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童謡詩人「金子みすゞ」の世界に [石碑]

2011年(平成23年)3月11日、午後2時46分、今まで経験をした事の無い、大きな大地の揺れが、東日本全域に発生しました。「東日本大震災」です。
その災害の後しばらく、民放テレビ各局のCM放送が無くなり、私たちは「一編の詩」を耳にすることになりました。
  「遊ぼう」っていうと
  「遊ぼう」っていう。
       「馬鹿」っていうと
       「馬鹿」っていう。
  「もう遊ばない」っていうと
  「遊ばない」っていう。

        そうして、あとで
        さみしくなって、
  「ごめんね」っていうと
  「ごめんね」っていう。

        こだまでしょうか、
        いいえ、誰でも。

この詩が、何度も何度も、私の耳に入ってきました。

この詩が、誰のものかその当時は、全く知りませんでした。

「金子みすゞ」という名前を知ったのは、それからだいぶ経った後になります。

先日、「金子みすゞ」(本名テル)が、生まれ育った、山口県長門市仙崎を訪れ、仙崎駅から彼女が育った家(現在は復元された金子みすゞ記念館)まで、歩いてきました。

山口県長門市仙崎は、山口県の日本海側の、海に面した長門市の中央部、海に万年筆のペン先のような形で突き出た、その先端部分に栄えた漁師町で、その北側には日本海側の島では、佐渡島、隠岐の島に次いで、三番目に大きな島「青海島」がペン先に乗るように迫っています。
海に突き出た仙崎の街は、北側を青海島により、外海から遮断され、東側には「仙崎湾」、西側には「深川湾」と言う内海を形成、漁港として恵まれていました。
そのような自然環境で、明治のころまで捕鯨の街としても栄えていました。
長門市仙崎の概略図.jpg

万年筆のペン先の様に突き出た地形の、西側の付け根に位置する長門市の市街地から、山陰本線の支線「仙崎線」が、ペン先の中ほどまで伸び、仙崎駅へと繋がっています。
長門市仙崎駅.jpg
その仙崎駅の駅前から、真っ直ぐ北に向かう通りは、ペン先の先端までインクを通すスリットの様に見えます。
仙崎駅前から先端まで約1km。(先端には以前は、青海島に渡る「渡船場」が有ったようです)その通りを370mほど歩いた右側に、復元され「金子文英堂」の看板を掲げた、「金子みすゞ記念館」が有ります。
金子みすゞ記念館.jpg

この仙崎駅前から、仙崎の街の中央を縦断する通りは、現在「みすゞ通り」と呼ばれ、通りの各所に金子みすゞの写真のモザイク画や、みすゞの詩が掲示されています。幾つか紹介します。
駅の待合室のみすゞのモザイク画.jpg駅の東側に建つ詩碑.jpg

最初は仙崎駅待合室の壁いっぱいに描かれた、「金子みすゞ」の顔のモザイク画。モザイク画の一片一片に使われているのは、蒲鉾の板を利用しているそうです。(仙崎の特産の一つは、蒲鉾ですから)
そして仙崎駅舎の東側に建つ、「みすゞの詩碑」です。
碑文の部分を拡大してみます。
詩碑の碑文拡大.jpg

この詩の作品名は「星とたんぽぽ」です。この作品は小学校の国語教科書に掲載されました。
碑文を書き写してみます。

  青いお空の
     そこふかく

  海の小石のそのように
  よるがくるまで
   しずんでる

    昼のお星は
      めにみえぬ

     見えぬけれども
     あるんだよ

  見えぬものでも
     あるんだよ

      金子みすゞの詩
       星とたんぽぽより 

この碑に刻まれた詩の内容は、作品全体の前半の半分だけです。元の詩には、この後以下の様に続いています。

   ちってすがれたたんぽぽの、
   かわらのすきにだアまって、
   春のくるまでかくれてる、
   つよいその根はめにみえぬ。
      見えぬけれどもあるんだよ、
      見えぬものでもあるんだよ。

仙崎駅前の、みすゞ通りを見通せる場所に、本を開いた形のモニュメントが建っています。
右のページには、仙崎の街の地図が、左のページには、金子みすゞと「みすゞ通り」のことが刻されていますが、風雨にさらされてきた精でか、相当かすれてしまっています。
駅前のモニュメント.jpg仙崎の街並み1.jpg

みすゞ通りの最初の大きな交差点の、左向こうの商店に、モザイク画で描いた「花津浦」の景色とみすゞが詠んだ「花津浦」の詩。そしてもう一編「蛍のころ」の詩が掲示されています。
「花津浦」は、青海島の周りに点在する奇岩の一つ、金子みすゞは、仙崎八景の一つに歌っています。
花津浦.jpg
通りを先に進むと、右側の路地の入口に石の鳥居が建っています。横の家のしゃれた半月の窓のところに、みすゞの詩「祇園社」の一編が掲示されています。
祇園社入り口の鳥居.jpg祇園社の詩.jpg

このように、「みすゞ通り」に面する多くの家々で、みすゞの詩を掲示しています。
大漁の詩.jpg

これらを、一つ一つ見て読んでいると、あっという間に時間が過ぎて行ってしまいます。
みすゞの顔のモザイク画.jpg角の乾物屋.jpg
記念館の通りの向かいの家の側面に、また蒲鉾の板を利用して描かれた、みすゞの顔のモザイク画、
「わたしと小鳥と鈴と」の詩が、描かれていたようですが擦れて読みにくくなっています。
その先の路地の「角の乾物屋」。たばこのショーケースの下に、「角の乾物屋の」の詩が。

金子みすゞ(本名テル)は、明治36年(1903)4月11日、山口県大津郡仙崎村(現在の山口県長門市仙崎)に、父金子庄之助と母ミチの長女として生まれました。みすゞには2歳年上の兄「堅助」と、2歳年下の弟「正祐」が居りましたが、みすゞ2歳の時に父庄之助が、享年31歳で亡くなりました。そしてその翌年に、1歳とまだ幼かった弟「正祐」が、下関にて書店「上山文英堂」を営む、義弟「上山松蔵」の養子として、貰われて行きました。明治40年1月19日のことです。このころ金子家は兄の「堅助」が、仙崎に一軒しかない本屋「金子文英堂」を始めました。
少女時代のみすゞは、こうして書籍や文字に、おのずから触れる環境の中で暮す事になったようです。

大正8年(1919)8月26日、みすゞの母ミチが、下関の上山松蔵の後妻として、仙崎から出ていきました。母ミチの妹で、松蔵の妻であった「フジ」が前年の11月8日に死去したのが、きっかけだったようです。フジ、享年満42歳でした。
こうして、仙崎の金子家は、祖母「ウメ」と兄とみすゞの、3人暮らしとなってしまいました、みすゞが16歳の夏のことでした。

大正11年(1922)11月3日、兄「堅助」が結婚をしました。そして、それを契機にみすゞは、母の住む下関の上山文英堂書店に移りました。大正12年4月14日のことになります。みすゞ20歳の年でした。
これからみすゞは下関にて、本格的に作詩を始めることになります。
みすゞが作った512編の詩の全てが、下関に移ってから、昭和5年(1930)3月10日自死するまでの7年間に作られました。

山口県下関市唐戸周辺には、みすゞのゆかりの地や詩碑が建てられ、「金子みすゞ詩の小径」として、みすゞの足跡を訪ね歩くことが出来ます。その何点かをご紹介してみたいと思います。
旧赤間関郵便局庁舎.jpg旧秋田商会ビル.jpg
上の2枚の建物の写真は、左側が国登録有形文化財(建造物)で、日本最古の現役郵便局舎「下関南部町郵便局」と、右側の下関市指定有形文化財(建造物)の「旧秋田商会ビル」になります。きっと金子みすゞもこれらの建物を見ていたし、この郵便局から雑誌社宛に、作品を投稿していたのでしょう。

旧秋田商会ビルの前に、「金子みすゞ詩の小径」出発点の詩碑が建てられています。この詩碑に掲載されている作品は「障子」です。

次は、近くの寿公園に建てられた、「金子みすゞ顕彰碑」です。
中央には、下関に移り住んだ頃(20歳)のみすゞの顔写真。左側に作品「はちと神さま」の詩。右側に、「金子みすゞと上山文英堂」のことが記されています。
金子みすゞ顕彰碑.jpg金子みすゞ顕彰碑 詩碑「はちと神さま」.jpg

みすゞが下関に移って暮らしていた「上山文英堂本店」は、顕彰碑の建つ寿公園の前の道を、道なりに南に200メートルほど行った、通りの左手(東側)に有りました。当時の住所表示は、下関西南部四番地、現在「明治安田生命保険相互会社山口支店」が建っている辺りに成ります。みすゞが生活をしていた頃は、上山文英堂本店の左隣には、第百十銀行本店ビルが建っていました。

金子みすゞ顕彰碑の前から、今度は北に250メートルほど行ったところ、歩道の車道を背にして詩碑が建てられています。「黒川写真館跡」の詩碑には、ここ黒川写真館(現在は村田写真館)で撮影された「金子みすゞ20歳の写真」と、「山の子濱の子」の詩が刻まれています。
黒川写真館跡 詩碑「山の子 濱の子」1.jpg黒川写真館跡 詩碑「山の子 濱の子」2.jpg

上山家では、住まいから近かったこの「黒川写真館」にて、よく記念写真を撮っていたようです。

「金子みすゞ詩の小径」には、他にもう一か所写真館が出てきます。「三好写真館」です。
「三好写真館」は、唐戸町の「亀山八幡宮」の参道石段の西側に有りました。現在はコインパーキングになっていますが、歩道側に向かって詩碑が建てられています。
「三好写真館跡」の詩碑には、「鶴」と題する詩が刻まれています。
三好写真館 詩碑「鶴」1.jpg三好写真館 詩碑「鶴」2.jpg

以下に、詩碑に刻まれた碑文の冒頭部を抜粋して掲載します。
<金子みすゞは、亡くなる前日の1930(昭和5)年3月9日、亀山八幡宮参道そばの、この場所に有った三好写真館で、最後の写真を撮りました。そのときの心情は、想像にあまりあります。(後略)> 碑文の隣に、その時撮った写真も刻まれています。
この三好写真館は上山文英堂本店から約700メートルと、黒川写真館までの距離250メートルと比べると、3倍近く遠方の場所なのに、なぜ遠い三好写真館まで出かけて、最後の写真を撮ったのでしょうか。記念撮影の翌日、みすゞは睡眠薬を多量に飲んで自殺をしました。享年満26歳の若さでした。

最後に、もう一つ詩碑を紹介します。
唐戸銀天街詩碑「日の光」1.jpg唐戸銀天街詩碑「日の光」2.jpg

この詩碑は、亀山八幡宮の西参道鳥居を出た通りを、左方向に約90メートルほど行った、唐戸銀天街の中ほどに建てられています。1997年3月9日に彫刻シンポジウム実行委員会によって建てられています。

金子みすゞの詩は、口語体の話し言葉で、とても読みやすい、七五調で書かれているのも、読みやすさを増幅させています。リズムが有るからでしょう。その詩の特徴の一つとして、視点の逆転が多くみられます。この「日の光」の作品の中にも、四人の「おてんとさまのお使い」みちで出逢った南風に、何をしに行くのか答えていきます。最初の3人は日の光の陽の部分です。けれども最後のお使いは、寂しそうに言います。「私は、影をつくるため・・・・。」と、陰の部分です。視点が逆転しています。

最初に載せた詩は、「こだまでしょうか」と題する作品です。

今年は、金子みすゞ生誕120年になります。
私も、また金子みすゞが育った長門市仙崎の街を訪れ、ゆっくりと散策をしてみたいと思います。

今回の参考資料:
・金子みすゞ詩集  金子みすゞ著 (株)角川春樹事務所発行
・金子みすゞ 詩と真実  詩と詩論研究会編集 勉誠出版(株)発行
・童謡詩人金子みすゞの生涯 矢崎節夫著 JULA出版局発行


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宮城県石巻市周辺の震災遺構を見学してきました。

今年の夏、宮城県石巻市周辺の「東日本大震災」の震災遺構を見学に行ってきました。
2011年3月11日午後2時46分に発生した、マグニチュード9.0の巨大地震と、それに伴って発生した大津波に東北地方の太平洋沿岸に、潰滅的な被害を与えました。
あの日から、12年の月日が経過していますが、今回訪問した石巻市周辺は、まだまだいたる所に震災の傷跡が残っていますし、あの震災の悲劇を後世に残すため、「震災遺構」として保存する活動も各地で行われています。
今回、それらの震災の記憶と教訓を後世に伝え継ぐ為の、「震災遺構」や「震災伝承館」のいくつかを見て回りました。

東松島市野蒜地区の震災遺構「旧野蒜駅プラットホーム」です。
東松島市震災復興伝承館3.jpg東松島市震災復興伝承館4.jpg
復旧した仙石線の野蒜駅の新駅舎は、北側の高台に移っています。被災した旧野蒜駅舎は、現在「東松島市震災復興伝承館」として、被災時の様子を写真や映像で紹介しています。
東松島市震災復興伝承館.jpg東松島市震災復興伝承館2.jpg
建物の壁面に、津波で浸水した高さを記したプレートが、掲示されています。3.7m。私の身長の倍以上です。

石巻市南浜・門脇地区では、500人を超える尊い命が犠牲に成ったと言います。
ここに、「石巻市震災遺構門脇小学校」があります。昨年令和4年4月整備が終え、一般に公開されています。
石巻市震災遺構門脇小学校.jpg
石巻市震災遺構門脇小学校2.jpg石巻市震災遺構門脇小学校3.jpg
被災した本校舎の前に、被災前の姿を映した写真が掲示されていました。そこに記された説明文を、抜粋紹介させて頂きます。
<白壁が美しい門脇小学校の校舎は、津波と津波火災の延焼により、一夜にして黒い校舎へと変わりました。時が経ち、白さを取り戻しはじめた校舎は、あの日の記憶や教訓を伝え続けるとともに、津波と津波火災の痕跡を残す唯一の遺構として、ここに建っています。・・(後略)・・。>

<地震発生後、学校にいた児童・教職員らは訓練どおりに日和山へと避難しました。地震から約1時間後、大津波が襲来。津波火災が発生し、校舎は炎に包まれました。(中略) 避難を考えるとき垂直避難だけでは難しい一面が有ることを伝えています。>(石巻市震災遺構門脇小学校リーフレットより)

今、校舎の中央正面玄関の両脇に、被災をした樹木が、枝を伸ばし、青々とした葉を付けていました。
自然の力強さを感じました。

震災遺構門脇小学校の有る門脇町の南側、石巻港の海沿いにひろがる南浜地区は、東側を流れる旧北上川右岸から、一丁目・二丁目・三丁目・四丁目と多くの商店や住宅が建ち並んでいましたが、1,885世帯が潰滅的な被災をしてしまいました。
今は、「石巻南浜津波復興祈念公園」として整備され、公園内には宮城県全体の被災状況を伝える、「みやぎ東日本大震災津波伝承館」や、被災の傷跡を残す「門脇保育所跡」が有ります。
石巻南浜津波復興祈念公園内門脇保育所跡.jpg
上の写真は、旧門脇保育所の建物の基礎部分です。右手奥に写る建物は「みやぎ東日本大震災津波伝承館」。左手の小丘は「一丁目の丘」です。
脇に「旧門脇保育所」の説明板が建っています。震災当時の保育所長から頂いたコメントが記されています。抜粋してコメント内容を紹介させて頂きます。
<(前略)・・平成23年3月11日のあの日。経験したことのない揺れ、けたたましいサイレンの音。一刻も早く子どもたちを安心できる場所に。1.8km離れた山の上に有る石巻保育所への避難を決断するのに、時間はかかりませんでした。子どもたちが出発したのは15時15分。0歳児はおんぶ、1,2歳児は避難車に乗せ、3歳児からは走る。毎月行っていた避難訓練のおかげで子どもたちの行動も早く、坂道を懸命に避難し、15時50分頃に石巻保育所に到着しました。・・(後略)・・>
文章の隣には、被災前の建物の写真や、被災直後の保育所の状況写真も添付されています。その写真には、建物はすっかり破壊され、瓦礫の山だけが無残な姿で写っていました。

「みやぎ東日本大震災津波伝承館」には、この日も多くの見学者が、訪れて来ていました。
みやぎ東日本大震災津波伝承館.jpgみやぎ東日本大震災津波伝承館展示室.jpg

館内に展示された、パネルや写真を通して、改めて地震津波の破壊力の強大さを、感じさせられます。
日本列島は、ユーラシアプレート・太平洋プレート・フィリピン海プレート・北米プレートと言う、4つのプレート(岩盤)に囲まれ、海の下では、新しいプレートが常に生まれており、陸のプレートの方へと押し寄せています。地震は、プレートがぶつかり押し合う事で発生すると、記されています。
それでは。津波が起こったらどうすれば良いのか。「すぐに、より高い所へ逃げる!」
みやぎ東日本大震災津波伝承館展示パネル1.jpgみやぎ東日本大震災津波伝承館展示パネル2.jpg
今回の震災の経験で得られた、教訓を今後の生活の中に、生かしていく事が、我々に課せられていると、考えなければならない。地震は又、必ず発生するのだから。

<津波は川からと陸から襲ってきました。高さ8.6mもの津波が学校をのみこんだのです。児童74名、教職員10名が犠牲になりました。大川地区全体では418名が津波の犠牲に成りました。石巻市は、この事象と教訓を伝え続けるために、学校を震災遺構として残しました。いのちについて考える場所となったのです。>
この言葉は、「石巻市震災遺構大川小学校」のリーフレットの中に記された言葉です。
石巻市震災遺構大川小学校.jpg
石巻市震災遺構大川小学校2.jpg石巻市震災遺構大川小学校3.jpg
津波により破壊された大川小学校の校舎。鉄筋がむき出しになっています。校舎と体育館を結ぶ渡り廊下は支柱の根元から、折れ曲がって倒れてしまっています。まさに「無残」な姿をさらしています。
犠牲と成られた児童さん達の、恐怖・苦しみ・悲しみ・その胸の内を思うに、言葉を全て失います。

震災から12年が経って、宮城県下の復旧・復興は、ほぼ100%に達する状況に有るそうです。
新型コロナの感染対策も、5類への引き下げで、行動内容も大分緩和され、国内の観光地も人手が戻ってきているようで、今回女川町で海鮮丼を食べるのも、お店によっては70分待ちとかで、多くの観光客が来ていることを実感しました。
女川駅前商店街1.jpg女川駅前商店街2.jpg
女川駅前から海岸に通ずる通りは、綺麗に整備されています。

海岸線には、新しく築かれた「防潮堤」。そのスケールの大きさが目を引きます。
新に築かれた防潮堤1.jpg新に築かれた防潮堤2.jpg

住民の命を守るための、砦の城壁の様に。

今回の参考資料:
・「石巻市震災遺構 門脇小学校」リーフレット
・「石巻南浜津波復興祈念公園」リーフレット
・「みやぎ東日本大震災津波伝承館」リーフレット
・「石巻市震災遺構 大川小学校」リーフレット
・「みやぎ・復興の歩み12」パンフレット 宮城県震災復興本部 令和5年3月発行 
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