SSブログ

大平町榎本の街中に建つ常夜燈 [石碑]

栃木市大平町榎本の街中に、一基の常夜燈が建っています。常夜燈と言えば、神社や寺院の境内では普通に見られますが、街中の道路脇に建つ常夜燈は、それほど見ないと思います。栃木市内にて私が確認したものでは、この榎本の物を含めても、三基だけです。
先ず榎本の常夜燈の姿を紹介します。
常夜燈(榎本)1.jpg
見た感じは、すらっと背が高くて、竿の部分や基礎・中台そして火袋など、どこも四角形を呈していて、余計な装飾も無く、スッキリとしています。
道路脇を流れる用水堀の上に、平石を渡してその上に建てられています。
なぜ、この場所に建てられたのか。
元々、街道の道路脇に建てられていたが、明治時代に入って、道路の中央に有った水路を、道路の両脇に移動したときに常夜燈はそのまま水路の上に建つ形になったものと推測されます。

では、常夜燈は榎本のどの辺りに建つの、概略地図を作成して見ました。
榎本周辺地図.jpg
元々、ここ榎本は日光街道の小山宿と、日光例幣使街道の茂呂宿・同犬伏宿(現佐野市)とを結ぶ脇往還の中ほどに位置しています。上の概略地図にオレンジ色で着色した道路がかつての往還に成ります。
佐野方面から東進して来て、大平町西水代にて永野川に架かる千部橋渡った先で道路は丁字路に突き当たります。往還はここを左折して北進します。100メートル程で常夜燈の前に成ります。
そこからさらに北進する事400メートル程行くと、道路は又、丁字路に突き当たります。小山方面はここを右折して東進します。
此の東西にのびる通りが、榎本の本町通りで、先程の南北にはしるのが、榎本の荒町通りに成ります。この鉤の手に曲がった二つの通りが榎本宿の主体ですが、荒町は以前は「新町」と書いたようで、榎本宿では新しく開けたエリアで、「本町」が先に拓けたエリアと言う事に成ります。この本町の北側に中世から近世初頭に、小山氏一族の支城「榎本城」が有り、その城下町として形成されたエリアで、それを物語るように、此の東西にのびる道路の西の端に「八坂神社」が。そして通りの南側に沿って並ぶように三つの寺院が配されています。
榎本・本町通り.jpg
上の写真は、本町通りを西方向に向かって写したもので、通りの両側に水路が有り、通りの西の突き当りに「八坂神社」を望むことが出来ます。
榎本・荒町通り.jpg
この写真は、荒町通りの常夜燈付近から北方向を写したものです。やはり通りの両側に水路が有り、右手に常夜燈が写っています。前方の交差点は昭和37年頃に開通した「新道」(現在の県道36号線)です。

常夜燈のことに話を戻します。先の概略地図を見ても分かるように、この常夜燈の建てられた場所は丁度「荒町」の町並みの中央地点に当っています。
常夜燈を正面(道路側)から見ると、「竿」の部分に篆書体文字で刻されているのは、「両社大神宮」。
そして、南側面には「享和三癸亥八月十五日」と、おそらくこの常夜燈が建立された日付でしょう。西暦では1803年9月30日に成ります。時代的には江戸時代後期に入ったころ、栃木市を見ると、喜多川歌麿が「深川の雪」を書いていたころです。
常夜燈(榎本)西面.jpg常夜燈(榎本)南面.jpg

ところで、正面に彫られている「両社大神宮」とは、どこに祀られたどんな神社なのか。常夜燈の北側面にその答えは有ります。
常夜燈(榎本)北面・東面.jpg常夜燈北面一部拡大.jpg
そこには3行になって、「大権現」の名称がやはり篆書体文字で彫られています。
右が「秋葉大権現」 中央が「金毘羅大権現」、そして左側が「妙義大権現」(チョッと自信がないが)の三社です。上部の文字を拡大しても篆書体文字の解読は難解です。

「秋葉大権現」は、「秋葉山本宮秋葉神社」の公式サイトで確認すると、「火防の神様」 創建は和銅二(西暦709)年と伝えられる。江戸時代には全国に秋葉講が結成される。
住所は、静岡県浜松市天竜区春野町。そこに標高885メートルの秋葉山が聳える。
祭神は、火之迦具土大神(ヒノカグツチノオオミカミ)

「金毘羅大権現」は、香川県琴平町の象頭山に天竺から飛翔し鎮座した山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神。本地仏は不動明王、千手観音、十一面観音など諸説ある。明治初年の神仏分離・廃仏毀釈が行われた以降は、大物主とされた。金毘羅権現は海上交通の守り神として信仰されてきた。

「妙義大権現」は、公式サイトによると其の由緒は、「妙義神社は、奇岩と怪石で名高い妙義山の主峰白雲山の東山麓にあり、老杉の生い茂る景勝の地を占めてる。
創建は、「宣化天皇の二年(537)に鎮祭せり」と社記にあり、元は波己曽(はこそ)の大神と称し後に妙義と改められた。
古くより朝野の崇敬特に篤く、開運、商売繁盛の神、火防の神、学業児童の神、縁結の神、農耕桑蚕の神として広く世に知られ、関東、甲信越地区より参拝する者が多い。
住所は、群馬県富岡市妙義町妙義。

どれも考えてみれば、遠方の神社ですが、江戸時代後期はこうした「講」が盛んだった証しの常夜燈なのでしょうか。

次に東面(裏側)を見てみます。
常夜燈裏面文字拡大.jpg
ここも篆書体文字。これをどう読むか、色々調べた結果、確実ではないですが「永代夜燈」と考えられます。「常夜燈」と同じと考えます。

最後に、先日常夜燈の寸法を計測してきましたので紹介します。ただ、全高さや笠部分は手が届かないので、測定できませんでした。
常夜燈の概略寸法.jpg

付け足しで、栃木市内の外の二ヵ所の常夜燈を簡単に紹介しておきます。

一基目、これも大平町です。日光例幣使街道の富田宿の北の出口付近。残念ながら破損をしていて竿の部分まで、その上の火袋等は有りません。
常夜燈(下皆川).jpg
常夜燈(下皆川)北面・東面.jpg常夜燈(下皆川)西面.jpg
建立された時期は、文政二年(1819)です。榎本の常夜燈から16年後に成ります。
これに関連した記事を2017年10月11日の、「日光例幣使街道富田宿を歩く」の中で少し書いています。

もう一基の常夜燈は、川原田町の粟野街道分岐点に建っています。
常夜燈(川原田).jpg
常夜燈2(川原田).jpg常夜燈3(川原田).jpg
建立された時期は、安政四年(1857)です。榎本の常夜燈から54年後で、この10年後には徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸から明治に時代が変わります。
こちらの常夜燈に関しても、2016年11月19日の、「川原田町粟野街道の分岐に建つ常夜燈」と題して書いていますので、興味のある方はそちらも覗いて見てください。

今回参考にした資料:
・明治前期測量2万分1フランス式彩色地図「栃木県小山市下都賀郡大平町地区」、日本地図センター発行
・栃木県の地名、平凡社発行
・秋葉山本宮秋葉神社、インターネット公式サイト
・金毘羅権現、ウィキペディア
・妙義神社、インターネット公式サイト

尚、今回の現地調査では、常夜燈の近くに住む知人からも、地元ならではの貴重なお話をお伺いでき参考に成りました。

nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。