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琵琶塚古墳が造られた当時の姿を見せる。

今年の3月の末に、小山市にある琵琶塚古墳を訪れました。そして驚きました。
古墳の景色が以前の雰囲気から、全く変わっていたからです。
先ずその時の写真を紹介いたします。
2022年3月23日琵琶塚古墳.jpg
撮影日は、2022年3月23日です。
何をそのように驚くことが有るのか、当然この写真だけでは分かりませんので、3年前に訪れた時に、撮影した写真を紹介します。
2019年5月16日琵琶塚古墳.jpg
撮影日は、2019年5月16日です。
古墳の上や周辺に高く伸びた木立が、全て伐採撤去されて、残されたものは後円墳部の頂上に祀られている石の祠だけ、ポツンと建っている風景です。

琵琶塚古墳は、栃木県南部、小山市飯塚地区に6世紀前葉に築かれた、栃木県最大級の前方後円墳です。思川と姿川との合流点に臨む飯塚地区には、飯塚古墳群として100基以上の古墳が、南北1.5km、東西0.4kmの範囲に分布している地域が有りますが、その東側に摩利支天塚古墳と共に、ふたつ大きな前方後円墳の姿を見せています。
琵琶塚古墳案内板.jpg
上の写真は、琵琶塚古墳の南西部に建つ古墳の説明板です。
それによると、この琵琶塚古墳は大正15年2月24日に国史跡に指定されています。
  墳 形 前方後円墳  全長約123m
  前方部 幅約70m  高さ約9m
  後円部 直径約75m 高さ約11m  
墳丘は、自然地形の地ぶくれを利用して基壇を設け、さらに2段の土盛をすることによって構築されています。また、墳丘のまわりには幅およそ20mの壮大な周湟が存在しており、調査の結果、東側と南側では二重にめぐらされていることがわかりました。

平成25年から29年にかけて史跡整備のための発掘調査が実施されました。
2016年2月18日琵琶塚古墳.jpg
発掘作業風景1.jpg発掘作業風景2.jpg
2016年2月18日撮影 発掘作業時の様子。

その結果、前方部が2段・後円部が3段に築造され、少なくとも墳丘上に二重の埴輪列を有すると共に、周堤上にも埴輪列が設けられていたことが分かりました。特に、前方部側の周堤跡付近から多くの形象埴輪が出土しており、周堤上に形象埴輪群が設けられていた可能性も指摘されています。

現在、この琵琶塚古墳の東側に立派な「古墳資料館」が建っています。
古墳資料館外観.jpg
2019年5月16日琵琶塚古墳の上より、「国史跡 摩利支天塚・琵琶塚古墳資料館」を写す。
古墳資料館展示室.jpg
「国史跡 摩利支天塚・琵琶塚古墳資料館」内、展示室の様子。

この琵琶塚古墳と古墳資料館の間を通過する、小山市道221号線は春には見事な桜並木となり、古墳の周りは菜の花の黄色い絨毯が広がります。
2019年4月2日琵琶塚古墳と枝垂れ桜.jpg
2019年4月2日撮影 この時はまだ杉木立は残っていました。
今年は桜のシーズンを逃してしまったので、来年は是非又来てみたいです。

今回参考にした資料:
・「国史跡 摩利支天塚・琵琶塚古墳資料館」入場時頂いたパンフレット。
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巴波川に架かる「吾妻橋」が新しく変わっていました。 [栃木市の河川と橋]

今年の4月、久しぶりに、大平町横堀の春日神社に出かけました。ここの参道の桜並木が綺麗なので見に行ったのです。その時神社の東側を流れる巴波川に架かる「吾妻橋」が、新しい橋に架け替えられているのに、驚きました。
吾妻橋遠望.jpg
上の写真は、巴波川に架かる「寿橋」から上流側を写したもので、写真奥に小さく写る、白い橋が「吾妻橋」。その右側に写る集落は、大平町北武井になります。(2022年4月9日撮影)
吾妻橋の銘板.jpg吾妻橋東橋詰より1.jpg
橋桁に設置された銘板には、「2021年3月」の日付が見えます。新しい橋は昨年完成していたようです。新しい橋には親柱は有りません。橋名や河川名のプレートは、スッキリとした高欄の四隅に設置されています。
吾妻橋東橋詰より.jpg
橋の向こう側に見える森が、春日神社の鎮守の森、そこから左方向に桜の並木が続いています。
ここからは、架け替え前の、旧吾妻橋の写真を紹介します。
吾妻橋東橋詰より2.jpg
橋の東詰から撮影。親柱の橋名プレートに「吾妻橋」の文字が読み取れます。奥に春日神社の参道の桜と鎮守の森が見えます。(2016年4月10日撮影)

吾妻橋西橋詰より.jpg
上の旧吾妻橋の写真は、橋西詰から撮影したもの、対岸は大平町北武井です。
橋の長さは38.6m、幅員は3.8mと狭かったです。竣工したのは昭和14年(1939)1月でした。その前はおそらく木の橋が架けられていたのでしょう。
この場所(横堀と北武井とを渡すルート)に橋が架けられたのは、巴波川の橋では比較的早くから架橋されています。明治19年発行の迅速測圖にも、ここに橋記号が描かれています。
この場所より上流側には、旧古河道に架かる「開明橋」まで、橋記号は確認できません。
吾妻橋東橋詰より3.jpg
上の旧吾妻橋の写真は、東橋詰から撮影したもので、背景に太平の山並みが見えます。手前、春日神社の赤い鳥居の前に、祭礼の幟旗が見えています。

旧吾妻橋遠望.jpg
上の写真は旧吾妻橋を上流側から遠望したものです。昔の橋は径間を長く取れなかったため、橋脚が沢山必要になりました。それに対し新しく架けられた「吾妻橋」は、橋脚は川の中ほどに一ヶ所だけです。写真左手後方に写る、茶褐色の桁を持つ橋は「寿橋」です。寿橋は昭和48年(1973)3月に架橋されています。

最後に、その時一緒に撮影した春日神社参道の桜並木の写真を紹介します。
(2016年4月6日撮影)
春日神社参道入口.jpg
春日神社桜の参道.jpg

今回参考にした資料:
明治前期測量2万分1フランス式色彩地図、(財)日本地図センター発行
「栃木町」「榎本村」「中里村・伯仲村」
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栃木市内で見つけた橋供養塔 [石碑]

栃木市内に架かる橋を見て回ると、よく橋の近くに石碑が建てられているのを見ます。
その多くは、橋を架けた記念としての「竣工記念碑」ですが、変わった所で橋を供養する碑が確認出来ます。
私がこれまで確認した「橋供養塔」は、栃木市内では3基、小山市中里の巴波川の堤に1基です。

最初に見つけたのは、永野川に架かる橋を見て回った時に、大平町西水代と榎本とを渡す旧「千部橋」の右岸橋詰に建つ「橋供養塔」です。
2013年5月25日千部橋(旧).jpg
(前方に架かる橋が、永野川の「千部橋」、その手前道路左手に笠石を載せた石塔が建っています。)

千部橋供養塔.jpg
(供養塔の隣に小さな石の祠も祀られています。後方に写る橋は上流側に架かる新しい「千部橋」で、かつてはこの道路は国道50号線でしたが、南側に新たに50号バイパスが開通した現在は、主要地方道岩舟小山線となっています)

供養塔を少し詳しく見ていきます。
1993年8月旧千部橋西橋詰供養塔.jpg供養塔西側側面拡大.jpg
(供養塔の道路側に面した部分には「千部橋供養」と刻され、向かって左面中央部分には「前方橋・・・」の文字が読みとれ、その右横に「享保十・・・・」、左側には「・十一月三・」と何とか読みとれますが、その下側は風化されてハッキリ読めません。

供養塔北側裏面.jpg供養塔北側裏面部分拡大.jpg
(石塔背面にも一面に、文字が刻まれています。周辺の村々の名がビッシリ並んでいます。
並木村・中村・真弓村・小林村・初田村・上泉村・下泉村・小袋村・押切村・新井村・古橋村・駒場村・曲嶋村等が確認出来ました。)

以上の断片情報から、この供養塔が建てられたのは「享保十年」ですから、西暦1725年と言う事で約300年前に建立されたもので、恐らくその時に旧「千部橋」も竣工したものと思われます。

次に見つけた「供養塔」は、巴波川の下流、小山市中里に架かる「雷電橋」の左岸下流側堤に建つ「土橋供養塔」に成ります。
土橋供養塔(小山市中里).jpg
土橋供養塔正面(小山市中里).jpg土橋供養塔碑文(小山市中里).jpg
この石碑は風化も無く文字もハッキリと読み取ることが出来ましたので、その内容を書き写しました。

建立年は「萬延元庚申年」と有りますから、西暦1860年となります。前の「千部橋供養」の塔から135年後となります。
下部に有る「椙木寄進連名」の「椙」は「スギ」の木の国字。又、寄進された金額、「一分」とか「二分」とかが幕末の価値でどの程度なのか、興味が有りますが算出が難しそうです。単純には4分が一両ですが、時代によって物価が変わりますから、価値がどの程度かは簡単では有りません。

その隣に建つ小さ目の石塔もチョッチ気に成ります。石碑中央に刻まれた文字は「奉□□庚申供養塔」。日付けは「元文五庚申□ 八月吉日」と有り、西暦1740年です。こちらの石塔は「中里村」と刻されています。この二つの供養塔、共に庚申年に建てられています。こちらも橋の架橋に関連が有るのか疑問が残ります。「庚申」の上部の二文字がハッキリしないからです。

橋供養塔のあとの二つは、藤岡町史を見ていて、その存在を知ったものです。掲載部分を抜粋紹介します。
<笹良橋供養碑、三鴨地区の幡張に、願成寺という真言宗の寺がある。ただし、現在は墓所のみが残されていて、寺務は大字甲の浄光院で行っている。(中略) 墓所の入口近くに「永代橋供養」と刻まれた石塔がある。碑面に、「寛政七乙卯年四月朔日 願主贈法印権大僧都廻□(文字欠け)橋免畑三反歩 幡張村 大谷田村」とある。寛政七年(1775)四月一日に、法印廻□が中心となって橋が造られ、維持管理は幡張・大谷田両村の畑、三反歩(30a)の収益金で賄われたことを示している。碑の両側面には、三五の町村と、村役人と思われる人たちの名が刻まれている。(後略)

この資料を基に現地を訪れ、所在を確認しました。
5万分の1地形図「古河」平成11年2月1日発行を見ると、東北自動車道の佐野藤岡ICの南側に「西幡張」の地名が出ている。そしてその西側には佐野市の「越名町」があるが、そこに向かって東から西に向かって天狗の鼻の様な舌状台地が出ていますが、この舌状台地までが栃木市藤岡町で、かつてはこの舌状台地の北西部に「越名沼」と言う大きな沼が有りました。そして沼から流れ出た水の流れは、この舌状台地の西から南に回り込んだ後は、ふたたび南流して、その南方で西から流れてきた渡良瀬川の左岸に落ちています。
この越名沼と渡良瀬川との間に、佐野と古河とを結ぶ街道が通っていますが、その街道筋に架けられたのが「笹良橋」に成ります。
現在、越名沼は水田地帯に変わりましたが、そこを北から南に流れる川が現在の「三杉川」に成り、かつての「笹良橋」辺りに現在の「笹良橋」が架かっています。
そして、現在西幡張の舌状台地の西側を流れる三杉川に架かる橋の名称は、かつて台地の上に有った寺の名前を採って、「願成寺橋」と名付けられました。
三杉川と願成寺橋.jpg
上の写真は、三杉川で前方に架かる橋が「願成寺橋」、その左側の小丘が西幡張の願成寺跡に成ります。かつて手前には「越名沼」が広がっていて、舌状台地は元は、中世の城郭「小南城」があったと、藤岡町史に載っております。
願成寺橋.jpg
上の写真は「願成寺橋」の南東側から撮影しました。左側に三杉川、右側の小丘上に墓所が見えます。ここに目的の「永久橋供養」の石塔が建っています。
永代橋供養塔(藤岡町).jpg
小丘の上に登ってくると、墓所の入口に六地蔵、その右手桜の老木でしょうか、その手前に建てられているのが「永代橋供養」の石塔です。
近くで観察します。正面の程度は良く、刻まれた碑文もハッキリと確認出来ますので、その内容を書き写しました。

永代橋供養塔正面(藤岡町).jpg永代橋供養塔碑文(藤岡町).jpg
内容は前記の藤岡町史に記載された通りなので、省略いたします。

最後の供養塔も、藤岡町史にその所在が出てきます。
<なお、大字赤麻の中妻に、もう一基「橋供養塔」が建立されている。安永九年(1780)に、天下泰平・国土安穏を願って石川弥吉が建てている。ただし、対象とした「石橋三箇処」の詳細は不明である。>と。

この情報を基に供養塔に建つ場所を見つけるのに、難渋しました。
2万5千分の1の地形図「下野藤岡」平成27年5月1日発行を見ると、藤岡町赤麻の周辺を探すと、「中妻」と言う地名が有るので、その「中妻」と記された区画の南側に神社の地図記号「鳥居」が有るので、先ずそこを見に行きました。「赤麻八幡宮」です。石碑は神社仏閣・公民館等に建てられるケースが多いからですが、残念ながら空振り。次に「中妻」と思しきエリアーの道路を歩いて探しましたが、見つかりません。だいたい「中妻」の範囲がハッキリ分かっていないのです。
歩いていても、人影が有りません。やっと見つけた老人に尋ねても、「知らない・分からない」と言う返事です。
「中妻」と思しき場所をくまなく歩いて道路脇等を探しましたが結局見つかりません。
歩いていても「中妻」周辺には川も水路らしき場所も無いのです。
そこで、藤岡町歴史民俗資料館へ。職員の方に尋ねると、資料の中に所在地の住所が判明、ゼンリン住宅地図から、私が歩いて探した場所より更に東側、地形図に有る「東の向」に向かう道路脇に、石仏と見間違いそうな供養塔を見付ける事が出来ました。
石橋三箇處供養塔.jpg
この前の道路を、車で通過していましたが、石塀の陰に入ってしまい、見過ごしていたようです。
石橋三箇處供養塔2.jpg石橋三箇處供養塔3.jpg
供養塔自体が、上部に石仏が乗った形の為、歩いて近くに寄って、台座部分に刻まれた文字を読んで初めて、目的の供養塔で有ることが、確認出来ました。
石橋三箇處供養塔(碑文).jpg
上は石塔に刻まれた、正面・側面の文字の内容です。書き写しました。

内容は「藤岡町史」に書かれていたものですから省略します。が、まだなぞは多く残されたままです。石橋とはどのようなもので、それも三箇処も、何所に架けられていたのか、地元の歴史研究者が「詳細不明」と言われているので、よそ者の私に分かる筈が有りません。今回の調査はここまでです。

今回参考にした資料:
・「藤岡町史 資料編 古代・中世」 藤岡町発行
・「藤岡町史 資料編 近現代」 藤岡町発行
・地形図5万分の1「古河」明治42年12月28日 大日本帝國陸地測量部発行
・地形図5万分の1「古河」昭和34年6月30日 地理調査所発行
・地形図5万分の1「古河」平成11年2月1日 国土地理院発行
・地形図2万5千分の1「下野藤岡」平成27年5月1日 国土地理院発行
・明治前期測量 2万分1 フランス式彩色地図 「栃木縣下野國下都賀郡赤麻及び下生井村」


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栃木市周辺に残るホタルの話 [橋梁]

インターネットを見ていたら「ほたる出現予想2022」(ウェザーニュース)が目にとまりました。
<今年は、3月以降に平年より暖かい日が多く、西日本の太平洋側を中心にほたるが出現し始めています。
今後は、西日本や東日本では5月下旬までに飛び始め、5月中旬~6月中旬に出現のピークを迎える予想です。>そして、宮崎県西都市 2022年5月7日撮影のほたるの光が写った写真が掲載されていました。

私の子供の頃の記憶では、ホタルは夏の夜、部屋に吊った虫よけの蚊帳の中で、捕まえてきたホタルを放し、部屋を暗くして蚊帳の中を動くホタルの光を追って過ごした、7月末から8月の出来事だったように思い出されます。
家の脇を流れる清水川も、今ではコンクリート製の水路に変わってしまい。ホタルの生息環境では無くなっています。
1980年中の橋(清水川).jpg2017年中の橋(清水川).jpg
(1980年頃の中の橋下流部の清水川と2017年撮影の清水川)

巴波川のホタルの話になると、巴波川をズット下って行くと、小山市上泉に「蛍橋」という橋が架かっていますが、ここはその昔、ホタルの名所でした。栃木県文化協会が発行した「栃木の水路」と言う本の、4章に”母なるうづま”が記されていますが、その中に「うずまぼたる」と題する記事が載っています。冒頭部分を抜粋してみると、<うずま川に発生するほたるは大型の源氏ぼたると呼ばれるものである。その飛びかうさまは、まさにうずま川ならではの夏の夜の景観であった。時に、直径三~五尺、高さ一~二丈におよぶほたるばしら(螢柱)がたつ。ほたるが密集して飛びかい、闇に舞いあがるのである。渦を巻きながらつくるこのほたるばしらは、見事というより表現の法を知らない。(後略)>
尺貫法の単位をメートル法に置き換えると、直径0.9m~1.5m、高さ3m~6mとなります。こんなサイズのホタルの柱を見たら驚くしかないでしょう。
蛍橋(小山市上泉).jpg
(現在の蛍橋、昭和9年(1934)に架けられたものです。)

稲葉誠太郎さんが著わした「巴波川物語」第一巻の10に「蛍の川」と題する一文が記されています。
こちらも冒頭部分を紹介させて貰います。
<江戸時代後期の文献に巴波川の蛍について「蛍御用」という一文が残っている。その全文はこう記している。
巴波の蛍と云へば栃木名物の一つに数えらるる程ありて、その大いさの熒々たる火は他に類稀にして一歩市街を出てて川沿を下れば耿々たる万点の蛍はげに丸天の衆星の一時に流れ出したらむかと疑う計りなり、されば此事古くより領主の上聞に達しけむ、毎年五月節句のころ十日間に蛍御用と称し御役所より各町へ御切手にて御渡あるを例とす、依って各町内にては十五人乃至二十人の人夫を出し、各町三百疋位宛の見積にて可成一夜に狩り集め、是を町役人の手を経て御役所へ納めたりと云ふ。名におふ名物の蛍の事とて御用の外に町民各自の娯楽に供せられしなればその当時箒団扇を振翳し我一の功名せむと宙に舞ふ光につれて己も躍り狂ひつ追い廻る数多の蛍狩の模様こそ今に想ひやらるなれ。
このような有様であったから明治になっても巴波川べりの人たちは夏の宵に相さそって蛍火を楽しんでいたのである。(後略)>
文中に”毎年五月節句のころ”と有りますが、これは旧暦ですので新暦の端午の節句(5月5日)とは違い、新暦では6月頃に成りますから、時期的には蛍の出る季節と言う事です。

更に蛍の話題を記した書籍を探してみると、坂本冨士朗さんが著わした「うづま記」の”栃木市の今昔と未来物語”の中に見つけました。
<(前略) ところで、栃木景観の王者は、何んといっても巴波川の河畔であった。当時は、倭町の材木商である塚田屋敷を南端として、素朴な黒塀が北に向かって、どこまでもどこまでも果てしないように続き、それは泉町の天海橋のあたりで終わっていたが、その間千二、三百メートルはあったろうか。(中略) またこれは、万町白沢屋敷裏、巴波川岸のことであるが、六月下旬から七月の上旬にかけての夜更けになると、それまで草むらの中で時たま光っていたほたるの群の動きが活発になって、一匹また一匹と中天に舞い上り、やがて無数の星となって燦くのだった。今でも伝説的な話として念頭に残っているが、ほたる柱が中空に登る見事な光景を明治八年生まれの父親の口から耳にしたことがあったが、それは幕末のことらしい。(後略)>

ここで出てきた”万町白沢屋敷裏、巴波川岸”とはどの辺りに成るのか。明治後期市街地の商店の位置が分かる「栃木縣營業便覧」(明治40年10月1日、全国營業便覧発行)にて、栃木町の萬町を確認すると、”質屋白澤利平”の名前が載っていました。その場所は丁度現在の栃木市役所の場所で、その当時は大通りの西裏を平行に走る”蚤の市通り”は無く、それらの屋敷は大通りから裏手は巴波川岸まで有りました。
営業便覧抜粋.jpg

その条件から白沢屋敷の裏手は現在の市役所駐車場ビル辺りに比定されます。
坂本冨士朗さんが「うづま記」を発表した昭和51年頃の巴波川は生活排水等が流入し、相当汚染されていました。その頃の開運橋周辺の様子を写した写真が有ります。
1980年頃開運橋.jpg
(開運橋上流右岸より1980年撮影、その頃は駐車ビルでは無く、「うずまコーポ」と言う9階建ての高層アパートが建っていました。写真左手大きな屋根の建物は「栃木セントラル劇場(映画館)です。)

1978年4月開運橋.jpg
(開運橋下流左岸より1978年4月撮影、この頃の巴波川はゴミも多く流れていました。)

その後は、下水道の整備や、地元自治会等の年2回の一斉川掃除の活動等によって、現在巴波川は綺麗な川に戻っています。
2015年頃開運橋.jpg
(開運橋上流右岸より2018年6月撮影、開運橋は2000年に現在の橋に架け替えられています。うずまコーポも映画館も無くなり大きな駐車ビルの建物に変わっています。)

2014年9月開運橋.jpg
(開運橋下流左岸より、2014年9月撮影、巴波川はすっかり綺麗に復活しました。)

更に探していくと、お隣「壬生町」にも江戸時代に蛍の名所が有った事を記す資料が有りました。
壬生町が発行した、壬生町史 史料編 近世 付録の、「壬生領史略」の中に、「古川の螢」という記録が残されていました。
この「壬生領史略」は、嘉永三年(1850)に碧山季美なる人物によって編纂された壬生領の地誌書です。
「古川の螢」(抜粋)
<古川橋 表町地内 栃木道柳原渡船場へ通する処の橋をいふ
 螢は梅雨前より出 梅雨い三日目を出盛と云 橋の上流尤多 螢狩又は眺め等に出頗る愉快を尽したり・・・(後略)>

この「古川橋」はどこか、そして古川とは。
この古川橋を私はたまたま撮影をしていました。栃木から思川(小倉川)にかかる保橋を渡った先、栃木市から壬生町に入った所に小さな橋が、架けられていました。高欄親柱に「古川」の銘板が付いています。
古川橋右岸より.jpg古川橋左岸より.jpg

私は通勤時に毎日この橋を渡っていたのですが、バイパス道路が開通した後はすっかりご無沙汰でした。
現在の「古川橋」は、コンクリートブロックに白色のガードレールが設置されただけで、渡ってもそこに橋が有る事も気が付かない状態です。
現在の古川橋.jpg古川橋上流方向.jpg
(現在の古川橋と、橋から眺めた上流側の様子)

私が昨年の11月に撮影に行った時「古川」には水は無く、ただ草原が上流まで伸びていました。
ここが、かつて沢山の蛍が飛び交い、それを多くの壬生の街の人達が見物に来て、夏の宵を楽しんでいたなどとは、現在では想像も出来ません。

ここ数年、新型コロナの影響で多くのイベントが開催され無い状態が続いていました。現在はわずかづつ収束して行くような期待を持っています。
今年は以前の様に各地から、ホタル祭のニュースが届いてくるのか。
近い所で、栃木市都賀町大柿の逆川流域や、都賀町原宿の荒川流域は。
蛍が飛び交う時期は、もう目の前まで来ています。

今回参考にした資料:
・「栃木の水路」 栃木県文化協会発行
・「巴波川物語」 稲葉誠太郎著
・「うづま記」 坂本冨士朗著
・「栃木縣營業便覧」 全国營業便覧発行所
・「壬生領史略」 壬生町発行



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石橋を巡る旅。鹿児島市 [橋梁]

これまで、長崎や熊本の石橋を見て来ましたが、今回は鹿児島県の「石橋記念公園」を訪れました。
日本国内での石造りアーチ橋の歴史は浅く、江戸時代以降に成ります。その石橋の多くが九州7県に分布しています。その分布の状態を、手元に有る工学博士太田静六氏が著わした「眼鏡橋」という著書から引用させて貰いますと、<江戸期から明治末までに限定すると、一番多いのは熊本県で150橋前後、次は鹿児島県だが、その数は半分以下に減って70橋位。3番目は大分県の約50橋、4番目は長崎県の約35橋、次いで福岡県は25橋位、宮崎県は約6橋と愈々少なく、最低は佐賀県の約5橋である。>と、記されています。そして又、大正期以降を見ると、<大正から昭和にかけての橋が大変多いのが大分県である。大分県には大正から昭和にかけての橋が200橋近くも有るらしい。>と、こんな分布状況になっています。

それでは今回見る鹿児島県の石造りアーチ橋は、「甲突川五石橋」と称された石橋五つの内の三つです。
甲突川は薩摩藩の城下町・鹿児島市内を北から南へ縦断して錦江湾に流入する周辺第一の大河で、江戸時代の末期、弘化2年(1845)から嘉永2年(1849)に、「新上橋」(弘化2年)・「西田橋」(弘化3年)・「高麗橋」(弘化4年)・「武之橋」(嘉永元年)・「玉江橋」(嘉永2年)と、毎年架けられています。

しかし、平成5年(1993)8月6日、集中豪雨による洪水で五石橋の内「武之橋」と「新上橋」が流失。鹿児島市街地約1万2千戸が浸水する大災害が発生してしまいました。
かつて長崎の大洪水で多くの石橋を失ったのと同様です。
歴史的に貴重な石橋を保存しようと、流失を免れた3橋を移転保存する為、翌年の平成6年から同11年にかけて、石橋の調査解体、復元と慎重に進め、石橋3橋が一体となった公園として平成12年「石橋記念公園」として、稲荷川の河口近くに開園したものです。

最初は「西田橋」です。
西田橋(右岸下流側より).jpg
先の著書「眼鏡橋」には、
<甲突五橋のうち最も重要な橋で、出水の関所を通って城内に入る表玄関に当たる。参勤交替を始めとして、島津公が渡る橋も常に西田橋である。それ故、五橋のうち西田橋だけは堂々とした勾欄の親柱の全部に青銅の擬宝珠を付けて格式と威厳を誇る。>と、説明されています。
架橋された年は、弘化3年(1846)で公園に移築された三橋では一番古い橋です。
橋長は49.5m、幅員6.2m、4連アーチ橋で、建設費も「甲突川五石橋」で一番高く7,127両と言われています。
西田橋(右岸橋詰より).jpg
橋面敷石は上の写真に見える通り、「斜め敷き」で、整然と敷かれています。橋を渡った先、左岸橋詰近くに立派な御門が建っています。「西田橋御門」です。
西田橋左岸に建つ御門.jpg
現地に建てられた説明文には、<城下の武士や町人、領内を通過する旅人は、御門脇の番所で改めを受けて通行していました。御門は、明治5年(1872)の天皇行幸際に撮られた写真に写っていますが、その後西南戦争で焼失したと思われます。> 現在の門は、発掘調査で確認された橋との位置関係を保って、写真や遺構、市内の仙巌園門などを参考に復元的に整備したものだそうです。

二つ目の橋は、「高麗橋」です。高麗橋(右岸上流側より).jpg
下流から二番目の橋なので、橋長も一番下流側に架けられた「武之橋」(橋長:71.0m・流失)に次ぐ長さで、54.9m有ります。幅員は5.4mで「西田橋」同様、4連アーチ橋に成ります。
高麗橋は、弘化4年(1847)の創建以来、その時々の実情に合わせて、橋面勾配の改修や水道管の添架、昭和20年から30年頃は戦災や通行する自動車による破損に対する改修が行われていました。
移設後の現在の形状は、明治末から大正末期の姿に復元されました。
高麗橋(右岸橋詰より).jpg

最後、三つ目は「玉江橋」です。
玉江橋(右岸上流側より).jpg

甲突五石橋で最後に架けられた橋で、甲突川の一番上流に有りました。石橋の形状は前記の2橋と同じで四連アーチ橋ですが、城下町郊外で通行量も少ない為か、橋長は50.7mですが幅員は4.0mと狭く、建設費も他の橋と比較しても格段に安く、1,560両でした。
玉江橋(左岸橋詰より).jpg
橋面敷石の形状は「乱張り」と、造りもやや粗末に見えます。

公園内の三つの石橋を見た後、公園の北側に有る多賀山公園に登り、東の海上に聳える桜島を眺めましたが、その時は山頂部に雲がかかって良く見えませんでした。
桜島(多賀山公園より).jpg

高麗橋近くに「岩永三五郎之像」と表示された石造が建てられており、その脇に「岩永三五郎顕彰の由来」を刻した石碑が有りました。
松永三五郎像.jpg松永三五郎顕彰の由来.jpg

岩永三五郎は、前著「眼鏡橋」によると、
<岩永三五郎は肥後の石工だが、島津藩に招かれて城下町・鹿児島市内を貫流する甲突川に、いわゆる甲突五橋を架けたことから、熊本より寧ろ鹿児島で有名になった。この点、同じ城下町でも熊本では、鹿児島と違い江戸時代を通じて市街を流れる白川を始めとする主な河川には一つの石橋も架けられなかったので、名工・三五郎も反って地元の熊本市内で腕を振るうことが出来なかったのは面白い>と、記しています。

鹿児島市の公園に移設保存された石橋、四連アーチ橋の立派な石橋でした。

今回参考にした資料は
・「眼鏡橋 日本と西洋の古橋」 工学博士太田静六著 理工図書株式会社発行
・石橋公園内説明案内板等
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山形県鶴岡市で擬洋風建築など見て回る [建物]

先のゴールデンウィークに、久しぶりに遠出をして、山形県の鶴岡市まで出掛けました。
目的は、明治大正に建築された建物が多く残されていて、以前から行ってみたかったからです。
朝6時に家を出て、鶴岡市に到着した時は、昼まじかになっていました。
東北自動車道をひたすら北上し、福島県を縦断、宮城県の村田ジャンクションにて、山形自動車道に入り蔵王の北側を西に走る。蔵王山の北面は残雪が多く見られた。月山や湯殿山を通過して庄内平野に。
鶴岡駅前の観光案内所によって、鶴岡市内の観光マップや観光資料を貰って、早速かつて鶴ケ岡城の有った「鶴岡公園」近くの駐車場へ。
案内所で渡された「山形県鶴岡市観光パンフレット」を開くと、
<江戸時代から続く 城下町 今も殿が暮らすまち・・・酒井家庄内入部400年
江戸時代に酒井忠勝公が藩主として庄内に入部し、今も旧藩主家が住み続けている、国内でも珍しい地域です。令和4年は酒井家庄内入部400年の年となります。歴史情緒が今も残る城下町鶴岡を散歩してみましょう。>  と、街の紹介が出ています。

実は私が今回この町を訪れたかった、もうひとつの理由は、栃木県の第三代県令となった三島通庸(みちつね)への興味からになります。三島通庸が明治7年(1875)12月3日に初めて酒田県令となり、この山形の地に来ていますが、その翌年明治8年8月31日に県庁を酒田から鶴岡に移し、酒田県から鶴岡県に名称変更を行っています。
 
三島通庸が栃木県令として明治16年(1883)10月30日任命(この時は福島県令との兼務)された時にも、翌年明治17年2月23日には栃木県庁を、栃木町から宇都宮へ移転、名称も宇都宮県に変更しています。
県庁を栃木町から宇都宮に移転させる話は、明治6年(1873)に当時の宇都宮県を栃木県に合併した当時から出ていました。それからずっと移転賛成と反対とが中央政府に対して請願活動を繰り広げていたもので、三島通庸が県令に着任した事で、一気に宇都宮移転が決まりました。そして同時に名称も「宇都宮県」と改称されました。明治17年1月24日付で「宇都宮県令三島通庸代理 宇都宮県大書記官片山重範」の名前で布達を発しましたが、その5日後それを取り消して、もとの栃木県に戻されています。(栃木市史より)

さて、鶴岡市に話を戻します。地形図を見ると鶴岡公園の西側に酒井氏庭園の文字が確認出来ます。ここは旧庄内藩主酒井家より伝来の文化財および土地・建物等が寄付され、昭和25年(1950)に創立した、「致道博物館」があり、目的の擬洋風建築2棟がここに移築されています。

先ず最初の建物は、「旧鶴岡警察署庁舎」です。
旧鶴岡警察署庁舎.jpg

この建物は明治政府の威信を示す為建設したとされ、建てられたのは明治17年と有ります。
明治9年8月22日、それまでの鶴岡県・旧山形県・置賜県の三県を統一した新生山形県の初代県令となった、三島通庸が命じて、市内馬場町に建てられたものを、昭和32年ここに移築保存しています。

写真右側の茶褐色の門は「旧酒井家江戸屋敷 赤門」で、<田安徳川家の姫君が酒井家へ輿入れした際に建てられた門で、江戸中屋敷から移築し、御隠殿の門にしたと伝わる>と説明がされていました。

二つ目の擬洋風建築は、上記の警察署庁舎と同様、三島県令の命により建てられた「旧西田川郡役所」に成ります。
旧西田川郡役所.jpg

創建は明治14年(1881)、棟梁は鶴岡出身で西洋建築を学んだ高橋兼吉と石井竹次郎に成ります。
<バルコニーと塔屋・時計台が特徴で、玄関ポーチの柱脚台や吊階段など、要所にルネッサンス様式の模倣がみられます。>(説明板より抜粋)

この致道博物館の敷地内には以上の擬洋風建築の外、幕末に江戸中屋敷を一部移築したと伝わる藩主の隠居所「旧庄内藩主御隠殿」や、出羽三山の山麓・田麦俣の民家「旧渋谷家住宅(多層民家)」や、「美術天覧会場」・「重要有形民俗文化財収蔵庫」・「民具の蔵」等の建物と、酒井氏庭園を観覧する事が出来ます。
旧渋谷家住宅.jpg
(多層民家旧渋谷家住宅:山形県内でも有数の豪雪地帯で、庄内と内陸を結ぶ六十里越街道の要所・田麦俣(旧朝日村)から移築した民家)

ゆっくりとこれらの展示物を見ていきたいところですが、日帰りの旅。又、5時間以上掛けて栃木まで戻らければならないため、他に移動します。

次の建物は、「鶴岡公園」内、荘内神社の南東側に建つ「大寳館」を見学します。
大宝館.jpg

大宝館は、大正4年(1915)に大正天皇の即位を記念して創建されたもので、現在館内には鶴岡ゆかりの人物資料展示施設として、一般公開されています。

次は荘内神社の正面鳥居の前の道を、東の方向に少し歩いた道路左手に現れる「鶴岡カトリック教会の天主堂に向かいます。
鶴岡カトリック教会天主堂.jpg

道路際に立つ案内板によると、<この天主堂はフランス人パピノ神父の設計といわれ、明治36年鶴岡市三日町に在住した大工相馬富太郎が棟梁となって完成した建物でヨーロッパ中世紀頃に建築されたロマネスク様式をもつ教会…(後略)>と記されています。
天主堂の中に入ると、荘厳な雰囲気に包まれます、礼拝集会に参加する人達が座るために現在折り畳みのパイプ椅子が並んでいますが、床には畳が敷かれています。かつては正座をして礼拝をしたと思われます。

国内にはこうした明治時代に建てられたかつての郡役所の建物が多く残されています。私もこれまでこの山形県や福島県にて何カ所か見て来ていますので、参考に写真を掲載します。
旧南会津郡役所.jpg旧伊達郡役所.jpg
(旧南会津郡役所:明治18年8月落成)   (旧伊達郡役所:明治16年桑折町)
旧西村山郡役所.jpg旧西村山郡会議事堂.jpg
(旧西村山郡役所:明治11年12月竣工) (旧西村山郡会議事堂:明治19年8月竣工)

私の住む栃木市にも、明治初期に栃木県庁が置かれた事で、「栃木県庁」明治9年12月上棟。「栃木区裁判所」明治5年設置。「時計台があった栃木師範学校」や「栃木模範女学校」。「栃木県医学校」明治15年焼失廃校。「下都賀郡役所」明治16年設置。等々多くの建物が建設されたが、残念ながら全て現存していません。ただ栃木県最初の写真館「片岡写真館」の創業者片岡如松(じょしょう)さんが、その当時の栃木の街の様子を撮影してくれていたので、現在私達も写真でその当時の様子を窺い知ることが出来るのは、大変有り難い事です。
現在も営業を続けている片岡写真館の新スタジオビルは、明治9年に建てられた初代の栃木警察署をモチーフに、建てられたと聞いています。先ほどの明治初期からの多くの栃木町の写真を収録した写真集「片岡寫眞館」の中にも、その初代警察署の写真も掲載されていますので、参考に抜粋し載せさせて頂きます。
片岡写真館(栃木市).jpg栃木警察署.jpg

山形県内には、まだ多くの魅力的な建築物が残されています。又、機会が有ったら実際にこの目で見てみたいです。

今回参考にした資料:
・「栃木市史 史料編近現代Ⅰ」 栃木市発行
・「土木県令 三島通庸」 丸山光太郎著 栃木県出版文化協会発行
・「写真集 片岡寫眞館 明治・大正・昭和140年の記憶」 片岡惟光編 新樹社発行

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旧奥州街道白澤宿を歩く [歩く]

白澤宿は江戸時代の五街道のひとつ、奥州街道18番目の宿場町で、ひとつ前の宇都宮宿で日光街道と別れた後で、鬼怒川を渡る手前に有る宿場町です。起点となる江戸日本橋より三十里(約120km)です。

栃木文化協会が発行した「栃木の街道」の七章奥州街道で、「白沢宿」は次のように紹介されています。
<白沢宿の起源については、具体的に明らかでない。享保年間に書かれた『奥州街道白沢宿駄賃定覚書』によれば、白沢宿の町割りは慶長14年(1609)にさかのぼる。ただ年代的には、なお問題を残しているように思える。白沢宿の動きは、初めは主に馬次宿で、上阿久津河岸が開かれておらず、街道も明らかでなかった。(中略) 寛文三年(1663)の白沢宿の家数は98軒、馬軒は66疋となっていた。この頃が「殊の外にぎわい申候」と言った時期でもあった。(後略)>と。

現在も宿場の中央を走る街道の両側には水路が有り、綺麗な水が流れています。街道筋の家々には、「辰巳屋」とか「高砂屋」「猪瀬屋」「住吉屋」という、かつての「屋号」が表示され、又水路には水車が何カ所か設置され、通過する人の目を楽しませています。
私もこれまで、何度もこの通りを車で通過していますが、今回はじっくりと宿場の隅から隅まで歩いて見て回りたいと思います。
宇都宮から白澤街道(旧奥州街道)を北上すると白沢の手前に、私が若かった頃アヤメと流しそうめんで有名な奈坪苑という所が有りました。今、グーグルマップで検索しても見つける事は出来ません。街道から右手に折れ雑木林の中を進んだ先に有った記憶が残っています。50年も前のことに成ります。
そんな記憶をたどっているうちに、白澤宿の入口に差し掛かって来ました、
地蔵堂.jpg

道路の右手に地蔵堂が現れました。境内に「白沢地蔵堂の伝説」の説明板が有り。お堂裏手には、「南無阿弥陀佛」と刻した石碑や宝篋印塔、五輪塔その他馬頭観世音の石塔などが建てられています。
地蔵堂裏手.jpg

地蔵堂の先から道路は大きく右にカーブをしながら下って行きます。
薬師堂の先は右にカーブしながら下っている.jpg

道路の左手に登って行く階段が有ります、「やげん坂」の説明板が建てられています。読んでみます、
<この坂は、漢方の薬種をくだく舟形の器具(薬研)に坂の形が大変似ているところから、「やげん坂」と呼ばれるようになったと言い伝えられています。また慶長十四年(1609年)白沢宿として町割ができる以前からここには、街道の道しるべとして夫婦の大きな榎があった由緒あるところです。>
やげん坂.jpg

その説明板に有った榎か分かりませんが、その先を少し行った右手に「白澤宿」と記した案内板が榎の大木の前に建てられています。そしてその右横に「江戸時代の公衆便所」だとする小屋が有ります。
白沢宿の榎.jpg江戸時代の公衆便所跡.jpg

旅する人にとっては、こうした公衆便所があったなら、大助かりだったと思います。今こうしてウォーキングを楽しんでいると、そうした思いを何度もしています。
道路左手に「水戸屋」さんとう<鬼怒のたまり漬>の店舗が有ります。道路はその先もまだ右にカーブをしながら下って行きます。
水戸屋の前から更に街道は下る.jpg

道路は信号機の有る丁字路に突き当たりました。右に曲がれば岡本街道で、奥州街道はここを左に曲がります。道路は広く両側に水路が有り現在車道と歩道の境界にもなっています。
白沢宿メイン道路(両側に水路).jpg

そして、今来た道を振り返ると坂道をずっと下りてきたことが分かります。
白沢宿南端の丁字路から今下ってきた道を振りかる.jpg

この辺が白澤宿メイン道路の南の端に当たります。ここから街道に沿って北方向に歩いて行きます。
本通りを進むと直ぐ左側に、大谷石を組んでその合せ部を漆喰で固めたような、石蔵造りの重厚な家が目に入りました。
石蔵造りの家.jpg
「堺屋」という屋号表示が付いています。元はどのような商いをしていた家だったのだろうか。

道路右側に四階建てのビルを構えた家が有ります。屋号の表示は「高砂屋」となっています。失礼して門扉越しに御庭を拝見させて頂きました。
高砂屋の表示板.jpg高砂屋の邸内.jpg
石灯籠の外に一基の石碑が目に留まりました。遠目ですが「明治天皇御休之所」と読む事が出来ます。

明治天皇御休之所.jpg

田代善吉著「栃木縣史」にて、明治天皇が白澤を訪れた記録は、「河内郡古里村大字白澤福田源太郎宅 明治九年六月十一日東北御巡幸の御時御小休所に充てさせらる、今其建物はなし、碑もなし、明治十四年八月奥羽御巡幸の際は、大田東一郎宅を御小休所に充てらる、其当時の建物存す、建碑なし」と、2回訪れている様で、こちら「高砂屋」さんがそのどちらかに当たるのか確認出来ませんでした。

先へ進みます。今度は道路左手に石造りの鳥居が見えてきました。
白沢宿本通り(左手に鳥居).jpg

鳥居の前まで来ました。鳥居脇に建つ標柱には「村社白髭神社」と刻されています。「村社」の文字はコンクリを埋め込んで有りますが、シッカリ確認出来ます。鳥居の先に参道が真っ直ぐ伸びて居ます。突き当たりに石段が見えます。
白髭神社参道入口.jpg
鳥居の左横の家の連子格子が昔の佇まいを見せています。屋号は「住吉屋」と掲示されています。
鳥居前の水車.jpg
手前の水路に設置された水車がゆっくりと回っています。

白髭神社に参拝をして行きたいと思います。神社境内まで結構な高さが有ります。
白髭神社参道階段.jpg白髭神社社殿.jpg

白沢宿付近の地形図を見ると、南から北に向かう街道筋に並行するように街並みの西側に南北に崖の地図記号が伸びています。白澤宿に来るとき坂を下って来ましたが、宿場の西側は台地に成っていて、神社の社殿はその台地の上に位置しているのでした。
地形図に記された標高の数値を探すと、白澤宿の信号機の有った丁字路の場所が、標高143メートル、台地の上に有る三角点の標高は159.1メートルと有り、其の標高差は16メートル程にもなっています。
その石段を登って、神社の境内へ。
社殿の前に来ると、予想外に広々としています。台地の縁に建てられていので、晴れれば東の白澤宿側は眼下に開け、遠く鬼怒川を望めそうです。
白髭神社境内からの展望.jpg

街道に戻り、先に進みます。参道入口から少し歩くと「宇都宮東警察署白沢警察官駐在所」、そして水路際に赤い郵便ポストが建っています。
駐在所の北隣りに立派な門柱の建つ家が有ります。家屋は庭の奥、庭の木に隠れて良く見えませんが、大きな屋根を持った建物が見えます。門柱の横に「本陣」と言う掲示や、ここ白澤宿から奥州街道の各宿場までの距離を表示した案内板が塀際に建てられています。
白沢宿本陣跡.jpg
ちなみに<江戸江 参拾里 四町 弐拾間(118.4km)>そして<白河宿江 拾八里 参拾四町 拾九間半(69.6km)>だそうです。

先に進みます。目の前に「関東八十八カ所霊場 第二十五番札所 真言宗智山派 明星院」と記した案内板が現れました。街道から左に折れます。その道路の奥突き当たりに寺院の建屋が見えます。
境内に入り、先ず参拝を済ませます。
明星院.jpg
本堂建屋の左側に御堂があります。御堂前方の枝垂桜は、だいぶ葉の緑が目立った来ています。

街道に戻ります。もう目の前には、宿場本通りの北の端です。通りの突き当たりは「井上清吉商店」で、清酒「澤姫」の醸造元と言う看板を掲げています。
白沢宿北の端、井上清吉商店.jpg

街道はこの突き当りから右に折れて行きます。左手の奥にお堂が見えます。薬師堂です。
薬師堂.jpg

薬師堂の右側に本陣だった「宇加地家」の立派な墓所が有ります。

「井上清吉商店」から右に折れる南東角に、小さな神社が祀られています。「經力稲荷大明神」の扁額は掲げられています。その左側の先に橋の欄干が見えます。
稲荷神社.jpg

橋を渡りましょう。この橋の名前は「九郷半橋」、そして下を流れる小川は「九郷半川」です。現在の橋は1883年に架け替えられています。
「九郷半川」は、白沢町の北隣「下ヶ橋町」にて「西鬼怒川」から取水した灌漑用水で、灌漑がおよぶところが、「下ヶ橋村」「上岡本村」「中岡本村」「下岡本村」「白沢村」「上平出村」「中平出村」「下平出村」「芦沼村」と、「石井村」の半郷を加えて、九ヵ村と半郷になるので九郷半川と称した。

橋の上から下流側を望むと、左岸の先に鳥居が見えます。チョッと寄って見たいと思います。
北野神社.jpg

その前に橋を渡った左橋詰に小さな道標らしき石柱が建てられています。
橋の袂に建つ馬頭観世音の石碑.jpg
道路側の面には<昭和二十九年二月初午 白沢甲部>と彫られています。その右側面にハッキリとは確認できませんが<馬頭観世音>らしき文字。

橋を渡った先で道路は三つの方向へ。メインの道路は左の方向へカーブしています。が、旧奥州街道は中央の真っ直ぐに北東方向に伸びる道路です。そしてもう一本は右に折れて川の左岸沿いに神社へと行く道です。今は右に折れる神社への道を選びます。
北野神社鳥居前.jpg

道路は神社の鳥居の前までです。鳥居を潜って境内の中へ神社の標柱が有りました。
「北野神社」と「須賀神社」の名前が彫られています。境内には「白沢彫刻屋台収納庫」と書かれた高さ4メートル程全面3枚のシャッターで閉じられて中は確認出来ませんが、来る途中に説明板が建てられていました。それによると、<白沢甲部彫刻屋台 明治初期に鹿沼から購入したと伝わる黒漆塗彩色彫刻屋台で、形式は宇都宮形のものです。(中略) 製作年代:天保4年(1833) 作者:彫師-富田宿 三代目磯部義兵衛(敬信)他 (後略)>と記されています。
前に、鹿沼市の彫刻屋台を見る機会が有りましたが見事な彫刻を施した屋台でした。この収納庫の中の屋台もその系統と言う事に成ります。
参考に鹿沼市彫刻屋台展示館に収納展示されてる久保町の彫刻屋台の写真を掲示します。
鹿沼久保町の屋台.jpg

機会が有れば白沢宿の、彫刻屋台も一度見てみたいと思いました。

脇を流れる九郷半川に沿って木道が設置されています。
白沢宿は西側は、高さ10メートル以上の崖で阻まれ、東側はこの川で阻まれる形になっています。
せっかくですから、川に沿って歩いて見たいと思います。
神社の先川の東側は「白沢公園」として整備がされていて、旧九郷半川と新たに整備された一直線に流れる九郷半川との間に花壇や芝生広場・雑木林・菖蒲園・水遊び場等を備えています。
天神橋.jpg

旧九郷半川沿いに設置された木道を進むと、季節柄岸辺には菜の花が群生 雑木林の木々は新緑が芽吹いています。
白沢公園.jpg
 
水車小屋も有りました。「グラウンドワーク活動センター」と言う管理棟で、トイレを拝借しました。
白沢公園水車小屋.jpg

更に旧九郷半川沿いの木道を歩いて行くと、「万年橋」と名付けられて橋の袂まで行く事と成りました。この「万年橋」の道路は、白沢宿の南側の端から南に向かう岡本街道から別れた道で、結果的に白沢宿の北の端から南の端まで戻った形となりました。
万年橋.jpg

川の右岸に須賀神社は祀られています。
須賀神社.jpg
そしてこちらの神社の前にも「白沢南彫刻屋台」と記された収納庫が有り。その前にも説明板が建っていました。<白沢南彫刻屋台 明治6年(1873)に鹿沼新町(現:麻芋町)から購入した黒漆塗彩色彫刻屋台で大型の鹿沼屋台の特徴を持っています。(後略)>
こうして観ると、白沢宿は北と南と二つの地域に分かれている様子が覗われます。
それを確認する資料を見つけました。
「栃木県の地名」(平凡社)の中に、「白沢宿」の解説が記されていて、抜粋させて貰うと<宿は南北に道路が走り、その両側に旅籠屋・茶店・商家が軒を並べ、宿の長さは南北四町半、道路中央に用水路が流れ、旅人はここで洗足して宿屋に入る。宿の中ほどの西方高台に鎮守白髭明神が祀られ、同社を境に北方が白沢村、南方が上岡本村である。>

寄り道してしまいましたが、街道歩きに戻ります。
宿場の北の端の分かれ道を真ん中の道路を進むことに、450メートル程来た所で、川を渡ります。橋の親柱に川の名称「西鬼怒川」と橋梁名「西鬼怒川橋」そして架橋年「昭和38年3月竣功」の表示を確認しました。
「西鬼怒川」についても、「栃木県の地名」では、<逆木用水ともいう。上河内村宮山田の高間木で鬼怒川から南に分流し、上小倉・今里・上田・芦沼を経て河内町に入り、下ヶ橋を南流し、東岡本で再び鬼怒川に合流する。延長約18.2キロ。鬼怒川の西部を流れるので、西鬼怒川の名が有る。西川ともいわれ、ここから元和六年(1620)御用川・九郷半川などが派生している。(後略)>

西鬼怒川橋から白沢宿方向を振返る.jpg
上の写真は橋を渡った所で、白沢宿方向を振り返って撮影したものです。写真奥の小高い台地の手前に白沢宿はひらけました。

西鬼怒川橋を渡って150メートル程進むと道路左側に広場が有り、「白沢河原」のバス停留所の看板が建ち、その奥に、「開田之碑」と大書された石碑に「白澤の一里塚址」と刻した石碑が建っています。
白沢河原の一里塚.jpg
この広場は関東自動車のバスの旋回所の様で、ここの「白沢河原」の停留所でバスは折り返して行く様です。ここから宇都宮駅西口までは、30分程です。

この辺りの事を「栃木の街道」には、<白沢宿の終わった所を右折する。今の道は小川(※九郷半川)を渡ってすぐ左折していくが(※河内郵便局前の交差点)、昔の奥州街道はまっすぐ田園の中を東へと進む。西鬼怒川を渡り曲がりくねる道を行くと、松の茂った堤防が南北に尾をひく。そこは鬼怒川の堤防である。白沢宿を出て27町余(※約2,946m)で、鬼怒川の川幅は30間(※約55m)、出水の時には8町程にもなり、「川留め」もしばしば見られ、道も流れによって変わったらしい。(後略)>と、記しています。
(※印部分は筆者が参考に追記したもの)

最後に、今回白沢宿を歩いて巡ると同時に、「奥州街道白澤宿七福神めぐり」も楽しみました。その七福神の像を写真に収めましたので紹介します。
七福神めぐり案内図.jpg寿老神像.jpg
(最初の地蔵堂の境内で見つけた案内図と寿老神像)
大黒天像.jpg布袋像.jpg
(白髭神社境内に立つ大黒天像)     (明星院境内に立つ布袋像)
毘沙門天像.jpg恵比須像.jpg
(薬師堂境内に立つ毘沙門天像)     (北野神社境内に立つ恵比寿像)
弁財天像.jpg福禄寿像.jpg
(須賀神社境内に立つ弁財天像)      (白沢一里塚址に立つ福禄寿像)


今回参考にした資料:
・「栃木の街道」栃木県文化協会発行
・「栃木県の地名」平凡社発行
・「栃木縣史 第十六巻 皇族編系図編」田代善吉著
・「白澤宿ウォーキングマップ」奥州街道白澤宿の会発行
旧奥羽街道白沢宿ウォーキングマップ.jpg



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橋巡り「聖人見返り橋」 [橋梁]

今回巡る橋は、「聖人見返り橋」です。
この橋が有るのは、お隣の茨城県に成ります。栃木市から車で行けば1時間程、茨城県笠間市稲田の田圃の中にその橋は有りました。
聖人見返り橋1.jpg
(茨城県笠間市稲田の田圃の水路に架かる、「聖人見返り橋」)

ここで言われる「聖人」とは、親鸞聖人の事で、橋の脇に2基の石碑が建てられています。
聖人見返り橋3.jpg聖人見返り橋2.jpg
(「聖人見返り橋」の脇に建つ、二基の石碑)

右側(橋の近く)に建つ、小さめの石碑は正面に「聖人みかえりはし」とだけ刻されています。
言うなれば、橋の案内碑、極端に言えば橋の親柱代わり的な役目を果たしている様、これが無ければ水路に架かる湾曲して太鼓橋状に削り出された一枚の石の橋桁の仔細が分からない。

左側の石碑は、何やら和歌の様なものが、刻まれています。
石碑中央には、少し大きな文字で「親鸞聖人みかえりはし」 
右側には「和かれしを さのみなげくな 法のとも」 と上の句が、
左側には下の句の 「またあう國の ありと思えは

そして、橋の袂から北東の方を望むと、深い杉木立の山裾に沿って瓦屋根を載せた、上半分が白壁で下側が黒色の板張りの塀が連なっています。浄土真宗別格本山の西念寺です。木立の合間に本堂の大屋根が見え隠れしています。
西念寺1.jpg

この「聖人見返り橋」は、数多い親鸞聖人の伝承のひとつでしょう。現在のこの橋もその伝承のひとつのモニュメントと言えます。実際に伝承の元となる橋が有ったとしても、恐らく場所も橋そのものの形も違っているでしょう。現在の場所を見ると周りの状態は土地改良が行われ、畦道も水路も直線的で、在りし日の姿を留めてはいません。でも今この場所に立って、田園風景の真ん中から西念寺の杉木立を望むと、文暦2年(1235)春、20年近くを過ごした草庵を後に、京に戻る親鸞の姿と、見送る人達の情景が浮かんでくるような思いが過ぎって来るものです。橋の袂に建てられた石碑の、親鸞聖人の作と伝える和歌の内容を、もう一度かみしめます。
<念仏の友よ 別れをそのように嘆く事は無いですよ  また何時の日か阿弥陀様の元で 会う事が出来るのだから>
その年の9月元号は嘉禎に改められた。
 
ここで西念寺にお参りして行きます。
西念寺の正面参道の入り口は、上の写真の右方向、国道50号線の直ぐ脇に成ります。
聖橋1.jpg
(西念寺参道入口に架けられた「聖橋」。写真後方に国道50号線に架かる歩道橋)

聖橋を渡ると、民家の間に参道が真っ直ぐ伸びています。奥の木立の中が西念寺です。)
聖橋2.jpg
(国道50号線側から、聖橋とその奥に伸びる参道を望む)

真っ直ぐと天の突くように伸びた、何本もの杉の大木の間に伸びる参道を進むと、趣のある茅葺屋根を備えた山門の前に出ます。
西念寺山門.jpg
(茅葺き屋根の山門が、落ち着いた雰囲気を醸し出しています。)

上層の軒下に山号の「稲田山」の扁額が掲げられています。左脇の石柱に「親鸞聖人教行信證御製作地」「浄土真宗別格本山」と大きく刻されています。
山門を潜ると、正面奥に大きな伽藍が迎えてきます。御本堂です。
西念寺本堂.jpg
(御本堂)

本堂内で参拝を済ませ、本堂右手の坂道を登り、親鸞聖人御頂骨堂や太子堂・鐘楼を巡り、戻っては山門入った時左手に見えた太鼓楼や県指定文化財の「お葉つきイチョウ」の大木などを見て回りました。
今度はこのイチョウの紅葉の時季に、また来ようと思いました。

鐘楼.jpg御頂骨堂.jpg
(鐘楼)(親鸞聖人御頂骨堂)
太子堂.jpg太鼓楼.jpg
(太子堂)(太鼓楼)
ハツキ銀杏.jpg
(お葉つきイチョウの大木)


今回参考にした資料:
・丹羽文雄著「親鸞」
・「日本の名著6 親鸞」 中央公論社発行

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岩舟町小野寺につたわる小野小町伝説 [石碑]

<はなのいろは うつりにけりな いたずらに わがみよにふる ながめせしまに>
小倉百人一首にもある、有名な小野小町の和歌ですね。平安時代の女流歌人で六歌仙のひとり。絶世の美人と言われ、美人の代名詞にもなっている。しかしこの小野小町は出生や没年など不明な所が多く、その為か全国各地に小野小町に関する伝説が有るのだそうです。「群書類従正編」には小野小町は小野篁の孫、出羽国司だった小野良実の娘と言われていますが、父とする良実についても、不明な点が多いと言われています。

そして、我が栃木市にも「小町の墓」などと言うものが有ります。そこは栃木市の西の端、岩舟町小野寺の里です。
小野小町の時代は、丁度慈覚大師円仁が活躍した時代に重なります。その円仁が少年時代修行をした、小野寺山大慈寺の境内、薬師堂の近くに現在、小野小町の碑が建てられています。
私が向かった日は、春の日差しも暖かく、境内には桜を始め、春の花が咲き誇っていました。
大慈寺薬師堂.jpg
(天平九年開山別格大慈寺。正面奥が薬師堂)
大慈寺境内.jpg
(春の花が咲く境内、六地蔵と鐘楼)
小町の碑.jpg
(薬師堂脇に建てられた「小町の碑」)

この「小町の碑」に関して、「小野の小町と大慈寺の薬師如来」を記した、佐野市在住の田口巳喜男さんの著書「東山道を往く」(昭和62年5月3日発行)を見つけましたので、一部抜粋させて頂きます。
<前略・・・小野小町は晩年一人旅立ち、この地で病にかかったため、大慈寺の薬師堂にこもって祈願を続けたところ、病気は全快した。その時、薬師如来の慈悲深い顔が悲しくなり、如来と同じ蓮の上へ身を投げたと云う。 小町の死を哀れんだ村人がその地にお墓を建て、供養したと云われている。今は同町の小野寺から葛生町へ通ずる道路の「西の沢の岩山」を中心に「身投げ堂」という地名が残っている。・・・後略>

この薬師堂が向く東方向150メートル先に、「小町墓」と刻した自然石が有ります。前記の「東山道を往く」に掲載されている写真を見ると、「小町の墓」と言われる石は、田圃の畔の草むらに埋もれるように転がっている唯の大きな石ころにしか見えません。
現在は写真の様に雨風をしのぐ為、東屋の中に祀られています。
小町の墓(全体).jpg
(綺麗に整備された「小町の墓」)

「小町墓」と刻された石の背後を良く見ると、何やら文字が刻まれている様に見えますが、不鮮明で判読する事は出来ません。
小町墓.jpg
(風雨から守るために、東屋状の建屋に収められた「小町の墓」)

昨年、京都市山科区小野の「随心院」を訪れました。京都市の地下鉄東西線は、その名の通り西の「太秦天神駅から、東の南禅寺近くの「蹴上駅」まで京都の街を東西に横断していますが、蹴上駅から東側終点「六地蔵駅へは方向を大きく南に変えていきます。山科・東野・椥辻と過ぎるとその名も「小野駅」とする、小野の里が有ります。小野駅を出れば随心院まで350メートル程で、歩いても5分程度で行くことが出来ます。
ここは小野小町が、仕えていた仁明天皇が嘉祥三年(西暦850年)に崩御された後、宮仕えを辞め暮らしたところと言われ、小町の屋敷跡には、「化粧の井戸(けわいのいど)」と言われる井戸が残っています。小町が朝夕この水で化粧をこらしたと伝えられています。又、随心院の裏手竹藪の中には、当時の貴公子たちから小野小町に寄せられた恋文を埋めたところと伝えられる「小町文塚」が有ります。
化粧の井戸.jpg小町文塚.jpg
(小野小町屋敷後に残る「化粧の井戸」と「小町文塚」)

尚、随心院の入口の前には、冒頭に記した小野小町の歌碑が建てられていました。
小野小町歌碑(随身院).jpg

今回参考にした資料は
・「東山道を往く」田口巳喜男著
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親鸞上人大蛇済度の地に咲く桜 [自然の恵み]

今年も桜の開花が始まりました。
早速、栃木市内の桜の様子を見て来ました。
場所は、栃木市域の東の端に当たります。小金井街道を東進、思川に架かる大光寺橋はその東側で大きく左にカーブ、渡った先で道路は下って行きますが、下野市との境界を過ぎると今度は、右に大きくカーブし、再び道路は登って行きます。すると道路左側に「蓮華寺」と言う寺院が現れます。今回目的の桜はこの寺院の丁度裏手に有ります。
山門横に有るスペースに車を止め、先ず本堂に参拝し、そこから歩いて本堂裏手に回り込みます。
本堂の裏手は4メートル程低くなっていて、前方にピンクの花を咲かせた桜の木が一本見えます。
手前に農業用水路が有りますが、水路の手前が下野市国分寺町で、水路を渡った先が栃木市大光寺町に成ります。
大光寺町の桜3.jpg

石段を下り水路に架かった橋を渡って、桜木の傍へ行きます。
桜は丁度見頃を迎えて、青空にピンク色の花が映えます。相当な老木の様で幹の部分はおおきく北側に傾いていて、倒れない様に後ろ側から補強棒で支えられています。
大光寺町の桜.jpg

樹齢はどれくらいになるものでしょうか、幹の部分は大きな室が出来ています。周囲には立派な玉垣が作られ、南側正面左脇に「親鸞上人大蛇済度御旧蹟」と刻した石碑が建てられています。
大光寺町の桜2.jpg
 
桜の木の根元近くにも古い石碑が建てられていますが、表面が剥がれていて、僅かに上部に「親鸞」の文字が確認出来るだけです。
辺りを見渡すと蓮華寺本堂の裏手墓地の北側が低くなっています。そこにも石碑が建てられています。近づいてみると、「親鸞上人大蛇齊度之池」と記されています。確かに石碑の建つ北側辺り一帯が、一段と低くなっていますが水は確認出来ませんでした。以前はここに池が存在していたものと思われます。

親鸞上人大蛇御済度之池.jpg

「親鸞上人大蛇済度」とは、ここ花見ヶ岡の蓮華寺に伝わるお話の様です。
その由来などを記した石碑が、先に車を止めた場所の東隅に建てられています。
花見岡碑.jpg花見岡碑(碑文).jpg
(石碑正面写真と碑文の書き写し)

碑文冒頭に一回り大きなサイズの文字で「花見岡碑」、石碑上部の篆額には、篆書体で「大典記念」と有ります。揮毫した人物は、下野壬生藩第八代(最後)の藩主(知藩事)の長男です。幕末の頃この辺り(国分村や大光寺村)は、壬生藩領でした。
石碑に刻まれた碑文を書き写してみましたが、旧字体や不明な字が多く、その内容を正しく読み解く力が私には有りませんので、山門近くに環境省と栃木県が立てた「蓮花寺」の案内文の写真を一部抜粋して掲載させて頂きました。

蓮華寺案内板.jpg

私が記憶する伝説によると、妻が病気と成り、心配した夫が、近くの室の八島神社に毎夜お参りに行っていたが、その行動に不信を抱いた妻が、病の体を押してある夜夫の後を追っていく。しかし途中の川面に映った自身の顔が嫉妬心で恐ろしい大蛇の姿に成っているのを憂い川に身を投げると言うストーリーだったような。
伝説ですから色々変化した話が有るのでしょうが、どちらも大蛇と化した妻が、親鸞聖人によって救われると言うところは共通しています。

今、そんな言い伝えの残る地に、春の鮮やかな桜の花が見頃を迎えていました。
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