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北陸のマンホールカードを求めて富山県へ③ [コレクション]
富山県のマンホールカード収集の旅も、最終日に成ります。
昨日までの2日間で収集したカードは、8枚です。現在富山県下で配布されているカードは、15枚ですから、今回全部は収集できません。せめて富山市の7枚はゲットしたいので、残る3枚を集めて帰路に着きたい。
収集のコツで最初は遠方からと言う事で、まず越中八尾駅へ向かう。ホテルをチェックアウトして、富山駅へ、今のところ曇の天候。駅のコインロッカーに旅行カバンを預けて、高山本線の列車に乗る。
平日の為車両は高校生が多く、混雑している。
越中八尾駅に到着したのは、8時頃でした。ここのカード配布場所は「越中八尾観光会館」。配布開始は9時からと言う事で、駅から目的地まで街の中を散策していきます。
八尾町は、毎年9月1日から3日にかけて行われる、「おわら風の盆」が有名で、私も一度来てみたいと考えている所です。駅の待合室に、大きな観光ポスターが何枚も掲示されていました。
富山市八尾町は、富山市の南の端に位置し、南隣の岐阜県と県境を成しています。八尾町は街の中央部を貫流する「井田川」の川に沿って開けた町の様で、国土地理院の地形図を見ると、東西と南の三方を山に囲まれ、唯一北側だけが開けた所で、「井田川」は富山市の中心部「富山城址公園」の西方辺りで、同じように富山県中央部を南から北に貫流して、富山湾に注ぐ「神通川」の左岸に合流する神通川の支流です。
駅の待合室に置いてあった、「坂のまち八尾散策マップ」が頼りです。
駅前の通りを左方向に進んでいくと、早速「井田川」に架かる「坂のまち大橋」に出ました。
橋の名前も「坂のまち」を冠に付けています。橋の形状は「斜張橋」で、親柱には編笠を被って、「おわら」を踊る女性の姿が彫られています。親柱のデザインもどのようなモチーフで出来たものか興味が湧いてきます。橋桁に取り付けられた橋の銘板を見ると、「2007年6月」と有り、比較的新しく架けられた橋の様です。
この橋の上からが、上流側を眺めるビューポイントと先ほどの散策マップに記されています。
見ると、井田川の右岸の街並みの後方には標高200から300メートルの山並みが連なり、山と川とに挟まれた高台に、街が開けている様子が伺えます。
橋の直ぐ上流部右岸(左端)に合流する川が有ります。「久婦須川」で、架かる橋は「新久婦須橋」、その奥(写真中央)にも同じく右岸に合流する川が見えます。「別荘川」です。見える橋は「天満橋」です。その先の井田川に架かる橋が「十三石橋」です。橋好きの私にとっては、とても魅力的な場所です。
が、のんびり見ていたら、雨が降ってきてしまいました。
井田川を渡って、「久婦須川」に架かる「新久婦須橋」とその上流に架かる「久婦須橋」を写真に収め、更にその先の「別荘川」に架かっている「天満橋」へ。
久婦須橋の高欄には、おわらの踊り子の装飾が施されています。
「天満橋」の上から別荘川上流側を望むと、二つのコンクリートアーチを持った橋が架かっているのが見えます。「眼鏡橋」という橋名が付けられています。橋の袂に回り込んでいきます。
(井田川右岸に沿った、「十三石橋」の橋詰めから「坂のまち大橋」の橋詰間の道路は平成時代に新しく通った道路で、以前は「眼鏡橋」から「久婦須橋」を通るルートを通っていた様です。「天満橋」の竣工は2010年3月と記されています。ちなみに橋名の「天満橋」は、近くに鎮座している「天満宮」からと思われます。)
天満宮に参拝をして、眼鏡橋の袂に。
この眼鏡橋は、ウィキペディアにて検索すると、<1893年(明治26年)に、富山県最初の永久橋として単径間の無筋コンクリート橋として架橋された。1914年(大正3年)8月13日、台風に伴う豪雨で発生した洪水により下部工のコンクリートアーチを残し流失。その後1916年(大正5年)に明治の橋の遺残物を利用しつつ、右岸側に1径間延長し2径間コンクリートアーチ橋となる。1954年(昭和29年)には下流側に単径間の鋼板桁を架設して3m拡幅された。>複合橋だと分かりました。
橋詰のバス停には、おわらを踊る男女の姿が描かれています。八尾町では、ここかしこに「おわら」が描かれています。まさに「おわら」一色の街並みの様です。それではいよいよ、その八尾地区の中心部に足を踏み入れたいと思います。
確かに八尾は坂のまちです。それでもそれほど苦になるほどの坂では無いので、息も上がらない。
しばらく歩いて行くと、道路左手の石段の上に、鐘楼と大きな伽藍の寺院が現れる。
「聞名寺」は浄土真宗本願寺派の寺院。その歴史をお寺のホームページに求めると、<聞名寺がはじめて越中に入ったのは応仁二年(1468)、本格的に拠点を移したのは大永四年(1524)であったと伝えます。八尾南部の山間地(乗峰や倉ヶ谷など)を経て、福島の台地に一旦寺域を構えましたが、越後上杉勢の来襲に備え、天文二十年(1551)、三方を崖に囲まれた旧い砦の址、「八尾前山」(現在地)に移りました。その後寛永十三年(1636)境内に八尾町建てがなされ、当寺は町そのものの母胎として今日に至っています。>と、記されています。
聞名寺の境内に建てられた「風の盆」の碑。
境内には枝垂れ桜もあり、花を咲かせた頃を思い描くと、またその時期にも訪れたくもなります。
通り沿いに「おわら資料館」の看板が現れました。中に入ると正面に等身大のパネルが、男女のおわらの踊り手とバックに、風の盆の行燈が道の両側に灯る石畳の道。
受付のスタッフさんに案内されて、最初の映像展示室へ。約10分間の「おわら」の映像を大画面で堪能できます。それから資料展示室へ回り、数多くの歴史的な写真や資料などを見て廻りました。
「おわら風の盆」の事を少しかじって、資料館を後に八尾町の通りを散策します。石畳の諏訪本町通りに差し掛かると、八尾町は確かに「坂のまち」であることを、実感する風景がそこに有りました。
街並みに気を取られて、ここまで歩いて来ましたが、時計はすでに10時を過ぎています。もう雨降る中を2時間もうろうろしていました。少し急いで目的地の「越中八尾観光会館」へ向かうことにします。
「越中八尾観光会館」には、毎年5月3日に開催される「曳山祭」に曳き出される豪華絢爛な曳山を、3基展示する「曳山展示館」が併設されて、栃木市の人形山車を展示している山車会館同様、背の高い曳山を収納展示する為、背の高い大扉が、建物を象徴しています。
開館前には、多くの石碑や銅像が建てられています。
医学博士「川崎順二」は、越中八尾おわら保存会初代会長となった人物で、顕彰碑の碑文「事績」冒頭を参照させて頂くと。
<大正十一年春、好者のみで伝えられてきた郷土民謡越中おわら節を永遠の文化として次代にのこさんがため、町内同志と諮りおわら研究会を結成、昭和四年に越中おわら保存会と発展的改称をなし、以来三十余年に富山県民謡おわら保存会と改称するもその会長として中心的役割を医師という多忙な日を割き、あるときは私財を投じて尽力してきた。・・・・(後略)>
そんな超有名となった「越中八尾おわら風の盆」だけでなく、八尾の町には、豪華絢爛な6基の曳山が有ることを、PRする会館の中を見学します。
入口の受付にて、本日一枚目のマンホールカードを受け取り、まずは映像で曳山祭りの情報を、映像を見て楽しく理解することが出来ました。
続いて館内を見学、いろいろな情報を得ることが出来ました。
曳山は全体に彫刻が施され、動く陽明門の様に感じられます。
この曳山が、あの八尾の石畳の坂を進む姿、狭い路地を曲がる迫力を、是非実際に見てみたいと思いました。
帰りの列車の時間が心配になってきました。幸い帰りは下り坂です。
富山駅に戻り、残り2枚のカードも無事に入手出来ました。
今回、富山県を訪れて、多くの情報に触れて、是非又、富山県を訪れたいと感じました。
昨日までの2日間で収集したカードは、8枚です。現在富山県下で配布されているカードは、15枚ですから、今回全部は収集できません。せめて富山市の7枚はゲットしたいので、残る3枚を集めて帰路に着きたい。
収集のコツで最初は遠方からと言う事で、まず越中八尾駅へ向かう。ホテルをチェックアウトして、富山駅へ、今のところ曇の天候。駅のコインロッカーに旅行カバンを預けて、高山本線の列車に乗る。
平日の為車両は高校生が多く、混雑している。
越中八尾駅に到着したのは、8時頃でした。ここのカード配布場所は「越中八尾観光会館」。配布開始は9時からと言う事で、駅から目的地まで街の中を散策していきます。
八尾町は、毎年9月1日から3日にかけて行われる、「おわら風の盆」が有名で、私も一度来てみたいと考えている所です。駅の待合室に、大きな観光ポスターが何枚も掲示されていました。
富山市八尾町は、富山市の南の端に位置し、南隣の岐阜県と県境を成しています。八尾町は街の中央部を貫流する「井田川」の川に沿って開けた町の様で、国土地理院の地形図を見ると、東西と南の三方を山に囲まれ、唯一北側だけが開けた所で、「井田川」は富山市の中心部「富山城址公園」の西方辺りで、同じように富山県中央部を南から北に貫流して、富山湾に注ぐ「神通川」の左岸に合流する神通川の支流です。
駅の待合室に置いてあった、「坂のまち八尾散策マップ」が頼りです。
駅前の通りを左方向に進んでいくと、早速「井田川」に架かる「坂のまち大橋」に出ました。
橋の名前も「坂のまち」を冠に付けています。橋の形状は「斜張橋」で、親柱には編笠を被って、「おわら」を踊る女性の姿が彫られています。親柱のデザインもどのようなモチーフで出来たものか興味が湧いてきます。橋桁に取り付けられた橋の銘板を見ると、「2007年6月」と有り、比較的新しく架けられた橋の様です。
この橋の上からが、上流側を眺めるビューポイントと先ほどの散策マップに記されています。
見ると、井田川の右岸の街並みの後方には標高200から300メートルの山並みが連なり、山と川とに挟まれた高台に、街が開けている様子が伺えます。
橋の直ぐ上流部右岸(左端)に合流する川が有ります。「久婦須川」で、架かる橋は「新久婦須橋」、その奥(写真中央)にも同じく右岸に合流する川が見えます。「別荘川」です。見える橋は「天満橋」です。その先の井田川に架かる橋が「十三石橋」です。橋好きの私にとっては、とても魅力的な場所です。
が、のんびり見ていたら、雨が降ってきてしまいました。
井田川を渡って、「久婦須川」に架かる「新久婦須橋」とその上流に架かる「久婦須橋」を写真に収め、更にその先の「別荘川」に架かっている「天満橋」へ。
久婦須橋の高欄には、おわらの踊り子の装飾が施されています。
「天満橋」の上から別荘川上流側を望むと、二つのコンクリートアーチを持った橋が架かっているのが見えます。「眼鏡橋」という橋名が付けられています。橋の袂に回り込んでいきます。
(井田川右岸に沿った、「十三石橋」の橋詰めから「坂のまち大橋」の橋詰間の道路は平成時代に新しく通った道路で、以前は「眼鏡橋」から「久婦須橋」を通るルートを通っていた様です。「天満橋」の竣工は2010年3月と記されています。ちなみに橋名の「天満橋」は、近くに鎮座している「天満宮」からと思われます。)
天満宮に参拝をして、眼鏡橋の袂に。
この眼鏡橋は、ウィキペディアにて検索すると、<1893年(明治26年)に、富山県最初の永久橋として単径間の無筋コンクリート橋として架橋された。1914年(大正3年)8月13日、台風に伴う豪雨で発生した洪水により下部工のコンクリートアーチを残し流失。その後1916年(大正5年)に明治の橋の遺残物を利用しつつ、右岸側に1径間延長し2径間コンクリートアーチ橋となる。1954年(昭和29年)には下流側に単径間の鋼板桁を架設して3m拡幅された。>複合橋だと分かりました。
橋詰のバス停には、おわらを踊る男女の姿が描かれています。八尾町では、ここかしこに「おわら」が描かれています。まさに「おわら」一色の街並みの様です。それではいよいよ、その八尾地区の中心部に足を踏み入れたいと思います。
確かに八尾は坂のまちです。それでもそれほど苦になるほどの坂では無いので、息も上がらない。
しばらく歩いて行くと、道路左手の石段の上に、鐘楼と大きな伽藍の寺院が現れる。
「聞名寺」は浄土真宗本願寺派の寺院。その歴史をお寺のホームページに求めると、<聞名寺がはじめて越中に入ったのは応仁二年(1468)、本格的に拠点を移したのは大永四年(1524)であったと伝えます。八尾南部の山間地(乗峰や倉ヶ谷など)を経て、福島の台地に一旦寺域を構えましたが、越後上杉勢の来襲に備え、天文二十年(1551)、三方を崖に囲まれた旧い砦の址、「八尾前山」(現在地)に移りました。その後寛永十三年(1636)境内に八尾町建てがなされ、当寺は町そのものの母胎として今日に至っています。>と、記されています。
聞名寺の境内に建てられた「風の盆」の碑。
境内には枝垂れ桜もあり、花を咲かせた頃を思い描くと、またその時期にも訪れたくもなります。
通り沿いに「おわら資料館」の看板が現れました。中に入ると正面に等身大のパネルが、男女のおわらの踊り手とバックに、風の盆の行燈が道の両側に灯る石畳の道。
受付のスタッフさんに案内されて、最初の映像展示室へ。約10分間の「おわら」の映像を大画面で堪能できます。それから資料展示室へ回り、数多くの歴史的な写真や資料などを見て廻りました。
「おわら風の盆」の事を少しかじって、資料館を後に八尾町の通りを散策します。石畳の諏訪本町通りに差し掛かると、八尾町は確かに「坂のまち」であることを、実感する風景がそこに有りました。
街並みに気を取られて、ここまで歩いて来ましたが、時計はすでに10時を過ぎています。もう雨降る中を2時間もうろうろしていました。少し急いで目的地の「越中八尾観光会館」へ向かうことにします。
「越中八尾観光会館」には、毎年5月3日に開催される「曳山祭」に曳き出される豪華絢爛な曳山を、3基展示する「曳山展示館」が併設されて、栃木市の人形山車を展示している山車会館同様、背の高い曳山を収納展示する為、背の高い大扉が、建物を象徴しています。
開館前には、多くの石碑や銅像が建てられています。
医学博士「川崎順二」は、越中八尾おわら保存会初代会長となった人物で、顕彰碑の碑文「事績」冒頭を参照させて頂くと。
<大正十一年春、好者のみで伝えられてきた郷土民謡越中おわら節を永遠の文化として次代にのこさんがため、町内同志と諮りおわら研究会を結成、昭和四年に越中おわら保存会と発展的改称をなし、以来三十余年に富山県民謡おわら保存会と改称するもその会長として中心的役割を医師という多忙な日を割き、あるときは私財を投じて尽力してきた。・・・・(後略)>
そんな超有名となった「越中八尾おわら風の盆」だけでなく、八尾の町には、豪華絢爛な6基の曳山が有ることを、PRする会館の中を見学します。
入口の受付にて、本日一枚目のマンホールカードを受け取り、まずは映像で曳山祭りの情報を、映像を見て楽しく理解することが出来ました。
続いて館内を見学、いろいろな情報を得ることが出来ました。
曳山は全体に彫刻が施され、動く陽明門の様に感じられます。
この曳山が、あの八尾の石畳の坂を進む姿、狭い路地を曲がる迫力を、是非実際に見てみたいと思いました。
帰りの列車の時間が心配になってきました。幸い帰りは下り坂です。
富山駅に戻り、残り2枚のカードも無事に入手出来ました。
今回、富山県を訪れて、多くの情報に触れて、是非又、富山県を訪れたいと感じました。
北陸のマンホールカードを求めて富山県へ② [コレクション]
富山県二日目は、冷たい雨の朝となりました。時折白いものも混じっています。
今日は、なるたけ外を歩かなくて済む、マンホールカード配布所を廻ることにします。
傘をさして富山駅に向かう途中、駅南口前広場の一角で、越中富山の薬売りの像が、目に留まりました。
椅子に座り、柳行李を開けて、顧客伝票を確認しているのか、傍に貰った紙風船を膨らまして遊ぶ少女が立つ。そしてもうひと組み、柳行李を背負い次の顧客の家へと向かう薬売りと、手を振って見送る子供の像。
私の子供の頃の記憶にも残っています。置いていった紙風船を膨らまして、ポンポンと手のひらで突き上げて遊んだ事を思い出します。
富山市内は、市内電車が有効な交通手段になるので、1日フリーきっぷを買うことにしました。
富山市は、市内で7種類のマンホールカードを発行しています。これは最も多く発行している、岐阜県高山市の8種類に次いで、2番目に多い自治体で、愛知県岡崎市と同じ枚数です。次に多いところは5種類で、新潟県長岡市や村上市、大阪府の池田市、岡山県の倉敷市が続きます。
一般に平日の場合は、市役所の下水道課窓口等での配布の場合は、朝8時30分の仕事始めから配布していますが。観光案内所や道の駅などの観光施設で配布するところでは、9時とか10時の配布開始が多くなっています。カード収集のコツとして、朝一は少し遠距離の配布場所を攻略するようにしています。ので今回もまず、少し離れた小矢部市の駅の観光案内所に向かいました。
小矢部市のマンホールカードは2種類有りますが、1枚は富山駅から「あいの風とやま鉄道」で金沢方面の列車で「石動駅」で降り、駅構内に有る観光案内所で、雨に濡れることなく入手出来ます。
もう1枚は、「石動駅」から歩いて往復1時間以上かかるので、今回は断念しました。
10時からの配布開始に合わせて、10時18分着の列車で向かいました。天候は途中から雨から雪に変わってきました。
2日目最初のマンホールカードを、石動駅の駅舎内「石動駅観光案内所」にて無事入手。
すぐにホームに戻り富山方面に戻る列車の到着を待ちます。この駅で驚いたのは駅の名前の事です。「石動」の読み方です。私は普通に「いしどう」と呼んでいましたが、全く違っていたのです。ホームに建つ駅名表示は「いするぎ」と表示されています。
「石動」と言う漢字からは、どうしても私には「いするぎ」と言う読み方は出てきません。手元の「広辞苑」や「漢字源」を調べても出てきません。日本語の地名や人名の難しさを改めて知らされました。
(雪の中の「石動駅」とホームに建つ「駅名表示板」)
富山駅に戻ると直ぐに、市内電車を利用して、富山市内で配布しているカードの収集を開始しました。
富山駅舎内の市内電車発着所には、次々と車両が入ってきては出ていきます。行先をよく確認して目的の電車を間違えないよう乗り込みます。
岩瀬浜行で終点の「岩瀬浜駅」で降り。近くの「岩瀬カナル会館」にて2枚目を受け取り、折り返し運転の為、待機している電車に飛び乗ります。
順調に回って、「富山市民プラザ」・「TOYAMAキラリ」・「富山市まちなか観光案内所」の各配布場所でカードをゲット出来ました。
「富山市ガラス美術館」では、常設展の見学をしました。
「TOYAMAキラリ」は富山市立図書館本館・富山市ガラス美術館・富山第一銀行本店が入る複合施設で、建物内部は斜めの大きな吹き抜けに、多くの木材が使われ、森の中にいるイメージ。設計は隈研吾建築都市設計事務所。
ガラス美術館6階の常設展示フロアーは写真撮影が出来たので、鮮やかな作品をカメラに収めました。4階に展示されていた作品の1点1点が、見事で感動モノでした。人間の創造力の素晴らしさを感じました。写真に撮れないので、脳裏に焼き付けてきました。
雨の中でしたが、富山城址公園の中も散策、「富山市郷土博物館」を見学しました。
昭和29年(1954)戦災復興事業の一環で建設された「富山城天守閣」。現在郷土博物館として、富山城の歴史を紹介しています。平成16年に国の登録文化財に成っています。「千歳御門」は富山藩十代藩主前田利保が隠居所として造営した千歳御殿の正面で、嘉永二年(1849)に建築されました。市指定文化財に成っています。富山城で唯一現存する創建当初の建造物に成ります。
擬宝珠を載せた朱塗りの橋は、城址公園内の池に架けられた「雲景橋」です。私が行ったときは先の震災に被災したためか、通行禁止に成っていました。そのほかあちらこちら被災した影響で、通行止めとなっている箇所が見られました。橋の近くに建つ銅像は、富山藩第二代藩主「前田正甫公像」です。昭和29年(1954)に建てられました。高さは台石部を含めて、約10mにもなります。
公園内には、山茶花や梅の花が咲いていました。
まだ、富山市内のカード3枚を残していますが、今日は時間切れで、ホテルの戻ります。
部屋に戻って、明日最終日の計画を練ることに。
今回の参考資料:
.・富山市ガラス美術館リーフレット
・富山市郷土博物館リーフレット
今日は、なるたけ外を歩かなくて済む、マンホールカード配布所を廻ることにします。
傘をさして富山駅に向かう途中、駅南口前広場の一角で、越中富山の薬売りの像が、目に留まりました。
椅子に座り、柳行李を開けて、顧客伝票を確認しているのか、傍に貰った紙風船を膨らまして遊ぶ少女が立つ。そしてもうひと組み、柳行李を背負い次の顧客の家へと向かう薬売りと、手を振って見送る子供の像。
私の子供の頃の記憶にも残っています。置いていった紙風船を膨らまして、ポンポンと手のひらで突き上げて遊んだ事を思い出します。
富山市内は、市内電車が有効な交通手段になるので、1日フリーきっぷを買うことにしました。
富山市は、市内で7種類のマンホールカードを発行しています。これは最も多く発行している、岐阜県高山市の8種類に次いで、2番目に多い自治体で、愛知県岡崎市と同じ枚数です。次に多いところは5種類で、新潟県長岡市や村上市、大阪府の池田市、岡山県の倉敷市が続きます。
一般に平日の場合は、市役所の下水道課窓口等での配布の場合は、朝8時30分の仕事始めから配布していますが。観光案内所や道の駅などの観光施設で配布するところでは、9時とか10時の配布開始が多くなっています。カード収集のコツとして、朝一は少し遠距離の配布場所を攻略するようにしています。ので今回もまず、少し離れた小矢部市の駅の観光案内所に向かいました。
小矢部市のマンホールカードは2種類有りますが、1枚は富山駅から「あいの風とやま鉄道」で金沢方面の列車で「石動駅」で降り、駅構内に有る観光案内所で、雨に濡れることなく入手出来ます。
もう1枚は、「石動駅」から歩いて往復1時間以上かかるので、今回は断念しました。
10時からの配布開始に合わせて、10時18分着の列車で向かいました。天候は途中から雨から雪に変わってきました。
2日目最初のマンホールカードを、石動駅の駅舎内「石動駅観光案内所」にて無事入手。
すぐにホームに戻り富山方面に戻る列車の到着を待ちます。この駅で驚いたのは駅の名前の事です。「石動」の読み方です。私は普通に「いしどう」と呼んでいましたが、全く違っていたのです。ホームに建つ駅名表示は「いするぎ」と表示されています。
「石動」と言う漢字からは、どうしても私には「いするぎ」と言う読み方は出てきません。手元の「広辞苑」や「漢字源」を調べても出てきません。日本語の地名や人名の難しさを改めて知らされました。
(雪の中の「石動駅」とホームに建つ「駅名表示板」)
富山駅に戻ると直ぐに、市内電車を利用して、富山市内で配布しているカードの収集を開始しました。
富山駅舎内の市内電車発着所には、次々と車両が入ってきては出ていきます。行先をよく確認して目的の電車を間違えないよう乗り込みます。
岩瀬浜行で終点の「岩瀬浜駅」で降り。近くの「岩瀬カナル会館」にて2枚目を受け取り、折り返し運転の為、待機している電車に飛び乗ります。
順調に回って、「富山市民プラザ」・「TOYAMAキラリ」・「富山市まちなか観光案内所」の各配布場所でカードをゲット出来ました。
「富山市ガラス美術館」では、常設展の見学をしました。
「TOYAMAキラリ」は富山市立図書館本館・富山市ガラス美術館・富山第一銀行本店が入る複合施設で、建物内部は斜めの大きな吹き抜けに、多くの木材が使われ、森の中にいるイメージ。設計は隈研吾建築都市設計事務所。
ガラス美術館6階の常設展示フロアーは写真撮影が出来たので、鮮やかな作品をカメラに収めました。4階に展示されていた作品の1点1点が、見事で感動モノでした。人間の創造力の素晴らしさを感じました。写真に撮れないので、脳裏に焼き付けてきました。
雨の中でしたが、富山城址公園の中も散策、「富山市郷土博物館」を見学しました。
昭和29年(1954)戦災復興事業の一環で建設された「富山城天守閣」。現在郷土博物館として、富山城の歴史を紹介しています。平成16年に国の登録文化財に成っています。「千歳御門」は富山藩十代藩主前田利保が隠居所として造営した千歳御殿の正面で、嘉永二年(1849)に建築されました。市指定文化財に成っています。富山城で唯一現存する創建当初の建造物に成ります。
擬宝珠を載せた朱塗りの橋は、城址公園内の池に架けられた「雲景橋」です。私が行ったときは先の震災に被災したためか、通行禁止に成っていました。そのほかあちらこちら被災した影響で、通行止めとなっている箇所が見られました。橋の近くに建つ銅像は、富山藩第二代藩主「前田正甫公像」です。昭和29年(1954)に建てられました。高さは台石部を含めて、約10mにもなります。
公園内には、山茶花や梅の花が咲いていました。
まだ、富山市内のカード3枚を残していますが、今日は時間切れで、ホテルの戻ります。
部屋に戻って、明日最終日の計画を練ることに。
今回の参考資料:
.・富山市ガラス美術館リーフレット
・富山市郷土博物館リーフレット
北陸のマンホールカードを求めて富山県へ① [コレクション]
私のコレクションのひとつに、マンホールカードの収集が有りますが、今回は富山県に向かいました。合わせてその地域の観光も楽しみです。
これまでに私が収集した、マンホールカードの枚数は、今回300枚を超えました。
コレクションを始めたきっかけは、栃木県内で最初に発行された「足利市」のカード入手でした。
足利市のカードの発行は早く、今から8年前、2016年4月に第一弾が発行されたその年8月、第二弾で配布が開始されています。
私はそれ以前から、県内各自治体が設置している、ご当地マンホール蓋のデザインに興味を持ち、写真を撮り歩いていました。ですから、この「マンホールカード」の収集は、当然の様に興味を持ったのです。
当初は栃木県内とその周辺、群馬県や茨城県・埼玉県の範囲でしたが、次第にその範囲を広げ、現在は北は北海道から南は九州鹿児島県までになりました。
現在、全国的に発行されているその種類は、昨年12月に発行された第21弾のマンホールカードまでで、ついに1,000種類に達しています。つくば市や北九州市で発行している英語版を合わせると、1,004種類に成ります。ただ、すでに一部のマンホールカードは配布を終了しているカードもあります。それでもこの「マンホールカード」は、これからも新しいカードが続々と発行予定になっておりますから、全てを収集することは不可能に近いです。
(北九州市が発行する英語版のカード3枚の内2枚)
昨年、山形県の12種類を完全取得しました。群馬県も一度100%取得しましたが、すぐ新しいカードが発行され現在は19種類のうち2種類が未入手に成っています。
(昨年収集した山形県酒田市と群馬県桐生市発行のマンホールカード)
北陸地方は新潟県は36種類中20種類を収集していますが、その他の県(富山・石川・福井)については、これ)まで1枚も収集できていませんでした。
昨年の夏に富山県への計画をしましたが頓挫して、今回改めて計画しました。
能登半島地震の事もあり、躊躇するところも有りましたが、思い切って出かけました。
北陸新幹線にて富山駅に、両毛線で高崎駅まで行き、そこで新幹線に乗り込みます。ただ、自由席ホームで待っていると、駅員さんが駆けずり回って「本日は大変混雑をしていて、全員乗り切れない可能性が有りますので、指定席車両等分散して乗車して下さい。」と叫んでいます。私は一番前で待っていたので、降りてくる人を待って列車に乗り込みましたが、空席が有りません。何とか三列席の真ん中に荷物を置いていた外国の方がいたので、声をかけて座ることが出来ました。富山駅到着後、荷物を駅のコインロッカーに、ところが意外やコインロッカーに空きが無い状態、運よく丁度一か所空いたので、身軽になって最初のマンホールカードを求めて、氷見市へ向かいました。
氷見市には富山駅から「あいの風とやま鉄道」で高岡駅へ、そこでJR氷見線に乗り換え、終点の氷見駅に。駅構内の観光案内所で配布している氷見市のマンホールカードを受け取りました。富山県最初の一枚です。
(富山県で最初に入手した、氷見市のマンホールカード)
カードにデザインされている魚は、氷見市の高級ブランド「ひみ寒ぶり」、カード裏面にはマンホール蓋にデザインされた図柄の解説が記されています。
早速、氷見駅で折り返し運転となる、乗ってきた車両に飛び乗り次の目的地、道の駅「雨晴」に向かうことに。私の住む栃木市を走るJR両毛線も同じようですが、富山県のローカル線も昼前後は、1時間に1本有るか無いかと言う状況です。移動するタイミングをよく考えないと、観光も上手く出来ません。
次の目的地「雨晴」では、次の列車が来るまでの間、1時間40分でカードを入手して、昼食を取り、周辺観光を楽しみました。
(雨晴駅のホームから高岡方面に向かう列車。大型客船のイメージの道の駅「雨晴」の建物。)
カードを配布している、道の駅「雨晴」は前を通る国道415号とJR氷見線の線路を挟んで、富山湾を望むことが出来ます。
(富山県で2枚目取得の「高岡市」のマンホールカード。)
図柄は、中央に「女岩」、右端に「義経岩」、後方に立山連峰が描かれています。
「雨晴」の読みは「あまはらし」ですが、最近もテレビのクイズ番組の「難読漢字」で出ていました。
ここ「雨晴海岸」は、能登半島国定公園に有り、天気が良い日には富山湾越しに、3,000メートル級の山々が連なる、立山連峰を望むことが出来る景勝地ですが、残念ながら私が行った日は曇っていてその景色を拝むことは出来ませんでした。それでも道の駅の展望席で「氷見うどん」を食べながら、目の前に広がる富山湾の景色を堪能できました。
(雨晴海岸の名勝地「女岩」、晴れた日には後方に立山連峰が見える。)
(道の駅2階展望フロアーには、移設された万葉歌碑と芭蕉翁の句碑が有りました。)
次の目的地は二駅先の「伏木」です。ここでは次の列車が来るまで1時間44分有りますから、カード配布場所「勝興寺」までの間の周辺観光も楽しみました。
(勝興寺の受付で受け取った、3枚目のカード)
図柄は、勝興寺本堂と、その周りに万葉集の編者「大伴家持」が歌に詠んだ「カタクリ」の花。
勝興寺は浄土真宗本願寺派、「雲龍山」と号し、本尊は阿弥陀如来。
平成十年(1998)に本堂の保存修理に着手、令和二年(2020)までの23年を掛けて、重要文化財12棟全ての保存修理を行っています。その後、「本堂」と「大広間及び式台」の2棟が国宝に指定されています。
総門を入ると、正面に城郭を思わせる望楼形式の「鼓堂」。左手受付の先に、京都興正寺から移築された、檜皮葺の「唐門」
(唐門と鼓堂)
濠に架かる石橋を渡り、唐門を抜けると、正面に国宝となった「本堂」の大伽藍が現れます。その右手奥には、同じく国宝の「大広間と式台」が有ります。
(本堂と大広間と式台)
<勝興寺の境内は、奈良時代の越中国庁跡と推定されるところで、万葉集を編纂した大伴家持が国守として5年間在任し、その間に詠まれた多くの和歌が今に残されています。>と、勝興寺で頂いたリーフレットに記されていました。
勝興寺総門の手前の参道脇に、総門を背に立つ「大伴家持卿」の像と、家持の歌碑が建てられています。
伏木の駅前から勝興寺総門まで、約300メートル。その中程に「高岡市伏木気象資料館」が有ります。この建物は「旧伏木測候所」で、庁舎は明治42年(1909)に建築されています。脇に建つ測風塔は昭和13年(1938)に建てられました。共に国の登録有形文化財です。
尚、敷地内には「越中國守館址」と刻まれた石碑も建てられています。碑陰には<天平勝宝二年(750)三月二日、越中国守大伴家持が館舎の朝の寝床ではるか射水川を漕ぎ歌う船人の声を聞いてよんだ歌。「朝床に 聞けば遥けし 射水川 朝漕ぎしつつ 唱ふ船人」>が刻まれています。(高岡市教育委員会の解説文を参照しました。)
本日予定の3枚のマンホールカードを無事入手して、今夜の宿泊地「富山」に戻りました。
宿泊したホテルには、おおぜいの外国人観光客の姿も有りました。
夕食後は近くの、「富岩運河環水公園」のイルミネーションを見に行ってきました。
今回、参考にした資料:
・公益財団法人勝興寺文化財保存・活用事業団発行リーフレット「甦った大伽藍 国宝勝興寺」
・高岡市教育委員会文化財保護活用課発行リーフレット「高岡市伏木気象資料館」
これまでに私が収集した、マンホールカードの枚数は、今回300枚を超えました。
コレクションを始めたきっかけは、栃木県内で最初に発行された「足利市」のカード入手でした。
足利市のカードの発行は早く、今から8年前、2016年4月に第一弾が発行されたその年8月、第二弾で配布が開始されています。
私はそれ以前から、県内各自治体が設置している、ご当地マンホール蓋のデザインに興味を持ち、写真を撮り歩いていました。ですから、この「マンホールカード」の収集は、当然の様に興味を持ったのです。
当初は栃木県内とその周辺、群馬県や茨城県・埼玉県の範囲でしたが、次第にその範囲を広げ、現在は北は北海道から南は九州鹿児島県までになりました。
現在、全国的に発行されているその種類は、昨年12月に発行された第21弾のマンホールカードまでで、ついに1,000種類に達しています。つくば市や北九州市で発行している英語版を合わせると、1,004種類に成ります。ただ、すでに一部のマンホールカードは配布を終了しているカードもあります。それでもこの「マンホールカード」は、これからも新しいカードが続々と発行予定になっておりますから、全てを収集することは不可能に近いです。
(北九州市が発行する英語版のカード3枚の内2枚)
昨年、山形県の12種類を完全取得しました。群馬県も一度100%取得しましたが、すぐ新しいカードが発行され現在は19種類のうち2種類が未入手に成っています。
(昨年収集した山形県酒田市と群馬県桐生市発行のマンホールカード)
北陸地方は新潟県は36種類中20種類を収集していますが、その他の県(富山・石川・福井)については、これ)まで1枚も収集できていませんでした。
昨年の夏に富山県への計画をしましたが頓挫して、今回改めて計画しました。
能登半島地震の事もあり、躊躇するところも有りましたが、思い切って出かけました。
北陸新幹線にて富山駅に、両毛線で高崎駅まで行き、そこで新幹線に乗り込みます。ただ、自由席ホームで待っていると、駅員さんが駆けずり回って「本日は大変混雑をしていて、全員乗り切れない可能性が有りますので、指定席車両等分散して乗車して下さい。」と叫んでいます。私は一番前で待っていたので、降りてくる人を待って列車に乗り込みましたが、空席が有りません。何とか三列席の真ん中に荷物を置いていた外国の方がいたので、声をかけて座ることが出来ました。富山駅到着後、荷物を駅のコインロッカーに、ところが意外やコインロッカーに空きが無い状態、運よく丁度一か所空いたので、身軽になって最初のマンホールカードを求めて、氷見市へ向かいました。
氷見市には富山駅から「あいの風とやま鉄道」で高岡駅へ、そこでJR氷見線に乗り換え、終点の氷見駅に。駅構内の観光案内所で配布している氷見市のマンホールカードを受け取りました。富山県最初の一枚です。
(富山県で最初に入手した、氷見市のマンホールカード)
カードにデザインされている魚は、氷見市の高級ブランド「ひみ寒ぶり」、カード裏面にはマンホール蓋にデザインされた図柄の解説が記されています。
早速、氷見駅で折り返し運転となる、乗ってきた車両に飛び乗り次の目的地、道の駅「雨晴」に向かうことに。私の住む栃木市を走るJR両毛線も同じようですが、富山県のローカル線も昼前後は、1時間に1本有るか無いかと言う状況です。移動するタイミングをよく考えないと、観光も上手く出来ません。
次の目的地「雨晴」では、次の列車が来るまでの間、1時間40分でカードを入手して、昼食を取り、周辺観光を楽しみました。
(雨晴駅のホームから高岡方面に向かう列車。大型客船のイメージの道の駅「雨晴」の建物。)
カードを配布している、道の駅「雨晴」は前を通る国道415号とJR氷見線の線路を挟んで、富山湾を望むことが出来ます。
(富山県で2枚目取得の「高岡市」のマンホールカード。)
図柄は、中央に「女岩」、右端に「義経岩」、後方に立山連峰が描かれています。
「雨晴」の読みは「あまはらし」ですが、最近もテレビのクイズ番組の「難読漢字」で出ていました。
ここ「雨晴海岸」は、能登半島国定公園に有り、天気が良い日には富山湾越しに、3,000メートル級の山々が連なる、立山連峰を望むことが出来る景勝地ですが、残念ながら私が行った日は曇っていてその景色を拝むことは出来ませんでした。それでも道の駅の展望席で「氷見うどん」を食べながら、目の前に広がる富山湾の景色を堪能できました。
(雨晴海岸の名勝地「女岩」、晴れた日には後方に立山連峰が見える。)
(道の駅2階展望フロアーには、移設された万葉歌碑と芭蕉翁の句碑が有りました。)
次の目的地は二駅先の「伏木」です。ここでは次の列車が来るまで1時間44分有りますから、カード配布場所「勝興寺」までの間の周辺観光も楽しみました。
(勝興寺の受付で受け取った、3枚目のカード)
図柄は、勝興寺本堂と、その周りに万葉集の編者「大伴家持」が歌に詠んだ「カタクリ」の花。
勝興寺は浄土真宗本願寺派、「雲龍山」と号し、本尊は阿弥陀如来。
平成十年(1998)に本堂の保存修理に着手、令和二年(2020)までの23年を掛けて、重要文化財12棟全ての保存修理を行っています。その後、「本堂」と「大広間及び式台」の2棟が国宝に指定されています。
総門を入ると、正面に城郭を思わせる望楼形式の「鼓堂」。左手受付の先に、京都興正寺から移築された、檜皮葺の「唐門」
(唐門と鼓堂)
濠に架かる石橋を渡り、唐門を抜けると、正面に国宝となった「本堂」の大伽藍が現れます。その右手奥には、同じく国宝の「大広間と式台」が有ります。
(本堂と大広間と式台)
<勝興寺の境内は、奈良時代の越中国庁跡と推定されるところで、万葉集を編纂した大伴家持が国守として5年間在任し、その間に詠まれた多くの和歌が今に残されています。>と、勝興寺で頂いたリーフレットに記されていました。
勝興寺総門の手前の参道脇に、総門を背に立つ「大伴家持卿」の像と、家持の歌碑が建てられています。
伏木の駅前から勝興寺総門まで、約300メートル。その中程に「高岡市伏木気象資料館」が有ります。この建物は「旧伏木測候所」で、庁舎は明治42年(1909)に建築されています。脇に建つ測風塔は昭和13年(1938)に建てられました。共に国の登録有形文化財です。
尚、敷地内には「越中國守館址」と刻まれた石碑も建てられています。碑陰には<天平勝宝二年(750)三月二日、越中国守大伴家持が館舎の朝の寝床ではるか射水川を漕ぎ歌う船人の声を聞いてよんだ歌。「朝床に 聞けば遥けし 射水川 朝漕ぎしつつ 唱ふ船人」>が刻まれています。(高岡市教育委員会の解説文を参照しました。)
本日予定の3枚のマンホールカードを無事入手して、今夜の宿泊地「富山」に戻りました。
宿泊したホテルには、おおぜいの外国人観光客の姿も有りました。
夕食後は近くの、「富岩運河環水公園」のイルミネーションを見に行ってきました。
今回、参考にした資料:
・公益財団法人勝興寺文化財保存・活用事業団発行リーフレット「甦った大伽藍 国宝勝興寺」
・高岡市教育委員会文化財保護活用課発行リーフレット「高岡市伏木気象資料館」
北千住、氷川神社を巡る [歩く]
栃木市から北千住までは、東武特急を利用すれば、1時間で行けます。
(北千住駅と昨年6月に訪宿した際に入手した、「千住宿」の日光街道御宿場印)
この北千住の駅で降りて、日光道中最初の宿場町「千住宿」の街巡りをしました。
千住宿は、寛永2年(1625)に江戸幕府によって整備されました。その時の千住宿は、千住一丁目から五丁目の範囲でしたが、寛永12年(1635)に参勤交代制が敷かれると、日光道中の往来が盛んになった事で、宿の負担が増えてきていました。そのころまでに千住宿の南側に開発された掃部新田の街道筋に、商いを営む店が立ち始め、掃部宿が出来あがってきていました。
万治元年(1658)にはその掃部宿は千住宿に加えられました。この時加宿となった掃部宿の範囲は、掃部宿の南側に繋がる、千住河原町や千住橋戸町も含まれていました。
更に、万治3年(1660)には、千住宿の範囲は南に広がり、荒川(現在の隅田川)を超えて、右岸の小塚原町、中村町が加宿されて、元の一丁目から五丁目は本宿と言われました。
現在、隅田川の南側は、荒川区南千住と言う町名に成っていますが、しかし北千住という町名は有りません。現在の隅田川と北側を流れる荒川(かつての荒川放水路)とに囲まれた地域は、足立区の南端に位置し、北千住駅を中心として、多くは千住寿町とか、千住龍田町の様に「千住」を冠した町名に変更され、現在に至っています。言葉ではうまく説明できないので、北千住駅周辺の概略図を描いてみました。
概略図の上部を、西から東へ、そして大きくカーブして南に流れる「荒川」は、1930年(昭和5年)に完成した荒川放水路ですが、昭和40年に「荒川」の正式名称になり、概略図下部を蛇行して流れる「隅田川」は、元々は荒川の流れでしたが、度重なる氾濫から解放する為、上記荒川放水路が開鑿され、同じく昭和40年に、上流の岩淵水門から下流の名称は、正式に「隅田川」となりました。
荒川に架かる鉄橋群、左側には常磐線や千代田線・つくばエクスプレスの「荒川橋梁」、右側は東武伊勢崎線の鉄橋。その橋桁部分に「東武伊勢崎線荒川放水路橋梁」の文字が、かつての名残を留めています。
概略図の左上(西新井橋南橋詰)から南南東に下がり、千住神社東方で東に進み、また南東に曲がって右下に進む、深緑色で記した線は、天正年間(1573~1592)小田原北条氏によって築かれた「熊谷堤」に成ります。荒川(現在の隅田川)の除水堤防として築かれました。当初の千住宿(本宿)は、この熊谷堤の堤内(北側)に当たります。
明治19年1月7日付けの「明細 改正東京新圖」(編輯兼出版人 井上勝五郎)を眺めてみると、日本橋から北に延びる「奥州街道」の、荒川(現在の隅田川)に架かる「大ハシ」を渡った先に、「足立郡」や「千住中組」・「千住北組」等の地名が記されたエリア―に、かつての「千住宿」の街並が道路の両側に続いています。そして目を引いたのは、鳥居の地図記号と、脇に記された「氷川社」の文字です。僅かな間隔で、街道から少し脇に入ったところに、3ヵ所有ります。
「氷川社」「氷川神社」、素戔嗚尊を祭神とするこの神社は、私の住む栃木市内には有りません。調べてみると、お隣の小山市の塚崎に1社祀られていました。
小山市塚崎は、新小山市民病院の南東方向に広がる地域で、氷川神社はその中央部に位置します。
現地を訪れましたが、神社の由来を記すものは有りませんでした。「栃木県神社誌」をひも解いても、<由緒沿革には、創立年月日は不詳だが、小山城の関係地域の集落の成り立ちなどから推察すると、鎌倉時代に創建されたのではないかと思われる。>と有るのみです。
神社の入口石の鳥居の傍らの、小山市教育委員会が建てた「史跡塚田館」と刻した標柱を元に、小山市史を調べると、「塚田館」築城年代:鎌倉時代。城主:塚田七郎宗光、塚田七郎宗貞と記され、宗光は四代小山長村の子で、塚田を称してこの館を築き、子孫が居住した。ことが掲載されていました。
それでも、なぜ氷川神社なのかは不明のままです。
栃木県全体に範囲を広げても、あと1社、さくら市に「氷川神社」が確認できるだけでした。
氷川神社について更に調べてみると、この氷川神社は武蔵國を流れる荒川流域におよそ280社も集中しているそうで、地域色の強い神社です。その総本社は、埼玉県さいたま市大宮区に鎮座する、かつての武蔵國一之宮「氷川神社」です。
氷川神社という神社名の由来について、ひとつ伝えられているのは、日本神話の中の「八俣大蛇を退治した荒神 スサノオノミコト」伝説に基づく話です。
天照大神を姉とする須佐之男命(スサノオノミコト)は乱暴なふるまいの罪で、高天原を追放され、出雲国の斐伊川上の鳥髪という大原始林の中に降り立った。そこで、老夫婦が一人の可憐な乙女を、八俣大蛇(ヤマタノオロチ)に取られることに、泣き悲しんでいるのを知り、計略をめぐらして、見事に大蛇を退治し、晴れて助けた乙女(クシナダヒメ)と一緒になった。
おそらく、毎年のように洪水を起こし、大きな被害をもたらす「荒川」を、ヤマタノオロチに見立て、それを退治したスサノオノミコトを祀ることで、その神力で、「荒川」を鎮めたいと願ったもので、出雲国の斐伊川(ヒイガワ)から、ヒカワ・・・「氷川」と言う神社の名称が付けられた。と言う説です。それから「荒川」の流域で、「氷川信仰」が広がっていったのだと。
そこで、北千住エリア―の「氷川神社」を中心に、街巡りをしました。
最初は、前出の「改正東京新圖」に記された3か所のうち、一番南側に足を運びます。
北千住駅西口を出て、線路際の道路(千路通り)を南に歩き、そこから路地を抜け、ミリオン通りに出たら左に折れ南に進むと、通りの左側、立派な玉垣をめぐらした「千住仲町氷川神社」前に到着です。約800メートルの道のりです。
この仲町氷川神社は、掃部宿の鎭守に成ります。延喜年間(901~923)には牛田寄りの元宮に祀られていたものを、元和2年(1616)石出掃部亮吉胤が、掃部堤を築く際に、現在地に遷座させたものです。社殿に向かって右手奥に、北千住エリア―の社寺に分布する、千寿七福神の弁財天が祀られている岩屋が有ります。
岩屋の中の弁財天は、元禄2年(1689)の建立で、弁天像を陽刻した供養庚申塔の形態をとっています。仏教では庚申の本尊は「青面金剛」とされるので、よく庚申塔に彫られていますが、弁財天を主尊とする庚申塔は、非常に珍しいものです。足立区の登録有形文化財に成っています。
次の氷川神社は、旧日光道中(旧奥州街道)に出て北上、千住3丁目のコンビニ先を西に入る路地を覗くと、奥に背の高い木立と石の鳥居が見えます。
千住本氷川神社(せんじゅもとひかわじんじゃ)に成ります。境内内に建つ案内板によると、この神社は、<徳治2年(1307)に千葉氏によって、牛田に千葉山西光院と共に、氷川神社として創建されたという。千住が宿場町として栄え始めた江戸時代の初期、現在地に地主の土地奉納によって分社が建てられた。>のが始まりで、石の鳥居を潜った先に、旧社殿が残されています。旧社殿の向拝は、千鳥破風、その前面が唐破風となり、二重の破風を形成し、頭貫や虹梁の部分には、龍や鳥類の彫刻が目立っています。
昭和45年(1970)に、社殿を新築して、上記の旧社殿は末社として、三峯神社・久須志神社・大黒天が祀られています。大黒天は千寿七福神に成ります。
次、三番目は千住4丁目に鎮座する「氷川神社」に成ります。一度旧日光街道まで戻り、街道を北に200メートルほど歩くと、街道右手に立派なお屋敷が見えてきます。
「横山家住宅」です。足立区登録有形民俗文化財のこの建物は、足立区教育委員会が建てた説明板によると、<宿場町の名残として、伝馬屋敷の面影を今に伝えている。伝馬は、人や物資の輸送の為に、各宿場に馬負担させた江戸幕府の制度で、伝馬を負担した者には伝馬屋敷が与えられ、年貢なども免除された。横山家は、江戸時代から続く富裕な商家で、伝馬を負担していた。屋号は「松屋」で、今でいう再生紙を取り扱う地漉紙問屋であった。(後略)>
この横山家住宅の手前を東に入る路地が有ります。右折して路地に入ります。その突き当りが「長円寺」と言う、新義真言宗の寺院です。嘉永四年(1627)に、出羽湯殿山の行者、雲海がここに庵を結び、後に賢俊が開山したといいます。
(長円寺山門)
三ヵ所目の「氷川神社」はこの長円寺の境内に、元禄四年(1691)創建されました。お寺の北隣に成ります。
氷川神社社殿の左隣には、境内社の「高正天満宮」「稲荷神社」「猿田彦大神」が祀られています。
又、境内には「高正天満宮」の縁起を刻した、元治元年(1964)建立の石碑などが建っています。
以上の三社の他に、かつて千住5丁目川田耕地に有った氷川神社が、荒川放水路の開鑿に伴い、移転された「千住大川町氷川神社」も有りました。
元々、千住五丁目の鎭守として、永仁2年(1294)に川田耕地に創建されましたが、前述の様に荒川放水路の建設工事の為に、現在地に移転しました。社殿は大正二年(1913)の造営に成ります。
参道入口左手に建っているのが、旧千住新橋の親柱です。又、社殿南側には「千住川田浅間神社冨士塚」が有ります。
千住新橋は、荒川放水路工事の一環として、大正13年(1924)5月竣工しています。
橋の規模は、長さ452.7m、幅7.2m、鋼板桁の近代橋です。しかし、交通量の増加や老朽化の為、昭和53年(1978)掛替撤去に成っています。
(上の写真は、現在の千住新橋です。高欄に橋名板が付いています。)
更にもう一社、現在は氷川神社の社名では有りませんが、現在の千住宮元町に祀られている「千住神社」が有ります。
足立区教育委員会が設置した説明板を参照させて頂くと、<およそ一千年前、この地は仙崎という丘陵で、森林地帯であったが、延長四年(926))に稲荷の神が勧請され、仙崎稲荷神社が創建された。弘安二年(1279)、氷川神社も勧請したので、二つの神社が森林地帯の中に並び、「二ツ森」とも言われ住民の信仰を集めた。江戸の初期には、千住宿の西方にある神社ゆえ、西の森と唱えられた。明治六年(1873)、仙崎稲荷神社と氷川神社を合祀して西森神社と号し、大正四年(1915)に千住神社と改称した。(後略)>
ここ千住神社の境内には、千寿七福神の恵比寿様が、「願かけ恵比寿」として祀られています。千住富士として御祭神に木花咲耶比売命をお祀りする富士塚が築かれています。
又、この地は永承六年(1051)源義家が奥州征伐の際、荒川(現在の隅田川千住大橋付近)を渡り、当神社に陣営し、戦勝を祈願したと伝わり、史蹟となっています。他、芭蕉句碑や防空壕跡など見所が沢山ありました。
こうしてみると、北千住駅周辺に創建された「氷川神社」5社の中では、最初、千住仲町氷川神社が延喜年間(901~923)で、現在地より南東方向に創建されました。次に千住神社の前身氷川神社が、1279年となります。次が千住大川町氷川神社で1294年、そして1307年には千住本氷川神社の前身が、牛田(現在の千住曙町)に創建され、最後が千住四丁目氷川神社で、1691年創建と言う事に成ります。それぞれの地域住民の信仰を集めて、現在に至っています。
今回の参考資料:
・「千住宿歴史ウォークガイドブック②」 NPO法人千住文化普及会発行
・「日本の伝説12中国」 日本伝説拾遺会監修 教育図書出版 山田書院編集発行
・「栃木県神社誌」 栃木県神社庁発行
・「小山市史 資料編中世」小山市発行
(北千住駅と昨年6月に訪宿した際に入手した、「千住宿」の日光街道御宿場印)
この北千住の駅で降りて、日光道中最初の宿場町「千住宿」の街巡りをしました。
千住宿は、寛永2年(1625)に江戸幕府によって整備されました。その時の千住宿は、千住一丁目から五丁目の範囲でしたが、寛永12年(1635)に参勤交代制が敷かれると、日光道中の往来が盛んになった事で、宿の負担が増えてきていました。そのころまでに千住宿の南側に開発された掃部新田の街道筋に、商いを営む店が立ち始め、掃部宿が出来あがってきていました。
万治元年(1658)にはその掃部宿は千住宿に加えられました。この時加宿となった掃部宿の範囲は、掃部宿の南側に繋がる、千住河原町や千住橋戸町も含まれていました。
更に、万治3年(1660)には、千住宿の範囲は南に広がり、荒川(現在の隅田川)を超えて、右岸の小塚原町、中村町が加宿されて、元の一丁目から五丁目は本宿と言われました。
現在、隅田川の南側は、荒川区南千住と言う町名に成っていますが、しかし北千住という町名は有りません。現在の隅田川と北側を流れる荒川(かつての荒川放水路)とに囲まれた地域は、足立区の南端に位置し、北千住駅を中心として、多くは千住寿町とか、千住龍田町の様に「千住」を冠した町名に変更され、現在に至っています。言葉ではうまく説明できないので、北千住駅周辺の概略図を描いてみました。
概略図の上部を、西から東へ、そして大きくカーブして南に流れる「荒川」は、1930年(昭和5年)に完成した荒川放水路ですが、昭和40年に「荒川」の正式名称になり、概略図下部を蛇行して流れる「隅田川」は、元々は荒川の流れでしたが、度重なる氾濫から解放する為、上記荒川放水路が開鑿され、同じく昭和40年に、上流の岩淵水門から下流の名称は、正式に「隅田川」となりました。
荒川に架かる鉄橋群、左側には常磐線や千代田線・つくばエクスプレスの「荒川橋梁」、右側は東武伊勢崎線の鉄橋。その橋桁部分に「東武伊勢崎線荒川放水路橋梁」の文字が、かつての名残を留めています。
概略図の左上(西新井橋南橋詰)から南南東に下がり、千住神社東方で東に進み、また南東に曲がって右下に進む、深緑色で記した線は、天正年間(1573~1592)小田原北条氏によって築かれた「熊谷堤」に成ります。荒川(現在の隅田川)の除水堤防として築かれました。当初の千住宿(本宿)は、この熊谷堤の堤内(北側)に当たります。
明治19年1月7日付けの「明細 改正東京新圖」(編輯兼出版人 井上勝五郎)を眺めてみると、日本橋から北に延びる「奥州街道」の、荒川(現在の隅田川)に架かる「大ハシ」を渡った先に、「足立郡」や「千住中組」・「千住北組」等の地名が記されたエリア―に、かつての「千住宿」の街並が道路の両側に続いています。そして目を引いたのは、鳥居の地図記号と、脇に記された「氷川社」の文字です。僅かな間隔で、街道から少し脇に入ったところに、3ヵ所有ります。
「氷川社」「氷川神社」、素戔嗚尊を祭神とするこの神社は、私の住む栃木市内には有りません。調べてみると、お隣の小山市の塚崎に1社祀られていました。
小山市塚崎は、新小山市民病院の南東方向に広がる地域で、氷川神社はその中央部に位置します。
現地を訪れましたが、神社の由来を記すものは有りませんでした。「栃木県神社誌」をひも解いても、<由緒沿革には、創立年月日は不詳だが、小山城の関係地域の集落の成り立ちなどから推察すると、鎌倉時代に創建されたのではないかと思われる。>と有るのみです。
神社の入口石の鳥居の傍らの、小山市教育委員会が建てた「史跡塚田館」と刻した標柱を元に、小山市史を調べると、「塚田館」築城年代:鎌倉時代。城主:塚田七郎宗光、塚田七郎宗貞と記され、宗光は四代小山長村の子で、塚田を称してこの館を築き、子孫が居住した。ことが掲載されていました。
それでも、なぜ氷川神社なのかは不明のままです。
栃木県全体に範囲を広げても、あと1社、さくら市に「氷川神社」が確認できるだけでした。
氷川神社について更に調べてみると、この氷川神社は武蔵國を流れる荒川流域におよそ280社も集中しているそうで、地域色の強い神社です。その総本社は、埼玉県さいたま市大宮区に鎮座する、かつての武蔵國一之宮「氷川神社」です。
氷川神社という神社名の由来について、ひとつ伝えられているのは、日本神話の中の「八俣大蛇を退治した荒神 スサノオノミコト」伝説に基づく話です。
天照大神を姉とする須佐之男命(スサノオノミコト)は乱暴なふるまいの罪で、高天原を追放され、出雲国の斐伊川上の鳥髪という大原始林の中に降り立った。そこで、老夫婦が一人の可憐な乙女を、八俣大蛇(ヤマタノオロチ)に取られることに、泣き悲しんでいるのを知り、計略をめぐらして、見事に大蛇を退治し、晴れて助けた乙女(クシナダヒメ)と一緒になった。
おそらく、毎年のように洪水を起こし、大きな被害をもたらす「荒川」を、ヤマタノオロチに見立て、それを退治したスサノオノミコトを祀ることで、その神力で、「荒川」を鎮めたいと願ったもので、出雲国の斐伊川(ヒイガワ)から、ヒカワ・・・「氷川」と言う神社の名称が付けられた。と言う説です。それから「荒川」の流域で、「氷川信仰」が広がっていったのだと。
そこで、北千住エリア―の「氷川神社」を中心に、街巡りをしました。
最初は、前出の「改正東京新圖」に記された3か所のうち、一番南側に足を運びます。
北千住駅西口を出て、線路際の道路(千路通り)を南に歩き、そこから路地を抜け、ミリオン通りに出たら左に折れ南に進むと、通りの左側、立派な玉垣をめぐらした「千住仲町氷川神社」前に到着です。約800メートルの道のりです。
この仲町氷川神社は、掃部宿の鎭守に成ります。延喜年間(901~923)には牛田寄りの元宮に祀られていたものを、元和2年(1616)石出掃部亮吉胤が、掃部堤を築く際に、現在地に遷座させたものです。社殿に向かって右手奥に、北千住エリア―の社寺に分布する、千寿七福神の弁財天が祀られている岩屋が有ります。
岩屋の中の弁財天は、元禄2年(1689)の建立で、弁天像を陽刻した供養庚申塔の形態をとっています。仏教では庚申の本尊は「青面金剛」とされるので、よく庚申塔に彫られていますが、弁財天を主尊とする庚申塔は、非常に珍しいものです。足立区の登録有形文化財に成っています。
次の氷川神社は、旧日光道中(旧奥州街道)に出て北上、千住3丁目のコンビニ先を西に入る路地を覗くと、奥に背の高い木立と石の鳥居が見えます。
千住本氷川神社(せんじゅもとひかわじんじゃ)に成ります。境内内に建つ案内板によると、この神社は、<徳治2年(1307)に千葉氏によって、牛田に千葉山西光院と共に、氷川神社として創建されたという。千住が宿場町として栄え始めた江戸時代の初期、現在地に地主の土地奉納によって分社が建てられた。>のが始まりで、石の鳥居を潜った先に、旧社殿が残されています。旧社殿の向拝は、千鳥破風、その前面が唐破風となり、二重の破風を形成し、頭貫や虹梁の部分には、龍や鳥類の彫刻が目立っています。
昭和45年(1970)に、社殿を新築して、上記の旧社殿は末社として、三峯神社・久須志神社・大黒天が祀られています。大黒天は千寿七福神に成ります。
次、三番目は千住4丁目に鎮座する「氷川神社」に成ります。一度旧日光街道まで戻り、街道を北に200メートルほど歩くと、街道右手に立派なお屋敷が見えてきます。
「横山家住宅」です。足立区登録有形民俗文化財のこの建物は、足立区教育委員会が建てた説明板によると、<宿場町の名残として、伝馬屋敷の面影を今に伝えている。伝馬は、人や物資の輸送の為に、各宿場に馬負担させた江戸幕府の制度で、伝馬を負担した者には伝馬屋敷が与えられ、年貢なども免除された。横山家は、江戸時代から続く富裕な商家で、伝馬を負担していた。屋号は「松屋」で、今でいう再生紙を取り扱う地漉紙問屋であった。(後略)>
この横山家住宅の手前を東に入る路地が有ります。右折して路地に入ります。その突き当りが「長円寺」と言う、新義真言宗の寺院です。嘉永四年(1627)に、出羽湯殿山の行者、雲海がここに庵を結び、後に賢俊が開山したといいます。
(長円寺山門)
三ヵ所目の「氷川神社」はこの長円寺の境内に、元禄四年(1691)創建されました。お寺の北隣に成ります。
氷川神社社殿の左隣には、境内社の「高正天満宮」「稲荷神社」「猿田彦大神」が祀られています。
又、境内には「高正天満宮」の縁起を刻した、元治元年(1964)建立の石碑などが建っています。
以上の三社の他に、かつて千住5丁目川田耕地に有った氷川神社が、荒川放水路の開鑿に伴い、移転された「千住大川町氷川神社」も有りました。
元々、千住五丁目の鎭守として、永仁2年(1294)に川田耕地に創建されましたが、前述の様に荒川放水路の建設工事の為に、現在地に移転しました。社殿は大正二年(1913)の造営に成ります。
参道入口左手に建っているのが、旧千住新橋の親柱です。又、社殿南側には「千住川田浅間神社冨士塚」が有ります。
千住新橋は、荒川放水路工事の一環として、大正13年(1924)5月竣工しています。
橋の規模は、長さ452.7m、幅7.2m、鋼板桁の近代橋です。しかし、交通量の増加や老朽化の為、昭和53年(1978)掛替撤去に成っています。
(上の写真は、現在の千住新橋です。高欄に橋名板が付いています。)
更にもう一社、現在は氷川神社の社名では有りませんが、現在の千住宮元町に祀られている「千住神社」が有ります。
足立区教育委員会が設置した説明板を参照させて頂くと、<およそ一千年前、この地は仙崎という丘陵で、森林地帯であったが、延長四年(926))に稲荷の神が勧請され、仙崎稲荷神社が創建された。弘安二年(1279)、氷川神社も勧請したので、二つの神社が森林地帯の中に並び、「二ツ森」とも言われ住民の信仰を集めた。江戸の初期には、千住宿の西方にある神社ゆえ、西の森と唱えられた。明治六年(1873)、仙崎稲荷神社と氷川神社を合祀して西森神社と号し、大正四年(1915)に千住神社と改称した。(後略)>
ここ千住神社の境内には、千寿七福神の恵比寿様が、「願かけ恵比寿」として祀られています。千住富士として御祭神に木花咲耶比売命をお祀りする富士塚が築かれています。
又、この地は永承六年(1051)源義家が奥州征伐の際、荒川(現在の隅田川千住大橋付近)を渡り、当神社に陣営し、戦勝を祈願したと伝わり、史蹟となっています。他、芭蕉句碑や防空壕跡など見所が沢山ありました。
こうしてみると、北千住駅周辺に創建された「氷川神社」5社の中では、最初、千住仲町氷川神社が延喜年間(901~923)で、現在地より南東方向に創建されました。次に千住神社の前身氷川神社が、1279年となります。次が千住大川町氷川神社で1294年、そして1307年には千住本氷川神社の前身が、牛田(現在の千住曙町)に創建され、最後が千住四丁目氷川神社で、1691年創建と言う事に成ります。それぞれの地域住民の信仰を集めて、現在に至っています。
今回の参考資料:
・「千住宿歴史ウォークガイドブック②」 NPO法人千住文化普及会発行
・「日本の伝説12中国」 日本伝説拾遺会監修 教育図書出版 山田書院編集発行
・「栃木県神社誌」 栃木県神社庁発行
・「小山市史 資料編中世」小山市発行
郷土の偉人、日立製作所の創業者小平浪平翁、今年生誕150年になります [石碑]
前々回、今年最初の石碑めぐりで、栃木市大平町真弓の磯山に祀られた、諏訪神社境内に建つ石碑について書きましたが、その中で磯山山頂部に残る、コンクリート製の給水塔の事について、少し触れました。
(栃木市大平町真弓、磯山山頂に立つ貯水塔とその説明板)
貯水塔の脇に建つ説明板の通り、<この水槽は昭和18年、株式会社日立製作所栃木工場が、この大平の地に操業を開始した際、工場の工業用水供給の為建造されたものです。>
創業を開始したのは、昭和20年(1945)に成ります。
株式会社日立製作所が、この地に工場を建設したのは、ひとりの人物の存在が有りました。
その人物こそ「(株)日立製作所」の創業者で、その当時社長であった「小平浪平」です。
小平浪平翁は、明治7年(1874)1月15日に、栃木県都賀郡合戦場宿(現在、栃木市都賀町合戦場755)の大地主の家に、父惣八、母チヨの次男として生まれました。
明治21年(1888)14歳で上京、東京英語学校(東京大学予備門)に入学。その後、現東京大学工学部を卒業。明治33年(1900)大学卒業後、秋田県の藤田組小坂鉱山に入社。その後発電事業に職場を求めた。そこで発電設備のほとんどが外国製品で占められている現実を痛感している。明治39年(1906)10月、久原からの誘いを受けて、前年久原が開業した茨城県の久原鉱業所(日立鉱山)に入社する。その後、国産技術にこだわり、明治43年(1910)日立製作所を創業、世界的企業となる礎を築き、昭和26年(1951)10月5日に、その一生を終えました。享年77歳でした。
現在、小平浪平翁が幼少期に生活した「生家」が残っています。平成30年(2018)10月に、親族より栃木市に寄贈されています。
昨年暮れに、市が主催する「小平浪平顕彰ツアー」に参加させて頂き、その生家と茨城県日立市に2021年11月にオープンした、「日立オリジンパーク」等を見学をすることが出来ました。
小平浪平翁の生家は、日光例幣使街道沿いで、合戦場郵便局の丁度向かい側に有ります。
栃木の市街地から大通りを北上(栃木県道3号)、東武日光線の跨線橋を渡ると直ぐ、500メートル程で目的地の前に到着します。
街道に面した門の脇に、「小平浪平生誕地」と刻した石碑が建てられています。
この碑の題字を揮毫された人物は、JX金属グループ創業者「久原房之助」、明治38年(1905)日立鉱山を開業し、日本有数の銅山に成長させた人で、前述した様に、浪平との出会いは小坂鉱山で、その後久原が日立鉱山を開業した翌年に浪平も久原に誘われ入社しています。浪平とは、上司と部下の関係に成りますが、年齢的に5歳しか離れていなかったことで、同志のような関係でもあり、支援者だったと言われています。
碑陰には、元副社長の高尾直三郎氏による碑文が刻されています。
この石碑は、碑文にも記されている通り、日立製作所創業50周年を記念して、昭和35年10月5日建てられました。
門を入ると左手に母屋の玄関口が有ります。玄関に入って部屋の中を見ると、室内には多くの屏風や欄間額、そして調度品が展示されています。
その中に、浪平が「母親」を描いたという、直筆画を見ることが出来ました。
母屋の東側には、浪平が14歳で上京するまで、勉学に励んだとする、勉強小屋や、釣瓶井戸、浪平の父・惣八が家業の鉛丹の製造をしていた作業小屋などを、見学出来ました。
作業小屋には、当時製造していた鉛丹のサンプルが展示されていました。
ちなみに「鉛丹」とは、金属の鉛を加熱、空気中の酸素と反応させ「一酸化鉛」とし、更に加熱を加えて製造される。鉛丹は鉛中毒の危険性が高い。用途は赤色塗料や錆止め塗料として使用される。戦艦など船の底に塗り、航行性能を維持する為に使用されている。
見学をした日は、前日に雨が降っていた為、紅く色づいたモミジの葉が、庭に散っていて、華やかに装っていました。
※現在、小平浪平生家の敷地内見学については、「栃木市役所総合政策課」に問い合わせの上、事前予約をする必要があるそうです。
生家の見学後、都賀インターから北関東自動車道を東に、更に常磐自動車道に乗り換え北上、日立市大みか町に移動。「日立オリジンパーク」内に有る、「小平記念館」や「創業小屋」の見学をしました。
見学の前に施設スタッフの方から、「日立オリジンパーク」の概略説明が有りました。
施設の南側にはゴルフ場が広がっています。この「大みかゴルフクラブ」は、小平浪平が社員の娯楽と外国賓客の接待を目的に建設したもので、昭和11年(1936)10月11日、「日立ゴルフ倶楽部」として、茨城県最初のゴルフ場として完成しています。当初は18ホールでしたが、戦争中の食料難で一部が農地化された為、現在は8ホール。隣の大学敷地も元ゴルフコースの有ったところ等、説明が有りました。小平浪平翁の理念「和を以て貴しとなす」が、ここにも現れていることがよくわかります。
小平記念館の展示ホールには、日立の企業理念や創業の精神である和・誠・開拓者精神等が、事例とともに展示紹介されています。
復元された「創業小屋」
建屋の中には「創業小屋」について案内が有りましたので、抜粋させて頂きます。
<1953年、創業者小平浪平より教えを受けた高尾直三郎の発案により日立製作所・海岸工場の高台に整備された創業の聖地、小平台。戦争の犠牲者を悼み、小平の偉業を伝える場として植樹された。その地に、1956年、日立製作所の源泉である、久原鉱業所日立鉱山の工作課修理工場が復元された。高尾ら創業メンバー念願の復元であり、関係者の回想と写真によって半世紀ぶりによみがえったその建物は「創業小屋」と名付けられた。(中略)2021年、創業小屋は大みかの地にうつり、新たな聖地のシンボルとして、創業の精神を未来へとつないでいる。>と。
創業小屋の内部には、1910年初の純国産5馬力誘導電動機が、実際に動く状態で展示されています。パネルの「START」ボタンを押すと、同時に大きな駆動音を発してモーターが回転、ベルトを介して横に据え付けられた「ラジアルボール盤」の主軸が回転する。こうして、今も現役で動くことを見せています。
あらためて、小平浪平翁が偉大で、素晴らしい人であったことを、知ることが出来ました。
今回の参考資料:
・栃木市 小平浪平顕彰ツアー資料 合戦場の知名度を全国区にする会作成
・「小平浪平生誕地」リーフレット 栃木市発行
・「日立オリジンパーク」リーフレット (株)日立製作所 日立オリジンパーク発行
・「技術王国・日立をつくった男ー創業者小平浪平伝」 加藤勝美著 PHP研究所発行
・「都賀町史 歴史編」 都賀町発行
(栃木市大平町真弓、磯山山頂に立つ貯水塔とその説明板)
貯水塔の脇に建つ説明板の通り、<この水槽は昭和18年、株式会社日立製作所栃木工場が、この大平の地に操業を開始した際、工場の工業用水供給の為建造されたものです。>
創業を開始したのは、昭和20年(1945)に成ります。
株式会社日立製作所が、この地に工場を建設したのは、ひとりの人物の存在が有りました。
その人物こそ「(株)日立製作所」の創業者で、その当時社長であった「小平浪平」です。
小平浪平翁は、明治7年(1874)1月15日に、栃木県都賀郡合戦場宿(現在、栃木市都賀町合戦場755)の大地主の家に、父惣八、母チヨの次男として生まれました。
明治21年(1888)14歳で上京、東京英語学校(東京大学予備門)に入学。その後、現東京大学工学部を卒業。明治33年(1900)大学卒業後、秋田県の藤田組小坂鉱山に入社。その後発電事業に職場を求めた。そこで発電設備のほとんどが外国製品で占められている現実を痛感している。明治39年(1906)10月、久原からの誘いを受けて、前年久原が開業した茨城県の久原鉱業所(日立鉱山)に入社する。その後、国産技術にこだわり、明治43年(1910)日立製作所を創業、世界的企業となる礎を築き、昭和26年(1951)10月5日に、その一生を終えました。享年77歳でした。
現在、小平浪平翁が幼少期に生活した「生家」が残っています。平成30年(2018)10月に、親族より栃木市に寄贈されています。
昨年暮れに、市が主催する「小平浪平顕彰ツアー」に参加させて頂き、その生家と茨城県日立市に2021年11月にオープンした、「日立オリジンパーク」等を見学をすることが出来ました。
小平浪平翁の生家は、日光例幣使街道沿いで、合戦場郵便局の丁度向かい側に有ります。
栃木の市街地から大通りを北上(栃木県道3号)、東武日光線の跨線橋を渡ると直ぐ、500メートル程で目的地の前に到着します。
街道に面した門の脇に、「小平浪平生誕地」と刻した石碑が建てられています。
この碑の題字を揮毫された人物は、JX金属グループ創業者「久原房之助」、明治38年(1905)日立鉱山を開業し、日本有数の銅山に成長させた人で、前述した様に、浪平との出会いは小坂鉱山で、その後久原が日立鉱山を開業した翌年に浪平も久原に誘われ入社しています。浪平とは、上司と部下の関係に成りますが、年齢的に5歳しか離れていなかったことで、同志のような関係でもあり、支援者だったと言われています。
碑陰には、元副社長の高尾直三郎氏による碑文が刻されています。
この石碑は、碑文にも記されている通り、日立製作所創業50周年を記念して、昭和35年10月5日建てられました。
門を入ると左手に母屋の玄関口が有ります。玄関に入って部屋の中を見ると、室内には多くの屏風や欄間額、そして調度品が展示されています。
その中に、浪平が「母親」を描いたという、直筆画を見ることが出来ました。
母屋の東側には、浪平が14歳で上京するまで、勉学に励んだとする、勉強小屋や、釣瓶井戸、浪平の父・惣八が家業の鉛丹の製造をしていた作業小屋などを、見学出来ました。
作業小屋には、当時製造していた鉛丹のサンプルが展示されていました。
ちなみに「鉛丹」とは、金属の鉛を加熱、空気中の酸素と反応させ「一酸化鉛」とし、更に加熱を加えて製造される。鉛丹は鉛中毒の危険性が高い。用途は赤色塗料や錆止め塗料として使用される。戦艦など船の底に塗り、航行性能を維持する為に使用されている。
見学をした日は、前日に雨が降っていた為、紅く色づいたモミジの葉が、庭に散っていて、華やかに装っていました。
※現在、小平浪平生家の敷地内見学については、「栃木市役所総合政策課」に問い合わせの上、事前予約をする必要があるそうです。
生家の見学後、都賀インターから北関東自動車道を東に、更に常磐自動車道に乗り換え北上、日立市大みか町に移動。「日立オリジンパーク」内に有る、「小平記念館」や「創業小屋」の見学をしました。
見学の前に施設スタッフの方から、「日立オリジンパーク」の概略説明が有りました。
施設の南側にはゴルフ場が広がっています。この「大みかゴルフクラブ」は、小平浪平が社員の娯楽と外国賓客の接待を目的に建設したもので、昭和11年(1936)10月11日、「日立ゴルフ倶楽部」として、茨城県最初のゴルフ場として完成しています。当初は18ホールでしたが、戦争中の食料難で一部が農地化された為、現在は8ホール。隣の大学敷地も元ゴルフコースの有ったところ等、説明が有りました。小平浪平翁の理念「和を以て貴しとなす」が、ここにも現れていることがよくわかります。
小平記念館の展示ホールには、日立の企業理念や創業の精神である和・誠・開拓者精神等が、事例とともに展示紹介されています。
復元された「創業小屋」
建屋の中には「創業小屋」について案内が有りましたので、抜粋させて頂きます。
<1953年、創業者小平浪平より教えを受けた高尾直三郎の発案により日立製作所・海岸工場の高台に整備された創業の聖地、小平台。戦争の犠牲者を悼み、小平の偉業を伝える場として植樹された。その地に、1956年、日立製作所の源泉である、久原鉱業所日立鉱山の工作課修理工場が復元された。高尾ら創業メンバー念願の復元であり、関係者の回想と写真によって半世紀ぶりによみがえったその建物は「創業小屋」と名付けられた。(中略)2021年、創業小屋は大みかの地にうつり、新たな聖地のシンボルとして、創業の精神を未来へとつないでいる。>と。
創業小屋の内部には、1910年初の純国産5馬力誘導電動機が、実際に動く状態で展示されています。パネルの「START」ボタンを押すと、同時に大きな駆動音を発してモーターが回転、ベルトを介して横に据え付けられた「ラジアルボール盤」の主軸が回転する。こうして、今も現役で動くことを見せています。
あらためて、小平浪平翁が偉大で、素晴らしい人であったことを、知ることが出来ました。
今回の参考資料:
・栃木市 小平浪平顕彰ツアー資料 合戦場の知名度を全国区にする会作成
・「小平浪平生誕地」リーフレット 栃木市発行
・「日立オリジンパーク」リーフレット (株)日立製作所 日立オリジンパーク発行
・「技術王国・日立をつくった男ー創業者小平浪平伝」 加藤勝美著 PHP研究所発行
・「都賀町史 歴史編」 都賀町発行
ある陶芸家の個展を見て
昨年の秋、ある陶芸家の個展の案内状が、郵送されてきました。
最初はその差出人に、ピンときませんでした。「誰からだろうか」と。 そして、案内状を読んでいるうちに、思い当たりました。
昨年の夏ごろだったか、栃木市湊町「お茶の小井沼」の店舗と蔵を使って、行われていた、その陶芸家の作品展を見に行き、記帳をして来た事が有りました。
この作家の作品は、チョッと変わっていて、お茶碗や花瓶などと言うものでは無く、私たちが家庭で日常的に使っている、例えば「ノートパソコン」とか、「文房具」などを、実物大でその形状を再現させているのです。
今回の案内状には、自転車が、それも本物と見間違うようなリアルさ。その作品に興味を抱いて、見に行ってきました。
個展「私」の会場は、「大久保分校スタートアップミュージアム」という、栃木県足利市大久保町にある、廃校を改築した美術館です。その住所からグーグルマップで検索して、行ってきました。
場所は、足利フラワーパークの西方、田園地帯の真ん中、分校の敷地の南側には「尾名川」と言う小河川が流れ、そこに架かる「分校橋」を渡っていく。車を校庭跡に止め、展示会場の校舎に入りました。
初めに目を引いたのは、廊下に架かっている「カーテン」です。
これも作品です。本当にカーテンそのものです。ふと開いて窓の外の風景を見たくなります。そこにはどのような風景が広がっているのか。
教室の中に入ります。有りました、案内状に出ていた「自転車」です。
作者が8年間乗り続けた自転車を、実寸サイズで作られているそうです。とても土をこねて、成型して焼いた「陶器」とは思えません。
私が子供の頃、家は自転車店を営んでいました。その為、ついつい細かいところを観察していました。
「フレーム」は婦人用。「ハンドル」はセミアップタイプ、お洒落なかご付で、フルカバーチェーンケース、まさに昭和の自転車です。
でも、車輪のスポークが有りません。自動車のタイヤに付いているホイルの役目をする。車軸とタイヤを連結する部品です。
子どもの頃、この自転車の車輪の組み立てを手伝いました。車軸側のハブとタイヤ側のリムとを、スポークで連結させるのですが、これは結構慣れるまでは難しかったです。
組み立てたホイルを父が、スポークの張りを調整して、車輪がブレずに回転するようにします。次の写真が「ホイールの調整作業」です。
スポークは細い金属製の部品ですから、陶器で再現することは困難でしょうが、考えてみると作者の意図はもっと深い気がします。
この自転車の作品は、動いている、走っている所を表現しているからです。
見ると、止まっている時、倒れないように後輪に付いた「スタンド」を下ろしますが、この作品はそのスタンドも上がっています。走っているからです。その時車輪は回転をしている為、スポークは見えなくなっているはずです。これでリアルだったのです。
他の作品も見てみます。
とても陶器とは思えない作品が並んでいました。
案内状によると、この個展は2月2日(日)までだそうです、金・土・日・祝の10:00~17:00の開館ですから、残すところ今週末と来週末だけに成っています。
最初はその差出人に、ピンときませんでした。「誰からだろうか」と。 そして、案内状を読んでいるうちに、思い当たりました。
昨年の夏ごろだったか、栃木市湊町「お茶の小井沼」の店舗と蔵を使って、行われていた、その陶芸家の作品展を見に行き、記帳をして来た事が有りました。
この作家の作品は、チョッと変わっていて、お茶碗や花瓶などと言うものでは無く、私たちが家庭で日常的に使っている、例えば「ノートパソコン」とか、「文房具」などを、実物大でその形状を再現させているのです。
今回の案内状には、自転車が、それも本物と見間違うようなリアルさ。その作品に興味を抱いて、見に行ってきました。
個展「私」の会場は、「大久保分校スタートアップミュージアム」という、栃木県足利市大久保町にある、廃校を改築した美術館です。その住所からグーグルマップで検索して、行ってきました。
場所は、足利フラワーパークの西方、田園地帯の真ん中、分校の敷地の南側には「尾名川」と言う小河川が流れ、そこに架かる「分校橋」を渡っていく。車を校庭跡に止め、展示会場の校舎に入りました。
初めに目を引いたのは、廊下に架かっている「カーテン」です。
これも作品です。本当にカーテンそのものです。ふと開いて窓の外の風景を見たくなります。そこにはどのような風景が広がっているのか。
教室の中に入ります。有りました、案内状に出ていた「自転車」です。
作者が8年間乗り続けた自転車を、実寸サイズで作られているそうです。とても土をこねて、成型して焼いた「陶器」とは思えません。
私が子供の頃、家は自転車店を営んでいました。その為、ついつい細かいところを観察していました。
「フレーム」は婦人用。「ハンドル」はセミアップタイプ、お洒落なかご付で、フルカバーチェーンケース、まさに昭和の自転車です。
でも、車輪のスポークが有りません。自動車のタイヤに付いているホイルの役目をする。車軸とタイヤを連結する部品です。
子どもの頃、この自転車の車輪の組み立てを手伝いました。車軸側のハブとタイヤ側のリムとを、スポークで連結させるのですが、これは結構慣れるまでは難しかったです。
組み立てたホイルを父が、スポークの張りを調整して、車輪がブレずに回転するようにします。次の写真が「ホイールの調整作業」です。
スポークは細い金属製の部品ですから、陶器で再現することは困難でしょうが、考えてみると作者の意図はもっと深い気がします。
この自転車の作品は、動いている、走っている所を表現しているからです。
見ると、止まっている時、倒れないように後輪に付いた「スタンド」を下ろしますが、この作品はそのスタンドも上がっています。走っているからです。その時車輪は回転をしている為、スポークは見えなくなっているはずです。これでリアルだったのです。
他の作品も見てみます。
とても陶器とは思えない作品が並んでいました。
案内状によると、この個展は2月2日(日)までだそうです、金・土・日・祝の10:00~17:00の開館ですから、残すところ今週末と来週末だけに成っています。
大平町真弓、諏訪神社境内に建つ石碑を巡る。 [石碑]
令和六年、最初の石碑巡りは、栃木市大平町真弓の、磯山に鎮座する諏訪神社の、境内に建てられている、五基の石碑を見て廻りたいと思います。
(大平町真弓磯山の南側中腹に鎮座する諏訪神社の社殿)
(拝殿の大棟に施されている、龍の装飾が珍しいです。)
「栃木県神社誌」(昭和39年2月11日 栃木県神社庁発行)によると、
<諏訪神社 旧郷社 下都賀郡大平町(現在、栃木市大平町)真弓1,531番地
主祭神:建御名方命(タケミナカタノミコト)、境内神社:竜神社・猿田彦神社・白山神社・朏神社
由緒沿革:藤原秀郷が、平将門を征討の時、信濃国一の宮諏訪神社に祈願し、神助により勝利を得たという。それで、この神を勧請したといわれている。これが承平二巳年二月である。明治五年郷社となり、同十年村社となり、また同二十八年十二月二十四日郷社となった。>と、掲載されています。
※この諏訪神社については、2016年2月7日付けにて、公開をしておりますので、そちらもお訪ね下さい。
さて、最初に紹介する石碑は、背の高い杉木立が並ぶ、参道の中程、社殿方向を向いて右手の木立の中に、目に触れることなく建っている石碑です。
(諏訪神社参道、杉木立の並木の奥に社殿を望む)
(参道脇、木立の中に埋もれる様に建つ、最初の石碑)
碑陰には、「御大典記念 下都賀郡農會建之 後援瑞穂村」と中央に大きく刻まれています。
まず、近くによって石碑の上部の篆額を確認します。
「頌徳碑」と刻されています。揮毫された人物は、「関屋貞三郎」大正十年から昭和八年まで、第11代宮内次官を務めた、足利郡御厨町(現在足利市)出身の官僚・政治家です。
「頌徳碑」とは、功徳を褒めたたえる碑と言う事で、それではどんな人物か、碑文を確認していきたいと思います。
(頌徳碑の碑文を書き写しました。幸い私の苦手な漢文体で無く、読み移すことが出来ました。)
その人物とは、「山田健次郎」と言い、碑文によると
<山田君は東京小石川の人にして、栃木県下都賀郡瑞穂村の名家、川連氏の出、維新回天の志士、川連義路君を祖父とす、先考甲子次郎君は義路君の次男、出て山田家を嗣ぎ、拮据経営東都財界の先覚者として重きをなし・・・・(後略)>と刻されています。そして、
<我国農業の不振、農民の疲弊を憂い、大正十三年親考に謀りて其の旧郷瑞穂村農會に金三千円を贈り、同農會の事業を援助し、大正十四年其の家統を襲ぐや遺志に因り下都賀郡農會に対し、農村振興基金として金三万円を寄付せらる・・・(後略)>と続きます。
こうして寄せられた基財を以て、下都賀農會は諸般の事業を施設、多大の成果を上げることが出来たとして「山田健次郎」頌徳碑建設を議決して、御大典記念事業の一環として、この石碑が建てられたようです。
次の石碑へ向かいます。参道を進み石段を上がり、社殿に参拝してから、拝殿に向かって左手方向に進むと、道はふたてに別れ、それぞれに石の鳥居が建てられています。左手の鳥居に掲げられている「神額」に「愛宕神社」と有り、右手の鳥居には神額は掲げられていません。それぞれの鳥居の先には、小さな石の祠が祀られています。
次の石碑は右手の鳥居を潜った先、石の祠の左手手前に建っています。ちなみに脇の石の祠には「八幡宮」の幣帛が祀られていました。石碑を確認します。
鬱蒼とした杉木立の中、光が届かない為薄暗い中に石碑は建っています。篆額を確認します。
篆字体を読み解くと「戦捷築造記念之碑」と浮彫されています。揮毫されたのは、下野国宇都宮藩最後の藩主「戸田忠友」です。
碑文を見ます。
碑文は「前皇大神宮禰宜 岡吉胤」の撰。碑文を書いたのは、「郷社諏訪神社社司 大和田茂教」。
個の石碑は明治38年10月、郷社諏訪神社により建立されています。
碑文は苦手な漢文体で、読み下せませんが、意味としては「明治37年2月、我が国はロシアに対して宣戦を布告、陸海軍の連戦連勝により、旅順や遼陽を占領、勝利を収めた。参加した兵士には氏子や信徒もいたが、郷社諏訪神社に戦勝を祈願、その霊験が有った。氏子らお金を拠出して神社へのお礼として、「標示石一基、石垣三段、石坂一所を築造」し、陸海軍人の武運栄盛を祈願した、その記念としてこの石碑を建立したと読める。碑陰には醵金された人たちの金額と芳名及び発起者の名前がビッシリと並んでいます。明治38年10月の日付が確認できます。アメリカのポーツマスにて日露講和条約が調印された翌月です。
次の石碑は更にそこから坂を上り、磯山の山頂に向かいます。山頂は岩肌が露出しています。そこに二基の石碑が建っています。
(写真左側に背の高い石碑、右側に少し小ぶりな石碑が見えます。右後方の円筒の建造物は、水槽で、昭和18年(株)日立製作所栃木工場が、この地に操業を開始した際、工場の工業用水供給の為建造され、昭和40年まで重要な役割を果たしたものです。)
まず、小さい石碑から見ていきます。
篆額部分を拡大します。
篆書体の文字にて「鳥居建設記念の碑」と刻されています。揮毫者は上記石碑と同一人物で、戸田忠友です。この時の官位は「正三位」で上記石碑の「従三位」から昇叙されていることが分かります。ちなみに戸田忠友は最終的に「従二位・勲三等瑞宝章」に昇叙されました。
碑文を確認します。
碑文を撰した人物は、栃木県師範学校長の「安達常正」漢学者で号を「外山人」。碑文を書いたのは前の「戦捷築造記念の碑」と同じく、諏訪神社社司の「大和田茂教」です。
碑文内容は、同じく漢文体で読み下すことは出来ません。ただただ理解できる地名や人物名から、推し量るに前半は郷社須賀神社の由緒が記されていることが分かるのみです。
碑陰の上部に「大正七年十月」の日付。その下方に寄付者芳名一覧、そして最下段に発起者名が並んでいます。
次に大きい方の石碑を確認します。
この石碑、今回巡った5基の石碑の中で最も日当りの良い場所に建てられています。石碑左下方に割れが認められ、碑文を書かれた人物の苗字が判読出来なくなっていました。
篆額の確認です。
篆書体で「昇格記念碑」と刻されています。揮毫をした人物は、「天穂日命(アメノホヒノミコト)の八十代の孫、出雲國造、正三位勲一等男爵、千家尊福」です。
碑陰に刻まれた文字は、苔類が繁殖して、読み取るのが大変です。読み取れた文字は、
「真弓氏子一同建之」「大正十二年十月九日」でした。
碑文を見ていきます。
これもまた漢文体です。それだけでも頭を抱えるのに、この碑文に使われている漢字自体が、見たこともない字で溢れています。旧字や異体字、更に私のパソコンでは出てこない字も有り、全文を読み下すことは、私には到底無理、ただ分かる漢字からひも解くと、碑文のおおよその内容は思い浮かんできます。
内容的には、この「郷社諏訪神社」の由緒が記されています。
篆額に刻まれた「昇格記念」とは、神社の沿革にも有ったように、ここ須賀神社は、明治5年に郷社であったが、明治10年に村社に降格、その後明治28年12月24日郷社に昇格していることから、この昇格を記念する形で、建碑されたものと思われます。
ただ、疑問に思うのは、なぜ昇格してから28年も経っての、記念碑建立となったのかです。疑問は残ります。
それでは最後、5基目の石碑を巡ります。
5番目の石碑の場所は、一度拝殿前まで戻り、今度は拝殿に向かって右手方向に進み、社殿を回り込むように、社殿の北東側の木立の中に、その石碑は建てられています。
(木立の中の石碑の前まで、石畳が敷かれています。)
何時ものように、まず「篆額」の文字を確認します。
やはり篆書体で刻まれています。が、その最初の文字が何と書かれているのか、いろいろ調べてみましたが、これという字が見つかりませんでした。「?忠碑」、形から「余」の様に見えますが、「余忠」という熟語も見つからない。
この篆額の文字を揮毫した人物は、当時の陸軍大将「鮫島重雄」です。
篆額の意味はこれ以上分からないので、碑文を見ていきたいと思います。
碑文の冒頭に名前が出てきます、「川連義路」です。最初の石碑に出てきた名前です。最初の頌徳碑の人物「山田健次郎」の祖父に当たる人物です。
やはり漢文体ですが、分かるところを読んでみたいと思います。
<川連義路君、通称は虎一郎、父は義種、母は富田氏、天保13年7月、下野国都賀郡真弓村で、代々関宿領の庄屋の家に生まれました。>
<文久の初め、江戸に出て、儒学を大橋正順より究する。>
<藤田信らが、太平山に立てこもった時、お金や食料を贈り応援をし、自ら江戸に出て必要な武器を買い付け、帰って来た時、すでに藤田信らは立ち去って、筑波山に行っていた。君は同志に合流しようとしたが、事が露呈して阻まれ、江戸に逃げたが、幕使に捕らえられ、洲崎において首を刎ねられ、屍は海中に投棄されてしまった。>
<元治元年八月三日、享年僅か23歳であった。>
<関宿藩主、それを伝え聞き、大変心を痛め、長男の義直に家を継がせ、次男の義次に扶持米2人扶持を付けた。>ここの理解は誤訳が有るかも。
<明治22年11月、朝廷はその忠勤に対し靖国神社に合祀された。>
<大正4年11月、今上天皇の即位の儀式において、従五位を贈られた。>
<里人、こうした彼の行いを徳とし、郷里の誉をいつまでも伝えようと、産土神の祠の傍らに、建碑することを欲した。>
このような内容と読み解いたが、他にも上手く読み解けない部分も多い。
碑陰には、「大正十一年十月九日 大字真弓一同建之」と刻まれております。
今、磯山の山頂に立つと、北西に太平の山並みを、更にその北奥に男体山や日光連山の山々を望み、眼下には改良復旧工事を進める、永野川を見ることが出来ます。
今年1年、また石碑の漢文体に、無い頭を悩ませそうです。今回も辞書と首っ引きで、碑文に向かいました。
今回参考にした資料:
・栃木県神社誌 (昭和39年2月11日 栃木県神社庁発行)
・栃木県市町村誌 (昭和30年8月20日 栃木県町村会発行)
(大平町真弓磯山の南側中腹に鎮座する諏訪神社の社殿)
(拝殿の大棟に施されている、龍の装飾が珍しいです。)
「栃木県神社誌」(昭和39年2月11日 栃木県神社庁発行)によると、
<諏訪神社 旧郷社 下都賀郡大平町(現在、栃木市大平町)真弓1,531番地
主祭神:建御名方命(タケミナカタノミコト)、境内神社:竜神社・猿田彦神社・白山神社・朏神社
由緒沿革:藤原秀郷が、平将門を征討の時、信濃国一の宮諏訪神社に祈願し、神助により勝利を得たという。それで、この神を勧請したといわれている。これが承平二巳年二月である。明治五年郷社となり、同十年村社となり、また同二十八年十二月二十四日郷社となった。>と、掲載されています。
※この諏訪神社については、2016年2月7日付けにて、公開をしておりますので、そちらもお訪ね下さい。
さて、最初に紹介する石碑は、背の高い杉木立が並ぶ、参道の中程、社殿方向を向いて右手の木立の中に、目に触れることなく建っている石碑です。
(諏訪神社参道、杉木立の並木の奥に社殿を望む)
(参道脇、木立の中に埋もれる様に建つ、最初の石碑)
碑陰には、「御大典記念 下都賀郡農會建之 後援瑞穂村」と中央に大きく刻まれています。
まず、近くによって石碑の上部の篆額を確認します。
「頌徳碑」と刻されています。揮毫された人物は、「関屋貞三郎」大正十年から昭和八年まで、第11代宮内次官を務めた、足利郡御厨町(現在足利市)出身の官僚・政治家です。
「頌徳碑」とは、功徳を褒めたたえる碑と言う事で、それではどんな人物か、碑文を確認していきたいと思います。
(頌徳碑の碑文を書き写しました。幸い私の苦手な漢文体で無く、読み移すことが出来ました。)
その人物とは、「山田健次郎」と言い、碑文によると
<山田君は東京小石川の人にして、栃木県下都賀郡瑞穂村の名家、川連氏の出、維新回天の志士、川連義路君を祖父とす、先考甲子次郎君は義路君の次男、出て山田家を嗣ぎ、拮据経営東都財界の先覚者として重きをなし・・・・(後略)>と刻されています。そして、
<我国農業の不振、農民の疲弊を憂い、大正十三年親考に謀りて其の旧郷瑞穂村農會に金三千円を贈り、同農會の事業を援助し、大正十四年其の家統を襲ぐや遺志に因り下都賀郡農會に対し、農村振興基金として金三万円を寄付せらる・・・(後略)>と続きます。
こうして寄せられた基財を以て、下都賀農會は諸般の事業を施設、多大の成果を上げることが出来たとして「山田健次郎」頌徳碑建設を議決して、御大典記念事業の一環として、この石碑が建てられたようです。
次の石碑へ向かいます。参道を進み石段を上がり、社殿に参拝してから、拝殿に向かって左手方向に進むと、道はふたてに別れ、それぞれに石の鳥居が建てられています。左手の鳥居に掲げられている「神額」に「愛宕神社」と有り、右手の鳥居には神額は掲げられていません。それぞれの鳥居の先には、小さな石の祠が祀られています。
次の石碑は右手の鳥居を潜った先、石の祠の左手手前に建っています。ちなみに脇の石の祠には「八幡宮」の幣帛が祀られていました。石碑を確認します。
鬱蒼とした杉木立の中、光が届かない為薄暗い中に石碑は建っています。篆額を確認します。
篆字体を読み解くと「戦捷築造記念之碑」と浮彫されています。揮毫されたのは、下野国宇都宮藩最後の藩主「戸田忠友」です。
碑文を見ます。
碑文は「前皇大神宮禰宜 岡吉胤」の撰。碑文を書いたのは、「郷社諏訪神社社司 大和田茂教」。
個の石碑は明治38年10月、郷社諏訪神社により建立されています。
碑文は苦手な漢文体で、読み下せませんが、意味としては「明治37年2月、我が国はロシアに対して宣戦を布告、陸海軍の連戦連勝により、旅順や遼陽を占領、勝利を収めた。参加した兵士には氏子や信徒もいたが、郷社諏訪神社に戦勝を祈願、その霊験が有った。氏子らお金を拠出して神社へのお礼として、「標示石一基、石垣三段、石坂一所を築造」し、陸海軍人の武運栄盛を祈願した、その記念としてこの石碑を建立したと読める。碑陰には醵金された人たちの金額と芳名及び発起者の名前がビッシリと並んでいます。明治38年10月の日付が確認できます。アメリカのポーツマスにて日露講和条約が調印された翌月です。
次の石碑は更にそこから坂を上り、磯山の山頂に向かいます。山頂は岩肌が露出しています。そこに二基の石碑が建っています。
(写真左側に背の高い石碑、右側に少し小ぶりな石碑が見えます。右後方の円筒の建造物は、水槽で、昭和18年(株)日立製作所栃木工場が、この地に操業を開始した際、工場の工業用水供給の為建造され、昭和40年まで重要な役割を果たしたものです。)
まず、小さい石碑から見ていきます。
篆額部分を拡大します。
篆書体の文字にて「鳥居建設記念の碑」と刻されています。揮毫者は上記石碑と同一人物で、戸田忠友です。この時の官位は「正三位」で上記石碑の「従三位」から昇叙されていることが分かります。ちなみに戸田忠友は最終的に「従二位・勲三等瑞宝章」に昇叙されました。
碑文を確認します。
碑文を撰した人物は、栃木県師範学校長の「安達常正」漢学者で号を「外山人」。碑文を書いたのは前の「戦捷築造記念の碑」と同じく、諏訪神社社司の「大和田茂教」です。
碑文内容は、同じく漢文体で読み下すことは出来ません。ただただ理解できる地名や人物名から、推し量るに前半は郷社須賀神社の由緒が記されていることが分かるのみです。
碑陰の上部に「大正七年十月」の日付。その下方に寄付者芳名一覧、そして最下段に発起者名が並んでいます。
次に大きい方の石碑を確認します。
この石碑、今回巡った5基の石碑の中で最も日当りの良い場所に建てられています。石碑左下方に割れが認められ、碑文を書かれた人物の苗字が判読出来なくなっていました。
篆額の確認です。
篆書体で「昇格記念碑」と刻されています。揮毫をした人物は、「天穂日命(アメノホヒノミコト)の八十代の孫、出雲國造、正三位勲一等男爵、千家尊福」です。
碑陰に刻まれた文字は、苔類が繁殖して、読み取るのが大変です。読み取れた文字は、
「真弓氏子一同建之」「大正十二年十月九日」でした。
碑文を見ていきます。
これもまた漢文体です。それだけでも頭を抱えるのに、この碑文に使われている漢字自体が、見たこともない字で溢れています。旧字や異体字、更に私のパソコンでは出てこない字も有り、全文を読み下すことは、私には到底無理、ただ分かる漢字からひも解くと、碑文のおおよその内容は思い浮かんできます。
内容的には、この「郷社諏訪神社」の由緒が記されています。
篆額に刻まれた「昇格記念」とは、神社の沿革にも有ったように、ここ須賀神社は、明治5年に郷社であったが、明治10年に村社に降格、その後明治28年12月24日郷社に昇格していることから、この昇格を記念する形で、建碑されたものと思われます。
ただ、疑問に思うのは、なぜ昇格してから28年も経っての、記念碑建立となったのかです。疑問は残ります。
それでは最後、5基目の石碑を巡ります。
5番目の石碑の場所は、一度拝殿前まで戻り、今度は拝殿に向かって右手方向に進み、社殿を回り込むように、社殿の北東側の木立の中に、その石碑は建てられています。
(木立の中の石碑の前まで、石畳が敷かれています。)
何時ものように、まず「篆額」の文字を確認します。
やはり篆書体で刻まれています。が、その最初の文字が何と書かれているのか、いろいろ調べてみましたが、これという字が見つかりませんでした。「?忠碑」、形から「余」の様に見えますが、「余忠」という熟語も見つからない。
この篆額の文字を揮毫した人物は、当時の陸軍大将「鮫島重雄」です。
篆額の意味はこれ以上分からないので、碑文を見ていきたいと思います。
碑文の冒頭に名前が出てきます、「川連義路」です。最初の石碑に出てきた名前です。最初の頌徳碑の人物「山田健次郎」の祖父に当たる人物です。
やはり漢文体ですが、分かるところを読んでみたいと思います。
<川連義路君、通称は虎一郎、父は義種、母は富田氏、天保13年7月、下野国都賀郡真弓村で、代々関宿領の庄屋の家に生まれました。>
<文久の初め、江戸に出て、儒学を大橋正順より究する。>
<藤田信らが、太平山に立てこもった時、お金や食料を贈り応援をし、自ら江戸に出て必要な武器を買い付け、帰って来た時、すでに藤田信らは立ち去って、筑波山に行っていた。君は同志に合流しようとしたが、事が露呈して阻まれ、江戸に逃げたが、幕使に捕らえられ、洲崎において首を刎ねられ、屍は海中に投棄されてしまった。>
<元治元年八月三日、享年僅か23歳であった。>
<関宿藩主、それを伝え聞き、大変心を痛め、長男の義直に家を継がせ、次男の義次に扶持米2人扶持を付けた。>ここの理解は誤訳が有るかも。
<明治22年11月、朝廷はその忠勤に対し靖国神社に合祀された。>
<大正4年11月、今上天皇の即位の儀式において、従五位を贈られた。>
<里人、こうした彼の行いを徳とし、郷里の誉をいつまでも伝えようと、産土神の祠の傍らに、建碑することを欲した。>
このような内容と読み解いたが、他にも上手く読み解けない部分も多い。
碑陰には、「大正十一年十月九日 大字真弓一同建之」と刻まれております。
今、磯山の山頂に立つと、北西に太平の山並みを、更にその北奥に男体山や日光連山の山々を望み、眼下には改良復旧工事を進める、永野川を見ることが出来ます。
今年1年、また石碑の漢文体に、無い頭を悩ませそうです。今回も辞書と首っ引きで、碑文に向かいました。
今回参考にした資料:
・栃木県神社誌 (昭和39年2月11日 栃木県神社庁発行)
・栃木県市町村誌 (昭和30年8月20日 栃木県町村会発行)
蝋梅三景 [自然の恵み]
永野川改良復旧工事現場を寄り道しながら巡る [栃木市の河川と橋]
一級河川永野川の改良復旧工事が、着々と進行しています。
河道を掘削し、水の流れる幅を広げて、新たに法面を整形、大型連結ブロックを敷き詰めた護岸で、スッキリとした永野川。太平山を背景にして、ゆったりとした曲線を描いて続いています。
護岸上の道路わきに、何やら謂れの有りそうな、大きな石が置かれています。周辺に何も説明板も、見られませんが、きっとこれが、かつて薗部町の人達が信仰を寄せていた、「疱瘡石」と言われる石に違いない。今回私はこの石に、初めてお目にかかりました。以前はここには無かったと思います。多分今回の河川改修工事で、ここに移動されたものと思います。
この大きな石を見て、ふと思い出しました。この「疱瘡石」の話しは、長沼英雄著「わが町さんぽ 栃木周辺見てある記」に、掲載をされています。
<明治の頃、栃木市地方に天然痘が流行したとき、この石を拝むと不思議にも病に冒されず、またかかっても軽くすんだと言われ、人々は「疱瘡を鎮める神霊を宿す恵みの石」と尊敬し、種痘の発明されない昔は、村民すべてこの石を頼りにし、詣でる人も多かったという。>と、記されています。
今、この石は、永野川に架かる「睦橋」の下流右岸に、見ることが出来ます。
永野川の改良復旧工事、護岸工事が多くの工区にて完了をして来ています。今、工事の主体は、工事対象区間内に有る三か所の灌漑用水取水堰の改築と、三か所の橋梁架け替え工事の様です。
工事の様子は、関係者以外は立ち入りが制限されていますので、遠くから眺めてみました。
まず、三か所の取水堰です。上流側から見ていきます。
最初は「二杉堰」です。この取水堰は、「二杉橋」の下流側に有ります。
この写真は、2013年7月11日に撮影したものです。写真右端に写る橋が「二杉橋」になります。
下の写真は、2023年12月3日の工事の様子です。上流「二杉橋」からと、下流側「大柳橋」から撮影した写真です。
この「二杉堰」から取水した水は、現在永野川の西側を川に並行する「八箇村用水堀」を流れ、下流側の大平町から岩舟町の田んぼを潤しています。かつて下流側「大柳橋」の西側でこの用水堀に架かっていた「恵光院橋」の親柱の一つに「八箇村用水堀」の文字が刻まれていました。
この「八箇村用水堀」は、その昔は「六ヵ村用水」でした。
「栃木県の地名」(平凡社 1988年8月25日発行)の大平町の所に「六ヵ村用水」として掲載されています。
<永野川より取水した近世の灌漑用水。同川上流の平井村(現栃木市)にある二杉に大口堰を設け、その下流筋に和田山堰を設け取水し、現町域の下皆川村・富田村・現岩舟町の古橋村・沖島村・赤塚村・曲之島村の六ヵ村を潤した。・・・後略>と記されています。
何時、六ヵ村から八ヵ村に変わったのか興味が有りますが、現在「栃木市都市計画図3」の中には、「八箇村堀」とだけ記されています。
横道にそれてしまいました。工事現場に戻ります。次は「新西野田堰」に行きます。
この取水堰は、東武日光線橋梁の下流の橋「川谷橋」の200m程の場所に設置された固定堰です。写真は2015年4月16日に撮影したものです。
今年11月18日に行われた、「永野川改良復旧工事 第3回現場見学会」に参加して、現地を訪れた時は、まだ工事は着手されていませんでした。その時の説明では現在の場所より下流側に新たに「鋼製自動転倒堰」に改築され、永野川の水量が増水等で一定のレベルに達すると、自動的に堰のゲートが倒れて解放され、増水した水を下流側にスムースに流せるようにするとのことでした。
この「新西野田堰」より取水した水は、右岸の水門を抜けて、大平中学校の東側を南流して、県道蛭沼川連線を抜け、ゆうゆうプラザの西側を流れ、大平南中学校の東方の水田地帯を、真っ直ぐ南に向かって流れていく「赤津用水」となります。
県道蛭沼川連線に架かる「新愛宕橋」の親柱に「赤津用水」の文字が刻まれています。
「新西野田堰」が有る場所は、大平町蔵井ですが、堰の名称はなぜか「赤津用水」の下流域となる、大平町西野田の地名となっています。この取水堰からの灌漑用水を主に利用しているのが、西野田と言う事なのか。ちなみに江戸時代、享保14年(1729)の「用水堀普請証文」(須藤喜一郎文書)に、「十二ヵ村用水」に蔵井村・野田村・新井村の村名が確認出来ます。(前出、「栃木県の地名」 平凡社の大平町「蔵井村」に掲載有り)流域的に「赤津用水」に当たるものと想定いたします。
それでは、この「十二ヵ村」はどこか。先の古文書は「蔵井村」「野田村」「新井村」の他は不詳となっているので、手元の「明治前期測量 2万分1 フランス式彩色地図」で赤津用水の水路と思しきルートたどって、そのルート上に江戸時代存在した村を追ってみた。
「蔵井村」「真弓村」「野田村」「新井村」「豊後新田村」「西水代村」「戸恒村」「兵庫新田村」「三蔵新田村」「蛭沼村」「緑川村」「前原村」などが候補として挙がる。
「野田村」は明治12年に「西野田村」に改称。「戸恒村」と「兵庫新田村」は明治9年に合併して「伯仲村」となって、同年「新井村」と「豊後新田村」が合併して「新村」となっています。
三ヵ所目は、「榎本堰」です。
この写真は、2017年4月14日に撮影したもので、写真の右端に取水用水門が見えます。
この取水堰は、永野川左岸側で取水して下流の大平町榎本の街で道路の両側の水路に流れていきます。
現地の人に話を聞くと、現在の「榎本堰」は明治の初めごろに作られた物で、以前はもっと下流側に有ったとの事。新しく開鑿された用水路は「新堀」と呼ばれているそうです。
上の写真は永野川左岸に沿って南流する用水路です。
左側の写真は、榎本の街を東西に走る道路に出てきた所。右の写真は東側から西に向かって撮影したもので、道路わきに水路が流れています。道路奥の突き当りが、八坂神社です。
新しい「榎本堰」は現在の場所から少し下流側にて、工事が進められています。
工事現場を下流側から眺めてみると、新しい堰の下部構造が姿を現していました。写真はこの12月14日に撮影しました。
三つの堰共、工事はまだまだこれからの様でした。
次に、現在工事が進んでいる橋梁架け替え工事の様子も、見てみましょう。
これも上流側から確認します。
最初は大平町蔵井に架かる「諏訪橋」です。
2023年11月18日の現場見学会の時には、橋台と親柱だけが残されていました。
この「諏訪橋」は、昭和9年に架けられた古るいRC橋で、以前も橋桁が一部落ちて部分的に鋼桁に架け替えられていました。この橋は大平中学校の裏手に有り、この橋を利用して通学する生徒を多く見かけました。2019年の台風の豪雨で又落橋して、通行できなくなっていました。
次は大平町榎本に架かる「両明橋」です。
現在架け替え工事の為、通行止めに成っていて、榎本に渡るのにチョッピリ不便を感じますが、幹線道路では無いので、下流の「永和橋」迂回となっています。
この「両明橋」も、諏訪橋と同じ昭和9年架橋の古い橋でしたが、2015年8月に高欄を替える等の修繕を行なっており、その後の増水に何とか耐えてきていましたが、今回新しく架け替える事に成ったようです。
そして3番目は同じく大平町榎本に架かる「千部橋」です。
この「千部橋」は、主要地方道岩舟小山線が通っており、交通量も多いため、現在迂回用の仮橋を架けている段階の様です。
この「千部橋」の直ぐ下流側には、旧道に架かる昭和9年架橋の「(旧)千部橋」が、2015年の豪雨で落橋した後、生活道路として修復して残されています。
今回の工事で、新しく立派な橋が架けられた後、撤去される計画と聞いています。ただ右岸の橋詰に建てられている、「千部橋供養塔」は残して頂きたいと思います。
これらの工事がすべて完了したとき、強い永野川が誕生します。
今回参考にした資料:
・「わが町さんぽ 栃木周辺見てある記」長沼英雄著
・「栃木市史 資料編 近世」栃木市発行
・「栃木県の地名」平凡社
・「栃木市都市計画図3」栃木市発行
・「明治前期測量 2万分1 フランス式彩色地図」(下都賀郡大平町地区) 日本地図センター発行
河道を掘削し、水の流れる幅を広げて、新たに法面を整形、大型連結ブロックを敷き詰めた護岸で、スッキリとした永野川。太平山を背景にして、ゆったりとした曲線を描いて続いています。
護岸上の道路わきに、何やら謂れの有りそうな、大きな石が置かれています。周辺に何も説明板も、見られませんが、きっとこれが、かつて薗部町の人達が信仰を寄せていた、「疱瘡石」と言われる石に違いない。今回私はこの石に、初めてお目にかかりました。以前はここには無かったと思います。多分今回の河川改修工事で、ここに移動されたものと思います。
この大きな石を見て、ふと思い出しました。この「疱瘡石」の話しは、長沼英雄著「わが町さんぽ 栃木周辺見てある記」に、掲載をされています。
<明治の頃、栃木市地方に天然痘が流行したとき、この石を拝むと不思議にも病に冒されず、またかかっても軽くすんだと言われ、人々は「疱瘡を鎮める神霊を宿す恵みの石」と尊敬し、種痘の発明されない昔は、村民すべてこの石を頼りにし、詣でる人も多かったという。>と、記されています。
今、この石は、永野川に架かる「睦橋」の下流右岸に、見ることが出来ます。
永野川の改良復旧工事、護岸工事が多くの工区にて完了をして来ています。今、工事の主体は、工事対象区間内に有る三か所の灌漑用水取水堰の改築と、三か所の橋梁架け替え工事の様です。
工事の様子は、関係者以外は立ち入りが制限されていますので、遠くから眺めてみました。
まず、三か所の取水堰です。上流側から見ていきます。
最初は「二杉堰」です。この取水堰は、「二杉橋」の下流側に有ります。
この写真は、2013年7月11日に撮影したものです。写真右端に写る橋が「二杉橋」になります。
下の写真は、2023年12月3日の工事の様子です。上流「二杉橋」からと、下流側「大柳橋」から撮影した写真です。
この「二杉堰」から取水した水は、現在永野川の西側を川に並行する「八箇村用水堀」を流れ、下流側の大平町から岩舟町の田んぼを潤しています。かつて下流側「大柳橋」の西側でこの用水堀に架かっていた「恵光院橋」の親柱の一つに「八箇村用水堀」の文字が刻まれていました。
この「八箇村用水堀」は、その昔は「六ヵ村用水」でした。
「栃木県の地名」(平凡社 1988年8月25日発行)の大平町の所に「六ヵ村用水」として掲載されています。
<永野川より取水した近世の灌漑用水。同川上流の平井村(現栃木市)にある二杉に大口堰を設け、その下流筋に和田山堰を設け取水し、現町域の下皆川村・富田村・現岩舟町の古橋村・沖島村・赤塚村・曲之島村の六ヵ村を潤した。・・・後略>と記されています。
何時、六ヵ村から八ヵ村に変わったのか興味が有りますが、現在「栃木市都市計画図3」の中には、「八箇村堀」とだけ記されています。
横道にそれてしまいました。工事現場に戻ります。次は「新西野田堰」に行きます。
この取水堰は、東武日光線橋梁の下流の橋「川谷橋」の200m程の場所に設置された固定堰です。写真は2015年4月16日に撮影したものです。
今年11月18日に行われた、「永野川改良復旧工事 第3回現場見学会」に参加して、現地を訪れた時は、まだ工事は着手されていませんでした。その時の説明では現在の場所より下流側に新たに「鋼製自動転倒堰」に改築され、永野川の水量が増水等で一定のレベルに達すると、自動的に堰のゲートが倒れて解放され、増水した水を下流側にスムースに流せるようにするとのことでした。
この「新西野田堰」より取水した水は、右岸の水門を抜けて、大平中学校の東側を南流して、県道蛭沼川連線を抜け、ゆうゆうプラザの西側を流れ、大平南中学校の東方の水田地帯を、真っ直ぐ南に向かって流れていく「赤津用水」となります。
県道蛭沼川連線に架かる「新愛宕橋」の親柱に「赤津用水」の文字が刻まれています。
「新西野田堰」が有る場所は、大平町蔵井ですが、堰の名称はなぜか「赤津用水」の下流域となる、大平町西野田の地名となっています。この取水堰からの灌漑用水を主に利用しているのが、西野田と言う事なのか。ちなみに江戸時代、享保14年(1729)の「用水堀普請証文」(須藤喜一郎文書)に、「十二ヵ村用水」に蔵井村・野田村・新井村の村名が確認出来ます。(前出、「栃木県の地名」 平凡社の大平町「蔵井村」に掲載有り)流域的に「赤津用水」に当たるものと想定いたします。
それでは、この「十二ヵ村」はどこか。先の古文書は「蔵井村」「野田村」「新井村」の他は不詳となっているので、手元の「明治前期測量 2万分1 フランス式彩色地図」で赤津用水の水路と思しきルートたどって、そのルート上に江戸時代存在した村を追ってみた。
「蔵井村」「真弓村」「野田村」「新井村」「豊後新田村」「西水代村」「戸恒村」「兵庫新田村」「三蔵新田村」「蛭沼村」「緑川村」「前原村」などが候補として挙がる。
「野田村」は明治12年に「西野田村」に改称。「戸恒村」と「兵庫新田村」は明治9年に合併して「伯仲村」となって、同年「新井村」と「豊後新田村」が合併して「新村」となっています。
三ヵ所目は、「榎本堰」です。
この写真は、2017年4月14日に撮影したもので、写真の右端に取水用水門が見えます。
この取水堰は、永野川左岸側で取水して下流の大平町榎本の街で道路の両側の水路に流れていきます。
現地の人に話を聞くと、現在の「榎本堰」は明治の初めごろに作られた物で、以前はもっと下流側に有ったとの事。新しく開鑿された用水路は「新堀」と呼ばれているそうです。
上の写真は永野川左岸に沿って南流する用水路です。
左側の写真は、榎本の街を東西に走る道路に出てきた所。右の写真は東側から西に向かって撮影したもので、道路わきに水路が流れています。道路奥の突き当りが、八坂神社です。
新しい「榎本堰」は現在の場所から少し下流側にて、工事が進められています。
工事現場を下流側から眺めてみると、新しい堰の下部構造が姿を現していました。写真はこの12月14日に撮影しました。
三つの堰共、工事はまだまだこれからの様でした。
次に、現在工事が進んでいる橋梁架け替え工事の様子も、見てみましょう。
これも上流側から確認します。
最初は大平町蔵井に架かる「諏訪橋」です。
2023年11月18日の現場見学会の時には、橋台と親柱だけが残されていました。
この「諏訪橋」は、昭和9年に架けられた古るいRC橋で、以前も橋桁が一部落ちて部分的に鋼桁に架け替えられていました。この橋は大平中学校の裏手に有り、この橋を利用して通学する生徒を多く見かけました。2019年の台風の豪雨で又落橋して、通行できなくなっていました。
次は大平町榎本に架かる「両明橋」です。
現在架け替え工事の為、通行止めに成っていて、榎本に渡るのにチョッピリ不便を感じますが、幹線道路では無いので、下流の「永和橋」迂回となっています。
この「両明橋」も、諏訪橋と同じ昭和9年架橋の古い橋でしたが、2015年8月に高欄を替える等の修繕を行なっており、その後の増水に何とか耐えてきていましたが、今回新しく架け替える事に成ったようです。
そして3番目は同じく大平町榎本に架かる「千部橋」です。
この「千部橋」は、主要地方道岩舟小山線が通っており、交通量も多いため、現在迂回用の仮橋を架けている段階の様です。
この「千部橋」の直ぐ下流側には、旧道に架かる昭和9年架橋の「(旧)千部橋」が、2015年の豪雨で落橋した後、生活道路として修復して残されています。
今回の工事で、新しく立派な橋が架けられた後、撤去される計画と聞いています。ただ右岸の橋詰に建てられている、「千部橋供養塔」は残して頂きたいと思います。
これらの工事がすべて完了したとき、強い永野川が誕生します。
今回参考にした資料:
・「わが町さんぽ 栃木周辺見てある記」長沼英雄著
・「栃木市史 資料編 近世」栃木市発行
・「栃木県の地名」平凡社
・「栃木市都市計画図3」栃木市発行
・「明治前期測量 2万分1 フランス式彩色地図」(下都賀郡大平町地区) 日本地図センター発行
隅田川のナイトクルーズ船に乗船しました。 [橋梁]
先日、隅田川ナイトクルーズに参加して、隅田川に架かる橋のライトアップを楽しんできました。
その日はたまたま真冬のような天候になってしまいましたが、完全防寒体制で乗船、当然客室には入らず、上部デッキの最前列に陣取りました。
日が暮れてからのクルージングは、予想以上に冷たい空気が、顔に容赦なく当たってきます。が、ライトアップされた隅田川の橋梁群が見られる興奮が、その寒さを跳ね返してくれます。
船は両国の船乗り場から一度、隅田川を遡り、桜橋の手前でUターン。ここから隅田川を下って河口に向かって行きます。
スタート地点は、東京スカイツリーをまじかに臨む、言問橋ですが、言問橋は残念ながらライトアップされていなかったので、闇の中に沈んで気が付くこともなく、スカイツリーに目を奪われたまま、言問橋の下を通過。
東武スカイツリーラインの鉄橋を通過すると、目の前に三つの滑らかなアーチが、ライトアップで浮き出ています。上路式三連アーチ構造の「吾妻橋」です。
橋長は、150.1m 幅員23.4m 竣工したのは昭和5年(1930)です。
欄干の中央部分が、江戸紫色に照明されています。
次に現れるのは、「駒形橋」です。
吾妻橋が暖かい照明だったのが、一変して青系色に照明されています。
三径間の中央の構造は、アーチの中間に橋桁が位置する中路式、左右の景観は橋桁の下でアーチが支える上路式と言う構造になっていて、リズミカルな印象が有ります。
橋長は146.3m、幅員25.8m 竣工は昭和2年(1927)です。
駒形橋を潜ると、次は「厩橋」が現れます。
三連のアーチで下側の橋桁を支える、下路式構造で、三径間の中央部の桁が青系、両サイドが紫系に照明されて、スッキリとした感じがします。
橋長は151.4m、幅員24.5m 竣工は昭和4年(1929)です。
次に現れるのは、「蔵前橋」です。
三径間で橋桁が上部に設けられ、下側になだらかなアーチで支える上路式構造で、大人しい感じの橋です。
中央径間の欄干の照明は緑系で、左右の径間は淡い紫系でしょうか。
橋長は173.4m 幅員23.0m 竣工は昭和2年(1927)です。
蔵前橋を過ぎると、左岸に両国の船乗り場が有ります。この船も最後はこの発着場に戻ってきますが、今はさらに隅田川を下って行きます。船はJR総武線の鉄橋の下を潜り、次は「両国橋」です。が、両国橋はなぜかライトアップされておらず、闇の中に街灯の明かりだけが灯っていました。
船は首都高速6号、7号が交差する「両国ジャンクション」を頭上に見て、先に進んでいくと、前方に黄色く輝く「新大橋」が近づいて来ます。
黄色に照明された橋桁が横一直線に右岸と左岸を結んでいます。その中間より左岸側に寄った辺りにやはり黄色に輝く2本の柱が建ち、そこから橋桁を支持するためのケーブルが斜めに伸びています。
二径間連続斜張橋の「新大橋」です。
橋長は170.0m 幅員24.5m 竣工は昭和52年(1977)になります。
新大橋を過ぎると、隅田川は少し右方向にカーブしているのか、その先から次の橋が見えてきました。
ライン川に架かっていたケルンのつり橋をモデルにした「清州橋」です。
2基の主塔から左右になだらかに垂れ下がるケーブルが、白く照らし出され、紫色に光る中央径間の欄干の上部に優雅な曲線を造っています。
清州橋の近くから、その主塔を見る白色のライトアップが下に下がると、徐々に影となりリベットの頭がその影の中に光浮き出る。上部からのグラデーションが主塔を力強く浮かび上がらせている。
清州橋は、平成19年(2007)に国の重要文化財に指定されました。
橋長は186.2m 幅員26.1m 竣工は昭和3年(1928)です。
清州橋を過ぎると、目の前に現れたのが「隅田川大橋」です。
この橋は二階建て構造になっていて、上を走るのが首都高9号、下が東京都道475号。
写真左側で、橋脚部に架かる緑色の橋桁が東京都道。その上に照明で白く照らされている橋脚が、首都高部分です。その空間の先に垣間見える橋が、次の「永代橋」です。大きなアーチが青色で照らされています。さらにその奥、写真中央に白く輝いている主塔はその奥の「中央大橋」になります。
「永代橋」です。中央の大きなアーチと、そこから左右に水平に伸びる桁が、青色でライトアップされて、ドッシリとした重量感が漂います。
関東大震災の復興事業で内務省復興局により架け替えられた、隅田川で最も古い橋とのことです。
清州橋と同じくこの永代橋も、平成19年(2007)に国の重要文化財に指定されました。
橋長は184.7m 幅員25.6m 大正15年(1926)の竣工です。
永代橋を過ぎると、川筋はYの字に分かれています。右方向が隅田川、左方向が晴海運河です。中央の高層ビルが林立している所は「「石川島」。船は右側の隅田川に進路を進めます。
その高層ビル群の中に、白く照らし出されている斜張橋の主塔が聳える様に建っています。
「中央大橋」です。
橋長は210.7m 幅員25.0m 竣工は平成5年(1993)です。
次に現れた橋は、「佃大橋」なんとも飾り気のないシンプルな箱桁橋です。
橋長220.0m 幅員25.4m 竣工は昭和39年(1964)になります。
船は更に隅田川を下って来ました。現れたのは「勝鬨橋」になります。
三径間で、中央部はかつては橋桁が中央部から分かれ、「ハ」の字に上方に開く構造になっていました。左右の側径間は下路式のアーチ橋になっています。しかし交通量が増えた為、昭和45年に開閉を中止しています。
この勝鬨橋も、平成19年(2007)に国の重要文化財に指定されました。
橋長246.0m 幅員26.6m 竣工は昭和15年(1940)です。
次はいよいよ隅田川の、最下流部に架かる「築地大橋」になります。
三径間連続中路式アーチ橋の、飛び跳ねる様に大きな曲線を描くアーチ部を赤色の照明を当て、その中央を横に貫く橋桁をスッキリとした白色に照らし、モダンなイメージです。
橋長は245.0m 幅員は32.3m~47.9m 竣工は平成26年(2014)と、新しい橋です。
築地大橋を抜けると、隅田川河口で東京湾に至ります。
ここに来て、右手のビルの合間に暖かなオレンジ色にライトアップされた、東京タワーが姿を現しました。
東京スカイツリーから始まった「隅田川ナイトクルーズ」、最後は東京タワーで終了です。
その日はたまたま真冬のような天候になってしまいましたが、完全防寒体制で乗船、当然客室には入らず、上部デッキの最前列に陣取りました。
日が暮れてからのクルージングは、予想以上に冷たい空気が、顔に容赦なく当たってきます。が、ライトアップされた隅田川の橋梁群が見られる興奮が、その寒さを跳ね返してくれます。
船は両国の船乗り場から一度、隅田川を遡り、桜橋の手前でUターン。ここから隅田川を下って河口に向かって行きます。
スタート地点は、東京スカイツリーをまじかに臨む、言問橋ですが、言問橋は残念ながらライトアップされていなかったので、闇の中に沈んで気が付くこともなく、スカイツリーに目を奪われたまま、言問橋の下を通過。
東武スカイツリーラインの鉄橋を通過すると、目の前に三つの滑らかなアーチが、ライトアップで浮き出ています。上路式三連アーチ構造の「吾妻橋」です。
橋長は、150.1m 幅員23.4m 竣工したのは昭和5年(1930)です。
欄干の中央部分が、江戸紫色に照明されています。
次に現れるのは、「駒形橋」です。
吾妻橋が暖かい照明だったのが、一変して青系色に照明されています。
三径間の中央の構造は、アーチの中間に橋桁が位置する中路式、左右の景観は橋桁の下でアーチが支える上路式と言う構造になっていて、リズミカルな印象が有ります。
橋長は146.3m、幅員25.8m 竣工は昭和2年(1927)です。
駒形橋を潜ると、次は「厩橋」が現れます。
三連のアーチで下側の橋桁を支える、下路式構造で、三径間の中央部の桁が青系、両サイドが紫系に照明されて、スッキリとした感じがします。
橋長は151.4m、幅員24.5m 竣工は昭和4年(1929)です。
次に現れるのは、「蔵前橋」です。
三径間で橋桁が上部に設けられ、下側になだらかなアーチで支える上路式構造で、大人しい感じの橋です。
中央径間の欄干の照明は緑系で、左右の径間は淡い紫系でしょうか。
橋長は173.4m 幅員23.0m 竣工は昭和2年(1927)です。
蔵前橋を過ぎると、左岸に両国の船乗り場が有ります。この船も最後はこの発着場に戻ってきますが、今はさらに隅田川を下って行きます。船はJR総武線の鉄橋の下を潜り、次は「両国橋」です。が、両国橋はなぜかライトアップされておらず、闇の中に街灯の明かりだけが灯っていました。
船は首都高速6号、7号が交差する「両国ジャンクション」を頭上に見て、先に進んでいくと、前方に黄色く輝く「新大橋」が近づいて来ます。
黄色に照明された橋桁が横一直線に右岸と左岸を結んでいます。その中間より左岸側に寄った辺りにやはり黄色に輝く2本の柱が建ち、そこから橋桁を支持するためのケーブルが斜めに伸びています。
二径間連続斜張橋の「新大橋」です。
橋長は170.0m 幅員24.5m 竣工は昭和52年(1977)になります。
新大橋を過ぎると、隅田川は少し右方向にカーブしているのか、その先から次の橋が見えてきました。
ライン川に架かっていたケルンのつり橋をモデルにした「清州橋」です。
2基の主塔から左右になだらかに垂れ下がるケーブルが、白く照らし出され、紫色に光る中央径間の欄干の上部に優雅な曲線を造っています。
清州橋の近くから、その主塔を見る白色のライトアップが下に下がると、徐々に影となりリベットの頭がその影の中に光浮き出る。上部からのグラデーションが主塔を力強く浮かび上がらせている。
清州橋は、平成19年(2007)に国の重要文化財に指定されました。
橋長は186.2m 幅員26.1m 竣工は昭和3年(1928)です。
清州橋を過ぎると、目の前に現れたのが「隅田川大橋」です。
この橋は二階建て構造になっていて、上を走るのが首都高9号、下が東京都道475号。
写真左側で、橋脚部に架かる緑色の橋桁が東京都道。その上に照明で白く照らされている橋脚が、首都高部分です。その空間の先に垣間見える橋が、次の「永代橋」です。大きなアーチが青色で照らされています。さらにその奥、写真中央に白く輝いている主塔はその奥の「中央大橋」になります。
「永代橋」です。中央の大きなアーチと、そこから左右に水平に伸びる桁が、青色でライトアップされて、ドッシリとした重量感が漂います。
関東大震災の復興事業で内務省復興局により架け替えられた、隅田川で最も古い橋とのことです。
清州橋と同じくこの永代橋も、平成19年(2007)に国の重要文化財に指定されました。
橋長は184.7m 幅員25.6m 大正15年(1926)の竣工です。
永代橋を過ぎると、川筋はYの字に分かれています。右方向が隅田川、左方向が晴海運河です。中央の高層ビルが林立している所は「「石川島」。船は右側の隅田川に進路を進めます。
その高層ビル群の中に、白く照らし出されている斜張橋の主塔が聳える様に建っています。
「中央大橋」です。
橋長は210.7m 幅員25.0m 竣工は平成5年(1993)です。
次に現れた橋は、「佃大橋」なんとも飾り気のないシンプルな箱桁橋です。
橋長220.0m 幅員25.4m 竣工は昭和39年(1964)になります。
船は更に隅田川を下って来ました。現れたのは「勝鬨橋」になります。
三径間で、中央部はかつては橋桁が中央部から分かれ、「ハ」の字に上方に開く構造になっていました。左右の側径間は下路式のアーチ橋になっています。しかし交通量が増えた為、昭和45年に開閉を中止しています。
この勝鬨橋も、平成19年(2007)に国の重要文化財に指定されました。
橋長246.0m 幅員26.6m 竣工は昭和15年(1940)です。
次はいよいよ隅田川の、最下流部に架かる「築地大橋」になります。
三径間連続中路式アーチ橋の、飛び跳ねる様に大きな曲線を描くアーチ部を赤色の照明を当て、その中央を横に貫く橋桁をスッキリとした白色に照らし、モダンなイメージです。
橋長は245.0m 幅員は32.3m~47.9m 竣工は平成26年(2014)と、新しい橋です。
築地大橋を抜けると、隅田川河口で東京湾に至ります。
ここに来て、右手のビルの合間に暖かなオレンジ色にライトアップされた、東京タワーが姿を現しました。
東京スカイツリーから始まった「隅田川ナイトクルーズ」、最後は東京タワーで終了です。
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