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隅田川のナイトクルーズ船に乗船しました。 [橋梁]

先日、隅田川ナイトクルーズに参加して、隅田川に架かる橋のライトアップを楽しんできました。
その日はたまたま真冬のような天候になってしまいましたが、完全防寒体制で乗船、当然客室には入らず、上部デッキの最前列に陣取りました。
日が暮れてからのクルージングは、予想以上に冷たい空気が、顔に容赦なく当たってきます。が、ライトアップされた隅田川の橋梁群が見られる興奮が、その寒さを跳ね返してくれます。

船は両国の船乗り場から一度、隅田川を遡り、桜橋の手前でUターン。ここから隅田川を下って河口に向かって行きます。
スタート地点は、東京スカイツリーをまじかに臨む、言問橋ですが、言問橋は残念ながらライトアップされていなかったので、闇の中に沈んで気が付くこともなく、スカイツリーに目を奪われたまま、言問橋の下を通過。
0.東京スカイツリー.jpg
東武スカイツリーラインの鉄橋を通過すると、目の前に三つの滑らかなアーチが、ライトアップで浮き出ています。上路式三連アーチ構造の「吾妻橋」です。
2.吾妻橋1.jpg
橋長は、150.1m 幅員23.4m 竣工したのは昭和5年(1930)です。
欄干の中央部分が、江戸紫色に照明されています。

次に現れるのは、「駒形橋」です。
3.駒形橋1.jpg
吾妻橋が暖かい照明だったのが、一変して青系色に照明されています。
三径間の中央の構造は、アーチの中間に橋桁が位置する中路式、左右の景観は橋桁の下でアーチが支える上路式と言う構造になっていて、リズミカルな印象が有ります。
橋長は146.3m、幅員25.8m 竣工は昭和2年(1927)です。

駒形橋を潜ると、次は「厩橋」が現れます。
4.厩橋1.jpg
三連のアーチで下側の橋桁を支える、下路式構造で、三径間の中央部の桁が青系、両サイドが紫系に照明されて、スッキリとした感じがします。
橋長は151.4m、幅員24.5m 竣工は昭和4年(1929)です。

次に現れるのは、「蔵前橋」です。
5.蔵前橋1.jpg
三径間で橋桁が上部に設けられ、下側になだらかなアーチで支える上路式構造で、大人しい感じの橋です。
中央径間の欄干の照明は緑系で、左右の径間は淡い紫系でしょうか。
橋長は173.4m 幅員23.0m 竣工は昭和2年(1927)です。

蔵前橋を過ぎると、左岸に両国の船乗り場が有ります。この船も最後はこの発着場に戻ってきますが、今はさらに隅田川を下って行きます。船はJR総武線の鉄橋の下を潜り、次は「両国橋」です。が、両国橋はなぜかライトアップされておらず、闇の中に街灯の明かりだけが灯っていました。
船は首都高速6号、7号が交差する「両国ジャンクション」を頭上に見て、先に進んでいくと、前方に黄色く輝く「新大橋」が近づいて来ます。
黄色に照明された橋桁が横一直線に右岸と左岸を結んでいます。その中間より左岸側に寄った辺りにやはり黄色に輝く2本の柱が建ち、そこから橋桁を支持するためのケーブルが斜めに伸びています。
7.新大橋1.jpg
二径間連続斜張橋の「新大橋」です。
橋長は170.0m 幅員24.5m 竣工は昭和52年(1977)になります。

新大橋を過ぎると、隅田川は少し右方向にカーブしているのか、その先から次の橋が見えてきました。
ライン川に架かっていたケルンのつり橋をモデルにした「清州橋」です。
2基の主塔から左右になだらかに垂れ下がるケーブルが、白く照らし出され、紫色に光る中央径間の欄干の上部に優雅な曲線を造っています。
8.清州橋1.jpg
清州橋の近くから、その主塔を見る白色のライトアップが下に下がると、徐々に影となりリベットの頭がその影の中に光浮き出る。上部からのグラデーションが主塔を力強く浮かび上がらせている。
清州橋主塔部.jpg
清州橋は、平成19年(2007)に国の重要文化財に指定されました。
橋長は186.2m 幅員26.1m 竣工は昭和3年(1928)です。

清州橋を過ぎると、目の前に現れたのが「隅田川大橋」です。
この橋は二階建て構造になっていて、上を走るのが首都高9号、下が東京都道475号。
9.隅田川大橋1.jpg
写真左側で、橋脚部に架かる緑色の橋桁が東京都道。その上に照明で白く照らされている橋脚が、首都高部分です。その空間の先に垣間見える橋が、次の「永代橋」です。大きなアーチが青色で照らされています。さらにその奥、写真中央に白く輝いている主塔はその奥の「中央大橋」になります。

「永代橋」です。中央の大きなアーチと、そこから左右に水平に伸びる桁が、青色でライトアップされて、ドッシリとした重量感が漂います。
10.永代橋1.jpg
関東大震災の復興事業で内務省復興局により架け替えられた、隅田川で最も古い橋とのことです。
清州橋と同じくこの永代橋も、平成19年(2007)に国の重要文化財に指定されました。
橋長は184.7m 幅員25.6m 大正15年(1926)の竣工です。

永代橋を過ぎると、川筋はYの字に分かれています。右方向が隅田川、左方向が晴海運河です。中央の高層ビルが林立している所は「「石川島」。船は右側の隅田川に進路を進めます。
その高層ビル群の中に、白く照らし出されている斜張橋の主塔が聳える様に建っています。
「中央大橋」です。
11.中央大橋1.jpg
橋長は210.7m 幅員25.0m 竣工は平成5年(1993)です。

次に現れた橋は、「佃大橋」なんとも飾り気のないシンプルな箱桁橋です。
12.佃大橋1.jpg
橋長220.0m 幅員25.4m 竣工は昭和39年(1964)になります。

船は更に隅田川を下って来ました。現れたのは「勝鬨橋」になります。
13.勝鬨橋1.jpg
三径間で、中央部はかつては橋桁が中央部から分かれ、「ハ」の字に上方に開く構造になっていました。左右の側径間は下路式のアーチ橋になっています。しかし交通量が増えた為、昭和45年に開閉を中止しています。
この勝鬨橋も、平成19年(2007)に国の重要文化財に指定されました。
橋長246.0m 幅員26.6m 竣工は昭和15年(1940)です。

次はいよいよ隅田川の、最下流部に架かる「築地大橋」になります。
14.築地大橋1.jpg
三径間連続中路式アーチ橋の、飛び跳ねる様に大きな曲線を描くアーチ部を赤色の照明を当て、その中央を横に貫く橋桁をスッキリとした白色に照らし、モダンなイメージです。
橋長は245.0m 幅員は32.3m~47.9m 竣工は平成26年(2014)と、新しい橋です。

築地大橋を抜けると、隅田川河口で東京湾に至ります。
ここに来て、右手のビルの合間に暖かなオレンジ色にライトアップされた、東京タワーが姿を現しました。
東京タワー.jpg

東京スカイツリーから始まった「隅田川ナイトクルーズ」、最後は東京タワーで終了です。


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山形県酒田市の山居倉庫 [建物]

明治の初め頃までは、山形県は北・東・南の三方を山に囲まれ、陸上交通では不便な地域となっていました。唯一、西側が日本海に面した地形になっています。その中でも酒田は、県内の主要都市を巡るように流れる「最上川」の河口に位置していたことで、最上川舟運を利用して、米をはじめ紅花などの物産品の、積出港となっていました。江戸時代には、最上川流域には幕府の直轄地(天領)が多く存在していて、そのトータルは20万石とも言われていました。
最上川流域各地から集積された物産品は、酒田の港から「北前船」によって、関西方面に運ばれていったのです。
山居倉庫(さんきょそうこ)は、二級河川「新井田川(にいだかわ)」の河口近くの左岸に、明治26年(1893)に酒田米穀取引所の付属倉庫として、創建されました。
山居倉庫(酒田市).jpg
(手前の川が「新井田川」で、右手方向が河口(酒田港)になります。最上川は写真の後方を、左から右に流れ酒田港に注いでいます。)

新井田川の河口は、最上川の河口と接して、酒田港に注いでいる為、最上川舟運の荷役を取り扱う好適地になっていました。
当初6棟だった倉庫も、翌年の明治27年に9棟に、その翌年に更に2棟増築、そして大正5年に一番南側の1棟が建てられています。12棟の倉庫が並ぶ景色は正に壮観です。現在は国指定史跡となっています。
山居倉庫(南側より).jpg
(山居倉庫12棟を南側から撮影)
夜の山居倉庫.jpg
(夜の山居倉庫)

山居倉庫の裏手(西側)の大きな欅並木と倉庫の家並は、酒田観光のシンボルの一つで、観光写真で良く見る景色です。
倉庫裏手(西側)の欅並木.jpg
(山居倉庫裏手の欅並木)

<この欅は、日本海からの強風(西風)と、夏の直射日光(西日)をさえぎり、倉庫内の温度変化を少なくする目的で植えられたもので、現在41本残っている。>と、案内板に記されています。

川面に映る山居倉庫(酒田市).jpg
(新井田川の川面に映る倉庫群)
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巴波川浄化センターを見学してきました

先月21日(土)に、栃木市城内町にある「巴波川浄化センター」で開催された、「第29回巴波川流域下水道フェスティバル」に行ってきました。
ここ「巴波川浄化センター」は、「巴波川流域下水道」として栃木県に現在7か所ある「流域下水道」のひとつで、壬生町(南部地区)と栃木市の北東区域(旧栃木市・旧都賀町・旧西片町)の下水処理を担っています。
栃木市には、もう一か所藤岡町藤岡に、「大岩藤浄化センター」が有って、こちらは名前の通り「大平町」「岩舟町」「藤岡町」の栃木市南西区域の下水処理を行っています。

浄化センター入口.jpg
「巴波川浄化センター」を見学するのは、8年ぶりです。天気も良く大勢の見学者が訪れていました。
とち介.jpgスイスイくんとスイミーちゃん.jpg
会場では、栃木市のゆるキャラ「とち介」くんと、全国下水道マスコットキャラクター「スイスイ」くん、そしてとちぎ建設技術センターのマスコットキャラクター「スイミー」ちゃんが、お出迎えしていました。
受付を済ませて、管理棟の展示コーナーで、下水道に関連したパネル展示や水質実験・微生物観察などを見て回りました。
パネル掲示1.jpg
<地球上の利用できる水はどのくらい?>のパネルで、水の惑星と言われる「地球」ですが、その97.5%が海水で、淡水はわずか2.5%で、その70%近くが氷が占め、地下水や河川水、湖沼水などは地球上の水の約0.8%。さらにその殆どは地下水として存在しており、比較的利用しやすい河川水や湖沼水は、地球上の水の僅か0.01%に過ぎないと説明されています。

パネル掲示2.jpg
<毎日、どのくらいの水を使っている?>のパネルで、4人家族の場合で、1日約1,000リットルの水を使っていて、その内訳がでています。我が家は現在2人暮らしですが、だからと言って半分の500リットルに収まりそうに有りません。
我家の「上下水道料金のお知らせ」令和5年9月請求分を見ると、今回の使用量が「61㎥」と成っています。この期間の日数は61日間ですから、丁度1日1,000リットルになり、パネルに出ている4人家族と同じ量を使っていることになります。
我家では、節水を考えて洗濯する時、前夜のお風呂の残り湯を使っていますが、それでも使い過ぎなのか。今年の夏は暑かったのに、意外と夕立や雨が少なかった精で、庭の植木などへの散水量が多くなったのかも知れません。

パネル掲示3.jpg
<下水道処理場では、どんな処理がされているの?>のパネルで、ここ巴波川浄化センターにて、家庭や工場からでた汚水などを、どのように処理を行い、きれいな水にして巴波川に戻しているか、説明されています。この後設備見学会に参加して見ていきます。

中央監視室.jpg
管理棟2階には、巴波川浄化センターの「中央監視室」が有り、職員の方が多くの計器類を見て、設備が正常に作動している事を監視している様子を見ることが出来ました。

尚、2階フロアーには「栃木県流域下水道」のマンホール蓋や、栃木市、壬生町のマンホール蓋の展示も有り、マンホールカードの配布もされていました。
マンホール1.jpgマンホール蓋2.jpgマンホール蓋3.jpg

見学者も全員渡されたヘルメットをかぶり、水処理施設の見学です。
・処理工程①「沈砂池」:流入下水に含まれている大きなごみや砂を除去する。
・処理工程②「最初沈殿池」:汚水をゆるやかに流し、比較的沈殿しやすい物質を沈殿分離させる。
・処理工程③「反応タンク」:汚水に活性汚泥を加え、空気を吹き込み接触させ、有機物を分解する。
・処理工程④「最終沈殿池」:沈殿しやすい活性汚泥を沈殿させ、処理された水と泥を分離する。
・処理工程⑤「「塩素混和池」:きれいになった上澄水には、まだ大腸菌などが含まれており消毒する。
・処理工程を経てきれいになった水は、巴波川に放流します。

今回見学出来た処理工程は、②から④の水処理施設部分です。
案内板1.jpg最初沈殿池.jpg
①最初沈殿池:処理池の長さ17.2m、幅7.4m、処理時間約2時間

案内板2.jpgエアレーションタンク.jpg
②反応タンク(エアレーションタンク):処理池の長さ58.8m、幅7.8m、処理時間約8時間

案内板3.jpg最終沈殿池.jpg
③最終沈殿池:処理池の長さ43.0m、幅7.4m、処理時間約4時間

処理工程②から④の水処理施設は、一直線に連なったコンクリート製で、全長は約120mと長く、殆どが暗渠状態で、一部解放されたところで、処理中の汚水を確認できました。
水処理施設に流入した汚水は、全長約120mの処理池の中を、約14時間かけて、ゆっくりと流れ(平均流速は、1時間で約8.5m)、きれいな水となります。
現在、巴波川浄化センターの水処理施設は、上記の幅約8m、全長約120mの処理池が、7系列(計画は8系列)稼働しているようです。8年前に見学したときは、まだ4系列でした。

ここでもう一度、「なぜ汚水をきれいな水に出来るのか?」見直してみます。
今回の下水道フェスティバルの会場で、「下水道クイズ」が2問出されました。
<問題1>巴波川浄化センターは、何をするところですか。
答えは、「トイレなどで使用して汚れた水(下水)を、きれいにして川に流しているところ。」です。

<問題2>巴波川浄化センターでは、どのような方法で、水をきれいにしていますか。
答えは、「微生物と呼ばれる小さな生き物を利用して、きれいにしている。」です。

浄化センターに下水管を通って送られてきた汚水は、最初にごみや砂を沈殿させて除去して、次の反応タンクにて、微生物を含んだ活性汚泥を加え、空気を吹き込んで、ブクブクとエアー撹拌すると、活性汚泥の微生物が、下水の汚れを食べていきます。次の最終沈殿池にて、汚れを食べて大きくなった微生物が下に沈み、きれいな上澄み水を次に流していき、沈んだ活性汚泥は再び前の反応タンクに戻して、その微生物でまた汚れを食べてもらう。実際はもっと複雑なシステムになっているでしょうが、汚水をきれいにする仕組みは、微生物の力を利用している。と言う事です。
パネル掲示4.jpg

それでは、どのような微生物が活性汚泥の中にいるのでしょうか。会場ではその微生物を顕微鏡を通して観察できました。
活性汚泥中に見られる微生物の種類は、とても沢山いて代表的な繊毛虫類は、「ボルティケラ」・「ズータムニウム」「アスビディスカ」「リトノトス」「オキシトリカ」「ウロネマ」などなど。
その大きさは、30μm~100μmです。
そんな小さな微生物達が頑張って汚水中の有機物を食べて、水をきれいしている訳です。

そして今、浄化センターでは、汚水処理の工程で発生した「消化ガス」を活用した、「消化ガス発電」を行ったり、水処理施設の広い上空スペースを(屋根貸し事業)として、太陽光発電事業者に貸す等、再生可能エネルギー事業も行っている説明がされました。

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浄化センター敷地内には、汚泥処理工程で発生した消化ガスを活用する設備が並んでいます。

太陽光発電.jpg
水処理施設の上部に、太陽光パネルが整然と並んで設置されています。

私たちの生活に欠かせない、下水道事業の重要性を、少し理解することが出来た見学会でした。

今回の参考資料:
 見学会にて配布された資料
  ・「巴波川流域下水道 巴波川浄化センター」(栃木県発行)リーフレット
  ・「栃木県流域下水道の再生可能エネルギー」(栃木県発行)リーフレット
  ・「栃木県の流域下水道」(公益財団法人とちぎ建設技術センター・栃木県下水道管理事務所発行)リーフレット
 及び当日会場内に展示されていたパネルの内容を利用いたしました。
  

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宇都宮LRTと路面電車あれこれ

先日、県都宇都宮に出て、今年8月に開業したLRTに乗ってきました。
JR宇都宮駅東口の、LRT乗車口に向かうと、時間的に朝の通勤通学時間は、とうに過ぎている時間帯でしたが、大勢の方が乗車を待っています。まだ開業したばかりですから、観光目的の人達も多くいます。そういう私もその一人ですが。
車両が入ってきました。鮮やかな黄色と黒のツートンカラーで、車体は僅かに丸みを帯び、先頭部分は緩やかな流線形を呈して、車体が低く、窓が大きく開けています。
次世代型路面電車と言われる通り、近未来的なデザインで、スマートな感じを受けました。
宇都宮LRT1.jpg宇都宮LRT2.jpg
運転席はアナログの速度計の周りに赤や黄色・緑の表示灯が並び、その両側にはサイドやバックを捉えたモニター画面が、運転士に車体周辺の状態が確認できるようになっています。
車内は一般の通勤通学用の車両にはそぐわないと思われますが、4人掛けのボックスシートタイプで、どちらかというと、グループや団体客用に感じました。チョット乗り降りに不便かな。
宇都宮LRT3.jpg宇都宮LRT4.jpg

それでも車体のデザインは一言で「かっこいい」車体が低いので、線路面と車体の間かなくて、路面を舐めるように走る姿は安定感を感じます。
宇都宮LRT5.jpg宇都宮LRT6.jpg

ホームと線路面の段差が少ないせいか、威圧感が有りません。逆に簡単に線路面に降りてしまうので、気を付けないと、と思いました。

さて話は変わりますが、私が最初に路面電車に乗ったのは、今から60年も前、東武日光駅前から馬返しの区間です。まだ子供でしたが日光の市街地を走る姿を、僅かですが覚えています。
高校生になってから、所属していた写真部の仲間と日光を訪れたときは、すでに路面電車は無くなっていました。「馬返」から「明知平」間を運行していたケーブルカーは、その時撮影しました。

京都市内を走る「嵐電」には、一時私の子供が「蚕の社」の駅近くに住んでいたことで、そこを拠点に京都観光に良く利用しました。
丁度「蚕の社」の駅から嵐山方面は、ほとんど「専用軌道」ですが、そこから南側「嵐電天神川」駅周辺は、自動車等も通行する「併用軌道」になっています。
嵐電1.jpg嵐電2.jpg

私は「撮り鉄」とか「乗り鉄」では有りませんので、何処にどんな鉄道や路面電車が走っているか、知識はありませんが、たまたま旅先の街で、路面電車が走っていると、ついつい写真に収めてきました。
私の住む街には、路面電車は走っていませんので、路面電車を見ると無性に旅情を掻き立てられる気がします。今まで、たまたま写真に撮った国内各地の路面電車の写真を紹介します。
まずは東京、「都電荒川線」
都電荒川線1.jpg都電荒川線2.jpg

北海道は函館、「函館市電」
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「函館市電」は、函館市内観光の足として重宝しました。特に夜間のライトアップした建物の撮影時は、市電が有ったので最終近くまで町の中を安心して行動出来ました。
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九州は「長崎電気軌道」
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そして、もう一つ「熊本市電」
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四国愛媛県は松山、「伊予鉄道松山市内線」。道後温泉駅前には復元された「坊ちゃん列車」が停車していました。残念ながら乗車する時間は有りませんでした。
伊予鉄道1.jpg伊予鉄道2.jpg

そしてもう一か所、高知県「とさでん交通」
とさでん交通1.jpgとさでん交通2.jpg

多くの路面電車は、同一路線に色々な型式デザインの車両が、走行しているので、見ていても飽きないです。その殆どが、明治時代の後期から大正時代の開業で、今回宇都宮市のLRTの開業は、路面電車の新規開業としては国内で75年ぶりと言う事で、大きな話題となっています。
現在は、JR宇都宮駅東口前から芳賀工業団地を結ぶ、総延長14.6kmの一路線ですが、計画としてはJR宇都宮駅の西側への延伸もあると聞きます。
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藤岡神社と森鴎村 [石碑]

栃木市藤岡町に鎮座する「藤岡神社」は、群馬県との県境、旧渡良瀬川の左岸に位置しています。
藤岡町の中心市街地をほぼ南北に縦断する、県道9号(佐野古河線)は、市街地の南の端にて、直角に東に折れています。その南の端から手前に25メートルほど戻ったところに、信号機の有る小さな交差点が有ります。
左(東方向)に折れると、北側角にお地蔵さんが立っていて、その先道路の両側に石柱が建っています。曹洞宗繁桂寺の西の入口に当たります。この道を真っ直ぐ進むと、寺の山門前に至ります。
一方、交差点を右(西方向)に折れて行くと、東武日光線の踏切を渡ります。その先で道路は三差路に。その真ん中の道に、大きな石の鳥居が建っています。神額は掲げられていませんが、手前右脇に「藤岡神社」と刻した大きな石標が建てられています。
藤岡神社一の鳥居.jpg藤岡神社の石標.jpg

「藤岡神社」の一の鳥居を潜って、真っ直ぐ西に進むと、500メートル程で「藤岡神社」の前に至ります。
神社の境内入口脇に、立派な欅の大木が聳える様に、空に向かって枝を広げています。平成元年(1989)に、栃木県名木百選にされた、樹齢約400年と推定される欅です。
藤岡神社の大欅.jpg

「藤岡神社」の境内を見てみると、豊かな鎭守の森の中に、良く整備された社殿が並んでいます。右手に神楽殿。左手に手水舎、本殿の裏手には常宝殿。
藤岡神社の拝殿.jpg
藤岡神社の本殿.jpg
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神社の境内には、26基もの石碑が建てられていますが、社殿の修改築記念や伊勢参宮記念、聖徳太子碑や金毘羅大権現碑など、神社関係の石碑がほとんどです。
藤岡神社境内に建つ石碑の分布状態を概略図にしてみました。
藤岡神社石碑分布図.jpg
境内には他に、鳥居や石灯篭、狛犬など多くの石造物も多く建てられています。
境内の石造物.jpg
句碑も3基建てられていますが、内1基は松尾芭蕉の句碑「市人に いで是うらん 雪の笠」になります。
句碑1.jpg句碑2.jpg句碑3.jpg
※句碑2が、松尾芭蕉の句碑になります。

神社関係の石碑の中に、藤岡神社の由緒を記した碑が、社殿に向かって右手、社殿の脇を入って行った、奥の木々の中に建てられています。背の高い石碑で、石碑上部の篆額に「藤岡神社碑」と陽刻されています。
藤岡神社碑(篆額).jpg
この篆額の文字は、正二位勲一等伯爵松方正義が揮毫しています。
碑文を見てみます、私の苦手な漢文体で、見たことの無いような旧字体の漢字が、並んでいます。
藤岡神社碑(碑文).jpg藤岡神社碑.jpg

幸い、人名や地名、年号数字など、読解可能な部分を繋げて、おおよその内容を感じ取れたような気がします。
・藤岡神社は旧称「六所大明神」。伊弉諾尊・伊弉冉尊・天照皇大神・月讀尊・天兒屋根命・天宇豆女命の六神をお祀りし、藤岡の里の鎭守とした。
・天正五年(1577)四月、藤岡城主佐渡守清房の時、佐野の宗綱に攻められ、社殿はその兵火により焼失した。
・天正十八年(1590)、社殿を再建した。
・元禄七年(1694)、社殿を建て替えた。
・正徳二年(1712)、京都の神祇伯より正一位の神号を授かる。
・文政四年(1821)、「紫岡神社」に改名する。
・明治八年(1875)、「藤岡神社」に改名する。
他にもいろいろ記されているものの、読み切れませんでした。

この碑文は、明治35年8月 勅使議員で正四位勲三等文学博士の、重野安繹撰、書いた人物は吉田晩稼という長崎出身の書家、「靖國神社」の大石標の文字も晩稼の揮毫した人物です。

次に、本殿に向かって左手方向手前、手水舎の裏手に、「鷗村先生碑」と篆額に陽刻された石碑が建てられています。地元藤岡町出身「森 鴎村」の顕彰碑です。顕彰碑はこの「鷗村先生碑」の1基だけになります。

篆額の文字は、同じく地元出身の実業家「岩崎清七」が揮毫しています。
鴎村先生碑(篆額).jpg

碑文を見てみます。これも漢字がずらっと並んでいます。その漢字の中には私が70年間生きてきた中で、一度もお目にかかったことの無いような漢字が、いくつも出てきて、とても読めるものではありません。例えば「糶糴」、(これは「ちょうてき」と呼んで、「米の売買」の事。碑文中では、森鴎村の曽祖惣吉の職業として記されています。)とか、「諤諤」「惴惴」「嘐嘐」など。さらには、「漢字源」で引いても出てこない漢字も。とりあえず碑文を書き写してみました。わからない漢字は■にしました。
鴎村先生碑(正面写真).jpg鴎村先生碑(碑文).jpg

碑文だけでも漢字が999字、句読点も改行も無く並んでいます。
この碑文は、幕末期の仙台藩士、明治時代の漢学者「岡 千仭」の撰文です。

「森 鴎村」については、藤岡町史通史編後編、第六章近代藤岡の黎明 二明治初期の教育と文化、に記されていましたので、抜粋して参照させていただきます。
<森鴎村は天保12年(1831)に藤岡の名主の家に生まれた。幼名を定助、後に定吉、諱を保定といい、鴎村と号した。父邦治の後を継いで名主となったが領主の専横によって免職となり、その際帳簿の引継ぎをめぐって領主の不興を買って獄につながれた。
幼少から漢学に親しんでいた鴎村は江戸に出て藤森天山・安積艮齋・萩原西疇など一流の学者について学び、諸国を廻った後帰郷して農業のかたわら塾を開いた。この塾は、明治15年には漢学科の私立学校鴎村学舎となった。鴎村は明治40年1月77歳で亡くなるまで、多くの近郷の子弟を教育し、その中には、岩崎清七(藤岡町・実業家)や、足尾鉱毒反対運動の指導者碓井要作(下都賀郡生井村・県議)、松本英一(群馬県邑楽郡海老瀬村・村長)などもいる。・・・(後略)>

この「鷗村先生碑」の碑陰には、篆額の文字を揮毫し、この石碑の建立に尽力し、鷗村学舎の門人でもあった岩崎清七が、建碑に至るまでの経緯を記しています。

碑陰の状態.jpg

幸い碑陰の文章は漢文体ではなく、旧仮名遣いや変体仮名が使われていますが、「わかち書き」の文章体で書かれているので、変体仮名にはてこずりましたが、私にも何とか読み解くことが出来ました。

<森鴎村先生の石碑の建設計画は明治22年8月、岩崎が米国留学から帰国したときに遡る。
当時建碑の資金調達にあたって、誰にも迷惑に成らない方法として、先生に書幅の揮毫をして頂き、門人その他有志者に分配して、三百五六拾円の基金を得、岩崎が保管利殖していたが、明治39年4月、鷗村先生の自宅が隣家の失火により類焼してしまった。そこで住宅建築費として、その基金を全て提供することとした。そのような事情で顕彰碑の建立は一時頓挫する形で、月日が流れた。森鴎村が亡くなった後岩崎清七は、森鴎村が心血を注がれた詩文の散逸を防がんと、鷗村遺稿と其続編とを出版して、各方面に寄附して、当代文学者界に、森鴎村先生の存在を認識させました。残るは先生の顕彰碑を建立する、その一事を残すだけとなり、昭和12年6月20日念願の石碑の建立を果たした。と記しています。>

森鴎村は、よく顕彰碑等の碑文の撰者として、乞われていた様で、栃木市周辺にて森鴎村撰文の石碑を見ることが出来ます。私がこれまで収集した森鴎村撰文の石碑を紹介します。

まず、同じ藤岡神社の境内に建つ「伊勢参宮奏神楽記」です。これは明治17年(1883)建立です。篆額の文字は、正三位勲三等侯爵西園寺公望の揮毫です。そして同じく藤岡町城山の旧渡良瀬川の葭立堰堤近くに建てられている、「葭立修隄碑」です。明治26年(1893)9月の建立になります。篆額は栃木縣知事從四位勲三等折田平内が揮毫しています。
伊勢参宮奏神楽記.jpg葭立修隄碑.jpg

藤岡町大前の大前神社境内にも2基の鷗村撰文の石碑が有りました。
「山士家翁碑」は、明治32年(1899)12月建立で、篆額は内務大臣元帥海軍大将正二位勲一等功二級侯爵西郷從道が揮毫しています。そしてもう1基は、「式内國幣大前神社拝殿改作記」で、明治12年(1879)9月に建てられています。
山士家翁碑1.jpg式内國幣大前神社拝殿改作記.jpg

太平山公園内謙信平の南麓を一段下がった道の脇に、「添野五耕翁碑」の碑文の森鴎村の撰文です。明治27年(1894)8月の建立で、篆額は従二位勲一等宮中顧問官子爵品川彌二郎の揮毫。
最後は佐野市葛生町山菅の、「影山新吉招魂之碑」です。明治15年(1882)3月12日建立。篆額は渡邉 醇の揮毫になります。
添野五耕翁碑.jpg影山新吉招魂之碑.jpg

他にもまだ有りますが、まだ収集できていません。これからもまだ探して行きます。

今回参考にした資料は:
 ・藤岡町史通史編後編 藤岡町発行
 ・ふじおか見てある記 藤岡町教育委員会発行












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童謡詩人「金子みすゞ」の世界に [石碑]

2011年(平成23年)3月11日、午後2時46分、今まで経験をした事の無い、大きな大地の揺れが、東日本全域に発生しました。「東日本大震災」です。
その災害の後しばらく、民放テレビ各局のCM放送が無くなり、私たちは「一編の詩」を耳にすることになりました。
  「遊ぼう」っていうと
  「遊ぼう」っていう。
       「馬鹿」っていうと
       「馬鹿」っていう。
  「もう遊ばない」っていうと
  「遊ばない」っていう。

        そうして、あとで
        さみしくなって、
  「ごめんね」っていうと
  「ごめんね」っていう。

        こだまでしょうか、
        いいえ、誰でも。

この詩が、何度も何度も、私の耳に入ってきました。

この詩が、誰のものかその当時は、全く知りませんでした。

「金子みすゞ」という名前を知ったのは、それからだいぶ経った後になります。

先日、「金子みすゞ」(本名テル)が、生まれ育った、山口県長門市仙崎を訪れ、仙崎駅から彼女が育った家(現在は復元された金子みすゞ記念館)まで、歩いてきました。

山口県長門市仙崎は、山口県の日本海側の、海に面した長門市の中央部、海に万年筆のペン先のような形で突き出た、その先端部分に栄えた漁師町で、その北側には日本海側の島では、佐渡島、隠岐の島に次いで、三番目に大きな島「青海島」がペン先に乗るように迫っています。
海に突き出た仙崎の街は、北側を青海島により、外海から遮断され、東側には「仙崎湾」、西側には「深川湾」と言う内海を形成、漁港として恵まれていました。
そのような自然環境で、明治のころまで捕鯨の街としても栄えていました。
長門市仙崎の概略図.jpg

万年筆のペン先の様に突き出た地形の、西側の付け根に位置する長門市の市街地から、山陰本線の支線「仙崎線」が、ペン先の中ほどまで伸び、仙崎駅へと繋がっています。
長門市仙崎駅.jpg
その仙崎駅の駅前から、真っ直ぐ北に向かう通りは、ペン先の先端までインクを通すスリットの様に見えます。
仙崎駅前から先端まで約1km。(先端には以前は、青海島に渡る「渡船場」が有ったようです)その通りを370mほど歩いた右側に、復元され「金子文英堂」の看板を掲げた、「金子みすゞ記念館」が有ります。
金子みすゞ記念館.jpg

この仙崎駅前から、仙崎の街の中央を縦断する通りは、現在「みすゞ通り」と呼ばれ、通りの各所に金子みすゞの写真のモザイク画や、みすゞの詩が掲示されています。幾つか紹介します。
駅の待合室のみすゞのモザイク画.jpg駅の東側に建つ詩碑.jpg

最初は仙崎駅待合室の壁いっぱいに描かれた、「金子みすゞ」の顔のモザイク画。モザイク画の一片一片に使われているのは、蒲鉾の板を利用しているそうです。(仙崎の特産の一つは、蒲鉾ですから)
そして仙崎駅舎の東側に建つ、「みすゞの詩碑」です。
碑文の部分を拡大してみます。
詩碑の碑文拡大.jpg

この詩の作品名は「星とたんぽぽ」です。この作品は小学校の国語教科書に掲載されました。
碑文を書き写してみます。

  青いお空の
     そこふかく

  海の小石のそのように
  よるがくるまで
   しずんでる

    昼のお星は
      めにみえぬ

     見えぬけれども
     あるんだよ

  見えぬものでも
     あるんだよ

      金子みすゞの詩
       星とたんぽぽより 

この碑に刻まれた詩の内容は、作品全体の前半の半分だけです。元の詩には、この後以下の様に続いています。

   ちってすがれたたんぽぽの、
   かわらのすきにだアまって、
   春のくるまでかくれてる、
   つよいその根はめにみえぬ。
      見えぬけれどもあるんだよ、
      見えぬものでもあるんだよ。

仙崎駅前の、みすゞ通りを見通せる場所に、本を開いた形のモニュメントが建っています。
右のページには、仙崎の街の地図が、左のページには、金子みすゞと「みすゞ通り」のことが刻されていますが、風雨にさらされてきた精でか、相当かすれてしまっています。
駅前のモニュメント.jpg仙崎の街並み1.jpg

みすゞ通りの最初の大きな交差点の、左向こうの商店に、モザイク画で描いた「花津浦」の景色とみすゞが詠んだ「花津浦」の詩。そしてもう一編「蛍のころ」の詩が掲示されています。
「花津浦」は、青海島の周りに点在する奇岩の一つ、金子みすゞは、仙崎八景の一つに歌っています。
花津浦.jpg
通りを先に進むと、右側の路地の入口に石の鳥居が建っています。横の家のしゃれた半月の窓のところに、みすゞの詩「祇園社」の一編が掲示されています。
祇園社入り口の鳥居.jpg祇園社の詩.jpg

このように、「みすゞ通り」に面する多くの家々で、みすゞの詩を掲示しています。
大漁の詩.jpg

これらを、一つ一つ見て読んでいると、あっという間に時間が過ぎて行ってしまいます。
みすゞの顔のモザイク画.jpg角の乾物屋.jpg
記念館の通りの向かいの家の側面に、また蒲鉾の板を利用して描かれた、みすゞの顔のモザイク画、
「わたしと小鳥と鈴と」の詩が、描かれていたようですが擦れて読みにくくなっています。
その先の路地の「角の乾物屋」。たばこのショーケースの下に、「角の乾物屋の」の詩が。

金子みすゞ(本名テル)は、明治36年(1903)4月11日、山口県大津郡仙崎村(現在の山口県長門市仙崎)に、父金子庄之助と母ミチの長女として生まれました。みすゞには2歳年上の兄「堅助」と、2歳年下の弟「正祐」が居りましたが、みすゞ2歳の時に父庄之助が、享年31歳で亡くなりました。そしてその翌年に、1歳とまだ幼かった弟「正祐」が、下関にて書店「上山文英堂」を営む、義弟「上山松蔵」の養子として、貰われて行きました。明治40年1月19日のことです。このころ金子家は兄の「堅助」が、仙崎に一軒しかない本屋「金子文英堂」を始めました。
少女時代のみすゞは、こうして書籍や文字に、おのずから触れる環境の中で暮す事になったようです。

大正8年(1919)8月26日、みすゞの母ミチが、下関の上山松蔵の後妻として、仙崎から出ていきました。母ミチの妹で、松蔵の妻であった「フジ」が前年の11月8日に死去したのが、きっかけだったようです。フジ、享年満42歳でした。
こうして、仙崎の金子家は、祖母「ウメ」と兄とみすゞの、3人暮らしとなってしまいました、みすゞが16歳の夏のことでした。

大正11年(1922)11月3日、兄「堅助」が結婚をしました。そして、それを契機にみすゞは、母の住む下関の上山文英堂書店に移りました。大正12年4月14日のことになります。みすゞ20歳の年でした。
これからみすゞは下関にて、本格的に作詩を始めることになります。
みすゞが作った512編の詩の全てが、下関に移ってから、昭和5年(1930)3月10日自死するまでの7年間に作られました。

山口県下関市唐戸周辺には、みすゞのゆかりの地や詩碑が建てられ、「金子みすゞ詩の小径」として、みすゞの足跡を訪ね歩くことが出来ます。その何点かをご紹介してみたいと思います。
旧赤間関郵便局庁舎.jpg旧秋田商会ビル.jpg
上の2枚の建物の写真は、左側が国登録有形文化財(建造物)で、日本最古の現役郵便局舎「下関南部町郵便局」と、右側の下関市指定有形文化財(建造物)の「旧秋田商会ビル」になります。きっと金子みすゞもこれらの建物を見ていたし、この郵便局から雑誌社宛に、作品を投稿していたのでしょう。

旧秋田商会ビルの前に、「金子みすゞ詩の小径」出発点の詩碑が建てられています。この詩碑に掲載されている作品は「障子」です。

次は、近くの寿公園に建てられた、「金子みすゞ顕彰碑」です。
中央には、下関に移り住んだ頃(20歳)のみすゞの顔写真。左側に作品「はちと神さま」の詩。右側に、「金子みすゞと上山文英堂」のことが記されています。
金子みすゞ顕彰碑.jpg金子みすゞ顕彰碑 詩碑「はちと神さま」.jpg

みすゞが下関に移って暮らしていた「上山文英堂本店」は、顕彰碑の建つ寿公園の前の道を、道なりに南に200メートルほど行った、通りの左手(東側)に有りました。当時の住所表示は、下関西南部四番地、現在「明治安田生命保険相互会社山口支店」が建っている辺りに成ります。みすゞが生活をしていた頃は、上山文英堂本店の左隣には、第百十銀行本店ビルが建っていました。

金子みすゞ顕彰碑の前から、今度は北に250メートルほど行ったところ、歩道の車道を背にして詩碑が建てられています。「黒川写真館跡」の詩碑には、ここ黒川写真館(現在は村田写真館)で撮影された「金子みすゞ20歳の写真」と、「山の子濱の子」の詩が刻まれています。
黒川写真館跡 詩碑「山の子 濱の子」1.jpg黒川写真館跡 詩碑「山の子 濱の子」2.jpg

上山家では、住まいから近かったこの「黒川写真館」にて、よく記念写真を撮っていたようです。

「金子みすゞ詩の小径」には、他にもう一か所写真館が出てきます。「三好写真館」です。
「三好写真館」は、唐戸町の「亀山八幡宮」の参道石段の西側に有りました。現在はコインパーキングになっていますが、歩道側に向かって詩碑が建てられています。
「三好写真館跡」の詩碑には、「鶴」と題する詩が刻まれています。
三好写真館 詩碑「鶴」1.jpg三好写真館 詩碑「鶴」2.jpg

以下に、詩碑に刻まれた碑文の冒頭部を抜粋して掲載します。
<金子みすゞは、亡くなる前日の1930(昭和5)年3月9日、亀山八幡宮参道そばの、この場所に有った三好写真館で、最後の写真を撮りました。そのときの心情は、想像にあまりあります。(後略)> 碑文の隣に、その時撮った写真も刻まれています。
この三好写真館は上山文英堂本店から約700メートルと、黒川写真館までの距離250メートルと比べると、3倍近く遠方の場所なのに、なぜ遠い三好写真館まで出かけて、最後の写真を撮ったのでしょうか。記念撮影の翌日、みすゞは睡眠薬を多量に飲んで自殺をしました。享年満26歳の若さでした。

最後に、もう一つ詩碑を紹介します。
唐戸銀天街詩碑「日の光」1.jpg唐戸銀天街詩碑「日の光」2.jpg

この詩碑は、亀山八幡宮の西参道鳥居を出た通りを、左方向に約90メートルほど行った、唐戸銀天街の中ほどに建てられています。1997年3月9日に彫刻シンポジウム実行委員会によって建てられています。

金子みすゞの詩は、口語体の話し言葉で、とても読みやすい、七五調で書かれているのも、読みやすさを増幅させています。リズムが有るからでしょう。その詩の特徴の一つとして、視点の逆転が多くみられます。この「日の光」の作品の中にも、四人の「おてんとさまのお使い」みちで出逢った南風に、何をしに行くのか答えていきます。最初の3人は日の光の陽の部分です。けれども最後のお使いは、寂しそうに言います。「私は、影をつくるため・・・・。」と、陰の部分です。視点が逆転しています。

最初に載せた詩は、「こだまでしょうか」と題する作品です。

今年は、金子みすゞ生誕120年になります。
私も、また金子みすゞが育った長門市仙崎の街を訪れ、ゆっくりと散策をしてみたいと思います。

今回の参考資料:
・金子みすゞ詩集  金子みすゞ著 (株)角川春樹事務所発行
・金子みすゞ 詩と真実  詩と詩論研究会編集 勉誠出版(株)発行
・童謡詩人金子みすゞの生涯 矢崎節夫著 JULA出版局発行


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宮城県石巻市周辺の震災遺構を見学してきました。

今年の夏、宮城県石巻市周辺の「東日本大震災」の震災遺構を見学に行ってきました。
2011年3月11日午後2時46分に発生した、マグニチュード9.0の巨大地震と、それに伴って発生した大津波に東北地方の太平洋沿岸に、潰滅的な被害を与えました。
あの日から、12年の月日が経過していますが、今回訪問した石巻市周辺は、まだまだいたる所に震災の傷跡が残っていますし、あの震災の悲劇を後世に残すため、「震災遺構」として保存する活動も各地で行われています。
今回、それらの震災の記憶と教訓を後世に伝え継ぐ為の、「震災遺構」や「震災伝承館」のいくつかを見て回りました。

東松島市野蒜地区の震災遺構「旧野蒜駅プラットホーム」です。
東松島市震災復興伝承館3.jpg東松島市震災復興伝承館4.jpg
復旧した仙石線の野蒜駅の新駅舎は、北側の高台に移っています。被災した旧野蒜駅舎は、現在「東松島市震災復興伝承館」として、被災時の様子を写真や映像で紹介しています。
東松島市震災復興伝承館.jpg東松島市震災復興伝承館2.jpg
建物の壁面に、津波で浸水した高さを記したプレートが、掲示されています。3.7m。私の身長の倍以上です。

石巻市南浜・門脇地区では、500人を超える尊い命が犠牲に成ったと言います。
ここに、「石巻市震災遺構門脇小学校」があります。昨年令和4年4月整備が終え、一般に公開されています。
石巻市震災遺構門脇小学校.jpg
石巻市震災遺構門脇小学校2.jpg石巻市震災遺構門脇小学校3.jpg
被災した本校舎の前に、被災前の姿を映した写真が掲示されていました。そこに記された説明文を、抜粋紹介させて頂きます。
<白壁が美しい門脇小学校の校舎は、津波と津波火災の延焼により、一夜にして黒い校舎へと変わりました。時が経ち、白さを取り戻しはじめた校舎は、あの日の記憶や教訓を伝え続けるとともに、津波と津波火災の痕跡を残す唯一の遺構として、ここに建っています。・・(後略)・・。>

<地震発生後、学校にいた児童・教職員らは訓練どおりに日和山へと避難しました。地震から約1時間後、大津波が襲来。津波火災が発生し、校舎は炎に包まれました。(中略) 避難を考えるとき垂直避難だけでは難しい一面が有ることを伝えています。>(石巻市震災遺構門脇小学校リーフレットより)

今、校舎の中央正面玄関の両脇に、被災をした樹木が、枝を伸ばし、青々とした葉を付けていました。
自然の力強さを感じました。

震災遺構門脇小学校の有る門脇町の南側、石巻港の海沿いにひろがる南浜地区は、東側を流れる旧北上川右岸から、一丁目・二丁目・三丁目・四丁目と多くの商店や住宅が建ち並んでいましたが、1,885世帯が潰滅的な被災をしてしまいました。
今は、「石巻南浜津波復興祈念公園」として整備され、公園内には宮城県全体の被災状況を伝える、「みやぎ東日本大震災津波伝承館」や、被災の傷跡を残す「門脇保育所跡」が有ります。
石巻南浜津波復興祈念公園内門脇保育所跡.jpg
上の写真は、旧門脇保育所の建物の基礎部分です。右手奥に写る建物は「みやぎ東日本大震災津波伝承館」。左手の小丘は「一丁目の丘」です。
脇に「旧門脇保育所」の説明板が建っています。震災当時の保育所長から頂いたコメントが記されています。抜粋してコメント内容を紹介させて頂きます。
<(前略)・・平成23年3月11日のあの日。経験したことのない揺れ、けたたましいサイレンの音。一刻も早く子どもたちを安心できる場所に。1.8km離れた山の上に有る石巻保育所への避難を決断するのに、時間はかかりませんでした。子どもたちが出発したのは15時15分。0歳児はおんぶ、1,2歳児は避難車に乗せ、3歳児からは走る。毎月行っていた避難訓練のおかげで子どもたちの行動も早く、坂道を懸命に避難し、15時50分頃に石巻保育所に到着しました。・・(後略)・・>
文章の隣には、被災前の建物の写真や、被災直後の保育所の状況写真も添付されています。その写真には、建物はすっかり破壊され、瓦礫の山だけが無残な姿で写っていました。

「みやぎ東日本大震災津波伝承館」には、この日も多くの見学者が、訪れて来ていました。
みやぎ東日本大震災津波伝承館.jpgみやぎ東日本大震災津波伝承館展示室.jpg

館内に展示された、パネルや写真を通して、改めて地震津波の破壊力の強大さを、感じさせられます。
日本列島は、ユーラシアプレート・太平洋プレート・フィリピン海プレート・北米プレートと言う、4つのプレート(岩盤)に囲まれ、海の下では、新しいプレートが常に生まれており、陸のプレートの方へと押し寄せています。地震は、プレートがぶつかり押し合う事で発生すると、記されています。
それでは。津波が起こったらどうすれば良いのか。「すぐに、より高い所へ逃げる!」
みやぎ東日本大震災津波伝承館展示パネル1.jpgみやぎ東日本大震災津波伝承館展示パネル2.jpg
今回の震災の経験で得られた、教訓を今後の生活の中に、生かしていく事が、我々に課せられていると、考えなければならない。地震は又、必ず発生するのだから。

<津波は川からと陸から襲ってきました。高さ8.6mもの津波が学校をのみこんだのです。児童74名、教職員10名が犠牲になりました。大川地区全体では418名が津波の犠牲に成りました。石巻市は、この事象と教訓を伝え続けるために、学校を震災遺構として残しました。いのちについて考える場所となったのです。>
この言葉は、「石巻市震災遺構大川小学校」のリーフレットの中に記された言葉です。
石巻市震災遺構大川小学校.jpg
石巻市震災遺構大川小学校2.jpg石巻市震災遺構大川小学校3.jpg
津波により破壊された大川小学校の校舎。鉄筋がむき出しになっています。校舎と体育館を結ぶ渡り廊下は支柱の根元から、折れ曲がって倒れてしまっています。まさに「無残」な姿をさらしています。
犠牲と成られた児童さん達の、恐怖・苦しみ・悲しみ・その胸の内を思うに、言葉を全て失います。

震災から12年が経って、宮城県下の復旧・復興は、ほぼ100%に達する状況に有るそうです。
新型コロナの感染対策も、5類への引き下げで、行動内容も大分緩和され、国内の観光地も人手が戻ってきているようで、今回女川町で海鮮丼を食べるのも、お店によっては70分待ちとかで、多くの観光客が来ていることを実感しました。
女川駅前商店街1.jpg女川駅前商店街2.jpg
女川駅前から海岸に通ずる通りは、綺麗に整備されています。

海岸線には、新しく築かれた「防潮堤」。そのスケールの大きさが目を引きます。
新に築かれた防潮堤1.jpg新に築かれた防潮堤2.jpg

住民の命を守るための、砦の城壁の様に。

今回の参考資料:
・「石巻市震災遺構 門脇小学校」リーフレット
・「石巻南浜津波復興祈念公園」リーフレット
・「みやぎ東日本大震災津波伝承館」リーフレット
・「石巻市震災遺構 大川小学校」リーフレット
・「みやぎ・復興の歩み12」パンフレット 宮城県震災復興本部 令和5年3月発行 
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栃木県足利市の戊辰戦争関連石碑を巡る [石碑]

群馬県の倉賀野にて中山道から分岐して、日光東照宮に向かう旧日光例幣使街道。
群馬県太田市から栃木県足利市に入ると、最初の宿は八木節発祥の地「八木宿」。そこから更に三十町(約3.3km)東の方向に進むと、「梁田宿」に入ります。
この足利市梁田町の中ほど、旧日光例幣使街道沿いに「旧日光例幣使街道梁田宿」と記した石碑が建てられています。平成二十二年五月に、御厨郷土文化研究会の五十周年を記念して、同会と梁田地区自治会連合会とによって建てられています。
旧日光例幣使街道梁田宿の碑.jpg旧日光例幣使街道梁田宿の碑陰.jpg

この石碑の建つ脇の道を入ると、突き当りに寺院が見えます。
長福寺山門.jpg
山門脇に「曹洞宗梁田山長福寺」と刻した石碑が建っています。この寺院の境内に、「明治戊辰梁田役東軍戦死者追弔碑」が建てられています。石碑の横に建つ足利教育委員会による説明文を参照させて頂くと、<(前略) 梁田戦争は慶応四年(1868)三月、例幣使街道梁田宿でおこった旧幕府軍と官軍との戦いである。内田万次郎は幕府軍として父と共に参戦し、その後も五稜郭の戦いまで各地を転戦した。戦後、大蔵省印刷局に奉職し、退職後碑を建立した。戊辰戦争慰霊碑や墓碑において、幕府軍の名を刻んだものが少ない中、「東軍」と幕府軍であることを刻む当碑の歴史的価値は髙い。>と、記されています。文中の「内田万次郎」は、碑陰に「大正十三年九月 従軍衝鋒隊士 従四位勲三等内田万次郎建之」と刻されている人物に成ります。碑は、足利市重要文化財(史跡)に指定をされています。
長福寺境内に建つ石碑.jpg追弔碑の説明板.jpg

更に、本堂の左手奥の墓地の中に、「梁田戦争戦死塚」が有ります。
長福寺墓地の戦死塚.jpg

こちらも塚の脇に建つ説明文を参照させて頂くと、
<慶応四年(1868)三月九日未明に勃発した、いわゆる梁田戦争に倒れた幕軍戦死者の墓である。
表面に 戦死塚 裏面に 慶応四戊辰年三月九日 戦死六十四人此地埋 梁田宿 と行書をもって陰刻してある。梁田戦争の直後、村民の手により渡良瀬河原に合葬し墓碑を建てた。しかし、河流の変遷のため、明治四十三年に星宮神社傍らに墓碑を移し、遺骨は現在地に改葬した。その後、昭和六年に墓碑も現在地に移し、今日に至っている。>と、記されています。こちらの「戦死塚」も、足利市重要文化財(史跡)に指定されています。
戦死塚の説明板.jpg
ここ、梁田宿における戦争は、西軍(薩摩藩・長州藩・大垣藩)の約二百名と、東軍(幕府軍)約九百名による市街戦となったが、勝ったのは人数の少ない西軍の勝利となっています。なぜこれほどの人数の差が有りながら、東軍が負けた原因は何処に有ったのか、東軍は前日の3月8日に館林を目指して移動していたが、館林藩は東軍に対して軍資金を提供して、梁田宿を勧め、一方で西軍に対して使者を送って、情報提供をした。梁田宿は日光例幣使街道の宿場町として繁栄しており、幕末には旅籠屋約30軒を数え、飯盛り女も多数抱えていた。東軍としては館林藩の斡旋と言うことで、安堵感も有り油断が有ったのか、その夜は僅かの歩哨しか立てず、酒宴を催した。その間西軍は熊谷から奇襲部隊が18キロの夜道をひた走り、梁田宿を三方に分かれて包囲体制を引き、9日早朝に奇襲攻撃を開始しました。
東軍としては、寝起きを襲われた形で、戦線の立て直しが出来ず、多くの戦死者を出し、渡良瀬川を越えて東に敗走。2時間余りの戦闘で梁田戦争は決着が付いたのであった。
渡良瀬川右岸土手上より望む梁田宿跡.jpg渡良瀬川.jpg
(上の写真は、現在の梁田宿の通りを、渡良瀬川の右岸堤防上より撮影したものと、同位置にて反転して、渡良瀬川側を撮影したもので、現在は渡良瀬川の河川敷には、ゴルフ練習場が広がっていました。)

西軍の戦死者3名負傷者10名に対して、東軍の戦死者63名負傷者75名を出しています。そしてこの戦いの中で、東軍の軍監であった、柳田勝太郎が銃創を被り戦死しています。
その軍監柳田勝太郎の墓碑が、梁田宿南東の加子村(現在の足利市久保田町)の崇聖寺墓地に建っています。
衝鋒隊軍監柳田勝太郎之墓.jpg
墓碑正面中央に「衝鋒隊軍監柳田勝太郎之墓」と大きく陰刻されています。その左脇に小さく「天光書」と有ります。この墓碑の近くには、説明板が見当たりませんでしたので、碑陰に刻まれた碑文を確認しましたが、碑の上部は見難くなっていて、ハッキリ読み取ることが出来ません。
<柳田勝太郎ハ會津藩士小右衛門ノ長子ナリ容貌魁偉夙ニ剛毅ノ士ト交ハリ同藩士佐川官兵衛林又三郎等ト☐☐善シ藩主京師守護職トナリ京師にアルヤ常ニ之レニ從ヒ慷慨國事ニ憂ヘテ已マズ明治戊辰年幕軍古屋作左衛門隊ノ軍監トナル将士皆其ノ恩威ニ服ス慶應四年三月九日梁田ニ戰ヒ身數銃創ニ被リ自・・・>この辺までは何とか読み進みましたが、誤読する可能性が大きく、以下部分的に読み取れる字も有りましたが、断念しました。
建碑されたのは、大正十四年三月九日と有ります。建碑尽力者に四人の名前が刻まれています。最初の名前は、<陸軍歩兵中将 眞下菊五郎>と有ります。この人物は碑文の中にも記されていますが、この梁田戦争の記録を克明に調べて「明治戊辰梁田戦蹟史」を著わした方です。

次に、下渋垂町の自性寺山門脇に、お地蔵様等と並んで、小さ目の石碑が建てられています。
碑の表には「戊辰戦役幕軍之墓」と陰刻されています。碑陰には「慶應四戊辰三月九日戦死」と有ります。ここ下渋垂村にて戦死をした幕府側の2名を埋葬した墓碑に成ります。
自性寺山門.jpg自性寺山門脇の石碑.jpg

最後に、「弾痕の松」を見に行きます。この梁田戦争の時、梁田宿内の中山藤作氏方に有った、松の幹に砲弾が当たって、そのまま食い込んだまま残された。砲弾はその後、太平洋戦争時の供出で抜かれ、痕はコンクリートで塞がれています。この松はその後2か所移植を繰り返し、現在は梁田公民館敷地に祀られている招魂社参道脇に、その姿を留めています。
弾痕の松.jpg弾痕の松(拡大).jpg

梁田公民館には、「梁田戦争」関連の資料を展示したコーナーが有りました。

今回の参考資料:
・北関東戊辰戦争 田辺昇吉著
・下野の戊辰戦争 大嶽浩良著 下野新聞社編集発行

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巴波川で世界平和を願う [祭]

今日、栃木市の夏祭りが、大通りや巴波川などを会場にして、沢山の催しが行われました。
私は、巴波川を会場に例年行われている、湊町の二荒山神社の「百八灯ながし」と、その前に開催された栃木商工会議所の企画提供による「世界平和祈願 鎮魂線香花火と灯ろう流し」を、見てきました。

歩いて会場に向かうと、すでに巴波川に架かる「幸来橋」を中心に、多くの人達が集まって来ていました。
陽が落ちて、辺りが徐々に暗くなってきて、巴波川沿いに立てられた行燈が点灯、会場はイベントの開始時間に近づくと、次第に盛り上がってくる気配に包まれました。
川沿いの行燈に火が灯る。.jpg

最初は「世界平和祈願 鎮魂線香花火」です。
平和を願って輝く線香花火.jpg
特大の線香花火に一斉に火がつけられると、巴波川の両岸綱手道には、オレンジ色の光を放つ線香花火が、巴波川の川面にキラキラと輝きを写し、会場全体を幸せな空間へと包み込んで行きました。
平和を願って輝く線香花火2.jpg平和を願って輝く線香花火3.jpg

続いて、参加された200人の子供達が事前に、思い思いの願い事などを書いた灯籠が、世界平和を願い祈り、次々と巴波川へと流されました。
幸来橋の下を平和を願って流れる燈籠.jpg
平和を願って流れる燈籠.jpg
そして次に、会場にて開始前に配られた「ペンライト」が、一斉に「赤」・「黄」・「青」・「緑」の光を発し、すっかり暗くなった会場に、一つ一つは小さな輝きが、100、200、そして300と増え、会場全体に点灯、様々な光が乱舞しました。
平和を願って光ペンライト1.jpg平和を願って光ペンライト2.jpg

こうして、川岸に並ぶ行燈の光と川面を流れる灯ろうの光、そして会場に参加した子供たちや観客とが一緒になって振られたペンライトの光が、世界の平和と子供たちの未来を明るく輝くものに成らんことを願って、イベントが終了しました。

先程までの熱気が次第に収まり、再び栃木の夜の静寂が戻ってきます。
そして暫らくしてから、おもむろに法螺貝が吹かれ、湊町二荒山神社の「百八灯流し」が、厳かに始まりました。巴波川の下河岸から、神様を祭った御神船が、川を遡ってきます。
船べりには沢山のロウソクに火が灯っています。
百八灯流し、巴波川を上る御舟.jpg
幸来橋の手前で停泊した御神船の上で、神主さんによる神事が執り行われました。
御船の上にて神事を執り行う.jpg
御神船の脇を、「二荒山神社奉納」「百八灯ながし」と記した灯ろうが静かに流れて行きます。
百八灯流し、巴波川を下る御舟.jpg
御神船は、ここで方向を転換して、巴波川を下流方向へと戻って行きます。
途中、船上の神主さんや世話人の方々が、舟べりに灯したロウソクを、両岸で見守っていた人達に向けて、投げて行きます。
岸からは「こちら、投げてください。」「今年出産予定です。」の声が飛んでいました。

百八灯流し、安産守りのロウソクを投げる.jpg
この神事に使われたロウソクは、縁起物「安産のお守り」と言われています。
お産の時に、貰い受けたローソクに火を付けて、ロウソクの火が燃え尽きるまでに、無事出産出来ると言うので、なるべく短くなったロウソクが喜ばれていました。

真夏の夜、巴波川で行われた二つの行事。最初は子供達の輝かしい未来の為に、華やかに賑やかに。
そして、静けさの中で厳かに行われた、伝統行事「百八灯ながし」。
未だ手元で光を放している「黄色のペンライト」と御神船から投げられた短いロウソクとを手にして、私も家路につきました。


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石碑から見る、まさに波瀾万丈の生涯を送った「中浜万次郎」 [石碑]

四国の最南端の地、高知県土佐清水市の南端、太平洋に突き出た足摺岬。
太平洋から打ち寄せる波が、断崖の足元の岩礁に白い波しぶきを上げています。
足摺岬.jpg
そんな足摺岬の、公園入口駐車場の脇に、燈台の形を模した「足摺岬 四国最南端」の碑が建てられています。そして、その碑の後方に、羽織袴姿の人物の銅像。後姿が灌木の上に突き出て見えます。
銅像の正面に回り込んでみると、台座に「中浜万次郎像」と記した、プレートが、そして側面には碑文を刻したプレートが付いています。
足摺岬四国最南端の碑.jpg中浜万次郎像.jpg
(四国最南端の碑)        (中浜万次郎像)

中浜万次郎像(碑文).jpg
中浜万次郎と言う名前を見ても、どのような人物なのか、聞いたことが無い名前です。
横の碑文を読んでも、ピンときませんでした。
1827年から1898年、年号で言うと「文政10年から明治31年」という、碑文冒頭に有る、
<中浜万次郎は、鎖国から開国にゆらぐ激動期の日本歴史の影で大きな役割を果たし、ついで興った明治文化の開花に著しい貢献をした一人であった。>と記されています。

高知県には、幕末の日本で活躍した人物として、「坂本龍馬」を筆頭に、「板垣退助」「武市半平太」などの名前が浮かびます。彼らは正に歴史の表舞台で大活躍をした人達です。
それに対して、この中浜万次郎はどのような人物だったのか、更に知りたくなりました。
碑文の中に、彼の生まれた場所が、足摺岬近くに有ると言うことで、その地に足を延ばしました。

「中ノ浜」は現在の土佐清水市中浜で足摺岬から足摺半島の西海岸沿いの道を北西方向に9キロメートルほどの所。現在の地形図を見ると、手前に「大浜」その先に「中浜」そしてその先に「清水」と言う地名が見え、中浜の海岸沿いの道路脇に、記念碑の地図記号が見えます。
中浜万次郎帰郷150周年記念の碑(表).jpg中浜万次郎帰郷150周年記念の碑(碑陰).jpg
記念碑正面に、「中浜万次郎生誕地」、中央部に肖像写真が描かれ、その下に「中浜万次郎帰郷150周年記念」揮毫は、記念碑建立時の土佐清水市長 西村伸一郎書。台石部分には、帆船の絵が描かれています。
碑陰を確認すると、日本語と英語の碑文が刻まれています。「中浜万次郎帰郷150周年記念の碑」として、<母国日本に帰りたい、中浜の母に会いたいの一念が叶い、中浜万次郎が故郷中浜に帰着したのは、漂流から11年余の1852(嘉永5)年11月16日のことである。母汐との束の間の再開。彼は土佐藩の士分から風雲急を告げる江戸幕府の直参旗本として登用され近代日本の夜明けの為に大活躍をしたのである。帰郷150周年を機に、郷土の偉大なる先人、中浜万次郎の人間愛と不屈の精神(ジョンマン・スピリット)を顕彰しこの碑を建立する。>と刻まれています。
この碑が建立されたのは、2002年10月13日に成ります。

「ジョンマン・スピリット」。ジョンマンこと「ジョン万次郎」が「中浜万次郎」その人でした。
ジョン万次郎は、14歳の時漁船に炊係として乗り、太平洋で嵐に会い遭難、仲間と共に南海の無人島に漂着、その後米国の捕鯨船に救助され、米国に渡り、かの地にて初等・中等教育を受け英語・数学・航海・造船等の高度な学問を習得し、その後米国の捕鯨船に乗り世界の海を航海し、帰国を果たした後には、江戸幕府に仕え、幕府軍艦「咸臨丸」等に乗り、通訳や技術指導をしている。
その間、坂本龍馬や岩崎弥太郎・勝海舟ら、幕末から明治維新に渡り、多くの日本人に大きな影響を与えたと言われた人物です。

海を臨む近くの高台に、もう一基石碑が建てられています。
中浜万次郎記念碑登り口.jpg
石段の登り口に、「中浜万次郎記念碑」と記した案内が建てられています。
贈正五位中濱萬次郎翁記念碑.jpg
碑の正面に「贈 正五位中濱萬次郎翁記念碑」 その左下脇に「公爵徳川家達書」と刻されています。
揮毫者、徳川家達(とくがわ いえさと)は、徳川慶喜謹慎後の1868年(慶応4年)に徳川宗家第16代当主となった人で、明治初期に静岡藩主(知藩事)を努めています。廃藩置県後に貴族院議員。従一位大勲位侯爵。
石碑の台座後ろ側に碑文が有ります。
贈正五位中濱萬次郎翁記念碑(碑文).jpg
こちらの碑文も、紹介すると。
「贈 正五位中濱萬次郎翁記念碑 公爵 徳川家達 書」
<中濱萬次郎翁ハ、文政十年土佐國幡多郡中ノ濱ニ生ル。十五歳ノ時、宇佐漁船ニテ太平洋ニ漂流シ、米国船ニ救助セラル。船長ホイットフィールド氏、翁ノ資性活達ニシテ才幹アルヲ愛シ、本国ニ伴ヒ、天文航海ソノ他諸般ノ學術ヲ修メシム、屢、世界ン各地ヲ周遊シ、嘉永四年本邦ニ還ル。幕府援擢シテ普請格ニ擧グ。萬延元年幕使ノ米國ニ派遣セラルルヤ、東道ノ任ニ當リ、歸來ス。寫眞機、裁縫具等ヲ
齎シ、文明利機ノ普及ニ資ス、明治ノ初年、開成學校中博士ニ任シ、仝四年普佛役觀戰ノ爲、大山巌、林有造諸氏ノ一行ト共ニ渡歐セリ、維新前後ノ名士、翁ノ指教ニ擧ル者多ク、當時世界ノ新知識ヲ本邦ニ移植セル功績尠カラズ、明治三十一年十一月十二日東京ニ卒ス。
享年七十二歳、昭和三年十一月特旨ヲ以テ正五位ヲ贈ラル、茲ニ郷黨ノ有志相謀リテ、地ヲ翁ノ生地ニ擇ト碑石ヲ建テ梗概ヲ記シ翁ノ卓犖タル一代ノ勲業ヲ不朽ニ傳フ。
    昭和四年五月建元       寺石正路 撰      畔柳完道 書  >

碑文を撰した、寺石正路氏は高知県の郷土史家。 書いた畔柳完道氏は書家で、中浜万次郎の子、中浜東一郎氏の妻よしの弟に成ります。

「中浜万次郎」と言う名ではピンときませんでしたが、「ジョン万次郎」と言う名前は私も知っていますが、でも今回石碑の碑文を読み、彼の資料等を調べて、改めて彼の偉大さを知ることが出来ました。
偉大と共に、非常に幸運な星の下に生まれた人物だと、思いました。
生れた家は、貧しく、幼くして父を失い、家族の為に子供のころから生活費を稼がなければならなかった。漁船に乗って海に乗り出せば遭難、無人島に漂着すると言う何とも悲惨な状態に有ったものの、無人島の生活も仲間4人と協力して生き延びています。143日間の無人島での生活を乗り越え、米国の捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助されます。
捕鯨船の船長ホイットフィールドは、萬次郎の生れついた明るく元気な性格や、物事をきちんとやり遂げる能力などに、関心を持ち、萬次郎をアメリカに連れ帰ります。萬次郎自身のアメリカへの興味を持ちます。一緒に救助された他の4人は、途中安全なハワイにて降ろしています。
アメリカで彼は「ジョン・マン」と呼ばれました。「ジョン」は彼を救助した船の名前「ジョン・ハウランド号」の「ジョン」。萬次郎の「マン」で、「ジョン・マン」に成ったと有りました。そして船長ホイットフィールドの養子になっています。
彼は賢く、英語も航海術も良く理解したようです。卒業後にはアメリカの捕鯨船に乗って、世界中を航海して回っています。一等航海士副船長にもなっています。

そんな彼も、やはり幼くして別れた「母に会いたい」と言う気持ちは次第に膨れて行きます。そしてついに帰国を考え、船長に別れを告げて、日本への帰国の資金を稼ぐために、當時アメリカ西海岸に起っていた、ゴールドラッシュの地に向い、4か月滞在し、金鉱で働きます。
帰国の途中、ハワイに寄ってそこで3人の仲間と一緒に日本に帰って来ています。

当時の日本はまだ鎖国政策をとっていましたから、帰国するのも大変だったようで、最初に上陸した琉球王国や九州長崎奉行の取り調べなどで、母親に再会するまで1年以上待たなければならなかった。

ふるさと「中ノ濱」に帰っても、母親との生活はそんなに長くは無かったようで、彼のことを知った江戸幕府から招かれ、直参旗本となり、ここで生まれ故郷の「中浜」の地名を名字として、「中浜万次郎」と名乗っています。
アメリカにて習得した英語や航海術、造船技術等を生かして、幕府の軍艦に勤務。万延元年(1860)の日米修好通商条約の批准書交換の為、アメリカに向かう使節団を乗せたポーハタン号の随行艦「咸臨丸」の通訳、技術指導員として乗り込んでいます。この「咸臨丸」には、艦長の勝海舟屋福澤諭吉らも乗っていました。

それからも、通訳や航海の技術指導員として、東奔西走の生活を送って行きます。
四国の片田舎の貧しい漁師の身から、日本の幕末から明治維新への、激動の時代の最前線で、活躍。正に波乱万丈の人生を送った、「中浜万次郎」。その一片を垣間見ることが出来ました。

参考資料:ウィキペディア「ジョン万次郎」「徳川家達」「寺石正路」「中濱東一郎」











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