巴波川日記
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栃木市の自然や行事等これまで撮りまとめた写真と共に紹介致します。
一味
2024-03-11T15:02:07+09:00
ja
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北陸のマンホールカードを求めて富山県へ③
https://sayama64.blog.ss-blog.jp/2024-03-11
富山県のマンホールカード収集の旅も、最終日に成ります。昨日までの2日間で収集したカードは、8枚です。現在富山県下で配布されているカードは、15枚ですから、今回全部は収集できません。せめて富山市の7枚はゲットしたいので、残る3枚を集めて帰路に着きたい。収集のコツで最初は遠方からと言う事で、まず越中八尾駅へ向かう。ホテルをチェックアウトして、富山駅へ、今のところ曇の天候。駅のコインロッカーに旅行カバンを預けて、高山本線の列車に乗る。平日の為車両は高校生が多く、混雑している。越中八尾駅に到着したのは、8時頃でした。ここのカード配布場所は「越中八尾観光会館」。配布開始は9時からと言う事で、駅から目的地まで街の中を散策していきます。八尾町は、毎年9月1日から3日にかけて行われる、「おわら風の盆」が有名で、私も一度来てみたいと考えている所です。駅の待合室に、大きな観光ポスターが何枚も掲示されていました。富山市八尾町は、富山市の南の端に位置し、南隣の岐阜県と県境を成しています。八尾町は街の中央部を貫流する「井田川」の川に沿って開けた町の様で、国土地理院の地形図を見ると、東西と南の三方を山に囲まれ、唯一北側だけが開けた所で、「井田川」は富山市の中心部「富山城址公園」の西方辺りで、同じように富山県中央部を南から北に貫流して、富山湾に注ぐ「神通川」の左岸に合流する神通川の支流です。駅の待合室に置いてあった、「坂のまち八尾散策マップ」が頼りです。駅前の通りを左方向に進んでいくと、早速「井田川」に架かる「坂のまち大橋」に出ました。橋の名前も「坂のまち」を冠に付けています。橋の形状は「斜張橋」で、親柱には編笠を被って、「おわら」を踊る女性の姿が彫られています。親柱のデザインもどのようなモチーフで出来たものか興味が湧いてきます。橋桁に取り付けられた橋の銘板を見ると、「2007年6月」と有り、比較的新しく架けられた橋の様です。この橋の上からが、上流側を眺めるビューポイントと先ほどの散策マップに記されています。見ると、井田川の右岸の街並みの後方には標高200から300メートルの山並みが連なり、山と川とに挟まれた高台に、街が開けている様子が伺えます。橋の直ぐ上流部右岸(左端)に合流する川が有ります。「久婦須川」で、架かる橋は「新久婦須橋」、その奥(写真中央)にも同じく右岸に合流する川が見えます。「別荘川」です。見える橋は「天満橋」です。その先の井..
コレクション
一味
2024-03-11T15:02:07+09:00
昨日までの2日間で収集したカードは、8枚です。現在富山県下で配布されているカードは、15枚ですから、今回全部は収集できません。せめて富山市の7枚はゲットしたいので、残る3枚を集めて帰路に着きたい。
収集のコツで最初は遠方からと言う事で、まず越中八尾駅へ向かう。ホテルをチェックアウトして、富山駅へ、今のところ曇の天候。駅のコインロッカーに旅行カバンを預けて、高山本線の列車に乗る。
平日の為車両は高校生が多く、混雑している。
越中八尾駅に到着したのは、8時頃でした。ここのカード配布場所は「越中八尾観光会館」。配布開始は9時からと言う事で、駅から目的地まで街の中を散策していきます。
八尾町は、毎年9月1日から3日にかけて行われる、「おわら風の盆」が有名で、私も一度来てみたいと考えている所です。駅の待合室に、大きな観光ポスターが何枚も掲示されていました。
富山市八尾町は、富山市の南の端に位置し、南隣の岐阜県と県境を成しています。八尾町は街の中央部を貫流する「井田川」の川に沿って開けた町の様で、国土地理院の地形図を見ると、東西と南の三方を山に囲まれ、唯一北側だけが開けた所で、「井田川」は富山市の中心部「富山城址公園」の西方辺りで、同じように富山県中央部を南から北に貫流して、富山湾に注ぐ「神通川」の左岸に合流する神通川の支流です。
駅の待合室に置いてあった、「坂のまち八尾散策マップ」が頼りです。
駅前の通りを左方向に進んでいくと、早速「井田川」に架かる「坂のまち大橋」に出ました。
橋の名前も「坂のまち」を冠に付けています。橋の形状は「斜張橋」で、親柱には編笠を被って、「おわら」を踊る女性の姿が彫られています。親柱のデザインもどのようなモチーフで出来たものか興味が湧いてきます。橋桁に取り付けられた橋の銘板を見ると、「2007年6月」と有り、比較的新しく架けられた橋の様です。
この橋の上からが、上流側を眺めるビューポイントと先ほどの散策マップに記されています。
見ると、井田川の右岸の街並みの後方には標高200から300メートルの山並みが連なり、山と川とに挟まれた高台に、街が開けている様子が伺えます。
橋の直ぐ上流部右岸(左端)に合流する川が有ります。「久婦須川」で、架かる橋は「新久婦須橋」、その奥(写真中央)にも同じく右岸に合流する川が見えます。「別荘川」です。見える橋は「天満橋」です。その先の井田川に架かる橋が「十三石橋」です。橋好きの私にとっては、とても魅力的な場所です。
が、のんびり見ていたら、雨が降ってきてしまいました。
井田川を渡って、「久婦須川」に架かる「新久婦須橋」とその上流に架かる「久婦須橋」を写真に収め、更にその先の「別荘川」に架かっている「天満橋」へ。
久婦須橋の高欄には、おわらの踊り子の装飾が施されています。
「天満橋」の上から別荘川上流側を望むと、二つのコンクリートアーチを持った橋が架かっているのが見えます。「眼鏡橋」という橋名が付けられています。橋の袂に回り込んでいきます。
(井田川右岸に沿った、「十三石橋」の橋詰めから「坂のまち大橋」の橋詰間の道路は平成時代に新しく通った道路で、以前は「眼鏡橋」から「久婦須橋」を通るルートを通っていた様です。「天満橋」の竣工は2010年3月と記されています。ちなみに橋名の「天満橋」は、近くに鎮座している「天満宮」からと思われます。)
天満宮に参拝をして、眼鏡橋の袂に。
この眼鏡橋は、ウィキペディアにて検索すると、<1893年(明治26年)に、富山県最初の永久橋として単径間の無筋コンクリート橋として架橋された。1914年(大正3年)8月13日、台風に伴う豪雨で発生した洪水により下部工のコンクリートアーチを残し流失。その後1916年(大正5年)に明治の橋の遺残物を利用しつつ、右岸側に1径間延長し2径間コンクリートアーチ橋となる。1954年(昭和29年)には下流側に単径間の鋼板桁を架設して3m拡幅された。>複合橋だと分かりました。
橋詰のバス停には、おわらを踊る男女の姿が描かれています。八尾町では、ここかしこに「おわら」が描かれています。まさに「おわら」一色の街並みの様です。それではいよいよ、その八尾地区の中心部に足を踏み入れたいと思います。
確かに八尾は坂のまちです。それでもそれほど苦になるほどの坂では無いので、息も上がらない。
しばらく歩いて行くと、道路左手の石段の上に、鐘楼と大きな伽藍の寺院が現れる。
「聞名寺」は浄土真宗本願寺派の寺院。その歴史をお寺のホームページに求めると、<聞名寺がはじめて越中に入ったのは応仁二年(1468)、本格的に拠点を移したのは大永四年(1524)であったと伝えます。八尾南部の山間地(乗峰や倉ヶ谷など)を経て、福島の台地に一旦寺域を構えましたが、越後上杉勢の来襲に備え、天文二十年(1551)、三方を崖に囲まれた旧い砦の址、「八尾前山」(現在地)に移りました。その後寛永十三年(1636)境内に八尾町建てがなされ、当寺は町そのものの母胎として今日に至っています。>と、記されています。
聞名寺の境内に建てられた「風の盆」の碑。
境内には枝垂れ桜もあり、花を咲かせた頃を思い描くと、またその時期にも訪れたくもなります。
通り沿いに「おわら資料館」の看板が現れました。中に入ると正面に等身大のパネルが、男女のおわらの踊り手とバックに、風の盆の行燈が道の両側に灯る石畳の道。
受付のスタッフさんに案内されて、最初の映像展示室へ。約10分間の「おわら」の映像を大画面で堪能できます。それから資料展示室へ回り、数多くの歴史的な写真や資料などを見て廻りました。
「おわら風の盆」の事を少しかじって、資料館を後に八尾町の通りを散策します。石畳の諏訪本町通りに差し掛かると、八尾町は確かに「坂のまち」であることを、実感する風景がそこに有りました。
街並みに気を取られて、ここまで歩いて来ましたが、時計はすでに10時を過ぎています。もう雨降る中を2時間もうろうろしていました。少し急いで目的地の「越中八尾観光会館」へ向かうことにします。
「越中八尾観光会館」には、毎年5月3日に開催される「曳山祭」に曳き出される豪華絢爛な曳山を、3基展示する「曳山展示館」が併設されて、栃木市の人形山車を展示している山車会館同様、背の高い曳山を収納展示する為、背の高い大扉が、建物を象徴しています。
開館前には、多くの石碑や銅像が建てられています。
医学博士「川崎順二」は、越中八尾おわら保存会初代会長となった人物で、顕彰碑の碑文「事績」冒頭を参照させて頂くと。
<大正十一年春、好者のみで伝えられてきた郷土民謡越中おわら節を永遠の文化として次代にのこさんがため、町内同志と諮りおわら研究会を結成、昭和四年に越中おわら保存会と発展的改称をなし、以来三十余年に富山県民謡おわら保存会と改称するもその会長として中心的役割を医師という多忙な日を割き、あるときは私財を投じて尽力してきた。・・・・(後略)>
そんな超有名となった「越中八尾おわら風の盆」だけでなく、八尾の町には、豪華絢爛な6基の曳山が有ることを、PRする会館の中を見学します。
入口の受付にて、本日一枚目のマンホールカードを受け取り、まずは映像で曳山祭りの情報を、映像を見て楽しく理解することが出来ました。
続いて館内を見学、いろいろな情報を得ることが出来ました。
曳山は全体に彫刻が施され、動く陽明門の様に感じられます。
この曳山が、あの八尾の石畳の坂を進む姿、狭い路地を曲がる迫力を、是非実際に見てみたいと思いました。
帰りの列車の時間が心配になってきました。幸い帰りは下り坂です。
富山駅に戻り、残り2枚のカードも無事に入手出来ました。
今回、富山県を訪れて、多くの情報に触れて、是非又、富山県を訪れたいと感じました。
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北陸のマンホールカードを求めて富山県へ②
https://sayama64.blog.ss-blog.jp/2024-03-03
富山県二日目は、冷たい雨の朝となりました。時折白いものも混じっています。今日は、なるたけ外を歩かなくて済む、マンホールカード配布所を廻ることにします。傘をさして富山駅に向かう途中、駅南口前広場の一角で、越中富山の薬売りの像が、目に留まりました。椅子に座り、柳行李を開けて、顧客伝票を確認しているのか、傍に貰った紙風船を膨らまして遊ぶ少女が立つ。そしてもうひと組み、柳行李を背負い次の顧客の家へと向かう薬売りと、手を振って見送る子供の像。私の子供の頃の記憶にも残っています。置いていった紙風船を膨らまして、ポンポンと手のひらで突き上げて遊んだ事を思い出します。富山市内は、市内電車が有効な交通手段になるので、1日フリーきっぷを買うことにしました。富山市は、市内で7種類のマンホールカードを発行しています。これは最も多く発行している、岐阜県高山市の8種類に次いで、2番目に多い自治体で、愛知県岡崎市と同じ枚数です。次に多いところは5種類で、新潟県長岡市や村上市、大阪府の池田市、岡山県の倉敷市が続きます。一般に平日の場合は、市役所の下水道課窓口等での配布の場合は、朝8時30分の仕事始めから配布していますが。観光案内所や道の駅などの観光施設で配布するところでは、9時とか10時の配布開始が多くなっています。カード収集のコツとして、朝一は少し遠距離の配布場所を攻略するようにしています。ので今回もまず、少し離れた小矢部市の駅の観光案内所に向かいました。小矢部市のマンホールカードは2種類有りますが、1枚は富山駅から「あいの風とやま鉄道」で金沢方面の列車で「石動駅」で降り、駅構内に有る観光案内所で、雨に濡れることなく入手出来ます。もう1枚は、「石動駅」から歩いて往復1時間以上かかるので、今回は断念しました。10時からの配布開始に合わせて、10時18分着の列車で向かいました。天候は途中から雨から雪に変わってきました。2日目最初のマンホールカードを、石動駅の駅舎内「石動駅観光案内所」にて無事入手。すぐにホームに戻り富山方面に戻る列車の到着を待ちます。この駅で驚いたのは駅の名前の事です。「石動」の読み方です。私は普通に「いしどう」と呼んでいましたが、全く違っていたのです。ホームに建つ駅名表示は「いするぎ」と表示されています。「石動」と言う漢字からは、どうしても私には「いするぎ」と言う読み方は出てきません。手元の「広辞苑」や「漢字源」を調べても出てき..
コレクション
一味
2024-03-03T11:42:29+09:00
今日は、なるたけ外を歩かなくて済む、マンホールカード配布所を廻ることにします。
傘をさして富山駅に向かう途中、駅南口前広場の一角で、越中富山の薬売りの像が、目に留まりました。
椅子に座り、柳行李を開けて、顧客伝票を確認しているのか、傍に貰った紙風船を膨らまして遊ぶ少女が立つ。そしてもうひと組み、柳行李を背負い次の顧客の家へと向かう薬売りと、手を振って見送る子供の像。
私の子供の頃の記憶にも残っています。置いていった紙風船を膨らまして、ポンポンと手のひらで突き上げて遊んだ事を思い出します。
富山市内は、市内電車が有効な交通手段になるので、1日フリーきっぷを買うことにしました。
富山市は、市内で7種類のマンホールカードを発行しています。これは最も多く発行している、岐阜県高山市の8種類に次いで、2番目に多い自治体で、愛知県岡崎市と同じ枚数です。次に多いところは5種類で、新潟県長岡市や村上市、大阪府の池田市、岡山県の倉敷市が続きます。
一般に平日の場合は、市役所の下水道課窓口等での配布の場合は、朝8時30分の仕事始めから配布していますが。観光案内所や道の駅などの観光施設で配布するところでは、9時とか10時の配布開始が多くなっています。カード収集のコツとして、朝一は少し遠距離の配布場所を攻略するようにしています。ので今回もまず、少し離れた小矢部市の駅の観光案内所に向かいました。
小矢部市のマンホールカードは2種類有りますが、1枚は富山駅から「あいの風とやま鉄道」で金沢方面の列車で「石動駅」で降り、駅構内に有る観光案内所で、雨に濡れることなく入手出来ます。
もう1枚は、「石動駅」から歩いて往復1時間以上かかるので、今回は断念しました。
10時からの配布開始に合わせて、10時18分着の列車で向かいました。天候は途中から雨から雪に変わってきました。
2日目最初のマンホールカードを、石動駅の駅舎内「石動駅観光案内所」にて無事入手。
すぐにホームに戻り富山方面に戻る列車の到着を待ちます。この駅で驚いたのは駅の名前の事です。「石動」の読み方です。私は普通に「いしどう」と呼んでいましたが、全く違っていたのです。ホームに建つ駅名表示は「いするぎ」と表示されています。
「石動」と言う漢字からは、どうしても私には「いするぎ」と言う読み方は出てきません。手元の「広辞苑」や「漢字源」を調べても出てきません。日本語の地名や人名の難しさを改めて知らされました。
(雪の中の「石動駅」とホームに建つ「駅名表示板」)
富山駅に戻ると直ぐに、市内電車を利用して、富山市内で配布しているカードの収集を開始しました。
富山駅舎内の市内電車発着所には、次々と車両が入ってきては出ていきます。行先をよく確認して目的の電車を間違えないよう乗り込みます。
岩瀬浜行で終点の「岩瀬浜駅」で降り。近くの「岩瀬カナル会館」にて2枚目を受け取り、折り返し運転の為、待機している電車に飛び乗ります。
順調に回って、「富山市民プラザ」・「TOYAMAキラリ」・「富山市まちなか観光案内所」の各配布場所でカードをゲット出来ました。
「富山市ガラス美術館」では、常設展の見学をしました。
「TOYAMAキラリ」は富山市立図書館本館・富山市ガラス美術館・富山第一銀行本店が入る複合施設で、建物内部は斜めの大きな吹き抜けに、多くの木材が使われ、森の中にいるイメージ。設計は隈研吾建築都市設計事務所。
ガラス美術館6階の常設展示フロアーは写真撮影が出来たので、鮮やかな作品をカメラに収めました。4階に展示されていた作品の1点1点が、見事で感動モノでした。人間の創造力の素晴らしさを感じました。写真に撮れないので、脳裏に焼き付けてきました。
雨の中でしたが、富山城址公園の中も散策、「富山市郷土博物館」を見学しました。
昭和29年(1954)戦災復興事業の一環で建設された「富山城天守閣」。現在郷土博物館として、富山城の歴史を紹介しています。平成16年に国の登録文化財に成っています。「千歳御門」は富山藩十代藩主前田利保が隠居所として造営した千歳御殿の正面で、嘉永二年(1849)に建築されました。市指定文化財に成っています。富山城で唯一現存する創建当初の建造物に成ります。
擬宝珠を載せた朱塗りの橋は、城址公園内の池に架けられた「雲景橋」です。私が行ったときは先の震災に被災したためか、通行禁止に成っていました。そのほかあちらこちら被災した影響で、通行止めとなっている箇所が見られました。橋の近くに建つ銅像は、富山藩第二代藩主「前田正甫公像」です。昭和29年(1954)に建てられました。高さは台石部を含めて、約10mにもなります。
公園内には、山茶花や梅の花が咲いていました。
まだ、富山市内のカード3枚を残していますが、今日は時間切れで、ホテルの戻ります。
部屋に戻って、明日最終日の計画を練ることに。
今回の参考資料:
.・富山市ガラス美術館リーフレット
・富山市郷土博物館リーフレット
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北陸のマンホールカードを求めて富山県へ①
https://sayama64.blog.ss-blog.jp/2024-02-29
私のコレクションのひとつに、マンホールカードの収集が有りますが、今回は富山県に向かいました。合わせてその地域の観光も楽しみです。これまでに私が収集した、マンホールカードの枚数は、今回300枚を超えました。コレクションを始めたきっかけは、栃木県内で最初に発行された「足利市」のカード入手でした。足利市のカードの発行は早く、今から8年前、2016年4月に第一弾が発行されたその年8月、第二弾で配布が開始されています。私はそれ以前から、県内各自治体が設置している、ご当地マンホール蓋のデザインに興味を持ち、写真を撮り歩いていました。ですから、この「マンホールカード」の収集は、当然の様に興味を持ったのです。当初は栃木県内とその周辺、群馬県や茨城県・埼玉県の範囲でしたが、次第にその範囲を広げ、現在は北は北海道から南は九州鹿児島県までになりました。現在、全国的に発行されているその種類は、昨年12月に発行された第21弾のマンホールカードまでで、ついに1,000種類に達しています。つくば市や北九州市で発行している英語版を合わせると、1,004種類に成ります。ただ、すでに一部のマンホールカードは配布を終了しているカードもあります。それでもこの「マンホールカード」は、これからも新しいカードが続々と発行予定になっておりますから、全てを収集することは不可能に近いです。(北九州市が発行する英語版のカード3枚の内2枚)昨年、山形県の12種類を完全取得しました。群馬県も一度100%取得しましたが、すぐ新しいカードが発行され現在は19種類のうち2種類が未入手に成っています。(昨年収集した山形県酒田市と群馬県桐生市発行のマンホールカード)北陸地方は新潟県は36種類中20種類を収集していますが、その他の県(富山・石川・福井)については、これ)まで1枚も収集できていませんでした。昨年の夏に富山県への計画をしましたが頓挫して、今回改めて計画しました。能登半島地震の事もあり、躊躇するところも有りましたが、思い切って出かけました。北陸新幹線にて富山駅に、両毛線で高崎駅まで行き、そこで新幹線に乗り込みます。ただ、自由席ホームで待っていると、駅員さんが駆けずり回って「本日は大変混雑をしていて、全員乗り切れない可能性が有りますので、指定席車両等分散して乗車して下さい。」と叫んでいます。私は一番前で待っていたので、降りてくる人を待って列車に乗り込みましたが、空席が有りま..
コレクション
一味
2024-02-29T09:09:10+09:00
これまでに私が収集した、マンホールカードの枚数は、今回300枚を超えました。
コレクションを始めたきっかけは、栃木県内で最初に発行された「足利市」のカード入手でした。
足利市のカードの発行は早く、今から8年前、2016年4月に第一弾が発行されたその年8月、第二弾で配布が開始されています。
私はそれ以前から、県内各自治体が設置している、ご当地マンホール蓋のデザインに興味を持ち、写真を撮り歩いていました。ですから、この「マンホールカード」の収集は、当然の様に興味を持ったのです。
当初は栃木県内とその周辺、群馬県や茨城県・埼玉県の範囲でしたが、次第にその範囲を広げ、現在は北は北海道から南は九州鹿児島県までになりました。
現在、全国的に発行されているその種類は、昨年12月に発行された第21弾のマンホールカードまでで、ついに1,000種類に達しています。つくば市や北九州市で発行している英語版を合わせると、1,004種類に成ります。ただ、すでに一部のマンホールカードは配布を終了しているカードもあります。それでもこの「マンホールカード」は、これからも新しいカードが続々と発行予定になっておりますから、全てを収集することは不可能に近いです。
(北九州市が発行する英語版のカード3枚の内2枚)
昨年、山形県の12種類を完全取得しました。群馬県も一度100%取得しましたが、すぐ新しいカードが発行され現在は19種類のうち2種類が未入手に成っています。
(昨年収集した山形県酒田市と群馬県桐生市発行のマンホールカード)
北陸地方は新潟県は36種類中20種類を収集していますが、その他の県(富山・石川・福井)については、これ)まで1枚も収集できていませんでした。
昨年の夏に富山県への計画をしましたが頓挫して、今回改めて計画しました。
能登半島地震の事もあり、躊躇するところも有りましたが、思い切って出かけました。
北陸新幹線にて富山駅に、両毛線で高崎駅まで行き、そこで新幹線に乗り込みます。ただ、自由席ホームで待っていると、駅員さんが駆けずり回って「本日は大変混雑をしていて、全員乗り切れない可能性が有りますので、指定席車両等分散して乗車して下さい。」と叫んでいます。私は一番前で待っていたので、降りてくる人を待って列車に乗り込みましたが、空席が有りません。何とか三列席の真ん中に荷物を置いていた外国の方がいたので、声をかけて座ることが出来ました。富山駅到着後、荷物を駅のコインロッカーに、ところが意外やコインロッカーに空きが無い状態、運よく丁度一か所空いたので、身軽になって最初のマンホールカードを求めて、氷見市へ向かいました。
氷見市には富山駅から「あいの風とやま鉄道」で高岡駅へ、そこでJR氷見線に乗り換え、終点の氷見駅に。駅構内の観光案内所で配布している氷見市のマンホールカードを受け取りました。富山県最初の一枚です。
(富山県で最初に入手した、氷見市のマンホールカード)
カードにデザインされている魚は、氷見市の高級ブランド「ひみ寒ぶり」、カード裏面にはマンホール蓋にデザインされた図柄の解説が記されています。
早速、氷見駅で折り返し運転となる、乗ってきた車両に飛び乗り次の目的地、道の駅「雨晴」に向かうことに。私の住む栃木市を走るJR両毛線も同じようですが、富山県のローカル線も昼前後は、1時間に1本有るか無いかと言う状況です。移動するタイミングをよく考えないと、観光も上手く出来ません。
次の目的地「雨晴」では、次の列車が来るまでの間、1時間40分でカードを入手して、昼食を取り、周辺観光を楽しみました。
(雨晴駅のホームから高岡方面に向かう列車。大型客船のイメージの道の駅「雨晴」の建物。)
カードを配布している、道の駅「雨晴」は前を通る国道415号とJR氷見線の線路を挟んで、富山湾を望むことが出来ます。
(富山県で2枚目取得の「高岡市」のマンホールカード。)
図柄は、中央に「女岩」、右端に「義経岩」、後方に立山連峰が描かれています。
「雨晴」の読みは「あまはらし」ですが、最近もテレビのクイズ番組の「難読漢字」で出ていました。
ここ「雨晴海岸」は、能登半島国定公園に有り、天気が良い日には富山湾越しに、3,000メートル級の山々が連なる、立山連峰を望むことが出来る景勝地ですが、残念ながら私が行った日は曇っていてその景色を拝むことは出来ませんでした。それでも道の駅の展望席で「氷見うどん」を食べながら、目の前に広がる富山湾の景色を堪能できました。
(雨晴海岸の名勝地「女岩」、晴れた日には後方に立山連峰が見える。)
(道の駅2階展望フロアーには、移設された万葉歌碑と芭蕉翁の句碑が有りました。)
次の目的地は二駅先の「伏木」です。ここでは次の列車が来るまで1時間44分有りますから、カード配布場所「勝興寺」までの間の周辺観光も楽しみました。
(勝興寺の受付で受け取った、3枚目のカード)
図柄は、勝興寺本堂と、その周りに万葉集の編者「大伴家持」が歌に詠んだ「カタクリ」の花。
勝興寺は浄土真宗本願寺派、「雲龍山」と号し、本尊は阿弥陀如来。
平成十年(1998)に本堂の保存修理に着手、令和二年(2020)までの23年を掛けて、重要文化財12棟全ての保存修理を行っています。その後、「本堂」と「大広間及び式台」の2棟が国宝に指定されています。
総門を入ると、正面に城郭を思わせる望楼形式の「鼓堂」。左手受付の先に、京都興正寺から移築された、檜皮葺の「唐門」
(唐門と鼓堂)
濠に架かる石橋を渡り、唐門を抜けると、正面に国宝となった「本堂」の大伽藍が現れます。その右手奥には、同じく国宝の「大広間と式台」が有ります。
(本堂と大広間と式台)
<勝興寺の境内は、奈良時代の越中国庁跡と推定されるところで、万葉集を編纂した大伴家持が国守として5年間在任し、その間に詠まれた多くの和歌が今に残されています。>と、勝興寺で頂いたリーフレットに記されていました。
勝興寺総門の手前の参道脇に、総門を背に立つ「大伴家持卿」の像と、家持の歌碑が建てられています。
伏木の駅前から勝興寺総門まで、約300メートル。その中程に「高岡市伏木気象資料館」が有ります。この建物は「旧伏木測候所」で、庁舎は明治42年(1909)に建築されています。脇に建つ測風塔は昭和13年(1938)に建てられました。共に国の登録有形文化財です。
尚、敷地内には「越中國守館址」と刻まれた石碑も建てられています。碑陰には<天平勝宝二年(750)三月二日、越中国守大伴家持が館舎の朝の寝床ではるか射水川を漕ぎ歌う船人の声を聞いてよんだ歌。「朝床に 聞けば遥けし 射水川 朝漕ぎしつつ 唱ふ船人」>が刻まれています。(高岡市教育委員会の解説文を参照しました。)
本日予定の3枚のマンホールカードを無事入手して、今夜の宿泊地「富山」に戻りました。
宿泊したホテルには、おおぜいの外国人観光客の姿も有りました。
夕食後は近くの、「富岩運河環水公園」のイルミネーションを見に行ってきました。
今回、参考にした資料:
・公益財団法人勝興寺文化財保存・活用事業団発行リーフレット「甦った大伽藍 国宝勝興寺」
・高岡市教育委員会文化財保護活用課発行リーフレット「高岡市伏木気象資料館」
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北千住、氷川神社を巡る
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栃木市から北千住までは、東武特急を利用すれば、1時間で行けます。(北千住駅と昨年6月に訪宿した際に入手した、「千住宿」の日光街道御宿場印)この北千住の駅で降りて、日光道中最初の宿場町「千住宿」の街巡りをしました。千住宿は、寛永2年(1625)に江戸幕府によって整備されました。その時の千住宿は、千住一丁目から五丁目の範囲でしたが、寛永12年(1635)に参勤交代制が敷かれると、日光道中の往来が盛んになった事で、宿の負担が増えてきていました。そのころまでに千住宿の南側に開発された掃部新田の街道筋に、商いを営む店が立ち始め、掃部宿が出来あがってきていました。万治元年(1658)にはその掃部宿は千住宿に加えられました。この時加宿となった掃部宿の範囲は、掃部宿の南側に繋がる、千住河原町や千住橋戸町も含まれていました。更に、万治3年(1660)には、千住宿の範囲は南に広がり、荒川(現在の隅田川)を超えて、右岸の小塚原町、中村町が加宿されて、元の一丁目から五丁目は本宿と言われました。現在、隅田川の南側は、荒川区南千住と言う町名に成っていますが、しかし北千住という町名は有りません。現在の隅田川と北側を流れる荒川(かつての荒川放水路)とに囲まれた地域は、足立区の南端に位置し、北千住駅を中心として、多くは千住寿町とか、千住龍田町の様に「千住」を冠した町名に変更され、現在に至っています。言葉ではうまく説明できないので、北千住駅周辺の概略図を描いてみました。概略図の上部を、西から東へ、そして大きくカーブして南に流れる「荒川」は、1930年(昭和5年)に完成した荒川放水路ですが、昭和40年に「荒川」の正式名称になり、概略図下部を蛇行して流れる「隅田川」は、元々は荒川の流れでしたが、度重なる氾濫から解放する為、上記荒川放水路が開鑿され、同じく昭和40年に、上流の岩淵水門から下流の名称は、正式に「隅田川」となりました。荒川に架かる鉄橋群、左側には常磐線や千代田線・つくばエクスプレスの「荒川橋梁」、右側は東武伊勢崎線の鉄橋。その橋桁部分に「東武伊勢崎線荒川放水路橋梁」の文字が、かつての名残を留めています。概略図の左上(西新井橋南橋詰)から南南東に下がり、千住神社東方で東に進み、また南東に曲がって右下に進む、深緑色で記した線は、天正年間(1573~1592)小田原北条氏によって築かれた「熊谷堤」に成ります。荒川(現在の隅田川)の除水堤防として築か..
歩く
一味
2024-02-05T10:50:20+09:00
(北千住駅と昨年6月に訪宿した際に入手した、「千住宿」の日光街道御宿場印)
この北千住の駅で降りて、日光道中最初の宿場町「千住宿」の街巡りをしました。
千住宿は、寛永2年(1625)に江戸幕府によって整備されました。その時の千住宿は、千住一丁目から五丁目の範囲でしたが、寛永12年(1635)に参勤交代制が敷かれると、日光道中の往来が盛んになった事で、宿の負担が増えてきていました。そのころまでに千住宿の南側に開発された掃部新田の街道筋に、商いを営む店が立ち始め、掃部宿が出来あがってきていました。
万治元年(1658)にはその掃部宿は千住宿に加えられました。この時加宿となった掃部宿の範囲は、掃部宿の南側に繋がる、千住河原町や千住橋戸町も含まれていました。
更に、万治3年(1660)には、千住宿の範囲は南に広がり、荒川(現在の隅田川)を超えて、右岸の小塚原町、中村町が加宿されて、元の一丁目から五丁目は本宿と言われました。
現在、隅田川の南側は、荒川区南千住と言う町名に成っていますが、しかし北千住という町名は有りません。現在の隅田川と北側を流れる荒川(かつての荒川放水路)とに囲まれた地域は、足立区の南端に位置し、北千住駅を中心として、多くは千住寿町とか、千住龍田町の様に「千住」を冠した町名に変更され、現在に至っています。言葉ではうまく説明できないので、北千住駅周辺の概略図を描いてみました。
概略図の上部を、西から東へ、そして大きくカーブして南に流れる「荒川」は、1930年(昭和5年)に完成した荒川放水路ですが、昭和40年に「荒川」の正式名称になり、概略図下部を蛇行して流れる「隅田川」は、元々は荒川の流れでしたが、度重なる氾濫から解放する為、上記荒川放水路が開鑿され、同じく昭和40年に、上流の岩淵水門から下流の名称は、正式に「隅田川」となりました。
荒川に架かる鉄橋群、左側には常磐線や千代田線・つくばエクスプレスの「荒川橋梁」、右側は東武伊勢崎線の鉄橋。その橋桁部分に「東武伊勢崎線荒川放水路橋梁」の文字が、かつての名残を留めています。
概略図の左上(西新井橋南橋詰)から南南東に下がり、千住神社東方で東に進み、また南東に曲がって右下に進む、深緑色で記した線は、天正年間(1573~1592)小田原北条氏によって築かれた「熊谷堤」に成ります。荒川(現在の隅田川)の除水堤防として築かれました。当初の千住宿(本宿)は、この熊谷堤の堤内(北側)に当たります。
明治19年1月7日付けの「明細 改正東京新圖」(編輯兼出版人 井上勝五郎)を眺めてみると、日本橋から北に延びる「奥州街道」の、荒川(現在の隅田川)に架かる「大ハシ」を渡った先に、「足立郡」や「千住中組」・「千住北組」等の地名が記されたエリア―に、かつての「千住宿」の街並が道路の両側に続いています。そして目を引いたのは、鳥居の地図記号と、脇に記された「氷川社」の文字です。僅かな間隔で、街道から少し脇に入ったところに、3ヵ所有ります。
「氷川社」「氷川神社」、素戔嗚尊を祭神とするこの神社は、私の住む栃木市内には有りません。調べてみると、お隣の小山市の塚崎に1社祀られていました。
小山市塚崎は、新小山市民病院の南東方向に広がる地域で、氷川神社はその中央部に位置します。
現地を訪れましたが、神社の由来を記すものは有りませんでした。「栃木県神社誌」をひも解いても、<由緒沿革には、創立年月日は不詳だが、小山城の関係地域の集落の成り立ちなどから推察すると、鎌倉時代に創建されたのではないかと思われる。>と有るのみです。
神社の入口石の鳥居の傍らの、小山市教育委員会が建てた「史跡塚田館」と刻した標柱を元に、小山市史を調べると、「塚田館」築城年代:鎌倉時代。城主:塚田七郎宗光、塚田七郎宗貞と記され、宗光は四代小山長村の子で、塚田を称してこの館を築き、子孫が居住した。ことが掲載されていました。
それでも、なぜ氷川神社なのかは不明のままです。
栃木県全体に範囲を広げても、あと1社、さくら市に「氷川神社」が確認できるだけでした。
氷川神社について更に調べてみると、この氷川神社は武蔵國を流れる荒川流域におよそ280社も集中しているそうで、地域色の強い神社です。その総本社は、埼玉県さいたま市大宮区に鎮座する、かつての武蔵國一之宮「氷川神社」です。
氷川神社という神社名の由来について、ひとつ伝えられているのは、日本神話の中の「八俣大蛇を退治した荒神 スサノオノミコト」伝説に基づく話です。
天照大神を姉とする須佐之男命(スサノオノミコト)は乱暴なふるまいの罪で、高天原を追放され、出雲国の斐伊川上の鳥髪という大原始林の中に降り立った。そこで、老夫婦が一人の可憐な乙女を、八俣大蛇(ヤマタノオロチ)に取られることに、泣き悲しんでいるのを知り、計略をめぐらして、見事に大蛇を退治し、晴れて助けた乙女(クシナダヒメ)と一緒になった。
おそらく、毎年のように洪水を起こし、大きな被害をもたらす「荒川」を、ヤマタノオロチに見立て、それを退治したスサノオノミコトを祀ることで、その神力で、「荒川」を鎮めたいと願ったもので、出雲国の斐伊川(ヒイガワ)から、ヒカワ・・・「氷川」と言う神社の名称が付けられた。と言う説です。それから「荒川」の流域で、「氷川信仰」が広がっていったのだと。
そこで、北千住エリア―の「氷川神社」を中心に、街巡りをしました。
最初は、前出の「改正東京新圖」に記された3か所のうち、一番南側に足を運びます。
北千住駅西口を出て、線路際の道路(千路通り)を南に歩き、そこから路地を抜け、ミリオン通りに出たら左に折れ南に進むと、通りの左側、立派な玉垣をめぐらした「千住仲町氷川神社」前に到着です。約800メートルの道のりです。
この仲町氷川神社は、掃部宿の鎭守に成ります。延喜年間(901~923)には牛田寄りの元宮に祀られていたものを、元和2年(1616)石出掃部亮吉胤が、掃部堤を築く際に、現在地に遷座させたものです。社殿に向かって右手奥に、北千住エリア―の社寺に分布する、千寿七福神の弁財天が祀られている岩屋が有ります。
岩屋の中の弁財天は、元禄2年(1689)の建立で、弁天像を陽刻した供養庚申塔の形態をとっています。仏教では庚申の本尊は「青面金剛」とされるので、よく庚申塔に彫られていますが、弁財天を主尊とする庚申塔は、非常に珍しいものです。足立区の登録有形文化財に成っています。
次の氷川神社は、旧日光道中(旧奥州街道)に出て北上、千住3丁目のコンビニ先を西に入る路地を覗くと、奥に背の高い木立と石の鳥居が見えます。
千住本氷川神社(せんじゅもとひかわじんじゃ)に成ります。境内内に建つ案内板によると、この神社は、<徳治2年(1307)に千葉氏によって、牛田に千葉山西光院と共に、氷川神社として創建されたという。千住が宿場町として栄え始めた江戸時代の初期、現在地に地主の土地奉納によって分社が建てられた。>のが始まりで、石の鳥居を潜った先に、旧社殿が残されています。旧社殿の向拝は、千鳥破風、その前面が唐破風となり、二重の破風を形成し、頭貫や虹梁の部分には、龍や鳥類の彫刻が目立っています。
昭和45年(1970)に、社殿を新築して、上記の旧社殿は末社として、三峯神社・久須志神社・大黒天が祀られています。大黒天は千寿七福神に成ります。
次、三番目は千住4丁目に鎮座する「氷川神社」に成ります。一度旧日光街道まで戻り、街道を北に200メートルほど歩くと、街道右手に立派なお屋敷が見えてきます。
「横山家住宅」です。足立区登録有形民俗文化財のこの建物は、足立区教育委員会が建てた説明板によると、<宿場町の名残として、伝馬屋敷の面影を今に伝えている。伝馬は、人や物資の輸送の為に、各宿場に馬負担させた江戸幕府の制度で、伝馬を負担した者には伝馬屋敷が与えられ、年貢なども免除された。横山家は、江戸時代から続く富裕な商家で、伝馬を負担していた。屋号は「松屋」で、今でいう再生紙を取り扱う地漉紙問屋であった。(後略)>
この横山家住宅の手前を東に入る路地が有ります。右折して路地に入ります。その突き当りが「長円寺」と言う、新義真言宗の寺院です。嘉永四年(1627)に、出羽湯殿山の行者、雲海がここに庵を結び、後に賢俊が開山したといいます。
(長円寺山門)
三ヵ所目の「氷川神社」はこの長円寺の境内に、元禄四年(1691)創建されました。お寺の北隣に成ります。
氷川神社社殿の左隣には、境内社の「高正天満宮」「稲荷神社」「猿田彦大神」が祀られています。
又、境内には「高正天満宮」の縁起を刻した、元治元年(1964)建立の石碑などが建っています。
以上の三社の他に、かつて千住5丁目川田耕地に有った氷川神社が、荒川放水路の開鑿に伴い、移転された「千住大川町氷川神社」も有りました。
元々、千住五丁目の鎭守として、永仁2年(1294)に川田耕地に創建されましたが、前述の様に荒川放水路の建設工事の為に、現在地に移転しました。社殿は大正二年(1913)の造営に成ります。
参道入口左手に建っているのが、旧千住新橋の親柱です。又、社殿南側には「千住川田浅間神社冨士塚」が有ります。
千住新橋は、荒川放水路工事の一環として、大正13年(1924)5月竣工しています。
橋の規模は、長さ452.7m、幅7.2m、鋼板桁の近代橋です。しかし、交通量の増加や老朽化の為、昭和53年(1978)掛替撤去に成っています。
(上の写真は、現在の千住新橋です。高欄に橋名板が付いています。)
更にもう一社、現在は氷川神社の社名では有りませんが、現在の千住宮元町に祀られている「千住神社」が有ります。
足立区教育委員会が設置した説明板を参照させて頂くと、<およそ一千年前、この地は仙崎という丘陵で、森林地帯であったが、延長四年(926))に稲荷の神が勧請され、仙崎稲荷神社が創建された。弘安二年(1279)、氷川神社も勧請したので、二つの神社が森林地帯の中に並び、「二ツ森」とも言われ住民の信仰を集めた。江戸の初期には、千住宿の西方にある神社ゆえ、西の森と唱えられた。明治六年(1873)、仙崎稲荷神社と氷川神社を合祀して西森神社と号し、大正四年(1915)に千住神社と改称した。(後略)>
ここ千住神社の境内には、千寿七福神の恵比寿様が、「願かけ恵比寿」として祀られています。千住富士として御祭神に木花咲耶比売命をお祀りする富士塚が築かれています。
又、この地は永承六年(1051)源義家が奥州征伐の際、荒川(現在の隅田川千住大橋付近)を渡り、当神社に陣営し、戦勝を祈願したと伝わり、史蹟となっています。他、芭蕉句碑や防空壕跡など見所が沢山ありました。
こうしてみると、北千住駅周辺に創建された「氷川神社」5社の中では、最初、千住仲町氷川神社が延喜年間(901~923)で、現在地より南東方向に創建されました。次に千住神社の前身氷川神社が、1279年となります。次が千住大川町氷川神社で1294年、そして1307年には千住本氷川神社の前身が、牛田(現在の千住曙町)に創建され、最後が千住四丁目氷川神社で、1691年創建と言う事に成ります。それぞれの地域住民の信仰を集めて、現在に至っています。
今回の参考資料:
・「千住宿歴史ウォークガイドブック②」 NPO法人千住文化普及会発行
・「日本の伝説12中国」 日本伝説拾遺会監修 教育図書出版 山田書院編集発行
・「栃木県神社誌」 栃木県神社庁発行
・「小山市史 資料編中世」小山市発行
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郷土の偉人、日立製作所の創業者小平浪平翁、今年生誕150年になります
https://sayama64.blog.ss-blog.jp/2024-01-21
前々回、今年最初の石碑めぐりで、栃木市大平町真弓の磯山に祀られた、諏訪神社境内に建つ石碑について書きましたが、その中で磯山山頂部に残る、コンクリート製の給水塔の事について、少し触れました。(栃木市大平町真弓、磯山山頂に立つ貯水塔とその説明板)貯水塔の脇に建つ説明板の通り、<この水槽は昭和18年、株式会社日立製作所栃木工場が、この大平の地に操業を開始した際、工場の工業用水供給の為建造されたものです。>創業を開始したのは、昭和20年(1945)に成ります。株式会社日立製作所が、この地に工場を建設したのは、ひとりの人物の存在が有りました。その人物こそ「(株)日立製作所」の創業者で、その当時社長であった「小平浪平」です。小平浪平翁は、明治7年(1874)1月15日に、栃木県都賀郡合戦場宿(現在、栃木市都賀町合戦場755)の大地主の家に、父惣八、母チヨの次男として生まれました。明治21年(1888)14歳で上京、東京英語学校(東京大学予備門)に入学。その後、現東京大学工学部を卒業。明治33年(1900)大学卒業後、秋田県の藤田組小坂鉱山に入社。その後発電事業に職場を求めた。そこで発電設備のほとんどが外国製品で占められている現実を痛感している。明治39年(1906)10月、久原からの誘いを受けて、前年久原が開業した茨城県の久原鉱業所(日立鉱山)に入社する。その後、国産技術にこだわり、明治43年(1910)日立製作所を創業、世界的企業となる礎を築き、昭和26年(1951)10月5日に、その一生を終えました。享年77歳でした。現在、小平浪平翁が幼少期に生活した「生家」が残っています。平成30年(2018)10月に、親族より栃木市に寄贈されています。昨年暮れに、市が主催する「小平浪平顕彰ツアー」に参加させて頂き、その生家と茨城県日立市に2021年11月にオープンした、「日立オリジンパーク」等を見学をすることが出来ました。小平浪平翁の生家は、日光例幣使街道沿いで、合戦場郵便局の丁度向かい側に有ります。栃木の市街地から大通りを北上(栃木県道3号)、東武日光線の跨線橋を渡ると直ぐ、500メートル程で目的地の前に到着します。街道に面した門の脇に、「小平浪平生誕地」と刻した石碑が建てられています。この碑の題字を揮毫された人物は、JX金属グループ創業者「久原房之助」、明治38年(1905)日立鉱山を開業し、日本有数の銅山に成長させた人で、前述..
石碑
一味
2024-01-21T15:16:43+09:00
(栃木市大平町真弓、磯山山頂に立つ貯水塔とその説明板)
貯水塔の脇に建つ説明板の通り、<この水槽は昭和18年、株式会社日立製作所栃木工場が、この大平の地に操業を開始した際、工場の工業用水供給の為建造されたものです。>
創業を開始したのは、昭和20年(1945)に成ります。
株式会社日立製作所が、この地に工場を建設したのは、ひとりの人物の存在が有りました。
その人物こそ「(株)日立製作所」の創業者で、その当時社長であった「小平浪平」です。
小平浪平翁は、明治7年(1874)1月15日に、栃木県都賀郡合戦場宿(現在、栃木市都賀町合戦場755)の大地主の家に、父惣八、母チヨの次男として生まれました。
明治21年(1888)14歳で上京、東京英語学校(東京大学予備門)に入学。その後、現東京大学工学部を卒業。明治33年(1900)大学卒業後、秋田県の藤田組小坂鉱山に入社。その後発電事業に職場を求めた。そこで発電設備のほとんどが外国製品で占められている現実を痛感している。明治39年(1906)10月、久原からの誘いを受けて、前年久原が開業した茨城県の久原鉱業所(日立鉱山)に入社する。その後、国産技術にこだわり、明治43年(1910)日立製作所を創業、世界的企業となる礎を築き、昭和26年(1951)10月5日に、その一生を終えました。享年77歳でした。
現在、小平浪平翁が幼少期に生活した「生家」が残っています。平成30年(2018)10月に、親族より栃木市に寄贈されています。
昨年暮れに、市が主催する「小平浪平顕彰ツアー」に参加させて頂き、その生家と茨城県日立市に2021年11月にオープンした、「日立オリジンパーク」等を見学をすることが出来ました。
小平浪平翁の生家は、日光例幣使街道沿いで、合戦場郵便局の丁度向かい側に有ります。
栃木の市街地から大通りを北上(栃木県道3号)、東武日光線の跨線橋を渡ると直ぐ、500メートル程で目的地の前に到着します。
街道に面した門の脇に、「小平浪平生誕地」と刻した石碑が建てられています。
この碑の題字を揮毫された人物は、JX金属グループ創業者「久原房之助」、明治38年(1905)日立鉱山を開業し、日本有数の銅山に成長させた人で、前述した様に、浪平との出会いは小坂鉱山で、その後久原が日立鉱山を開業した翌年に浪平も久原に誘われ入社しています。浪平とは、上司と部下の関係に成りますが、年齢的に5歳しか離れていなかったことで、同志のような関係でもあり、支援者だったと言われています。
碑陰には、元副社長の高尾直三郎氏による碑文が刻されています。
この石碑は、碑文にも記されている通り、日立製作所創業50周年を記念して、昭和35年10月5日建てられました。
門を入ると左手に母屋の玄関口が有ります。玄関に入って部屋の中を見ると、室内には多くの屏風や欄間額、そして調度品が展示されています。
その中に、浪平が「母親」を描いたという、直筆画を見ることが出来ました。
母屋の東側には、浪平が14歳で上京するまで、勉学に励んだとする、勉強小屋や、釣瓶井戸、浪平の父・惣八が家業の鉛丹の製造をしていた作業小屋などを、見学出来ました。
作業小屋には、当時製造していた鉛丹のサンプルが展示されていました。
ちなみに「鉛丹」とは、金属の鉛を加熱、空気中の酸素と反応させ「一酸化鉛」とし、更に加熱を加えて製造される。鉛丹は鉛中毒の危険性が高い。用途は赤色塗料や錆止め塗料として使用される。戦艦など船の底に塗り、航行性能を維持する為に使用されている。
見学をした日は、前日に雨が降っていた為、紅く色づいたモミジの葉が、庭に散っていて、華やかに装っていました。
※現在、小平浪平生家の敷地内見学については、「栃木市役所総合政策課」に問い合わせの上、事前予約をする必要があるそうです。
生家の見学後、都賀インターから北関東自動車道を東に、更に常磐自動車道に乗り換え北上、日立市大みか町に移動。「日立オリジンパーク」内に有る、「小平記念館」や「創業小屋」の見学をしました。
見学の前に施設スタッフの方から、「日立オリジンパーク」の概略説明が有りました。
施設の南側にはゴルフ場が広がっています。この「大みかゴルフクラブ」は、小平浪平が社員の娯楽と外国賓客の接待を目的に建設したもので、昭和11年(1936)10月11日、「日立ゴルフ倶楽部」として、茨城県最初のゴルフ場として完成しています。当初は18ホールでしたが、戦争中の食料難で一部が農地化された為、現在は8ホール。隣の大学敷地も元ゴルフコースの有ったところ等、説明が有りました。小平浪平翁の理念「和を以て貴しとなす」が、ここにも現れていることがよくわかります。
小平記念館の展示ホールには、日立の企業理念や創業の精神である和・誠・開拓者精神等が、事例とともに展示紹介されています。
復元された「創業小屋」
建屋の中には「創業小屋」について案内が有りましたので、抜粋させて頂きます。
<1953年、創業者小平浪平より教えを受けた高尾直三郎の発案により日立製作所・海岸工場の高台に整備された創業の聖地、小平台。戦争の犠牲者を悼み、小平の偉業を伝える場として植樹された。その地に、1956年、日立製作所の源泉である、久原鉱業所日立鉱山の工作課修理工場が復元された。高尾ら創業メンバー念願の復元であり、関係者の回想と写真によって半世紀ぶりによみがえったその建物は「創業小屋」と名付けられた。(中略)2021年、創業小屋は大みかの地にうつり、新たな聖地のシンボルとして、創業の精神を未来へとつないでいる。>と。
創業小屋の内部には、1910年初の純国産5馬力誘導電動機が、実際に動く状態で展示されています。パネルの「START」ボタンを押すと、同時に大きな駆動音を発してモーターが回転、ベルトを介して横に据え付けられた「ラジアルボール盤」の主軸が回転する。こうして、今も現役で動くことを見せています。
あらためて、小平浪平翁が偉大で、素晴らしい人であったことを、知ることが出来ました。
今回の参考資料:
・栃木市 小平浪平顕彰ツアー資料 合戦場の知名度を全国区にする会作成
・「小平浪平生誕地」リーフレット 栃木市発行
・「日立オリジンパーク」リーフレット (株)日立製作所 日立オリジンパーク発行
・「技術王国・日立をつくった男ー創業者小平浪平伝」 加藤勝美著 PHP研究所発行
・「都賀町史 歴史編」 都賀町発行
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ある陶芸家の個展を見て
https://sayama64.blog.ss-blog.jp/2024-01-19
昨年の秋、ある陶芸家の個展の案内状が、郵送されてきました。最初はその差出人に、ピンときませんでした。「誰からだろうか」と。 そして、案内状を読んでいるうちに、思い当たりました。昨年の夏ごろだったか、栃木市湊町「お茶の小井沼」の店舗と蔵を使って、行われていた、その陶芸家の作品展を見に行き、記帳をして来た事が有りました。この作家の作品は、チョッと変わっていて、お茶碗や花瓶などと言うものでは無く、私たちが家庭で日常的に使っている、例えば「ノートパソコン」とか、「文房具」などを、実物大でその形状を再現させているのです。今回の案内状には、自転車が、それも本物と見間違うようなリアルさ。その作品に興味を抱いて、見に行ってきました。個展「私」の会場は、「大久保分校スタートアップミュージアム」という、栃木県足利市大久保町にある、廃校を改築した美術館です。その住所からグーグルマップで検索して、行ってきました。場所は、足利フラワーパークの西方、田園地帯の真ん中、分校の敷地の南側には「尾名川」と言う小河川が流れ、そこに架かる「分校橋」を渡っていく。車を校庭跡に止め、展示会場の校舎に入りました。初めに目を引いたのは、廊下に架かっている「カーテン」です。これも作品です。本当にカーテンそのものです。ふと開いて窓の外の風景を見たくなります。そこにはどのような風景が広がっているのか。教室の中に入ります。有りました、案内状に出ていた「自転車」です。作者が8年間乗り続けた自転車を、実寸サイズで作られているそうです。とても土をこねて、成型して焼いた「陶器」とは思えません。私が子供の頃、家は自転車店を営んでいました。その為、ついつい細かいところを観察していました。「フレーム」は婦人用。「ハンドル」はセミアップタイプ、お洒落なかご付で、フルカバーチェーンケース、まさに昭和の自転車です。でも、車輪のスポークが有りません。自動車のタイヤに付いているホイルの役目をする。車軸とタイヤを連結する部品です。子どもの頃、この自転車の車輪の組み立てを手伝いました。車軸側のハブとタイヤ側のリムとを、スポークで連結させるのですが、これは結構慣れるまでは難しかったです。組み立てたホイルを父が、スポークの張りを調整して、車輪がブレずに回転するようにします。次の写真が「ホイールの調整作業」です。スポークは細い金属製の部品ですから、陶器で再現することは困難でしょうが、考えてみると作者..
未分類
一味
2024-01-19T15:42:16+09:00
最初はその差出人に、ピンときませんでした。「誰からだろうか」と。 そして、案内状を読んでいるうちに、思い当たりました。
昨年の夏ごろだったか、栃木市湊町「お茶の小井沼」の店舗と蔵を使って、行われていた、その陶芸家の作品展を見に行き、記帳をして来た事が有りました。
この作家の作品は、チョッと変わっていて、お茶碗や花瓶などと言うものでは無く、私たちが家庭で日常的に使っている、例えば「ノートパソコン」とか、「文房具」などを、実物大でその形状を再現させているのです。
今回の案内状には、自転車が、それも本物と見間違うようなリアルさ。その作品に興味を抱いて、見に行ってきました。
個展「私」の会場は、「大久保分校スタートアップミュージアム」という、栃木県足利市大久保町にある、廃校を改築した美術館です。その住所からグーグルマップで検索して、行ってきました。
場所は、足利フラワーパークの西方、田園地帯の真ん中、分校の敷地の南側には「尾名川」と言う小河川が流れ、そこに架かる「分校橋」を渡っていく。車を校庭跡に止め、展示会場の校舎に入りました。
初めに目を引いたのは、廊下に架かっている「カーテン」です。
これも作品です。本当にカーテンそのものです。ふと開いて窓の外の風景を見たくなります。そこにはどのような風景が広がっているのか。
教室の中に入ります。有りました、案内状に出ていた「自転車」です。
作者が8年間乗り続けた自転車を、実寸サイズで作られているそうです。とても土をこねて、成型して焼いた「陶器」とは思えません。
私が子供の頃、家は自転車店を営んでいました。その為、ついつい細かいところを観察していました。
「フレーム」は婦人用。「ハンドル」はセミアップタイプ、お洒落なかご付で、フルカバーチェーンケース、まさに昭和の自転車です。
でも、車輪のスポークが有りません。自動車のタイヤに付いているホイルの役目をする。車軸とタイヤを連結する部品です。
子どもの頃、この自転車の車輪の組み立てを手伝いました。車軸側のハブとタイヤ側のリムとを、スポークで連結させるのですが、これは結構慣れるまでは難しかったです。
組み立てたホイルを父が、スポークの張りを調整して、車輪がブレずに回転するようにします。次の写真が「ホイールの調整作業」です。
スポークは細い金属製の部品ですから、陶器で再現することは困難でしょうが、考えてみると作者の意図はもっと深い気がします。
この自転車の作品は、動いている、走っている所を表現しているからです。
見ると、止まっている時、倒れないように後輪に付いた「スタンド」を下ろしますが、この作品はそのスタンドも上がっています。走っているからです。その時車輪は回転をしている為、スポークは見えなくなっているはずです。これでリアルだったのです。
他の作品も見てみます。
とても陶器とは思えない作品が並んでいました。
案内状によると、この個展は2月2日(日)までだそうです、金・土・日・祝の10:00~17:00の開館ですから、残すところ今週末と来週末だけに成っています。
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大平町真弓、諏訪神社境内に建つ石碑を巡る。
https://sayama64.blog.ss-blog.jp/2024-01-15
令和六年、最初の石碑巡りは、栃木市大平町真弓の、磯山に鎮座する諏訪神社の、境内に建てられている、五基の石碑を見て廻りたいと思います。(大平町真弓磯山の南側中腹に鎮座する諏訪神社の社殿)(拝殿の大棟に施されている、龍の装飾が珍しいです。)「栃木県神社誌」(昭和39年2月11日 栃木県神社庁発行)によると、<諏訪神社 旧郷社 下都賀郡大平町(現在、栃木市大平町)真弓1,531番地 主祭神:建御名方命(タケミナカタノミコト)、境内神社:竜神社・猿田彦神社・白山神社・朏神社 由緒沿革:藤原秀郷が、平将門を征討の時、信濃国一の宮諏訪神社に祈願し、神助により勝利を得たという。それで、この神を勧請したといわれている。これが承平二巳年二月である。明治五年郷社となり、同十年村社となり、また同二十八年十二月二十四日郷社となった。>と、掲載されています。※この諏訪神社については、2016年2月7日付けにて、公開をしておりますので、そちらもお訪ね下さい。さて、最初に紹介する石碑は、背の高い杉木立が並ぶ、参道の中程、社殿方向を向いて右手の木立の中に、目に触れることなく建っている石碑です。(諏訪神社参道、杉木立の並木の奥に社殿を望む)(参道脇、木立の中に埋もれる様に建つ、最初の石碑)碑陰には、「御大典記念 下都賀郡農會建之 後援瑞穂村」と中央に大きく刻まれています。まず、近くによって石碑の上部の篆額を確認します。「頌徳碑」と刻されています。揮毫された人物は、「関屋貞三郎」大正十年から昭和八年まで、第11代宮内次官を務めた、足利郡御厨町(現在足利市)出身の官僚・政治家です。「頌徳碑」とは、功徳を褒めたたえる碑と言う事で、それではどんな人物か、碑文を確認していきたいと思います。(頌徳碑の碑文を書き写しました。幸い私の苦手な漢文体で無く、読み移すことが出来ました。)その人物とは、「山田健次郎」と言い、碑文によると<山田君は東京小石川の人にして、栃木県下都賀郡瑞穂村の名家、川連氏の出、維新回天の志士、川連義路君を祖父とす、先考甲子次郎君は義路君の次男、出て山田家を嗣ぎ、拮据経営東都財界の先覚者として重きをなし・・・・(後略)>と刻されています。そして、<我国農業の不振、農民の疲弊を憂い、大正十三年親考に謀りて其の旧郷瑞穂村農會に金三千円を贈り、同農會の事業を援助し、大正十四年其の家統を襲ぐや遺志に因り下都賀郡農會に対し、農村振興基金として金三万..
石碑
一味
2024-01-15T10:43:05+09:00
(大平町真弓磯山の南側中腹に鎮座する諏訪神社の社殿)
(拝殿の大棟に施されている、龍の装飾が珍しいです。)
「栃木県神社誌」(昭和39年2月11日 栃木県神社庁発行)によると、
<諏訪神社 旧郷社 下都賀郡大平町(現在、栃木市大平町)真弓1,531番地
主祭神:建御名方命(タケミナカタノミコト)、境内神社:竜神社・猿田彦神社・白山神社・朏神社
由緒沿革:藤原秀郷が、平将門を征討の時、信濃国一の宮諏訪神社に祈願し、神助により勝利を得たという。それで、この神を勧請したといわれている。これが承平二巳年二月である。明治五年郷社となり、同十年村社となり、また同二十八年十二月二十四日郷社となった。>と、掲載されています。
※この諏訪神社については、2016年2月7日付けにて、公開をしておりますので、そちらもお訪ね下さい。
さて、最初に紹介する石碑は、背の高い杉木立が並ぶ、参道の中程、社殿方向を向いて右手の木立の中に、目に触れることなく建っている石碑です。
(諏訪神社参道、杉木立の並木の奥に社殿を望む)
(参道脇、木立の中に埋もれる様に建つ、最初の石碑)
碑陰には、「御大典記念 下都賀郡農會建之 後援瑞穂村」と中央に大きく刻まれています。
まず、近くによって石碑の上部の篆額を確認します。
「頌徳碑」と刻されています。揮毫された人物は、「関屋貞三郎」大正十年から昭和八年まで、第11代宮内次官を務めた、足利郡御厨町(現在足利市)出身の官僚・政治家です。
「頌徳碑」とは、功徳を褒めたたえる碑と言う事で、それではどんな人物か、碑文を確認していきたいと思います。
(頌徳碑の碑文を書き写しました。幸い私の苦手な漢文体で無く、読み移すことが出来ました。)
その人物とは、「山田健次郎」と言い、碑文によると
<山田君は東京小石川の人にして、栃木県下都賀郡瑞穂村の名家、川連氏の出、維新回天の志士、川連義路君を祖父とす、先考甲子次郎君は義路君の次男、出て山田家を嗣ぎ、拮据経営東都財界の先覚者として重きをなし・・・・(後略)>と刻されています。そして、
<我国農業の不振、農民の疲弊を憂い、大正十三年親考に謀りて其の旧郷瑞穂村農會に金三千円を贈り、同農會の事業を援助し、大正十四年其の家統を襲ぐや遺志に因り下都賀郡農會に対し、農村振興基金として金三万円を寄付せらる・・・(後略)>と続きます。
こうして寄せられた基財を以て、下都賀農會は諸般の事業を施設、多大の成果を上げることが出来たとして「山田健次郎」頌徳碑建設を議決して、御大典記念事業の一環として、この石碑が建てられたようです。
次の石碑へ向かいます。参道を進み石段を上がり、社殿に参拝してから、拝殿に向かって左手方向に進むと、道はふたてに別れ、それぞれに石の鳥居が建てられています。左手の鳥居に掲げられている「神額」に「愛宕神社」と有り、右手の鳥居には神額は掲げられていません。それぞれの鳥居の先には、小さな石の祠が祀られています。
次の石碑は右手の鳥居を潜った先、石の祠の左手手前に建っています。ちなみに脇の石の祠には「八幡宮」の幣帛が祀られていました。石碑を確認します。
鬱蒼とした杉木立の中、光が届かない為薄暗い中に石碑は建っています。篆額を確認します。
篆字体を読み解くと「戦捷築造記念之碑」と浮彫されています。揮毫されたのは、下野国宇都宮藩最後の藩主「戸田忠友」です。
碑文を見ます。
碑文は「前皇大神宮禰宜 岡吉胤」の撰。碑文を書いたのは、「郷社諏訪神社社司 大和田茂教」。
個の石碑は明治38年10月、郷社諏訪神社により建立されています。
碑文は苦手な漢文体で、読み下せませんが、意味としては「明治37年2月、我が国はロシアに対して宣戦を布告、陸海軍の連戦連勝により、旅順や遼陽を占領、勝利を収めた。参加した兵士には氏子や信徒もいたが、郷社諏訪神社に戦勝を祈願、その霊験が有った。氏子らお金を拠出して神社へのお礼として、「標示石一基、石垣三段、石坂一所を築造」し、陸海軍人の武運栄盛を祈願した、その記念としてこの石碑を建立したと読める。碑陰には醵金された人たちの金額と芳名及び発起者の名前がビッシリと並んでいます。明治38年10月の日付が確認できます。アメリカのポーツマスにて日露講和条約が調印された翌月です。
次の石碑は更にそこから坂を上り、磯山の山頂に向かいます。山頂は岩肌が露出しています。そこに二基の石碑が建っています。
(写真左側に背の高い石碑、右側に少し小ぶりな石碑が見えます。右後方の円筒の建造物は、水槽で、昭和18年(株)日立製作所栃木工場が、この地に操業を開始した際、工場の工業用水供給の為建造され、昭和40年まで重要な役割を果たしたものです。)
まず、小さい石碑から見ていきます。
篆額部分を拡大します。
篆書体の文字にて「鳥居建設記念の碑」と刻されています。揮毫者は上記石碑と同一人物で、戸田忠友です。この時の官位は「正三位」で上記石碑の「従三位」から昇叙されていることが分かります。ちなみに戸田忠友は最終的に「従二位・勲三等瑞宝章」に昇叙されました。
碑文を確認します。
碑文を撰した人物は、栃木県師範学校長の「安達常正」漢学者で号を「外山人」。碑文を書いたのは前の「戦捷築造記念の碑」と同じく、諏訪神社社司の「大和田茂教」です。
碑文内容は、同じく漢文体で読み下すことは出来ません。ただただ理解できる地名や人物名から、推し量るに前半は郷社須賀神社の由緒が記されていることが分かるのみです。
碑陰の上部に「大正七年十月」の日付。その下方に寄付者芳名一覧、そして最下段に発起者名が並んでいます。
次に大きい方の石碑を確認します。
この石碑、今回巡った5基の石碑の中で最も日当りの良い場所に建てられています。石碑左下方に割れが認められ、碑文を書かれた人物の苗字が判読出来なくなっていました。
篆額の確認です。
篆書体で「昇格記念碑」と刻されています。揮毫をした人物は、「天穂日命(アメノホヒノミコト)の八十代の孫、出雲國造、正三位勲一等男爵、千家尊福」です。
碑陰に刻まれた文字は、苔類が繁殖して、読み取るのが大変です。読み取れた文字は、
「真弓氏子一同建之」「大正十二年十月九日」でした。
碑文を見ていきます。
これもまた漢文体です。それだけでも頭を抱えるのに、この碑文に使われている漢字自体が、見たこともない字で溢れています。旧字や異体字、更に私のパソコンでは出てこない字も有り、全文を読み下すことは、私には到底無理、ただ分かる漢字からひも解くと、碑文のおおよその内容は思い浮かんできます。
内容的には、この「郷社諏訪神社」の由緒が記されています。
篆額に刻まれた「昇格記念」とは、神社の沿革にも有ったように、ここ須賀神社は、明治5年に郷社であったが、明治10年に村社に降格、その後明治28年12月24日郷社に昇格していることから、この昇格を記念する形で、建碑されたものと思われます。
ただ、疑問に思うのは、なぜ昇格してから28年も経っての、記念碑建立となったのかです。疑問は残ります。
それでは最後、5基目の石碑を巡ります。
5番目の石碑の場所は、一度拝殿前まで戻り、今度は拝殿に向かって右手方向に進み、社殿を回り込むように、社殿の北東側の木立の中に、その石碑は建てられています。
(木立の中の石碑の前まで、石畳が敷かれています。)
何時ものように、まず「篆額」の文字を確認します。
やはり篆書体で刻まれています。が、その最初の文字が何と書かれているのか、いろいろ調べてみましたが、これという字が見つかりませんでした。「?忠碑」、形から「余」の様に見えますが、「余忠」という熟語も見つからない。
この篆額の文字を揮毫した人物は、当時の陸軍大将「鮫島重雄」です。
篆額の意味はこれ以上分からないので、碑文を見ていきたいと思います。
碑文の冒頭に名前が出てきます、「川連義路」です。最初の石碑に出てきた名前です。最初の頌徳碑の人物「山田健次郎」の祖父に当たる人物です。
やはり漢文体ですが、分かるところを読んでみたいと思います。
<川連義路君、通称は虎一郎、父は義種、母は富田氏、天保13年7月、下野国都賀郡真弓村で、代々関宿領の庄屋の家に生まれました。>
<文久の初め、江戸に出て、儒学を大橋正順より究する。>
<藤田信らが、太平山に立てこもった時、お金や食料を贈り応援をし、自ら江戸に出て必要な武器を買い付け、帰って来た時、すでに藤田信らは立ち去って、筑波山に行っていた。君は同志に合流しようとしたが、事が露呈して阻まれ、江戸に逃げたが、幕使に捕らえられ、洲崎において首を刎ねられ、屍は海中に投棄されてしまった。>
<元治元年八月三日、享年僅か23歳であった。>
<関宿藩主、それを伝え聞き、大変心を痛め、長男の義直に家を継がせ、次男の義次に扶持米2人扶持を付けた。>ここの理解は誤訳が有るかも。
<明治22年11月、朝廷はその忠勤に対し靖国神社に合祀された。>
<大正4年11月、今上天皇の即位の儀式において、従五位を贈られた。>
<里人、こうした彼の行いを徳とし、郷里の誉をいつまでも伝えようと、産土神の祠の傍らに、建碑することを欲した。>
このような内容と読み解いたが、他にも上手く読み解けない部分も多い。
碑陰には、「大正十一年十月九日 大字真弓一同建之」と刻まれております。
今、磯山の山頂に立つと、北西に太平の山並みを、更にその北奥に男体山や日光連山の山々を望み、眼下には改良復旧工事を進める、永野川を見ることが出来ます。
今年1年、また石碑の漢文体に、無い頭を悩ませそうです。今回も辞書と首っ引きで、碑文に向かいました。
今回参考にした資料:
・栃木県神社誌 (昭和39年2月11日 栃木県神社庁発行)
・栃木県市町村誌 (昭和30年8月20日 栃木県町村会発行)
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蝋梅三景
https://sayama64.blog.ss-blog.jp/2024-01-14
昨日の夕方から雪が降りだし、今朝は雪景色の中に有りました。令和6年最初のブログは、庭に咲く「蝋梅」を三景掲載します。第1景:昼の光の中で。1月10日12時頃、撮影第二景:夕日に照らされて。1月12日16時頃、撮影第三景:雪を載せて。1月14日10時頃、撮影
自然の恵み
一味
2024-01-14T10:46:58+09:00
令和6年最初のブログは、庭に咲く「蝋梅」を三景掲載します。
第1景:昼の光の中で。1月10日12時頃、撮影
第二景:夕日に照らされて。1月12日16時頃、撮影
第三景:雪を載せて。1月14日10時頃、撮影
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永野川改良復旧工事現場を寄り道しながら巡る
https://sayama64.blog.ss-blog.jp/2023-12-25
一級河川永野川の改良復旧工事が、着々と進行しています。河道を掘削し、水の流れる幅を広げて、新たに法面を整形、大型連結ブロックを敷き詰めた護岸で、スッキリとした永野川。太平山を背景にして、ゆったりとした曲線を描いて続いています。護岸上の道路わきに、何やら謂れの有りそうな、大きな石が置かれています。周辺に何も説明板も、見られませんが、きっとこれが、かつて薗部町の人達が信仰を寄せていた、「疱瘡石」と言われる石に違いない。今回私はこの石に、初めてお目にかかりました。以前はここには無かったと思います。多分今回の河川改修工事で、ここに移動されたものと思います。この大きな石を見て、ふと思い出しました。この「疱瘡石」の話しは、長沼英雄著「わが町さんぽ 栃木周辺見てある記」に、掲載をされています。<明治の頃、栃木市地方に天然痘が流行したとき、この石を拝むと不思議にも病に冒されず、またかかっても軽くすんだと言われ、人々は「疱瘡を鎮める神霊を宿す恵みの石」と尊敬し、種痘の発明されない昔は、村民すべてこの石を頼りにし、詣でる人も多かったという。>と、記されています。今、この石は、永野川に架かる「睦橋」の下流右岸に、見ることが出来ます。永野川の改良復旧工事、護岸工事が多くの工区にて完了をして来ています。今、工事の主体は、工事対象区間内に有る三か所の灌漑用水取水堰の改築と、三か所の橋梁架け替え工事の様です。工事の様子は、関係者以外は立ち入りが制限されていますので、遠くから眺めてみました。まず、三か所の取水堰です。上流側から見ていきます。最初は「二杉堰」です。この取水堰は、「二杉橋」の下流側に有ります。この写真は、2013年7月11日に撮影したものです。写真右端に写る橋が「二杉橋」になります。下の写真は、2023年12月3日の工事の様子です。上流「二杉橋」からと、下流側「大柳橋」から撮影した写真です。この「二杉堰」から取水した水は、現在永野川の西側を川に並行する「八箇村用水堀」を流れ、下流側の大平町から岩舟町の田んぼを潤しています。かつて下流側「大柳橋」の西側でこの用水堀に架かっていた「恵光院橋」の親柱の一つに「八箇村用水堀」の文字が刻まれていました。この「八箇村用水堀」は、その昔は「六ヵ村用水」でした。「栃木県の地名」(平凡社 1988年8月25日発行)の大平町の所に「六ヵ村用水」として掲載されています。<永野川より取水した近世の灌漑用水。..
栃木市の河川と橋
一味
2023-12-25T15:47:00+09:00
河道を掘削し、水の流れる幅を広げて、新たに法面を整形、大型連結ブロックを敷き詰めた護岸で、スッキリとした永野川。太平山を背景にして、ゆったりとした曲線を描いて続いています。
護岸上の道路わきに、何やら謂れの有りそうな、大きな石が置かれています。周辺に何も説明板も、見られませんが、きっとこれが、かつて薗部町の人達が信仰を寄せていた、「疱瘡石」と言われる石に違いない。今回私はこの石に、初めてお目にかかりました。以前はここには無かったと思います。多分今回の河川改修工事で、ここに移動されたものと思います。
この大きな石を見て、ふと思い出しました。この「疱瘡石」の話しは、長沼英雄著「わが町さんぽ 栃木周辺見てある記」に、掲載をされています。
<明治の頃、栃木市地方に天然痘が流行したとき、この石を拝むと不思議にも病に冒されず、またかかっても軽くすんだと言われ、人々は「疱瘡を鎮める神霊を宿す恵みの石」と尊敬し、種痘の発明されない昔は、村民すべてこの石を頼りにし、詣でる人も多かったという。>と、記されています。
今、この石は、永野川に架かる「睦橋」の下流右岸に、見ることが出来ます。
永野川の改良復旧工事、護岸工事が多くの工区にて完了をして来ています。今、工事の主体は、工事対象区間内に有る三か所の灌漑用水取水堰の改築と、三か所の橋梁架け替え工事の様です。
工事の様子は、関係者以外は立ち入りが制限されていますので、遠くから眺めてみました。
まず、三か所の取水堰です。上流側から見ていきます。
最初は「二杉堰」です。この取水堰は、「二杉橋」の下流側に有ります。
この写真は、2013年7月11日に撮影したものです。写真右端に写る橋が「二杉橋」になります。
下の写真は、2023年12月3日の工事の様子です。上流「二杉橋」からと、下流側「大柳橋」から撮影した写真です。
この「二杉堰」から取水した水は、現在永野川の西側を川に並行する「八箇村用水堀」を流れ、下流側の大平町から岩舟町の田んぼを潤しています。かつて下流側「大柳橋」の西側でこの用水堀に架かっていた「恵光院橋」の親柱の一つに「八箇村用水堀」の文字が刻まれていました。
この「八箇村用水堀」は、その昔は「六ヵ村用水」でした。
「栃木県の地名」(平凡社 1988年8月25日発行)の大平町の所に「六ヵ村用水」として掲載されています。
<永野川より取水した近世の灌漑用水。同川上流の平井村(現栃木市)にある二杉に大口堰を設け、その下流筋に和田山堰を設け取水し、現町域の下皆川村・富田村・現岩舟町の古橋村・沖島村・赤塚村・曲之島村の六ヵ村を潤した。・・・後略>と記されています。
何時、六ヵ村から八ヵ村に変わったのか興味が有りますが、現在「栃木市都市計画図3」の中には、「八箇村堀」とだけ記されています。
横道にそれてしまいました。工事現場に戻ります。次は「新西野田堰」に行きます。
この取水堰は、東武日光線橋梁の下流の橋「川谷橋」の200m程の場所に設置された固定堰です。写真は2015年4月16日に撮影したものです。
今年11月18日に行われた、「永野川改良復旧工事 第3回現場見学会」に参加して、現地を訪れた時は、まだ工事は着手されていませんでした。その時の説明では現在の場所より下流側に新たに「鋼製自動転倒堰」に改築され、永野川の水量が増水等で一定のレベルに達すると、自動的に堰のゲートが倒れて解放され、増水した水を下流側にスムースに流せるようにするとのことでした。
この「新西野田堰」より取水した水は、右岸の水門を抜けて、大平中学校の東側を南流して、県道蛭沼川連線を抜け、ゆうゆうプラザの西側を流れ、大平南中学校の東方の水田地帯を、真っ直ぐ南に向かって流れていく「赤津用水」となります。
県道蛭沼川連線に架かる「新愛宕橋」の親柱に「赤津用水」の文字が刻まれています。
「新西野田堰」が有る場所は、大平町蔵井ですが、堰の名称はなぜか「赤津用水」の下流域となる、大平町西野田の地名となっています。この取水堰からの灌漑用水を主に利用しているのが、西野田と言う事なのか。ちなみに江戸時代、享保14年(1729)の「用水堀普請証文」(須藤喜一郎文書)に、「十二ヵ村用水」に蔵井村・野田村・新井村の村名が確認出来ます。(前出、「栃木県の地名」 平凡社の大平町「蔵井村」に掲載有り)流域的に「赤津用水」に当たるものと想定いたします。
それでは、この「十二ヵ村」はどこか。先の古文書は「蔵井村」「野田村」「新井村」の他は不詳となっているので、手元の「明治前期測量 2万分1 フランス式彩色地図」で赤津用水の水路と思しきルートたどって、そのルート上に江戸時代存在した村を追ってみた。
「蔵井村」「真弓村」「野田村」「新井村」「豊後新田村」「西水代村」「戸恒村」「兵庫新田村」「三蔵新田村」「蛭沼村」「緑川村」「前原村」などが候補として挙がる。
「野田村」は明治12年に「西野田村」に改称。「戸恒村」と「兵庫新田村」は明治9年に合併して「伯仲村」となって、同年「新井村」と「豊後新田村」が合併して「新村」となっています。
三ヵ所目は、「榎本堰」です。
この写真は、2017年4月14日に撮影したもので、写真の右端に取水用水門が見えます。
この取水堰は、永野川左岸側で取水して下流の大平町榎本の街で道路の両側の水路に流れていきます。
現地の人に話を聞くと、現在の「榎本堰」は明治の初めごろに作られた物で、以前はもっと下流側に有ったとの事。新しく開鑿された用水路は「新堀」と呼ばれているそうです。
上の写真は永野川左岸に沿って南流する用水路です。
左側の写真は、榎本の街を東西に走る道路に出てきた所。右の写真は東側から西に向かって撮影したもので、道路わきに水路が流れています。道路奥の突き当りが、八坂神社です。
新しい「榎本堰」は現在の場所から少し下流側にて、工事が進められています。
工事現場を下流側から眺めてみると、新しい堰の下部構造が姿を現していました。写真はこの12月14日に撮影しました。
三つの堰共、工事はまだまだこれからの様でした。
次に、現在工事が進んでいる橋梁架け替え工事の様子も、見てみましょう。
これも上流側から確認します。
最初は大平町蔵井に架かる「諏訪橋」です。
2023年11月18日の現場見学会の時には、橋台と親柱だけが残されていました。
この「諏訪橋」は、昭和9年に架けられた古るいRC橋で、以前も橋桁が一部落ちて部分的に鋼桁に架け替えられていました。この橋は大平中学校の裏手に有り、この橋を利用して通学する生徒を多く見かけました。2019年の台風の豪雨で又落橋して、通行できなくなっていました。
次は大平町榎本に架かる「両明橋」です。
現在架け替え工事の為、通行止めに成っていて、榎本に渡るのにチョッピリ不便を感じますが、幹線道路では無いので、下流の「永和橋」迂回となっています。
この「両明橋」も、諏訪橋と同じ昭和9年架橋の古い橋でしたが、2015年8月に高欄を替える等の修繕を行なっており、その後の増水に何とか耐えてきていましたが、今回新しく架け替える事に成ったようです。
そして3番目は同じく大平町榎本に架かる「千部橋」です。
この「千部橋」は、主要地方道岩舟小山線が通っており、交通量も多いため、現在迂回用の仮橋を架けている段階の様です。
この「千部橋」の直ぐ下流側には、旧道に架かる昭和9年架橋の「(旧)千部橋」が、2015年の豪雨で落橋した後、生活道路として修復して残されています。
今回の工事で、新しく立派な橋が架けられた後、撤去される計画と聞いています。ただ右岸の橋詰に建てられている、「千部橋供養塔」は残して頂きたいと思います。
これらの工事がすべて完了したとき、強い永野川が誕生します。
今回参考にした資料:
・「わが町さんぽ 栃木周辺見てある記」長沼英雄著
・「栃木市史 資料編 近世」栃木市発行
・「栃木県の地名」平凡社
・「栃木市都市計画図3」栃木市発行
・「明治前期測量 2万分1 フランス式彩色地図」(下都賀郡大平町地区) 日本地図センター発行
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隅田川のナイトクルーズ船に乗船しました。
https://sayama64.blog.ss-blog.jp/2023-12-07
先日、隅田川ナイトクルーズに参加して、隅田川に架かる橋のライトアップを楽しんできました。その日はたまたま真冬のような天候になってしまいましたが、完全防寒体制で乗船、当然客室には入らず、上部デッキの最前列に陣取りました。日が暮れてからのクルージングは、予想以上に冷たい空気が、顔に容赦なく当たってきます。が、ライトアップされた隅田川の橋梁群が見られる興奮が、その寒さを跳ね返してくれます。船は両国の船乗り場から一度、隅田川を遡り、桜橋の手前でUターン。ここから隅田川を下って河口に向かって行きます。スタート地点は、東京スカイツリーをまじかに臨む、言問橋ですが、言問橋は残念ながらライトアップされていなかったので、闇の中に沈んで気が付くこともなく、スカイツリーに目を奪われたまま、言問橋の下を通過。東武スカイツリーラインの鉄橋を通過すると、目の前に三つの滑らかなアーチが、ライトアップで浮き出ています。上路式三連アーチ構造の「吾妻橋」です。橋長は、150.1m 幅員23.4m 竣工したのは昭和5年(1930)です。欄干の中央部分が、江戸紫色に照明されています。次に現れるのは、「駒形橋」です。吾妻橋が暖かい照明だったのが、一変して青系色に照明されています。三径間の中央の構造は、アーチの中間に橋桁が位置する中路式、左右の景観は橋桁の下でアーチが支える上路式と言う構造になっていて、リズミカルな印象が有ります。橋長は146.3m、幅員25.8m 竣工は昭和2年(1927)です。駒形橋を潜ると、次は「厩橋」が現れます。三連のアーチで下側の橋桁を支える、下路式構造で、三径間の中央部の桁が青系、両サイドが紫系に照明されて、スッキリとした感じがします。橋長は151.4m、幅員24.5m 竣工は昭和4年(1929)です。次に現れるのは、「蔵前橋」です。三径間で橋桁が上部に設けられ、下側になだらかなアーチで支える上路式構造で、大人しい感じの橋です。中央径間の欄干の照明は緑系で、左右の径間は淡い紫系でしょうか。橋長は173.4m 幅員23.0m 竣工は昭和2年(1927)です。蔵前橋を過ぎると、左岸に両国の船乗り場が有ります。この船も最後はこの発着場に戻ってきますが、今はさらに隅田川を下って行きます。船はJR総武線の鉄橋の下を潜り、次は「両国橋」です。が、両国橋はなぜかライトアップされておらず、闇の中に街灯の明かりだけが灯っていました。船は首都高速6..
橋梁
一味
2023-12-07T17:32:35+09:00
その日はたまたま真冬のような天候になってしまいましたが、完全防寒体制で乗船、当然客室には入らず、上部デッキの最前列に陣取りました。
日が暮れてからのクルージングは、予想以上に冷たい空気が、顔に容赦なく当たってきます。が、ライトアップされた隅田川の橋梁群が見られる興奮が、その寒さを跳ね返してくれます。
船は両国の船乗り場から一度、隅田川を遡り、桜橋の手前でUターン。ここから隅田川を下って河口に向かって行きます。
スタート地点は、東京スカイツリーをまじかに臨む、言問橋ですが、言問橋は残念ながらライトアップされていなかったので、闇の中に沈んで気が付くこともなく、スカイツリーに目を奪われたまま、言問橋の下を通過。
東武スカイツリーラインの鉄橋を通過すると、目の前に三つの滑らかなアーチが、ライトアップで浮き出ています。上路式三連アーチ構造の「吾妻橋」です。
橋長は、150.1m 幅員23.4m 竣工したのは昭和5年(1930)です。
欄干の中央部分が、江戸紫色に照明されています。
次に現れるのは、「駒形橋」です。
吾妻橋が暖かい照明だったのが、一変して青系色に照明されています。
三径間の中央の構造は、アーチの中間に橋桁が位置する中路式、左右の景観は橋桁の下でアーチが支える上路式と言う構造になっていて、リズミカルな印象が有ります。
橋長は146.3m、幅員25.8m 竣工は昭和2年(1927)です。
駒形橋を潜ると、次は「厩橋」が現れます。
三連のアーチで下側の橋桁を支える、下路式構造で、三径間の中央部の桁が青系、両サイドが紫系に照明されて、スッキリとした感じがします。
橋長は151.4m、幅員24.5m 竣工は昭和4年(1929)です。
次に現れるのは、「蔵前橋」です。
三径間で橋桁が上部に設けられ、下側になだらかなアーチで支える上路式構造で、大人しい感じの橋です。
中央径間の欄干の照明は緑系で、左右の径間は淡い紫系でしょうか。
橋長は173.4m 幅員23.0m 竣工は昭和2年(1927)です。
蔵前橋を過ぎると、左岸に両国の船乗り場が有ります。この船も最後はこの発着場に戻ってきますが、今はさらに隅田川を下って行きます。船はJR総武線の鉄橋の下を潜り、次は「両国橋」です。が、両国橋はなぜかライトアップされておらず、闇の中に街灯の明かりだけが灯っていました。
船は首都高速6号、7号が交差する「両国ジャンクション」を頭上に見て、先に進んでいくと、前方に黄色く輝く「新大橋」が近づいて来ます。
黄色に照明された橋桁が横一直線に右岸と左岸を結んでいます。その中間より左岸側に寄った辺りにやはり黄色に輝く2本の柱が建ち、そこから橋桁を支持するためのケーブルが斜めに伸びています。
二径間連続斜張橋の「新大橋」です。
橋長は170.0m 幅員24.5m 竣工は昭和52年(1977)になります。
新大橋を過ぎると、隅田川は少し右方向にカーブしているのか、その先から次の橋が見えてきました。
ライン川に架かっていたケルンのつり橋をモデルにした「清州橋」です。
2基の主塔から左右になだらかに垂れ下がるケーブルが、白く照らし出され、紫色に光る中央径間の欄干の上部に優雅な曲線を造っています。
清州橋の近くから、その主塔を見る白色のライトアップが下に下がると、徐々に影となりリベットの頭がその影の中に光浮き出る。上部からのグラデーションが主塔を力強く浮かび上がらせている。
清州橋は、平成19年(2007)に国の重要文化財に指定されました。
橋長は186.2m 幅員26.1m 竣工は昭和3年(1928)です。
清州橋を過ぎると、目の前に現れたのが「隅田川大橋」です。
この橋は二階建て構造になっていて、上を走るのが首都高9号、下が東京都道475号。
写真左側で、橋脚部に架かる緑色の橋桁が東京都道。その上に照明で白く照らされている橋脚が、首都高部分です。その空間の先に垣間見える橋が、次の「永代橋」です。大きなアーチが青色で照らされています。さらにその奥、写真中央に白く輝いている主塔はその奥の「中央大橋」になります。
「永代橋」です。中央の大きなアーチと、そこから左右に水平に伸びる桁が、青色でライトアップされて、ドッシリとした重量感が漂います。
関東大震災の復興事業で内務省復興局により架け替えられた、隅田川で最も古い橋とのことです。
清州橋と同じくこの永代橋も、平成19年(2007)に国の重要文化財に指定されました。
橋長は184.7m 幅員25.6m 大正15年(1926)の竣工です。
永代橋を過ぎると、川筋はYの字に分かれています。右方向が隅田川、左方向が晴海運河です。中央の高層ビルが林立している所は「「石川島」。船は右側の隅田川に進路を進めます。
その高層ビル群の中に、白く照らし出されている斜張橋の主塔が聳える様に建っています。
「中央大橋」です。
橋長は210.7m 幅員25.0m 竣工は平成5年(1993)です。
次に現れた橋は、「佃大橋」なんとも飾り気のないシンプルな箱桁橋です。
橋長220.0m 幅員25.4m 竣工は昭和39年(1964)になります。
船は更に隅田川を下って来ました。現れたのは「勝鬨橋」になります。
三径間で、中央部はかつては橋桁が中央部から分かれ、「ハ」の字に上方に開く構造になっていました。左右の側径間は下路式のアーチ橋になっています。しかし交通量が増えた為、昭和45年に開閉を中止しています。
この勝鬨橋も、平成19年(2007)に国の重要文化財に指定されました。
橋長246.0m 幅員26.6m 竣工は昭和15年(1940)です。
次はいよいよ隅田川の、最下流部に架かる「築地大橋」になります。
三径間連続中路式アーチ橋の、飛び跳ねる様に大きな曲線を描くアーチ部を赤色の照明を当て、その中央を横に貫く橋桁をスッキリとした白色に照らし、モダンなイメージです。
橋長は245.0m 幅員は32.3m~47.9m 竣工は平成26年(2014)と、新しい橋です。
築地大橋を抜けると、隅田川河口で東京湾に至ります。
ここに来て、右手のビルの合間に暖かなオレンジ色にライトアップされた、東京タワーが姿を現しました。
東京スカイツリーから始まった「隅田川ナイトクルーズ」、最後は東京タワーで終了です。
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山形県酒田市の山居倉庫
https://sayama64.blog.ss-blog.jp/2023-11-22
明治の初め頃までは、山形県は北・東・南の三方を山に囲まれ、陸上交通では不便な地域となっていました。唯一、西側が日本海に面した地形になっています。その中でも酒田は、県内の主要都市を巡るように流れる「最上川」の河口に位置していたことで、最上川舟運を利用して、米をはじめ紅花などの物産品の、積出港となっていました。江戸時代には、最上川流域には幕府の直轄地(天領)が多く存在していて、そのトータルは20万石とも言われていました。最上川流域各地から集積された物産品は、酒田の港から「北前船」によって、関西方面に運ばれていったのです。山居倉庫(さんきょそうこ)は、二級河川「新井田川(にいだかわ)」の河口近くの左岸に、明治26年(1893)に酒田米穀取引所の付属倉庫として、創建されました。(手前の川が「新井田川」で、右手方向が河口(酒田港)になります。最上川は写真の後方を、左から右に流れ酒田港に注いでいます。)新井田川の河口は、最上川の河口と接して、酒田港に注いでいる為、最上川舟運の荷役を取り扱う好適地になっていました。当初6棟だった倉庫も、翌年の明治27年に9棟に、その翌年に更に2棟増築、そして大正5年に一番南側の1棟が建てられています。12棟の倉庫が並ぶ景色は正に壮観です。現在は国指定史跡となっています。(山居倉庫12棟を南側から撮影)(夜の山居倉庫)山居倉庫の裏手(西側)の大きな欅並木と倉庫の家並は、酒田観光のシンボルの一つで、観光写真で良く見る景色です。(山居倉庫裏手の欅並木)<この欅は、日本海からの強風(西風)と、夏の直射日光(西日)をさえぎり、倉庫内の温度変化を少なくする目的で植えられたもので、現在41本残っている。>と、案内板に記されています。(新井田川の川面に映る倉庫群)
建物
一味
2023-11-22T15:19:01+09:00
最上川流域各地から集積された物産品は、酒田の港から「北前船」によって、関西方面に運ばれていったのです。
山居倉庫(さんきょそうこ)は、二級河川「新井田川(にいだかわ)」の河口近くの左岸に、明治26年(1893)に酒田米穀取引所の付属倉庫として、創建されました。
(手前の川が「新井田川」で、右手方向が河口(酒田港)になります。最上川は写真の後方を、左から右に流れ酒田港に注いでいます。)
新井田川の河口は、最上川の河口と接して、酒田港に注いでいる為、最上川舟運の荷役を取り扱う好適地になっていました。
当初6棟だった倉庫も、翌年の明治27年に9棟に、その翌年に更に2棟増築、そして大正5年に一番南側の1棟が建てられています。12棟の倉庫が並ぶ景色は正に壮観です。現在は国指定史跡となっています。
(山居倉庫12棟を南側から撮影)
(夜の山居倉庫)
山居倉庫の裏手(西側)の大きな欅並木と倉庫の家並は、酒田観光のシンボルの一つで、観光写真で良く見る景色です。
(山居倉庫裏手の欅並木)
<この欅は、日本海からの強風(西風)と、夏の直射日光(西日)をさえぎり、倉庫内の温度変化を少なくする目的で植えられたもので、現在41本残っている。>と、案内板に記されています。
(新井田川の川面に映る倉庫群)
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巴波川浄化センターを見学してきました
https://sayama64.blog.ss-blog.jp/2023-11-10
先月21日(土)に、栃木市城内町にある「巴波川浄化センター」で開催された、「第29回巴波川流域下水道フェスティバル」に行ってきました。ここ「巴波川浄化センター」は、「巴波川流域下水道」として栃木県に現在7か所ある「流域下水道」のひとつで、壬生町(南部地区)と栃木市の北東区域(旧栃木市・旧都賀町・旧西片町)の下水処理を担っています。栃木市には、もう一か所藤岡町藤岡に、「大岩藤浄化センター」が有って、こちらは名前の通り「大平町」「岩舟町」「藤岡町」の栃木市南西区域の下水処理を行っています。「巴波川浄化センター」を見学するのは、8年ぶりです。天気も良く大勢の見学者が訪れていました。会場では、栃木市のゆるキャラ「とち介」くんと、全国下水道マスコットキャラクター「スイスイ」くん、そしてとちぎ建設技術センターのマスコットキャラクター「スイミー」ちゃんが、お出迎えしていました。受付を済ませて、管理棟の展示コーナーで、下水道に関連したパネル展示や水質実験・微生物観察などを見て回りました。<地球上の利用できる水はどのくらい?>のパネルで、水の惑星と言われる「地球」ですが、その97.5%が海水で、淡水はわずか2.5%で、その70%近くが氷が占め、地下水や河川水、湖沼水などは地球上の水の約0.8%。さらにその殆どは地下水として存在しており、比較的利用しやすい河川水や湖沼水は、地球上の水の僅か0.01%に過ぎないと説明されています。<毎日、どのくらいの水を使っている?>のパネルで、4人家族の場合で、1日約1,000リットルの水を使っていて、その内訳がでています。我が家は現在2人暮らしですが、だからと言って半分の500リットルに収まりそうに有りません。我家の「上下水道料金のお知らせ」令和5年9月請求分を見ると、今回の使用量が「61㎥」と成っています。この期間の日数は61日間ですから、丁度1日1,000リットルになり、パネルに出ている4人家族と同じ量を使っていることになります。我家では、節水を考えて洗濯する時、前夜のお風呂の残り湯を使っていますが、それでも使い過ぎなのか。今年の夏は暑かったのに、意外と夕立や雨が少なかった精で、庭の植木などへの散水量が多くなったのかも知れません。<下水道処理場では、どんな処理がされているの?>のパネルで、ここ巴波川浄化センターにて、家庭や工場からでた汚水などを、どのように処理を行い、きれいな水にして巴波川に戻..
未分類
一味
2023-11-10T09:57:38+09:00
ここ「巴波川浄化センター」は、「巴波川流域下水道」として栃木県に現在7か所ある「流域下水道」のひとつで、壬生町(南部地区)と栃木市の北東区域(旧栃木市・旧都賀町・旧西片町)の下水処理を担っています。
栃木市には、もう一か所藤岡町藤岡に、「大岩藤浄化センター」が有って、こちらは名前の通り「大平町」「岩舟町」「藤岡町」の栃木市南西区域の下水処理を行っています。
「巴波川浄化センター」を見学するのは、8年ぶりです。天気も良く大勢の見学者が訪れていました。
会場では、栃木市のゆるキャラ「とち介」くんと、全国下水道マスコットキャラクター「スイスイ」くん、そしてとちぎ建設技術センターのマスコットキャラクター「スイミー」ちゃんが、お出迎えしていました。
受付を済ませて、管理棟の展示コーナーで、下水道に関連したパネル展示や水質実験・微生物観察などを見て回りました。
<地球上の利用できる水はどのくらい?>のパネルで、水の惑星と言われる「地球」ですが、その97.5%が海水で、淡水はわずか2.5%で、その70%近くが氷が占め、地下水や河川水、湖沼水などは地球上の水の約0.8%。さらにその殆どは地下水として存在しており、比較的利用しやすい河川水や湖沼水は、地球上の水の僅か0.01%に過ぎないと説明されています。
<毎日、どのくらいの水を使っている?>のパネルで、4人家族の場合で、1日約1,000リットルの水を使っていて、その内訳がでています。我が家は現在2人暮らしですが、だからと言って半分の500リットルに収まりそうに有りません。
我家の「上下水道料金のお知らせ」令和5年9月請求分を見ると、今回の使用量が「61㎥」と成っています。この期間の日数は61日間ですから、丁度1日1,000リットルになり、パネルに出ている4人家族と同じ量を使っていることになります。
我家では、節水を考えて洗濯する時、前夜のお風呂の残り湯を使っていますが、それでも使い過ぎなのか。今年の夏は暑かったのに、意外と夕立や雨が少なかった精で、庭の植木などへの散水量が多くなったのかも知れません。
<下水道処理場では、どんな処理がされているの?>のパネルで、ここ巴波川浄化センターにて、家庭や工場からでた汚水などを、どのように処理を行い、きれいな水にして巴波川に戻しているか、説明されています。この後設備見学会に参加して見ていきます。
管理棟2階には、巴波川浄化センターの「中央監視室」が有り、職員の方が多くの計器類を見て、設備が正常に作動している事を監視している様子を見ることが出来ました。
尚、2階フロアーには「栃木県流域下水道」のマンホール蓋や、栃木市、壬生町のマンホール蓋の展示も有り、マンホールカードの配布もされていました。
見学者も全員渡されたヘルメットをかぶり、水処理施設の見学です。
・処理工程①「沈砂池」:流入下水に含まれている大きなごみや砂を除去する。
・処理工程②「最初沈殿池」:汚水をゆるやかに流し、比較的沈殿しやすい物質を沈殿分離させる。
・処理工程③「反応タンク」:汚水に活性汚泥を加え、空気を吹き込み接触させ、有機物を分解する。
・処理工程④「最終沈殿池」:沈殿しやすい活性汚泥を沈殿させ、処理された水と泥を分離する。
・処理工程⑤「「塩素混和池」:きれいになった上澄水には、まだ大腸菌などが含まれており消毒する。
・処理工程を経てきれいになった水は、巴波川に放流します。
今回見学出来た処理工程は、②から④の水処理施設部分です。
①最初沈殿池:処理池の長さ17.2m、幅7.4m、処理時間約2時間
②反応タンク(エアレーションタンク):処理池の長さ58.8m、幅7.8m、処理時間約8時間
③最終沈殿池:処理池の長さ43.0m、幅7.4m、処理時間約4時間
処理工程②から④の水処理施設は、一直線に連なったコンクリート製で、全長は約120mと長く、殆どが暗渠状態で、一部解放されたところで、処理中の汚水を確認できました。
水処理施設に流入した汚水は、全長約120mの処理池の中を、約14時間かけて、ゆっくりと流れ(平均流速は、1時間で約8.5m)、きれいな水となります。
現在、巴波川浄化センターの水処理施設は、上記の幅約8m、全長約120mの処理池が、7系列(計画は8系列)稼働しているようです。8年前に見学したときは、まだ4系列でした。
ここでもう一度、「なぜ汚水をきれいな水に出来るのか?」見直してみます。
今回の下水道フェスティバルの会場で、「下水道クイズ」が2問出されました。
<問題1>巴波川浄化センターは、何をするところですか。
答えは、「トイレなどで使用して汚れた水(下水)を、きれいにして川に流しているところ。」です。
<問題2>巴波川浄化センターでは、どのような方法で、水をきれいにしていますか。
答えは、「微生物と呼ばれる小さな生き物を利用して、きれいにしている。」です。
浄化センターに下水管を通って送られてきた汚水は、最初にごみや砂を沈殿させて除去して、次の反応タンクにて、微生物を含んだ活性汚泥を加え、空気を吹き込んで、ブクブクとエアー撹拌すると、活性汚泥の微生物が、下水の汚れを食べていきます。次の最終沈殿池にて、汚れを食べて大きくなった微生物が下に沈み、きれいな上澄み水を次に流していき、沈んだ活性汚泥は再び前の反応タンクに戻して、その微生物でまた汚れを食べてもらう。実際はもっと複雑なシステムになっているでしょうが、汚水をきれいにする仕組みは、微生物の力を利用している。と言う事です。
それでは、どのような微生物が活性汚泥の中にいるのでしょうか。会場ではその微生物を顕微鏡を通して観察できました。
活性汚泥中に見られる微生物の種類は、とても沢山いて代表的な繊毛虫類は、「ボルティケラ」・「ズータムニウム」「アスビディスカ」「リトノトス」「オキシトリカ」「ウロネマ」などなど。
その大きさは、30μm~100μmです。
そんな小さな微生物達が頑張って汚水中の有機物を食べて、水をきれいしている訳です。
そして今、浄化センターでは、汚水処理の工程で発生した「消化ガス」を活用した、「消化ガス発電」を行ったり、水処理施設の広い上空スペースを(屋根貸し事業)として、太陽光発電事業者に貸す等、再生可能エネルギー事業も行っている説明がされました。
浄化センター敷地内には、汚泥処理工程で発生した消化ガスを活用する設備が並んでいます。
水処理施設の上部に、太陽光パネルが整然と並んで設置されています。
私たちの生活に欠かせない、下水道事業の重要性を、少し理解することが出来た見学会でした。
今回の参考資料:
見学会にて配布された資料
・「巴波川流域下水道 巴波川浄化センター」(栃木県発行)リーフレット
・「栃木県流域下水道の再生可能エネルギー」(栃木県発行)リーフレット
・「栃木県の流域下水道」(公益財団法人とちぎ建設技術センター・栃木県下水道管理事務所発行)リーフレット
及び当日会場内に展示されていたパネルの内容を利用いたしました。
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宇都宮LRTと路面電車あれこれ
https://sayama64.blog.ss-blog.jp/2023-11-05
先日、県都宇都宮に出て、今年8月に開業したLRTに乗ってきました。JR宇都宮駅東口の、LRT乗車口に向かうと、時間的に朝の通勤通学時間は、とうに過ぎている時間帯でしたが、大勢の方が乗車を待っています。まだ開業したばかりですから、観光目的の人達も多くいます。そういう私もその一人ですが。車両が入ってきました。鮮やかな黄色と黒のツートンカラーで、車体は僅かに丸みを帯び、先頭部分は緩やかな流線形を呈して、車体が低く、窓が大きく開けています。次世代型路面電車と言われる通り、近未来的なデザインで、スマートな感じを受けました。運転席はアナログの速度計の周りに赤や黄色・緑の表示灯が並び、その両側にはサイドやバックを捉えたモニター画面が、運転士に車体周辺の状態が確認できるようになっています。車内は一般の通勤通学用の車両にはそぐわないと思われますが、4人掛けのボックスシートタイプで、どちらかというと、グループや団体客用に感じました。チョット乗り降りに不便かな。それでも車体のデザインは一言で「かっこいい」車体が低いので、線路面と車体の間かなくて、路面を舐めるように走る姿は安定感を感じます。ホームと線路面の段差が少ないせいか、威圧感が有りません。逆に簡単に線路面に降りてしまうので、気を付けないと、と思いました。さて話は変わりますが、私が最初に路面電車に乗ったのは、今から60年も前、東武日光駅前から馬返しの区間です。まだ子供でしたが日光の市街地を走る姿を、僅かですが覚えています。高校生になってから、所属していた写真部の仲間と日光を訪れたときは、すでに路面電車は無くなっていました。「馬返」から「明知平」間を運行していたケーブルカーは、その時撮影しました。京都市内を走る「嵐電」には、一時私の子供が「蚕の社」の駅近くに住んでいたことで、そこを拠点に京都観光に良く利用しました。丁度「蚕の社」の駅から嵐山方面は、ほとんど「専用軌道」ですが、そこから南側「嵐電天神川」駅周辺は、自動車等も通行する「併用軌道」になっています。私は「撮り鉄」とか「乗り鉄」では有りませんので、何処にどんな鉄道や路面電車が走っているか、知識はありませんが、たまたま旅先の街で、路面電車が走っていると、ついつい写真に収めてきました。私の住む街には、路面電車は走っていませんので、路面電車を見ると無性に旅情を掻き立てられる気がします。今まで、たまたま写真に撮った国内各地の路面電車の写..
未分類
一味
2023-11-05T15:29:30+09:00
JR宇都宮駅東口の、LRT乗車口に向かうと、時間的に朝の通勤通学時間は、とうに過ぎている時間帯でしたが、大勢の方が乗車を待っています。まだ開業したばかりですから、観光目的の人達も多くいます。そういう私もその一人ですが。
車両が入ってきました。鮮やかな黄色と黒のツートンカラーで、車体は僅かに丸みを帯び、先頭部分は緩やかな流線形を呈して、車体が低く、窓が大きく開けています。
次世代型路面電車と言われる通り、近未来的なデザインで、スマートな感じを受けました。
運転席はアナログの速度計の周りに赤や黄色・緑の表示灯が並び、その両側にはサイドやバックを捉えたモニター画面が、運転士に車体周辺の状態が確認できるようになっています。
車内は一般の通勤通学用の車両にはそぐわないと思われますが、4人掛けのボックスシートタイプで、どちらかというと、グループや団体客用に感じました。チョット乗り降りに不便かな。
それでも車体のデザインは一言で「かっこいい」車体が低いので、線路面と車体の間かなくて、路面を舐めるように走る姿は安定感を感じます。
ホームと線路面の段差が少ないせいか、威圧感が有りません。逆に簡単に線路面に降りてしまうので、気を付けないと、と思いました。
さて話は変わりますが、私が最初に路面電車に乗ったのは、今から60年も前、東武日光駅前から馬返しの区間です。まだ子供でしたが日光の市街地を走る姿を、僅かですが覚えています。
高校生になってから、所属していた写真部の仲間と日光を訪れたときは、すでに路面電車は無くなっていました。「馬返」から「明知平」間を運行していたケーブルカーは、その時撮影しました。
京都市内を走る「嵐電」には、一時私の子供が「蚕の社」の駅近くに住んでいたことで、そこを拠点に京都観光に良く利用しました。
丁度「蚕の社」の駅から嵐山方面は、ほとんど「専用軌道」ですが、そこから南側「嵐電天神川」駅周辺は、自動車等も通行する「併用軌道」になっています。
私は「撮り鉄」とか「乗り鉄」では有りませんので、何処にどんな鉄道や路面電車が走っているか、知識はありませんが、たまたま旅先の街で、路面電車が走っていると、ついつい写真に収めてきました。
私の住む街には、路面電車は走っていませんので、路面電車を見ると無性に旅情を掻き立てられる気がします。今まで、たまたま写真に撮った国内各地の路面電車の写真を紹介します。
まずは東京、「都電荒川線」
北海道は函館、「函館市電」
「函館市電」は、函館市内観光の足として重宝しました。特に夜間のライトアップした建物の撮影時は、市電が有ったので最終近くまで町の中を安心して行動出来ました。
九州は「長崎電気軌道」
そして、もう一つ「熊本市電」
四国愛媛県は松山、「伊予鉄道松山市内線」。道後温泉駅前には復元された「坊ちゃん列車」が停車していました。残念ながら乗車する時間は有りませんでした。
そしてもう一か所、高知県「とさでん交通」
多くの路面電車は、同一路線に色々な型式デザインの車両が、走行しているので、見ていても飽きないです。その殆どが、明治時代の後期から大正時代の開業で、今回宇都宮市のLRTの開業は、路面電車の新規開業としては国内で75年ぶりと言う事で、大きな話題となっています。
現在は、JR宇都宮駅東口前から芳賀工業団地を結ぶ、総延長14.6kmの一路線ですが、計画としてはJR宇都宮駅の西側への延伸もあると聞きます。
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藤岡神社と森鴎村
https://sayama64.blog.ss-blog.jp/2023-10-20
栃木市藤岡町に鎮座する「藤岡神社」は、群馬県との県境、旧渡良瀬川の左岸に位置しています。藤岡町の中心市街地をほぼ南北に縦断する、県道9号(佐野古河線)は、市街地の南の端にて、直角に東に折れています。その南の端から手前に25メートルほど戻ったところに、信号機の有る小さな交差点が有ります。左(東方向)に折れると、北側角にお地蔵さんが立っていて、その先道路の両側に石柱が建っています。曹洞宗繁桂寺の西の入口に当たります。この道を真っ直ぐ進むと、寺の山門前に至ります。一方、交差点を右(西方向)に折れて行くと、東武日光線の踏切を渡ります。その先で道路は三差路に。その真ん中の道に、大きな石の鳥居が建っています。神額は掲げられていませんが、手前右脇に「藤岡神社」と刻した大きな石標が建てられています。「藤岡神社」の一の鳥居を潜って、真っ直ぐ西に進むと、500メートル程で「藤岡神社」の前に至ります。神社の境内入口脇に、立派な欅の大木が聳える様に、空に向かって枝を広げています。平成元年(1989)に、栃木県名木百選にされた、樹齢約400年と推定される欅です。「藤岡神社」の境内を見てみると、豊かな鎭守の森の中に、良く整備された社殿が並んでいます。右手に神楽殿。左手に手水舎、本殿の裏手には常宝殿。神社の境内には、26基もの石碑が建てられていますが、社殿の修改築記念や伊勢参宮記念、聖徳太子碑や金毘羅大権現碑など、神社関係の石碑がほとんどです。藤岡神社境内に建つ石碑の分布状態を概略図にしてみました。境内には他に、鳥居や石灯篭、狛犬など多くの石造物も多く建てられています。句碑も3基建てられていますが、内1基は松尾芭蕉の句碑「市人に いで是うらん 雪の笠」になります。※句碑2が、松尾芭蕉の句碑になります。神社関係の石碑の中に、藤岡神社の由緒を記した碑が、社殿に向かって右手、社殿の脇を入って行った、奥の木々の中に建てられています。背の高い石碑で、石碑上部の篆額に「藤岡神社碑」と陽刻されています。この篆額の文字は、正二位勲一等伯爵松方正義が揮毫しています。碑文を見てみます、私の苦手な漢文体で、見たことの無いような旧字体の漢字が、並んでいます。幸い、人名や地名、年号数字など、読解可能な部分を繋げて、おおよその内容を感じ取れたような気がします。・藤岡神社は旧称「六所大明神」。伊弉諾尊・伊弉冉尊・天照皇大神・月讀尊・天兒屋根命・天宇豆女命の六神をお祀りし、..
石碑
一味
2023-10-20T10:27:07+09:00
藤岡町の中心市街地をほぼ南北に縦断する、県道9号(佐野古河線)は、市街地の南の端にて、直角に東に折れています。その南の端から手前に25メートルほど戻ったところに、信号機の有る小さな交差点が有ります。
左(東方向)に折れると、北側角にお地蔵さんが立っていて、その先道路の両側に石柱が建っています。曹洞宗繁桂寺の西の入口に当たります。この道を真っ直ぐ進むと、寺の山門前に至ります。
一方、交差点を右(西方向)に折れて行くと、東武日光線の踏切を渡ります。その先で道路は三差路に。その真ん中の道に、大きな石の鳥居が建っています。神額は掲げられていませんが、手前右脇に「藤岡神社」と刻した大きな石標が建てられています。
「藤岡神社」の一の鳥居を潜って、真っ直ぐ西に進むと、500メートル程で「藤岡神社」の前に至ります。
神社の境内入口脇に、立派な欅の大木が聳える様に、空に向かって枝を広げています。平成元年(1989)に、栃木県名木百選にされた、樹齢約400年と推定される欅です。
「藤岡神社」の境内を見てみると、豊かな鎭守の森の中に、良く整備された社殿が並んでいます。右手に神楽殿。左手に手水舎、本殿の裏手には常宝殿。
神社の境内には、26基もの石碑が建てられていますが、社殿の修改築記念や伊勢参宮記念、聖徳太子碑や金毘羅大権現碑など、神社関係の石碑がほとんどです。
藤岡神社境内に建つ石碑の分布状態を概略図にしてみました。
境内には他に、鳥居や石灯篭、狛犬など多くの石造物も多く建てられています。
句碑も3基建てられていますが、内1基は松尾芭蕉の句碑「市人に いで是うらん 雪の笠」になります。
※句碑2が、松尾芭蕉の句碑になります。
神社関係の石碑の中に、藤岡神社の由緒を記した碑が、社殿に向かって右手、社殿の脇を入って行った、奥の木々の中に建てられています。背の高い石碑で、石碑上部の篆額に「藤岡神社碑」と陽刻されています。
この篆額の文字は、正二位勲一等伯爵松方正義が揮毫しています。
碑文を見てみます、私の苦手な漢文体で、見たことの無いような旧字体の漢字が、並んでいます。
幸い、人名や地名、年号数字など、読解可能な部分を繋げて、おおよその内容を感じ取れたような気がします。
・藤岡神社は旧称「六所大明神」。伊弉諾尊・伊弉冉尊・天照皇大神・月讀尊・天兒屋根命・天宇豆女命の六神をお祀りし、藤岡の里の鎭守とした。
・天正五年(1577)四月、藤岡城主佐渡守清房の時、佐野の宗綱に攻められ、社殿はその兵火により焼失した。
・天正十八年(1590)、社殿を再建した。
・元禄七年(1694)、社殿を建て替えた。
・正徳二年(1712)、京都の神祇伯より正一位の神号を授かる。
・文政四年(1821)、「紫岡神社」に改名する。
・明治八年(1875)、「藤岡神社」に改名する。
他にもいろいろ記されているものの、読み切れませんでした。
この碑文は、明治35年8月 勅使議員で正四位勲三等文学博士の、重野安繹撰、書いた人物は吉田晩稼という長崎出身の書家、「靖國神社」の大石標の文字も晩稼の揮毫した人物です。
次に、本殿に向かって左手方向手前、手水舎の裏手に、「鷗村先生碑」と篆額に陽刻された石碑が建てられています。地元藤岡町出身「森 鴎村」の顕彰碑です。顕彰碑はこの「鷗村先生碑」の1基だけになります。
篆額の文字は、同じく地元出身の実業家「岩崎清七」が揮毫しています。
碑文を見てみます。これも漢字がずらっと並んでいます。その漢字の中には私が70年間生きてきた中で、一度もお目にかかったことの無いような漢字が、いくつも出てきて、とても読めるものではありません。例えば「糶糴」、(これは「ちょうてき」と呼んで、「米の売買」の事。碑文中では、森鴎村の曽祖惣吉の職業として記されています。)とか、「諤諤」「惴惴」「嘐嘐」など。さらには、「漢字源」で引いても出てこない漢字も。とりあえず碑文を書き写してみました。わからない漢字は■にしました。
碑文だけでも漢字が999字、句読点も改行も無く並んでいます。
この碑文は、幕末期の仙台藩士、明治時代の漢学者「岡 千仭」の撰文です。
「森 鴎村」については、藤岡町史通史編後編、第六章近代藤岡の黎明 二明治初期の教育と文化、に記されていましたので、抜粋して参照させていただきます。
<森鴎村は天保12年(1831)に藤岡の名主の家に生まれた。幼名を定助、後に定吉、諱を保定といい、鴎村と号した。父邦治の後を継いで名主となったが領主の専横によって免職となり、その際帳簿の引継ぎをめぐって領主の不興を買って獄につながれた。
幼少から漢学に親しんでいた鴎村は江戸に出て藤森天山・安積艮齋・萩原西疇など一流の学者について学び、諸国を廻った後帰郷して農業のかたわら塾を開いた。この塾は、明治15年には漢学科の私立学校鴎村学舎となった。鴎村は明治40年1月77歳で亡くなるまで、多くの近郷の子弟を教育し、その中には、岩崎清七(藤岡町・実業家)や、足尾鉱毒反対運動の指導者碓井要作(下都賀郡生井村・県議)、松本英一(群馬県邑楽郡海老瀬村・村長)などもいる。・・・(後略)>
この「鷗村先生碑」の碑陰には、篆額の文字を揮毫し、この石碑の建立に尽力し、鷗村学舎の門人でもあった岩崎清七が、建碑に至るまでの経緯を記しています。
幸い碑陰の文章は漢文体ではなく、旧仮名遣いや変体仮名が使われていますが、「わかち書き」の文章体で書かれているので、変体仮名にはてこずりましたが、私にも何とか読み解くことが出来ました。
<森鴎村先生の石碑の建設計画は明治22年8月、岩崎が米国留学から帰国したときに遡る。
当時建碑の資金調達にあたって、誰にも迷惑に成らない方法として、先生に書幅の揮毫をして頂き、門人その他有志者に分配して、三百五六拾円の基金を得、岩崎が保管利殖していたが、明治39年4月、鷗村先生の自宅が隣家の失火により類焼してしまった。そこで住宅建築費として、その基金を全て提供することとした。そのような事情で顕彰碑の建立は一時頓挫する形で、月日が流れた。森鴎村が亡くなった後岩崎清七は、森鴎村が心血を注がれた詩文の散逸を防がんと、鷗村遺稿と其続編とを出版して、各方面に寄附して、当代文学者界に、森鴎村先生の存在を認識させました。残るは先生の顕彰碑を建立する、その一事を残すだけとなり、昭和12年6月20日念願の石碑の建立を果たした。と記しています。>
森鴎村は、よく顕彰碑等の碑文の撰者として、乞われていた様で、栃木市周辺にて森鴎村撰文の石碑を見ることが出来ます。私がこれまで収集した森鴎村撰文の石碑を紹介します。
まず、同じ藤岡神社の境内に建つ「伊勢参宮奏神楽記」です。これは明治17年(1883)建立です。篆額の文字は、正三位勲三等侯爵西園寺公望の揮毫です。そして同じく藤岡町城山の旧渡良瀬川の葭立堰堤近くに建てられている、「葭立修隄碑」です。明治26年(1893)9月の建立になります。篆額は栃木縣知事從四位勲三等折田平内が揮毫しています。
藤岡町大前の大前神社境内にも2基の鷗村撰文の石碑が有りました。
「山士家翁碑」は、明治32年(1899)12月建立で、篆額は内務大臣元帥海軍大将正二位勲一等功二級侯爵西郷從道が揮毫しています。そしてもう1基は、「式内國幣大前神社拝殿改作記」で、明治12年(1879)9月に建てられています。
太平山公園内謙信平の南麓を一段下がった道の脇に、「添野五耕翁碑」の碑文の森鴎村の撰文です。明治27年(1894)8月の建立で、篆額は従二位勲一等宮中顧問官子爵品川彌二郎の揮毫。
最後は佐野市葛生町山菅の、「影山新吉招魂之碑」です。明治15年(1882)3月12日建立。篆額は渡邉 醇の揮毫になります。
他にもまだ有りますが、まだ収集できていません。これからもまだ探して行きます。
今回参考にした資料は:
・藤岡町史通史編後編 藤岡町発行
・ふじおか見てある記 藤岡町教育委員会発行
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童謡詩人「金子みすゞ」の世界に
https://sayama64.blog.ss-blog.jp/2023-09-25
2011年(平成23年)3月11日、午後2時46分、今まで経験をした事の無い、大きな大地の揺れが、東日本全域に発生しました。「東日本大震災」です。その災害の後しばらく、民放テレビ各局のCM放送が無くなり、私たちは「一編の詩」を耳にすることになりました。 「遊ぼう」っていうと 「遊ぼう」っていう。 「馬鹿」っていうと 「馬鹿」っていう。 「もう遊ばない」っていうと 「遊ばない」っていう。 そうして、あとで さみしくなって、 「ごめんね」っていうと 「ごめんね」っていう。 こだまでしょうか、 いいえ、誰でも。この詩が、何度も何度も、私の耳に入ってきました。この詩が、誰のものかその当時は、全く知りませんでした。「金子みすゞ」という名前を知ったのは、それからだいぶ経った後になります。先日、「金子みすゞ」(本名テル)が、生まれ育った、山口県長門市仙崎を訪れ、仙崎駅から彼女が育った家(現在は復元された金子みすゞ記念館)まで、歩いてきました。山口県長門市仙崎は、山口県の日本海側の、海に面した長門市の中央部、海に万年筆のペン先のような形で突き出た、その先端部分に栄えた漁師町で、その北側には日本海側の島では、佐渡島、隠岐の島に次いで、三番目に大きな島「青海島」がペン先に乗るように迫っています。海に突き出た仙崎の街は、北側を青海島により、外海から遮断され、東側には「仙崎湾」、西側には「深川湾」と言う内海を形成、漁港として恵まれていました。そのような自然環境で、明治のころまで捕鯨の街としても栄えていました。万年筆のペン先の様に突き出た地形の、西側の付け根に位置する長門市の市街地から、山陰本線の支線「仙崎線」が、ペン先の中ほどまで伸び、仙崎駅へと繋がっています。その仙崎駅の駅前から、真っ直ぐ北に向かう通りは、ペン先の先端までインクを通すスリットの様に見えます。仙崎駅前から先端まで約1km。(先端には以前は、青海島に渡る「渡船場」が有ったようです)その通りを370mほど歩いた右側に、復元され「金子文英堂」の看板を掲げた、「金子みすゞ記念館」が有ります。この仙崎駅前から、仙崎の街の中央を縦断する通りは、現在「みすゞ通り」と呼ばれ、通りの各所に金子みすゞの写真のモザイク画や、みすゞの詩が掲示されています。幾つか紹介します。最初は仙崎駅待合室の壁いっぱい..
石碑
一味
2023-09-25T11:11:08+09:00
その災害の後しばらく、民放テレビ各局のCM放送が無くなり、私たちは「一編の詩」を耳にすることになりました。
「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。
「馬鹿」っていうと
「馬鹿」っていう。
「もう遊ばない」っていうと
「遊ばない」っていう。
そうして、あとで
さみしくなって、
「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。
こだまでしょうか、
いいえ、誰でも。
この詩が、何度も何度も、私の耳に入ってきました。
この詩が、誰のものかその当時は、全く知りませんでした。
「金子みすゞ」という名前を知ったのは、それからだいぶ経った後になります。
先日、「金子みすゞ」(本名テル)が、生まれ育った、山口県長門市仙崎を訪れ、仙崎駅から彼女が育った家(現在は復元された金子みすゞ記念館)まで、歩いてきました。
山口県長門市仙崎は、山口県の日本海側の、海に面した長門市の中央部、海に万年筆のペン先のような形で突き出た、その先端部分に栄えた漁師町で、その北側には日本海側の島では、佐渡島、隠岐の島に次いで、三番目に大きな島「青海島」がペン先に乗るように迫っています。
海に突き出た仙崎の街は、北側を青海島により、外海から遮断され、東側には「仙崎湾」、西側には「深川湾」と言う内海を形成、漁港として恵まれていました。
そのような自然環境で、明治のころまで捕鯨の街としても栄えていました。
万年筆のペン先の様に突き出た地形の、西側の付け根に位置する長門市の市街地から、山陰本線の支線「仙崎線」が、ペン先の中ほどまで伸び、仙崎駅へと繋がっています。
その仙崎駅の駅前から、真っ直ぐ北に向かう通りは、ペン先の先端までインクを通すスリットの様に見えます。
仙崎駅前から先端まで約1km。(先端には以前は、青海島に渡る「渡船場」が有ったようです)その通りを370mほど歩いた右側に、復元され「金子文英堂」の看板を掲げた、「金子みすゞ記念館」が有ります。
この仙崎駅前から、仙崎の街の中央を縦断する通りは、現在「みすゞ通り」と呼ばれ、通りの各所に金子みすゞの写真のモザイク画や、みすゞの詩が掲示されています。幾つか紹介します。
最初は仙崎駅待合室の壁いっぱいに描かれた、「金子みすゞ」の顔のモザイク画。モザイク画の一片一片に使われているのは、蒲鉾の板を利用しているそうです。(仙崎の特産の一つは、蒲鉾ですから)
そして仙崎駅舎の東側に建つ、「みすゞの詩碑」です。
碑文の部分を拡大してみます。
この詩の作品名は「星とたんぽぽ」です。この作品は小学校の国語教科書に掲載されました。
碑文を書き写してみます。
青いお空の
そこふかく
海の小石のそのように
よるがくるまで
しずんでる
昼のお星は
めにみえぬ
見えぬけれども
あるんだよ
見えぬものでも
あるんだよ
金子みすゞの詩
星とたんぽぽより
この碑に刻まれた詩の内容は、作品全体の前半の半分だけです。元の詩には、この後以下の様に続いています。
ちってすがれたたんぽぽの、
かわらのすきにだアまって、
春のくるまでかくれてる、
つよいその根はめにみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。
仙崎駅前の、みすゞ通りを見通せる場所に、本を開いた形のモニュメントが建っています。
右のページには、仙崎の街の地図が、左のページには、金子みすゞと「みすゞ通り」のことが刻されていますが、風雨にさらされてきた精でか、相当かすれてしまっています。
みすゞ通りの最初の大きな交差点の、左向こうの商店に、モザイク画で描いた「花津浦」の景色とみすゞが詠んだ「花津浦」の詩。そしてもう一編「蛍のころ」の詩が掲示されています。
「花津浦」は、青海島の周りに点在する奇岩の一つ、金子みすゞは、仙崎八景の一つに歌っています。
通りを先に進むと、右側の路地の入口に石の鳥居が建っています。横の家のしゃれた半月の窓のところに、みすゞの詩「祇園社」の一編が掲示されています。
このように、「みすゞ通り」に面する多くの家々で、みすゞの詩を掲示しています。
これらを、一つ一つ見て読んでいると、あっという間に時間が過ぎて行ってしまいます。
記念館の通りの向かいの家の側面に、また蒲鉾の板を利用して描かれた、みすゞの顔のモザイク画、
「わたしと小鳥と鈴と」の詩が、描かれていたようですが擦れて読みにくくなっています。
その先の路地の「角の乾物屋」。たばこのショーケースの下に、「角の乾物屋の」の詩が。
金子みすゞ(本名テル)は、明治36年(1903)4月11日、山口県大津郡仙崎村(現在の山口県長門市仙崎)に、父金子庄之助と母ミチの長女として生まれました。みすゞには2歳年上の兄「堅助」と、2歳年下の弟「正祐」が居りましたが、みすゞ2歳の時に父庄之助が、享年31歳で亡くなりました。そしてその翌年に、1歳とまだ幼かった弟「正祐」が、下関にて書店「上山文英堂」を営む、義弟「上山松蔵」の養子として、貰われて行きました。明治40年1月19日のことです。このころ金子家は兄の「堅助」が、仙崎に一軒しかない本屋「金子文英堂」を始めました。
少女時代のみすゞは、こうして書籍や文字に、おのずから触れる環境の中で暮す事になったようです。
大正8年(1919)8月26日、みすゞの母ミチが、下関の上山松蔵の後妻として、仙崎から出ていきました。母ミチの妹で、松蔵の妻であった「フジ」が前年の11月8日に死去したのが、きっかけだったようです。フジ、享年満42歳でした。
こうして、仙崎の金子家は、祖母「ウメ」と兄とみすゞの、3人暮らしとなってしまいました、みすゞが16歳の夏のことでした。
大正11年(1922)11月3日、兄「堅助」が結婚をしました。そして、それを契機にみすゞは、母の住む下関の上山文英堂書店に移りました。大正12年4月14日のことになります。みすゞ20歳の年でした。
これからみすゞは下関にて、本格的に作詩を始めることになります。
みすゞが作った512編の詩の全てが、下関に移ってから、昭和5年(1930)3月10日自死するまでの7年間に作られました。
山口県下関市唐戸周辺には、みすゞのゆかりの地や詩碑が建てられ、「金子みすゞ詩の小径」として、みすゞの足跡を訪ね歩くことが出来ます。その何点かをご紹介してみたいと思います。
上の2枚の建物の写真は、左側が国登録有形文化財(建造物)で、日本最古の現役郵便局舎「下関南部町郵便局」と、右側の下関市指定有形文化財(建造物)の「旧秋田商会ビル」になります。きっと金子みすゞもこれらの建物を見ていたし、この郵便局から雑誌社宛に、作品を投稿していたのでしょう。
旧秋田商会ビルの前に、「金子みすゞ詩の小径」出発点の詩碑が建てられています。この詩碑に掲載されている作品は「障子」です。
次は、近くの寿公園に建てられた、「金子みすゞ顕彰碑」です。
中央には、下関に移り住んだ頃(20歳)のみすゞの顔写真。左側に作品「はちと神さま」の詩。右側に、「金子みすゞと上山文英堂」のことが記されています。
みすゞが下関に移って暮らしていた「上山文英堂本店」は、顕彰碑の建つ寿公園の前の道を、道なりに南に200メートルほど行った、通りの左手(東側)に有りました。当時の住所表示は、下関西南部四番地、現在「明治安田生命保険相互会社山口支店」が建っている辺りに成ります。みすゞが生活をしていた頃は、上山文英堂本店の左隣には、第百十銀行本店ビルが建っていました。
金子みすゞ顕彰碑の前から、今度は北に250メートルほど行ったところ、歩道の車道を背にして詩碑が建てられています。「黒川写真館跡」の詩碑には、ここ黒川写真館(現在は村田写真館)で撮影された「金子みすゞ20歳の写真」と、「山の子濱の子」の詩が刻まれています。
上山家では、住まいから近かったこの「黒川写真館」にて、よく記念写真を撮っていたようです。
「金子みすゞ詩の小径」には、他にもう一か所写真館が出てきます。「三好写真館」です。
「三好写真館」は、唐戸町の「亀山八幡宮」の参道石段の西側に有りました。現在はコインパーキングになっていますが、歩道側に向かって詩碑が建てられています。
「三好写真館跡」の詩碑には、「鶴」と題する詩が刻まれています。
以下に、詩碑に刻まれた碑文の冒頭部を抜粋して掲載します。
<金子みすゞは、亡くなる前日の1930(昭和5)年3月9日、亀山八幡宮参道そばの、この場所に有った三好写真館で、最後の写真を撮りました。そのときの心情は、想像にあまりあります。(後略)> 碑文の隣に、その時撮った写真も刻まれています。
この三好写真館は上山文英堂本店から約700メートルと、黒川写真館までの距離250メートルと比べると、3倍近く遠方の場所なのに、なぜ遠い三好写真館まで出かけて、最後の写真を撮ったのでしょうか。記念撮影の翌日、みすゞは睡眠薬を多量に飲んで自殺をしました。享年満26歳の若さでした。
最後に、もう一つ詩碑を紹介します。
この詩碑は、亀山八幡宮の西参道鳥居を出た通りを、左方向に約90メートルほど行った、唐戸銀天街の中ほどに建てられています。1997年3月9日に彫刻シンポジウム実行委員会によって建てられています。
金子みすゞの詩は、口語体の話し言葉で、とても読みやすい、七五調で書かれているのも、読みやすさを増幅させています。リズムが有るからでしょう。その詩の特徴の一つとして、視点の逆転が多くみられます。この「日の光」の作品の中にも、四人の「おてんとさまのお使い」みちで出逢った南風に、何をしに行くのか答えていきます。最初の3人は日の光の陽の部分です。けれども最後のお使いは、寂しそうに言います。「私は、影をつくるため・・・・。」と、陰の部分です。視点が逆転しています。
最初に載せた詩は、「こだまでしょうか」と題する作品です。
今年は、金子みすゞ生誕120年になります。
私も、また金子みすゞが育った長門市仙崎の街を訪れ、ゆっくりと散策をしてみたいと思います。
今回の参考資料:
・金子みすゞ詩集 金子みすゞ著 (株)角川春樹事務所発行
・金子みすゞ 詩と真実 詩と詩論研究会編集 勉誠出版(株)発行
・童謡詩人金子みすゞの生涯 矢崎節夫著 JULA出版局発行
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宮城県石巻市周辺の震災遺構を見学してきました。
https://sayama64.blog.ss-blog.jp/2023-09-04
今年の夏、宮城県石巻市周辺の「東日本大震災」の震災遺構を見学に行ってきました。2011年3月11日午後2時46分に発生した、マグニチュード9.0の巨大地震と、それに伴って発生した大津波に東北地方の太平洋沿岸に、潰滅的な被害を与えました。あの日から、12年の月日が経過していますが、今回訪問した石巻市周辺は、まだまだいたる所に震災の傷跡が残っていますし、あの震災の悲劇を後世に残すため、「震災遺構」として保存する活動も各地で行われています。今回、それらの震災の記憶と教訓を後世に伝え継ぐ為の、「震災遺構」や「震災伝承館」のいくつかを見て回りました。東松島市野蒜地区の震災遺構「旧野蒜駅プラットホーム」です。復旧した仙石線の野蒜駅の新駅舎は、北側の高台に移っています。被災した旧野蒜駅舎は、現在「東松島市震災復興伝承館」として、被災時の様子を写真や映像で紹介しています。建物の壁面に、津波で浸水した高さを記したプレートが、掲示されています。3.7m。私の身長の倍以上です。石巻市南浜・門脇地区では、500人を超える尊い命が犠牲に成ったと言います。ここに、「石巻市震災遺構門脇小学校」があります。昨年令和4年4月整備が終え、一般に公開されています。被災した本校舎の前に、被災前の姿を映した写真が掲示されていました。そこに記された説明文を、抜粋紹介させて頂きます。<白壁が美しい門脇小学校の校舎は、津波と津波火災の延焼により、一夜にして黒い校舎へと変わりました。時が経ち、白さを取り戻しはじめた校舎は、あの日の記憶や教訓を伝え続けるとともに、津波と津波火災の痕跡を残す唯一の遺構として、ここに建っています。・・(後略)・・。><地震発生後、学校にいた児童・教職員らは訓練どおりに日和山へと避難しました。地震から約1時間後、大津波が襲来。津波火災が発生し、校舎は炎に包まれました。(中略) 避難を考えるとき垂直避難だけでは難しい一面が有ることを伝えています。>(石巻市震災遺構門脇小学校リーフレットより)今、校舎の中央正面玄関の両脇に、被災をした樹木が、枝を伸ばし、青々とした葉を付けていました。自然の力強さを感じました。震災遺構門脇小学校の有る門脇町の南側、石巻港の海沿いにひろがる南浜地区は、東側を流れる旧北上川右岸から、一丁目・二丁目・三丁目・四丁目と多くの商店や住宅が建ち並んでいましたが、1,885世帯が潰滅的な被災をしてしまいました。今は、「石巻..
未分類
一味
2023-09-04T21:35:33+09:00
2011年3月11日午後2時46分に発生した、マグニチュード9.0の巨大地震と、それに伴って発生した大津波に東北地方の太平洋沿岸に、潰滅的な被害を与えました。
あの日から、12年の月日が経過していますが、今回訪問した石巻市周辺は、まだまだいたる所に震災の傷跡が残っていますし、あの震災の悲劇を後世に残すため、「震災遺構」として保存する活動も各地で行われています。
今回、それらの震災の記憶と教訓を後世に伝え継ぐ為の、「震災遺構」や「震災伝承館」のいくつかを見て回りました。
東松島市野蒜地区の震災遺構「旧野蒜駅プラットホーム」です。
復旧した仙石線の野蒜駅の新駅舎は、北側の高台に移っています。被災した旧野蒜駅舎は、現在「東松島市震災復興伝承館」として、被災時の様子を写真や映像で紹介しています。
建物の壁面に、津波で浸水した高さを記したプレートが、掲示されています。3.7m。私の身長の倍以上です。
石巻市南浜・門脇地区では、500人を超える尊い命が犠牲に成ったと言います。
ここに、「石巻市震災遺構門脇小学校」があります。昨年令和4年4月整備が終え、一般に公開されています。
被災した本校舎の前に、被災前の姿を映した写真が掲示されていました。そこに記された説明文を、抜粋紹介させて頂きます。
<白壁が美しい門脇小学校の校舎は、津波と津波火災の延焼により、一夜にして黒い校舎へと変わりました。時が経ち、白さを取り戻しはじめた校舎は、あの日の記憶や教訓を伝え続けるとともに、津波と津波火災の痕跡を残す唯一の遺構として、ここに建っています。・・(後略)・・。>
<地震発生後、学校にいた児童・教職員らは訓練どおりに日和山へと避難しました。地震から約1時間後、大津波が襲来。津波火災が発生し、校舎は炎に包まれました。(中略) 避難を考えるとき垂直避難だけでは難しい一面が有ることを伝えています。>(石巻市震災遺構門脇小学校リーフレットより)
今、校舎の中央正面玄関の両脇に、被災をした樹木が、枝を伸ばし、青々とした葉を付けていました。
自然の力強さを感じました。
震災遺構門脇小学校の有る門脇町の南側、石巻港の海沿いにひろがる南浜地区は、東側を流れる旧北上川右岸から、一丁目・二丁目・三丁目・四丁目と多くの商店や住宅が建ち並んでいましたが、1,885世帯が潰滅的な被災をしてしまいました。
今は、「石巻南浜津波復興祈念公園」として整備され、公園内には宮城県全体の被災状況を伝える、「みやぎ東日本大震災津波伝承館」や、被災の傷跡を残す「門脇保育所跡」が有ります。
上の写真は、旧門脇保育所の建物の基礎部分です。右手奥に写る建物は「みやぎ東日本大震災津波伝承館」。左手の小丘は「一丁目の丘」です。
脇に「旧門脇保育所」の説明板が建っています。震災当時の保育所長から頂いたコメントが記されています。抜粋してコメント内容を紹介させて頂きます。
<(前略)・・平成23年3月11日のあの日。経験したことのない揺れ、けたたましいサイレンの音。一刻も早く子どもたちを安心できる場所に。1.8km離れた山の上に有る石巻保育所への避難を決断するのに、時間はかかりませんでした。子どもたちが出発したのは15時15分。0歳児はおんぶ、1,2歳児は避難車に乗せ、3歳児からは走る。毎月行っていた避難訓練のおかげで子どもたちの行動も早く、坂道を懸命に避難し、15時50分頃に石巻保育所に到着しました。・・(後略)・・>
文章の隣には、被災前の建物の写真や、被災直後の保育所の状況写真も添付されています。その写真には、建物はすっかり破壊され、瓦礫の山だけが無残な姿で写っていました。
「みやぎ東日本大震災津波伝承館」には、この日も多くの見学者が、訪れて来ていました。
館内に展示された、パネルや写真を通して、改めて地震津波の破壊力の強大さを、感じさせられます。
日本列島は、ユーラシアプレート・太平洋プレート・フィリピン海プレート・北米プレートと言う、4つのプレート(岩盤)に囲まれ、海の下では、新しいプレートが常に生まれており、陸のプレートの方へと押し寄せています。地震は、プレートがぶつかり押し合う事で発生すると、記されています。
それでは。津波が起こったらどうすれば良いのか。「すぐに、より高い所へ逃げる!」
今回の震災の経験で得られた、教訓を今後の生活の中に、生かしていく事が、我々に課せられていると、考えなければならない。地震は又、必ず発生するのだから。
<津波は川からと陸から襲ってきました。高さ8.6mもの津波が学校をのみこんだのです。児童74名、教職員10名が犠牲になりました。大川地区全体では418名が津波の犠牲に成りました。石巻市は、この事象と教訓を伝え続けるために、学校を震災遺構として残しました。いのちについて考える場所となったのです。>
この言葉は、「石巻市震災遺構大川小学校」のリーフレットの中に記された言葉です。
津波により破壊された大川小学校の校舎。鉄筋がむき出しになっています。校舎と体育館を結ぶ渡り廊下は支柱の根元から、折れ曲がって倒れてしまっています。まさに「無残」な姿をさらしています。
犠牲と成られた児童さん達の、恐怖・苦しみ・悲しみ・その胸の内を思うに、言葉を全て失います。
震災から12年が経って、宮城県下の復旧・復興は、ほぼ100%に達する状況に有るそうです。
新型コロナの感染対策も、5類への引き下げで、行動内容も大分緩和され、国内の観光地も人手が戻ってきているようで、今回女川町で海鮮丼を食べるのも、お店によっては70分待ちとかで、多くの観光客が来ていることを実感しました。
女川駅前から海岸に通ずる通りは、綺麗に整備されています。
海岸線には、新しく築かれた「防潮堤」。そのスケールの大きさが目を引きます。
住民の命を守るための、砦の城壁の様に。
今回の参考資料:
・「石巻市震災遺構 門脇小学校」リーフレット
・「石巻南浜津波復興祈念公園」リーフレット
・「みやぎ東日本大震災津波伝承館」リーフレット
・「石巻市震災遺構 大川小学校」リーフレット
・「みやぎ・復興の歩み12」パンフレット 宮城県震災復興本部 令和5年3月発行
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栃木県足利市の戊辰戦争関連石碑を巡る
https://sayama64.blog.ss-blog.jp/2023-08-29
群馬県の倉賀野にて中山道から分岐して、日光東照宮に向かう旧日光例幣使街道。群馬県太田市から栃木県足利市に入ると、最初の宿は八木節発祥の地「八木宿」。そこから更に三十町(約3.3km)東の方向に進むと、「梁田宿」に入ります。この足利市梁田町の中ほど、旧日光例幣使街道沿いに「旧日光例幣使街道梁田宿」と記した石碑が建てられています。平成二十二年五月に、御厨郷土文化研究会の五十周年を記念して、同会と梁田地区自治会連合会とによって建てられています。この石碑の建つ脇の道を入ると、突き当りに寺院が見えます。山門脇に「曹洞宗梁田山長福寺」と刻した石碑が建っています。この寺院の境内に、「明治戊辰梁田役東軍戦死者追弔碑」が建てられています。石碑の横に建つ足利教育委員会による説明文を参照させて頂くと、<(前略) 梁田戦争は慶応四年(1868)三月、例幣使街道梁田宿でおこった旧幕府軍と官軍との戦いである。内田万次郎は幕府軍として父と共に参戦し、その後も五稜郭の戦いまで各地を転戦した。戦後、大蔵省印刷局に奉職し、退職後碑を建立した。戊辰戦争慰霊碑や墓碑において、幕府軍の名を刻んだものが少ない中、「東軍」と幕府軍であることを刻む当碑の歴史的価値は髙い。>と、記されています。文中の「内田万次郎」は、碑陰に「大正十三年九月 従軍衝鋒隊士 従四位勲三等内田万次郎建之」と刻されている人物に成ります。碑は、足利市重要文化財(史跡)に指定をされています。更に、本堂の左手奥の墓地の中に、「梁田戦争戦死塚」が有ります。こちらも塚の脇に建つ説明文を参照させて頂くと、<慶応四年(1868)三月九日未明に勃発した、いわゆる梁田戦争に倒れた幕軍戦死者の墓である。表面に 戦死塚 裏面に 慶応四戊辰年三月九日 戦死六十四人此地埋 梁田宿 と行書をもって陰刻してある。梁田戦争の直後、村民の手により渡良瀬河原に合葬し墓碑を建てた。しかし、河流の変遷のため、明治四十三年に星宮神社傍らに墓碑を移し、遺骨は現在地に改葬した。その後、昭和六年に墓碑も現在地に移し、今日に至っている。>と、記されています。こちらの「戦死塚」も、足利市重要文化財(史跡)に指定されています。ここ、梁田宿における戦争は、西軍(薩摩藩・長州藩・大垣藩)の約二百名と、東軍(幕府軍)約九百名による市街戦となったが、勝ったのは人数の少ない西軍の勝利となっています。なぜこれほどの人数の差が有りながら、東軍が負けた原..
石碑
一味
2023-08-29T10:13:52+09:00
群馬県太田市から栃木県足利市に入ると、最初の宿は八木節発祥の地「八木宿」。そこから更に三十町(約3.3km)東の方向に進むと、「梁田宿」に入ります。
この足利市梁田町の中ほど、旧日光例幣使街道沿いに「旧日光例幣使街道梁田宿」と記した石碑が建てられています。平成二十二年五月に、御厨郷土文化研究会の五十周年を記念して、同会と梁田地区自治会連合会とによって建てられています。
この石碑の建つ脇の道を入ると、突き当りに寺院が見えます。
山門脇に「曹洞宗梁田山長福寺」と刻した石碑が建っています。この寺院の境内に、「明治戊辰梁田役東軍戦死者追弔碑」が建てられています。石碑の横に建つ足利教育委員会による説明文を参照させて頂くと、<(前略) 梁田戦争は慶応四年(1868)三月、例幣使街道梁田宿でおこった旧幕府軍と官軍との戦いである。内田万次郎は幕府軍として父と共に参戦し、その後も五稜郭の戦いまで各地を転戦した。戦後、大蔵省印刷局に奉職し、退職後碑を建立した。戊辰戦争慰霊碑や墓碑において、幕府軍の名を刻んだものが少ない中、「東軍」と幕府軍であることを刻む当碑の歴史的価値は髙い。>と、記されています。文中の「内田万次郎」は、碑陰に「大正十三年九月 従軍衝鋒隊士 従四位勲三等内田万次郎建之」と刻されている人物に成ります。碑は、足利市重要文化財(史跡)に指定をされています。
更に、本堂の左手奥の墓地の中に、「梁田戦争戦死塚」が有ります。
こちらも塚の脇に建つ説明文を参照させて頂くと、
<慶応四年(1868)三月九日未明に勃発した、いわゆる梁田戦争に倒れた幕軍戦死者の墓である。
表面に 戦死塚 裏面に 慶応四戊辰年三月九日 戦死六十四人此地埋 梁田宿 と行書をもって陰刻してある。梁田戦争の直後、村民の手により渡良瀬河原に合葬し墓碑を建てた。しかし、河流の変遷のため、明治四十三年に星宮神社傍らに墓碑を移し、遺骨は現在地に改葬した。その後、昭和六年に墓碑も現在地に移し、今日に至っている。>と、記されています。こちらの「戦死塚」も、足利市重要文化財(史跡)に指定されています。
ここ、梁田宿における戦争は、西軍(薩摩藩・長州藩・大垣藩)の約二百名と、東軍(幕府軍)約九百名による市街戦となったが、勝ったのは人数の少ない西軍の勝利となっています。なぜこれほどの人数の差が有りながら、東軍が負けた原因は何処に有ったのか、東軍は前日の3月8日に館林を目指して移動していたが、館林藩は東軍に対して軍資金を提供して、梁田宿を勧め、一方で西軍に対して使者を送って、情報提供をした。梁田宿は日光例幣使街道の宿場町として繁栄しており、幕末には旅籠屋約30軒を数え、飯盛り女も多数抱えていた。東軍としては館林藩の斡旋と言うことで、安堵感も有り油断が有ったのか、その夜は僅かの歩哨しか立てず、酒宴を催した。その間西軍は熊谷から奇襲部隊が18キロの夜道をひた走り、梁田宿を三方に分かれて包囲体制を引き、9日早朝に奇襲攻撃を開始しました。
東軍としては、寝起きを襲われた形で、戦線の立て直しが出来ず、多くの戦死者を出し、渡良瀬川を越えて東に敗走。2時間余りの戦闘で梁田戦争は決着が付いたのであった。
(上の写真は、現在の梁田宿の通りを、渡良瀬川の右岸堤防上より撮影したものと、同位置にて反転して、渡良瀬川側を撮影したもので、現在は渡良瀬川の河川敷には、ゴルフ練習場が広がっていました。)
西軍の戦死者3名負傷者10名に対して、東軍の戦死者63名負傷者75名を出しています。そしてこの戦いの中で、東軍の軍監であった、柳田勝太郎が銃創を被り戦死しています。
その軍監柳田勝太郎の墓碑が、梁田宿南東の加子村(現在の足利市久保田町)の崇聖寺墓地に建っています。
墓碑正面中央に「衝鋒隊軍監柳田勝太郎之墓」と大きく陰刻されています。その左脇に小さく「天光書」と有ります。この墓碑の近くには、説明板が見当たりませんでしたので、碑陰に刻まれた碑文を確認しましたが、碑の上部は見難くなっていて、ハッキリ読み取ることが出来ません。
<柳田勝太郎ハ會津藩士小右衛門ノ長子ナリ容貌魁偉夙ニ剛毅ノ士ト交ハリ同藩士佐川官兵衛林又三郎等ト☐☐善シ藩主京師守護職トナリ京師にアルヤ常ニ之レニ從ヒ慷慨國事ニ憂ヘテ已マズ明治戊辰年幕軍古屋作左衛門隊ノ軍監トナル将士皆其ノ恩威ニ服ス慶應四年三月九日梁田ニ戰ヒ身數銃創ニ被リ自・・・>この辺までは何とか読み進みましたが、誤読する可能性が大きく、以下部分的に読み取れる字も有りましたが、断念しました。
建碑されたのは、大正十四年三月九日と有ります。建碑尽力者に四人の名前が刻まれています。最初の名前は、<陸軍歩兵中将 眞下菊五郎>と有ります。この人物は碑文の中にも記されていますが、この梁田戦争の記録を克明に調べて「明治戊辰梁田戦蹟史」を著わした方です。
次に、下渋垂町の自性寺山門脇に、お地蔵様等と並んで、小さ目の石碑が建てられています。
碑の表には「戊辰戦役幕軍之墓」と陰刻されています。碑陰には「慶應四戊辰三月九日戦死」と有ります。ここ下渋垂村にて戦死をした幕府側の2名を埋葬した墓碑に成ります。
最後に、「弾痕の松」を見に行きます。この梁田戦争の時、梁田宿内の中山藤作氏方に有った、松の幹に砲弾が当たって、そのまま食い込んだまま残された。砲弾はその後、太平洋戦争時の供出で抜かれ、痕はコンクリートで塞がれています。この松はその後2か所移植を繰り返し、現在は梁田公民館敷地に祀られている招魂社参道脇に、その姿を留めています。
梁田公民館には、「梁田戦争」関連の資料を展示したコーナーが有りました。
今回の参考資料:
・北関東戊辰戦争 田辺昇吉著
・下野の戊辰戦争 大嶽浩良著 下野新聞社編集発行
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巴波川で世界平和を願う
https://sayama64.blog.ss-blog.jp/2023-08-06
今日、栃木市の夏祭りが、大通りや巴波川などを会場にして、沢山の催しが行われました。私は、巴波川を会場に例年行われている、湊町の二荒山神社の「百八灯ながし」と、その前に開催された栃木商工会議所の企画提供による「世界平和祈願 鎮魂線香花火と灯ろう流し」を、見てきました。歩いて会場に向かうと、すでに巴波川に架かる「幸来橋」を中心に、多くの人達が集まって来ていました。陽が落ちて、辺りが徐々に暗くなってきて、巴波川沿いに立てられた行燈が点灯、会場はイベントの開始時間に近づくと、次第に盛り上がってくる気配に包まれました。最初は「世界平和祈願 鎮魂線香花火」です。特大の線香花火に一斉に火がつけられると、巴波川の両岸綱手道には、オレンジ色の光を放つ線香花火が、巴波川の川面にキラキラと輝きを写し、会場全体を幸せな空間へと包み込んで行きました。続いて、参加された200人の子供達が事前に、思い思いの願い事などを書いた灯籠が、世界平和を願い祈り、次々と巴波川へと流されました。そして次に、会場にて開始前に配られた「ペンライト」が、一斉に「赤」・「黄」・「青」・「緑」の光を発し、すっかり暗くなった会場に、一つ一つは小さな輝きが、100、200、そして300と増え、会場全体に点灯、様々な光が乱舞しました。こうして、川岸に並ぶ行燈の光と川面を流れる灯ろうの光、そして会場に参加した子供たちや観客とが一緒になって振られたペンライトの光が、世界の平和と子供たちの未来を明るく輝くものに成らんことを願って、イベントが終了しました。先程までの熱気が次第に収まり、再び栃木の夜の静寂が戻ってきます。そして暫らくしてから、おもむろに法螺貝が吹かれ、湊町二荒山神社の「百八灯流し」が、厳かに始まりました。巴波川の下河岸から、神様を祭った御神船が、川を遡ってきます。船べりには沢山のロウソクに火が灯っています。幸来橋の手前で停泊した御神船の上で、神主さんによる神事が執り行われました。御神船の脇を、「二荒山神社奉納」「百八灯ながし」と記した灯ろうが静かに流れて行きます。御神船は、ここで方向を転換して、巴波川を下流方向へと戻って行きます。途中、船上の神主さんや世話人の方々が、舟べりに灯したロウソクを、両岸で見守っていた人達に向けて、投げて行きます。岸からは「こちら、投げてください。」「今年出産予定です。」の声が飛んでいました。この神事に使われたロウソクは、縁起物「安産のお守..
祭
一味
2023-08-06T22:32:48+09:00
私は、巴波川を会場に例年行われている、湊町の二荒山神社の「百八灯ながし」と、その前に開催された栃木商工会議所の企画提供による「世界平和祈願 鎮魂線香花火と灯ろう流し」を、見てきました。
歩いて会場に向かうと、すでに巴波川に架かる「幸来橋」を中心に、多くの人達が集まって来ていました。
陽が落ちて、辺りが徐々に暗くなってきて、巴波川沿いに立てられた行燈が点灯、会場はイベントの開始時間に近づくと、次第に盛り上がってくる気配に包まれました。
最初は「世界平和祈願 鎮魂線香花火」です。
特大の線香花火に一斉に火がつけられると、巴波川の両岸綱手道には、オレンジ色の光を放つ線香花火が、巴波川の川面にキラキラと輝きを写し、会場全体を幸せな空間へと包み込んで行きました。
続いて、参加された200人の子供達が事前に、思い思いの願い事などを書いた灯籠が、世界平和を願い祈り、次々と巴波川へと流されました。
そして次に、会場にて開始前に配られた「ペンライト」が、一斉に「赤」・「黄」・「青」・「緑」の光を発し、すっかり暗くなった会場に、一つ一つは小さな輝きが、100、200、そして300と増え、会場全体に点灯、様々な光が乱舞しました。
こうして、川岸に並ぶ行燈の光と川面を流れる灯ろうの光、そして会場に参加した子供たちや観客とが一緒になって振られたペンライトの光が、世界の平和と子供たちの未来を明るく輝くものに成らんことを願って、イベントが終了しました。
先程までの熱気が次第に収まり、再び栃木の夜の静寂が戻ってきます。
そして暫らくしてから、おもむろに法螺貝が吹かれ、湊町二荒山神社の「百八灯流し」が、厳かに始まりました。巴波川の下河岸から、神様を祭った御神船が、川を遡ってきます。
船べりには沢山のロウソクに火が灯っています。
幸来橋の手前で停泊した御神船の上で、神主さんによる神事が執り行われました。
御神船の脇を、「二荒山神社奉納」「百八灯ながし」と記した灯ろうが静かに流れて行きます。
御神船は、ここで方向を転換して、巴波川を下流方向へと戻って行きます。
途中、船上の神主さんや世話人の方々が、舟べりに灯したロウソクを、両岸で見守っていた人達に向けて、投げて行きます。
岸からは「こちら、投げてください。」「今年出産予定です。」の声が飛んでいました。
この神事に使われたロウソクは、縁起物「安産のお守り」と言われています。
お産の時に、貰い受けたローソクに火を付けて、ロウソクの火が燃え尽きるまでに、無事出産出来ると言うので、なるべく短くなったロウソクが喜ばれていました。
真夏の夜、巴波川で行われた二つの行事。最初は子供達の輝かしい未来の為に、華やかに賑やかに。
そして、静けさの中で厳かに行われた、伝統行事「百八灯ながし」。
未だ手元で光を放している「黄色のペンライト」と御神船から投げられた短いロウソクとを手にして、私も家路につきました。
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石碑から見る、まさに波瀾万丈の生涯を送った「中浜万次郎」
https://sayama64.blog.ss-blog.jp/2023-08-04
四国の最南端の地、高知県土佐清水市の南端、太平洋に突き出た足摺岬。太平洋から打ち寄せる波が、断崖の足元の岩礁に白い波しぶきを上げています。そんな足摺岬の、公園入口駐車場の脇に、燈台の形を模した「足摺岬 四国最南端」の碑が建てられています。そして、その碑の後方に、羽織袴姿の人物の銅像。後姿が灌木の上に突き出て見えます。銅像の正面に回り込んでみると、台座に「中浜万次郎像」と記した、プレートが、そして側面には碑文を刻したプレートが付いています。(四国最南端の碑) (中浜万次郎像)中浜万次郎と言う名前を見ても、どのような人物なのか、聞いたことが無い名前です。横の碑文を読んでも、ピンときませんでした。1827年から1898年、年号で言うと「文政10年から明治31年」という、碑文冒頭に有る、<中浜万次郎は、鎖国から開国にゆらぐ激動期の日本歴史の影で大きな役割を果たし、ついで興った明治文化の開花に著しい貢献をした一人であった。>と記されています。高知県には、幕末の日本で活躍した人物として、「坂本龍馬」を筆頭に、「板垣退助」「武市半平太」などの名前が浮かびます。彼らは正に歴史の表舞台で大活躍をした人達です。それに対して、この中浜万次郎はどのような人物だったのか、更に知りたくなりました。碑文の中に、彼の生まれた場所が、足摺岬近くに有ると言うことで、その地に足を延ばしました。「中ノ浜」は現在の土佐清水市中浜で足摺岬から足摺半島の西海岸沿いの道を北西方向に9キロメートルほどの所。現在の地形図を見ると、手前に「大浜」その先に「中浜」そしてその先に「清水」と言う地名が見え、中浜の海岸沿いの道路脇に、記念碑の地図記号が見えます。記念碑正面に、「中浜万次郎生誕地」、中央部に肖像写真が描かれ、その下に「中浜万次郎帰郷150周年記念」揮毫は、記念碑建立時の土佐清水市長 西村伸一郎書。台石部分には、帆船の絵が描かれています。碑陰を確認すると、日本語と英語の碑文が刻まれています。「中浜万次郎帰郷150周年記念の碑」として、<母国日本に帰りたい、中浜の母に会いたいの一念が叶い、中浜万次郎が故郷中浜に帰着したのは、漂流から11年余の1852(嘉永5)年11月16日のことである。母汐との束の間の再開。彼は土佐藩の士分から風雲急を告げる江戸幕府の直参旗本として登用され近代日本の夜明けの為に大活躍をしたのである。帰郷150周年を機に、郷土の偉大な..
石碑
一味
2023-08-04T15:48:38+09:00
太平洋から打ち寄せる波が、断崖の足元の岩礁に白い波しぶきを上げています。
そんな足摺岬の、公園入口駐車場の脇に、燈台の形を模した「足摺岬 四国最南端」の碑が建てられています。そして、その碑の後方に、羽織袴姿の人物の銅像。後姿が灌木の上に突き出て見えます。
銅像の正面に回り込んでみると、台座に「中浜万次郎像」と記した、プレートが、そして側面には碑文を刻したプレートが付いています。
(四国最南端の碑) (中浜万次郎像)
中浜万次郎と言う名前を見ても、どのような人物なのか、聞いたことが無い名前です。
横の碑文を読んでも、ピンときませんでした。
1827年から1898年、年号で言うと「文政10年から明治31年」という、碑文冒頭に有る、
<中浜万次郎は、鎖国から開国にゆらぐ激動期の日本歴史の影で大きな役割を果たし、ついで興った明治文化の開花に著しい貢献をした一人であった。>と記されています。
高知県には、幕末の日本で活躍した人物として、「坂本龍馬」を筆頭に、「板垣退助」「武市半平太」などの名前が浮かびます。彼らは正に歴史の表舞台で大活躍をした人達です。
それに対して、この中浜万次郎はどのような人物だったのか、更に知りたくなりました。
碑文の中に、彼の生まれた場所が、足摺岬近くに有ると言うことで、その地に足を延ばしました。
「中ノ浜」は現在の土佐清水市中浜で足摺岬から足摺半島の西海岸沿いの道を北西方向に9キロメートルほどの所。現在の地形図を見ると、手前に「大浜」その先に「中浜」そしてその先に「清水」と言う地名が見え、中浜の海岸沿いの道路脇に、記念碑の地図記号が見えます。
記念碑正面に、「中浜万次郎生誕地」、中央部に肖像写真が描かれ、その下に「中浜万次郎帰郷150周年記念」揮毫は、記念碑建立時の土佐清水市長 西村伸一郎書。台石部分には、帆船の絵が描かれています。
碑陰を確認すると、日本語と英語の碑文が刻まれています。「中浜万次郎帰郷150周年記念の碑」として、<母国日本に帰りたい、中浜の母に会いたいの一念が叶い、中浜万次郎が故郷中浜に帰着したのは、漂流から11年余の1852(嘉永5)年11月16日のことである。母汐との束の間の再開。彼は土佐藩の士分から風雲急を告げる江戸幕府の直参旗本として登用され近代日本の夜明けの為に大活躍をしたのである。帰郷150周年を機に、郷土の偉大なる先人、中浜万次郎の人間愛と不屈の精神(ジョンマン・スピリット)を顕彰しこの碑を建立する。>と刻まれています。
この碑が建立されたのは、2002年10月13日に成ります。
「ジョンマン・スピリット」。ジョンマンこと「ジョン万次郎」が「中浜万次郎」その人でした。
ジョン万次郎は、14歳の時漁船に炊係として乗り、太平洋で嵐に会い遭難、仲間と共に南海の無人島に漂着、その後米国の捕鯨船に救助され、米国に渡り、かの地にて初等・中等教育を受け英語・数学・航海・造船等の高度な学問を習得し、その後米国の捕鯨船に乗り世界の海を航海し、帰国を果たした後には、江戸幕府に仕え、幕府軍艦「咸臨丸」等に乗り、通訳や技術指導をしている。
その間、坂本龍馬や岩崎弥太郎・勝海舟ら、幕末から明治維新に渡り、多くの日本人に大きな影響を与えたと言われた人物です。
海を臨む近くの高台に、もう一基石碑が建てられています。
石段の登り口に、「中浜万次郎記念碑」と記した案内が建てられています。
碑の正面に「贈 正五位中濱萬次郎翁記念碑」 その左下脇に「公爵徳川家達書」と刻されています。
揮毫者、徳川家達(とくがわ いえさと)は、徳川慶喜謹慎後の1868年(慶応4年)に徳川宗家第16代当主となった人で、明治初期に静岡藩主(知藩事)を努めています。廃藩置県後に貴族院議員。従一位大勲位侯爵。
石碑の台座後ろ側に碑文が有ります。
こちらの碑文も、紹介すると。
「贈 正五位中濱萬次郎翁記念碑 公爵 徳川家達 書」
<中濱萬次郎翁ハ、文政十年土佐國幡多郡中ノ濱ニ生ル。十五歳ノ時、宇佐漁船ニテ太平洋ニ漂流シ、米国船ニ救助セラル。船長ホイットフィールド氏、翁ノ資性活達ニシテ才幹アルヲ愛シ、本国ニ伴ヒ、天文航海ソノ他諸般ノ學術ヲ修メシム、屢、世界ン各地ヲ周遊シ、嘉永四年本邦ニ還ル。幕府援擢シテ普請格ニ擧グ。萬延元年幕使ノ米國ニ派遣セラルルヤ、東道ノ任ニ當リ、歸來ス。寫眞機、裁縫具等ヲ
齎シ、文明利機ノ普及ニ資ス、明治ノ初年、開成學校中博士ニ任シ、仝四年普佛役觀戰ノ爲、大山巌、林有造諸氏ノ一行ト共ニ渡歐セリ、維新前後ノ名士、翁ノ指教ニ擧ル者多ク、當時世界ノ新知識ヲ本邦ニ移植セル功績尠カラズ、明治三十一年十一月十二日東京ニ卒ス。
享年七十二歳、昭和三年十一月特旨ヲ以テ正五位ヲ贈ラル、茲ニ郷黨ノ有志相謀リテ、地ヲ翁ノ生地ニ擇ト碑石ヲ建テ梗概ヲ記シ翁ノ卓犖タル一代ノ勲業ヲ不朽ニ傳フ。
昭和四年五月建元 寺石正路 撰 畔柳完道 書 >
碑文を撰した、寺石正路氏は高知県の郷土史家。 書いた畔柳完道氏は書家で、中浜万次郎の子、中浜東一郎氏の妻よしの弟に成ります。
「中浜万次郎」と言う名ではピンときませんでしたが、「ジョン万次郎」と言う名前は私も知っていますが、でも今回石碑の碑文を読み、彼の資料等を調べて、改めて彼の偉大さを知ることが出来ました。
偉大と共に、非常に幸運な星の下に生まれた人物だと、思いました。
生れた家は、貧しく、幼くして父を失い、家族の為に子供のころから生活費を稼がなければならなかった。漁船に乗って海に乗り出せば遭難、無人島に漂着すると言う何とも悲惨な状態に有ったものの、無人島の生活も仲間4人と協力して生き延びています。143日間の無人島での生活を乗り越え、米国の捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助されます。
捕鯨船の船長ホイットフィールドは、萬次郎の生れついた明るく元気な性格や、物事をきちんとやり遂げる能力などに、関心を持ち、萬次郎をアメリカに連れ帰ります。萬次郎自身のアメリカへの興味を持ちます。一緒に救助された他の4人は、途中安全なハワイにて降ろしています。
アメリカで彼は「ジョン・マン」と呼ばれました。「ジョン」は彼を救助した船の名前「ジョン・ハウランド号」の「ジョン」。萬次郎の「マン」で、「ジョン・マン」に成ったと有りました。そして船長ホイットフィールドの養子になっています。
彼は賢く、英語も航海術も良く理解したようです。卒業後にはアメリカの捕鯨船に乗って、世界中を航海して回っています。一等航海士副船長にもなっています。
そんな彼も、やはり幼くして別れた「母に会いたい」と言う気持ちは次第に膨れて行きます。そしてついに帰国を考え、船長に別れを告げて、日本への帰国の資金を稼ぐために、當時アメリカ西海岸に起っていた、ゴールドラッシュの地に向い、4か月滞在し、金鉱で働きます。
帰国の途中、ハワイに寄ってそこで3人の仲間と一緒に日本に帰って来ています。
当時の日本はまだ鎖国政策をとっていましたから、帰国するのも大変だったようで、最初に上陸した琉球王国や九州長崎奉行の取り調べなどで、母親に再会するまで1年以上待たなければならなかった。
ふるさと「中ノ濱」に帰っても、母親との生活はそんなに長くは無かったようで、彼のことを知った江戸幕府から招かれ、直参旗本となり、ここで生まれ故郷の「中浜」の地名を名字として、「中浜万次郎」と名乗っています。
アメリカにて習得した英語や航海術、造船技術等を生かして、幕府の軍艦に勤務。万延元年(1860)の日米修好通商条約の批准書交換の為、アメリカに向かう使節団を乗せたポーハタン号の随行艦「咸臨丸」の通訳、技術指導員として乗り込んでいます。この「咸臨丸」には、艦長の勝海舟屋福澤諭吉らも乗っていました。
それからも、通訳や航海の技術指導員として、東奔西走の生活を送って行きます。
四国の片田舎の貧しい漁師の身から、日本の幕末から明治維新への、激動の時代の最前線で、活躍。正に波乱万丈の人生を送った、「中浜万次郎」。その一片を垣間見ることが出来ました。
参考資料:ウィキペディア「ジョン万次郎」「徳川家達」「寺石正路」「中濱東一郎」
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「嘉右衛門町通り」の私の好きな場所
https://sayama64.blog.ss-blog.jp/2023-07-17
「嘉右衛門町通り」は、栃木県内で初めて、そして今のところ唯一、「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された地域で、その中心となる通りの通称に成ります。この通りは江戸時代、京都から日光東照宮に、幣帛を奉献する為に使わされた勅使が通った為、「日光例幣使街道」と言われ、現在の道路法では、「市町村道」に当ります。管理番号で示すと「栃木市道11063号線」となります。その延長距離は約750メートルで、車で通過すれば僅か2分、歩いても10分程度で通過する通りです。私自身は、この区域の知識は殆どありません。10代の頃は通学圏が栃西中から栃工高で、生活圏も箱森町から片柳町・境町方面が殆どでした。その頃のアルバムを開いてみると、出てきたのは「神明神社」と「妙唱寺」の写真1枚づつだけでした。高校生の頃、栃木市内の社寺を良く撮って歩いていたからです。ただ単に「点」としての関わりです。(1968年撮影、嘉右衛門町の神明神社と妙唱寺)20代は宇都宮市に工場を持つ会社に就職しました。その為市内の情報も、入って来なくなりました。30代になって、嘉右衛門町育ちの女性と結婚したことで、幾らか嘉右衛門町区域の情報が入ってきた程度。それからも仕事と子育てに追われた生活をしていたので、やはり生活圏は10代から変わっていませんでした。60歳を過ぎ、会社をリタイヤ―してからです、妻と二人でよくこの嘉右衛門町の通りをウォーキングする様になったのは。この頃からやっと「線」として、この「嘉右衛門町通り」を見るようになりました。(2012年5月20日撮影、嘉右衛門町通りをウォーキング)日が暮れてからのウォーキングでも、良く「嘉右衛門町通り」を歩きました。(2014年10月15日撮影、夜の嘉右衛門町通りを歩く)暖かなオレンジ色の街灯に照らしだされた通りも良く歩きました。特に私が魅力を感じる場所は、上に掲示した写真を見ればお解りに成ると思われますが、代官屋敷(岡田記念館)から南に行った、嘉右衛門町の通りが大きく左右にカーブする所です。嘉右衛門町通り(日光例幣使街道)を南から入ってくると、通りが左にカーブしています。その為視界前方は通り沿いの家並みに自然と目が注がれる形になります。(2020年5月24日撮影) (2022年12月5日撮影)かつてはその中の一軒に釣堀を営む店舗が有りました。現在はアクセサリーとファッションのお店になっていますが、日暮、そのお..
歩く
一味
2023-07-17T21:49:21+09:00
私自身は、この区域の知識は殆どありません。10代の頃は通学圏が栃西中から栃工高で、生活圏も箱森町から片柳町・境町方面が殆どでした。その頃のアルバムを開いてみると、出てきたのは「神明神社」と「妙唱寺」の写真1枚づつだけでした。高校生の頃、栃木市内の社寺を良く撮って歩いていたからです。ただ単に「点」としての関わりです。
(1968年撮影、嘉右衛門町の神明神社と妙唱寺)
20代は宇都宮市に工場を持つ会社に就職しました。その為市内の情報も、入って来なくなりました。
30代になって、嘉右衛門町育ちの女性と結婚したことで、幾らか嘉右衛門町区域の情報が入ってきた程度。それからも仕事と子育てに追われた生活をしていたので、やはり生活圏は10代から変わっていませんでした。
60歳を過ぎ、会社をリタイヤ―してからです、妻と二人でよくこの嘉右衛門町の通りをウォーキングする様になったのは。この頃からやっと「線」として、この「嘉右衛門町通り」を見るようになりました。
(2012年5月20日撮影、嘉右衛門町通りをウォーキング)
日が暮れてからのウォーキングでも、良く「嘉右衛門町通り」を歩きました。
(2014年10月15日撮影、夜の嘉右衛門町通りを歩く)
暖かなオレンジ色の街灯に照らしだされた通りも良く歩きました。
特に私が魅力を感じる場所は、上に掲示した写真を見ればお解りに成ると思われますが、代官屋敷(岡田記念館)から南に行った、嘉右衛門町の通りが大きく左右にカーブする所です。
嘉右衛門町通り(日光例幣使街道)を南から入ってくると、通りが左にカーブしています。その為視界前方は通り沿いの家並みに自然と目が注がれる形になります。
(2020年5月24日撮影) (2022年12月5日撮影)
かつてはその中の一軒に釣堀を営む店舗が有りました。現在はアクセサリーとファッションのお店になっていますが、日暮、そのお店から漏れる明かりがお洒落です。
(1991年撮影) (2017年7月21日撮影)
その先の景色は道路がカーブしている為、見る事は出来ません。そして一歩一歩と歩みを進めて行くと、徐々に先を見通せるポイントに至るのです。そして左へのカーブが終わって前方を望むと、今度は新たな景色が前方を塞ぎます。かつて木材商を営んでいた「天海家」の住宅です。その手前で道路は右にカーブをして、その先を見通す事は出来ません。又その場所で左に分岐する道路が有ります。
その角を左に折れていけば、すぐその先に巴波川に架かる「嘉右衛門橋」を渡り、錦町へと進んで行きます。
(2020年5月24日撮影、嘉右衛門町通りを歩く)
そしてクリーニング店を過ぎると右手にカーブした通りのその先が、視界に入ってくることに成ります。
(2021年2月21日撮影)
私が魅力を感じるこの場所の、通りの状況を説明する為には、文章では無理なので図面に表してみたいと思います。
高校時代に買いそろえた、三角定規に分度器、そしてコンパスを取り出して、作図しました。今の若い人達ならパソコン上で作図する方法が有るのでしょうが、アナログ世代の私は紙の上に鉛筆で、線を描いていくのが一番です。
図を見て頂くと、一目瞭然で「嘉右衛門町通り」のこの場所は、変形S字カーブの状態になっています。南側の左カーブの半径は約58m、カーブしている範囲は約65度。そして約14mの直線部の先は右カーブとなる。このカーブの半径は約30m、カーブの範囲は約70度になっていました。ちなみにこの通りの幅員は約7mです。
丁度代官屋敷の門の前辺りで、カーブが終わり、そこから先の通りは、ほぼ一直線に北の方向に伸びています。
この変形S字カーブの通りが作り出す風景が魅力的なので、何かイベントが有ると、この場所に撮影ポイントを設定することが、多くなっています。
珍しく雪の降った翌朝には、早速出かけて行って撮影しました。
(2018年1月23日撮影、雪化粧をした嘉右衛門町通り)
栃木秋祭りで、人形山車がここ「嘉右衛門町通り」を通った時も。
(2012年11月10日撮影、秋祭りで万町の人形山車が嘉右衛門町通りを巡行する)
2021年東京オリンピックの聖火リレーが走った時も。
(2021年3月28日撮影、東京オリンピックの聖火リレーが、嘉右衛門町通りを通過する)
私はこの「変形S字カーブ」の中に、撮影場所を選んでいます。
この先も、この場所でこの通りの、そしてこの街の移り変わりを、記録に留めていきたい。
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