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栃木県足利市の戊辰戦争関連石碑を巡る [石碑]

群馬県の倉賀野にて中山道から分岐して、日光東照宮に向かう旧日光例幣使街道。
群馬県太田市から栃木県足利市に入ると、最初の宿は八木節発祥の地「八木宿」。そこから更に三十町(約3.3km)東の方向に進むと、「梁田宿」に入ります。
この足利市梁田町の中ほど、旧日光例幣使街道沿いに「旧日光例幣使街道梁田宿」と記した石碑が建てられています。平成二十二年五月に、御厨郷土文化研究会の五十周年を記念して、同会と梁田地区自治会連合会とによって建てられています。
旧日光例幣使街道梁田宿の碑.jpg旧日光例幣使街道梁田宿の碑陰.jpg

この石碑の建つ脇の道を入ると、突き当りに寺院が見えます。
長福寺山門.jpg
山門脇に「曹洞宗梁田山長福寺」と刻した石碑が建っています。この寺院の境内に、「明治戊辰梁田役東軍戦死者追弔碑」が建てられています。石碑の横に建つ足利教育委員会による説明文を参照させて頂くと、<(前略) 梁田戦争は慶応四年(1868)三月、例幣使街道梁田宿でおこった旧幕府軍と官軍との戦いである。内田万次郎は幕府軍として父と共に参戦し、その後も五稜郭の戦いまで各地を転戦した。戦後、大蔵省印刷局に奉職し、退職後碑を建立した。戊辰戦争慰霊碑や墓碑において、幕府軍の名を刻んだものが少ない中、「東軍」と幕府軍であることを刻む当碑の歴史的価値は髙い。>と、記されています。文中の「内田万次郎」は、碑陰に「大正十三年九月 従軍衝鋒隊士 従四位勲三等内田万次郎建之」と刻されている人物に成ります。碑は、足利市重要文化財(史跡)に指定をされています。
長福寺境内に建つ石碑.jpg追弔碑の説明板.jpg

更に、本堂の左手奥の墓地の中に、「梁田戦争戦死塚」が有ります。
長福寺墓地の戦死塚.jpg

こちらも塚の脇に建つ説明文を参照させて頂くと、
<慶応四年(1868)三月九日未明に勃発した、いわゆる梁田戦争に倒れた幕軍戦死者の墓である。
表面に 戦死塚 裏面に 慶応四戊辰年三月九日 戦死六十四人此地埋 梁田宿 と行書をもって陰刻してある。梁田戦争の直後、村民の手により渡良瀬河原に合葬し墓碑を建てた。しかし、河流の変遷のため、明治四十三年に星宮神社傍らに墓碑を移し、遺骨は現在地に改葬した。その後、昭和六年に墓碑も現在地に移し、今日に至っている。>と、記されています。こちらの「戦死塚」も、足利市重要文化財(史跡)に指定されています。
戦死塚の説明板.jpg
ここ、梁田宿における戦争は、西軍(薩摩藩・長州藩・大垣藩)の約二百名と、東軍(幕府軍)約九百名による市街戦となったが、勝ったのは人数の少ない西軍の勝利となっています。なぜこれほどの人数の差が有りながら、東軍が負けた原因は何処に有ったのか、東軍は前日の3月8日に館林を目指して移動していたが、館林藩は東軍に対して軍資金を提供して、梁田宿を勧め、一方で西軍に対して使者を送って、情報提供をした。梁田宿は日光例幣使街道の宿場町として繁栄しており、幕末には旅籠屋約30軒を数え、飯盛り女も多数抱えていた。東軍としては館林藩の斡旋と言うことで、安堵感も有り油断が有ったのか、その夜は僅かの歩哨しか立てず、酒宴を催した。その間西軍は熊谷から奇襲部隊が18キロの夜道をひた走り、梁田宿を三方に分かれて包囲体制を引き、9日早朝に奇襲攻撃を開始しました。
東軍としては、寝起きを襲われた形で、戦線の立て直しが出来ず、多くの戦死者を出し、渡良瀬川を越えて東に敗走。2時間余りの戦闘で梁田戦争は決着が付いたのであった。
渡良瀬川右岸土手上より望む梁田宿跡.jpg渡良瀬川.jpg
(上の写真は、現在の梁田宿の通りを、渡良瀬川の右岸堤防上より撮影したものと、同位置にて反転して、渡良瀬川側を撮影したもので、現在は渡良瀬川の河川敷には、ゴルフ練習場が広がっていました。)

西軍の戦死者3名負傷者10名に対して、東軍の戦死者63名負傷者75名を出しています。そしてこの戦いの中で、東軍の軍監であった、柳田勝太郎が銃創を被り戦死しています。
その軍監柳田勝太郎の墓碑が、梁田宿南東の加子村(現在の足利市久保田町)の崇聖寺墓地に建っています。
衝鋒隊軍監柳田勝太郎之墓.jpg
墓碑正面中央に「衝鋒隊軍監柳田勝太郎之墓」と大きく陰刻されています。その左脇に小さく「天光書」と有ります。この墓碑の近くには、説明板が見当たりませんでしたので、碑陰に刻まれた碑文を確認しましたが、碑の上部は見難くなっていて、ハッキリ読み取ることが出来ません。
<柳田勝太郎ハ會津藩士小右衛門ノ長子ナリ容貌魁偉夙ニ剛毅ノ士ト交ハリ同藩士佐川官兵衛林又三郎等ト☐☐善シ藩主京師守護職トナリ京師にアルヤ常ニ之レニ從ヒ慷慨國事ニ憂ヘテ已マズ明治戊辰年幕軍古屋作左衛門隊ノ軍監トナル将士皆其ノ恩威ニ服ス慶應四年三月九日梁田ニ戰ヒ身數銃創ニ被リ自・・・>この辺までは何とか読み進みましたが、誤読する可能性が大きく、以下部分的に読み取れる字も有りましたが、断念しました。
建碑されたのは、大正十四年三月九日と有ります。建碑尽力者に四人の名前が刻まれています。最初の名前は、<陸軍歩兵中将 眞下菊五郎>と有ります。この人物は碑文の中にも記されていますが、この梁田戦争の記録を克明に調べて「明治戊辰梁田戦蹟史」を著わした方です。

次に、下渋垂町の自性寺山門脇に、お地蔵様等と並んで、小さ目の石碑が建てられています。
碑の表には「戊辰戦役幕軍之墓」と陰刻されています。碑陰には「慶應四戊辰三月九日戦死」と有ります。ここ下渋垂村にて戦死をした幕府側の2名を埋葬した墓碑に成ります。
自性寺山門.jpg自性寺山門脇の石碑.jpg

最後に、「弾痕の松」を見に行きます。この梁田戦争の時、梁田宿内の中山藤作氏方に有った、松の幹に砲弾が当たって、そのまま食い込んだまま残された。砲弾はその後、太平洋戦争時の供出で抜かれ、痕はコンクリートで塞がれています。この松はその後2か所移植を繰り返し、現在は梁田公民館敷地に祀られている招魂社参道脇に、その姿を留めています。
弾痕の松.jpg弾痕の松(拡大).jpg

梁田公民館には、「梁田戦争」関連の資料を展示したコーナーが有りました。

今回の参考資料:
・北関東戊辰戦争 田辺昇吉著
・下野の戊辰戦争 大嶽浩良著 下野新聞社編集発行

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巴波川で世界平和を願う [祭]

今日、栃木市の夏祭りが、大通りや巴波川などを会場にして、沢山の催しが行われました。
私は、巴波川を会場に例年行われている、湊町の二荒山神社の「百八灯ながし」と、その前に開催された栃木商工会議所の企画提供による「世界平和祈願 鎮魂線香花火と灯ろう流し」を、見てきました。

歩いて会場に向かうと、すでに巴波川に架かる「幸来橋」を中心に、多くの人達が集まって来ていました。
陽が落ちて、辺りが徐々に暗くなってきて、巴波川沿いに立てられた行燈が点灯、会場はイベントの開始時間に近づくと、次第に盛り上がってくる気配に包まれました。
川沿いの行燈に火が灯る。.jpg

最初は「世界平和祈願 鎮魂線香花火」です。
平和を願って輝く線香花火.jpg
特大の線香花火に一斉に火がつけられると、巴波川の両岸綱手道には、オレンジ色の光を放つ線香花火が、巴波川の川面にキラキラと輝きを写し、会場全体を幸せな空間へと包み込んで行きました。
平和を願って輝く線香花火2.jpg平和を願って輝く線香花火3.jpg

続いて、参加された200人の子供達が事前に、思い思いの願い事などを書いた灯籠が、世界平和を願い祈り、次々と巴波川へと流されました。
幸来橋の下を平和を願って流れる燈籠.jpg
平和を願って流れる燈籠.jpg
そして次に、会場にて開始前に配られた「ペンライト」が、一斉に「赤」・「黄」・「青」・「緑」の光を発し、すっかり暗くなった会場に、一つ一つは小さな輝きが、100、200、そして300と増え、会場全体に点灯、様々な光が乱舞しました。
平和を願って光ペンライト1.jpg平和を願って光ペンライト2.jpg

こうして、川岸に並ぶ行燈の光と川面を流れる灯ろうの光、そして会場に参加した子供たちや観客とが一緒になって振られたペンライトの光が、世界の平和と子供たちの未来を明るく輝くものに成らんことを願って、イベントが終了しました。

先程までの熱気が次第に収まり、再び栃木の夜の静寂が戻ってきます。
そして暫らくしてから、おもむろに法螺貝が吹かれ、湊町二荒山神社の「百八灯流し」が、厳かに始まりました。巴波川の下河岸から、神様を祭った御神船が、川を遡ってきます。
船べりには沢山のロウソクに火が灯っています。
百八灯流し、巴波川を上る御舟.jpg
幸来橋の手前で停泊した御神船の上で、神主さんによる神事が執り行われました。
御船の上にて神事を執り行う.jpg
御神船の脇を、「二荒山神社奉納」「百八灯ながし」と記した灯ろうが静かに流れて行きます。
百八灯流し、巴波川を下る御舟.jpg
御神船は、ここで方向を転換して、巴波川を下流方向へと戻って行きます。
途中、船上の神主さんや世話人の方々が、舟べりに灯したロウソクを、両岸で見守っていた人達に向けて、投げて行きます。
岸からは「こちら、投げてください。」「今年出産予定です。」の声が飛んでいました。

百八灯流し、安産守りのロウソクを投げる.jpg
この神事に使われたロウソクは、縁起物「安産のお守り」と言われています。
お産の時に、貰い受けたローソクに火を付けて、ロウソクの火が燃え尽きるまでに、無事出産出来ると言うので、なるべく短くなったロウソクが喜ばれていました。

真夏の夜、巴波川で行われた二つの行事。最初は子供達の輝かしい未来の為に、華やかに賑やかに。
そして、静けさの中で厳かに行われた、伝統行事「百八灯ながし」。
未だ手元で光を放している「黄色のペンライト」と御神船から投げられた短いロウソクとを手にして、私も家路につきました。


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石碑から見る、まさに波瀾万丈の生涯を送った「中浜万次郎」 [石碑]

四国の最南端の地、高知県土佐清水市の南端、太平洋に突き出た足摺岬。
太平洋から打ち寄せる波が、断崖の足元の岩礁に白い波しぶきを上げています。
足摺岬.jpg
そんな足摺岬の、公園入口駐車場の脇に、燈台の形を模した「足摺岬 四国最南端」の碑が建てられています。そして、その碑の後方に、羽織袴姿の人物の銅像。後姿が灌木の上に突き出て見えます。
銅像の正面に回り込んでみると、台座に「中浜万次郎像」と記した、プレートが、そして側面には碑文を刻したプレートが付いています。
足摺岬四国最南端の碑.jpg中浜万次郎像.jpg
(四国最南端の碑)        (中浜万次郎像)

中浜万次郎像(碑文).jpg
中浜万次郎と言う名前を見ても、どのような人物なのか、聞いたことが無い名前です。
横の碑文を読んでも、ピンときませんでした。
1827年から1898年、年号で言うと「文政10年から明治31年」という、碑文冒頭に有る、
<中浜万次郎は、鎖国から開国にゆらぐ激動期の日本歴史の影で大きな役割を果たし、ついで興った明治文化の開花に著しい貢献をした一人であった。>と記されています。

高知県には、幕末の日本で活躍した人物として、「坂本龍馬」を筆頭に、「板垣退助」「武市半平太」などの名前が浮かびます。彼らは正に歴史の表舞台で大活躍をした人達です。
それに対して、この中浜万次郎はどのような人物だったのか、更に知りたくなりました。
碑文の中に、彼の生まれた場所が、足摺岬近くに有ると言うことで、その地に足を延ばしました。

「中ノ浜」は現在の土佐清水市中浜で足摺岬から足摺半島の西海岸沿いの道を北西方向に9キロメートルほどの所。現在の地形図を見ると、手前に「大浜」その先に「中浜」そしてその先に「清水」と言う地名が見え、中浜の海岸沿いの道路脇に、記念碑の地図記号が見えます。
中浜万次郎帰郷150周年記念の碑(表).jpg中浜万次郎帰郷150周年記念の碑(碑陰).jpg
記念碑正面に、「中浜万次郎生誕地」、中央部に肖像写真が描かれ、その下に「中浜万次郎帰郷150周年記念」揮毫は、記念碑建立時の土佐清水市長 西村伸一郎書。台石部分には、帆船の絵が描かれています。
碑陰を確認すると、日本語と英語の碑文が刻まれています。「中浜万次郎帰郷150周年記念の碑」として、<母国日本に帰りたい、中浜の母に会いたいの一念が叶い、中浜万次郎が故郷中浜に帰着したのは、漂流から11年余の1852(嘉永5)年11月16日のことである。母汐との束の間の再開。彼は土佐藩の士分から風雲急を告げる江戸幕府の直参旗本として登用され近代日本の夜明けの為に大活躍をしたのである。帰郷150周年を機に、郷土の偉大なる先人、中浜万次郎の人間愛と不屈の精神(ジョンマン・スピリット)を顕彰しこの碑を建立する。>と刻まれています。
この碑が建立されたのは、2002年10月13日に成ります。

「ジョンマン・スピリット」。ジョンマンこと「ジョン万次郎」が「中浜万次郎」その人でした。
ジョン万次郎は、14歳の時漁船に炊係として乗り、太平洋で嵐に会い遭難、仲間と共に南海の無人島に漂着、その後米国の捕鯨船に救助され、米国に渡り、かの地にて初等・中等教育を受け英語・数学・航海・造船等の高度な学問を習得し、その後米国の捕鯨船に乗り世界の海を航海し、帰国を果たした後には、江戸幕府に仕え、幕府軍艦「咸臨丸」等に乗り、通訳や技術指導をしている。
その間、坂本龍馬や岩崎弥太郎・勝海舟ら、幕末から明治維新に渡り、多くの日本人に大きな影響を与えたと言われた人物です。

海を臨む近くの高台に、もう一基石碑が建てられています。
中浜万次郎記念碑登り口.jpg
石段の登り口に、「中浜万次郎記念碑」と記した案内が建てられています。
贈正五位中濱萬次郎翁記念碑.jpg
碑の正面に「贈 正五位中濱萬次郎翁記念碑」 その左下脇に「公爵徳川家達書」と刻されています。
揮毫者、徳川家達(とくがわ いえさと)は、徳川慶喜謹慎後の1868年(慶応4年)に徳川宗家第16代当主となった人で、明治初期に静岡藩主(知藩事)を努めています。廃藩置県後に貴族院議員。従一位大勲位侯爵。
石碑の台座後ろ側に碑文が有ります。
贈正五位中濱萬次郎翁記念碑(碑文).jpg
こちらの碑文も、紹介すると。
「贈 正五位中濱萬次郎翁記念碑 公爵 徳川家達 書」
<中濱萬次郎翁ハ、文政十年土佐國幡多郡中ノ濱ニ生ル。十五歳ノ時、宇佐漁船ニテ太平洋ニ漂流シ、米国船ニ救助セラル。船長ホイットフィールド氏、翁ノ資性活達ニシテ才幹アルヲ愛シ、本国ニ伴ヒ、天文航海ソノ他諸般ノ學術ヲ修メシム、屢、世界ン各地ヲ周遊シ、嘉永四年本邦ニ還ル。幕府援擢シテ普請格ニ擧グ。萬延元年幕使ノ米國ニ派遣セラルルヤ、東道ノ任ニ當リ、歸來ス。寫眞機、裁縫具等ヲ
齎シ、文明利機ノ普及ニ資ス、明治ノ初年、開成學校中博士ニ任シ、仝四年普佛役觀戰ノ爲、大山巌、林有造諸氏ノ一行ト共ニ渡歐セリ、維新前後ノ名士、翁ノ指教ニ擧ル者多ク、當時世界ノ新知識ヲ本邦ニ移植セル功績尠カラズ、明治三十一年十一月十二日東京ニ卒ス。
享年七十二歳、昭和三年十一月特旨ヲ以テ正五位ヲ贈ラル、茲ニ郷黨ノ有志相謀リテ、地ヲ翁ノ生地ニ擇ト碑石ヲ建テ梗概ヲ記シ翁ノ卓犖タル一代ノ勲業ヲ不朽ニ傳フ。
    昭和四年五月建元       寺石正路 撰      畔柳完道 書  >

碑文を撰した、寺石正路氏は高知県の郷土史家。 書いた畔柳完道氏は書家で、中浜万次郎の子、中浜東一郎氏の妻よしの弟に成ります。

「中浜万次郎」と言う名ではピンときませんでしたが、「ジョン万次郎」と言う名前は私も知っていますが、でも今回石碑の碑文を読み、彼の資料等を調べて、改めて彼の偉大さを知ることが出来ました。
偉大と共に、非常に幸運な星の下に生まれた人物だと、思いました。
生れた家は、貧しく、幼くして父を失い、家族の為に子供のころから生活費を稼がなければならなかった。漁船に乗って海に乗り出せば遭難、無人島に漂着すると言う何とも悲惨な状態に有ったものの、無人島の生活も仲間4人と協力して生き延びています。143日間の無人島での生活を乗り越え、米国の捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助されます。
捕鯨船の船長ホイットフィールドは、萬次郎の生れついた明るく元気な性格や、物事をきちんとやり遂げる能力などに、関心を持ち、萬次郎をアメリカに連れ帰ります。萬次郎自身のアメリカへの興味を持ちます。一緒に救助された他の4人は、途中安全なハワイにて降ろしています。
アメリカで彼は「ジョン・マン」と呼ばれました。「ジョン」は彼を救助した船の名前「ジョン・ハウランド号」の「ジョン」。萬次郎の「マン」で、「ジョン・マン」に成ったと有りました。そして船長ホイットフィールドの養子になっています。
彼は賢く、英語も航海術も良く理解したようです。卒業後にはアメリカの捕鯨船に乗って、世界中を航海して回っています。一等航海士副船長にもなっています。

そんな彼も、やはり幼くして別れた「母に会いたい」と言う気持ちは次第に膨れて行きます。そしてついに帰国を考え、船長に別れを告げて、日本への帰国の資金を稼ぐために、當時アメリカ西海岸に起っていた、ゴールドラッシュの地に向い、4か月滞在し、金鉱で働きます。
帰国の途中、ハワイに寄ってそこで3人の仲間と一緒に日本に帰って来ています。

当時の日本はまだ鎖国政策をとっていましたから、帰国するのも大変だったようで、最初に上陸した琉球王国や九州長崎奉行の取り調べなどで、母親に再会するまで1年以上待たなければならなかった。

ふるさと「中ノ濱」に帰っても、母親との生活はそんなに長くは無かったようで、彼のことを知った江戸幕府から招かれ、直参旗本となり、ここで生まれ故郷の「中浜」の地名を名字として、「中浜万次郎」と名乗っています。
アメリカにて習得した英語や航海術、造船技術等を生かして、幕府の軍艦に勤務。万延元年(1860)の日米修好通商条約の批准書交換の為、アメリカに向かう使節団を乗せたポーハタン号の随行艦「咸臨丸」の通訳、技術指導員として乗り込んでいます。この「咸臨丸」には、艦長の勝海舟屋福澤諭吉らも乗っていました。

それからも、通訳や航海の技術指導員として、東奔西走の生活を送って行きます。
四国の片田舎の貧しい漁師の身から、日本の幕末から明治維新への、激動の時代の最前線で、活躍。正に波乱万丈の人生を送った、「中浜万次郎」。その一片を垣間見ることが出来ました。

参考資料:ウィキペディア「ジョン万次郎」「徳川家達」「寺石正路」「中濱東一郎」











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