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壬生町にてガンダムデザインのマンホールカードが配布開始 [コレクション]

先週末の1月28日土曜日より、栃木県壬生町のマンホールカード2種類目、ガンダムがデザインされたマンホールカードの、配布が始まりました。
マンホールカードの配布は2016年4月に、第1弾が配布されてから今回の配布は、第18弾に成ります。今回栃木県内では、壬生町とさくら市の2自治体より発行されています。昨年は発行されていませんので、約1年5ヶ月ぶりに成ります。
壬生町マンホールカード2.jpg壬生町おもちゃ博物館.jpg
(今回配布が開始された壬生町2種目のマンホールカードと配布場所の壬生町おもちゃ博物館)

さくら市マンホールカード.jpgさくら市卯の里庁舎.jpg
(同時に配布が開始された、さくら市のマンホールカードと配布場所のさくら市卯の花庁舎)

壬生町としては、2021年4月25日の第14弾にて、最初のマンホールカードを発行しているので、今回は2種類目に成ります。
壬生町マンホールカード1.jpg壬生城址公園の門.jpg
(壬生町最初のマンホールカードと、デザインの壬生城址公園入口に建つ門)

壬生町2種目のデザインは、昨年4月にバンダイナムコグループが全国の自治体と協力して取り組んでいる「ガンダムマンホールプロジェクト」により登場したデザインマンホール蓋を、カードにしたものです。
プロジェクトにて製作されたマンホール蓋は2種類で、「RX-78-2 GUNDAM」デザインと、「MSN-02 ZEONG」デザイン。カードになったのは、「おもちゃのまち」の文字が入った、ガンダムデザインで、現物は東武宇都宮線おもちゃのまち駅の東口、駅前ロータリー南側の歩道に設置されています。
壬生町マンホール2.jpg
(「おもちゃのまち」東口側歩道に設置されている、ガンダムマンホール。デザインにはガンダムとおもちゃ博物館、壬生町名産の干瓢を用いた「ハロ」と、「おもちゃのまち」の文字が施されています。)

又、「ガンダムマンホールプロジェクト」で設置された、もう一枚のジオングデザインのマンホール蓋は、駅前から更に東に行った「おもちゃのまちバンダイミュージアム」の入口前の歩道に設置されています。
バンダイミュージアム正門前.jpgジオングデザインマンホール蓋.jpg

一方、同時発行されたさくら市のマンホールカードのデザインは、さくら市上野の「集落排水」として従来から地区内の道路に設置されていた図柄をそのまま採用されています。
私は、マンホールカードが出来る前から、各地の道路に設置されているデザインマンホール蓋の写真を撮影収集していました。栃木県内のデザインマンホール蓋は、ほぼ収集したと思いますが、マンホールカードが発行されるようになってから、新しいデザインマンホール蓋が出てきているので、終りはなさそうです。
因みに、このさくら市上野のマンホール蓋を見つけたのは、2016年9月18日でした。この頃は妻や娘を乗せて、毎週のようにドライブがてら、県内各地を走り回っていました。
私は運転しているので、マンホールを見つけるのは妻や娘。特に娘は良く見つけていました。
さくら市マンホール.jpg
(国道293号線を喜連川から国道4号線方向に向かって走行中に発見しました。)

このさくら市上野の図柄は、県内50枚程あるデザインマンホール蓋の中では、私の好きな図柄でしたから、今回マンホールカードとして発行されたので、早速にゲットしてきました。


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「赤い靴はいてた女の子」と童謡詩人「野口雨情」 [石碑]

昨年、北海道小樽を旅しました。
小樽運河沿いを散策した際、運河の北端辺りに有った「運河公園」の隅に建つ「詩碑」が目に入りました。
赤い靴親子像全景.jpg

「詩碑」の上部には、3・4歳に成るのでしょうか、ピカピカの赤い靴を履いた女の子。その子の手を取って座る和服姿の女性、そして隣にスーツ姿の男性が一緒に座る像が乗っています。
台座の正面に「赤い靴 親子の像」、その下に野口雨情が作詞した童謡「赤い靴」の一節が、記されたプレートが付いています。
赤い靴親子像近景.jpg赤い靴詩.jpg

今まで、私が知っている「赤い靴はいてた女の子」の像は、横浜山下公園内に建てられている、少女の像でした。
童謡「赤い靴」の歌詞に有るように、<横浜の 波止場から 船に乗って・・・>ですから、違和感もなく、その少女像を見てきました。
赤い靴履いてた女の子像.jpg赤い靴履いてた女の子像2.jpg

なぜ、北の小樽の地に「赤い靴」の少女像が建つのか。
小樽の「詩碑」の台座の横面に、なぜ小樽の地に赤い靴の少女と家族の像が建てられたのか、その由来となる話が、<童謡「赤い靴」と小樽の街>と題して掲示されています。
赤い靴親子像説明板.jpg

童謡「赤い靴」には、その歌のモデルとなった少女が実在していたと。女の子の名前は「きみ」ちゃん。2歳の時にお母さん「かよ」と一緒に、静岡から函館に渡ってきます。母親はそこで新たに男性「鈴木志郎」と結婚。少女はそこで外国人宣教師夫妻に預けられ、その後宣教師夫妻が帰国する時に、少女は重い結核の為、横浜から米国に渡ることが出来ず、東京の孤児院でわずか9歳で亡くなってしまいました。
母親は、娘を宣教師夫妻に預け、それ以降の事情は知らなかったらしく、童謡の詩に有るように、宣教師夫妻の国に行って幸せに暮らしていると信じ続けていたのでした。

野口雨情が、この「赤い靴」を作詞したいきさつも記されています。
<母の再婚相手「鈴木志郎」は、1907年札幌の「北鳴新報」に就職して、そこで「野口雨情」と出会い、家族ぐるみの交流を深め、そこで外国人宣教師夫妻に預けた娘の話を打ち明け、それが雨情の詩となり、1922年童謡「赤い靴」が生まれた。>と。

野口雨情は、この「赤い靴」を始め多くの童謡を作詞しています。
「青い目の人形」や、「七つの子」、「黄金虫」、「シャボン玉」、「あの町この町」、「兎のダンス」、「証城寺の狸囃子」、「船頭小唄」などなどです。これらの歌は私が子供の頃、良く口ずさんだ歌ばかりです。ですから不思議なくらい、今でも歌うと歌詞がスラスラ出てきます。

北原白秋、西條八十、そして野口雨情。童謡界の三大詩人と言われていますが、この野口雨情が亡くなる晩年を、栃木県宇都宮ですごしています。雨情が棲んでいた家屋が、現在も保存されて残されています。
野口雨情旧居.jpg
野口雨情旧居案内板.jpg

先日、その野口雨情の旧居と、雨情が生活した羽黒山周辺を少し散策してきました。
雨情旧居の脇には、二基の石碑が建てられています。
一つは台座の上に、馬の頭部と、その首にしがみついて目を閉じる少女の上半身の像です。台座部分にその像の題名でしょうか、「童心馬」と陰刻されています。さらにその下に童謡「あの町この町」の一節が刻されています。
そしてもう一基、「詩人野口雨情 ここにて眠る」 揮毫した人は、その当時の宇都宮市長 佐藤和三郎。碑陰を見ると、「先生愛用の筆と硯を納め 宇都宮雨情会これを建てる 昭和四十一年四月十二日」と有りました。この石碑は雨情の筆塚の上に建てられている物でした。
因みに先の「童心馬」の碑も、宇都宮雨情会が建立したもので、昭和六十三年五月二十九日と記されています。
童心馬像.jpg筆塚.jpg

先に掲載した「野口雨情旧居」の写真を見て頂くと、家の裏側は竹や雑木に覆われて見えますが、建屋の直ぐ裏手は羽黒山の山裾が迫っている所で、現在は宇都宮市の「土砂災害警戒区域」に指定されています。又旧居の北側には、県道4号線(鹿沼街道)が東西に通っています。
旧居の直ぐ東隣に現在、和菓子店「乙女屋」鶴田店さんが有り、店舗内にて「雨情」のパンフレットを配布して頂けると言う事で、一部頂いて来ました。パンフレットは、「宇都宮市明保地区明るいまちづくり協議会」が発行したものです。
パンフレットによると、<昭和18年2月に軽い脳出血に侵され、体調も思わしくなく、また東京への空襲が激しくなったため武蔵野市吉祥寺から疎開して療養の生活を求め、現在の宇都宮市鶴田町はへ。・中略・ 雨情が移り住んだころの羽黒山麓辺りはまだ純農村で、雨情の屋敷は1.7ヘクタールの柿園とイチゴ畑に囲まれ、脇の鹿沼街道は閑散とし、療養生活には静かな環境でした。以下略・・>

周辺の概略図を作成しましたので、参照して見てください。
野口雨情旧居周辺概略図.jpg

この宇都宮市鶴田町の羽黒山は、標高約150メートルで、比高は20メートル程あります。山頂に「稻倉魂命」を祭神とする羽黒山神社が祀られています。
羽黒神社.jpg

社殿の前方にも、雨情の詩碑が建てられていました。大きな自然石に「蜀黍畑」の詩が陽刻されたプレートが取り付けられています。「蜀黍」は「モロコシ」と読むそうです。
モロコシ畑の碑.jpg

この石碑は、野口雨情生誕百年を記念して、宇都宮雨情会が建立しています。

この羽黒山頂からの眺望もなかなか良く、東方向には宇都宮の市街地が広がっています。かつて雨情が見た時には、一面の田畑だったでしょうが。
羽黒山頂からの眺望.jpg

又、雨情旧居の道向う、鹿沼街道の北側歩道脇にも雨情の詩碑が建てられています。こちらの石碑にも、童謡「あの町この町」の一節が陰刻されています。
「あの町この町」詩碑.jpg

こちらの詩碑は、昭和三十三年四月二十七日に建てられています。周辺に建てられた雨情の石碑、四基の中では、最初に建てられたものです。

これらの石碑の他にも、周辺には雨情の名前を付けたものが散見されました。
先ず、鹿沼街道を東方向に行くと、鶴田町を北から南に縦貫する、「宇都宮環状道路」との交差点に有る陸橋の名称に、「宮環・雨情陸橋」と「雨情」の名前がありました。そして更にその先に進むと「駒生川」に架かる橋の名称も、「雨情橋」となっていました。
宮環・雨情陸橋.jpg雨情橋.jpg

この町を散策していると、野口雨情がその作品とともに、この町の人達の心の中に、生き続けているような、そんな感じを抱きました。









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庭の蠟梅が見頃に成りました [草花]

今朝、今年一番の冷え込みで、家の周りの田んぼも、大霜で真っ白な朝を迎えました。
陽が登ってからも、それほど気温が上がって来ていませんが、三日ぶりの青空が戻って、庭の蠟梅も大分黄色に色付いて来ました。
庭の蠟梅が見頃2.jpg
(見頃を迎えた蝋梅)
庭の蠟梅が見頃1.jpg
(透き通るような黄色の花びら、まさに蝋細工のよう)
庭の蠟梅が見頃3.jpg

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壬生町の精忠神社境内に建つ「畳塚碑」 [石碑]

栃木県壬生町の市街地中心部に、かつての壬生城の一部が残っています。その城跡の北西部に「精忠神社」が有ります。
精忠神社の門.jpg
(精忠神社入口に建つ御門)

精忠神社の拝殿.jpg
(精忠神社拝殿)

入口の門の脇に立てられた神社の案内板によると、「精忠神社」の祭神は、精忠霊神(鳥居彦右衛門元忠公)に成ります。
この神として祀られる「鳥居彦右衛門元忠」とは、どのような人物だったのでしょうか。2019年に発行された「壬生藩」中野正人・笹崎明著(現代書館)を借りると、<鳥居元忠は忠吉の三男として天文八年(1539)三河国渡(渡里とも、愛知県岡崎市)に生まれた。長兄忠宗は渡合戦で戦死、次兄仁蔵(本翁)は出家していたので元忠が家督を継いだ。 十三歳の天文二十年、今川氏の庇護下にあった当時十歳の竹千代(家康)に近侍するため父に従って駿府に赴いた。><家康の幼少期からの側近>でした。
其の後、常に家康の元に居て、戦乱の世を家康のために忠義を尽くした。その遺功により譜代大名鳥居家の家祖として崇拝されてきました。
正徳二年(1712)、近江国水口より壬生藩へと国替えとなった鳥居忠英(ただてる)は、壬生城の隅に壬生氏の祖「鳥居元忠」を祀りました。
そして、寛政十一年(1799)神祇官領吉田家より「精忠霊神」の神号をうけています。

その「精忠神社」社殿の丁度真後ろに、「畳塚碑」と篆額に刻した石碑が建てられています。
畳塚碑1.jpg
(社殿の真後ろ、玉垣に囲まれて建つ「畳塚碑」)

畳塚碑2.jpg畳塚碑3.jpg
(石碑の上部「篆額」に刻された「畳塚碑」の文字は、正五位子爵鳥居忠一が揮毫しています。)

この石碑が建てられた時期は、碑陰に<即位式御大典紀念大正四年十一月>の記載が有りますから、大正四年(1915)十一月十日に京都御所紫宸殿にて行われた「即位の礼」を紀念してその時に建てられたと思われます。

この石碑が建てられた場所には、鳥居元忠が慶長五年(1600)の伏見の戦いで自刃した時、その血で染まった畳を石函に入れて納められています。この血染めの畳はその後、関ヶ原の戦いで勝利し、天下を取った徳川家康が、江戸城中の伏見櫓の階上に置いて、登城する諸大名に鳥居元忠の忠義を手本として示していました。
王政復古によって江戸城が明け渡され事で、壬生藩の所蔵する事となり、鳥居氏の壬生上稲葉赤見堂邸にて保管され、その後明治17年鳥居氏の旧臣等が謀って、石函に入れ精忠神社の裏に納め「畳塚」と称していました。
「畳塚」案内板.jpg
(「畳塚」の手前に建つ説明板)

石碑の碑文にはそれらの経緯が記されていますので、書き写しました。
畳塚碑(碑文).jpg

この碑文を見ると<元忠>の文字は見えません。
碑文冒頭に出てくる、<我鳥居氏中宗龍見公>に見える<龍見>が<元忠>の戒名の院号のようです。
漢文で記されている為、読み砕くのは私にとっては困難な作業で、お手上げ状態です。
一つ一つ単語の意味を調べて、そこから文章全体の意味を推し量るのが一杯で、間違って解釈をしているかも知れません。
例えば単語の意味を見ると、「中宗」は「中興の主」・「殉國」は「国のために命をなげ出す事」・「藺席」は「リンセキ(むしろ)」・「斑斑」は「まだらなさま」などなど。
漢字自体も「旧字体」が多く使われ、読むこともままならず、書き写す事が出来ただけで、少し満足感が味わえました。
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勝鬨橋を歩いて渡る [橋梁]

昨年、九州旅行をいた際、関門海峡を望むホテルに宿泊をしました。
部屋の窓から、海峡を行き来する船や、関門橋が見え、眼下には門司港の観光スポットのひとつ、「ブルーウィングもじ」が有ります。
ブルーウイングもじ.jpgブルーウイングもじ銘板.jpg
(ホテルの窓越しに撮影、奥に関門橋、手前の青色の支柱が立つ橋が、「ブルーウィングもじ」です。親柱に取り付けられた「ブルーウィングもじ」のプレート)

関門海峡日本遺産協議会発行の観光パンフレットに、<全長約108m、全国で最大級の歩行者専用はね橋です。1日に6回、音楽に合わせて橋が上がります。橋が跳ね上がって閉じたのち、1番目に手をつないで橋を渡ったカップルは一生結ばれると言われ、「恋人の整地」に選定されました。>と紹介されています。
「ブルーウィングもじ」は、平成5年(1993)10月に架橋。中央付近から左右に橋桁が跳ね上がります。親橋は長さ約24mでワイヤーウインチ式、小橋は長さ約14mで油圧シリンダー式、約60度まで跳ね上がると言います。残念ながら私は日程の関係で、この橋の開閉を見る事は出来ませんでした。
夜のブルーウイングもじ.jpg
(関門海峡の夜景、奥に「関門橋」のケーブルの存在を知らせる照明が暗闇に弧を描いて点灯しています。足元の「ブルーウィングもじ」の支柱が、ライトアップされ綺麗なブルーを見せてます。)

こうした可動式の橋は、日本各地に跳ね上がり式や回転式等色々ありますが、その代表的な物は、隅田川に架かる「勝鬨橋」だと思います。残念ながら道路の通行量等諸般の理由により、昭和45年11月29日を最後に開閉が中止されています。
平成19年(2007)6月18日、国の重要文化財に指定されています。

勝鬨橋全景.jpg
(現在の「勝鬨橋」、隅田川の最下流に架かる「築地大橋」から、上流側「勝鬨橋」を撮影。橋の後方に多くの高層ビルが並んでいます。)

1990年7月隅田川舟下り.jpg
(平成2年(1990)7月、家族で隅田川の船下りをしたときに撮影した「勝鬨橋」です。約30年前ですが、まだまだ高層ビルは少ない感じです。)

昭和45年(1970)前後、私は年に1、2回当時晴海ふ頭に有った東京国際見本市会場に行っていました。
そこでは、「東京モーターショー」や「エレクトロニクスショー」「省力機器展」等が開催されていて、東京駅丸の内側から、会場までの無料シャトルバスが運行されていて、それを利用して行き来していました。
1晴海国際見本市会場.jpg2晴海国際見本市会場.jpg
そんな当時、昭和48年(1973)9月初めて晴海通りを歩き、勝鬨橋を渡って晴海の見本市会場に向いました。
その時撮った写真が有ります。
勝鬨橋(昭和48年9月)2.jpg勝鬨橋(昭和48年9月)1.jpg
上の写真2枚目は。勝鬨橋の上から下流側に向って撮影したものです。写真左奥の高層ビルは「国際貿易センタービル」で、他に高い建物は有りません。右端に霞んで写るのが「東京タワー」です。
現在は、車道と歩道の間を区切る遮蔽物が設置されていますが、この写真ではまだ何もありません。

最近、約50年ぶりに「勝鬨橋」を渡ってきました。今回撮影した写真と同じ場所では有りませんが、比較して下さい。
勝鬨橋(令和4年12月)2.jpg勝鬨橋(令和4年12月)1.jpg
(2枚目の写真は「勝鬨橋」の上から上流側を撮影、中央奥に「中央大橋」(斜張橋)の主塔が見えます。車道と歩道を区切る遮蔽柵が設置されています。)

高欄の飾り1.jpg高欄の飾り2.jpg
(上の写真は、歩道と車道を遮蔽する柵に施された、勝鬨橋の開閉をデザインした飾り絵)

昔の写真と良く比較すると街灯の形も変わっています。現在の方が重厚そうです。

勝鬨橋の右岸橋詰に、「かちどき 橋の資料館」が有ります。無料で見学する事が出来ます。
かちどき橋の資料館.jpg

資料館では、100分の1スケールの「勝鬨橋」の模型が展示されていて、手前の押しボタンを押すと、解説と同時に模型の勝鬨橋が開閉し、開いた後その下を船が通過する様子が再現されます。
全開の勝鬨橋.jpg閉じた勝鬨橋.jpg

その他、「勝鬨橋」の橋梁構造や機械設備、電気設備等の写真パネルの展示や、映像コーナーでは橋建設の歴史や開閉の仕組みが分かりやすく説明する映像を視聴できます。
資料館内の様子.jpg
(資料館内の様子。勝鬨橋の開閉を担っていた「直流発電機」が、当時のまゝ保存・展示されています。)

資料館を見学して、橋の名前の由来や、建設目的、河道橋にした理由等を知ることが出来ました。
勝鬨橋、左岸下流側より.jpg
(勝鬨橋を左岸下流側より撮影)
外の隅田川に架かる橋とともに、夜はライトアップされている様なので、今度機会が有ったら見に行きたいと思います。

<参考資料>
・「北九州市・下関市 日本遺産」観光パンフレット 発行:関門海峡日本遺産協議会
・「かちどき 橋の資料館」 パンフレット 発行:東京都建設局道路管理部/(公財)東京都道路整備保全公社



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庭の蠟梅が開花始めました [草花]

2023年の新年を迎え、庭の蠟梅が開花を始めています。
この年末年始は例年になく穏やかな天候が続き、暖かな日差しが庭一杯に降り注いでいます。
今年は、多くの蕾が付いて、野鳥の被害も無く開花を待ち遠しくしていましたが、新年早々開花が進んできたようです。
庭の蠟梅が開花始める.jpg
庭の蠟梅が開花始める2.jpg
庭の蠟梅が開花始める3.jpg
庭の蠟梅が開花始める4.jpg
真っ青な空に、透き通るような黄色い花びらが、新春を祝っています。
ことし一年が、さわやかで、平和な年で有りますように、と。


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渡良瀬遊水地内の水路に架けられた橋を巡る [橋梁]

2023年は穏やかに迎える事が出来ました。新年最初は栃木市南端に広がる渡良瀬遊水地内に架けられた橋を巡りたいと思います。

渡良瀬遊水地は、栃木市の南の端、群馬県や埼玉県などとの境界に位置します。栃木の市街地から行くには、車で片道1時間ほど必要です。子供達が小さかった頃は、良く出かけていました。一度家から自転車に乗って行った事が有りますが、帰りは北に向かう為、僅かな登り勾配に成る。子供達は元気だったのに、私の膝関節が悲鳴を上げ、途中大平町辺りで休憩を取る羽目になった覚えが有ります。
芦原を家族で.jpg
(平成10年(1998)1月、渡良瀬遊水地内の葦原をサイクリング)

渡良瀬遊水地は、面積約33平方キロメートル、南北約9キロメートル、東西約6キロメートル、周囲の長さ約30キロメートル。日本で最大級の遊水地です。
遊水地には、渡良瀬川を始め、思川や巴波川などの河川が流入、遊水地内で合わさって約4キロメートル下流にて、利根川に合流しています。そして遊水地内にはハート型の谷中湖も有ります。
渡良瀬遊水池案内板.jpg
(少し古いですが、遊水池の説明板です。)
渡良瀬遊水池(谷中湖)は、広さ約4.5平方キロメートル。池の外周距離は約9.2キロメートル。

渡良瀬遊水地の「地」を書いた表現は、葦原を含めた遊水地全体(約3,300ha)を示して、「池」を付けた場合は谷中湖部分(約450ha)を表す区別になっている様です。

この広大な遊水地内に架けられた橋を、今回巡って行きます。これまで何回も出かけて現地確認をしてきた結果、名称がハッキリしている橋の数は21か所有りました。この中には現在通行できない橋も含まれています。
思川に昔架けられていた「松原橋」は、上流に「松原大橋」が出来た為、後に撤去され現在は有りませんので、除外しています。
松原橋1(思川).jpg松原橋(思川).jpg
(現在は撤去されている「松原橋」。1993年10月撮影)

それでは、渡良瀬遊水地内に架かる橋を見て行くに当って、先ずはそれらの橋の分布状況が分かるように概略図を作成しました.
渡良瀬遊水地内の橋の地図.jpg
(渡良瀬遊水地内の橋分布図)
先ずは主役ともいえる「渡良瀬川」を辿って行きます。
渡良瀬川は遊水地の北西端、「藤岡大橋」の下を抜け遊水地に流入してきます。そこから遊水地の中央部を南東方向に流れ、遊水地の東で北東方向から流れて来た思川と合流して向きを南に変え、谷中湖の東側を南流し。渡良瀬遊水地の南東端にて「三国橋」の下を流れ南側を流れる利根川に合流します。
このメインの河川「渡良瀬川」に架かる橋の最初は「西赤麻橋」に成ります。
西赤麻橋(渡良瀬川).jpg
渡良瀬遊水地内の葦原を貫く一本の道路、その先にそびえる山は茨城県の霊峰「筑波山」です。直線距離でここから約38キロメートル東方に成ります。目的の「西赤麻橋」は目立ちませんが前方の黄色に染められた円柱の処に成ります。
西赤麻橋1(渡良瀬川).jpg西赤麻橋下流側の流れ(渡良瀬川).jpg
橋の近くに寄ってもう一枚写します。橋の両サイドに車幅制限用の支柱、橋からの転落防止の為の簡単な高欄が設けられています。写真右手に見える建物は「第三排水門」に成り、橋が架かるこのエリア―は「第3調節池」と呼ばれる地域です。もう一枚の写真は「西赤麻橋」の上から下流側を写しています。渡良瀬川がゆったりと流れています。

次は「新赤麻橋」です。1988年3月の銘板が設置されていました。先程の「西赤麻橋」とは打って変わって川の両側に立派な堤防を持った橋です。
新赤麻橋(渡良瀬川).jpg
上の写真は下流側右岸堤防上よりの遠望です。
橋の後方に「岩船山」、その奥にかすんで写るのは、雲の上に頭を出した日光連山の山々です。
新赤麻橋1(渡良瀬川).jpg新赤麻橋2(渡良瀬川).jpg
「新赤麻橋」をさらに近くの下流側右岸から写した写真と、橋上から渡良瀬川上流方向を写した写真です。前に紹介した「西赤麻橋」と、橋も川の風景も全く違っていますが、渡良瀬川の流れそのものは、同じようにゆったりと流れている感じがします。
この橋は5径間の中央の橋桁の幅員が、他の桁の幅員より2メートル程広くなっています。なぜ中央径間のみ幅が広く採ってあるのか、この橋左右の2径間部分が幅員が狭く乗用車が1台しか通れないのに橋長が長い事で、両側から同時に渡って来た時、中央部の幅員を広くすることで、すれ違い出来る様にしたものと思われます。

次の橋は「赤麻橋」です。現在この橋は封鎖されて通行できません。この橋は先の「新赤麻橋」の下流側300メートルに有り、「新赤麻橋」の完成で、その役目を終えたものです。
赤麻橋(渡良瀬川).jpg
上の写真は新赤麻橋の上より移した「赤麻橋」の写真です。
赤麻橋1(渡良瀬川).jpg
「赤麻橋」通行できない様封鎖されています。この橋も前の「西赤麻橋」同様、橋の高欄が御情け程度に張られたワイヤーロープです。こうした簡単な高欄しかない理由は、これらの橋が増水時に水をかぶってしまった場合でも、水の流れに極力邪魔に成らない配慮をした構造だからと思われます。このような形の橋はこの後紹介する橋にも言える事です。

次は渡良瀬川の4カ所目、遊水地の東の端に架かる「野渡橋」です。この橋の直ぐ上流側に思川との合流点が有ります。
野渡橋(渡良瀬川).jpg
この橋は結構自動車の通行が有りました。その為か歩行者用の通路帯が確保されています。また、写真に有る通り大型車両が渡れない様に、幅員制限のゲートが橋の両側に設置されていました。
思川との合流点(渡良瀬川).jpg
上の写真は、「野渡橋」の上から上流側を写したもの、写真左から渡良瀬川、右側から思川が合流しています。

巴波川は渡良瀬遊水地の北側に架かる「巴波橋」の下流から南流して遊水地内に入ってきて、渡良瀬川左岸に合流しています。その途中1カ所「石川橋」が架かっています。巴波川は大正7年(1918)に藤岡大地を掘削して、藤岡新川として通水が始まりました。それまでの部屋や新波・白鳥の集落内を蛇行して流れていた旧巴波川の河道は、今は僅かにかつての河岸の面影を残すだけとなっています。(前出の概略図上に、巴波橋付近から南西方向に蛇行して描かれた破線が旧巴波川の河道に成ります。)
石川橋(巴波川).jpg
上の写真は、遊水地内流れる巴波川の右岸堤防上より石川橋を撮影したもので、巴波川は左から右に流れています。この橋も増水時には水をかぶる潜水橋で、車が通れるだけの簡単な構造です。
石川橋下流の巴波川.jpg
上の写真は「石川橋」の上から下流側の巴波川の流れを撮ったものです。遊水地内を流れる巴波川は予想以上に細く感じました。

渡良瀬遊水地の東の縁に沿うように流れる「思川」は、松原大橋の下流に架かっていた、前述の「松原橋」が撤去された現在、遊水地内に架かる橋は無くなりました。

一方渡良瀬遊水地の西側からは、板倉川と谷田川が遊水地内に流れ込んでいます。丁度谷中湖の北西部辺りから流入した板倉川は谷中湖と西側の周囲堤との間を南流、途中で谷田川の流れと合流、谷中湖の南端にて、遊水池(谷中湖)や池内水路からの水を合せて遊水地の南端、三国橋の上流部にて、北側から南流してきた渡良瀬川の右岸に合流しています。この間の橋の数は一番多く5橋を数えます。
上流側から見て行きます。最初は「思い出橋」です。この場所にどのような思い出とする歴史が有っ他のだろうか。楽しい事か、悲しい事か。この橋で何を思い出すのでしょうか。

想い出橋(谷田川).jpg
1993年の12月に子供たちと遊びに来た時、この「思い出橋」の写真を撮っていました。現在は川の周辺は草木が生い茂っていますが、以前の写真はスッキリと見通せて、橋全体の姿も見る事が出来ました。
想い出橋1(谷田川).jpg想い出橋2(谷田川).jpg
昭和63年(1988)渡良瀬遊水池総合開発事業周辺環境整備工事が始まり、谷中湖周辺が一般に開放されたのが平成3年(1991)4月28日の事です。ですから私たちが遊びに来たのはまだ整備されたばかりの頃だったので、「思い出橋」の白亜のスッキリとした姿を見る事が出来たのでした。

次の橋の名前も凝っています。「まごころ橋」です。遊水地内の橋では一番新しい橋の様です。
まごころ橋(谷田川).jpgまごころ橋の由来(谷田川).jpg
親柱に谷中湖のハートの形がデザインされています。右岸下流側親柱に「まごころ橋の由来」を記したプレートが取り付けられています。
<平成16年10月、渡良瀬貯水池(谷中湖)において埼玉県北川辺町実行委員会によって第59回国民体育大会「彩の国まごころ国体」セーリング競技会が開催されました。この国体開催を記念して、橋名をその埼玉国体の愛称に因み「まごころ橋」と命名しました。> なるほどね。
このように橋の名前の命名由来を表示して頂くと、とてもありがたいのですが。

三番目は「下宮橋」です。この橋は渡良瀬遊水地の西側から谷中湖畔に入る中心的な場所に有り、東武日光線柳生駅からのアクセスも良く、中央エントランスから入場、橋の西詰には駐車場やトイレも完備されています。
下宮橋と西橋(谷田川).jpg
中央エントランスの堤防の上より「谷中湖」を望む。手前の茶褐色の高欄を持つ橋が「下宮橋」。その先に白く見える高欄が有るのが、谷中湖内に架かる「西橋」。更にその奥木立が生い茂っている所が、谷中湖中央部に有る「中の島」に成ります。
下宮橋(谷田川).jpg
上の写真が「下宮橋」、下を流れる川が「谷田川」です。

この橋も29年前に撮影した写真が残っていました。右岸橋詰より上流方向を撮影しました。現状は川岸の木々が生い茂り視界が妨げられていますが、以前は写真の様に「谷田川」を見通す事ができます。
下宮橋2(谷田川).jpg下宮橋1(谷田川).jpg

四つ目の橋は「谷田川橋」です。川の名前をそのまま橋名にしています。谷中湖の南の端に位置します。
谷田川橋(谷田川).jpg

5番目の橋は谷田川の左岸に、谷中湖の東側に沿う池内水路や谷中湖南端の「貯水池機場」からの流れを合流させ、巨大な第一排水門を抜けた後に架けられた「柏戸橋」ですが、この橋も現在は通行止めとなっています。
第一排水門.jpg柏戸橋封鎖(谷田川).jpg
上の写真は「第一排水門」と「柏戸橋」の封鎖の様子を撮影したものです。
「第一排水門」は谷中湖を含む第一調節池内の水の排水を制御する水門で、この水門の下流に「柏戸橋」が架かっています。さらにその下流にて北側から流れて来た渡良瀬川の右岸に合流していきます。
柏戸橋(谷田川).jpg
上の写真は、第一排水門から下流側を写しました。手前が「柏戸橋」です。その先に渡良瀬川に架けられた「三国橋」(左側)や「新三国橋」(右側)を望むことが出来ます。

次はハート形をした遊水池(谷中湖)に架かる3橋を見て行きます。これらの橋は池の中に有る「中の島」と、北・西・東の三方向から結ぶ通路に架けられました。
遊水地内に水を蓄えた貯水池(谷中湖)が姿を現したのは、昭和が60年代を迎えたころの様です。戦後の昭和22年(1947)9月、カスリーン台風による大洪水で渡良瀬遊水地周辺は、向古河・海老瀬・部屋・生井で堤防が破れ、大きな被害をもたらしました。(前出の概略図の堤防が決壊した地点に赤色の×印を表示しています。)
その後渡良瀬遊水地の強化を図るべく、昭和38年(1963)渡良瀬遊水地調節池化工事が着工しました。それから20年以上の月日を経て、ハート型の遊水地の姿を現したのでした。

先ず「北橋」は、遊水池北側に有る「谷中村史跡保全ゾーン」や「子供広場ゾーン」と「中の島」を結んでいます。
北橋(渡良瀬遊水池内).jpg
上の写真は「北橋」の上から北方向を写しました。橋の左右に湖面が広がっています。左手奥に写る白い建物は「北水門」に成ります。
北橋2(渡良瀬遊水池内).jpg北橋1(渡良瀬遊水池内).jpg
上の二枚の写真は橋の様子を写したもので、池の西側からと、橋の北西橋詰からで、橋は3径間になっています。池内3橋の中では一番短い橋に成ります。

「西橋」は遊水池の西側と「中の島」とを結んでいます。渡良瀬遊水地の西側には、遊水地に沿って県道が走っている為、アクセスポイントが複数有ます。その中でこの「西橋」は「中央エントランス」と結ばれている為、多くの利用者が訪れる場所に成ります。
西橋(渡良瀬遊水池内).jpg
上の写真は「西橋」を南方向から写しました。橋の後方に多くの山脈が写っています。近い所では、写真右手に「岩船山」や太平連山の「馬不入山」、そして左側には「三毳山」や「諏訪岳」。その後方にかすんで見えるのが、日光連山の「男体山」や「女峰山」などに成ります。
西橋2(渡良瀬遊水池内).jpg西橋1(渡良瀬遊水池内).jpg
上の二枚の写真は「西橋」を近くによって写したもので、後の写真は1993年12月に撮影したものです。

そして「東橋」です。この橋は今回初めて渡りました。「北橋」や「西橋」は何度も渡っていますが、東側にはなかなか足が向きません。
東橋(渡良瀬遊水池内).jpg
上の写真は「北橋」上から「東橋」を写しています。後方の木立から野木町の国の重要文化財に指定されている「ホフマン式煉瓦窯」の煙突がのぞいています。
東橋1(渡良瀬遊水池内).jpg東橋2(渡良瀬遊水池内).jpg
「東橋」の上から真直ぐ伸びる道路は、「西橋」から続いて谷中湖を南西側から北東側に横断しています。橋の高欄に設置されている背の高いフェンスは、以前は有りませんでした。現在も「北橋」には設置されていませんが、「西橋」と「東橋」に設置されました。設置理由は確認していませんが。転落防止なんでしょうか。でしたら「北橋」もと、考えますし。

次に谷中湖の北側、ハート型のへこんでいるところ。「谷中村史跡保全ゾーン」内の水路にも観光用でしょか木橋が三箇所架かっています。
橋の名前は旧谷中村の地名や社寺の名称になっているようです。
「鎌立橋」これは地名です。「延命橋」これはお寺の名前「延命院」から。そして「雷電橋」は「雷電神社」からです。
鎌立橋(旧谷中村跡).jpg
上の写真は「鎌立橋」、延命院共同墓地内に建つ庚申塔に<下野國都賀郡小山庄 古川・鎌立 両講中>と刻まれています。
延命橋(旧谷中村跡).jpg
上の写真は「延命橋」
雷電橋(旧谷中村跡).jpg
上の写真は「雷電橋」 

渡良瀬遊水地内には、他にも池内水路が幾つも流れています。これからはそんな遊水池内水路に架かる橋を見て行きます。
最初は巴波川の西側をほぼ並行して流れる水路に架かる「東赤麻橋」です。
東赤麻橋(江川).jpg
この橋は、第三遊水池内で、巴波川に架かる「石川橋」から西に伸びる道路上に架かっています。遊水地の北側から流入する「江川」の下流に位置するものと思われます。
東赤麻橋1(江川).jpg東赤麻橋2(江川).jpg
上の写真は東赤麻橋の上から、上流側、下流側の水路の風景を写したもので、かつて漁に使った小舟が川岸に放置された状態になっています。明治のころ前は「赤麻沼」や「石川沼」など大小の湖沼が点在する湿地だった所で、舟を使った漁も盛んなところだった様です。

次は渡良瀬川の西側を流れる池内水路で、下流域は谷中湖の東脇に沿って流れ谷中湖の南端部にて谷田川に合流している水路です。
「谷中橋」は渡良瀬遊水地のほぼ中央部を、西側の「北エントランス」から入り、西から東にほぼ一直線に横断する道路が、上記の池内水路を渡る場所に架かる橋で、現在は上流側を迂回する道路が造られて、元の谷中橋は通行止めになっています。
谷中橋(地内水路).jpg
上の写真は、現在は通行できない「谷中橋」で、上流側のう回路から撮影しました。この橋の下あたりで釣りをしている人が数人釣り糸を垂らしていました。
地内水路(谷中橋上流部).jpg
上の写真は「谷中橋」上流側う回路から水路の上流側の風景を写した写真です。水路の中に漁網らしきものが設置され、川舟の姿も見えます。手前に横に連なる山脈は「三毳山」。右方向に見える円錐状の山は岩舟町小野寺の「諏訪山」と思われます。

「谷中橋」の直ぐ下流側で、水路は南方向と西方向とに分流しています。
地内水路(谷中橋下流部).jpg
上の写真で、右手奥に向かう水路は、谷中村史跡保全ゾーンの北側を西に流れ、北水門を抜けて、谷中湖に流れ込んでいます。その途中に架かる橋が「西谷中橋」に成ります。
西谷中橋とウォッチングタワー(地内水路).jpg
「西谷中橋」の北西側橋詰に建つ「ウォッチングタワー」は、渡良瀬遊水地を高所から展望できる施設です。下の写真はそのタワーの上から「西谷中橋」を写したものです。
西谷中橋(地内水路).jpg

一方分岐で写真左方向に流れ、谷中湖内の「東橋」から北東に伸びる道路が、谷中湖の東側の池内水路と交差する地点に架かる橋が「東谷中橋」です。
東谷中橋(地内水路).jpg
この「東谷中橋」は、昭和60年の頃は現在の地点から下流側に架かっていました。が、平成5年頃には現在の場所に架かる橋の名前になっています。以前架かっていた場所にはその名残は有りません。
地内水路(東谷中橋下流部).jpg
上の写真は「東谷中橋」から池内水路下流方向を写したものです。ここにも釣り人の姿が有りました。

最後21番目の橋は「下生井橋」です。第2調節池内を流れる水路に架かっています。この水路は生井の桜堤辺りから遊水地内に流入する「与良川」の下流に成ります。
下生井橋(地内水路).jpg
この第2調節池は近年、コウノトリのつがいが人工巣塔に住み着いて、孵化したヒナを育て、無事に成長して巣立つ様子がニュースとなって、連日多くの見学者が巣立ちの様子を見守っていました。
コウノトリ2.jpgコウノトリ1.jpg
上の写真は昨年の6月1日に、生井の桜堤に出かけた時に撮影しました。この数日後に成長したヒナが巣立ったそうです。

最近、20年以上前に家族4人でサイクリングを楽しんだ、渡良瀬遊水地の葦原を一人で歩いて来ました。懐かしいあの日の事を思い出しながら。葦原に冷たい北風が吹いていました。
葦原を歩く.jpg

参考資料:
「渡良瀬遊水地 ~生い立ちから現状~」 財団法人渡良瀬遊水地アクリメーション振興財団編集発行
「渡良瀬遊水地ガイドマップ」 同上
国土地理院発行5万分1地形図 「古河」平成11年2月1日発行

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