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常盤橋のこと、あれこれ [栃木市の橋梁]

栃木市の市街地中央を貫流する「巴波川(うづまがわ)」に「常盤橋(ときわばし)」と名付けられた橋が架けられています。
巴波川に架かる常盤橋.jpg
(栃木市街地中央を貫流する「巴波川」に架かる「常盤橋」、左岸橋詰より撮影)

橋自体は一般的な桁橋で、栃木市の橋梁資料によると、橋の長さは13.2メートル、幅員6.0メートル、架設は1961年で、橋種は鋼橋。との内容が記されています。
ただ私の素人目で見ると橋桁はコンクリート製で鋼材は確認できません。橋は2径間で、中央部の橋脚はコンクリート柱4本で支えています。
巴波川に架かる常盤橋2.jpg
(下流側右岸から見る常盤橋。写真中央奥のビルは、栃木市役所です。)
私よりこの「常盤橋」の方が新しい。驚きですが、私が小学生の頃この場所を何度も通っているけれど、現在のコンクリート橋の前は恐らく木橋でしょうが、全くその記憶はないのです。上流に架かる大川橋は昭和43年(1968)に現在の橋に変わっていて、それ以前は木橋だった記憶は有るのですが。
その頃はまだ、橋自体に興味も無かったですから。仕方ない事です。

「常盤橋」と言う名前の橋は、全国各地に見る事が出来ます。栃木県内では真岡市の市街地を流れる「五行川」の支流、「行屋川」に架かっています。
真岡市の行屋川に架かる常盤橋.jpg
(真岡市内を流れる行屋川に架かる「常盤橋」。真岡駅のSLキュウロク館前から東に延びる「ときわ通り」に有る。)

茨城県筑西市の小貝川を渡る、旧国道50号(現、茨城県道7号線)の橋も「常盤橋」で、その上流側の新国道50号(下館バイパス)の小貝川に架かる橋は「新常盤橋」の名前が付けられています。

九州に目を転じてみると、長崎県長崎市の中島川に架かる石造りアーチ橋で有名な「眼鏡橋」の下流側にも「常盤橋」と名付けられた橋梁が架かっています。
長崎眼鏡橋夜景.jpg
(下流側に架かる「袋町橋」より望む、ライトアップされた眼鏡橋)
長崎市の常盤橋夜景.jpg
(同じ「袋町橋」より下流側を望むと見えるのが「常磐橋」)
長崎市街地を貫流する中島川及びその支流には、寛永11年(1634)に長崎の興福寺二代目住職如定が架けたとされる我が国最初の石橋「眼鏡橋」を始め多くの橋が、江戸時代に架橋され、初期の石橋は在留中国人による架橋が多かったが、元禄時代に入ると日本人の寄附によるものに変わって来ています。
しかし、昭和57年(1982)7月23日の長崎大水害でこれらの多くの石橋が被災して、流出や半壊してます。現在の橋は昭和60年・61年に復旧したもので、眼鏡橋と袋町橋は元の石橋の状態に復元させましたが、他のアーチ橋は石橋に似せていますがコンクリート造りだそうです。

又、福岡県北九州市小倉北区の紫川にも「常盤橋」を見る事が出来ます。
北九州市小倉北区の常盤橋.jpg
(北九州市小倉北区の市街地を貫流する「紫川」に架けられた、木橋の「常磐橋」)
この木橋は平成7年に、紫川マイタウン・マイリバー整備事業のひとつとして、江戸時代と同じ「木の橋」に生まれ変わりました。長さ85.0メートル、幅6.0メートルです。
小倉北区の常盤橋の由来案内板.jpg
(常盤橋の由来を記した、左岸橋詰に建てられた案内板)
江戸時代この橋は、小倉から九州各地にのびる諸街道の起点であり、終点でもありました。長崎街道、中津街道、秋月街道、唐津街道、門司往還の5つを「小倉の五街道」と呼びますが、そのすべてがこの橋に繋がっていました。上の案内板にも記されている様に、この常盤橋は九州における日本橋となっていたのです。

どこの県にも、一ヶ所や二ヶ所は「常盤橋」と命名された橋を見つける事が出来るかも知れません。
それでもやはり「常盤橋」と言えば、東京の日本橋川に架かる橋が、知名度は一番でしょうか。
この日本橋川には上流側より、「新常盤橋」、
新常盤橋(日本橋川).jpg
(日本橋川に架かる「新常盤橋」、上流側には東北上越新幹線の高架橋が架かる)
新常盤橋の親柱.jpg新常盤橋から望む常磐橋.jpg
(「新常盤橋」の親柱と高欄、高欄越しに下流に石造り二蓮アーチ橋の「常磐橋」を望む)

次に、明治10年(1877)6月に架けられた石造り二蓮アーチ橋の「常磐橋」、
常磐橋(日本橋川).jpg
(明治新政府が帝都の近代化を推し進める為に造られた石橋。なだらかなアーチがやさしい感じになっている。白亜の大理石の親柱も高い気品を醸し出しています。このもっとも古い「常磐橋」は平成23年(2011)3月11日の東日本大震災で被災して、修復工事が行われていましたが、今年(2021)5月10日に工事が終了して、渡れるようになりました。写真の常磐橋の先に写る建物は日本銀行本店です。)
常磐橋の親柱.jpg常盤橋から望む常磐橋.jpg
(修復された大理石製の親柱に刻まれた「常磐橋」の文字。下流側のもう一つの「常盤橋」の高欄越しに望む「常盤橋」。日本橋川の上空には首都高速都心環状線が走っています。)

更にその下流側に大正15年、関東大震災の復旧事業で新しい「常盤橋」と新たな道路が作られています。
常盤橋(日本橋川).jpg
(「昭和元年拾貮月完成」の「常盤橋」。写真左奥の木々の中に建つ銅像は、現在放映中のNHK大河ドラマ「晴天を衝け」の主人公、渋沢栄一に成ります。)
常盤橋の親柱.jpg常盤橋の橋名板.jpg
(石組みの重量感のある親柱。上部は常夜灯に成っています。)

ここで「ときわ(常磐)」の意味について、広辞苑を引いてみると、(トコイワの約)として
①常に変わらない岩
②永久不変なこと
③松・杉など、木の葉の常に緑色で色を変えないこと。
と記されていました。
「何時までも壊れないで有って欲しい」という願いを込めて命名した橋の名だったのでしょう。

広辞苑にはもう一つ「ときわ(常磐・常盤・常葉)」の項が有り、
平安末期の女性。もと近衛天皇の皇后九条院の雑仕。源義頼に嫁し、今若・乙若・牛若を生む。(後略)
源義経の生母、常盤御前の「常盤」です。

私はもう一人「常盤姫」という女性を知る機会が有りました。今から30年ほど前、単身赴任で東京本社に4年程勤務していた時です。会社の最寄駅の自由が丘駅から歩いて通勤をしていましたが、その途中毎日この女性の姿を眺めていました。
「常盤姫」は世田谷区立八幡中学校の建物の外壁に描かれたモザイク壁画で、絵の中央には羽ばたく白鷺。その右下に白鷺の行方を見守る「常盤姫」の姿が描かれています。
常盤姫の壁画.jpg常盤姫説明板.jpg
(世田谷区立八幡中学校の建物の壁画と「常盤姫」の説明板)

「常盤姫」の説明文を、書き写させて頂くと、
<昔、世田谷地方一帯の領主で、足利将軍の一族であった吉良氏が、いま豪徳寺のある所に城を構えていた。吉良氏七代目の頼康は、ある雪の朝 狩に出て、奥沢城の近くで白鷺を射落とした。見ると白鷺の足には結び文があって、
       狩人の きょうはゆるさん しら鷺の
             しらじらし夜の  雪のあけぼの
と、しりしてあった。頼康は、狩人が見のがしてくれるように願って放した元の飼主の心にうたれ、家臣に命じてその人を探させた。
 白鷺を放したのは、吉良氏の家臣で奥沢城主大平出羽守の娘「常盤姫」とわかった。常盤は、白鷺のとりもった縁で召され、頼康に仕えるようになった。
 白鷺のように清く美しく、そのうえに聡明であった常盤は、頼康の愛を一身に集めていたが、頼康に仕える他の女性達からはねたまれて、罪をきせられ、頼康から遠さけられて城を追われ、逃げる途中追手のために殺された。しかし、ほどなく常盤に罪のないことがわかり、悪だくみをした女性達は重く罰せられた。
 春がめぐって来て、奥沢田圃の白鷺が射落とされたところから一本の草が芽生え、やがて夏には白鷺が翼を広げて飛ぶ姿に似た鷺草の花が咲いた。大正の終わりごろまでは、奥沢城址周辺には沢山の鷺草が自生していたと伝えられている。      世田谷の伝説より。>

奥沢城址は、この八幡中学校の南側に有る現在の九品仏浄真寺に当り、寺の境内には鷺草園が有ります。
九品仏浄真寺参道.jpg九品仏浄真寺山門.jpg
(東急大井町線の九品仏駅から歩いて1分程で浄真寺参道入口に至る。但し、参道を歩いて総門まで2分程掛かります。総門を潜ると左手に閻魔堂。そこから木々に包まれた境内を歩き山門を潜ると直右側に鷺草園が有ります。)
鷺草の説明板.jpg
(浄真寺境内の一画に有る鷺草園に、鷺草の説明板が建てられています。鷺草は世田谷区の花に指定されています。)

尚、常盤姫が殺害され葬られたとされる場所には現在「常盤塚」の石碑が建てられています。 またその傍らに建つ「伝承史跡常盤塚」の碑文には、ここに今も眠る常盤姫の霊を愛しむ地元住民の優しい気持ちが溢れています。
常磐塚.jpg伝承史跡常磐塚.jpg
(住宅街の中にひっそりと建つ「常盤塚」の石碑)

又、近くの駒留八幡神社の境内には、常盤弁財天と名を変えて、今も常盤姫を祀る祠が残されています。
駒留八幡神社.jpg
(常盤姫を祀った祠の有る駒留八幡神社)

常盤橋のテーマから大きく脱線をして「常盤姫」の話に成ってしまいましたが、「常盤」繋がりと言う事でご容赦願います。

今回参考にさせて貰った資料は
 ・栃木市橋梁長寿命化修繕計画 令和2年3月版 栃木市建設部道路河川維持課
 ・「眼鏡橋 日本と西洋の古橋」 工学博士太田清六著 発行所理工図書(株)
 ・北九州市ホームページ
 ・東京新聞電子版「文明開化期から現代へ 思いを橋渡し 常盤橋 創建時の姿に復元」


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嘉右衛門橋  巴波川に架かる現在一番古い橋 [栃木市の橋梁]

「嘉右衛門橋」・・・名前からして古そうな橋ですが、現在の橋は昭和2年(1927年)に架けられました。
嘉右衛門橋全景.jpg
これは、今現在「巴波川」に架けられている橋の中では、一番古い物です。橋が架かっている場所は、巴波川右岸の錦町と左岸の嘉右衛門町及び泉町との境界部で、巴波川左岸橋詰には国登録有形文化財の天海家住宅が有ります。
天海家住宅店舗.jpg
その為私が子供の頃はこの橋を「天海橋」と呼んでいました。また上流側には同じく国登録有形文化財の岡田家住宅翁島別邸が有ります。
岡田家住宅翁島別邸.jpg
丁度この嘉右衛門橋の東側一帯は「栃木市嘉右衛門町重要伝統的建造物群保存地区」と成っており、地区の中央部を南北に日光例幣使街道が通り、道路の両側には江戸後期から明治・大正昭和初期にかけて、多くの土蔵や石蔵が残っています。
そのような周辺環境も有り、この嘉右衛門橋でも時々映画の撮影が行われてきました。
大分前のことに成りますが、私がいつもの様に近くをウォーキングをしていた時、映画の撮影現場に出会ったことが有りました。翁島の裏道から嘉右衛門橋に出ようとした時です。橋の上を黒色の古いタイプの乗用車2台が走り抜けていきました。どんな映画を撮影していたのか、その場を直ぐ離れてしまったので分かりませんでした。

嘉右衛門橋が出てくる作品の一つに、テレビ静岡制作の「タレよりも君を愛す。」が私の印象に強く残っています。たまたま私がテレビを見ていた時に放送されたもので、最初のシーンに画面一杯この「嘉右衛門橋」が出てきました。主演は高橋克美さんで、他に浅田美代子さん、長澤まさみさん、柄本佑さんらがキャストとして名を連ねています。内容は浜松市の老舗うなぎ店の家族を中心に描いたホームドラマで、栃木市内のうなぎ屋さん「赤間屋」さんや近くの松本床屋さんスナックしいの実さんなどが撮影に協力しています。テレビ画面に見慣れた風景が映ると妙に興奮した事を思い出します。
嘉右衛門橋上流側から.jpg
(テレビドラマ「タレよりも君を愛す」の冒頭のシーンで、嘉右衛門橋が映し出されます。橋の中程高欄越しに主演の高橋克美さんが佇んでいます。次の瞬間橋の欄干に足を掛けて川に身を投げようと、それを慌てて止めに入った人物がミッキーカーチスさん扮する浜松の老舗うなぎ店の主人・・・・ここからドラマが展開していきます。)

栃木市内の映画・ドラマなどの撮影実績は、「とちぎフィルム応援団」のホームページを見ると、平成14年以降の実績を確認することが出来ます。
そこで撮影場所に「嘉右衛門橋」と表記されているものを見ますと、映画が3作品、ドラマが7作品有りました。上記の「誰(タレ)よりも君を愛す」も、平成24年2月撮影として載っております。
外には、NHKドラマ10「昭和元禄落語心中」や、フジテレビ開局50周年記念ドラマ「黒部の太陽」等が。映画では、「今夜ロマンス劇場で」の撮影で綾瀬はるかさん、坂口健太郎さんがこの嘉右衛門橋付近で撮影をされています。

映画「FLOWERS」は現在活躍している6人の女優さんが、昭和初期から平成へと三世代の親子姉妹の生き様を描いていますが、いつの時代にこの嘉右衛門橋が登場するのか非常に興味が有りましたが、以外にも広末涼子さんが登場する平成のシーンに1カット1分足らずの映像でした。
ただ驚いたことに、雪景色の嘉右衛門橋が画面一杯に現れてきます。これはたまたまロケの日に雪景色になったものでしょう。意図しても栃木市内で降雪を期待するのは至難の業ですから。
嘉右衛門橋雪景色.jpg

チョッと変わった所では、ちびまるこちゃんもこの橋を渡っています。
フジテレビの「世にも奇妙な物語・20周年スペシャル・春」の中で、西田敏行さん主演のドラマ「まる子に会える町」で、栃木市内のあちこちで撮影が行われました。会社を解雇され消沈して見知らぬ街の中を歩き回り、そして橋を渡る西田さん扮する「楠本一郎」の元へ、、アニメのちびまるこちゃんが、彼が公園に忘れてきた封筒を手渡すために追いかけてきたのです。そして一緒にまる子ちゃんの家に・・・。
もちろん映画の設定ではこの町は「ちびまる子ちゃん」の街、静岡県の清水ということに。

話は元に戻りますが、私がロケ現場に遭遇した時の映画は、何んという作品だったのか、その時耳にした僅かな情報を基に、「とちぎフィルム応援団」の実績一覧の中から発見しました。その映画作品は「不撓不屈」というタイトルです。
鹿沼市出身の実在の税理士「飯塚毅」の実際に有った話で、彼が考案した「別段賞与」という節税処理を、「脱税だ」とする国税庁との見解の相違から裁判闘争となった。それを、作家の高杉良さんが「不撓不屈」と題して小説に書きあげています。
この映画の中で「嘉右衛門橋」でのシーンが3度有ります。
映画は冒頭ドイツロケで始まりますが、日本での最初の部分と中間部と終盤と言う、ストーリーの節目節目に嘉右衛門橋が出てきます。
私が出くわした撮影現場はその最初の部分で、嘉右衛門橋を2台の黒い車が渡って来る所だと分かりました。
主役の飯塚敦役は俳優の滝田栄さん、その奥さん役に松坂慶子さん。
嘉右衛門橋は映画の設定では「天神橋」と成っており、嘉右衛門橋の銘板は黒塗り処理されていました。
エンドロールの中でロケーション協力として、「栃木市例幣使街道を考える会」や「岡田記念館」「キシノクリーニング」・「味噌田楽油伝」「栃木病院」などの知った名前が確認出来ました。

こうして多くの映画やドラマのロケ地となっている「嘉右衛門橋」。ただ冒頭に記した通りこの橋、昭和2年の架橋ですから、すでに93年が経っています。
栃木市では、平成25年度に「橋梁長寿命化修繕計画」を策定して、橋梁の定期点検を実施、損傷の状況を把握しつつ必要に応じて補強補修を実施してきています。
このブログでも2016年4月12日に「栃木市内の橋が蘇っています」のタイトルで、補修が完了した「巴波川橋」や「常盤橋」「新井橋」などを話題に致しました。
「嘉右衛門橋」も当然修繕計画の対象となっています。現在は「幸来橋」や「開運橋」の様に、新しい橋に架け替える事は無いと思いますので、現在の姿を留めて補強される日も近いと思います。
橋の寿命点検1.jpg
嘉右衛門橋は架橋から93年が経っていてます。橋の中央部に橋脚が有る2径間の鋼桁橋です。

橋の寿命点検2.jpg
橋床側面部分に、コンクリート部が欠落して中の鉄筋が露出している部分が、定期点検でマーキングされています。これらも補修されていくものと思われます。



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南柏倉から皆川城内町を貫流して永野川に合流する藤川に架かる橋を巡る [栃木市の橋梁]

今回は、柏倉町から皆川城内町の中央部を貫流する川に架けられた橋を、巡りたいと思います。
川の名前は「藤川」。その源流は柏倉町の西の端、佐野市(旧葛生町)との境界を成し、琴平神社が祀られている鞍掛山(標高338メートル)の南麓の沢水になります。
琴平神社参道登り口.jpg藤川上流端.jpg
(琴平神社参道登り口)             (県道の北側山中に消えてゆく藤川最上流)
丁度琴平神社の参道登り口から東方向の皆川城内町に向かう県道126号線に沿って、「藤川」も東に向かって流れています。
県道126号線標識.jpg県道126号線.jpg
(県道126号線の路線標識)        (県道の右手を流れる藤川)

参道登り口前より少し県道を70メートル程下がって行くと、道路右手に鞍掛山北麓の沢と南麓の沢から流れ出た二筋の水の流れが合流しているのが、確認できます。
そこから更に600メートル程行った所で、これまで南側の山裾を流れていた「藤川」が、県道と交差して、道の左側(北側)に流れを変えますが、この所に架けられた橋が「柏倉橋(かしわくらはし)」です。
柏倉橋.jpg柏倉橋銘板.jpg
(柏倉橋より西方鞍掛山を望む)               (柏倉橋の橋銘板)

橋は特別な高欄は無く、白いガードレールが設置されているだけです。当初はこのガードレール部分に、嬌名と河川名の銘板が取り付けられていたようですが、盗難にあったのか現在は見当たりません。幸い橋桁に取り付けられている銘板は残っておりましたので、「柏倉橋」の嬌名を確認することが出来ます。
柏倉橋から300メートル程下ると、道路右手奥の山懐から一直線に水路が迫ってくるのが見える、「滝の沢」
です。土石流危険渓流の注意標識が立てられています。この沢水が藤川に落ちる地点で、藤川が県道の北側から南側に流れを変えます。ここに架かる橋の高欄も白色のガードレールで、表示版は何も設置されていません。ただ橋詰めに「一級河川最上端」と刻した石柱が目に留まりました。
橋の北東側に立派な長屋門を構えたお屋敷が見えます。
無名の橋1.jpg一級河川上流端の標柱.jpg
(橋詰に「一級河川上流端」の石柱が立てられた名前の分からない橋)

次の橋は250メートル程下がると現れました。そしてその先にもう一つ橋が架かっています。その間僅か40メートル程です。この場所で藤川の流れは県道の南側から北側に、そしてそこでU字ターンして、すぐまた県道の南側に流れを戻しています。
無名橋が二つ.jpgU字蛇行.jpg
(二つの名前表示の無い橋が連続する)    (県道北側でU字状に流れる藤川)

昔の道路はこの藤川の流れの北側を迂回していましたが、現在は橋を二つ架けて直線道路に成った様子が覗えます。
ここから100メートル程先に、栃木市の「ふれあいバス・皆川樋ノ口線」の折り返し点「南柏倉公民館前」バス停が左手に有った。更に500メートル程緩やかな下り道を進むと、県道から右手に折れて南側の打越(おっこし)の南麓に抜ける市道14266号がS字状に進み、その途中に藤川に架かる橋の高欄が見える。
土橋橋.jpg
(県道から南側を望むと、S字状の道路上に橋の高欄が見える)

橋の元に向かうと、高欄の親柱に橋銘板が設置されているのを確認できます。
土橋橋銘板.jpg土橋橋銘板2.jpg
(藤川に架かる「土橋橋」の橋銘板)     (藤川なのに「柏倉川」と表示されている)

橋の名前は「土橋橋」、チョッと妙な感じのする名前ですが、恐らくこの名前はこの場所には以前は土橋が有って、地区の人達が「土橋」「土橋」と呼んでいた事で、新しく橋が架け替えられた時、そのまま命名したものと思われます。ちなみのこの周辺の小字名に「土橋」という名は確認出来ません。
もう一つ妙に感じたのは「橋銘板」にある川の名前です。「藤川」では無く「柏倉川」となっています。こちらも恐らく地元の人達はこの川は柏倉を流れている川であるから単純に、「柏倉の川」で「柏倉川」をそのまま使用したものと考えます。この藤川の支流で北柏倉地区を流れているのが「柏倉川」と呼ばれています。ですからそれを「北柏倉川」と、そしてこちらを「南柏倉川」と呼べばスッキリします。が、下流域で皆川城内町の流れはどう呼べば良いのか。基をただせば、なぜ「藤川」と呼ばれるようになったものか、それも疑問に思います。
一筋に流れる河川では、このように地域で名前が変わる例はいくつも有りますが。

ここから市道を進み次の橋を探します。次の橋は市道のすぐ左側の田んぼへ向かう場所に有りました。幅員が狭いので車では通行できません。この無名の橋を渡り、藤川の左岸の土手道を歩いていきます。
藤川の左岸を川沿いの土手道を進むと次の橋も無名橋、更にその次の橋も無名橋です。
無名橋Ⅰ.jpg無名橋Ⅲ.jpg
(藤川には地元の人達の農作業の便に寄与するため、小規模の橋が多く架けられています)

藤川の下流側の先に皆川城址の城山を望むことが出来ます。
この藤川はあの皆川城址の南側を流れています。先はまだ遠いです。
続く無名橋.jpg
(水田地帯の中を流れる藤川、下流奥に皆川城址の城山が望める)

県道126号線に戻り皆川城内町に入っていきます。次に藤川がこの県道と交差する所は、「醍醐橋」です。その間藤川にはいくつかの土橋が架けられていますが、農作業の便に寄与する程度の小さな「橋です。
一方この「醍醐橋」は高欄を備えたコンクリート桁橋ですが、残念ながら橋銘板などは見当たりません。
この橋の名前もどのような経緯で付けたものか興味があります。「醍醐」の意味を調べてみると、≪五味の中で最も美味い味、最も優れている≫と、なかなか立派な意味のようです。更に調べてみたいと思います。

次の橋は「伊勢屋橋」です。栃木市史民族編の中に「皆川宿」の絵図が掲載されています。「皆川小学校」の文字が見えますからいつごろの様子になるのでしょうか。この絵図の中心を右から左へ走る道路が現在の「主要地方道栃木佐野線」その北側の町屋の裏手を街道と並行して描かれているのが藤川です。
ここで現在の(有)日向野建設(絵地図では醤油醸造所・幸島本家)の前で北側に入る細い道路が有ります。
路地の左角には「造酒屋(幸島分家)」、右角には「いせや(旅籠)」、路地を進むと藤川に架かる橋が有り(現在の伊勢屋橋です)、橋を渡った左側に「うらいせや(旅籠)」が描かれています。
私が1982年1月に現地を巡った時撮影した写真が有ります。店の看板には「幸島商店」と見えます。
1982年1月撮影幸島商店.jpg元旅籠いせや跡.jpg
(伊勢屋橋に向かう路地西側角の家屋)    (同じく路地東側角に建っていた家屋)

なぜ「伊勢屋橋」と命名されたか理由は明快になりました。
1982年1月伊勢屋橋.jpg伊勢屋橋銘板.jpg
(かつての伊勢屋橋は今も変わりありません。左奥に金剛寺本堂が見えます)

次の橋は現在の皆川中学校の構内に架けられた「希望の橋」です。1988年3月に校舎側と川向こうのグランドとの間に架けられた歩道橋です。
希望の橋(1993年5月).jpg希望の橋銘板.jpg
(皆川中学校の校舎北側、グラウンドへ続く「希望の橋」 後方に皆川城址)

次の橋は皆川中学校の東側を北に抜ける道路に架けられています。「仲倉橋」です。現在の橋は1988年6月に架け替えられています。私が初めてこの地域の橋を撮影した橋の写真と並べてみます。
1982年1月仲倉橋.jpg2013年5月2日仲倉橋.jpg
(架け替え前の仲倉橋、皆川城址南麓に皆川中学校の校舎)(現在の仲倉橋)

次の橋は「落矢橋」で、現在の橋は2000年3月に架け替えられています。同様に以前の写真と並べてみます。
1982年1月落矢橋.jpg2013年落矢橋.jpg
(架け替え前の落矢橋)              (現在の落矢橋)

この橋の名前も興味があります。何か歴史的な物語がそこに有るのではと。
先ほどの仲倉橋ともの落矢橋との間で、北側から柏倉川が合流してきています。そして藤川はこの後大きく流れを南に変えて、県道に架かる「新皆橋」の下を抜けて南流していきます。
新皆橋3013年7月.jpg
(主要地方道栃木佐野線と藤川の交差点に架かる「新皆橋」、上流側から撮影)

主要地方道栃木佐野線を渡り藤川右岸沿いの道を歩きます。
新皆橋のすぐ下流側に橋名表示の無い小ぶりの橋が架けられています。現在の橋は他と同様白色のガードレールの有る形状ですが、私が初めて来た1982年1月の時はコンクリート製の高欄が有り、そこ橋の上で地元の子供たち数人が遊んでいる風景でした。最近は街中を歩いてもなかなか人の姿を見かける事が少なくなりました。
1982年1月新開橋下流の橋.jpg2013年7月新開橋下流の橋.jpg
(架け替え前の橋の様子)          (現在の橋、上を走るのは市道14254号線)

更に下流に向かって行きます。藤川はここで東北自動車道の下を抜けて、東にゆっくり流れを変えていきます。高速道路の両側には側道が設けられていますが、その側道もその西側で山にさえぎられて無くなるため、この側道を利用する人は多くないと思われます。私も高速道路のアンダーを抜けて南側の田園地帯に。藤川の左岸を進み、途中無名の橋を一つ過ぎて、藤川最下流に架かる「砂畑橋」に向かいます。
2013年5月2日砂畑橋上流橋.jpg2013年5月2日砂畑橋上流方向.jpg
(高速道路の南側、中央奥に写る建物は栃木特別支援学校)(砂畑橋より上流方向を望む)

「砂畑橋」は市道14232号線が通っています。まっすぐ北上すれば東宮神社の参道前に出ます。現在の橋は1981年2月に架け替えられています。橋の上から下流側を望むと、前方奥で北から流れてきた永野川の右岸に合流しているのが確認できます。
2013年5月2日砂畑橋より下流方向を.jpg
(砂畑橋の上より下流側、永野川との合流点を望む)

これで柏倉町から皆川城内町を横断するように流れてきた藤川の橋梁巡りを終了します。
最後に今回見て回った藤川流域の概略図を準備しました。文章では伝えられなかった姿を、別の角度から確認できればと思います。
藤川流域橋梁分布図.jpg
(藤川流域橋梁設置分布概略図。赤点が橋が架けられている場所を表しています)

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柏倉川に架かる橋梁を巡る。 [栃木市の橋梁]

今回は、柏倉川に架かる橋を巡ります。
柏倉川はその名前の通り、栃木市街地の西方、皆川地区柏倉町の西北端、佐野市葛生地区との境界を成す山塊より湧き出る沢水に、その源を発する河川です。その後聖徳太子神社が祀られている「柏倉温泉太子館」の前を縦断した後、東南東に流れて皆川城内町の街中で、同じく西側から流れて来た藤川の左岸に合流をしています。

私が、この柏倉川に架かる橋の名前を求めて、初めて柏倉川の流域を訪れたのは、今から37年前の1月の事でした。以下に紹介するのはその時撮影をした写真です。下流側から遡っています。
①最初の写真は柏倉川の一番下流部に架かる「観音橋」で、柏倉側はこの後南側を流れている「藤川」に合流しています。橋の右手に橋の名前に成った「観音堂」が見えます。この写真ではまだ昔の姿の藁葺屋根ですが、現在は建て替えられて瓦葺の立派な堂宇に変わっています。又、バックには皆川城址の城山の南麓に建つ「皆川中学校」の校舎が見えています。
1982年1月観音橋.jpg

②次の写真は「谷津橋」です。「観音橋」の一つ上流側に架かる橋です。橋名の「谷津」は、この地区の字名に因ったものです。高欄も新しく感じます。「谷津橋」の銘板が確認出来ます。
1982年1月谷津橋.jpg

③三枚目の写真は「久保山橋」ですが、この橋は県道126号(栃木田沼線)を西に走り柏倉町に入った所、県道から脇道を少し北に入った所に架かっている橋です。橋名の由来は確認出来ませんでした。
1982年1月久保山橋.jpg

④次は「石尊橋」です。県道126号から右に分かれ、「太子館」方面への道を進むと、道路が柏倉川の右岸から左岸に渡る所の橋に成ります。橋名はこの橋の北方に位置する山の山頂に祭られた「石尊神社」に因んで命名されました。
1982年1月石尊橋.jpg

⑤次の写真は柏倉川に架かる橋では無く、柏倉温泉「太子館」の池に架けられていた橋を撮影した物です。柏倉川はこの池の東側を北から南に、聖徳太子神社の参道を横切る様に流れていました。当然参道にはその当時は苔生したコンクリート製の桁橋が架けられていましたが、高欄には橋名などの表示は見られませんでした。
1982年1月太子館.jpg

柏倉川は聖徳太子神社が祀られている「寺山」の北側の山麓に沿って、柏倉町北西の山懐に入って行きます。この先は道路と河川が交差を繰り返している為、その交差地点に橋が架けられています。最初に現れる橋が⑥「種入橋」その後⑦「たつみがえり橋」そして最後が⑧「栃目木橋」と成ります。
1982年1月種入橋.jpg
(種入橋を上流側から撮影。バックに写るのが寺山、左奥先端部に聖徳太子神社)
1982年1月たつみがえり橋.jpg
(たつみがえり橋の横に「一級河川上流端」の標柱が建てられています。)
1982年1月栃目木橋 (1).jpg
(栃目木橋を下流側から撮影。道も流れもまだ山中に向かって続いています。)

この最後の「栃目木橋」を確認・撮影をして戻りました。その当時私が橋探索に利用していたのは、国土地理院発行2万五千分1の地形図でしたが、その当時も現在の最新版に於いても、太子館より奥の地点で道路と河川が交差するポイントは上記の3ヶ所で、そこから先は道路も無くなるし、川の記載も無くなっています。
今回改めて現地に向かったのは、ゼンリン住宅地図にて更に上流に橋が記載されている事を確認した為です。
今回は全てを確認していませんが、平成に成ってから機会あるごとに撮影した写真を含め、以下紹介をしていきます。
①観音橋:平成15年(2003)6月に新しい橋に架け替えられています。
2013年7月観音橋.jpg
                     (2013年7月撮影)
②谷津橋:河川の護岸工事が行われた結果か、橋が架け替えられています。
2013年5月谷津橋.jpg
                     (2013年5月撮影)
③久保山橋:河川の護岸工事が行われていますが、橋は以前のままです。
2013年5月久保山橋.jpg
                     (2013年5月撮影)
④石尊橋:橋は新しく架け替えられ幅が広くなっています。「せきそんばし」です。
2013年5月石尊橋.jpg
                      (2013年5月撮影)
⑤柏倉温泉太子館入口に架かる橋:新しい橋に架け替えられています。
2015年1月太子館.jpg
                      (2015年1月撮影)
⑥種入橋:以前のままの橋です。「たねいりはし」の表示に成っています。
2015年1月種入橋.jpg
                       (2015年1月撮影)
⑦たつみがえり橋:以前のままの橋です。
2015年1月たつみがえり橋.jpg
                        (2015年1月撮影)
⑧栃目木橋:以前のままの橋です。「とちめきはし」の表示に成っています。
2019年1月栃目木橋.jpg
                         (2019年1月撮影)
⑨空久保橋:今回初めて確認をしました。「そらくぼはし」の表示に成っています。
2019年1月空久保橋.jpg
                         (2019年1月撮影)
柏倉川の橋銘板コレクションです。
観音橋銘板.jpg谷津橋銘板.jpg
久保山橋銘板.jpg石尊橋銘板.jpg種入橋銘板.jpg
たつみがえり橋銘板.jpg栃目木橋銘板.jpg空久保橋銘板.jpg
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栃木市野中町、永宮橋が新しくなりました。 [栃木市の橋梁]

栃木市野中町の北側から西側へと流れる赤津川に、最近新しい橋が開通いたしました。
この新しい橋は、野中町から吹上町に向かう、市道2042号線が赤津川を渡る箇所に成ります。
橋の名前は「永宮橋」です。
永宮橋1.jpg永宮橋2.jpg
(この3月新しい姿を現した「永宮橋」)         (橋桁に取り付けられた橋銘板)

この辺は、ウォーキングでたまに歩いて来る所で、2年前に来た時に赤津川左岸に沿った道路に迂回路が作られ、川の土手で護岸工事らしき光景が目に留まりました。その時考えた事は、どんな内容の工事をしているのか。新しい橋を架けているのかとも考えましたが、直ぐ上流に橋は架かっているし、工事個所の川の右岸の先には東北自動車道が走って、橋を作っても取り付け道路のルートが思い描けませんでした。
永宮橋8.jpg
(赤津川左岸沿いの道路に作られた迂回道路と工事用スーパーハウス)

今年の3月に出掛けた時にその疑問は解けました。そこには既に橋桁が掛かっていました。しかし、まだ取り付け道路がどうなるのかは、見られませんでした。 
永宮橋9.jpg 
(新しい橋桁が架けられています。手前は旧永宮橋の高欄)

4月に確認した時は、橋桁を覆っていた足場も外されて、高欄が取り付けられて、橋自体は完成している様でしたが、まだ取り付け道路は出来ていません。
橋桁の横には既に橋の銘板が取り付けられていました。橋梁名は「永宮橋」、その下側の日付は「2018年3月」が架橋年月。
永宮橋3.jpg
(新しい「永宮橋」より上流側を望む。古い「永宮橋」とその後方の小丘「米山」が見える)
新しい「永宮橋」への取り付け道路は、左岸側は直ぐ川に沿っている以前の道路に接続。又右岸側は橋詰から大きく円弧を描いて、上流側の旧橋の橋詰の所で、これまでの道路に接続して、東北自動車道のアンダー方向に進みます。私の期待は新しい橋から新しいルートの新道が作られるのではと、例えば橋の左岸側は橋から真直ぐ東方向に抜けて、栃木市総合運動公園北側の道路につなげるのではなどと、勝手に想像をしていたのです。

尚、新しい「永宮橋」の約60メートル上流側に架かっている古い橋も、橋名は同じ「永宮橋」です。
この古くなった橋が架けられたのは、昭和26年(1951)です。既に架橋後67年間にもなり、以前からその寿命が懸念されていて、架け替えか補強補修か検討されていた時、あの、今から3年前の9月9日から10日にかけての豪雨に伴い、橋の通行が危険となって通行止めの処置が取られていたのです。
永宮橋4.jpg
(2015年9月10日以降通行止めとなった「永宮橋」)
この時に、この赤津川の下流に架かっていた、「田原橋」と「鹿嶋森橋」が橋脚の損壊や流失の被害を受けてその後取り壊し処理され「廃橋」となっています。
田原橋.jpg鹿嶋森橋.jpg
(2015年9月10日の豪雨の被害で廃橋となった、「田原橋」と「鹿嶋森橋」の被災状況)

ただ、「永宮橋」はその後応急的な補強がされて、再び通行が可能になっていました。その時私は、補強する事で新しい橋への架け替えは無いのだと考えました。でも今、見事に新しい橋が架けられ安心して通行する事が可能になったのです。

この「永宮橋」の橋名の由来はなんなのか、その一つとして、橋の上流右岸、東北自動車道のアンダーを抜けた先、野中町と吹上町の境界が山の頂上を通る「米山」と言う、標高82メートル程の小丘の南端に石の鳥居が建てられています。
永宮橋5.jpg
(東北自動車道のアンダーを抜けた先に現れる石の鳥居の有る小丘「米山」)

この「米山」の野中町側の山の中腹に祀られている神社が、「長宮神社」と言う野中町の旧村社に成ります。
永宮橋6.jpg永宮橋7.jpg
ただ、橋名は「永宮」の漢字ですが、神社名は「長宮」となっています。この相違は何なのか、私にはまだ回答を見付けられておりません。
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栃木市の南関門道路のこと [栃木市の橋梁]

栃木駅前から北に進み、現在のデニーズの有る交差点に至る道路は、通称「南関門道路」と呼ばれ、昭和3年に開通した道路です。
2015年関門橋から北方向.jpg
(2015年撮影、手前の橋が「関門橋」、中央奥にNTTビルと通信アンテナ塔)
1964年8月南関門通りより.jpg1980年頃南関門通りより.jpg
(1964年撮影、「関門橋」より北側、消防署の火の見櫓)(1980年頃撮影、消防署移転後)
この南関門道路が出来るまでは、市街地の中央を縦断する大通りから直接、南の栃木駅を結ぶルートは有りませんでした。明治21年(1888)5月22日両毛線の小山・足利間が開通し、栃木駅が出来る以前、江戸時代を通して南側から栃木の市街地に入るルートは、栃木の市街地を西側から南側を囲むように流れる、巴波川に架かる「開明橋」を渡る、日光例幣使街道しか有りませんでした。
栃木駅が出来てから、駅前から伸びる道路は、大正4年(1915)測量・大正6年(1917)7月20日発行の、2万5千分1の地形図「栃木」を見ても、①東方向へ両毛線の線路の北側に沿って進み、例幣使街道の「開明橋」から南に伸びる、「古河街道」に突き当たり、左に折れて先ほどの例幣使街道に合わさって、「開明橋」から市街地に入るルート。②駅前から真直ぐ北に進み、例幣使街道を横切って巴波川に架かる「相生橋」を渡る、現在の「ミツワ通り」。そして③として、その西側から北北西方向に進み、これも例幣使街道を越えて、錦着山方向に向かう現在の「女子高通り」の3本しか有りませんでした。

この「南関門道路」が初めて栃木の地形図に現れたのは、昭和7年(1932)12月28日発行の地形図に成ります。この地形図は昭和4年に修正測量の結果が反映されていますから、昭和4年以前に開通していた事が分かります。それでも私はこれまでハッキリした事が分かっていませんでしたが、昨年暮れの栃木市主催の文化講座「大正から昭和にかけての栃木」の講話の中で「昭和3年に開通した」と教えて頂きました。
私の手元に栃木市観光協会が昭和26年9月1日に発行した「栃木市鳥瞰図」が有ります。この図には更に多くの道路が新たに加わっていますが、「南関門道路」周辺を抜粋して説明します。
南関門道路鳥瞰図.jpg
(栃木市鳥瞰図より栃木駅前、南関門道路付近を抜粋しています)
赤マジックインキにてハンチング表示した道路が「南関門道路」、道路上を赤マジックインキにて破線表示したルートが「例幣使街道」に成ります。
例幣使街道が栃木宿に入る前に、西から東に一度迂回するようにして、栃木宿に入って来ていますが、なぜこのようなルートを採ったのか、私にとっては一つの謎です。
それではなぜこの時期に南関門道路は造られたのでしょうか。当時の様子を少し振り返って見ますと、少し遅れる事昭和9年(1934)に太平山遊覧道路が開通しています。又、昭和11年(1936)には万町交番前交差点から北側の「北関門道路」も開通しております。御存じの通りこれらの道路は、昭和4年(1929)より顕著になった世界大恐慌の影響で日本経済は株の暴落や多くの会社倒産により、街の中は失業者で溢れていた時期で、その失業対策の一環として行われたものと言われます。
しかし、南関門道路はその計画の時期はそれよりも少し早く進められています。そこには関連する事では、昭和4年(1929)4月1日に、東武鉄道日光線(杉戸-新鹿沼間)が開通をしています。そして、それに先立って栃木駅の駅舎が昭和3年(1928)に建て替えられています。又、昭和2年(1927)には関東自動車㈱が栃木町に創設されています。(※昭和5年に本社を宇都宮に移転)という事で、栃木駅が交通の中心として大きく変わって行った時期だった事で、栃木駅と栃木市街地とを直結する道路が望まれた時だったのではと考えられます。
新しく開通した「南関門道路」について、日向野徳久先生監修の「ふるさとの思い出写真集・栃木」の中で、昭和12年4月1日の栃木市制施行当日に撮影された「南関門道路」の写真説明に、≪この頃の南関門道路はもてあますほどの広さに感じられていた≫と述べています。
又、栃木市発行の「目で見る栃木市史」のページをめくると、「霧の朝」と題し、≪南関門橋上より栃木駅方面を望む≫と説明が付けられた昭和7年頃撮影された、背景が霧で霞む「関門橋」の親柱の写真が掲載されていました。
関門橋の高欄は最近新しくなりましたが、親柱は以前のまま綺麗に化粧直しされ、橋の銘板も新しく取り付けられました。親柱の上に取り付けられた街灯も最初のデザインの方が重みが有ったと思われます。
関門橋旧親柱.jpg関門橋新親柱.jpg
(1980年撮影、旧関門橋高欄と親柱)   (1999年撮影、新関門橋高欄と親柱)
「南関門道路」の「関門橋」の南側に、巴波川から分水した「沼和田用水」に架かる「片柳橋」の高欄や親柱も新しくなりました。同時に橋の銘板も入り、橋名も分かる様になりました。
片柳橋旧親柱.jpg片柳橋新親柱.jpg
(1980年撮影、旧片柳橋の親柱)     (2013年撮影、新片柳橋の親柱)
昭和34年(1959)11月に、駅前南関門道路の商工会館前に、栃木市のネオンアーチが設置されました。そのアーチも商工会館も今はもう過去のものと、なってしまいました。
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(1964年撮影、南関門道路に設置された栃木市のネオンアーチ、手前は旧商工会館)
2013年元栃木商工会議所前付近.jpg
(2013年撮影、元商工会館が有った丁字路は東側に道路が抜けました)
南関門道路から見た風景も時代と共に移り変わり、街の姿も大きく変わってきました。
1980年関門橋から南方向.jpg1980年関門橋から北方向.jpg
(1980年撮影、関門橋から南側を写す)    (1980年撮影、関門橋から北側を写す)
現在、栃木駅前から南関門道路周辺は多くの予備校・進学塾に変わり、夜に成るとそれらのビルから漏れる照明の明かりと看板の照明だけが目立っています。
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(2015年8月撮影、夜の南関門道路)

国府村と大宮村との境界付近に有った「いちどん橋」 [栃木市の橋梁]

相当以前の事ですが、栃木市国府町の歴史の本を読んでいた時に、「一度橋(いちどんはし)」と呼ばれた橋が有ったと言う記事を目にしました。それ以来ずっとその橋が何処に有るのか、有ったのか気に成って、機会有る事に探していました。
半ばあきらめていましたが、先日自転車で大宮町から国府町を通って、下野市方面に出かけた時、偶然に途中の道端に「一度橋跡」と記した、案内板が目に留まりました。
一度橋1.jpg
(枯れた夏草に覆われた「一度橋(いちどんはし)」の説明板)
案内板の建てられた場所は、大宮町と国府町との境界を成す道路の脇で、そこには橋長2m程、橋幅4m程のコンクリート製の、橋と気付かぬ程の小さな橋が現在も架かっています。橋から西北西に350m程戻った所に、国府町の日枝神社の参道入口が有ります。
この「一度橋」の架かる場所は、現在も大宮町と国府町との境界線上に成っていますが、大正6年発行の地形図にても同様に境界線と成っています。
周辺には耕地整理により直線的なあぜ道が交差しておりますが、橋の架かるこの道だけは昔のままの曲線状の姿が残っています。しかし、橋の下を流れる堀の姿は大きく変わり、コンクリート製の水路が直線直角の流れと成っていました。
一度橋2.jpg
(一度橋の北側には圃場整備事業に伴う調整池が、奥に「四季の森」住宅団地を望む)
一度橋3.jpg
(調整池の東側から南側を囲むように流れる「延長用水堀」、左奥に太平山を望む)

一度橋を渡り東に少し行った道路脇に又同じような説明板と小さな石の祠が祀られています。道端の小さな石の祠は「見返り浅間」と言う様です。先ほどの「一度橋」とも関連する一つの伝承が、ここ国府町に残っているのでした。
一度橋4.jpg
(木花咲耶姫のロマンと悲話とが残る地に祀られた「見返り浅間」)

※「二度と渡れぬ、一どん橋」の悲話が載っている、島田順三郎著「坂東下野国 坂東鎮護の地 室の八島ものがたり」は、栃木市図書館にて閲覧しました。

新しい大光寺橋が今日開通しました。 [栃木市の橋梁]

今日、栃木市の東の縁を北から南に流れる「思川」に新しい橋が完成して、盛大に開通式が執り行われました。
栃木市日ノ出町から東に進み、下野市を通って、真岡市久下田に至る、栃木県道44号線(主要地方道)が、栃木市大光寺町内にて思川を渡る「大光寺橋」になります。
大光寺橋開通0.jpg
(右側に新しい大光寺橋、左側がこれまでの大光寺橋)
今までの旧大光寺橋は、昭和36年の架橋から55年の月日が経ち、老朽化が著しくなっていました。又、通行量の増加に伴い、平成3年に自転車や歩行での通行の安全をはかるため為、北側に「大光寺側道橋」も併設して対応して来ました。その為以前から新しい橋の完成に大きな希望が寄せられていました。
大光寺橋(1981年)1.jpg旧大光寺橋(2015年4月).jpg
(昭和56年撮影の大光寺橋)        (平成27年4月撮影、建設中の新橋を望む)
今日、開通式を迎えた新しい「大光寺橋」は、従来の橋の60メートル南側(下流側)に建設され、橋の長さ339メートル、橋の全幅13.3メートル(有効幅員12.5メートル。7.5メートルの車道の両側に2.5メートル幅の歩道を完備)、橋の左岸(東側)で大きく北にカーブし、下野市に入った蓮華寺の前方で旧道につながっています。
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(渡り初め式を待つ、新大光寺橋)
開通式が始まる前、少しみぞれらしきものが落ち、冷たい風が吹いていましたが、そんな中でも着々と準備が進められていました。新しい橋の西橋詰に開通式典用の多くのテントが張られ、式典を盛り上げる為、地元の円光寺お囃子保存会、栃木市立国府南小学校和太鼓部、栃木市立東陽中学校ブラスバンド部の皆さんが待機をしています。栃木県建設業協会下都賀支部によるポップコーンやとん汁、わたあめのブースも設けられていました。
大光寺橋開通11.jpg大光寺橋開通10.jpg
(式典が開始するのを待つ人達)
そして、「とち丸くん」や「とち介」もお祝いに駆けつけていました。
大光寺橋開通2.jpg大光寺橋開通1.jpg
(栃木のTのポーズで写真に写るとち介)(とち介が示す橋名プレートの文字は平池県議の書)
式典が始まる頃には、雲が切れ青空が顔を出して来ました。そして、それに伴って多くの一般の参列者も集まって来ました。
開通式式典が始まり、栃木県知事をはじめ県議会副議長、地元栃木選出の県会議員、栃木土木事務所長、栃木市長他関係者の方々から挨拶が有りました。引き続き橋の袂に移動して、新しい大光寺橋の交通の安全を祈る式や、関係者代表によるテープカット、くす玉開披が粛々と進められました。
大光寺橋開通4.jpg大光寺橋開通5.jpg
(交通安全祈願の文字を清める)     (テープカットに臨む県知事他代表者の皆さん)
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(地元の幼稚園の園児たちも加わって、くす玉を開披)
大光寺橋開通7.jpg大光寺橋開通8.jpg
(一般の参加者も新しい橋の渡り初め)  (先導するパトカーに続いて新橋を渡る関係車両)
大勢の関係者の人達と一般の参列者で祝賀ムードに包まれた一日。新しい橋の上から役目を終えた旧大光寺橋を眺め、「長い間お疲れ様でした」と声を掛けました。
大光寺橋開通12.jpg
(役目を終えようとしている、これまでの大光寺橋)

栃木市内の寺社に見る橋、ここにも有りました。 [栃木市の橋梁]

栃木市内には特別に紹介をするような有名な橋は有りません。
唯一、県の土木遺産となっている錦着山南東麓に有る石造りアーチ橋「八雲橋」については、前に私のブログでも紹介をしました。
今回は市内の社寺の境内・参道等に架けられた、神聖な場所と俗界との境界の印としての橋を紹介したいと思います。今まで何気なく渡っていた所も有るかも知れません。
最初は、これは皆さんご存知でしょう、太平山神社の神橋です。この橋は渡ることは出来ません。
太平山神社神橋(1981年)0.jpg太平山神社神橋(1981年)1.jpg
(1981年に撮影しました。新しく架け替えられた時です。)
次は惣社町大神神社の境内、室の八島に架けられた「八嶋橋」です。杉木立の中、緑に包まれた朱塗りの橋が趣を増しています。
八嶋橋0.jpg八嶋橋1.jpg
岩舟町小野寺、村檜神社参道に架かる石橋。風化した石が歴史を感じさせます。
村檜神社0.jpg村檜神社1.jpg
以上の神社は、市内では誰も名前は知っている歴史の有る所ですが、次は近場に有っても以外と気付いていない神社です。
入舟町県庁掘りの直ぐ傍、井上神社参道に架かっている「神代橋」です。
井上神社0.jpg井上神社1.jpg
箱森町鷲宮神社参道入口に架かる橋です。親柱に「昭和三年」と刻まれています。
箱森鷲宮神社0.jpg箱森鷲宮神社1.jpg
同じく都賀町家中の鷲宮神社です。毎年11月23日の例大祭(酉の市)にはお囃子や御神楽などが賑やかに行われます。
参道には赤く塗られた「御禊橋」が有ります。「昭和34年11月竣工」、「皇太子御成婚記念」と親柱に刻まれています。この年の4月に現在の天皇皇后両陛下がご結婚なされました。それを記念して造られました。
家中鷲宮神社0.jpg家中鷲宮神社1.jpg
皆川城内町の東宮神社参道に有る「御神橋」の高欄には「紀元二千五百七十二年 氏子中」とも刻まれています。西暦では1912年になります。
皆川東宮神社0.jpg皆川東宮神社1.jpg
東宮神社には子供の頃、流鏑馬や草競馬を見に、親に連れられて来ました。その時の大勢の人の活気が今も思い出します。
次は寺院の境内に架けられた橋を紹介します。最初は旭町定願寺の弁天堂前に架かる橋です。
定願寺0.jpg定願寺1.jpg
大平町富田の玉正寺境内に架けられた「極楽橋」です。寺院ならではの命名です。平成10年8月吉日と記されております。
玉正寺0.jpg玉正寺1.jpg
最後も大平町です榎本の大中寺の参道に架かっている。「吉祥橋」と刻まれております。昭和41年6月と読めます。又別の親柱には「先祖報恩」などとも刻まれています。
大中寺1.jpg大中寺0.jpg
それぞれの橋には氏子の方や檀家の方の色々な思いが込められ奉納されたものに違いありません。

巴波川に架かる雷電橋 [栃木市の橋梁]

私が住む栃木市に巴波川(うずまがわ)と言う名の小河川が北から南に流れています。
この川に「雷電橋」と名付けられた橋が二つ有ります。
その一つは、栃木市の大町と箱森町の間に架けられた橋です。この「雷電橋」へのルートは嘉右衛門町の街中を通る旧日光例幣使街道がY字路に分岐する所が有ります。その分岐点に「庚申塔」と刻まれた大きな石が祀られており、「右日光」・「左三日月」と有ります。
嘉右衛門町庚申塔0.jpg
ここを左の三日月道に進みます。途中大きな道路に出ますが、その通りを渡ってその先の細い道を進みますと、正面に川上稲荷神社が見えてきますので、そこを又左に行き墓地の中を抜けます。
川上稲荷神社0.jpg墓地の中の通路.jpg
道の左手にずっと公園が細長く続くが、古い栃木の地図を見ると川の印に成っています。ここは旧巴波川の河川跡に作られた公園です。
旧巴波川跡公園.jpg旧巴波川跡公園1.jpg
道はその先でT字路にぶつかります。左折すると橋が架かっています。この橋が現在の「雷電橋」の場所となります。現在の橋は昭和41年(1966)の竣工になります。
栃木雷電橋0.jpg1980年頃栃木雷電橋.jpg
大正6年の頃は巴波川は現在公園に整備されている方向に流れていましたが、現在は昭和40年発行の栃木の地図では、雷電橋の所から真直ぐに荒川との合流点に向かう流れに変わっています。
巴波川荒川合流点.jpg
(下流の合流点、左から荒川、右から巴波川、手前の水門が旧巴波川の合流点)
雷電橋を渡った三日月道は北北西に進んで行きます。片側二車線の広い通り(栃木バイパス道)が有りますので近くの信号の有る横断歩道を渡って、又通りの先の細い道を少し進むと、杉木立の有る神社の脇に出ますが、この神社が橋の名前となった箱森の「雷電神社」です。昭和40年の地図には鳥居の記号が記されています。
箱森雷電神社0.jpg箱森雷電神社1.jpg
(箱森町の雷電神社)
三日月道はこの神社から更に北方向700m程先に有る三日月神社に向かっています。
三日月神社0.jpg
(川原田町の三日月神社)
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