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栃木市大町の大杉神社境内に建つ石碑を探る [石碑]

栃木市大町の大杉神社境内の南東側隅に、背の高い石碑が一基建てられています。
大町大杉神社.jpg大町大杉神社境内の石碑.jpg

道路に面した南側から、石碑の正面を見ることが出来ます。
そこには、「栃木市大宮村・耕地整理記念碑」と、大きくそしてしっかりとした字で、刻まれています。この題字を揮毫した人物の名が、その左側に見ることが出来ます。「樞密顧問陸軍大将從二位勲一等功三級男爵」と長々とした肩書の次に「奈良武次書」と有ります。
この奈良武次という人物は、都賀郡上南摩村の出身ですが、石碑への揮毫では、これ以前に嘉右衛門町の神明神社の社殿に向かって左脇に建つ、「神明神社改築記念碑」の題字も有ります。
石工は「早乙女正吉刻」です。

「耕地整理事業」は、明治33年(1900)に施行した、<耕地の利用を増進する目的を以て其の所有者共同して土地の交換若は分合、区画形状の変更及道路、畦畔若は溝渠の変更廃置を行うを謂う>という事業を目的とする、「耕地整理法」に基づき、全国的に展開され栃木県においても、施行の翌年の明治34年、岡本にて模範耕地整理が行われ、それ以降毎年県内各地にて、多くの事業が計画施行されています。
栃木市内にては、明治38年(1905)下都賀郡栃木町大字薗部外2大字地区で、又、明治40年(1907)には同じく沼和田地区にて、耕地整理事業が行われています。
そして遅れる事、時は明治から大正に移り、大正14年9月「下都賀郡栃木町大宮村耕地整理組合」の設立が認可され、翌大正15年1月工事が着工されました。
この間の、明治43年(1910)の6月に、「耕地整理法」が改正されて、それ以前の薗部地区や沼和田地区の事業は、土地所有者による単純な共同施行であったものが、法改正によって「耕地整理組合」という法人によって施行される事に変わってきていました。

それでは碑陰を見ていきたいと思います。(碑文をそのまま書き写しました。)
碑陰上部.jpg

碑陰の上部には事業の内容が刻まれています。改めて読んでいきます。
      紀  要
  大正14年9月下都賀郡栃木町大宮村耕地整理組合設立認可
  大正15年1月 工事着工
  昭和7年3月  工事完了
  総地積96町6反6畝29歩4合7勺
       内訳
    栃木市 35町7反8畝20歩3合7勺
    大宮村 59町2反9畝15歩1合
    家中村 7反1畝3歩
    吹上村 8反7畝19歩
  昭和4年4月 東武鉄道新栃木駅地区内設置
  昭和7年7月 県道日光小山線地区内開通組合より道路敷地
         6,199坪を提供したり
         右に関し県会議員大橋英次氏尽力せらる
  昭和12年4月栃木市制執行に依り栃木市大宮村耕地整理組合と変更
  昭和15年12月記念碑建設

この内容を見ると、当初「栃木町大宮村耕地整理組合」として事業を展開したが、昭和12年(1937)4月1日に栃木が市制を施行したことで、組合の名称も変更され、その後建立されたこの石碑の題字も、「栃木市大宮村耕地整理記念碑」となっています。

耕地整理の対象区域の面積が表示されていますが、尺貫法の単位のため、感覚的にどれくらいの広さか分かり難いため、㎡に換算してみます。
   栃木市分が約35.5万㎡  これは全体の約37%に当たります。
   大宮村分は約58.8万㎡  こちらは全体の約61%を占めています。
   家中村と吹上村とは、共に1万㎡に満たなく、比率でも1%以下に成っています。

具体的に耕地整理の対象地区がどこか、概略図を作成してみました。現在の町名で言うと、大町・昭和町・泉町・平柳町一丁目で構成される地域と考えます。
概略図には耕地整理事業の前後の状況が見られるよう工夫しましたが、逆に見難くなってしまった気もします。
耕地整理実施区域概略図.jpg
※概略図にて、黄色で記した道路は、耕地整理前の明治から大正に発行された地形図を参考に描きました。青色で記した水路や、オレンジ色で記した集落部分も同様に耕地整理前の状況です。図の中央部を上から下に続く、赤色の一点鎖線は当時の栃木町と大宮村との境界線です。
一方、黒色で描いた道路は耕地整理後に出来た道路です。
※概略図に描かれた東武鉄道の線路は、日光線が耕地整理事業期間中の昭和4年4月1日に、杉戸から新鹿沼間が開通しています。
※道路の変化を見ると、耕地整理前は、曲がりくねった道がうねうねと、通っていましたが、耕地整理後は東西・南北に直行した碁盤の目の様な道路網が出来上がりました。
ただ、区域の中央部に鎮座する、星宮神社の周辺はすでに集落が出来ていた為、その地域だけ以前のままの道路を残しています。
1968年撮影星宮神社.jpg2016年撮影星宮神社.jpg
(1968年撮影の星宮神社社殿と、2016年撮影の比較写真)

※星宮神社の境内の西脇を、北から南に流れる水路が有ります。
ここ平柳町の星宮神社の由緒をひも解くと、<当社鎮座の初めの地、宇津間川の辺に光輝を発して、三神が出現し、「吾をこの地に祀らば、国土を鎮護し、万民を安居せしめん」と告げたといわれる。そこで祠を建て、拝仰した。この宇津間川は、社域を流れるので、御手洗川ともいう。(後略)>と言われる。この水路の上流、田中の集落ではかつて水車業を営む家も有り、古老の話しに依れば、この水路の名を「東巴波川」とも呼んだと。実際この水路をさらに上流に遡ると、川原田の地辺りで巴波川と分岐しています。現在はこの水路の大部分が暗渠化されていますが、下流側で「杢冷川」の源流に繋がっています。
※栃木市街地中央を縦断する「大通り」の、万町交番前交差点から北に伸びる「北関門道路」は、この耕地整理事業で、昭和7年(1932)8月に開通したものです。
1968年泉町北関門道路.jpg2015年泉町北関門道路.jpg
(1968年撮影の北関門道路と、2015年撮影の比較写真)

次に碑陰下側に目を向けます。こちらも書き写してきました。
碑陰下部.jpg
碑陰下側には、「耕地整理組合」に係わった組合長をはじめ、組合副長・評議員・組合会議員等の名前が列記されています。最下段には故人の名前も並んでいます。

名前の先頭に刻まれているのは、「組合長 高田安平」ですが、他にも組合長として、「故鈴木宗二」、同「故蒔田忠次郎」、そして元組合長として「長谷川調七」など、4名の名前を見ることが出来ます。歴代の組合長なのでしょう。
 初代の組合長は「鈴木宗二」です。この人物は第12代の栃木町長として、この耕地整理組合の立ち上げ時期に、町長職に有った為関連自治体の首長として、「組合長」に就任したと考えます。次の組合長は「蒔田忠次郎」で、第13代町長となって、前任者から引き継いだと考えます。次が「元組合長」の第14代町長「長谷川調七」に成ります。そして最後の組合長が「高田安平」ですが、高田安平は栃木町長にはなっていません。第15代栃木町長で、昭和12年4月1日から施行された栃木市制に変わって初代の栃木市長に成った「榊原經武」です。なぜこの時、これまでの様に首長が就任せずに、高田安平氏に成ったのか、疑問が残ります。
組合副長の肩書には、3名の名前が見えます。第8代大宮村長「新村理一郎」と、第9代大宮村長「岸省吾」、そして「故猪瀬周作」です。猪瀬周作氏は栃木町で味噌醤油醸造業の三代目です。
この耕地整理事業が、栃木町と大宮村とにまたがった土地で行われた為、両自治体の首長が「組合長」「組合副長」に就任しているのは当然だったでしょう。
そのほか、組合のメンバーには地元の有力者が名前を連ねています。

耕地整理事業にて整備された地域は、新栃木駅前という立地も加わって、以降宅地化が進む事に成ります。

今回の参考資料:
・栃木県土地改良史 栃木県土地改良事業団体連合会 昭和54年3月31日発行
・栃木人 明治・大正・昭和に活躍した人びとたち 石崎常蔵著 2017年4月1日発行
・栃木人 明治・大正・昭和に活躍した人びとたち続編 石崎常蔵著 2021年4月1日発行
・栃木県の地名 平凡社 1988年8月25日発行
・2万5千分の1地形図「栃木」 大日本帝国陸地測量部 大正6年7月30日発行
・2万5千分の1地形図「栃木」 国土地理院 昭和40年3月30日発行
・復刻版栃木縣營業便覧 吉本書店 昭和53年9月3日発行
・ウィキペディア 「耕地整理」
・栃木県神社誌 栃木県神社庁 昭和39年2月11日発行
・栃木県町村合併誌 第二巻 栃木県 昭和30年4月発行




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