りますが、これら二つの漢字を合わせた意味はどうなるのか。

そこで最初に引用した「広報つが」の「都賀町の私塾」の抜粋した文章の中に有った、もう一つの私塾「土屋塾」の石碑の紹介には、「磊山土屋翁寿蔵碑」と記されています。この「寿蔵」の意味を調べてみると、≪存命中に建てておく墓。寿冢(じゅちょう)≫との説明が有りました。もしかしたら「寿壙」も同様の意味に成っているのではと思われますが、和賀井栄順が何時死去されたのか分からないので、それも検証出来ませんでした。今回も難解な石碑を選んでしまいました。その上、今は新型コロナウイルスの感染拡大を予防する為、栃木市内の図書館も全て閉館となっていることも有り、調査が思う様に出来ませんでした。これは言い訳かも知れませんが。

碑文の解釈はあきらめて、「和賀井」という苗字について調べてみると、面白いことが分かりました。この苗字は全国的にみると、非常に珍しく、都道府県で一番多いのは栃木県(約38%)となっています。更に県内では栃木市が一番多くて約63%となっています。そしてその栃木市内でも西方町が75%を占めていますし、その西方の中でも大字本郷周辺に集中していました。ちなみにちょっと古いですが2004年の旧栃木市の電話帳を見ても、たった2軒しか「和賀井」姓は載っていませんでした。

「西方都賀の郷土史」(早乙女慶寿著)に、その土地出身の著名な人物列伝が有りました。その中で西方町では190名の名前の中に和賀井姓が10名、都賀町では89名の列伝に1名、確認されています。
同書の「第二章 江戸時代の西方、都賀の姿」に、≪西方記録の西方郷は下野国都賀郡皆川庄西方郷とあり。江戸時代の西方郷は、城附五千余町、峰村、冨張村、下宿村、富加見内村、金井村、柴村の六ヶ村であったが、慶長年中西ノ原に引退き村を建てた。所謂古宿村、中宿村、大沢田村、新宿村である。又同年富加見内村(又深見内村とも書く)から田谷村出る。開発人は和賀井四郎右エ門。(後略)≫と、記され「和賀井」と言う人物が田谷村を開発した事がわかりました。又、江戸時代の山木菅太郎知行所の田谷村名主は和賀井勇蔵と記されています。さらに、上記人物列伝にて西方町出身の和賀井姓10名中9人は、「大字本郷田谷」の出身です。

石碑の裏面、碑陰に刻まれている文字を確認すると、大勢の名前が並んでいます。その内容は、大橋村8名・元村22名・深澤村5名・原宿村10名・本郷村18名・臼久保村6名・富張村55名、の名前が確認出来ました。そしてその後に「特別賛成」として22名の名前。更に「協議會頭」として14名の名前、最後石碑の左下には「建築惣代」として、越路身壽・中田定吉・伊東孝三郎・成瀬良治という4名の名前が並んでいます。

これら碑陰に並ぶ人達は、石碑を建てる事に賛同した人達だろうか、富張村の関係者が多いのは、和賀井翁が居住していた所であり、当然の事でしょう。
西方町・都賀町の大字.jpg
(石碑が建てられた周辺の村々。青字は西方町、赤字は都賀町の地名)

上図の中央部、富張・本郷・元の境界近くに石碑の地図記号を付しました。
この概略図により、碑陰に刻まれた地名が、全て石碑の建つ周辺に分布していることがハッキリ分かります。

最後にこの「和賀井翁壽壙碑」の手前右側に、もう1期石碑が建てられていました。
線刻不動明王像.jpg署名部分.jpg
(石碑には不動明王が線刻されています)(左下部に「藤原勝重謹寫」「石工清水■」とある)

碑表には、見事な不動明王の姿が線刻されています。和賀井栄順が修行した聖護院が、本尊を不動明王としている事が関連しているものと思われます。

※参考資料:
    広報つが 2007年3月号 「歴史再発見」 文化財めぐり 
                      都賀町の私塾(文化財保護審議委員長 植木誠治著)
    ウィキペディアより、「岩下方平」「森鷗村」「聖護院」を参考に致しました。
    「西方都賀の郷土史」(早乙女慶寿著)
    
    






nice!(0)  コメント(0) 

西方町元に建つ「中宿湧泉完工記念」の碑 [石碑]

栃木市西方総合支所ふれあいプラザの駐車場南西隅に建つ石碑について、調べてみました。
中宿湧泉完工記念碑1.jpg
(「中宿湧泉完工記念」の碑、後方は栃木市社会福祉協議会西方支所)

石碑上部には、「中宿湧泉完工記念 理事長上田善市書」と刻まれています。この題字を揮毫した「上田善市」氏は、第11代の西方村村長に成ります。
中宿湧泉完工記念碑(碑表).jpg中宿湧泉完工記念碑(碑陰).jpg
(「中宿湧泉完工記念」の碑表)       (「中宿湧泉完工記念」の碑陰)  
 中宿湧泉完工記念碑(碑文).jpg中宿湧泉完工記念碑(碑題).jpg
(「中宿湧泉完工記念」の碑文書き写し)     (碑上部の題字部分)

石碑を撮影に行ったときは、丁度石碑に電柱の陰が掛かっていました。石碑隣の現在栃木市社会福祉協議会の西方支所の場所は、昔は保育園だったのか、今も多くの子供たちが敷地内の遊具で遊んでいました。
近くでカメラを持ってうろうろしていると不審者と思われては困るので早々に退散して来ました。
後日、子供たちのいなそうな午前中に出かけましたが、今度は碑の表側は逆行で陰に成ってしまい文字が読めない状態でした。碑陰側の文字はハッキリと確認出来ました。
撮影してきた写真を基に碑文を読み、書き写してみました。

西方町史を見てみると、「中宿湧泉と水田の拡がり」と題した一文が有りました。一部抜粋してみます。
≪小倉堰からの取水によって大きな三本の分流を有する西方村でも、その水の枝川が行き届かない所には水の苦労があった。小倉堰から取水できる水量は水利権とからんで制限されているので、特に下流(南部地区)においては不足分の水の補充には井戸からの汲み上げや、湧泉の拡大が必要であった。・・(中略)・・大字本城の中宿・大字元の峰地内から富張(栃木市)に至る地域の水不足を補うために、昭和20年に、集中暗渠による中宿湧泉の計画が矢部藤七村長によって進められたのも、このような背景があったのだろう。この工事は、早くも22年6月には完成して人々に喜ばれたが、使用材料が木材中心であったため、日ならずして所々に陥没が生じる欠点も表面化し、25年からコンクリート工法による復旧工事を必要とする問題も出た。そのため、次の大森昇、上田善市を含めて三代の村長の関わる工事となり、31年まで工事が続いた。この湧泉の完成により、大字本城南部と大字元の西部地区は良質米の穫れる美田地帯となった。戦後間もない頃の食糧不足を補うために、地元農家にとってこの湧泉はありがたいものであった。(後略)≫

碑文冒頭に出てくる、昭和20年2月当時西方村長職に在り、小倉堰普通水利組合管理者であり、中宿湧泉を計画起工された「矢部藤七」氏については、「栃木市西方公民館」の玄関前方のロータリーの中央に胸像が建てられています。

西方総合支所前.jpg
(栃木市西方公民館前に建てられた「矢部藤七翁像」)

矢部藤七翁の胸像が乗る台座の背面に据えられた碑文に、翁の略歴や功績について記されています。
碑文を書き写しました。
台座背面の碑文.jpg
(矢部藤七翁像台座背面の碑文書き写し)

※参考資料:西方町史(発行西方町)
nice!(0)  コメント(0) 

人目に触れることなく、山中に建つ石碑 [石碑]

今回紹介する石碑は、「目で見る栃木市史」の中にも掲載されている、太平山中の古戦場跡「草鞍山千人塚」に、昭和7年5月地元皆川村仏教会の8寺院と草鞍山の土地所有者2名とが発起者と成って、建立された「天正年間草鞍戰死諸靈碑」です。
千人塚の碑1.jpg
(草鞍山千人塚に建てられた「天正年間草鞍戰死諸靈碑」)

上記「目で見る栃木市史」には、石碑の写真と共に「(六)古戦場 1.大館山・草鞍山古戦場」と題して、次のような説明が乗っています。抜粋させて貰います。
≪天正12年(1584)北条氏直が来襲したとき、皆川方が拠点とした一つである。岩船山、富士浅間、太平山等の防禦線が破られたあと、大館山を中心に激戦がつづいたがやがてこれも陥ち、戦場は角堂山にうつり、さらに草鞍山方面へうつった。いまの栃木カントリークラブのコースあたりはそのとき両軍が争奪をくりかえした戦場であった。草鞍山は敵方・味方を問わずその戦死者を葬った塚があるところで、千人塚という地名が生じた。≫
栃木市内の石碑を見て歩いている私にとっては、以前から是非現地を訪れたいと、ずっと思っていたところに成ります。ただ草鞍山が太平山中のどこに有るのか分からなかった。
「草鞍山千人塚」の場所が確認できたのは、平成27年3月皆川地区街づくり協議会歴史文化部が発行した「皆川の歴史と文化」という全紙サイズのパンフレットでした。そこには皆川地区のマップ上に、地区内の社寺や歴史遺産等の所在を記してあり、「3.千人塚(草倉山古戦場)」として、「栃木カントリークラブ」と「太平台カントリークラブ」のゴルフコースに挟まれた、山中に③の番号が記されていました。
皆川の歴史と文化.jpg草鞍山案内.jpg
(「皆川の歴史と文化」表紙部分)         (皆川地区マップの千人塚を記した部分)

目的の石碑の建つ場所は分かりましたが、その場所へ行くルートを探さなければ。その場所は二つのゴルフ場のコースに挟まれた場所の山の中。夏場では雑草や木々が茂って視界が悪くなりそう。蛇や山蛭などに遭遇するのも嫌なので、行くとすれば冬場と決めた。
最初にトライしたのは1年前、現地に入れそうなルートを見つけ向かった。しかし栃木市の山間部はどこもそうであるが、イノシシやシカから田畑を守る為、里山の周辺はフェンスや電気柵で防禦しています。
私が入ろうとした山道もフェンスが設けられ閉鎖されていました。
里山を囲むフェンス.jpgフェンスで閉鎖された山道.jpg
(フェンスで囲まれた里山)             (千人塚への道もフェンスで閉鎖)

そこで、ゴルフコースを横切って行けるか、栃木カントリークラブのクラブハウス受付に出向いて、事情を説明したが、ゴルフコース内を横断するのは危険と言う事と成り、断念をしました。

そして1年が経った先日、「皆川の歴史と文化」を作成発行を行った、皆川地区街づくり協議会歴史文化部会のメンバーの方の案内で、皆川城内町の神社仏閣を巡った際、傑岑寺ご住職のお話を伺う事ができました。そのお話の中に、「草鞍山千人塚」の事が図らずも出てきました。
傑岑寺本堂.jpg傑岑寺墓地より草鞍山方向を望む.jpg
(杉木立等に囲まれた傑岑寺本堂)      (傑岑寺より南南東、太平山方向を望む)

そこで、「歴史文化部会」の方に、千人塚に建つ石碑へ行く方法を確認して、早速行ってきました。
問題のフェンスの鎖を解除して中に入り、フェンスを開放することなく又、鎖で止めて山の中へ入りました。中に入るとイノシシを捕獲する為に仕掛けられた檻が有りました。
イノシシ捕獲用檻.jpg枯葉で滑る山道.jpg
(山中にはイノシシ捕獲用檻が仕掛けられている)(山道は落葉で滑り易くなっています)

暫らく行くと、山道の直ぐ脇まで栃木カントリークラブのゴルフコースが迫っていて、ゴルフを楽しんでいる姿が有りました。しかしコースの周辺には電気柵の電線が張り巡らされており、ゴルフ場に入れない様になっていました。
山道近くまで迫るゴルフコース.jpg電気柵でコースには入れない.jpg
(ゴルフコースが道路脇まで迫っている)    (電気柵でコース内には入れません)

更に山道を進むと、ゴルフ場から遠ざかり雑木の真っただ中を登ります。落葉で覆われた山道は滑りやすく足を取られます。入口からおよそ15分程歩いていくと、前方の木々の間に石碑の黒い影が見えてきました。
前々から来て見たかった石碑の前にやっと立つことが出来ました。

碑表.jpg碑陰.jpg
(碑表、逆光に成って見難い)        (碑陰、中央部に「建碑寄附及び発起者の名前)

石碑表に近づいて題字を確認します。石碑中央に大きく「天正年間草鞍戰死諸靈碑」の文字。その上に梵字でしょうか、一字陽刻されています。題字の向かって左横に少し小さい字で、「廣照十二代之孫 皆川庸一書」と、揮毫した人物の氏名が刻まれています。
碑の題字.jpg題字揮毫者.jpg
(「天正年間草鞍戰死諸靈碑」と大きく陰刻)  (「廣照十二代之孫皆川庸一書」とある)

碑陰の情報を見ると、石碑の建立は「昭和7年5月吉日」と成っています。皆川の瀧青年会が建碑に当たっての労力奉仕をしています。又その後の管理も担当するようになっています。「瀧青年会」は建碑された草鞍山の西側に位置する、皆川城内の字「滝の入」の組織でしょう。
建碑された通称「千人塚」の土地所有者2名からそれぞれ、「壹畝歩」(30坪=約99.2㎡)の土地の寄附を受けています。発起者は当時の皆川村8寺院と上記土地所有者2名。石工は栃木の岩崎重明氏です。
碑陰上部.jpg碑陰下部.jpg
(碑陰上部、「建碑寄附」者名が並ぶ)  (碑陰下部、「發起者」の名前が並ぶ)

私が期待をしていた、千人塚の名前の由来などを記した碑文は、刻まれてはいませんでした。

皆川氏を扱った軍記本「皆川正中録」の「巻之三」に、ここ「草倉山の戦い」の話が出ています。「皆川勢草倉に出張之事」の一部抜粋してみます。軍記物だけに読むと面白いものです。

≪皆川山城守広照は七月十八日早天、草倉を以て防禦の地点と定め、これが大将としては家老客分たる牛久大和守吉隆・関口石見守盛綱、総奉行として佐山信濃守政道、その他 (中略) 名将勇士三百騎、軍師として安塚内匠介・片柳兵庫等総勢八千余騎なり。
 皆川家の定紋打ちたる左二ツ巴の旗数十旒、その他家々の旗幟幾百となく朝風に翻し、陣幕広く打廻し鉄砲の筒先を並べ弓を張り威風凛々と待受けたり。
 城内にては山城守広照水浴して身を潔め、石裂山に向って合掌なし
 何卒急難を救い給へ
と一心不乱に念じければ、不思議や北の方より朝霧深く立こめて皆川城の上より草倉山の頂上まで押つゝみ、城内の様子更に見えざりけり。
小田原方は太平山に陣取りて、山上より城内の動静を窺はんとすれども測りしれず、しばし躊躇の体なりしが、北条左京太夫氏直は自ら陣頭に進み、軍兵を励まし鬨の声を放って山上より一度にドッと攻め下る。
 此時草倉に控へし皆川勢スワとばかりに相応じ、挑み合ひしが、氏直大音にて、
 矢車に時うつすな槍を進めよ
と下知しければ、小田原勢六百余騎虎豹の如くにひきつれて突かゝる皆川勢も心得て犇めき叫ぶその中にも高嶽靭負・塩田小次郎・板垣六郎太郎・早乙女弥七・塩田又次郎等四五十騎抜きつれて切りまわり火花を散らして戦ふうち、小田原方は、後陣の内より鉄砲の選手二・三十人小高き所より発砲しければ、この筒先に塩田又次郎・早乙女弥七・板垣六郎太郎・村上文四郎等の勇士をはじめ雑兵数多斃れたり。・・(後略)≫

此の「皆川正中録」は、何時頃誰によって書かれた物かハッキリしていません。江戸時代中頃の作品とも言われます。歴史上実際に有った事をベースにしているものの、軍記物として創作・装飾されたところも多々有る様です。この軍記物、講談師に演じて頂ければ、さぞかし聴きごたえの有る話になりそうです。

石碑に有る「天正年間」とは、広辞苑を引くと≪安土・桃山時代、正親町・後陽成天皇朝の年号。1573年7月28日~1592年12月8日≫の期間。そして、天正元年(1573)は廣照の父俊宗が、北条氏との戦いに戦死をし、皆川広照が皆川城主となった年。同時に15代将軍足利義昭が京都から追放され、室町幕府が滅亡した年です。
そして天正十年(1582)6月2日、本能寺の変で織田信長が明智光秀の軍に急襲され、自害しています。
天正年間は日本の中央においても、一地方の栃木においても、動きが慌ただしくなっている時代でした。

「皆川廣照伝」を著わした近藤兼利氏は、その著書の中の「第三・考察 二、草倉戰考」にて、次の様に書き出しています。
≪天正十二、三年の頃、小田原の北条氏政、氏直親子が大挙して下野国に来り、藤岡城附近に集結し、先ず一部を先遣して太平山の皆川の出城を奪取して太平山を焼払い、次で主力も山を占領して皆川城に向い攻撃を開始した。広照また全力を提けて出動し共に主力を以て草倉に決戦を展開する。激戦数回、三月に亘って戦い尚勝敗定まらず、多数の死傷者を出して休戦となった。講和に当り氏政の養女を広照の側室となし北条、皆川今後提携すべきを誓ったという。・・・(後略)≫そしてこの草倉の戦いについて詳細に考察を進めていますが、ここでは省略します。ぜひ原本をお読みください。

太平山の北麓、草倉山の山中に建つ一基の石碑、今私達の記憶から忘れ去られようとしている。ただ現在も、最寄りの寺院となる傑岑寺においては、毎年9月16日に草倉山戦死者の霊を弔う施食会を執り行っていると、先の住職のお話の中に有りました。

参考資料:
 ①目で見る栃木市史(編集、栃木市史編さん委員会)
 ②皆川の歴史と文化(編集、皆川地区街づくり協議会歴史文化部)
 ③日向野徳久考註「皆川正中録」(考訂並考註、日向野徳久)
 ④皆川廣照伝(編者、近藤兼利)
nice!(0)  コメント(1) 

都賀町原宿の、磐根神社入口脇に建つ「大正湧泉記念之碑」 [石碑]

栃木市都賀町原宿に鎮座する「磐根神社」の参道入口に建つ、石の鳥居の左脇に幾つかの石仏や石碑が並んでいます。その中に後方で他より背の高い石碑が目に留まりました。
磐根神社(原宿).jpg
(磐根神社の入口に並ぶ石造群)

石碑上部の篆額部分には、「大正湧泉記念之碑」と篆書体の文字で浮き彫りされています。
揮毫した人物は「正三位勲四等子爵戸田忠友篆額之書」と、碑文冒頭に刻まれています。
「戸田忠友」は、下野宇都宮藩の最後の藩主。明治の版籍奉還で宇都宮藩知事となったが、明治4年(1871)の廃藩置県で藩知事を免職に成っています。明治17年(1884)の華族令で子爵に成っています。大正元年(1912)に正三位に昇叙されています。(最終的には、従二位)
大正湧泉記念之碑.jpg大正湧泉記念之碑(碑文).jpg
(大正湧泉記念之碑)                (碑文書き写し、原文は漢字・カタカナ文)

碑文には、≪古来より原宿の地は水利に乏しく、唯一の水源として頼むのは、西方用水の残流荒川だけで、近年上流にて水田が著しく増加した為、夏季には往々流れが断絶。農民の困苦は年をおいて甚だしく、加えて大正3年初夏には雹害旱災が相次ぎ、畑作物は壊滅に帰し、水田の収穫も又危ういものになった。
ここにおいて有志等会合を以て、湧泉開鑿を行うことを決めて、あちこち場所を探索し、ついに現在の泉地を選定する。直ちに敷地を購入し、7月15日起工、経費5,037円、夫役4,980人を投じて、大正6年10月1日竣工、既成改田17町8段5畝歩を得る。組合員一同終始和合協力して、僅かな失敗も無く、湧水も予想以上に豊富であった。この成功は神明の加護によるものである。事業の終了に際して、関係者一同相謀って、その由来を碑に記し、後世子孫に伝える。≫との内容が記されています。

ここで言う「大正湧泉」はどこに有ったのだろうか。まずは都賀町原宿の場所を再確認してみたい。
「都賀町原宿」周辺の概略図を作ってみました。
都賀町原宿周辺地名概略図.jpg
(栃木市都賀町原宿周辺概略図)

原宿の北側には西方町本郷、東側には都賀町家中、西側は都賀町木、南は木野地町等に隣接し、中央を北関東自動車道が横断、又、県道177号(上久我栃木線)が縦断しています。
西側の都賀町木との境には、思川の小倉堰から取水した西方用水の一つ「荒川」が流れています。

更に詳しく石碑が建つ原宿の「磐根神社」周辺を確認する為、国土地理院発行の2万5千分の1地形図「下野大柿」を基に、概略図を作ってみました。
都賀町原宿上付近概略図.jpg
(原宿の旧村社「磐根神社」周辺概略図)

「下野大柿」の2万5千分の1地形図の発行は意外と遅く、最初に発行されたのが、昭和46年12月28日です。そこには荒川の河道は描かれていません。地図記号で描かれていたものは①都賀町立木村小学校の「文」記号、(昭和55年3月31日、統合により廃校)。②磐根神社の鳥居記号、③玉塔院の「卍」記号、そして④記念碑記号です。(現在神社前に有る石碑とは場所が異なっています。)

昭和52年9月30日発行の地形図を見ると、県道栃木粟野線沿いに煙突の地図記号が追記されています。
三和酒造(株)の煙突です。創業は明治中期ですが、すでに廃業されています。製造していた銘柄は創業以来の「多喜水」、他に「大平冠」も造られ、合わせて二種と聞きました。

平成元年6月1日発行の地形図を見ると、荒川の河道が新たに描かれています。上記の概略図中央を左右に蛇行して左下に向かう線が荒川に成ります。これを見ると以前の荒川は現在石碑の建つ「磐根神社」の直ぐ西側を流れています。又、木村小学校の地図記号が消えています。

平成15年1月1日発行の地形図を見ると、北関東自動車道が現れました。その結果、概略図右上に有った記念碑記号が自動車道のルートに当たり、無くなっています。又、蛇行していた荒川の河道も直線的に改修されました。

平成30年8月1日発行の最新の地形図を見ると、北関東自動車道周辺の田畑や道路が直線的に改修されています。上記概略図には破線で表示しています。これは北関東自動車道整備に併せて、周辺の区画整理及び灌漑排水、農道整備を進めた結果になります。(県営土地改良総合整備事業、赤津南部地区)

「大正湧泉記念之碑」の碑陰を見ると、≪北関東横断道路の建設に伴い 大字原宿愛宕北127-3に建設されて居りました記念碑を神社境内に移転します。 平成8年1月吉日≫のプレートが埋め込まれていました。

やはりこの記念碑は、かつての地形図に記されていた場所に建っていたことが、確認されましたが、その「大正湧泉」の場所が何所なのかは、区画整理が行われた後では確認は難しいのかもしれない。
都賀町史を開くと、「水利について」と題する項目が有ります。その一部を抜粋します。
≪当町は小倉川(思川)に北から東にかけて包まれるような形になり、また西の方には西方村真名子の方から流れ出してくる赤津川が流れており、二大水源となっている。地質的には、赤津川から東が沖積層であり、西が洪積層であるというが、西の方が山からの湧水などを集める小さな河川もあり、比較的水利に恵まれていた。しかし、沖積地の方は扇状地であり水利に恵まれず、小倉川からの用水を利用した。西方村から赤津地区を流れる小倉用水と、家中地区を流れる桑原用水がある。家中では、桑原用水が出来るまでは水田は少なく、竹筒に入れた米の音を聞かせると死人が生き返るとか病気がなおってしまうと言われたとつたえられているほどである。 しかし、、田植えの頃など、水を一斉に使うので特に下流の方は水不足の問題があった。そこで、地下水を掘り出す湧泉(ユウセン)があちことに作られた。≫として、「明治湧泉」「川久保湧泉(金剛湧泉)」「万延湧泉」「文久湧泉」等々の湧泉名が列記されています。そして≪これら以外にも、西方村地内から、大正湧泉、雷神湧泉がひかれ・・・・(後略)≫と、ここに「大正湧泉」の名前が出てきました。

「大正湧泉」は北隣の西方地内に有って、そこから原宿まで水路を開鑿して、灌漑用水を確保したもので、磐根神社入口に建つ石碑は、そんな地域の歴史を静かに伝えているものでした。

※参考資料:
  ・国土地理院発行、2万5千分の1地形図「下野大柿」
  ・都賀町史:都賀町発行



nice!(0)  コメント(0) 

都賀町富張の三宮神社鳥居脇に建つ石碑「電燈紀念碑」 [石碑]

栃木市都賀町の住宅地図を眺めていたところ、富張を流れる赤津川左岸の小丘南端に鎮座する三宮神社境内に、記念碑の地図記号が4つ有るのに気付きました。これは是非行って確認しなければと思い、早速行ってきました。
神社の東側に整備された駐車場が有り、その北端に新しく建てられた石碑が有りました。
確認すると「戦後六十七年富張移り変わりの記録」と題し、1945年(昭和20年)から2011年(平成23年)の間、日本国内で、そして都賀町富張で起こった事柄が、年表状に刻されています。そして最後に「この地に、富張の全てを想う人々の熱意が結集し、関係者の理解と協力の下、記念碑を建立する。」と結んであります。碑陰には、「平成25年11月」の日付けと、記念碑建立 富張寄付賛同者36名の氏名が刻されています。
戦後の移り変わりの碑.jpg
(駐車場に建てられた「戦後六十七年富張移り変わりの記録」と題した石碑)

駐車場に車を止め、参道に向かいます。
三宮神社正面入口.jpg
(三宮神社参道入口)

まず、参道石段登り口の右横に「軍馬紀念碑」と大きく力強い文字で刻された石碑が、碑の光を浴びてドッシリとした感じで建っています。碑表に見られる文字は他に、左端に小さく「栃木石工 山澤常正刻」と有るのみです。
石段の上に「三宮神社」の神額を掲げた石の鳥居が、新年を迎えて新しい注連縄を付けています。
その鳥居の左側にもう一つ石碑が建てられています。碑表に「電燈紀念碑」のこれまた達筆な文字が刻されています。左横に「皆川月堂書」と有ります。石碑の題字を揮毫した人物ですが、特定できませんでした。
軍馬紀念碑.jpg電燈紀念碑全体.jpg
(参道登り口右側、軍馬紀念碑)       (石段の上石の鳥居の左側、電燈紀念碑)

鳥居を潜ってその先の石段を登って行くと、広々とした境内の先に三宮神社の社殿。
石の鳥居.jpg三宮神社社殿.jpg
(新しい注連縄が取り付けられた鳥居)   (杉木立をバックに建つ社殿)

社殿に向かって右手前、境内の隅にもう1基石碑が見えます。近くに寄って確認します。
「都賀町富張鎮座 三宮神社由来」と題し、碑文が刻されています。文末に「平成十七年三月吉日 下野歴史研究会長 熊倉精一」と有りました。熊倉精一さんが著わした文献が何冊か、栃木市の図書館にも収められています。私も今まで何回か拝読しています。
碑文の内容が写真では分かりにくい為、書き写してみました。
三宮神社由来の碑.jpg三宮神社由来の碑(碑文).jpg
(三宮神社由来を刻んだ石碑)              (碑文を書き写しました)

拝殿にて参拝をして更に境内を探索。社殿右側にいくつかの石碑が並んでられられています。確認するとこれらの石碑は明治後期から昭和初期に、百円・二百円と言う高額奉納者に対して、氏子一同が記念して建てたものでした。
高額奉納記念碑.jpg
(高額奉納者に対して氏子一同が謝意を表した記念碑郡)

これらの石碑の中、私が興味を持ったのは、参道石の鳥居脇に建てられた「電燈紀念碑」です。この種の記念碑は栃木市内で以前一度お目に架かっただけです。(外にも有るのかも知れませんが)
それは、大平町富田南西端にあたる、西友田の浅間神社参道入口に建てられた、碑表に「電燈建設記念碑」と刻まれた石碑です。
碑陰には「昭和四年六月八日點火」の文字の外は、関係者の氏名が並んでいます。
電燈建設記念碑(富田).jpg電燈建設記念碑(碑陰).jpg
(大平町富田西友田、浅間神社入口の石碑) (碑陰上端部分に刻まれた点灯の日付け)

碑陰最下段に刻まれた発起人の一人「熊倉吉太郎」と言う人物は、石碑の題字「電燈建設記念碑」の文字を
揮毫していますが、その後、昭和9年(1934)8月1日から、第11代富山村長に成られた人物です。

ただ、この石碑に関してそれ以上の情報が得られなかったので、今回三宮神社参道に建つ「電燈紀念碑」を目にしたときは、ここにも電燈の記念碑が有った事に興味が沸いたのでした。

改めて「電燈紀念碑」の碑陰を確認すると次のように、碑文が刻まれていました。
碑陰上部.jpg碑陰下部.jpg
(碑陰上部、大正十四年十二月の日付け) (碑陰下部、建設委員などの氏名が並ぶ)

碑文を書き写してみました。
碑文.jpg
(実際の文体は写真の通り、漢字とカタカナです。簡体字も使われています)

碑文に有る様に、この石碑は大正14年(1925)12月1日に建立されていますが、これは前年同日に当時赤津村大字富張の地に、初めて電燈が灯った日の、一周年を記念して、電燈の建設に携わった富張1・2区の正副委員長が発起人となり委員の同意を得て、その経緯を石に刻して紀念としたものでした。

現在は当たり前の様に私達の生活の中に溶け込んでいる「電灯」。今の生活は電気無では成り立ちません。平成23年(2011)3月11日に発生した東日本大震災の後、私達は長期間の計画停電を強いられました。3月中旬のまだ朝夕の寒い時期に、暖房機が使えなくなったり、多くの製造現場では機械を動かせず、勤務体制の見直し等に翻弄されました。

今回確認した「電燈」の灯った日を記念して建てられた二つの石碑。大正期から昭和初期ににかけて、栃木市の各地域で同様の動きが起きていたことが、そして多くの人々は電燈が灯った事の喜びが伝わってきます。

もう少し栃木市各地区の電燈の普及状況を見ていきたいと思います。
旧栃木市が発行した栃木市史の内、最初に発行された「目で見る栃木市史」(昭和53年3月31日栃木市発行)を開くと、≪栃木町発展のあゆみ、明治期のまちのようす≫の項に、「大通りみ街燈ともる」と題して
≪明治六年(1873)大通りに三六基の街燈を設置、(中略) それにともなって軒先にガス燈をつける商家も目立ってきた。≫と、記しています。
街灯に浮かび上がる横山郷土館.jpg横山郷土館の旧ガス灯.jpg
(外灯の光で浮かび上がる横山郷土館)(軒先に点灯する外灯は、かつてはガス燈と云う)

この時の街燈の燃料はなんだったのだろうか。昭和27年に発行された「栃木郷土史」(栃木郷土史編さん委員会編)の中にヒントが有った。≪それはカーバイトの器具機材を各自が購入したものであった。≫と。私が学んだ栃木工業高校時代、アセチレンガス溶接作業の実習が有り、機械科実習棟の北側にはアセチレンガス発生装置が有った。カーバイトに水を滴下すると反応してアセチレンガスを発生させる。そのアセチレンガスと酸素を吹管で適宜混合して火口から噴き出す高温の燃焼炎により金属を溶融結合または切断させる。のですが、取り扱いを誤ると逆火して爆発すると言われ、あまり好きな実習では有りませんでした。当時のガス燈はカーバイトからアセチレンガスを発生させ、燃焼させて明かりを得たものだったのでしょう。

上記「目で見る栃木市史」には更に「ガス燈から電灯へ」と題した項が有ります。
≪栃木にガス燈があらわれたのは、日露戦争中自家用として町民の一部に使用されたにはじまるが、その大衆化は明治三十九年(1906)の初夏、ガス会社が設立されてからである。(中略) やがて明治四十四年(1911)下野電力が進出し、電灯がともるようになったのでガス会社は解散した。≫と記しています。
そのページの上部に、「電線路略図(明治43年)」の図面が掲載されていますが、その図に有る会社名は「栃木電氣株式会社」と成っています。

日本で初めての電力会社は現在の「東京電力(株)」の前身で、「東京電燈」で、明治19年(1886)の開業に始まります。栃木県内では、明治26年(1893)10月1日に「日光電力」が、明治35年(1902)1月15日に、「宇都宮電灯」が開業、その後明治40年(1907)9月、これらの2社が合併して、「下野電力」と改称しています。この宇都宮市に本社を置く「下野電力」は、明治41年(1908)栃木町まで架線を設置して供給する計画を立てた。一方栃木町には「利根発電(株)」に直結する「栃木電燈(株)」が望月磯平らによって開設されていた。栃木町では2社が競合する形に成っていた。その利害関係などによる内部事情から確執を起こしたが、「下野電力(株)」が同会社を買収する事によって、栃木町にも送電されるようになりました。明治44年5月のことに成ります。尚、寺尾村は遅れて大正14年(1925)のことに成ります。

大平町はどうだったのか、「大平町誌」には電灯に関する記載は見つけられません。先に紹介した「富山村」の「電燈建設記念碑」の碑陰に刻まれた日付け、「昭和4年6月8日点火」が、確認されます。該当地域は碑陰の関係者の名前欄から、富山村と古橋北坪が確認出来ます。

藤岡町については、「藤岡町史 通史編 後編」に「電気が入る」と言う題が見つかりました。大正6年(1917)≪藤岡町長、「藤岡電気(株)」に電柱設置の為、道路使用許可する命令書を下付している。≫と。又、≪藤岡町の加藤伝蔵と茨城県古河町の「古河電気(株)」との間で「電線路電柱」建設の為の敷地使用に関する契約が取り交わされている。≫などと、記されています。そして電灯が入った時期については、≪大正4年に部屋村大字緑川、5年に藤岡町、6年に部屋村大字新波、赤麻村の西赤麻、7年に部屋村大字部屋・石川・蛭沼、11年に岩舟村からの電線で三鴨村大字太田、11、2年に赤麻村残り全域、12年に三鴨村残り全域≫と記されていました。

都賀町では、「都賀町史 歴史編」に電灯と言う項が有り、富張地区の「電燈紀念碑」碑文の記載が有った。≪富張の三宮神社鳥居の傍らに「電灯記念碑」が在る。帝国電灯株式会社と契約して、大正十三年六月に該地区に電灯が点ったのである。点灯の記念であるが、「電灯記念」としたのも当時の人達が電灯への憧れの強さを示すものであろう。(後略)≫と、記されています。この時の契約相手の「帝国電灯(株)」とは、大正10年(1921)7月16日に先の「下野電灯(株)」を吸収していました。又、点灯した日付けは大正13年12月1日であり、6月は契約を行った時期の誤りです。
更に都賀町史には、≪本町に点灯されたのは大正七年と要覧にあるが、これは、おそらく家中宿坪地区であろう。その後、大正十三、四年ごろになって大柿地区までに及んだものと思うが現在記録が見当たらない。≫と記されています。

「西方町史」には、≪大正6年(1917)西方村内で初めて金崎に電灯がつく。≫と、又、「岩舟町史」には、≪大正5年(1916)電灯が普及する。≫

この様に栃木市内のほとんどの地域が、大正年間に電灯が点っている。ただ、「電燈建設記念碑」の建つ富山村が昭和4年の点灯と有り、予想外に遅れている理由が思い浮かばない。

参考文献:目で見る栃木市史、大平町誌、藤岡町史、都賀町史、西方町史、岩舟町史、
       東京電力三十年史、栃木郷土史、





nice!(0)  コメント(0) 

今年、最初に巡る石碑は「夢の実現」です [石碑]

2020年の始まりは、例年通りに元日の神明宮への初詣。毎年ほぼ同じ時間に行くと、ほぼ同じような参拝者の行列。神前で「今年一年健康で有りますよう」祈願してきました。
二日・三日はテレビ桟敷で箱根駅伝を見て過ごしました。そしてあっという間にいつもの生活に戻ってしまいましたが、炬燵からなかなか抜け出る事が出来ず、ブログの更新も出来ずに、今日まで来ました。
今日、いくらか暖かくなったので、パソコンの前に座った次第です。

今年最初のテーマは、前々から調べていた、「夢の実現」と碑の前面に大きく刻された石碑を巡ります。
この石碑が建っているのは、栃木市藤岡町甲の本郷東、市道1073号線の道路の脇に成ります。
石碑「夢の実現」.jpg
(栃木市藤岡町甲の本郷東に建つ「夢の実現」の石碑)

私がこの石碑を初めて確認したのは、2014年11月20日、渡良瀬川の支流のひとつ蓮花川を、渡良瀬川との合流点から遡る形で、川岸を歩いていた時です。

蓮花川と上記の市道1073号線とが交差する点に架かる「十三橋」の上から北西方向に向かう道路が、坂を登った先に、何やら胸像と共に建つ石碑を、手持ちのカメラで目一杯ズームアップして確認したものです。
蓮花川銘板.jpg十三橋銘板.jpg
(市道1073号線の蓮花川に架かる「十三橋」の銘板)

石碑の表面には、中央に大きく「夢の実現」も文字が彫られています。右側上部には「農業構造改善竣工紀念」、そして左側下部に「理事長関塚茂七書」の文字。
碑陰を見ると、上側半分に碑文、下半分には関係者の名前が並んで彫られています。
石碑の正面.jpg石碑の碑文.jpg
(石碑表面)              (碑陰上半分に彫られた碑文)

今、この石碑の建つ高台から南東の方角を望むと、水田地帯が広がっています。更にその先を見ると道路は坂を登っています。地形図を見ると石碑の建つこの場所は標高20メートルの等高線が通っています。そしてこちら側藤岡町甲の本郷東周辺は、標高25メートルの高台に成っています。又、蓮花川を渡った反対側の高台となる藤岡町大前の国造西周辺の標高も25メートル程に成ってます。その間の低地に水田が広がりその中央部分を、蓮花川が北から南に大きく蛇行して流れています。川の流れる水田地帯はかつては唯木谷津と称される低湿地帯で、現在でも標高16メートルと成っています。
唯木谷津.jpg
(石碑の前から南東方向を写す。中央の水田地帯を左から右に蓮花川が流れる)

「藤岡町史資料編近現代」第Ⅱ部「石に刻まれた歴史」には、この石碑に関する解説が有ります。
≪町道大前・新井線の只木谷津に臨む路傍に建つ「農業改善竣工記念碑」(1971年)である。「夢の実現」と刻まれているように、長年蓮華川の洪水に悩まされた只木谷津約百町歩の干拓事業は、この周辺の農家の夢であった。昭和22年のカスリン台風によって農耕が不可能になった後、同23年度の県営排水事業による新堀排水機場の整備の開始から、同46年の換地登記に至るまでの経緯を記し、「永年の夢の実現を喜び盛大なる完工式を挙行」してこの記念碑を建立したと結んでいる≫と、記しています。

石碑の前に建てられた胸像は、石碑の題字「夢の実現」を揮毫された当時の第一土地改良区の理事長「関塚茂七」氏で、眼下に広がった唯木谷津の水田地帯を見守っています。
胸像を据えた台座の裏面には、「関塚茂七翁を讃う」として、翁の略歴と功績とが刻まれています。
関塚茂七胸像.jpg胸像碑文.jpg
(関塚茂七翁之像)              (台座裏面「関塚茂七翁を讃う」の碑文)

胸像の背中部分には、「関塚茂七翁像 昭和三十二年丁十月 佐伯留守夫」と刻まれています。
又、台座の下部には発起人や建設委員等、34名の氏名が並んでいます。
台座下部2.jpg台座下部1.jpg
(胸像台座下部左側部分)                (胸像台座下部右側部分)

又、「関塚茂七翁之像」に向かって、右後ろにもう一基小さな石碑が建てられています。この石碑がどうも私には理解出来ない、多くの疑問が有るのです。
まづ石碑の表面には、「関塚茂七翁胸像 移転竣工記念 平成七年五月吉日」と有り、その下側に関係者の役職名と名前23名が並んで刻まれています。
山合新堀水閘1.jpg
(「関塚茂七翁之像」の右後方に建つ、少し小さな石碑表面)
これだけを見る限りでは、隣の胸像は元は別の場所に建てられていたものを、この地に移転竣工したのを記念して建てられた石碑と単純に解釈出来ます。
が、その石碑の後ろ面を見ると、その裏面には上側に「山合新堀水閘」と、そして下側には「明治三十六年十月建設 設計者 栃木縣技師工學士井上次郎 監督者 栃木縣土木工■ 伊藤千城 功七等 栗林長策」
と刻まれています。 (■部分の文字は判読出来ませんでした)
山合新堀水閘2.jpg山合新堀水閘3.jpg
(碑陰上部:山合新堀水閘)           (碑陰下部:建設年月・設計者・監督者)

使用されている漢字を見ると「栃木縣」とか「工學士」「功七等」と、平成に成って刻まれた文字とは考えにくい、「明治三十六年十月建設」と彫られた日付けから考えて、元々有った石碑を利用したものと考えたい。

碑陰上部に刻まれた「山合新堀水閘」とは何なのだろうか。関塚清蔵著「蓮花川」(昭和58年4月6日・全国農村教育協会発行)の中で、≪明治時代になると高取堤の決壊は無くなり、この部分から唯木沼に入る洪水の被害は無くなった。しかし今度は、渡良瀬川の洪水時には、赤麻沼から新堀を逆流して、唯木沼周辺の耕地が冠水する被害が出てきた。とくに明治二三年(1890)以降は、渡良瀬川の洪水時には、足尾銅山の鉱毒を含んだ水が入りこんで被害を大きくした。そこで山合の関塚清作、関塚千代作等が発起人となり、蓮花川の逆流を防ぐ目的で、明治三六年一〇月に山合新堀水閘を完成させた。≫と記しています。
そして又、水閘の有った位置については、≪この県道は最近まで、明治36年に作られた山合新堀水閘の上をとおっていて、水閘の横には旧排水機場があった。昭和56年に蓮花川の河川改良工事により、水閘も排水機場も撤去され、新しい新堀橋が完成した。この橋の南側の県道傍に関塚茂七氏の胸像が建っている。≫とも、記されていました。ここで言う県道とは現在の市道1070号線(旧県道栃木藤岡線)の事です。
この書籍「蓮花川」が発行された頃は、「関塚茂七翁之像」は現在の場所では無く、こちらの「新堀橋」の南橋詰に建てられていたものを、平成7年5月に移転した事など、全ての疑問が解消されました。
平成5年頃新堀橋.jpg
(かつて「山合新堀水閘」が有った、蓮花川に架かる市道1070号線の新堀橋。)

※参考にした文献:
  ① 「藤岡町史 資料編 近現代」 藤岡町史編さん委員会 藤岡町発行
  ② 「蓮花川 郷土の歴史と農業の発達」 関塚清蔵著 全国農村教育協会発行


nice!(0)  コメント(0) 

新潟県燕市五千石に建つ巨大な石碑 [石碑]

私が今まで見た中で一番大きい石碑が、新潟県燕市五千石に建っています。
この石碑は、「信濃川治水紀功碑」と題するもので、信濃川と大河津分水路の分岐の地に建てられたものです。先月、この地に有る「信濃川大河津資料館」を訪れ展望フロアーから大河津分水路などを眺めていた時に目に留まり、新ためてその前に建った時、その大きさに驚かされました。
信濃川治水紀功碑1.jpg
(信濃川と大河津分水路の分岐に建つ、巨大な石碑)

石碑上部の篆額には、「信濃川治水紀功碑」と篆書体で書かれています。揮毫をした人物は、碑文冒頭に刻されていますが、「議定官 元帥 陸軍大将 大勲位 功二級 載仁親王」と言う人です。
信濃川治水紀功碑(篆額).jpg
(「信濃川治水紀功碑」の文字が浮き彫りされた篆額)

石碑は大正13年に建てられたものですが、表面は非常に綺麗で、碑文の文字もハッキリと刻されています。これだけ鮮明なのは、碑文の文字数が1,252文字に成るものの、石碑が大きいく、1文字1文字のサイズが5センチ角ほどにもなっている為と思われます。
碑文は大正期に架かれた物の為、私の苦手な漢文体、漢字の羅列にどう読んだらいいのか、頭を抱えてしまいます。
幸い石碑の前に説明板が有り、それを読むと石碑の内容が概ね理解する事が出来ました。
信濃川治水紀功碑(説明板).jpg
(石碑前に建てられた、説明板を写真に収めてきましたので、添付させて頂きました。)

それによりますと、石碑の大きさは、高さが7.2メートル、幅は2.5メートル、厚さ42センチメートルと有ります。石碑の重さは何んと26トン(仙台石巻産)、台と成っている石は50トン(弥彦産)で地中でガッチリと石碑を支えています。
碑文を書き写しました。旧字体の漢字も多く使われていて、どうしても文字を再現できない所も有りました。(■記号で表示) 
信濃川治水紀功碑2.jpg碑文(縮小版).jpg
(石碑正面写真)             (碑文を書き写しました。文字は一部新字体に変更)

碑文は、内務大臣 水野錬太郎の撰文。書は比田井鴻と言う書道家です。(現代書道の父と称されています。)

碑文によりますと「大河津分水路」は、越後平野を水害から救う為に、信濃川の水を分水して日本海に流す為の水路です。その構想は江戸時代享保年間に遡り、寺泊の「本間数右衛門」「河合某」らが、幕府に嘆願書を出したもので、信濃川が最も日本海に近づく大河津付近から約10キロメートルの人工水路を開鑿して分水するものです。しかしこの計画は幕府の承認が得られず、明治新政府に代わって急に建設する事が決定されます。しかしその工事も中止となります。その後明治29年・30年と続いて大洪水が発生し、大河津分水路の建設工事再開が決まりました。
明治42年に着工、大正11年工事完了通水、大正13年3月23日晴れの竣工式が挙行されました。

分水地点のジオラマ.jpg
上の写真は、信濃川大河津資料館展望フロアーに有る大河津分水路のジオラマの一部を写したものです。
写真左上に分岐点、そこから真下に流れている細い流れが、「信濃川」の本川。左上の分岐から右方向、横に流れる太い流れが「大河津分水路」です。
分水路右隅の施設が「可動堰」。分岐近く信濃川本川に有る施設が「新洗堰」。その右側に「旧洗堰」も見えます。更にそのすぐ右側の小さな建物が、私が行った大河津資料館(銘板に赤いマーク)です。

石碑近くの堤防上から分水路方向を眺めると、左奥に可動堰、そして手前正面には残された旧可動堰の一部が見えます。後ろに聳えている山並みは左が弥彦山、右が多宝山です。(標高は共に634m)
可動堰1.jpg

視線を反対側の南に移すと旧洗堰、その右奥の建物が「国土交通省北陸地方整備局信濃川河川事務所「大河津出張所」で分岐点の先端部に有ります。
洗い堰1.jpg

今年の10月12日から13日にかけて関東地方を縦断した台風19号により、私の住む栃木市内も甚大な被害を被りました。そしてこの信濃川においても上流の千曲川流域で大きな被害が発生しています。
信濃川河川事務所の「分水路だより」(令和元年11月1日号)を見ると、冒頭に「令和元年台風19号による出水報告・大河津水位観測所で観測史上1位の水位を観測」と、そしてこの分水路において≪信濃川上・中流域の洪水を日本海に流し続け、越後平野への氾濫を防止しました。≫と、記されています。見事に役目を果たしています。
それでも近年、こうした自然災害も規模が大きくなってきており、ここ大河津分水路においても、現在分水路河口部の改修工事が進められていと「水路だより」は記していました。
私達はこれで大丈夫だと安心せずに、今有る問題点を常に考え、対策を重ねていくことが大切であると、この地を訪れて考えさせられました。
 
※参考資料:国土交通省北陸地方整備局信濃川河川事務所発行各種パンフレット。
          ・越後平野発展の礎、大河津分水路(2016年1月プリント)
          ・分水路河口の改修始まる(2016年5月プリント)
          ・分水路だより№55(令和元年11月1日号)


nice!(0)  コメント(0) 

岩舟町に建つ二つの「土器開祖」の石碑 [石碑]

栃木市岩舟町には、何故か2ヶ所に「土器開祖」と刻した石碑が建てられています。
ひとつは、大字静字茂呂の市道1054号線、「すみれ保育園」の少し北側の道路の脇に、建てられています。石碑には「土器開祖 新井藤吉翁之碑」と有ります。
新井藤吉翁之碑1.jpg
(市道1054号線の道路脇に建つ、「土器開祖 新井藤吉翁之碑」)

そしてもう一つは、大字曲ケ島字新区、市道1064号線の道路脇、新区公民館前に建てられています。石碑には「土器開祖 新樂平五郎之碑」と有ります。
新樂平五郎之碑1.jpg
(市道1064号線の道路脇に建つ右側が、「土器開祖 新樂平五郎之碑」)

それでは何故、岩舟町に「土器開祖」が二人いるのか。その答えは、岩舟町史を開くと直ぐに解決しました。答えとなる部分、岩舟町史の第四節窯業の部分より、抜粋させて貰います。
≪窯業の歴史は、茂呂と曲ヶ島の二つの流れがある。茂呂における歴史には、新井藤吉と、その子孫たちの苦闘の歴史が、曲ヶ島やきは新樂平五郎を元祖と仰ぐ佐山清之丞の苦心が秘められている。≫
以上の様に元々岩舟町の窯業の発展には、茂呂地区と曲ヶ島地区の二つの流れ(歴史)が有った為、それぞれに開祖となる人物が存在していたので、両方の地区でそれぞれ石碑を建立された訳です。

それでは最初に茂呂地区の、新井藤吉翁之碑について見ていきます。
新井藤吉翁之碑(碑表).jpg新井藤吉翁之碑(碑陰).jpg
(碑表には大きく碑銘のみ)(碑陰には碑文と下部には発起人や世話人の名前が並びます)

碑陰に刻された碑文には、碑銘に有る新井藤吉翁の生れは、時代を遡る事江戸時代、寛政3年2月15日と成っています。それから茂呂の此の地で、土器生産を完成させた経緯が記されています。
それは、藤吉翁一人の苦労に留まらず子孫代々の改良が加えられて、完成されたものでその間時代の流れに翻弄されつつも、事業を拡大した様子が覗えます。
石碑が建てられたのは昭和19年9月20日、碑文を撰文したのはその当時岩舟村長の石川光士氏です。

曲ヶ島の新区公民館の前に建つ、新樂平五郎之碑について見ていきます。
新樂平五郎之碑(碑表).jpg新樂平五郎之碑(碑陰).jpg
(碑表、中央に碑銘、右側に開業五十年祭と有る)(碑陰には発起者と賛成者の名前)

こちらの石碑が建てられたのは、先の茂呂地区の石碑より早く、昭和2年4月と成っています。
碑銘に有る「新樂平五郎」という人物に関しては、碑陰に「祖師東京今戸生新樂平五郎」とのみ有るだけ、ハッキリしません。ここは「岩舟町史」に助けて貰います。
≪曲ヶ島の土器製造は、明治維新ののち、東京の今戸焼の職人新樂平五郎が曲ヶ島へ移住、曲ヶ島向坪の土をもって火鉢やほうろくなどの日用土器を焼いたにはじまる。佐山丈右衛門の四男清之丞は、これに興味をおぼえ、平五郎の弟子となり、向坪にかまをつくって日用土器の生産を開始した。新樂平五郎というよき指導者にめぐまれたことが幸いした。明治十年(1877)佐山倉吉の長女トキと結婚、本家から独立してやきものだけで生活が出来るようになった。これが刺戟となって近隣のものも清之丞から技術を学び、土器生産をはじめるものがあらわれその数も六軒におよんだ。≫と説明されています。

この石碑が建てられた昭和2年4月と言うのは、佐山清之丞が結婚をし独立をした、明治10年から丁度50年が成った時で、碑の表に有る通り「開業50年祭」を記念する建碑だったのです。
二つの碑の背面の内容を書き写しました。
新井藤吉翁之碑(碑文書き写し).jpg新樂平五郎之碑(碑陰書き写し).jpg
(新井藤吉翁之碑の碑陰)                 (新樂平五郎之碑の碑陰)

今、栃木市街地から県道11号(栃木藤岡線)を南下して、国道50号(岩舟小山バイパス)の跨線橋を抜けて、岩舟町曲ヶ島の新区地区を通過する時、道路の両側に大量の茶褐色した土管が積まれた風景を見る事が出来ます。土管を焼くための窯の煙突でしょうか。煙突には(有)葛生陶管の社名が見えます。
曲ヶ島新区の土管.jpg葛生陶管の煙突.jpg
(県道栃木藤岡線脇に大量の土管が積まれています) (2本の煙突が見えます)

ここ(有)葛生陶管さんの関係者でしょうか、「土器開祖 新樂平五郎之碑」の発起人の一人に「葛生信次」氏の名前が並んでいます。他に石碑の建つ新区公民館周辺には「佐山陶管有限会社」の看板を付けた家屋も見られました。

一方茂呂地区周辺を巡ってみても、土管を製造していそうな風景は見られませんでした。ただ古い岩舟町の住宅地図を確認すると、茂呂新田周辺に「栃木製陶」とか「青木陶管工業」「富山陶管工場」の会社名が確認出来ました。ただ現在の住宅地図には、これらの会社名は掲載されていません。
茂呂地区に残る煙突.jpg
(茂呂新田地区に残るかつての「富山陶管工場」跡と思われる煙突)

小さな二つの石碑に、かつて岩舟町の一大産業だった、窯業の歴史を知る事が出来ました。


nice!(0)  コメント(0) 

太平山あじさい坂中程に建つ「鈴木宗四郎翁之碑」 [石碑]

太平山のあじさい坂を登って行くとその中程に、右方向に分岐する細い道が有り、その入口にこじんまりした石造りの鳥居が建っています。鳥居に掲げられた扁額には「窟神社」の文字が浮き彫りされています。
窟神社入口.jpg窟神社扁額.jpg

鳥居を潜って少しその細い道を進むと、正面に大きな岩で組まれたような洞窟が有り、その手前には「太平山弁財天」の標柱が建てられています。
窟神社.jpg

洞窟の左脇にはふくよかなお顔の小さな石造りの弁財天様。洞窟の中には水が溜まっており、その奥を覗くと暗闇の中に小さな石の祠が祀られています。
弁才天の石像.jpg窟内に祀られた石祠.jpg

洞窟の所から左方向の道を進むと、又、元のあじさい坂に合流します。丁度その合流点からあじさい坂の左側の少し奥に石碑が1基建てられています。石碑上部の篆額には「鈴木宗四郎翁之碑」と、篆書体の文字で書かれています。揮毫をされた人物は、石碑の最初の行に刻されていますが、その当時の「陸軍大将正三位勲一等功二級男爵鮫島重雄」です。

普通、こうした顕彰碑を建立する際は多くの発起人や賛同者が有って、それらの人達から寄附を募って建碑の費用を捻出します。そうしてそうした関係者の氏名や寄附した金額等を碑陰に刻する事が多く見かけられます。これまで調べた石碑においてもそうした碑陰に刻された名前から、顕彰された人物の人間関係を知る事が出来ますので、今回も碑陰についても確認してみましたが、この石碑の裏面には何の記載も確認できませんでした。
それではこの石碑に有る「鈴木宗四郎翁」とは、どのような人物なのでしょうか。
碑文最終行の日付けは「明治44年12月」、そしてこの碑文を撰された人物は「縣社太平山神社社司 岡田順平」と刻されています。
明治期の石碑の為、碑文は私の苦手な漢字一色の漢文体、読む事が出来ません。読める漢字を一字づつ拾い、内容を類推して行きます。
碑文の冒頭部分に≪明治四十年五月三十日鈴木宗四郎君歿、享年六十二≫と有りますから、生まれは江戸時代後期、弘化元年(1844年)に成ります。
≪栃木県下都賀郡栃木町平井の豪農≫、≪父親の名前は鈴木磯衛、母親は寺内姓≫
≪明治六年五月第一大区1一二三及六小区学区取締補助≫その後、平井村・片柳村・薗部村等の戸長や≪神道中教院太平出張所事務掛≫などを務め、≪十八年任下都賀郡皆川城内外八邨戸長尋轉栃木町外十三邨戸長兼前任≫と、翁は高田俊貞・田中貢・岩上条三郎に次いで第四代の栃木戸長となりました。明治22年5月町村制実施に伴い廃官、地方行政等に関わった在職期間はおよそ17年と成っています。
又、≪東窮奥羽西抵肥筑足跡所及五十有二國≫のごとく、日本国内各地を訪れ、≪躋名山渉大川≫と、名山に登り大川を渡り、神社仏閣を見て回っています。
鈴木宗四郎翁と太平山神社との関係を碑文に探すと、まず先に記した様に明治9年≪神道中教院太平出張所事務掛≫を務めた外、≪君開太平山公園也≫と太平山公園の造成にも力を注いでいます。
明治23年、根岸町長の時、それまで狭く曲がりくねった栃木から太平山に達する道路(行程30町)を改修していますが、この時翁は率先して工事の監督を行っています。更に明治37年10月から12月に太平山神社への参道≪長二百四十餘間路傍鑿溝渠栽櫻樹≫の整備にも工事監督をしています。
こうして鈴木宗四郎翁は太平山神社と深く関わっていたことが理解できます。そして又、この石碑がこの太平山神社参道脇に建立された事にも、納得いたしました。
鈴木宗四郎翁之碑.jpg篆額部分.jpg
(あじさい坂を登ると、中程左手奥に建つ石碑) (石碑の篆額部「鈴木宗四郎翁之碑」)
鈴木宗四郎翁之碑(碑文).jpg
(碑文を書き写しました、難読部分は□記号としています)

nice!(0)  コメント(0) 

岩舟町新里の小野寺公園に建つ「轢死者供養塔」 [石碑]

岩舟町新里の小野寺公園に建つ「轢死者供養塔」の石碑については、2018年5月22日に「草むらに埋もれる石碑の残骸」と題して書いた、明治40年9月に当時の小野寺村が、明治天皇が明治32年11月16日に近衛師団機動演習にて小野寺村大字新里字天狗に御野立せられた所を記念して、「御駐蹕之碑」を建てたとする田代善吉著の「栃木縣史 皇族編系圖編」の記事を基に、現地に赴き調査した結果を記したブログですが、その中で偶然出会った石碑として少しふれています。
小野寺公園.jpg
(岩舟町新里に有る小野寺公園、今は落葉した桜の老木と草むらが広がる)
小野寺公園の碑.jpg轢死者供養塔1.jpg
(公園内に建つ「小野寺公園」の碑)      (公園中ほどに建てられた「轢死者供養塔」)

従って、地元でも無くこの石碑の事は全く知らなかった訳ですが、その時に現場に居合わせた地元の方から、この石碑についても少し話が聞けました。
この小野寺公園の南側に沿って、両毛線の線路が有り、その為その線路を渡る際に列車に撥ねられて亡くなった人が後を絶たなかったと言います。そうした犠牲者を供養する為に、建てられたものだと云います。
小野寺公園横の両毛線.jpg
(小野寺公園のすぐ横を走るJR両毛線の電車)
小野寺公園周辺概略地図(昭和39年頃).jpg
(「轢死者供養塔」の建つ「小野寺公園」の周辺の様子を概略図にしました)
上の概略地図は国土地理院が昭和39年に発行した「下野藤岡」の2万5千分の1の地形図を基に作成しました。その為地図中央の「小野寺公園」の直ぐ右下、現在の「新里踏切」の西側に駅の地図記号が見られます。この駅は昭和27年4月5日に開業した小野寺駅に成ります。
この小野寺駅は昭和41年12月20日駅の業務を休止しています。その後昭和43年7月19日の佐野・岩舟間の複線化工事、同9月1日の両毛線全線電化等が行われ、昭和62年4月1日の国鉄民営化に合わせ、再開することなく、小野寺駅は廃止と成っています。
右上から中央下に向かって描いた道路は、「下都賀西部広域農道」で昭和39年当時は有りませんでしたが、現在の位置関係を理解する目標物として、追加記載しました。

それでは、この石碑は何時頃建てられたものか、碑陰を確認します。
碑陰には全体に文字が刻されていますが、長年風雨に曝された為に文字の判読が困難な所が多く、何とか碑陰の左端の行に有る日付けを読み取りました。
「昭和2年7月」です。その下には「發起人 小野寺村各宗寺院一同」と読み取りました。

明治21年(1888)5月22日の両毛線開通式後39年間、どれだけの人が亡くなられたのか、分りませんが、この供養塔を建碑する為に、浄財を寄せられた多くの芳名が碑陰一杯に刻されています。
判読できた中に「金拾円也」や「金貮円也」「金参円也」「金壱円也」の金額、「小松原儀一」「大嶋登一郎」「寺内作蔵」「大島善次」「熊倉喜一郎」などの名前が読み取れました。

「轢死者供養塔」の文字を書かれた人物の名前は、碑の正面左下に確認出来ました。「物外書」と有りますから、恐らく発起人に有る村内寺院のどちらかの僧侶の手によるものと思われます。

何故、この地で轢死する人が多かったのか、それは先の概略図を見ると地形上の原因が大きかったことが覗われる。この小野寺公園の所で両毛線の線路が、三毳山の北の端に張り出した小丘を回り込むように、僅かにカーブしているのです。この地点から東(岩舟駅)方向を見ても、西(佐野駅)方向を見ても、ほぼ直線上に進んでいます。
東方向を望む.jpg西方向.jpg
(東方向、新里踏切の先は真っ直ぐ伸びている)(西方向、ずっと先まで真っ直ぐ伸びている)
小野寺公園横両毛線遠望1.jpg
(広域農道の跨線橋上から、右手奥木立の中の小野寺公園を望む)
小野寺公園横両毛線遠望.jpg
(上の写真の奥、新里踏切付近を拡大。線路がカーブしているのが、良く分かります)

現在この区間は複線に成っていますが、昭和40年頃までは単線だったから、カーブはもっと見通しが利かず、山陰に隠れた踏切はもっと危険だったと思われます。
ここで云う踏切は現在の新里踏切の場所では無く、小野寺公園の西側に以前通っていた小路の踏切と考えます。(現在踏切も道も有りません)

今も「轢死者供養塔」は公園の緑の木々の中で、静かに前方を行き交う両毛線の電車を見守っています。

※参考資料
・「栃木県鉄道史話」大町雅美著
・「栃木縣史 交通編」田代善吉著
・「栃木縣史 皇族編系圖編」田代善吉著
・「2万5千分の1地形図・下野藤岡」昭和39年11月30日国土地理院発行


nice!(0)  コメント(1)