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栃木市柳原町に建つ「天皇駐蹕之所」の碑 [石碑]

今回は、栃木市の東の端、柳原町に建てられた「天皇駐蹕之所」の碑を紹介します。
実は、この石碑の所在を前々から探しておりました。今から4年前に成りますが、このブログにて栃木市内に建てられている明治天皇・大正天皇の御行幸関係の石碑を掲載していましたが、文献には記録が有るものの、私がその所在を確認出来ていなかった石碑のひとつが、この柳原町に建てられた石碑でした。
柳原町に建つ石碑.jpg
(やっと確認が出来た柳原町の「天皇駐蹕之所」の碑)

この石碑は、明治32年11月15日から4日間に架けて、栃木を中心に東は壬生町、西は岩舟町小野寺にて行われた、近衛師団機動演習に際して、明治天皇が御行幸御統監された市内各地の場所に建てられた石碑の一基に成ります。

この時、明治天皇がご宿泊された行在所は、現在の栃木県立栃木高等学校(当時は栃木第二中学校)でしたが、その際御宿泊された建物が現在も「記念館」として、構内に保存されています。
明治天皇栃木行在所.jpg

又、栃高の構内には明治天皇がご宿泊された記念として石碑も建てられました。
校門を入って右奥に向かうと、南側塀際に「明治天皇栃木行在所」と刻した石柱が建てられています。昭和12年12月に史蹟として文部大臣指定を得た翌年昭和13年7月に建てられたものです。
明治天皇栃木行在所の碑.jpg
又、その先を進むと木の傍らに「聖井之蹟」と刻された石碑が建てられています。明治天皇ご宿泊の際、御膳水に供した構内の井戸を明治45年夏に校舎増築の為埋める事と成り、その経緯を刻して建てられた石碑です。(明治天皇は明治45年7月30日に崩御なされています。)
聖井之蹟の碑.jpg

又、校門を入って左側に整備された「洗心苑」の西奥に「聖駕駐蹕碑」と大書された石碑が建てられています。揮毫された人物は、「元帥侯爵山縣有朋書」と石碑左隅に刻されています。
聖駕駐蹕碑.jpg
(これらの聖蹟については、2018年4月25日に「栃木県立栃木高等学校の構内に建つ明治天皇御聖蹟」として公開しています)

この時の明治天皇の御行幸の様子を時系列的に記すと。
明治32年11月15日、午後1時15分宮城から御出門した明治天皇が栃木駅に御着されたのは、夕日が太平山の陰にまさに隠れようとする前の午後4時30分でした。暫時休憩の後、御料の御馬車にて途中道筋に整列した栃木町民らに迎えられ、栃木第二中学校に行幸遊ばされました。
この日の天候はどんなだったか、「栃木市史」に「天皇の行幸」として当時まとめられた資料が掲載されていますので、抜粋させて頂きます。
<この日は珍らしくも打続ける連旬の秋晴、いやが上にも霽れ渡りて、天高く気朗かに、太平の山は鬱として嵯峨たる昭代の盛挙を頌するが如く、巴波の川は浄くして洞徹たる、市民の忠誠無二を表するに似たり。 以下略>
従って、夕暮れ時に差し掛かっていたものの、行在所となる栃木第二中学校に向かわれる、明治天皇が乗られた御料の馬車の列を、途中の道筋にて整列し奉送迎する町民にも、ハッキリ目にする事が出来たと思もわれます。

翌、11月16日は、午前9時に行在所を御出門。この日は岩舟方面での演習を御観戦。始め三毳山の北端舌状台地となる新里の山麓(通称天狗山)にて、佐野方面より進軍する南軍と北軍との激戦をご覧なられた。その時天皇が野立ちされた所に、それを記念して碑が建てられました。現在は両毛線の線路脇に小野寺公園が有りますが、石碑は残念ながら有りません。ただ公園の片隅の草むらに、その石碑の残骸が横たわっているだけです。
小野寺公園の草むらに眠る石碑残骸.jpg
(この石碑については、2018年5月22日に「草むらに埋もれる石碑の残骸」として公開しています)

その後、新里の御野立所より岩船山鷲巣兜山(通称坊主山)に移動して御観戦され、その場で御昼食としています。この御野立所にもそれを記念して石碑が建てられています。こちらも現在は「兜山公園」として整備されています。
岩舟鷲巣兜山の記念碑.jpg
(この石碑についても、2018年4月9日に「御野立記念の碑 栃木市岩舟町鷲巣」にて公開しています)

翌、11月17日は午前8時行在所御出門、壬生方面に御馬車にて御行幸され壬生町今井の小丘より思川河原にての演習を御観戦され、壬生小学校にて御昼食を召される。午後は再び思川(小倉川)に戻り、川の中央柳原河原に於いて除隊式及び観兵式を執行せられた。
この時明治天皇が御野立された所を記念として、石碑が建てられた訳ですが、その場所を確認するのに、周辺の様子が長い時間の経過により大きく変化した事で容易に見る事が出来ない場所と変わってしまったのです。
太陽光パネルに囲まれた石碑.jpg
現在は周りに太陽光発電用パネルが設置されて閉鎖されています。地元の人に案内して頂き、やっと探し求めていた石碑を確認することが出来ました。
柳原町に建つ石碑2.jpg
そこには、「天皇駐蹕之所」(反対面には「明治三十二年十一月十七日」)と刻した一辺が370mm、高さ約3,400mmの石柱1基と、その左後方に高さが1,950mmで横幅が230mm、奥幅が320mmの石柱1基が建っています。こちらの小さい石碑の周囲四面には全面にビッシリと文字が刻まれています。おそらくこれらの記念碑建立に当って寄附をされた人達の名前と思われます。
柳原町に建つ石碑3.jpg柳原町に建つ石碑4.jpg
幅230mmの面には10行18段にその側面(320mm)には14行18段に並んで刻まれています。
正面となる西側と南側面は何んとか名前を読み取れますが、東面と北面は影となって、判読が困難です。
確認出来た地名を列挙すると、「大字平川」「大字合戦場」「大字升塚」「大字栃木」「倭町中」「大字大宮」「大字北赤塚」「「宇都宮市」「大字鹿沼」「大字吹上」「小字今井」等広範囲に亘っています。
判別できない面も有りますが、推定八百名程に成るものと思われます。
尚石碑の横には、「水神宮」と刻した石碑や石の祠も祀られています。ここもかつては思川の河川敷に当たる場所であった証なのでしょうか。

演習の後長谷川師団長より各将校に向かって一時間にわたる講評が有り、是に於いて明治天皇から 「演習に就いては師団長の講評に同意す将校下士卒等益勉励せよ」との御勅語を下し賜った。
その後行在所に戻ると又直ぐ、栃木尋常小学校内の陳列館に行幸遊ばされた。
この時の様子を栃木市史から抜粋させて頂くと、
<壬生地方の演習及び除隊式は、早朝より午後四時に達し、この日は生憎風強く寒意深かりしにも拘わらず、范々たる小倉川原の間にて久しく御馬を橋上に立てさせられ、ここかしこに馳せ進ませられたれば、ご疲労も左こそと察せられたるに、御帰途直に陳列館に入御ありしは市民一同の感涙せし所なり、以下略>
と記されています。

この時、栃木県各物産古書画陳列館と成り、明治天皇が行幸を遊ばされた栃木尋常小学校(現在の栃木中央小学校)には、記念の碑が建てられたと、田代善吉著「栃木縣史」の「明治天皇御聖蹟」に次のように記されています。
<第二小学校に行幸物産陳列品天覧遊ばさる、其記念碑は
 (表面) 御駐輦記念之碑
 (裏)   明治三十二年十一月十七日
        明治三十八年十一月十七日建之
 栃木市にて毎年其記念日には、官民一般栃木市第二尋常高等小学校に参集して、厳なる記念式を挙行す> と。

翌11月18日午前9時10分、行在所御出門御還幸の旨迎出され、4日間の行幸の日程を終えました。

今回柳原町に建てられた石碑の所在を、やっと確認出来ましたが、実はまだその所在が確認できていないのが、私の母校でもある元栃木第二小学校に建てられていたとする上記の石碑に成ります。

現在栃木中央小学校の校庭の南西の隅に、昔の校名が刻まれた、破損してしまった校門の石柱などと共に、一基の石碑が危険防止を目的に横に寝かせて保管されています。
栃二小の旧門柱1.jpg栃二小の旧門柱2.jpg
栃木中央小校庭隅に横たわる石碑.jpg
(上の石碑については、2018年5月16日に「栃木中央小学校の校庭隅に横たわる石碑」として公開しています)
この石碑は探している物とは違います。この石碑は大正天皇が大正七年十一月に陸軍特別大演習の為行幸された際に、十七日午後、栃木第二尋常高等小学校の校庭にて演習に参加した各将校を集め、御講評された。その場所となった所を記念して建てられた石碑に成ります。
この石碑にもエピソードが有ります。この石碑戦後に一度地中に埋めて隠されていたものなのです。
ですから、私が探している明治天皇の記念碑も同様に、戦後地中に埋めてしまったのではないかと。
でもそれでは、昭和42年に大正天皇の記念碑を掘り起こした際に一緒に掘り出さなかったのか疑問が残ります。私の中ではまだなぞとして残っています。

今回の参考資料
・栃木県立栃木高等学校同窓会、平成21年1月1日発行。「栃高の旧跡」
・田代善吉著、昭和47年3月30日発行。「栃木縣史 第十六巻 皇族編系図編」
・「栃木市史 史料編 近現代Ⅰ」 昭和56年3月31日 栃木市発行。

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謡坂(栃木市)に建つ石碑 [石碑]

栃木市から佐野市に行くルートのひとつに、主要地方道75号線(栃木・佐野線)が有ります。
この道路は、栃木市街地の中心点(倭町交差点)を起点として、西に向かい皆川城内町を抜け、廻り峠を越え、岩舟町小野寺を抜け佐野市伊勢山町で、主要地方道67号(桐生・岩舟線)と合わさる、伊勢山町交差点を終点としていますが、今回紹介する石碑が建つ謡坂(うたいざか)はこの道路の栃木市と佐野市の境界線となる地点に成ります。

石碑は、この栃木市と佐野市との境界線近くの、栃木市側の道路脇に建てられています。
道路脇と言っても、この道路、現在私たちが通常通行している道路では有りません。現在の道路の西側にほぼ並行して有る旧道の方に成ります。

この旧道、私も今回初めて通りましたが、「謡坂」の名称の通り、道路幅4から5メートル程の峠道になっていて、坂の一番高くなっている所が、市の境に成っている様で、「佐野市」と書かれた道路標識が立てられていました。

栃木市側から行くと、この「謡坂」の旧道は、岩舟町小野寺の集落を抜けて、北関東自動車道の高架下を潜った直ぐその先で、道路は大きく右にカーブをしていきますが、その手前で右側に分岐する細い道路が旧道の入口です。
謡坂1.jpg

旧道に入ると、道路は上り坂と成ります。道路の両側には人家や神社などが見られます。
謡坂2jpg.jpg

更に進むと、道路は更に狭くなってきました。道路の右側に今回紹介する石碑が現れました。その手前に白色のポールが建っていますが、以前ここに「岩舟町」と書かれた道路標識が有りました。
謡坂3.jpg

道路はまだ登って行きますが、坂を登り切った地点に「佐野市」と記した道路標識が建っています。
謡坂4.jpg

佐野市側に入ると道路は下り坂と成ります。道路脇の雑木の為道路が狭くなっています。
謡坂5.jpg

更に下って行くと、次第に視界が開けて、前方で広い道路に合流して行きます。旧道はここまでで、元の道路に戻りました。
謡坂6.jpg

上の写真の中央奥に、山を崩して砕石を採っている様子が写っていますが、元々この旧道の東側にも西側同様山になっていました。旧道は正に山合を抜ける峠道でした。
現在通行している新道は、山を崩して低くなった所を利用して道路が作られたことに成ります。新道は旧道の地点よりも20メートル程低いルートを通しています。

謡坂新道.jpg
上の写真は、新道脇から南方向を撮影したもので、道路右側(西側)の山の中程に、電柱が並んでいるのが確認出来ます。その所に旧道が走っています。
写っている山の標高は約160メートル程で、旧道の坂の最高点は75メートル程、私が写真を撮っている場所が丁度標高50メートル程度です。この新道が抜けている場所には、標高100メートル程の山が有りました。国土地理院が昭和32年5月30日に発行した5万分の1の「栃木」の地形図を確認すると、まだ新道は無く旧道が切通状に山合を抜けている状態で描かれています。そしてそこに「謡坂」と記されています。
ただそれは坂の名前ではなくその所の字名になります。イコール坂の名前でも有ります。

現在新道の東側にて、山を削って砕石を採取している会社の名前は、「株式会社藤坂」と言い、この場所の現場の名称は「音坂工場」となっています。
なぜ「謡坂工場」ではないのか、私は地元住民では無いので分かりませんが、「音坂」の方が言い易い気がします。
地名について岩舟図書館で資料を物色して行くと、「小野の里」という、小野寺むらづくり推進委員会発行 地域文化研究部会編集の小冊子が見つかりました。その中に「小野寺の地名」の一覧表が有り、そこに<謡坂 オトザカ(音)・ウタイザカ>と記されていました。地元の人達は、「オトザカ」と言っている様です。これで「音坂工場」となっていることに、納得しました。


前置きが長くなってしまいました。石碑を見ていきたいと思います。
石碑表面.jpg碑陰.jpg
石碑の正面からと裏側からの、2枚の写真を載せました。

道路側から見える、石碑正面には「坂路改修紀念碑」と有ります、その左側に「栃木県会議長 松永和一郎書」、その下には「石工 小田鐵碩■」(最後の文字は私には何の漢字か判断できなかった)
揮毫者と石工の署名部分は以下の写真の通りです。揮毫者「松永和一郎」氏の肩書部分もなかなか達筆で判断に迷いましたが、碑陰の功労者に「松永和一郎」氏の名前が有り、その肩書の文字で判明しました。
揮毫者署名.jpg石工署名.jpg

次に碑陰を見てみます。
最上部に、「改修貢献者芳名」として、関係役所の土木課長さんや土木主幹・土木技手の氏名が並んでいます。この紀念碑の対象とした事業は1回では無く、6回の事業に渡っていることが分かります。
一番古い所は「大正十一年郡道謡坂改修」それから大正十三年、大正十五年、昭和二年、と続き最後が「昭和四年縣道謡坂改修」となっています。時代の流れで「郡道謡坂」から「縣道謡坂」に変わって来ています。それぞれの事業で関係した役所の人物が記されています。
そして最後に「功労者」として二名の名前が並んでいます。一人は碑銘を揮毫した「栃木縣會議長 松永和一郎」氏、そしてもう一人は「栃木縣農會議員 野尻金一郎」氏です。
次の2段目から8段目にわたって、「寄附者芳名」がずらっと並んでいます。
その人数は重複も有りますが、「他所」が174名、「地元」が125名となっています。
一番下の段には「工事関係者氏名」が並んでいます。
碑陰の文字を必死に読み移してみました。上下を分割して掲載します。

碑陰上半分.jpg碑陰下半分.jpg

石碑を観察している中で、幾つかの疑問が出てきました。
その一つ疑問は、寄附者を「他所」と「地元」に分けて有りますが、「地元」と言うのは、「小野寺村に限定されるのだろうか。逆に「他所」はどこなのか、「他所」の人の名前の上に小さく住所が記されています。
確認出来た地名は「犬伏町」「堀米町」「足利市」「三谷」「藤岡町」「新里」「佐野町」「上岡」「赤見」「岩舟」「吉水」「旗川」などです。ここに出てこなかったのが「地元」に成るのでしょうが、「大字小野寺」(現在の栃木市岩舟町小野寺)です。石碑が建てられている地点も「小野寺」ですから、これで間違いないでしょう。

次に湧きあがった疑問は、石碑碑陰の最下段「工事関係者氏名」に関してです。
その冒頭に出てくる「阿蘇郡」に列挙されている「発起者」や「世話人」です。
「板橋六郎」「菊池徳太郎」(犬伏町)、「田口勝次郎」(堀米町)、「石塚由蔵」「石塚七平」「金田幸吉」「野本藤吉」(佐野町)。これらの人達は「寄附者芳名」欄でも「他所」の列に全て名を連ねています。
何故、地元民では無い人達が、発起者や世話人で、小野寺の人達でないのか。
ちなみにその次に続く「下都賀郡」の列に並ぶ「相談役」や「(工事)委員長」「副委員長」「會計」「常務委員」「委員」29名は、「寄附者芳名」欄では、「地元」の段に名を連ねています。
この疑問は今後機会が有ったら解明したいと思います。

最後の疑問、この石碑の建立時期は何時なのか、石碑には記されていないのです。
そこで、碑文に記された情報から類推をしていくと。
①最後の改修工事の時期は、昭和四年(1929)ですから、それよりも後に成ります。
②寄附者芳名欄に「栃木町」と出ているので、栃木市制施行昭和十二年(1937)よりも前に成ります。
この間に建てられたことに成ります。これ以上絞り込めませんでした。

石碑とは別ですが、現在私たちが通行している「新道」は、何時開通をしたのだろうか、気に成りました。
地形図では測量から発行までずいぶんタイムラグが有りますから、他の方法は。
国土地理院が提供しているインターネットの空中写真で確認出来ないか、検索してみました。
①平成6年(1994)11月4日撮影写真。旧道しか写っていません。これより後です。
②平成11年(1999)6月9日撮影写真。旧道に並行して新道が写っています。この年より前です。
  ※ちなみに平成11年6月1日発行の5万分の1「栃木」の地形図には、当然新道は描かれていません。

今、この旧道を通行する車は殆ど無くなりました。そしてこの石碑の存在も忘れられようとしています。

今回参考にした資料:
「小野の里」 小野寺むらづくり推進委員会発行
「栃木人 明治・大正・昭和に活躍した人」 石崎常蔵著
「5万分の1地形図栃木」 国土地理院 昭和32年5月30日発行






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栃木市吹上町の元村役場敷地に建つ「合併記念」の石碑 [石碑]

今回は、栃木市吹上町の元「下都賀郡吹上村役場」が有った場所に建つ「合併記念」の石碑を紹介します。
石碑が建てられているのは、合戦場町から大皆川町に通ずる市道1024号線沿い、吹上町のほぼ中央部を横断するこの道路を進むと、道路北側に建つ火の見櫓が目印となる。
吹上町火の見櫓.jpg
(火の見櫓が建つ、元吹上村役場前)

東隣にはかつての吹上村の村社「住吉神社が鎮座し、道路脇には参道入口の石の鳥居が確認出来ます。
住吉神社参道入口.jpg
(元村社の住吉神社参道入口)

元下都賀郡吹上村役場の跡は現在更地で、入口に建つ石の門柱に刻まれた「吹上村役場」の文字が、ここに村役場が有った事を物語っています。
吹上村役場の門柱.jpg
(石柱、右側に「栃木縣下都賀郡」、左側に「吹上村役場」の文字が)

敷地内には大きな石碑が2基建てられています。
合併記念碑.jpg
(敷地西側隅に建つ「合併記念」の石碑)

今回紹介する石碑は、敷地の西の端に東向きに建てられています。高さ4メートル以上になる石碑の上部の篆額に、「合併記念」の文字が篆書体で大きく刻まれています。
篆額部.jpg
(石碑上部の篆額部分には、篆書体にて「合併記念」と浮彫されている)

揮毫した人物は、石碑左下隅に石工と並んで彫られていました。「淡翠渡邉茂里」と言う方ですが、どんな人物なのか調べてみましたが分かりませんでした。ちなみに石工は「相田忠吉」と言う人物です。
揮毫者と石工.jpg
(石碑正面左下隅に、揮毫者と石工の名前が並ぶ)

石碑表面にはビッシリと文字が刻まれています。整然とした升目に収まる文章は、横35行、縦75列、四百字詰原稿用紙7枚にもおよぶ碑文ですが、漢字とカタカナの文章はとても読みやすいものです。碑文全体を書き写しました。但しカタカナ部は読み易くする為ひらがなに書き換えました。
碑文.jpg
(碑文全文、現物は漢字とカタカナで記されています)

この碑文の内容は、碑文最後にも記されています、「昭和二十八年町村合併促進法の施行により昭和二十九年九月三十日を以て六十有餘年の傳統ある吹上村を發展的に解消して皆川寺尾大宮の三村と共に栃木市に合併す 依って茲に碑を設立し本村沿革の概略及び現況を述べ併せて本村自治功労者の氏名を刻し永く其の功績を傳わる事とせり」 と。

碑文を撰したのは三名です。石碑の碑文の後に刻まれています。
撰文者の名前.jpg
(上から、霞城渡邊彌三郎 愛山奈良部彌太郎 良圃塩谷良平です。)

碑文に記された村の沿革の中には、村教育の進展状況についても記されています。
「吹上小学校」は、明治六年、善應寺を校舎として開校した「明善学校」と、川原田の「涵養学舎」 細堀の「稽式学舎」 野中の「開盲学舎」等が、明治十八年併合村となって合わさり「吹上小学校」と改称したのが始まり。明治二十二年三月現在の地に校舎を新築し分校を合わせて「吹上尋常小学校」と改む、明治二十三年高等科を併置し「吹上尋常高等小学校」となる。明治四十五年五月農業補習学校を附設、昭和十六年四月国民学校令実施により「吹上第一国民学校」と改称。昭和二十二年四月新学制実施により「吹上村立吹上小学校」となる。
吹上小学校.jpg
(桜咲く吹上小学校)

「千塚小学校」は、明治六年「不如学舎」と称して開校、犬塚千手の両村併合し千手村立の「國平舎」と合併し、明治十二年「公立弘文学校」と改称、明治十八年併合村となり「千塚小学校」と改称。明治三十年現在の地に校舎を新築。昭和十六年国民学校令実施により「吹上第二国民学校」と改称、昭和二十二年四月新学制により「吹上村立千塚小学校」となる。
千塚小学校.jpg
(モダンな建屋の千塚小学校)

外に「吹上中学校」の事、「吹上消防団」の事、「吹上村農業協同組合」の事なども記されています。

碑陰.jpg
 (碑陰には歴代の村三役を始め、自治功労者の名前が刻まれています)
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太平山東麓、太山寺観音堂横に建つ石碑「開運千手観世音記」 [石碑]

今回の「開運千手観世音記」と題した石碑は、太平山の東麓登り口近く、真言宗豊山派寺院「寳樹院太山寺」の観音堂横に建っています。
栃木市街地中心部より、県道太平山公園道を進む、一直線に太平山東麓の國學院大学栃木短期大学の前まで来ます、その先は真っ直ぐに登る六角堂方向には行かず、分岐を右に折れて太平山遊覧道路の長谷川平方向に入ると、直ぐ右手に目的の太山寺山門前駐車場入口に成ります。
太山寺山門.jpg
(太山寺山門)
山門の脇に「本堂・庫裡・山門落慶記念」の碑が建てられています。
本堂庫裡山門落慶記念.jpg
(「本堂・庫裡・山門落慶記念」の碑)
太山寺に関しては既に2014年11月27日付で紹介しましたので、ここでは省略させて頂きます。

山門を潜り、本堂の前に向かい参拝を済ませます。本堂前の栃木市指定天然記念物、樹齢約370年の「岩しだれ桜」は、花の季節も終わり、今は枝一杯に緑の葉で覆われています。
本堂前.jpg
(写真右手に緑の葉で覆われた「岩しだれ桜」、その後方に本堂、左手に細い石段)

今回巡る石碑は、本堂左手に有る急勾配の狭い石段を登った先、栃木県指定重要文化財「木造千手観世音立像」を祀った観音堂の左手奥に建てられています。
弘法大師像.jpg観音堂への石段.jpg
(石段登り口左横に建つ弘法大師像とお地蔵様)   (観音堂へ向かう108段の石段)

108段有る急勾配の石段を、手摺りに助けられて登り切ると、正面に観音堂が迎えてくれますので、ここでもまず参拝をすませます。
観音堂.jpg
(栃木県指定重要文化財の木造千手観音立像を祀った観音堂)

観音堂に向かって左手奥の山際に、宝篋印塔と並んで目的の石碑が建っています。
宝筺印塔と石碑.jpg
(今回巡る石碑が宝篋印塔の左横に建ています)

私は、この石碑を50年以上も前に写真に収めていました。1969年です。この石碑が建立されたのが昭和37年(1962)ですから、まだ7年しか経っていなかった事に成ります。その頃はまだ石碑には興味ありませんでしたが、無意識に撮影をしたものです。
太山寺石碑「開運千手観世音記」.jpg開運千手観世音記(碑文).jpg
(今から50年以上前に撮影しました)        (碑文を書き写しました)

碑文は、建立時期が戦後で新しいものですから、現在の文体で読みやすかったです。一部に現在では使われていない漢字が有りましたので、漢字変換出来ない字は現在の漢字に変えています。
碑文冒頭に「開運千手観世音記」とあります。撰した人物は、元栃木女子高等学校の教諭だった日向野徳久先生です。書は同じく元栃木女子高等学校教諭の関澤芳夫先生です。
碑文には、太山寺の由緒・変遷と観音堂に祀られた千手観世音像が今、文化財として日の目を見るように成った経緯等が記されています。

次に石碑上部の篆額部分に注目します。篆字体で書かれている内容は、「慈眼視衆生」という仏教経典の中に有る一句です。この五文字の篆字体を解読するのは簡単では有りませんでした。特に4番目の「衆」を紐解くのは時間を要しました。≪冠部に「目」が横に成っていて、その下に「入」に似た文字が3個並んだ形をしています。≫
「衆」の漢字について、「漢字源」の≪解字≫に、≪会意。「日(太陽)+人が三人(おおくの人)」で、太陽のもとで多くの人が集団労働をしているさま。上部は、のち誤って血と書かれた。≫と、説明されていました。

「慈眼視衆生(じげんししゅうじょう)」とは、≪観世音菩薩が慈悲の眼で一切衆生を平等に見る≫という意味になるとの説明が有りました。

篆額部分.jpg篆額の落款部分.jpg
(石碑上部篆額部分)              (篆額の左下の落款印部分拡大)

この篆額の字を揮毫した「鴇 昌清」という人物は、真言宗豊山派の第18代管長で、大僧正と言う僧階の最上位に登られた方です。
落款の文字についても調べてみました。右側は「大嘉」、左側は「豊山管長」と読みましたが、右側の「大嘉」については、「鴇 昌清」が用いた「号」なのか、自信が有りません。今、図書館等が閉館している為、これ以上調べる事が叶いません。

石碑の裏側、碑陰中央には縦に≪月輪坊太山寺中興三十世僧正徳純建之≫と、そして左下に≪石工 森戸清泉刻之≫と刻まれています。
この「徳純」と言う人物は、碑表の碑文中にもその名を見る事が出来ます。
≪・・・適々栃木市文化財保護委員長聖泉高田安平翁 同委員大浦倉藏翁 いづれも好古篤学の士なり、夙にその荒廃を憂へこれを世人に愬ふること歳あり、時恰も柴崎徳純僧正当山に来住し、寺門興隆堂宇すべて旧観を改む・・・≫と。

私が50年も以前に、無意識に撮影した石碑の写真。今回その石碑の内容を調べるうちに、実に多くの事を知ることが出来ました。改めて石碑の魅力に心ひかれた感じがしました。

参考資料:
 目で見る栃木市史(栃木市発行)、五體字類(法書会編)、広辞苑(岩波書店)、漢字源(学研)
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太平山謙信平に建つ石碑を巡る [石碑]

前回、太平山謙信平に建つ「根岸政徳君碑」について書きましたが、その中で謙信平には他にも多くの石碑が有ると言いました。今回はそれらの石碑を見て歩きたいと思います。
太平山謙信平の地名由来の案内板が現地に建てられています。
「謙信平」地名由来.jpg
(謙信平に建てられた、地名のいわれを説明する案内板)

謙信平は太平山上に鎮座する「太平山神社」の南東方向に位置し、標高200mから230mの馬の背の様な地形が、東西方向に広がり、中央部を横断するように遊覧道路が通り、道路に沿って太平山名物の団子や焼き鳥・卵焼きや土産物を販売する飲食店が軒を連ねています。
道路南側の広場に多くの石碑が点在しています。石碑の場所を記した謙信平の概略図を作ってみました。
石碑は西から東に向けて番号を付し、その番号順に巡って行きます。

太平山謙信平周辺石碑分布図.jpg
(謙信平の石碑分布図、左側から右側に№1から№10の石碑が建っています)

それでは早速、石碑巡りをスタートします。
最初は謙信平西側の小丘の頂上に建つ、「山本有三文学碑」です。
山本有三文学碑小.jpg山本有三文学碑碑文.jpg
(最初の栃木市名誉市民、山本有三文学碑)(小説「路傍の石」の一節を撰して碑文に)

大きな卵状の自然石に「山本有三先生の寿像レリーフ」と、栃木市民であればだれもが口ずさむ事の出来る、先生の代表作の一つ、小説「路傍の石」の中の一節を刻したプレートが嵌め込まれています。碑陰には「1963年3月、栃木市建設、 撰文 高橋健二、寿像 石井鶴三、 鋳造 伊藤忠雄」と刻したプレートが埋め込まれています。 
私は中学生の頃、建てられたばかりのこの石碑の前で、友達と記念写真を撮っています。その写真を見ると石碑の周りは雑木一本無く広々としていました。現在石碑は木々にうずもれる様にひっそりと建ています。

2番目の石碑は、文学碑の建つ小丘から下った前方に建っています。石碑正面から眺めると、外観の感じがさき程の文学碑と同じようです。卵状(チョッと扁平ですが)の自然石に二か所プレートが嵌め込まれています。
「さくら名所100選の地」碑.jpg「さくら名所100選の地」碑1.jpg
(「さくら名所100選の地」の碑)    (石碑に嵌め込まれた「太平山のさくら由来」の碑文)
右上の長方形のプレートに、「さくら名所100選の地 太平山県立自然公園 平成2年3月3日 財団法人日本さくらの会」と刻まれています。左側の花びらの形をしたプレートには、当時の栃木市長鈴木乙一郎による「太平山のさくら由来」が刻まれています。

3番目の石碑は、前回(4月11日付)紹介した、栃木町の初代町長「根岸政徳君碑」です。山本有三文学碑への東側登り口脇に建てられています。(ここでの説明は省略します)
根岸政徳君碑1.jpg根岸政徳君碑(碑文).jpg
(初代栃木町長、「根岸政徳君碑」)     (「根岸政徳君碑」の碑文、書き写し)

4番目の石碑は、飲食店「松乃屋」の前方、広場の中央付近に南向きに建つ「松根東洋城句碑」になります。
東洋城句碑.jpg
(松根東洋城句碑)
この句碑は、碑陰に「昭和11年(1936)4月、栃木渋柿会」と、建立時期と建立者が刻まれています。
松根東洋城は大正4年(1915)に、俳誌「渋柿」を創刊。関東大震災により印刷所が被災した為、栃木市内に移ってきました。「目で見る栃木市史」には、≪東洋城はしばらく岡田嘉右衛門邸内に在住、その住居を無暦庵と号していた。≫と、記しています。「渋柿」は昭和27年(1952)まで、栃木市内にて発行されていました。
石碑に刻まれた句は、「白栄や 雲と見をれば 赤痲沼」です。
ここ謙信平からは、南方に広がる関東平野の奥に、かつては赤麻沼が白雲の如く、望まれた様です。現在は渡良瀬遊水地の葦原が広がっています。地平線には東京スカイツリーや新宿副都心のビル群を望むことが出来ます。

5番目の石碑は、東洋城句碑から少し東に行った場所に西向きに建てられています。ズッシリと重量感溢れる自然石に数名の人物により思い思いの言葉を寄せ書きしたものを、碑文として刻んだものです。
達筆な文字は、思う様に読む事が出来ません。刻まれた文字や絵を頑張って移し書きしてみました。
水戸天狗党鎮魂碑.jpg水戸天狗党鎮魂碑(碑文).jpg
(水戸天狗党を偲んだ鎮魂碑)        (碑に刻まれた寄せ書き文を書き写し)

石碑右上から大胆に書きつけられた文字は、「懐昔 勤王士義旗此地揚 方々頼無事 題石米元章」、そしてこれを書いた人物は「秋月種樹(あきづきたねたつ)」です。日向国(現、宮崎県)、高鍋藩世嗣、幕末・明治期の政治家、明治天皇侍講、書家としても有名な人物。
石碑中央下部に小さな文字で、この石碑の由来とも言うべき文章が刻されています。
「紀元二千五百四十一年六月二十四日 太平山同遊者 
    秋月種樹 佐藤保之 清水文敏 海老沼俊三 坂倉利吉
    清水徳太郎 石川久三 清水益平 字埜秋琴 堀川孝
    及徳太郎之細君阿三子 文敏之女阿甲子也 余亦
    在同遊喜而記之     坪井晋 誌」
日付けは、明治14年6月24日、水戸天狗党が滞陣した太平山を訪れた秋月種樹一行、義士を偲んで寄せ書きし、それを石碑に刻みました。その意味でこの石碑は、「水戸天狗党鎮魂碑」であり、「天狗党滞陣記念碑」とも言われています。碑文中には他12名の名前が見えますが、この中で確認出来た人物は、「秋月種樹」の外は「佐藤保之」です。この人の名前は「下都賀郡小誌」の冒頭沿革の文中に見つけました。その部分を抜粋します。≪明治十一年十一月、郡区編制法施行に臨み、始めて郡役所を栃木町に設け、本県四等警部佐藤保之を以て郡長に任じ、下都賀寒川の両郡を統治す・・・(後略)≫と、記されています。尚、上記の名前には出て来ていませんが、石碑右下に「高田俊貞」、初代栃木町戸長の名前が刻まれています。興味深い石碑です。

6番目に向かう石碑は、これまで見て来た広場から南側に一段下がった山肌を巡る道の脇に建っています。そして6番目の石碑の直ぐ隣には、7番目の石碑も建てられています。
謙信平の石碑⑥⑦.jpg
(飲食店の並ぶ広場から、南側に一段下がった山際に建つ2基の石碑)

先ず6番目の石碑です。碑の上部「題額」には、「添野五耕翁碑」と刻まれています。
添野五耕翁碑.jpg添野五耕翁碑(碑文).jpg
(修復された「添野五耕翁碑」)         (「添野五耕翁碑」碑文書き写し)

「題額」の文字は従二位勲一等宮中顧問官子爵品川彌二郎が揮毫したものです。
撰文は碑文冒頭に有りますが、「本県平民  森保定」ですが、「森鷗村」と言う号の方が、良く知られています。碑文の最後に明治27年8月の日付けが見えます。
石碑の人物「添野五耕」は、文化四年(1807)絹村大字延島(現、小山市)に生まれています。
「下都賀郡小誌」の「郡の誉」に「故添野覺平」として載っております。一部抜粋させて頂きます。
≪・・(前略)・・殖産興業に力を致し私費を投じて用水路を開鑿し、荒蕪の地を開拓して良田となす、偶々洪水ありて絹川沿岸に築設しある田川堤塘の缺壊に遭遇し、私財を抛ち復旧修築して被害民永遠の災厄を免れしめたり、同村は古来養蠶業盛んに行われ殊に紬織物の生産地として名聲を博し、斯業の改良發達は地方の福利に關する影響多大なるを以て、・・・後略・・≫このことは、石碑の碑文中にも刻まれています。養蚕の開発・普及にも尽力をした偉人です。
何故、絹村の人物の顕彰碑がここ太平山謙信平に有るのか、先ほどの「下都賀郡小誌」に答えが有りました。≪明治24年8月11日歿す時に65歳、時の郡長佐藤保之氏等有志と謀り、永く其功績を傳へんが為に碑を太平公園に建設し、・・(後略)・・≫ と。下都賀郡の人々にとって、太平山はどこからも見える山で、信仰を集めていたことが窺えるます。
この石碑、私が2017年1月に訪れた時は、真ん中で縦に割れてしまっていましたが、今回訪れた時には、接着剤と金属バンドで立派に修復されていました。
添野五耕翁碑(修復前).jpg添野五耕翁碑(修復後).jpg
(2017年1月に撮影、中央部から割れています)(接着剤と金属バンドとボルトで固定修復)

右隣に建つ7番目の石碑は、碑面一杯にビッシリと漢字を並べた碑文が刻まれています。その冒頭に「綽軒中島先生遺愛碑」と有ります。
綽軒中島先生遺愛碑.jpg綽軒中島先生遺愛碑(碑文).jpg
(綽軒中島先生遺愛碑)             (「綽軒中島先生遺愛碑」碑文書き写し)

今回訪問しましたら、石碑の脇に「埼玉県久喜市の久喜・中島敦の会」によって、碑に刻まれた人物の紹介文が設置されていました。(石碑を見て歩く人にとって、こうした案内板が有る事は、ありがたい事です。)
綽軒中島先生紹介版.jpg
(「綽軒中島先生遺愛碑」脇に建てられた案内板)
「栃木郷土史」の「維新栃木の聡明」の節の(四)庶民教育中に、「明誼学舎」の事が掲載されています。
≪明治12年中島靖の栃木町入船町に開いた皇漢学の私塾で、明治39年2月没するまでの27年間続いた。門弟千三百余人、明治栃木の指導層にある人々の総ては、恐らくその門人というも過言であるまい。氏は埼玉県久喜町(現、久喜市)の儒者中島撫山の長子で真に高行清節の士であった。≫と。
今回最初の石碑の人物、山本有三も幼少の頃、父の言いつけでこの塾に通い、漢詩・論語の素読、日本外史等を学んでいます。

8番目は謙信平の駐車場の南の端、展望の地に建つ「関東の富士見百景」の石碑。
「関東の富士見百景」碑.jpg富士山遠望.jpg
(「関東の富士見百景」の碑)      (石碑の場所から関東平野と富士山を望む)
「関東の富士見百景」は、平成17年11月に、国土交通省関東地方整備局が主催して選定をした、128景233地点。この地点名は「太平山県立自然公園謙信平」になります。
私も時々この場所に来ては、富士山の眺望を楽しんでいます。

9番目の石碑は、遊覧道路を六角堂方向に下る途中、「県立太平少年自然の家」の入口の近くに有ります。
木立をバックに遊覧道路に面して建てられていますが、車ですと見過ごしてしまいます。直ぐそばに駐車場が有りますから、そこを利用すれば便利です。
この石碑は、「新井青幹句碑」になります。
新井青幹句碑.jpg
(新井青幹句碑)
碑陰に、「昭和五十年十一月二十三日除幕 新井青幹句碑建立委員会樹石」と刻まれています。
「かなかなの しづかにをれば ふたつかな    青幹」

最後、10番目の石碑は「史蹟慈雲律僧之墓」です。
9番目の句碑に向かって左側の木々の中に有る。目の前に先程の駐車場が有り、遊覧道路から駐車場に入る分岐に木製の「慈雲律師の墓入口」と書かれた標柱が建てられています。
慈雲律師の墓入口案内.jpg史蹟慈雲律僧の墓入口.jpg慈雲律僧の墓.jpg
(慈雲律師の墓入口の標柱) (墓所入口に建つ石碑) (「慈雲菩薩道空墖」と刻まれた墓石)

墓所への入口に建つ「史蹟 慈雲律僧之墓 入口」の碑陰には、「昭和十年十月吉日建之 發願者特志一同」と刻まれています。
木立に囲まれた墓所には、「當山律院完基 慈雲菩薩道空 墖」と刻まれた石碑が一基。右側面には「明治元戊辰歳九月廿二日寂 弟子慈門建之」と見えます。

「慈雲律師」について、「目で見る栃木市史」に掲載されています。抜粋させて頂きます。
≪越前【福井県)の人である、日光律院にいたが、安政五年(1858)太平山内の法泉院に転住した。加持祈祷に妙を得、多くの人々の病苦を救い、窮民にめぐみ、近村の子弟をあつめて学問を教えた。二杉橋を俗に律僧橋というが、これは慈雲律師が托鉢して資金をつのり、この橋をかけたゆかりによる。≫
「栃木郷土史」の第四編最近世、第一章第五節の当代の代表人物には、(二)「名僧慈雲律師」として、更に詳しい人物紹介が掲載されています。

現在、新型コロナウイルスの感染拡大防止の為、「ステイ・ホーム」が叫ばれ、外出自粛要請が行われており、多くの人達が我慢の毎日を過ごしています。「開けない夜はない」です。
何時か自由に外出が出来る様に成ったら、太平山に登って関東平野を見渡せば、リフレッシュ間違いなしです。そして、時間が有ったら謙信平の石碑を見て頂きたいです。
 
今回の参考資料:
  ・目で見る栃木市史(昭和53年3月31日、栃木市発行、編集栃木市史編さん委員会)
  ・下都賀郡小誌(昭和52年2月28日、歴史図書社発行、編者下都賀郡役所)
  ・栃木郷土史(昭和52年8月20日、歴史図書社発行、著者栃木郷土史編纂委員会)
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太平山謙信平に建つ「根岸政徳君碑」 [石碑]

太平山県立自然公園の謙信平には、数基の石碑が建てられています。その中で多くの市民に知られている石碑は、西端小丘上に建てられた「山本有三文学碑」でしょうか。
今回紹介する石碑は、この文学碑と同じ小丘の上に建てられたいます。小丘東側から文学碑への登り口の右脇に建つ高さが3メートル近くある大きな石碑です。
根岸政徳君碑が建つ小丘.jpg
(山本有三文学碑への登り口右側に石碑が建てられています)

木の陰に隠れる様に建つ石碑に、気付く人は殆んど居ません。「山本有三文学碑」と記した道標に従って、小丘の石段を登って行ってしまいます。

根岸政徳君碑正面写真.jpg篆額部拡大写真.jpg
(石碑正面全体写真)              (石碑上部篆額部、拡大写真)

石碑の上部、篆額の文字を読んでみます。「根岸政徳君碑」と篆書体で陽刻されています。
揮毫された方は、元初代栃木県令で、明治33年当時、貴族院議員従三位勲一等男爵の鍋島幹です。
碑文の撰は、新潟県知事正五位勲四等文学士の千頭清臣。書は梨本宮家令従七位勲八等の日高秩父に成ります。
碑文全文を書き写しました。
根岸政徳君碑(碑文).jpg根岸政徳君碑(碑陰).jpg
(「根岸政徳君碑」の碑文書き写し) (碑陰には発起人31名の外、108名の名前が)

石碑の「根岸政徳」と言う人物については、碑文中にその生い立ちから経歴に至るまで記されていますが、私の苦手な漢文表記の為、容易に読み下すことが出来ません。文中の漢字を拾い上げて推測するのが精一杯です。
明治期以降の栃木市内の著名人をまとめた、下野新聞社発行の「郷土の人々(栃木・小山・真岡)」の中に、「初代町長が手腕発揮」のところで、≪・・・明治22年の町村制施行で新たに栃木町としてスタートするわけであるが、初代町長には、現在の旭町裁判所西側に有った足利藩戸田家の陣屋で代官をつとめていた根岸政徳が選ばれた。根岸は、戸長鈴木宗四郎から過渡期にある栃木町を引き継ぎ、見事な手腕を持って新しい行政の体制確立に力を尽くすのである。・・(後略)≫
それでは、何故太平山上謙信平のこの場所に建碑されたのか。昭和52年に発行された「栃木郷土史」(歴史図書社発行)の中に、第五節 産業施設の開発の部分に、≪明治維新後における道路の発達は、主として商業の自由を目的としたものであったが、・・(中略)・・太平道は24年初代栃木町長根岸政徳の尽力により改修された。≫と記されている。今回の碑文中にも、≪太平祠四時風光之美鳴・・(中略)・・公園文人雅客尋奇訪秀者不絶踵唯道路険悪莫人不苦・・(中略)・・作一新路坦坦如砥登山如往平地於是崇神訪勝之人曰加多≫と刻まれています。現在の県道太平山公園道が整備されたことで、太平山に訪れる事が容易となり、益々発展する事と成った事で、その功績を讃えこの地に建碑されたのである。

石碑の背面には多くの建碑に関係した人びとの名前が連ねられてます。その数は発起人を含め139名、他に「太平神社社務所」や「倭町三丁目」「栃木米麻取引所・仲買中」「河合町」「石町」等の団体名も見られます。発起人冒頭の人物「大塚惣十郎」は、根岸政徳町長の後を引き継いだ、第二代栃木町長です。その他、その当時の町会議員の名前も多くみられます。これらは多く当時の栃木町の有力者達です。

山本有三文学碑の前には、「山本有三」の説明板が建てられていますが、市内に建つ多くの石碑にも、出来れば同じような説明板が有れば良いのにと、いつも感じています。
山本有三文学碑小.jpg山本有三説明板.jpg
(太平山謙信平に建つ「山本有三文学碑」)    (山本有三氏の説明板)






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西方町との境界近く、都賀町富張に建つ石碑 [石碑]

今回、気になった石碑は、都賀町富張の北東の端、西方町の元と本郷との境界近く、道路の脇、木の陰に隠れる様に建っていました。
和賀井翁壽鑛碑1.jpg
(都賀町富張の北欧の端、木の陰に隠れる様に建つ石碑)

碑表上部の篆額には、篆書体文字にて「松壽軒碑」と、陽刻されています。
その下の碑文冒頭には、「和賀井翁壽壙碑」の文字が刻まれています。この石碑は「和賀井翁」の顕彰碑のようですが。
和賀井翁壽壙碑2.jpg和賀井翁壽壙碑(碑陰).jpg
(碑表篆額部分、「松壽軒碑」の篆書体文字)(碑陰の左下部、建築惣代4名の苗字が並ぶ)

この石碑に関する資料を探していた時、元都賀町文化財保護審議委員長だった植木誠治さんが、かつて「広報つが」の文化財めぐりの連載の中で、「都賀町の私塾」について書いていました。の記事冒頭で、この石碑の人「和賀井翁」についても述べています。その部分を一部抜粋して参考に掲載させて頂きます。
≪幕末から明治初年にかけて、我が町で私塾を開き門弟を教えていた人達がいた。赤津地区では和賀井栄順の善覚院、土屋麓の土屋塾、家中地区では佐山諒斉の渡辺塾(醤油製造業の渡辺文六が諒斉を招き開いた塾)である。和賀井翁寿壙碑は、富張九六四番地、若林イシさん宅の入口にあり、磊山土屋翁寿蔵碑は大柿南嶺の土屋宅にある。渡辺塾は中新田足銀東にあったが碑はない。町史によれば栄順は修験者であり、大和聖護院の梨甚栄の弟子となり、権大僧都法印になったという。退隠後、都賀郡富張村にきて善覚院に住み、手習などを教え、子弟の数一五九名の多数となった。(後略) ≫

碑文を書き写しました。漢字の中には普段は見慣れない物も有り、間違って書き写した漢字も有るかもしれない。文章が漢文体なので、今回も私には、どのように読んだら良いのか、全く分からない状態です。ただただ漢字一字一字を辞書でその読み方、意味を調べて、そこから何となく文章の意味を推し量る事が精いっぱいになっています。
松壽軒碑(碑文書き写し).jpg碑文の一部.jpg
(碑文を書き写してみました)      (碑文の一部、見慣れぬ漢字があちこちに)

篆額の文字「松壽軒碑」を揮毫した人物、元老院議官従三位勲二等子爵岩下方平は、幕末から明治維新に活躍した人、薩摩藩士から、倒幕活動に尽力、王政復古の大号令では、徴士参与として小御所会議に参席している。新政府においては、京都府権知事や大阪府大参事などを務めている。

碑文を撰した人物は、市内藤岡町の人、森鷗村。幕末から明治の儒学者。藤岡にて鷗村学社を開き、門下生には栃木県におけるビール麦栽培の基礎を作った「田村律之助」(太平山あじさい坂中程に、胸像が建てられてます)や、実業家の岩崎清七などがいます。

調べて行く中で、石碑の主役である「和賀井翁」に関する情報が中々得られません。つたない知識で碑文を何度も読み返しても、ハッキリした人間像を描けません。その一つの原因は、碑文には具体的な時間軸がほとんど記されていまい点に有ります。唯一日付けが出ているのは、文末の「明治二十一年戊子十一月」と言う建碑に関わる日付けのみです。「和賀井翁」が何時生まれたのかと、何時どこどこへ移った等の具体的記載は有りません。
碑文冒頭に有るのは、「下毛の都賀郡富張村にて、数十年間、郷の弟子たちに教授していた。」 それは何時か。生まれについては「翁原姓は吉水、幼名は新六、後に栄順と称する。阿蘇郡吉水村の人」と記されていますが、何時かは分かりません。「出自は藤原秀郷の裔孫で吉水小太郎、諱は国綱」などと記されています。大和聖護院にて修行を積んで、権大僧都法印となっている。「門主の二品雄仁法親王の入峰修行に従った」と記されていますが、この雄仁法親王は伏見宮邦家親王の第二王子で、天保2年(1831)に聖護院で出家した人物。
和賀井翁は「退隠の後、富張村の善覚院に住み、塾を開き近隣の子供達に手習いなどを教えた」と有るが、何故富張村に来たのか、何時「和賀井」姓を名乗ったのか読み取れなかった。

そもそも碑文冒頭の「和賀井翁壽壙碑」の、「壽壙」とはどんな意味が有るのか。熟語で調べても出て来ません。単語で見ると、「壽」は①ながいき・長命、②とし・よわい、③ことほぎ・いわい。などの意味。一方「壙」は①あな・はかあな、②ひろの、何もないがらんとした野原、③むなしい、④むなしくする・からっぽにする。などの意味が有りますが、これら二つの漢字を合わせた意味はどうなるのか。

そこで最初に引用した「広報つが」の「都賀町の私塾」の抜粋した文章の中に有った、もう一つの私塾「土屋塾」の石碑の紹介には、「磊山土屋翁寿蔵碑」と記されています。この「寿蔵」の意味を調べてみると、≪存命中に建てておく墓。寿冢(じゅちょう)≫との説明が有りました。もしかしたら「寿壙」も同様の意味に成っているのではと思われますが、和賀井栄順が何時死去されたのか分からないので、それも検証出来ませんでした。今回も難解な石碑を選んでしまいました。その上、今は新型コロナウイルスの感染拡大を予防する為、栃木市内の図書館も全て閉館となっていることも有り、調査が思う様に出来ませんでした。これは言い訳かも知れませんが。

碑文の解釈はあきらめて、「和賀井」という苗字について調べてみると、面白いことが分かりました。この苗字は全国的にみると、非常に珍しく、都道府県で一番多いのは栃木県(約38%)となっています。更に県内では栃木市が一番多くて約63%となっています。そしてその栃木市内でも西方町が75%を占めていますし、その西方の中でも大字本郷周辺に集中していました。ちなみにちょっと古いですが2004年の旧栃木市の電話帳を見ても、たった2軒しか「和賀井」姓は載っていませんでした。

「西方都賀の郷土史」(早乙女慶寿著)に、その土地出身の著名な人物列伝が有りました。その中で西方町では190名の名前の中に和賀井姓が10名、都賀町では89名の列伝に1名、確認されています。
同書の「第二章 江戸時代の西方、都賀の姿」に、≪西方記録の西方郷は下野国都賀郡皆川庄西方郷とあり。江戸時代の西方郷は、城附五千余町、峰村、冨張村、下宿村、富加見内村、金井村、柴村の六ヶ村であったが、慶長年中西ノ原に引退き村を建てた。所謂古宿村、中宿村、大沢田村、新宿村である。又同年富加見内村(又深見内村とも書く)から田谷村出る。開発人は和賀井四郎右エ門。(後略)≫と、記され「和賀井」と言う人物が田谷村を開発した事がわかりました。又、江戸時代の山木菅太郎知行所の田谷村名主は和賀井勇蔵と記されています。さらに、上記人物列伝にて西方町出身の和賀井姓10名中9人は、「大字本郷田谷」の出身です。

石碑の裏面、碑陰に刻まれている文字を確認すると、大勢の名前が並んでいます。その内容は、大橋村8名・元村22名・深澤村5名・原宿村10名・本郷村18名・臼久保村6名・富張村55名、の名前が確認出来ました。そしてその後に「特別賛成」として22名の名前。更に「協議會頭」として14名の名前、最後石碑の左下には「建築惣代」として、越路身壽・中田定吉・伊東孝三郎・成瀬良治という4名の名前が並んでいます。

これら碑陰に並ぶ人達は、石碑を建てる事に賛同した人達だろうか、富張村の関係者が多いのは、和賀井翁が居住していた所であり、当然の事でしょう。
西方町・都賀町の大字.jpg
(石碑が建てられた周辺の村々。青字は西方町、赤字は都賀町の地名)

上図の中央部、富張・本郷・元の境界近くに石碑の地図記号を付しました。
この概略図により、碑陰に刻まれた地名が、全て石碑の建つ周辺に分布していることがハッキリ分かります。

最後にこの「和賀井翁壽壙碑」の手前右側に、もう1期石碑が建てられていました。
線刻不動明王像.jpg署名部分.jpg
(石碑には不動明王が線刻されています)(左下部に「藤原勝重謹寫」「石工清水■」とある)

碑表には、見事な不動明王の姿が線刻されています。和賀井栄順が修行した聖護院が、本尊を不動明王としている事が関連しているものと思われます。

※参考資料:
    広報つが 2007年3月号 「歴史再発見」 文化財めぐり 
                      都賀町の私塾(文化財保護審議委員長 植木誠治著)
    ウィキペディアより、「岩下方平」「森鷗村」「聖護院」を参考に致しました。
    「西方都賀の郷土史」(早乙女慶寿著)
    
    






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西方町元に建つ「中宿湧泉完工記念」の碑 [石碑]

栃木市西方総合支所ふれあいプラザの駐車場南西隅に建つ石碑について、調べてみました。
中宿湧泉完工記念碑1.jpg
(「中宿湧泉完工記念」の碑、後方は栃木市社会福祉協議会西方支所)

石碑上部には、「中宿湧泉完工記念 理事長上田善市書」と刻まれています。この題字を揮毫した「上田善市」氏は、第11代の西方村村長に成ります。
中宿湧泉完工記念碑(碑表).jpg中宿湧泉完工記念碑(碑陰).jpg
(「中宿湧泉完工記念」の碑表)       (「中宿湧泉完工記念」の碑陰)  
 中宿湧泉完工記念碑(碑文).jpg中宿湧泉完工記念碑(碑題).jpg
(「中宿湧泉完工記念」の碑文書き写し)     (碑上部の題字部分)

石碑を撮影に行ったときは、丁度石碑に電柱の陰が掛かっていました。石碑隣の現在栃木市社会福祉協議会の西方支所の場所は、昔は保育園だったのか、今も多くの子供たちが敷地内の遊具で遊んでいました。
近くでカメラを持ってうろうろしていると不審者と思われては困るので早々に退散して来ました。
後日、子供たちのいなそうな午前中に出かけましたが、今度は碑の表側は逆行で陰に成ってしまい文字が読めない状態でした。碑陰側の文字はハッキリと確認出来ました。
撮影してきた写真を基に碑文を読み、書き写してみました。

西方町史を見てみると、「中宿湧泉と水田の拡がり」と題した一文が有りました。一部抜粋してみます。
≪小倉堰からの取水によって大きな三本の分流を有する西方村でも、その水の枝川が行き届かない所には水の苦労があった。小倉堰から取水できる水量は水利権とからんで制限されているので、特に下流(南部地区)においては不足分の水の補充には井戸からの汲み上げや、湧泉の拡大が必要であった。・・(中略)・・大字本城の中宿・大字元の峰地内から富張(栃木市)に至る地域の水不足を補うために、昭和20年に、集中暗渠による中宿湧泉の計画が矢部藤七村長によって進められたのも、このような背景があったのだろう。この工事は、早くも22年6月には完成して人々に喜ばれたが、使用材料が木材中心であったため、日ならずして所々に陥没が生じる欠点も表面化し、25年からコンクリート工法による復旧工事を必要とする問題も出た。そのため、次の大森昇、上田善市を含めて三代の村長の関わる工事となり、31年まで工事が続いた。この湧泉の完成により、大字本城南部と大字元の西部地区は良質米の穫れる美田地帯となった。戦後間もない頃の食糧不足を補うために、地元農家にとってこの湧泉はありがたいものであった。(後略)≫

碑文冒頭に出てくる、昭和20年2月当時西方村長職に在り、小倉堰普通水利組合管理者であり、中宿湧泉を計画起工された「矢部藤七」氏については、「栃木市西方公民館」の玄関前方のロータリーの中央に胸像が建てられています。

西方総合支所前.jpg
(栃木市西方公民館前に建てられた「矢部藤七翁像」)

矢部藤七翁の胸像が乗る台座の背面に据えられた碑文に、翁の略歴や功績について記されています。
碑文を書き写しました。
台座背面の碑文.jpg
(矢部藤七翁像台座背面の碑文書き写し)

※参考資料:西方町史(発行西方町)
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人目に触れることなく、山中に建つ石碑 [石碑]

今回紹介する石碑は、「目で見る栃木市史」の中にも掲載されている、太平山中の古戦場跡「草鞍山千人塚」に、昭和7年5月地元皆川村仏教会の8寺院と草鞍山の土地所有者2名とが発起者と成って、建立された「天正年間草鞍戰死諸靈碑」です。
千人塚の碑1.jpg
(草鞍山千人塚に建てられた「天正年間草鞍戰死諸靈碑」)

上記「目で見る栃木市史」には、石碑の写真と共に「(六)古戦場 1.大館山・草鞍山古戦場」と題して、次のような説明が乗っています。抜粋させて貰います。
≪天正12年(1584)北条氏直が来襲したとき、皆川方が拠点とした一つである。岩船山、富士浅間、太平山等の防禦線が破られたあと、大館山を中心に激戦がつづいたがやがてこれも陥ち、戦場は角堂山にうつり、さらに草鞍山方面へうつった。いまの栃木カントリークラブのコースあたりはそのとき両軍が争奪をくりかえした戦場であった。草鞍山は敵方・味方を問わずその戦死者を葬った塚があるところで、千人塚という地名が生じた。≫
栃木市内の石碑を見て歩いている私にとっては、以前から是非現地を訪れたいと、ずっと思っていたところに成ります。ただ草鞍山が太平山中のどこに有るのか分からなかった。
「草鞍山千人塚」の場所が確認できたのは、平成27年3月皆川地区街づくり協議会歴史文化部が発行した「皆川の歴史と文化」という全紙サイズのパンフレットでした。そこには皆川地区のマップ上に、地区内の社寺や歴史遺産等の所在を記してあり、「3.千人塚(草倉山古戦場)」として、「栃木カントリークラブ」と「太平台カントリークラブ」のゴルフコースに挟まれた、山中に③の番号が記されていました。
皆川の歴史と文化.jpg草鞍山案内.jpg
(「皆川の歴史と文化」表紙部分)         (皆川地区マップの千人塚を記した部分)

目的の石碑の建つ場所は分かりましたが、その場所へ行くルートを探さなければ。その場所は二つのゴルフ場のコースに挟まれた場所の山の中。夏場では雑草や木々が茂って視界が悪くなりそう。蛇や山蛭などに遭遇するのも嫌なので、行くとすれば冬場と決めた。
最初にトライしたのは1年前、現地に入れそうなルートを見つけ向かった。しかし栃木市の山間部はどこもそうであるが、イノシシやシカから田畑を守る為、里山の周辺はフェンスや電気柵で防禦しています。
私が入ろうとした山道もフェンスが設けられ閉鎖されていました。
里山を囲むフェンス.jpgフェンスで閉鎖された山道.jpg
(フェンスで囲まれた里山)             (千人塚への道もフェンスで閉鎖)

そこで、ゴルフコースを横切って行けるか、栃木カントリークラブのクラブハウス受付に出向いて、事情を説明したが、ゴルフコース内を横断するのは危険と言う事と成り、断念をしました。

そして1年が経った先日、「皆川の歴史と文化」を作成発行を行った、皆川地区街づくり協議会歴史文化部会のメンバーの方の案内で、皆川城内町の神社仏閣を巡った際、傑岑寺ご住職のお話を伺う事ができました。そのお話の中に、「草鞍山千人塚」の事が図らずも出てきました。
傑岑寺本堂.jpg傑岑寺墓地より草鞍山方向を望む.jpg
(杉木立等に囲まれた傑岑寺本堂)      (傑岑寺より南南東、太平山方向を望む)

そこで、「歴史文化部会」の方に、千人塚に建つ石碑へ行く方法を確認して、早速行ってきました。
問題のフェンスの鎖を解除して中に入り、フェンスを開放することなく又、鎖で止めて山の中へ入りました。中に入るとイノシシを捕獲する為に仕掛けられた檻が有りました。
イノシシ捕獲用檻.jpg枯葉で滑る山道.jpg
(山中にはイノシシ捕獲用檻が仕掛けられている)(山道は落葉で滑り易くなっています)

暫らく行くと、山道の直ぐ脇まで栃木カントリークラブのゴルフコースが迫っていて、ゴルフを楽しんでいる姿が有りました。しかしコースの周辺には電気柵の電線が張り巡らされており、ゴルフ場に入れない様になっていました。
山道近くまで迫るゴルフコース.jpg電気柵でコースには入れない.jpg
(ゴルフコースが道路脇まで迫っている)    (電気柵でコース内には入れません)

更に山道を進むと、ゴルフ場から遠ざかり雑木の真っただ中を登ります。落葉で覆われた山道は滑りやすく足を取られます。入口からおよそ15分程歩いていくと、前方の木々の間に石碑の黒い影が見えてきました。
前々から来て見たかった石碑の前にやっと立つことが出来ました。

碑表.jpg碑陰.jpg
(碑表、逆光に成って見難い)        (碑陰、中央部に「建碑寄附及び発起者の名前)

石碑表に近づいて題字を確認します。石碑中央に大きく「天正年間草鞍戰死諸靈碑」の文字。その上に梵字でしょうか、一字陽刻されています。題字の向かって左横に少し小さい字で、「廣照十二代之孫 皆川庸一書」と、揮毫した人物の氏名が刻まれています。
碑の題字.jpg題字揮毫者.jpg
(「天正年間草鞍戰死諸靈碑」と大きく陰刻)  (「廣照十二代之孫皆川庸一書」とある)

碑陰の情報を見ると、石碑の建立は「昭和7年5月吉日」と成っています。皆川の瀧青年会が建碑に当たっての労力奉仕をしています。又その後の管理も担当するようになっています。「瀧青年会」は建碑された草鞍山の西側に位置する、皆川城内の字「滝の入」の組織でしょう。
建碑された通称「千人塚」の土地所有者2名からそれぞれ、「壹畝歩」(30坪=約99.2㎡)の土地の寄附を受けています。発起者は当時の皆川村8寺院と上記土地所有者2名。石工は栃木の岩崎重明氏です。
碑陰上部.jpg碑陰下部.jpg
(碑陰上部、「建碑寄附」者名が並ぶ)  (碑陰下部、「發起者」の名前が並ぶ)

私が期待をしていた、千人塚の名前の由来などを記した碑文は、刻まれてはいませんでした。

皆川氏を扱った軍記本「皆川正中録」の「巻之三」に、ここ「草倉山の戦い」の話が出ています。「皆川勢草倉に出張之事」の一部抜粋してみます。軍記物だけに読むと面白いものです。

≪皆川山城守広照は七月十八日早天、草倉を以て防禦の地点と定め、これが大将としては家老客分たる牛久大和守吉隆・関口石見守盛綱、総奉行として佐山信濃守政道、その他 (中略) 名将勇士三百騎、軍師として安塚内匠介・片柳兵庫等総勢八千余騎なり。
 皆川家の定紋打ちたる左二ツ巴の旗数十旒、その他家々の旗幟幾百となく朝風に翻し、陣幕広く打廻し鉄砲の筒先を並べ弓を張り威風凛々と待受けたり。
 城内にては山城守広照水浴して身を潔め、石裂山に向って合掌なし
 何卒急難を救い給へ
と一心不乱に念じければ、不思議や北の方より朝霧深く立こめて皆川城の上より草倉山の頂上まで押つゝみ、城内の様子更に見えざりけり。
小田原方は太平山に陣取りて、山上より城内の動静を窺はんとすれども測りしれず、しばし躊躇の体なりしが、北条左京太夫氏直は自ら陣頭に進み、軍兵を励まし鬨の声を放って山上より一度にドッと攻め下る。
 此時草倉に控へし皆川勢スワとばかりに相応じ、挑み合ひしが、氏直大音にて、
 矢車に時うつすな槍を進めよ
と下知しければ、小田原勢六百余騎虎豹の如くにひきつれて突かゝる皆川勢も心得て犇めき叫ぶその中にも高嶽靭負・塩田小次郎・板垣六郎太郎・早乙女弥七・塩田又次郎等四五十騎抜きつれて切りまわり火花を散らして戦ふうち、小田原方は、後陣の内より鉄砲の選手二・三十人小高き所より発砲しければ、この筒先に塩田又次郎・早乙女弥七・板垣六郎太郎・村上文四郎等の勇士をはじめ雑兵数多斃れたり。・・(後略)≫

此の「皆川正中録」は、何時頃誰によって書かれた物かハッキリしていません。江戸時代中頃の作品とも言われます。歴史上実際に有った事をベースにしているものの、軍記物として創作・装飾されたところも多々有る様です。この軍記物、講談師に演じて頂ければ、さぞかし聴きごたえの有る話になりそうです。

石碑に有る「天正年間」とは、広辞苑を引くと≪安土・桃山時代、正親町・後陽成天皇朝の年号。1573年7月28日~1592年12月8日≫の期間。そして、天正元年(1573)は廣照の父俊宗が、北条氏との戦いに戦死をし、皆川広照が皆川城主となった年。同時に15代将軍足利義昭が京都から追放され、室町幕府が滅亡した年です。
そして天正十年(1582)6月2日、本能寺の変で織田信長が明智光秀の軍に急襲され、自害しています。
天正年間は日本の中央においても、一地方の栃木においても、動きが慌ただしくなっている時代でした。

「皆川廣照伝」を著わした近藤兼利氏は、その著書の中の「第三・考察 二、草倉戰考」にて、次の様に書き出しています。
≪天正十二、三年の頃、小田原の北条氏政、氏直親子が大挙して下野国に来り、藤岡城附近に集結し、先ず一部を先遣して太平山の皆川の出城を奪取して太平山を焼払い、次で主力も山を占領して皆川城に向い攻撃を開始した。広照また全力を提けて出動し共に主力を以て草倉に決戦を展開する。激戦数回、三月に亘って戦い尚勝敗定まらず、多数の死傷者を出して休戦となった。講和に当り氏政の養女を広照の側室となし北条、皆川今後提携すべきを誓ったという。・・・(後略)≫そしてこの草倉の戦いについて詳細に考察を進めていますが、ここでは省略します。ぜひ原本をお読みください。

太平山の北麓、草倉山の山中に建つ一基の石碑、今私達の記憶から忘れ去られようとしている。ただ現在も、最寄りの寺院となる傑岑寺においては、毎年9月16日に草倉山戦死者の霊を弔う施食会を執り行っていると、先の住職のお話の中に有りました。

参考資料:
 ①目で見る栃木市史(編集、栃木市史編さん委員会)
 ②皆川の歴史と文化(編集、皆川地区街づくり協議会歴史文化部)
 ③日向野徳久考註「皆川正中録」(考訂並考註、日向野徳久)
 ④皆川廣照伝(編者、近藤兼利)
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都賀町原宿の、磐根神社入口脇に建つ「大正湧泉記念之碑」 [石碑]

栃木市都賀町原宿に鎮座する「磐根神社」の参道入口に建つ、石の鳥居の左脇に幾つかの石仏や石碑が並んでいます。その中に後方で他より背の高い石碑が目に留まりました。
磐根神社(原宿).jpg
(磐根神社の入口に並ぶ石造群)

石碑上部の篆額部分には、「大正湧泉記念之碑」と篆書体の文字で浮き彫りされています。
揮毫した人物は「正三位勲四等子爵戸田忠友篆額之書」と、碑文冒頭に刻まれています。
「戸田忠友」は、下野宇都宮藩の最後の藩主。明治の版籍奉還で宇都宮藩知事となったが、明治4年(1871)の廃藩置県で藩知事を免職に成っています。明治17年(1884)の華族令で子爵に成っています。大正元年(1912)に正三位に昇叙されています。(最終的には、従二位)
大正湧泉記念之碑.jpg大正湧泉記念之碑(碑文).jpg
(大正湧泉記念之碑)                (碑文書き写し、原文は漢字・カタカナ文)

碑文には、≪古来より原宿の地は水利に乏しく、唯一の水源として頼むのは、西方用水の残流荒川だけで、近年上流にて水田が著しく増加した為、夏季には往々流れが断絶。農民の困苦は年をおいて甚だしく、加えて大正3年初夏には雹害旱災が相次ぎ、畑作物は壊滅に帰し、水田の収穫も又危ういものになった。
ここにおいて有志等会合を以て、湧泉開鑿を行うことを決めて、あちこち場所を探索し、ついに現在の泉地を選定する。直ちに敷地を購入し、7月15日起工、経費5,037円、夫役4,980人を投じて、大正6年10月1日竣工、既成改田17町8段5畝歩を得る。組合員一同終始和合協力して、僅かな失敗も無く、湧水も予想以上に豊富であった。この成功は神明の加護によるものである。事業の終了に際して、関係者一同相謀って、その由来を碑に記し、後世子孫に伝える。≫との内容が記されています。

ここで言う「大正湧泉」はどこに有ったのだろうか。まずは都賀町原宿の場所を再確認してみたい。
「都賀町原宿」周辺の概略図を作ってみました。
都賀町原宿周辺地名概略図.jpg
(栃木市都賀町原宿周辺概略図)

原宿の北側には西方町本郷、東側には都賀町家中、西側は都賀町木、南は木野地町等に隣接し、中央を北関東自動車道が横断、又、県道177号(上久我栃木線)が縦断しています。
西側の都賀町木との境には、思川の小倉堰から取水した西方用水の一つ「荒川」が流れています。

更に詳しく石碑が建つ原宿の「磐根神社」周辺を確認する為、国土地理院発行の2万5千分の1地形図「下野大柿」を基に、概略図を作ってみました。
都賀町原宿上付近概略図.jpg
(原宿の旧村社「磐根神社」周辺概略図)

「下野大柿」の2万5千分の1地形図の発行は意外と遅く、最初に発行されたのが、昭和46年12月28日です。そこには荒川の河道は描かれていません。地図記号で描かれていたものは①都賀町立木村小学校の「文」記号、(昭和55年3月31日、統合により廃校)。②磐根神社の鳥居記号、③玉塔院の「卍」記号、そして④記念碑記号です。(現在神社前に有る石碑とは場所が異なっています。)

昭和52年9月30日発行の地形図を見ると、県道栃木粟野線沿いに煙突の地図記号が追記されています。
三和酒造(株)の煙突です。創業は明治中期ですが、すでに廃業されています。製造していた銘柄は創業以来の「多喜水」、他に「大平冠」も造られ、合わせて二種と聞きました。

平成元年6月1日発行の地形図を見ると、荒川の河道が新たに描かれています。上記の概略図中央を左右に蛇行して左下に向かう線が荒川に成ります。これを見ると以前の荒川は現在石碑の建つ「磐根神社」の直ぐ西側を流れています。又、木村小学校の地図記号が消えています。

平成15年1月1日発行の地形図を見ると、北関東自動車道が現れました。その結果、概略図右上に有った記念碑記号が自動車道のルートに当たり、無くなっています。又、蛇行していた荒川の河道も直線的に改修されました。

平成30年8月1日発行の最新の地形図を見ると、北関東自動車道周辺の田畑や道路が直線的に改修されています。上記概略図には破線で表示しています。これは北関東自動車道整備に併せて、周辺の区画整理及び灌漑排水、農道整備を進めた結果になります。(県営土地改良総合整備事業、赤津南部地区)

「大正湧泉記念之碑」の碑陰を見ると、≪北関東横断道路の建設に伴い 大字原宿愛宕北127-3に建設されて居りました記念碑を神社境内に移転します。 平成8年1月吉日≫のプレートが埋め込まれていました。

やはりこの記念碑は、かつての地形図に記されていた場所に建っていたことが、確認されましたが、その「大正湧泉」の場所が何所なのかは、区画整理が行われた後では確認は難しいのかもしれない。
都賀町史を開くと、「水利について」と題する項目が有ります。その一部を抜粋します。
≪当町は小倉川(思川)に北から東にかけて包まれるような形になり、また西の方には西方村真名子の方から流れ出してくる赤津川が流れており、二大水源となっている。地質的には、赤津川から東が沖積層であり、西が洪積層であるというが、西の方が山からの湧水などを集める小さな河川もあり、比較的水利に恵まれていた。しかし、沖積地の方は扇状地であり水利に恵まれず、小倉川からの用水を利用した。西方村から赤津地区を流れる小倉用水と、家中地区を流れる桑原用水がある。家中では、桑原用水が出来るまでは水田は少なく、竹筒に入れた米の音を聞かせると死人が生き返るとか病気がなおってしまうと言われたとつたえられているほどである。 しかし、、田植えの頃など、水を一斉に使うので特に下流の方は水不足の問題があった。そこで、地下水を掘り出す湧泉(ユウセン)があちことに作られた。≫として、「明治湧泉」「川久保湧泉(金剛湧泉)」「万延湧泉」「文久湧泉」等々の湧泉名が列記されています。そして≪これら以外にも、西方村地内から、大正湧泉、雷神湧泉がひかれ・・・・(後略)≫と、ここに「大正湧泉」の名前が出てきました。

「大正湧泉」は北隣の西方地内に有って、そこから原宿まで水路を開鑿して、灌漑用水を確保したもので、磐根神社入口に建つ石碑は、そんな地域の歴史を静かに伝えているものでした。

※参考資料:
  ・国土地理院発行、2万5千分の1地形図「下野大柿」
  ・都賀町史:都賀町発行



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