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岩国の錦帯橋で私、新年早々失敗しちゃいました。 [橋梁]

昨年の正月休みに、長崎の眼鏡橋を堪能して来たので、今年は是非日本三大奇橋のひとつ、山口県岩国市の錦帯橋を見に行こうと、昨年の夏から旅行計画を立て、宿泊も錦帯橋近くのホテルに予約を取って先日行ってきました。
が、私を待っていたのは予想もしていない姿の、錦帯橋でした。その姿が次の写真です。
錦帯橋1.jpg
(橋の高欄部分が全体的にシートで覆われてしまった錦帯橋)
ホテルの部屋から錦帯橋.jpg
(錦帯橋が見えるホテルの部屋を取ったのだけれど)

計画していた時はグーグルマップのストリートビューを使って、撮影ポイントをあれこれ検討、上流側の橋から錦帯橋の全体像を狙おうとか、河原に下りて岩国城をバックに収めるとか、夜はライトアップされ暗闇に浮び上がるアーチ橋を写そうかと、あれこれ考えていましたが、全てあきらめました。確認不足でした。

なぜこんな姿に成っているのか、宿泊したホテルの方が説明してくれました。
錦帯橋は木橋の宿命で、鋼橋やコンクリート橋より寿命が短い為、5年毎に定期点検を行っているが、今丁度その時期に当たっている為で、錦帯橋全てに老朽化調査・保全工事用の吊足場を設置、足場部分や橋の側面をシートで覆っているのだそうです。
確認をしたら錦帯橋の左岸橋詰に、工事概要を記した掲示が建てられていました。それによると工期は「令和元年9月9日から令和2年3月16日まで」と成っていました。

気を取り直して周辺観光へ、まずは錦帯橋を渡ります。橋詰のチケット売り場で「入橋券」往復310円を購入して、あこがれの錦帯橋を渡ります。
錦帯橋入橋券.jpg
(錦帯橋入橋券、この写真の様なライトアップされたアーチ橋を撮影したかった)

1985年9月10日に発行された吉田巌編「橋のはなしⅡ」(技報堂出版)に、この錦帯橋について≪錦帯橋 - 城の代わりの橋≫と題して書かれています。一部抜粋させて頂き紹介いたします。
≪山口県岩国市を流れる錦川に、その名のとおり、川を横切る帯のように架かる見事な橋が錦帯橋です。五径間からなり、中央の三径間が、世界でも珍しい木造のアーチ橋になっています。この錦帯橋はいまは岩国城の城門橋ですが、建設当時(1673年)は城は有りませんでした。歴史は1615年(元和元年)の家康の「一国一城令」にまでさかのぼります。この「令」によって岩国城は廃却されていたので、正確な意味での城門橋ではありません。この「令」より58年後、城をおけない岩国藩の「城」というシンボルの代わりに、この錦帯橋が架けられたのです。(後略)≫
錦帯橋2.jpg
(錦帯橋の中央3径間のアーチ橋は勾配が急の為、部分的に階段状に作られていました)

地形図を見ると、錦帯橋の架かる錦川は岩国市を西から東へと流れていますが、かつて岩国城が建てられていた標高200メートル程の山が北側に突き出て地形と成っていた為、錦川はヘアピンカーブの如く大きく迂回して、山の西麓から北麓を巡り東麓に流れています。岩国城はこの錦川を城の三方を守る堀に見立て建てられてもの。廃城となった後も城山の東麓は吉川家代々の居住地となり、錦川の対岸となる「錦見地区」は城下町として開けています。

錦帯橋を渡ると「横山地区」です、かつて藩主や上級武士が住んでいたところで、今も立派な長屋門などが残っています。川沿いの道を歩いていると、銅像やら胸像、石碑などが並んで建てられていますが、その後方に気になる像が目に留まりました。
佐々木小次郎の像.jpg説明碑.jpg

「剣豪佐々木小次郎の像」です。横に据えられた石碑に説明文が記されています。
≪「先祖以来、岩国の住、姓は佐々木とうう、名は小次郎と親からもらい、また剣名を”巖流”ともよぶ人間は、かくゆう私であるが・・・・・」 吉川英治氏の小説「宮本武蔵」の一説である。 当地では、古くから佐々木小次郎が、ここ錦帯橋畔において、柳の枝が燕を打つのを見て、燕返しの剣法「巖流」を自得したと言伝えられている。≫と。そして又その横に、「岩国城」と題した歌の歌碑がたっています。歌詞がこの地を端的に表していると思いました。

岩国城歌碑.jpg
(佐々木小次郎の像の脇に建つ「岩国城」の歌碑)

そこから「吉香公園」周辺をぶらりと歩いていると、園内には多くの石碑が建てられています。
一番目立ったのが、錦帯橋から50メートル程の、公園入口に長裃姿に大刀を差し、右手に扇子を持ち錦帯橋の方向をジッと見つめる「吉川広嘉公像」です。
吉川広喜公像.jpg錦帯橋記全景.jpg
(「吉川広嘉公像」 左後方に写る石碑が「錦帯橋記」です)(「錦帯橋記」と篆額に有る石碑)

台座の裏側に銅像の人物に付いて説明されてます。冒頭部分だけ紹介します。
≪錦帯橋の創建者吉川広嘉公は旧岩国藩主三代目の領主で1621年第二代藩主広正公の長男として生まれた その天性の聡明さは岩国城を築き岩国の町を開いた藩祖広家公譲りのようである。(後略)≫

その銅像の左後方に見える玉垣をめぐらした石碑が「錦帯橋記」、弘化2年3月(1845年4月)岩国藩士の儒学者「玉乃九華」(名を惇成という)が撰した文を、明治8年9月明治前期の書家「桂洲伊藤信平」が碑文と篆額を書いています。
錦帯橋記(碑文).jpg
(「錦帯橋記」の篆額の文字と碑文を書き写しました)

江戸時代の儒学者が記した文書で、私には読み解く事が出来ませんが、一字一字漢字を拾って読んで行くと何となく内容が分かってきます。しかし読み下し文を書く力は有りません。

園内に建つ他の石碑も見てみます。
さくらの名所100選の碑.jpg日中友好の碑.jpg
(さくら名所100選の地「吉香公園・錦帯橋」)  (「日中友好の架け橋-錦帯橋」の碑)

さくらの名所らしく、吉香公園も錦帯橋の右岸堤も沢山の桜の木、さぞかし桜の咲く時期は見ごたえのある錦帯橋が見られるのだろう、出来ればもう一度桜の咲くころに訪れて見たいものです。
「日中友好の架け橋-錦帯橋」の碑は、中国語・英語・日本語の三ヶ国語で記されています。
日本文を見ると、2004年11月6日、岩国市と杭州市の交流促進のために錦帯橋友好協定が締結された事。なぜ杭州市なのか、それが1673年に創建された錦帯橋の架橋に、杭州市出身の高僧であり医師でもあった独立(どくりゅう)の存在が有っと伝えられている事などが記されています。

今回、残念ながら日本の代表的な名所として、「山は富士、滝は那智、橋は錦帯」と、並び賞される、その橋の優雅さを見る事は叶いませんでしたが、メンティナンス中の時期に来たことで、錦帯橋に対する岩国市民の、錦帯橋に対する強い愛情を知る事が出来た気がします。





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今年、最初に巡る石碑は「夢の実現」です [石碑]

2020年の始まりは、例年通りに元日の神明宮への初詣。毎年ほぼ同じ時間に行くと、ほぼ同じような参拝者の行列。神前で「今年一年健康で有りますよう」祈願してきました。
二日・三日はテレビ桟敷で箱根駅伝を見て過ごしました。そしてあっという間にいつもの生活に戻ってしまいましたが、炬燵からなかなか抜け出る事が出来ず、ブログの更新も出来ずに、今日まで来ました。
今日、いくらか暖かくなったので、パソコンの前に座った次第です。

今年最初のテーマは、前々から調べていた、「夢の実現」と碑の前面に大きく刻された石碑を巡ります。
この石碑が建っているのは、栃木市藤岡町甲の本郷東、市道1073号線の道路の脇に成ります。
石碑「夢の実現」.jpg
(栃木市藤岡町甲の本郷東に建つ「夢の実現」の石碑)

私がこの石碑を初めて確認したのは、2014年11月20日、渡良瀬川の支流のひとつ蓮花川を、渡良瀬川との合流点から遡る形で、川岸を歩いていた時です。

蓮花川と上記の市道1073号線とが交差する点に架かる「十三橋」の上から北西方向に向かう道路が、坂を登った先に、何やら胸像と共に建つ石碑を、手持ちのカメラで目一杯ズームアップして確認したものです。
蓮花川銘板.jpg十三橋銘板.jpg
(市道1073号線の蓮花川に架かる「十三橋」の銘板)

石碑の表面には、中央に大きく「夢の実現」も文字が彫られています。右側上部には「農業構造改善竣工紀念」、そして左側下部に「理事長関塚茂七書」の文字。
碑陰を見ると、上側半分に碑文、下半分には関係者の名前が並んで彫られています。
石碑の正面.jpg石碑の碑文.jpg
(石碑表面)              (碑陰上半分に彫られた碑文)

今、この石碑の建つ高台から南東の方角を望むと、水田地帯が広がっています。更にその先を見ると道路は坂を登っています。地形図を見ると石碑の建つこの場所は標高20メートルの等高線が通っています。そしてこちら側藤岡町甲の本郷東周辺は、標高25メートルの高台に成っています。又、蓮花川を渡った反対側の高台となる藤岡町大前の国造西周辺の標高も25メートル程に成ってます。その間の低地に水田が広がりその中央部分を、蓮花川が北から南に大きく蛇行して流れています。川の流れる水田地帯はかつては唯木谷津と称される低湿地帯で、現在でも標高16メートルと成っています。
唯木谷津.jpg
(石碑の前から南東方向を写す。中央の水田地帯を左から右に蓮花川が流れる)

「藤岡町史資料編近現代」第Ⅱ部「石に刻まれた歴史」には、この石碑に関する解説が有ります。
≪町道大前・新井線の只木谷津に臨む路傍に建つ「農業改善竣工記念碑」(1971年)である。「夢の実現」と刻まれているように、長年蓮華川の洪水に悩まされた只木谷津約百町歩の干拓事業は、この周辺の農家の夢であった。昭和22年のカスリン台風によって農耕が不可能になった後、同23年度の県営排水事業による新堀排水機場の整備の開始から、同46年の換地登記に至るまでの経緯を記し、「永年の夢の実現を喜び盛大なる完工式を挙行」してこの記念碑を建立したと結んでいる≫と、記しています。

石碑の前に建てられた胸像は、石碑の題字「夢の実現」を揮毫された当時の第一土地改良区の理事長「関塚茂七」氏で、眼下に広がった唯木谷津の水田地帯を見守っています。
胸像を据えた台座の裏面には、「関塚茂七翁を讃う」として、翁の略歴と功績とが刻まれています。
関塚茂七胸像.jpg胸像碑文.jpg
(関塚茂七翁之像)              (台座裏面「関塚茂七翁を讃う」の碑文)

胸像の背中部分には、「関塚茂七翁像 昭和三十二年丁十月 佐伯留守夫」と刻まれています。
又、台座の下部には発起人や建設委員等、34名の氏名が並んでいます。
台座下部2.jpg台座下部1.jpg
(胸像台座下部左側部分)                (胸像台座下部右側部分)

又、「関塚茂七翁之像」に向かって、右後ろにもう一基小さな石碑が建てられています。この石碑がどうも私には理解出来ない、多くの疑問が有るのです。
まづ石碑の表面には、「関塚茂七翁胸像 移転竣工記念 平成七年五月吉日」と有り、その下側に関係者の役職名と名前23名が並んで刻まれています。
山合新堀水閘1.jpg
(「関塚茂七翁之像」の右後方に建つ、少し小さな石碑表面)
これだけを見る限りでは、隣の胸像は元は別の場所に建てられていたものを、この地に移転竣工したのを記念して建てられた石碑と単純に解釈出来ます。
が、その石碑の後ろ面を見ると、その裏面には上側に「山合新堀水閘」と、そして下側には「明治三十六年十月建設 設計者 栃木縣技師工學士井上次郎 監督者 栃木縣土木工■ 伊藤千城 功七等 栗林長策」
と刻まれています。 (■部分の文字は判読出来ませんでした)
山合新堀水閘2.jpg山合新堀水閘3.jpg
(碑陰上部:山合新堀水閘)           (碑陰下部:建設年月・設計者・監督者)

使用されている漢字を見ると「栃木縣」とか「工學士」「功七等」と、平成に成って刻まれた文字とは考えにくい、「明治三十六年十月建設」と彫られた日付けから考えて、元々有った石碑を利用したものと考えたい。

碑陰上部に刻まれた「山合新堀水閘」とは何なのだろうか。関塚清蔵著「蓮花川」(昭和58年4月6日・全国農村教育協会発行)の中で、≪明治時代になると高取堤の決壊は無くなり、この部分から唯木沼に入る洪水の被害は無くなった。しかし今度は、渡良瀬川の洪水時には、赤麻沼から新堀を逆流して、唯木沼周辺の耕地が冠水する被害が出てきた。とくに明治二三年(1890)以降は、渡良瀬川の洪水時には、足尾銅山の鉱毒を含んだ水が入りこんで被害を大きくした。そこで山合の関塚清作、関塚千代作等が発起人となり、蓮花川の逆流を防ぐ目的で、明治三六年一〇月に山合新堀水閘を完成させた。≫と記しています。
そして又、水閘の有った位置については、≪この県道は最近まで、明治36年に作られた山合新堀水閘の上をとおっていて、水閘の横には旧排水機場があった。昭和56年に蓮花川の河川改良工事により、水閘も排水機場も撤去され、新しい新堀橋が完成した。この橋の南側の県道傍に関塚茂七氏の胸像が建っている。≫とも、記されていました。ここで言う県道とは現在の市道1070号線(旧県道栃木藤岡線)の事です。
この書籍「蓮花川」が発行された頃は、「関塚茂七翁之像」は現在の場所では無く、こちらの「新堀橋」の南橋詰に建てられていたものを、平成7年5月に移転した事など、全ての疑問が解消されました。
平成5年頃新堀橋.jpg
(かつて「山合新堀水閘」が有った、蓮花川に架かる市道1070号線の新堀橋。)

※参考にした文献:
  ① 「藤岡町史 資料編 近現代」 藤岡町史編さん委員会 藤岡町発行
  ② 「蓮花川 郷土の歴史と農業の発達」 関塚清蔵著 全国農村教育協会発行


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新潟県燕市五千石に建つ巨大な石碑 [石碑]

私が今まで見た中で一番大きい石碑が、新潟県燕市五千石に建っています。
この石碑は、「信濃川治水紀功碑」と題するもので、信濃川と大河津分水路の分岐の地に建てられたものです。先月、この地に有る「信濃川大河津資料館」を訪れ展望フロアーから大河津分水路などを眺めていた時に目に留まり、新ためてその前に建った時、その大きさに驚かされました。
信濃川治水紀功碑1.jpg
(信濃川と大河津分水路の分岐に建つ、巨大な石碑)

石碑上部の篆額には、「信濃川治水紀功碑」と篆書体で書かれています。揮毫をした人物は、碑文冒頭に刻されていますが、「議定官 元帥 陸軍大将 大勲位 功二級 載仁親王」と言う人です。
信濃川治水紀功碑(篆額).jpg
(「信濃川治水紀功碑」の文字が浮き彫りされた篆額)

石碑は大正13年に建てられたものですが、表面は非常に綺麗で、碑文の文字もハッキリと刻されています。これだけ鮮明なのは、碑文の文字数が1,252文字に成るものの、石碑が大きいく、1文字1文字のサイズが5センチ角ほどにもなっている為と思われます。
碑文は大正期に架かれた物の為、私の苦手な漢文体、漢字の羅列にどう読んだらいいのか、頭を抱えてしまいます。
幸い石碑の前に説明板が有り、それを読むと石碑の内容が概ね理解する事が出来ました。
信濃川治水紀功碑(説明板).jpg
(石碑前に建てられた、説明板を写真に収めてきましたので、添付させて頂きました。)

それによりますと、石碑の大きさは、高さが7.2メートル、幅は2.5メートル、厚さ42センチメートルと有ります。石碑の重さは何んと26トン(仙台石巻産)、台と成っている石は50トン(弥彦産)で地中でガッチリと石碑を支えています。
碑文を書き写しました。旧字体の漢字も多く使われていて、どうしても文字を再現できない所も有りました。(■記号で表示) 
信濃川治水紀功碑2.jpg碑文(縮小版).jpg
(石碑正面写真)             (碑文を書き写しました。文字は一部新字体に変更)

碑文は、内務大臣 水野錬太郎の撰文。書は比田井鴻と言う書道家です。(現代書道の父と称されています。)

碑文によりますと「大河津分水路」は、越後平野を水害から救う為に、信濃川の水を分水して日本海に流す為の水路です。その構想は江戸時代享保年間に遡り、寺泊の「本間数右衛門」「河合某」らが、幕府に嘆願書を出したもので、信濃川が最も日本海に近づく大河津付近から約10キロメートルの人工水路を開鑿して分水するものです。しかしこの計画は幕府の承認が得られず、明治新政府に代わって急に建設する事が決定されます。しかしその工事も中止となります。その後明治29年・30年と続いて大洪水が発生し、大河津分水路の建設工事再開が決まりました。
明治42年に着工、大正11年工事完了通水、大正13年3月23日晴れの竣工式が挙行されました。

分水地点のジオラマ.jpg
上の写真は、信濃川大河津資料館展望フロアーに有る大河津分水路のジオラマの一部を写したものです。
写真左上に分岐点、そこから真下に流れている細い流れが、「信濃川」の本川。左上の分岐から右方向、横に流れる太い流れが「大河津分水路」です。
分水路右隅の施設が「可動堰」。分岐近く信濃川本川に有る施設が「新洗堰」。その右側に「旧洗堰」も見えます。更にそのすぐ右側の小さな建物が、私が行った大河津資料館(銘板に赤いマーク)です。

石碑近くの堤防上から分水路方向を眺めると、左奥に可動堰、そして手前正面には残された旧可動堰の一部が見えます。後ろに聳えている山並みは左が弥彦山、右が多宝山です。(標高は共に634m)
可動堰1.jpg

視線を反対側の南に移すと旧洗堰、その右奥の建物が「国土交通省北陸地方整備局信濃川河川事務所「大河津出張所」で分岐点の先端部に有ります。
洗い堰1.jpg

今年の10月12日から13日にかけて関東地方を縦断した台風19号により、私の住む栃木市内も甚大な被害を被りました。そしてこの信濃川においても上流の千曲川流域で大きな被害が発生しています。
信濃川河川事務所の「分水路だより」(令和元年11月1日号)を見ると、冒頭に「令和元年台風19号による出水報告・大河津水位観測所で観測史上1位の水位を観測」と、そしてこの分水路において≪信濃川上・中流域の洪水を日本海に流し続け、越後平野への氾濫を防止しました。≫と、記されています。見事に役目を果たしています。
それでも近年、こうした自然災害も規模が大きくなってきており、ここ大河津分水路においても、現在分水路河口部の改修工事が進められていと「水路だより」は記していました。
私達はこれで大丈夫だと安心せずに、今有る問題点を常に考え、対策を重ねていくことが大切であると、この地を訪れて考えさせられました。
 
※参考資料:国土交通省北陸地方整備局信濃川河川事務所発行各種パンフレット。
          ・越後平野発展の礎、大河津分水路(2016年1月プリント)
          ・分水路河口の改修始まる(2016年5月プリント)
          ・分水路だより№55(令和元年11月1日号)


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藤岡町甲の六所神社 [栃木市の神社]

栃木市藤岡町甲の本郷地区は蓮花川の蛇行によって形成された、緩い河岸段丘の上に有り、字本郷東は台地の東方向に張り出しています。そんな台地を北側から東側へと回り込む様に、現在の蓮花川が静かに流れています。
台地の東端となる本郷東に、今回訪れた六所神社が有ります。
六所神社.jpg
(藤岡町甲の本郷東の台地の上に祀られた「六所神社」)

私が訪れた12月の始め、鎮守の森には木漏れ日の中に紅葉が輝いていました。
六所神社の紅葉.jpg
(六所神社境内の紅葉)

参道を進み拝殿にて参拝を済ませ周辺散策へ。
この神社の主祭神は「天照皇大神」、配神として「伊弉諾命」「伊弉冊命」「月読命」「誉田別命」「素盞鳴命」が祀られています。主祭神と配神合わせて六柱を祀った社から、「六所神社」です。
六所神社1.jpg六所神社2.jpg
(六所神社正面拝殿)                            (「六所神社」神額)

昭和39年に発行された「栃木県神社誌」によると、栃木県内に見られる「六所神社」は、当社の外には宇都宮市宝木町二丁目の一社が見られるのみです。神社の由緒沿革には、≪寛文11年上野国邑楽郡藤岡町より、当字部落に移住し、前住地の氏神六柱を勧請した。≫と、記されています。
寛文11年(1671)は、江戸時代の第4代将軍徳川家綱のころ、上野国は群馬県、邑楽郡は栃木県の南隣に接する、利根川と渡良瀬川とにはさまれた地域、現在の館林市を中心に周辺の板倉町・明和町・千代田町・邑楽町・大泉町などの区域です。藤岡町は上野国邑楽郡では無く下野国下都賀郡に属する地域に成りますが、寛文11年頃は館林藩は徳川綱吉が藩主で25万石の親藩ですが、当時渡良瀬川の左岸に位置する藤岡は古河藩領でした。「藤岡町史」に有る年表の中に、≪寛文9年(1669)から延宝3年(1675)、藤岡村ほか、古河藩領の領民らが、宇都宮西原新田開発のため移住≫との記載が有ります。このことから藤岡の地から宇都宮の此の地に移り住んだ人達が居たことが確認出来ました。
グーグルマップにてこの宇都宮に有る六所神社を検索すると、社殿の横の建物に「藤岡公民館」との表示もみられ、その繋がりを物語っています。
それでは、移住前の藤岡町の「六所神社」は何所なのか、私は当初県内に残るもう一つの藤岡町甲に鎮座している「六所神社」と考えていました。このブログを書いた時は、そのように書いてしまっていましたが、その後更に調べて行くと、現在の「藤岡神社」が元々は「六所神社」で有った事を知りました。
確かに藤岡町甲は、昔は甲村でであり藤岡では無かった訳ですから。
現在の藤岡神社境内に建てられた説明板には、≪天慶3年(940)の創立にして、旧くは六所大明神と称せられ、藤岡町の総鎮守とされています。御祭神は、伊弉諾命、伊弉冉命、天照皇大神、月読命、天児屋根命、天宇受売命の6神を奉斉しています。(中略)文政4年(1821)紫岡神社と称せられるも、明治8年(1873)藤岡神社と改称します。≫と記しています。
藤岡神社.jpg六所大明神1.jpg
(古くは「六所大明神」と称した「藤岡神社」)   (藤岡神社の鳥居に「六所大明神」の神額)

それではもう一社、藤岡町甲の六所神社の由緒沿革は、「栃木県神社誌」によると、≪持統天皇の8年正月28日の創立で、天正5年4月13日兵火にかかり、ことごとく焼失した。寛永5年3月15日再建し、昭和33年本殿雨覆、幣殿拝殿を改築現在に至る≫と、記されています。
持統天皇は第41代天皇(690年2月14日~697年8月21日)、その8年と言う年は694年と成りますから、相当に歴史の有る神社です。
六所神社4.jpg六所神社3.jpg六所神社5.jpg
(拝殿向拝部を飾る彫刻)


現在の社殿は昭和33年に改築されたものです。
六所神社8.jpg六所神社6.jpg六所神社7.jpg
(本殿廻りに施された彫刻)

拝殿に向かって左手奥の木立の中に、「六所神社」「社殿改築記念碑」と刻した大きな石碑が建てられています。揮毫したのは当時の内閣総理大臣、岸信介です。
碑陰には寄附をされた人達の名前と金額がびっしりと刻されています。その数478名、上段半分ほどに大字出身寄附者237名、その下に「本郷」124名、「中耕地」70名、「高取」47名の名前が連なります。
最下段には建築委員会35名。左下部に設計者、棟梁、副棟梁、鳶の名前そして宮司の名前を読み取ることが出来ます。
境内に建つ石碑.jpg社殿.jpg
(境内に建てられた「社殿改築記念碑」)      (社殿を西側より撮影)

今も地元の人達に愛されている様子が、境内の整備状態から窺い知ることが出来ます。
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マンホールカード第11弾、那須塩原市と真岡市へ [マンホールカード]

今日12月14日、マンホールカードの第11弾が配布開始となりました。
栃木県内は、那須塩原市と真岡市の2枚が今回新たに配布されます。

那須塩原市の配布場所は、塩原温泉街の中に有る「塩原もの語り館」と言うことで、これから冬を迎えるので、降雪や路面凍結等の心配が有る為、今日良く晴れたので思い切って車を走らせて、行ってきました。
西那須野から国道400号で塩原温泉街の配布場所へ、隣接の駐車場は満車でしたが、丁度1台が出たのでラッキーでした。
受付で簡単なアンケートに答えるのですが、受付番号を見ると、私は6番目でした。
マンホール蓋の現物の設置場所を教えて頂き、無事に現物の写真撮影も出来ました。同じようにマンホール蓋の写真を撮る人が次々と来て、写真を撮っていました。
那須塩原市マンホールカード.jpg那須塩原市キティ.jpg
(那須塩原市のマンホールカードです)   (現物のマンホール蓋も写真に収めました)

ここに来るのは2015年10月、紅葉を見に来たのが最後で、久しぶりの塩原です。今回はすでに紅葉は終わっていて、配布場所の裏を流れる箒川周辺も、殺風景になっていました。
12月の塩原温泉.jpg塩原温泉の紅葉(2015年10月).jpg
(今日の箒川に架かる「紅の吊橋」)      (紅葉シーズンの「紅の吊橋」周辺)

ここまでスムースに来たので、思い切って真岡市へ向かうことに。
国道4号線をひたすら南下して、宇都宮から真岡市へ。真岡市は何度か来て、街の中も歩いているので、配布場所の「久保記念観光文化交流館」も分かっています。近くの駐車場に止めて無事に本日2枚目をゲット。
真岡市マンホールカード.jpg真岡市マンホール蓋.jpg
(真岡市のマンホールカード)    (配布場所前の歩道に設置されたマンホール蓋)

久保記念観光文化交流館1.jpg久保記念観光文化交流館2.jpg
(真岡市のカード配布場所前歩道) (久保記念観光文化交流館店舗前ディスプレイ)

これで栃木県のマンホールカードは収集完了です。
栃木県内は現在総数14枚が配布されています。
内訳は、栃木県流域下水道1枚、宇都宮市2枚、足利市2枚、日光市2枚、栃木市・佐野市・大田原市・下野市・鹿沼市そして本日の那須塩原市と真岡市が各1枚と成っています。
次回(来年4月予定)は、どこの自治体がカードを作成・配布するか楽しみです。
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岩舟町に建つ二つの「土器開祖」の石碑 [石碑]

栃木市岩舟町には、何故か2ヶ所に「土器開祖」と刻した石碑が建てられています。
ひとつは、大字静字茂呂の市道1054号線、「すみれ保育園」の少し北側の道路の脇に、建てられています。石碑には「土器開祖 新井藤吉翁之碑」と有ります。
新井藤吉翁之碑1.jpg
(市道1054号線の道路脇に建つ、「土器開祖 新井藤吉翁之碑」)

そしてもう一つは、大字曲ケ島字新区、市道1064号線の道路脇、新区公民館前に建てられています。石碑には「土器開祖 新樂平五郎之碑」と有ります。
新樂平五郎之碑1.jpg
(市道1064号線の道路脇に建つ右側が、「土器開祖 新樂平五郎之碑」)

それでは何故、岩舟町に「土器開祖」が二人いるのか。その答えは、岩舟町史を開くと直ぐに解決しました。答えとなる部分、岩舟町史の第四節窯業の部分より、抜粋させて貰います。
≪窯業の歴史は、茂呂と曲ヶ島の二つの流れがある。茂呂における歴史には、新井藤吉と、その子孫たちの苦闘の歴史が、曲ヶ島やきは新樂平五郎を元祖と仰ぐ佐山清之丞の苦心が秘められている。≫
以上の様に元々岩舟町の窯業の発展には、茂呂地区と曲ヶ島地区の二つの流れ(歴史)が有った為、それぞれに開祖となる人物が存在していたので、両方の地区でそれぞれ石碑を建立された訳です。

それでは最初に茂呂地区の、新井藤吉翁之碑について見ていきます。
新井藤吉翁之碑(碑表).jpg新井藤吉翁之碑(碑陰).jpg
(碑表には大きく碑銘のみ)(碑陰には碑文と下部には発起人や世話人の名前が並びます)

碑陰に刻された碑文には、碑銘に有る新井藤吉翁の生れは、時代を遡る事江戸時代、寛政3年2月15日と成っています。それから茂呂の此の地で、土器生産を完成させた経緯が記されています。
それは、藤吉翁一人の苦労に留まらず子孫代々の改良が加えられて、完成されたものでその間時代の流れに翻弄されつつも、事業を拡大した様子が覗えます。
石碑が建てられたのは昭和19年9月20日、碑文を撰文したのはその当時岩舟村長の石川光士氏です。

曲ヶ島の新区公民館の前に建つ、新樂平五郎之碑について見ていきます。
新樂平五郎之碑(碑表).jpg新樂平五郎之碑(碑陰).jpg
(碑表、中央に碑銘、右側に開業五十年祭と有る)(碑陰には発起者と賛成者の名前)

こちらの石碑が建てられたのは、先の茂呂地区の石碑より早く、昭和2年4月と成っています。
碑銘に有る「新樂平五郎」という人物に関しては、碑陰に「祖師東京今戸生新樂平五郎」とのみ有るだけ、ハッキリしません。ここは「岩舟町史」に助けて貰います。
≪曲ヶ島の土器製造は、明治維新ののち、東京の今戸焼の職人新樂平五郎が曲ヶ島へ移住、曲ヶ島向坪の土をもって火鉢やほうろくなどの日用土器を焼いたにはじまる。佐山丈右衛門の四男清之丞は、これに興味をおぼえ、平五郎の弟子となり、向坪にかまをつくって日用土器の生産を開始した。新樂平五郎というよき指導者にめぐまれたことが幸いした。明治十年(1877)佐山倉吉の長女トキと結婚、本家から独立してやきものだけで生活が出来るようになった。これが刺戟となって近隣のものも清之丞から技術を学び、土器生産をはじめるものがあらわれその数も六軒におよんだ。≫と説明されています。

この石碑が建てられた昭和2年4月と言うのは、佐山清之丞が結婚をし独立をした、明治10年から丁度50年が成った時で、碑の表に有る通り「開業50年祭」を記念する建碑だったのです。
二つの碑の背面の内容を書き写しました。
新井藤吉翁之碑(碑文書き写し).jpg新樂平五郎之碑(碑陰書き写し).jpg
(新井藤吉翁之碑の碑陰)                 (新樂平五郎之碑の碑陰)

今、栃木市街地から県道11号(栃木藤岡線)を南下して、国道50号(岩舟小山バイパス)の跨線橋を抜けて、岩舟町曲ヶ島の新区地区を通過する時、道路の両側に大量の茶褐色した土管が積まれた風景を見る事が出来ます。土管を焼くための窯の煙突でしょうか。煙突には(有)葛生陶管の社名が見えます。
曲ヶ島新区の土管.jpg葛生陶管の煙突.jpg
(県道栃木藤岡線脇に大量の土管が積まれています) (2本の煙突が見えます)

ここ(有)葛生陶管さんの関係者でしょうか、「土器開祖 新樂平五郎之碑」の発起人の一人に「葛生信次」氏の名前が並んでいます。他に石碑の建つ新区公民館周辺には「佐山陶管有限会社」の看板を付けた家屋も見られました。

一方茂呂地区周辺を巡ってみても、土管を製造していそうな風景は見られませんでした。ただ古い岩舟町の住宅地図を確認すると、茂呂新田周辺に「栃木製陶」とか「青木陶管工業」「富山陶管工場」の会社名が確認出来ました。ただ現在の住宅地図には、これらの会社名は掲載されていません。
茂呂地区に残る煙突.jpg
(茂呂新田地区に残るかつての「富山陶管工場」跡と思われる煙突)

小さな二つの石碑に、かつて岩舟町の一大産業だった、窯業の歴史を知る事が出来ました。


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太平山あじさい坂中程に建つ「鈴木宗四郎翁之碑」 [石碑]

太平山のあじさい坂を登って行くとその中程に、右方向に分岐する細い道が有り、その入口にこじんまりした石造りの鳥居が建っています。鳥居に掲げられた扁額には「窟神社」の文字が浮き彫りされています。
窟神社入口.jpg窟神社扁額.jpg

鳥居を潜って少しその細い道を進むと、正面に大きな岩で組まれたような洞窟が有り、その手前には「太平山弁財天」の標柱が建てられています。
窟神社.jpg

洞窟の左脇にはふくよかなお顔の小さな石造りの弁財天様。洞窟の中には水が溜まっており、その奥を覗くと暗闇の中に小さな石の祠が祀られています。
弁才天の石像.jpg窟内に祀られた石祠.jpg

洞窟の所から左方向の道を進むと、又、元のあじさい坂に合流します。丁度その合流点からあじさい坂の左側の少し奥に石碑が1基建てられています。石碑上部の篆額には「鈴木宗四郎翁之碑」と、篆書体の文字で書かれています。揮毫をされた人物は、石碑の最初の行に刻されていますが、その当時の「陸軍大将正三位勲一等功二級男爵鮫島重雄」です。

普通、こうした顕彰碑を建立する際は多くの発起人や賛同者が有って、それらの人達から寄附を募って建碑の費用を捻出します。そうしてそうした関係者の氏名や寄附した金額等を碑陰に刻する事が多く見かけられます。これまで調べた石碑においてもそうした碑陰に刻された名前から、顕彰された人物の人間関係を知る事が出来ますので、今回も碑陰についても確認してみましたが、この石碑の裏面には何の記載も確認できませんでした。
それではこの石碑に有る「鈴木宗四郎翁」とは、どのような人物なのでしょうか。
碑文最終行の日付けは「明治44年12月」、そしてこの碑文を撰された人物は「縣社太平山神社社司 岡田順平」と刻されています。
明治期の石碑の為、碑文は私の苦手な漢字一色の漢文体、読む事が出来ません。読める漢字を一字づつ拾い、内容を類推して行きます。
碑文の冒頭部分に≪明治四十年五月三十日鈴木宗四郎君歿、享年六十二≫と有りますから、生まれは江戸時代後期、弘化元年(1844年)に成ります。
≪栃木県下都賀郡栃木町平井の豪農≫、≪父親の名前は鈴木磯衛、母親は寺内姓≫
≪明治六年五月第一大区1一二三及六小区学区取締補助≫その後、平井村・片柳村・薗部村等の戸長や≪神道中教院太平出張所事務掛≫などを務め、≪十八年任下都賀郡皆川城内外八邨戸長尋轉栃木町外十三邨戸長兼前任≫と、翁は高田俊貞・田中貢・岩上条三郎に次いで第四代の栃木戸長となりました。明治22年5月町村制実施に伴い廃官、地方行政等に関わった在職期間はおよそ17年と成っています。
又、≪東窮奥羽西抵肥筑足跡所及五十有二國≫のごとく、日本国内各地を訪れ、≪躋名山渉大川≫と、名山に登り大川を渡り、神社仏閣を見て回っています。
鈴木宗四郎翁と太平山神社との関係を碑文に探すと、まず先に記した様に明治9年≪神道中教院太平出張所事務掛≫を務めた外、≪君開太平山公園也≫と太平山公園の造成にも力を注いでいます。
明治23年、根岸町長の時、それまで狭く曲がりくねった栃木から太平山に達する道路(行程30町)を改修していますが、この時翁は率先して工事の監督を行っています。更に明治37年10月から12月に太平山神社への参道≪長二百四十餘間路傍鑿溝渠栽櫻樹≫の整備にも工事監督をしています。
こうして鈴木宗四郎翁は太平山神社と深く関わっていたことが理解できます。そして又、この石碑がこの太平山神社参道脇に建立された事にも、納得いたしました。
鈴木宗四郎翁之碑.jpg篆額部分.jpg
(あじさい坂を登ると、中程左手奥に建つ石碑) (石碑の篆額部「鈴木宗四郎翁之碑」)
鈴木宗四郎翁之碑(碑文).jpg
(碑文を書き写しました、難読部分は□記号としています)

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太平山(おおひらさん)の紅葉、見て来ました [自然の恵み]

昨日、太平山南麓を大平町富田から眺めると、結構色付いて来ていたので、早速今日の夕方に太平山の紅葉を見に行ってきました。
太平山遠望.jpg
(手前は台風19号で被災し、1ヶ月運行出来なかった両毛線、先週復旧しました)

途中の遊覧道路はすでに陽が陰り、薄暗くなってしまっていたので、ヘッドライトを点灯して山道を登って行きました。大曲駐車場もまだ多くの車が残っていて、太平山神社方向から歩いて戻ってこられる人達でしょうか。もしかしたら謙信平の駐車場はまだ満車なのでは、でもこの時間だったら帰られる車も多くなって少しは空いていると信じて、車を進めました。
駐車場でもたもたしていたら、太陽が沈んでしまうと、焦る気持ちを抑え運良く開いていた駐車スペースに車を止められました。驚くことに周りに止まっている車のナンバープレートを見ると、ほとんどが他県ナンバー。
撮影ポイントを探す為に急いで謙信平へ移動、紅葉に染まる木々を写真に収めました。
太平山の紅葉6.jpg
太平山の紅葉1.jpg太平山の紅葉2.jpg
太平山の紅葉3.jpg太平山の紅葉4.jpg
太平山の紅葉5.jpg
西の空が赤く染まり初め、太陽が西の山波に向かって下りて行きます。
日没まじか.jpg
今日は、この冬一番の寒さ、昼のテレビの天気予報で、青空にくっきりと姿を見せる真っ白に雪化粧した富士山が映し出されていたいたので、富士山も遠望出来るはず。富士見スポットに行き、南西方向の地平線を探す。予想以上に霞んでいたが、薄っすらと富士山のシルエットが確認出来ました。目を南の方向に移動させると東京の高層ビル群、更に左方向に1本の棒状に東京スカイツリーも見る事が出来ました。
夕陽に浮かぶ富士.jpg

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人気のマンホールカード、第11弾に栃木県内で新たに2枚 [マンホールカード]

去る11月21日付にて、GKP・下水道広報プラットホームのインターネットホームページで、「マンホールカード第11弾66種を12月14日に配布開始!」の発表が出ました。
予定通りの発表に成りますが、その中に我が「栃木県」においては、真岡市と那須塩原市の2自治体が新たに加わることに成りました。
真岡市が発行するマンホールカードのデザインは、2014年から設置されているカラーのデザインマンホール蓋の様です。

真岡市マンホール1.jpg真岡市マンホール2.jpg
上のカラーデザインマンホール蓋は、私が2016年5月に真岡市内の街歩きを楽しんだ時に、見つけて写真を撮ったものですが、今回真岡市のマンホールカードに採用されたデザインは、左側の黄色のベースカラーに真岡市のシンボル、蒸気機関車・真岡木綿の糸車・イチゴそして中央に、市のマスコットキャラクター「コットベリー」を中央に配したマンホール蓋の様です。
来月、12月14日(土)より真岡市の「久保記念観光文化交流館」に行くことで、1人1枚無料で貰うことが出来ます。
久保記念館.jpg
(マンホールカード配布場所となる、久保記念文化交流館の全景)
久保記念館1.jpg久保記念館2.jpg

そしてもう1枚の、那須塩原市のマンホールカードのデザインは、昨年(2018年)10月設置されたもので、那須塩原市のブランドキャラクター「みるひぃ」とサンリオのキャラクター「ハローキティー」とが、露天風呂に入っているデザインで、「春バージョン」と「秋バージョン」との2種類が有りますが、今回のカードのデザインに採用されたのは「秋バージョン」の様です。
私は昨年11月に板室温泉に設置された「春バージョン」を見つけて写真に撮って来ていましたが、塩原温泉街に設置された「秋バージョン」の方は、まだ見ていません。
来月カードが配布される様に成ったら、早速写真を撮ってこようと思います。

那須塩原市春.jpg那須塩原市板室温泉.jpg
(板室温泉の「加登屋本館」さん前に設置された「春バージョン」のマンホール蓋)

ちなみに、この「春」と「秋」のバージョンの違いは、色使いだけで図柄は全く同じものです。
「春」は新緑を表して緑色がメインで、「秋」は紅葉をイメージして赤色がメインと成っています。
那須塩原市のカードの配布場所は、塩原温泉街の「塩原もの語り館」です。
この裏手を流れる箒川に架かる吊り橋「紅の吊橋」周辺はマンホールのデザインの様に秋には見事な紅葉を見る事が出来ます。カードが配布開始される12月14日は、残念ですが今年の紅葉は終わっていますね。
塩原温泉の紅葉1.jpg
(塩原温泉街を貫流する箒川沿いの紅葉)

最近はテレビのクイズ番組の中でも、こうしたデザインマンホール蓋が出て、そのデザインが何所の都道府県のものか当てるクイズが見られる様になり、自分の収集したマンホール蓋が紹介されると、少しうれしい気持ちになります。
ちなみに現在までに私が収集したカードは、152種類に成りました。
これからも各地の観光を兼ねてカードの種類を少しずつ増やして行こうと思っています。
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大芦渓谷の紅葉を見て来ました [自然の恵み]

今日、昼頃から太陽が差してくるようになったので、鹿沼市の大芦川上流に有る、大芦渓谷の紅葉を見に行ってきました。
我家から大芦渓谷まで1時間ほどで行くことが出来、丁度渓谷に太陽の光が入っていました。
大芦川に架かる「白井平橋」の手前に有る駐車スペースに何とか車を入れる事が出来ました。
白井平橋の上流側の河原に下りて行くと、白井平橋と紅葉をバックに写真を撮る家族連れやカップル、そして三脚を構えて撮影する写真愛好家の方々、平日にもかかわらず大勢来ています。
私も、逆光にモミジの赤が浮き上がった写真を撮ってみました。
大芦渓谷の紅葉.jpg
(白井平橋下の河原から、白井平橋をバックに写した大芦渓谷の紅葉)

紅葉の中の白井平橋.jpg
(紅葉のトンネルとなった大芦川に架かる白井平橋)

大芦川の銘板.jpg白井平橋の銘板.jpg
(橋の親柱に付けられ川の名前と橋の名前)

白井平永久橋新設記念の碑.jpg白井平橋旧橋の遺構.jpg
(西側橋詰近くに建つ石碑)       (西側橋詰に残る構造物、吊り橋の橋塔だった物か)

白井平橋の西側橋詰近くに建つ石碑には、「白井平永久橋新設記念」、左下に「栃木県知事 横川信夫」、碑陰には「昭和三十三年十二月起工」「昭和三十四年八月竣工」「総工費 金六百拾七万八千円也」と有り、栃木県・鹿沼市そして地元の各分担金額が記されて、さらに関係者の名前が並んで刻されています。
この石碑の永久橋が現在の橋に成ります。
それ以前はこれは私の推測ですが、同じく橋詰に残るコンクリート製の構造物の形状から、吊り橋が架けられていたのではと思われます。構造物は吊り橋の橋塔だったのではと。

大芦渓谷の紅葉、丁度見頃で最高でした。同時に私の好きな橋や石碑も見られて満足です。
大芦渓谷の紅葉2.jpg



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