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栃木県壬生町に建てられた明治天皇関係石碑を巡る。 [石碑]

今年最初に公開した「栃木市柳原町に建つ石碑」は、明治32年11月に現在の栃木県立栃木高等学校を行在所として実施された、近衛師団機動演習の3日目、栃木市と壬生町との境、小倉川(思川)の河川敷を中心に展開された演習の最後に、演習講評と除隊式に望まれた明治天皇が御野立ちに成った場所を記念して、当時の地元柳原村民を中心に建立されたものですが、同日、明治天皇の行幸を得た壬生町側においても、同様に記念の碑が建てられています。
今回はそんな壬生町における明治天皇行幸に関する、記念の碑を巡りたいと思います。

現地を訪れる前に、いつものように田代善吉著「栃木縣史」の16巻、「皇族・系図編」より、明治天皇御聖蹟の章から壬生町について確認をすると、3基の石碑が掲載されています。それらの石碑が建てられた場所は
①壬生小学校、②壬生町大字今井、③壬生町大字下山の三か所と記されています。
1番の壬生小学校の場所は直ぐ分かりますが、2番・3番は大字名までしか記されていませんので、石碑の建てられた場所を特定できません。
そもそも壬生町の大字に「今井」とか「下山」は無く、恐らく小字名の間違えと思われます。
国土地理院発行の2万5千分1地形図「壬生」を確認すると、「今井」と言う地名が記載されていますが、この「今井」の地名は壬生町壬生乙」の地域に含まれます。「下山」と言う地名は地形図上に記載されていません。
早速場所の分かる壬生小学校に向かいます。
有りました。校庭の東側、東門の南側に建てられています。
壬生小学校構内に建つ石碑.jpg
右側に建つ標柱正面には「明治天皇壬生行在所」と大書され、その左下側に「樞密顧問官陸軍大将男爵奈良武次謹書」と有ります。右側面には「史蹟名勝天然記念物保存法ニ依リ史蹟トシテ昭和十二年七月文部大臣指定」、左側面に「昭和十五年十一月建設」と、刻されています。
左側の石碑正面には「天皇御注蹕所」と篆書体文字で大書されています。揮毫した人物は石碑正面左脇に「陸軍大将正三位男爵鮫嶋重雄 謹書」と刻されています。
碑陰を確認すると、「明治三十二年十一月十七日」と「明治四十年十一月十五日」そして「大正七年九月建之」の三つの日付けが並んで刻されています。
最初の日付けは、近衛師団機動演習の時、次の日付けは茨城県結城小学校に大本営を設け挙行された、陸軍大演習の時に当たります。
ここ、壬生小学校には二度、お昼食の為に明治天皇が来られていることを、この石碑が物語っているのです。そして思川河川敷では、近衛師団機動演習と陸軍大演習の二度、明治天皇御行幸を以て挙行されたのです。
次に②と③の石碑を探します。
しかし、その所在とされる「今井」と「下山」の場所の特定にも結構手こずりました。
これまで発行された「壬生」の地形図を調べてみると、大正6年9月30日と昭和7年1月30日発行の地図の「今井」の文字の下側に、石碑の地図記号を確認しました。その後発行された地図からは石碑の記号は無くなっています。状況的にはこの石碑記号が探している明治天皇に関連した石碑であることは間違いないと思われました。
とりあえずその情報を基に、現地確認を行いました。が、石碑の地図記号が記された周辺に、石碑は確認出来ませんでした。でも現地に立ってみると、その場所は西側に古川更にその先に思川が南流している場所で、しかも丁度この場所は5メートル程の段差の有る高台の縁に当たっています。
現在は西側の一段低くなっている所も住宅や工場が有り、見通しが悪くなっていますが、明治の頃はこの場所に立って西方を望むと、北の端から南の端まで思川(かつては小倉川と称していた)の河川敷が広がっていたと想像できます。
壬生町今井の石碑が建っていた周辺.jpg
(壬生町今井の石碑は、写真中央奥の二階家の手前付近に建てられていたと思われます。写真左側、工場の建っている場所は一段低くなっているのが確認出来ます。明治32年11月17日午前、明治天皇はこの高台に御立ちに成って、西方の思川河川敷で行われた演習をご覧に成られたのです。)

その時丁度近くに住まわれている御婦人の姿が見えたので、早速石碑の件をお尋ねしたところ、「石碑は現在、東雲公園の方に移設されている。」と、その経緯も含めて教えて頂くことが出来ました。

壬生町を貫流する三筋の川(東側から、姿川・黒川・思川)で、街の中央を流れる黒川、その川に架けられた国道352号が通る「東雲橋」。黒川の両岸沿いに整備された東雲公園の北東部、東雲橋の東橋詰、国道の北側児童公園の一角に2番目の石碑を確認しました。
壬生町金井に建っていた石碑.jpg
(壬生町東雲児童公園の一角に建つ、かつて今井の里に建てられていた②の石碑)

碑の正面に「天皇觀兵之所」の文字、揮毫した人物は、その近衛師団機動演習の総司令官、近衛師団長男爵長谷川好道です。碑陰には「明治三十二年十一月十七日為紀念建之」、石工は「栃木泉町 彫刻師 清水政」と刻されています。
そしてその石碑の傍らに小さな石碑が建っています。そこには今井の里でご婦人が話して下さった、石碑を現在地に移設した経緯が刻されています。日付けは「昭和五十四年八月」となっていました。

次に、三番目の壬生町下山に建てられた石碑を探します。
壬生町下山の地名が何所なのか分かりません。そこで壬生町立歴史民俗資料館で尋ねる事に、そしてそこで思いもよらない1冊の小冊子を見せて頂くことが出来ました。
冊子の表紙には「明治天皇行幸記念誌」と有ります。著者は元壬生尋常高等小学校訓導の山田徳静氏、発行されたのは昭和9年4月壹日で、関係者だけに配布された非売品。この冊子は現在壬生小学校にも無く、恐らくこの1冊のみ資料館で保管されてるものだそうです。
その巻頭写真には今回私が探し巡っている3基の石碑の写真の外、栃木市柳原町に建つ石碑の写真も掲載されていました。

この冊子の著者、山田徳静氏はその人生において、明治天皇の壬生行幸に深く関わっています。
氏が栃木中学校4年生の時、学んでいた栃木中学校が行在所と成り、壬生小学校職員として勤務していた時に、小学校が天皇御休憩御昼食の所と成って、近くでその時を過ごしていたと言います。
そんな著者ならばこその手によるその冊子は、実に細やかに二度にわたる明治天皇の行幸の様子を記しています。その文章を読んでいると、その当時にタイムスリップしたような、目の前にその時の情景が表れてくるように感じてきます。
明治40年11月15日壬生町下山、御野立ちの部分を抜粋掲載させて頂きます。
<11月15日、大帝は早暁結城の大本営出門、結城駅より列車に召され石橋駅に御下車遊ばされ御馬車にて壬生街道に向かわせらる。  中略  奉迎者の群れは恰も水を打ちたるが如く御馬車の軋りは粛々と表町を経て栃木街道の方へと聞え今井にて止まる。大帝は畏くも御徒歩にて砲兵陣地にすすませらる。此處は8年前近衛師団の演習を御統監遊ばされし折の御注蹕の地にして日露戦役後今日再び大帝の御偉容を拝し加うるに御軍装は陸軍大元帥の改正式を御着用遊ばされあるを仰ぎ誰れか無量の感慨に勝へざるものあらんや。 中略 再び御馬車に召され小山街道より壬生の町外れを経て小倉川黒川の合流点の北にある下山の御野立所に成らせらる。  中略   下山御野立所附近より西方には近く遠つ祖宗を祀れる国府村大神神社の森欝蒼と茂り南方を眺むれば小倉川の水は涸れ思川の河原は広々と帯を曳き丸山の断崖は褐色を帯びて水に映り黒川の橋梁は杉並木に連なり晩秋の霜葉錦繍の如し。北方を望めば今井の砲兵陣地仄かに見え、南方遠くかすかに豊田村八幡宮の森は見ゆ。田園人家参差點綴して紫色に烟る。大帝は戦況を幕僚より御聴取あらせられ還幸仰せ出さる。 後略 >
(原文カタカナ送り文のところ、ひらがなにしました。又、一部旧漢字も書きかえています。)

以上の引用文より、壬生町下山の場所を「思川と黒川の合流点の北」と表記有り、周辺を歩いて探索して遂に3番目の石碑を発見しました。
壬生町下山に建つ石碑.jpg
(県道宇都宮栃木線惣社今井バイパスの新保橋の北東側、畑地の畔に建つ「天皇御野立之所」の石碑)

前記の冊子「明治天皇行幸記念誌」の巻頭に掲載されている写真には、石碑の回りは玉垣で囲まれていますが、現在は石碑だけがポツンと建っているのみです。
標柱の大きさは、正面幅30cm、側面幅28cm、高さは約165cm(台座部含まず)、碑陰に「明治四十年十一月十五日と大きく刻されています。

現在石碑の建つ場所より南方を眺めても、思川の流れは見る事は出来ません。
壬生町下山より南方を望む.jpg
(石碑が建つ場所から南の方角を望む。右側から思川、左側から黒川が流れ来て、はるか前方にて合流していますが、現在その河道を見る事は出来ません。)

明治40年頃には思川には現在の様な土手は築かれておらず、黒川の合流点からずっとその先まで視野が開けていたのでしょう。<南方遠くかすかに豊田村八幡宮の森は見ゆ。>という神社の森は、小山市小宅の八幡神社と考えられます。距離的には約4km南に成ります。この神社には社殿の横に天然記念物に指定された御神木のカヤの大木が有ります。樹齢5百年余と推定されるこのカヤは、樹高が約28メートル、枝張りは東西14メートル、南北14メートルと立派な大木です。この大木が遠く離れたにもかかわらず見えたのかもしれません。
小宅八幡神社.jpg
(小山市小宅の八幡神社、社殿右側に御神木というカヤの大木が見えます。)
小山市小宅八幡宮.jpg

今回壬生町に建つ、明治天皇関連の石碑を巡りましたが、思う様に石碑の位置を説明できない感が有りましたので、明治前期に発行された迅速測図を参考に、壬生町南西部から栃木市柳原町付近の概略図を作成しました。
明治前期の思川保橋周辺概略図.jpg
(明治前期頃の壬生町南西部、思川保橋周辺の概略図)

小さくて見にくいですが、明治前期測量2万分1フランス式彩色地図を参考に作成、石碑の地図記号に番号を付けて本文の①②③の石碑に対応しています。但し②の場所は当初に石碑が建てられた今井の場所です。④の石碑は今年1月に公開した栃木市柳原町に建つ石碑に成ります。
場所を確認し易いように、当時には無い「東武宇都宮線」と「県道宇都宮栃木線惣社今井バイパス」を破線にて追加表記しました。

今回の参考資料:
・栃木縣史 第16巻 皇族・系図編 田代善吉著
・壬生町史 通史編Ⅱ 壬生町編集発行
・明治前期測量2万分1フランス式彩色地図栃南2 日本地図センター発行
・明治天皇行幸記念誌 山田徳静著


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庭の蝋梅が見頃に成っています [草花]

昨日は大寒でした。毎日寒い日が続いていますが、我家の庭の隅の蝋梅は見頃を迎えています。
蝋梅1.jpg
青空の元に、透き通るような黄色の花、近づいて写真を撮っていると、甘い香りに包まれてきます。
蝋梅2.jpg
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栃木市柳原町に建つ「天皇駐蹕之所」の碑 [石碑]

今回は、栃木市の東の端、柳原町に建てられた「天皇駐蹕之所」の碑を紹介します。
実は、この石碑の所在を前々から探しておりました。今から4年前に成りますが、このブログにて栃木市内に建てられている明治天皇・大正天皇の御行幸関係の石碑を掲載していましたが、文献には記録が有るものの、私がその所在を確認出来ていなかった石碑のひとつが、この柳原町に建てられた石碑でした。
柳原町に建つ石碑.jpg
(やっと確認が出来た柳原町の「天皇駐蹕之所」の碑)

この石碑は、明治32年11月15日から4日間に架けて、栃木を中心に東は壬生町、西は岩舟町小野寺にて行われた、近衛師団機動演習に際して、明治天皇が御行幸御統監された市内各地の場所に建てられた石碑の一基に成ります。

この時、明治天皇がご宿泊された行在所は、現在の栃木県立栃木高等学校(当時は栃木第二中学校)でしたが、その際御宿泊された建物が現在も「記念館」として、構内に保存されています。
明治天皇栃木行在所.jpg

又、栃高の構内には明治天皇がご宿泊された記念として石碑も建てられました。
校門を入って右奥に向かうと、南側塀際に「明治天皇栃木行在所」と刻した石柱が建てられています。昭和12年12月に史蹟として文部大臣指定を得た翌年昭和13年7月に建てられたものです。
明治天皇栃木行在所の碑.jpg
又、その先を進むと木の傍らに「聖井之蹟」と刻された石碑が建てられています。明治天皇ご宿泊の際、御膳水に供した構内の井戸を明治45年夏に校舎増築の為埋める事と成り、その経緯を刻して建てられた石碑です。(明治天皇は明治45年7月30日に崩御なされています。)
聖井之蹟の碑.jpg

又、校門を入って左側に整備された「洗心苑」の西奥に「聖駕駐蹕碑」と大書された石碑が建てられています。揮毫された人物は、「元帥侯爵山縣有朋書」と石碑左隅に刻されています。
聖駕駐蹕碑.jpg
(これらの聖蹟については、2018年4月25日に「栃木県立栃木高等学校の構内に建つ明治天皇御聖蹟」として公開しています)

この時の明治天皇の御行幸の様子を時系列的に記すと。
明治32年11月15日、午後1時15分宮城から御出門した明治天皇が栃木駅に御着されたのは、夕日が太平山の陰にまさに隠れようとする前の午後4時30分でした。暫時休憩の後、御料の御馬車にて途中道筋に整列した栃木町民らに迎えられ、栃木第二中学校に行幸遊ばされました。
この日の天候はどんなだったか、「栃木市史」に「天皇の行幸」として当時まとめられた資料が掲載されていますので、抜粋させて頂きます。
<この日は珍らしくも打続ける連旬の秋晴、いやが上にも霽れ渡りて、天高く気朗かに、太平の山は鬱として嵯峨たる昭代の盛挙を頌するが如く、巴波の川は浄くして洞徹たる、市民の忠誠無二を表するに似たり。 以下略>
従って、夕暮れ時に差し掛かっていたものの、行在所となる栃木第二中学校に向かわれる、明治天皇が乗られた御料の馬車の列を、途中の道筋にて整列し奉送迎する町民にも、ハッキリ目にする事が出来たと思もわれます。

翌、11月16日は、午前9時に行在所を御出門。この日は岩舟方面での演習を御観戦。始め三毳山の北端舌状台地となる新里の山麓(通称天狗山)にて、佐野方面より進軍する南軍と北軍との激戦をご覧なられた。その時天皇が野立ちされた所に、それを記念して碑が建てられました。現在は両毛線の線路脇に小野寺公園が有りますが、石碑は残念ながら有りません。ただ公園の片隅の草むらに、その石碑の残骸が横たわっているだけです。
小野寺公園の草むらに眠る石碑残骸.jpg
(この石碑については、2018年5月22日に「草むらに埋もれる石碑の残骸」として公開しています)

その後、新里の御野立所より岩船山鷲巣兜山(通称坊主山)に移動して御観戦され、その場で御昼食としています。この御野立所にもそれを記念して石碑が建てられています。こちらも現在は「兜山公園」として整備されています。
岩舟鷲巣兜山の記念碑.jpg
(この石碑についても、2018年4月9日に「御野立記念の碑 栃木市岩舟町鷲巣」にて公開しています)

翌、11月17日は午前8時行在所御出門、壬生方面に御馬車にて御行幸され壬生町今井の小丘より思川河原にての演習を御観戦され、壬生小学校にて御昼食を召される。午後は再び思川(小倉川)に戻り、川の中央柳原河原に於いて除隊式及び観兵式を執行せられた。
この時明治天皇が御野立された所を記念として、石碑が建てられた訳ですが、その場所を確認するのに、周辺の様子が長い時間の経過により大きく変化した事で容易に見る事が出来ない場所と変わってしまったのです。
太陽光パネルに囲まれた石碑.jpg
現在は周りに太陽光発電用パネルが設置されて閉鎖されています。地元の人に案内して頂き、やっと探し求めていた石碑を確認することが出来ました。
柳原町に建つ石碑2.jpg
そこには、「天皇駐蹕之所」(反対面には「明治三十二年十一月十七日」)と刻した一辺が370mm、高さ約3,400mmの石柱1基と、その左後方に高さが1,950mmで横幅が230mm、奥幅が320mmの石柱1基が建っています。こちらの小さい石碑の周囲四面には全面にビッシリと文字が刻まれています。おそらくこれらの記念碑建立に当って寄附をされた人達の名前と思われます。
柳原町に建つ石碑3.jpg柳原町に建つ石碑4.jpg
幅230mmの面には10行18段にその側面(320mm)には14行18段に並んで刻まれています。
正面となる西側と南側面は何んとか名前を読み取れますが、東面と北面は影となって、判読が困難です。
確認出来た地名を列挙すると、「大字平川」「大字合戦場」「大字升塚」「大字栃木」「倭町中」「大字大宮」「大字北赤塚」「「宇都宮市」「大字鹿沼」「大字吹上」「小字今井」等広範囲に亘っています。
判別できない面も有りますが、推定八百名程に成るものと思われます。
尚石碑の横には、「水神宮」と刻した石碑や石の祠も祀られています。ここもかつては思川の河川敷に当たる場所であった証なのでしょうか。

演習の後長谷川師団長より各将校に向かって一時間にわたる講評が有り、是に於いて明治天皇から 「演習に就いては師団長の講評に同意す将校下士卒等益勉励せよ」との御勅語を下し賜った。
その後行在所に戻ると又直ぐ、栃木尋常小学校内の陳列館に行幸遊ばされた。
この時の様子を栃木市史から抜粋させて頂くと、
<壬生地方の演習及び除隊式は、早朝より午後四時に達し、この日は生憎風強く寒意深かりしにも拘わらず、范々たる小倉川原の間にて久しく御馬を橋上に立てさせられ、ここかしこに馳せ進ませられたれば、ご疲労も左こそと察せられたるに、御帰途直に陳列館に入御ありしは市民一同の感涙せし所なり、以下略>
と記されています。

この時、栃木県各物産古書画陳列館と成り、明治天皇が行幸を遊ばされた栃木尋常小学校(現在の栃木中央小学校)には、記念の碑が建てられたと、田代善吉著「栃木縣史」の「明治天皇御聖蹟」に次のように記されています。
<第二小学校に行幸物産陳列品天覧遊ばさる、其記念碑は
 (表面) 御駐輦記念之碑
 (裏)   明治三十二年十一月十七日
        明治三十八年十一月十七日建之
 栃木市にて毎年其記念日には、官民一般栃木市第二尋常高等小学校に参集して、厳なる記念式を挙行す> と。

翌11月18日午前9時10分、行在所御出門御還幸の旨迎出され、4日間の行幸の日程を終えました。

今回柳原町に建てられた石碑の所在を、やっと確認出来ましたが、実はまだその所在が確認できていないのが、私の母校でもある元栃木第二小学校に建てられていたとする上記の石碑に成ります。

現在栃木中央小学校の校庭の南西の隅に、昔の校名が刻まれた、破損してしまった校門の石柱などと共に、一基の石碑が危険防止を目的に横に寝かせて保管されています。
栃二小の旧門柱1.jpg栃二小の旧門柱2.jpg
栃木中央小校庭隅に横たわる石碑.jpg
(上の石碑については、2018年5月16日に「栃木中央小学校の校庭隅に横たわる石碑」として公開しています)
この石碑は探している物とは違います。この石碑は大正天皇が大正七年十一月に陸軍特別大演習の為行幸された際に、十七日午後、栃木第二尋常高等小学校の校庭にて演習に参加した各将校を集め、御講評された。その場所となった所を記念して建てられた石碑に成ります。
この石碑にもエピソードが有ります。この石碑戦後に一度地中に埋めて隠されていたものなのです。
ですから、私が探している明治天皇の記念碑も同様に、戦後地中に埋めてしまったのではないかと。
でもそれでは、昭和42年に大正天皇の記念碑を掘り起こした際に一緒に掘り出さなかったのか疑問が残ります。私の中ではまだなぞとして残っています。

今回の参考資料
・栃木県立栃木高等学校同窓会、平成21年1月1日発行。「栃高の旧跡」
・田代善吉著、昭和47年3月30日発行。「栃木縣史 第十六巻 皇族編系図編」
・「栃木市史 史料編 近現代Ⅰ」 昭和56年3月31日 栃木市発行。

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とちぎを味わう「発泡酒」が発売されました。 [ビア缶]

数日前の事、新聞折り込みの1枚に興味をひかれました。
その広告にはこう歌っていました。
<蔵の街とちぎの恵みが詰まった麦酒、とちぎ香る「蔵フト」誕生!!> と。
とちぎ「蔵フト」ギフトパック.jpg
(6缶入りの洒落たギフト用パック入り)

かつて私は、10年間ほど「ビア缶」のコレクションに精を出していた時期が有りました。店頭で新しいラベルの缶ビールを見つけては、入手しました。旅行に出かけた時も旅先でその地ならではの観光用・地元限定のラベル缶を探しては、買い求めました。
でも、今から30年前に収集を止め、ほとんど処分をしました。家じゅうにビール缶が溢れて、物置に段ボール箱何箱も積み上げた為、家族からクレームが出たのです。
ビア缶コレクション.jpg
(かつて収集したビア缶、並べては悦に入っていました)
それでも今も、コレクションを始めたきっかけとなった「ビア缶」は捨てられずに保管をしていますが。

今も珍しいラベルの缶を見ると欲しくなりますが。
今回は「蔵フト」と歌っていて、ラベルに蔵の街とちぎの蔵を描いた絵柄が、私の心を揺さぶりました。
3種類の市内を代表する蔵を描いたラベル。
①巴波川に架かる「幸来橋」から下流左岸に連なる塚田家の黒塀と土蔵群。
②市内大通り、倭町一丁目の重厚な蔵の店舗群。
③旧とちぎ蔵の街美術館の三連蔵。
とちぎ「蔵フト」ラベル.jpg
(栃木市内の蔵の風景三景を描いたラベル)

「KURANOMATI TOCHIGI CRAFT」は発泡酒で、原材料には栃木市内で収穫された、ぶどうと二条大麦が使われている。とのことで、早速飲んでみる事に。
とちぎ「蔵フト」泡立ち.jpg

グラスに注ぐと、白くきめ細かな泡立ちと、淡いワインレッドの液体が美しい。
「エール」スタイルとの事で、ゆっくりと香りとフルーティーな味と、発泡酒らしい苦味、普段飲んでいるビールとの違いを堪能しながら胃袋に流し込む。
アルコール分5%、直ぐに酔いが回ってくる。週に缶ビール1・2本の私には特別な味わいを感じました。

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庭の蝋梅が開花を始めました [自然の恵み]

昨夜半から、風が強く雨戸を叩いていました。
今もまだ強い風が続いています。日差しは強く暖かいのですが、風は冷たいです。
昨日、一昨日と抜ける様な青空の下、暖かな天候で洗濯物も良く乾いています。
今日は風が強い為、部屋干しにしました。

そんな中、庭に散ったサザンカの花びらを拾っているとき、庭の隅の蝋梅の花が開花を始めていることに気付きました。
P1170393.jpg
(開花を始めた蝋梅の花、蕾も膨らんでいます。)

前から沢山の蕾が枝に付いていましたので、何時咲くのか気にはしていました。時折、野鳥が飛んできて枝にとまるのも、気になっていました。

数年前は野鳥に食べられてほとんど花を見る事が出来なかった事も有りますし。
実は今年枝に沢山の蕾を付けている木はここ一年で、ずずっと成長したものでこんなに蕾を付けるのも初めてです。
P1170395.jpg
(外の枝の蕾も開花まじかです。)

庭に蝋梅の木を植えたのは、40年近く前にここに家を建てた時、殺風景な庭に植木職人をしていた義兄が何種類かの庭木を植えてくれた、その中の一本ですが、数年前から老木と成ったためか花の付きが悪くなって、昨年の春は全く花を付けなかったので、根元からバッサリと切ってしまったのです。代わりに脇に出てきた新しい枝を一本残しておいた所、ドンドンと枝を伸ばして今、枝にはビッシリと蕾を付けるまでに育ちました。
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(40年近く楽しませてくれた老木の切り株が残っています。)

昨日確認した時、開花していたのは一輪だけでしたが、今日はもう五・六輪も開花しています。
これから、日に日に開花していくのが楽しみです。
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(蕾を野鳥に食べられない事を願い、開花を待っています。)
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赤津川分水路に架かる「中ノ町橋」が復旧していました [栃木市の河川と橋]

先日、暖かな陽気に誘われて、栃木市新井町方面に出かけました。
その際、前々から気になっていた赤津川分水路の「中ノ町橋」の様子を確認すると、2019年10月12日の台風による増水で被災した後、復旧工事が進められていましたが、三径間の内無事だった右岸側の一径間の橋桁は残して鋼桁が被災部分に架けられていました。
2021年12月5日復旧した中ノ町橋.jpg
(復旧した「中ノ町橋」 2021年12月5日撮影)
橋手前右岸側は従来からのコンクリート桁、一方崩れた橋脚部に架かっていた橋桁は撤去され鋼製の橋桁に、高欄も色気も愛想も無い白色のガードレールタイプに。
2021年5月22日復旧工事中の中ノ町橋.jpg
(復旧工事中の様子 2021年5月22日撮影)
今年5月に確認した時には、橋はまだ被災した当時のままで、復旧工事は左岸の土手部分が先行して進められていました。橋の周辺左岸上下流部分とも土手の決壊は免れましたが、堤内側法面がかなりえぐられていました。
左岸上流側.jpg左岸下流側.jpg
(堤内法面は越流した水の勢いで削られている。)

2019年11月21日被災した中ノ町橋.jpg
(2019年11月21日撮影、被災直後の「中ノ町橋」)
橋の高欄部にも多くの藁くずが引っかかっていて、増水時には橋の上まで川の水が洗っていた様子が覗えます。
2019年3月2日撮影中ノ町橋.jpg
(被災前の「中ノ町橋」 2019年3月2日撮影)

赤津川分水路については、ここで何度か取り上げて紹介をしてきました。
かつて毎年のように栃木の街中を床上まで水浸しにした巴波川。だが実際はこの赤津川が洪水の元凶で、今も箱森町中央部を蛇行をくりかえしたその旧赤津川の河道が、今もその姿を留めています。
そんな赤津川を1951年竣工したこの分水路により、それまで栃木の街方向に流れていた水を、吹上町の新田橋の下流部(今東北自動車道が交差する辺り)から真っ直ぐ南方向へ田畑を開鑿して、錦着山の北西部にて西から流れて来ている永野川に落とすように流れを変えました。
2012年11月25日撮影赤津川分水路.jpg
(2012年11月25日 栃木インターチェンジ付近、県道栃木粕尾線の平和橋下流部より赤津川分水路を南方向に向かって撮影した写真。)
写真手前に架かる橋は「鹿島森橋」その下流に「中ノ町橋」更にその奥に「新井橋」も望む。写真左奥に写る山は錦着山に成ります。
赤津川分水路には地元の要望を受けて、かつての農道に合わせて多くのコンクリート橋が架けられていました。

それ以来、栃木の街は平穏な年を重ねて来て、「映画館もショッピングモールも無い町だけれど、災害も無い安心して住める町」でしたが、2015年9月9日の50年に一度と言われる豪雨災害により、この赤津川分水路も濁流が流れ、老朽化していた多くのこれらの橋が被災しました。
落橋した鹿島森橋.jpg
(2015年9月27日撮影、落橋した「鹿島森橋」)

この「鹿島森橋」は被災後架け替えは無く撤去に成りました。この時は赤津川分水路の多くの橋が被災して一時通行が出来なく成りました。上流側に架かっていた「田原橋」も被災、撤去に成りました。更にその上流の「永宮橋」も老朽化も重なり、新しい橋へと架け替えられています。
此の時は、この「中ノ町橋」は被災を免れました。
2015年9月27日中ノ町橋.jpg
(橋脚部に多くの藁くずとうの瓦礫が引っかかった「中ノ町橋」 2015年9月27日撮影)
ところが、それからたった4年後の2019年10月、今度は持ちませんでした。

現在、栃木市内を流れる多くの河川では大規模な河川改修工事が進められてます。二度と悲惨な水害に遭わないために。
以下の写真は永野川で進められている河川改修工事の様子。(2021年11月3日撮影)
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密に蜜 [自然の恵み]

今日もまたまた快晴。風も無く暑いくらいです。
真っ青な空にサザンカのピンクの花が鮮やかです。
サザンカの花.jpg

満開も満開、正に密な状態が続いています。
密状態のサザンカの花.jpg

庭の北の隅に有るヤツデの木にも花が咲きました。
ヤツデの花.jpg

匂いを嗅ぎつけたか、蜂がせっせと花から花へ飛び回って、蜜を集めています。
ヤツデにミツバチ.jpg

この暖かい陽気は何時まで続くのだろうか。
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庭のサザンカが満開に [自然の恵み]

11月も中旬に入り、我家の庭のサザンカも満開に成りました。
朝日を受けて、真っ青の空をバックに鮮やかなピンクの花が広がっています。
満開のサザンカ.jpg

今朝も、庭に散ったピンクの花びらや、ナツツバキの枯れ葉を拾い集めました。
落葉した夏椿の枯葉.jpg

秋も深まり、もうすぐ冷たい西風がナツツバキの落葉した枝の間を、吹き抜ける季節です。


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昭和の風景「栃木駅周辺」 [懐かしい写真]

昭和の風景として、栃木駅周辺の写真を紹介します。
昭和と言っても、私が撮影をしたものですから、昭和50年から昭和60年頃の栃木駅周辺に成ります。
写真の前に、栃木駅周辺が、どのように変化したか、3枚駅周辺の道路の変遷概略図を作ってみました。

最初は明治期の始めの様子を、明治前期測量 2万分1フランス式彩色地図、「栃木縣下野國下都賀郡栃木町」を参考に描きました。
「栃木町」のこの迅速測図は、明治19年に作成されていますので、その当時はまだ両毛線は開通していませんので、当然「栃木駅」もまだ姿を現していません。
栃木駅周辺の道路網 (明治).jpg

上の道路図だけでは、なかなか場所の特定が出来ないと思いますので、2枚目は一気に百年後「昭和61年」の栃木駅周辺の道路の様子を掲示します。
栃木駅周辺の道路網 (昭和).jpg

栃木駅は、明治21年(1888)5月22日に両毛線の開通と共に開業しました。
東武線は昭和4年(1929)4月1日、杉戸・新鹿沼間が開通しました。
道路は、旧例幣使街道はほぼ昔のままですが、駅北口から放射状に道路が伸びています。しかしこの時期でもまだ駅の南側は開発が遅れて水田が広がったままの状態でした。

そして3枚目は「平成」の栃木駅周辺の様子です。
栃木駅周辺の道路網 (平成).jpg

元号が昭和から平成に変わった1989年、栃木駅前土地区画整理事業が着手となり、平成3年(1991)には栃木駅南土地区画整理事業もスタートしました。
これにより、駅の南側の開発も進み、北口南口両方に駅前ロータリーが整備されています。大きな変化は平成12年(2000年)に東武線が、続いて平成15年(2003)に両毛線が高架化され、駅の東西に有った踏切も無くなり、道路の渋滞も解消されています。

それでは栃木駅の高架化ですっかり変わってしまった、昭和の栃木駅周辺の風景を見ていきたいと思います。
最初は昭和50年(1975)1月、駅の連絡橋からの構内の雪景色です。
連絡橋から駅西方向、太平山を望む(1975年).jpg
太平山を望む西方向の様子。構内には石灰運搬用の貨車が多く見られます。両毛線が真っ直ぐ西に向かって伸びています。東武線は写真左端、前方で左にカーブしています。

東武線連絡通路から駅東方向を(1974年).jpg
反対側東方向を望むと、左端に栃木駅舎の屋根。中央奥に写る煙突は、東武線(右側)と両毛線(左側)に挟まれた「鳥海味噌」工場のものです。

次に高架化で姿を消した踏切の様子。昭和51年から昭和53年頃に撮影したものです。
第一佐野踏切(昭和51年頃).jpg
上の写真は駅の西側、栃木自動車教習所の南東側に有った、両毛線の踏切です。写真右奥に栃木駅の連絡橋が見えます。その駅舎とこの踏切との間、線路の北側には石灰会社の倉庫や貨車溜まりが有りました。
石灰会社の倉庫(1974).jpg
昭和48年(1973)撮影、栃木駅西側の石灰会社倉庫。

石灰会社の倉庫(1975).jpg
昭和50年(1975)撮影、栃木駅西側、石灰会社の貨物積み込みエリア。

次は駅の東側の踏切です。
両毛線沼和田踏切(昭和51年頃).jpg
上の写真は昭和51年(1976)撮影、両毛線沼和田踏切を北東角から、鳥海味噌工場方向を望む。
駅東側、沼和田両毛線踏切(1978年).jpg
上の写真も同じく両毛線沼和田踏切の南東角から西の栃木駅方向を写しています。

この両毛線の踏切の南側には、もう一ヶ所踏切が有りました。東武日光線の踏切です。
ですから、この道路を通行する為には、続けざまに二つの踏切を渡らなければなりませんでした。
駅の直ぐ傍の踏切の為、閉まると結構な時間電車の通過を待たなければならず、運が悪いと両方の踏切がしまって、間に閉じ込められて不安を感じる事も有ったのではないでしょうか。

私はこの東武線の踏切を一度定点撮影の様な真似事をしました。最近の状況も含めて、ご紹介します。
最初に撮影をしたのは昭和41年(1966)だったと思います。
1966年沼和田東武線踏切.jpg
この写真は踏切の南西脇から写しています。浅草行の普通電車が接近してきています。
写真を見ると分かりますが、この頃はワイヤーロープが下がって来て通行を遮る方式でした。

昭和50年(1975)代に、ほぼ同じ場所から、ほぼ同じ方向に向かって撮影しています。
1974年沼和田東武線踏切.jpg
特急きぬが接近してきています。踏切は現在と同じ、バーが両サイドから円弧を描いて下りてくる形式に変わっています。警報ランプも見えます。
線路の北側に、「トリウミ きぬごし味噌」と大書した工場建屋が見えます。

3枚目は平成25年(2013)にほぼ同じ場所同じ方向を写した写真です。
2013年9月23日栃木駅周辺 (1).jpg
高架化により風景は大きく変わって、踏切も無くなりました。

最後に昭和の栃木駅に行きましょう。夜の栃木駅です。昭和51年(1976)に撮影しました。
栃木駅前夜景(昭和51年頃).jpg
写真左の端に写っているのが、駅前交番。その横に公衆電話ボックスが並んでいます。駅前にメンズショップが有りましたね。駅前広場にはロータリーもまだ有りません。
同じころ駅前に有ったイトーヨーカドーの屋上から撮影した栃木駅の風景も紹介します。
栃木駅前ヨーカドー屋上より(昭和51年頃).jpg
こうして改めて見ると、栃木駅前は意外と雑然としていたものですね。そして駅南にはまだ多くの田畑が広がっていました。

駅の中に入って行きます。1974年から1975年頃の撮影したものです。
改札口を入って1番線、小山方面ホームの様子を、2番線ホームより撮影しました。
両毛線2番線ホームより1番線ホームを撮影.jpg
その1番線ホームより、2・3番線ホーム、さらにその奥の東武線ホームを写した写真です。
1番線ホームより東武線ホームを撮影.jpg
そして、一番南側の東武線ホームの様子を写した写真。特急きぬ号が通過中
東武線ホームの様子.jpg

この間までこの駅から東京や日光・宇都宮方面に出かけていたのに、もう昔のことになってしまいました。
栃木駅も今はすっかり変わってしまいました。


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この秋最初のサザンカの花が咲きました。 [草花]

今朝、庭のサザンカの木に、この秋最初の花が咲いているのを、見つけ早速写真に収めました。
サザンカの花が1輪咲きました.jpg
サザンカの花が咲きました.jpg
早速、花をみつけた蜂がやって来ました。
早速蜂が見つけました.jpg

朝の天気予報によると、栃木県の今日の最高気温は28度と、暑くなると伝えていました。でも明日は一転して22度、明後日は20度と寒くなると言うので、この天気は逃がせないと、シーツを洗濯し、布団を干しました。そんなこんなで、朝から汗びっしょりになってしまいました。

冬の到来を感じて、サザンカも開花を始めています。木には沢山の蕾がふくらんで来ています、そろそろ冬支度の準備をしようか。
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