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田中一村展を見る
今月19日より、上野の東京都美術館にて、「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」が始まりました。
私は早速、翌日20日に行って観てきました。
当日は、9月も下旬に入ろうというのに、まだまだ厳しい太陽の光が、肌に突き刺さるような暑さで、上野公園も日傘を差して歩く人を、多く見かけました。
会場の中は、大勢の見学者で溢れていました。
東京都美術館の企画棟の企画展示室は、正面エントランスから続く、LBF(B1F)から1Fそして2Fの3フロアーが有り、各フロアー毎に<第1章 若き南画家「田中米邨」東京時代>、<第2章 千葉時代「一村」誕生>そして、<第3章 己の道 奄美へ>と言う構成で、作品の展示がされ、時代と共に田村一村の生涯を合わせて、見られるようになっていました。
最初、展示場入り口での、「田村一村」の紹介文の冒頭を、抜粋して参照させて頂くと、
<田中一村(本名 孝)は、明治41年(1908)7月22日、栃木県下都賀郡栃木町(現・栃木市)に生まれた。5歳で東京へ移り、彫刻家の父から書画を学び「米邨」の号を受け、数え「八童」「八歳」と画号で署名した絵が最も早く数点残されている。一村の「神童」伝説的エピソードはこの頃から始まる。栃木では早くも何度か画会が開かれ席画もしたという。 ・・・(後略)>
展示会の最初の入口で、こうして「栃木」の文字を目にすると、何故か誇らし気持ちが湧いてくるのを、感じていました。
最初の展示物は、短冊に描かれた「紅葉にるりかけす」。赤く色づいた紅葉の枝に丸々とした小鳥の姿が描かれた大正4年(1915)の作品。一村8歳の時の作品で、栃木県立美術館蔵と説明されていました。とても8歳の子供が描いた物とは、驚きしか有りません。
会場内はずうっと見学者が列を成している為、その流れに沿って、1点1点作品と向かい合いました。
作品展示数は、作品№001から№311で、第1章が74点、第2章が一番多く130点、第3章が107点と成っています。主な作品には音声ガイドで説明を聞くことが出来ます。ナビゲーターは俳優の「小泉孝太郎」さん。優しい口調で語りかけてくれます。画家の言葉は声優の「中村悠一」さん。低くてドスの効いた声で、私としては少し雰囲気が分からなかった。
第2章から第3章へ、奄美へ移ってからの作品が田中一村の代表作になるのでしょうか、今回の展示会のリーフレットの表紙を飾る、「アダンの海辺」や、「不喰芋と蘇鐵」などの作品に人が群がっていました。実はここまでたどり着くのに、3時間以上立ちっぱなしで、すでに足が諤諤状態。椅子が有れば座りたい状態に成っていますが、皆さん同様なのか、会場内に用意された椅子は、空いていない。
何とか最後まで鑑賞して、会場を後にしました。最後に撮影ポイントとしてパネルが有りましたので、記念に写真に収めてきました。
私の家には、地元の「栃木信用金庫」さんが、田中一村の作品をカレンダーにして配布したものを、2021年の「アダンの海辺」から残しています。今年で4作品に成ります。それ以前にも配布していたかどうか分かりませんが、素敵な作品なので家に飾っています。
栃木信用金庫さんは、以前に喜多川歌麿の大作、「雪」「月」「花」の作品もカレンダーにして配布されています。それらも残しています。
今回の展示会では、栃木市立美術館所蔵の田中一村作品も4点展示されていました。
田中一村出身の地「栃木」。彼のお墓が、栃木市旭町の寺院「満福寺」の墓地に有ります。
墓所の側らには、「熱砂の浜 アダンの写生 吾一人」の句と、写生をする一村の写真を見ることが出来ます。そして誰が供えたものか、奄美の浜で採取したと思われる、白い貝殻が有りました。
今回の展示会には、個人の方が所有している作品が、113点も有り、今回の展示会に初めて展示された作品も、多く有りました。今回311点と言う多くの作品を、じっくり鑑賞出来て、貴重な時間を過ごすことが出来ました。
出来る事なら、一度「田中一村」が愛した奄美の風景を、見てみたいと思いました。
私は早速、翌日20日に行って観てきました。
当日は、9月も下旬に入ろうというのに、まだまだ厳しい太陽の光が、肌に突き刺さるような暑さで、上野公園も日傘を差して歩く人を、多く見かけました。
会場の中は、大勢の見学者で溢れていました。
東京都美術館の企画棟の企画展示室は、正面エントランスから続く、LBF(B1F)から1Fそして2Fの3フロアーが有り、各フロアー毎に<第1章 若き南画家「田中米邨」東京時代>、<第2章 千葉時代「一村」誕生>そして、<第3章 己の道 奄美へ>と言う構成で、作品の展示がされ、時代と共に田村一村の生涯を合わせて、見られるようになっていました。
最初、展示場入り口での、「田村一村」の紹介文の冒頭を、抜粋して参照させて頂くと、
<田中一村(本名 孝)は、明治41年(1908)7月22日、栃木県下都賀郡栃木町(現・栃木市)に生まれた。5歳で東京へ移り、彫刻家の父から書画を学び「米邨」の号を受け、数え「八童」「八歳」と画号で署名した絵が最も早く数点残されている。一村の「神童」伝説的エピソードはこの頃から始まる。栃木では早くも何度か画会が開かれ席画もしたという。 ・・・(後略)>
展示会の最初の入口で、こうして「栃木」の文字を目にすると、何故か誇らし気持ちが湧いてくるのを、感じていました。
最初の展示物は、短冊に描かれた「紅葉にるりかけす」。赤く色づいた紅葉の枝に丸々とした小鳥の姿が描かれた大正4年(1915)の作品。一村8歳の時の作品で、栃木県立美術館蔵と説明されていました。とても8歳の子供が描いた物とは、驚きしか有りません。
会場内はずうっと見学者が列を成している為、その流れに沿って、1点1点作品と向かい合いました。
作品展示数は、作品№001から№311で、第1章が74点、第2章が一番多く130点、第3章が107点と成っています。主な作品には音声ガイドで説明を聞くことが出来ます。ナビゲーターは俳優の「小泉孝太郎」さん。優しい口調で語りかけてくれます。画家の言葉は声優の「中村悠一」さん。低くてドスの効いた声で、私としては少し雰囲気が分からなかった。
第2章から第3章へ、奄美へ移ってからの作品が田中一村の代表作になるのでしょうか、今回の展示会のリーフレットの表紙を飾る、「アダンの海辺」や、「不喰芋と蘇鐵」などの作品に人が群がっていました。実はここまでたどり着くのに、3時間以上立ちっぱなしで、すでに足が諤諤状態。椅子が有れば座りたい状態に成っていますが、皆さん同様なのか、会場内に用意された椅子は、空いていない。
何とか最後まで鑑賞して、会場を後にしました。最後に撮影ポイントとしてパネルが有りましたので、記念に写真に収めてきました。
私の家には、地元の「栃木信用金庫」さんが、田中一村の作品をカレンダーにして配布したものを、2021年の「アダンの海辺」から残しています。今年で4作品に成ります。それ以前にも配布していたかどうか分かりませんが、素敵な作品なので家に飾っています。
栃木信用金庫さんは、以前に喜多川歌麿の大作、「雪」「月」「花」の作品もカレンダーにして配布されています。それらも残しています。
今回の展示会では、栃木市立美術館所蔵の田中一村作品も4点展示されていました。
田中一村出身の地「栃木」。彼のお墓が、栃木市旭町の寺院「満福寺」の墓地に有ります。
墓所の側らには、「熱砂の浜 アダンの写生 吾一人」の句と、写生をする一村の写真を見ることが出来ます。そして誰が供えたものか、奄美の浜で採取したと思われる、白い貝殻が有りました。
今回の展示会には、個人の方が所有している作品が、113点も有り、今回の展示会に初めて展示された作品も、多く有りました。今回311点と言う多くの作品を、じっくり鑑賞出来て、貴重な時間を過ごすことが出来ました。
出来る事なら、一度「田中一村」が愛した奄美の風景を、見てみたいと思いました。
ちょっぴり、ショックだったこと
先日の事ですが、ちょっぴりショックと言うか、残念な事が有りました。
私が長年愛用していた「カップ」が、欠けてしまったのです。
(欠けた破面を観察すると、縦面部分は茶褐色に変色していて、すでに剥離状態に成っていたが、下部の破面はまだ白く、今回破壊した部分でしょうか。今までは良く漏れずに使えていましたが。)
食後に食器を洗っていた時に、突然パカッと、私の手の中で割れてしまったのです。
以前から数か所、縦にクラックが走っていて、最近そのクラックがはっきりしてきていたので、そろそろ漏れが発生するかもしれないと、想定をしていて、気を付けて取り扱っていたので、突然割れてしまったので、驚いたしまいました。
(割れた部分に、破片を合わせて復元させてみました。)
このカップは、2016年5月に娘が、「春の益子陶器市」にて購入して、妻と私に色違いでプレゼントしてくれたものでした。
その時、妻が青のカップを選び、私は茶のカップになりました。
それから、食事の時のお茶碗として、休憩時間のコーヒーカップなど、常に私達の食卓に並んでいました。容量としては200mlで、アメリカンコーヒーを飲むのに丁度よいサイズでした。
益子焼の肉厚の有るカップで、取っ手が無くても、暑いコーヒーも頂けるし、縦に入った鎬で、滑らずに、手に良く収まる形状で、私の生活の中で、無くてはならないカップでした。
私の妻は、4年前に亡くなっていますが、妻が愛用していた青のカップは、それより前に漏れが発生して使えなくなってしまっていました。そんなことなどが有って、一層丁寧に扱ってきていたのですが、
形あるものは何時か壊れるもの。
欠けてしまったカップは、まだ処分できずに、私の手元に残っています。
私が長年愛用していた「カップ」が、欠けてしまったのです。
(欠けた破面を観察すると、縦面部分は茶褐色に変色していて、すでに剥離状態に成っていたが、下部の破面はまだ白く、今回破壊した部分でしょうか。今までは良く漏れずに使えていましたが。)
食後に食器を洗っていた時に、突然パカッと、私の手の中で割れてしまったのです。
以前から数か所、縦にクラックが走っていて、最近そのクラックがはっきりしてきていたので、そろそろ漏れが発生するかもしれないと、想定をしていて、気を付けて取り扱っていたので、突然割れてしまったので、驚いたしまいました。
(割れた部分に、破片を合わせて復元させてみました。)
このカップは、2016年5月に娘が、「春の益子陶器市」にて購入して、妻と私に色違いでプレゼントしてくれたものでした。
その時、妻が青のカップを選び、私は茶のカップになりました。
それから、食事の時のお茶碗として、休憩時間のコーヒーカップなど、常に私達の食卓に並んでいました。容量としては200mlで、アメリカンコーヒーを飲むのに丁度よいサイズでした。
益子焼の肉厚の有るカップで、取っ手が無くても、暑いコーヒーも頂けるし、縦に入った鎬で、滑らずに、手に良く収まる形状で、私の生活の中で、無くてはならないカップでした。
私の妻は、4年前に亡くなっていますが、妻が愛用していた青のカップは、それより前に漏れが発生して使えなくなってしまっていました。そんなことなどが有って、一層丁寧に扱ってきていたのですが、
形あるものは何時か壊れるもの。
欠けてしまったカップは、まだ処分できずに、私の手元に残っています。
蔵フト麦酒ウォーク2024で至福の時間を [歩く]
9月も中旬になろうという今日、35度を超えるような猛暑の中、家を11時に出て歩いて嘉右衛門町通りに向かいました。今日と明日の2日間、恒例の「蔵フト麦酒ウォーク2024」が行われています。
嘉右衛門町通りは、すでに交通規制で車をシャットアウト、歩行者天国に成っています。
県内各地から、個性的なブルワーリーやキッチンカーが出店をしています。
時間はすでに昼近くなので、まずはビールで喉を潤すことに、地元油伝味噌へ。ビールの容器はイベント記念カップがお洒落で、街中を飲みながら歩くのに良さそうなので奮発して買いました。
18-8ステンレス製で、イベントキャラクターの猫さんがカップ片手に歩いている図柄を選択。今の私です。上に「CBW」(CRAFT BEER WALK)の文字がプリントされた、手にフィットする滑らかな肌触りです。つまみ代わりに油伝味噌田楽セットを注文して、一人で乾杯。
チョッと腹ごしらえを済ませ、お店を出てブラブラとビールを飲みながら、他所の店を見て歩きます。タイ料理のキッチンカーを見つけ、ちょっと懐かしさも有って「ガパオライス」を食べてみました。非常に辛い味付けでしたが、これでまたビールが進んでしまいました。
飲んで食べて、暑さを吹っ飛ばしましたが、歩き回って疲れが出たので、石蔵コンサート会場へ行って、ビール片手に音楽を楽しみました。
石蔵の内部は、意外と暑さを感じません。酔ている精なのか。
石蔵コンサートはなんとも良い感じで、楽しく音楽に酔ってしまいました。
13時から「新井武人」さんのアコーディオン演奏と、14時からの「シュマン・ドゥ・ネイジュ」さんのピアノとフルートの演奏とを楽しみました。
新井武人さんの弾くアコーディオンの音色、何故かとても懐かしく、目を閉じて音楽の世界に浸る。映画「巴里の空の下セーヌは流れる」より「巴里の空の下」に聞き惚れました。演奏者の話術も秀悦で、会場が和やかで軽やかな雰囲気に包まれました。アコーディオン 素敵な楽器だと改めて感じました。
「シュマン・ドゥ・ネイジュ」。 フルート奏者の高橋由起さんと、ピアノ奏者の平田 侑さんのデュオ。今年もありがとうございます。昨年初めて二人の演奏を聞いて、今回も期待をしていました。
力強いフルートの音色が、軽やかなピアノの旋律が、やさしく石蔵の中に広がっていきます。
ほろ酔い気分で申し訳ありませんが、楽しい時間を今年も満喫しました。
ビールも種類が多くて、どれを飲んだらいいか、お店の前で悩むばかりでした。「とちおとめ」が入っている? どんな味か気になって、又、カップに注いで貰う。
帰り道は遠く感じました。コンサートでゆったり過ごした時間が長かったのか、今日の歩数は「6,162歩」でした。
嘉右衛門町通りは、すでに交通規制で車をシャットアウト、歩行者天国に成っています。
県内各地から、個性的なブルワーリーやキッチンカーが出店をしています。
時間はすでに昼近くなので、まずはビールで喉を潤すことに、地元油伝味噌へ。ビールの容器はイベント記念カップがお洒落で、街中を飲みながら歩くのに良さそうなので奮発して買いました。
18-8ステンレス製で、イベントキャラクターの猫さんがカップ片手に歩いている図柄を選択。今の私です。上に「CBW」(CRAFT BEER WALK)の文字がプリントされた、手にフィットする滑らかな肌触りです。つまみ代わりに油伝味噌田楽セットを注文して、一人で乾杯。
チョッと腹ごしらえを済ませ、お店を出てブラブラとビールを飲みながら、他所の店を見て歩きます。タイ料理のキッチンカーを見つけ、ちょっと懐かしさも有って「ガパオライス」を食べてみました。非常に辛い味付けでしたが、これでまたビールが進んでしまいました。
飲んで食べて、暑さを吹っ飛ばしましたが、歩き回って疲れが出たので、石蔵コンサート会場へ行って、ビール片手に音楽を楽しみました。
石蔵の内部は、意外と暑さを感じません。酔ている精なのか。
石蔵コンサートはなんとも良い感じで、楽しく音楽に酔ってしまいました。
13時から「新井武人」さんのアコーディオン演奏と、14時からの「シュマン・ドゥ・ネイジュ」さんのピアノとフルートの演奏とを楽しみました。
新井武人さんの弾くアコーディオンの音色、何故かとても懐かしく、目を閉じて音楽の世界に浸る。映画「巴里の空の下セーヌは流れる」より「巴里の空の下」に聞き惚れました。演奏者の話術も秀悦で、会場が和やかで軽やかな雰囲気に包まれました。アコーディオン 素敵な楽器だと改めて感じました。
「シュマン・ドゥ・ネイジュ」。 フルート奏者の高橋由起さんと、ピアノ奏者の平田 侑さんのデュオ。今年もありがとうございます。昨年初めて二人の演奏を聞いて、今回も期待をしていました。
力強いフルートの音色が、軽やかなピアノの旋律が、やさしく石蔵の中に広がっていきます。
ほろ酔い気分で申し訳ありませんが、楽しい時間を今年も満喫しました。
ビールも種類が多くて、どれを飲んだらいいか、お店の前で悩むばかりでした。「とちおとめ」が入っている? どんな味か気になって、又、カップに注いで貰う。
帰り道は遠く感じました。コンサートでゆったり過ごした時間が長かったのか、今日の歩数は「6,162歩」でした。
野麦峠を越える [石碑]
先月、久しぶりに家族で1泊旅行をしてきました。
例年8月のお盆休みに、家族そろって日帰りでドライブを楽しむ程度でしたが、今年は子供たちの休みがうまく重なったので、急遽一泊旅行にしようと言う事になったのが、7月の末。
まず、何処へ行こうかとなる。ここ最近は山形県や宮城県と東北方面が続いていたので、今回は中部地方を目的地に定め、まず泊まれる宿探しを始める。これらの作業には私は加われない。子供らがスマホを駆使して、空いているホテル探しをする。7月末で8月のお盆休みのホテル。簡単に見付かる訳がない。
観光地や温泉地をあきらめて、結局名古屋市内のホテルで、1室3人部屋を何とか予約出来ました。
日程と宿泊地が決まれば、後は具体的なドライブスケジュールの作成で、これは暇な私の仕事。旅行日までに出発時間からドライブコース、休憩場所、観光地点までを、分単位でタイムスケジュールを作成しました。
東北自動車道から北関東自動車道・関越自動車道・上信越自動車道・長野自動車道を経由して、長野県松本市で高速道路を降り、国道158号で岐阜県高山市に向かい、そこから郡上八幡市を観光して、名古屋の宿泊ホテルに向かうルート。計画は完璧です。
だが旅行当日、私の計画はぼろぼろに崩れ去りました。
高速道路区間では多少の遅れが有りましたが、それでも無難に松本IC迄来ました。最初のつまずきは、インター出口で一般道路に合流するまで、渋滞が発生していました。
この時はおそらく松本市内方向が混んでいると思っていたが、渋滞は我々が行こうとする高山市方面で、この道路はあの上高地へ行く道路で渋滞が発生していることが分かりました。
それでも最初のうちは結構走れると、甘い考えが有ったのですが、国道158号が山間部に入り、松本市安曇の梓川沿いの「道の駅 風穴の里」を越えた辺りで、車はピタリと止まってしまった。
それからが、ノロノロで殆ど動かない、まだまだ上高地の分岐までは遠い、カーナビは渋滞の赤いラインがずっと続いている。「上高地」を甘く見ていました。私達は上高地には行かないのに、逃げ場が無いのです。
私が計画したタイムスケジュールがどんどん遅れていきました。
後部座席の娘が突然「次の分岐を左に行かないと、右方向の上高地まではずっと渋滞で真っ赤。」と。そして、左方向の道でも高山市へ通じているか、調べると「野麦峠」を越えて行ける事が判明しました。その時渋滞の列は「入山隧道」の入口へ。目の前の道路標示に「トンネル内分岐。右方向国道158号 高山・上高地。左方向県道26号 木祖・奈川。」の表示。
トンネル内でも渋滞のまま分岐点へ。すると前の車も左方向へ行ったのです。続いて私達も左へハンドルを切りました。後続車両は有りません。道路標識に高山との表示が無かったから、娘の言葉が無かったら、そのまま右方向に行って渋滞の中でした。左方向の県道は多少狭い山道ですが、殆ど対向車もなく、スムースに走ることが出来ました。
娘の口から出た言葉、「野麦峠」。この地名を聞いた瞬間、私はその「野麦峠」の名前が記憶の中に、ハッキリと残っていたのを思い出していた。もちろん子供達は分かっていません。
野麦峠は岐阜県高山市と長野県松本市の県境に位置し、古くは鎌倉街道とか江戸街道と呼ばれた街道の峠。乗鞍岳と鎌ヶ峰の間に有り、標高1,672mの地点に有る。(ウィキペディアより参照)
野麦峠と言えば、「女工哀史」にある、岐阜県飛騨地方の女性達が、長野県地方岡谷の工場に働きに行くため、超えた峠道です。明治から大正にかけて、当時の主力輸出産業であった生糸工業を、陰で支えていた多くのうら若い少女達が、出稼ぎの為、この峠を行き来していました。
私は、この話を何時知ったか記憶ははっきりしません。ただ「あゝ野麦峠」と言うフレーズが脳裏に残っているのです。そしてこの後、車が野麦峠にに到着して、その訳がはっきりするのでした。
梓川沿いの国道を外れて、奈川沿いを走る「野麦街道」を進んで行きます。
(木々に覆われた野麦街道)
(街道の脇を流れる奈川。近くに建っていた双体道祖神)
ここでチョッと寄り道をします。道路わきに建てられた「道祖神」。広辞苑を開くと<道路の悪霊を防いで行人を守護する神。日本では「さえのかみ」と習合されてきた。たむけのかみ。>と出ています。そして「さえのかみ」には、<伊弉諾尊が伊弉冉尊を黄泉の国を訪ね、逃げ戻った時、追いかけてきた黄泉醜女をさえぎり止めるために投げた杖から成り出た神。邪霊の侵入を防ぐ神。行路の安全を守る神。村境などに置かれ、近世にはその形から良縁・出産・夫婦円満の神ともなった。>などと記されています。
この道祖神が特に多く見られるのが、長野県と言われていますが、とくに松本市や安曇野市周辺で、マンホール蓋のデザインにも描かれています。
(写真のマンホール蓋は、長野県の犀川安曇野流域下水道事業で、設置している蓋に成ります。中央に男女が並んで立っています。後方の山はニッポン百名山のひとつ「常念岳」です。)
栃木県では鹿沼市の粕尾地区に数体確認されていますが、栃木市では殆ど見る事は有りません。民俗学を研究されている、私の知人から「栃木市都賀町富張に、1基双体道祖神が祀られている。」と、教えて頂きました。
(都賀町富張の、農道脇の斜面に大切に祀られている「双体道祖神」)
最近は市内の寺院の境内に、新たに祀られた双体道祖神が見られるようになりましたが。
少しより道が長くなってしまいました。野麦街道に戻ります。
道路わきに石碑が見えたので、車を止めて確認すると、石碑は新旧2基建っています。
古い石碑は風化が激しく、文字は判読できません。新しい方は昭和62年12月吉日に奈川村が建立したもの。その脇のトンネルの入り口の様な、自然石を組み上げて、上部をアーチ状にした構造物が出来ている。脇の説明板に、<川浦石室と南無観世音菩薩 道中における毎年の凍死者を救いたいと奈川下郷の庄屋永嶋藤左ヱ門が、文政八年(1825年)に避難小屋を建てた。その功績を称えて木曽藪原の住職が石碑を建てた。昭和62年に石室が再建され、その碑文の訳文を記した。>と、記されています。
この野麦峠は難所の為、冬季には通行人が多数凍死をしたため、造られた避難施設だったようです。
石室の中を覗いて見ると、脇に休憩する為の長いすらしきものが。奥に竈の様なもの、火を焚いて暖を取るためのものか。
石室を後に車はヘアピンカーブの山道を登っていきます。そして前方に「岐阜県高山市」の標識が見えてきました。
目的地の「野麦峠」です。街道から左に脇道に入ると広い駐車場に出ました。
トイレや休憩所が有るようで、何台かの乗用車やオートバイが止まっています。入ってきた道路の脇に「政井みねの像」が建っています。
(男性が背負う少女の名は「政井みね」20歳。男性は少女の兄で「政井辰次郎」31歳。下部の台座の銘板には「あゝ飛騨が見える」と刻まれています。)
この「政井みね」の話は、山本茂美著「あゝ野麦峠」のルポルタージュや、その映画化やテレビドラマ化を通して有名になっています。
ここで、「あゝ野麦峠」からこの石像に関する部分「ああ飛騨が見える」の部分を抜粋させて貰います。
<明治42年11月20日午後2時、野麦峠の頂上で一人の飛騨の工女が息を引きとった。名は政井みね、ニ十歳、信州平野村山一林組の工女である。またその病女を背板にのせて峠の上までかつぎ上げて来た男は、岐阜県吉城郡河合村角川の政井辰次郎(31)、死んだ工女の兄であった。・・・後略>
「政井みね之碑」は更に山の上、旧街道に有るというが、そこまで登る自信もなく、目の前の「お助け小屋」に向かいました。
(お助け小屋は天保12年(1841)に、峠越えをする人達の避難小屋として建てられたもので、現在の建物は、昭和45年に野麦集落の古い家屋を移築したものだそうです。峠を越える若い工女さん達もこの宿で、疲れた体と心を休めて行ったものと思われます。)
現在、お助け小屋の中の食堂では、1979年に全国公開された映画「あゝ野麦峠」のビデオが放映されておりました。
主役「政井みね」役には、今も映画・舞台そしてテレビドラマ等で大活躍をされている、大竹しのぶさんです。兄の「政井辰次郎」役は、地井武男さんでした。他に、古手川祐子さんや原田美恵子さん、友里千賀子さんらの名前も見えました。
上高地への道路が渋滞していた事で、全く計画になかった「野麦峠」を、訪れることが出来ました。
参考資料:
・広辞苑第五版 岩波書店発行
・ウィキペディア 「道祖神」
・鹿沼市公式ホームページ「有形民俗文化財」
・「新版あゝ野麦峠ーある製糸工女哀史ー」山本茂美著 朝日新聞社発行
・ウィキペディア 「あゝ野麦峠(1979年の映画)」
例年8月のお盆休みに、家族そろって日帰りでドライブを楽しむ程度でしたが、今年は子供たちの休みがうまく重なったので、急遽一泊旅行にしようと言う事になったのが、7月の末。
まず、何処へ行こうかとなる。ここ最近は山形県や宮城県と東北方面が続いていたので、今回は中部地方を目的地に定め、まず泊まれる宿探しを始める。これらの作業には私は加われない。子供らがスマホを駆使して、空いているホテル探しをする。7月末で8月のお盆休みのホテル。簡単に見付かる訳がない。
観光地や温泉地をあきらめて、結局名古屋市内のホテルで、1室3人部屋を何とか予約出来ました。
日程と宿泊地が決まれば、後は具体的なドライブスケジュールの作成で、これは暇な私の仕事。旅行日までに出発時間からドライブコース、休憩場所、観光地点までを、分単位でタイムスケジュールを作成しました。
東北自動車道から北関東自動車道・関越自動車道・上信越自動車道・長野自動車道を経由して、長野県松本市で高速道路を降り、国道158号で岐阜県高山市に向かい、そこから郡上八幡市を観光して、名古屋の宿泊ホテルに向かうルート。計画は完璧です。
だが旅行当日、私の計画はぼろぼろに崩れ去りました。
高速道路区間では多少の遅れが有りましたが、それでも無難に松本IC迄来ました。最初のつまずきは、インター出口で一般道路に合流するまで、渋滞が発生していました。
この時はおそらく松本市内方向が混んでいると思っていたが、渋滞は我々が行こうとする高山市方面で、この道路はあの上高地へ行く道路で渋滞が発生していることが分かりました。
それでも最初のうちは結構走れると、甘い考えが有ったのですが、国道158号が山間部に入り、松本市安曇の梓川沿いの「道の駅 風穴の里」を越えた辺りで、車はピタリと止まってしまった。
それからが、ノロノロで殆ど動かない、まだまだ上高地の分岐までは遠い、カーナビは渋滞の赤いラインがずっと続いている。「上高地」を甘く見ていました。私達は上高地には行かないのに、逃げ場が無いのです。
私が計画したタイムスケジュールがどんどん遅れていきました。
後部座席の娘が突然「次の分岐を左に行かないと、右方向の上高地まではずっと渋滞で真っ赤。」と。そして、左方向の道でも高山市へ通じているか、調べると「野麦峠」を越えて行ける事が判明しました。その時渋滞の列は「入山隧道」の入口へ。目の前の道路標示に「トンネル内分岐。右方向国道158号 高山・上高地。左方向県道26号 木祖・奈川。」の表示。
トンネル内でも渋滞のまま分岐点へ。すると前の車も左方向へ行ったのです。続いて私達も左へハンドルを切りました。後続車両は有りません。道路標識に高山との表示が無かったから、娘の言葉が無かったら、そのまま右方向に行って渋滞の中でした。左方向の県道は多少狭い山道ですが、殆ど対向車もなく、スムースに走ることが出来ました。
娘の口から出た言葉、「野麦峠」。この地名を聞いた瞬間、私はその「野麦峠」の名前が記憶の中に、ハッキリと残っていたのを思い出していた。もちろん子供達は分かっていません。
野麦峠は岐阜県高山市と長野県松本市の県境に位置し、古くは鎌倉街道とか江戸街道と呼ばれた街道の峠。乗鞍岳と鎌ヶ峰の間に有り、標高1,672mの地点に有る。(ウィキペディアより参照)
野麦峠と言えば、「女工哀史」にある、岐阜県飛騨地方の女性達が、長野県地方岡谷の工場に働きに行くため、超えた峠道です。明治から大正にかけて、当時の主力輸出産業であった生糸工業を、陰で支えていた多くのうら若い少女達が、出稼ぎの為、この峠を行き来していました。
私は、この話を何時知ったか記憶ははっきりしません。ただ「あゝ野麦峠」と言うフレーズが脳裏に残っているのです。そしてこの後、車が野麦峠にに到着して、その訳がはっきりするのでした。
梓川沿いの国道を外れて、奈川沿いを走る「野麦街道」を進んで行きます。
(木々に覆われた野麦街道)
(街道の脇を流れる奈川。近くに建っていた双体道祖神)
ここでチョッと寄り道をします。道路わきに建てられた「道祖神」。広辞苑を開くと<道路の悪霊を防いで行人を守護する神。日本では「さえのかみ」と習合されてきた。たむけのかみ。>と出ています。そして「さえのかみ」には、<伊弉諾尊が伊弉冉尊を黄泉の国を訪ね、逃げ戻った時、追いかけてきた黄泉醜女をさえぎり止めるために投げた杖から成り出た神。邪霊の侵入を防ぐ神。行路の安全を守る神。村境などに置かれ、近世にはその形から良縁・出産・夫婦円満の神ともなった。>などと記されています。
この道祖神が特に多く見られるのが、長野県と言われていますが、とくに松本市や安曇野市周辺で、マンホール蓋のデザインにも描かれています。
(写真のマンホール蓋は、長野県の犀川安曇野流域下水道事業で、設置している蓋に成ります。中央に男女が並んで立っています。後方の山はニッポン百名山のひとつ「常念岳」です。)
栃木県では鹿沼市の粕尾地区に数体確認されていますが、栃木市では殆ど見る事は有りません。民俗学を研究されている、私の知人から「栃木市都賀町富張に、1基双体道祖神が祀られている。」と、教えて頂きました。
(都賀町富張の、農道脇の斜面に大切に祀られている「双体道祖神」)
最近は市内の寺院の境内に、新たに祀られた双体道祖神が見られるようになりましたが。
少しより道が長くなってしまいました。野麦街道に戻ります。
道路わきに石碑が見えたので、車を止めて確認すると、石碑は新旧2基建っています。
古い石碑は風化が激しく、文字は判読できません。新しい方は昭和62年12月吉日に奈川村が建立したもの。その脇のトンネルの入り口の様な、自然石を組み上げて、上部をアーチ状にした構造物が出来ている。脇の説明板に、<川浦石室と南無観世音菩薩 道中における毎年の凍死者を救いたいと奈川下郷の庄屋永嶋藤左ヱ門が、文政八年(1825年)に避難小屋を建てた。その功績を称えて木曽藪原の住職が石碑を建てた。昭和62年に石室が再建され、その碑文の訳文を記した。>と、記されています。
この野麦峠は難所の為、冬季には通行人が多数凍死をしたため、造られた避難施設だったようです。
石室の中を覗いて見ると、脇に休憩する為の長いすらしきものが。奥に竈の様なもの、火を焚いて暖を取るためのものか。
石室を後に車はヘアピンカーブの山道を登っていきます。そして前方に「岐阜県高山市」の標識が見えてきました。
目的地の「野麦峠」です。街道から左に脇道に入ると広い駐車場に出ました。
トイレや休憩所が有るようで、何台かの乗用車やオートバイが止まっています。入ってきた道路の脇に「政井みねの像」が建っています。
(男性が背負う少女の名は「政井みね」20歳。男性は少女の兄で「政井辰次郎」31歳。下部の台座の銘板には「あゝ飛騨が見える」と刻まれています。)
この「政井みね」の話は、山本茂美著「あゝ野麦峠」のルポルタージュや、その映画化やテレビドラマ化を通して有名になっています。
ここで、「あゝ野麦峠」からこの石像に関する部分「ああ飛騨が見える」の部分を抜粋させて貰います。
<明治42年11月20日午後2時、野麦峠の頂上で一人の飛騨の工女が息を引きとった。名は政井みね、ニ十歳、信州平野村山一林組の工女である。またその病女を背板にのせて峠の上までかつぎ上げて来た男は、岐阜県吉城郡河合村角川の政井辰次郎(31)、死んだ工女の兄であった。・・・後略>
「政井みね之碑」は更に山の上、旧街道に有るというが、そこまで登る自信もなく、目の前の「お助け小屋」に向かいました。
(お助け小屋は天保12年(1841)に、峠越えをする人達の避難小屋として建てられたもので、現在の建物は、昭和45年に野麦集落の古い家屋を移築したものだそうです。峠を越える若い工女さん達もこの宿で、疲れた体と心を休めて行ったものと思われます。)
現在、お助け小屋の中の食堂では、1979年に全国公開された映画「あゝ野麦峠」のビデオが放映されておりました。
主役「政井みね」役には、今も映画・舞台そしてテレビドラマ等で大活躍をされている、大竹しのぶさんです。兄の「政井辰次郎」役は、地井武男さんでした。他に、古手川祐子さんや原田美恵子さん、友里千賀子さんらの名前も見えました。
上高地への道路が渋滞していた事で、全く計画になかった「野麦峠」を、訪れることが出来ました。
参考資料:
・広辞苑第五版 岩波書店発行
・ウィキペディア 「道祖神」
・鹿沼市公式ホームページ「有形民俗文化財」
・「新版あゝ野麦峠ーある製糸工女哀史ー」山本茂美著 朝日新聞社発行
・ウィキペディア 「あゝ野麦峠(1979年の映画)」
栃木第二公園と神明宮の敷地内に建つ石碑を巡る [石碑]
蔵の街栃木の中心部に、天正十七年(12589)皆川広照によって、栃木城内神明宿(現在の神田町)から現在地に移され、以後栃木町の総鎮守として鎮座する「神明宮」。そしてその南側に隣接する「第二公園」が、今も四季を通して市民の憩いの場となっています。そしてこの敷地内には、多くの石碑が建てられていますので、今回はそれらの石碑を見て廻りたいと思います。
初めに今回巡る石碑の建つ場所を、概略図に表してみました。
便宜上石碑に番号付けして、その番号順に巡っていきたいと思います。
1番目の石碑は、神明宮の参道の右手「手水舎」の西側に建つ二基の石碑の大きな方。石碑上部の篆額に大きく「興学碑」と刻まれている石碑です。
実は、この石碑に関しては、今年の5月28日付け<栃木市の神明宮境内に建つ「興学碑」を探る>で、紹介させて頂いてますので、興味が有りましたら、そちらも覗いて見て下さい。
この石碑は、大正天皇の御即位大典記念の事業の一つとして、大正四年に建てられたものになります。碑文のしっかりと刻まれて読みやすいと感じました。書き写した碑文を掲示します。又、碑陰には栃木県内全域はもとより、全国各地からの賛同者の名前を見ることが出来ます。その数1,861人と1団体にも成っています。
篆額の「興学碑」の文字を揮毫したのは、下野宇都宮藩第七代藩主の子爵戸田忠友。
(篆額部拡大写真)
碑文を撰した人物は、伊勢神宮禰宜の小村鄰(下総古河藩士の長男に生まれ、明治5年栃木町神明宮祠官となる)です。
碑陰の芳名者について調査記録する為、エクセル表に記録をしました。
この石碑には、明治期初期の中教院をめぐる動きを中心に、歴史の一幕が記されています。
2番目は、興学碑の前に建つ小ぶりな石碑です。
石碑正面に「皇大神宮太上御神樂講」と大書されています。碑陰には「明治三十五年四月建之」その脇に「半古柳田無忝書」と有ります。石工は松村三瓢です。
皇大神宮は、三重県伊勢市に有る神社。一般には「内宮」と呼ばれています。
3番目は、神明宮社殿の裏手、現在第二公園瓢箪池に流れ込む水路の源に建てられている石碑です。
(現在の神明宮社殿裏手を流れている水路、手前は地下水が汲み上げられ、湧き出ている)
石碑上部に「御手洗水」と刻まれ、その下に「萬町」「倭町」「室町」「湊町」「嘉エ門町」「旭町」の町名と数人の名前が並んでいます。下側は土が付着して見えません。何時頃建てられたものか残念ですが確認できません。
石碑に記されている人名から推定できるか、確認出来る名前を探した結果、平澤浅次郎と根岸政德の二人しか判明しなかった。この二人が活動した期間が石碑が建てられた時期に当たるものと推測。すると平澤浅次郎は、弘化4年(1847)から昭和2年(1927)まで享年81歳との長寿でした。それに対して根岸政德は嘉永6年(1853)から明治27年(1894)までで、享年42歳の生涯でした。したがって根岸政德の活動時期だけ見ると、彼は明治24年(1891)4月に、栃木町の初代町長となり、そこから亡くなるまでの約3年間の間にこの石碑が建てられたと考えて良いのではないかと思います。
尚、私が子供の頃には、現在旭町三丁目公民館が建っている場所には、お稲荷さんが祀られていて、その周りに滑り台とか、左右にスイングする3・4人乗れるブランコのような遊具が有った記憶が残っています。駄菓子屋の様なお店も有って、もんじゃ焼も出来た。神明宮側から来るには、湧水からの水路に架かる板の橋を渡らなければならなかった。今は全くその頃の面影は無くなっている。お稲荷さんは、今は参道の左手、手水舎の反対側に移されています。
(上の写真2枚の内最初は現在の神明宮社殿裏手の「親水公園」です。水路を汲み上げた水が流れ、瓢箪池に通じています。水路の奥に見える建物が、旭町三丁目公民館です。そして2枚目が以前の写真で、水路は深く広く、板橋の向こう側に鳥居、そして稲荷神社が有りその奥に、お店が写っています。)
4番目の石碑は、第二公園側敷地の中央辺り、遊具が有る児童公園と瓢箪池が有る庭園との境界辺り、花壇の中に建てられています。
石碑正面には、<叡慮にて 賑ふ民の 庭竈>という、芭蕉の句が刻まれています。
この石碑は、明治三十三年五月十日の皇太子(後の大正天皇)のご成婚を祝って、栃木町長櫻井源四郎の発起で建てられたようです。碑陰に刻まれている人達は、その当時町内の著名人(俳人)達です。
この石碑に関しても、今年の5月3日付けでこのブログで紹介をしています。
5番目の石碑は、上部に「千歳松」と刻まれた石碑です。
この石碑は、残念ですが現在は倒れています。場所は、瓢箪池の南西部、松の木の根元に碑陰を上にして倒れた状態のままになっています。
実際は「千歳松」の、「歳」の文字は冠部が「止」ではなく「山」(やまかんむり)の漢字が使われています。又、その下に刻まれている、おそらく和歌と思われますが、私には読むことが出来ませんでした。
6番目の石碑ですが、この石碑も現在倒れてしまっています。
以前撮影した写真が有りますが、木立の陰になってハッキリ文字を読むことが出来ませんでした。
石碑正面に刻まれた文字は、「日露戰役記念碑」その左横に揮毫者「元帥侯爵山縣有朋書」の名前が見えました。碑陰の碑文は「平安 劉須謹撰併書」、そしてこの石碑を建てたのは、「栃木町 戰時義會建之」となっています。
次、7番目の石碑は、瓢箪池の北西側池の脇に建てられています。
写真では少し分かり難いですが、写真中央部に縦長の楕円状の自然石に、寄せ書き風に何句か、俳句が思い思いの字体で記されています。
一部拡大して見ます。
よく観察をすると、俳句の後に「俳号」が読み取れます。確認できた「俳号」を記すと、「一樹」「一寳」「耕圃」などで、これらの俳号は、4番目の芭蕉句碑にも有ったものです。石碑の裏手に「大正四乙卯 」と読めますから、西暦1915年に建立された石碑に成ります。
8番目は、瓢箪池の中の島部分に建てられた、「還御乃松」と刻まれた石碑です。
「還御(かんぎょ)」の意味を広辞苑にて調べると、<①天皇・三后などが行幸啓先から帰ることの尊敬語。②将軍・公卿が他行先から帰ることを、分を越えて用いた語。>と説明されています。残念ながらそれ以上は分かりませんでした。この石碑、噴水の飛沫を浴びているのか、他の石碑に比べて風化が激しいようです。
9番目は瓢箪池の中の島に架かる石橋を渡って、池の東側袂に建てられた石碑です。
この石碑もどう紹介していいか、石碑に刻まれている文字を、私の能力では太刀打ちできません。
言えることは、石碑のほぼ中央で建て割れをしている。そして石碑前面に崩し字で多くの俳句らしき文字が並んでいる。というところで、私のお願いとしては、この石碑に関してご存じの方は、是非ご教示願いたいと、言う事です。
10番目は、池の端の東屋の北側付近に建つ1本の石柱です。
石柱正面に刻まれた文字は、「日下開山二代横綱力士綾川五郎次碑」。そして側面には以下の通り。
綾川五郎次者下野國栃木産享保二年大関
備前國岡山候召賜厚禄二代横綱力士也
明治三十三年十月十二代横綱力士陣幕久五郎土師通髙建之
栃木県宇都宮市からは、初代横綱「明石志賀之助」が出ています。そして栃木市(旧藤岡町)からは、<大相撲史上 最強力士のひとりに数えられる第27代横綱栃木山守也」(板橋雄三郎著「探訪 栃木山」より)>が出ています。
ちなみに綾川五郎次の墓は、市内の天台宗の古刹「定願寺」の墓地内に有ります。又、太平山神社の表参道、隨神門を潜って社殿に向かって石段を登っていくと、参道右手に大きな岩の様な石が有ります。横に建てられた案内には、「綾川五郎次受留めの石」と記されています。
11番目の石碑は、瓢箪池の東側の東屋の近く、築山の脇に建っています。
石碑の正面には「皇太子殿下御慶事記念公園之碑」と大きく刻まれています。揮毫者は「宮内大臣正二位勲一等子爵田中光顯謹書」と有ります。又碑陰を見ると「御成婚 明治三十三年五月十日」の文字。
この石碑にも有るように、ここ栃木第二公園そのものが皇太子殿下(後の大正天皇)のご成婚記念事業として、造成されたことが分かります。
12番目の石碑と、13番目の石碑は、築山内に並んで建てられています。
大きな石碑が12番目で、「藤田高綱先生之碑」で、その左側の小さい石碑が13番目、「藤田高綱先生追悼之碑」と刻まれています。
まず、大きい方12番目の石碑を見ます。
石碑上部の篆額に「藤田高綱先生之碑」と篆書体で書かれています。その下の碑文には、藤田高綱の生涯が記されています。
碑陰には発起人や寄附者の名前が並び、どの範囲の地域からなのか見ると、「栃木町」を始め、「北犬飼村」「富山村」「岩舟村」「小野寺村」「南摩村」「粟野町」「清州村」「結城町」など広範囲の人達から寄附が寄せられていることが分かります。
碑が建てられたのは、大正十年九月で二代目藤田錦太郎正綱の時になります。
万町にある「武徳殿」は、1911年に藤田高綱の尽力よって設立されたもので、1944年に栃木市に寄贈されています。現在も豆剣士達の元気な声が響いています。
この石碑に関しては、2017年9月25日付にて<栃木第二公園の築山上に建つ「藤田高綱先生之碑」>と題して、紹介をしています。
13番目は12番のお隣に並んで建てられている、「藤田高綱先生追悼之碑」です。
碑陰の内容を、書き写してみました。そこには栃木剣道連盟の役員の方々の名前が並んでいます。碑が建てられたのは、昭和39年2月9日の日付が刻まれています。建碑の目的は碑題の通り、追悼とすると、想像するに藤田高綱先生が亡くなられた年、大正2年12月から50年が過ぎたことで、改めて追悼の意を示したのではと。
14番目、最後の石碑に成ります。第二公園の東側入り口から入ると、右手に建っています。
篆額に「正五位藤川君碑銘」と、篆書体文字で刻まれています。揮毫した人物は「内大臣従一位大勲位公爵三條實美」です。
碑文を書き写そうと始めましたが、気持ちが折れて途中で断念してしまいました。文章が漢文体で私の苦手な文と同時に、文字間にゆとりが無く、漢字がびっしりと並んで、更に漢字が独特な形をして、ともかく読みにくいのです。
碑が建てられたのは明治19年6月、碑文末尾に刻まれていますが、このころはここ第二公園はまだ整備されていなかった為、建碑の場所は別の所だったと推定されます。碑文に目を凝らして見ていくと、最後の方に「建碑」の文字を見つけその後に「墓側」と続いています。そこから「お墓の側らに碑を建てる」とは読まないだろうか。
ちなみに藤川為親の墓は、栃木市湊町の白旗山勝泉院の墓地内に有ります。
栃木県の第二代県令だった藤川為親は、こよなく栃木町の雰囲気を愛していたと聞きます。明治16年10月30日三島通庸が第三代栃木県令になると、藤川為親は島根県令に異動になります。しかし2年後明治18年8月28日病没しました。享年50歳でした。今は栃木の地に戻り、静かに眠っています。
以上で、神明宮と栃木第二公園の敷地内に建てられた、14基の石碑を一通り見ました。まだまだわからない事も多いので、今後とも資料や情報の収集をしていきたいと考えています。
初めに今回巡る石碑の建つ場所を、概略図に表してみました。
便宜上石碑に番号付けして、その番号順に巡っていきたいと思います。
1番目の石碑は、神明宮の参道の右手「手水舎」の西側に建つ二基の石碑の大きな方。石碑上部の篆額に大きく「興学碑」と刻まれている石碑です。
実は、この石碑に関しては、今年の5月28日付け<栃木市の神明宮境内に建つ「興学碑」を探る>で、紹介させて頂いてますので、興味が有りましたら、そちらも覗いて見て下さい。
この石碑は、大正天皇の御即位大典記念の事業の一つとして、大正四年に建てられたものになります。碑文のしっかりと刻まれて読みやすいと感じました。書き写した碑文を掲示します。又、碑陰には栃木県内全域はもとより、全国各地からの賛同者の名前を見ることが出来ます。その数1,861人と1団体にも成っています。
篆額の「興学碑」の文字を揮毫したのは、下野宇都宮藩第七代藩主の子爵戸田忠友。
(篆額部拡大写真)
碑文を撰した人物は、伊勢神宮禰宜の小村鄰(下総古河藩士の長男に生まれ、明治5年栃木町神明宮祠官となる)です。
碑陰の芳名者について調査記録する為、エクセル表に記録をしました。
この石碑には、明治期初期の中教院をめぐる動きを中心に、歴史の一幕が記されています。
2番目は、興学碑の前に建つ小ぶりな石碑です。
石碑正面に「皇大神宮太上御神樂講」と大書されています。碑陰には「明治三十五年四月建之」その脇に「半古柳田無忝書」と有ります。石工は松村三瓢です。
皇大神宮は、三重県伊勢市に有る神社。一般には「内宮」と呼ばれています。
3番目は、神明宮社殿の裏手、現在第二公園瓢箪池に流れ込む水路の源に建てられている石碑です。
(現在の神明宮社殿裏手を流れている水路、手前は地下水が汲み上げられ、湧き出ている)
石碑上部に「御手洗水」と刻まれ、その下に「萬町」「倭町」「室町」「湊町」「嘉エ門町」「旭町」の町名と数人の名前が並んでいます。下側は土が付着して見えません。何時頃建てられたものか残念ですが確認できません。
石碑に記されている人名から推定できるか、確認出来る名前を探した結果、平澤浅次郎と根岸政德の二人しか判明しなかった。この二人が活動した期間が石碑が建てられた時期に当たるものと推測。すると平澤浅次郎は、弘化4年(1847)から昭和2年(1927)まで享年81歳との長寿でした。それに対して根岸政德は嘉永6年(1853)から明治27年(1894)までで、享年42歳の生涯でした。したがって根岸政德の活動時期だけ見ると、彼は明治24年(1891)4月に、栃木町の初代町長となり、そこから亡くなるまでの約3年間の間にこの石碑が建てられたと考えて良いのではないかと思います。
尚、私が子供の頃には、現在旭町三丁目公民館が建っている場所には、お稲荷さんが祀られていて、その周りに滑り台とか、左右にスイングする3・4人乗れるブランコのような遊具が有った記憶が残っています。駄菓子屋の様なお店も有って、もんじゃ焼も出来た。神明宮側から来るには、湧水からの水路に架かる板の橋を渡らなければならなかった。今は全くその頃の面影は無くなっている。お稲荷さんは、今は参道の左手、手水舎の反対側に移されています。
(上の写真2枚の内最初は現在の神明宮社殿裏手の「親水公園」です。水路を汲み上げた水が流れ、瓢箪池に通じています。水路の奥に見える建物が、旭町三丁目公民館です。そして2枚目が以前の写真で、水路は深く広く、板橋の向こう側に鳥居、そして稲荷神社が有りその奥に、お店が写っています。)
4番目の石碑は、第二公園側敷地の中央辺り、遊具が有る児童公園と瓢箪池が有る庭園との境界辺り、花壇の中に建てられています。
石碑正面には、<叡慮にて 賑ふ民の 庭竈>という、芭蕉の句が刻まれています。
この石碑は、明治三十三年五月十日の皇太子(後の大正天皇)のご成婚を祝って、栃木町長櫻井源四郎の発起で建てられたようです。碑陰に刻まれている人達は、その当時町内の著名人(俳人)達です。
この石碑に関しても、今年の5月3日付けでこのブログで紹介をしています。
5番目の石碑は、上部に「千歳松」と刻まれた石碑です。
この石碑は、残念ですが現在は倒れています。場所は、瓢箪池の南西部、松の木の根元に碑陰を上にして倒れた状態のままになっています。
実際は「千歳松」の、「歳」の文字は冠部が「止」ではなく「山」(やまかんむり)の漢字が使われています。又、その下に刻まれている、おそらく和歌と思われますが、私には読むことが出来ませんでした。
6番目の石碑ですが、この石碑も現在倒れてしまっています。
以前撮影した写真が有りますが、木立の陰になってハッキリ文字を読むことが出来ませんでした。
石碑正面に刻まれた文字は、「日露戰役記念碑」その左横に揮毫者「元帥侯爵山縣有朋書」の名前が見えました。碑陰の碑文は「平安 劉須謹撰併書」、そしてこの石碑を建てたのは、「栃木町 戰時義會建之」となっています。
次、7番目の石碑は、瓢箪池の北西側池の脇に建てられています。
写真では少し分かり難いですが、写真中央部に縦長の楕円状の自然石に、寄せ書き風に何句か、俳句が思い思いの字体で記されています。
一部拡大して見ます。
よく観察をすると、俳句の後に「俳号」が読み取れます。確認できた「俳号」を記すと、「一樹」「一寳」「耕圃」などで、これらの俳号は、4番目の芭蕉句碑にも有ったものです。石碑の裏手に「大正四乙卯 」と読めますから、西暦1915年に建立された石碑に成ります。
8番目は、瓢箪池の中の島部分に建てられた、「還御乃松」と刻まれた石碑です。
「還御(かんぎょ)」の意味を広辞苑にて調べると、<①天皇・三后などが行幸啓先から帰ることの尊敬語。②将軍・公卿が他行先から帰ることを、分を越えて用いた語。>と説明されています。残念ながらそれ以上は分かりませんでした。この石碑、噴水の飛沫を浴びているのか、他の石碑に比べて風化が激しいようです。
9番目は瓢箪池の中の島に架かる石橋を渡って、池の東側袂に建てられた石碑です。
この石碑もどう紹介していいか、石碑に刻まれている文字を、私の能力では太刀打ちできません。
言えることは、石碑のほぼ中央で建て割れをしている。そして石碑前面に崩し字で多くの俳句らしき文字が並んでいる。というところで、私のお願いとしては、この石碑に関してご存じの方は、是非ご教示願いたいと、言う事です。
10番目は、池の端の東屋の北側付近に建つ1本の石柱です。
石柱正面に刻まれた文字は、「日下開山二代横綱力士綾川五郎次碑」。そして側面には以下の通り。
綾川五郎次者下野國栃木産享保二年大関
備前國岡山候召賜厚禄二代横綱力士也
明治三十三年十月十二代横綱力士陣幕久五郎土師通髙建之
栃木県宇都宮市からは、初代横綱「明石志賀之助」が出ています。そして栃木市(旧藤岡町)からは、<大相撲史上 最強力士のひとりに数えられる第27代横綱栃木山守也」(板橋雄三郎著「探訪 栃木山」より)>が出ています。
ちなみに綾川五郎次の墓は、市内の天台宗の古刹「定願寺」の墓地内に有ります。又、太平山神社の表参道、隨神門を潜って社殿に向かって石段を登っていくと、参道右手に大きな岩の様な石が有ります。横に建てられた案内には、「綾川五郎次受留めの石」と記されています。
11番目の石碑は、瓢箪池の東側の東屋の近く、築山の脇に建っています。
石碑の正面には「皇太子殿下御慶事記念公園之碑」と大きく刻まれています。揮毫者は「宮内大臣正二位勲一等子爵田中光顯謹書」と有ります。又碑陰を見ると「御成婚 明治三十三年五月十日」の文字。
この石碑にも有るように、ここ栃木第二公園そのものが皇太子殿下(後の大正天皇)のご成婚記念事業として、造成されたことが分かります。
12番目の石碑と、13番目の石碑は、築山内に並んで建てられています。
大きな石碑が12番目で、「藤田高綱先生之碑」で、その左側の小さい石碑が13番目、「藤田高綱先生追悼之碑」と刻まれています。
まず、大きい方12番目の石碑を見ます。
石碑上部の篆額に「藤田高綱先生之碑」と篆書体で書かれています。その下の碑文には、藤田高綱の生涯が記されています。
碑陰には発起人や寄附者の名前が並び、どの範囲の地域からなのか見ると、「栃木町」を始め、「北犬飼村」「富山村」「岩舟村」「小野寺村」「南摩村」「粟野町」「清州村」「結城町」など広範囲の人達から寄附が寄せられていることが分かります。
碑が建てられたのは、大正十年九月で二代目藤田錦太郎正綱の時になります。
万町にある「武徳殿」は、1911年に藤田高綱の尽力よって設立されたもので、1944年に栃木市に寄贈されています。現在も豆剣士達の元気な声が響いています。
この石碑に関しては、2017年9月25日付にて<栃木第二公園の築山上に建つ「藤田高綱先生之碑」>と題して、紹介をしています。
13番目は12番のお隣に並んで建てられている、「藤田高綱先生追悼之碑」です。
碑陰の内容を、書き写してみました。そこには栃木剣道連盟の役員の方々の名前が並んでいます。碑が建てられたのは、昭和39年2月9日の日付が刻まれています。建碑の目的は碑題の通り、追悼とすると、想像するに藤田高綱先生が亡くなられた年、大正2年12月から50年が過ぎたことで、改めて追悼の意を示したのではと。
14番目、最後の石碑に成ります。第二公園の東側入り口から入ると、右手に建っています。
篆額に「正五位藤川君碑銘」と、篆書体文字で刻まれています。揮毫した人物は「内大臣従一位大勲位公爵三條實美」です。
碑文を書き写そうと始めましたが、気持ちが折れて途中で断念してしまいました。文章が漢文体で私の苦手な文と同時に、文字間にゆとりが無く、漢字がびっしりと並んで、更に漢字が独特な形をして、ともかく読みにくいのです。
碑が建てられたのは明治19年6月、碑文末尾に刻まれていますが、このころはここ第二公園はまだ整備されていなかった為、建碑の場所は別の所だったと推定されます。碑文に目を凝らして見ていくと、最後の方に「建碑」の文字を見つけその後に「墓側」と続いています。そこから「お墓の側らに碑を建てる」とは読まないだろうか。
ちなみに藤川為親の墓は、栃木市湊町の白旗山勝泉院の墓地内に有ります。
栃木県の第二代県令だった藤川為親は、こよなく栃木町の雰囲気を愛していたと聞きます。明治16年10月30日三島通庸が第三代栃木県令になると、藤川為親は島根県令に異動になります。しかし2年後明治18年8月28日病没しました。享年50歳でした。今は栃木の地に戻り、静かに眠っています。
以上で、神明宮と栃木第二公園の敷地内に建てられた、14基の石碑を一通り見ました。まだまだわからない事も多いので、今後とも資料や情報の収集をしていきたいと考えています。
栃木県内で新たに2種類のマンホールカードがお目見え [コレクション]
先月の末に、マンホールカードの第23弾が、配布を開始しました。
この第23弾にて、全国で41種類の新しいマンホールカードが追加されています。
栃木県内では、宇都宮市と上三川町との、2自治体より発行されています。
栃木県内での発行は、令和5年1月28日の、さくら市と壬生町の発行以来、1年半ぶりの新種発行に成りました。
宇都宮市は今回のカードで、3種類目になりました。
私も早速、宇都宮に行ってカードを頂いて来ました。
(宇都宮市3種類目のカードは、現在注目中の「LRT」の、黄色と黒色のスッキリとした車両本体を描いています。バックには「宇都宮タワー」や「下野国一之宮 二荒山神社」の大鳥居なども描かれ、更にその背景には「稲光」のジグザグ模様がデザインされています。)
私は配布開始日の翌日に行ってきましたが、その後の情報に寄りますと、準備したカードは1週間ほどで品切れと成った様で、現在は配布が一時中止されているようです。
又、今回同時に配布を開始した、埼玉県深谷市の「渋沢栄一翁」をデザインしたマンホールカードに至っては、新一万円札に採用されていることなどで、記念に入手しようとする人で、即日予定配布枚数に達して、早々と配布が一時中止となっている様です。
今回のカードの配布場所は、JR宇都宮駅西口のトナリエ宇都宮3階「交通未来都市うつのみやオープンスクエア」。私が行った時も大勢の人たちが、会場内で展示物のLRTの模型や、今後の駅西側への事業展開構想の掲示パネル等を見学していました。
目的のカードをゲットした後、実際のLRTを撮影する為、JR宇都宮駅東口の停留所まで足をのばしました。なぜかその日は、佐野市のブランドキャラクター「さのまる」君が、LRTの見送りをしていいました。うだるような猛暑の中、着ぐるみの中はどれほどなのか、大変な仕事だなと他人事ながら、心配になりました。
宇都宮東口停留所の直ぐ脇に、お相撲さんの像が建っていました。
「日下開山」初代横綱 明石志賀之助の像です。駅西口の「餃子像」は有名になっていますが、こちらの力士像は、建立が2022年11月とまだ新しい為、知名度はまだの様です。
次に、上三川町に向かい、「創作折り紙のマンホールカード」を入手しました。
マンホール蓋のデザインは、カード裏面に記されていますが、<上三川町出身の創作折り紙作家「吉澤 章」さんの折り紙作品「ペンギン」「バンビ」「ゴリラ」と「ORIGAMIのまちかみのかわ」のロゴマークを描いています。>
吉澤 章さんは、1911年3月14日、栃木県河内郡上三川町に生まれました。12歳で上京して、様々な職業についています。幼いころより折り紙が好きで、1938年より独学で折り紙の本格的な研究を行い、折り紙の世界的な普及に尽力しました。
2005年3月14日に肺炎のため病院で死去しています。丁度94歳の誕生日でした。
カードの配布場所は、「上三川町ORIGAMIプラザ」です。直ぐ近くには栃木県流域下水道が発行した「とちまるくん」を描いた、マンホールカードの配布場所も有り、相乗効果でそちらにも大勢のコレクターが訪れているようです。
当日も施設内には、折り紙を実際に楽しんでいる人達が、大勢見受けられました。
今回栃木県内のマンホールカードは、新たに2種類加わったことで、21種に成り、私も2枚ゲット出来ましたので、100%をキープしています。ただ、マンホールカードのコレクションは、毎年100枚程度が次々に発行されますので、収集が追いつきません。
去年から今年にかけて、四国4県のカードを完全攻略(一部配布が中止になっている所を除く)しましたが。今回新たに4種類が加わり、100%が崩れました。
このマンホールカードは無料で入手することが出来ますが、現地での手渡しが原則ですので、大変ですが、観光がてらの収集で、現地では思わぬ風景に出会うこともあり、今後も全国を駆け回りたいと思っています。元気な内に。
この第23弾にて、全国で41種類の新しいマンホールカードが追加されています。
栃木県内では、宇都宮市と上三川町との、2自治体より発行されています。
栃木県内での発行は、令和5年1月28日の、さくら市と壬生町の発行以来、1年半ぶりの新種発行に成りました。
宇都宮市は今回のカードで、3種類目になりました。
私も早速、宇都宮に行ってカードを頂いて来ました。
(宇都宮市3種類目のカードは、現在注目中の「LRT」の、黄色と黒色のスッキリとした車両本体を描いています。バックには「宇都宮タワー」や「下野国一之宮 二荒山神社」の大鳥居なども描かれ、更にその背景には「稲光」のジグザグ模様がデザインされています。)
私は配布開始日の翌日に行ってきましたが、その後の情報に寄りますと、準備したカードは1週間ほどで品切れと成った様で、現在は配布が一時中止されているようです。
又、今回同時に配布を開始した、埼玉県深谷市の「渋沢栄一翁」をデザインしたマンホールカードに至っては、新一万円札に採用されていることなどで、記念に入手しようとする人で、即日予定配布枚数に達して、早々と配布が一時中止となっている様です。
今回のカードの配布場所は、JR宇都宮駅西口のトナリエ宇都宮3階「交通未来都市うつのみやオープンスクエア」。私が行った時も大勢の人たちが、会場内で展示物のLRTの模型や、今後の駅西側への事業展開構想の掲示パネル等を見学していました。
目的のカードをゲットした後、実際のLRTを撮影する為、JR宇都宮駅東口の停留所まで足をのばしました。なぜかその日は、佐野市のブランドキャラクター「さのまる」君が、LRTの見送りをしていいました。うだるような猛暑の中、着ぐるみの中はどれほどなのか、大変な仕事だなと他人事ながら、心配になりました。
宇都宮東口停留所の直ぐ脇に、お相撲さんの像が建っていました。
「日下開山」初代横綱 明石志賀之助の像です。駅西口の「餃子像」は有名になっていますが、こちらの力士像は、建立が2022年11月とまだ新しい為、知名度はまだの様です。
次に、上三川町に向かい、「創作折り紙のマンホールカード」を入手しました。
マンホール蓋のデザインは、カード裏面に記されていますが、<上三川町出身の創作折り紙作家「吉澤 章」さんの折り紙作品「ペンギン」「バンビ」「ゴリラ」と「ORIGAMIのまちかみのかわ」のロゴマークを描いています。>
吉澤 章さんは、1911年3月14日、栃木県河内郡上三川町に生まれました。12歳で上京して、様々な職業についています。幼いころより折り紙が好きで、1938年より独学で折り紙の本格的な研究を行い、折り紙の世界的な普及に尽力しました。
2005年3月14日に肺炎のため病院で死去しています。丁度94歳の誕生日でした。
カードの配布場所は、「上三川町ORIGAMIプラザ」です。直ぐ近くには栃木県流域下水道が発行した「とちまるくん」を描いた、マンホールカードの配布場所も有り、相乗効果でそちらにも大勢のコレクターが訪れているようです。
当日も施設内には、折り紙を実際に楽しんでいる人達が、大勢見受けられました。
今回栃木県内のマンホールカードは、新たに2種類加わったことで、21種に成り、私も2枚ゲット出来ましたので、100%をキープしています。ただ、マンホールカードのコレクションは、毎年100枚程度が次々に発行されますので、収集が追いつきません。
去年から今年にかけて、四国4県のカードを完全攻略(一部配布が中止になっている所を除く)しましたが。今回新たに4種類が加わり、100%が崩れました。
このマンホールカードは無料で入手することが出来ますが、現地での手渡しが原則ですので、大変ですが、観光がてらの収集で、現地では思わぬ風景に出会うこともあり、今後も全国を駆け回りたいと思っています。元気な内に。
山本有三、今年没後50年。三鷹市の山本有三記念館へ。 [建物]
<たったひとりしかない自分を、
たった一度しかない一生を
ほんとうに生かさなかったら、
人間、うまれてきたかいが
ないじゃないか。>
この言葉、栃木市民なら誰もが、一度や二度、いやそれ以上、何度となく目にし、そして空で口ずさむことが出来る言葉と言っても、過言ではないと思います。
言わずと知れた、栃木市の名誉市民第一号となられた、栃木市出身の小説家であり劇作家でもあり、政治家としても活躍した、「山本有三」の代表的作品、「路傍の石」の一節です。
この言葉を刻した文学碑が、市内のいたる所に建てられています。
(太平山上、謙信平の西端に建てられている、山本有三文学碑)
(栃木駅北口ロータリー東側と、境町瀬戸河原公園に建つ山本有三文学碑)
そして今年は、その「山本有三」没後50年に成ることから、現在「栃木市立文学館」において、「没後50年 山本有三宛書簡から見る交友」と題した企画展が、開催されています。
(山本有三没後50年の企画展が開催されている、栃木市立文学館)
その受付にて、山本有三関連施設(栃木市立文学館・山本有三ふるさと記念館・三鷹市山本有三記念館)の3館連携コラボイベント・スタンプラリーのシートを手にしました。
市内に有る2か所は、これまでも何度も見学をしていますが、三鷹市の記念館はまだ行ったことが有りません。以前より行きたいと思っていたので、今回これをきっかけに、三鷹市まで足を延ばすことにしました。
栃木駅からは、東武日光線で栗橋乗換、JR線で新宿を経由して中央線で三鷹駅へ。時間的には2時間ちょっと。電車賃は1700円もかからない。
JR三鷹駅から目的の「三鷹市山本有三記念館」までは、徒歩で10分ほどだ。
東西に走るJR中央線の三鷹駅の下には、西北西から東南東に約30度の傾きを以て、玉川上水が交差している。
(三鷹駅南口東側に、玉川上水に架かる「三鷹橋」、後方に三鷹駅のホームが見える。玉川上水はこの三鷹駅ホームの下を流れている。)
したがって駅南口から玉川上水の脇の道を、東南東方向に歩けばよく、迷うことはない。
(写真左側の、気が鬱蒼としている中を玉川上水は流れている。玉川上水は、羽村取水口から四谷大木戸までの約43kmにわたる水路で、承応3年(1654)に完成しました。これにより、多摩川の水が江戸市中の広い範囲に供給され、江戸が大きく発展することが出来ました。国指定史跡に成っています。)
尚この道は、三鷹駅から「三鷹の森ジブリ美術館」へ行くルートにも当たるので、途中ジブリ美術館への案内板が目に付きました。
(三鷹の森ジブリ美術館への案内表示。歩道上にも何やら動物の足跡も、こちらへ歩けとのサインか)
目的の山本有三記念館までは、700m程の距離であるが、その丁度中間点、歩道の脇に「太宰碑」や、「玉鹿石(太宰治入水の地)」を見ることが出来る。
(「太宰碑」には、「乞食学生」の中の一節が刻まれ、玉川上水の水路脇に座る太宰の写真が見える。現在の玉川上水は、先に掲載した写真の様に木々が鬱蒼と茂り、水の流れを見ることが難しくなっています。道路わきに置かれた「玉鹿石(ぎょっかせき)」は太宰の故郷、青森県北津軽郡金木町産。太宰治はこの近くで、昭和23年(1948)6月、自ら玉川上水に入水し、その39年の生涯を終えました。)
あちらこちら見物しながらも、目的の山本有三記念館前にたどり着きました。
(写真は三鷹市山本有三記念館の入口。入口の門の手前左側に、大きな石が置かれています。)
(石の脇に建てられた説明板によると、「名作を記念する”路傍の石”」として、この石の由来が記されています。抜粋して紹介いたします。<小説「路傍の石」執筆当時の昭和12年、有三は中野旧陸軍電信隊付近の道ばたでこの大きな石を見つけ、この家の裏庭に運び込んだと伝えられています。この石は、作品の名に因み、いつしか”路傍の石”と呼ばれ親しまれるようになり、・・・(後略)>
ただ、小説「路傍の石」から連想される路傍の石は、このようながっちりとした大きな石ではなかったと思います。「路傍の石」の作品の中には、次のように書かれています。
<何のことはない、吾一は路傍の小石のようなものだった。奉公に出されて以来、いや、父親にほうり出されて以来といった方がいいだろう。あつちへ蹴飛ばされ、こつちへ蹴飛ばされしていたが、今度は、母と娘で貸間をやっている家の台所に、ほうり込まれてしまった。・・・(後略)>
「路傍の石」は、そんな誰にも気に留められず、知らず知らずに蹴飛ばされ、蹴飛ばされする、道端の小石でしかない存在だった。
記念館の前にどしりと構えた、大きな岩のような石では無い。ただ、ただ小石のような人間が、苦労し努力をして、人生最後において、大きな人間に成長する。そんな希望をこの石は込めているのかもしれない。
門から中に入ると、右手に「山本有三先生顕彰碑」が建てられています。石碑に嵌められている山本有三の肖像は、栃木市太平山上の文学碑の肖像と同じもので、石井鶴三の作です。
敷地の中には、記念館を見学に来た人たちだけでなく、その建物等をスケッチする人達の姿も、数人いました。
記念館の外観は、趣のある洋風建築美しくといった感じ。周辺には大きな木々もあり落ち着いた空気に包まれている。
玄関は北側に位置し、その横には暖炉の外側部分が石積みになっているが、その石積みの幾何学模様が美しく感じられた。
山本有三は、この家に昭和11年から進駐軍に接収される、昭和21年まで約10年間居住して、この家で代表作「路傍の石」を執筆しています。
玄関は重厚な二重扉に、外扉は前回となっていますが、その先の内扉に入室が気後れします。その重い扉を開けて中に踏み入ります。
入った右手に受付カウンターが有り、そこでスタンプラリーのシートを出して、スタンプを押します。受付のスタッフの方が、私が栃木から来たことを知って、歓迎してくれました。室内での写真撮影に関して確認をして、室内を見学しました。
建物は地上2階・地下1階建てに、屋根裏部屋もあり、そこは子供の遊び場にもなっていたようですが、その部分は非公開エリアに成っていました。一階の食堂や応接間そして、イングルヌックと呼ばれる空間の3か所に、それぞれ異なったデザインの暖炉を見る事が出来ます。
「イングルヌック」とはスコットランドの古語で、「暖かくて居心地がいい場所」という意味だと説明が有りました。
二階への階段の踊り場の明り取りの窓には、幾何学模様のステンドグラスが、色鮮やかな光を放っています。
2階の一室に和室が残されていました。ここも元は洋間だったものを有三が和風に作り替え、和書斎としたそうで、外観やその他の部屋の洋風デザインの中で、異質の落ち着いた空気が流れているようです。室内は部屋数も多く展示品も多くじっくりと見て廻りました。
室内の見学を終え、次に外に出てから玄関の有る北側から、南側へ回り込みます。
南側からの建物の外観は、北側のデザインと全く異なっています。一階の石のテラスは栃木県産の大谷石が使われています。この大谷石は暖炉の外側部分の石積みにも使われています。
記念館の建物の南側には、現在「有三記念公園」となっています。この自然空間には、山本有三が愛した築山の竹林や、故郷栃木から運ばせた石で造った池などが有りました。
その後、スタンプラリーの残りの1か所、「山本有三ふるさと記念館」に行って、スタンプラリーのシートを完成させました。
(最後、3ヵ所目の山本有三ふるさと記念館。これまでも何度か見学していますが、今回改めてじっくりと館内を見学してきました。)
なんとか3ヵ所の山本有三関連施設を巡って、とち介スタンプを押し、スタンプラリー達成しました。
そして、前々から一度行ってみたかった「三鷹市山本有三記念館」も見学出来ました。
今、栃木市図書館に通って、山本有三の作品を一冊ずつ借りては、読んでいます。
作品を読んで、山本有三の魅力を再発見しています。
たった一度しかない一生を
ほんとうに生かさなかったら、
人間、うまれてきたかいが
ないじゃないか。>
この言葉、栃木市民なら誰もが、一度や二度、いやそれ以上、何度となく目にし、そして空で口ずさむことが出来る言葉と言っても、過言ではないと思います。
言わずと知れた、栃木市の名誉市民第一号となられた、栃木市出身の小説家であり劇作家でもあり、政治家としても活躍した、「山本有三」の代表的作品、「路傍の石」の一節です。
この言葉を刻した文学碑が、市内のいたる所に建てられています。
(太平山上、謙信平の西端に建てられている、山本有三文学碑)
(栃木駅北口ロータリー東側と、境町瀬戸河原公園に建つ山本有三文学碑)
そして今年は、その「山本有三」没後50年に成ることから、現在「栃木市立文学館」において、「没後50年 山本有三宛書簡から見る交友」と題した企画展が、開催されています。
(山本有三没後50年の企画展が開催されている、栃木市立文学館)
その受付にて、山本有三関連施設(栃木市立文学館・山本有三ふるさと記念館・三鷹市山本有三記念館)の3館連携コラボイベント・スタンプラリーのシートを手にしました。
市内に有る2か所は、これまでも何度も見学をしていますが、三鷹市の記念館はまだ行ったことが有りません。以前より行きたいと思っていたので、今回これをきっかけに、三鷹市まで足を延ばすことにしました。
栃木駅からは、東武日光線で栗橋乗換、JR線で新宿を経由して中央線で三鷹駅へ。時間的には2時間ちょっと。電車賃は1700円もかからない。
JR三鷹駅から目的の「三鷹市山本有三記念館」までは、徒歩で10分ほどだ。
東西に走るJR中央線の三鷹駅の下には、西北西から東南東に約30度の傾きを以て、玉川上水が交差している。
(三鷹駅南口東側に、玉川上水に架かる「三鷹橋」、後方に三鷹駅のホームが見える。玉川上水はこの三鷹駅ホームの下を流れている。)
したがって駅南口から玉川上水の脇の道を、東南東方向に歩けばよく、迷うことはない。
(写真左側の、気が鬱蒼としている中を玉川上水は流れている。玉川上水は、羽村取水口から四谷大木戸までの約43kmにわたる水路で、承応3年(1654)に完成しました。これにより、多摩川の水が江戸市中の広い範囲に供給され、江戸が大きく発展することが出来ました。国指定史跡に成っています。)
尚この道は、三鷹駅から「三鷹の森ジブリ美術館」へ行くルートにも当たるので、途中ジブリ美術館への案内板が目に付きました。
(三鷹の森ジブリ美術館への案内表示。歩道上にも何やら動物の足跡も、こちらへ歩けとのサインか)
目的の山本有三記念館までは、700m程の距離であるが、その丁度中間点、歩道の脇に「太宰碑」や、「玉鹿石(太宰治入水の地)」を見ることが出来る。
(「太宰碑」には、「乞食学生」の中の一節が刻まれ、玉川上水の水路脇に座る太宰の写真が見える。現在の玉川上水は、先に掲載した写真の様に木々が鬱蒼と茂り、水の流れを見ることが難しくなっています。道路わきに置かれた「玉鹿石(ぎょっかせき)」は太宰の故郷、青森県北津軽郡金木町産。太宰治はこの近くで、昭和23年(1948)6月、自ら玉川上水に入水し、その39年の生涯を終えました。)
あちらこちら見物しながらも、目的の山本有三記念館前にたどり着きました。
(写真は三鷹市山本有三記念館の入口。入口の門の手前左側に、大きな石が置かれています。)
(石の脇に建てられた説明板によると、「名作を記念する”路傍の石”」として、この石の由来が記されています。抜粋して紹介いたします。<小説「路傍の石」執筆当時の昭和12年、有三は中野旧陸軍電信隊付近の道ばたでこの大きな石を見つけ、この家の裏庭に運び込んだと伝えられています。この石は、作品の名に因み、いつしか”路傍の石”と呼ばれ親しまれるようになり、・・・(後略)>
ただ、小説「路傍の石」から連想される路傍の石は、このようながっちりとした大きな石ではなかったと思います。「路傍の石」の作品の中には、次のように書かれています。
<何のことはない、吾一は路傍の小石のようなものだった。奉公に出されて以来、いや、父親にほうり出されて以来といった方がいいだろう。あつちへ蹴飛ばされ、こつちへ蹴飛ばされしていたが、今度は、母と娘で貸間をやっている家の台所に、ほうり込まれてしまった。・・・(後略)>
「路傍の石」は、そんな誰にも気に留められず、知らず知らずに蹴飛ばされ、蹴飛ばされする、道端の小石でしかない存在だった。
記念館の前にどしりと構えた、大きな岩のような石では無い。ただ、ただ小石のような人間が、苦労し努力をして、人生最後において、大きな人間に成長する。そんな希望をこの石は込めているのかもしれない。
門から中に入ると、右手に「山本有三先生顕彰碑」が建てられています。石碑に嵌められている山本有三の肖像は、栃木市太平山上の文学碑の肖像と同じもので、石井鶴三の作です。
敷地の中には、記念館を見学に来た人たちだけでなく、その建物等をスケッチする人達の姿も、数人いました。
記念館の外観は、趣のある洋風建築美しくといった感じ。周辺には大きな木々もあり落ち着いた空気に包まれている。
玄関は北側に位置し、その横には暖炉の外側部分が石積みになっているが、その石積みの幾何学模様が美しく感じられた。
山本有三は、この家に昭和11年から進駐軍に接収される、昭和21年まで約10年間居住して、この家で代表作「路傍の石」を執筆しています。
玄関は重厚な二重扉に、外扉は前回となっていますが、その先の内扉に入室が気後れします。その重い扉を開けて中に踏み入ります。
入った右手に受付カウンターが有り、そこでスタンプラリーのシートを出して、スタンプを押します。受付のスタッフの方が、私が栃木から来たことを知って、歓迎してくれました。室内での写真撮影に関して確認をして、室内を見学しました。
建物は地上2階・地下1階建てに、屋根裏部屋もあり、そこは子供の遊び場にもなっていたようですが、その部分は非公開エリアに成っていました。一階の食堂や応接間そして、イングルヌックと呼ばれる空間の3か所に、それぞれ異なったデザインの暖炉を見る事が出来ます。
「イングルヌック」とはスコットランドの古語で、「暖かくて居心地がいい場所」という意味だと説明が有りました。
二階への階段の踊り場の明り取りの窓には、幾何学模様のステンドグラスが、色鮮やかな光を放っています。
2階の一室に和室が残されていました。ここも元は洋間だったものを有三が和風に作り替え、和書斎としたそうで、外観やその他の部屋の洋風デザインの中で、異質の落ち着いた空気が流れているようです。室内は部屋数も多く展示品も多くじっくりと見て廻りました。
室内の見学を終え、次に外に出てから玄関の有る北側から、南側へ回り込みます。
南側からの建物の外観は、北側のデザインと全く異なっています。一階の石のテラスは栃木県産の大谷石が使われています。この大谷石は暖炉の外側部分の石積みにも使われています。
記念館の建物の南側には、現在「有三記念公園」となっています。この自然空間には、山本有三が愛した築山の竹林や、故郷栃木から運ばせた石で造った池などが有りました。
その後、スタンプラリーの残りの1か所、「山本有三ふるさと記念館」に行って、スタンプラリーのシートを完成させました。
(最後、3ヵ所目の山本有三ふるさと記念館。これまでも何度か見学していますが、今回改めてじっくりと館内を見学してきました。)
なんとか3ヵ所の山本有三関連施設を巡って、とち介スタンプを押し、スタンプラリー達成しました。
そして、前々から一度行ってみたかった「三鷹市山本有三記念館」も見学出来ました。
今、栃木市図書館に通って、山本有三の作品を一冊ずつ借りては、読んでいます。
作品を読んで、山本有三の魅力を再発見しています。
栃木市太平山のあじさい坂で色とりどりのアジサイの花を見てきました。 [草花]
今年も6月の後半に入りましたが、栃木市はまだ梅雨入りの発表は出されていません。
先週の金曜日から、太平山あじさい坂にて、「とちぎあじさいまつり」が始まりました。そして今日、まつり期間に入って初めての雨の日を迎えました。
早速、あじさい坂に行ってきました。会場手前の市営駐車場に車を止め、傘をさして会場の「あじさい坂」に向かいます。平日で雨ふりで、しかもすでに午後4時に成らんというタイミング、駐車場は数台の車。ゆっくりとアジサイの花を堪能できそうです。
駐車場を出て、太平山神社の参道を登ります。
参道の両側には、色とりどりのアジサイの花が咲いています。「あじさい坂」と記したの案内板の辺り、左手に分岐する道が有ります。あじさい坂登り口左手の六角堂正面入り口前に出ます。
まず、こちらで参拝をします。六角堂はその建物の形から呼ばれたもので、正式には「太平山連祥院」という天台宗の寺院に成ります。本尊は「虚空蔵菩薩」 もとは太平山の神事や仏事を取り仕切る別当寺院でしたが、明治期の神仏分離令により山上より降ろされ、明治38年(1905)に京都の六角堂を模して現在地に建立されました。
太平山神社の参道(あじさい坂)に戻ります。石畳の参道は山上の太平山神社に真っ直ぐ続いています。久しぶりのあじさい坂です。いつ頃設置されたのか、坂道の中央にステンレス製でしょうか、手摺が出来ていました。
雨で濡れた石畳、足元に注意しながら登ります。
坂の両側に続くアジサイの木に咲く色んな色や形のアジサイを鑑賞しつつ、写真に収めていきます。雨に洗われ緑色に輝くアジサイの葉もきれいです。時折アジサイを見つつ昇ってくる人たちもいます。
水玉のついたアジサイの花びら、雨の中だから見ることが出来る、生き生きとしたアジサイの花。
坂を戻るとき、坂道の中央に設置された手摺のありがたさを感じました。高齢者には濡れた石畳を下るのは結構しんどかったのです。
再度、六角堂の境内迄下りてきました。境内にも多くのアジサイの種類が有るようで、ここでも写真に収めました。
雨に濡れるアジサイの花、とてもきれいに感じました。
アジサイの花もこれから本番を迎えるのでしょうか。
今回参考にした資料:
・「慈覚大師円仁ゆかり とちぎの天台の寺めぐり」天台宗栃木教区宗務所編集 下野新聞社発行
先週の金曜日から、太平山あじさい坂にて、「とちぎあじさいまつり」が始まりました。そして今日、まつり期間に入って初めての雨の日を迎えました。
早速、あじさい坂に行ってきました。会場手前の市営駐車場に車を止め、傘をさして会場の「あじさい坂」に向かいます。平日で雨ふりで、しかもすでに午後4時に成らんというタイミング、駐車場は数台の車。ゆっくりとアジサイの花を堪能できそうです。
駐車場を出て、太平山神社の参道を登ります。
参道の両側には、色とりどりのアジサイの花が咲いています。「あじさい坂」と記したの案内板の辺り、左手に分岐する道が有ります。あじさい坂登り口左手の六角堂正面入り口前に出ます。
まず、こちらで参拝をします。六角堂はその建物の形から呼ばれたもので、正式には「太平山連祥院」という天台宗の寺院に成ります。本尊は「虚空蔵菩薩」 もとは太平山の神事や仏事を取り仕切る別当寺院でしたが、明治期の神仏分離令により山上より降ろされ、明治38年(1905)に京都の六角堂を模して現在地に建立されました。
太平山神社の参道(あじさい坂)に戻ります。石畳の参道は山上の太平山神社に真っ直ぐ続いています。久しぶりのあじさい坂です。いつ頃設置されたのか、坂道の中央にステンレス製でしょうか、手摺が出来ていました。
雨で濡れた石畳、足元に注意しながら登ります。
坂の両側に続くアジサイの木に咲く色んな色や形のアジサイを鑑賞しつつ、写真に収めていきます。雨に洗われ緑色に輝くアジサイの葉もきれいです。時折アジサイを見つつ昇ってくる人たちもいます。
水玉のついたアジサイの花びら、雨の中だから見ることが出来る、生き生きとしたアジサイの花。
坂を戻るとき、坂道の中央に設置された手摺のありがたさを感じました。高齢者には濡れた石畳を下るのは結構しんどかったのです。
再度、六角堂の境内迄下りてきました。境内にも多くのアジサイの種類が有るようで、ここでも写真に収めました。
雨に濡れるアジサイの花、とてもきれいに感じました。
アジサイの花もこれから本番を迎えるのでしょうか。
今回参考にした資料:
・「慈覚大師円仁ゆかり とちぎの天台の寺めぐり」天台宗栃木教区宗務所編集 下野新聞社発行
アジサイの花を探して、栃木の市街地を歩く [歩く]
前回は、巴波川沿いを歩いて、アジサイの花を見て歩きましたが、今日は栃木の市街地を歩いて、アジサイの花が咲く風景を見て廻りました。
最初は境町の栃木カトリック教会の庭に咲く、白のアジサイです。そこから教会裏手、西側の中洲親水公園に咲くアジサイです。
次は市街地のど真ん中、倭町は大通り沿いに咲く、鮮やかな赤紫のアジサイです。
そして倭町交差点の角、スターバックスコーヒー店脇に咲く、紫のアジサイ。通行する人達もチョッと立ち止まって、そのアジサイの花を見ていました。
そこから大通りを北上して万町へ。山車会館の入口右手に建つ「前田雀郎句碑」の脇にもアジサイの花が咲いていました。
(前田雀郎は栃木県は宇都宮市の出身、明治30年3月27日生れ、宇都宮商業を卒業。講談社や都新聞社に勤務。昭和11年「せんりゅう」を創刊。昭和16年日本川柳協会委員長。昭和35年1月27日死去。山車会館脇の句碑は、《この町に 西日を戻す 山車の丈》 これは、栃木の秋祭りの様子を詠んだ句です。町の通りはすでに太陽は西に傾き、街並みは暗く陰ってしまっていますが、高々とせり上げられた山車の人形は、まだ西日を受けて明るく輝いている。そんな状況を詠んでいます。
栃木市にはもう一か所、太平山遊覧道路の大曲にも、《太平の 曲ればここも 花吹雪》という雀郎句碑が建てられています。栃木市に有る「不二見川柳社」が主催して、前田雀郎を中心に全国川柳大会を太平山で開催した後、同吟社の肝いりで、1954年に市の観光協会が建てたもので、前田雀郎の生前に建てられた唯一の句碑です。太平山遊覧道路の桜のトンネルに、桜吹雪が舞っているさまを、読んだ句です。)
そして、山車会館の裏手にもアジサイの花が咲いていました。後方のどっしりとした三連の土蔵は、以前は「藏の街美術館」でしたが、「栃木市立美術館」が開館した後は「藏の街市民ギャラリー」として、一般の方の作品の発表の場として利用されています。
きれいな赤紫に咲いているアジサイは、神明宮の社殿裏手に咲くアジサイです。後方に神明宮本殿の屋根の一部が覗いています。
私が子供の頃は、この辺りは滑り台や左右にスイングする長手のブランコのような遊具が有り、脇に売店が有って、店先でもんじゃ焼もできました。今は参道の脇に移設されてしまった稲荷神社も、ここに祀られていて、その周りで良く駆けずり回って遊んだものです。
大通りに戻って、更に北上して歩いて行くと、ささやかですが、以前「とちぎ歌麿館」として利用されていた建物の前にもアジサイの花が咲いていました。
最後は万町交差点から西に曲がり、大通りの一本西側の通りから、見える栃木病院の手前にもアジサイの花が咲いていました。
栃木の駅前からずっと、日光例幣使街道に沿って、途中脇道にも入り込んだりして、アジサイの花の咲いている風景を求めて、歩き回ってきました。今日の総歩数は9,651歩(約5.7km)も歩きました。
明日から「太平山とちぎあじさいまつり」が始まります。まだ栃木県は梅雨に入りませんが、今度の休みには是非「あじさい坂」を登ってみたいと思っています。
最初は境町の栃木カトリック教会の庭に咲く、白のアジサイです。そこから教会裏手、西側の中洲親水公園に咲くアジサイです。
次は市街地のど真ん中、倭町は大通り沿いに咲く、鮮やかな赤紫のアジサイです。
そして倭町交差点の角、スターバックスコーヒー店脇に咲く、紫のアジサイ。通行する人達もチョッと立ち止まって、そのアジサイの花を見ていました。
そこから大通りを北上して万町へ。山車会館の入口右手に建つ「前田雀郎句碑」の脇にもアジサイの花が咲いていました。
(前田雀郎は栃木県は宇都宮市の出身、明治30年3月27日生れ、宇都宮商業を卒業。講談社や都新聞社に勤務。昭和11年「せんりゅう」を創刊。昭和16年日本川柳協会委員長。昭和35年1月27日死去。山車会館脇の句碑は、《この町に 西日を戻す 山車の丈》 これは、栃木の秋祭りの様子を詠んだ句です。町の通りはすでに太陽は西に傾き、街並みは暗く陰ってしまっていますが、高々とせり上げられた山車の人形は、まだ西日を受けて明るく輝いている。そんな状況を詠んでいます。
栃木市にはもう一か所、太平山遊覧道路の大曲にも、《太平の 曲ればここも 花吹雪》という雀郎句碑が建てられています。栃木市に有る「不二見川柳社」が主催して、前田雀郎を中心に全国川柳大会を太平山で開催した後、同吟社の肝いりで、1954年に市の観光協会が建てたもので、前田雀郎の生前に建てられた唯一の句碑です。太平山遊覧道路の桜のトンネルに、桜吹雪が舞っているさまを、読んだ句です。)
そして、山車会館の裏手にもアジサイの花が咲いていました。後方のどっしりとした三連の土蔵は、以前は「藏の街美術館」でしたが、「栃木市立美術館」が開館した後は「藏の街市民ギャラリー」として、一般の方の作品の発表の場として利用されています。
きれいな赤紫に咲いているアジサイは、神明宮の社殿裏手に咲くアジサイです。後方に神明宮本殿の屋根の一部が覗いています。
私が子供の頃は、この辺りは滑り台や左右にスイングする長手のブランコのような遊具が有り、脇に売店が有って、店先でもんじゃ焼もできました。今は参道の脇に移設されてしまった稲荷神社も、ここに祀られていて、その周りで良く駆けずり回って遊んだものです。
大通りに戻って、更に北上して歩いて行くと、ささやかですが、以前「とちぎ歌麿館」として利用されていた建物の前にもアジサイの花が咲いていました。
最後は万町交差点から西に曲がり、大通りの一本西側の通りから、見える栃木病院の手前にもアジサイの花が咲いていました。
栃木の駅前からずっと、日光例幣使街道に沿って、途中脇道にも入り込んだりして、アジサイの花の咲いている風景を求めて、歩き回ってきました。今日の総歩数は9,651歩(約5.7km)も歩きました。
明日から「太平山とちぎあじさいまつり」が始まります。まだ栃木県は梅雨に入りませんが、今度の休みには是非「あじさい坂」を登ってみたいと思っています。
巴波川沿いのアジサイの花が見頃になっています。 [自然の恵み]
日本気象協会の予報によると、「今年の関東甲信の梅雨入りは、あと一週間後の6月16日頃か。」との事。丁度それに合わせる様に、14日(金)から栃木市太平山のあじさい祭が始まります。
栃木市の今日の天気は、良く晴れました。
それでも、蔵の街中を流れる巴波川沿いの、あじさいの花は見頃を迎えています。
今日、ぶらぶらと巴波川の川沿いを歩いて、色鮮やかに咲いているアジサイの花を写真に収めてきましたので、ここで紹介させて頂きます。
湊町のアジサイ。バックの「塚田歴史伝説館」さんの、黒塀と白壁の土蔵と対比して、手前のアジサイの赤紫の花が、一段と艶やかに感じられます。
下河岸のアジサイ。後方に写る橋は、昭和9年(1934)12月竣工の「巴波川橋」に成ります。アジサイの花も、多くの品種が有るので、どれが何という品種か、私のはとても分かりませんが、このアジサイが一番なじみが有る花の形をしていますね。
入舟町のアジサイ。対岸の黒板塀は、相当年季が入っている感じです。
この2枚とも入舟町のアジサイです。白いアジサイもすっきりとした感じですね。後方の蔵造りの店舗は、「茶房藏や」さんです。
最後も入舟町のアジサイです。丁度「横山郷土館」の前あたりに咲いていました。
巴波川沿いを、アジサイの花を見ながら歩くのも、楽しいかも。そして、お腹が空いたら、近くのお店で何か美味しいものを食べれば、身も心もリフレッシュ出来そうです。
(今日、私は「好古壱番館」さんの、ジャガイモ入り焼きそばを頂きました。満足です。)
栃木市の今日の天気は、良く晴れました。
それでも、蔵の街中を流れる巴波川沿いの、あじさいの花は見頃を迎えています。
今日、ぶらぶらと巴波川の川沿いを歩いて、色鮮やかに咲いているアジサイの花を写真に収めてきましたので、ここで紹介させて頂きます。
湊町のアジサイ。バックの「塚田歴史伝説館」さんの、黒塀と白壁の土蔵と対比して、手前のアジサイの赤紫の花が、一段と艶やかに感じられます。
下河岸のアジサイ。後方に写る橋は、昭和9年(1934)12月竣工の「巴波川橋」に成ります。アジサイの花も、多くの品種が有るので、どれが何という品種か、私のはとても分かりませんが、このアジサイが一番なじみが有る花の形をしていますね。
入舟町のアジサイ。対岸の黒板塀は、相当年季が入っている感じです。
この2枚とも入舟町のアジサイです。白いアジサイもすっきりとした感じですね。後方の蔵造りの店舗は、「茶房藏や」さんです。
最後も入舟町のアジサイです。丁度「横山郷土館」の前あたりに咲いていました。
巴波川沿いを、アジサイの花を見ながら歩くのも、楽しいかも。そして、お腹が空いたら、近くのお店で何か美味しいものを食べれば、身も心もリフレッシュ出来そうです。
(今日、私は「好古壱番館」さんの、ジャガイモ入り焼きそばを頂きました。満足です。)
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