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我が国最大級の水路橋、「通潤橋」の放水を見て来ました。 [栃木市外の橋梁]

先月、前々から見に行きたかった熊本県山都町の、五老ヶ滝川に架けられた水路橋(単アーチ石造り)の放水を見て来ることが出来ました。
放水1.jpg
(通潤橋の放水の様子)
現在は一部観光の要素も有りますが、元々は年に一度、橋の上部に敷設された通水管内に溜まった泥や砂などを除くために、橋の中央部上部両サイドに設けられた放水口を開放して、通水管内の水を吐き出す、水路維持の為に必要な作業でした。
通潤橋は現在も白糸台地へ水を送る現役の水路橋の為、放水の水も農業用水に利用されている為、放水する日は毎年予定が発表されますが、天候等の事情により急きょ取りやめになる事も有ると言う事です。
私が向かった日は、幸い天候に恵まれ予定通り実施され、豪快な放水の様子を目の前で見る事が出来ました。
私が行った日は1日1回、午後1時から約15分間の放水の日でした。現地の状況が全く分からない為、途中で道路渋滞が起きないか、駐車場が有るか等、不安が有りましたので、余裕を持って出かけました。
結果、順調に行って放水の3時間前に「道の駅通潤橋」の駐車場に到着しました。
クマモンの作り物.jpg
(駐車場の脇に展示されていた、現地山都町八朔祭の大造り物のクマモンがお出迎え)

時間に余裕が出来ましたが、とりあえず「通潤橋」の近くへ行って見る事に。
五老ヶ滝川の上流側の橋を渡って、川の左岸沿いの歩道を通潤橋へ向かいます。
上流に架かる橋.jpg
(五老ヶ滝川上流に架かる橋を渡って「通潤橋」の近くへ)

途中、歩道脇に銅像が建てられています。この「通潤橋」の建設を計画し先頭だって進めた、惣庄屋(現在の町長にあたる)であった、布田保之助の像です。
布田翁の像.jpg
(通潤橋の方角を見つめ、何か記録をしている惣庄屋の布田保之助の像)

通潤橋の足元近くから見上げると、そのスケールの大きさに改めて圧倒されます。下を流れる五老ヶ滝川は手前から橋の下を流れて行きます。
通潤橋近影.jpg
(通潤橋近影 アーチは直径27.9mの半円をなし、常水面から橋上までの高さは20.2m、橋の幅約6.3m)
放水口(上流側).jpg
(橋中央に設けられた放水口、写真は上流側、上下2ヶ所有り、橋の反対側(下流側)に1ヶ所設けられています。橋に敷設されている三本の通水管のそれぞれの放水口に成ります。最初に載せた写真に三筋の放水の様子が分かります)

壁石垣.jpg
(橋の上流側右岸側の壁石垣部分は、2018年5月7日の豪雨の為、石垣の一部が崩落してしまいました。通潤橋の石垣が崩れるのは初めての事だったそうです。
アーチの脚部に見える袴様の石垣は「鞘石垣」で、基礎部強化の為布田保之助が石工と共に熊本城まで出掛けてその石垣を参考に考案したと言われています。
2020年4月に、熊本地震の被害箇所も含めて、綺麗に保存修理工事が完成して、以前の様に放水する雄大な姿を見る事が出来る様になりました。)

まだまだ時間が有るので、橋の上を確認したいと思います。ただ現在は安全の為通潤橋の上は立ち入り禁止になっていますので、橋の上が展望できる場所に向かいます。通潤橋史料館の館長さんにルートを教えて頂き、右岸側の展望場所に歩いて向かいます。
途中「国民宿舎通潤山荘浜の湯温泉の前を抜け、布田保之助を祀った「布田神社」の脇を抜けて行くと、通潤橋の通水管を流れてきた水が出てくる吹上池に出ました。
右岸側より水路上面を望む.jpg
(通潤橋の橋の上面、向こう岸から手前まで、3列に石が並んでいます。)

吹上口.jpg
(その手前、石垣に囲まれた池の側面に、通水管に繋がった3ヶ所の開口が見えます。この開口部から通水管を通って川を渡って来た水が、逆サイフォンの原理により吹き出してくるので、「吹上口」と言われるところです。)

通潤隧道.jpg
(吹上池に繋がる水のトンネルが有ります。上に「通潤隧道」の銘板が設置されています。このトンネルを抜けて南側に広がる白糸台地に灌漑用水として水が流れて行くのでしょうか。)

ここで一旦道の駅に戻り、早めの食事をとって置きます。
通潤橋前バス停.jpg
(戻る途中、通潤橋前バス停付近からの遠望)

石橋カレー.jpg
(お食事処いしばしにて、ここならではの「通潤橋カレー」を注文。ごはんは通潤橋のアーチ型に盛られ、添えられたピーマンやパブリカは三筋の放水を表現しているようです。美味しく頂きました。)

腹ごしらえをしたところで、今度は通潤橋左岸の高台に登ります。
左岸高台より通潤橋を望む.jpg
(高台への坂道をやっとの思いで登ると、通潤橋を左岸側から見下ろせる展望所に出ます。アーチ橋の向こう側は食事前に行った「吹上池」の有る高台です。)

左岸高台の取入口.jpg
(少し降りたところに水路が有って、静かに水路一杯水が流れており、その先に通潤橋の水の「取入口」が設けられています。
この水路の水は、通潤橋から約6km上流にある、笹原川の「上井手取水口」から水路を延々と流れてきた水です。)

取入口で水の流れは3本の通水管に分水される.jpg
(取入口から流れ込んだ水は、石で組んだ三列の水路に分流され、通潤橋の通水管に導入されます。)

これで通潤橋を下からと右岸側(吹上口)、左岸側(取入口)からと見て来ましたが、その全容を上手く文章で説明出来ないので、「山都町観光協会」発行の、「通潤橋放水暦2021」の資料中に掲載されている、解説文と解説図を参考にする為、抜粋させて頂きました。
通潤橋説明図.jpg
(通潤橋の目的や構造が端的に説明されています。取入口から吹上口間の水路の長さ約123.9m、橋の長さ約76.0m、取入口と吹上口の高低差約1.1m)

放水2.jpg
(放水口から勢いよく吹き出る水が、正に圧巻です。)

午後1時、予定通りに放水が開始され、その勢いに驚かされました。近くでカメラを構えるとたちまちレンズが水しぶきでビチョビチョです。
15分間の放水の予定でしたが、30分過ぎても結構な量が吹き出ていました。
放水を見上げる観光客達.jpg
まだまだ放水が続いている通潤橋を背に、大満足で帰路に着きました。

今回参考にさせて頂いた資料:
一般社団法人 山都町観光協会発行資料 「通潤橋 放水暦 2021」及び「心も潤す虹の架け橋通潤橋」
「眼鏡橋 日本と西洋の古橋」 工学博士 太田静六著  発行所理工図書
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三杉川、佐野市を流れる [栃木市外の橋梁]

栃木市岩舟町小野寺地区の北東山中を源流とする三杉川。
この川は東北自動車道と寄り添う様に、岩舟町の山中・田代・中妻・石橋を貫流、その後東北自動車道から離れ小名路・上岡・下岡・古江と南流を続け三毳山の北端部に差し掛かったところで、両毛線の北側を並走するように西に向きを変え、関川橋で栃木市から別れ、西隣の佐野市に流れて行きます。
三杉川上流域の河川と橋梁.jpg
ここまでの流れとそこに架かる橋については、前に紹介済ですので、今回は佐野市内を流れる三杉川流域を巡りたいと思います。

関川橋の下を抜けた三杉川の流れは、更に西方向に流れその先で岩舟町古江の山中を抜けて南進してきた東北自動車道の関川高架橋下を抜ける事と成る。その後三杉川はその流れを南に変え、並行してきた両毛線の鉄路を潜り、同じく並行してきた主要地方道桐生岩舟線に架かる「鶴舞橋」をも潜って南流を開始します。
鶴舞橋.jpg
(主要地方道桐生岩舟線の「鶴舞橋」西橋詰より。奥に東北自動車道関川高架橋)

約450メートル程南流すると三杉川はわずかに右方向(西側)に河道の向きを変えていきますが、ここで三杉川左岸堤防上に、雑草に覆われて見にくいですが、凸状のコンクリート製構造物が約50メートルの長さで造られているのが確認出来ます。
伊勢山余水吐.jpg
(三杉川左岸堤防上の構造物は、「伊勢山余水吐」と言い増水した三杉川の流れを「三杉川分水路」に流す越流堤でほかの堤防より2メートル程高さを下げています)
写真奥に写る橋梁は「新橋」です。この写真は今年の1月下旬に撮影したもので、三杉川の水量の少ない時でした。最近現地に向かったのですが、この周辺で何やら工事が行われていて、道路が通行止めになっていて現状の確認は出来ていません。
この「伊勢山余水吐」は、栃木県の土木遺産となっています。「土木学会 関東支部 栃木会」のホームページに有る説明文を抜粋させて頂くと、<伊勢山余水吐は、三杉川流域の湛水被害の解消を目的とし、昭和24(1949)年、佐野市伊勢山地内に設けられた。以下略>

写真奥に写っていた「新橋」へ移動します。この橋はその名前の通り2010年7月に竣工した新しい橋に成ります。東北自動車道佐野サービスエリアに2011年4月にオープンしたスマートICのアクセス道路として整備した橋です。
新橋.jpg
(三杉川に架かる「新橋」、写真奥は三毳山中腹の佐野サービスエリア)

それ以前まで使用していた三杉川分水路に架けられた橋が「新橋」の下流側に残っています。三杉川に架けられていた橋は撤去されました。
平和橋(三杉川分水路).jpg
(「新橋」の直ぐ下流側、三杉川分水路に残る「平和橋」)

「新橋」の橋の上から南側を眺めると、左手(東側)方向に三毳の山並みが連なり、右手(西側)方向には三杉川の右岸に沿って、佐野新都心の建物群が南北方向に連なり、そして中央には碁盤の目に整備された水田が南に向かって広がっています。
三杉川分水路を中央に広がる水田.jpg
(手前三杉川の河道は「新橋」の下流側で大きく右に向かい、水田の西の端を南流していきます)
三杉川分水路(新橋より南方を望む).jpg
(広がる水田の中央を真っ直ぐ南に延びる水路が「三杉川分水路」です。)

明治42年12月大日本帝國陸地測量部発行、5万分1地形図「古河」に、この地域が記されています。それを見ると「新橋」の架かるこの地には、その当時も伊勢山と黒袴とを結ぶ道路が有りその南側は、荒涼として湿地が広がり、その中を三杉川が南流して、鐙塚と西浦とを結ぶ道路に架かる橋を潜るとその南側で、越名沼に流れ込んでいます。
元来、三杉川は越名沼が干拓される以前は、越名沼に流れ込むまでで、越名沼から流れ出る河道は「越名川」と成り、笹良橋の下流で西側から流れてきた「秋山川」の左岸に合流し、更にその下流にて渡良瀬川左岸に合流すると言う構成でした。
三杉川分水路(新堀橋より南方を望む).jpg
(鐙塚と西浦とを結ぶ道路に架かる三杉川分水路の「新堀橋」から下流方向を望む。かつてここから南側には「越名沼」が広がっていました。)
「佐野市史資料編4近現代」を開くと、この越名沼の干拓工事について記されています。一部抜粋させて貰います。<越名沼の干拓工事は、農林省が昭和27年から13か年の長い歳月と総工費3億6千8百余万円をかけて、完成させました。この完成で、94.86ヘクタールの耕地が誕生し、米麦で約500トンの収穫が見込まれるようになりました。後略>
干拓前の越名沼の状態を理解しやすくする為、現在の三杉川下流域概略図を作成して、そこに明治40年代の越名沼とその周辺の湿地を黒色で書き込んでみました。
三杉川下流域周辺概略図.jpg
(現在の三杉川下流域の概略図にかつての越名沼周辺の様子を黒色で追記。白く抜いた部分が「越名沼」に成ります。)
「越名沼」の南の端は藤岡町都賀(現在栃木市)西幡張の舌状台地が西に突き出した北側まで有りました。沼から流れ出た河道は舌状台地を回り込む様にしてから南に下り、現在の「笹良橋」付近を南流して、西から流れてきた秋山川に合流して更に南流、その南側で西から流れている渡良瀬川左岸に落ちていました。
三杉川分水路(水路南端より北方を望む).jpg
(三杉川分水路の南端、沼縁樋門から北方向を眺める。かつてはこの視界には越名沼が広がっていたのでしょう。)

現在三杉川は水田地帯の西の縁に沿って南流して、かつての「越名沼」の南端部「沼縁」で、水田地帯の中央を真っ直ぐに南流して来た三杉川分水路と交差する形に成ります。ここで分水路は三杉川の河道の下を潜って三杉川の左岸から右岸に抜けています。
沼縁樋門(三杉川左岸).jpg沼縁樋門取水口(三杉川左岸).jpg
(三杉川左岸に設置された「沼縁樋門」、三杉川分水路を流れてきた水は、この取水口から取り込まれて三杉川の下を通って対岸へ)

沼縁樋門(三杉川右岸).jpg沼縁樋門出水口(三杉川右岸).jpg
(三杉川右岸に設けられた施設、三杉川の下を潜って来た水はこちらから「越名排水路」に放出される。どのような仕掛けになっているか素人の私には分かりませんが、逆サイフォンの原理が使われているのかも)

越名排水路と名前を変えて南流、渡良瀬川に落ちて行きます。
越名橋.jpg
(主要地方道佐野古河線の越名排水路に架かる「新越名橋」上から下流方向を望む。手前の橋が旧道に架かる「越名橋」その先に東北自動車道の「越名橋」と側道橋が見えます。)

「越名橋」の直ぐ下流の右岸に西側から、合流して来る河道が有ります。旧秋山川です。この秋山川には江戸時代から明治にかけて、渡良瀬川の支流として河川交通が発達、越名河岸や馬門河岸には多くの船問屋が軒を連ね、日々大量の荷物が扱われていました。最盛期の明治9(1876)年には越名に7軒、馬門に5軒の船問屋が見られました。
越名橋下流旧秋山川合流点.jpg
(越名橋の下流部、右岸に西側から合流する旧秋山川)

越名と界の二つの排水機場を望む(越名側道橋より).jpg
(東北自動車道の越名橋の南側道橋から下流を望む、高い二つ塔を持つのが「越名水門」その隣の建物が「三杉川排水機場」更に写真右端の建物が「界排水機場」と並ぶ。その先土手の向こう側には渡良瀬川が右から左へと流れています。)

もう一方の三杉川の本流は東北自動車道の越名高架橋の下を抜けると、主要地方道佐野古河道に架かる「笹良橋」に至ります。その笹良橋の東橋詰にこの橋の名前を使った「笹良橋せんべい」の工場兼店舗が有ります。
笹良橋.jpg笹良橋せんべい.jpg
(現在の笹良橋は1980年に竣工されました。
「笹良橋せんべい」は明治創業とあります。お店に入ると店頭のショーケースの中に大きな外輪船の模型が飾られていました。
この船は「通運丸」と言う蒸気船です。「通運丸」について栃木県文化協会が発行した「栃木の水路」の中に掲載されていますので、抜粋して紹介したいと思います。
<明治8年2月陸運会社は名称を内国通運会社と改め、日光街道や中仙道などの長距離馬車輸送をはじめたが、一方利根川筋の河川交通に着目し、明治10年2月第一通運丸を試運転した。やがて明治17年ごろの全盛期には、26隻の通運丸を就航させた。
最初通運丸は馬門河岸に停船したが、川底が浅くなり、明治22年から近くの笹良橋を停船所とした。(中略)初航のころは、乗客はもちろん、見物客がわらじばき弁当持参で連日押しかけ、両岸は人垣で埋まるほどであったという。>と。
通運丸の模型.jpg
(店舗のショーケースに飾られた通運丸の模型)

「笹良橋せんべい」もそうした乗客や見物客が土産に買い求めたのかもしれません。

栃木市岩舟町から佐野市に流れこんだ「三杉川」、佐野市の東縁を南流し、越名沼干拓で現れた水田地帯を潤して最後再び栃木市との境界となり、最後は栃木県南端、群馬県との境を西から東に流れる渡良瀬川に落ちて行きます。
越名水門.jpg
(渡良瀬川左岸堤防に聳える、越名水門の塔。左側が渡良瀬川の流れ)
これで三杉川周辺を巡る旅も終わりです。


※参考文献:
  ・佐野市史 資料編4 近現代 (発行佐野市)
  ・栃木の水路 (発行栃木県文化協会)
  ・藤岡町史 通史編 後編 (発行藤岡町)
  ・5万分の1地形図「古河」 明治42年12月大日本帝國陸地測量部発行 (発行国土地理院)
  ・2万五千分の1地形図「佐野」 平成30年5月1日発行 (発行国土地理院)
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