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初めて巡る、愛媛・高知 [橋梁]

先日の連休を利用して、初めて四国の西側半分、愛媛県と高知県を訪れました。
香川県の金毘羅神社や栗林公園には、高校の修学旅行で行っていましたから。
今回は2泊3日の予定で、レンタカーを使って、少し気になる橋梁を中心に、観光しましたが結構ハードスケジュールでした。初日・2日と天候に恵まれなかったことも有り、思うように見て周れませんでした。

先ずは松山港にカーフェリーに乗って上陸。そこからレンタカーを駆使して進むことに。と言っても、私自身は助手席で、車窓の移り変わる風景を撮影したり、睡魔と闘ったりしていたのですが。
1.松山港上陸.jpg
<松山港に到着後、車で下船する。前の車のテールランプに続いて四国上陸>

先ずは愛媛県松山といえば道後温泉と言う事で、目的地に向かいます、30分程で市街地に入ってきましたが、道後温泉本館周辺の道路が狭く、駐車場を探すのに同じ道をグルグルと走る羽目に。やっとコインパーキングに止めて、歩いて道後温泉本館前へ出て来ました。建物は現在保存のための改修工事が行われている為、建物全体を覆うテントが設置されていて、明治27年(1894)最初に建てられた、神の湯本館棟のシンボル、屋上に有る宝形造りの塔屋(振鷺閣)は見られず、建屋南面の様子を写真に収めました。。
2.道後温泉本館.jpg

最近は何処に行っても必ず改修工事中になっている時に出くわします。2020年1月に岩国の錦帯橋を訪れ達時も、丁度数年に1度という改修工事中でした。今年4月、比叡山延暦寺を訪れた時も、根本中堂は改修工事の真っただ中で、建物は完全に覆屋に隠れていました。
29.岩国錦帯橋.jpg30.比叡山根本中堂.jpg

次に、道後温泉駅と坊ちゃん列車を見る為、アーケードの商店街を抜け道後温泉駅前へ
3.道後温泉駅と坊ちゃん電車.jpg

この場所には、正岡子規の像や坊ちゃんカラクリ時計、足湯「放生園」等々が有りますが、のんびり見ていられません、いよいよ雨が降ってきてしまいました。車で松山城下近くの駐車場に移動、途中車中から松山城を撮影しました。4.松山城遠望.jpg
<勝山山頂の天守は、慶長7年(1602)から26年の歳月をかけて築城され、現在国の重要文化財>

城山の南山麓に建つ純フランス風洋館「萬翠荘」は、旧松山藩主の子孫、久松定謨(さだこと)伯爵が、大正11年(1922)に建てた別荘で、見事な建物です。
5.晩翠奏荘.jpg

雨が、本格的に降ってきたので観光を諦めて、まずは四国の西に出っ張る、佐田岬半島の付け根、八幡浜方向に、車を進めていきます。途中是非寄りたい街が、「大洲」です。旅行ガイド本には、<清流肱川沿いに開けた小京都>と出ている街です。
肱川(ひじかわ)の流れに突き出た小丘上に、現在天守閣が復元されて建っています。
6.肱川橋.jpg
<岸辺に屋形船が並ぶ川が、肱川。手前に架かる橋は「肱川橋」。その先、川の流れの中に突き出た小丘の上に天守が見えます。>
天守閣部分をズームアップして、写真に収めます。
7.大洲城.jpg
<復元された大洲城天守閣です。>
私がこの地を選んだのは、肱川対岸の河原、この大洲城天守閣を望む緑地公園に建つ、松根東洋城の句碑を見てみたかったからです。
栃木市の太平山謙信平にも、松根東洋城の句碑が建ています。2020年4月24日に書いたブログ「太平山謙信平に建つ石碑を巡る」の中で、紹介しました。
松根東洋城は、父親が大洲裁判所の判事だったため、明治25年に大洲小学校を卒業しています。
残念ながら雨が強くなってきたので、河原に下りるのを断念しました。
上掲の肱川の写真にて、左側石垣の様な堤防の内側には、かつての大洲城の城下町が形成されています。ここに、「おはなはん通り」と呼ばれる通りが有ります。
1966年の4月から、NHK朝の連続テレビ小説第6作「おはなはん」のロケ地になった街並みです。
8.おはなはん通り.jpg
この通りは、明治・大正の面影を残しています。

ここからは、進路を海岸線から山中に方向を変え、四国の清流「四万十川」を目指す事に。四万十川には、川の増水時に水面下に沈む「沈下橋」が多数渡されています。支流を含めてその数は47とも48とも言われます。
今回はその中で観光するのに車が駐車出来て、河原に下りやすい「勝間沈下橋」を見てきました。
9.勝間沈下橋.jpg
勝間沈下橋は全長171.4メートル、幅員4.4メートル。架橋年は昭和40年。橋は水中に沈下した際、川の流れを妨げない様欄干が有りません。見ている時に自動車が対岸から渡ってきましたが、見ている私の方がハラハラしてしまいました。
勝間沈下橋を後に、ここから四万十川に沿って下流に進み1日目の宿の有る、四万十市中村に架かる「四万十川橋」通称「赤鉄橋」を望むホテルに。部屋の窓から四万十川の流れと、右手に赤褐色に塗装された9径間、橋長507.2メートル、幅員5.5メートルの鋼トラス橋が見えます。
10.四万十川橋.jpg
左手奥には、雨に霞んで、「四万十くろしおラインの宿毛線」の橋梁が見えました。

旅行2日目の朝、やはり今日も雨、本日最初の目的地は、四国最南端足摺岬展望台。
四万十川を下り、途中から国道321号、足摺サニーロードを南進。県道27号線で中浜・足摺岬方面へ。
11.足摺岬.jpg
足摺岬展望台から、雨天の為前方に広がる太平洋と空との境が、モノトーンに繋がっています。手前には岩間に波しぶきを上げ、渦を巻く海面。断崖絶壁の上に建つ白亜の灯台。荒々しくも何故か静寂に包まれた世界が広がる感じがしました。

なかなか止まない雨に急かされる様に、足摺岬を後にします。先程通ってきた道を戻るように、四万十川に向います。高知方面に進むには必ず四万十川を渡らなければ。
最も河口に近い「四万十大橋」渡ります。
12.四万十大橋.jpg
四万十大橋は、橋長687メートル。PC連続8径間有ヒンジラーメン箱桁橋。幅員は8.75メートル(歩道含む)
橋の写真を撮るため、左岸橋詰の公園に車を止めて、橋の親柱のモニュメントを、強風に傘を取られながらやっとの思いで撮影してきました。天気が良ければ橋の中央辺りまで行って、四万十川を真正面から撮りたかったのですが。
13.四万十大橋親柱のあかめ.jpg
親柱に付いた巨大な魚のモニュメント。四万十川の下流域で成長する「アカメ」という魚だそうで、目の部分が赤くなっています。大型になると全長1.3メートル、体重は30kgを越えるそうです。

四万十川の川面を吹き抜ける風はとても冷たく、逃げるように四万十川を後にしました。

次の目的地は一気に高知市・南国市を通過して東側の香南市長須町手結港へ、この港に有る可動橋を見に行きます。
14.可動橋1.jpg15.可動橋2.jpg
手結港の可動橋は、おおむね1時間の間隔で開閉する様で、私が到着した時は橋は大きく上がった状態でした。私たち以外にも見学に訪れた人たちで、駐車場には結構車が止まっていました。ここで可動橋が下がるのを待って、通行が再開した風景を収めて来ました。

2日目の宿泊地、高知駅近くのホテルに到着。部屋に荷物を置いて、今日の最後の目的地へ。
土佐の高知と言えば、ペギー葉山さんが歌う「南国土佐を後にして」に歌われ、一躍全国区になった「はりまや橋」です。四国高知に来たら、ここは外せません。
いつの間にか雨も止んで、夕暮れとなった高知の街に出かけます。
JR高知駅南口より、路面電車が走るはりまや通りを、800メートル程歩くと、通りの右手脇に鮮やかな朱色に塗られた橋が見えてきました。
16.はりまや橋.jpg
「はりまや橋」はかつての堀川に架けられた橋。堀川は1960年代下流部を除いて、大半が埋め立てられて現在は、「はりまや橋公園」として整備され、この朱塗りの橋は平成10年(1998)に、江戸時代から明治末期までかかっていた木造橋を再現したものです。
手前に建てられているモニュメントは「純信お馬像」。よさこい節で、<土佐の高知の はりまや橋で 坊さんかんざし 買うを見た よさこい よさこい>と、歌われる純信とお馬さん、恋物語の主人公二人を、高知市出身の漫画家「横山隆一」氏がデザインしたものです。

又、通りの反対側にはペギー葉山さんの「南国土佐を後にして」の歌声が1時間おきに流れる歌碑や歌に合わせて潮吹きをする親子鯨のモニュメント、そして明治の末に架けられ、昭和初期の路面電車開通と共に撤去された、鋳鉄製の「はりまや橋」も有ります。
32.大正期のはりまや橋.jpg31.現在のはりまや橋.jpg
そしてもう一枚の写真は、現在のはりまや橋通りに建つ、御影石の重厚な欄干になります。

ホテルに帰る途中、江ノ口川に架かる「高知橋」から眺めた西の空、夕焼けが川面に映り、川岸のヤシの街路樹がシルエットに写し出されています。明日はやっと晴れ間が見られそうです。
17.高知市街地夕景.jpg

3日目、今回の旅も最終日、本土に向けて出発。先ずは車窓から高知城の雄姿を狙います。やっと青空を見る事が出来ました。
18.高知城.jpg
高知城は、初代土佐藩主山内一豊が築いた城で、重要文化財に指定されています。土佐二十四万石、本丸内の建造物が当時のまま全て残る全国唯一の城だそうですが、今回はゆっくり見られません、出来れば今度は四国の城郭巡りを計画したいと思いました。

土佐の高知を後にして、一気に四国の中央を縦断して、瀬戸内海側に出て、本土に渡るため今回は、橋梁巡りの最後、しまなみ海道の橋梁郡を堪能しながら、渡って行きます。
しまなみ海道の四国側の起点は、今治市です。そこでせっかくなので、今治城の姿を一目見て行く事にしました。
19.今治城.jpg
今治城は、城を囲むお堀の幅が広く、瀬戸内海の直ぐ脇に築城され、お堀には海水が引かれ、船入も備えられた海城。
お堀の脇の道路に車を停車させ、記念の写真を撮りました。

いよいよ、瀬戸内海を渡る「しまなみ海道」へ、と気持ちが前のめりになるのを抑えて、先ずは最初に渡る「来島海峡大橋」全体が見渡せる展望台を目指す事に。
20.来島海峡大橋.jpg
写真は来島海峡大橋の今治側橋詰近くにある展望台から撮影。
<来島海峡大橋は、大島と今治の間約4kmの来島海峡に架かる、総延長4.1kmの3つの吊橋の総称になります。
上空を飛ぶ飛行機から撮影した来島海峡大橋の写真が有ります。昨年7月に撮ったものです。
21.上空からの来島海峡大橋.jpg
飛行機の窓越しに精一杯ズームアップした写真で、少し見難いですが、三つの吊橋が一直線に繋がっている様子が分かります。写真右側が今治で、左側が大島になります。

展望台からの吊橋の美しさと、そのスケールの大きさを実感して、いよいよ高速道路に入り、しまなみ海道の、色々形式の異なる橋梁を走り抜けていきます。
展望台から見た、来島海峡大橋を渡ります。橋梁の側道をサイクリングする人がいます。
33.来島海峡大橋を渡る.jpg

次の橋は、伯方・大島大橋で、伯方橋(橋長325m、箱桁橋)と大島大橋(橋長840m、吊橋)の2橋の総称です。
22.伯方大島大橋.jpg

次に渡るのが、大三島橋(橋長328m、アーチ橋)
23.大三島橋.jpg

次は多々羅大橋になりますが、その前に大三島ICで一度高速道路から降りて、トイレ休憩を兼ね、多々羅大橋が見える、道の駅今治市多々羅しまなみ公園に立ち寄りました。
24.多々羅大橋.jpg
写真を見ればわかるように、この橋は斜張橋になっています。
この橋は中央支間長890mで、1999年完成時は世界最長の斜張橋です。
この道の駅には、「サイクリストの聖地」の碑が建てられ、その碑と橋をバックに多くのサイクリストが愛用の自転車と一緒に、記念写真を撮っていました。

多々羅大橋を渡ります。
多々羅大橋は橋長1480m、塔の高さは226mも有ります。
その塔の形がスラッとそびえていて、とても美しく感じました。
次の生口橋も同様に斜張橋です。こちらは、少し小ぶりで、橋長が790m、塔の高さは127mです。
25.多々羅大橋主塔.jpg26.生口橋.jpg

次は、因島大橋です。橋長1270m、吊橋です。
27.因島大橋.jpg
この因島大橋が、本州四国連絡橋の最初の吊橋として1983年に完成しました。

そしていいよしまなみ海道の一番本州側に架かる、新尾道大橋を渡ります。この橋も斜張橋です。橋長546m、塔の髙さは77mです。
28.新尾道大橋.jpg
そして、写真右側に見える橋は、尾道と向島を結ぶ尾道大橋になります。昭和43年(1968)3月に開通した、尾道水道(幅約200m)を渡る橋になります。

これで、瀬戸内海を渡り本州に上陸しました。最終日は天候にも恵まれ、色んな形式・形状の橋を見て・渡って、素敵なドライブが出来ました。又出来れば四国を訪れたいと思います。

今回参考にさせてもらった資料は
・本州四国連絡高速道路㈱ホームページ「しまなみ海道」
その他、現地にて収集した観光パンフレット。

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門司港駅見てあるき [建物]

1年ぶりに北九州市小倉駅に着いた。大きな荷物をコインロッカーに入れ、門司港行き電車に乗り換えました。電車で門司港駅に向かうのは初めて、在来線の改札を入ったものの、目的のホームが分からず、通りかかりの青年に尋ねた。
彼も分からなかったのか、直ぐ携帯を操作をして、今度の発車が8番線ホームであると教えてくれた。
私は反対方向に来ていたのでした。8番線ホームに降りると丁度「門司港行」の電車がホームに入ってきた。とりあえず門司港行の電車に乗ることが出来、一安心。
小倉駅8番ホーム.jpg

門司港駅は、小倉駅から3駅目、約15分程度で終点の門司港駅の2番ホームに到着しました。
門司港駅到着.jpg

鉄道レールはここで切れています。突き当りに白と黒の風車の様な図柄の「車止め標識」が設置されています。
ホーム反対側、1番線の付け根部分に「0哩(マイル)ポスト」が立てられています。
0哩ポスト.jpg0哩記念碑.jpg
2番線ホームと4番線ホームとの間に、昭和47年10月14日、鉄道開業100周年を記念して新たに「0哩」標が建立されました。揮毫した人物は、当時北九州市長を務めていた「谷 伍平」氏。この人、谷伍平氏は東京帝国大学卒業後鉄道省に入省。ご当地日本国有鉄道門司鉄道管理局長も務められた、門司港駅にとてもゆかりの有る人物です。

門司港駅は、鹿児島本線の起点駅です。関門トンネルが出来るまでは、本州と結ぶ九州の玄関口で、対岸の下関駅との間に就航した「関門連絡船」との連絡中継駅として賑わっていました。
最初の駅舎は、明治24年(1891)に開設されましたが、現在の場所より東南東200メートル程の場所で、現在は九州鉄道記念館ミニ鉄道公園辺りに成ります。
現在の駅舎は、大正2年3月16日に起工し、大正3年(1914)1月15日に竣工しています。
平成24年(2012)より、駅舎保存修理工事を開始、平成31年(2019)3月10日、駅正面玄関口に昭和4年(1929)設置した上屋(ひさし)を撤去して、開業当初の姿に復元されました。
門司港駅舎正面.jpg

よく観光パンフレットなどで目にする、ホームの写真をカメラに収め、改札を出ました。
門司港駅ホーム.jpg

門司港駅の駅舎は、国の重要文化財に指定されていて、見どころ満載です。もっと駅舎内を見て回りたいと思います。改札を出た東口方向に向かうと、現在はタクシーやバスの乗り場のロータリーに出ますが、その途中に昔ながらの洗面所やトイレが有ります。

帰り水の蛇口.jpg
最近、テレビのクイズ番組を見ていたら、上の水道蛇口の写真を見て、どこの駅かあてる問題が出ていました。鉄道ファンには有名らしく、すぐに正解が出されていました。
この水道蛇口は、門司港駅の洗面所前に有る水道の物でした。
洗面所前の水道設備.jpg
近くに掲示された説明文によると、<この水道(水呑處)は、駅が開設(大正3=1914年)された頃に設置されたもので、以来、旅行者に門司の「おいしい水」を供給し続けています。
とくに、戦前の海外旅行帰国者をはじめ終戦後の復員や引揚の人達が、門司に上陸して安堵の思いで喉を潤したところから、(誰言うとなく)「帰り水」と呼ばれる様になりました。>と、しるされています。
蛇口本体は緑青色に錆びつき、ノブの部分は絶えず人の手に触れている為か、真鍮色に光っています。
下の一枚目の写真は、旧洗面所の流しの部分です。昭和4年(1929)に洗面専用に新設されたものを老朽化に伴い一部だけ残させたと解説が出ていました。
又、二枚目の写真はトイレ内に設置された手水鉢を写したものです。
洗面所.jpg手水鉢.jpg
「手水鉢」の上に掲示された解説文を読むと、<幸運の手水鉢 大正3年の建設当時からあり、戦時中の貴金属供出からもまぬがれ現在も鋳造時の形のまま、長寿を誇っております。>と、記されています。どのように使われていた物か、水鉢には脇から一ヶ所1本の細い銅パイプが、先端を水中内に突っ込んでいます。想像するに、そのパイプを通して水鉢には絶えず水が供給されていて、オーバーフローした水が、水鉢の周囲の縁の低くなっている部分から流れ出ていて、その流れ出た水で手を洗っていたと思われます。(現在は流れ出ていませんが)

今度は反対方向、改札口を出て左方向(西口)に行ってみます。突き当りに階段が有り下に少し下がっています。その先は塞がれていて、どん詰まりになっていて、その壁面に船の写真が貼られています。
その入口の上部に「関門連絡船通路跡」の表示が掛かっています。
関門連絡船通路跡.jpg

かつて、ここに有った通路は、駅から桟橋までの約100メートルを結ぶ連絡路で、明治34年(1901)5月27日に発足した関門連絡船の為に設置された。その通路の入口横のコンクリートの壁に小さな長方形の穴が、奥が小さくなる形で空いています。脇の解説文によると、<旧監視孔 詳細は不明ですが、ここは戦争末期、軍の命令で設置された渡航者の監視所跡です。門司港は、外国航路寄港地n為、関門連絡船の通路は、戦時下の不審者を監視する絶好の場所でした。(後略)>と、説明されています。
関門連絡船通路跡の監視窓.jpg

外にも、「誇りの鏡」とか「旧正面上家」など見所がまだありますが、ここは一度駅舎の外に出て行きたいと思います。
丁度駅前の噴水広場の噴水が、水を拭き出していたので、止まる前に急いで写真に収めました。
門司港駅前噴水.jpg
この噴水は1時間おきに15分程度出るそうで、タイミング良く撮影できました。
この噴水広場の東側塀際に1本の石柱が建っています。「バナナの叩き売り発祥の地」の文字が刻まれています。「バナナの叩き売り」なつかしいです。私が子供の頃栃木の街中で、大勢の人だかりの中にその小気味よいバナナを売る男の口上を、夢中で聞いていた記憶がよみがえります。ここ門司港が発祥なのか。
バナナの叩き売り発祥の地碑.jpg

門司港駅舎はルネッサンス様式で、左右が対称になっていて、照明が付いた日没後も魅力的です。
夜の門司港駅舎.jpg

ここ門司港地区は、この駅舎だけではなく、「旧門司税関」や「旧大阪商船」「大連友好記念館」等、レトロな建物も多く、いくら時間が有ってもとても全て見て回ることが出来ません。
又、機会が有ったら是非訪れたいと思います。
夜の門司港駅ホーム.jpg





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馬草川(吹上地区)に沿って歩く [栃木市の河川と橋]

先日、久しぶりに「歴史と文化を歩く会ー栃木」の企画に参加して来ました。
新型コロナの感染拡大等で、開催が困難になって休会状態が続き、私自身の都合でそれ以降ずっと足が遠のいていましたが、今回は地元栃木市内を歩くというので、3年ぶりに参加をして来ました。

今回の企画は、栃木市内の「吹上地区を流れる馬草川沿いを歩く」という内容でした。
この「馬草川」は地元の人達から「まぐさっ堀」とか「まぐそっ堀」などと呼ばれ、吹上地区の大森町から吹上町の街の中を流れ、野中町で東北自動車道の下を抜け、赤津川に架かる「永宮橋」の上流右岸で赤津川に落ちています。
この川幅2メートル程の水路については、以前(2017年8月9日付け)に、「栃木市吹上町の街中を貫流する水路」と題して、このブログの中で書いています。もう5年以上も前の事で、その頃はずっとこの水路の名前も分からずに、たまたま現地で出会った農家の方に尋ねた時に「まぐさっぽり」と教えて頂き、感激した事を今も覚えています。
まぐさっ堀22.jpg
上の概略地図は、そのブログに添付したものですが、吹上地区の「大森町」「吹上町」そして「野中町」へと流れる馬草堀の流れを記しています。

その後、多くの資料を見る機会も増えて、この「馬草川」について書かれた資料も集めることが出来ました。
令和元年12月25日に発行された、「知っていますか、郷土の地名 吹上地区小字の由来」(吹上地区まちづくり協議会「歴史ロマン委員会」編集発行)の冊子に、この「馬草川」の事が何カ所か紹介されています。その一部を抜粋します。
大森町の小字に、「上」・「中」・「下」が有ります。その小字名の由来に関して、<大森町の中央部を北西から南東へと馬草堀がながれている。大きな川(堀)ではないが、左岸沿いは上流から、上(カミ)・中(ナカ)・下(シモ)と呼ばれる3つの小字がある。数百年前の大森村集落はこの堀を境に山際に接して立ち並び、馬草堀南側には人家は殆どなく「犬塚村」の近くに数軒あるのみであった。この小字「上」の位置は、馬草堀の北側で仲方町から薬師堂までをいう。堀の上流に位置することから上(カミ)と呼んだ。中(ナカ)は、馬草堀の北側にあり薬師堂から鹿島神社まで。堀の中流に位置することから中(ナカ)と呼ばれた。下(シモ シタ)は馬草堀の北側で鹿島神社から吉野工業西側までを言い、下流に位置することから下(シモ)と呼ばれた。・・(中略)・・ところで、馬草堀の呼び名について触れたい。隣の吹上町では「馬ぐそっぽり」などと呼ぶ人もいるようだが、ここ大森町では決してそのようには言わない。この堀は「姥ヶ沢」「千田入り」「富士の入り」などの沢水を集めた川で、昔は、実にきれいな水が流れており、人々は鍋や釜・野菜等を洗ったりする重要な川であった。(後略)>と、記されています。

以前、調べた時は今思えば川の上流域は確認していませんでした。馬草堀に沿って吹上町から大森町へと歩いて来て、サントリー梓の森工場の手前まで遡って来て、これ以上は工場の敷地内に入ると思い、それより上流についてはあきらめていました。が、今回はサントリーの工場入口の取り付け道を越えた、更に上流側を案内して頂きました。

栃木の市街地から、星野遺跡や出流山満願寺の有る寺尾地区に向かう、主要地方道栃木粕尾線(通称鍋山街道)を北西方向に進み東北自動車道の栃木ICの前を通過して、吹上地区を進んで行くと、道路左手に千塚小学校の明るくモダンな造りの建屋が現れます。そこも通過して道路が少し右のカーブした先に信号のある丁字路が現れます。この丁字路を右に折れると、サントリースピリッツ梓の森工場方向に向かう市道13029号線。この道路を横断してサントリーの工場方向に歩くと、左手からこんもりとした森が道路際まで迫って来ています。
その森に沿って左手に入る小路を60メートル程行くと、道路右手脇、木立に覆われ柵に囲われた小さな池が現れました。
磯池1.jpg
地元で「磯池」と呼んでいる湧水池とのこと。位置的にここで湧き出た水も「馬草川」に流れ込んでいたと思われます。現在はサントリーの工場への進入道路として拡張された為、水の流れはどうなっているものか確認できません。小さな湧水池の為、地形図にも反映されていません。
地元「吹上地区まちづくり協議会 歴史・文化・自然保護委員会」が平成21年2月1日に発行した「吹上地誌Ⅰ(西部編)」を開くと、「名所・旧跡の部」の所に「10.磯池(仲方町)」として、この池の説明が書かれています。一部抜粋させて頂きます。
<10.磯池(湧き水) 栃木市仲方町のサントリー工場入口の脇を少し入ると、山陰に水が湧き出る箇所がある。とても澄んだ水に小魚が泳ぎ、なんとも心まで澄んでくる思いがするところである。この磯池の由来は、その昔、弘法大師が旅の途中、この地に立ち寄った際、水不足に困っている民を見て気の毒に思い、手にしていた杖を地面にさしたところ、その地から水が湧き出てきたという。(後略)>
磯池2.jpg
磯池は中央が渡れるように左右に分かれています。その先の小丘を少し上った所に、小さな石造りの祠が祀られています。水神様は、<行事として年1回(4月1日頃)、地元住民の間で水神講が行われ、旗を立て赤飯や料理を持ち寄り水神様を祭っている。>との紹介もされています。

次は、一度市道まで戻って又、サントリーの工場の方に進んで行くと、正面の道路中央に「SUNTORY」のプレートが付いた煉瓦造りの門扉、「関係者以外立入禁止」の文字も見えます。
市道13029号線は、その手前で左手方向に分かれています。
梓の森へ.jpg
ここから市道はサントリーの工場敷地の北側に沿って沢の奥に向かって伸びてます。途中広い駐車場を抜けると、道路の左側は「梓の森」が迫り、道路の右側はフェンスを距ててサントリーの工場、フェンスと道路の間に水路が有ります。この水路が「馬草川」の様です。ここから大森町の間は暗渠となってサントリー工場の入口道路の下あたりを抜けて繋がっているようです。
馬草川源流をめざす.jpg
少し進んだ先で、左手に森の中に入る道路が有ります。

入口には丸太の杭が打たれて、車が進入出来ない様になっていて、ロープも張られ「危険!立入禁止!」の看板。下側に「サントリー」の会社の名前が付いています。この「梓の森」もサントリーの所有地になっているようです。
「サントリー㈱梓の森工場」は、昭和52年(1977)この地に建設され操業を開始しています。私も、まだ子供たちが小さかった頃、年に一度だったと思いますが、工場見学会の様な催しに訪問した事が有り、工場内を見学しました。ガラス窓越しに銅色に輝く蒸溜タンクを見た記憶が有ります。
建設当初のサントリー梓の森工場.jpg
上の写真は昭和48年頃に梓の森周辺を撮影したもの、サントリー工場も建設が進んでいます。写真右手の山が「梓の森」。右手奥に三峰山(通称鍋山)が見えます。

その当時は確か、「サントリー梓の森」はバードサンクチュアリとして野鳥の保護区域としていたと記憶しています。
現在は立入禁止の看板の脇に、「里山林循環整備プロジェクト実施中」の掲示が有り、その内容については、<サントリー「梓の森工場」の森林では、新たな整備活動を始めることになりました。>として、<森林全域を複数のエリアに分割。十数年サイクルで、木々の伐採・収穫、管理・育成を繰り返していく、循環型の里山的管理を行っていきます。>などと記されています。
新緑輝く梓の森2.jpg新緑輝く梓の森3.jpg

森の中から鶯の鳴き声が聞こえてきます。「梓の森」は新緑が芽吹き始めていて、その輝きは目に心地よく写ります。
新緑輝く梓の森1.jpg

更に市道を進むと又左手に入る道が現れました。そちらの道を少し入ると、大きな溜池が目に飛び込んできました。
馬草川源流近くの沼1.jpg
馬草川源流近くの沼2.jpg
野鳥のさえずる声、溜池の水面に映る梓の森。栃木の街からそれほど離れていないのに、すっかり自然の中に入り込んだ錯覚に驚きます。

地図を見ると「梓の森」の中にはいくつかの溜池(4カ所)が記されています。市道が切れた先、北の方角に入り込む沢の奥にも小さな溜池が描かれていますが、そこへの道路は地図上に描かれていません。
ただ平成30年8月1日発行の最新の2万5千分1、「下野大柿」の地形図を確認すると、「馬草川」の河道を遡ると、その一番奥の小さな溜池まで繋がっているので、源流はそこになるものと思われます。
しかし、今回はそこまで確認することはしませんでした。
明治初期に作られた地形図「迅速測図」で確認する馬草川の源流は、現在の場所より一つ西側の沢へ入っています。溜池は一つも描かれていません。その当時は無かったのか、記載されなかったのか。それは分かりません。
馬草堀の上流域、梓の森周辺の概略図を作ってみました。図面上に現在の馬草川(水色で記載)と、明治初期の馬草川の河道(赤色で記載)を描きました。
馬草堀上流域概略図.jpg

市道13029号線の東端付近で道は北に向かったところで終点になります。
馬草川源流への山道.jpg
上の写真は市道の終点付近を写したもので、道路脇を流れる水は夜に降った雨が、流れているもので、地図に描かれた「馬草川」の河道はこの道の左の雑木の中を流れていると思われます。
その河道が市道を北から南に抜ける地点に、小さな水溜りが有りました。ここが今回確認した最上端です。
馬草川源流近くの沼3.jpg

梓の森で自然を満喫して帰路に付きました。
馬草川沿いを歩く2.jpg
大森町を流れる「馬草堀」に沿って歩いて戻りました。
皆さん相変わらず健脚です。最高齢者は90歳を超えているのも驚きです。私もまだまだ頑張らなければと、あらためて思いました。
今回歩いた歩数は、12,550歩(約7.5km)でした。

今回の参考資料:
①当日配布された資料。
②「知っていますか、郷土の地名 吹上地区小字の由来 吹上町・大森町・仲方町・梓町 編」
      (吹上地区まちづくり協議会 歴史ロマン委員会編集発行)
③「吹上地誌Ⅰ (西部編)」(吹上地区まちづくり協議会 歴史・文化・自然保護委員会編集発行)
④2万5千分1「下野大柿」(平成30年8月1日 国土地理院発行地形図)
⑤明治前期測量 2万分1 フランス式彩色地図「栃木縣下野國下都賀郡尻内村」
      (日本地図センター発行)

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下野国都賀郡藤岡の陣屋にて活躍した幕府代官「岸本武太夫」 [石碑]

今年の2月に、江戸時代後期に下野国都賀郡吹上村(現在の栃木市吹上町)に代官陣屋を開き活躍。特に栃木県北部、那須野が原の農民から慕われた幕府代官「山口鉄五郎高品」について書きました。
その際、同時期にやはり栃木市内に陣屋を開いて、県南地方から茨城県南西部で活躍した代官が居る事を知り、その人物の足跡を追ってみました。

その人物の名前は、「岸本武太夫就美」と言い、生まれたのは美作国東南条郡押入村(現在の岡山県津山市押入)で、大庄屋「岸本彦左衛門泰久」の五男として、寛保二年(1742)に生まれています。
山口鉄五郎が生まれたのは、寛延元年(1748)と言われていますから、それより6年前に生まれていることに成ります。
岸本武太夫就美が、幕府代官となって下野国都賀・芳賀2郡五万石の支配を命ぜられて、藤岡村(現在の栃木市藤岡町)に着いたのが、寛政五年の十一月頃と言います。山口鉄五郎は、その年の三月ごろ吹上村に来ています。

彼らは当初、同僚と一緒に赴任して来ていますが、岸本も山口もその後一人の専任代官となって活躍を始めています。
この当時の北関東一帯は、天明の大飢饉の後で、農村部の荒廃が激しく、生活苦から子どもが生まれても間引きしたりで、人口が減少し耕作労働力が低下して、耕作されずに荒れ果てる農地が多くなっている状況下にありました。
江戸幕府としてもこのような状況を放置して置くわけにはいかず、荒廃した農村の復興、農民の生活救済、子供養育の補助等、幕府から救済金を支出して農村の風紀の乱れや、生活全般の改善を図る目的で、現地への支配代官の派遣を始めたのでした。

岸本武太夫が着任したと言う、藤岡代官陣屋が何処に有ったのか、現在わかっていません。
「藤岡町史」を開いてみると、「資料編・近世」に「藤岡陣屋」という項目が有ります。その部分を抜粋して引用させて頂くと、<・・藤岡陣屋は、寛政五年(1793)頃から文化年間までのおよそ20年間、下野国都賀郡・芳賀郡などの幕領管轄のため、下町に建てられた。文化期以降は、芳賀郡の東郷陣屋に移転した。藤岡陣屋には、代官岸本武太夫就美、続いてその子武八荘美が在陣したが、陣屋の具体的な状況については未詳である。・・・(後略)>と有り、関連史資料が二点掲載されているだけしかありません。
その史料が作られた時期は、享和元年(1801)と文政八年(1825)で、文政八年の史料に記されている代官の名前は、「岸本武八様」と有り、後を継いだ子供の時期のものです。
これらの書類が作成された頃には、寛政11年(1799)に新設された東郷陣屋(現在の真岡市東郷)に、家族揃って移っていますし、「岸本武太夫就美」自身も、文化六年(1809)に病気で死亡し、翌年には長子の岸本武八荘美が東郷の代官に任ぜられています。
大恵比須像.jpg大前神社.jpg
東郷陣屋の有った場所には現在、「二宮先生遺蹟 東郷陣屋阯」と刻した標柱が建てられています。
真岡市の巨大な恵比須像の建つ「大前神社」と、五行川を挟んだ対岸(左岸)に位置しています。
東郷陣屋阯之碑.jpg東郷陣屋阯説明板.jpg

「東郷陣屋阯」の上部に「二宮先生遺蹟」と有るのは、「二宮尊徳」の方が知名度が全国区であるからでしょうか。東郷陣屋を建てたのは、岸本武太夫ですがその後嘉永元年(1848)、東郷支配「山内総左衛門が兼任で真岡支配となり、真岡陣屋に移った時、代わりに東郷陣屋に入ったのが、「二宮金次郎」だったので、知名度の高い二宮先生遺蹟となったと思われます。
<慶応四年(1868)、官軍の焼き討ちによって焼失、廃陣となった。>と、標柱の隣に建てられた「東郷陣屋跡」の説明板に記されたいます。

真岡市東大島に極楽山西念寺という、浄土真宗大谷派の寺院が有ります。このお寺は享和元年(1801)に岸本武太夫が、入百姓政策によって遠く北越地方から移ってきた人々の、心のよりどころの為として、開基建立したもので、今お寺の山門前には自然石に「岸本代官遺蹟」と刻した石碑が建てられています。
西念寺山門.jpg岸本君遺蹟.jpg

又、真岡市西郷には「岸本武太夫就美」を祀った、「岸本神社」が建てられ、今もなお地元西郷の人達から、農村の復興、生活改善に多く尽力した岸本代官に敬愛の気持ちを表しています。
岸本神社1.jpg岸本神社2.jpg

更に、岸本武太夫の活躍の場は、栃木県境を越え茨城県南西部の「坂東市」まで及んでいます。
茨城県坂東市沓掛の街中に、「沓掛香取神社」が有りますが、その境内の二の鳥居右側、玉垣の直ぐ内側に少し小ぶりな石碑に成りますが、「奉 唱光明真言三千十七遍 祈岸本君武運長久所也」と刻まれた、文政六年(1823)沓掛根古内・向原の人達が建立した碑が建っています。
沓掛香取神社.jpg沓掛香取神社境内の石碑.jpg

更にさらに、沓掛地区諏訪山の藤岡稲荷神社の境内に、「岸本君二世功徳碑」が覆屋に守られて建っています。この碑は文政四年(1821)飯沼廻り村々・新田村六十三ヶ村の人達によって建立されたものです。
藤岡稲荷神社.jpg岸本君二世功徳碑.jpg

現在の坂東市と古河市、常総市、八千代町の間に昔あった「飯沼」と呼ばれる広大な沼地を、江戸時代中期、享保年間(1716~1736)に干拓して水田へと変えてきたが、その後度重なる飢饉や洪水のために村々は疲弊して、農民は田畑を捨てて村を離れたり、生活苦から口減らしのため堕胎や間引きを行い、人口が減少して村々は荒廃の一途を辿っていました。寛政五年(1793)代官となった岸本武太夫が飯沼新田の支配を兼ね飯沼の再開発に尽力しました。現在では周辺を含めて飯沼三千町歩と言われる、穀倉地帯を形成するに及んだ礎を作った一人で、この碑は「飯沼中興の名大官と称される岸本父子の徳政を讃える」ものという。

功徳碑が建つ「藤岡稲荷神社」は、頭に「藤岡」と付く通り、岸本武太夫就美が当初駐在した陣屋を建てた、下野国都賀郡藤岡村(現在の栃木市藤岡町藤岡)に有る、稲荷神社から分祀したと言います。
 
その稲荷神社は、「藤岡町史」に依れば、<元弘元年(1331)九月、藤岡伊勢守の時代に茂呂稲荷山から松葉へ勧請されたと伝えられ、その地名をとってかつて松葉稲荷大明神と言われていたという。その後元和九年(1623)二月に現在地に遷宮されたと伝えられ、江戸期の記録によれば享保十七年(1732)に拝殿が建立されたということである。しかも本殿の彫刻は大平町富田住の左隆顕(磯部儀兵衛隆顕のことで、左甚五郎十二世、隠居後は十一世を名乗り儀兵衛家を興した人物)の手になるものという。・・・(後略)>
稲荷神社全景.jpg稲荷神社本殿.jpg

幕府代官「岸本武太夫就美」も、先に書いた吹上陣屋の「山口鉄五郎高品」も広大な北関東を舞台に、民百姓の為に惜しみなく善政を尽くした名大官でした。

※今回の参考資料:
 ・栃木県史通史編5近世2(栃木県発行)
 ・藤岡町史資料編近世 (藤岡町発行)
 ・ふじおか見てある記 (藤岡町教育委員会発行)
 ・真岡市史第三巻近世資料編 (真岡市発行)
 ・真岡市史案内第5号 (真岡市教育委員会発行)
 ・坂東市石碑深訪ハンドブック (坂東市立資料館発行)
 ・飯沼新田物語 (さしま郷土館ミューズ発行)




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栃木市立文学館前のしだれ桜が散り始めています [草花]

今日で3月も終わり、明日からいよいよ春爛漫の4月に入ります。
それにしても、今年の3月は温かい日がとても多かった気がします。
今も、目の前の室温計は21.7℃を表示しています。
栃木市の桜は既に満開を過ぎて、ピンクの花びらを散らして来ています。

今日の午前中、昨年出遅れて葉桜になってしまった、栃木市立文学館前のしだれ桜を、見に行ってきました。
栃木市立文学館前のしだれ桜1.jpg
改修をして、外装も色鮮やかになった建屋をバックに、このしだれ桜を一度写真に収めておきたかったかったからです。

栃木市立文学館前のしだれ桜2.jpg
内側からも、桜を写してみました。後方に写る建物は、栃木聖アルバン教会(右端)と、禊神道栃木(左端)です。
又、元県庁堀を入れた角度からも撮ってみました。
栃木市立文学館前のしだれ桜4.jpg栃木市立文学館前のしだれ桜3.jpg

桜の花見で、私が欠かせないのは、家から近くの巴波川に架かる「小平橋」上流側の桜です。
帰りに寄って見てきました。こちらも満開で、花びらも結構散って来ています。丁度見頃でしょうか。
小平橋の桜1.jpg
小平橋の桜2.jpg

今年も無事、桜の花を堪能する事が出来ました。
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永野川改良復旧工事現場見学会の第2回に参加して来ました。 [栃木市の河川と橋]

先日(3月18日)、現在行われている永野川改良復旧工事現場見学会に参加して来ました。今回は2回目と言う事で、見学場所は大平町の「町田橋」と下流の「両明橋」の区間を、ゆうゆうプラザの駐車場を起点に、永野川沿いの堤防上の道を歩いて巡りました。
永野川沿いのウォーキングはこれまで何度か歩いていますが、その時撮影した写真と今回撮影した写真と見比べて、工事の様子を見てみたいと思います。
今回は土曜日でしたが、途中榎本堰の下流部分では、雨の中大きなクレーン車が稼働して工事が行われていました。素人目にはどんな工事なのか知る由も有りませんが、見ていると興味が湧いてきました。

最初は、護岸工事が完成間近となっている「町田橋」と「永豊橋」の3工区の様子を、丁度10年前に撮影した写真と比較して見てみます。写真は共に橋の下流側右岸から撮影をしています。
先ず「町田橋」
2023年3月18日町田橋.jpg2013年5月25日町田橋.jpg

そして「永豊橋」
2023年3月18日永豊橋.jpg2013年5月25日永豊橋.jpg

「永豊橋」の橋桁がさわやかな若草色に塗装されていたのが、印象的でした。
その永豊橋の直ぐ下流側に、護岸工事の完了した工区とまだ工事前の工区との境が有りました。
そこを見ると、河道掘削により従来の堤防の表小段部がそぎ取られて、河道が大幅に広くなっていることが分かります。護岸工事がほぼ完了している町田橋と永豊橋間の河道の中に、多くの岩石のかけらが並んでいました。河道掘削工事によって河床や、削られた旧護岸内から掘り出された岩石だと言います。
工事前と後が一目でわかる.jpg掘り出された岩石.jpg

下流側の両明橋の上から上流側の様子を写した写真を見ると、今回の河道掘削と護岸工事が完了した事で、川幅が広くスッキリと変わった事が、一目瞭然です。
2023年3月18日両明橋上より上流側を望む.jpg2017年4月14日両明橋上より上流側を望む.jpg

今回渡った両明橋は、新しく架け替えられると言います。この後架け替え工事の為3年間ほど、通行止めになるそうです。
その為でしょう、両明橋の部分は護岸工事などもまだでした。
2023年3月18日両明橋.jpg2013年5月25日両明橋.jpg

この両明橋は、架橋年が1934年で、現在永野川に架かる橋では、令和元年(2019年)の東日本台風(台風19号)で橋桁が流された「諏訪橋」や、その前2015年9月10日の豪雨により落橋した「旧千部橋」等と、同時期に架橋された古い橋の一つです。たまたま、この「両明橋」は、2015年8月に修繕をしていた事で、何とかこれまで耐えてこられたのかと思われます。
今回の永野川改良復旧工事に合わせて、ついに架け替えられるようです。

今年になって工事が始まった「榎本堰」は、堰本体の基礎部分の工事が行われていました。大きな2台のクレーン車が稼働して多くの作業員が雨の中働いています。
くい打ち工事1.jpgくい打ち工事2.jpg

現在の「榎本堰」や堰から取水した用水路は、今回の工事によってどんな姿に変わって行くのか、工事の行方が待ち遠しいです。
2023年3月18日榎本堰.jpg2023年3月18日榎本用水路.jpg

「両明橋」の上流部の完成まじかな工区の護岸法面に、この日の為に付けられたのか、「つよくなる ながのがわ」の文字が有りました。
つよくなる.jpgながのがわ.jpg

大変な作業がまだまだ続きます。工事に従事されている作業員の皆様には、くれぐれも事故の無いようお祈りしております。


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春・桜 [草花]

今日、大平町さくら通り近くの、「さくら樹木園」に行ってきました。
ここは早咲きの品種が多く、園の東側の河津ザクラは、すっかり葉桜になっています。
昨日の雨の影響もあってか、かなり花びらが散ってしまった樹木も有ります。
それでも濃いピンクの桜の花が、今日の青空に一段と映えて見えます。
大平町さくら樹木園1.jpg
大平町さくら樹木園5.jpg
大平町さくら樹木園8.jpg
子供連れの家族や、老夫婦などが訪れ、桜をバックに写真を撮っていました。

大平町さくら樹木園6.jpg大平町さくら樹木園7.jpg
大平町さくら樹木園2.jpg
大平町さくら樹木園4.jpg
大平町さくら樹木園3.jpg

暖かな日差しの下で、桜の花を満喫してきました。
大平町のさくら通りの、ソメイヨシノの桜並木も、開花が始まっていました。次の週末には満開になっていそうです。
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農民達から慕われた、幕府代官「山口鉄五郎高品」 [石碑]

江戸時代後期「天明の大飢饉」後、農村の疲弊が著しかった寛政五年(1793)、幕府直轄領(天領)を支配するため、下野国都賀郡吹上村に代官陣屋が設置され、代官山口鉄五郎高品が着任しました。
山口代官が支配した地域は、下野国及び武蔵国のうちの五万石におよんでいました。

その支配の本拠地となった吹上代官陣屋は、中世に築かれた皆川氏一族「膝附氏」の居城「吹上城」の跡で、現在は栃木市立吹上中学校が建てられています。現在、現地中学校の校庭にはただ、「吹上城址」と刻んだ石柱と、その脇に地元吹上地区の名勝地「伊吹山」を詠った「藤原実方朝臣」の和歌、<かくとたに えやはいふきの さしも草 さしも知らしな 燃ゆる思ひを>を刻した歌碑とが建てられているだけです。
吹上城址の標柱.jpg

この地は、足尾山塊が広大な関東平野に附き出した南東の縁に位置して、今もその場所に立つと、西北西の方向には、かつての皆川氏の居城であった「皆川城址」の山並みが北から南に延び、その先端山上に、物見櫓を模した展望台がシルエットとなって望まれます。
皆川城遠望.jpg

ただ、吹上を拠点に活躍した代官「山口鉄五郎」について、地元吹上村(現在の栃木市)に、その業績に関して記した資料は殆ど見る事は出来ません。ところが、栃木県の北部、那須地方に置いては趣が全く異なり、多くの資料の中に「山口代官」の名前が出てきます。

日本三大疏水と言えば、その開発順に記すと、先ず福島県の「安積疏水」、そして栃木県の「那須疎水」、最後に滋賀県から京都府に跨る「琵琶湖疏水」ですが、那須疎水に関した著書「那須野ヶ原の疏水を歩く」編著者「黒磯の昔をたずねる会」発行:随想舎を開くと、「名代官山口鉄五郎の新田開発と山口堀」と題した記事が掲載されています。その一部を引用させて頂くと。<幕府代官山口鉄五郎 元禄年間(1688~1704)那須郡には幕府直轄領(天領)が五八か村(石高にして一万八一四四石余)があった。特に現在の黒磯市・湯津上村・大田原市に多く、黒磯市だけでも二五か村(石高にして四六七九石余)を数えた。天明の大ききん後の寛政五年(1793)三月、これらの幕府直轄領を支配する代官に任ぜられたのが山口鉄五郎である。山口代官の支配地は、下野国および武蔵国(東京都、埼玉県、神奈川県の一部)のうちの五万石で、新設された吹上陣屋(栃木市)をその本拠地とした。・・・後略>

しかし、吹上陣屋から那須郡の幕府直轄領は、現在でも東北自動車道を利用して行っても、1時間余は必要ですから、当時は歩いて行き来しなければならない訳で、宇都宮から大田原までをかつての奥州街道を利用したとすると、栃木市吹上町からでは片道60km以上の道のりとなり、とても日帰りする事は出来ません。数年前まで栃木市では「市民ウィーキング大会」が開催されていました。私も第一回から参加をしていました。最初の4年間は一番距離が長い30kmコースを歩きました。スタート地点は「藤岡総合体育館」そしてゴールは西方町の「道の駅にしかた」でした。それを休みなく歩き続けて、5時間30分以上。後半は歩くのも飽きてくる感じです。
それが60km以上となれば、途中で食事や休憩も必要となるでしょう。

そこで、山口代官は吹上陣屋に赴任した最初の正月、那須地方から新年の挨拶のために、数日間をかけてやってきた名主たちに対して、次からは儀礼だけが目的であれば、わざわざ来なくても良いと、申し付けました。そして享和三年(1803)には、地元からの要望などを受けて、大田原の八木沢村(現在の親園)に出張陣屋を設け、彼の手代をそこに常住させています。

奥州街道・親園.jpg八木沢出張陣屋跡周辺風景.jpg
(八木沢出張陣屋が設けられた、現在の大田原市親園付近の奥州街道と、街道からかつての出張陣屋が建てられた跡へ向かう道路の様子)

御陣屋橋.jpg八木沢出張陣屋跡2022年11月27日撮影.jpg
(八木沢出張陣屋の前方を流れている「加茂内川」に架かる「ごぢゃばし(御陣屋橋)」と、跡地に建てられた「陣屋跡」と刻された石碑)

八木沢村は奥州街道の佐久山宿と大田原宿とのほぼ中間辺りに開けた集落で、間宿として栄えていました。代々名主を勤めた国井邸内に町初碑(まちはじめのひ)が有ります。「親園村郷土誌」には、<此碑ハ寛永四年八木沢宿ノ初メテ開カレタルトキ当時ノ名主役国井与左衛門ガ紀念トシテ花鋼石ノ天然石高サ二尺バカリノモノヲ同氏(国井沢吉先祖)庭内ニ建テラレタト言ヒ伝ヘ今尚同所ニ存在セリ。碑面ニハ「此町初寛永ひのえ卯年」側面ニハ「国井与左衛門」と鐫マレタリ。・・・(後略)>と記されています。

その八木沢出張陣屋は最初5年間期限付きの設置でしたが、その後2回も延長されています。
しかし文政四年(1821)、山口代官病死後、竹内平右衛門・古山善吉が赴任したものの文政六年(1823)八木沢出張陣屋は、吹上陣屋と共に真岡陣屋に併合されて、廃止となっています。

山口鉄五郎高品の出身の詳細はハッキリしていないようですが、越後国(新潟県)蒲原(かんばら)の小休止(こやすど)と言われています。そこで貧しい農家の三男として寛延元年(1748)に生まれました。頭が良くて努力家だった彼は、その能力を買われて二十歳になった頃には、江戸にでていて勘定奉行の役人に推挙され、天明五年(1785)には幕府の命により、蝦夷地探検を行い「蝦夷地拾遺」を著わしています。その後の寛政二年(1790)には美濃国にて、郡代の手代として赴任しています。そして寛政五年(1793)に、ここ下野国都賀郡吹上に代官として赴任して来たのでした。

山口代官は常に民百姓と同じ目線で物事をとらえている様でした。彼が良く自分の手代達に申し渡していた言葉が有ります。それは「無軽民事」、<民を軽んずこと無かれ>でした。
大田原市史・史料編に「代官山口鉄五郎高品」の事が記されていましたので引用させて頂くと、<高品は那須、塩谷両郡の幕領六十二カ村を支配したが、寛政五年八月初めて那須支配に就くと先ず農業を奨励し、遊惰の弊風を禁じ、貧困者および病老者の救恤、荒蕪地の開発に意を注いた。殊に那珂川上流の木俣川を分水して堰路を掘り新田二百余町を開発したことなどは特筆すべき業績である。…(後略)>

八木沢出張陣屋が設けられた八木沢村(現在の大田原市親園)の奥州街道沿い、湯殿山神社の参道入口脇に、小さなお堂の様な建物が有ります。格子戸から中を覗くと一基の石碑が建てられています。
先の大田原市史・史料編の名所旧蹟の所に、「蒲盧碑」として記されている石碑に成ります。又、引用させて頂きます。<蒲盧碑ー大字親園字八木沢の湯殿山神社境内にある。文化九年十月に高津義克という行脚僧が那須野で蒲盧(蜃気楼のこと)を見て、碑文となっている原稿を残して去り、薬王寺に保存してあったのを八木沢代官山口鉄五郎の手代飯岡重武が石に刻んで建立したもので、碑の背面には『はてしなく浮世の人に見するかな、那須の野面のほろのいしぶみという自作の和歌が刻んである。…(後略)』と有ります。碑文は当然漢文体の為、私には読み砕く事が出来ませんので、写真をご覧ください。
蒲盧之碑堂.jpg蒲盧碑案内板.jpg
(奥州街道沿いの湯殿山神社参道入口脇に建つ「蒲盧之碑」を納めた建屋と説明板)

蒲盧之碑正面.jpg蒲盧之碑碑陰.jpg
(蒲盧之碑正面と、碑陰に刻された飯岡重武の和歌)

この「蒲盧碑」について、脇に立つ案内板には、<中国の書「中庸」の中には「政治は蒲や盧のようなもの」という一文があり、碑文はこの山口鉄五郎の善政を蜃気楼の蒲盧に結び付けたものとしている。>と説明ています。

先日、久しぶりに吹上町を訪れてみました。吹上陣屋が有った場所の北西側に「正仙寺」が有りますが、本堂や庫裡が新しく立派な建物に変わっていて驚きました。
この正仙寺の墓地に山口鉄五郎高品の家族の墓碑や、吹上代官所役人の墓碑等十数基を見る事が出来ます。
江戸後期吹上陣屋役人家族の墓地1.jpg
(代官山口鉄五郎高品の家族と代官所役人等の墓碑が並んでいます。)
江戸後期吹上陣屋役人家族の墓地案内板2.jpg
(墓碑の所に掲げられている説明板)

天明三年(1783)七月に長野県と群馬県との県境に有る浅間山が、大噴火を起しました。そしてその火山灰が北関東地方に大きな被害をもたらしました。それ以前の天明元年から二年にかけて、農家は不作が続いていた時でした。そこに追い打ちをかける事に成り、北関東の農村は荒廃する一方でした。
同年9月4日に栃木町で、困窮者数百人が造り酒屋に押し込み、酒桶の輪を切り、戸障子・畳等まで徹底的に打ちこわす騒動が起きています。
江戸時代の経済の基本は米です。その米を生産する農村が疲弊してしまえば、幕政体制も崩れていきます。そこで農政の立て直し、とりわけ幕領農村の荒廃からの立て直しが必要となり、現地に代官を派遣して支配強化する事となり、寛政五年まず菅谷嘉平次が代官に任命され、追って同格の立会代官として任命されたのが山口鉄五郎高品でした。
此の吹上代官陣屋こそ、代官の江戸定府の永い伝統を破って、支配所のある地方に陣屋が設置された、幕府代官陣屋の初見でした。

代官山口鉄五郎高品は、自ら新潟県の雪深い山の中の小さな集落で、細々と僅かな田畑を耕して生計を立てていた貧しい農家の子として育った。農民の苦しい生活を充分に理解する事が身に付いていた。その経験から、疲弊した農村を農民側の眼線になって、問題の解決に尽力したのでした。
農民の気持ちを理解し、農民達から慕われた、代官山口鉄五郎高品でした。

今回の参考資料:
・「大田原市史・史料編」大田原市発行。
・「親園村郷土誌」親園村発行。
・「那須野ヶ原の疏水を歩く」編著者黒磯の昔をたずねる会 随想舎発行。
・「水代官山口鉄五郎」那須一郎著 随想舎発行。
・「改訂増補 近世栃木の城と陣屋」杉浦昭博著 随想舎発行。
・「奥州街道 歴史探訪・全宿駅ガイド」無明舎出版編。
・「那須野蜃気楼 蒲盧碑考」人見伝蔵著 大田原温故会発行
・「栃木県史・通史編5 近世」栃木県発行
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久しぶりに栃木県立美術館を訪れて

先日、約40年ぶりに成るでしょうか、栃木県立美術館を訪れました。
栃木県立美術館1.jpg
(40年ぶりの美術館は小雨の中、訪れました。)

目的は、現在開催されている、小山市出身の彫刻家、小口一郎展を鑑賞する為でした。
小口一郎に関しては、全く知りませんでしたが、その作品の一つに見覚えが有りました。
「谷中村事件 ある野人の記録 田中正造伝」著者:大鹿 卓、発行所:㈱新泉社、この書籍の表紙やカバーに有る版画が、この小口一郎の作品だったのです。
今回の作品展の副題が、「二つの栃木」の架け橋。足尾鉱毒事件を描く。となっており、その舞台となった渡良瀬遊水地の地元の栃木市民としては、是非その内容を見たかったからです。

この栃木県立美術館が開館したのが、昭和47年(1972)でしたが、私が20歳半ばで、その頃は年に1・2回は訪れていました。
栃木県立美術館(1974年).jpg栃木県立美術館屋外展示作品(1974年).jpg
(1947年6月に訪れた時撮影した、栃木県立美術館)

記憶に残るのは、昭和49年(1974)夏に開催された、「青木繁・福田たねのロマン展」その中で青木繁の絶筆となった「朝日」という作品の前で、しばらく立ち止まった印象深いものが有りました。
外には、「濱田庄司 目と手 展」や「古川龍生展」等々、鑑賞していましたが、30歳を過ぎてすっかり足が遠のきました。

32歳の年、仕事の都合でアメリカに出張した際、テキサス州のホートワースの美術館を訪れました。そこで、栃木県立美術館で見たブロンズ像と同じ作品を目にしました。それまで気にしていませんでしたが、今回改めて調べてみると、栃木県立美術館のホームページのコレクション紹介に出ていました。
そのブロンズ像は、ロダンの弟子でもあったフランスの彫刻家「ブールデル、エミール=アントワーヌ」の作品「ペネロペ」でした。
「ブールデル」の代表作は、「弓をひくヘラクレス」ですが、日本では上野の国立西洋美術館前の広場で見たことが有ります。
栃木県立美術館屋外展示作品2.jpg「弓をひくヘラクレス」像.jpg
(栃木県立美術館のブールデル作「ペネロペ」と、国立西洋美術館前広場の「弓をひくヘラクレス」像)

その上野の西洋美術館前の広場で、「ブールデル」の師でもあった「オーギュスト・ロダン」の作品「考える人」や「地獄の門」・「カレーの市民」なども見ています。
国立西洋美術館前「考える人」.jpg国立西洋美術館前「地獄門」.jpg
「カレーの市民」像.jpg
(上野国立西洋美術館前広場に展示されているロダンの作品。「考える人」「地獄の門」「カレーの市民」の像)

ロダン作「考える人」は、京都国立博物館の明治古都館の前方にも展示されています。が、このような世界的著名な作家の作品は、どんなルールで管理されているのか疑問になります。
京都国立博物館前「考える人」.jpg
(京都国立博物館の明治古都館の正面前方に展示されている、ロダン作「考える人」)

絵画の場合、本物か贋作かと言う判断に成りますが、ブロンズ像の様な作品は、本物とか贋作とかやはりあるのでしょうか。

今回、栃木県立美術館を久しぶりに訪れ、今まで気にしていなかったことに、興味が湧いてきました。
今の世の中、インターネットで検索すれば、すぐに回答が得られるでしょうから。

今回鑑賞した「小口一郎展」の内容には、そのボリュームに驚きました。展示は四つの部門に分かれていて、第一章は「画家・小口一郎」と題して、第二章から第四章の、足尾鉱毒事件を描いた連作版画3部作の作品以外を紹介しています。
そして、第二章「野に叫ぶ人々」、第三章「鉱毒に追われて」、第四章「盤圧に耐えて」と続きます。
作品を鑑賞するに、彫刻の画面と合わせて、その背景となる説明文に、一点一点読み進めると、まるで小説「足尾鉱毒事件」がそこに有り、とても全てを鑑賞出来そうも無く、途中から作品に添えられた文は飛ばして、版画作品だけの鑑賞に変えました。それほど展示作品が多かったのです。

帰る頃には、雨もやみ青空も覗いていました。近くの公園の梅の木も花をつけていました。
40年前公園の巻貝型の滑り台で子供達が遊んでいたのを、写真に収めました。今ではそのような撮影は、出来なくなりました。
美術館横の公園遊具.jpg
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壬生町にてガンダムデザインのマンホールカードが配布開始 [コレクション]

先週末の1月28日土曜日より、栃木県壬生町のマンホールカード2種類目、ガンダムがデザインされたマンホールカードの、配布が始まりました。
マンホールカードの配布は2016年4月に、第1弾が配布されてから今回の配布は、第18弾に成ります。今回栃木県内では、壬生町とさくら市の2自治体より発行されています。昨年は発行されていませんので、約1年5ヶ月ぶりに成ります。
壬生町マンホールカード2.jpg壬生町おもちゃ博物館.jpg
(今回配布が開始された壬生町2種目のマンホールカードと配布場所の壬生町おもちゃ博物館)

さくら市マンホールカード.jpgさくら市卯の里庁舎.jpg
(同時に配布が開始された、さくら市のマンホールカードと配布場所のさくら市卯の花庁舎)

壬生町としては、2021年4月25日の第14弾にて、最初のマンホールカードを発行しているので、今回は2種類目に成ります。
壬生町マンホールカード1.jpg壬生城址公園の門.jpg
(壬生町最初のマンホールカードと、デザインの壬生城址公園入口に建つ門)

壬生町2種目のデザインは、昨年4月にバンダイナムコグループが全国の自治体と協力して取り組んでいる「ガンダムマンホールプロジェクト」により登場したデザインマンホール蓋を、カードにしたものです。
プロジェクトにて製作されたマンホール蓋は2種類で、「RX-78-2 GUNDAM」デザインと、「MSN-02 ZEONG」デザイン。カードになったのは、「おもちゃのまち」の文字が入った、ガンダムデザインで、現物は東武宇都宮線おもちゃのまち駅の東口、駅前ロータリー南側の歩道に設置されています。
壬生町マンホール2.jpg
(「おもちゃのまち」東口側歩道に設置されている、ガンダムマンホール。デザインにはガンダムとおもちゃ博物館、壬生町名産の干瓢を用いた「ハロ」と、「おもちゃのまち」の文字が施されています。)

又、「ガンダムマンホールプロジェクト」で設置された、もう一枚のジオングデザインのマンホール蓋は、駅前から更に東に行った「おもちゃのまちバンダイミュージアム」の入口前の歩道に設置されています。
バンダイミュージアム正門前.jpgジオングデザインマンホール蓋.jpg

一方、同時発行されたさくら市のマンホールカードのデザインは、さくら市上野の「集落排水」として従来から地区内の道路に設置されていた図柄をそのまま採用されています。
私は、マンホールカードが出来る前から、各地の道路に設置されているデザインマンホール蓋の写真を撮影収集していました。栃木県内のデザインマンホール蓋は、ほぼ収集したと思いますが、マンホールカードが発行されるようになってから、新しいデザインマンホール蓋が出てきているので、終りはなさそうです。
因みに、このさくら市上野のマンホール蓋を見つけたのは、2016年9月18日でした。この頃は妻や娘を乗せて、毎週のようにドライブがてら、県内各地を走り回っていました。
私は運転しているので、マンホールを見つけるのは妻や娘。特に娘は良く見つけていました。
さくら市マンホール.jpg
(国道293号線を喜連川から国道4号線方向に向かって走行中に発見しました。)

このさくら市上野の図柄は、県内50枚程あるデザインマンホール蓋の中では、私の好きな図柄でしたから、今回マンホールカードとして発行されたので、早速にゲットしてきました。


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