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杣井木川排水機場周辺の風景 [栃木市の河川と橋]

杣井木(そまいき)川排水機場は、小山市大字中里の永野川が巴波川に合流する手前300メートルの地点で、永野川左岸から合流して来る杣井木川の落ち口に建設された、小山市大字押切や大字中里等の巴波川と永野川とに囲まれた地域の湛水防除施設です。
杣井木川排水機場全景.jpg
(永野川の左岸、写真中央の施設が杣井木川排水樋門、その左堤内に排水機場の建物)
2013年5月25日杣井木川流入部2.jpg杣井木川樋門銘板.jpg
(杣井木川樋門を永野川対岸より撮影)     (樋門の銘板、1991年12月設置の表示)
樋門の設置場所から下流側に80メートル程の、同じく左岸土手に新たに設置された排水装置だろうか、土手の堤内側から16本の鋼管が伸び、堤外側(永野川側)に管の開口部が並んでいます。これで堤内側の水を堤外へ排水するものと思われる。私がこれまで見た排水機場の中には、この様な装置は見たことが有りません。この杣井木川排水機場でも以前は見ていませんでした。
排水管(堤内側).jpg排水管(堤外側).jpg
(永野川左岸土手の堤内側に並ぶ16本の鋼管)(堤外側土手上部に管の開口端が並ぶ)

この施設は、永野川の水位が上昇して、永野川の水が杣井木川へ逆流して来るのを、水門を閉鎖して防ぎ、杣井木川から永野川への自然排出が出来なくなった水を、ポンプの力で強制的に永野川に排水するものです。そのカラクリは素人の私には良く理解できていませんが。
こうした排水機場は、思川や渡良瀬川などで、その支流の川からの落ち口に設置されています。
三杉川排水機場.jpg西前原排水機場.jpg
(三杉川排水機場)                   (西前原排水機場)
与良川第一第二排水機場.jpg塩沢排水機場.jpg
(与良川第一・第二排水機場)             (塩沢排水機場)

排水機場の仕組みについて、解説した掲示が塩沢排水機場に有りました。これを見て私も少しは排水機場について理解する事が出来ましたので、参考に解説図部分を抜粋して添付いたします。
排水機場の仕組み.jpg
(塩沢排水機場の平常時と洪水時の、排水の仕組み)

この杣井木川排水機場が設置されたのは、先に掲示した排水樋門の銘板に有る通り、1991年12月で今からたった28年前の事です。それより前の1982年1月に私がこの付近の風景を撮影した写真が有りました。現在の風景と比較してみると、だいぶ様子が変わっていることが見て取れます。
撮影ポイントを下に添付した「巴波川・永野川合流点周辺の河川及び道路の変遷図」の中に△印で表示しています。

1982年赤.jpg2019年赤.jpg
(撮影ポイント赤△印:現在の排水機場前の道路から西方向を写す。)
写真手前の橋は杣井木川に架かる橋で、川はこの橋の左方向で永野川に合流します。奥に写る橋は永野泡に架かるかつての「落合橋」です。この頃は、永野川左岸には土手らしい土手は有りませんでしたから、この地点からも「落合橋」を望むことが出来ました。
現在の写真では道路左側は、高い永野川左岸の土手が視界を妨げています。

1982年靑.jpg2019年靑.jpg
(撮影ポイント青△印:同上の撮影ポイントから振り返って南方向を写す。)
永野川が前方で大きく右にカーブしています。写真奥の所で左方向から流れてくる巴波川に合流する事に成ります。現在の写真は土手の上からほぼ同じ方向を撮影しています。

1982年緑.jpg2019年緑.jpg
(撮影ポイント緑△印:永野川に架かる「落合橋」の上流側左岸から橋を撮影)
写真に写る「落合橋」は新たに土手を作るために不都合だったのか、2000年9月に上流側に「新落合橋」が架橋され、元の場所には2004年3月現在の「落合橋(人道橋)」が架けられました。

1982年橙.jpg2019年橙.jpg
(撮影ポイント橙△印:巴波川に架かる「昇明橋」の上流左岸より永野川との合流点を写す)
写真右奥から真っ直ぐ流れてくる川が巴波川。左側より手前に流れてくる川が永野川。永野川左岸に土手は見られません。現在の写真は巴波川左岸土手の上から移していますが、前方は永野川の土手で続いています。

巴波・永野合流付近の河川・道路の変遷図.jpg
少し見難い図に成ってしまいましたが、1980年代の道路の様子を実線で描き、現在の道路土手河川等を破線で重ねて描いています。排水機場前の道路は土手が出来る前は、永野川近くを通っていましたが、築堤後は、堤内の土手脇に沿う形に変わっています。落合橋下流側の土手が出来上がったのは1994年頃に成ってです。上流側は更にその後整備されることに成ります。
土手が造られたことで、内水氾濫を防ぐためにこの「杣井木川排水機場」も作られたと考えます。

こうして栃木市並びに、小山市・佐野市など渡良瀬川水系に多くの排水機場が設置されましたが、昨今の気象状況の変化で、自然の猛威はそうした人間の行動をあざ笑う様に、破壊しています。
しかし、私たちも平穏な生活を得る為、更なる英知を出し合って、河川管理を強化していく事が必要になっています。今もこうした排水機場の活躍で、被害を小さく止めていることも、忘れてはならない事です。
縦軸斜流ポンプ.jpgポンプ銘板.jpg
(与良川第一排水機場内に設置されている「立軸斜流ポンプ」2基と銘板)
感謝の幟旗.jpg
(2015年9月の豪雨被害の翌年、小山市生井の桜堤に立てられた感謝の幟旗)

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永野川の堀ノ内橋が新しくなっていました [栃木市の河川と橋]

永野川の下流域、栃木市大平町西水代と小山市大字上泉の境界をまたぐ堀ノ内橋が新しい姿に変わっていました。この橋に接続する栃木市側の道路は、永野川右岸土手から土手下に下りる為の市道22268号線、土手下の市道22290号線は永野川右岸の土手下に沿って、国道50号バイパス道の下から南に進み県道160号(和泉間々田線)の永野川に架かる「昇明橋」の橋詰まで伸びていますが、こうした永野川両岸を往来する地元の住民の為の、生活路の確保を目的とした橋梁に成っています。
(新)堀の内橋1.jpg
(永野川に新しく架けられた「堀ノ内橋」)
(新)堀の内橋2.jpg(新)堀の内橋3.jpg
(新しいく立派になった堀ノ内橋、自動車も安心して通行出来ます)(橋の銘板)

橋の直ぐ上流側には、国道50号(岩舟小山バイパス)に架かる、「新永野川橋」が見えます。
(新)堀の内橋4.jpg
(堀ノ内橋の上流側に架かる国道50号バイパスの「新永野川橋)
ただこの「新永野川橋」を川沿いに住む方が渡る場合、川沿いの道路は接続されず、西側は橋から500メートル、東側は300メートル離れた交差点まで回り込んで渡ることに成る為、この堀ノ内橋が重宝となります。

元々この地点には橋が有りました。現在も新しい橋の下流側にまだ残っていますが、先日の台風の影響で高欄が破壊された為か、それ以前から新しい橋への切り替えでか、橋は通行止めと成っていました。
(旧)堀の内橋 1.jpg(旧)堀の内橋 2.jpg
(写真手前が、これまで地元民に利用されていた堀ノ内橋)(通行止めとなった以前の橋)

これまでの橋は、土手よりも低い所に架けられていた為、川が増水した時は橋は水を被ってしまいます。
今回の台風でも高欄が完全に破壊されています。
新しい橋が完成した事で今回も生活路は、確保される事と成りました。

これまでの堀ノ内橋は、昭和の名残が感じられ、味の有る風景が見られ、これまで何回か訪れその姿を写真に撮っていましたので、紹介します。
2013年5月25日堀の内橋.jpg
(2013年5月25日撮影、上流に「新永野川橋」も見えます。)
堀の内橋下流堰57年1月.jpg
(昭和57年1月撮影、下流側の堰)
堀の内橋57年1月撮影.jpg
(同じく昭和57年1月撮影、堀ノ内橋。後方で新永野川橋の架橋工事が行われている)

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永野川の洪水被害に思う [栃木市の河川と橋]

10月12日から13日、関東地方を縦断した台風19号の豪雨により、栃木市内に甚大な被害が発生してしまい、多くの人達が一夜にして、通常の生活を奪われ、今も不自由なつらい生活を送っています。
その中でも、永野川流域では多くの箇所で、堤防の決壊や越流により、大量の泥水が市街地に流れ込んでしまいました。
JR両毛線永野川鉄橋右岸の線路部分が被災.jpg
(JR両毛線永野川鉄橋脇右岸の土手が決壊、線路の盛土が流失しレールが宙吊り状態に)
二杉橋下流左岸堤防決壊.jpg
(二杉神社下流の永野川左岸の土手が決壊、緊急対応として大型土嚢を積み上げています)
錦着山西側付近.jpg
(錦着山の南西側に永野川の水が流入し、道路やフェンス等が破壊されている)
栃工高北側の永野川.jpg
(栃木工業高校北側の永野川河川敷内の木々に、多くの瓦礫が引っかかっている)

これまでも永野川の氾濫では、幾度となく橋の流失や洪水被害を起こしています。しかし、私の70年余の人生で経験した中では、今回はこれまでで一番大きな被害となりました。
私の高校時代は、永野川の上人橋を渡り栃木工業高校に通学していましたが、その時も台風で上人橋の一部が流失、通行する事が出来なくなりました。復旧するまでの間、下流の高橋を渡って通学した事は、今も忘れられません。
上人橋左.jpg上人橋右.jpg
(前方の橋が改修工事中の上人橋。永野川右岸の土手上の道が通学路でした)

特に私が3年間学んだ栃木工業高校が、2015年9月の豪雨被害から、やっと立ち直った矢先、今回又も被害を蒙ったとのニュースを見聞きし、何とも悔しく、つらい思いで一杯になります。
私が通っていたころの永野川流域は人家も少なく、河川敷も今の様に整備されてなく、雑木が生い茂っていましたが、永野川が氾濫して校庭に濁流が侵入して来ることなど、夢にも考えていませんでした。
1966年上人橋周辺(錦着山頂より).jpg
(私が通学していたころの永野川、上人橋付近の風景。錦着山上より撮影)
1968年撮影栃工校全景.jpg
(私が通学していたころの栃木工業高校周辺の風景。南側遊覧道路より撮影)
1975年撮影栃工校全景.jpg
(栃木工業高校全景、錦着山上より撮影。あの頃は平和だったのに)

その当時から比べれば、永野川の堤防も立派になって来ていると考えられるのですが、それが逆に被害が発生しやすくなっているのは、永野川上流域の開発に伴い、川に流入する雨水が増加した為か、もっと大きくみると、地球環境の変動によるものなのだろうか。地球温暖化により、日本近海の太平洋の海水温上昇で、日本に接近する台風がこれまでより成長、。今回の台風19号がまさにそうした背景に因るものなのか。
そう考えて行くと、このままでは同じような被害が今後も繰り返されると、考えなければならない。とんでもない事です。

永野川は巴波川の支流と言われますが、川の流域は圧倒的に永野川の方が広くて長くなっています。その上流は鹿沼市の山中深く百川渓谷まで遡ります。
今回の台風19号は、栃木県の北西側山間部に多量の雨を降らしました。その結果足尾山地の沢水を源流とする、旗川や秋山川、永野川そして思川の下流域が増水・氾濫しています。

今後の対策として、どんな事が有効なのか。これまで巴波川流域で行ってきた遊水池の確保も、その一つですが、栃木市街地の巴波川の氾濫を見ると、それも完全では無いことが今回明らかになりました。
土手の高さをもっと高くする事も考えられますが、これは流域全体を考えないと、一部高くするとその場所の前後に被害をもたらしやすくなります。昔から土手の嵩上げは利害関係が絡んで、容易な事では無いと聞いています。
まして巴波川を観光資源としている栃木の中心部は土手の嵩上げは、抵抗が有ります。それでは、宇都宮市の中心を流れる「釜川」の様に、川を二段にして、上の水位が上がったら、オーバーフローをさせて、下段の水路に逃がす構造にするか。
永野川の場合はその流域に大規模な遊水池を確保するとか。今と成っては遅いが千塚町の産業団地の様な場所は他にないのだろうか。
早急に、栃木県や栃木市そして市民の総意を結集して、河川改修を進めなければ、又、今回と同じような被害を出してしまうと恐れます。
自然の力に対抗するためには、みんなの力を結集して当たらなければ、到底かないません。


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永野川に架かる「諏訪橋」のこと [栃木市の河川と橋]

先日、東日本の多くの河川で、大きな爪跡を残した台風19号。栃木市内では大平町蔵井を流れる永野川に架かる「諏訪橋」が、増水した水の勢いで橋脚1カ所が流出、そこに架かっていた橋桁2本が水中に落ちてしまいました。
諏訪橋(2019年10月).jpg諏訪橋(2019年10月)流出.jpg
(橋桁2径間が流失した「諏訪橋」。橋長51.5m、幅員3.5m、複合橋)

この「諏訪橋」は昭和9年(1934)に架設されたもので、現在栃木市内の巴波川・永野川に架かる橋の中で3番目に古い橋と成っています。ちなみに1番古い橋は、巴波川に架かる「嘉右衛門橋」で昭和2(1927)の架設です。
嘉右衛門橋.jpg
(昭和2年架設の嘉右衛門橋。橋長13.1m、幅員5.4m、鋼橋)

2番目は同じく巴波川に架かる「倭橋」で昭和5年(1930)架設です。
倭橋.jpg
(昭和5年架設の倭橋。橋長13.6m、幅員5.2m、鉄筋コンクリート橋)

3番目の昭和9年(1934)に架設された橋は、5ヶ所に成ります。その内巴波川には「巴波川橋」とその下流の「相生橋」の2橋が残っています。
巴波川橋.jpg相生橋.jpg
(昭和9年架設の巴波川橋。橋長14m、幅員5m)(同じく相生橋。橋長14.1m、幅員5.5m)

一方永野川には、今回被害を受けた「諏訪橋」の外に「両明橋」そして「千部橋」の3橋が有りますが、3橋共大平町に成ります。
このうち「千部橋」は、前回2015年の豪雨の際に一部が流出しましたが、復旧されています。
又、「両明橋」は幸いにも2015年8月、豪雨被害が発生する前月に修繕を終えた為、被災を免れています。
千部橋.jpg両明橋.jpg
(昭和9年架設千部橋、前回流出部は補修された。)(同じく両明橋。2015年8月修繕が行われた)

巴波川の「嘉右衛門橋」など4橋が架かる場所の川幅は14メートル程度なのに対して、永野川に架かる3橋は橋長が50メートルから60メートルと長い橋でした。
したがって、今回流出した「諏訪橋」は悪条件の中一番寿命を保った橋と言うことに成ります。この古い橋が今まで残っていた要因としては、橋の幅員が3.5メートルと狭く、橋を通る市道21118号線は永野川左岸蔵井の県道蛭沼川連線を起点とし、橋を渡った右岸の橋詰までの道路で、自動車は殆ど通行せず、近くの大平中学校の生徒さん達が自転車通学するのに、現在主に利用されている橋だからでしょう。
「諏訪橋」が利用できなくなってしまった為、生徒さん達は下流の県道が通る「山下橋」を回りこむ必要が有ります。そちらは交通量が多い為、注意して通学して貰いたいです。

この「諏訪橋」は橋の中央部から左岸側は鋼橋(1径間)、右岸側は鉄筋コンクリート橋(4径間)と言う、複合橋でしたが、昭和9年架橋当初からこの様な変わった形式だったとは思われませんので、初めは両明橋などと同様の鉄筋コンクリート製の橋であったものと思われます。
諏訪橋(2015年4月).jpg
(被災前の「諏訪橋」、下流側右岸より撮影)

それが、後に今回と同様の原因で、橋の左岸側の部分が流出して、現在の様な鋼橋部分に改修されたものと思われます。それがいつごろの事か分かりませんが、私が初めて諏訪橋の写真を写した昭和57年(1982)1月には、現在の姿に成っていました。
諏訪橋57年1月.jpg
(昭和57年1月に上流から撮影した「諏訪橋」、左奥の森は蔵井の元村社諏訪神社)

今回の台風で栃木市内は甚大な被害を蒙りました。4年前の豪雨で被災した時、50年に1度と言われました。ですから今回の台風接近でも、どこか前回の様には成らないと思い込んでいました。しかし、今回の災害は100年に1度の規模だったと言う。もし来年も同様の災害が発生したら、今度は200年に1度、いや千年に1度となるのか。
このような被害を二度と起こさないために、どんな対策が必要なのか、今回の被害実態を詳しく分析して、対策を進めて頂きたいと願うばかりです。
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たった4年で50年に1度クラスの災害が再発、栃木市の巴波川 [栃木市の河川と橋]

昨夜は、台風が通過するまで不安で深夜まで、家の脇を流れる清水川の水位を注視していました。
清水川は巴波川の支流で、幅約2メートル護岸の高さ約1メートル弱のU字型のコンクリート製の水路です。
清水川.jpg
(箱森町から柳橋町へと流れる清水川、両岸には水田が残っています)

普段は水深は5センチメートルにもなりません。初夏にはカルガモの親子が歩いて行き来する風景も見られます。
カルガモ1.jpgカルガモ2.jpg
(今もカルガモの親子が散歩する姿が見られる)

その水路が、2015年9月10日の豪雨では、私がここに居を構えて初めて水位が護岸を越えて溢れました。幸い家の対岸は水田が残っている為、水路から溢れた水はそちら側に流出する為、我家には被害は有りませんでした。
2015年9月1.jpg2015年9月2.jpg
(2015年9月10日の豪雨で水田に溢れた清水川)

ですが、今回の台風16号は超大型でこれまでに無い雨や風が発生するとの情報で、事前の対策の必要性が叫ばれていました。我家でも、家の中に飛ばされそうな物は回収、非常食、車のガソリンは満タンに等々、対策を打って台風の通過するまで、家の中で待機していました。
雨が次第に強くなり、清水川の水位も徐々に増してきました。
台風の通過予定は、夜の9時頃から日付けが変わる頃との予報で、テレビニュースが伝える各地の様子を見ながら、万が一の事を色々想定、雨戸は閉めたが2階の出窓が風で飛ばされてきた物でガラスが割れたら、その時はどうするかとか。
夕方を過ぎて次第に辺りが暗くなって、清水川の水位を観察するのが難しくなる。まだ10センチメートルの余裕が、いや、後10センチメートルで溢れてしまう。これ以上水位が上がらない様に願う。水量が増えると共に流れも激しくなって来たように思える。
テレビニュースの台風の現在地が気になる。思う様に進んでいない。まだ伊豆半島あたりだ。
突然テレビの画面が暗くなった。停電に成ってしまいました。すぐに用意した懐中電灯を使う。電気が使えなくなると不安が一層増してくる。こんな状態が何時間も続いたらと不安になる。前回の15号台風で被害に会われ何日も停電の中で過ごした千葉県の被災者の皆さんのご苦労が改めて大変な事で合ったとつくづく思い知らされました。
清水川の水位を雨戸を少し開けて確認する。雨が吹き込んでくる。外はすっかり暗くなって川面がハッキリ確認できない。
停電が解消されたので、テレビニュースで情報収集。栃木市の避難勧告が出ている。ここは土砂災害警戒区域には成っていない。巴波川・永野川流域の浸水想定区域にも指定されていない。4年前も何んとか被災を免れている。このまま家で待機する。
深夜近くなると、風はまだ吹いているが、雨は止んで少し静かになった。注意して外に出て、懐中電灯で家の周りを点検。清水川はすでに溢れて対岸の水田も、我家の脇の青地もすべて川の様にゴウゴウと水が勢いよく流れている。まるで幅40メートルも有る川が出現したように見える。これは4年前の豪雨の時よりも悪い状況に思えた。この状態が更に悪くなるのか、これで収まるのかまだ予断を許さない。

日付けが変わって10月13日、午前1時頃もう一度状況把握に外に出てみた。
清水川はどうなったか。暗闇の中懐中電灯の光の先に、ゴウゴウと波立って流れる景色は変わっていない。
水位は下がっていないが、増加もしていない。雨もあれから降っていないので、これ以上悪くならないだろうと判断した。

気が付いたら朝を向かていた。青空と太陽の光が見えた。すぐさま清水川の様子を見に行く。
対岸の水田は、稲刈りの後で水を蓄えて、まるで田植えを終えた様な風景が広がっています。
水路もすっかり水位を下げていました。ただ濁った水が勢いよく水路の中を流れています。
清水川(今日)2.jpg清水川(今日).jpg
(深夜溢れた清水川も朝には半分ほどに。稲刈り後の田圃はまるで田植え後の様に)

昨夜のニュースで巴波川は小平町で水が溢れ出ている。と言っていた。4年前の豪雨と同じ状況なのか。
又、永野川では下皆川で越流が発生しているとの情報も。
翁島脇を流れる巴波川.jpg沖の橋上流側.jpg
(水が溢れて流出した、小平町翁島付近の今朝の様子、まだ大量に水が流れていました)

今朝のニュースではその状況が更に悪化して。死者が出てしまった所も。永野川の諏訪橋(大平町蔵井)が流失。その他各地で道路が冠水して通行が出来ない所が多発、交通渋滞が起きていると言う。
更に、浄水場が機能停止して、栃木市・大平町の一部で断水が発生しているという情報も出た。

なぜ、こんな被害が、改めて自然の計り知れない力に、脅威を感じるばかり。

栃木の街は昔から毎年のように、洪水の被害に見舞われていました。その様子は栃木市室町の片岡写真館第二代館主、片岡武氏がその命を懸けて記録した多数の写真で知る事が出来ます。
それを昭和26年、栃木街に流れ込んでいた赤津川の流路を変更して、吹上町新田橋付近より南流させ、錦着山北西部にて永野川に落とす赤津川分水路工事が竣工して以降は、以前の様な洪水の発生は無くなったと言います。実際、私が物心付いてから、4年前の大洪水が起きるまで、洪水被害を感じた経験は一度も有りませんでした。
それが僅か4年で再発するとは、正直言って考えられませんでした。
この間、巴波川の上流域には、新しい遊水池も完成して、巴波川の水位が上がった時には、越流堤から遊水池に水を溜める様に対策を進めて来ています。
今朝、これらの遊水池を見て回りましたが、それらの遊水池には水はそれほど溜まっていません。深夜には恐らく満々と水を蓄えていたと思われます。下流側への水の流出量を一時的に減少させる効果は出ていると思われますが、下流側栃木の街は多くの道路が冠水、商店街は軒並み店内に水が流れ込んでしまいました。
第4遊水地.jpg第4遊水地2.jpg
(第4遊水池、中央に越流堤、右が巴波川)    (第4遊水池を上流方向から)
第六遊水地1.jpg第六遊水地2.jpg
(第6遊水池、下流側から)            (第6遊水池、上流側から)

今回の様に長時間雨が降り続けると、こうした洪水は防ぐことが出来ないのか。まだほかに対策する方法は無いのか。素人の私には考えが及びません。


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太平山神社表参道(通称あじさい坂)登り口脇に建つ石碑 [石碑]

栃木県立自然公園のひとつ、太平山(おおひらさん)自然公園は栃木市域のほぼ中央に位置する、標高341メートルの太平山を中心とした自然公園ですが、その山上に鎮座する太平山神社の表参道登り口(通称あじさい坂)の道路脇に建つ石碑を調べました。
石碑全景.jpgあじさい坂登り口.jpg
(太平山あじさい坂登り口左脇に建つ石碑) (あじさい坂登り口、今は緑が溢れています)

石碑後方にビッシリと並ぶ赤い幟旗は、通称六角堂として知られる太平山連祥院(たいへいざん れんしょういん)に奉納されたものです。
六角堂.jpg
(六角堂、堂内にはご本尊の虚空蔵菩薩や愛染明王像、不動明王像が安置されています)

石碑の近くに寄ってまず上部の篆額を確認します。
「故田村代議士記念碑」と陽刻されています。この題字を書かれたのは碑文最後、日付け「昭和二十七年四月十五日」の下に、「衆議院議長 林譲治 篆額」と刻されています。
「林 譲治」という人物は、高知県宿毛町出身の政治家で、この石碑を建てた当時第41代の衆議院議長(昭和26年3月13日~昭和27年8月1日)を務めていました。
碑文は紀念碑建設委員会の撰文。書は「臨江閣主 片柳香遠 敬書」と文末に記されています。

篆額.jpg碑面拡大.jpg
(石碑上部篆額、「故田村代議士記念碑」)  (碑文部分拡大写真、漢字とカタカナの文章)

碑陰を確認してみると、石碑の上半分程に「寄附者芳名」として、寄附金額と寄附者の役職・名前がずらっと並んで刻されています。又、下半分には「建設委員」の役職・名前が同様にずらっと並んでいます。
そして、石碑左下部分に大きな文字サイズで、「建設委員長 撰文起草者 松永和一郎」と、副委員長2名の名前が刻されています。
この「松永和一郎」という人物は、小野寺村(現栃木市)出身の政治家で、大正9年10月から大正12年9月まで県会議長を務めています。
碑文を書いた「片柳香遠」という人物に付いて、「臨江閣主」と石碑に刻されていますが、「臨江閣」をウィキペディアで検索すると、≪臨江閣(りんこうかく)は、群馬県前橋市大手町にある、近代和風建築の迎賓施設。本館、別館、茶室は国の重要文化財に指定されている。≫と、記されています。
「閣主」と言えば、そこの主(あるじ)と言うことに成るのでしょうが、「臨江閣」が当初群馬県の迎賓館との位置づけで、市内の有志らの協力と募金で建てられた公館とすれば、その館主役を担っていた人物だったのか、ハッキリしません。
昭和39年11月1日号の「とちぎ市政だより」の記事の中に、この「片柳香遠」と言う名前が有りました。
記事のタイトルは「歳末たすけあい運動第一号」・「趣味の揮毫展示会」と言うもので、栃木市文化協会と公民館との共催で、市内に住んでいる絵画、書道、文芸等の同好家約四十名が、色紙や短冊に揮毫し、これを展示即売して、その益金を歳末たすけあい運動に寄附するという中に、書道家のひとりに「片柳香遠」さんの名前が出ていました。

さて、肝心のこの石碑に記された「田村代議士」という人物に付いて、碑文を読んで行くことにします。
建立が昭和27年(1952)と言うことで、私が生まれた時より後に建てられた、若い石碑ですから、まだ風化も少なく文字はハッキリと読むことが出来ました。漢字とカタカナの送りで読むのも違和感が有りませんでしたが、文中に見慣れない漢字が何カ所かありました。
色々と調べて行くうちに、「口編に人」と言う字が「以」であることや、国構えの中にカタカナの「イ」が2個並んで入っている文字が「四」であることが、やっと解明出来たりと、手こずりました。それでもまだ読み解けない文字や雑草に隠れて見えない部分等が残りましたが、碑文の内容は解明できました。
以下に碑文と碑陰の内容を読み移した結果を添付します。
碑文はカタカナ部分はひらがなに変え、解明した繁体字などは新字体とした。又、碑陰については、寄附金額については削除しました。

碑文読み写し.jpg碑陰読み写し.jpg
(碑文を読み移しました)            (碑陰、寄附金額欄は削除しています)

石碑の人物「田村順之助」は、安政5年(1858)8月17日に栃木県下都賀郡水代村、田村政七の長男として生まれました。
藤森天山や松本暢に学ぶと有りますが、天山は文久2年(1862)10月8日に亡くなっていますので、その時順之助はまだ4歳の子供でしたから、松本暢から多くを学んだものと考えます。
松本暢や川連虎一郎は大平町出身の勤王の志士ですが、ともに藤森弘庵(天山)の門人でした。
こうして熱烈なる自由民権信奉者となり、明治17年(1884)加波山事件に連座して投獄されています。出獄後は栃木県議会議員に当選、明治23年11月から明治25年3月まで副議長として県政の刷新振興に尽くされました。
明治25年以来衆議院議員に当選12回、在職通算25年の長きにわたって国政に参画しています。
昭和14年1月19日、81歳で亡くなられていますが、その晩年は家政を顧みる事も無く政治活動に没頭していたため、資産を使い果たし酷い貧乏の身となり、更に配偶者や子供に先立たれ、全く孤独の身となられ寂しく他界された様子が、碑文に刻されています。

碑陰に刻された建設副委員長の一人、「田村恭助」氏は田村順之助の本家筋の人物で、父親はビール醸造用大麦の国内需給をはかり、栃木県のビール麦生産量のシェアを全国トップクラスの基礎を築いた、田村律之助で、田村恭助氏は石碑建立当時水代村村長を務めていました。
尚、この太平山あじさい坂の中間点辺りには、田村律之助の胸像も建てられています。
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(太平山あじさい坂の途中に建てられた、田村律之助の胸像)

今回参考にさせて頂いた資料は、「大平町誌」(発行大平町)、「栃木人 明治・大正・昭和に活躍した人びとたち」(石崎常蔵著)、「とちぎの天台の寺めぐり」(天台宗栃木教区宗務所編)、「ウイキペディア」、「とちぎ市政だより」です。
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我家のライフラインでトラブルが続発

今月上旬の暑い日中に突然ルームエアコンが停止をしました、何故か我家だけが停電に成ってしまったのです。両隣の家は停電していない事が分かった為、直ぐに東京電力に連絡をして、その日の内に無事に復旧する事が出来ました。お陰で暑く暗い夜を迎えずに済みましたが。原因は電柱から我家への引き込み線でのトラブルでした。
ライフラインのトラブルは更に続きました。今から10日程前のことです。我家の前の道路(私道)で不思議な現象が確認されたのです。
雨が降っていないのに、道路の一部が濡れて水溜まりが出来ているのです。
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(我家の前の道路の一部に水溜まりが出来ています。)

周辺の道路を見渡しても濡れている様子は認められません。原因が分からず暫らく様子を見る事にしましたが、翌朝確認すると濡れてる範囲が広がっていました。夜中に雨が降った形跡は有りません。他の場所は濡れてもいません。
しかし午後になると、水濡れの範囲が小さくなっていました。
13日8時40分.jpg13日11時50分.jpg
(朝8時の様子)    (昼ごろの様子、濡れの範囲が小さくなっています)

そのまま解消するかと又、翌朝確認してみると再び水濡れの範囲が大きく広がっていました。
何処からか水が漏れているのではと、市の水道管理の担当部署に連絡をすると、直ぐに担当の職員の方が来てくれました。
状況を説明すると早速、調べてくれました。まず水溜まりの水を採って試薬の様な物を加えて、水の色の変化を見たのか、「塩素が確認されましたので、水道水です。水道管から漏れが発生している様です。」との事。次に何やら計測器を取り出し、ヘッドホンを耳に当て、地面にまるで聴診器を当てるようにして、地中からの水漏れ音を聞いているようです。水溜まりに成っている所を中心に、その周辺を確認してから、ここが音が一番出ているとして、その所に水色のスプレーで×印を付けました。
直ぐに工事業者に連絡します。と言って帰られました。
その後すぐに、連絡を受けたとして工事業者の方が来られ、工事の日程を調整、4日後となりました。
その間、漏れがもっと酷くなって、吹き上げて来るのではと心配、毎日路面の水濡れを注視していました。
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(確認翌日の朝、広がってます)(昼ごろの様子) (夕方の様子)    

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(翌日の朝はまたまた広がっています)(前日同様昼から午後にかけて濡れ範囲は小さく)
水濡れの範囲が変化するのは、昼間は気温が上昇する為、蒸発量が水漏れ量より勝ってくる為と理解できました。

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(工事予定日の朝、水濡れの範囲は確実に広くなって来ています)

予定通りに朝9時より工事が行われ、午後には終了、無事問題は解決しました。
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(水道管水漏れ復旧工事の様子)

原因は水道管が損傷して水漏れに成ったとの事。水道管は地面から1メートルの深さに埋設されて居るので、工事は私が思っていたより時間が掛かっていましたが、漏れ箇所がたまたま我家の引き込み部より下流側だったので、家の水道は止まらずに工事は完了しました、もちろん下流側の家では一時断水しましたが。
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(工事の後、路面の水溜まり、濡れ現象は無くなりました)

この場所に家を建てて30年以上になります。昨年は床下の温水配管が水漏れして修理しなければなりませんでした。この時は水道の検針員さんから異常を教えて頂き早めに処置できました。いよいよあちらこちら老朽化が進んで故障が出始めた様です。
今後ますますメンテナンスが必要になって来そうです。(人間も同様です。)

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日光田母沢御用邸記念公園から二荒山神社・東照宮を巡る [歩く]

一昨日、「歴史と文化を歩く会-栃木-」9月例会で日光市を訪れ、田母沢御用邸記念公園から二荒山神社そして東照宮などを歩いて巡りました。
東武日光線の電車で日光を訪れるのは5年ぶりに成ります。いつもは車で奥日光へ行く為に、日光の市街地は素通りする事が多くなっています。
まずは、駅前のバス乗り場から「中禅寺温泉行」のバスに乗って、田母沢御用邸記念公園へ。バスの中は外国人観光客の人達で結構混雑をしていました。さすがにユネスコ世界文化遺産の日光です。
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(東武日光駅前バスターミナルから)     (田母沢御用邸のお車寄から建物内に入る)

田母沢御用邸記念公園(平成15年に国の重要文化財に指定されています)を訪れるのは私は今回初めてです。前から来たかった所です。65歳以上は入園料が無料との事、徳をした感じになりました。建物の入口で背負っているリュックを預け、カメラと案内パンフレットだけを持って見学開始です。
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(御用邸の中庭)                 (御玉突所)
この御用邸には部屋数が106室も有ると言います。全てが公開されているわけで有りませんが、それでも一部屋一部屋をジックリ見学していたら、時間がいくら有っても足りません。
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(謁見所 玉座が据えられています)    (御学問所の丸窓)

絨毯の柄、照明器具のデザイン、襖や杉戸に描かれている絵、そして「釘隠し」や「襖引手」などの錺金物の細工など時間を忘れて見入ってしまいます。
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(御用邸の周囲は緑が溢れていて、心が静まる思いです)

後の予定も有り1時間ほど見学して、御用邸記念公園を出て、道路を渡った先に有る「釈迦堂」を見学することに。釈迦堂への参道入口脇に「殉死之墓」と刻した標柱が建てられています。
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(釈迦堂表門にて)           (釈迦堂 素朴な味わいが感じられます)

参道を進むと表門の手前に「釈迦堂」の説明板が有りました。冒頭部分を抜粋します。
≪釈迦堂【栃木県指定有形文化財】 この釈迦堂はもと「妙道院」の本堂で、以前は境内に数多くの建造物が有りました。元来、妙道院は天海大僧正が寛永5年(1628)に仏岩谷に創建し山内の菩提寺としていたものを寛永17年(1640)、現在地に移建したものです。妙道院自体は明治の神仏分離の際に途絶えました。≫

釈迦堂に向かって左手横を回りこんで奥に進むと、苔むした多くの石仏と、大きな卵塔が数多く並んでいます。更にその奥へ進んでいくと石造りの柵に囲まれた中に、高さが3メートルを超し、厚さが30センチメートル程有る巨大な墓碑が幾つも並んで建てられています。
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(釈迦堂本堂西側には苔むした石仏が)  (徳川家光の殉死者の墓碑が並ぶ)

「史跡 釈迦堂殉死の墓及び譜代家臣の墓」と刻した標柱が建てられていました。これらの墓碑は、徳川三代将軍家光の殉死者5名と、初代家康及び二代将軍秀忠の譜代家臣19名のものです。
釈迦堂の境内の中は、何か時間が止まっている様な静寂感が有りました。

釈迦堂を後にして次に向かった所は、田母沢御用邸記念公園の東側に広がる古い街並みを歩きました。
ここは、西町地区と称する地域で、本町・匠町・安川町・花石町・久次良町が含まれます。今回散策した通りは「御用邸前通り」と称する道を中心に歩きました。
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(連子格子の家)                 (道路拡張の為に庇切りされた家)

この通りは、田母沢御用邸の正門に通ずる通りで有った。御用邸が整備された時に、この西町地区も整備が行われ、碁盤の目の様に街並みが出来上がっています。時には京都の街を歩いている様な雰囲気も感じられました。西から東に下り坂と成っている町を、下ったり登ったり、通りを変えて歩き浄光寺に。
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(浄光寺入口、手洗盥の龍)          (推定樹齢550年の檜)

日限地蔵尊の信仰篤い「還源山 妙覺院 淨光寺」は≪古くは日光一山の香華院(菩提寺)で仏岩にあった往生院と、光明院座主(現在の輪王寺の前身)延応2年(1240)創立の淨光坊が、寛永17年(1640)に合併して現在の地に移転し、淨光寺と号するようになった。≫(「とちぎの天台の寺めぐり」天台宗栃木教区宗務所編 下野新聞社発行を参考抜粋させて頂きました。)
境内には「日光山最古の梵鐘」など多くの寺宝や文化財が有り、もっと時間をかけて見学をさせて頂きたく思いました。

浄光寺を出て目の前の道を真っ直ぐ東に有る「磐裂神社」まで歩きます。この通りに沿って流れる水路の脇に、丸い石升の簡易水道が設置されています。水源は上流に有る湧水で、蛇口からは冷たい水が噴き出していました。
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(石升の簡易水道が有る通りを歩く) (石升の吐出口の栓を抜くと冷たい水が噴き出す)

次に向かったのは、下野国一之宮「日光二荒山(ふたらさん)神社」です。
「御鎮座由緒」について、神社社務所発行の「ふたらさん」より抜粋させて頂くと、≪二荒山神社は男体山(古く二荒山という)を御神体山として奈良時代に奉祠されたお社です。「奥宮」は天応二年(782)に創建され、その二年後に「中宮祠」が中禅寺湖畔に創建されました。≫という、由緒深い神社に成ります。

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(社号標柱)                      (大鳥居)
こちらも見どころが多すぎて、時間がいくら有っても足りそうも有りませんが、神社の方に案内して貰い、説明を聞くことが出来ました。現在本殿(八棟造り)世界文化遺産は修復工事の真っ最中との事で、工事の様子も少し見学することが出来ました。

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(日光二荒山神社拝殿:重要文化財)
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(二荒霊泉)                      (遥拝所)

昼食もそこそこににして、東照宮に向かいました。
境内には外国人観光客や修学旅行でしょうか、黄色い帽子を被った小学生の団体が何組も、案内人の説明をメモしたり、陽明門をバックにクラス毎に記念写真を撮ったりしていました。
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(石鳥居:重要文化財)                (五重塔:重要文化財)

東照宮を訪れたのは、今から50年以上も前の事です。
石鳥居(1968年).jpg東照宮にて(1968年5月).jpg
(50年以上前に撮影した日光東照宮の風景)

陽明門や神厩舎など最近修復が完了したところなので、復活した極彩色の姿を堪能する事が出来ました。かつて訪れた際は、モノクロフィルム36枚撮りを1本使うことも無かったのに、今回東照宮だけでシャッターを200回以上押しました。ともかく修復された東照宮は見るものすべてが、まぶしく輝いていました。

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(神厩舎・三猿:重要文化財)            (陽明門:国宝)
眠り猫.jpg奥社宝塔.jpg
(眠り猫:国宝)                        (徳川家康公の墓所:重要文化財)

奥宮(祭神、徳川家康公の墓所)への石段は登りは疲れて休み休みでした、改めて体の衰えを思い知らされましたし。そんな石段を駆け下りて行く小学生を見ていて、足を踏み外したら下まで転がり落ちて大怪我をしてしまうのにと、心配になりました。身軽な子供たちはそれでも石段を飛び下りるように、私の横をすり抜けて行きました。

しばらくすると少し雲行きが怪しくなって来たので、急いで東武日光駅に戻って行きました。
今回は世界文化遺産の有る町、日光を歩き、国宝や重要文化財を生で鑑賞し、改めて日光の素晴らしさを感じた一日となりました。
今回の総歩数は19,400歩でした。
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「帝室技藝員畫伯草雲田崎翁墓」が建つ西方町真名子、梅樹谷(真上) [石碑]

栃木市の北域、西方町真名子に真上と称する地区が有ります。
この「真上」と言う地区は、真名子の一番西の端、赤津川の支流で都賀町大柿の中央を西から東に流れる逆川を遡っていき、都賀町大柿北西域の野上を抜けた北隣に当たります。
都賀町と西方町との境界点から、300メートル程北上すると、分岐が現れます。ここまで走って来た道路は市道1009号線、この分岐を右に曲がって行く方が市道1009号線となり、この分岐から更に直進する道路は市道2006号線となります。先月8月20日に「栃木市道1009号線、都賀町大柿中郷に建つ石碑」と題したブログにて、この市道2006号線は山に向かって登って行くと砕石工場に行き当たり、その先は工場の私有地に入って行く雰囲気で、道路が行き止まりの様に書きましたが、それに対してそのブログを読んで下さった方からコメントが有り、この道路その先も有り工場を抜けると更に林道が続き、最終的には鹿沼市立粟野中学校付近で、県道17号(鹿沼足尾線)に行き着くようで、実際にその道路を走られた写真を載せたブログを教えて頂きました。ただその様子は道路上に倒木や落石の跡などが見られ、簡単には通過できない感じです。そのブログを書いた方は自転車でその林道を踏破した様で、なかなかの冒険家と言った感じが覗われました。
話を戻します、その市道2006号線を1200メートル程進んだ道脇に一本の木製の道標が建てられています。ただ表記がかすれてしまいハッキリ読み取ることが出来ません。車を止めてよく確認すると、「田崎草雲墓地」と書かれています。
道標.jpg墓地への道.jpg
(墓地入口道路脇に建つ標柱) (墓地は逆川に架かった橋を渡った先を右へ)

車を道路の脇に寄せて止め、見学する事にします。
田崎草雲の墓地は道路脇を並行して流れている逆川に架かる小さな橋を渡った先を右手の坂道を登った所に有るようです。橋を渡った所に墓地への道案内と「草雲先生について」と題した、西方村教育委員会と西方村文化財保護委員会とが、昭和五十九年九月十九日に建てた案内板が有りました。
案内標識.jpg早雲先生の説明板.jpg
(橋を渡った前方に建てられた案内表示)   (「草雲先生について」の説明板も)

そこから坂を少し登ると前方に数基の墓石が目に入ってきます。が、その手前に道路を遮る3本の細い電線が有ります。この周辺はシカやイノシシそしてクマなどの出没で、田畑が荒らされる為、多くの田畑の周囲には電気を流した電気柵が設置されています。
ここから先に進めません、あきらめて道路まで戻った時、近くの畑で雑草を草刈り機で刈ってる人が見えたので、声を掛けて「電気柵で田崎草雲の墓まで行くことが出来ない」事を話すと、電線にフックが有るからそれを外して通ることが出来ると教えて頂けました。
確かに電線に取っ手が付いていて、そこを持ってフックを外すことが出来ました。無事に電気柵を抜けて墓地の元へ。
入口の電気柵.jpg田崎早雲墓地.jpg
(墓地への道を遮る電気柵)         (田崎草雲墓地の標柱の後ろが田崎翁の墓)

「西方村指定史跡 田崎草雲墓地」と記した標柱の奥に、「帝室技藝員畫伯草雲田崎翁墓」と大きく陰刻された墓石が有りました。  

私が「田崎草雲」の存在を知ったのは、今から45年前に遡ります。昭和49年(1974)4月に足利市を訪れ「足利学校」や「鑁阿寺」などと共に「草雲美術館」を見学した時です。
早雲美術館1.jpg早雲美術館(1974年4月).jpg
(「足利市草雲美術館」1974年4月撮影)

そしてその後、市内の書店で「画聖田崎草雲」と題する荒川敏雄著(アポロン社)を見つけ購入蔵書としました。今回改めて読み直し、田崎草雲の生涯を追いました。
そしてなぜ足利を中心に活躍した人物の墓が、この真名子の山奥に有るのか納得できました。その部分を抜粋させていただきます。
≪少年のころ父常蔵に一度連れて行かれたことのある野州真名子(現在の栃木県上都賀郡西方村真名子)の羽山家を訪ねた。草雲の祖父は羽山家から江戸の田崎家へムコ養子に入り足利藩に仕えた。つまり羽山家は草雲の宗家であった。≫この本が発行されたのは昭和47年5月20日ですが、現在「野州真名子」は栃木市西方町真名子と変わっています。
田崎草雲20歳から21歳の事でした。13歳の時に母親が亡くなり、継母との間には溝が深まって行った。17歳で花鳥画で頭角を現し、18歳の時「草雲」と改名、両刀を捨てて画道に生きる事を決意した。ついに20歳の夏敢然として脱藩し、ひとり遊歴の旅に出た。その頃のことに成ります。

墓地入口に建てられた「草雲先生について」の文中、≪先生は恩義ある真名子をこよなく愛し梅樹谷(真上)に幾度か足を運び家族と談笑し往時を追懐したり、後年足利の白石山房にて多くの門人を育成し明治31年9月1日84歳をもって永眠さる。遺言により此の地梅樹谷に分骨し墓碑を建立し之を祀る≫と、記されています。

田崎草雲翁の墓碑は祖父の出身である、羽山家の墓地の向かって右隣に建てられています。
再び荒川敏雄著「画聖田崎草雲」の「病床日誌」より、≪明治31年(1898)7月10日、真名子村の羽山謙吉氏来房、翁、川島平五郎氏ら三名で、翁の先祖の墓碑建立を相談す。碑銘は次の通り。
  聴真院釈蓮居士     文化九季壬申正月十日  田崎甚内
  能生院釈尼妙蓮大姉  文化二季亡卯六月七日  同   妻
             明治三十一年季成戌七月  田崎 芸 建之 ≫ 

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(田崎草雲翁の墓碑)              (草雲建之の先祖の墓碑)

栃木市の北域、梅樹谷(真上)にひっそりと建つ画聖田崎草雲翁とその先祖の墓碑でした。
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旧栃木町役場庁舎の改修工事が進んでいます。 [建物]

今日、旧栃木町役場庁舎改修工事見学会に参加して来ました。

「旧栃木町役場庁舎」は、明治の初期に栃木県庁庁舎が初めて建設された跡地となる、「旧県庁堀」内の南東角地部分に、大正9年4月に起工し、大正10年11月に竣功しました。
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(旧栃木町役場庁舎、背の高い木は「ヒマラヤ杉」樹齢は推定90年程か)

設計は町の技師をしていた堀井寅吉氏。木造2階建、塔屋付の洋風建築に成ります。最初の建物の設計図を銅版エッチングしたものが掲示されています。そこには建物の「北面」と「東面」の外観図や、1階と2階のフロアー図、そして建築工事概要などが記されており、初期の建物の様子がつぶさに知る事が出来ます。
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(正面玄関左脇に設置された「栃木町役場庁舎設計図」の銅版エッチング)

栃木市では平成31年(2019)3月より建物の改修工事に着手しています。
改修工事の内容については、①建築当時の姿に復原する事。但し当初西側に付随していた建物は除く。②可逆性の確保。これは耐震性の確保等の補強材を鉄骨等で加えるが、元の建物にあえて溶け込ませないで、補強の為当初には無い構造物とハッキリ判別できるようにし、将来更に良い工法で補強が可能になった時は、追加補強を撤去することが出来る様にしておくこと。③誰もが安心して利用できる建物として改修(バリアフリー対策)の3つが工事に際しての基本方針(見学会配布資料より参照)
建築中の写真.jpg棟札に記された上棟式参加者名.jpg
(見学会会場に掲示された建築当時の様子の写真と上棟式日付や関係者名を記した棟札)

改修工事は令和3年(2021)1月までの工期を予定しています。現在は、1階の床や天井を解体し、基礎工事の準備中とのことです。
本日の見学会は市内でも珍しい大正時代の洋館の、改修中しか見る事が出来ない、床下や木組みなどを直接見る事が出来るチャンスと言うので、参加申し込みをしました。

私は栃木第二小学校(現、栃木中央小学校)で子供時代を過ごしました。大人になってからもこの「旧栃木町役場庁舎」は、とても好きな建物で、四季折々写真に収めてきました。
1994年6月15日撮影栃二小屋上より.jpg
(1994年6月、栃木第二小学校(現、栃木中央小学校)の屋上より撮影)
旧栃木町役場庁舎2.jpg1974年6月旧栃木町庁舎.jpg
(2019年9月、旧県庁堀漕渠より)  (1974年6月撮影、ヒマラヤ杉はまだ低かった)
旧栃木町役場庁舎(2013年7月撮影).jpg
(2013年7月撮影、栃木市役所別館として利用されている頃)
枝垂れ桜と2019年4月.jpg2000年頃旧栃木町庁舎.jpg
(2019年4月撮影、東側の枝垂れ桜) (2010年頃撮影、コブシの木はすでに伐採)

午前10時集合で、参加者が集まってきました。大型台風が近づいて来ている為、天候が気になりましたが、台風前で気温が上昇、日差しがきつく、建物の陰に入って待ちました。
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(改修工事の為、周囲に仮囲いが設置されています。)

見学会の始めに栃木市教育委員会事務局文化課の担当者さんから説明を聞いて、改修工事現場での見学開始となりました。
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(改修工事見学会の担当職員さんと参加者たち、ヘルメットを被って見学しました。)

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(入口から入って所定の見学場所から。床や天井が撤去された内部)

天井の太い梁1.jpg天井の太い梁2.jpg
(天井部分には太い梁が見えます) (梁は2本の柱をボルトで繋いだ合せ梁に成っています)
梁の材料は国産材では無くて、北米産の米松との事。寒い地方の木材の為硬い材料である。
梁の長さは、当時の荷車や船で輸送している為、短く途中で継いで使用して有るのが確認出来ました。

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(床下基礎部分、大谷石が積まれています)

基礎部分(内観).jpg基礎部分(外観).jpg
(床下換気の目的で取り付けられた基礎部分の換気口。外観は綺麗に形成されています)

天井裏の構造.jpg天井部分.jpg
(天井裏の木組み構造が見られます)     (天井が有った時の風景です)

旧栃木町役場庁舎(2010年6月撮影).jpg東側増築部解体撤去.jpg
(建屋東側の増築部分)     (改修で建築当初に戻す為、増築部は解体撤去されました)
昭和12年~13年頃、栃木市制が施行された当時に増築された東側の建屋は、今回大正10年の建築当時に戻す為、解体撤去されました。その脇に有った枝垂れ桜は今のまま残される様です。
尚、ヒマラヤ杉はドンドン大きく高く成長しているので、少し心配です。写真で撮影しても建屋がだんだん隠れる様に成ってきています。少しダイエットさせられれば良いのではと思います。
見学会場では色々と説明が有り、大変勉強になりました。

令和4年度(2022)には生まれ変わった建物を見る事が出来ます。その時が今から楽しみです。

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