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太平山あじさい坂中程に建つ「鈴木宗四郎翁之碑」 [石碑]

太平山のあじさい坂を登って行くとその中程に、右方向に分岐する細い道が有り、その入口にこじんまりした石造りの鳥居が建っています。鳥居に掲げられた扁額には「窟神社」の文字が浮き彫りされています。
窟神社入口.jpg窟神社扁額.jpg

鳥居を潜って少しその細い道を進むと、正面に大きな岩で組まれたような洞窟が有り、その手前には「太平山弁財天」の標柱が建てられています。
窟神社.jpg

洞窟の左脇にはふくよかなお顔の小さな石造りの弁財天様。洞窟の中には水が溜まっており、その奥を覗くと暗闇の中に小さな石の祠が祀られています。
弁才天の石像.jpg窟内に祀られた石祠.jpg

洞窟の所から左方向の道を進むと、又、元のあじさい坂に合流します。丁度その合流点からあじさい坂の左側の少し奥に石碑が1基建てられています。石碑上部の篆額には「鈴木宗四郎翁之碑」と、篆書体の文字で書かれています。揮毫をされた人物は、石碑の最初の行に刻されていますが、その当時の「陸軍大将正三位勲一等功二級男爵鮫島重雄」です。

普通、こうした顕彰碑を建立する際は多くの発起人や賛同者が有って、それらの人達から寄附を募って建碑の費用を捻出します。そうしてそうした関係者の氏名や寄附した金額等を碑陰に刻する事が多く見かけられます。これまで調べた石碑においてもそうした碑陰に刻された名前から、顕彰された人物の人間関係を知る事が出来ますので、今回も碑陰についても確認してみましたが、この石碑の裏面には何の記載も確認できませんでした。
それではこの石碑に有る「鈴木宗四郎翁」とは、どのような人物なのでしょうか。
碑文最終行の日付けは「明治44年12月」、そしてこの碑文を撰された人物は「縣社太平山神社社司 岡田順平」と刻されています。
明治期の石碑の為、碑文は私の苦手な漢字一色の漢文体、読む事が出来ません。読める漢字を一字づつ拾い、内容を類推して行きます。
碑文の冒頭部分に≪明治四十年五月三十日鈴木宗四郎君歿、享年六十二≫と有りますから、生まれは江戸時代後期、弘化元年(1844年)に成ります。
≪栃木県下都賀郡栃木町平井の豪農≫、≪父親の名前は鈴木磯衛、母親は寺内姓≫
≪明治六年五月第一大区1一二三及六小区学区取締補助≫その後、平井村・片柳村・薗部村等の戸長や≪神道中教院太平出張所事務掛≫などを務め、≪十八年任下都賀郡皆川城内外八邨戸長尋轉栃木町外十三邨戸長兼前任≫と、翁は高田俊貞・田中貢・岩上条三郎に次いで第四代の栃木戸長となりました。明治22年5月町村制実施に伴い廃官、地方行政等に関わった在職期間はおよそ17年と成っています。
又、≪東窮奥羽西抵肥筑足跡所及五十有二國≫のごとく、日本国内各地を訪れ、≪躋名山渉大川≫と、名山に登り大川を渡り、神社仏閣を見て回っています。
鈴木宗四郎翁と太平山神社との関係を碑文に探すと、まず先に記した様に明治9年≪神道中教院太平出張所事務掛≫を務めた外、≪君開太平山公園也≫と太平山公園の造成にも力を注いでいます。
明治23年、根岸町長の時、それまで狭く曲がりくねった栃木から太平山に達する道路(行程30町)を改修していますが、この時翁は率先して工事の監督を行っています。更に明治37年10月から12月に太平山神社への参道≪長二百四十餘間路傍鑿溝渠栽櫻樹≫の整備にも工事監督をしています。
こうして鈴木宗四郎翁は太平山神社と深く関わっていたことが理解できます。そして又、この石碑がこの太平山神社参道脇に建立された事にも、納得いたしました。
鈴木宗四郎翁之碑.jpg篆額部分.jpg
(あじさい坂を登ると、中程左手奥に建つ石碑) (石碑の篆額部「鈴木宗四郎翁之碑」)
鈴木宗四郎翁之碑(碑文).jpg
(碑文を書き写しました、難読部分は□記号としています)

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太平山(おおひらさん)の紅葉、見て来ました [自然の恵み]

昨日、太平山南麓を大平町富田から眺めると、結構色付いて来ていたので、早速今日の夕方に太平山の紅葉を見に行ってきました。
太平山遠望.jpg
(手前は台風19号で被災し、1ヶ月運行出来なかった両毛線、先週復旧しました)

途中の遊覧道路はすでに陽が陰り、薄暗くなってしまっていたので、ヘッドライトを点灯して山道を登って行きました。大曲駐車場もまだ多くの車が残っていて、太平山神社方向から歩いて戻ってこられる人達でしょうか。もしかしたら謙信平の駐車場はまだ満車なのでは、でもこの時間だったら帰られる車も多くなって少しは空いていると信じて、車を進めました。
駐車場でもたもたしていたら、太陽が沈んでしまうと、焦る気持ちを抑え運良く開いていた駐車スペースに車を止められました。驚くことに周りに止まっている車のナンバープレートを見ると、ほとんどが他県ナンバー。
撮影ポイントを探す為に急いで謙信平へ移動、紅葉に染まる木々を写真に収めました。
太平山の紅葉6.jpg
太平山の紅葉1.jpg太平山の紅葉2.jpg
太平山の紅葉3.jpg太平山の紅葉4.jpg
太平山の紅葉5.jpg
西の空が赤く染まり初め、太陽が西の山波に向かって下りて行きます。
日没まじか.jpg
今日は、この冬一番の寒さ、昼のテレビの天気予報で、青空にくっきりと姿を見せる真っ白に雪化粧した富士山が映し出されていたいたので、富士山も遠望出来るはず。富士見スポットに行き、南西方向の地平線を探す。予想以上に霞んでいたが、薄っすらと富士山のシルエットが確認出来ました。目を南の方向に移動させると東京の高層ビル群、更に左方向に1本の棒状に東京スカイツリーも見る事が出来ました。
夕陽に浮かぶ富士.jpg

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人気のマンホールカード、第11弾に栃木県内で新たに2枚 [マンホールカード]

去る11月21日付にて、GKP・下水道広報プラットホームのインターネットホームページで、「マンホールカード第11弾66種を12月14日に配布開始!」の発表が出ました。
予定通りの発表に成りますが、その中に我が「栃木県」においては、真岡市と那須塩原市の2自治体が新たに加わることに成りました。
真岡市が発行するマンホールカードのデザインは、2014年から設置されているカラーのデザインマンホール蓋の様です。

真岡市マンホール1.jpg真岡市マンホール2.jpg
上のカラーデザインマンホール蓋は、私が2016年5月に真岡市内の街歩きを楽しんだ時に、見つけて写真を撮ったものですが、今回真岡市のマンホールカードに採用されたデザインは、左側の黄色のベースカラーに真岡市のシンボル、蒸気機関車・真岡木綿の糸車・イチゴそして中央に、市のマスコットキャラクター「コットベリー」を中央に配したマンホール蓋の様です。
来月、12月14日(土)より真岡市の「久保記念観光文化交流館」に行くことで、1人1枚無料で貰うことが出来ます。
久保記念館.jpg
(マンホールカード配布場所となる、久保記念文化交流館の全景)
久保記念館1.jpg久保記念館2.jpg

そしてもう1枚の、那須塩原市のマンホールカードのデザインは、昨年(2018年)10月設置されたもので、那須塩原市のブランドキャラクター「みるひぃ」とサンリオのキャラクター「ハローキティー」とが、露天風呂に入っているデザインで、「春バージョン」と「秋バージョン」との2種類が有りますが、今回のカードのデザインに採用されたのは「秋バージョン」の様です。
私は昨年11月に板室温泉に設置された「春バージョン」を見つけて写真に撮って来ていましたが、塩原温泉街に設置された「秋バージョン」の方は、まだ見ていません。
来月カードが配布される様に成ったら、早速写真を撮ってこようと思います。

那須塩原市春.jpg那須塩原市板室温泉.jpg
(板室温泉の「加登屋本館」さん前に設置された「春バージョン」のマンホール蓋)

ちなみに、この「春」と「秋」のバージョンの違いは、色使いだけで図柄は全く同じものです。
「春」は新緑を表して緑色がメインで、「秋」は紅葉をイメージして赤色がメインと成っています。
那須塩原市のカードの配布場所は、塩原温泉街の「塩原もの語り館」です。
この裏手を流れる箒川に架かる吊り橋「紅の吊橋」周辺はマンホールのデザインの様に秋には見事な紅葉を見る事が出来ます。カードが配布開始される12月14日は、残念ですが今年の紅葉は終わっていますね。
塩原温泉の紅葉1.jpg
(塩原温泉街を貫流する箒川沿いの紅葉)

最近はテレビのクイズ番組の中でも、こうしたデザインマンホール蓋が出て、そのデザインが何所の都道府県のものか当てるクイズが見られる様になり、自分の収集したマンホール蓋が紹介されると、少しうれしい気持ちになります。
ちなみに現在までに私が収集したカードは、152種類に成りました。
これからも各地の観光を兼ねてカードの種類を少しずつ増やして行こうと思っています。
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大芦渓谷の紅葉を見て来ました [自然の恵み]

今日、昼頃から太陽が差してくるようになったので、鹿沼市の大芦川上流に有る、大芦渓谷の紅葉を見に行ってきました。
我家から大芦渓谷まで1時間ほどで行くことが出来、丁度渓谷に太陽の光が入っていました。
大芦川に架かる「白井平橋」の手前に有る駐車スペースに何とか車を入れる事が出来ました。
白井平橋の上流側の河原に下りて行くと、白井平橋と紅葉をバックに写真を撮る家族連れやカップル、そして三脚を構えて撮影する写真愛好家の方々、平日にもかかわらず大勢来ています。
私も、逆光にモミジの赤が浮き上がった写真を撮ってみました。
大芦渓谷の紅葉.jpg
(白井平橋下の河原から、白井平橋をバックに写した大芦渓谷の紅葉)

紅葉の中の白井平橋.jpg
(紅葉のトンネルとなった大芦川に架かる白井平橋)

大芦川の銘板.jpg白井平橋の銘板.jpg
(橋の親柱に付けられ川の名前と橋の名前)

白井平永久橋新設記念の碑.jpg白井平橋旧橋の遺構.jpg
(西側橋詰近くに建つ石碑)       (西側橋詰に残る構造物、吊り橋の橋塔だった物か)

白井平橋の西側橋詰近くに建つ石碑には、「白井平永久橋新設記念」、左下に「栃木県知事 横川信夫」、碑陰には「昭和三十三年十二月起工」「昭和三十四年八月竣工」「総工費 金六百拾七万八千円也」と有り、栃木県・鹿沼市そして地元の各分担金額が記されて、さらに関係者の名前が並んで刻されています。
この石碑の永久橋が現在の橋に成ります。
それ以前はこれは私の推測ですが、同じく橋詰に残るコンクリート製の構造物の形状から、吊り橋が架けられていたのではと思われます。構造物は吊り橋の橋塔だったのではと。

大芦渓谷の紅葉、丁度見頃で最高でした。同時に私の好きな橋や石碑も見られて満足です。
大芦渓谷の紅葉2.jpg



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岩舟町新里の小野寺公園に建つ「轢死者供養塔」 [石碑]

岩舟町新里の小野寺公園に建つ「轢死者供養塔」の石碑については、2018年5月22日に「草むらに埋もれる石碑の残骸」と題して書いた、明治40年9月に当時の小野寺村が、明治天皇が明治32年11月16日に近衛師団機動演習にて小野寺村大字新里字天狗に御野立せられた所を記念して、「御駐蹕之碑」を建てたとする田代善吉著の「栃木縣史 皇族編系圖編」の記事を基に、現地に赴き調査した結果を記したブログですが、その中で偶然出会った石碑として少しふれています。
小野寺公園.jpg
(岩舟町新里に有る小野寺公園、今は落葉した桜の老木と草むらが広がる)
小野寺公園の碑.jpg轢死者供養塔1.jpg
(公園内に建つ「小野寺公園」の碑)      (公園中ほどに建てられた「轢死者供養塔」)

従って、地元でも無くこの石碑の事は全く知らなかった訳ですが、その時に現場に居合わせた地元の方から、この石碑についても少し話が聞けました。
この小野寺公園の南側に沿って、両毛線の線路が有り、その為その線路を渡る際に列車に撥ねられて亡くなった人が後を絶たなかったと言います。そうした犠牲者を供養する為に、建てられたものだと云います。
小野寺公園横の両毛線.jpg
(小野寺公園のすぐ横を走るJR両毛線の電車)
小野寺公園周辺概略地図(昭和39年頃).jpg
(「轢死者供養塔」の建つ「小野寺公園」の周辺の様子を概略図にしました)
上の概略地図は国土地理院が昭和39年に発行した「下野藤岡」の2万5千分の1の地形図を基に作成しました。その為地図中央の「小野寺公園」の直ぐ右下、現在の「新里踏切」の西側に駅の地図記号が見られます。この駅は昭和27年4月5日に開業した小野寺駅に成ります。
この小野寺駅は昭和41年12月20日駅の業務を休止しています。その後昭和43年7月19日の佐野・岩舟間の複線化工事、同9月1日の両毛線全線電化等が行われ、昭和62年4月1日の国鉄民営化に合わせ、再開することなく、小野寺駅は廃止と成っています。
右上から中央下に向かって描いた道路は、「下都賀西部広域農道」で昭和39年当時は有りませんでしたが、現在の位置関係を理解する目標物として、追加記載しました。

それでは、この石碑は何時頃建てられたものか、碑陰を確認します。
碑陰には全体に文字が刻されていますが、長年風雨に曝された為に文字の判読が困難な所が多く、何とか碑陰の左端の行に有る日付けを読み取りました。
「昭和2年7月」です。その下には「發起人 小野寺村各宗寺院一同」と読み取りました。

明治21年(1888)5月22日の両毛線開通式後39年間、どれだけの人が亡くなられたのか、分りませんが、この供養塔を建碑する為に、浄財を寄せられた多くの芳名が碑陰一杯に刻されています。
判読できた中に「金拾円也」や「金貮円也」「金参円也」「金壱円也」の金額、「小松原儀一」「大嶋登一郎」「寺内作蔵」「大島善次」「熊倉喜一郎」などの名前が読み取れました。

「轢死者供養塔」の文字を書かれた人物の名前は、碑の正面左下に確認出来ました。「物外書」と有りますから、恐らく発起人に有る村内寺院のどちらかの僧侶の手によるものと思われます。

何故、この地で轢死する人が多かったのか、それは先の概略図を見ると地形上の原因が大きかったことが覗われる。この小野寺公園の所で両毛線の線路が、三毳山の北の端に張り出した小丘を回り込むように、僅かにカーブしているのです。この地点から東(岩舟駅)方向を見ても、西(佐野駅)方向を見ても、ほぼ直線上に進んでいます。
東方向を望む.jpg西方向.jpg
(東方向、新里踏切の先は真っ直ぐ伸びている)(西方向、ずっと先まで真っ直ぐ伸びている)
小野寺公園横両毛線遠望1.jpg
(広域農道の跨線橋上から、右手奥木立の中の小野寺公園を望む)
小野寺公園横両毛線遠望.jpg
(上の写真の奥、新里踏切付近を拡大。線路がカーブしているのが、良く分かります)

現在この区間は複線に成っていますが、昭和40年頃までは単線だったから、カーブはもっと見通しが利かず、山陰に隠れた踏切はもっと危険だったと思われます。
ここで云う踏切は現在の新里踏切の場所では無く、小野寺公園の西側に以前通っていた小路の踏切と考えます。(現在踏切も道も有りません)

今も「轢死者供養塔」は公園の緑の木々の中で、静かに前方を行き交う両毛線の電車を見守っています。

※参考資料
・「栃木県鉄道史話」大町雅美著
・「栃木縣史 交通編」田代善吉著
・「栃木縣史 皇族編系圖編」田代善吉著
・「2万5千分の1地形図・下野藤岡」昭和39年11月30日国土地理院発行


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太平山六角堂正面参道石段の右手に建つ「櫻井源四郎翁之碑」 [石碑]

太平山神社表参道、通称あじさい坂の登り口、六角堂正面石段に向かって右手、以前紹介した「故田村代議士記念碑」の丁度後ろ側に建てられた石碑、その碑面上部に刻された篆額には「櫻井源四郎翁之碑」と有ります。
石碑正面全体.jpg篆額部分.jpg
(「櫻井源四郎翁之碑」の石碑正面、後方の赤い幟旗は六角堂境内に建つ)(篆額部分)

櫻井源四郎翁と言えば、第三代栃木町長として、良く知られています。
現在も万町交番の道路向かいに「櫻井肥料店」の店舗が有ります。
櫻井肥料店店舗.jpg
(万町交番の道路向かいに建つ櫻井肥料店店舗)

石碑正面上部の篆額の文字は、碑文冒頭に有る通り、石碑が建立された大正14年当初農商務大臣であった高橋是清が揮毫しています。
碑文を撰した人物は、初代栃木市長となった榊原經武、建碑当時は衆議院議員でした。又、碑文をしたためた石塚新吾と云う人物は、碑陰の寄附者芳名、個人名の一番最初に記されている。栃木町有数の実力者でした。
碑陰寄付者芳名上.jpg碑陰寄付者芳名下.jpg
(碑陰の寄附者芳名の上半分)         (碑陰の寄附者芳名の下半分)

碑文と碑陰の寄附者芳名を書き写しました。
櫻井源四郎翁之碑(碑文).jpg寄附者芳名(碑陰).jpg
(碑文を書き写しました)               (碑陰の寄附者芳名を書き写しました)       

碑文を見てみましょう。私の苦手な漢文体で、漢字が切れ目無く並んでいて、どう読んで行くのか全く分かりません。ただただ文中の漢字の単語で、書いて有る内容を推測して行くのがやっとこです。
「太平公園第二公園之設置」「小学校舎之新築」「太平山虚空蔵祠堂之再建」「明治三十三年選為栃木町長」「栃木銀行取締役」「栃木商業会議所会頭」など、これだけで翁の業績や政財界の活躍などを知る事が出来ます。
ここに有る「太平山虚空蔵祠堂之再建」は明治35年(1902)の台風で倒壊した「虚空蔵祠堂(六角堂)」を、同38年、鈴木宗四郎や片山久平らと再建したもので、そのような縁も有り、この六角堂の境内前に石碑建立となったものです。  

尚、碑文後半に認められる単語、「風雅」「俳諧」「謡曲」「茶道」より、翁が風流の道にも堪能で有ったことが窺い知れます。
この碑の外にも、六角堂境内には翁の歌碑も建てられています。
櫻井源四郎翁歌碑.jpg
(「太平の嶺の神垣清ければ末も濁らぬ宝生乃瀑」櫻井源四郎義正詠)

※参考文献: 「栃木人 明治・大正・昭和に活躍した人びとたち」 石崎常蔵著            
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杣井木川排水機場周辺の風景 [栃木市の河川と橋]

杣井木(そまいき)川排水機場は、小山市大字中里の永野川が巴波川に合流する手前300メートルの地点で、永野川左岸から合流して来る杣井木川の落ち口に建設された、小山市大字押切や大字中里等の巴波川と永野川とに囲まれた地域の湛水防除施設です。
杣井木川排水機場全景.jpg
(永野川の左岸、写真中央の施設が杣井木川排水樋門、その左堤内に排水機場の建物)
2013年5月25日杣井木川流入部2.jpg杣井木川樋門銘板.jpg
(杣井木川樋門を永野川対岸より撮影)     (樋門の銘板、1991年12月設置の表示)
樋門の設置場所から下流側に80メートル程の、同じく左岸土手に新たに設置された排水装置だろうか、土手の堤内側から16本の鋼管が伸び、堤外側(永野川側)に管の開口部が並んでいます。これで堤内側の水を堤外へ排水するものと思われる。私がこれまで見た排水機場の中には、この様な装置は見たことが有りません。この杣井木川排水機場でも以前は見ていませんでした。
排水管(堤内側).jpg排水管(堤外側).jpg
(永野川左岸土手の堤内側に並ぶ16本の鋼管)(堤外側土手上部に管の開口端が並ぶ)

この施設は、永野川の水位が上昇して、永野川の水が杣井木川へ逆流して来るのを、水門を閉鎖して防ぎ、杣井木川から永野川への自然排出が出来なくなった水を、ポンプの力で強制的に永野川に排水するものです。そのカラクリは素人の私には良く理解できていませんが。
こうした排水機場は、思川や渡良瀬川などで、その支流の川からの落ち口に設置されています。
三杉川排水機場.jpg西前原排水機場.jpg
(三杉川排水機場)                   (西前原排水機場)
与良川第一第二排水機場.jpg塩沢排水機場.jpg
(与良川第一・第二排水機場)             (塩沢排水機場)

排水機場の仕組みについて、解説した掲示が塩沢排水機場に有りました。これを見て私も少しは排水機場について理解する事が出来ましたので、参考に解説図部分を抜粋して添付いたします。
排水機場の仕組み.jpg
(塩沢排水機場の平常時と洪水時の、排水の仕組み)

この杣井木川排水機場が設置されたのは、先に掲示した排水樋門の銘板に有る通り、1991年12月で今からたった28年前の事です。それより前の1982年1月に私がこの付近の風景を撮影した写真が有りました。現在の風景と比較してみると、だいぶ様子が変わっていることが見て取れます。
撮影ポイントを下に添付した「巴波川・永野川合流点周辺の河川及び道路の変遷図」の中に△印で表示しています。

1982年赤.jpg2019年赤.jpg
(撮影ポイント赤△印:現在の排水機場前の道路から西方向を写す。)
写真手前の橋は杣井木川に架かる橋で、川はこの橋の左方向で永野川に合流します。奥に写る橋は永野泡に架かるかつての「落合橋」です。この頃は、永野川左岸には土手らしい土手は有りませんでしたから、この地点からも「落合橋」を望むことが出来ました。
現在の写真では道路左側は、高い永野川左岸の土手が視界を妨げています。

1982年靑.jpg2019年靑.jpg
(撮影ポイント青△印:同上の撮影ポイントから振り返って南方向を写す。)
永野川が前方で大きく右にカーブしています。写真奥の所で左方向から流れてくる巴波川に合流する事に成ります。現在の写真は土手の上からほぼ同じ方向を撮影しています。

1982年緑.jpg2019年緑.jpg
(撮影ポイント緑△印:永野川に架かる「落合橋」の上流側左岸から橋を撮影)
写真に写る「落合橋」は新たに土手を作るために不都合だったのか、2000年9月に上流側に「新落合橋」が架橋され、元の場所には2004年3月現在の「落合橋(人道橋)」が架けられました。

1982年橙.jpg2019年橙.jpg
(撮影ポイント橙△印:巴波川に架かる「昇明橋」の上流左岸より永野川との合流点を写す)
写真右奥から真っ直ぐ流れてくる川が巴波川。左側より手前に流れてくる川が永野川。永野川左岸に土手は見られません。現在の写真は巴波川左岸土手の上から移していますが、前方は永野川の土手で続いています。

巴波・永野合流付近の河川・道路の変遷図.jpg
少し見難い図に成ってしまいましたが、1980年代の道路の様子を実線で描き、現在の道路土手河川等を破線で重ねて描いています。排水機場前の道路は土手が出来る前は、永野川近くを通っていましたが、築堤後は、堤内の土手脇に沿う形に変わっています。落合橋下流側の土手が出来上がったのは1994年頃に成ってです。上流側は更にその後整備されることに成ります。
土手が造られたことで、内水氾濫を防ぐためにこの「杣井木川排水機場」も作られたと考えます。

こうして栃木市並びに、小山市・佐野市など渡良瀬川水系に多くの排水機場が設置されましたが、昨今の気象状況の変化で、自然の猛威はそうした人間の行動をあざ笑う様に、破壊しています。
しかし、私たちも平穏な生活を得る為、更なる英知を出し合って、河川管理を強化していく事が必要になっています。今もこうした排水機場の活躍で、被害を小さく止めていることも、忘れてはならない事です。
縦軸斜流ポンプ.jpgポンプ銘板.jpg
(与良川第一排水機場内に設置されている「立軸斜流ポンプ」2基と銘板)
感謝の幟旗.jpg
(2015年9月の豪雨被害の翌年、小山市生井の桜堤に立てられた感謝の幟旗)

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永野川の堀ノ内橋が新しくなっていました [栃木市の河川と橋]

永野川の下流域、栃木市大平町西水代と小山市大字上泉の境界をまたぐ堀ノ内橋が新しい姿に変わっていました。この橋に接続する栃木市側の道路は、永野川右岸土手から土手下に下りる為の市道22268号線、土手下の市道22290号線は永野川右岸の土手下に沿って、国道50号バイパス道の下から南に進み県道160号(和泉間々田線)の永野川に架かる「昇明橋」の橋詰まで伸びていますが、こうした永野川両岸を往来する地元の住民の為の、生活路の確保を目的とした橋梁に成っています。
(新)堀の内橋1.jpg
(永野川に新しく架けられた「堀ノ内橋」)
(新)堀の内橋2.jpg(新)堀の内橋3.jpg
(新しいく立派になった堀ノ内橋、自動車も安心して通行出来ます)(橋の銘板)

橋の直ぐ上流側には、国道50号(岩舟小山バイパス)に架かる、「新永野川橋」が見えます。
(新)堀の内橋4.jpg
(堀ノ内橋の上流側に架かる国道50号バイパスの「新永野川橋)
ただこの「新永野川橋」を川沿いに住む方が渡る場合、川沿いの道路は接続されず、西側は橋から500メートル、東側は300メートル離れた交差点まで回り込んで渡ることに成る為、この堀ノ内橋が重宝となります。

元々この地点には橋が有りました。現在も新しい橋の下流側にまだ残っていますが、先日の台風の影響で高欄が破壊された為か、それ以前から新しい橋への切り替えでか、橋は通行止めと成っていました。
(旧)堀の内橋 1.jpg(旧)堀の内橋 2.jpg
(写真手前が、これまで地元民に利用されていた堀ノ内橋)(通行止めとなった以前の橋)

これまでの橋は、土手よりも低い所に架けられていた為、川が増水した時は橋は水を被ってしまいます。
今回の台風でも高欄が完全に破壊されています。
新しい橋が完成した事で今回も生活路は、確保される事と成りました。

これまでの堀ノ内橋は、昭和の名残が感じられ、味の有る風景が見られ、これまで何回か訪れその姿を写真に撮っていましたので、紹介します。
2013年5月25日堀の内橋.jpg
(2013年5月25日撮影、上流に「新永野川橋」も見えます。)
堀の内橋下流堰57年1月.jpg
(昭和57年1月撮影、下流側の堰)
堀の内橋57年1月撮影.jpg
(同じく昭和57年1月撮影、堀ノ内橋。後方で新永野川橋の架橋工事が行われている)

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永野川の洪水被害に思う [栃木市の河川と橋]

10月12日から13日、関東地方を縦断した台風19号の豪雨により、栃木市内に甚大な被害が発生してしまい、多くの人達が一夜にして、通常の生活を奪われ、今も不自由なつらい生活を送っています。
その中でも、永野川流域では多くの箇所で、堤防の決壊や越流により、大量の泥水が市街地に流れ込んでしまいました。
JR両毛線永野川鉄橋右岸の線路部分が被災.jpg
(JR両毛線永野川鉄橋脇右岸の土手が決壊、線路の盛土が流失しレールが宙吊り状態に)
二杉橋下流左岸堤防決壊.jpg
(二杉神社下流の永野川左岸の土手が決壊、緊急対応として大型土嚢を積み上げています)
錦着山西側付近.jpg
(錦着山の南西側に永野川の水が流入し、道路やフェンス等が破壊されている)
栃工高北側の永野川.jpg
(栃木工業高校北側の永野川河川敷内の木々に、多くの瓦礫が引っかかっている)

これまでも永野川の氾濫では、幾度となく橋の流失や洪水被害を起こしています。しかし、私の70年余の人生で経験した中では、今回はこれまでで一番大きな被害となりました。
私の高校時代は、永野川の上人橋を渡り栃木工業高校に通学していましたが、その時も台風で上人橋の一部が流失、通行する事が出来なくなりました。復旧するまでの間、下流の高橋を渡って通学した事は、今も忘れられません。
上人橋左.jpg上人橋右.jpg
(前方の橋が改修工事中の上人橋。永野川右岸の土手上の道が通学路でした)

特に私が3年間学んだ栃木工業高校が、2015年9月の豪雨被害から、やっと立ち直った矢先、今回又も被害を蒙ったとのニュースを見聞きし、何とも悔しく、つらい思いで一杯になります。
私が通っていたころの永野川流域は人家も少なく、河川敷も今の様に整備されてなく、雑木が生い茂っていましたが、永野川が氾濫して校庭に濁流が侵入して来ることなど、夢にも考えていませんでした。
1966年上人橋周辺(錦着山頂より).jpg
(私が通学していたころの永野川、上人橋付近の風景。錦着山上より撮影)
1968年撮影栃工校全景.jpg
(私が通学していたころの栃木工業高校周辺の風景。南側遊覧道路より撮影)
1975年撮影栃工校全景.jpg
(栃木工業高校全景、錦着山上より撮影。あの頃は平和だったのに)

その当時から比べれば、永野川の堤防も立派になって来ていると考えられるのですが、それが逆に被害が発生しやすくなっているのは、永野川上流域の開発に伴い、川に流入する雨水が増加した為か、もっと大きくみると、地球環境の変動によるものなのだろうか。地球温暖化により、日本近海の太平洋の海水温上昇で、日本に接近する台風がこれまでより成長、。今回の台風19号がまさにそうした背景に因るものなのか。
そう考えて行くと、このままでは同じような被害が今後も繰り返されると、考えなければならない。とんでもない事です。

永野川は巴波川の支流と言われますが、川の流域は圧倒的に永野川の方が広くて長くなっています。その上流は鹿沼市の山中深く百川渓谷まで遡ります。
今回の台風19号は、栃木県の北西側山間部に多量の雨を降らしました。その結果足尾山地の沢水を源流とする、旗川や秋山川、永野川そして思川の下流域が増水・氾濫しています。

今後の対策として、どんな事が有効なのか。これまで巴波川流域で行ってきた遊水池の確保も、その一つですが、栃木市街地の巴波川の氾濫を見ると、それも完全では無いことが今回明らかになりました。
土手の高さをもっと高くする事も考えられますが、これは流域全体を考えないと、一部高くするとその場所の前後に被害をもたらしやすくなります。昔から土手の嵩上げは利害関係が絡んで、容易な事では無いと聞いています。
まして巴波川を観光資源としている栃木の中心部は土手の嵩上げは、抵抗が有ります。それでは、宇都宮市の中心を流れる「釜川」の様に、川を二段にして、上の水位が上がったら、オーバーフローをさせて、下段の水路に逃がす構造にするか。
永野川の場合はその流域に大規模な遊水池を確保するとか。今と成っては遅いが千塚町の産業団地の様な場所は他にないのだろうか。
早急に、栃木県や栃木市そして市民の総意を結集して、河川改修を進めなければ、又、今回と同じような被害を出してしまうと恐れます。
自然の力に対抗するためには、みんなの力を結集して当たらなければ、到底かないません。


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永野川に架かる「諏訪橋」のこと [栃木市の河川と橋]

先日、東日本の多くの河川で、大きな爪跡を残した台風19号。栃木市内では大平町蔵井を流れる永野川に架かる「諏訪橋」が、増水した水の勢いで橋脚1カ所が流出、そこに架かっていた橋桁2本が水中に落ちてしまいました。
諏訪橋(2019年10月).jpg諏訪橋(2019年10月)流出.jpg
(橋桁2径間が流失した「諏訪橋」。橋長51.5m、幅員3.5m、複合橋)

この「諏訪橋」は昭和9年(1934)に架設されたもので、現在栃木市内の巴波川・永野川に架かる橋の中で3番目に古い橋と成っています。ちなみに1番古い橋は、巴波川に架かる「嘉右衛門橋」で昭和2(1927)の架設です。
嘉右衛門橋.jpg
(昭和2年架設の嘉右衛門橋。橋長13.1m、幅員5.4m、鋼橋)

2番目は同じく巴波川に架かる「倭橋」で昭和5年(1930)架設です。
倭橋.jpg
(昭和5年架設の倭橋。橋長13.6m、幅員5.2m、鉄筋コンクリート橋)

3番目の昭和9年(1934)に架設された橋は、5ヶ所に成ります。その内巴波川には「巴波川橋」とその下流の「相生橋」の2橋が残っています。
巴波川橋.jpg相生橋.jpg
(昭和9年架設の巴波川橋。橋長14m、幅員5m)(同じく相生橋。橋長14.1m、幅員5.5m)

一方永野川には、今回被害を受けた「諏訪橋」の外に「両明橋」そして「千部橋」の3橋が有りますが、3橋共大平町に成ります。
このうち「千部橋」は、前回2015年の豪雨の際に一部が流出しましたが、復旧されています。
又、「両明橋」は幸いにも2015年8月、豪雨被害が発生する前月に修繕を終えた為、被災を免れています。
千部橋.jpg両明橋.jpg
(昭和9年架設千部橋、前回流出部は補修された。)(同じく両明橋。2015年8月修繕が行われた)

巴波川の「嘉右衛門橋」など4橋が架かる場所の川幅は14メートル程度なのに対して、永野川に架かる3橋は橋長が50メートルから60メートルと長い橋でした。
したがって、今回流出した「諏訪橋」は悪条件の中一番寿命を保った橋と言うことに成ります。この古い橋が今まで残っていた要因としては、橋の幅員が3.5メートルと狭く、橋を通る市道21118号線は永野川左岸蔵井の県道蛭沼川連線を起点とし、橋を渡った右岸の橋詰までの道路で、自動車は殆ど通行せず、近くの大平中学校の生徒さん達が自転車通学するのに、現在主に利用されている橋だからでしょう。
「諏訪橋」が利用できなくなってしまった為、生徒さん達は下流の県道が通る「山下橋」を回りこむ必要が有ります。そちらは交通量が多い為、注意して通学して貰いたいです。

この「諏訪橋」は橋の中央部から左岸側は鋼橋(1径間)、右岸側は鉄筋コンクリート橋(4径間)と言う、複合橋でしたが、昭和9年架橋当初からこの様な変わった形式だったとは思われませんので、初めは両明橋などと同様の鉄筋コンクリート製の橋であったものと思われます。
諏訪橋(2015年4月).jpg
(被災前の「諏訪橋」、下流側右岸より撮影)

それが、後に今回と同様の原因で、橋の左岸側の部分が流出して、現在の様な鋼橋部分に改修されたものと思われます。それがいつごろの事か分かりませんが、私が初めて諏訪橋の写真を写した昭和57年(1982)1月には、現在の姿に成っていました。
諏訪橋57年1月.jpg
(昭和57年1月に上流から撮影した「諏訪橋」、左奥の森は蔵井の元村社諏訪神社)

今回の台風で栃木市内は甚大な被害を蒙りました。4年前の豪雨で被災した時、50年に1度と言われました。ですから今回の台風接近でも、どこか前回の様には成らないと思い込んでいました。しかし、今回の災害は100年に1度の規模だったと言う。もし来年も同様の災害が発生したら、今度は200年に1度、いや千年に1度となるのか。
このような被害を二度と起こさないために、どんな対策が必要なのか、今回の被害実態を詳しく分析して、対策を進めて頂きたいと願うばかりです。
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