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出会いの場、二俣橋 [橋梁]

熊本県のほぼ中央部に位置する美里町には、日本で一番大きな石造り単一アーチ橋から、長さ幅共に2m足らずの石橋など、町内全域に多くの石橋が架けられています。その数は何んと30橋以上に成ります。
霊台橋.jpg
(江戸時代の石造り単一アーチ橋としては日本一大きな「霊台橋」。橋長:89.86m、橋幅:5.45m架橋は弘化4年(1847)です。)

岩清水橋.jpg
(霊台橋に向かう手前脇道に架けられていた「岩清水橋」。橋長・橋幅共2m足らずの小さい石橋)

そんな石橋の町「美里町」に、「恋人の聖地」に登録された「二俣橋」が有ります。
恋人の聖地・二俣橋.jpg
(2018年、第4回恋人の聖地、観光交流大賞を受賞した、「ハートができる石橋」の現地案内板)

ハートは何時でも見られるものではなく、アーチ橋に差し込む太陽の光の入射角の関係で、案内板に記載されている様に、11月から2月の、午前11時30分から12時頃と有り、天候との兼ね合いも有り、見る為には結構な努力が必要かもしれない。
ただ、チョッと気になるのが、その橋の名称。「二俣」ですが、恋人の二俣は良くないですよね。そこで、ここでは異なる観点からその意味を考えてみます。この橋が架かっている場所が、二つの川が合流する地点に成ります。二筋の川の流れがこの場所で落ち合うと言う状況から考えれば、橋の袂に設置された幸せの鐘の基礎に記された言葉に、納得出来ました。
     「川が、であい    道が、であい     人が、であう」
ここは全ての出会いの場所に成っているのです。

二俣橋.jpg
(二俣橋を下を流れる「釈迦院川」上流側に架かる「新年祢(しんとしね)橋」から撮影)

釈迦院川は二俣橋(二俣渡)の下を流れた直後、右岸に津留川が合流しています。そしてその津留川に架かる石橋が「第二二俣橋(二俣福良渡)」で、架橋時期はどちらも同じで文政年間です。更にその第二二俣橋の直ぐ上流部に、「第三二俣橋」が架かっています。

釈迦院川に架かる。橋長:28.0m 橋幅:3.3m 橋高:8.0m 文政12年(1829)架橋。
二俣橋(二俣渡).jpg
(二俣橋(二俣渡)を第二二俣橋(二俣福良渡)側から撮影、ハートはこのアングルから)

津留川に架かる。橋長:27.0m 橋幅:2.5m 橋高:8.0m 文政13年(1830)架橋。
二俣福良渡.jpg
(第二二俣橋(二俣福良渡)を、右手前から流れてくる釈迦院川下流側より撮影、

津留川の第二二俣橋の直ぐ上流側に架けられた現代橋。昭和2年3月に竣工しています。
第三二俣橋.jpg
(第三二俣橋、津留川の左岸橋詰より撮影)
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タイ王国の首都バンコクの橋巡り [橋梁]

テレビのニュースでは、今日から本格的なゴールデンウィークに入る中、新型コロナウイルスの感染拡大防止の外出自粛要請で、人影が消えた各地の様子を、昨年の映像と比較して流していました。
私も感染するのは嫌だし、他の人にうつすのはもっと嫌なので、極力自宅に引き籠もる生活を続けています。体力が衰えるのを少しでも抑える為、朝はラジオ体操第一・第二を、そして本当に久しぶりに縄跳びに挑戦をしました。最初はビックリするほど体が動かず、1回も飛べない始末。それでも毎日続けていると、10秒・20秒と続く様になって来て、今は何んとか40秒程度まで、連続で飛べるようになって来ました。
それでも、時間を持て余す為、家の周りを掃除するので、埃だらけだった家の周りが、少し見られる様になって来ました。
そんな事で、このブログの話のネタも過去に撮影した写真がベースになって来ています。
今回は10年程前に撮影したバンコクの橋を取り上げました。

バンコクと言えばタイ王国の首都で、「天使の都」とも呼ばれています。その街を流れる川と言えば、チャオプラヤ川が有名です。この川にはバンコク域内だけでも12カ所に架橋されていますが、今回はその中で私が歩いて渡った二つの橋をまず紹介します。
最初に渡った橋は、戦勝記念塔から真っ直ぐ西方向に走る「ラチャウィティ通り」がチャオプラヤ川を渡る場所に架かる「クルントン橋」です。この橋は曲弦トラス式6径間で、1957年に開通した4車線、全長366メートルの立派な橋です。が、老朽化の為に2012年8月28日から、6輪トラック以上の大型車両は通行禁止に成っています。
クルントン橋(.jpg
(曲弦トラス式6径間のクルントン橋、右岸橋詰のレストランより撮影)
クルントン橋1.jpgクルントン橋(親柱).jpg
(4車線、両側に歩道も付いています)(橋の親柱です。タイ語表示が有りますが読めません)

次に渡った橋は、「クルントン橋」の一つ下流側の「ラーマ8世橋」です。
タイ国政府観光庁ホームページによると、≪ラーマ8世橋は、ラタナコシン島からトンブリーへの交通渋滞を緩和するための王室プロジェクトとして建てられました。ウィスカサット通り(Wisut Kasat Road)とアルンアマリン通り(Arun Amarin Road)を結ぶチャオプラヤー川を渡るこの橋は、非対称の斜張スタイルで世界5番目に長い橋としてバンコクのランドマークにもなっています。≫と、紹介されています。
非対称斜張橋で、2002年5月7日に開通、全長475メートル、主塔高さ160メートルに成ります。

ラマ8世橋(公園より).jpg
(ラーマ8世橋、右岸橋詰下流側の「ラーマ8世公園」より撮影しました)
ラマ8世橋(主塔と親柱).jpgラマ8世橋(ライトアップの主塔と親柱).jpg
(斜張橋の主塔と親柱) (ライトアップされた主塔と親柱、ナイトクルーズの船上より撮影)

次はチャオプラヤー川からはなれます。バンコク中心部主要交通システムのBTS(通称スカイトレイン)に乗って、少し北に行ったモチット駅の直ぐ目の前に有る「チャトチャック公園」です。公園の南隣には「チャトチャック市場」も有り、休日には多くの人が訪れます。公園内では木陰で休む時に、下に引くゴザを貸し出すサービスが有ります。そんな公園の北の橋近くに有る池に3番目に紹介する橋は有ります。
チャオチャック公園内の橋1.jpg
(チャトチャック公園内の池に掛けられている橋)
チャオチャック公園内の橋2.jpgチャオチャック公園内の橋3.jpg
(休日公園には沢山の人が憩いを求めて集まります)(緩やかな曲線を描く橋)

チョッと変わった形の橋が王宮近くの運河に架けられています。その形は有名な画家ゴッホが描く「アルルの跳ね橋」の片側だけにした様な形の橋です。
王宮近くの運河に架かる跳ね橋1.jpg王宮近くの運河に架かる跳ね橋2.jpg
(ゴッホの名画「アルルの跳ね橋」の片側だけにした様な橋)
この橋は、スクンビットから乗り合いバスで王宮へ出かけた時、バスの終点近くで見つけました。

スクンビットから王宮方面に移動する手段としては、水上バスで行く方法も有り、私も何度か利用しました。水上バスが走る運河の名前は「セーンセーブ運河」と言い、バンコクの街の中心部を東西に横断しています。
セーンセーブ運河の水上バス2.jpgセーンセーブ運河の水上バス3.jpg
(セーンセーブ運河の水上バスは、いつも満員状態です)
セーンセーブ運河の水上バス1.jpg
(運河の川面に白波を立てて走る水上バス)

この「セーンセーブ運河」には、人が歩いて渡る小さな橋から、パヤータイ通りの様に車線が八つも有る広い橋等、多くの橋が架けられています。そんな運河の西端、民主記念塔の東、マハーカーン砦の脇の運河に架かる橋が「パーンファーリラート橋」です。
パーンファーリーラート橋1.jpg
(右側の橋が「パーンファーリーラート橋」です。左奥がマハーカーン砦)
パーンファーリラート橋(親柱).jpgパーンファーリラート橋(親柱の飾り).jpg
(背の高い堂々とした親柱)     (親柱中程の装飾品)

親柱の装飾と言い、高欄の装飾と言い、他には見られない豪華な橋です。
この橋の外にも、セーンセーブ運河に架かる橋には、親柱や高欄に嗜好を凝らした橋が有ります。
私が気付いたものを紹介します。

№2高欄.jpg№4高欄.jpg
(マハトタイウット橋の高欄)            (チャロエンラット橋の親柱)

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(シャレルムラ56橋の象の親柱)   (シャレルムワールド55橋の高欄)

外にも気になる橋がまだまだ沢山有ります。出来る事なら又、行ってみたいものです。
その為にも、早くこの「ステイ・ホーム」が終わって欲しいです。

今回参考にした資料は、グーグルマップですが、著名な地名等は日本語や英語で記載されていますが、マイナーな地名はタイ語記載のみの為、読解不可に成ります。簡易翻訳機能で確認を試みたりしましたが、誤解釈の心配も有りますので、ご容赦下さい。

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今回は全く私の趣味「橋」の話題 [橋梁]

時節柄、毎日毎日家籠りの生活を続けています。昨日は一日心地よい晴天、本来なら行楽日和と成るところ。それでも新型コロナウイルスに感染しない為、そして感染を広げる事にならない為、我家の敷地から一歩も出ずに過ごした。今日は幸いと言うか、朝から雨で家籠りにも、諦めが付きます。
ここの所ずっと外出を控えているので、昔のアルバムを引っ張り出しては、それを眺めて時間を潰す事が、多くなっていますが、その中で今までずっと疑問を抱えていた、一枚の橋の写真が有りました。そこの、この際その写真に写る橋の事を調べる事としました。
ウェーコ吊橋2.jpg
(テキサス州ウェーコ市のブラゾス川に架かる「ウェーコ吊り橋」)

その写真は、40年ほど前にテキサス州のダラスから車で、フリーウェー(一級州間高速道路)35Eを南に走り、州の首都「オースチン」を経由して、更に南の「サン・アントニオ」まで、ドライブをした時に撮影をしたものですが、それが何所で撮った写真か全く記憶に残っていなかったのです。
写真に写る橋は吊り橋で、近くに銘板が設置されている所から、結構有名な建造物と思われ、橋大好き人間としては、それを分からないままにする事が、如何にも諦めきれないので、時間に余裕が有る今こそと考え、グーグルマップを利用して、フリーウェー35のルート上を毎日の様に探し回っていました。そして遂にその橋を見つけ出すことが出来ました。
テキサス州.jpgテキサス州内関連都市.jpg
(テキサス州の合衆国内のロケーション)    (テキサス州内の案内図)

グーグルマップには、「ウェーコ・サスペンション・ブリッジ」と記されています。その橋が架けられている場所は、ダラスのダウンタウンから南に約140キロメートルの都市「ウェーコ」の中心部です。西北西から東南東方向に流れる、ブラゾス川右岸のブラゾスと左岸イースト・リバーサイド間に架けられています。
周辺の状況を、グーグルマップを参考にして概略地図を作成してみました。
ウェーコ吊橋周辺概略地図.jpg
(ウェーコ吊り橋の架橋場所概略地図)

橋の名前が分かったので、それで検索をすると、有りました。やはり歴史的建造物として、「アメリカ合衆国国立史跡登録」と成っています。
その解説文を引用させて頂きます。関係の薄い部分は削除しています。
≪ウェーコ・サスペンション・ブリッジは、テキサス州ウェーコ市のブラゾス川に架かっている。主径間475フィート(145m)を持つ、単径間吊り橋です。竣工は1870年、その主塔には約3万個におよぶ煉瓦が使われています。橋の架かる場所は、ウェーコ市中心部の北部に有り、川の南西側(右岸)のインディアン・スプリング・パークと、北東側(左岸)のドリス・ディ・ミラー・パークを継いでいます。”インディアン・スプリング・パーク”は、「そこは凍るような冷たい水が湧く泉」の有る川岸で、ウェーコの町の起源と成る所で、かつてヒューコ・インディアンが定住していました。
1869年以前は、ブラゾス川を渡る唯一の方法は、渡し船に依らなければ成らなかったが、それも時間は掛かるし、時には厳しく危険を伴うものでした。地元のビジネスマン達は、産業をサポートしていくには橋が必要で有る事を理解していました。彼らは州より承認を受けた「ザ・ウェーコブリッジ会社」を設立して、資金調達と建設のプロジェクトを立ち上げました。
戦後ウェーコに移り住んだ、オースチンの弁護士で銀行家のジョン・ティ・クリント氏は、「フリント&チャリバン」という商社を設立、単身ニューヨークに出かけ架橋の為の契約を行いました。
1868年10月に雇用された技術者トムズ・エム・グリフィスは、橋建設の為の建材やケーブルを、ニュージャージー州トレントンの「ローブリング会社」より、調達を始めました。建設地にて材料を調達するには、当時のウェーコ地区では機械工場が不足していて、最も近い鉄道ルートも100マイル(160km)以上離れていました。又、十分な技能を有した職人達のいる最寄りの町「ガルベストン」は、ここから212マイル(341km)以上も離れていました。
原材料は「ガルベストン」にて蒸気船に載せて輸送し、「ブライアン」にて牛が引く荷馬車に積み替えて、輸送しました。「ブライアン」から「ウェーコ」への道路は、路面がデコボコした悪路で、19世紀のテキサス州基準に対しても劣っていました。
吊橋のケーブルを支持する対の二重主塔は、地元で製造された約3万個の煉瓦にて築かれました。その時代の土木技術としては、高く評価をされるものでした。
初めて通行料を徴収したこの吊橋は、1870年1月1日に開通しました。
径間が475フィート(145m)有るこの橋は、テキサス州にて最初の重大な吊り橋と成りました。この橋は、駅馬車が互いに通行が出来る為の、十分な広さが有りました。
橋の建設費用は14万ドルでしたが、ブラゾス川を当たる為の唯一の橋だった為、歩行者や牛が渡る為の通行料5セントにて、速やかに償却する事が出来ました。
1889年に、この橋は「マクレナン郡」に売却され、通行料は無くなっています。
1913年から1914年に掛けて、橋の大規模補修が行われ、古い材料を交換して、ハイグレード材のトラスを設け、両サイドに歩行者用歩道を備えた、強固な橋と成りました。
1971年に開通100周年を越えて、馬車橋から自動車橋へと変換したウェーコ吊り橋よりより大きく、安全が保障された橋が建設され、州歴史委員会はウェーコ吊り橋の引退を判断しました。
この橋によってウェーコの町は、小さな開拓の町から、主要な商業の中心地にと発展する事が出来ました。今日、この橋は徒歩での通行のみと成っています。国立史跡登録が成されています。≫
ウェーコ吊橋1.jpg
(約3万個の地元産煉瓦で造られた、重量感のある対の二重構造主塔)

下を流れる「ブラゾス川」についての、少し調べていました。
このブラゾス川はアメリカ合衆国を流れる川の中で、長さが1,390kmで14番目にランクします。日本の川で流路延長が一番長い信濃川でも、367kmですから、比較になりません。ちなみに合衆国で一番長い川は、ミズリー川で、3,768kmにもなります。
≪ブラゾス川はテキサス州を流れる大きな川の一つで、かつては東テキサスと西テキサスの境界を示すために使用された事も有ります。川はテキサスの歴史、特にオースティンも入植地と、テキサス革命の時代と密接に関連していた。≫との説明が有りました。

日本とアメリカとでは、国土面積が比較になりませんので、参考になりませんが、栃木県内の吊り橋で同じような規模の物は無いか探しましたが、チョッと見当たりません。現在は架け替えられて姿を消しましたが、日光市足尾町の渡良瀬渓谷に掛けられていた吊り橋が思い浮かびました。
砂畑橋(渡良瀬川).jpg砂畑橋(渡良瀬川)2.jpg
(日光市足尾町、渡良瀬川に架かっていた旧砂畑橋)

この吊橋の写真は、2002年2月に撮影したもので、青空に白亜の門構えのケーブルを吊る主塔が印象的でした。竣工は主塔部分に銘板が有り、「昭和三十八年三月竣工」と表示されていました。自動車一台通過するのがやっとでした。残念ながら2010年3月に現在の橋(桁橋)に架け替えられ、残念ですが吊り橋は姿を消しました。

テキサス州ウェーコの吊り橋は、この砂畑橋より約100年前に架橋されたものですが、スクラップ&ビルドのアメリカにて、現在まで保護され残されて来ているのも感動です。
グーグルマップには、このウェーコ・サスペンション・ブリッジの表示の下には、ランドマーク・ブリッジと付記されていました。この吊橋はまさに、ウェーコ市の象徴と成る建造物だったのです。
再度、訪れて見たいと思いますが。

参考資料:グーグルマップ
       ウィキペディア「アメリカ合衆国の河川の一覧」「ウェーコ(テキサス州)」など

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上空からの本州四国連絡橋 [橋梁]

先月、北九州空港から羽田へ向かう飛行機の窓から、ひたすら眼下に見える風景を眺めていると、雲の切れ間から瀬戸内海の島々が現れては又、雲の陰に消えていきます。
昨年は、羽田から福岡空港への途中、富士山の姿を窓越しに見る事が出来たので、今回は逆ルートで又、富士山を観られればと計画しましたが、天気予報的には期待できない雲行きでした。
富士山.jpg
(飛行機の窓越しに望む富士山、昨年1月撮影)

飛行機には滅多に乗ることが有りませんが、新婚旅行で北海道に行った帰り、眼下に現れた風景が、まさに日本地図を見ている様で、真っ青な海に緑の山並み、ハッキリと東北の海岸線が見えたときの感激は、今も忘れられません。
そんな気持ちで、ずっと移り変わる雲の行方を追っている内に、島から島へ延びる一筋の線を発見しました。急いでカメラのレンズをズームアップして見る。間違いなく本州四国連絡ルートのひとつ、しまなみ海道の超大吊橋群を捕らえました。
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(瀬戸内しまなみ海道の「来島海峡大橋」、手前が四国側今治市)

「瀬戸内しまなみ海道」は、本州側「広島県尾道市」と、四国側「愛媛県今治市」を、大小七つの橋で結んだ全長約60kmの自動車専用道路ですが、雲の切れ間から姿を現したのは、その一番四国側に当たる、「来島海峡大橋」です。写真手前(下)が四国側に成ります。
写真には連続して三つの吊り橋が写っていますが、手前から「来島海峡第三大橋」(橋長1,570m)、「来島海峡第二大橋」(橋長1,515m)、「来島海峡第一大橋」(橋長960m)で、合わせて「来島海峡大橋」です。

そこから4分程経つと再び雲の切れ間から新たな吊り橋の姿が見えてきました。
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(本州四国連絡橋、児島・坂出ルートの「北備讃瀬戸大橋」)

本州四国連絡橋の3ルートの中で、一番最初に開通した岡山県倉敷市と香川県坂出市とを結ぶ、「児島・坂出ルート」となる「瀬戸大橋」で、ルート上には6橋が架けられていますが、私の視界に現れたのはその中で、四国坂出側の「南備讃瀬戸大橋」(橋長1,648m)と「北備讃瀬戸大橋」(橋長1,538m)です。南側は半分雲に隠れて来ていました。

橋影が視界から消えた後6分程で、今度は神戸市と淡路市とを結ぶ「明石海峡大橋」(全長3,911m)が、眼下に姿を現しました。
明石海峡大橋.jpg
(神戸市と淡路市とを結ぶ、「明石海峡大橋」、主塔の高さは海面上約300mにも)

吊橋の規模を示す中央支間長(塔と塔の間の距離)は1,991mで現在世界第一位に成っています。
考えてもいなかった「本州四国連絡橋」3ルートの橋の一部ですが、上空から見る事が出来てラッキーでした。
今回の旅行の一つの目的は、北九州市の「若戸大橋」を見る事でした。

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(北九州市の洞海湾に架かる「若戸大橋」。日本で最初の長大橋)

幸い「若戸大橋」を訪れた時は、季節外れの雨が上がった後で、朱色の橋が夕焼けを浴びて、黒い雨雲をバックに浮かび上がって見えました。
「若戸大橋」は北九州市の洞海湾に架かる、若松区と戸畑区を結ぶ橋長が627mの吊り橋で、着工は昭和33年(1958)、開通したのは昭和37年(1962)9月27日、この橋は日本での長大橋のさきがけで、建設当時は東洋一の吊橋でした。
現在で、日本国内には更に大きく長い、多くの長大橋が、架橋されています。

吊橋で、世界的に有名なものは、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコの、「ゴールデン・ゲート・ブリッジ(金門橋)」だと思いますが、私は40年程前に訪れ、その壮大な姿を写真に収めました。
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(南橋詰より)                    (北橋詰より)

私にとってこの時が初めての海外、それも一人旅でした。ですからサンフランシスコ空港に到着した時、「タクシーはこちらへ」と促され、そこにはリムジンが止まっていて、ホテルまで向かいました。親切な運転士に相応なチップを渡しましたが、あとで考えると、私は白タクの餌食に成ってしまったようです。それでも無事にホテルにたどり着きました。翌日早速今回の旅の一番の目的地「ゴールデンゲートブリッジ」へ。まずホテルの前からタクシーに乗って南側(サンフランシスコ市側)から橋を渡り、北側橋詰に有る展望台へ。しかし、逆光でシルエット状にしか見えない、数枚写真を撮って、すぐに南側橋詰に戻って貰い、タクシーを降りました。必要以上の金銭を財布に入れていなかったので残金が僅かに。仕方なくそこからブラブラとサンフランシスコ湾の波打ち際を歩いて、もう一つの吊り橋「ベイブリッジ」に移動しました。

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(サンフランシスコ市とオークランド市とを結ぶ「ベイブリッジ」)

現在、世界最長の吊り橋は、今回私が上空からわずか1分間程ですが、雲の切れ間から眺めた、1998年完成の「明石海峡大橋」(中央支間長1,991m)、に成ります。2位が1981年完成したイギリスの「ハンバー橋」(中央支間長1,410m)、3位が1964年完成アメリカニューヨークの「ベラザノ・ナロウズ橋」(中央支間長1,298m)、そして4位が1937年完成の「ゴールデンゲート橋」(中央支間長1,280m)、となています。記録はどんどん破られていっています。

今度は是非、現在世界一位と言う「明石海峡大橋」を近くで眺め、渡ってみたいと思います。

※参考資料:「橋のはなし Ⅰ」吉田巌編(技報堂出版)、編者は「本州四国連絡橋公団の理事をされていました。この書籍は吊橋の事が詳しく解説されています。
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岩国の錦帯橋で私、新年早々失敗しちゃいました。 [橋梁]

昨年の正月休みに、長崎の眼鏡橋を堪能して来たので、今年は是非日本三大奇橋のひとつ、山口県岩国市の錦帯橋を見に行こうと、昨年の夏から旅行計画を立て、宿泊も錦帯橋近くのホテルに予約を取って先日行ってきました。
が、私を待っていたのは予想もしていない姿の、錦帯橋でした。その姿が次の写真です。
錦帯橋1.jpg
(橋の高欄部分が全体的にシートで覆われてしまった錦帯橋)
ホテルの部屋から錦帯橋.jpg
(錦帯橋が見えるホテルの部屋を取ったのだけれど)

計画していた時はグーグルマップのストリートビューを使って、撮影ポイントをあれこれ検討、上流側の橋から錦帯橋の全体像を狙おうとか、河原に下りて岩国城をバックに収めるとか、夜はライトアップされ暗闇に浮び上がるアーチ橋を写そうかと、あれこれ考えていましたが、全てあきらめました。確認不足でした。

なぜこんな姿に成っているのか、宿泊したホテルの方が説明してくれました。
錦帯橋は木橋の宿命で、鋼橋やコンクリート橋より寿命が短い為、5年毎に定期点検を行っているが、今丁度その時期に当たっている為で、錦帯橋全てに老朽化調査・保全工事用の吊足場を設置、足場部分や橋の側面をシートで覆っているのだそうです。
確認をしたら錦帯橋の左岸橋詰に、工事概要を記した掲示が建てられていました。それによると工期は「令和元年9月9日から令和2年3月16日まで」と成っていました。

気を取り直して周辺観光へ、まずは錦帯橋を渡ります。橋詰のチケット売り場で「入橋券」往復310円を購入して、あこがれの錦帯橋を渡ります。
錦帯橋入橋券.jpg
(錦帯橋入橋券、この写真の様なライトアップされたアーチ橋を撮影したかった)

1985年9月10日に発行された吉田巌編「橋のはなしⅡ」(技報堂出版)に、この錦帯橋について≪錦帯橋 - 城の代わりの橋≫と題して書かれています。一部抜粋させて頂き紹介いたします。
≪山口県岩国市を流れる錦川に、その名のとおり、川を横切る帯のように架かる見事な橋が錦帯橋です。五径間からなり、中央の三径間が、世界でも珍しい木造のアーチ橋になっています。この錦帯橋はいまは岩国城の城門橋ですが、建設当時(1673年)は城は有りませんでした。歴史は1615年(元和元年)の家康の「一国一城令」にまでさかのぼります。この「令」によって岩国城は廃却されていたので、正確な意味での城門橋ではありません。この「令」より58年後、城をおけない岩国藩の「城」というシンボルの代わりに、この錦帯橋が架けられたのです。(後略)≫
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(錦帯橋の中央3径間のアーチ橋は勾配が急の為、部分的に階段状に作られていました)

地形図を見ると、錦帯橋の架かる錦川は岩国市を西から東へと流れていますが、かつて岩国城が建てられていた標高200メートル程の山が北側に突き出て地形と成っていた為、錦川はヘアピンカーブの如く大きく迂回して、山の西麓から北麓を巡り東麓に流れています。岩国城はこの錦川を城の三方を守る堀に見立て建てられてもの。廃城となった後も城山の東麓は吉川家代々の居住地となり、錦川の対岸となる「錦見地区」は城下町として開けています。

錦帯橋を渡ると「横山地区」です、かつて藩主や上級武士が住んでいたところで、今も立派な長屋門などが残っています。川沿いの道を歩いていると、銅像やら胸像、石碑などが並んで建てられていますが、その後方に気になる像が目に留まりました。
佐々木小次郎の像.jpg説明碑.jpg

「剣豪佐々木小次郎の像」です。横に据えられた石碑に説明文が記されています。
≪「先祖以来、岩国の住、姓は佐々木とうう、名は小次郎と親からもらい、また剣名を”巖流”ともよぶ人間は、かくゆう私であるが・・・・・」 吉川英治氏の小説「宮本武蔵」の一説である。 当地では、古くから佐々木小次郎が、ここ錦帯橋畔において、柳の枝が燕を打つのを見て、燕返しの剣法「巖流」を自得したと言伝えられている。≫と。そして又その横に、「岩国城」と題した歌の歌碑がたっています。歌詞がこの地を端的に表していると思いました。

岩国城歌碑.jpg
(佐々木小次郎の像の脇に建つ「岩国城」の歌碑)

そこから「吉香公園」周辺をぶらりと歩いていると、園内には多くの石碑が建てられています。
一番目立ったのが、錦帯橋から50メートル程の、公園入口に長裃姿に大刀を差し、右手に扇子を持ち錦帯橋の方向をジッと見つめる「吉川広嘉公像」です。
吉川広喜公像.jpg錦帯橋記全景.jpg
(「吉川広嘉公像」 左後方に写る石碑が「錦帯橋記」です)(「錦帯橋記」と篆額に有る石碑)

台座の裏側に銅像の人物に付いて説明されてます。冒頭部分だけ紹介します。
≪錦帯橋の創建者吉川広嘉公は旧岩国藩主三代目の領主で1621年第二代藩主広正公の長男として生まれた その天性の聡明さは岩国城を築き岩国の町を開いた藩祖広家公譲りのようである。(後略)≫

その銅像の左後方に見える玉垣をめぐらした石碑が「錦帯橋記」、弘化2年3月(1845年4月)岩国藩士の儒学者「玉乃九華」(名を惇成という)が撰した文を、明治8年9月明治前期の書家「桂洲伊藤信平」が碑文と篆額を書いています。
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(「錦帯橋記」の篆額の文字と碑文を書き写しました)

江戸時代の儒学者が記した文書で、私には読み解く事が出来ませんが、一字一字漢字を拾って読んで行くと何となく内容が分かってきます。しかし読み下し文を書く力は有りません。

園内に建つ他の石碑も見てみます。
さくらの名所100選の碑.jpg日中友好の碑.jpg
(さくら名所100選の地「吉香公園・錦帯橋」)  (「日中友好の架け橋-錦帯橋」の碑)

さくらの名所らしく、吉香公園も錦帯橋の右岸堤も沢山の桜の木、さぞかし桜の咲く時期は見ごたえのある錦帯橋が見られるのだろう、出来ればもう一度桜の咲くころに訪れて見たいものです。
「日中友好の架け橋-錦帯橋」の碑は、中国語・英語・日本語の三ヶ国語で記されています。
日本文を見ると、2004年11月6日、岩国市と杭州市の交流促進のために錦帯橋友好協定が締結された事。なぜ杭州市なのか、それが1673年に創建された錦帯橋の架橋に、杭州市出身の高僧であり医師でもあった独立(どくりゅう)の存在が有っと伝えられている事などが記されています。

今回、残念ながら日本の代表的な名所として、「山は富士、滝は那智、橋は錦帯」と、並び賞される、その橋の優雅さを見る事は叶いませんでしたが、メンティナンス中の時期に来たことで、錦帯橋に対する岩国市民の、錦帯橋に対する強い愛情を知る事が出来た気がします。





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長崎眼鏡橋と諫早眼鏡橋 [橋梁]

私の蔵書の中に「眼鏡橋 -日本と西洋の古橋-」と言うタイトルの1冊の本が有ります。
工学博士太田静六著で、昭和55年10月20日初版発行です。
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その頃私は、栃木市内の河川に架けられた橋の写真を、探し回っては撮影して歩いていましたので、書店でこの本を見付け、ページをめくってみて、そこに多くの石橋の写真が掲載されていたので、早速購入したものです。
そこにはヨーロッパの今から2000年以前に建設された多くの石造りのアーチ橋・水道橋の写真などと共に、日本の九州地方に分布する石造りアーチ橋の写真が多数掲載されていました。
石造りのアーチ橋は栃木市内では、私の知っている限りでは、錦着山東南麓に架かる「八雲橋」ただ一ヶ所です。大正5年6月に石工の大塚藤吉さんに依って完成されたもので、どのような経緯で石造りのアーチ橋の形を採ったのか興味が有ります。
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(錦着山南東麓、風野堀に架かる石造りアーチ橋) (要石に陽刻された「八雲橋」の文字)

抑々、日本における石造りアーチ橋の分布は、そのほとんどが九州地方に偏っていると云います。上記の本に依ると造られた年代が分かっている中で一番古いと云われるのが、長崎市の中島川に架かる、あの有名な眼鏡橋で、寛永11年(1634)に長崎の唐寺・興福寺2代目住職黙子如定(もくすにょじょう)が架けたとされています。その後、明治の末までに架橋された石造りアーチ橋の数は、一番多いのは熊本県で150橋前後。次は鹿児島県ですがその数は熊本の半分以下の70橋位。三番目が大分県の50橋で、四番目が長崎県の約35橋であると書かれています。
私はこの「眼鏡橋」の本を入手してから、一度は長崎を訪れて実際に長崎眼鏡橋を見てみたいと思っていましたが今回、正月休みを利用してやっと見て来る事が出来ました。
現在の長崎眼鏡橋は、上記の本が発行された昭和55年の2年後、昭和27年(1982)の7月に発生した長崎大水害で半壊した為、翌年の10月に修復されたものです。
 <長崎眼鏡橋のデータ>
   ・橋の長さ:22m、橋の幅:3.65m、川面までの高さ:5.46m、
   ・2つの半円を描く石造り2連アーチ橋
   ・昭和35年(1960)、国の重要文化財に指定される。
 
私が実際に橋の上に立ったのは1月3日の午後3時30分、幸いに空は真っ青に晴れ渡り、風も無く最高の観光日和に成っていました。
長崎眼鏡橋の撮影ポイントは、下流側に架かる「袋町橋」の上からと、眼鏡橋と袋町橋の中間点の川の中に設けられた飛び石からの2ヶ所、二連アーチ橋が川面に映った姿が、まさに眼鏡の形を見せてくれています。
この日も多くの観光客がこの姿を写真に収めて居りました。
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(下流側「袋町橋」の上から撮影した「長崎眼鏡橋」) (左岸下流側親柱に「眼鏡橋」の文字)

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(下流側の川中に渡された飛び石上から撮影) (左岸上流側に建てられた「黙子如定の像」)

前出の「眼鏡橋」の本によると、≪中島川には橋が多く、かつ江戸時代には固有名詞がなく、呼ぶのに不便であったので、「長崎図誌」の著者が、上流の阿弥陀橋を第一橋として、順次下流の橋に番号をつけたという。例えば眼鏡橋は第十橋といった具合である。 (中略) なお現在の橋銘は地元の研究家、宮田安氏の説によると、明治15年頃に、当時の漢詩人、西道仙がつけたものが大部分だという。≫ 
第一橋から紹介すると、①阿弥陀橋、②高麗橋、③大井手橋、④編笠橋、⑤古町橋、⑥一覧橋、⑦芊原橋、⑧東新橋、⑨魚市橋、⑩眼鏡橋、⑪袋町橋、と成っています。

昭和57年(1982)に発生した長崎大水害により6つの石橋が全壊、眼鏡橋と袋町橋は半壊しています。半壊の2橋はその後復原修復され、その他の石橋は架け替えが行われました。
残念ながら今回私は、上記の全ての橋を見て来る事は出来ませんでしたが、機会が有ればまた訪問したいと思っています。
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(東新橋の橋上より上流方向を写す。手前の車が通行するのが「芊原橋」その奥が「一覧橋」)

翌日は、諫早眼鏡橋を見る為長崎市を後にしました。諫早市は長崎市の東隣りに位置しており、長崎自動車道を利用すると諫早眼鏡橋の有る諫早公園に、40分程で到着しました。
諫早眼鏡橋は、石造りアーチ橋の中では、一番早く国の重要文化財に指定されたものです。
昭和33年11月の指定は、長崎眼鏡橋の指定(昭和35年2月)より1年3ヶ月早いものでした。
<諫早眼鏡橋のデータ>
   ・橋の長さ:49.25m、橋の幅:5.5m、アーチ頂上の下面から常水面まで5.4m
   ・半円よりは小さな欠円の石造り2連アーチ橋
   ・一つのアーチスパンは17.35m、アーチ面を形成する円の半径は9.7m
   ・天保9年(1839)の架橋
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(諫早公園内の池に移設された諫早眼鏡橋)

この眼鏡橋は、元は直ぐ北側を流れる本明川の450m程下流側に架けられていたものです。
前出の「眼鏡橋」の本によると、≪本明川は昔から氾濫の歴史を繰り返してきた。(中略) 昭和32年7月25日から26日にかけて襲来した未曽有の集中豪雨による大氾濫の結果、全市が水没して死者行方不明者数十人を出すという諫早史上、最大の惨事をひきおこした。(中略) この時に起こった本明川の氾濫が如何に凄まじいものであったかは言語に絶する程で、本明川に架けられていた昭和の現代橋はみな流失した。その中で、ただ一つ石造眼鏡橋だけが頑として動かず、そのため上流から流下してきた流木その他が眼鏡橋に塞止められてダム状になり、このダム状に溜まった濁水が、堤防を破って市街に奔流したため被害を一層大きくする結果と成った。≫
その昔、洪水のたびに橋が流出しては、不便を感じていた為、頑丈な石橋を架けたのだが、橋が壊れなかった事で、堤防の方が壊れたのだと、何とも言えない現実でした。その結果、この眼鏡橋を爆破して壊してしまえと云う市民の声が湧きあがり、それもやむなしと云う状況に成りました、一方当時の市長さんや有識者達に依る文化財保護運動とも相まって、眼鏡橋を解体して他の場所に移建する事となって現在の場所に設置されたと、その経緯が記されています。

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(諫早眼鏡橋の五分の一の縮尺で精巧に作られた、本物そっくりのミニ眼鏡橋)
上の写真は、諫早公園の一角で見つけた、諫早眼鏡橋の精巧な五分の一縮尺で造られた模型だそうです。実際の眼鏡橋を諫早公園に移築復元する為に、橋の組立て方や強度など技術的なデータを収集する目的で造られたものと、脇に建てられた「眼鏡橋模型建設記念碑」にその経緯が記されていました。

眼鏡橋見学の後、商店街に設置されている眼鏡橋をデザインしたマンホール蓋の撮影と、そのマンホール蓋の図柄を採用したマンホールカードを貰って、長崎県を後にしました。
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(諫早市のデザインマンホール蓋)         (諫早市が配布しているマンホールカード)
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栃木県都市計画道路、小山栃木都賀線 平柳町工区開通式が執り行われる [橋梁]

今日12月17日、栃木県都市計画道路3・3・3号線(小山栃木都賀線)の内、栃木市平柳町の工事区間の片側2車線が完成、開通式が午前中に執り行われました。
都市計画道路小山栃木都賀線は、小山駅前の国道4号線から栃木市の東部を縦断して北関東自動車道の都賀インターチェンジを結ぶ、延長約16キロメートルの広域的バイパス道路です。
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(式典会場に掲示されていた、平柳町工区の「位置図」)
今回開通式が行われた平柳町工区とは、主要地方道宇都宮栃木線の栃木環状線と市街地に入る旧道との分岐する五差路部分から、北方向に進み跨線橋と成って東武宇都宮線を跨ぎ、すでに北側から市道01028号線まで伸びて来ている合戦場工区の道路につながる1,300メートルの区間に成ります。
将来的には4車線道路として計画されていますが、今回は2車線での開通と成っています。
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(式典会場に掲示されていた説明資料の内、「代表断面図」)
私も式典が始まる10時20分に合わせて会場に向かいました。式典会場となるのは東武宇都宮線北側、大宮町と都賀町合戦場との境界付近です。すでに式典会場は多くのテントが張られ、沢山の人が集まって来ていました。
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(式典会場に建てられた開通式典ゲート)
天候に恵まれた式典会場ではすべてが整い、通り初め式が始まるのを待っています。
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(通り初め式の開始を待つ真新しい道路)
花火の合図とともに「開通式典」が始まり、最初に栃木県の福田知事より式辞、その後工事関係者や来賓の方々から事業経過報告や祝辞が寄せられました。その後地元の東陽中学校ブラスバンド部の演奏が行われ、式典を盛り上げました。
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(東陽中学校ブラスバンド部の演奏を聴く多くの観衆)
開通式典に続き、通り初め式が始まりました。
最初は、新しく開通する道路の交通安全を祈願して、道路に記された「祈交通安全」の文字を代表の方達がお清めのお酒にてなぞりました。
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(路面に記した「祈交通安全」5文字をお酒を以てなぞり、交通安全を祈願する)
続いて、栃木県知事や来賓者によってテープカットが行われました。
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(代表者によるテープカット)
次は「くす玉開披」、代表者の他会場に来られた人達も一緒になってくす玉の紐を曳きました。
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(大勢の参加者が一緒になって「くす玉開披」)(開通を祝う垂れ幕がくす玉の中から)
そして最後は栃木県警パトカーの先導にて来賓を載せた車両が、新しい道路の通り初めを行い式典が終了いたしました。
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(先導の栃木県警パトカーに続いて来賓を載せた車両が、通り初めを行う)

一般車両の通行は、午後3時以降という事で、さっそく夕方私も通り初めを行ってきました。
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(東武日光線を越えて北側に下りる。夕陽を反射している建物は、合戦場小学校に成ります)
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(戻って来て南側に下りる。前方の広い交差点は「平柳町東口交差点」に成ります)

平柳町東口交差点より南側「大宮工区」はまだ工事が進んでおりません。式典の来賓挨拶の中からも、計画道路の全線が一日も早く開通出来る様願う言葉が述べられていました。
この道路が全線開通をすれば、栃木市街地中央の大通りの渋滞も大幅に改善をされるものと期待されます。

栃木県道15号線で足尾の町へ、 土木遺産の鍵金橋 [橋梁]

私の住む栃木市から日光市足尾町へのルートは3通り有ります。例幣使街道を北上して、日光の市街地を抜け、細尾町から日足トンネルを抜けて、足尾町に入る「北ルート」。国道50号線を西に進み、群馬県みどり市から北上、渡良瀬川右岸(西側)に沿った道を走り、足尾町に入る「南ルート」。そしてもう一つは、星野町から鹿沼市下永野に入り、大越路トンネルを抜け鹿沼市下粕尾へ。そこから中粕尾・上粕尾を抜け、粕尾峠を越えて足尾町に入る「東ルート」に成ります。
グーグルマップのルート検索を使って、この3つのルートの距離を測定してみると、北ルート70.8km(所要時間1時間46分)、南ルート92.4km(所要時間2時間7分)、そして東ルートが54.0km(所要時間1時間26分)となりました。ただこれは全て一般道路利用と言う条件に成ります。高速道路を利用する事で、北ルートは東北道と日光道を走ると、距離は81.0kmと長くなりますが所要時間は1時間13分と、一番短時間で行く事が出来る様です。南ルートは北関東道を利用しても時間は1時間50分必要となりました。
当初、私の足尾へのルートは、殆んど北ルートでした。最短ルートとなる東ルートは、粕尾の峠越えの道が細く曲がりくねっていて、運転があまり得意では無い私にとっては、とても危険なルートと考えていたからです。それが道路の拡張工事により最近相当改善されて来た為、東ルートを利用する事が多くなってきました。
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(1985年5月、中粕尾森付近の道路脇を流れる思川)
現在も粕尾峠周辺道路はヘアピンカーブが連続し、突然カーブの先から対向車が現れて、急ブレーキを踏むことも時に有ります。又、冬の峠越えは残雪等で路面凍結で、スタッドレスタイヤでも不安です。
私がこの東ルートを利用して足尾に出かけるのは、5月初めの新緑の頃が殆んどですが、以前2002年2月に一度この粕尾峠を越えました。道路の両側に雪が寄せられていて、道幅も一層狭くなって場所によって路面凍結も見られました。スピードを抑えて安全運転で何とか足尾町にたどり着くことが出来ました。
幸いその日は天候にも恵まれ、粕尾峠から足尾町へ下る途中で日光連山の雪景色を近くに見る事が出来ました。
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(2002年2月、粕尾峠から足尾町側に下る途中、日光連山が現れました)
昨年は5月1日と5月5日に、新緑がまぶしい山道を走って来ました。
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(2015年5月1日、カーブ57に差し掛かる付近)

鹿沼側の道は思川を遡る様に、下粕尾・中粕尾・上粕尾の集落を抜け、山の神ドライブインを過ぎると道路は急カーブの連続する山道へと変わります。カーブの番号を記す標識を確認すると、粕尾峠手前で№38の表示が有りました。
丁度粕尾峠の所で、右に折れて横根山や古峯神社方面に行く県道38号線の入口が現れます。峠にて鹿沼市と日光市の境界、道路左手に石碑が建っています。石碑の隣りに説明板も建てられていました。
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(粕尾峠に建つ、酒井善太郎の句碑)
そこには「酒井善太郎の句碑」と記されています。酒井善太郎氏は、当時足尾町議会議長として、粕尾峠の自動車道(昭和28年完成)化に尽力したと説明されています。

粕尾峠(標高約1,100m)を超えると日光市(旧足尾町)の下り坂がうねうねと続きます。
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(県道15号線、粕尾峠、ここで鹿沼市から日光市に入る)

59番目のヘアピンカーブを過ぎると、道路は一直線に下って行きます。道路の左手に沢水が流れています。新緑に誘われ道路脇に車を停め沢の岩場まで降りると、全身にマイナスイオンが降り注いでくる感じを受けます。この沢は流れ下ると「内ノ籠川」と成り、渡良瀬川へと流れて行きます。
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(県道15号線の脇を流れる内ノ籠川の上流部)(2015年5月5日撮影)

途中、内ノ籠の集落を過ぎた所、内ノ籠川を渡る場所に、「鍵金橋」と言う古い橋が有りました。平成2年(1990)上流側に新道が出来て新しい「鍵金橋」が造られ、旧道は通行止めとなって古い橋は渡ることが出来ません。
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(1987年4月撮影の土木遺産「鍵金橋」) (1994年5月撮影、新しい鍵金橋)
この旧道に架かる「鍵金橋」は栃木県の近代土木遺産と成っています。架橋されたのは昭和17年(1942)、橋長25.9m、幅員4.5mの鉄筋コンクリートアーチ橋です。
現在、この古い鍵金橋は人目にも触れず、草木に埋もれる様に、その姿を留めています。
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(2015年5月5日撮影、旧鍵金橋の親柱)(草木に覆われる土木遺産の鍵金橋)

車はそのまま内ノ籠川に沿って坂を下り、足尾の市街地へと入り足尾バイパス道(国道122号線)に合流、内ノ籠川も同じく国道の下を流れて、その先で渡良瀬川に合流します。
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(2016年10月撮影内ノ籠川、この先で渡良瀬川に合流します)









那須高原大橋を渡る [橋梁]

先日、那須方面をドライブしました。JR黒磯駅の西側を走る県道303号線(この道路は元国道4号線でしたが、黒磯バイパスが開通後に県道と成っています。)を北上、那珂川に架かる現代の名橋百選に選ばれた、晩翠橋を渡り、那須分岐点交差点にて左折、県道17号線(那須街道)に入りました。
ところがここで早速渋滞の列に巻き込まれました。ルート選択失敗です。仕方なくノロノロ状態のまま、道の駅那須高原友愛の森で休憩、途中街道沿いのレストランはどこも行列が出来ていました。
この先も渋滞が続きそうなので、その先の交差点で県道17号線に別れを告げて、左折して県道30号線を選択。
渋滞から抜けて少し走ると、突然前方の視界が大きく開けて来ました。道は下り勾配、なだらかな曲線を描いて左にカーブして来ます。左手前方下に赤く染められたアーチ橋の下部が視界に入ります。その後すぐ車はアーチ橋の上に差し掛かると、一直線に那須高原を下る感じで、スピードが増していきます。
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アーチ橋の下を流れるのは那珂川、先ほど渡った晩翠橋の上流部に架かるこの橋は「那須高原大橋」になります。那須塩原市と那須町とを結ぶ橋です。
橋を渡った橋詰に設けられている「西岩崎ポケットパーク」に車を停車させて、橋の上からの景観を眺める事にしました。
ポケットパークには、現在地の標高439mを記した石や、この「那須高原大橋」の建設に携わった人達の名前を記した記念碑が建てられています。
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記念碑には、「ここに記す技術者は、多くの人々と共に自信と誇りをもって、本橋を完成させた方々です」として、160名の氏名と、「1994年11月竣工」の日付とが刻されています。

橋の上から上流側を眺めると、はるか眼下に那珂川が、川底の岩に当たり白い波をたてて流れています。その那珂川に架かるもう一つの橋が確認出来たので、そちらに向かうことで逆にこの「那須高原大橋」を下方から眺められそなので、そちらに車を走らせました。
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上から見えていた橋は「恒明橋」と言い、平成6年(1994)に那須高原大橋が開通する前は、こちらの橋を渡っていた様です。
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こちらの旧道からは田圃越しに「那須高原大橋」の赤いアーチ橋を一望する事が出来ました。
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帰宅後確認をすると、那須高原大橋の高さは42メートル、アーチ部の長さは265メートル、車道幅7メートルで両側に2.25メートルの歩道が設けられています。この橋付近の那珂川は、幾度も左右に大きく蛇行して流れていますが、上流に架かる恒明橋から那須高原大橋の下の流れは、ほぼ西から東に向かって流れています。川の左岸の標高が高く約460メートル、右岸の標高は低く約440メートルと成っています。その為その両岸を結ぶ那須高原大橋は、20メートルの標高差が有る為、大きな勾配が出てしまう訳です。
この大きなアーチ橋のお蔭で、42メートルの谷を上り下りすることなく、360度広がる眺望の中を走る事が出来る様になったのです。(晴れた日には那須連山が一望できると紹介されています。)


塩谷町の西荒川に架かる「落合橋」 [橋梁]

昨日は、あても無く車を走らせていました。不安定な天気で途中で急に激しい雨の中を走ったかと思うと、青空の下を走る所も。宇都宮環状道路から田原街道を北上して、県道63号線を更に北に向かいました。走って行くと前方に水色に塗られたアーチ橋が見えてきます。橋好きとしては、ここは素通り出来ません。橋詰の駐車スペースに車を停めて周辺を散策しました。
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橋の親柱に大きな自然石を置き、「落合橋」、「西荒川」の文字を彫り込んでいます。この橋は平成11年(1999)10月に架け替えが完成しました。大きなアーチからのワイヤーにより橋桁を吊っています。ローゼ橋(補剛アーチ橋)と言う種類の橋になるのでしょうか。
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橋の名称「落合橋」と言うのは、この橋の直ぐ下流部にて、西から橋の下を流れて来た「西荒川」が、北側から流れて来た「東荒川」に合流する、「西荒川」と「東荒川」とが落ち合う場所に架けられている事から、名付けられたものと考えられます。
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(落合橋の北東側橋詰より下流側を。左下側から東荒川、右下側から西荒川)
このような例は、栃木市を流れ下った永野川が、小山市中里付近にて巴波川に合流する場所に架かる「落合橋」や、同じく栃木市出流町にて北の端「片角」から、出流ふれあいの森の中を流れ下りた、出流川(片角川)の右岸(西側)に、出流山満願寺の境内から流れて来た「観音入り沢」の水が落ちる、丁度落ち口に架けられた「落合橋」にも見る事が出来ます。

合流点の下流部に架けられた橋の所まで行って見ると、「落合橋」と同様に大きな自然石の親柱には、「熊ノ木橋」「荒川」の文字が彫られています。「西」と「東」の荒川が合わさって、この橋の下を流れる時には、「荒川」と名前を変えていました。
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熊ノ木橋の道を少し東に歩いて行くと、田圃の畦に”星ふる学校「くまの木」”と手書きされた案内の柱が建てられています。後方に校舎らしき建物が見えます、興味が有ったので行って見ました。入口の石の門柱に「栃木県塩谷郡塩谷町立熊ノ木小学校」の表示が付いています。
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小学校は平成11年(1999)3月に廃校となり、現在は本格的な天体ドームで星空観察体験等も出来る、宿泊型体験学習施設に生まれ変わっているそうです。
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一度宿泊して、この山の中で真っ暗な空に輝く数えきれない星の光を、ジックリと見てみたいと思いました。
施設周辺の田んぼも緑から黄色く変わろうとしています。田圃に刺さっている棒の先端にトンボがとまっていました。もうすぐ収穫の秋になります。
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