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栃木市の第二公園に建つ芭蕉句碑より [石碑]

栃木市の市街地中心部に有る第二公園。公園の西半分は滑り台やブランコなどが有る児童公園。そして東半分は築山や噴水が有る瓢箪池などが有り、市民の憩いの場となっています。
栃木市第二公園.jpg

公園の丁度中ほど、時計塔の南側の桜の木の脇に、松尾芭蕉の句を刻んだ石碑が建てられています。
第二公園内に建つ石碑.jpg

「叡慮にて 賑ふ民の 庭竈」
芭蕉の句としては、あまり知られていないような、私が知らなかっただけでしょうが。
まず冒頭の「叡慮」の意味が分からない、広辞苑を開いてみると、
<天子のお考え。天皇・上皇などの御心。聖慮。>
そして、最後の「庭竈」とは、
<①土間に築いてあるかまど。②近世、正月三が日の間、入口の土間に新しい竈を築いて火を焚き、飲食して楽しんだ奈良の風習。にわいろり。>
難しい、なぜ、この句を石碑に刻したのか。
この石碑何時誰が建てたものか、碑陰を確認することに。
芭蕉句碑(碑表).jpg芭蕉句碑(碑陰).jpg

写真がよくないので、碑陰に刻まれた内容を、書き写しました。
碑陰に刻まれた文字2.jpg
(■部分は、どうにも読み取れなかった文字)

まず、建碑の発起者は、第三代栃木町長の櫻井源四郎です。現在の万町交番の真向いに有った「肥料商」。栃木町で多くの会社の創業に係わっていました。明治43年3月に合名会社栃木カイロ灰販売所を設立。栃木ガス株式会社初代社長。栃木商業会議所四代目会頭。さらに明治40年創立の栃木青年同志会の会長など務めた財界の大物で、<よく俳句を詠み謡曲を嗜み風流の道にも堪能であった。>と、石崎常蔵氏が著した「栃木人」の中で紹介されている人物です。この、第二公園建設にも関わっています。
そして建碑に名前を連ねている人達は、氏名の上に刻まれている「俳句の号」で分かるように、栃木町を中心に活動していた「俳人」と思われます。(刻まれている漢字が、崩されていたり変形漢字だったりで、私の解釈が間違っているものも有りますので、ご容赦、ご指摘いただければと思います。)
冒頭の「晩霞」は発起者の櫻井源四郎。他、18名の名前が刻まれています。
その多くは、良く目にした名前で、前掲の書籍「栃木人」の中で紹介されています。

「清香」小井沼熊吉は湊町の茶・砂糖商の老舗に、明治5年(1972)7月に生まれました。土屋磊山の門下生でした。「頼みある 空とはなりぬ 郭公」

「木葉」栗原巳之吉は入舟町で、木炭や書画骨董を商う。「牡丹咲き 人足近き 庵哉」

「一樹」片山久平は上町(現在の万町)で米・麻を商う。久平の句碑が、太平山表参道六角堂の裏に、建てられています。久平は櫻井源四郎らと六角堂再建時に、参道を修復しています。
一樹(片山久平)の句碑.jpg
(太平山六角堂の裏手に建てられている「一樹」の句碑、「夢も見ず よく寝た朝や 杜若」)

「點山」飯田 幸は、明治11年栃木市に生まれる。明治25年頃、土屋磊山門下となり、俳号を點山・霜朗菴という。後に「天秋」と改号、光風菴と称す。「うづま吟社」主宰。
   「鳴て行く あとは夜明の ほととぎす」

「耕圃」前橋定治は明治3年(1870)8月、薗部村に生まれる。明治39年(1906)栃木県農会農事功労者表彰を受賞しています。耕圃の句碑が錦着山内に建てられています。
耕圃(前橋定治)の句碑.jpg
(錦着山東側中腹に建てられている「耕圃」の句碑、「俥から 所在見上げる 雲雀かな」)

「一寶」松本松蔵は明治6年、万町の売薬商「しゅろの木薬局」に生まれた。櫻井源右衛門と両毛印刷(株)を設立した。「一寶」も又、土屋磊山の門下生でした。
    「尼寺や 所からとて 蚕棚」

「晴湖」谷田吉右衛門。湊町、幸来橋北西橋詰で味噌醤油醸造業を大きく商う資産家に明治7年(1874)生まれる。明治25年(1892)5月、(株)栃木銀行設立時に監査役に就任、後に二代目頭取をつとめました。

「古城」坂本金一郎、栃木町初代助役、下野新聞社刊の「郷土の人々」によると、<城内町の大地主で、初代戸長高田俊貞のもとで副戸長をつとめていた。(中略)根岸政徳、大塚惣十郎、桜井源四郎、望月磯平と四代の町長につかえてきた。>と、記されています。栃木城址公園に顕彰碑が建てられています。

「蘋者」石塚新吾は文久3年(1863)、中町(今の倭町西銀座通り)に米穀商を営む旧家に生まれました。第二代栃木商業会議所会頭として、4期7年間在任し、会議所の隆昌発展に寄与しました。趣味も多く、特に漢詩を好み、書も幼いころから抜きんでた才能があり、太平山六角堂境内に建てられた、「平岩幸吉氏善行碑」や「桜井源四郎翁之碑」の碑文を書いています。

「積土」生澤積一郎。嘉永5年(1852)、江戸期に沼和田村に有った土岐家の陣屋の代官の家に生まれた。明治22年(1889)の栃木町最初の町会議員選挙で二級議員のトップ242票で当選した。頭脳明晰で懇請されて第五代収入役となり明治末期までつとめた。

「石水」中川浅吉。嘉右衛門町で、練炭を商っていた。大正14年(1925)、栃木市大宮村耕地整理事業で評議員、組合会議員となり、死去するまでつとめています。

「霞城」渡邊弥三郎。明治8年(1875)10月、吹上村吹上に生まれる。明治37年、吹上村村会議員となる。俳人として知られ、土屋磊山の門下生。

ここで、栃木県南地域に、多くの門人を持ち活躍をした「土屋磊山」について、「栃木の文学史」にその名が見えたので、引用させて頂くと、<越後国村上藩主遠藤藤四郎左衛門の三男として江戸屋敷に生まれ、母方の姓を嗣いだ土屋磊山は戊辰の戦争に参加してのち下野の都賀町大柿に移り住むこととなった。本名は土屋麓、霜柱庵三世磊山で、彼は明治16年晋派七世老鼠堂永機より宗匠の文台をさずかり、後には旭香廬一世又は羊岩庵とも言い、後に下野新聞俳句欄のなどもする。>

もう一度なぜこの芭蕉の句を石碑に刻んだのか、碑陰を見ていくと、「明治三十三年五月十日 ■■慶事紀念建之」とあり、石碑建立は明治33年(1900)5月10日に行われた慶事を紀念したものとわかる。ではこの日に何が有ったか調べてみると、この日は皇太子嘉仁親王(大正天皇)と、公爵九条道孝の女節子(貞明皇后)とのご結婚の儀が執り行われた日に当たりました。
皇室の慶事をお祝いをして、天皇のお考えで、世の中が豊かになったと言う、仁徳天皇の逸話「高き屋に のぼりて見れば煙立つ 民のかまどは賑わいにけり」に因んだ芭蕉の句を碑にしたものと考えられます。

今回の参考資料:
・「目で見る栃木市史」発行栃木市
・「栃木の文学史」 発行栃木県文化協会
・「栃木県俳句史」発行栃木県俳句作家協会
・「栃木人 明治・大正・昭和に活躍した人」著者石崎常蔵
・「栃木人 明治・大正・昭和に活躍した人 続編」著者石崎常蔵
・「郷土の人々 栃木・小山・真岡の巻」発行下野新聞社









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