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栃木市大町の大杉神社境内に建つ石碑を探る [石碑]

栃木市大町の大杉神社境内の南東側隅に、背の高い石碑が一基建てられています。
大町大杉神社.jpg大町大杉神社境内の石碑.jpg

道路に面した南側から、石碑の正面を見ることが出来ます。
そこには、「栃木市大宮村・耕地整理記念碑」と、大きくそしてしっかりとした字で、刻まれています。この題字を揮毫した人物の名が、その左側に見ることが出来ます。「樞密顧問陸軍大将從二位勲一等功三級男爵」と長々とした肩書の次に「奈良武次書」と有ります。
この奈良武次という人物は、都賀郡上南摩村の出身ですが、石碑への揮毫では、これ以前に嘉右衛門町の神明神社の社殿に向かって左脇に建つ、「神明神社改築記念碑」の題字も有ります。
石工は「早乙女正吉刻」です。

「耕地整理事業」は、明治33年(1900)に施行した、<耕地の利用を増進する目的を以て其の所有者共同して土地の交換若は分合、区画形状の変更及道路、畦畔若は溝渠の変更廃置を行うを謂う>という事業を目的とする、「耕地整理法」に基づき、全国的に展開され栃木県においても、施行の翌年の明治34年、岡本にて模範耕地整理が行われ、それ以降毎年県内各地にて、多くの事業が計画施行されています。
栃木市内にては、明治38年(1905)下都賀郡栃木町大字薗部外2大字地区で、又、明治40年(1907)には同じく沼和田地区にて、耕地整理事業が行われています。
そして遅れる事、時は明治から大正に移り、大正14年9月「下都賀郡栃木町大宮村耕地整理組合」の設立が認可され、翌大正15年1月工事が着工されました。
この間の、明治43年(1910)の6月に、「耕地整理法」が改正されて、それ以前の薗部地区や沼和田地区の事業は、土地所有者による単純な共同施行であったものが、法改正によって「耕地整理組合」という法人によって施行される事に変わってきていました。

それでは碑陰を見ていきたいと思います。(碑文をそのまま書き写しました。)
碑陰上部.jpg

碑陰の上部には事業の内容が刻まれています。改めて読んでいきます。
      紀  要
  大正14年9月下都賀郡栃木町大宮村耕地整理組合設立認可
  大正15年1月 工事着工
  昭和7年3月  工事完了
  総地積96町6反6畝29歩4合7勺
       内訳
    栃木市 35町7反8畝20歩3合7勺
    大宮村 59町2反9畝15歩1合
    家中村 7反1畝3歩
    吹上村 8反7畝19歩
  昭和4年4月 東武鉄道新栃木駅地区内設置
  昭和7年7月 県道日光小山線地区内開通組合より道路敷地
         6,199坪を提供したり
         右に関し県会議員大橋英次氏尽力せらる
  昭和12年4月栃木市制執行に依り栃木市大宮村耕地整理組合と変更
  昭和15年12月記念碑建設

この内容を見ると、当初「栃木町大宮村耕地整理組合」として事業を展開したが、昭和12年(1937)4月1日に栃木が市制を施行したことで、組合の名称も変更され、その後建立されたこの石碑の題字も、「栃木市大宮村耕地整理記念碑」となっています。

耕地整理の対象区域の面積が表示されていますが、尺貫法の単位のため、感覚的にどれくらいの広さか分かり難いため、㎡に換算してみます。
   栃木市分が約35.5万㎡  これは全体の約37%に当たります。
   大宮村分は約58.8万㎡  こちらは全体の約61%を占めています。
   家中村と吹上村とは、共に1万㎡に満たなく、比率でも1%以下に成っています。

具体的に耕地整理の対象地区がどこか、概略図を作成してみました。現在の町名で言うと、大町・昭和町・泉町・平柳町一丁目で構成される地域と考えます。
概略図には耕地整理事業の前後の状況が見られるよう工夫しましたが、逆に見難くなってしまった気もします。
耕地整理実施区域概略図.jpg
※概略図にて、黄色で記した道路は、耕地整理前の明治から大正に発行された地形図を参考に描きました。青色で記した水路や、オレンジ色で記した集落部分も同様に耕地整理前の状況です。図の中央部を上から下に続く、赤色の一点鎖線は当時の栃木町と大宮村との境界線です。
一方、黒色で描いた道路は耕地整理後に出来た道路です。
※概略図に描かれた東武鉄道の線路は、日光線が耕地整理事業期間中の昭和4年4月1日に、杉戸から新鹿沼間が開通しています。
※道路の変化を見ると、耕地整理前は、曲がりくねった道がうねうねと、通っていましたが、耕地整理後は東西・南北に直行した碁盤の目の様な道路網が出来上がりました。
ただ、区域の中央部に鎮座する、星宮神社の周辺はすでに集落が出来ていた為、その地域だけ以前のままの道路を残しています。
1968年撮影星宮神社.jpg2016年撮影星宮神社.jpg
(1968年撮影の星宮神社社殿と、2016年撮影の比較写真)

※星宮神社の境内の西脇を、北から南に流れる水路が有ります。
ここ平柳町の星宮神社の由緒をひも解くと、<当社鎮座の初めの地、宇津間川の辺に光輝を発して、三神が出現し、「吾をこの地に祀らば、国土を鎮護し、万民を安居せしめん」と告げたといわれる。そこで祠を建て、拝仰した。この宇津間川は、社域を流れるので、御手洗川ともいう。(後略)>と言われる。この水路の上流、田中の集落ではかつて水車業を営む家も有り、古老の話しに依れば、この水路の名を「東巴波川」とも呼んだと。実際この水路をさらに上流に遡ると、川原田の地辺りで巴波川と分岐しています。現在はこの水路の大部分が暗渠化されていますが、下流側で「杢冷川」の源流に繋がっています。
※栃木市街地中央を縦断する「大通り」の、万町交番前交差点から北に伸びる「北関門道路」は、この耕地整理事業で、昭和7年(1932)8月に開通したものです。
1968年泉町北関門道路.jpg2015年泉町北関門道路.jpg
(1968年撮影の北関門道路と、2015年撮影の比較写真)

次に碑陰下側に目を向けます。こちらも書き写してきました。
碑陰下部.jpg
碑陰下側には、「耕地整理組合」に係わった組合長をはじめ、組合副長・評議員・組合会議員等の名前が列記されています。最下段には故人の名前も並んでいます。

名前の先頭に刻まれているのは、「組合長 高田安平」ですが、他にも組合長として、「故鈴木宗二」、同「故蒔田忠次郎」、そして元組合長として「長谷川調七」など、4名の名前を見ることが出来ます。歴代の組合長なのでしょう。
 初代の組合長は「鈴木宗二」です。この人物は第12代の栃木町長として、この耕地整理組合の立ち上げ時期に、町長職に有った為関連自治体の首長として、「組合長」に就任したと考えます。次の組合長は「蒔田忠次郎」で、第13代町長となって、前任者から引き継いだと考えます。次が「元組合長」の第14代町長「長谷川調七」に成ります。そして最後の組合長が「高田安平」ですが、高田安平は栃木町長にはなっていません。第15代栃木町長で、昭和12年4月1日から施行された栃木市制に変わって初代の栃木市長に成った「榊原經武」です。なぜこの時、これまでの様に首長が就任せずに、高田安平氏に成ったのか、疑問が残ります。
組合副長の肩書には、3名の名前が見えます。第8代大宮村長「新村理一郎」と、第9代大宮村長「岸省吾」、そして「故猪瀬周作」です。猪瀬周作氏は栃木町で味噌醤油醸造業の三代目です。
この耕地整理事業が、栃木町と大宮村とにまたがった土地で行われた為、両自治体の首長が「組合長」「組合副長」に就任しているのは当然だったでしょう。
そのほか、組合のメンバーには地元の有力者が名前を連ねています。

耕地整理事業にて整備された地域は、新栃木駅前という立地も加わって、以降宅地化が進む事に成ります。

今回の参考資料:
・栃木県土地改良史 栃木県土地改良事業団体連合会 昭和54年3月31日発行
・栃木人 明治・大正・昭和に活躍した人びとたち 石崎常蔵著 2017年4月1日発行
・栃木人 明治・大正・昭和に活躍した人びとたち続編 石崎常蔵著 2021年4月1日発行
・栃木県の地名 平凡社 1988年8月25日発行
・2万5千分の1地形図「栃木」 大日本帝国陸地測量部 大正6年7月30日発行
・2万5千分の1地形図「栃木」 国土地理院 昭和40年3月30日発行
・復刻版栃木縣營業便覧 吉本書店 昭和53年9月3日発行
・ウィキペディア 「耕地整理」
・栃木県神社誌 栃木県神社庁 昭和39年2月11日発行
・栃木県町村合併誌 第二巻 栃木県 昭和30年4月発行




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栃木の街中で、桜の花を愛でる。 [自然の恵み]

四月に入ってから、ハッキリしない天候が続いておりましたが、今日やっと晴れ間を見せてくれました。市内では丁度桜の花が満開になるタイミングで、花見に絶好の日に成りました。
天気予報では明日から又下り坂で、ぐずついた天候に成りそうですから、今日を逃してはと思い、早々にカメラを持って出かけて来ました。
最初は家の近くで、私のお気に入りの場所です。ここは絶対外せません。小平橋上流の巴波川沿いの桜です。やはり見頃を迎えていました。
小平橋上流の桜.jpg
次は、嘉右衛門町妙唱寺本堂前の枝垂れ桜です。こちらも満開になっていました。なかなか見事な枝ぶりです。
妙唱寺本堂前の枝垂れ桜.jpg
そして栃木市立文学館の枝垂れ桜、元県庁堀の水面近くまで、枝を垂らしています。バックとなる文学館の擬洋風建築に枝垂れ桜の花が一段と引き立っています。
栃木市文学館の枝垂れ桜.jpg
幸来橋下流側の巴波川周辺は、多くの観光客でにぎわっています。巴波川の上に幾重にも掲げられた、色とりどりの「こいのぼり」が、華やかさを増幅させています。巴波川の「蔵の街遊覧船」も、今日は満席状態です。
観光船2.jpg観光船1.jpg
瀬戸河原公園の桜も見頃です。公園のベンチでは、お年寄り達の話しが盛り上がっていました。
瀬戸河原公園の桜.jpg
公園から伸びた枝が、九十九曲がり用水堀の上を、覆うようにせり出しています。

次に旭町に向かい、神明宮と第二公園の桜を堪能したいと思います。
ここは、栃木の街のど真ん中に有る、桜の見どころです。こちらには子供を公園で遊ばせる、若いお父さんお母さんが来ています。桜を目当てに来る市民の方も大勢来ています。市内で働いているのでしょうか、東南アジアからの外国人の若者達も、スマホで桜の咲く風景を、何枚も撮影しています。
第二公園の桜.jpg
第二公園の枝垂れ桜.jpg第二公園の噴水.jpg

神明宮の本殿前から、玉垣越えに枝を伸ばした桜は、なぜか厳粛な趣を漂わせています。
神明宮の桜.jpg
市内をあちらこちら、桜の花を探して回りました。気が付くと顔中、日差しで汗ばんでいます。
春の一時、桜の花を愛で、気持ちも和らぐ、一日に成りました。
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我家の庭も春本番です。 [草花]

3月の後半、肌寒い日が続いていましたが、4月に入り一気に日差しも強くなった感じです。
我家の殺風景だった庭にも、スイセンやカイドウ、芝桜・パンジーなどが開花して、目を楽しませてくれています。
花が終わった蝋梅の枝にも、若葉が開いてきています。
スイセン.jpg芝桜.jpg
カイドウ.jpgカイドウ2.jpg
パンジー.jpg蝋梅の若葉.jpg

先週末に、高校時代のクラスメート5人で、「つがの里」に花見にでかけました。
天気は暑いくらいに良く晴れましたが、今年はさすがにソメイヨシノはまだ開花していませんでした。
つがの里.jpg

それでも、公園内を散策すると、枝垂れ桜は結構見ごろな木も見られました。
つがの里3.jpgつがの里4.jpg
山際の斜面には、紫色のカタクリの花も見ることが出来ました。
カタクリの花1.jpgカタクリの花2.jpg

高台に建つ「ふるさとセンター」内のお店にて、手打ちそばやだんご、もつ煮、天ぷら盛り合わせ等を注文して、ビールで乾杯。やはり「花より団子」。美味しいものを飲んで食べて、昔話に花を咲かせる。まだまだ元気な70代。すっかり、春の一日を満喫して、エネルギーをチャージ出来ました。
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隅田川と荒川との分岐「岩淵水門」を巡る [建物]

これまで隅田川に沿って何度か歩いていますが、いずれも北千住の「千住大橋」から下流側でした。
今回は、初めて荒川と隅田川との分岐点「岩淵水門」周辺を歩いて巡ってきました。
元々、隅田川は荒川下流部分の流路でしたが、川幅が狭く堤防も低かったので、大雨や台風の洪水被害を、起こしていました。その洪水対策として明治44年から昭和5年にかけて、新しく河口までの約22kmの区間、人工的に流路を開鑿しました。荒川放水路です。
旧荒川下流部(現在の隅田川)と荒川放水路(現在は荒川)との分岐に、増水時に旧荒川下流部(現在の隅田川)方向に増水した水が流入するのを阻止する為、旧荒川下流部側の分岐点に水門を設けました。これが旧岩淵水門です。
この水門のゲートを閉じることで、増水した水を川幅の広い放水路側に流すことで、旧荒川下流域の洪水の発生を防ぎました。
現在、荒川と隅田川の分岐には、水門が2か所有ります。旧岩淵水門(赤水門)と岩淵水門(青水門)です。

最寄りの駅「JR赤羽駅」から歩いて、分岐点に向かいます。
駅から荒川の流れる、北方向に歩いて行くと、まず荒川の右岸を流れている「新河岸川」の堤防が前方に現れました。
新河岸川に架かる「岩淵橋」.jpg
新河岸川に架かる「岩淵橋」を渡って、その先の堤防の上に昇ると、前方に大きな川が現れました。荒川です。右手下流方向を望むと見えました、手前に赤く塗られた「旧岩淵水門」と、その右奥に青いゲートの大きな「岩淵水門」です。
岩淵水門を望む.jpg
まず手前の旧岩淵水門に向かいます。
赤水門全景(上流側).jpg
旧岩淵水門の近くまで来ました。東京都が建てた説明板によると、
<旧岩淵水門は、明治43年(1910)東京下町を襲った大洪水を契機に、内務省が荒川放水路事業の一部として隅田川とこの分派点に設けた。
水門は、ローラーゲート構造で、幅約9メートルの五つの門扉からなっており、袖壁部も含めた長さは約103メートルの大型構造物となっている。本体は、レンガ構造では力学的に対応が困難であったことから、当時では珍しい鉄筋コンクリート造として、大正5年(1916)に着工し、同13年(1924)に竣工した。
昭和22年(1947)のカスリーン台風や昭和33年(1958)の狩野川台風の大出水の際も、機能を十分に果たしてきたが、昭和20年代後半からの東京東部地域一体における広域的な地盤沈下により、本水門も沈下したため、昭和35年(1960)に門扉の継ぎ足しが行われたほか、開閉装置の改修などが施され、現在の旧岩淵水門(赤水門)となった。
その後、昭和48年(1973)に荒川の基本計画が改訂されたことに伴い、水門の高さに不足が生じたことから、昭和57年(1982)に約300メートル下流に新たな岩淵水門(青水門)が整備され、旧岩淵水門はその役目を終えることとなった。>との、説明が記されています。
赤水門(通路).jpg
水門上の通路を渡って対岸に向かいます。対岸は現在小さい島の状態になっていて、公園として地元の人たちに憩いの場を提供しているようで、犬の散歩に訪れる婦人や、小さな子供ずれのお父さんなどの姿も見ることが出来ます。
また島には「月を射る」と題した、彫刻家「青野 正」さんの、チョッと不思議な作品(1997年第二回荒川リバーアートコンテスト特賞)が建てられています。
又、「草刈の碑」と題した石碑も建てられています。碑の正面には大きく「農民魂は 先づ草刈から」と刻まれ、碑の下部には、全日本草刈選手権大会理事長 横尾堆肥居士撰の「由来記」も刻まれています。その冒頭には「草刈は日本農民の昔ながらの美風で農民魂の訓練であり發露である。」として、この地にて昭和13年8月より、「全日本草刈選手権大会」が六ヵ年開かれ、全国各地から選抜された、鎌を競う選手四万余名が、各2時間に亘り熱戦を繰り広げ、両岸には観衆溢れ、旗指物などなびいて一世の壮観であった。などとその当時の様子が、刻まれています。
月を射る.jpg草刈りの碑.jpg

島から荒川上流側を望むと、奥に「新荒川大橋」が、荒川をまたいでいます。写真右側には埼玉県川口市の高層ビル群が見えます。
荒川の上流方向を望む.jpg

旧岩淵水門上の通路から下流側を撮影した写真を見ると、右手に岩淵水門の青く塗られたゲートが見えます。又、左手奥に荒川の流れが、そして左手手前に見えるのが、先ほど散策した「赤水門緑地公園」の端が見えます。
青水門遠景.jpg

それでは、次は新しい「岩淵水門」(青水門)を見に行きます。
青水門全景(上流側から).jpg岩淵水門管理通路.jpg
国土交通省荒川下流河川事務所が設置した案内板によると、
<岩淵水門 「増水時に、荒川の水が隅田川へ流入することを防ぎます。」
岩淵水門は、大正13年に完成した旧岩淵水門の老朽化、地盤沈下による高さの不測のため、昭和57年に旧水門の下流約300mに設置されました。平常時は、水門を開放し船の通行を確保するとともに、隅田川の水質を浄化するために荒川の水を流下させています。増水時には水門をしめて隅田川への流入をくい止め、首都東京を水害から守る大切な役割を担っています。>と記されています。

・完成年:昭和57年(1982) ・場所:東京都北区志茂地先 
・ゲートの大きさ:高さ16.17mX幅20.0mX3門(たたみ約620畳分)
・ゲートの重さ:214トン(1門あたり)
・ゲート開閉時間:約50分
・操作水位:荒川水位A.P.+4.00mで隅田川へ流入したとき
      (荒川平常時水位より約2.7m上昇した、とき)
岩淵水門門扉.jpg岩淵水門門扉銘板.jpg

水門のゲートを目の前にすると、その大きさに圧倒されます。重さ214トンのゲート3基が、いざ台風等で増水した荒川の流れを、しっかりと受け止めて隅田川への流入をくい止めてくれる。頼もしい水門です。
休日の岩淵水門には、荒川の河川敷を利用した「荒川サイクリングロード」のコースが通っている為、ロードバイクに乗った人達が、颯爽と通過していきます。

岩淵水門から見ると、上流側の旧岩淵水門と中の島の様子がよくわかります。
赤水門遠景.jpg

今回訪れた「岩淵水門」の周辺の概略図を作ってみました。
岩淵水門周辺概略図.jpg
荒川の北側は埼玉県川口市、そして南側は東京都北区で、岩淵水門周辺は旧荒川の河道に沿って、県境となっています。概略図に赤の一点鎖線で記したラインが境界線で、明治13年5月に発行された「埼玉縣下武蔵國北足立郡川口町之圖」を見ると、現在の境界線に荒川の河道が走っています。
川口町と赤羽村との間を大きく蛇行しながら流れる荒川。その間に橋梁は無く、渡し船が描かれています。

旧岩淵水門(赤水門)は、「近代化産業遺産」に認定されているほか、「日本の近代土木遺産」「東京都選定歴史的建造物」「北区景観百選」などに認定されています。
今年、2024年は旧岩淵水門が竣工した、大正13年(1924)から丁度百年に成ります。と同時に「荒川放水路」が完成して通水を開始してから百年になることから、今年は国土交通省・関東地方整備局や、東京都や埼玉県、荒川知水資料館等関連自治体・団体施設で、色々な企画が計画されています。

旧岩淵水門のペーパークラフトが有りましたので、組み立ててみました。
旧岩淵水門ペーパークラフト.jpg

最後に昨年暮れに、隅田川クルーズで岩淵水門を通過した際撮影した、水上からの「岩淵水門」です。
船上より青水門を遠望.jpg
(隅田川を遡ってくると、前方に青い三連のゲートを持つ「岩淵水門」が現れます。左側の水路は「新河岸川」です。)

船上より青水門を.jpg
(岩淵水門の下を通過します。)

船上より赤水門を.jpg
(岩淵水門を通過すると、前方左側に「旧岩淵水門」が現れます。クルーズ船はここから右手の開口部を通って「荒川」に入って行きます。)

今回は、隅田川の起点、岩淵水門周辺を巡りました。
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北陸のマンホールカードを求めて富山県へ③ [コレクション]

富山県のマンホールカード収集の旅も、最終日に成ります。
昨日までの2日間で収集したカードは、8枚です。現在富山県下で配布されているカードは、15枚ですから、今回全部は収集できません。せめて富山市の7枚はゲットしたいので、残る3枚を集めて帰路に着きたい。
収集のコツで最初は遠方からと言う事で、まず越中八尾駅へ向かう。ホテルをチェックアウトして、富山駅へ、今のところ曇の天候。駅のコインロッカーに旅行カバンを預けて、高山本線の列車に乗る。
平日の為車両は高校生が多く、混雑している。
高山本線列車.jpg越中八尾駅.jpg

越中八尾駅に到着したのは、8時頃でした。ここのカード配布場所は「越中八尾観光会館」。配布開始は9時からと言う事で、駅から目的地まで街の中を散策していきます。
八尾町は、毎年9月1日から3日にかけて行われる、「おわら風の盆」が有名で、私も一度来てみたいと考えている所です。駅の待合室に、大きな観光ポスターが何枚も掲示されていました。
風の盆のポスター1.jpg風の盆のポスター2.jpg

富山市八尾町は、富山市の南の端に位置し、南隣の岐阜県と県境を成しています。八尾町は街の中央部を貫流する「井田川」の川に沿って開けた町の様で、国土地理院の地形図を見ると、東西と南の三方を山に囲まれ、唯一北側だけが開けた所で、「井田川」は富山市の中心部「富山城址公園」の西方辺りで、同じように富山県中央部を南から北に貫流して、富山湾に注ぐ「神通川」の左岸に合流する神通川の支流です。

駅の待合室に置いてあった、「坂のまち八尾散策マップ」が頼りです。
駅前の通りを左方向に進んでいくと、早速「井田川」に架かる「坂のまち大橋」に出ました。
橋の名前も「坂のまち」を冠に付けています。橋の形状は「斜張橋」で、親柱には編笠を被って、「おわら」を踊る女性の姿が彫られています。親柱のデザインもどのようなモチーフで出来たものか興味が湧いてきます。橋桁に取り付けられた橋の銘板を見ると、「2007年6月」と有り、比較的新しく架けられた橋の様です。
坂のまち大橋.jpg坂のまち大橋親柱.jpg

この橋の上からが、上流側を眺めるビューポイントと先ほどの散策マップに記されています。
見ると、井田川の右岸の街並みの後方には標高200から300メートルの山並みが連なり、山と川とに挟まれた高台に、街が開けている様子が伺えます。
坂のまち大橋からの眺め.jpg
橋の直ぐ上流部右岸(左端)に合流する川が有ります。「久婦須川」で、架かる橋は「新久婦須橋」、その奥(写真中央)にも同じく右岸に合流する川が見えます。「別荘川」です。見える橋は「天満橋」です。その先の井田川に架かる橋が「十三石橋」です。橋好きの私にとっては、とても魅力的な場所です。
が、のんびり見ていたら、雨が降ってきてしまいました。

井田川を渡って、「久婦須川」に架かる「新久婦須橋」とその上流に架かる「久婦須橋」を写真に収め、更にその先の「別荘川」に架かっている「天満橋」へ。
新久婦須橋.jpg久婦須橋の高欄装飾.jpg
久婦須橋の高欄には、おわらの踊り子の装飾が施されています。

「天満橋」の上から別荘川上流側を望むと、二つのコンクリートアーチを持った橋が架かっているのが見えます。「眼鏡橋」という橋名が付けられています。橋の袂に回り込んでいきます。
天満橋の親柱と高欄.jpg眼鏡橋1.jpg
(井田川右岸に沿った、「十三石橋」の橋詰めから「坂のまち大橋」の橋詰間の道路は平成時代に新しく通った道路で、以前は「眼鏡橋」から「久婦須橋」を通るルートを通っていた様です。「天満橋」の竣工は2010年3月と記されています。ちなみに橋名の「天満橋」は、近くに鎮座している「天満宮」からと思われます。)
天満宮に参拝をして、眼鏡橋の袂に。
眼鏡橋2.jpg眼鏡橋3.jpg
この眼鏡橋は、ウィキペディアにて検索すると、<1893年(明治26年)に、富山県最初の永久橋として単径間の無筋コンクリート橋として架橋された。1914年(大正3年)8月13日、台風に伴う豪雨で発生した洪水により下部工のコンクリートアーチを残し流失。その後1916年(大正5年)に明治の橋の遺残物を利用しつつ、右岸側に1径間延長し2径間コンクリートアーチ橋となる。1954年(昭和29年)には下流側に単径間の鋼板桁を架設して3m拡幅された。>複合橋だと分かりました。
橋詰のバス停には、おわらを踊る男女の姿が描かれています。八尾町では、ここかしこに「おわら」が描かれています。まさに「おわら」一色の街並みの様です。それではいよいよ、その八尾地区の中心部に足を踏み入れたいと思います。

確かに八尾は坂のまちです。それでもそれほど苦になるほどの坂では無いので、息も上がらない。
しばらく歩いて行くと、道路左手の石段の上に、鐘楼と大きな伽藍の寺院が現れる。
下新町あたり.jpg聞名寺1.jpg
聞名寺2.jpg
「聞名寺」は浄土真宗本願寺派の寺院。その歴史をお寺のホームページに求めると、<聞名寺がはじめて越中に入ったのは応仁二年(1468)、本格的に拠点を移したのは大永四年(1524)であったと伝えます。八尾南部の山間地(乗峰や倉ヶ谷など)を経て、福島の台地に一旦寺域を構えましたが、越後上杉勢の来襲に備え、天文二十年(1551)、三方を崖に囲まれた旧い砦の址、「八尾前山」(現在地)に移りました。その後寛永十三年(1636)境内に八尾町建てがなされ、当寺は町そのものの母胎として今日に至っています。>と、記されています。

「風の盆」の碑.jpg「風の盆」の碑の心組み.jpg
聞名寺の境内に建てられた「風の盆」の碑。
境内には枝垂れ桜もあり、花を咲かせた頃を思い描くと、またその時期にも訪れたくもなります。

通り沿いに「おわら資料館」の看板が現れました。中に入ると正面に等身大のパネルが、男女のおわらの踊り手とバックに、風の盆の行燈が道の両側に灯る石畳の道。
おわら資料館1.jpgおわら資料館2.jpg

受付のスタッフさんに案内されて、最初の映像展示室へ。約10分間の「おわら」の映像を大画面で堪能できます。それから資料展示室へ回り、数多くの歴史的な写真や資料などを見て廻りました。

「おわら風の盆」の事を少しかじって、資料館を後に八尾町の通りを散策します。石畳の諏訪本町通りに差し掛かると、八尾町は確かに「坂のまち」であることを、実感する風景がそこに有りました。
諏訪町本通り.jpg諏訪町本通り上から.jpg

街並みに気を取られて、ここまで歩いて来ましたが、時計はすでに10時を過ぎています。もう雨降る中を2時間もうろうろしていました。少し急いで目的地の「越中八尾観光会館」へ向かうことにします。

八尾曳山展示館1.jpg川崎順二像.jpg
「越中八尾観光会館」には、毎年5月3日に開催される「曳山祭」に曳き出される豪華絢爛な曳山を、3基展示する「曳山展示館」が併設されて、栃木市の人形山車を展示している山車会館同様、背の高い曳山を収納展示する為、背の高い大扉が、建物を象徴しています。
開館前には、多くの石碑や銅像が建てられています。
医学博士「川崎順二」は、越中八尾おわら保存会初代会長となった人物で、顕彰碑の碑文「事績」冒頭を参照させて頂くと。
<大正十一年春、好者のみで伝えられてきた郷土民謡越中おわら節を永遠の文化として次代にのこさんがため、町内同志と諮りおわら研究会を結成、昭和四年に越中おわら保存会と発展的改称をなし、以来三十余年に富山県民謡おわら保存会と改称するもその会長として中心的役割を医師という多忙な日を割き、あるときは私財を投じて尽力してきた。・・・・(後略)>

そんな超有名となった「越中八尾おわら風の盆」だけでなく、八尾の町には、豪華絢爛な6基の曳山が有ることを、PRする会館の中を見学します。
入口の受付にて、本日一枚目のマンホールカードを受け取り、まずは映像で曳山祭りの情報を、映像を見て楽しく理解することが出来ました。
続いて館内を見学、いろいろな情報を得ることが出来ました。
曳山展示館内1.jpg曳山展示館内2.jpg
豪華絢爛な曳山.jpg豪華絢爛な曳山の装飾.jpg
曳山は全体に彫刻が施され、動く陽明門の様に感じられます。
この曳山が、あの八尾の石畳の坂を進む姿、狭い路地を曲がる迫力を、是非実際に見てみたいと思いました。
帰りの列車の時間が心配になってきました。幸い帰りは下り坂です。

富山駅に戻り、残り2枚のカードも無事に入手出来ました。
富山市7.jpg富山市6.jpg富山市3.jpg

今回、富山県を訪れて、多くの情報に触れて、是非又、富山県を訪れたいと感じました。
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北陸のマンホールカードを求めて富山県へ② [コレクション]

富山県二日目は、冷たい雨の朝となりました。時折白いものも混じっています。
今日は、なるたけ外を歩かなくて済む、マンホールカード配布所を廻ることにします。
傘をさして富山駅に向かう途中、駅南口前広場の一角で、越中富山の薬売りの像が、目に留まりました。
越中富山の薬売りの像1.jpg越中富山の薬売りの像2.jpg
椅子に座り、柳行李を開けて、顧客伝票を確認しているのか、傍に貰った紙風船を膨らまして遊ぶ少女が立つ。そしてもうひと組み、柳行李を背負い次の顧客の家へと向かう薬売りと、手を振って見送る子供の像。
私の子供の頃の記憶にも残っています。置いていった紙風船を膨らまして、ポンポンと手のひらで突き上げて遊んだ事を思い出します。

富山市内は、市内電車が有効な交通手段になるので、1日フリーきっぷを買うことにしました。
富山市は、市内で7種類のマンホールカードを発行しています。これは最も多く発行している、岐阜県高山市の8種類に次いで、2番目に多い自治体で、愛知県岡崎市と同じ枚数です。次に多いところは5種類で、新潟県長岡市や村上市、大阪府の池田市、岡山県の倉敷市が続きます。

一般に平日の場合は、市役所の下水道課窓口等での配布の場合は、朝8時30分の仕事始めから配布していますが。観光案内所や道の駅などの観光施設で配布するところでは、9時とか10時の配布開始が多くなっています。カード収集のコツとして、朝一は少し遠距離の配布場所を攻略するようにしています。ので今回もまず、少し離れた小矢部市の駅の観光案内所に向かいました。

小矢部市のマンホールカードは2種類有りますが、1枚は富山駅から「あいの風とやま鉄道」で金沢方面の列車で「石動駅」で降り、駅構内に有る観光案内所で、雨に濡れることなく入手出来ます。
もう1枚は、「石動駅」から歩いて往復1時間以上かかるので、今回は断念しました。
10時からの配布開始に合わせて、10時18分着の列車で向かいました。天候は途中から雨から雪に変わってきました。

2日目最初のマンホールカードを、石動駅の駅舎内「石動駅観光案内所」にて無事入手。
小矢部市2.jpg
すぐにホームに戻り富山方面に戻る列車の到着を待ちます。この駅で驚いたのは駅の名前の事です。「石動」の読み方です。私は普通に「いしどう」と呼んでいましたが、全く違っていたのです。ホームに建つ駅名表示は「いするぎ」と表示されています。
「石動」と言う漢字からは、どうしても私には「いするぎ」と言う読み方は出てきません。手元の「広辞苑」や「漢字源」を調べても出てきません。日本語の地名や人名の難しさを改めて知らされました。
雪の石動駅.jpg石動駅銘板.jpg
(雪の中の「石動駅」とホームに建つ「駅名表示板」)

富山駅に戻ると直ぐに、市内電車を利用して、富山市内で配布しているカードの収集を開始しました。
富山駅内の市内電車発着所.jpg市内電車.jpg

富山駅舎内の市内電車発着所には、次々と車両が入ってきては出ていきます。行先をよく確認して目的の電車を間違えないよう乗り込みます。
岩瀬浜行で終点の「岩瀬浜駅」で降り。近くの「岩瀬カナル会館」にて2枚目を受け取り、折り返し運転の為、待機している電車に飛び乗ります。
富山市5.jpg
順調に回って、「富山市民プラザ」・「TOYAMAキラリ」・「富山市まちなか観光案内所」の各配布場所でカードをゲット出来ました。
富山市4.jpg富山市1.jpg富山市2.jpg
「富山市ガラス美術館」では、常設展の見学をしました。
富山市ガラス美術館の外観.jpg富山市ガラス美術館の内観.jpg
「TOYAMAキラリ」は富山市立図書館本館・富山市ガラス美術館・富山第一銀行本店が入る複合施設で、建物内部は斜めの大きな吹き抜けに、多くの木材が使われ、森の中にいるイメージ。設計は隈研吾建築都市設計事務所。
6階常設展示展1.jpg6階常設展示展2.jpg
ガラス美術館6階の常設展示フロアーは写真撮影が出来たので、鮮やかな作品をカメラに収めました。4階に展示されていた作品の1点1点が、見事で感動モノでした。人間の創造力の素晴らしさを感じました。写真に撮れないので、脳裏に焼き付けてきました。

雨の中でしたが、富山城址公園の中も散策、「富山市郷土博物館」を見学しました。
富山市郷土博物館.jpg千歳御門.jpg
昭和29年(1954)戦災復興事業の一環で建設された「富山城天守閣」。現在郷土博物館として、富山城の歴史を紹介しています。平成16年に国の登録文化財に成っています。「千歳御門」は富山藩十代藩主前田利保が隠居所として造営した千歳御殿の正面で、嘉永二年(1849)に建築されました。市指定文化財に成っています。富山城で唯一現存する創建当初の建造物に成ります。
富山城址公園の景雲橋.jpg富山藩第二代藩主前田正甫像.jpg
擬宝珠を載せた朱塗りの橋は、城址公園内の池に架けられた「雲景橋」です。私が行ったときは先の震災に被災したためか、通行禁止に成っていました。そのほかあちらこちら被災した影響で、通行止めとなっている箇所が見られました。橋の近くに建つ銅像は、富山藩第二代藩主「前田正甫公像」です。昭和29年(1954)に建てられました。高さは台石部を含めて、約10mにもなります。
富山城址公園の山茶花.jpg富山城址公園の梅.jpg
公園内には、山茶花や梅の花が咲いていました。

まだ、富山市内のカード3枚を残していますが、今日は時間切れで、ホテルの戻ります。
部屋に戻って、明日最終日の計画を練ることに。

今回の参考資料:
.・富山市ガラス美術館リーフレット
・富山市郷土博物館リーフレット
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北陸のマンホールカードを求めて富山県へ① [コレクション]

私のコレクションのひとつに、マンホールカードの収集が有りますが、今回は富山県に向かいました。合わせてその地域の観光も楽しみです。
これまでに私が収集した、マンホールカードの枚数は、今回300枚を超えました。
コレクションを始めたきっかけは、栃木県内で最初に発行された「足利市」のカード入手でした。
足利市のカードの発行は早く、今から8年前、2016年4月に第一弾が発行されたその年8月、第二弾で配布が開始されています。
私はそれ以前から、県内各自治体が設置している、ご当地マンホール蓋のデザインに興味を持ち、写真を撮り歩いていました。ですから、この「マンホールカード」の収集は、当然の様に興味を持ったのです。
当初は栃木県内とその周辺、群馬県や茨城県・埼玉県の範囲でしたが、次第にその範囲を広げ、現在は北は北海道から南は九州鹿児島県までになりました。
現在、全国的に発行されているその種類は、昨年12月に発行された第21弾のマンホールカードまでで、ついに1,000種類に達しています。つくば市や北九州市で発行している英語版を合わせると、1,004種類に成ります。ただ、すでに一部のマンホールカードは配布を終了しているカードもあります。それでもこの「マンホールカード」は、これからも新しいカードが続々と発行予定になっておりますから、全てを収集することは不可能に近いです。
北九州市1英語版.jpg北九州市4(英語版).jpg
(北九州市が発行する英語版のカード3枚の内2枚)

昨年、山形県の12種類を完全取得しました。群馬県も一度100%取得しましたが、すぐ新しいカードが発行され現在は19種類のうち2種類が未入手に成っています。
酒田市.jpg桐生市2.jpg
(昨年収集した山形県酒田市と群馬県桐生市発行のマンホールカード)

北陸地方は新潟県は36種類中20種類を収集していますが、その他の県(富山・石川・福井)については、これ)まで1枚も収集できていませんでした。
昨年の夏に富山県への計画をしましたが頓挫して、今回改めて計画しました。
能登半島地震の事もあり、躊躇するところも有りましたが、思い切って出かけました。

北陸新幹線にて富山駅に、両毛線で高崎駅まで行き、そこで新幹線に乗り込みます。ただ、自由席ホームで待っていると、駅員さんが駆けずり回って「本日は大変混雑をしていて、全員乗り切れない可能性が有りますので、指定席車両等分散して乗車して下さい。」と叫んでいます。私は一番前で待っていたので、降りてくる人を待って列車に乗り込みましたが、空席が有りません。何とか三列席の真ん中に荷物を置いていた外国の方がいたので、声をかけて座ることが出来ました。富山駅到着後、荷物を駅のコインロッカーに、ところが意外やコインロッカーに空きが無い状態、運よく丁度一か所空いたので、身軽になって最初のマンホールカードを求めて、氷見市へ向かいました。
氷見市には富山駅から「あいの風とやま鉄道」で高岡駅へ、そこでJR氷見線に乗り換え、終点の氷見駅に。駅構内の観光案内所で配布している氷見市のマンホールカードを受け取りました。富山県最初の一枚です。
氷見市マンホールカード.jpg
(富山県で最初に入手した、氷見市のマンホールカード)
カードにデザインされている魚は、氷見市の高級ブランド「ひみ寒ぶり」、カード裏面にはマンホール蓋にデザインされた図柄の解説が記されています。

早速、氷見駅で折り返し運転となる、乗ってきた車両に飛び乗り次の目的地、道の駅「雨晴」に向かうことに。私の住む栃木市を走るJR両毛線も同じようですが、富山県のローカル線も昼前後は、1時間に1本有るか無いかと言う状況です。移動するタイミングをよく考えないと、観光も上手く出来ません。

次の目的地「雨晴」では、次の列車が来るまでの間、1時間40分でカードを入手して、昼食を取り、周辺観光を楽しみました。
雨晴駅.jpg道の駅「雨晴」.jpg
(雨晴駅のホームから高岡方面に向かう列車。大型客船のイメージの道の駅「雨晴」の建物。)

カードを配布している、道の駅「雨晴」は前を通る国道415号とJR氷見線の線路を挟んで、富山湾を望むことが出来ます。
高岡市1マンホールカード.jpg
(富山県で2枚目取得の「高岡市」のマンホールカード。)
図柄は、中央に「女岩」、右端に「義経岩」、後方に立山連峰が描かれています。

「雨晴」の読みは「あまはらし」ですが、最近もテレビのクイズ番組の「難読漢字」で出ていました。
ここ「雨晴海岸」は、能登半島国定公園に有り、天気が良い日には富山湾越しに、3,000メートル級の山々が連なる、立山連峰を望むことが出来る景勝地ですが、残念ながら私が行った日は曇っていてその景色を拝むことは出来ませんでした。それでも道の駅の展望席で「氷見うどん」を食べながら、目の前に広がる富山湾の景色を堪能できました。
雨晴海岸「女岩」.jpg
(雨晴海岸の名勝地「女岩」、晴れた日には後方に立山連峰が見える。)
万葉句碑と芭蕉句碑.jpg
(道の駅2階展望フロアーには、移設された万葉歌碑と芭蕉翁の句碑が有りました。)

次の目的地は二駅先の「伏木」です。ここでは次の列車が来るまで1時間44分有りますから、カード配布場所「勝興寺」までの間の周辺観光も楽しみました。
高岡市2マンホールカード.jpg
(勝興寺の受付で受け取った、3枚目のカード)
図柄は、勝興寺本堂と、その周りに万葉集の編者「大伴家持」が歌に詠んだ「カタクリ」の花。

勝興寺は浄土真宗本願寺派、「雲龍山」と号し、本尊は阿弥陀如来。
平成十年(1998)に本堂の保存修理に着手、令和二年(2020)までの23年を掛けて、重要文化財12棟全ての保存修理を行っています。その後、「本堂」と「大広間及び式台」の2棟が国宝に指定されています。
総門を入ると、正面に城郭を思わせる望楼形式の「鼓堂」。左手受付の先に、京都興正寺から移築された、檜皮葺の「唐門」
唐門.jpg鼓堂.jpg
(唐門と鼓堂)

濠に架かる石橋を渡り、唐門を抜けると、正面に国宝となった「本堂」の大伽藍が現れます。その右手奥には、同じく国宝の「大広間と式台」が有ります。
本堂.jpg大広間と式台.jpg
(本堂と大広間と式台)
<勝興寺の境内は、奈良時代の越中国庁跡と推定されるところで、万葉集を編纂した大伴家持が国守として5年間在任し、その間に詠まれた多くの和歌が今に残されています。>と、勝興寺で頂いたリーフレットに記されていました。
勝興寺総門の手前の参道脇に、総門を背に立つ「大伴家持卿」の像と、家持の歌碑が建てられています。
大伴家持の像.jpg勝興寺総門前方に建つ万葉歌碑.jpg

伏木の駅前から勝興寺総門まで、約300メートル。その中程に「高岡市伏木気象資料館」が有ります。この建物は「旧伏木測候所」で、庁舎は明治42年(1909)に建築されています。脇に建つ測風塔は昭和13年(1938)に建てられました。共に国の登録有形文化財です。
尚、敷地内には「越中國守館址」と刻まれた石碑も建てられています。碑陰には<天平勝宝二年(750)三月二日、越中国守大伴家持が館舎の朝の寝床ではるか射水川を漕ぎ歌う船人の声を聞いてよんだ歌。「朝床に 聞けば遥けし 射水川 朝漕ぎしつつ 唱ふ船人」>が刻まれています。(高岡市教育委員会の解説文を参照しました。)
旧伏木測候所.jpg越中国守館址の碑.jpg

本日予定の3枚のマンホールカードを無事入手して、今夜の宿泊地「富山」に戻りました。
宿泊したホテルには、おおぜいの外国人観光客の姿も有りました。

夕食後は近くの、「富岩運河環水公園」のイルミネーションを見に行ってきました。
富岩環水公園イルミネーション1.jpg富岩環水公園イルミネーション2.jpg

今回、参考にした資料:
・公益財団法人勝興寺文化財保存・活用事業団発行リーフレット「甦った大伽藍 国宝勝興寺」
・高岡市教育委員会文化財保護活用課発行リーフレット「高岡市伏木気象資料館」

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北千住、氷川神社を巡る [歩く]

栃木市から北千住までは、東武特急を利用すれば、1時間で行けます。

北千住駅前.jpg日光街道後宿場印.jpg
(北千住駅と昨年6月に訪宿した際に入手した、「千住宿」の日光街道御宿場印)

この北千住の駅で降りて、日光道中最初の宿場町「千住宿」の街巡りをしました。
千住宿は、寛永2年(1625)に江戸幕府によって整備されました。その時の千住宿は、千住一丁目から五丁目の範囲でしたが、寛永12年(1635)に参勤交代制が敷かれると、日光道中の往来が盛んになった事で、宿の負担が増えてきていました。そのころまでに千住宿の南側に開発された掃部新田の街道筋に、商いを営む店が立ち始め、掃部宿が出来あがってきていました。
万治元年(1658)にはその掃部宿は千住宿に加えられました。この時加宿となった掃部宿の範囲は、掃部宿の南側に繋がる、千住河原町や千住橋戸町も含まれていました。
更に、万治3年(1660)には、千住宿の範囲は南に広がり、荒川(現在の隅田川)を超えて、右岸の小塚原町、中村町が加宿されて、元の一丁目から五丁目は本宿と言われました。
現在、隅田川の南側は、荒川区南千住と言う町名に成っていますが、しかし北千住という町名は有りません。現在の隅田川と北側を流れる荒川(かつての荒川放水路)とに囲まれた地域は、足立区の南端に位置し、北千住駅を中心として、多くは千住寿町とか、千住龍田町の様に「千住」を冠した町名に変更され、現在に至っています。言葉ではうまく説明できないので、北千住駅周辺の概略図を描いてみました。
北千住エリア概略図.jpg
概略図の上部を、西から東へ、そして大きくカーブして南に流れる「荒川」は、1930年(昭和5年)に完成した荒川放水路ですが、昭和40年に「荒川」の正式名称になり、概略図下部を蛇行して流れる「隅田川」は、元々は荒川の流れでしたが、度重なる氾濫から解放する為、上記荒川放水路が開鑿され、同じく昭和40年に、上流の岩淵水門から下流の名称は、正式に「隅田川」となりました。
荒川に架かる鉄橋群.jpg荒川放水路の名残.jpg
荒川に架かる鉄橋群、左側には常磐線や千代田線・つくばエクスプレスの「荒川橋梁」、右側は東武伊勢崎線の鉄橋。その橋桁部分に「東武伊勢崎線荒川放水路橋梁」の文字が、かつての名残を留めています。

概略図の左上(西新井橋南橋詰)から南南東に下がり、千住神社東方で東に進み、また南東に曲がって右下に進む、深緑色で記した線は、天正年間(1573~1592)小田原北条氏によって築かれた「熊谷堤」に成ります。荒川(現在の隅田川)の除水堤防として築かれました。当初の千住宿(本宿)は、この熊谷堤の堤内(北側)に当たります。

明治19年1月7日付けの「明細 改正東京新圖」(編輯兼出版人 井上勝五郎)を眺めてみると、日本橋から北に延びる「奥州街道」の、荒川(現在の隅田川)に架かる「大ハシ」を渡った先に、「足立郡」や「千住中組」・「千住北組」等の地名が記されたエリア―に、かつての「千住宿」の街並が道路の両側に続いています。そして目を引いたのは、鳥居の地図記号と、脇に記された「氷川社」の文字です。僅かな間隔で、街道から少し脇に入ったところに、3ヵ所有ります。

「氷川社」「氷川神社」、素戔嗚尊を祭神とするこの神社は、私の住む栃木市内には有りません。調べてみると、お隣の小山市の塚崎に1社祀られていました。
小山市氷川神社1.jpg史跡塚田館跡の碑.jpg
小山市氷川神社2.jpg
小山市塚崎は、新小山市民病院の南東方向に広がる地域で、氷川神社はその中央部に位置します。
現地を訪れましたが、神社の由来を記すものは有りませんでした。「栃木県神社誌」をひも解いても、<由緒沿革には、創立年月日は不詳だが、小山城の関係地域の集落の成り立ちなどから推察すると、鎌倉時代に創建されたのではないかと思われる。>と有るのみです。
神社の入口石の鳥居の傍らの、小山市教育委員会が建てた「史跡塚田館」と刻した標柱を元に、小山市史を調べると、「塚田館」築城年代:鎌倉時代。城主:塚田七郎宗光、塚田七郎宗貞と記され、宗光は四代小山長村の子で、塚田を称してこの館を築き、子孫が居住した。ことが掲載されていました。
それでも、なぜ氷川神社なのかは不明のままです。
栃木県全体に範囲を広げても、あと1社、さくら市に「氷川神社」が確認できるだけでした。

氷川神社について更に調べてみると、この氷川神社は武蔵國を流れる荒川流域におよそ280社も集中しているそうで、地域色の強い神社です。その総本社は、埼玉県さいたま市大宮区に鎮座する、かつての武蔵國一之宮「氷川神社」です。
氷川神社という神社名の由来について、ひとつ伝えられているのは、日本神話の中の「八俣大蛇を退治した荒神 スサノオノミコト」伝説に基づく話です。
天照大神を姉とする須佐之男命(スサノオノミコト)は乱暴なふるまいの罪で、高天原を追放され、出雲国の斐伊川上の鳥髪という大原始林の中に降り立った。そこで、老夫婦が一人の可憐な乙女を、八俣大蛇(ヤマタノオロチ)に取られることに、泣き悲しんでいるのを知り、計略をめぐらして、見事に大蛇を退治し、晴れて助けた乙女(クシナダヒメ)と一緒になった。
おそらく、毎年のように洪水を起こし、大きな被害をもたらす「荒川」を、ヤマタノオロチに見立て、それを退治したスサノオノミコトを祀ることで、その神力で、「荒川」を鎮めたいと願ったもので、出雲国の斐伊川(ヒイガワ)から、ヒカワ・・・「氷川」と言う神社の名称が付けられた。と言う説です。それから「荒川」の流域で、「氷川信仰」が広がっていったのだと。

そこで、北千住エリア―の「氷川神社」を中心に、街巡りをしました。
最初は、前出の「改正東京新圖」に記された3か所のうち、一番南側に足を運びます。
北千住駅西口を出て、線路際の道路(千路通り)を南に歩き、そこから路地を抜け、ミリオン通りに出たら左に折れ南に進むと、通りの左側、立派な玉垣をめぐらした「千住仲町氷川神社」前に到着です。約800メートルの道のりです。
千住仲町氷川神社1.jpg
この仲町氷川神社は、掃部宿の鎭守に成ります。延喜年間(901~923)には牛田寄りの元宮に祀られていたものを、元和2年(1616)石出掃部亮吉胤が、掃部堤を築く際に、現在地に遷座させたものです。社殿に向かって右手奥に、北千住エリア―の社寺に分布する、千寿七福神の弁財天が祀られている岩屋が有ります。
弁財天1.jpg弁財天2.jpg
岩屋の中の弁財天は、元禄2年(1689)の建立で、弁天像を陽刻した供養庚申塔の形態をとっています。仏教では庚申の本尊は「青面金剛」とされるので、よく庚申塔に彫られていますが、弁財天を主尊とする庚申塔は、非常に珍しいものです。足立区の登録有形文化財に成っています。

次の氷川神社は、旧日光道中(旧奥州街道)に出て北上、千住3丁目のコンビニ先を西に入る路地を覗くと、奥に背の高い木立と石の鳥居が見えます。

千住本氷川神社(せんじゅもとひかわじんじゃ)に成ります。境内内に建つ案内板によると、この神社は、<徳治2年(1307)に千葉氏によって、牛田に千葉山西光院と共に、氷川神社として創建されたという。千住が宿場町として栄え始めた江戸時代の初期、現在地に地主の土地奉納によって分社が建てられた。>のが始まりで、石の鳥居を潜った先に、旧社殿が残されています。旧社殿の向拝は、千鳥破風、その前面が唐破風となり、二重の破風を形成し、頭貫や虹梁の部分には、龍や鳥類の彫刻が目立っています。

千住本氷川神社鳥居.jpg千住本氷川神社旧社殿.jpg

昭和45年(1970)に、社殿を新築して、上記の旧社殿は末社として、三峯神社・久須志神社・大黒天が祀られています。大黒天は千寿七福神に成ります。
千住本氷川神社新社殿.jpg

次、三番目は千住4丁目に鎮座する「氷川神社」に成ります。一度旧日光街道まで戻り、街道を北に200メートルほど歩くと、街道右手に立派なお屋敷が見えてきます。
千住4丁目、旧日光街道.jpg
「横山家住宅」です。足立区登録有形民俗文化財のこの建物は、足立区教育委員会が建てた説明板によると、<宿場町の名残として、伝馬屋敷の面影を今に伝えている。伝馬は、人や物資の輸送の為に、各宿場に馬負担させた江戸幕府の制度で、伝馬を負担した者には伝馬屋敷が与えられ、年貢なども免除された。横山家は、江戸時代から続く富裕な商家で、伝馬を負担していた。屋号は「松屋」で、今でいう再生紙を取り扱う地漉紙問屋であった。(後略)>
この横山家住宅の手前を東に入る路地が有ります。右折して路地に入ります。その突き当りが「長円寺」と言う、新義真言宗の寺院です。嘉永四年(1627)に、出羽湯殿山の行者、雲海がここに庵を結び、後に賢俊が開山したといいます。
長円寺.jpg
(長円寺山門)
三ヵ所目の「氷川神社」はこの長円寺の境内に、元禄四年(1691)創建されました。お寺の北隣に成ります。
氷川神社1.jpg
氷川神社社殿の左隣には、境内社の「高正天満宮」「稲荷神社」「猿田彦大神」が祀られています。
又、境内には「高正天満宮」の縁起を刻した、元治元年(1964)建立の石碑などが建っています。
千住氷川神社の社標石.jpg高正天満宮縁起碑.jpg

以上の三社の他に、かつて千住5丁目川田耕地に有った氷川神社が、荒川放水路の開鑿に伴い、移転された「千住大川町氷川神社」も有りました。
大川町氷川神社1.jpg
元々、千住五丁目の鎭守として、永仁2年(1294)に川田耕地に創建されましたが、前述の様に荒川放水路の建設工事の為に、現在地に移転しました。社殿は大正二年(1913)の造営に成ります。

新千住橋の標柱.jpg富士塚(大川町).jpg
参道入口左手に建っているのが、旧千住新橋の親柱です。又、社殿南側には「千住川田浅間神社冨士塚」が有ります。
千住新橋は、荒川放水路工事の一環として、大正13年(1924)5月竣工しています。
橋の規模は、長さ452.7m、幅7.2m、鋼板桁の近代橋です。しかし、交通量の増加や老朽化の為、昭和53年(1978)掛替撤去に成っています。
現在の千住新橋.jpg千住新橋銘板.jpg
(上の写真は、現在の千住新橋です。高欄に橋名板が付いています。)

更にもう一社、現在は氷川神社の社名では有りませんが、現在の千住宮元町に祀られている「千住神社」が有ります。
千住神社1.jpg
足立区教育委員会が設置した説明板を参照させて頂くと、<およそ一千年前、この地は仙崎という丘陵で、森林地帯であったが、延長四年(926))に稲荷の神が勧請され、仙崎稲荷神社が創建された。弘安二年(1279)、氷川神社も勧請したので、二つの神社が森林地帯の中に並び、「二ツ森」とも言われ住民の信仰を集めた。江戸の初期には、千住宿の西方にある神社ゆえ、西の森と唱えられた。明治六年(1873)、仙崎稲荷神社と氷川神社を合祀して西森神社と号し、大正四年(1915)に千住神社と改称した。(後略)>
千住神社2.jpg
ここ千住神社の境内には、千寿七福神の恵比寿様が、「願かけ恵比寿」として祀られています。千住富士として御祭神に木花咲耶比売命をお祀りする富士塚が築かれています。
恵比寿様.jpg千住富士.jpg
又、この地は永承六年(1051)源義家が奥州征伐の際、荒川(現在の隅田川千住大橋付近)を渡り、当神社に陣営し、戦勝を祈願したと伝わり、史蹟となっています。他、芭蕉句碑や防空壕跡など見所が沢山ありました。

こうしてみると、北千住駅周辺に創建された「氷川神社」5社の中では、最初、千住仲町氷川神社が延喜年間(901~923)で、現在地より南東方向に創建されました。次に千住神社の前身氷川神社が、1279年となります。次が千住大川町氷川神社で1294年、そして1307年には千住本氷川神社の前身が、牛田(現在の千住曙町)に創建され、最後が千住四丁目氷川神社で、1691年創建と言う事に成ります。それぞれの地域住民の信仰を集めて、現在に至っています。

今回の参考資料:
・「千住宿歴史ウォークガイドブック②」 NPO法人千住文化普及会発行
・「日本の伝説12中国」 日本伝説拾遺会監修 教育図書出版 山田書院編集発行
・「栃木県神社誌」 栃木県神社庁発行
・「小山市史 資料編中世」小山市発行

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郷土の偉人、日立製作所の創業者小平浪平翁、今年生誕150年になります [石碑]

前々回、今年最初の石碑めぐりで、栃木市大平町真弓の磯山に祀られた、諏訪神社境内に建つ石碑について書きましたが、その中で磯山山頂部に残る、コンクリート製の給水塔の事について、少し触れました。
磯山山頂の貯水塔.jpg貯水塔の説明板.jpg
(栃木市大平町真弓、磯山山頂に立つ貯水塔とその説明板)

貯水塔の脇に建つ説明板の通り、<この水槽は昭和18年、株式会社日立製作所栃木工場が、この大平の地に操業を開始した際、工場の工業用水供給の為建造されたものです。>
創業を開始したのは、昭和20年(1945)に成ります。

株式会社日立製作所が、この地に工場を建設したのは、ひとりの人物の存在が有りました。
その人物こそ「(株)日立製作所」の創業者で、その当時社長であった「小平浪平」です。

小平浪平翁は、明治7年(1874)1月15日に、栃木県都賀郡合戦場宿(現在、栃木市都賀町合戦場755)の大地主の家に、父惣八、母チヨの次男として生まれました。
明治21年(1888)14歳で上京、東京英語学校(東京大学予備門)に入学。その後、現東京大学工学部を卒業。明治33年(1900)大学卒業後、秋田県の藤田組小坂鉱山に入社。その後発電事業に職場を求めた。そこで発電設備のほとんどが外国製品で占められている現実を痛感している。明治39年(1906)10月、久原からの誘いを受けて、前年久原が開業した茨城県の久原鉱業所(日立鉱山)に入社する。その後、国産技術にこだわり、明治43年(1910)日立製作所を創業、世界的企業となる礎を築き、昭和26年(1951)10月5日に、その一生を終えました。享年77歳でした。

現在、小平浪平翁が幼少期に生活した「生家」が残っています。平成30年(2018)10月に、親族より栃木市に寄贈されています。
昨年暮れに、市が主催する「小平浪平顕彰ツアー」に参加させて頂き、その生家と茨城県日立市に2021年11月にオープンした、「日立オリジンパーク」等を見学をすることが出来ました。

小平浪平翁の生家は、日光例幣使街道沿いで、合戦場郵便局の丁度向かい側に有ります。
小平浪平生誕地1.jpg
栃木の市街地から大通りを北上(栃木県道3号)、東武日光線の跨線橋を渡ると直ぐ、500メートル程で目的地の前に到着します。

小平浪平生誕地2.jpg
街道に面した門の脇に、「小平浪平生誕地」と刻した石碑が建てられています。
小平浪平生誕地碑.jpg
この碑の題字を揮毫された人物は、JX金属グループ創業者「久原房之助」、明治38年(1905)日立鉱山を開業し、日本有数の銅山に成長させた人で、前述した様に、浪平との出会いは小坂鉱山で、その後久原が日立鉱山を開業した翌年に浪平も久原に誘われ入社しています。浪平とは、上司と部下の関係に成りますが、年齢的に5歳しか離れていなかったことで、同志のような関係でもあり、支援者だったと言われています。
碑陰には、元副社長の高尾直三郎氏による碑文が刻されています。
石碑「小平浪平生誕地」の碑陰.jpg石碑「小平浪平生誕地」の碑陰(碑文).jpg
この石碑は、碑文にも記されている通り、日立製作所創業50周年を記念して、昭和35年10月5日建てられました。
門を入ると左手に母屋の玄関口が有ります。玄関に入って部屋の中を見ると、室内には多くの屏風や欄間額、そして調度品が展示されています。
室内の様子.jpg
その中に、浪平が「母親」を描いたという、直筆画を見ることが出来ました。
母屋の東側には、浪平が14歳で上京するまで、勉学に励んだとする、勉強小屋や、釣瓶井戸、浪平の父・惣八が家業の鉛丹の製造をしていた作業小屋などを、見学出来ました。
勉強小屋.jpg釣瓶井戸.jpg
作業小屋には、当時製造していた鉛丹のサンプルが展示されていました。
作業小屋.jpg鉛丹見本.jpg
ちなみに「鉛丹」とは、金属の鉛を加熱、空気中の酸素と反応させ「一酸化鉛」とし、更に加熱を加えて製造される。鉛丹は鉛中毒の危険性が高い。用途は赤色塗料や錆止め塗料として使用される。戦艦など船の底に塗り、航行性能を維持する為に使用されている。

見学をした日は、前日に雨が降っていた為、紅く色づいたモミジの葉が、庭に散っていて、華やかに装っていました。
浪平生家の庭1.jpg浪平生家の庭2.jpg

※現在、小平浪平生家の敷地内見学については、「栃木市役所総合政策課」に問い合わせの上、事前予約をする必要があるそうです。

生家の見学後、都賀インターから北関東自動車道を東に、更に常磐自動車道に乗り換え北上、日立市大みか町に移動。「日立オリジンパーク」内に有る、「小平記念館」や「創業小屋」の見学をしました。
日立オリジンパーク入口.jpg小平記念館1.jpg
見学の前に施設スタッフの方から、「日立オリジンパーク」の概略説明が有りました。
社員の福利厚生の為のゴルフ場.jpg
施設の南側にはゴルフ場が広がっています。この「大みかゴルフクラブ」は、小平浪平が社員の娯楽と外国賓客の接待を目的に建設したもので、昭和11年(1936)10月11日、「日立ゴルフ倶楽部」として、茨城県最初のゴルフ場として完成しています。当初は18ホールでしたが、戦争中の食料難で一部が農地化された為、現在は8ホール。隣の大学敷地も元ゴルフコースの有ったところ等、説明が有りました。小平浪平翁の理念「和を以て貴しとなす」が、ここにも現れていることがよくわかります。

小平記念館の展示ホールには、日立の企業理念や創業の精神である和・誠・開拓者精神等が、事例とともに展示紹介されています。
小平記念館4.jpg小平記念館5.jpg

復元された「創業小屋」
復元された創業小屋.jpg
建屋の中には「創業小屋」について案内が有りましたので、抜粋させて頂きます。
<1953年、創業者小平浪平より教えを受けた高尾直三郎の発案により日立製作所・海岸工場の高台に整備された創業の聖地、小平台。戦争の犠牲者を悼み、小平の偉業を伝える場として植樹された。その地に、1956年、日立製作所の源泉である、久原鉱業所日立鉱山の工作課修理工場が復元された。高尾ら創業メンバー念願の復元であり、関係者の回想と写真によって半世紀ぶりによみがえったその建物は「創業小屋」と名付けられた。(中略)2021年、創業小屋は大みかの地にうつり、新たな聖地のシンボルとして、創業の精神を未来へとつないでいる。>と。
創業小屋の内部には、1910年初の純国産5馬力誘導電動機が、実際に動く状態で展示されています。パネルの「START」ボタンを押すと、同時に大きな駆動音を発してモーターが回転、ベルトを介して横に据え付けられた「ラジアルボール盤」の主軸が回転する。こうして、今も現役で動くことを見せています。
5馬力誘導電動機実機運転.jpg純国産のモーターを作る.jpg

あらためて、小平浪平翁が偉大で、素晴らしい人であったことを、知ることが出来ました。

今回の参考資料:
・栃木市 小平浪平顕彰ツアー資料 合戦場の知名度を全国区にする会作成
・「小平浪平生誕地」リーフレット 栃木市発行
・「日立オリジンパーク」リーフレット (株)日立製作所 日立オリジンパーク発行
・「技術王国・日立をつくった男ー創業者小平浪平伝」 加藤勝美著 PHP研究所発行
・「都賀町史 歴史編」 都賀町発行
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ある陶芸家の個展を見て

昨年の秋、ある陶芸家の個展の案内状が、郵送されてきました。
最初はその差出人に、ピンときませんでした。「誰からだろうか」と。 そして、案内状を読んでいるうちに、思い当たりました。
昨年の夏ごろだったか、栃木市湊町「お茶の小井沼」の店舗と蔵を使って、行われていた、その陶芸家の作品展を見に行き、記帳をして来た事が有りました。
この作家の作品は、チョッと変わっていて、お茶碗や花瓶などと言うものでは無く、私たちが家庭で日常的に使っている、例えば「ノートパソコン」とか、「文房具」などを、実物大でその形状を再現させているのです。
今回の案内状には、自転車が、それも本物と見間違うようなリアルさ。その作品に興味を抱いて、見に行ってきました。作品「自転車」.jpg

個展「私」の会場は、「大久保分校スタートアップミュージアム」という、栃木県足利市大久保町にある、廃校を改築した美術館です。その住所からグーグルマップで検索して、行ってきました。
展示会場の旧大久保分校.jpg

場所は、足利フラワーパークの西方、田園地帯の真ん中、分校の敷地の南側には「尾名川」と言う小河川が流れ、そこに架かる「分校橋」を渡っていく。車を校庭跡に止め、展示会場の校舎に入りました。

初めに目を引いたのは、廊下に架かっている「カーテン」です。
廊下のカーテン.jpg
これも作品です。本当にカーテンそのものです。ふと開いて窓の外の風景を見たくなります。そこにはどのような風景が広がっているのか。

教室の中に入ります。有りました、案内状に出ていた「自転車」です。
作品「自転車」3.jpg作品「自転車」2.jpg

作者が8年間乗り続けた自転車を、実寸サイズで作られているそうです。とても土をこねて、成型して焼いた「陶器」とは思えません。
私が子供の頃、家は自転車店を営んでいました。その為、ついつい細かいところを観察していました。
「フレーム」は婦人用。「ハンドル」はセミアップタイプ、お洒落なかご付で、フルカバーチェーンケース、まさに昭和の自転車です。
でも、車輪のスポークが有りません。自動車のタイヤに付いているホイルの役目をする。車軸とタイヤを連結する部品です。
子どもの頃、この自転車の車輪の組み立てを手伝いました。車軸側のハブとタイヤ側のリムとを、スポークで連結させるのですが、これは結構慣れるまでは難しかったです。
組み立てたホイルを父が、スポークの張りを調整して、車輪がブレずに回転するようにします。次の写真が「ホイールの調整作業」です。
1975年9月スポークの張り調整.jpg

スポークは細い金属製の部品ですから、陶器で再現することは困難でしょうが、考えてみると作者の意図はもっと深い気がします。
この自転車の作品は、動いている、走っている所を表現しているからです。
見ると、止まっている時、倒れないように後輪に付いた「スタンド」を下ろしますが、この作品はそのスタンドも上がっています。走っているからです。その時車輪は回転をしている為、スポークは見えなくなっているはずです。これでリアルだったのです。

他の作品も見てみます。
バケツに注ぐ.jpg如雨露に注ぐ.jpg

バックに注いじゃう!.jpg脱ぎ捨てられた靴下.jpg

とても陶器とは思えない作品が並んでいました。

案内状によると、この個展は2月2日(日)までだそうです、金・土・日・祝の10:00~17:00の開館ですから、残すところ今週末と来週末だけに成っています。
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