SSブログ

松本清張記念館に行ってきました

私が初めて北九州市小倉北区を訪れたのは、三年前の1月です。
小倉駅に着いたときは既に日没を過ぎ、南口を出ると駅前ロータリーは色鮮やかなイルミネーションで飾られていました。
小倉駅南口.jpg
(JR小倉駅南口)

私は、駅近くのビジネスホテルに荷物を置くと、その足で小倉の街に出かけました。
駅中の居酒屋に入り、先ずは腹ごしらえをし、それから小倉城に向いました。
紫川.jpg
(紫川は名前に因んでか、紫の照明に輝いていました)

紫川を渡り、ライトアップされ真っ暗な夜空に浮かび上がる小倉城を眺め、周囲を散策しているとき、城の一角に立つ「小倉城周辺案内図」を見つけ、そこで「松本清張記念館」の文字を見つけました。
小倉城ライトアップ.jpg
(ライトアップで白く浮き出る小倉城)

小倉城案内板.jpg
(「小倉城周辺案内図」に「松本清張記念館」の存在を知る)

でもその時は、予定もしていなかったし、既に閉館時間を過ぎていましたので、記念館の前を通り過ぎただけでした。

松本清張の作品は、テレビドラマで見た「砂の器」や「黒皮の手帳」などで好きになった作家の一人ですが、特にそれらの原作本を読んだと言う事は有りません。それでも私の蔵書の中に清張の本が、4冊あります。「渡された場面」新潮社昭和51年11月10日発行、「屈折回路」文藝春秋昭和52年7月15日発行、「風紋」講談社昭和53年6月12日発行、「水の肌」新潮社昭和53年10月15日発行。
私がまだ20代の頃、会社の休みには、市内の本屋さんに良く出かけていました。
その頃は新田次郎・遠藤周作・城山三郎などを、良く読んだ記憶が有ります。
30代以降は、仕事や生活に追われて、読むのは必要に迫られて技術専門書ばかりに。

今、70代になって、比較的時間の余裕が出来てきましたが、読書も体力が必要なのか、なかなか昔の様に作品の中にのめり込んでいけなくなりました。

今年は、松本清張没後30年の年になるそうで、テレビでも松本清張を扱った番組が多かったように感じています。
5月7日NHK、新日本風土記「松本清張 昭和の旅」が放送されました。その中で清張の作品とそれにまつわるエピソードなどが紹介され、改めて松本清張の凄さを、気付かされました。
映画「砂の器」はこれまでも、何度も何度も観ています。
ラスト部分で、丹波哲郎演じる「今西刑事」が、犯人を特定するに至った経緯を「捜査会議」で述べて行くシーン。重複して加藤剛演じる犯人のピアニスト「和賀英良」が演奏するシーン。その中に映し出される和賀英良の少年時代の回想シーン。さらにバックに流れる和賀英良作曲とする「宿命」の曲。
何度見てもたまらないクライマックスシーンです。

今年の夏、又、九州に行く機会が有りました。そんな訳で、今回は最初から「松本清張記念館」見学を予定し、スケジュールを組みました。
小倉駅から歩いて小倉城へ、今年二度の火事に見舞われた「旦過市場」を横に見て、紫川を渡り小倉城方向に歩いていきます。小倉城にも寄ることも無く、本丸跡の南西部角に建つ「北九州市立松本清張記念館」へ向かいました。
旦過市場.jpg太陽の橋.jpg
(紫川に架かる「中の橋」は、「太陽の橋」と言う愛称が付いています。橋自体がアート作品の様で、橋の高欄の形も凝っています。橋の前方に見える高いビルは「北九州市役所」。ビル右手に「小倉城」が少し顔を出しています。)

小倉城石垣.jpg小倉城.jpg
(市役所を過ぎると、歩道わきに石垣が見えてきます。そして小倉城の姿も見えますが、前方の木立の方に進んで行きます。)

先のNHKの放送にも出ていた建物が見えてきました。建物の周りを一回りしてから、入場しました。
松本清張記念館1.jpg
(南西側交差点方向から写した「松本清張記念館」の建物)
松本清張記念館2.jpg
(「松本清張記念館」の玄関周辺を写した写真)
松本清張記念館3.jpg
(記念館の建物の平面案内図)
松本清張記念館4.jpg
(記念館の東側、小倉城の石垣が左手、右手が記念館の建物。ここはかつては小倉城の堀が有ったような感じがします。確認していません。)

残念ながら館内は撮影禁止との事。カメラをバックに収納して、ゆっくりと館内の展示物を見て回りました。
受付から入った先に、天井まで届く松本清張作品の本の表紙が壁一面に展示され、それは正に壮観な展示風景で、見ているこちらに圧倒してきます。そして清張作品が系統的に図示された展示を見ると、作品の多様性、フィクション有りノンフィクション有りと、あらゆる分野の作品を書いていることに、驚くばかりです。そして、松本清張の生きた足跡を、その時代背景とともに辿る「年譜」。見て行くと時間がいくら有っても足りそうに有りません。
展示物の中に、松本清張の東京高井戸の家屋の一部(書斎や書庫)が、清張が亡くなった時の状態で移され再現されたコーナーが有ります。ガラス越しに中の様子を見られるようになっています。

今、私の手元にその時買い求めた「松本清張記念館図録」があります。ページをめくって行くと、記念館で見た展示内容を、じっくりと見直すことが出来ます。
そして今回、「砂の器」の原作を読み切りました。久しぶりに作品の中にのめり込むことが出来ました。やはり凄いの一言です。

nice!(0)  コメント(1) 

旧奥州街道の佐久山宿を巡る [歩く]

奥州街道は、江戸時代に整備された五街道の一つです。私はこれまで「白沢宿」と「喜連川宿」を歩いて来ています。そして、今回は喜連川と大田原との間に開けた「佐久山宿」を、歩いて巡ってきましたので、紹介したいと思います。
11月11日に佐久山を訪れた時、丁度御殿山公園(佐久山城跡)では、もみじ祭りが行われていました。
御殿山公園もみじ祭り1.jpg御殿山公園もみじ祭り2.jpg
公園内に立てられた説明板によると、<佐久山城跡:文治3年(1187)、那須資隆の次男泰隆が築城し、佐久山氏を称し居住しました。のち永禄6年(1563)、子孫の佐久山義隆は、一族の福原資孝(大田原資清の次子)に滅ぼされ廃城となりました。(中略) 元禄15年(1702)福原資倍が佐久山城の一部を補修し山麓に陣屋を構え、四つ谷の地から移りました。以降福原氏が居住し、明治2年(1869)に福原資生が版籍を奉還するまで続きました。
現在は御殿山公園と呼ばれ、公園内の楓(土佐楓)は、土佐の山内氏から養子となり文政2年(1819)に家督を継いだ福原資敬がもたらしたものと伝えられています。>と、有りました。

公園内は「イロハモミジ」が、真っ赤に色付いて実に綺麗です。ただ植物に疎い私は、説明板に有った「楓」と「もみじ」の見極めが出来ません。

紅葉を堪能した後、奥州街道の佐久山宿入口から歩いて見ました。
佐久山宿は、栃木文化協会発行の「栃木の街道」の中で、次のように紹介されています。
<喜連川より二里三十町の地、昔から「狭山」とも、「作山」とも言われ、地形的に山と言うよりむしろ丘陵が連なる地域に入ってくる。丘陵が北の箒川におちる河岸段丘と思われる地帯、川と丘陵の間に細長く発達した地域に宿場町「佐久山」がある。>

佐久山宿の概略地図を、佐久山地区公民館にて頂いた、佐久山の観光案内マップ「知ってっけ佐久山」を参考に作ってみました。
旧佐久山宿概略図.jpg
地図上方に「箒川」が西から東へと流れています。一方地図の下方は御殿山公園などが有る丘陵地帯が横に連なっています。この丘陵地帯の標高は220メートル程度で、箒川右岸の水田地帯の標高が、170メートルであるから、丘陵地帯の比高は50メートル前後と言う事に成ります。
その丘陵地帯の北麓に沿って、佐久山の宿場が発達したことが見て取れます。
箒川の河原から佐久山を望む.jpg
上の写真は、箒川左岸より「御殿山公園」方向を写したものです。低い丘陵地帯が横に連なっています。あの丘陵の手前に佐久山の街並みが有ります。左端に写る橋は「岩井橋」に成ります。

喜連川より北上して来た「奥州街道」は、佐久山宿の入口でこの丘陵地帯を越えて行く必要が有ります。その前坂を越えてきたところ、旧奥州街道(概略図で破線で記した道)沿い左手を少し奥まった所に堂宇が見えます。「観音堂」です。入口脇に六地蔵の他「馬頭観世音」「勝善神」と刻した石碑が、ずらっと並んでいます。境内に「水準点 191.667M 観音堂境内」の表示板が有りました。
観音堂.jpg
観音堂の裏手、墓地の先に県道48号が抜けています。
観音堂入口前から少し坂を下ったところ、今度は道路の右脇に丘陵を上る石段が目に留まりました。
観音堂前から北に下って行く.jpg

石段の左脇に大きな自然石に「二十三夜塔」と刻んだ石塔が有ります。側面に「文化十二乙亥年十一月吉日」の日付。西暦では1815年に成ります。
虚空蔵堂参道石段.jpg二十三夜塔.jpg

丘の上にトタン板を葺いたこじんまりした堂宇が建っています。観光案内マップには「虚空蔵山」と記され、卍の地図記号が付いています。
虚空蔵堂.jpg

寛延四年(1751年)に記された「武奥増補行程記」の中に、奥州道中佐久山宿を描いた絵図が残されています。その中でここ前坂付近を描いた部分を見てみると、前坂を登って下った付近に「くわん音」と赤い鳥居と石段を上った上に「星の宮ノ社有」と記されています。おそらくこれが現在に残る「観音堂」であり「虚空蔵堂」に当ると思われます。星の宮と虚空蔵菩薩は一体で、我が栃木市の太平山神社の「星宮神社」の建屋が御堂の様式となっているのも、同様にかつての神仏習合の名残です。
上記絵図には、前坂を下った所に「咲山入口」と有り、木戸が描かれています。

現在は、坂を下ってくると街道は左手に鍵の手に曲がって行きます。曲がった先が佐久山宿の本通りです。
佐久山宿入口枡形.jpg

鍵の手に曲がる角附近に「なまこ壁」の蔵が左右に建っています。
なまこ壁の蔵2.jpgなまこ壁の蔵1.jpg

鍵の手を左に折れると、いよいよ佐久山宿の本通りに入ってきました。少し歩いて行くと、左後ろから先程の観音堂裏手を抜けてきた県道と合流します。その合流点から県道を少し戻った所から、山側に入る道を進み、左手高台へ上がる石段を上ると、立派なお堂が正面に現れます。「薬師堂」です。
薬師堂.jpg

参道の脇に「薬師堂改修由来」と題した石碑が建てられています。
<抑々当薬師ハ延宝七巳未年(約三百年前)佐久山城主福原内匠頭資清公ニヨッテ創建セラレシモノ、本尊薬師如来ハ、浄瑠璃世界(天上ノ理想境)ヲ建設スト言ワレル佛ニテ、特ニ眼病ニハ霊験灼カトノ信仰ヨリ往時ハ遠近ヲ問ワズ陸続トシテ参詣者ノ絶エルコト無カリシト言ウ、・・・・(後略)>
延宝七年は江戸時代の初期、西暦1680年に当る。

街道に戻ります。佐久山宿の本通りを西進すると、直ぐ小さな橋を渡ります。親柱を確認すると、「大橋」跨ぐ水路は「用水」とだけ記されています。「昭和三十七年三月竣功」の銘板も付いています。
佐久山宿下町大橋付近.jpg

この用水は南側の丘陵地帯から流れ出て、街道を横切って佐久山宿の北側に沿って西から東に流れている「佐久山川」に落ちています。その佐久山川は東に流れ、北側をほぼ並行して流れている箒川に合流していきます。少し横道にそれて用水に沿って町の北裏に沿って流れる佐久山川の様子を見ておきます。
用水路を下る.jpg

前に記した「武奥増補行程記」の佐久山宿を描いた絵図を眺めると、絵図右端に高欄を持つ板橋が描かれています。そして描かれている川の流れに「逆川」と記されています。なぜ「逆川」と有るのか、関東地方栃木県の河川は概ね、川の流れは北から南へ、又、西から東へと流れていますから、南側から北に向かって流れている水の流れは「逆川」と呼ばれたものと思われます。

宿場の町並みを南から北側に流れた「用水路」は、街並みの北側の外れで西から流れて来た川に合流して、東に向かって流れて行きます。国土地理院発行の佐久山の地形図には「佐久山川」の名称が記されています。
佐久山川.jpg
上の写真は「佐久山川」左岸にて上流側(西方向)に向って撮影したものです。写真左側の木立の先に佐久山の町並みが有り、右側は水田が広がりその先(北側)に箒川が流れています。

親園佐久山バイパス工事中.jpg
上の写真は、佐久山川沿いから北側に向った写したもので、工事中の道路は「親園佐久山バイパス」です。田んぼの先に「箒川」が左から右に流れています。

寄り道しました。街道に戻ります。
街道の脇に、東と西に少し離れていますが、二基の新しく建てられた石碑が有ります。どちらの石碑も佐久山出身の偉人の顕彰碑です。
街並みの東側に建つのが「豊道春海翁生誕之地」の碑。そして西側、郵便局左側に建てられた「村上英俊翁生誕之地」の碑で、共に道路の南側に建ち、北に面しているため撮影は逆光状態、石碑が黒御影石で鏡面仕上げが施されている為、周りの風景が写り込み、石碑の題字が読みにくくなってしまいます。

豊道春海翁生誕之地碑.jpg豊道春海翁碑説明板.jpg
上の写真は、豊道春海(ぶんどうしゅんかい)翁の顕彰碑正面を写したもので、「豊道春海翁生誕之地」と刻まれ、翁の顔写真と「心花」でしょうか、翁の書が刻まれています。
また、碑陰には<明治十一年(1878)九月一日那須郡佐久山町(現大田原市佐久山)の川上家に生まれる 幼名寅吉 上野寛永寺春性院住職篠原守慶大僧正につき得度出家受戒 法名慶中 坊号を常応坊慶中と改め僧籍に入る 次いで牛込行元寺豊道妙澄尼に請われ豊道家を嗣ぐ・・・・(後略)>等の、経歴が刻まれています。

村上英俊翁生誕之地碑.jpg村上英俊翁碑説明板.jpg
二基目の石碑正面には、<村上英俊翁生誕之地>と中央に大きく刻まれています。
碑陰には、<文化八年(1811)四月八日 佐久山宿(現大田原市佐久山)本陣佐野屋の主人村上松園の長男として生まれる 幼名は貞介 江戸に出て唐津藩の儒者大野鏡湖に師事して漢学を 篠山藩の侍医足立長雋に師事して医学を学ぶ 文政十一年(1828)津山藩侍医宇田川榕庵に師事し 蘭学を学ぶ 妹が信州松代藩主真田幸貫世子幸良の側室となった縁で 弘化元年(1844)頃松代藩に仕官 佐久間象山から火薬製造法について意見を求められ スウェーデンの化学者ベルセリウスの化学書を読む必要性を説く オランダから購入された化学書がフランス語で書かれていたため 象山のすすめもありフランス語を独学で学ぶ 約二年の苦難の末 嘉永三年(1854)解読なる・・・・(後略)>と、その経歴が刻まれています。

ここ佐久山の地から出た二人の偉人を、知ることが出来ました。

丁度この二基の石碑の中ほどの位置、道路北側に新しい公衆便所が有ります。こうして街歩きをする身にとって最高にありがたい施設です。そのさらに奥に堂宇が有ります。観光マップには「大日堂」として出ています。
大日堂.jpg

前出の「武奥増補行程記」の佐久山宿の絵図には、中町の北側に「安楽寺」の文字が見えますが、現在は残っておらず、この「大日堂」のみが残っています。尚、頂いた観光マップには「大日堂」の横に「大ケヤキ」と有り、その写真も掲載されています。お堂の前に「天然記念物佐久山のケヤキ」と刻んだ標柱が立っているものの、近くにそれらしい大木は見当たりません。お堂裏手にケヤキに付いての説明板などが立てられているだけです。
大日堂の大ケヤキ.jpg
写真下側に写る石碑には、<県指定文化財「佐久山長宗寺大日堂のけやき」樹勢回復治療事業記念 無事 平成十二年九月七日 佐久山長宗寺大日堂 住職 照教代>

平成十二年に樹勢の回復治療が施されたことが分かりますが、残念ながら現在「大ケヤキ」の姿を見る事は出来なくなってしまいました。

街道を更に西に進んで行くと、郵便局の先に左に入る道路が有り、その道に入って行くと、道路が左にカーブしていく辺りで、道路右側に真直ぐ高台に向かう石段が有り、石段の上に朱塗りの山門が見えます。石段登り口両側石柱に、「月江山」「實相院」と有ります。
実相院山門.jpg実相院鐘楼.jpg

実相院は前出の「武奥増補行程記]佐久山宿の絵図にも「実相院」と記されています。
境内の案内板に由来が記されていました。
<月江山慈雲寺実相院と号す。曹洞宗 永享年間(約五百五十年前)福原氏の娘、この地に尼寺を創建し、実相庵と称し、後に実相院と改称される。永禄十一年(1568)福原家累代の菩提所となり、寺録を受く。文化五年(1808)火災により、山門及び本堂に安置せる仏像四体を残し、大伽藍は全焼した。文政四年(1821)本堂伽藍の再建工事が竣工した。現在の堂宇がそれである。>
山門は大田原市の指定文化財であるが、何か被災をしたのか、屋根部分がブルーシートに覆われていました。尚、梵鐘は昭和三十八年(1963)人間国宝 長野垤志先生の作で、口径81.8糎(センチメートル)・総高114糎・重量680瓩(キログラム)有ります。

再び街道に戻り西に進んで行くと、道路は二股に分かれます。ここで鍵の手に右手に少し下りながら進む道路が、県道48号(奥州街道)で、大田原市街に向かいます。
佐久山宿西の枡形.jpg
一方左側で真直ぐ西に向かう道路は県道52号(日光街道)です。矢板方面 国道4号に向います。

鍵の手を右に曲がった先、道路左側に又一つ寺院の大屋根が見えてきました。
入口の両サイドに建つ門柱に、「川越山無量壽院」「淨土眞宗本願寺派 正淨寺」とあります。
この寺院は、江戸末期の嘉永三年(1850)に出版された「下野国誌」にも記されています。
本堂の建つ境内部は、街道から相当低くなっています、それだけに真正面に見える本堂の大屋根が大きく感じます。
正淨寺本堂.jpg正淨寺鐘楼.jpg

境内の西側に松尾芭蕉翁の句碑 <花の陰謡に似たる旅寝哉> が建てられていました。
芭蕉句碑.jpg

この寺の「川越山」の山号には、次のような話が伝わっています。(大田原市史より引用)
<川越阿弥陀如来:七百年ほど昔、奥州に向かう親鸞聖人が佐久山宿岩井町の孫八と言う者の家へ泊った。孫八は上人から法話を聴いて聖い心になり、翌朝上人が立去った後、上人を慕ってその後を追った。が、既に上人は二僧を従えて、箒川を渡っていた。孫八は川越しにもう一夜の宿をとるように願った。ふり返った上人は記念の品にと孫八に帛を持って来させ、川の対岸に立って筆をとり、空中に何か書いていたが、此岸で孫八が拡げている帛には、上人の一筆ごとに阿弥陀像が描かれて行った。孫八は尊像を家に置くのは畏れ多いと、近くにささやかな小堂を建てて安置、これが今の川越山無量寿院正浄寺の始まりである。>と。

奥州街道はこの先で「箒川」を渡ります。「武奥増補行程記」の佐久山宿の絵図を見ると、佐久山宿を出た先に、川に橋の絵が描かれています。川には「伯耆川 水清」と書かれています。この「伯耆」の読み方が分からなかったので、手元の広辞苑を開いて調べたところ、これで「ほうき」と読むと出ていました。<旧国名、今の鳥取県の西部>と有りました。そしてその「伯耆川」の街道筋に板橋の絵が描かれています。
箒川を渡ると、いよいよ那須野ヶ原に歩みを進める事となります。
佐久山宿を後にして、奥州街道は北に進み次の宿場「大田原宿」に向かうこととなります。

今回、佐久山宿を歩いて来ましたが、この佐久山宿は以前歩いた「白澤宿」と、地理的条件が似通っているように感じました。
白澤宿も、坂を下って、左に折れると宿の本通り。左側の町並みの裏手は丘陵地帯、そして街並みの右側裏手には小河川(白沢宿は九郷半川)が流れている。宿の出口は鍵の手で右に折れて行き、其の後大きな川(白沢宿は鬼怒川)を渡る。ただ佐久山宿は遠かったです。高速道路を使っても移動だけで、往復2時間もかかってしまい、歩く時間が十分に取れなかったのが残念でした。

参考資料:
・栃木の街道 栃木県文化協会発行 
・奥州道中ー大田原の街道と宿場= 大田原市那須与一伝承館編集発行
・奥州街道 歴史探訪・全宿駅ガイド 安倍 甲発行
・大田原市史 史料編 大田原市発行
・ちゃんと歩ける日光街道 奥州街道 八木牧夫著



 

nice!(0)  コメント(0) 

隅田川のサンセットクルーズを予約していましたが! [橋梁]

先週の土曜、インターネットで探した「隅田川のサンセットクルーズ」を予約して、意気揚々と上京をしました。しかし、集合場所の日本橋船着場で聞いたのは、「今日のクルーズは欠航となりました。」と、その理由は「船のスクリュウ―に異物がからんだ為、安全航行が出来ない。日本橋川は結構異物が漂流していて、こうしたアクシデントが発生する事が有ります。」と説明が有りました。
残念ですが仕方が有りません。あきらめて帰ることとしましたが、せっかく来たのでせめて近くの東京駅のライトアップを写真に収めて行こうと考え、東京駅前で暗くなるのを待って撮影してきました。
東京駅.jpg

幸い、それほど冷え込みがなく、東京駅丸の内駅前で時間を潰し、あきらめて浅草駅に向かうことに、地下鉄に乗ったものの、せっかく久しぶりの東京。思い切って途中の「東銀座」の駅で下車。
歩いて最寄りの「両国橋」を目指しました。が、「両国橋」はライトアップされておらず、親柱上の球体に光が灯っているだけ。
両国橋.jpg

仕方なくここから隅田川に沿って浅草まで歩いて、途中の橋のライトアップを見て行く事にしました。
現在、隅田川の両岸は「隅田川テラス」として整備されているようです。
総武線鉄橋近くで「隅田川テラス」に出て、隅田川右岸を歩いて遡って行きます。
最初に迎えてくれたのは、「蔵前橋」です。
蔵前橋.jpg
三連の上路アーチ鋼橋の、三径間の中央部高欄が赤に、左右の高欄は白。下のアーチもはっきりと浮き出ています。
下部構造の鉄骨にも照明が入り、鉄骨構造の美しさが目に快いです。
橋の後方には東京スカイツリーが、色々と照明を変化させています。
蔵前橋の下を抜けて行くと、次の「厩橋」の三連下路アーチ鋼橋の姿が近づいてきます。
厩橋.jpg
三つのアーチが連なる優美なフォームが白く輝き、中央部の高欄が青色に、左右の高欄がオレンジ色に照明、川面もキラキラと光を写しています。提灯を下げた屋形船が橋の下を抜けて行きます。
私も、予定では船に乗ってこうした風景を目にしていたはずだったのですが。

先を急ぎます。次は「駒形橋」です。
駒形橋.jpg
この橋の形は、三連のアーチ鋼橋ですが、中央径間は下路アーチ、左右の径間部が上路アーチと、リズミカルな曲線を描いています。その曲線部が水色に、そしてその曲線を横に一直線に貫く高欄の色は、中央は赤、左右が白に配色されて、横にそびえる東京スカイツリーと光の競演を見せています。

最後は東武浅草駅最寄りの「吾妻橋」です。
吾妻橋.jpg
この橋も三連の上路アーチ鋼橋です、橋の直ぐ脇に東京スカイツリーの外、アサヒビールのシンボリックな金色のオブジェが目を引いています。吾妻橋の中央径間部高欄の照明の色は江戸紫でしょうか、粋な感じです。
ここまでライトアップされた隅田川の橋を見ながら、歩いて来ました。お蔭で寒さを感じることなく、逆に体が火照ってきました。
電車の時間まで少し間が有ったので、浅草寺にお参りをして、帰路に就きました。
次回こそは船での「隅田川ナイトクルーズ」をしたいと考えています。
浅草寺.jpg
nice!(0)  コメント(0)