栃木市の神明宮境内に建つ「興学碑」を探る [石碑]
栃木市の市街地の中心に鎮座する、栃木のお伊勢様「神明宮」。
(参道正面奥の大屋根の建物が、神明宮拝殿、左手奥が社務所、そして手前右手に除く瓦葺の建物が「奏樂殿」に成ります。)
神明宮は、神明宮社務所発行の「神明宮略誌」を借りると、その由緒は応永十壬寅年(1403)九月十六日、大字栃木城内の神明宿(現神田町)に創建され。天正十七巳午年(1589)正月十六日現地に奉遷宮されました。以後栃木町の総鎮守となりました。
その境内の片隅、手水舎の裏手、奏楽殿の西側部分に、2基の石碑が建てられています。手前のチョッと小ぶりな石碑は、明治35年4月に建てられた「皇大神宮太上御神樂講」の碑。
今回探っていくのは、その後方に建つ大きな石碑です。
(石碑の正面と裏側から撮影しました。)
石碑正面上部の篆額には「興学碑」と篆書体で刻されています。
篆額に揮毫した人物は、碑文冒頭部に刻されています。「正三位勲四等子爵戸田忠友」です。この官位は石碑が大正天皇の御即位大典記念として、大正4年4月に記された時点のもので、最終官位は大正13年(1924)に昇叙されて、「従二位・勲三等」です。下野宇都宮藩第七代(最後)の藩主で、神職としては、宇都宮二荒山神社の初代宮司となっています。
碑文を見ていきます。従六位勲五等の小村 鄰の撰文となります。
(碑文は大正期に建てられた石碑としては、漢文体でなく、漢字とひらがなの文章で、旧字や旧仮名づかいは有るものの、浅学の私にも比較的理解できる文章に成っています。)
撰文者「小村 鄰(こむら ちかし)」は、嘉永元年(1848)11月9日、下総国古河藩士の長男として生まれました。明治5年栃木町神明宮の祠官となり、ついで宇都宮二荒山神社權宮司、さらに札幌神社宮司などを経て、明治33年伊勢神宮禰宜となっています。
尚、碑文を書いた人物は、栃木縣屬勲七等の保田義嗣という人物です。
篆額に有る「興学」とは、まず「興」の字は、動詞として「おこる」「おこす」「たちあがる」や「盛んになる」の意味が有り、「興国」とすれば、国勢をふるいおこすこと。であり、一方「学」の字は、名詞として「学問」や「まなびや」「学校」又、「学問をする人」などの意味が有り、「興学」と成れば、「学問や学校、学問をする人をおこす、盛んにする」という事に成るのか。
碑文の中には、ここ、神明宮の境域に接する地に、神道中敎院を新築した当時の経緯が、記されています。栃木市発行の「目で見る栃木市史」の学校教育のはじまりの項に、「中教院」について記されていますので、参照させて頂くと、(敬神の天道を経とし、愛国の人道を緯として教化する目的として、明治五年(1872)三月大教院を東京に設け、同六年には中教院を各府県に置くことになり、栃木県では同七年一月太平山に設け、小教院を大田原・鹿沼・宇都宮・足利の各地に設けた。明治八年(1875)四月には神仏共同布教は廃され、神道はその統一をはかるため神道事務所を東京に置き、その分局を各地方に設けることとなり、栃木町の田村良助の邸内に仮設し、かつ神道中教院を県社神明宮の境域に接する地、数反歩を購入して神道中教院を新設した。このとき建設寄附金一万円余、太平山神社は造営に要する杉・桧材、稲葉村鹿島神社は欅材、真弓村諏訪神社は石材、実行・禊両社員は聖地の労役を提供した。・・後略・・)と記されています。この内容は今回の石碑の碑文の内容を要約したものの様です。
次に石碑の裏側、碑陰を見ていきます。なんと石碑の全面にびっしりと沢山の名前が並んで彫られています。右端に「賛成者氏名列刻如左」として、23段に仕切られていて、1段には最大86名の名前が並びますが、賛成者の地域別にあり、途中空白も何ヵ所か見られます。
最初が「東京市」6名、次に「群馬県」6人、「京都府」1人、「伊勢」1人と続きます。栃木県内では、「宇都宮市」48人、「那須郡」25人、「塩谷郡」19人などと、県内の8郡全て確認できます。他に地元「栃木町」として125人と1団体の名前が記されています。
記されている賛成者の数は、1861人と1団体で、寄附された金額の合計は、2,493円にもなっています。
次の資料は、石碑の碑陰のデーターをエクセル表に落とし込んだもので、人数や金額を関数処理できるようにしたものです。
下世話な興味で、寄附された金額で、最も高額な70円を出した人物は、どのような人物か。石碑には「上都賀郡」の筆頭に見える「石原敬之」という人物、調べていくと鹿沼市の古峯神社の第二代宮司でした。次に50円を寄付した人物、二人います。まず「伊勢」の「小村 鄰」ですが、前述した伊勢神宮禰宜で、この石碑の碑文の撰文者。そしてもう一人は同様に石碑の篆額を揮毫した、宇都宮二荒山神社初代宮司「戸田忠友」になります。
寄附額の最低額は1円ですが、この金額現在の金額にするとどのくらいなのか、今から約100年前の1円の価値、現在は4千円から5千円になるようです。70円では30万円前後になるのか。
寄附金総額2,493円となると、現在では1千万円を超える寄附が有ったのです。
現代で言うとこれは一種の「クラウドファンデイング」になるのでしょうか。
寄附をした県内外の多くの人物は、神社の関係者と、この中教院に入って教育を受けた人達、卒業生達です。
碑陰の一番下側には、「發起者」の名前が大きく記されています。
明治新政府は、この時期次々と政府の組織を変更しています。この石碑に出てくる中教院も、明治6年に各府県に置くこととなり、我栃木県でも明治8年11月26日に神明宮境域に土地を購入して「神道中教院」を新築しています。その中教院が僅か7年後に閉鎖となってしまいます。
中教院の土地建物は、神明宮に献納されています。現在の神明宮の拝殿としている建物は、元中教院の建物を社殿として補修を加えたものとの事。
「興学碑」の石碑の碑文には、そうした経緯を、歴史の一幕を、もれなく刻みこんで、今も神明宮の境内の片隅に、静かにただ建っています。
今回の参考資料:
・「目で見る栃木市史」 発行栃木市
・「神明宮略誌」 神明宮社務所発行
・「栃木縣神社誌」 発行栃木県神社庁 昭和39年2月11日
・「下都賀郡小志」 発行(株)歴史図書社 昭和52年2月28日
・「復刻版 栃木郷土史」発行吉本書店 平成5年4月1日
・「郷土の人々」 発行下野新聞社 昭和47年6月28日
(参道正面奥の大屋根の建物が、神明宮拝殿、左手奥が社務所、そして手前右手に除く瓦葺の建物が「奏樂殿」に成ります。)
神明宮は、神明宮社務所発行の「神明宮略誌」を借りると、その由緒は応永十壬寅年(1403)九月十六日、大字栃木城内の神明宿(現神田町)に創建され。天正十七巳午年(1589)正月十六日現地に奉遷宮されました。以後栃木町の総鎮守となりました。
その境内の片隅、手水舎の裏手、奏楽殿の西側部分に、2基の石碑が建てられています。手前のチョッと小ぶりな石碑は、明治35年4月に建てられた「皇大神宮太上御神樂講」の碑。
今回探っていくのは、その後方に建つ大きな石碑です。
(石碑の正面と裏側から撮影しました。)
石碑正面上部の篆額には「興学碑」と篆書体で刻されています。
篆額に揮毫した人物は、碑文冒頭部に刻されています。「正三位勲四等子爵戸田忠友」です。この官位は石碑が大正天皇の御即位大典記念として、大正4年4月に記された時点のもので、最終官位は大正13年(1924)に昇叙されて、「従二位・勲三等」です。下野宇都宮藩第七代(最後)の藩主で、神職としては、宇都宮二荒山神社の初代宮司となっています。
碑文を見ていきます。従六位勲五等の小村 鄰の撰文となります。
(碑文は大正期に建てられた石碑としては、漢文体でなく、漢字とひらがなの文章で、旧字や旧仮名づかいは有るものの、浅学の私にも比較的理解できる文章に成っています。)
撰文者「小村 鄰(こむら ちかし)」は、嘉永元年(1848)11月9日、下総国古河藩士の長男として生まれました。明治5年栃木町神明宮の祠官となり、ついで宇都宮二荒山神社權宮司、さらに札幌神社宮司などを経て、明治33年伊勢神宮禰宜となっています。
尚、碑文を書いた人物は、栃木縣屬勲七等の保田義嗣という人物です。
篆額に有る「興学」とは、まず「興」の字は、動詞として「おこる」「おこす」「たちあがる」や「盛んになる」の意味が有り、「興国」とすれば、国勢をふるいおこすこと。であり、一方「学」の字は、名詞として「学問」や「まなびや」「学校」又、「学問をする人」などの意味が有り、「興学」と成れば、「学問や学校、学問をする人をおこす、盛んにする」という事に成るのか。
碑文の中には、ここ、神明宮の境域に接する地に、神道中敎院を新築した当時の経緯が、記されています。栃木市発行の「目で見る栃木市史」の学校教育のはじまりの項に、「中教院」について記されていますので、参照させて頂くと、(敬神の天道を経とし、愛国の人道を緯として教化する目的として、明治五年(1872)三月大教院を東京に設け、同六年には中教院を各府県に置くことになり、栃木県では同七年一月太平山に設け、小教院を大田原・鹿沼・宇都宮・足利の各地に設けた。明治八年(1875)四月には神仏共同布教は廃され、神道はその統一をはかるため神道事務所を東京に置き、その分局を各地方に設けることとなり、栃木町の田村良助の邸内に仮設し、かつ神道中教院を県社神明宮の境域に接する地、数反歩を購入して神道中教院を新設した。このとき建設寄附金一万円余、太平山神社は造営に要する杉・桧材、稲葉村鹿島神社は欅材、真弓村諏訪神社は石材、実行・禊両社員は聖地の労役を提供した。・・後略・・)と記されています。この内容は今回の石碑の碑文の内容を要約したものの様です。
次に石碑の裏側、碑陰を見ていきます。なんと石碑の全面にびっしりと沢山の名前が並んで彫られています。右端に「賛成者氏名列刻如左」として、23段に仕切られていて、1段には最大86名の名前が並びますが、賛成者の地域別にあり、途中空白も何ヵ所か見られます。
最初が「東京市」6名、次に「群馬県」6人、「京都府」1人、「伊勢」1人と続きます。栃木県内では、「宇都宮市」48人、「那須郡」25人、「塩谷郡」19人などと、県内の8郡全て確認できます。他に地元「栃木町」として125人と1団体の名前が記されています。
記されている賛成者の数は、1861人と1団体で、寄附された金額の合計は、2,493円にもなっています。
次の資料は、石碑の碑陰のデーターをエクセル表に落とし込んだもので、人数や金額を関数処理できるようにしたものです。
下世話な興味で、寄附された金額で、最も高額な70円を出した人物は、どのような人物か。石碑には「上都賀郡」の筆頭に見える「石原敬之」という人物、調べていくと鹿沼市の古峯神社の第二代宮司でした。次に50円を寄付した人物、二人います。まず「伊勢」の「小村 鄰」ですが、前述した伊勢神宮禰宜で、この石碑の碑文の撰文者。そしてもう一人は同様に石碑の篆額を揮毫した、宇都宮二荒山神社初代宮司「戸田忠友」になります。
寄附額の最低額は1円ですが、この金額現在の金額にするとどのくらいなのか、今から約100年前の1円の価値、現在は4千円から5千円になるようです。70円では30万円前後になるのか。
寄附金総額2,493円となると、現在では1千万円を超える寄附が有ったのです。
現代で言うとこれは一種の「クラウドファンデイング」になるのでしょうか。
寄附をした県内外の多くの人物は、神社の関係者と、この中教院に入って教育を受けた人達、卒業生達です。
碑陰の一番下側には、「發起者」の名前が大きく記されています。
明治新政府は、この時期次々と政府の組織を変更しています。この石碑に出てくる中教院も、明治6年に各府県に置くこととなり、我栃木県でも明治8年11月26日に神明宮境域に土地を購入して「神道中教院」を新築しています。その中教院が僅か7年後に閉鎖となってしまいます。
中教院の土地建物は、神明宮に献納されています。現在の神明宮の拝殿としている建物は、元中教院の建物を社殿として補修を加えたものとの事。
「興学碑」の石碑の碑文には、そうした経緯を、歴史の一幕を、もれなく刻みこんで、今も神明宮の境内の片隅に、静かにただ建っています。
今回の参考資料:
・「目で見る栃木市史」 発行栃木市
・「神明宮略誌」 神明宮社務所発行
・「栃木縣神社誌」 発行栃木県神社庁 昭和39年2月11日
・「下都賀郡小志」 発行(株)歴史図書社 昭和52年2月28日
・「復刻版 栃木郷土史」発行吉本書店 平成5年4月1日
・「郷土の人々」 発行下野新聞社 昭和47年6月28日
明石海峡大橋・大鳴門橋・瀬戸大橋を渡る [橋梁]
先のゴールデンウイークの前半、本州四国連絡橋の二つのルート、「神戸・鳴門ルート」と「児島・坂出ルート」を通って、四国の徳島県と香川県とを巡ってきました。
目的は、我が国の土木技術の粋を集めて架橋された、日本の代表的な橋梁群を実際に見て・渡って、実感すること。
昨年は、もう一つの「尾道・今治ルート」通称瀬戸内しまなみ海道を渡ったので、今回で本州四国連絡橋を走破することとなった。
残念ながら天候的には「曇天」と恵まれなかったのが、少し悔やまれるが、それはどうにも成らないこと。
旅のスタートは関西空港から、泉佐野市でレンタカーを借りて出発。大阪を通過して神戸から最初の目標「明石海峡大橋」に向かいました。
(明石海峡大橋:上方が本州神戸側、下方が淡路島側に成ります。写真は以前北九州空港からの帰りの、飛行機の窓越しに撮影したものです。)
明石海峡大橋については、最近NHKの「新プロジェクトX」にて、工事の模様が紹介されていましたが、着工は昭和63年(1988)5月、開通は平成10年(1998)4月5日、全長は3,911mで、現在世界2位(2022年3月までは1位だった)。構造形式は3径間2ヒンジ補剛トラス吊橋、主塔の高さは、海面から298.3mといいます。
本州四国連絡橋3ルートの中で、近畿圏に一番近いため、通行量も一番多いと言います。多くのトラックなどと共に橋を渡ると、その主塔の高さを見上げながらも、3分ほどで明石海峡大橋を通過してしまいました。
淡路島側で、橋詰の「道の駅あわじ」に寄って、まじかで世界第二位の橋長を誇る「明石海峡大橋」の全景を確認しました。ゴールデンウイーク中と有って、駐車場は車が溢れていました。
次に、淡路島から「大鳴門橋」を渡り、四国徳島県に上陸しました。
(鳴門市のマンホール蓋は、大鳴門橋と渦潮とがデザインされています。)
大鳴門橋は全長1,629m、幅25m、主塔の高さ144.3m。構造形式は明石海峡大橋と同じ、3径間2ヒンジ補剛トラス吊橋です。車で通過すると1分そこそこで渡り切りました。主塔の高さは明石海峡大橋のほぼ半分です。主塔が低いせいでか、橋の幅員が広く感じられました。昭和60年(1985)6月8日に開通しました。まだ明石海峡大橋の着工前の事です。
鳴門北ICで、高速道路を降り、鳴門市内で「大鳴門橋と鳴門の渦潮」をデザインした、マンホール蓋を見つけ、写真に収めました。次に大鳴門橋の四国側橋詰に有る、「鳴門公園・千畳敷展望台」に向かい、「大鳴門橋」の全景をまじかに見てきました。
千畳敷展望台には、鳴門海峡を望むように建てられた「皇太子殿下御台臨地」と刻した石碑が有りました。碑陰の碑文によると、明治41年4月16日に皇太子殿下がこの地を訪れたことを記しています。元号から皇太子は、その後大正天皇となられた、明宮嘉仁親王(はるのみやよしひとしんのう)
です。
大鳴門橋をじっくりと見た後、その日は徳島市に宿泊、夜は「阿波おどり会館」で、えびす連の人達の「阿波おどり」の囃子と踊りを、楽しみました。
次に渡る橋は、「瀬戸大橋」ですが、瀬戸大橋はひとつの橋ではなく、瀬戸内海の島々をつなぐ多くの橋の総称に成ります。昭和63年(1988)4月10日に全線開通しています。この開通によって、初めて四国と本州とが陸路で結ばれました。
(この写真の飛行機の窓越しに撮影していて、ハッキリ見ることが出来ませんが、手前が香川県坂出市で、写真右上端が岡山県倉敷市に成ります。)
香川県の坂出北ICから瀬戸中央自動車道に入り、瀬戸大橋に向かいます。
最初に2連の吊橋を渡ります。手前が「南備讃瀬戸大橋」、続いて「北備讃瀬戸吊橋」です。
四国坂出と与島を、中間の三つ子島で「南」と「北」を繋いでいます。橋を渡り始めると前方に四つの主塔が並んで見えます。吊橋の長さは「南」が1,723m、「北」が1,611mとほぼ同等の吊橋です。
与島から羽佐島間には、トラス橋の「与島橋」となっていますが、車で通過すると橋上には街灯が建つだけで、橋を渡っているという認識が無いまま、次の「岩黒島橋」そして次の「櫃石橋」に向かって行きす。
そして現れた「岩黒島橋」は、橋上に大文字のアルファベット「H」の形の主塔が立ち上がっていて、そこから放射状に直線的に張られたケーブルが両サイドに伸びてくる。力強さを感じる主塔が目の前に4本立っている。「斜張橋」です。岩黒島橋と、それに続く櫃石島橋とで、2連の斜張橋が連なっています。
橋長は同じで、792m。構造形式は3径間連続鋼トラス斜張橋です。
そして瀬戸大橋で最も本州側に架かる「下津井瀬戸大橋」、橋長1,447m、主塔の高さは、本州側146m、櫃井島側が少し高く149mとなっています。
この瀬戸大橋の一番本州側に架かる「下津井瀬戸大橋」の中ほどで、香川県坂出市から岡山県倉敷市に入ろました。因って瀬戸大橋の大部分は四国側香川県坂出市なのだそうです。前方に見える山は「鷲羽山」標高は112.7m。写真右手山の山頂近くに、瀬戸大橋の全体を見晴らす展望台が有るので、次はその展望台に向かい、瀬戸大橋を確認していきます。
(下津井瀬戸大橋を渡りきると、道路左手に「岡山県倉敷市」の表示。前方の鷲羽山トンネルへ。
鷲羽山トンネルを抜け、「児島」ICで瀬戸中央高速道路から一般道に降り、鷲羽山展望台に到着。
駐車場より歩いて展望台へ。展望台からは瀬戸内海の多くの島々を眼下に見渡すことが出来ます。
右手前に、先ほど走ってきた「下津井瀬戸大橋」(吊橋)が見えます。
ズームアップして「下津井瀬戸大橋」の補剛トラス部分を拡大すると。
橋の上段には自動車が走行、下段部にはJR四国が運営する鉄道路線「本四備讃線」の電車が走っています。
視線を少し左に向けると、4本のH型の主塔が連なるのが見えます。手前が櫃石島橋、その奥が岩黒島橋の2連斜張橋です。
更に視線を左奥に移すと、ぼんやりでは有りますが2連の吊橋が確認できます。
北備讃瀬戸大橋とその先、南備讃瀬戸大橋の橋影です。
天気が良ければその先に、飯野山(讃岐富士)標高422mも確認できたかもしれません。
瀬戸内海をまたぎ、四国と陸路で結ぶこれらの本州四国連絡橋の超大橋は、我国の土木技術のレベルの高さと、そこに携わる多くの技術者の魂の具現化であると、つくづく感じられる旅に成りました。
目的は、我が国の土木技術の粋を集めて架橋された、日本の代表的な橋梁群を実際に見て・渡って、実感すること。
昨年は、もう一つの「尾道・今治ルート」通称瀬戸内しまなみ海道を渡ったので、今回で本州四国連絡橋を走破することとなった。
残念ながら天候的には「曇天」と恵まれなかったのが、少し悔やまれるが、それはどうにも成らないこと。
旅のスタートは関西空港から、泉佐野市でレンタカーを借りて出発。大阪を通過して神戸から最初の目標「明石海峡大橋」に向かいました。
(明石海峡大橋:上方が本州神戸側、下方が淡路島側に成ります。写真は以前北九州空港からの帰りの、飛行機の窓越しに撮影したものです。)
明石海峡大橋については、最近NHKの「新プロジェクトX」にて、工事の模様が紹介されていましたが、着工は昭和63年(1988)5月、開通は平成10年(1998)4月5日、全長は3,911mで、現在世界2位(2022年3月までは1位だった)。構造形式は3径間2ヒンジ補剛トラス吊橋、主塔の高さは、海面から298.3mといいます。
本州四国連絡橋3ルートの中で、近畿圏に一番近いため、通行量も一番多いと言います。多くのトラックなどと共に橋を渡ると、その主塔の高さを見上げながらも、3分ほどで明石海峡大橋を通過してしまいました。
淡路島側で、橋詰の「道の駅あわじ」に寄って、まじかで世界第二位の橋長を誇る「明石海峡大橋」の全景を確認しました。ゴールデンウイーク中と有って、駐車場は車が溢れていました。
次に、淡路島から「大鳴門橋」を渡り、四国徳島県に上陸しました。
(鳴門市のマンホール蓋は、大鳴門橋と渦潮とがデザインされています。)
大鳴門橋は全長1,629m、幅25m、主塔の高さ144.3m。構造形式は明石海峡大橋と同じ、3径間2ヒンジ補剛トラス吊橋です。車で通過すると1分そこそこで渡り切りました。主塔の高さは明石海峡大橋のほぼ半分です。主塔が低いせいでか、橋の幅員が広く感じられました。昭和60年(1985)6月8日に開通しました。まだ明石海峡大橋の着工前の事です。
鳴門北ICで、高速道路を降り、鳴門市内で「大鳴門橋と鳴門の渦潮」をデザインした、マンホール蓋を見つけ、写真に収めました。次に大鳴門橋の四国側橋詰に有る、「鳴門公園・千畳敷展望台」に向かい、「大鳴門橋」の全景をまじかに見てきました。
千畳敷展望台には、鳴門海峡を望むように建てられた「皇太子殿下御台臨地」と刻した石碑が有りました。碑陰の碑文によると、明治41年4月16日に皇太子殿下がこの地を訪れたことを記しています。元号から皇太子は、その後大正天皇となられた、明宮嘉仁親王(はるのみやよしひとしんのう)
です。
大鳴門橋をじっくりと見た後、その日は徳島市に宿泊、夜は「阿波おどり会館」で、えびす連の人達の「阿波おどり」の囃子と踊りを、楽しみました。
次に渡る橋は、「瀬戸大橋」ですが、瀬戸大橋はひとつの橋ではなく、瀬戸内海の島々をつなぐ多くの橋の総称に成ります。昭和63年(1988)4月10日に全線開通しています。この開通によって、初めて四国と本州とが陸路で結ばれました。
(この写真の飛行機の窓越しに撮影していて、ハッキリ見ることが出来ませんが、手前が香川県坂出市で、写真右上端が岡山県倉敷市に成ります。)
香川県の坂出北ICから瀬戸中央自動車道に入り、瀬戸大橋に向かいます。
最初に2連の吊橋を渡ります。手前が「南備讃瀬戸大橋」、続いて「北備讃瀬戸吊橋」です。
四国坂出と与島を、中間の三つ子島で「南」と「北」を繋いでいます。橋を渡り始めると前方に四つの主塔が並んで見えます。吊橋の長さは「南」が1,723m、「北」が1,611mとほぼ同等の吊橋です。
与島から羽佐島間には、トラス橋の「与島橋」となっていますが、車で通過すると橋上には街灯が建つだけで、橋を渡っているという認識が無いまま、次の「岩黒島橋」そして次の「櫃石橋」に向かって行きす。
そして現れた「岩黒島橋」は、橋上に大文字のアルファベット「H」の形の主塔が立ち上がっていて、そこから放射状に直線的に張られたケーブルが両サイドに伸びてくる。力強さを感じる主塔が目の前に4本立っている。「斜張橋」です。岩黒島橋と、それに続く櫃石島橋とで、2連の斜張橋が連なっています。
橋長は同じで、792m。構造形式は3径間連続鋼トラス斜張橋です。
そして瀬戸大橋で最も本州側に架かる「下津井瀬戸大橋」、橋長1,447m、主塔の高さは、本州側146m、櫃井島側が少し高く149mとなっています。
この瀬戸大橋の一番本州側に架かる「下津井瀬戸大橋」の中ほどで、香川県坂出市から岡山県倉敷市に入ろました。因って瀬戸大橋の大部分は四国側香川県坂出市なのだそうです。前方に見える山は「鷲羽山」標高は112.7m。写真右手山の山頂近くに、瀬戸大橋の全体を見晴らす展望台が有るので、次はその展望台に向かい、瀬戸大橋を確認していきます。
(下津井瀬戸大橋を渡りきると、道路左手に「岡山県倉敷市」の表示。前方の鷲羽山トンネルへ。
鷲羽山トンネルを抜け、「児島」ICで瀬戸中央高速道路から一般道に降り、鷲羽山展望台に到着。
駐車場より歩いて展望台へ。展望台からは瀬戸内海の多くの島々を眼下に見渡すことが出来ます。
右手前に、先ほど走ってきた「下津井瀬戸大橋」(吊橋)が見えます。
ズームアップして「下津井瀬戸大橋」の補剛トラス部分を拡大すると。
橋の上段には自動車が走行、下段部にはJR四国が運営する鉄道路線「本四備讃線」の電車が走っています。
視線を少し左に向けると、4本のH型の主塔が連なるのが見えます。手前が櫃石島橋、その奥が岩黒島橋の2連斜張橋です。
更に視線を左奥に移すと、ぼんやりでは有りますが2連の吊橋が確認できます。
北備讃瀬戸大橋とその先、南備讃瀬戸大橋の橋影です。
天気が良ければその先に、飯野山(讃岐富士)標高422mも確認できたかもしれません。
瀬戸内海をまたぎ、四国と陸路で結ぶこれらの本州四国連絡橋の超大橋は、我国の土木技術のレベルの高さと、そこに携わる多くの技術者の魂の具現化であると、つくづく感じられる旅に成りました。
栃木市の第二公園に建つ芭蕉句碑より [石碑]
栃木市の市街地中心部に有る第二公園。公園の西半分は滑り台やブランコなどが有る児童公園。そして東半分は築山や噴水が有る瓢箪池などが有り、市民の憩いの場となっています。
公園の丁度中ほど、時計塔の南側の桜の木の脇に、松尾芭蕉の句を刻んだ石碑が建てられています。
「叡慮にて 賑ふ民の 庭竈」
芭蕉の句としては、あまり知られていないような、私が知らなかっただけでしょうが。
まず冒頭の「叡慮」の意味が分からない、広辞苑を開いてみると、
<天子のお考え。天皇・上皇などの御心。聖慮。>
そして、最後の「庭竈」とは、
<①土間に築いてあるかまど。②近世、正月三が日の間、入口の土間に新しい竈を築いて火を焚き、飲食して楽しんだ奈良の風習。にわいろり。>
難しい、なぜ、この句を石碑に刻したのか。
この石碑何時誰が建てたものか、碑陰を確認することに。
写真がよくないので、碑陰に刻まれた内容を、書き写しました。
(■部分は、どうにも読み取れなかった文字)
まず、建碑の発起者は、第三代栃木町長の櫻井源四郎です。現在の万町交番の真向いに有った「肥料商」。栃木町で多くの会社の創業に係わっていました。明治43年3月に合名会社栃木カイロ灰販売所を設立。栃木ガス株式会社初代社長。栃木商業会議所四代目会頭。さらに明治40年創立の栃木青年同志会の会長など務めた財界の大物で、<よく俳句を詠み謡曲を嗜み風流の道にも堪能であった。>と、石崎常蔵氏が著した「栃木人」の中で紹介されている人物です。この、第二公園建設にも関わっています。
そして建碑に名前を連ねている人達は、氏名の上に刻まれている「俳句の号」で分かるように、栃木町を中心に活動していた「俳人」と思われます。(刻まれている漢字が、崩されていたり変形漢字だったりで、私の解釈が間違っているものも有りますので、ご容赦、ご指摘いただければと思います。)
冒頭の「晩霞」は発起者の櫻井源四郎。他、18名の名前が刻まれています。
その多くは、良く目にした名前で、前掲の書籍「栃木人」の中で紹介されています。
「清香」小井沼熊吉は湊町の茶・砂糖商の老舗に、明治5年(1972)7月に生まれました。土屋磊山の門下生でした。「頼みある 空とはなりぬ 郭公」
「木葉」栗原巳之吉は入舟町で、木炭や書画骨董を商う。「牡丹咲き 人足近き 庵哉」
「一樹」片山久平は上町(現在の万町)で米・麻を商う。久平の句碑が、太平山表参道六角堂の裏に、建てられています。久平は櫻井源四郎らと六角堂再建時に、参道を修復しています。
(太平山六角堂の裏手に建てられている「一樹」の句碑、「夢も見ず よく寝た朝や 杜若」)
「點山」飯田 幸は、明治11年栃木市に生まれる。明治25年頃、土屋磊山門下となり、俳号を點山・霜朗菴という。後に「天秋」と改号、光風菴と称す。「うづま吟社」主宰。
「鳴て行く あとは夜明の ほととぎす」
「耕圃」前橋定治は明治3年(1870)8月、薗部村に生まれる。明治39年(1906)栃木県農会農事功労者表彰を受賞しています。耕圃の句碑が錦着山内に建てられています。
(錦着山東側中腹に建てられている「耕圃」の句碑、「俥から 所在見上げる 雲雀かな」)
「一寶」松本松蔵は明治6年、万町の売薬商「しゅろの木薬局」に生まれた。櫻井源右衛門と両毛印刷(株)を設立した。「一寶」も又、土屋磊山の門下生でした。
「尼寺や 所からとて 蚕棚」
「晴湖」谷田吉右衛門。湊町、幸来橋北西橋詰で味噌醤油醸造業を大きく商う資産家に明治7年(1874)生まれる。明治25年(1892)5月、(株)栃木銀行設立時に監査役に就任、後に二代目頭取をつとめました。
「古城」坂本金一郎、栃木町初代助役、下野新聞社刊の「郷土の人々」によると、<城内町の大地主で、初代戸長高田俊貞のもとで副戸長をつとめていた。(中略)根岸政徳、大塚惣十郎、桜井源四郎、望月磯平と四代の町長につかえてきた。>と、記されています。栃木城址公園に顕彰碑が建てられています。
「蘋者」石塚新吾は文久3年(1863)、中町(今の倭町西銀座通り)に米穀商を営む旧家に生まれました。第二代栃木商業会議所会頭として、4期7年間在任し、会議所の隆昌発展に寄与しました。趣味も多く、特に漢詩を好み、書も幼いころから抜きんでた才能があり、太平山六角堂境内に建てられた、「平岩幸吉氏善行碑」や「桜井源四郎翁之碑」の碑文を書いています。
「積土」生澤積一郎。嘉永5年(1852)、江戸期に沼和田村に有った土岐家の陣屋の代官の家に生まれた。明治22年(1889)の栃木町最初の町会議員選挙で二級議員のトップ242票で当選した。頭脳明晰で懇請されて第五代収入役となり明治末期までつとめた。
「石水」中川浅吉。嘉右衛門町で、練炭を商っていた。大正14年(1925)、栃木市大宮村耕地整理事業で評議員、組合会議員となり、死去するまでつとめています。
「霞城」渡邊弥三郎。明治8年(1875)10月、吹上村吹上に生まれる。明治37年、吹上村村会議員となる。俳人として知られ、土屋磊山の門下生。
ここで、栃木県南地域に、多くの門人を持ち活躍をした「土屋磊山」について、「栃木の文学史」にその名が見えたので、引用させて頂くと、<越後国村上藩主遠藤藤四郎左衛門の三男として江戸屋敷に生まれ、母方の姓を嗣いだ土屋磊山は戊辰の戦争に参加してのち下野の都賀町大柿に移り住むこととなった。本名は土屋麓、霜柱庵三世磊山で、彼は明治16年晋派七世老鼠堂永機より宗匠の文台をさずかり、後には旭香廬一世又は羊岩庵とも言い、後に下野新聞俳句欄のなどもする。>
もう一度なぜこの芭蕉の句を石碑に刻んだのか、碑陰を見ていくと、「明治三十三年五月十日 ■■慶事紀念建之」とあり、石碑建立は明治33年(1900)5月10日に行われた慶事を紀念したものとわかる。ではこの日に何が有ったか調べてみると、この日は皇太子嘉仁親王(大正天皇)と、公爵九条道孝の女節子(貞明皇后)とのご結婚の儀が執り行われた日に当たりました。
皇室の慶事をお祝いをして、天皇のお考えで、世の中が豊かになったと言う、仁徳天皇の逸話「高き屋に のぼりて見れば煙立つ 民のかまどは賑わいにけり」に因んだ芭蕉の句を碑にしたものと考えられます。
今回の参考資料:
・「目で見る栃木市史」発行栃木市
・「栃木の文学史」 発行栃木県文化協会
・「栃木県俳句史」発行栃木県俳句作家協会
・「栃木人 明治・大正・昭和に活躍した人」著者石崎常蔵
・「栃木人 明治・大正・昭和に活躍した人 続編」著者石崎常蔵
・「郷土の人々 栃木・小山・真岡の巻」発行下野新聞社
公園の丁度中ほど、時計塔の南側の桜の木の脇に、松尾芭蕉の句を刻んだ石碑が建てられています。
「叡慮にて 賑ふ民の 庭竈」
芭蕉の句としては、あまり知られていないような、私が知らなかっただけでしょうが。
まず冒頭の「叡慮」の意味が分からない、広辞苑を開いてみると、
<天子のお考え。天皇・上皇などの御心。聖慮。>
そして、最後の「庭竈」とは、
<①土間に築いてあるかまど。②近世、正月三が日の間、入口の土間に新しい竈を築いて火を焚き、飲食して楽しんだ奈良の風習。にわいろり。>
難しい、なぜ、この句を石碑に刻したのか。
この石碑何時誰が建てたものか、碑陰を確認することに。
写真がよくないので、碑陰に刻まれた内容を、書き写しました。
(■部分は、どうにも読み取れなかった文字)
まず、建碑の発起者は、第三代栃木町長の櫻井源四郎です。現在の万町交番の真向いに有った「肥料商」。栃木町で多くの会社の創業に係わっていました。明治43年3月に合名会社栃木カイロ灰販売所を設立。栃木ガス株式会社初代社長。栃木商業会議所四代目会頭。さらに明治40年創立の栃木青年同志会の会長など務めた財界の大物で、<よく俳句を詠み謡曲を嗜み風流の道にも堪能であった。>と、石崎常蔵氏が著した「栃木人」の中で紹介されている人物です。この、第二公園建設にも関わっています。
そして建碑に名前を連ねている人達は、氏名の上に刻まれている「俳句の号」で分かるように、栃木町を中心に活動していた「俳人」と思われます。(刻まれている漢字が、崩されていたり変形漢字だったりで、私の解釈が間違っているものも有りますので、ご容赦、ご指摘いただければと思います。)
冒頭の「晩霞」は発起者の櫻井源四郎。他、18名の名前が刻まれています。
その多くは、良く目にした名前で、前掲の書籍「栃木人」の中で紹介されています。
「清香」小井沼熊吉は湊町の茶・砂糖商の老舗に、明治5年(1972)7月に生まれました。土屋磊山の門下生でした。「頼みある 空とはなりぬ 郭公」
「木葉」栗原巳之吉は入舟町で、木炭や書画骨董を商う。「牡丹咲き 人足近き 庵哉」
「一樹」片山久平は上町(現在の万町)で米・麻を商う。久平の句碑が、太平山表参道六角堂の裏に、建てられています。久平は櫻井源四郎らと六角堂再建時に、参道を修復しています。
(太平山六角堂の裏手に建てられている「一樹」の句碑、「夢も見ず よく寝た朝や 杜若」)
「點山」飯田 幸は、明治11年栃木市に生まれる。明治25年頃、土屋磊山門下となり、俳号を點山・霜朗菴という。後に「天秋」と改号、光風菴と称す。「うづま吟社」主宰。
「鳴て行く あとは夜明の ほととぎす」
「耕圃」前橋定治は明治3年(1870)8月、薗部村に生まれる。明治39年(1906)栃木県農会農事功労者表彰を受賞しています。耕圃の句碑が錦着山内に建てられています。
(錦着山東側中腹に建てられている「耕圃」の句碑、「俥から 所在見上げる 雲雀かな」)
「一寶」松本松蔵は明治6年、万町の売薬商「しゅろの木薬局」に生まれた。櫻井源右衛門と両毛印刷(株)を設立した。「一寶」も又、土屋磊山の門下生でした。
「尼寺や 所からとて 蚕棚」
「晴湖」谷田吉右衛門。湊町、幸来橋北西橋詰で味噌醤油醸造業を大きく商う資産家に明治7年(1874)生まれる。明治25年(1892)5月、(株)栃木銀行設立時に監査役に就任、後に二代目頭取をつとめました。
「古城」坂本金一郎、栃木町初代助役、下野新聞社刊の「郷土の人々」によると、<城内町の大地主で、初代戸長高田俊貞のもとで副戸長をつとめていた。(中略)根岸政徳、大塚惣十郎、桜井源四郎、望月磯平と四代の町長につかえてきた。>と、記されています。栃木城址公園に顕彰碑が建てられています。
「蘋者」石塚新吾は文久3年(1863)、中町(今の倭町西銀座通り)に米穀商を営む旧家に生まれました。第二代栃木商業会議所会頭として、4期7年間在任し、会議所の隆昌発展に寄与しました。趣味も多く、特に漢詩を好み、書も幼いころから抜きんでた才能があり、太平山六角堂境内に建てられた、「平岩幸吉氏善行碑」や「桜井源四郎翁之碑」の碑文を書いています。
「積土」生澤積一郎。嘉永5年(1852)、江戸期に沼和田村に有った土岐家の陣屋の代官の家に生まれた。明治22年(1889)の栃木町最初の町会議員選挙で二級議員のトップ242票で当選した。頭脳明晰で懇請されて第五代収入役となり明治末期までつとめた。
「石水」中川浅吉。嘉右衛門町で、練炭を商っていた。大正14年(1925)、栃木市大宮村耕地整理事業で評議員、組合会議員となり、死去するまでつとめています。
「霞城」渡邊弥三郎。明治8年(1875)10月、吹上村吹上に生まれる。明治37年、吹上村村会議員となる。俳人として知られ、土屋磊山の門下生。
ここで、栃木県南地域に、多くの門人を持ち活躍をした「土屋磊山」について、「栃木の文学史」にその名が見えたので、引用させて頂くと、<越後国村上藩主遠藤藤四郎左衛門の三男として江戸屋敷に生まれ、母方の姓を嗣いだ土屋磊山は戊辰の戦争に参加してのち下野の都賀町大柿に移り住むこととなった。本名は土屋麓、霜柱庵三世磊山で、彼は明治16年晋派七世老鼠堂永機より宗匠の文台をさずかり、後には旭香廬一世又は羊岩庵とも言い、後に下野新聞俳句欄のなどもする。>
もう一度なぜこの芭蕉の句を石碑に刻んだのか、碑陰を見ていくと、「明治三十三年五月十日 ■■慶事紀念建之」とあり、石碑建立は明治33年(1900)5月10日に行われた慶事を紀念したものとわかる。ではこの日に何が有ったか調べてみると、この日は皇太子嘉仁親王(大正天皇)と、公爵九条道孝の女節子(貞明皇后)とのご結婚の儀が執り行われた日に当たりました。
皇室の慶事をお祝いをして、天皇のお考えで、世の中が豊かになったと言う、仁徳天皇の逸話「高き屋に のぼりて見れば煙立つ 民のかまどは賑わいにけり」に因んだ芭蕉の句を碑にしたものと考えられます。
今回の参考資料:
・「目で見る栃木市史」発行栃木市
・「栃木の文学史」 発行栃木県文化協会
・「栃木県俳句史」発行栃木県俳句作家協会
・「栃木人 明治・大正・昭和に活躍した人」著者石崎常蔵
・「栃木人 明治・大正・昭和に活躍した人 続編」著者石崎常蔵
・「郷土の人々 栃木・小山・真岡の巻」発行下野新聞社