野麦峠を越える [石碑]
先月、久しぶりに家族で1泊旅行をしてきました。
例年8月のお盆休みに、家族そろって日帰りでドライブを楽しむ程度でしたが、今年は子供たちの休みがうまく重なったので、急遽一泊旅行にしようと言う事になったのが、7月の末。
まず、何処へ行こうかとなる。ここ最近は山形県や宮城県と東北方面が続いていたので、今回は中部地方を目的地に定め、まず泊まれる宿探しを始める。これらの作業には私は加われない。子供らがスマホを駆使して、空いているホテル探しをする。7月末で8月のお盆休みのホテル。簡単に見付かる訳がない。
観光地や温泉地をあきらめて、結局名古屋市内のホテルで、1室3人部屋を何とか予約出来ました。
日程と宿泊地が決まれば、後は具体的なドライブスケジュールの作成で、これは暇な私の仕事。旅行日までに出発時間からドライブコース、休憩場所、観光地点までを、分単位でタイムスケジュールを作成しました。
東北自動車道から北関東自動車道・関越自動車道・上信越自動車道・長野自動車道を経由して、長野県松本市で高速道路を降り、国道158号で岐阜県高山市に向かい、そこから郡上八幡市を観光して、名古屋の宿泊ホテルに向かうルート。計画は完璧です。
だが旅行当日、私の計画はぼろぼろに崩れ去りました。
高速道路区間では多少の遅れが有りましたが、それでも無難に松本IC迄来ました。最初のつまずきは、インター出口で一般道路に合流するまで、渋滞が発生していました。
この時はおそらく松本市内方向が混んでいると思っていたが、渋滞は我々が行こうとする高山市方面で、この道路はあの上高地へ行く道路で渋滞が発生していることが分かりました。
それでも最初のうちは結構走れると、甘い考えが有ったのですが、国道158号が山間部に入り、松本市安曇の梓川沿いの「道の駅 風穴の里」を越えた辺りで、車はピタリと止まってしまった。
それからが、ノロノロで殆ど動かない、まだまだ上高地の分岐までは遠い、カーナビは渋滞の赤いラインがずっと続いている。「上高地」を甘く見ていました。私達は上高地には行かないのに、逃げ場が無いのです。
私が計画したタイムスケジュールがどんどん遅れていきました。
後部座席の娘が突然「次の分岐を左に行かないと、右方向の上高地まではずっと渋滞で真っ赤。」と。そして、左方向の道でも高山市へ通じているか、調べると「野麦峠」を越えて行ける事が判明しました。その時渋滞の列は「入山隧道」の入口へ。目の前の道路標示に「トンネル内分岐。右方向国道158号 高山・上高地。左方向県道26号 木祖・奈川。」の表示。
トンネル内でも渋滞のまま分岐点へ。すると前の車も左方向へ行ったのです。続いて私達も左へハンドルを切りました。後続車両は有りません。道路標識に高山との表示が無かったから、娘の言葉が無かったら、そのまま右方向に行って渋滞の中でした。左方向の県道は多少狭い山道ですが、殆ど対向車もなく、スムースに走ることが出来ました。
娘の口から出た言葉、「野麦峠」。この地名を聞いた瞬間、私はその「野麦峠」の名前が記憶の中に、ハッキリと残っていたのを思い出していた。もちろん子供達は分かっていません。
野麦峠は岐阜県高山市と長野県松本市の県境に位置し、古くは鎌倉街道とか江戸街道と呼ばれた街道の峠。乗鞍岳と鎌ヶ峰の間に有り、標高1,672mの地点に有る。(ウィキペディアより参照)
野麦峠と言えば、「女工哀史」にある、岐阜県飛騨地方の女性達が、長野県地方岡谷の工場に働きに行くため、超えた峠道です。明治から大正にかけて、当時の主力輸出産業であった生糸工業を、陰で支えていた多くのうら若い少女達が、出稼ぎの為、この峠を行き来していました。
私は、この話を何時知ったか記憶ははっきりしません。ただ「あゝ野麦峠」と言うフレーズが脳裏に残っているのです。そしてこの後、車が野麦峠にに到着して、その訳がはっきりするのでした。
梓川沿いの国道を外れて、奈川沿いを走る「野麦街道」を進んで行きます。
(木々に覆われた野麦街道)
(街道の脇を流れる奈川。近くに建っていた双体道祖神)
ここでチョッと寄り道をします。道路わきに建てられた「道祖神」。広辞苑を開くと<道路の悪霊を防いで行人を守護する神。日本では「さえのかみ」と習合されてきた。たむけのかみ。>と出ています。そして「さえのかみ」には、<伊弉諾尊が伊弉冉尊を黄泉の国を訪ね、逃げ戻った時、追いかけてきた黄泉醜女をさえぎり止めるために投げた杖から成り出た神。邪霊の侵入を防ぐ神。行路の安全を守る神。村境などに置かれ、近世にはその形から良縁・出産・夫婦円満の神ともなった。>などと記されています。
この道祖神が特に多く見られるのが、長野県と言われていますが、とくに松本市や安曇野市周辺で、マンホール蓋のデザインにも描かれています。
(写真のマンホール蓋は、長野県の犀川安曇野流域下水道事業で、設置している蓋に成ります。中央に男女が並んで立っています。後方の山はニッポン百名山のひとつ「常念岳」です。)
栃木県では鹿沼市の粕尾地区に数体確認されていますが、栃木市では殆ど見る事は有りません。民俗学を研究されている、私の知人から「栃木市都賀町富張に、1基双体道祖神が祀られている。」と、教えて頂きました。
(都賀町富張の、農道脇の斜面に大切に祀られている「双体道祖神」)
最近は市内の寺院の境内に、新たに祀られた双体道祖神が見られるようになりましたが。
少しより道が長くなってしまいました。野麦街道に戻ります。
道路わきに石碑が見えたので、車を止めて確認すると、石碑は新旧2基建っています。
古い石碑は風化が激しく、文字は判読できません。新しい方は昭和62年12月吉日に奈川村が建立したもの。その脇のトンネルの入り口の様な、自然石を組み上げて、上部をアーチ状にした構造物が出来ている。脇の説明板に、<川浦石室と南無観世音菩薩 道中における毎年の凍死者を救いたいと奈川下郷の庄屋永嶋藤左ヱ門が、文政八年(1825年)に避難小屋を建てた。その功績を称えて木曽藪原の住職が石碑を建てた。昭和62年に石室が再建され、その碑文の訳文を記した。>と、記されています。
この野麦峠は難所の為、冬季には通行人が多数凍死をしたため、造られた避難施設だったようです。
石室の中を覗いて見ると、脇に休憩する為の長いすらしきものが。奥に竈の様なもの、火を焚いて暖を取るためのものか。
石室を後に車はヘアピンカーブの山道を登っていきます。そして前方に「岐阜県高山市」の標識が見えてきました。
目的地の「野麦峠」です。街道から左に脇道に入ると広い駐車場に出ました。
トイレや休憩所が有るようで、何台かの乗用車やオートバイが止まっています。入ってきた道路の脇に「政井みねの像」が建っています。
(男性が背負う少女の名は「政井みね」20歳。男性は少女の兄で「政井辰次郎」31歳。下部の台座の銘板には「あゝ飛騨が見える」と刻まれています。)
この「政井みね」の話は、山本茂美著「あゝ野麦峠」のルポルタージュや、その映画化やテレビドラマ化を通して有名になっています。
ここで、「あゝ野麦峠」からこの石像に関する部分「ああ飛騨が見える」の部分を抜粋させて貰います。
<明治42年11月20日午後2時、野麦峠の頂上で一人の飛騨の工女が息を引きとった。名は政井みね、ニ十歳、信州平野村山一林組の工女である。またその病女を背板にのせて峠の上までかつぎ上げて来た男は、岐阜県吉城郡河合村角川の政井辰次郎(31)、死んだ工女の兄であった。・・・後略>
「政井みね之碑」は更に山の上、旧街道に有るというが、そこまで登る自信もなく、目の前の「お助け小屋」に向かいました。
(お助け小屋は天保12年(1841)に、峠越えをする人達の避難小屋として建てられたもので、現在の建物は、昭和45年に野麦集落の古い家屋を移築したものだそうです。峠を越える若い工女さん達もこの宿で、疲れた体と心を休めて行ったものと思われます。)
現在、お助け小屋の中の食堂では、1979年に全国公開された映画「あゝ野麦峠」のビデオが放映されておりました。
主役「政井みね」役には、今も映画・舞台そしてテレビドラマ等で大活躍をされている、大竹しのぶさんです。兄の「政井辰次郎」役は、地井武男さんでした。他に、古手川祐子さんや原田美恵子さん、友里千賀子さんらの名前も見えました。
上高地への道路が渋滞していた事で、全く計画になかった「野麦峠」を、訪れることが出来ました。
参考資料:
・広辞苑第五版 岩波書店発行
・ウィキペディア 「道祖神」
・鹿沼市公式ホームページ「有形民俗文化財」
・「新版あゝ野麦峠ーある製糸工女哀史ー」山本茂美著 朝日新聞社発行
・ウィキペディア 「あゝ野麦峠(1979年の映画)」
例年8月のお盆休みに、家族そろって日帰りでドライブを楽しむ程度でしたが、今年は子供たちの休みがうまく重なったので、急遽一泊旅行にしようと言う事になったのが、7月の末。
まず、何処へ行こうかとなる。ここ最近は山形県や宮城県と東北方面が続いていたので、今回は中部地方を目的地に定め、まず泊まれる宿探しを始める。これらの作業には私は加われない。子供らがスマホを駆使して、空いているホテル探しをする。7月末で8月のお盆休みのホテル。簡単に見付かる訳がない。
観光地や温泉地をあきらめて、結局名古屋市内のホテルで、1室3人部屋を何とか予約出来ました。
日程と宿泊地が決まれば、後は具体的なドライブスケジュールの作成で、これは暇な私の仕事。旅行日までに出発時間からドライブコース、休憩場所、観光地点までを、分単位でタイムスケジュールを作成しました。
東北自動車道から北関東自動車道・関越自動車道・上信越自動車道・長野自動車道を経由して、長野県松本市で高速道路を降り、国道158号で岐阜県高山市に向かい、そこから郡上八幡市を観光して、名古屋の宿泊ホテルに向かうルート。計画は完璧です。
だが旅行当日、私の計画はぼろぼろに崩れ去りました。
高速道路区間では多少の遅れが有りましたが、それでも無難に松本IC迄来ました。最初のつまずきは、インター出口で一般道路に合流するまで、渋滞が発生していました。
この時はおそらく松本市内方向が混んでいると思っていたが、渋滞は我々が行こうとする高山市方面で、この道路はあの上高地へ行く道路で渋滞が発生していることが分かりました。
それでも最初のうちは結構走れると、甘い考えが有ったのですが、国道158号が山間部に入り、松本市安曇の梓川沿いの「道の駅 風穴の里」を越えた辺りで、車はピタリと止まってしまった。
それからが、ノロノロで殆ど動かない、まだまだ上高地の分岐までは遠い、カーナビは渋滞の赤いラインがずっと続いている。「上高地」を甘く見ていました。私達は上高地には行かないのに、逃げ場が無いのです。
私が計画したタイムスケジュールがどんどん遅れていきました。
後部座席の娘が突然「次の分岐を左に行かないと、右方向の上高地まではずっと渋滞で真っ赤。」と。そして、左方向の道でも高山市へ通じているか、調べると「野麦峠」を越えて行ける事が判明しました。その時渋滞の列は「入山隧道」の入口へ。目の前の道路標示に「トンネル内分岐。右方向国道158号 高山・上高地。左方向県道26号 木祖・奈川。」の表示。
トンネル内でも渋滞のまま分岐点へ。すると前の車も左方向へ行ったのです。続いて私達も左へハンドルを切りました。後続車両は有りません。道路標識に高山との表示が無かったから、娘の言葉が無かったら、そのまま右方向に行って渋滞の中でした。左方向の県道は多少狭い山道ですが、殆ど対向車もなく、スムースに走ることが出来ました。
娘の口から出た言葉、「野麦峠」。この地名を聞いた瞬間、私はその「野麦峠」の名前が記憶の中に、ハッキリと残っていたのを思い出していた。もちろん子供達は分かっていません。
野麦峠は岐阜県高山市と長野県松本市の県境に位置し、古くは鎌倉街道とか江戸街道と呼ばれた街道の峠。乗鞍岳と鎌ヶ峰の間に有り、標高1,672mの地点に有る。(ウィキペディアより参照)
野麦峠と言えば、「女工哀史」にある、岐阜県飛騨地方の女性達が、長野県地方岡谷の工場に働きに行くため、超えた峠道です。明治から大正にかけて、当時の主力輸出産業であった生糸工業を、陰で支えていた多くのうら若い少女達が、出稼ぎの為、この峠を行き来していました。
私は、この話を何時知ったか記憶ははっきりしません。ただ「あゝ野麦峠」と言うフレーズが脳裏に残っているのです。そしてこの後、車が野麦峠にに到着して、その訳がはっきりするのでした。
梓川沿いの国道を外れて、奈川沿いを走る「野麦街道」を進んで行きます。
(木々に覆われた野麦街道)
(街道の脇を流れる奈川。近くに建っていた双体道祖神)
ここでチョッと寄り道をします。道路わきに建てられた「道祖神」。広辞苑を開くと<道路の悪霊を防いで行人を守護する神。日本では「さえのかみ」と習合されてきた。たむけのかみ。>と出ています。そして「さえのかみ」には、<伊弉諾尊が伊弉冉尊を黄泉の国を訪ね、逃げ戻った時、追いかけてきた黄泉醜女をさえぎり止めるために投げた杖から成り出た神。邪霊の侵入を防ぐ神。行路の安全を守る神。村境などに置かれ、近世にはその形から良縁・出産・夫婦円満の神ともなった。>などと記されています。
この道祖神が特に多く見られるのが、長野県と言われていますが、とくに松本市や安曇野市周辺で、マンホール蓋のデザインにも描かれています。
(写真のマンホール蓋は、長野県の犀川安曇野流域下水道事業で、設置している蓋に成ります。中央に男女が並んで立っています。後方の山はニッポン百名山のひとつ「常念岳」です。)
栃木県では鹿沼市の粕尾地区に数体確認されていますが、栃木市では殆ど見る事は有りません。民俗学を研究されている、私の知人から「栃木市都賀町富張に、1基双体道祖神が祀られている。」と、教えて頂きました。
(都賀町富張の、農道脇の斜面に大切に祀られている「双体道祖神」)
最近は市内の寺院の境内に、新たに祀られた双体道祖神が見られるようになりましたが。
少しより道が長くなってしまいました。野麦街道に戻ります。
道路わきに石碑が見えたので、車を止めて確認すると、石碑は新旧2基建っています。
古い石碑は風化が激しく、文字は判読できません。新しい方は昭和62年12月吉日に奈川村が建立したもの。その脇のトンネルの入り口の様な、自然石を組み上げて、上部をアーチ状にした構造物が出来ている。脇の説明板に、<川浦石室と南無観世音菩薩 道中における毎年の凍死者を救いたいと奈川下郷の庄屋永嶋藤左ヱ門が、文政八年(1825年)に避難小屋を建てた。その功績を称えて木曽藪原の住職が石碑を建てた。昭和62年に石室が再建され、その碑文の訳文を記した。>と、記されています。
この野麦峠は難所の為、冬季には通行人が多数凍死をしたため、造られた避難施設だったようです。
石室の中を覗いて見ると、脇に休憩する為の長いすらしきものが。奥に竈の様なもの、火を焚いて暖を取るためのものか。
石室を後に車はヘアピンカーブの山道を登っていきます。そして前方に「岐阜県高山市」の標識が見えてきました。
目的地の「野麦峠」です。街道から左に脇道に入ると広い駐車場に出ました。
トイレや休憩所が有るようで、何台かの乗用車やオートバイが止まっています。入ってきた道路の脇に「政井みねの像」が建っています。
(男性が背負う少女の名は「政井みね」20歳。男性は少女の兄で「政井辰次郎」31歳。下部の台座の銘板には「あゝ飛騨が見える」と刻まれています。)
この「政井みね」の話は、山本茂美著「あゝ野麦峠」のルポルタージュや、その映画化やテレビドラマ化を通して有名になっています。
ここで、「あゝ野麦峠」からこの石像に関する部分「ああ飛騨が見える」の部分を抜粋させて貰います。
<明治42年11月20日午後2時、野麦峠の頂上で一人の飛騨の工女が息を引きとった。名は政井みね、ニ十歳、信州平野村山一林組の工女である。またその病女を背板にのせて峠の上までかつぎ上げて来た男は、岐阜県吉城郡河合村角川の政井辰次郎(31)、死んだ工女の兄であった。・・・後略>
「政井みね之碑」は更に山の上、旧街道に有るというが、そこまで登る自信もなく、目の前の「お助け小屋」に向かいました。
(お助け小屋は天保12年(1841)に、峠越えをする人達の避難小屋として建てられたもので、現在の建物は、昭和45年に野麦集落の古い家屋を移築したものだそうです。峠を越える若い工女さん達もこの宿で、疲れた体と心を休めて行ったものと思われます。)
現在、お助け小屋の中の食堂では、1979年に全国公開された映画「あゝ野麦峠」のビデオが放映されておりました。
主役「政井みね」役には、今も映画・舞台そしてテレビドラマ等で大活躍をされている、大竹しのぶさんです。兄の「政井辰次郎」役は、地井武男さんでした。他に、古手川祐子さんや原田美恵子さん、友里千賀子さんらの名前も見えました。
上高地への道路が渋滞していた事で、全く計画になかった「野麦峠」を、訪れることが出来ました。
参考資料:
・広辞苑第五版 岩波書店発行
・ウィキペディア 「道祖神」
・鹿沼市公式ホームページ「有形民俗文化財」
・「新版あゝ野麦峠ーある製糸工女哀史ー」山本茂美著 朝日新聞社発行
・ウィキペディア 「あゝ野麦峠(1979年の映画)」
栃木第二公園と神明宮の敷地内に建つ石碑を巡る [石碑]
蔵の街栃木の中心部に、天正十七年(12589)皆川広照によって、栃木城内神明宿(現在の神田町)から現在地に移され、以後栃木町の総鎮守として鎮座する「神明宮」。そしてその南側に隣接する「第二公園」が、今も四季を通して市民の憩いの場となっています。そしてこの敷地内には、多くの石碑が建てられていますので、今回はそれらの石碑を見て廻りたいと思います。
初めに今回巡る石碑の建つ場所を、概略図に表してみました。
便宜上石碑に番号付けして、その番号順に巡っていきたいと思います。
1番目の石碑は、神明宮の参道の右手「手水舎」の西側に建つ二基の石碑の大きな方。石碑上部の篆額に大きく「興学碑」と刻まれている石碑です。
実は、この石碑に関しては、今年の5月28日付け<栃木市の神明宮境内に建つ「興学碑」を探る>で、紹介させて頂いてますので、興味が有りましたら、そちらも覗いて見て下さい。
この石碑は、大正天皇の御即位大典記念の事業の一つとして、大正四年に建てられたものになります。碑文のしっかりと刻まれて読みやすいと感じました。書き写した碑文を掲示します。又、碑陰には栃木県内全域はもとより、全国各地からの賛同者の名前を見ることが出来ます。その数1,861人と1団体にも成っています。
篆額の「興学碑」の文字を揮毫したのは、下野宇都宮藩第七代藩主の子爵戸田忠友。
(篆額部拡大写真)
碑文を撰した人物は、伊勢神宮禰宜の小村鄰(下総古河藩士の長男に生まれ、明治5年栃木町神明宮祠官となる)です。
碑陰の芳名者について調査記録する為、エクセル表に記録をしました。
この石碑には、明治期初期の中教院をめぐる動きを中心に、歴史の一幕が記されています。
2番目は、興学碑の前に建つ小ぶりな石碑です。
石碑正面に「皇大神宮太上御神樂講」と大書されています。碑陰には「明治三十五年四月建之」その脇に「半古柳田無忝書」と有ります。石工は松村三瓢です。
皇大神宮は、三重県伊勢市に有る神社。一般には「内宮」と呼ばれています。
3番目は、神明宮社殿の裏手、現在第二公園瓢箪池に流れ込む水路の源に建てられている石碑です。
(現在の神明宮社殿裏手を流れている水路、手前は地下水が汲み上げられ、湧き出ている)
石碑上部に「御手洗水」と刻まれ、その下に「萬町」「倭町」「室町」「湊町」「嘉エ門町」「旭町」の町名と数人の名前が並んでいます。下側は土が付着して見えません。何時頃建てられたものか残念ですが確認できません。
石碑に記されている人名から推定できるか、確認出来る名前を探した結果、平澤浅次郎と根岸政德の二人しか判明しなかった。この二人が活動した期間が石碑が建てられた時期に当たるものと推測。すると平澤浅次郎は、弘化4年(1847)から昭和2年(1927)まで享年81歳との長寿でした。それに対して根岸政德は嘉永6年(1853)から明治27年(1894)までで、享年42歳の生涯でした。したがって根岸政德の活動時期だけ見ると、彼は明治24年(1891)4月に、栃木町の初代町長となり、そこから亡くなるまでの約3年間の間にこの石碑が建てられたと考えて良いのではないかと思います。
尚、私が子供の頃には、現在旭町三丁目公民館が建っている場所には、お稲荷さんが祀られていて、その周りに滑り台とか、左右にスイングする3・4人乗れるブランコのような遊具が有った記憶が残っています。駄菓子屋の様なお店も有って、もんじゃ焼も出来た。神明宮側から来るには、湧水からの水路に架かる板の橋を渡らなければならなかった。今は全くその頃の面影は無くなっている。お稲荷さんは、今は参道の左手、手水舎の反対側に移されています。
(上の写真2枚の内最初は現在の神明宮社殿裏手の「親水公園」です。水路を汲み上げた水が流れ、瓢箪池に通じています。水路の奥に見える建物が、旭町三丁目公民館です。そして2枚目が以前の写真で、水路は深く広く、板橋の向こう側に鳥居、そして稲荷神社が有りその奥に、お店が写っています。)
4番目の石碑は、第二公園側敷地の中央辺り、遊具が有る児童公園と瓢箪池が有る庭園との境界辺り、花壇の中に建てられています。
石碑正面には、<叡慮にて 賑ふ民の 庭竈>という、芭蕉の句が刻まれています。
この石碑は、明治三十三年五月十日の皇太子(後の大正天皇)のご成婚を祝って、栃木町長櫻井源四郎の発起で建てられたようです。碑陰に刻まれている人達は、その当時町内の著名人(俳人)達です。
この石碑に関しても、今年の5月3日付けでこのブログで紹介をしています。
5番目の石碑は、上部に「千歳松」と刻まれた石碑です。
この石碑は、残念ですが現在は倒れています。場所は、瓢箪池の南西部、松の木の根元に碑陰を上にして倒れた状態のままになっています。
実際は「千歳松」の、「歳」の文字は冠部が「止」ではなく「山」(やまかんむり)の漢字が使われています。又、その下に刻まれている、おそらく和歌と思われますが、私には読むことが出来ませんでした。
6番目の石碑ですが、この石碑も現在倒れてしまっています。
以前撮影した写真が有りますが、木立の陰になってハッキリ文字を読むことが出来ませんでした。
石碑正面に刻まれた文字は、「日露戰役記念碑」その左横に揮毫者「元帥侯爵山縣有朋書」の名前が見えました。碑陰の碑文は「平安 劉須謹撰併書」、そしてこの石碑を建てたのは、「栃木町 戰時義會建之」となっています。
次、7番目の石碑は、瓢箪池の北西側池の脇に建てられています。
写真では少し分かり難いですが、写真中央部に縦長の楕円状の自然石に、寄せ書き風に何句か、俳句が思い思いの字体で記されています。
一部拡大して見ます。
よく観察をすると、俳句の後に「俳号」が読み取れます。確認できた「俳号」を記すと、「一樹」「一寳」「耕圃」などで、これらの俳号は、4番目の芭蕉句碑にも有ったものです。石碑の裏手に「大正四乙卯 」と読めますから、西暦1915年に建立された石碑に成ります。
8番目は、瓢箪池の中の島部分に建てられた、「還御乃松」と刻まれた石碑です。
「還御(かんぎょ)」の意味を広辞苑にて調べると、<①天皇・三后などが行幸啓先から帰ることの尊敬語。②将軍・公卿が他行先から帰ることを、分を越えて用いた語。>と説明されています。残念ながらそれ以上は分かりませんでした。この石碑、噴水の飛沫を浴びているのか、他の石碑に比べて風化が激しいようです。
9番目は瓢箪池の中の島に架かる石橋を渡って、池の東側袂に建てられた石碑です。
この石碑もどう紹介していいか、石碑に刻まれている文字を、私の能力では太刀打ちできません。
言えることは、石碑のほぼ中央で建て割れをしている。そして石碑前面に崩し字で多くの俳句らしき文字が並んでいる。というところで、私のお願いとしては、この石碑に関してご存じの方は、是非ご教示願いたいと、言う事です。
10番目は、池の端の東屋の北側付近に建つ1本の石柱です。
石柱正面に刻まれた文字は、「日下開山二代横綱力士綾川五郎次碑」。そして側面には以下の通り。
綾川五郎次者下野國栃木産享保二年大関
備前國岡山候召賜厚禄二代横綱力士也
明治三十三年十月十二代横綱力士陣幕久五郎土師通髙建之
栃木県宇都宮市からは、初代横綱「明石志賀之助」が出ています。そして栃木市(旧藤岡町)からは、<大相撲史上 最強力士のひとりに数えられる第27代横綱栃木山守也」(板橋雄三郎著「探訪 栃木山」より)>が出ています。
ちなみに綾川五郎次の墓は、市内の天台宗の古刹「定願寺」の墓地内に有ります。又、太平山神社の表参道、隨神門を潜って社殿に向かって石段を登っていくと、参道右手に大きな岩の様な石が有ります。横に建てられた案内には、「綾川五郎次受留めの石」と記されています。
11番目の石碑は、瓢箪池の東側の東屋の近く、築山の脇に建っています。
石碑の正面には「皇太子殿下御慶事記念公園之碑」と大きく刻まれています。揮毫者は「宮内大臣正二位勲一等子爵田中光顯謹書」と有ります。又碑陰を見ると「御成婚 明治三十三年五月十日」の文字。
この石碑にも有るように、ここ栃木第二公園そのものが皇太子殿下(後の大正天皇)のご成婚記念事業として、造成されたことが分かります。
12番目の石碑と、13番目の石碑は、築山内に並んで建てられています。
大きな石碑が12番目で、「藤田高綱先生之碑」で、その左側の小さい石碑が13番目、「藤田高綱先生追悼之碑」と刻まれています。
まず、大きい方12番目の石碑を見ます。
石碑上部の篆額に「藤田高綱先生之碑」と篆書体で書かれています。その下の碑文には、藤田高綱の生涯が記されています。
碑陰には発起人や寄附者の名前が並び、どの範囲の地域からなのか見ると、「栃木町」を始め、「北犬飼村」「富山村」「岩舟村」「小野寺村」「南摩村」「粟野町」「清州村」「結城町」など広範囲の人達から寄附が寄せられていることが分かります。
碑が建てられたのは、大正十年九月で二代目藤田錦太郎正綱の時になります。
万町にある「武徳殿」は、1911年に藤田高綱の尽力よって設立されたもので、1944年に栃木市に寄贈されています。現在も豆剣士達の元気な声が響いています。
この石碑に関しては、2017年9月25日付にて<栃木第二公園の築山上に建つ「藤田高綱先生之碑」>と題して、紹介をしています。
13番目は12番のお隣に並んで建てられている、「藤田高綱先生追悼之碑」です。
碑陰の内容を、書き写してみました。そこには栃木剣道連盟の役員の方々の名前が並んでいます。碑が建てられたのは、昭和39年2月9日の日付が刻まれています。建碑の目的は碑題の通り、追悼とすると、想像するに藤田高綱先生が亡くなられた年、大正2年12月から50年が過ぎたことで、改めて追悼の意を示したのではと。
14番目、最後の石碑に成ります。第二公園の東側入り口から入ると、右手に建っています。
篆額に「正五位藤川君碑銘」と、篆書体文字で刻まれています。揮毫した人物は「内大臣従一位大勲位公爵三條實美」です。
碑文を書き写そうと始めましたが、気持ちが折れて途中で断念してしまいました。文章が漢文体で私の苦手な文と同時に、文字間にゆとりが無く、漢字がびっしりと並んで、更に漢字が独特な形をして、ともかく読みにくいのです。
碑が建てられたのは明治19年6月、碑文末尾に刻まれていますが、このころはここ第二公園はまだ整備されていなかった為、建碑の場所は別の所だったと推定されます。碑文に目を凝らして見ていくと、最後の方に「建碑」の文字を見つけその後に「墓側」と続いています。そこから「お墓の側らに碑を建てる」とは読まないだろうか。
ちなみに藤川為親の墓は、栃木市湊町の白旗山勝泉院の墓地内に有ります。
栃木県の第二代県令だった藤川為親は、こよなく栃木町の雰囲気を愛していたと聞きます。明治16年10月30日三島通庸が第三代栃木県令になると、藤川為親は島根県令に異動になります。しかし2年後明治18年8月28日病没しました。享年50歳でした。今は栃木の地に戻り、静かに眠っています。
以上で、神明宮と栃木第二公園の敷地内に建てられた、14基の石碑を一通り見ました。まだまだわからない事も多いので、今後とも資料や情報の収集をしていきたいと考えています。
初めに今回巡る石碑の建つ場所を、概略図に表してみました。
便宜上石碑に番号付けして、その番号順に巡っていきたいと思います。
1番目の石碑は、神明宮の参道の右手「手水舎」の西側に建つ二基の石碑の大きな方。石碑上部の篆額に大きく「興学碑」と刻まれている石碑です。
実は、この石碑に関しては、今年の5月28日付け<栃木市の神明宮境内に建つ「興学碑」を探る>で、紹介させて頂いてますので、興味が有りましたら、そちらも覗いて見て下さい。
この石碑は、大正天皇の御即位大典記念の事業の一つとして、大正四年に建てられたものになります。碑文のしっかりと刻まれて読みやすいと感じました。書き写した碑文を掲示します。又、碑陰には栃木県内全域はもとより、全国各地からの賛同者の名前を見ることが出来ます。その数1,861人と1団体にも成っています。
篆額の「興学碑」の文字を揮毫したのは、下野宇都宮藩第七代藩主の子爵戸田忠友。
(篆額部拡大写真)
碑文を撰した人物は、伊勢神宮禰宜の小村鄰(下総古河藩士の長男に生まれ、明治5年栃木町神明宮祠官となる)です。
碑陰の芳名者について調査記録する為、エクセル表に記録をしました。
この石碑には、明治期初期の中教院をめぐる動きを中心に、歴史の一幕が記されています。
2番目は、興学碑の前に建つ小ぶりな石碑です。
石碑正面に「皇大神宮太上御神樂講」と大書されています。碑陰には「明治三十五年四月建之」その脇に「半古柳田無忝書」と有ります。石工は松村三瓢です。
皇大神宮は、三重県伊勢市に有る神社。一般には「内宮」と呼ばれています。
3番目は、神明宮社殿の裏手、現在第二公園瓢箪池に流れ込む水路の源に建てられている石碑です。
(現在の神明宮社殿裏手を流れている水路、手前は地下水が汲み上げられ、湧き出ている)
石碑上部に「御手洗水」と刻まれ、その下に「萬町」「倭町」「室町」「湊町」「嘉エ門町」「旭町」の町名と数人の名前が並んでいます。下側は土が付着して見えません。何時頃建てられたものか残念ですが確認できません。
石碑に記されている人名から推定できるか、確認出来る名前を探した結果、平澤浅次郎と根岸政德の二人しか判明しなかった。この二人が活動した期間が石碑が建てられた時期に当たるものと推測。すると平澤浅次郎は、弘化4年(1847)から昭和2年(1927)まで享年81歳との長寿でした。それに対して根岸政德は嘉永6年(1853)から明治27年(1894)までで、享年42歳の生涯でした。したがって根岸政德の活動時期だけ見ると、彼は明治24年(1891)4月に、栃木町の初代町長となり、そこから亡くなるまでの約3年間の間にこの石碑が建てられたと考えて良いのではないかと思います。
尚、私が子供の頃には、現在旭町三丁目公民館が建っている場所には、お稲荷さんが祀られていて、その周りに滑り台とか、左右にスイングする3・4人乗れるブランコのような遊具が有った記憶が残っています。駄菓子屋の様なお店も有って、もんじゃ焼も出来た。神明宮側から来るには、湧水からの水路に架かる板の橋を渡らなければならなかった。今は全くその頃の面影は無くなっている。お稲荷さんは、今は参道の左手、手水舎の反対側に移されています。
(上の写真2枚の内最初は現在の神明宮社殿裏手の「親水公園」です。水路を汲み上げた水が流れ、瓢箪池に通じています。水路の奥に見える建物が、旭町三丁目公民館です。そして2枚目が以前の写真で、水路は深く広く、板橋の向こう側に鳥居、そして稲荷神社が有りその奥に、お店が写っています。)
4番目の石碑は、第二公園側敷地の中央辺り、遊具が有る児童公園と瓢箪池が有る庭園との境界辺り、花壇の中に建てられています。
石碑正面には、<叡慮にて 賑ふ民の 庭竈>という、芭蕉の句が刻まれています。
この石碑は、明治三十三年五月十日の皇太子(後の大正天皇)のご成婚を祝って、栃木町長櫻井源四郎の発起で建てられたようです。碑陰に刻まれている人達は、その当時町内の著名人(俳人)達です。
この石碑に関しても、今年の5月3日付けでこのブログで紹介をしています。
5番目の石碑は、上部に「千歳松」と刻まれた石碑です。
この石碑は、残念ですが現在は倒れています。場所は、瓢箪池の南西部、松の木の根元に碑陰を上にして倒れた状態のままになっています。
実際は「千歳松」の、「歳」の文字は冠部が「止」ではなく「山」(やまかんむり)の漢字が使われています。又、その下に刻まれている、おそらく和歌と思われますが、私には読むことが出来ませんでした。
6番目の石碑ですが、この石碑も現在倒れてしまっています。
以前撮影した写真が有りますが、木立の陰になってハッキリ文字を読むことが出来ませんでした。
石碑正面に刻まれた文字は、「日露戰役記念碑」その左横に揮毫者「元帥侯爵山縣有朋書」の名前が見えました。碑陰の碑文は「平安 劉須謹撰併書」、そしてこの石碑を建てたのは、「栃木町 戰時義會建之」となっています。
次、7番目の石碑は、瓢箪池の北西側池の脇に建てられています。
写真では少し分かり難いですが、写真中央部に縦長の楕円状の自然石に、寄せ書き風に何句か、俳句が思い思いの字体で記されています。
一部拡大して見ます。
よく観察をすると、俳句の後に「俳号」が読み取れます。確認できた「俳号」を記すと、「一樹」「一寳」「耕圃」などで、これらの俳号は、4番目の芭蕉句碑にも有ったものです。石碑の裏手に「大正四乙卯 」と読めますから、西暦1915年に建立された石碑に成ります。
8番目は、瓢箪池の中の島部分に建てられた、「還御乃松」と刻まれた石碑です。
「還御(かんぎょ)」の意味を広辞苑にて調べると、<①天皇・三后などが行幸啓先から帰ることの尊敬語。②将軍・公卿が他行先から帰ることを、分を越えて用いた語。>と説明されています。残念ながらそれ以上は分かりませんでした。この石碑、噴水の飛沫を浴びているのか、他の石碑に比べて風化が激しいようです。
9番目は瓢箪池の中の島に架かる石橋を渡って、池の東側袂に建てられた石碑です。
この石碑もどう紹介していいか、石碑に刻まれている文字を、私の能力では太刀打ちできません。
言えることは、石碑のほぼ中央で建て割れをしている。そして石碑前面に崩し字で多くの俳句らしき文字が並んでいる。というところで、私のお願いとしては、この石碑に関してご存じの方は、是非ご教示願いたいと、言う事です。
10番目は、池の端の東屋の北側付近に建つ1本の石柱です。
石柱正面に刻まれた文字は、「日下開山二代横綱力士綾川五郎次碑」。そして側面には以下の通り。
綾川五郎次者下野國栃木産享保二年大関
備前國岡山候召賜厚禄二代横綱力士也
明治三十三年十月十二代横綱力士陣幕久五郎土師通髙建之
栃木県宇都宮市からは、初代横綱「明石志賀之助」が出ています。そして栃木市(旧藤岡町)からは、<大相撲史上 最強力士のひとりに数えられる第27代横綱栃木山守也」(板橋雄三郎著「探訪 栃木山」より)>が出ています。
ちなみに綾川五郎次の墓は、市内の天台宗の古刹「定願寺」の墓地内に有ります。又、太平山神社の表参道、隨神門を潜って社殿に向かって石段を登っていくと、参道右手に大きな岩の様な石が有ります。横に建てられた案内には、「綾川五郎次受留めの石」と記されています。
11番目の石碑は、瓢箪池の東側の東屋の近く、築山の脇に建っています。
石碑の正面には「皇太子殿下御慶事記念公園之碑」と大きく刻まれています。揮毫者は「宮内大臣正二位勲一等子爵田中光顯謹書」と有ります。又碑陰を見ると「御成婚 明治三十三年五月十日」の文字。
この石碑にも有るように、ここ栃木第二公園そのものが皇太子殿下(後の大正天皇)のご成婚記念事業として、造成されたことが分かります。
12番目の石碑と、13番目の石碑は、築山内に並んで建てられています。
大きな石碑が12番目で、「藤田高綱先生之碑」で、その左側の小さい石碑が13番目、「藤田高綱先生追悼之碑」と刻まれています。
まず、大きい方12番目の石碑を見ます。
石碑上部の篆額に「藤田高綱先生之碑」と篆書体で書かれています。その下の碑文には、藤田高綱の生涯が記されています。
碑陰には発起人や寄附者の名前が並び、どの範囲の地域からなのか見ると、「栃木町」を始め、「北犬飼村」「富山村」「岩舟村」「小野寺村」「南摩村」「粟野町」「清州村」「結城町」など広範囲の人達から寄附が寄せられていることが分かります。
碑が建てられたのは、大正十年九月で二代目藤田錦太郎正綱の時になります。
万町にある「武徳殿」は、1911年に藤田高綱の尽力よって設立されたもので、1944年に栃木市に寄贈されています。現在も豆剣士達の元気な声が響いています。
この石碑に関しては、2017年9月25日付にて<栃木第二公園の築山上に建つ「藤田高綱先生之碑」>と題して、紹介をしています。
13番目は12番のお隣に並んで建てられている、「藤田高綱先生追悼之碑」です。
碑陰の内容を、書き写してみました。そこには栃木剣道連盟の役員の方々の名前が並んでいます。碑が建てられたのは、昭和39年2月9日の日付が刻まれています。建碑の目的は碑題の通り、追悼とすると、想像するに藤田高綱先生が亡くなられた年、大正2年12月から50年が過ぎたことで、改めて追悼の意を示したのではと。
14番目、最後の石碑に成ります。第二公園の東側入り口から入ると、右手に建っています。
篆額に「正五位藤川君碑銘」と、篆書体文字で刻まれています。揮毫した人物は「内大臣従一位大勲位公爵三條實美」です。
碑文を書き写そうと始めましたが、気持ちが折れて途中で断念してしまいました。文章が漢文体で私の苦手な文と同時に、文字間にゆとりが無く、漢字がびっしりと並んで、更に漢字が独特な形をして、ともかく読みにくいのです。
碑が建てられたのは明治19年6月、碑文末尾に刻まれていますが、このころはここ第二公園はまだ整備されていなかった為、建碑の場所は別の所だったと推定されます。碑文に目を凝らして見ていくと、最後の方に「建碑」の文字を見つけその後に「墓側」と続いています。そこから「お墓の側らに碑を建てる」とは読まないだろうか。
ちなみに藤川為親の墓は、栃木市湊町の白旗山勝泉院の墓地内に有ります。
栃木県の第二代県令だった藤川為親は、こよなく栃木町の雰囲気を愛していたと聞きます。明治16年10月30日三島通庸が第三代栃木県令になると、藤川為親は島根県令に異動になります。しかし2年後明治18年8月28日病没しました。享年50歳でした。今は栃木の地に戻り、静かに眠っています。
以上で、神明宮と栃木第二公園の敷地内に建てられた、14基の石碑を一通り見ました。まだまだわからない事も多いので、今後とも資料や情報の収集をしていきたいと考えています。
栃木市の神明宮境内に建つ「興学碑」を探る [石碑]
栃木市の市街地の中心に鎮座する、栃木のお伊勢様「神明宮」。
(参道正面奥の大屋根の建物が、神明宮拝殿、左手奥が社務所、そして手前右手に除く瓦葺の建物が「奏樂殿」に成ります。)
神明宮は、神明宮社務所発行の「神明宮略誌」を借りると、その由緒は応永十壬寅年(1403)九月十六日、大字栃木城内の神明宿(現神田町)に創建され。天正十七巳午年(1589)正月十六日現地に奉遷宮されました。以後栃木町の総鎮守となりました。
その境内の片隅、手水舎の裏手、奏楽殿の西側部分に、2基の石碑が建てられています。手前のチョッと小ぶりな石碑は、明治35年4月に建てられた「皇大神宮太上御神樂講」の碑。
今回探っていくのは、その後方に建つ大きな石碑です。
(石碑の正面と裏側から撮影しました。)
石碑正面上部の篆額には「興学碑」と篆書体で刻されています。
篆額に揮毫した人物は、碑文冒頭部に刻されています。「正三位勲四等子爵戸田忠友」です。この官位は石碑が大正天皇の御即位大典記念として、大正4年4月に記された時点のもので、最終官位は大正13年(1924)に昇叙されて、「従二位・勲三等」です。下野宇都宮藩第七代(最後)の藩主で、神職としては、宇都宮二荒山神社の初代宮司となっています。
碑文を見ていきます。従六位勲五等の小村 鄰の撰文となります。
(碑文は大正期に建てられた石碑としては、漢文体でなく、漢字とひらがなの文章で、旧字や旧仮名づかいは有るものの、浅学の私にも比較的理解できる文章に成っています。)
撰文者「小村 鄰(こむら ちかし)」は、嘉永元年(1848)11月9日、下総国古河藩士の長男として生まれました。明治5年栃木町神明宮の祠官となり、ついで宇都宮二荒山神社權宮司、さらに札幌神社宮司などを経て、明治33年伊勢神宮禰宜となっています。
尚、碑文を書いた人物は、栃木縣屬勲七等の保田義嗣という人物です。
篆額に有る「興学」とは、まず「興」の字は、動詞として「おこる」「おこす」「たちあがる」や「盛んになる」の意味が有り、「興国」とすれば、国勢をふるいおこすこと。であり、一方「学」の字は、名詞として「学問」や「まなびや」「学校」又、「学問をする人」などの意味が有り、「興学」と成れば、「学問や学校、学問をする人をおこす、盛んにする」という事に成るのか。
碑文の中には、ここ、神明宮の境域に接する地に、神道中敎院を新築した当時の経緯が、記されています。栃木市発行の「目で見る栃木市史」の学校教育のはじまりの項に、「中教院」について記されていますので、参照させて頂くと、(敬神の天道を経とし、愛国の人道を緯として教化する目的として、明治五年(1872)三月大教院を東京に設け、同六年には中教院を各府県に置くことになり、栃木県では同七年一月太平山に設け、小教院を大田原・鹿沼・宇都宮・足利の各地に設けた。明治八年(1875)四月には神仏共同布教は廃され、神道はその統一をはかるため神道事務所を東京に置き、その分局を各地方に設けることとなり、栃木町の田村良助の邸内に仮設し、かつ神道中教院を県社神明宮の境域に接する地、数反歩を購入して神道中教院を新設した。このとき建設寄附金一万円余、太平山神社は造営に要する杉・桧材、稲葉村鹿島神社は欅材、真弓村諏訪神社は石材、実行・禊両社員は聖地の労役を提供した。・・後略・・)と記されています。この内容は今回の石碑の碑文の内容を要約したものの様です。
次に石碑の裏側、碑陰を見ていきます。なんと石碑の全面にびっしりと沢山の名前が並んで彫られています。右端に「賛成者氏名列刻如左」として、23段に仕切られていて、1段には最大86名の名前が並びますが、賛成者の地域別にあり、途中空白も何ヵ所か見られます。
最初が「東京市」6名、次に「群馬県」6人、「京都府」1人、「伊勢」1人と続きます。栃木県内では、「宇都宮市」48人、「那須郡」25人、「塩谷郡」19人などと、県内の8郡全て確認できます。他に地元「栃木町」として125人と1団体の名前が記されています。
記されている賛成者の数は、1861人と1団体で、寄附された金額の合計は、2,493円にもなっています。
次の資料は、石碑の碑陰のデーターをエクセル表に落とし込んだもので、人数や金額を関数処理できるようにしたものです。
下世話な興味で、寄附された金額で、最も高額な70円を出した人物は、どのような人物か。石碑には「上都賀郡」の筆頭に見える「石原敬之」という人物、調べていくと鹿沼市の古峯神社の第二代宮司でした。次に50円を寄付した人物、二人います。まず「伊勢」の「小村 鄰」ですが、前述した伊勢神宮禰宜で、この石碑の碑文の撰文者。そしてもう一人は同様に石碑の篆額を揮毫した、宇都宮二荒山神社初代宮司「戸田忠友」になります。
寄附額の最低額は1円ですが、この金額現在の金額にするとどのくらいなのか、今から約100年前の1円の価値、現在は4千円から5千円になるようです。70円では30万円前後になるのか。
寄附金総額2,493円となると、現在では1千万円を超える寄附が有ったのです。
現代で言うとこれは一種の「クラウドファンデイング」になるのでしょうか。
寄附をした県内外の多くの人物は、神社の関係者と、この中教院に入って教育を受けた人達、卒業生達です。
碑陰の一番下側には、「發起者」の名前が大きく記されています。
明治新政府は、この時期次々と政府の組織を変更しています。この石碑に出てくる中教院も、明治6年に各府県に置くこととなり、我栃木県でも明治8年11月26日に神明宮境域に土地を購入して「神道中教院」を新築しています。その中教院が僅か7年後に閉鎖となってしまいます。
中教院の土地建物は、神明宮に献納されています。現在の神明宮の拝殿としている建物は、元中教院の建物を社殿として補修を加えたものとの事。
「興学碑」の石碑の碑文には、そうした経緯を、歴史の一幕を、もれなく刻みこんで、今も神明宮の境内の片隅に、静かにただ建っています。
今回の参考資料:
・「目で見る栃木市史」 発行栃木市
・「神明宮略誌」 神明宮社務所発行
・「栃木縣神社誌」 発行栃木県神社庁 昭和39年2月11日
・「下都賀郡小志」 発行(株)歴史図書社 昭和52年2月28日
・「復刻版 栃木郷土史」発行吉本書店 平成5年4月1日
・「郷土の人々」 発行下野新聞社 昭和47年6月28日
(参道正面奥の大屋根の建物が、神明宮拝殿、左手奥が社務所、そして手前右手に除く瓦葺の建物が「奏樂殿」に成ります。)
神明宮は、神明宮社務所発行の「神明宮略誌」を借りると、その由緒は応永十壬寅年(1403)九月十六日、大字栃木城内の神明宿(現神田町)に創建され。天正十七巳午年(1589)正月十六日現地に奉遷宮されました。以後栃木町の総鎮守となりました。
その境内の片隅、手水舎の裏手、奏楽殿の西側部分に、2基の石碑が建てられています。手前のチョッと小ぶりな石碑は、明治35年4月に建てられた「皇大神宮太上御神樂講」の碑。
今回探っていくのは、その後方に建つ大きな石碑です。
(石碑の正面と裏側から撮影しました。)
石碑正面上部の篆額には「興学碑」と篆書体で刻されています。
篆額に揮毫した人物は、碑文冒頭部に刻されています。「正三位勲四等子爵戸田忠友」です。この官位は石碑が大正天皇の御即位大典記念として、大正4年4月に記された時点のもので、最終官位は大正13年(1924)に昇叙されて、「従二位・勲三等」です。下野宇都宮藩第七代(最後)の藩主で、神職としては、宇都宮二荒山神社の初代宮司となっています。
碑文を見ていきます。従六位勲五等の小村 鄰の撰文となります。
(碑文は大正期に建てられた石碑としては、漢文体でなく、漢字とひらがなの文章で、旧字や旧仮名づかいは有るものの、浅学の私にも比較的理解できる文章に成っています。)
撰文者「小村 鄰(こむら ちかし)」は、嘉永元年(1848)11月9日、下総国古河藩士の長男として生まれました。明治5年栃木町神明宮の祠官となり、ついで宇都宮二荒山神社權宮司、さらに札幌神社宮司などを経て、明治33年伊勢神宮禰宜となっています。
尚、碑文を書いた人物は、栃木縣屬勲七等の保田義嗣という人物です。
篆額に有る「興学」とは、まず「興」の字は、動詞として「おこる」「おこす」「たちあがる」や「盛んになる」の意味が有り、「興国」とすれば、国勢をふるいおこすこと。であり、一方「学」の字は、名詞として「学問」や「まなびや」「学校」又、「学問をする人」などの意味が有り、「興学」と成れば、「学問や学校、学問をする人をおこす、盛んにする」という事に成るのか。
碑文の中には、ここ、神明宮の境域に接する地に、神道中敎院を新築した当時の経緯が、記されています。栃木市発行の「目で見る栃木市史」の学校教育のはじまりの項に、「中教院」について記されていますので、参照させて頂くと、(敬神の天道を経とし、愛国の人道を緯として教化する目的として、明治五年(1872)三月大教院を東京に設け、同六年には中教院を各府県に置くことになり、栃木県では同七年一月太平山に設け、小教院を大田原・鹿沼・宇都宮・足利の各地に設けた。明治八年(1875)四月には神仏共同布教は廃され、神道はその統一をはかるため神道事務所を東京に置き、その分局を各地方に設けることとなり、栃木町の田村良助の邸内に仮設し、かつ神道中教院を県社神明宮の境域に接する地、数反歩を購入して神道中教院を新設した。このとき建設寄附金一万円余、太平山神社は造営に要する杉・桧材、稲葉村鹿島神社は欅材、真弓村諏訪神社は石材、実行・禊両社員は聖地の労役を提供した。・・後略・・)と記されています。この内容は今回の石碑の碑文の内容を要約したものの様です。
次に石碑の裏側、碑陰を見ていきます。なんと石碑の全面にびっしりと沢山の名前が並んで彫られています。右端に「賛成者氏名列刻如左」として、23段に仕切られていて、1段には最大86名の名前が並びますが、賛成者の地域別にあり、途中空白も何ヵ所か見られます。
最初が「東京市」6名、次に「群馬県」6人、「京都府」1人、「伊勢」1人と続きます。栃木県内では、「宇都宮市」48人、「那須郡」25人、「塩谷郡」19人などと、県内の8郡全て確認できます。他に地元「栃木町」として125人と1団体の名前が記されています。
記されている賛成者の数は、1861人と1団体で、寄附された金額の合計は、2,493円にもなっています。
次の資料は、石碑の碑陰のデーターをエクセル表に落とし込んだもので、人数や金額を関数処理できるようにしたものです。
下世話な興味で、寄附された金額で、最も高額な70円を出した人物は、どのような人物か。石碑には「上都賀郡」の筆頭に見える「石原敬之」という人物、調べていくと鹿沼市の古峯神社の第二代宮司でした。次に50円を寄付した人物、二人います。まず「伊勢」の「小村 鄰」ですが、前述した伊勢神宮禰宜で、この石碑の碑文の撰文者。そしてもう一人は同様に石碑の篆額を揮毫した、宇都宮二荒山神社初代宮司「戸田忠友」になります。
寄附額の最低額は1円ですが、この金額現在の金額にするとどのくらいなのか、今から約100年前の1円の価値、現在は4千円から5千円になるようです。70円では30万円前後になるのか。
寄附金総額2,493円となると、現在では1千万円を超える寄附が有ったのです。
現代で言うとこれは一種の「クラウドファンデイング」になるのでしょうか。
寄附をした県内外の多くの人物は、神社の関係者と、この中教院に入って教育を受けた人達、卒業生達です。
碑陰の一番下側には、「發起者」の名前が大きく記されています。
明治新政府は、この時期次々と政府の組織を変更しています。この石碑に出てくる中教院も、明治6年に各府県に置くこととなり、我栃木県でも明治8年11月26日に神明宮境域に土地を購入して「神道中教院」を新築しています。その中教院が僅か7年後に閉鎖となってしまいます。
中教院の土地建物は、神明宮に献納されています。現在の神明宮の拝殿としている建物は、元中教院の建物を社殿として補修を加えたものとの事。
「興学碑」の石碑の碑文には、そうした経緯を、歴史の一幕を、もれなく刻みこんで、今も神明宮の境内の片隅に、静かにただ建っています。
今回の参考資料:
・「目で見る栃木市史」 発行栃木市
・「神明宮略誌」 神明宮社務所発行
・「栃木縣神社誌」 発行栃木県神社庁 昭和39年2月11日
・「下都賀郡小志」 発行(株)歴史図書社 昭和52年2月28日
・「復刻版 栃木郷土史」発行吉本書店 平成5年4月1日
・「郷土の人々」 発行下野新聞社 昭和47年6月28日
栃木市の第二公園に建つ芭蕉句碑より [石碑]
栃木市の市街地中心部に有る第二公園。公園の西半分は滑り台やブランコなどが有る児童公園。そして東半分は築山や噴水が有る瓢箪池などが有り、市民の憩いの場となっています。
公園の丁度中ほど、時計塔の南側の桜の木の脇に、松尾芭蕉の句を刻んだ石碑が建てられています。
「叡慮にて 賑ふ民の 庭竈」
芭蕉の句としては、あまり知られていないような、私が知らなかっただけでしょうが。
まず冒頭の「叡慮」の意味が分からない、広辞苑を開いてみると、
<天子のお考え。天皇・上皇などの御心。聖慮。>
そして、最後の「庭竈」とは、
<①土間に築いてあるかまど。②近世、正月三が日の間、入口の土間に新しい竈を築いて火を焚き、飲食して楽しんだ奈良の風習。にわいろり。>
難しい、なぜ、この句を石碑に刻したのか。
この石碑何時誰が建てたものか、碑陰を確認することに。
写真がよくないので、碑陰に刻まれた内容を、書き写しました。
(■部分は、どうにも読み取れなかった文字)
まず、建碑の発起者は、第三代栃木町長の櫻井源四郎です。現在の万町交番の真向いに有った「肥料商」。栃木町で多くの会社の創業に係わっていました。明治43年3月に合名会社栃木カイロ灰販売所を設立。栃木ガス株式会社初代社長。栃木商業会議所四代目会頭。さらに明治40年創立の栃木青年同志会の会長など務めた財界の大物で、<よく俳句を詠み謡曲を嗜み風流の道にも堪能であった。>と、石崎常蔵氏が著した「栃木人」の中で紹介されている人物です。この、第二公園建設にも関わっています。
そして建碑に名前を連ねている人達は、氏名の上に刻まれている「俳句の号」で分かるように、栃木町を中心に活動していた「俳人」と思われます。(刻まれている漢字が、崩されていたり変形漢字だったりで、私の解釈が間違っているものも有りますので、ご容赦、ご指摘いただければと思います。)
冒頭の「晩霞」は発起者の櫻井源四郎。他、18名の名前が刻まれています。
その多くは、良く目にした名前で、前掲の書籍「栃木人」の中で紹介されています。
「清香」小井沼熊吉は湊町の茶・砂糖商の老舗に、明治5年(1972)7月に生まれました。土屋磊山の門下生でした。「頼みある 空とはなりぬ 郭公」
「木葉」栗原巳之吉は入舟町で、木炭や書画骨董を商う。「牡丹咲き 人足近き 庵哉」
「一樹」片山久平は上町(現在の万町)で米・麻を商う。久平の句碑が、太平山表参道六角堂の裏に、建てられています。久平は櫻井源四郎らと六角堂再建時に、参道を修復しています。
(太平山六角堂の裏手に建てられている「一樹」の句碑、「夢も見ず よく寝た朝や 杜若」)
「點山」飯田 幸は、明治11年栃木市に生まれる。明治25年頃、土屋磊山門下となり、俳号を點山・霜朗菴という。後に「天秋」と改号、光風菴と称す。「うづま吟社」主宰。
「鳴て行く あとは夜明の ほととぎす」
「耕圃」前橋定治は明治3年(1870)8月、薗部村に生まれる。明治39年(1906)栃木県農会農事功労者表彰を受賞しています。耕圃の句碑が錦着山内に建てられています。
(錦着山東側中腹に建てられている「耕圃」の句碑、「俥から 所在見上げる 雲雀かな」)
「一寶」松本松蔵は明治6年、万町の売薬商「しゅろの木薬局」に生まれた。櫻井源右衛門と両毛印刷(株)を設立した。「一寶」も又、土屋磊山の門下生でした。
「尼寺や 所からとて 蚕棚」
「晴湖」谷田吉右衛門。湊町、幸来橋北西橋詰で味噌醤油醸造業を大きく商う資産家に明治7年(1874)生まれる。明治25年(1892)5月、(株)栃木銀行設立時に監査役に就任、後に二代目頭取をつとめました。
「古城」坂本金一郎、栃木町初代助役、下野新聞社刊の「郷土の人々」によると、<城内町の大地主で、初代戸長高田俊貞のもとで副戸長をつとめていた。(中略)根岸政徳、大塚惣十郎、桜井源四郎、望月磯平と四代の町長につかえてきた。>と、記されています。栃木城址公園に顕彰碑が建てられています。
「蘋者」石塚新吾は文久3年(1863)、中町(今の倭町西銀座通り)に米穀商を営む旧家に生まれました。第二代栃木商業会議所会頭として、4期7年間在任し、会議所の隆昌発展に寄与しました。趣味も多く、特に漢詩を好み、書も幼いころから抜きんでた才能があり、太平山六角堂境内に建てられた、「平岩幸吉氏善行碑」や「桜井源四郎翁之碑」の碑文を書いています。
「積土」生澤積一郎。嘉永5年(1852)、江戸期に沼和田村に有った土岐家の陣屋の代官の家に生まれた。明治22年(1889)の栃木町最初の町会議員選挙で二級議員のトップ242票で当選した。頭脳明晰で懇請されて第五代収入役となり明治末期までつとめた。
「石水」中川浅吉。嘉右衛門町で、練炭を商っていた。大正14年(1925)、栃木市大宮村耕地整理事業で評議員、組合会議員となり、死去するまでつとめています。
「霞城」渡邊弥三郎。明治8年(1875)10月、吹上村吹上に生まれる。明治37年、吹上村村会議員となる。俳人として知られ、土屋磊山の門下生。
ここで、栃木県南地域に、多くの門人を持ち活躍をした「土屋磊山」について、「栃木の文学史」にその名が見えたので、引用させて頂くと、<越後国村上藩主遠藤藤四郎左衛門の三男として江戸屋敷に生まれ、母方の姓を嗣いだ土屋磊山は戊辰の戦争に参加してのち下野の都賀町大柿に移り住むこととなった。本名は土屋麓、霜柱庵三世磊山で、彼は明治16年晋派七世老鼠堂永機より宗匠の文台をさずかり、後には旭香廬一世又は羊岩庵とも言い、後に下野新聞俳句欄のなどもする。>
もう一度なぜこの芭蕉の句を石碑に刻んだのか、碑陰を見ていくと、「明治三十三年五月十日 ■■慶事紀念建之」とあり、石碑建立は明治33年(1900)5月10日に行われた慶事を紀念したものとわかる。ではこの日に何が有ったか調べてみると、この日は皇太子嘉仁親王(大正天皇)と、公爵九条道孝の女節子(貞明皇后)とのご結婚の儀が執り行われた日に当たりました。
皇室の慶事をお祝いをして、天皇のお考えで、世の中が豊かになったと言う、仁徳天皇の逸話「高き屋に のぼりて見れば煙立つ 民のかまどは賑わいにけり」に因んだ芭蕉の句を碑にしたものと考えられます。
今回の参考資料:
・「目で見る栃木市史」発行栃木市
・「栃木の文学史」 発行栃木県文化協会
・「栃木県俳句史」発行栃木県俳句作家協会
・「栃木人 明治・大正・昭和に活躍した人」著者石崎常蔵
・「栃木人 明治・大正・昭和に活躍した人 続編」著者石崎常蔵
・「郷土の人々 栃木・小山・真岡の巻」発行下野新聞社
公園の丁度中ほど、時計塔の南側の桜の木の脇に、松尾芭蕉の句を刻んだ石碑が建てられています。
「叡慮にて 賑ふ民の 庭竈」
芭蕉の句としては、あまり知られていないような、私が知らなかっただけでしょうが。
まず冒頭の「叡慮」の意味が分からない、広辞苑を開いてみると、
<天子のお考え。天皇・上皇などの御心。聖慮。>
そして、最後の「庭竈」とは、
<①土間に築いてあるかまど。②近世、正月三が日の間、入口の土間に新しい竈を築いて火を焚き、飲食して楽しんだ奈良の風習。にわいろり。>
難しい、なぜ、この句を石碑に刻したのか。
この石碑何時誰が建てたものか、碑陰を確認することに。
写真がよくないので、碑陰に刻まれた内容を、書き写しました。
(■部分は、どうにも読み取れなかった文字)
まず、建碑の発起者は、第三代栃木町長の櫻井源四郎です。現在の万町交番の真向いに有った「肥料商」。栃木町で多くの会社の創業に係わっていました。明治43年3月に合名会社栃木カイロ灰販売所を設立。栃木ガス株式会社初代社長。栃木商業会議所四代目会頭。さらに明治40年創立の栃木青年同志会の会長など務めた財界の大物で、<よく俳句を詠み謡曲を嗜み風流の道にも堪能であった。>と、石崎常蔵氏が著した「栃木人」の中で紹介されている人物です。この、第二公園建設にも関わっています。
そして建碑に名前を連ねている人達は、氏名の上に刻まれている「俳句の号」で分かるように、栃木町を中心に活動していた「俳人」と思われます。(刻まれている漢字が、崩されていたり変形漢字だったりで、私の解釈が間違っているものも有りますので、ご容赦、ご指摘いただければと思います。)
冒頭の「晩霞」は発起者の櫻井源四郎。他、18名の名前が刻まれています。
その多くは、良く目にした名前で、前掲の書籍「栃木人」の中で紹介されています。
「清香」小井沼熊吉は湊町の茶・砂糖商の老舗に、明治5年(1972)7月に生まれました。土屋磊山の門下生でした。「頼みある 空とはなりぬ 郭公」
「木葉」栗原巳之吉は入舟町で、木炭や書画骨董を商う。「牡丹咲き 人足近き 庵哉」
「一樹」片山久平は上町(現在の万町)で米・麻を商う。久平の句碑が、太平山表参道六角堂の裏に、建てられています。久平は櫻井源四郎らと六角堂再建時に、参道を修復しています。
(太平山六角堂の裏手に建てられている「一樹」の句碑、「夢も見ず よく寝た朝や 杜若」)
「點山」飯田 幸は、明治11年栃木市に生まれる。明治25年頃、土屋磊山門下となり、俳号を點山・霜朗菴という。後に「天秋」と改号、光風菴と称す。「うづま吟社」主宰。
「鳴て行く あとは夜明の ほととぎす」
「耕圃」前橋定治は明治3年(1870)8月、薗部村に生まれる。明治39年(1906)栃木県農会農事功労者表彰を受賞しています。耕圃の句碑が錦着山内に建てられています。
(錦着山東側中腹に建てられている「耕圃」の句碑、「俥から 所在見上げる 雲雀かな」)
「一寶」松本松蔵は明治6年、万町の売薬商「しゅろの木薬局」に生まれた。櫻井源右衛門と両毛印刷(株)を設立した。「一寶」も又、土屋磊山の門下生でした。
「尼寺や 所からとて 蚕棚」
「晴湖」谷田吉右衛門。湊町、幸来橋北西橋詰で味噌醤油醸造業を大きく商う資産家に明治7年(1874)生まれる。明治25年(1892)5月、(株)栃木銀行設立時に監査役に就任、後に二代目頭取をつとめました。
「古城」坂本金一郎、栃木町初代助役、下野新聞社刊の「郷土の人々」によると、<城内町の大地主で、初代戸長高田俊貞のもとで副戸長をつとめていた。(中略)根岸政徳、大塚惣十郎、桜井源四郎、望月磯平と四代の町長につかえてきた。>と、記されています。栃木城址公園に顕彰碑が建てられています。
「蘋者」石塚新吾は文久3年(1863)、中町(今の倭町西銀座通り)に米穀商を営む旧家に生まれました。第二代栃木商業会議所会頭として、4期7年間在任し、会議所の隆昌発展に寄与しました。趣味も多く、特に漢詩を好み、書も幼いころから抜きんでた才能があり、太平山六角堂境内に建てられた、「平岩幸吉氏善行碑」や「桜井源四郎翁之碑」の碑文を書いています。
「積土」生澤積一郎。嘉永5年(1852)、江戸期に沼和田村に有った土岐家の陣屋の代官の家に生まれた。明治22年(1889)の栃木町最初の町会議員選挙で二級議員のトップ242票で当選した。頭脳明晰で懇請されて第五代収入役となり明治末期までつとめた。
「石水」中川浅吉。嘉右衛門町で、練炭を商っていた。大正14年(1925)、栃木市大宮村耕地整理事業で評議員、組合会議員となり、死去するまでつとめています。
「霞城」渡邊弥三郎。明治8年(1875)10月、吹上村吹上に生まれる。明治37年、吹上村村会議員となる。俳人として知られ、土屋磊山の門下生。
ここで、栃木県南地域に、多くの門人を持ち活躍をした「土屋磊山」について、「栃木の文学史」にその名が見えたので、引用させて頂くと、<越後国村上藩主遠藤藤四郎左衛門の三男として江戸屋敷に生まれ、母方の姓を嗣いだ土屋磊山は戊辰の戦争に参加してのち下野の都賀町大柿に移り住むこととなった。本名は土屋麓、霜柱庵三世磊山で、彼は明治16年晋派七世老鼠堂永機より宗匠の文台をさずかり、後には旭香廬一世又は羊岩庵とも言い、後に下野新聞俳句欄のなどもする。>
もう一度なぜこの芭蕉の句を石碑に刻んだのか、碑陰を見ていくと、「明治三十三年五月十日 ■■慶事紀念建之」とあり、石碑建立は明治33年(1900)5月10日に行われた慶事を紀念したものとわかる。ではこの日に何が有ったか調べてみると、この日は皇太子嘉仁親王(大正天皇)と、公爵九条道孝の女節子(貞明皇后)とのご結婚の儀が執り行われた日に当たりました。
皇室の慶事をお祝いをして、天皇のお考えで、世の中が豊かになったと言う、仁徳天皇の逸話「高き屋に のぼりて見れば煙立つ 民のかまどは賑わいにけり」に因んだ芭蕉の句を碑にしたものと考えられます。
今回の参考資料:
・「目で見る栃木市史」発行栃木市
・「栃木の文学史」 発行栃木県文化協会
・「栃木県俳句史」発行栃木県俳句作家協会
・「栃木人 明治・大正・昭和に活躍した人」著者石崎常蔵
・「栃木人 明治・大正・昭和に活躍した人 続編」著者石崎常蔵
・「郷土の人々 栃木・小山・真岡の巻」発行下野新聞社
栃木市大町の大杉神社境内に建つ石碑を探る [石碑]
栃木市大町の大杉神社境内の南東側隅に、背の高い石碑が一基建てられています。
道路に面した南側から、石碑の正面を見ることが出来ます。
そこには、「栃木市大宮村・耕地整理記念碑」と、大きくそしてしっかりとした字で、刻まれています。この題字を揮毫した人物の名が、その左側に見ることが出来ます。「樞密顧問陸軍大将從二位勲一等功三級男爵」と長々とした肩書の次に「奈良武次書」と有ります。
この奈良武次という人物は、都賀郡上南摩村の出身ですが、石碑への揮毫では、これ以前に嘉右衛門町の神明神社の社殿に向かって左脇に建つ、「神明神社改築記念碑」の題字も有ります。
石工は「早乙女正吉刻」です。
「耕地整理事業」は、明治33年(1900)に施行した、<耕地の利用を増進する目的を以て其の所有者共同して土地の交換若は分合、区画形状の変更及道路、畦畔若は溝渠の変更廃置を行うを謂う>という事業を目的とする、「耕地整理法」に基づき、全国的に展開され栃木県においても、施行の翌年の明治34年、岡本にて模範耕地整理が行われ、それ以降毎年県内各地にて、多くの事業が計画施行されています。
栃木市内にては、明治38年(1905)下都賀郡栃木町大字薗部外2大字地区で、又、明治40年(1907)には同じく沼和田地区にて、耕地整理事業が行われています。
そして遅れる事、時は明治から大正に移り、大正14年9月「下都賀郡栃木町大宮村耕地整理組合」の設立が認可され、翌大正15年1月工事が着工されました。
この間の、明治43年(1910)の6月に、「耕地整理法」が改正されて、それ以前の薗部地区や沼和田地区の事業は、土地所有者による単純な共同施行であったものが、法改正によって「耕地整理組合」という法人によって施行される事に変わってきていました。
それでは碑陰を見ていきたいと思います。(碑文をそのまま書き写しました。)
碑陰の上部には事業の内容が刻まれています。改めて読んでいきます。
紀 要
大正14年9月下都賀郡栃木町大宮村耕地整理組合設立認可
大正15年1月 工事着工
昭和7年3月 工事完了
総地積96町6反6畝29歩4合7勺
内訳
栃木市 35町7反8畝20歩3合7勺
大宮村 59町2反9畝15歩1合
家中村 7反1畝3歩
吹上村 8反7畝19歩
昭和4年4月 東武鉄道新栃木駅地区内設置
昭和7年7月 県道日光小山線地区内開通組合より道路敷地
6,199坪を提供したり
右に関し県会議員大橋英次氏尽力せらる
昭和12年4月栃木市制執行に依り栃木市大宮村耕地整理組合と変更
昭和15年12月記念碑建設
この内容を見ると、当初「栃木町大宮村耕地整理組合」として事業を展開したが、昭和12年(1937)4月1日に栃木が市制を施行したことで、組合の名称も変更され、その後建立されたこの石碑の題字も、「栃木市大宮村耕地整理記念碑」となっています。
耕地整理の対象区域の面積が表示されていますが、尺貫法の単位のため、感覚的にどれくらいの広さか分かり難いため、㎡に換算してみます。
栃木市分が約35.5万㎡ これは全体の約37%に当たります。
大宮村分は約58.8万㎡ こちらは全体の約61%を占めています。
家中村と吹上村とは、共に1万㎡に満たなく、比率でも1%以下に成っています。
具体的に耕地整理の対象地区がどこか、概略図を作成してみました。現在の町名で言うと、大町・昭和町・泉町・平柳町一丁目で構成される地域と考えます。
概略図には耕地整理事業の前後の状況が見られるよう工夫しましたが、逆に見難くなってしまった気もします。
※概略図にて、黄色で記した道路は、耕地整理前の明治から大正に発行された地形図を参考に描きました。青色で記した水路や、オレンジ色で記した集落部分も同様に耕地整理前の状況です。図の中央部を上から下に続く、赤色の一点鎖線は当時の栃木町と大宮村との境界線です。
一方、黒色で描いた道路は耕地整理後に出来た道路です。
※概略図に描かれた東武鉄道の線路は、日光線が耕地整理事業期間中の昭和4年4月1日に、杉戸から新鹿沼間が開通しています。
※道路の変化を見ると、耕地整理前は、曲がりくねった道がうねうねと、通っていましたが、耕地整理後は東西・南北に直行した碁盤の目の様な道路網が出来上がりました。
ただ、区域の中央部に鎮座する、星宮神社の周辺はすでに集落が出来ていた為、その地域だけ以前のままの道路を残しています。
(1968年撮影の星宮神社社殿と、2016年撮影の比較写真)
※星宮神社の境内の西脇を、北から南に流れる水路が有ります。
ここ平柳町の星宮神社の由緒をひも解くと、<当社鎮座の初めの地、宇津間川の辺に光輝を発して、三神が出現し、「吾をこの地に祀らば、国土を鎮護し、万民を安居せしめん」と告げたといわれる。そこで祠を建て、拝仰した。この宇津間川は、社域を流れるので、御手洗川ともいう。(後略)>と言われる。この水路の上流、田中の集落ではかつて水車業を営む家も有り、古老の話しに依れば、この水路の名を「東巴波川」とも呼んだと。実際この水路をさらに上流に遡ると、川原田の地辺りで巴波川と分岐しています。現在はこの水路の大部分が暗渠化されていますが、下流側で「杢冷川」の源流に繋がっています。
※栃木市街地中央を縦断する「大通り」の、万町交番前交差点から北に伸びる「北関門道路」は、この耕地整理事業で、昭和7年(1932)8月に開通したものです。
(1968年撮影の北関門道路と、2015年撮影の比較写真)
次に碑陰下側に目を向けます。こちらも書き写してきました。
碑陰下側には、「耕地整理組合」に係わった組合長をはじめ、組合副長・評議員・組合会議員等の名前が列記されています。最下段には故人の名前も並んでいます。
名前の先頭に刻まれているのは、「組合長 高田安平」ですが、他にも組合長として、「故鈴木宗二」、同「故蒔田忠次郎」、そして元組合長として「長谷川調七」など、4名の名前を見ることが出来ます。歴代の組合長なのでしょう。
初代の組合長は「鈴木宗二」です。この人物は第12代の栃木町長として、この耕地整理組合の立ち上げ時期に、町長職に有った為関連自治体の首長として、「組合長」に就任したと考えます。次の組合長は「蒔田忠次郎」で、第13代町長となって、前任者から引き継いだと考えます。次が「元組合長」の第14代町長「長谷川調七」に成ります。そして最後の組合長が「高田安平」ですが、高田安平は栃木町長にはなっていません。第15代栃木町長で、昭和12年4月1日から施行された栃木市制に変わって初代の栃木市長に成った「榊原經武」です。なぜこの時、これまでの様に首長が就任せずに、高田安平氏に成ったのか、疑問が残ります。
組合副長の肩書には、3名の名前が見えます。第8代大宮村長「新村理一郎」と、第9代大宮村長「岸省吾」、そして「故猪瀬周作」です。猪瀬周作氏は栃木町で味噌醤油醸造業の三代目です。
この耕地整理事業が、栃木町と大宮村とにまたがった土地で行われた為、両自治体の首長が「組合長」「組合副長」に就任しているのは当然だったでしょう。
そのほか、組合のメンバーには地元の有力者が名前を連ねています。
耕地整理事業にて整備された地域は、新栃木駅前という立地も加わって、以降宅地化が進む事に成ります。
今回の参考資料:
・栃木県土地改良史 栃木県土地改良事業団体連合会 昭和54年3月31日発行
・栃木人 明治・大正・昭和に活躍した人びとたち 石崎常蔵著 2017年4月1日発行
・栃木人 明治・大正・昭和に活躍した人びとたち続編 石崎常蔵著 2021年4月1日発行
・栃木県の地名 平凡社 1988年8月25日発行
・2万5千分の1地形図「栃木」 大日本帝国陸地測量部 大正6年7月30日発行
・2万5千分の1地形図「栃木」 国土地理院 昭和40年3月30日発行
・復刻版栃木縣營業便覧 吉本書店 昭和53年9月3日発行
・ウィキペディア 「耕地整理」
・栃木県神社誌 栃木県神社庁 昭和39年2月11日発行
・栃木県町村合併誌 第二巻 栃木県 昭和30年4月発行
道路に面した南側から、石碑の正面を見ることが出来ます。
そこには、「栃木市大宮村・耕地整理記念碑」と、大きくそしてしっかりとした字で、刻まれています。この題字を揮毫した人物の名が、その左側に見ることが出来ます。「樞密顧問陸軍大将從二位勲一等功三級男爵」と長々とした肩書の次に「奈良武次書」と有ります。
この奈良武次という人物は、都賀郡上南摩村の出身ですが、石碑への揮毫では、これ以前に嘉右衛門町の神明神社の社殿に向かって左脇に建つ、「神明神社改築記念碑」の題字も有ります。
石工は「早乙女正吉刻」です。
「耕地整理事業」は、明治33年(1900)に施行した、<耕地の利用を増進する目的を以て其の所有者共同して土地の交換若は分合、区画形状の変更及道路、畦畔若は溝渠の変更廃置を行うを謂う>という事業を目的とする、「耕地整理法」に基づき、全国的に展開され栃木県においても、施行の翌年の明治34年、岡本にて模範耕地整理が行われ、それ以降毎年県内各地にて、多くの事業が計画施行されています。
栃木市内にては、明治38年(1905)下都賀郡栃木町大字薗部外2大字地区で、又、明治40年(1907)には同じく沼和田地区にて、耕地整理事業が行われています。
そして遅れる事、時は明治から大正に移り、大正14年9月「下都賀郡栃木町大宮村耕地整理組合」の設立が認可され、翌大正15年1月工事が着工されました。
この間の、明治43年(1910)の6月に、「耕地整理法」が改正されて、それ以前の薗部地区や沼和田地区の事業は、土地所有者による単純な共同施行であったものが、法改正によって「耕地整理組合」という法人によって施行される事に変わってきていました。
それでは碑陰を見ていきたいと思います。(碑文をそのまま書き写しました。)
碑陰の上部には事業の内容が刻まれています。改めて読んでいきます。
紀 要
大正14年9月下都賀郡栃木町大宮村耕地整理組合設立認可
大正15年1月 工事着工
昭和7年3月 工事完了
総地積96町6反6畝29歩4合7勺
内訳
栃木市 35町7反8畝20歩3合7勺
大宮村 59町2反9畝15歩1合
家中村 7反1畝3歩
吹上村 8反7畝19歩
昭和4年4月 東武鉄道新栃木駅地区内設置
昭和7年7月 県道日光小山線地区内開通組合より道路敷地
6,199坪を提供したり
右に関し県会議員大橋英次氏尽力せらる
昭和12年4月栃木市制執行に依り栃木市大宮村耕地整理組合と変更
昭和15年12月記念碑建設
この内容を見ると、当初「栃木町大宮村耕地整理組合」として事業を展開したが、昭和12年(1937)4月1日に栃木が市制を施行したことで、組合の名称も変更され、その後建立されたこの石碑の題字も、「栃木市大宮村耕地整理記念碑」となっています。
耕地整理の対象区域の面積が表示されていますが、尺貫法の単位のため、感覚的にどれくらいの広さか分かり難いため、㎡に換算してみます。
栃木市分が約35.5万㎡ これは全体の約37%に当たります。
大宮村分は約58.8万㎡ こちらは全体の約61%を占めています。
家中村と吹上村とは、共に1万㎡に満たなく、比率でも1%以下に成っています。
具体的に耕地整理の対象地区がどこか、概略図を作成してみました。現在の町名で言うと、大町・昭和町・泉町・平柳町一丁目で構成される地域と考えます。
概略図には耕地整理事業の前後の状況が見られるよう工夫しましたが、逆に見難くなってしまった気もします。
※概略図にて、黄色で記した道路は、耕地整理前の明治から大正に発行された地形図を参考に描きました。青色で記した水路や、オレンジ色で記した集落部分も同様に耕地整理前の状況です。図の中央部を上から下に続く、赤色の一点鎖線は当時の栃木町と大宮村との境界線です。
一方、黒色で描いた道路は耕地整理後に出来た道路です。
※概略図に描かれた東武鉄道の線路は、日光線が耕地整理事業期間中の昭和4年4月1日に、杉戸から新鹿沼間が開通しています。
※道路の変化を見ると、耕地整理前は、曲がりくねった道がうねうねと、通っていましたが、耕地整理後は東西・南北に直行した碁盤の目の様な道路網が出来上がりました。
ただ、区域の中央部に鎮座する、星宮神社の周辺はすでに集落が出来ていた為、その地域だけ以前のままの道路を残しています。
(1968年撮影の星宮神社社殿と、2016年撮影の比較写真)
※星宮神社の境内の西脇を、北から南に流れる水路が有ります。
ここ平柳町の星宮神社の由緒をひも解くと、<当社鎮座の初めの地、宇津間川の辺に光輝を発して、三神が出現し、「吾をこの地に祀らば、国土を鎮護し、万民を安居せしめん」と告げたといわれる。そこで祠を建て、拝仰した。この宇津間川は、社域を流れるので、御手洗川ともいう。(後略)>と言われる。この水路の上流、田中の集落ではかつて水車業を営む家も有り、古老の話しに依れば、この水路の名を「東巴波川」とも呼んだと。実際この水路をさらに上流に遡ると、川原田の地辺りで巴波川と分岐しています。現在はこの水路の大部分が暗渠化されていますが、下流側で「杢冷川」の源流に繋がっています。
※栃木市街地中央を縦断する「大通り」の、万町交番前交差点から北に伸びる「北関門道路」は、この耕地整理事業で、昭和7年(1932)8月に開通したものです。
(1968年撮影の北関門道路と、2015年撮影の比較写真)
次に碑陰下側に目を向けます。こちらも書き写してきました。
碑陰下側には、「耕地整理組合」に係わった組合長をはじめ、組合副長・評議員・組合会議員等の名前が列記されています。最下段には故人の名前も並んでいます。
名前の先頭に刻まれているのは、「組合長 高田安平」ですが、他にも組合長として、「故鈴木宗二」、同「故蒔田忠次郎」、そして元組合長として「長谷川調七」など、4名の名前を見ることが出来ます。歴代の組合長なのでしょう。
初代の組合長は「鈴木宗二」です。この人物は第12代の栃木町長として、この耕地整理組合の立ち上げ時期に、町長職に有った為関連自治体の首長として、「組合長」に就任したと考えます。次の組合長は「蒔田忠次郎」で、第13代町長となって、前任者から引き継いだと考えます。次が「元組合長」の第14代町長「長谷川調七」に成ります。そして最後の組合長が「高田安平」ですが、高田安平は栃木町長にはなっていません。第15代栃木町長で、昭和12年4月1日から施行された栃木市制に変わって初代の栃木市長に成った「榊原經武」です。なぜこの時、これまでの様に首長が就任せずに、高田安平氏に成ったのか、疑問が残ります。
組合副長の肩書には、3名の名前が見えます。第8代大宮村長「新村理一郎」と、第9代大宮村長「岸省吾」、そして「故猪瀬周作」です。猪瀬周作氏は栃木町で味噌醤油醸造業の三代目です。
この耕地整理事業が、栃木町と大宮村とにまたがった土地で行われた為、両自治体の首長が「組合長」「組合副長」に就任しているのは当然だったでしょう。
そのほか、組合のメンバーには地元の有力者が名前を連ねています。
耕地整理事業にて整備された地域は、新栃木駅前という立地も加わって、以降宅地化が進む事に成ります。
今回の参考資料:
・栃木県土地改良史 栃木県土地改良事業団体連合会 昭和54年3月31日発行
・栃木人 明治・大正・昭和に活躍した人びとたち 石崎常蔵著 2017年4月1日発行
・栃木人 明治・大正・昭和に活躍した人びとたち続編 石崎常蔵著 2021年4月1日発行
・栃木県の地名 平凡社 1988年8月25日発行
・2万5千分の1地形図「栃木」 大日本帝国陸地測量部 大正6年7月30日発行
・2万5千分の1地形図「栃木」 国土地理院 昭和40年3月30日発行
・復刻版栃木縣營業便覧 吉本書店 昭和53年9月3日発行
・ウィキペディア 「耕地整理」
・栃木県神社誌 栃木県神社庁 昭和39年2月11日発行
・栃木県町村合併誌 第二巻 栃木県 昭和30年4月発行
郷土の偉人、日立製作所の創業者小平浪平翁、今年生誕150年になります [石碑]
前々回、今年最初の石碑めぐりで、栃木市大平町真弓の磯山に祀られた、諏訪神社境内に建つ石碑について書きましたが、その中で磯山山頂部に残る、コンクリート製の給水塔の事について、少し触れました。
(栃木市大平町真弓、磯山山頂に立つ貯水塔とその説明板)
貯水塔の脇に建つ説明板の通り、<この水槽は昭和18年、株式会社日立製作所栃木工場が、この大平の地に操業を開始した際、工場の工業用水供給の為建造されたものです。>
創業を開始したのは、昭和20年(1945)に成ります。
株式会社日立製作所が、この地に工場を建設したのは、ひとりの人物の存在が有りました。
その人物こそ「(株)日立製作所」の創業者で、その当時社長であった「小平浪平」です。
小平浪平翁は、明治7年(1874)1月15日に、栃木県都賀郡合戦場宿(現在、栃木市都賀町合戦場755)の大地主の家に、父惣八、母チヨの次男として生まれました。
明治21年(1888)14歳で上京、東京英語学校(東京大学予備門)に入学。その後、現東京大学工学部を卒業。明治33年(1900)大学卒業後、秋田県の藤田組小坂鉱山に入社。その後発電事業に職場を求めた。そこで発電設備のほとんどが外国製品で占められている現実を痛感している。明治39年(1906)10月、久原からの誘いを受けて、前年久原が開業した茨城県の久原鉱業所(日立鉱山)に入社する。その後、国産技術にこだわり、明治43年(1910)日立製作所を創業、世界的企業となる礎を築き、昭和26年(1951)10月5日に、その一生を終えました。享年77歳でした。
現在、小平浪平翁が幼少期に生活した「生家」が残っています。平成30年(2018)10月に、親族より栃木市に寄贈されています。
昨年暮れに、市が主催する「小平浪平顕彰ツアー」に参加させて頂き、その生家と茨城県日立市に2021年11月にオープンした、「日立オリジンパーク」等を見学をすることが出来ました。
小平浪平翁の生家は、日光例幣使街道沿いで、合戦場郵便局の丁度向かい側に有ります。
栃木の市街地から大通りを北上(栃木県道3号)、東武日光線の跨線橋を渡ると直ぐ、500メートル程で目的地の前に到着します。
街道に面した門の脇に、「小平浪平生誕地」と刻した石碑が建てられています。
この碑の題字を揮毫された人物は、JX金属グループ創業者「久原房之助」、明治38年(1905)日立鉱山を開業し、日本有数の銅山に成長させた人で、前述した様に、浪平との出会いは小坂鉱山で、その後久原が日立鉱山を開業した翌年に浪平も久原に誘われ入社しています。浪平とは、上司と部下の関係に成りますが、年齢的に5歳しか離れていなかったことで、同志のような関係でもあり、支援者だったと言われています。
碑陰には、元副社長の高尾直三郎氏による碑文が刻されています。
この石碑は、碑文にも記されている通り、日立製作所創業50周年を記念して、昭和35年10月5日建てられました。
門を入ると左手に母屋の玄関口が有ります。玄関に入って部屋の中を見ると、室内には多くの屏風や欄間額、そして調度品が展示されています。
その中に、浪平が「母親」を描いたという、直筆画を見ることが出来ました。
母屋の東側には、浪平が14歳で上京するまで、勉学に励んだとする、勉強小屋や、釣瓶井戸、浪平の父・惣八が家業の鉛丹の製造をしていた作業小屋などを、見学出来ました。
作業小屋には、当時製造していた鉛丹のサンプルが展示されていました。
ちなみに「鉛丹」とは、金属の鉛を加熱、空気中の酸素と反応させ「一酸化鉛」とし、更に加熱を加えて製造される。鉛丹は鉛中毒の危険性が高い。用途は赤色塗料や錆止め塗料として使用される。戦艦など船の底に塗り、航行性能を維持する為に使用されている。
見学をした日は、前日に雨が降っていた為、紅く色づいたモミジの葉が、庭に散っていて、華やかに装っていました。
※現在、小平浪平生家の敷地内見学については、「栃木市役所総合政策課」に問い合わせの上、事前予約をする必要があるそうです。
生家の見学後、都賀インターから北関東自動車道を東に、更に常磐自動車道に乗り換え北上、日立市大みか町に移動。「日立オリジンパーク」内に有る、「小平記念館」や「創業小屋」の見学をしました。
見学の前に施設スタッフの方から、「日立オリジンパーク」の概略説明が有りました。
施設の南側にはゴルフ場が広がっています。この「大みかゴルフクラブ」は、小平浪平が社員の娯楽と外国賓客の接待を目的に建設したもので、昭和11年(1936)10月11日、「日立ゴルフ倶楽部」として、茨城県最初のゴルフ場として完成しています。当初は18ホールでしたが、戦争中の食料難で一部が農地化された為、現在は8ホール。隣の大学敷地も元ゴルフコースの有ったところ等、説明が有りました。小平浪平翁の理念「和を以て貴しとなす」が、ここにも現れていることがよくわかります。
小平記念館の展示ホールには、日立の企業理念や創業の精神である和・誠・開拓者精神等が、事例とともに展示紹介されています。
復元された「創業小屋」
建屋の中には「創業小屋」について案内が有りましたので、抜粋させて頂きます。
<1953年、創業者小平浪平より教えを受けた高尾直三郎の発案により日立製作所・海岸工場の高台に整備された創業の聖地、小平台。戦争の犠牲者を悼み、小平の偉業を伝える場として植樹された。その地に、1956年、日立製作所の源泉である、久原鉱業所日立鉱山の工作課修理工場が復元された。高尾ら創業メンバー念願の復元であり、関係者の回想と写真によって半世紀ぶりによみがえったその建物は「創業小屋」と名付けられた。(中略)2021年、創業小屋は大みかの地にうつり、新たな聖地のシンボルとして、創業の精神を未来へとつないでいる。>と。
創業小屋の内部には、1910年初の純国産5馬力誘導電動機が、実際に動く状態で展示されています。パネルの「START」ボタンを押すと、同時に大きな駆動音を発してモーターが回転、ベルトを介して横に据え付けられた「ラジアルボール盤」の主軸が回転する。こうして、今も現役で動くことを見せています。
あらためて、小平浪平翁が偉大で、素晴らしい人であったことを、知ることが出来ました。
今回の参考資料:
・栃木市 小平浪平顕彰ツアー資料 合戦場の知名度を全国区にする会作成
・「小平浪平生誕地」リーフレット 栃木市発行
・「日立オリジンパーク」リーフレット (株)日立製作所 日立オリジンパーク発行
・「技術王国・日立をつくった男ー創業者小平浪平伝」 加藤勝美著 PHP研究所発行
・「都賀町史 歴史編」 都賀町発行
(栃木市大平町真弓、磯山山頂に立つ貯水塔とその説明板)
貯水塔の脇に建つ説明板の通り、<この水槽は昭和18年、株式会社日立製作所栃木工場が、この大平の地に操業を開始した際、工場の工業用水供給の為建造されたものです。>
創業を開始したのは、昭和20年(1945)に成ります。
株式会社日立製作所が、この地に工場を建設したのは、ひとりの人物の存在が有りました。
その人物こそ「(株)日立製作所」の創業者で、その当時社長であった「小平浪平」です。
小平浪平翁は、明治7年(1874)1月15日に、栃木県都賀郡合戦場宿(現在、栃木市都賀町合戦場755)の大地主の家に、父惣八、母チヨの次男として生まれました。
明治21年(1888)14歳で上京、東京英語学校(東京大学予備門)に入学。その後、現東京大学工学部を卒業。明治33年(1900)大学卒業後、秋田県の藤田組小坂鉱山に入社。その後発電事業に職場を求めた。そこで発電設備のほとんどが外国製品で占められている現実を痛感している。明治39年(1906)10月、久原からの誘いを受けて、前年久原が開業した茨城県の久原鉱業所(日立鉱山)に入社する。その後、国産技術にこだわり、明治43年(1910)日立製作所を創業、世界的企業となる礎を築き、昭和26年(1951)10月5日に、その一生を終えました。享年77歳でした。
現在、小平浪平翁が幼少期に生活した「生家」が残っています。平成30年(2018)10月に、親族より栃木市に寄贈されています。
昨年暮れに、市が主催する「小平浪平顕彰ツアー」に参加させて頂き、その生家と茨城県日立市に2021年11月にオープンした、「日立オリジンパーク」等を見学をすることが出来ました。
小平浪平翁の生家は、日光例幣使街道沿いで、合戦場郵便局の丁度向かい側に有ります。
栃木の市街地から大通りを北上(栃木県道3号)、東武日光線の跨線橋を渡ると直ぐ、500メートル程で目的地の前に到着します。
街道に面した門の脇に、「小平浪平生誕地」と刻した石碑が建てられています。
この碑の題字を揮毫された人物は、JX金属グループ創業者「久原房之助」、明治38年(1905)日立鉱山を開業し、日本有数の銅山に成長させた人で、前述した様に、浪平との出会いは小坂鉱山で、その後久原が日立鉱山を開業した翌年に浪平も久原に誘われ入社しています。浪平とは、上司と部下の関係に成りますが、年齢的に5歳しか離れていなかったことで、同志のような関係でもあり、支援者だったと言われています。
碑陰には、元副社長の高尾直三郎氏による碑文が刻されています。
この石碑は、碑文にも記されている通り、日立製作所創業50周年を記念して、昭和35年10月5日建てられました。
門を入ると左手に母屋の玄関口が有ります。玄関に入って部屋の中を見ると、室内には多くの屏風や欄間額、そして調度品が展示されています。
その中に、浪平が「母親」を描いたという、直筆画を見ることが出来ました。
母屋の東側には、浪平が14歳で上京するまで、勉学に励んだとする、勉強小屋や、釣瓶井戸、浪平の父・惣八が家業の鉛丹の製造をしていた作業小屋などを、見学出来ました。
作業小屋には、当時製造していた鉛丹のサンプルが展示されていました。
ちなみに「鉛丹」とは、金属の鉛を加熱、空気中の酸素と反応させ「一酸化鉛」とし、更に加熱を加えて製造される。鉛丹は鉛中毒の危険性が高い。用途は赤色塗料や錆止め塗料として使用される。戦艦など船の底に塗り、航行性能を維持する為に使用されている。
見学をした日は、前日に雨が降っていた為、紅く色づいたモミジの葉が、庭に散っていて、華やかに装っていました。
※現在、小平浪平生家の敷地内見学については、「栃木市役所総合政策課」に問い合わせの上、事前予約をする必要があるそうです。
生家の見学後、都賀インターから北関東自動車道を東に、更に常磐自動車道に乗り換え北上、日立市大みか町に移動。「日立オリジンパーク」内に有る、「小平記念館」や「創業小屋」の見学をしました。
見学の前に施設スタッフの方から、「日立オリジンパーク」の概略説明が有りました。
施設の南側にはゴルフ場が広がっています。この「大みかゴルフクラブ」は、小平浪平が社員の娯楽と外国賓客の接待を目的に建設したもので、昭和11年(1936)10月11日、「日立ゴルフ倶楽部」として、茨城県最初のゴルフ場として完成しています。当初は18ホールでしたが、戦争中の食料難で一部が農地化された為、現在は8ホール。隣の大学敷地も元ゴルフコースの有ったところ等、説明が有りました。小平浪平翁の理念「和を以て貴しとなす」が、ここにも現れていることがよくわかります。
小平記念館の展示ホールには、日立の企業理念や創業の精神である和・誠・開拓者精神等が、事例とともに展示紹介されています。
復元された「創業小屋」
建屋の中には「創業小屋」について案内が有りましたので、抜粋させて頂きます。
<1953年、創業者小平浪平より教えを受けた高尾直三郎の発案により日立製作所・海岸工場の高台に整備された創業の聖地、小平台。戦争の犠牲者を悼み、小平の偉業を伝える場として植樹された。その地に、1956年、日立製作所の源泉である、久原鉱業所日立鉱山の工作課修理工場が復元された。高尾ら創業メンバー念願の復元であり、関係者の回想と写真によって半世紀ぶりによみがえったその建物は「創業小屋」と名付けられた。(中略)2021年、創業小屋は大みかの地にうつり、新たな聖地のシンボルとして、創業の精神を未来へとつないでいる。>と。
創業小屋の内部には、1910年初の純国産5馬力誘導電動機が、実際に動く状態で展示されています。パネルの「START」ボタンを押すと、同時に大きな駆動音を発してモーターが回転、ベルトを介して横に据え付けられた「ラジアルボール盤」の主軸が回転する。こうして、今も現役で動くことを見せています。
あらためて、小平浪平翁が偉大で、素晴らしい人であったことを、知ることが出来ました。
今回の参考資料:
・栃木市 小平浪平顕彰ツアー資料 合戦場の知名度を全国区にする会作成
・「小平浪平生誕地」リーフレット 栃木市発行
・「日立オリジンパーク」リーフレット (株)日立製作所 日立オリジンパーク発行
・「技術王国・日立をつくった男ー創業者小平浪平伝」 加藤勝美著 PHP研究所発行
・「都賀町史 歴史編」 都賀町発行
大平町真弓、諏訪神社境内に建つ石碑を巡る。 [石碑]
令和六年、最初の石碑巡りは、栃木市大平町真弓の、磯山に鎮座する諏訪神社の、境内に建てられている、五基の石碑を見て廻りたいと思います。
(大平町真弓磯山の南側中腹に鎮座する諏訪神社の社殿)
(拝殿の大棟に施されている、龍の装飾が珍しいです。)
「栃木県神社誌」(昭和39年2月11日 栃木県神社庁発行)によると、
<諏訪神社 旧郷社 下都賀郡大平町(現在、栃木市大平町)真弓1,531番地
主祭神:建御名方命(タケミナカタノミコト)、境内神社:竜神社・猿田彦神社・白山神社・朏神社
由緒沿革:藤原秀郷が、平将門を征討の時、信濃国一の宮諏訪神社に祈願し、神助により勝利を得たという。それで、この神を勧請したといわれている。これが承平二巳年二月である。明治五年郷社となり、同十年村社となり、また同二十八年十二月二十四日郷社となった。>と、掲載されています。
※この諏訪神社については、2016年2月7日付けにて、公開をしておりますので、そちらもお訪ね下さい。
さて、最初に紹介する石碑は、背の高い杉木立が並ぶ、参道の中程、社殿方向を向いて右手の木立の中に、目に触れることなく建っている石碑です。
(諏訪神社参道、杉木立の並木の奥に社殿を望む)
(参道脇、木立の中に埋もれる様に建つ、最初の石碑)
碑陰には、「御大典記念 下都賀郡農會建之 後援瑞穂村」と中央に大きく刻まれています。
まず、近くによって石碑の上部の篆額を確認します。
「頌徳碑」と刻されています。揮毫された人物は、「関屋貞三郎」大正十年から昭和八年まで、第11代宮内次官を務めた、足利郡御厨町(現在足利市)出身の官僚・政治家です。
「頌徳碑」とは、功徳を褒めたたえる碑と言う事で、それではどんな人物か、碑文を確認していきたいと思います。
(頌徳碑の碑文を書き写しました。幸い私の苦手な漢文体で無く、読み移すことが出来ました。)
その人物とは、「山田健次郎」と言い、碑文によると
<山田君は東京小石川の人にして、栃木県下都賀郡瑞穂村の名家、川連氏の出、維新回天の志士、川連義路君を祖父とす、先考甲子次郎君は義路君の次男、出て山田家を嗣ぎ、拮据経営東都財界の先覚者として重きをなし・・・・(後略)>と刻されています。そして、
<我国農業の不振、農民の疲弊を憂い、大正十三年親考に謀りて其の旧郷瑞穂村農會に金三千円を贈り、同農會の事業を援助し、大正十四年其の家統を襲ぐや遺志に因り下都賀郡農會に対し、農村振興基金として金三万円を寄付せらる・・・(後略)>と続きます。
こうして寄せられた基財を以て、下都賀農會は諸般の事業を施設、多大の成果を上げることが出来たとして「山田健次郎」頌徳碑建設を議決して、御大典記念事業の一環として、この石碑が建てられたようです。
次の石碑へ向かいます。参道を進み石段を上がり、社殿に参拝してから、拝殿に向かって左手方向に進むと、道はふたてに別れ、それぞれに石の鳥居が建てられています。左手の鳥居に掲げられている「神額」に「愛宕神社」と有り、右手の鳥居には神額は掲げられていません。それぞれの鳥居の先には、小さな石の祠が祀られています。
次の石碑は右手の鳥居を潜った先、石の祠の左手手前に建っています。ちなみに脇の石の祠には「八幡宮」の幣帛が祀られていました。石碑を確認します。
鬱蒼とした杉木立の中、光が届かない為薄暗い中に石碑は建っています。篆額を確認します。
篆字体を読み解くと「戦捷築造記念之碑」と浮彫されています。揮毫されたのは、下野国宇都宮藩最後の藩主「戸田忠友」です。
碑文を見ます。
碑文は「前皇大神宮禰宜 岡吉胤」の撰。碑文を書いたのは、「郷社諏訪神社社司 大和田茂教」。
個の石碑は明治38年10月、郷社諏訪神社により建立されています。
碑文は苦手な漢文体で、読み下せませんが、意味としては「明治37年2月、我が国はロシアに対して宣戦を布告、陸海軍の連戦連勝により、旅順や遼陽を占領、勝利を収めた。参加した兵士には氏子や信徒もいたが、郷社諏訪神社に戦勝を祈願、その霊験が有った。氏子らお金を拠出して神社へのお礼として、「標示石一基、石垣三段、石坂一所を築造」し、陸海軍人の武運栄盛を祈願した、その記念としてこの石碑を建立したと読める。碑陰には醵金された人たちの金額と芳名及び発起者の名前がビッシリと並んでいます。明治38年10月の日付が確認できます。アメリカのポーツマスにて日露講和条約が調印された翌月です。
次の石碑は更にそこから坂を上り、磯山の山頂に向かいます。山頂は岩肌が露出しています。そこに二基の石碑が建っています。
(写真左側に背の高い石碑、右側に少し小ぶりな石碑が見えます。右後方の円筒の建造物は、水槽で、昭和18年(株)日立製作所栃木工場が、この地に操業を開始した際、工場の工業用水供給の為建造され、昭和40年まで重要な役割を果たしたものです。)
まず、小さい石碑から見ていきます。
篆額部分を拡大します。
篆書体の文字にて「鳥居建設記念の碑」と刻されています。揮毫者は上記石碑と同一人物で、戸田忠友です。この時の官位は「正三位」で上記石碑の「従三位」から昇叙されていることが分かります。ちなみに戸田忠友は最終的に「従二位・勲三等瑞宝章」に昇叙されました。
碑文を確認します。
碑文を撰した人物は、栃木県師範学校長の「安達常正」漢学者で号を「外山人」。碑文を書いたのは前の「戦捷築造記念の碑」と同じく、諏訪神社社司の「大和田茂教」です。
碑文内容は、同じく漢文体で読み下すことは出来ません。ただただ理解できる地名や人物名から、推し量るに前半は郷社須賀神社の由緒が記されていることが分かるのみです。
碑陰の上部に「大正七年十月」の日付。その下方に寄付者芳名一覧、そして最下段に発起者名が並んでいます。
次に大きい方の石碑を確認します。
この石碑、今回巡った5基の石碑の中で最も日当りの良い場所に建てられています。石碑左下方に割れが認められ、碑文を書かれた人物の苗字が判読出来なくなっていました。
篆額の確認です。
篆書体で「昇格記念碑」と刻されています。揮毫をした人物は、「天穂日命(アメノホヒノミコト)の八十代の孫、出雲國造、正三位勲一等男爵、千家尊福」です。
碑陰に刻まれた文字は、苔類が繁殖して、読み取るのが大変です。読み取れた文字は、
「真弓氏子一同建之」「大正十二年十月九日」でした。
碑文を見ていきます。
これもまた漢文体です。それだけでも頭を抱えるのに、この碑文に使われている漢字自体が、見たこともない字で溢れています。旧字や異体字、更に私のパソコンでは出てこない字も有り、全文を読み下すことは、私には到底無理、ただ分かる漢字からひも解くと、碑文のおおよその内容は思い浮かんできます。
内容的には、この「郷社諏訪神社」の由緒が記されています。
篆額に刻まれた「昇格記念」とは、神社の沿革にも有ったように、ここ須賀神社は、明治5年に郷社であったが、明治10年に村社に降格、その後明治28年12月24日郷社に昇格していることから、この昇格を記念する形で、建碑されたものと思われます。
ただ、疑問に思うのは、なぜ昇格してから28年も経っての、記念碑建立となったのかです。疑問は残ります。
それでは最後、5基目の石碑を巡ります。
5番目の石碑の場所は、一度拝殿前まで戻り、今度は拝殿に向かって右手方向に進み、社殿を回り込むように、社殿の北東側の木立の中に、その石碑は建てられています。
(木立の中の石碑の前まで、石畳が敷かれています。)
何時ものように、まず「篆額」の文字を確認します。
やはり篆書体で刻まれています。が、その最初の文字が何と書かれているのか、いろいろ調べてみましたが、これという字が見つかりませんでした。「?忠碑」、形から「余」の様に見えますが、「余忠」という熟語も見つからない。
この篆額の文字を揮毫した人物は、当時の陸軍大将「鮫島重雄」です。
篆額の意味はこれ以上分からないので、碑文を見ていきたいと思います。
碑文の冒頭に名前が出てきます、「川連義路」です。最初の石碑に出てきた名前です。最初の頌徳碑の人物「山田健次郎」の祖父に当たる人物です。
やはり漢文体ですが、分かるところを読んでみたいと思います。
<川連義路君、通称は虎一郎、父は義種、母は富田氏、天保13年7月、下野国都賀郡真弓村で、代々関宿領の庄屋の家に生まれました。>
<文久の初め、江戸に出て、儒学を大橋正順より究する。>
<藤田信らが、太平山に立てこもった時、お金や食料を贈り応援をし、自ら江戸に出て必要な武器を買い付け、帰って来た時、すでに藤田信らは立ち去って、筑波山に行っていた。君は同志に合流しようとしたが、事が露呈して阻まれ、江戸に逃げたが、幕使に捕らえられ、洲崎において首を刎ねられ、屍は海中に投棄されてしまった。>
<元治元年八月三日、享年僅か23歳であった。>
<関宿藩主、それを伝え聞き、大変心を痛め、長男の義直に家を継がせ、次男の義次に扶持米2人扶持を付けた。>ここの理解は誤訳が有るかも。
<明治22年11月、朝廷はその忠勤に対し靖国神社に合祀された。>
<大正4年11月、今上天皇の即位の儀式において、従五位を贈られた。>
<里人、こうした彼の行いを徳とし、郷里の誉をいつまでも伝えようと、産土神の祠の傍らに、建碑することを欲した。>
このような内容と読み解いたが、他にも上手く読み解けない部分も多い。
碑陰には、「大正十一年十月九日 大字真弓一同建之」と刻まれております。
今、磯山の山頂に立つと、北西に太平の山並みを、更にその北奥に男体山や日光連山の山々を望み、眼下には改良復旧工事を進める、永野川を見ることが出来ます。
今年1年、また石碑の漢文体に、無い頭を悩ませそうです。今回も辞書と首っ引きで、碑文に向かいました。
今回参考にした資料:
・栃木県神社誌 (昭和39年2月11日 栃木県神社庁発行)
・栃木県市町村誌 (昭和30年8月20日 栃木県町村会発行)
(大平町真弓磯山の南側中腹に鎮座する諏訪神社の社殿)
(拝殿の大棟に施されている、龍の装飾が珍しいです。)
「栃木県神社誌」(昭和39年2月11日 栃木県神社庁発行)によると、
<諏訪神社 旧郷社 下都賀郡大平町(現在、栃木市大平町)真弓1,531番地
主祭神:建御名方命(タケミナカタノミコト)、境内神社:竜神社・猿田彦神社・白山神社・朏神社
由緒沿革:藤原秀郷が、平将門を征討の時、信濃国一の宮諏訪神社に祈願し、神助により勝利を得たという。それで、この神を勧請したといわれている。これが承平二巳年二月である。明治五年郷社となり、同十年村社となり、また同二十八年十二月二十四日郷社となった。>と、掲載されています。
※この諏訪神社については、2016年2月7日付けにて、公開をしておりますので、そちらもお訪ね下さい。
さて、最初に紹介する石碑は、背の高い杉木立が並ぶ、参道の中程、社殿方向を向いて右手の木立の中に、目に触れることなく建っている石碑です。
(諏訪神社参道、杉木立の並木の奥に社殿を望む)
(参道脇、木立の中に埋もれる様に建つ、最初の石碑)
碑陰には、「御大典記念 下都賀郡農會建之 後援瑞穂村」と中央に大きく刻まれています。
まず、近くによって石碑の上部の篆額を確認します。
「頌徳碑」と刻されています。揮毫された人物は、「関屋貞三郎」大正十年から昭和八年まで、第11代宮内次官を務めた、足利郡御厨町(現在足利市)出身の官僚・政治家です。
「頌徳碑」とは、功徳を褒めたたえる碑と言う事で、それではどんな人物か、碑文を確認していきたいと思います。
(頌徳碑の碑文を書き写しました。幸い私の苦手な漢文体で無く、読み移すことが出来ました。)
その人物とは、「山田健次郎」と言い、碑文によると
<山田君は東京小石川の人にして、栃木県下都賀郡瑞穂村の名家、川連氏の出、維新回天の志士、川連義路君を祖父とす、先考甲子次郎君は義路君の次男、出て山田家を嗣ぎ、拮据経営東都財界の先覚者として重きをなし・・・・(後略)>と刻されています。そして、
<我国農業の不振、農民の疲弊を憂い、大正十三年親考に謀りて其の旧郷瑞穂村農會に金三千円を贈り、同農會の事業を援助し、大正十四年其の家統を襲ぐや遺志に因り下都賀郡農會に対し、農村振興基金として金三万円を寄付せらる・・・(後略)>と続きます。
こうして寄せられた基財を以て、下都賀農會は諸般の事業を施設、多大の成果を上げることが出来たとして「山田健次郎」頌徳碑建設を議決して、御大典記念事業の一環として、この石碑が建てられたようです。
次の石碑へ向かいます。参道を進み石段を上がり、社殿に参拝してから、拝殿に向かって左手方向に進むと、道はふたてに別れ、それぞれに石の鳥居が建てられています。左手の鳥居に掲げられている「神額」に「愛宕神社」と有り、右手の鳥居には神額は掲げられていません。それぞれの鳥居の先には、小さな石の祠が祀られています。
次の石碑は右手の鳥居を潜った先、石の祠の左手手前に建っています。ちなみに脇の石の祠には「八幡宮」の幣帛が祀られていました。石碑を確認します。
鬱蒼とした杉木立の中、光が届かない為薄暗い中に石碑は建っています。篆額を確認します。
篆字体を読み解くと「戦捷築造記念之碑」と浮彫されています。揮毫されたのは、下野国宇都宮藩最後の藩主「戸田忠友」です。
碑文を見ます。
碑文は「前皇大神宮禰宜 岡吉胤」の撰。碑文を書いたのは、「郷社諏訪神社社司 大和田茂教」。
個の石碑は明治38年10月、郷社諏訪神社により建立されています。
碑文は苦手な漢文体で、読み下せませんが、意味としては「明治37年2月、我が国はロシアに対して宣戦を布告、陸海軍の連戦連勝により、旅順や遼陽を占領、勝利を収めた。参加した兵士には氏子や信徒もいたが、郷社諏訪神社に戦勝を祈願、その霊験が有った。氏子らお金を拠出して神社へのお礼として、「標示石一基、石垣三段、石坂一所を築造」し、陸海軍人の武運栄盛を祈願した、その記念としてこの石碑を建立したと読める。碑陰には醵金された人たちの金額と芳名及び発起者の名前がビッシリと並んでいます。明治38年10月の日付が確認できます。アメリカのポーツマスにて日露講和条約が調印された翌月です。
次の石碑は更にそこから坂を上り、磯山の山頂に向かいます。山頂は岩肌が露出しています。そこに二基の石碑が建っています。
(写真左側に背の高い石碑、右側に少し小ぶりな石碑が見えます。右後方の円筒の建造物は、水槽で、昭和18年(株)日立製作所栃木工場が、この地に操業を開始した際、工場の工業用水供給の為建造され、昭和40年まで重要な役割を果たしたものです。)
まず、小さい石碑から見ていきます。
篆額部分を拡大します。
篆書体の文字にて「鳥居建設記念の碑」と刻されています。揮毫者は上記石碑と同一人物で、戸田忠友です。この時の官位は「正三位」で上記石碑の「従三位」から昇叙されていることが分かります。ちなみに戸田忠友は最終的に「従二位・勲三等瑞宝章」に昇叙されました。
碑文を確認します。
碑文を撰した人物は、栃木県師範学校長の「安達常正」漢学者で号を「外山人」。碑文を書いたのは前の「戦捷築造記念の碑」と同じく、諏訪神社社司の「大和田茂教」です。
碑文内容は、同じく漢文体で読み下すことは出来ません。ただただ理解できる地名や人物名から、推し量るに前半は郷社須賀神社の由緒が記されていることが分かるのみです。
碑陰の上部に「大正七年十月」の日付。その下方に寄付者芳名一覧、そして最下段に発起者名が並んでいます。
次に大きい方の石碑を確認します。
この石碑、今回巡った5基の石碑の中で最も日当りの良い場所に建てられています。石碑左下方に割れが認められ、碑文を書かれた人物の苗字が判読出来なくなっていました。
篆額の確認です。
篆書体で「昇格記念碑」と刻されています。揮毫をした人物は、「天穂日命(アメノホヒノミコト)の八十代の孫、出雲國造、正三位勲一等男爵、千家尊福」です。
碑陰に刻まれた文字は、苔類が繁殖して、読み取るのが大変です。読み取れた文字は、
「真弓氏子一同建之」「大正十二年十月九日」でした。
碑文を見ていきます。
これもまた漢文体です。それだけでも頭を抱えるのに、この碑文に使われている漢字自体が、見たこともない字で溢れています。旧字や異体字、更に私のパソコンでは出てこない字も有り、全文を読み下すことは、私には到底無理、ただ分かる漢字からひも解くと、碑文のおおよその内容は思い浮かんできます。
内容的には、この「郷社諏訪神社」の由緒が記されています。
篆額に刻まれた「昇格記念」とは、神社の沿革にも有ったように、ここ須賀神社は、明治5年に郷社であったが、明治10年に村社に降格、その後明治28年12月24日郷社に昇格していることから、この昇格を記念する形で、建碑されたものと思われます。
ただ、疑問に思うのは、なぜ昇格してから28年も経っての、記念碑建立となったのかです。疑問は残ります。
それでは最後、5基目の石碑を巡ります。
5番目の石碑の場所は、一度拝殿前まで戻り、今度は拝殿に向かって右手方向に進み、社殿を回り込むように、社殿の北東側の木立の中に、その石碑は建てられています。
(木立の中の石碑の前まで、石畳が敷かれています。)
何時ものように、まず「篆額」の文字を確認します。
やはり篆書体で刻まれています。が、その最初の文字が何と書かれているのか、いろいろ調べてみましたが、これという字が見つかりませんでした。「?忠碑」、形から「余」の様に見えますが、「余忠」という熟語も見つからない。
この篆額の文字を揮毫した人物は、当時の陸軍大将「鮫島重雄」です。
篆額の意味はこれ以上分からないので、碑文を見ていきたいと思います。
碑文の冒頭に名前が出てきます、「川連義路」です。最初の石碑に出てきた名前です。最初の頌徳碑の人物「山田健次郎」の祖父に当たる人物です。
やはり漢文体ですが、分かるところを読んでみたいと思います。
<川連義路君、通称は虎一郎、父は義種、母は富田氏、天保13年7月、下野国都賀郡真弓村で、代々関宿領の庄屋の家に生まれました。>
<文久の初め、江戸に出て、儒学を大橋正順より究する。>
<藤田信らが、太平山に立てこもった時、お金や食料を贈り応援をし、自ら江戸に出て必要な武器を買い付け、帰って来た時、すでに藤田信らは立ち去って、筑波山に行っていた。君は同志に合流しようとしたが、事が露呈して阻まれ、江戸に逃げたが、幕使に捕らえられ、洲崎において首を刎ねられ、屍は海中に投棄されてしまった。>
<元治元年八月三日、享年僅か23歳であった。>
<関宿藩主、それを伝え聞き、大変心を痛め、長男の義直に家を継がせ、次男の義次に扶持米2人扶持を付けた。>ここの理解は誤訳が有るかも。
<明治22年11月、朝廷はその忠勤に対し靖国神社に合祀された。>
<大正4年11月、今上天皇の即位の儀式において、従五位を贈られた。>
<里人、こうした彼の行いを徳とし、郷里の誉をいつまでも伝えようと、産土神の祠の傍らに、建碑することを欲した。>
このような内容と読み解いたが、他にも上手く読み解けない部分も多い。
碑陰には、「大正十一年十月九日 大字真弓一同建之」と刻まれております。
今、磯山の山頂に立つと、北西に太平の山並みを、更にその北奥に男体山や日光連山の山々を望み、眼下には改良復旧工事を進める、永野川を見ることが出来ます。
今年1年、また石碑の漢文体に、無い頭を悩ませそうです。今回も辞書と首っ引きで、碑文に向かいました。
今回参考にした資料:
・栃木県神社誌 (昭和39年2月11日 栃木県神社庁発行)
・栃木県市町村誌 (昭和30年8月20日 栃木県町村会発行)
藤岡神社と森鴎村 [石碑]
栃木市藤岡町に鎮座する「藤岡神社」は、群馬県との県境、旧渡良瀬川の左岸に位置しています。
藤岡町の中心市街地をほぼ南北に縦断する、県道9号(佐野古河線)は、市街地の南の端にて、直角に東に折れています。その南の端から手前に25メートルほど戻ったところに、信号機の有る小さな交差点が有ります。
左(東方向)に折れると、北側角にお地蔵さんが立っていて、その先道路の両側に石柱が建っています。曹洞宗繁桂寺の西の入口に当たります。この道を真っ直ぐ進むと、寺の山門前に至ります。
一方、交差点を右(西方向)に折れて行くと、東武日光線の踏切を渡ります。その先で道路は三差路に。その真ん中の道に、大きな石の鳥居が建っています。神額は掲げられていませんが、手前右脇に「藤岡神社」と刻した大きな石標が建てられています。
「藤岡神社」の一の鳥居を潜って、真っ直ぐ西に進むと、500メートル程で「藤岡神社」の前に至ります。
神社の境内入口脇に、立派な欅の大木が聳える様に、空に向かって枝を広げています。平成元年(1989)に、栃木県名木百選にされた、樹齢約400年と推定される欅です。
「藤岡神社」の境内を見てみると、豊かな鎭守の森の中に、良く整備された社殿が並んでいます。右手に神楽殿。左手に手水舎、本殿の裏手には常宝殿。
神社の境内には、26基もの石碑が建てられていますが、社殿の修改築記念や伊勢参宮記念、聖徳太子碑や金毘羅大権現碑など、神社関係の石碑がほとんどです。
藤岡神社境内に建つ石碑の分布状態を概略図にしてみました。
境内には他に、鳥居や石灯篭、狛犬など多くの石造物も多く建てられています。
句碑も3基建てられていますが、内1基は松尾芭蕉の句碑「市人に いで是うらん 雪の笠」になります。
※句碑2が、松尾芭蕉の句碑になります。
神社関係の石碑の中に、藤岡神社の由緒を記した碑が、社殿に向かって右手、社殿の脇を入って行った、奥の木々の中に建てられています。背の高い石碑で、石碑上部の篆額に「藤岡神社碑」と陽刻されています。
この篆額の文字は、正二位勲一等伯爵松方正義が揮毫しています。
碑文を見てみます、私の苦手な漢文体で、見たことの無いような旧字体の漢字が、並んでいます。
幸い、人名や地名、年号数字など、読解可能な部分を繋げて、おおよその内容を感じ取れたような気がします。
・藤岡神社は旧称「六所大明神」。伊弉諾尊・伊弉冉尊・天照皇大神・月讀尊・天兒屋根命・天宇豆女命の六神をお祀りし、藤岡の里の鎭守とした。
・天正五年(1577)四月、藤岡城主佐渡守清房の時、佐野の宗綱に攻められ、社殿はその兵火により焼失した。
・天正十八年(1590)、社殿を再建した。
・元禄七年(1694)、社殿を建て替えた。
・正徳二年(1712)、京都の神祇伯より正一位の神号を授かる。
・文政四年(1821)、「紫岡神社」に改名する。
・明治八年(1875)、「藤岡神社」に改名する。
他にもいろいろ記されているものの、読み切れませんでした。
この碑文は、明治35年8月 勅使議員で正四位勲三等文学博士の、重野安繹撰、書いた人物は吉田晩稼という長崎出身の書家、「靖國神社」の大石標の文字も晩稼の揮毫した人物です。
次に、本殿に向かって左手方向手前、手水舎の裏手に、「鷗村先生碑」と篆額に陽刻された石碑が建てられています。地元藤岡町出身「森 鴎村」の顕彰碑です。顕彰碑はこの「鷗村先生碑」の1基だけになります。
篆額の文字は、同じく地元出身の実業家「岩崎清七」が揮毫しています。
碑文を見てみます。これも漢字がずらっと並んでいます。その漢字の中には私が70年間生きてきた中で、一度もお目にかかったことの無いような漢字が、いくつも出てきて、とても読めるものではありません。例えば「糶糴」、(これは「ちょうてき」と呼んで、「米の売買」の事。碑文中では、森鴎村の曽祖惣吉の職業として記されています。)とか、「諤諤」「惴惴」「嘐嘐」など。さらには、「漢字源」で引いても出てこない漢字も。とりあえず碑文を書き写してみました。わからない漢字は■にしました。
碑文だけでも漢字が999字、句読点も改行も無く並んでいます。
この碑文は、幕末期の仙台藩士、明治時代の漢学者「岡 千仭」の撰文です。
「森 鴎村」については、藤岡町史通史編後編、第六章近代藤岡の黎明 二明治初期の教育と文化、に記されていましたので、抜粋して参照させていただきます。
<森鴎村は天保12年(1831)に藤岡の名主の家に生まれた。幼名を定助、後に定吉、諱を保定といい、鴎村と号した。父邦治の後を継いで名主となったが領主の専横によって免職となり、その際帳簿の引継ぎをめぐって領主の不興を買って獄につながれた。
幼少から漢学に親しんでいた鴎村は江戸に出て藤森天山・安積艮齋・萩原西疇など一流の学者について学び、諸国を廻った後帰郷して農業のかたわら塾を開いた。この塾は、明治15年には漢学科の私立学校鴎村学舎となった。鴎村は明治40年1月77歳で亡くなるまで、多くの近郷の子弟を教育し、その中には、岩崎清七(藤岡町・実業家)や、足尾鉱毒反対運動の指導者碓井要作(下都賀郡生井村・県議)、松本英一(群馬県邑楽郡海老瀬村・村長)などもいる。・・・(後略)>
この「鷗村先生碑」の碑陰には、篆額の文字を揮毫し、この石碑の建立に尽力し、鷗村学舎の門人でもあった岩崎清七が、建碑に至るまでの経緯を記しています。
幸い碑陰の文章は漢文体ではなく、旧仮名遣いや変体仮名が使われていますが、「わかち書き」の文章体で書かれているので、変体仮名にはてこずりましたが、私にも何とか読み解くことが出来ました。
<森鴎村先生の石碑の建設計画は明治22年8月、岩崎が米国留学から帰国したときに遡る。
当時建碑の資金調達にあたって、誰にも迷惑に成らない方法として、先生に書幅の揮毫をして頂き、門人その他有志者に分配して、三百五六拾円の基金を得、岩崎が保管利殖していたが、明治39年4月、鷗村先生の自宅が隣家の失火により類焼してしまった。そこで住宅建築費として、その基金を全て提供することとした。そのような事情で顕彰碑の建立は一時頓挫する形で、月日が流れた。森鴎村が亡くなった後岩崎清七は、森鴎村が心血を注がれた詩文の散逸を防がんと、鷗村遺稿と其続編とを出版して、各方面に寄附して、当代文学者界に、森鴎村先生の存在を認識させました。残るは先生の顕彰碑を建立する、その一事を残すだけとなり、昭和12年6月20日念願の石碑の建立を果たした。と記しています。>
森鴎村は、よく顕彰碑等の碑文の撰者として、乞われていた様で、栃木市周辺にて森鴎村撰文の石碑を見ることが出来ます。私がこれまで収集した森鴎村撰文の石碑を紹介します。
まず、同じ藤岡神社の境内に建つ「伊勢参宮奏神楽記」です。これは明治17年(1883)建立です。篆額の文字は、正三位勲三等侯爵西園寺公望の揮毫です。そして同じく藤岡町城山の旧渡良瀬川の葭立堰堤近くに建てられている、「葭立修隄碑」です。明治26年(1893)9月の建立になります。篆額は栃木縣知事從四位勲三等折田平内が揮毫しています。
藤岡町大前の大前神社境内にも2基の鷗村撰文の石碑が有りました。
「山士家翁碑」は、明治32年(1899)12月建立で、篆額は内務大臣元帥海軍大将正二位勲一等功二級侯爵西郷從道が揮毫しています。そしてもう1基は、「式内國幣大前神社拝殿改作記」で、明治12年(1879)9月に建てられています。
太平山公園内謙信平の南麓を一段下がった道の脇に、「添野五耕翁碑」の碑文の森鴎村の撰文です。明治27年(1894)8月の建立で、篆額は従二位勲一等宮中顧問官子爵品川彌二郎の揮毫。
最後は佐野市葛生町山菅の、「影山新吉招魂之碑」です。明治15年(1882)3月12日建立。篆額は渡邉 醇の揮毫になります。
他にもまだ有りますが、まだ収集できていません。これからもまだ探して行きます。
今回参考にした資料は:
・藤岡町史通史編後編 藤岡町発行
・ふじおか見てある記 藤岡町教育委員会発行
藤岡町の中心市街地をほぼ南北に縦断する、県道9号(佐野古河線)は、市街地の南の端にて、直角に東に折れています。その南の端から手前に25メートルほど戻ったところに、信号機の有る小さな交差点が有ります。
左(東方向)に折れると、北側角にお地蔵さんが立っていて、その先道路の両側に石柱が建っています。曹洞宗繁桂寺の西の入口に当たります。この道を真っ直ぐ進むと、寺の山門前に至ります。
一方、交差点を右(西方向)に折れて行くと、東武日光線の踏切を渡ります。その先で道路は三差路に。その真ん中の道に、大きな石の鳥居が建っています。神額は掲げられていませんが、手前右脇に「藤岡神社」と刻した大きな石標が建てられています。
「藤岡神社」の一の鳥居を潜って、真っ直ぐ西に進むと、500メートル程で「藤岡神社」の前に至ります。
神社の境内入口脇に、立派な欅の大木が聳える様に、空に向かって枝を広げています。平成元年(1989)に、栃木県名木百選にされた、樹齢約400年と推定される欅です。
「藤岡神社」の境内を見てみると、豊かな鎭守の森の中に、良く整備された社殿が並んでいます。右手に神楽殿。左手に手水舎、本殿の裏手には常宝殿。
神社の境内には、26基もの石碑が建てられていますが、社殿の修改築記念や伊勢参宮記念、聖徳太子碑や金毘羅大権現碑など、神社関係の石碑がほとんどです。
藤岡神社境内に建つ石碑の分布状態を概略図にしてみました。
境内には他に、鳥居や石灯篭、狛犬など多くの石造物も多く建てられています。
句碑も3基建てられていますが、内1基は松尾芭蕉の句碑「市人に いで是うらん 雪の笠」になります。
※句碑2が、松尾芭蕉の句碑になります。
神社関係の石碑の中に、藤岡神社の由緒を記した碑が、社殿に向かって右手、社殿の脇を入って行った、奥の木々の中に建てられています。背の高い石碑で、石碑上部の篆額に「藤岡神社碑」と陽刻されています。
この篆額の文字は、正二位勲一等伯爵松方正義が揮毫しています。
碑文を見てみます、私の苦手な漢文体で、見たことの無いような旧字体の漢字が、並んでいます。
幸い、人名や地名、年号数字など、読解可能な部分を繋げて、おおよその内容を感じ取れたような気がします。
・藤岡神社は旧称「六所大明神」。伊弉諾尊・伊弉冉尊・天照皇大神・月讀尊・天兒屋根命・天宇豆女命の六神をお祀りし、藤岡の里の鎭守とした。
・天正五年(1577)四月、藤岡城主佐渡守清房の時、佐野の宗綱に攻められ、社殿はその兵火により焼失した。
・天正十八年(1590)、社殿を再建した。
・元禄七年(1694)、社殿を建て替えた。
・正徳二年(1712)、京都の神祇伯より正一位の神号を授かる。
・文政四年(1821)、「紫岡神社」に改名する。
・明治八年(1875)、「藤岡神社」に改名する。
他にもいろいろ記されているものの、読み切れませんでした。
この碑文は、明治35年8月 勅使議員で正四位勲三等文学博士の、重野安繹撰、書いた人物は吉田晩稼という長崎出身の書家、「靖國神社」の大石標の文字も晩稼の揮毫した人物です。
次に、本殿に向かって左手方向手前、手水舎の裏手に、「鷗村先生碑」と篆額に陽刻された石碑が建てられています。地元藤岡町出身「森 鴎村」の顕彰碑です。顕彰碑はこの「鷗村先生碑」の1基だけになります。
篆額の文字は、同じく地元出身の実業家「岩崎清七」が揮毫しています。
碑文を見てみます。これも漢字がずらっと並んでいます。その漢字の中には私が70年間生きてきた中で、一度もお目にかかったことの無いような漢字が、いくつも出てきて、とても読めるものではありません。例えば「糶糴」、(これは「ちょうてき」と呼んで、「米の売買」の事。碑文中では、森鴎村の曽祖惣吉の職業として記されています。)とか、「諤諤」「惴惴」「嘐嘐」など。さらには、「漢字源」で引いても出てこない漢字も。とりあえず碑文を書き写してみました。わからない漢字は■にしました。
碑文だけでも漢字が999字、句読点も改行も無く並んでいます。
この碑文は、幕末期の仙台藩士、明治時代の漢学者「岡 千仭」の撰文です。
「森 鴎村」については、藤岡町史通史編後編、第六章近代藤岡の黎明 二明治初期の教育と文化、に記されていましたので、抜粋して参照させていただきます。
<森鴎村は天保12年(1831)に藤岡の名主の家に生まれた。幼名を定助、後に定吉、諱を保定といい、鴎村と号した。父邦治の後を継いで名主となったが領主の専横によって免職となり、その際帳簿の引継ぎをめぐって領主の不興を買って獄につながれた。
幼少から漢学に親しんでいた鴎村は江戸に出て藤森天山・安積艮齋・萩原西疇など一流の学者について学び、諸国を廻った後帰郷して農業のかたわら塾を開いた。この塾は、明治15年には漢学科の私立学校鴎村学舎となった。鴎村は明治40年1月77歳で亡くなるまで、多くの近郷の子弟を教育し、その中には、岩崎清七(藤岡町・実業家)や、足尾鉱毒反対運動の指導者碓井要作(下都賀郡生井村・県議)、松本英一(群馬県邑楽郡海老瀬村・村長)などもいる。・・・(後略)>
この「鷗村先生碑」の碑陰には、篆額の文字を揮毫し、この石碑の建立に尽力し、鷗村学舎の門人でもあった岩崎清七が、建碑に至るまでの経緯を記しています。
幸い碑陰の文章は漢文体ではなく、旧仮名遣いや変体仮名が使われていますが、「わかち書き」の文章体で書かれているので、変体仮名にはてこずりましたが、私にも何とか読み解くことが出来ました。
<森鴎村先生の石碑の建設計画は明治22年8月、岩崎が米国留学から帰国したときに遡る。
当時建碑の資金調達にあたって、誰にも迷惑に成らない方法として、先生に書幅の揮毫をして頂き、門人その他有志者に分配して、三百五六拾円の基金を得、岩崎が保管利殖していたが、明治39年4月、鷗村先生の自宅が隣家の失火により類焼してしまった。そこで住宅建築費として、その基金を全て提供することとした。そのような事情で顕彰碑の建立は一時頓挫する形で、月日が流れた。森鴎村が亡くなった後岩崎清七は、森鴎村が心血を注がれた詩文の散逸を防がんと、鷗村遺稿と其続編とを出版して、各方面に寄附して、当代文学者界に、森鴎村先生の存在を認識させました。残るは先生の顕彰碑を建立する、その一事を残すだけとなり、昭和12年6月20日念願の石碑の建立を果たした。と記しています。>
森鴎村は、よく顕彰碑等の碑文の撰者として、乞われていた様で、栃木市周辺にて森鴎村撰文の石碑を見ることが出来ます。私がこれまで収集した森鴎村撰文の石碑を紹介します。
まず、同じ藤岡神社の境内に建つ「伊勢参宮奏神楽記」です。これは明治17年(1883)建立です。篆額の文字は、正三位勲三等侯爵西園寺公望の揮毫です。そして同じく藤岡町城山の旧渡良瀬川の葭立堰堤近くに建てられている、「葭立修隄碑」です。明治26年(1893)9月の建立になります。篆額は栃木縣知事從四位勲三等折田平内が揮毫しています。
藤岡町大前の大前神社境内にも2基の鷗村撰文の石碑が有りました。
「山士家翁碑」は、明治32年(1899)12月建立で、篆額は内務大臣元帥海軍大将正二位勲一等功二級侯爵西郷從道が揮毫しています。そしてもう1基は、「式内國幣大前神社拝殿改作記」で、明治12年(1879)9月に建てられています。
太平山公園内謙信平の南麓を一段下がった道の脇に、「添野五耕翁碑」の碑文の森鴎村の撰文です。明治27年(1894)8月の建立で、篆額は従二位勲一等宮中顧問官子爵品川彌二郎の揮毫。
最後は佐野市葛生町山菅の、「影山新吉招魂之碑」です。明治15年(1882)3月12日建立。篆額は渡邉 醇の揮毫になります。
他にもまだ有りますが、まだ収集できていません。これからもまだ探して行きます。
今回参考にした資料は:
・藤岡町史通史編後編 藤岡町発行
・ふじおか見てある記 藤岡町教育委員会発行
童謡詩人「金子みすゞ」の世界に [石碑]
2011年(平成23年)3月11日、午後2時46分、今まで経験をした事の無い、大きな大地の揺れが、東日本全域に発生しました。「東日本大震災」です。
その災害の後しばらく、民放テレビ各局のCM放送が無くなり、私たちは「一編の詩」を耳にすることになりました。
「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。
「馬鹿」っていうと
「馬鹿」っていう。
「もう遊ばない」っていうと
「遊ばない」っていう。
そうして、あとで
さみしくなって、
「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。
こだまでしょうか、
いいえ、誰でも。
この詩が、何度も何度も、私の耳に入ってきました。
この詩が、誰のものかその当時は、全く知りませんでした。
「金子みすゞ」という名前を知ったのは、それからだいぶ経った後になります。
先日、「金子みすゞ」(本名テル)が、生まれ育った、山口県長門市仙崎を訪れ、仙崎駅から彼女が育った家(現在は復元された金子みすゞ記念館)まで、歩いてきました。
山口県長門市仙崎は、山口県の日本海側の、海に面した長門市の中央部、海に万年筆のペン先のような形で突き出た、その先端部分に栄えた漁師町で、その北側には日本海側の島では、佐渡島、隠岐の島に次いで、三番目に大きな島「青海島」がペン先に乗るように迫っています。
海に突き出た仙崎の街は、北側を青海島により、外海から遮断され、東側には「仙崎湾」、西側には「深川湾」と言う内海を形成、漁港として恵まれていました。
そのような自然環境で、明治のころまで捕鯨の街としても栄えていました。
万年筆のペン先の様に突き出た地形の、西側の付け根に位置する長門市の市街地から、山陰本線の支線「仙崎線」が、ペン先の中ほどまで伸び、仙崎駅へと繋がっています。
その仙崎駅の駅前から、真っ直ぐ北に向かう通りは、ペン先の先端までインクを通すスリットの様に見えます。
仙崎駅前から先端まで約1km。(先端には以前は、青海島に渡る「渡船場」が有ったようです)その通りを370mほど歩いた右側に、復元され「金子文英堂」の看板を掲げた、「金子みすゞ記念館」が有ります。
この仙崎駅前から、仙崎の街の中央を縦断する通りは、現在「みすゞ通り」と呼ばれ、通りの各所に金子みすゞの写真のモザイク画や、みすゞの詩が掲示されています。幾つか紹介します。
最初は仙崎駅待合室の壁いっぱいに描かれた、「金子みすゞ」の顔のモザイク画。モザイク画の一片一片に使われているのは、蒲鉾の板を利用しているそうです。(仙崎の特産の一つは、蒲鉾ですから)
そして仙崎駅舎の東側に建つ、「みすゞの詩碑」です。
碑文の部分を拡大してみます。
この詩の作品名は「星とたんぽぽ」です。この作品は小学校の国語教科書に掲載されました。
碑文を書き写してみます。
青いお空の
そこふかく
海の小石のそのように
よるがくるまで
しずんでる
昼のお星は
めにみえぬ
見えぬけれども
あるんだよ
見えぬものでも
あるんだよ
金子みすゞの詩
星とたんぽぽより
この碑に刻まれた詩の内容は、作品全体の前半の半分だけです。元の詩には、この後以下の様に続いています。
ちってすがれたたんぽぽの、
かわらのすきにだアまって、
春のくるまでかくれてる、
つよいその根はめにみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。
仙崎駅前の、みすゞ通りを見通せる場所に、本を開いた形のモニュメントが建っています。
右のページには、仙崎の街の地図が、左のページには、金子みすゞと「みすゞ通り」のことが刻されていますが、風雨にさらされてきた精でか、相当かすれてしまっています。
みすゞ通りの最初の大きな交差点の、左向こうの商店に、モザイク画で描いた「花津浦」の景色とみすゞが詠んだ「花津浦」の詩。そしてもう一編「蛍のころ」の詩が掲示されています。
「花津浦」は、青海島の周りに点在する奇岩の一つ、金子みすゞは、仙崎八景の一つに歌っています。
通りを先に進むと、右側の路地の入口に石の鳥居が建っています。横の家のしゃれた半月の窓のところに、みすゞの詩「祇園社」の一編が掲示されています。
このように、「みすゞ通り」に面する多くの家々で、みすゞの詩を掲示しています。
これらを、一つ一つ見て読んでいると、あっという間に時間が過ぎて行ってしまいます。
記念館の通りの向かいの家の側面に、また蒲鉾の板を利用して描かれた、みすゞの顔のモザイク画、
「わたしと小鳥と鈴と」の詩が、描かれていたようですが擦れて読みにくくなっています。
その先の路地の「角の乾物屋」。たばこのショーケースの下に、「角の乾物屋の」の詩が。
金子みすゞ(本名テル)は、明治36年(1903)4月11日、山口県大津郡仙崎村(現在の山口県長門市仙崎)に、父金子庄之助と母ミチの長女として生まれました。みすゞには2歳年上の兄「堅助」と、2歳年下の弟「正祐」が居りましたが、みすゞ2歳の時に父庄之助が、享年31歳で亡くなりました。そしてその翌年に、1歳とまだ幼かった弟「正祐」が、下関にて書店「上山文英堂」を営む、義弟「上山松蔵」の養子として、貰われて行きました。明治40年1月19日のことです。このころ金子家は兄の「堅助」が、仙崎に一軒しかない本屋「金子文英堂」を始めました。
少女時代のみすゞは、こうして書籍や文字に、おのずから触れる環境の中で暮す事になったようです。
大正8年(1919)8月26日、みすゞの母ミチが、下関の上山松蔵の後妻として、仙崎から出ていきました。母ミチの妹で、松蔵の妻であった「フジ」が前年の11月8日に死去したのが、きっかけだったようです。フジ、享年満42歳でした。
こうして、仙崎の金子家は、祖母「ウメ」と兄とみすゞの、3人暮らしとなってしまいました、みすゞが16歳の夏のことでした。
大正11年(1922)11月3日、兄「堅助」が結婚をしました。そして、それを契機にみすゞは、母の住む下関の上山文英堂書店に移りました。大正12年4月14日のことになります。みすゞ20歳の年でした。
これからみすゞは下関にて、本格的に作詩を始めることになります。
みすゞが作った512編の詩の全てが、下関に移ってから、昭和5年(1930)3月10日自死するまでの7年間に作られました。
山口県下関市唐戸周辺には、みすゞのゆかりの地や詩碑が建てられ、「金子みすゞ詩の小径」として、みすゞの足跡を訪ね歩くことが出来ます。その何点かをご紹介してみたいと思います。
上の2枚の建物の写真は、左側が国登録有形文化財(建造物)で、日本最古の現役郵便局舎「下関南部町郵便局」と、右側の下関市指定有形文化財(建造物)の「旧秋田商会ビル」になります。きっと金子みすゞもこれらの建物を見ていたし、この郵便局から雑誌社宛に、作品を投稿していたのでしょう。
旧秋田商会ビルの前に、「金子みすゞ詩の小径」出発点の詩碑が建てられています。この詩碑に掲載されている作品は「障子」です。
次は、近くの寿公園に建てられた、「金子みすゞ顕彰碑」です。
中央には、下関に移り住んだ頃(20歳)のみすゞの顔写真。左側に作品「はちと神さま」の詩。右側に、「金子みすゞと上山文英堂」のことが記されています。
みすゞが下関に移って暮らしていた「上山文英堂本店」は、顕彰碑の建つ寿公園の前の道を、道なりに南に200メートルほど行った、通りの左手(東側)に有りました。当時の住所表示は、下関西南部四番地、現在「明治安田生命保険相互会社山口支店」が建っている辺りに成ります。みすゞが生活をしていた頃は、上山文英堂本店の左隣には、第百十銀行本店ビルが建っていました。
金子みすゞ顕彰碑の前から、今度は北に250メートルほど行ったところ、歩道の車道を背にして詩碑が建てられています。「黒川写真館跡」の詩碑には、ここ黒川写真館(現在は村田写真館)で撮影された「金子みすゞ20歳の写真」と、「山の子濱の子」の詩が刻まれています。
上山家では、住まいから近かったこの「黒川写真館」にて、よく記念写真を撮っていたようです。
「金子みすゞ詩の小径」には、他にもう一か所写真館が出てきます。「三好写真館」です。
「三好写真館」は、唐戸町の「亀山八幡宮」の参道石段の西側に有りました。現在はコインパーキングになっていますが、歩道側に向かって詩碑が建てられています。
「三好写真館跡」の詩碑には、「鶴」と題する詩が刻まれています。
以下に、詩碑に刻まれた碑文の冒頭部を抜粋して掲載します。
<金子みすゞは、亡くなる前日の1930(昭和5)年3月9日、亀山八幡宮参道そばの、この場所に有った三好写真館で、最後の写真を撮りました。そのときの心情は、想像にあまりあります。(後略)> 碑文の隣に、その時撮った写真も刻まれています。
この三好写真館は上山文英堂本店から約700メートルと、黒川写真館までの距離250メートルと比べると、3倍近く遠方の場所なのに、なぜ遠い三好写真館まで出かけて、最後の写真を撮ったのでしょうか。記念撮影の翌日、みすゞは睡眠薬を多量に飲んで自殺をしました。享年満26歳の若さでした。
最後に、もう一つ詩碑を紹介します。
この詩碑は、亀山八幡宮の西参道鳥居を出た通りを、左方向に約90メートルほど行った、唐戸銀天街の中ほどに建てられています。1997年3月9日に彫刻シンポジウム実行委員会によって建てられています。
金子みすゞの詩は、口語体の話し言葉で、とても読みやすい、七五調で書かれているのも、読みやすさを増幅させています。リズムが有るからでしょう。その詩の特徴の一つとして、視点の逆転が多くみられます。この「日の光」の作品の中にも、四人の「おてんとさまのお使い」みちで出逢った南風に、何をしに行くのか答えていきます。最初の3人は日の光の陽の部分です。けれども最後のお使いは、寂しそうに言います。「私は、影をつくるため・・・・。」と、陰の部分です。視点が逆転しています。
最初に載せた詩は、「こだまでしょうか」と題する作品です。
今年は、金子みすゞ生誕120年になります。
私も、また金子みすゞが育った長門市仙崎の街を訪れ、ゆっくりと散策をしてみたいと思います。
今回の参考資料:
・金子みすゞ詩集 金子みすゞ著 (株)角川春樹事務所発行
・金子みすゞ 詩と真実 詩と詩論研究会編集 勉誠出版(株)発行
・童謡詩人金子みすゞの生涯 矢崎節夫著 JULA出版局発行
その災害の後しばらく、民放テレビ各局のCM放送が無くなり、私たちは「一編の詩」を耳にすることになりました。
「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。
「馬鹿」っていうと
「馬鹿」っていう。
「もう遊ばない」っていうと
「遊ばない」っていう。
そうして、あとで
さみしくなって、
「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。
こだまでしょうか、
いいえ、誰でも。
この詩が、何度も何度も、私の耳に入ってきました。
この詩が、誰のものかその当時は、全く知りませんでした。
「金子みすゞ」という名前を知ったのは、それからだいぶ経った後になります。
先日、「金子みすゞ」(本名テル)が、生まれ育った、山口県長門市仙崎を訪れ、仙崎駅から彼女が育った家(現在は復元された金子みすゞ記念館)まで、歩いてきました。
山口県長門市仙崎は、山口県の日本海側の、海に面した長門市の中央部、海に万年筆のペン先のような形で突き出た、その先端部分に栄えた漁師町で、その北側には日本海側の島では、佐渡島、隠岐の島に次いで、三番目に大きな島「青海島」がペン先に乗るように迫っています。
海に突き出た仙崎の街は、北側を青海島により、外海から遮断され、東側には「仙崎湾」、西側には「深川湾」と言う内海を形成、漁港として恵まれていました。
そのような自然環境で、明治のころまで捕鯨の街としても栄えていました。
万年筆のペン先の様に突き出た地形の、西側の付け根に位置する長門市の市街地から、山陰本線の支線「仙崎線」が、ペン先の中ほどまで伸び、仙崎駅へと繋がっています。
その仙崎駅の駅前から、真っ直ぐ北に向かう通りは、ペン先の先端までインクを通すスリットの様に見えます。
仙崎駅前から先端まで約1km。(先端には以前は、青海島に渡る「渡船場」が有ったようです)その通りを370mほど歩いた右側に、復元され「金子文英堂」の看板を掲げた、「金子みすゞ記念館」が有ります。
この仙崎駅前から、仙崎の街の中央を縦断する通りは、現在「みすゞ通り」と呼ばれ、通りの各所に金子みすゞの写真のモザイク画や、みすゞの詩が掲示されています。幾つか紹介します。
最初は仙崎駅待合室の壁いっぱいに描かれた、「金子みすゞ」の顔のモザイク画。モザイク画の一片一片に使われているのは、蒲鉾の板を利用しているそうです。(仙崎の特産の一つは、蒲鉾ですから)
そして仙崎駅舎の東側に建つ、「みすゞの詩碑」です。
碑文の部分を拡大してみます。
この詩の作品名は「星とたんぽぽ」です。この作品は小学校の国語教科書に掲載されました。
碑文を書き写してみます。
青いお空の
そこふかく
海の小石のそのように
よるがくるまで
しずんでる
昼のお星は
めにみえぬ
見えぬけれども
あるんだよ
見えぬものでも
あるんだよ
金子みすゞの詩
星とたんぽぽより
この碑に刻まれた詩の内容は、作品全体の前半の半分だけです。元の詩には、この後以下の様に続いています。
ちってすがれたたんぽぽの、
かわらのすきにだアまって、
春のくるまでかくれてる、
つよいその根はめにみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。
仙崎駅前の、みすゞ通りを見通せる場所に、本を開いた形のモニュメントが建っています。
右のページには、仙崎の街の地図が、左のページには、金子みすゞと「みすゞ通り」のことが刻されていますが、風雨にさらされてきた精でか、相当かすれてしまっています。
みすゞ通りの最初の大きな交差点の、左向こうの商店に、モザイク画で描いた「花津浦」の景色とみすゞが詠んだ「花津浦」の詩。そしてもう一編「蛍のころ」の詩が掲示されています。
「花津浦」は、青海島の周りに点在する奇岩の一つ、金子みすゞは、仙崎八景の一つに歌っています。
通りを先に進むと、右側の路地の入口に石の鳥居が建っています。横の家のしゃれた半月の窓のところに、みすゞの詩「祇園社」の一編が掲示されています。
このように、「みすゞ通り」に面する多くの家々で、みすゞの詩を掲示しています。
これらを、一つ一つ見て読んでいると、あっという間に時間が過ぎて行ってしまいます。
記念館の通りの向かいの家の側面に、また蒲鉾の板を利用して描かれた、みすゞの顔のモザイク画、
「わたしと小鳥と鈴と」の詩が、描かれていたようですが擦れて読みにくくなっています。
その先の路地の「角の乾物屋」。たばこのショーケースの下に、「角の乾物屋の」の詩が。
金子みすゞ(本名テル)は、明治36年(1903)4月11日、山口県大津郡仙崎村(現在の山口県長門市仙崎)に、父金子庄之助と母ミチの長女として生まれました。みすゞには2歳年上の兄「堅助」と、2歳年下の弟「正祐」が居りましたが、みすゞ2歳の時に父庄之助が、享年31歳で亡くなりました。そしてその翌年に、1歳とまだ幼かった弟「正祐」が、下関にて書店「上山文英堂」を営む、義弟「上山松蔵」の養子として、貰われて行きました。明治40年1月19日のことです。このころ金子家は兄の「堅助」が、仙崎に一軒しかない本屋「金子文英堂」を始めました。
少女時代のみすゞは、こうして書籍や文字に、おのずから触れる環境の中で暮す事になったようです。
大正8年(1919)8月26日、みすゞの母ミチが、下関の上山松蔵の後妻として、仙崎から出ていきました。母ミチの妹で、松蔵の妻であった「フジ」が前年の11月8日に死去したのが、きっかけだったようです。フジ、享年満42歳でした。
こうして、仙崎の金子家は、祖母「ウメ」と兄とみすゞの、3人暮らしとなってしまいました、みすゞが16歳の夏のことでした。
大正11年(1922)11月3日、兄「堅助」が結婚をしました。そして、それを契機にみすゞは、母の住む下関の上山文英堂書店に移りました。大正12年4月14日のことになります。みすゞ20歳の年でした。
これからみすゞは下関にて、本格的に作詩を始めることになります。
みすゞが作った512編の詩の全てが、下関に移ってから、昭和5年(1930)3月10日自死するまでの7年間に作られました。
山口県下関市唐戸周辺には、みすゞのゆかりの地や詩碑が建てられ、「金子みすゞ詩の小径」として、みすゞの足跡を訪ね歩くことが出来ます。その何点かをご紹介してみたいと思います。
上の2枚の建物の写真は、左側が国登録有形文化財(建造物)で、日本最古の現役郵便局舎「下関南部町郵便局」と、右側の下関市指定有形文化財(建造物)の「旧秋田商会ビル」になります。きっと金子みすゞもこれらの建物を見ていたし、この郵便局から雑誌社宛に、作品を投稿していたのでしょう。
旧秋田商会ビルの前に、「金子みすゞ詩の小径」出発点の詩碑が建てられています。この詩碑に掲載されている作品は「障子」です。
次は、近くの寿公園に建てられた、「金子みすゞ顕彰碑」です。
中央には、下関に移り住んだ頃(20歳)のみすゞの顔写真。左側に作品「はちと神さま」の詩。右側に、「金子みすゞと上山文英堂」のことが記されています。
みすゞが下関に移って暮らしていた「上山文英堂本店」は、顕彰碑の建つ寿公園の前の道を、道なりに南に200メートルほど行った、通りの左手(東側)に有りました。当時の住所表示は、下関西南部四番地、現在「明治安田生命保険相互会社山口支店」が建っている辺りに成ります。みすゞが生活をしていた頃は、上山文英堂本店の左隣には、第百十銀行本店ビルが建っていました。
金子みすゞ顕彰碑の前から、今度は北に250メートルほど行ったところ、歩道の車道を背にして詩碑が建てられています。「黒川写真館跡」の詩碑には、ここ黒川写真館(現在は村田写真館)で撮影された「金子みすゞ20歳の写真」と、「山の子濱の子」の詩が刻まれています。
上山家では、住まいから近かったこの「黒川写真館」にて、よく記念写真を撮っていたようです。
「金子みすゞ詩の小径」には、他にもう一か所写真館が出てきます。「三好写真館」です。
「三好写真館」は、唐戸町の「亀山八幡宮」の参道石段の西側に有りました。現在はコインパーキングになっていますが、歩道側に向かって詩碑が建てられています。
「三好写真館跡」の詩碑には、「鶴」と題する詩が刻まれています。
以下に、詩碑に刻まれた碑文の冒頭部を抜粋して掲載します。
<金子みすゞは、亡くなる前日の1930(昭和5)年3月9日、亀山八幡宮参道そばの、この場所に有った三好写真館で、最後の写真を撮りました。そのときの心情は、想像にあまりあります。(後略)> 碑文の隣に、その時撮った写真も刻まれています。
この三好写真館は上山文英堂本店から約700メートルと、黒川写真館までの距離250メートルと比べると、3倍近く遠方の場所なのに、なぜ遠い三好写真館まで出かけて、最後の写真を撮ったのでしょうか。記念撮影の翌日、みすゞは睡眠薬を多量に飲んで自殺をしました。享年満26歳の若さでした。
最後に、もう一つ詩碑を紹介します。
この詩碑は、亀山八幡宮の西参道鳥居を出た通りを、左方向に約90メートルほど行った、唐戸銀天街の中ほどに建てられています。1997年3月9日に彫刻シンポジウム実行委員会によって建てられています。
金子みすゞの詩は、口語体の話し言葉で、とても読みやすい、七五調で書かれているのも、読みやすさを増幅させています。リズムが有るからでしょう。その詩の特徴の一つとして、視点の逆転が多くみられます。この「日の光」の作品の中にも、四人の「おてんとさまのお使い」みちで出逢った南風に、何をしに行くのか答えていきます。最初の3人は日の光の陽の部分です。けれども最後のお使いは、寂しそうに言います。「私は、影をつくるため・・・・。」と、陰の部分です。視点が逆転しています。
最初に載せた詩は、「こだまでしょうか」と題する作品です。
今年は、金子みすゞ生誕120年になります。
私も、また金子みすゞが育った長門市仙崎の街を訪れ、ゆっくりと散策をしてみたいと思います。
今回の参考資料:
・金子みすゞ詩集 金子みすゞ著 (株)角川春樹事務所発行
・金子みすゞ 詩と真実 詩と詩論研究会編集 勉誠出版(株)発行
・童謡詩人金子みすゞの生涯 矢崎節夫著 JULA出版局発行
栃木県足利市の戊辰戦争関連石碑を巡る [石碑]
群馬県の倉賀野にて中山道から分岐して、日光東照宮に向かう旧日光例幣使街道。
群馬県太田市から栃木県足利市に入ると、最初の宿は八木節発祥の地「八木宿」。そこから更に三十町(約3.3km)東の方向に進むと、「梁田宿」に入ります。
この足利市梁田町の中ほど、旧日光例幣使街道沿いに「旧日光例幣使街道梁田宿」と記した石碑が建てられています。平成二十二年五月に、御厨郷土文化研究会の五十周年を記念して、同会と梁田地区自治会連合会とによって建てられています。
この石碑の建つ脇の道を入ると、突き当りに寺院が見えます。
山門脇に「曹洞宗梁田山長福寺」と刻した石碑が建っています。この寺院の境内に、「明治戊辰梁田役東軍戦死者追弔碑」が建てられています。石碑の横に建つ足利教育委員会による説明文を参照させて頂くと、<(前略) 梁田戦争は慶応四年(1868)三月、例幣使街道梁田宿でおこった旧幕府軍と官軍との戦いである。内田万次郎は幕府軍として父と共に参戦し、その後も五稜郭の戦いまで各地を転戦した。戦後、大蔵省印刷局に奉職し、退職後碑を建立した。戊辰戦争慰霊碑や墓碑において、幕府軍の名を刻んだものが少ない中、「東軍」と幕府軍であることを刻む当碑の歴史的価値は髙い。>と、記されています。文中の「内田万次郎」は、碑陰に「大正十三年九月 従軍衝鋒隊士 従四位勲三等内田万次郎建之」と刻されている人物に成ります。碑は、足利市重要文化財(史跡)に指定をされています。
更に、本堂の左手奥の墓地の中に、「梁田戦争戦死塚」が有ります。
こちらも塚の脇に建つ説明文を参照させて頂くと、
<慶応四年(1868)三月九日未明に勃発した、いわゆる梁田戦争に倒れた幕軍戦死者の墓である。
表面に 戦死塚 裏面に 慶応四戊辰年三月九日 戦死六十四人此地埋 梁田宿 と行書をもって陰刻してある。梁田戦争の直後、村民の手により渡良瀬河原に合葬し墓碑を建てた。しかし、河流の変遷のため、明治四十三年に星宮神社傍らに墓碑を移し、遺骨は現在地に改葬した。その後、昭和六年に墓碑も現在地に移し、今日に至っている。>と、記されています。こちらの「戦死塚」も、足利市重要文化財(史跡)に指定されています。
ここ、梁田宿における戦争は、西軍(薩摩藩・長州藩・大垣藩)の約二百名と、東軍(幕府軍)約九百名による市街戦となったが、勝ったのは人数の少ない西軍の勝利となっています。なぜこれほどの人数の差が有りながら、東軍が負けた原因は何処に有ったのか、東軍は前日の3月8日に館林を目指して移動していたが、館林藩は東軍に対して軍資金を提供して、梁田宿を勧め、一方で西軍に対して使者を送って、情報提供をした。梁田宿は日光例幣使街道の宿場町として繁栄しており、幕末には旅籠屋約30軒を数え、飯盛り女も多数抱えていた。東軍としては館林藩の斡旋と言うことで、安堵感も有り油断が有ったのか、その夜は僅かの歩哨しか立てず、酒宴を催した。その間西軍は熊谷から奇襲部隊が18キロの夜道をひた走り、梁田宿を三方に分かれて包囲体制を引き、9日早朝に奇襲攻撃を開始しました。
東軍としては、寝起きを襲われた形で、戦線の立て直しが出来ず、多くの戦死者を出し、渡良瀬川を越えて東に敗走。2時間余りの戦闘で梁田戦争は決着が付いたのであった。
(上の写真は、現在の梁田宿の通りを、渡良瀬川の右岸堤防上より撮影したものと、同位置にて反転して、渡良瀬川側を撮影したもので、現在は渡良瀬川の河川敷には、ゴルフ練習場が広がっていました。)
西軍の戦死者3名負傷者10名に対して、東軍の戦死者63名負傷者75名を出しています。そしてこの戦いの中で、東軍の軍監であった、柳田勝太郎が銃創を被り戦死しています。
その軍監柳田勝太郎の墓碑が、梁田宿南東の加子村(現在の足利市久保田町)の崇聖寺墓地に建っています。
墓碑正面中央に「衝鋒隊軍監柳田勝太郎之墓」と大きく陰刻されています。その左脇に小さく「天光書」と有ります。この墓碑の近くには、説明板が見当たりませんでしたので、碑陰に刻まれた碑文を確認しましたが、碑の上部は見難くなっていて、ハッキリ読み取ることが出来ません。
<柳田勝太郎ハ會津藩士小右衛門ノ長子ナリ容貌魁偉夙ニ剛毅ノ士ト交ハリ同藩士佐川官兵衛林又三郎等ト☐☐善シ藩主京師守護職トナリ京師にアルヤ常ニ之レニ從ヒ慷慨國事ニ憂ヘテ已マズ明治戊辰年幕軍古屋作左衛門隊ノ軍監トナル将士皆其ノ恩威ニ服ス慶應四年三月九日梁田ニ戰ヒ身數銃創ニ被リ自・・・>この辺までは何とか読み進みましたが、誤読する可能性が大きく、以下部分的に読み取れる字も有りましたが、断念しました。
建碑されたのは、大正十四年三月九日と有ります。建碑尽力者に四人の名前が刻まれています。最初の名前は、<陸軍歩兵中将 眞下菊五郎>と有ります。この人物は碑文の中にも記されていますが、この梁田戦争の記録を克明に調べて「明治戊辰梁田戦蹟史」を著わした方です。
次に、下渋垂町の自性寺山門脇に、お地蔵様等と並んで、小さ目の石碑が建てられています。
碑の表には「戊辰戦役幕軍之墓」と陰刻されています。碑陰には「慶應四戊辰三月九日戦死」と有ります。ここ下渋垂村にて戦死をした幕府側の2名を埋葬した墓碑に成ります。
最後に、「弾痕の松」を見に行きます。この梁田戦争の時、梁田宿内の中山藤作氏方に有った、松の幹に砲弾が当たって、そのまま食い込んだまま残された。砲弾はその後、太平洋戦争時の供出で抜かれ、痕はコンクリートで塞がれています。この松はその後2か所移植を繰り返し、現在は梁田公民館敷地に祀られている招魂社参道脇に、その姿を留めています。
梁田公民館には、「梁田戦争」関連の資料を展示したコーナーが有りました。
今回の参考資料:
・北関東戊辰戦争 田辺昇吉著
・下野の戊辰戦争 大嶽浩良著 下野新聞社編集発行
群馬県太田市から栃木県足利市に入ると、最初の宿は八木節発祥の地「八木宿」。そこから更に三十町(約3.3km)東の方向に進むと、「梁田宿」に入ります。
この足利市梁田町の中ほど、旧日光例幣使街道沿いに「旧日光例幣使街道梁田宿」と記した石碑が建てられています。平成二十二年五月に、御厨郷土文化研究会の五十周年を記念して、同会と梁田地区自治会連合会とによって建てられています。
この石碑の建つ脇の道を入ると、突き当りに寺院が見えます。
山門脇に「曹洞宗梁田山長福寺」と刻した石碑が建っています。この寺院の境内に、「明治戊辰梁田役東軍戦死者追弔碑」が建てられています。石碑の横に建つ足利教育委員会による説明文を参照させて頂くと、<(前略) 梁田戦争は慶応四年(1868)三月、例幣使街道梁田宿でおこった旧幕府軍と官軍との戦いである。内田万次郎は幕府軍として父と共に参戦し、その後も五稜郭の戦いまで各地を転戦した。戦後、大蔵省印刷局に奉職し、退職後碑を建立した。戊辰戦争慰霊碑や墓碑において、幕府軍の名を刻んだものが少ない中、「東軍」と幕府軍であることを刻む当碑の歴史的価値は髙い。>と、記されています。文中の「内田万次郎」は、碑陰に「大正十三年九月 従軍衝鋒隊士 従四位勲三等内田万次郎建之」と刻されている人物に成ります。碑は、足利市重要文化財(史跡)に指定をされています。
更に、本堂の左手奥の墓地の中に、「梁田戦争戦死塚」が有ります。
こちらも塚の脇に建つ説明文を参照させて頂くと、
<慶応四年(1868)三月九日未明に勃発した、いわゆる梁田戦争に倒れた幕軍戦死者の墓である。
表面に 戦死塚 裏面に 慶応四戊辰年三月九日 戦死六十四人此地埋 梁田宿 と行書をもって陰刻してある。梁田戦争の直後、村民の手により渡良瀬河原に合葬し墓碑を建てた。しかし、河流の変遷のため、明治四十三年に星宮神社傍らに墓碑を移し、遺骨は現在地に改葬した。その後、昭和六年に墓碑も現在地に移し、今日に至っている。>と、記されています。こちらの「戦死塚」も、足利市重要文化財(史跡)に指定されています。
ここ、梁田宿における戦争は、西軍(薩摩藩・長州藩・大垣藩)の約二百名と、東軍(幕府軍)約九百名による市街戦となったが、勝ったのは人数の少ない西軍の勝利となっています。なぜこれほどの人数の差が有りながら、東軍が負けた原因は何処に有ったのか、東軍は前日の3月8日に館林を目指して移動していたが、館林藩は東軍に対して軍資金を提供して、梁田宿を勧め、一方で西軍に対して使者を送って、情報提供をした。梁田宿は日光例幣使街道の宿場町として繁栄しており、幕末には旅籠屋約30軒を数え、飯盛り女も多数抱えていた。東軍としては館林藩の斡旋と言うことで、安堵感も有り油断が有ったのか、その夜は僅かの歩哨しか立てず、酒宴を催した。その間西軍は熊谷から奇襲部隊が18キロの夜道をひた走り、梁田宿を三方に分かれて包囲体制を引き、9日早朝に奇襲攻撃を開始しました。
東軍としては、寝起きを襲われた形で、戦線の立て直しが出来ず、多くの戦死者を出し、渡良瀬川を越えて東に敗走。2時間余りの戦闘で梁田戦争は決着が付いたのであった。
(上の写真は、現在の梁田宿の通りを、渡良瀬川の右岸堤防上より撮影したものと、同位置にて反転して、渡良瀬川側を撮影したもので、現在は渡良瀬川の河川敷には、ゴルフ練習場が広がっていました。)
西軍の戦死者3名負傷者10名に対して、東軍の戦死者63名負傷者75名を出しています。そしてこの戦いの中で、東軍の軍監であった、柳田勝太郎が銃創を被り戦死しています。
その軍監柳田勝太郎の墓碑が、梁田宿南東の加子村(現在の足利市久保田町)の崇聖寺墓地に建っています。
墓碑正面中央に「衝鋒隊軍監柳田勝太郎之墓」と大きく陰刻されています。その左脇に小さく「天光書」と有ります。この墓碑の近くには、説明板が見当たりませんでしたので、碑陰に刻まれた碑文を確認しましたが、碑の上部は見難くなっていて、ハッキリ読み取ることが出来ません。
<柳田勝太郎ハ會津藩士小右衛門ノ長子ナリ容貌魁偉夙ニ剛毅ノ士ト交ハリ同藩士佐川官兵衛林又三郎等ト☐☐善シ藩主京師守護職トナリ京師にアルヤ常ニ之レニ從ヒ慷慨國事ニ憂ヘテ已マズ明治戊辰年幕軍古屋作左衛門隊ノ軍監トナル将士皆其ノ恩威ニ服ス慶應四年三月九日梁田ニ戰ヒ身數銃創ニ被リ自・・・>この辺までは何とか読み進みましたが、誤読する可能性が大きく、以下部分的に読み取れる字も有りましたが、断念しました。
建碑されたのは、大正十四年三月九日と有ります。建碑尽力者に四人の名前が刻まれています。最初の名前は、<陸軍歩兵中将 眞下菊五郎>と有ります。この人物は碑文の中にも記されていますが、この梁田戦争の記録を克明に調べて「明治戊辰梁田戦蹟史」を著わした方です。
次に、下渋垂町の自性寺山門脇に、お地蔵様等と並んで、小さ目の石碑が建てられています。
碑の表には「戊辰戦役幕軍之墓」と陰刻されています。碑陰には「慶應四戊辰三月九日戦死」と有ります。ここ下渋垂村にて戦死をした幕府側の2名を埋葬した墓碑に成ります。
最後に、「弾痕の松」を見に行きます。この梁田戦争の時、梁田宿内の中山藤作氏方に有った、松の幹に砲弾が当たって、そのまま食い込んだまま残された。砲弾はその後、太平洋戦争時の供出で抜かれ、痕はコンクリートで塞がれています。この松はその後2か所移植を繰り返し、現在は梁田公民館敷地に祀られている招魂社参道脇に、その姿を留めています。
梁田公民館には、「梁田戦争」関連の資料を展示したコーナーが有りました。
今回の参考資料:
・北関東戊辰戦争 田辺昇吉著
・下野の戊辰戦争 大嶽浩良著 下野新聞社編集発行