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山形県鶴岡市で擬洋風建築など見て回る [建物]

先のゴールデンウィークに、久しぶりに遠出をして、山形県の鶴岡市まで出掛けました。
目的は、明治大正に建築された建物が多く残されていて、以前から行ってみたかったからです。
朝6時に家を出て、鶴岡市に到着した時は、昼まじかになっていました。
東北自動車道をひたすら北上し、福島県を縦断、宮城県の村田ジャンクションにて、山形自動車道に入り蔵王の北側を西に走る。蔵王山の北面は残雪が多く見られた。月山や湯殿山を通過して庄内平野に。
鶴岡駅前の観光案内所によって、鶴岡市内の観光マップや観光資料を貰って、早速かつて鶴ケ岡城の有った「鶴岡公園」近くの駐車場へ。
案内所で渡された「山形県鶴岡市観光パンフレット」を開くと、
<江戸時代から続く 城下町 今も殿が暮らすまち・・・酒井家庄内入部400年
江戸時代に酒井忠勝公が藩主として庄内に入部し、今も旧藩主家が住み続けている、国内でも珍しい地域です。令和4年は酒井家庄内入部400年の年となります。歴史情緒が今も残る城下町鶴岡を散歩してみましょう。>  と、街の紹介が出ています。

実は私が今回この町を訪れたかった、もうひとつの理由は、栃木県の第三代県令となった三島通庸(みちつね)への興味からになります。三島通庸が明治7年(1875)12月3日に初めて酒田県令となり、この山形の地に来ていますが、その翌年明治8年8月31日に県庁を酒田から鶴岡に移し、酒田県から鶴岡県に名称変更を行っています。
 
三島通庸が栃木県令として明治16年(1883)10月30日任命(この時は福島県令との兼務)された時にも、翌年明治17年2月23日には栃木県庁を、栃木町から宇都宮へ移転、名称も宇都宮県に変更しています。
県庁を栃木町から宇都宮に移転させる話は、明治6年(1873)に当時の宇都宮県を栃木県に合併した当時から出ていました。それからずっと移転賛成と反対とが中央政府に対して請願活動を繰り広げていたもので、三島通庸が県令に着任した事で、一気に宇都宮移転が決まりました。そして同時に名称も「宇都宮県」と改称されました。明治17年1月24日付で「宇都宮県令三島通庸代理 宇都宮県大書記官片山重範」の名前で布達を発しましたが、その5日後それを取り消して、もとの栃木県に戻されています。(栃木市史より)

さて、鶴岡市に話を戻します。地形図を見ると鶴岡公園の西側に酒井氏庭園の文字が確認出来ます。ここは旧庄内藩主酒井家より伝来の文化財および土地・建物等が寄付され、昭和25年(1950)に創立した、「致道博物館」があり、目的の擬洋風建築2棟がここに移築されています。

先ず最初の建物は、「旧鶴岡警察署庁舎」です。
旧鶴岡警察署庁舎.jpg

この建物は明治政府の威信を示す為建設したとされ、建てられたのは明治17年と有ります。
明治9年8月22日、それまでの鶴岡県・旧山形県・置賜県の三県を統一した新生山形県の初代県令となった、三島通庸が命じて、市内馬場町に建てられたものを、昭和32年ここに移築保存しています。

写真右側の茶褐色の門は「旧酒井家江戸屋敷 赤門」で、<田安徳川家の姫君が酒井家へ輿入れした際に建てられた門で、江戸中屋敷から移築し、御隠殿の門にしたと伝わる>と説明がされていました。

二つ目の擬洋風建築は、上記の警察署庁舎と同様、三島県令の命により建てられた「旧西田川郡役所」に成ります。
旧西田川郡役所.jpg

創建は明治14年(1881)、棟梁は鶴岡出身で西洋建築を学んだ高橋兼吉と石井竹次郎に成ります。
<バルコニーと塔屋・時計台が特徴で、玄関ポーチの柱脚台や吊階段など、要所にルネッサンス様式の模倣がみられます。>(説明板より抜粋)

この致道博物館の敷地内には以上の擬洋風建築の外、幕末に江戸中屋敷を一部移築したと伝わる藩主の隠居所「旧庄内藩主御隠殿」や、出羽三山の山麓・田麦俣の民家「旧渋谷家住宅(多層民家)」や、「美術天覧会場」・「重要有形民俗文化財収蔵庫」・「民具の蔵」等の建物と、酒井氏庭園を観覧する事が出来ます。
旧渋谷家住宅.jpg
(多層民家旧渋谷家住宅:山形県内でも有数の豪雪地帯で、庄内と内陸を結ぶ六十里越街道の要所・田麦俣(旧朝日村)から移築した民家)

ゆっくりとこれらの展示物を見ていきたいところですが、日帰りの旅。又、5時間以上掛けて栃木まで戻らければならないため、他に移動します。

次の建物は、「鶴岡公園」内、荘内神社の南東側に建つ「大寳館」を見学します。
大宝館.jpg

大宝館は、大正4年(1915)に大正天皇の即位を記念して創建されたもので、現在館内には鶴岡ゆかりの人物資料展示施設として、一般公開されています。

次は荘内神社の正面鳥居の前の道を、東の方向に少し歩いた道路左手に現れる「鶴岡カトリック教会の天主堂に向かいます。
鶴岡カトリック教会天主堂.jpg

道路際に立つ案内板によると、<この天主堂はフランス人パピノ神父の設計といわれ、明治36年鶴岡市三日町に在住した大工相馬富太郎が棟梁となって完成した建物でヨーロッパ中世紀頃に建築されたロマネスク様式をもつ教会…(後略)>と記されています。
天主堂の中に入ると、荘厳な雰囲気に包まれます、礼拝集会に参加する人達が座るために現在折り畳みのパイプ椅子が並んでいますが、床には畳が敷かれています。かつては正座をして礼拝をしたと思われます。

国内にはこうした明治時代に建てられたかつての郡役所の建物が多く残されています。私もこれまでこの山形県や福島県にて何カ所か見て来ていますので、参考に写真を掲載します。
旧南会津郡役所.jpg旧伊達郡役所.jpg
(旧南会津郡役所:明治18年8月落成)   (旧伊達郡役所:明治16年桑折町)
旧西村山郡役所.jpg旧西村山郡会議事堂.jpg
(旧西村山郡役所:明治11年12月竣工) (旧西村山郡会議事堂:明治19年8月竣工)

私の住む栃木市にも、明治初期に栃木県庁が置かれた事で、「栃木県庁」明治9年12月上棟。「栃木区裁判所」明治5年設置。「時計台があった栃木師範学校」や「栃木模範女学校」。「栃木県医学校」明治15年焼失廃校。「下都賀郡役所」明治16年設置。等々多くの建物が建設されたが、残念ながら全て現存していません。ただ栃木県最初の写真館「片岡写真館」の創業者片岡如松(じょしょう)さんが、その当時の栃木の街の様子を撮影してくれていたので、現在私達も写真でその当時の様子を窺い知ることが出来るのは、大変有り難い事です。
現在も営業を続けている片岡写真館の新スタジオビルは、明治9年に建てられた初代の栃木警察署をモチーフに、建てられたと聞いています。先ほどの明治初期からの多くの栃木町の写真を収録した写真集「片岡寫眞館」の中にも、その初代警察署の写真も掲載されていますので、参考に抜粋し載せさせて頂きます。
片岡写真館(栃木市).jpg栃木警察署.jpg

山形県内には、まだ多くの魅力的な建築物が残されています。又、機会が有ったら実際にこの目で見てみたいです。

今回参考にした資料:
・「栃木市史 史料編近現代Ⅰ」 栃木市発行
・「土木県令 三島通庸」 丸山光太郎著 栃木県出版文化協会発行
・「写真集 片岡寫眞館 明治・大正・昭和140年の記憶」 片岡惟光編 新樹社発行

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旧奥州街道白澤宿を歩く [歩く]

白澤宿は江戸時代の五街道のひとつ、奥州街道18番目の宿場町で、ひとつ前の宇都宮宿で日光街道と別れた後で、鬼怒川を渡る手前に有る宿場町です。起点となる江戸日本橋より三十里(約120km)です。

栃木文化協会が発行した「栃木の街道」の七章奥州街道で、「白沢宿」は次のように紹介されています。
<白沢宿の起源については、具体的に明らかでない。享保年間に書かれた『奥州街道白沢宿駄賃定覚書』によれば、白沢宿の町割りは慶長14年(1609)にさかのぼる。ただ年代的には、なお問題を残しているように思える。白沢宿の動きは、初めは主に馬次宿で、上阿久津河岸が開かれておらず、街道も明らかでなかった。(中略) 寛文三年(1663)の白沢宿の家数は98軒、馬軒は66疋となっていた。この頃が「殊の外にぎわい申候」と言った時期でもあった。(後略)>と。

現在も宿場の中央を走る街道の両側には水路が有り、綺麗な水が流れています。街道筋の家々には、「辰巳屋」とか「高砂屋」「猪瀬屋」「住吉屋」という、かつての「屋号」が表示され、又水路には水車が何カ所か設置され、通過する人の目を楽しませています。
私もこれまで、何度もこの通りを車で通過していますが、今回はじっくりと宿場の隅から隅まで歩いて見て回りたいと思います。
宇都宮から白澤街道(旧奥州街道)を北上すると白沢の手前に、私が若かった頃アヤメと流しそうめんで有名な奈坪苑という所が有りました。今、グーグルマップで検索しても見つける事は出来ません。街道から右手に折れ雑木林の中を進んだ先に有った記憶が残っています。50年も前のことに成ります。
そんな記憶をたどっているうちに、白澤宿の入口に差し掛かって来ました、
地蔵堂.jpg

道路の右手に地蔵堂が現れました。境内に「白沢地蔵堂の伝説」の説明板が有り。お堂裏手には、「南無阿弥陀佛」と刻した石碑や宝篋印塔、五輪塔その他馬頭観世音の石塔などが建てられています。
地蔵堂裏手.jpg

地蔵堂の先から道路は大きく右にカーブをしながら下って行きます。
薬師堂の先は右にカーブしながら下っている.jpg

道路の左手に登って行く階段が有ります、「やげん坂」の説明板が建てられています。読んでみます、
<この坂は、漢方の薬種をくだく舟形の器具(薬研)に坂の形が大変似ているところから、「やげん坂」と呼ばれるようになったと言い伝えられています。また慶長十四年(1609年)白沢宿として町割ができる以前からここには、街道の道しるべとして夫婦の大きな榎があった由緒あるところです。>
やげん坂.jpg

その説明板に有った榎か分かりませんが、その先を少し行った右手に「白澤宿」と記した案内板が榎の大木の前に建てられています。そしてその右横に「江戸時代の公衆便所」だとする小屋が有ります。
白沢宿の榎.jpg江戸時代の公衆便所跡.jpg

旅する人にとっては、こうした公衆便所があったなら、大助かりだったと思います。今こうしてウォーキングを楽しんでいると、そうした思いを何度もしています。
道路左手に「水戸屋」さんとう<鬼怒のたまり漬>の店舗が有ります。道路はその先もまだ右にカーブをしながら下って行きます。
水戸屋の前から更に街道は下る.jpg

道路は信号機の有る丁字路に突き当たりました。右に曲がれば岡本街道で、奥州街道はここを左に曲がります。道路は広く両側に水路が有り現在車道と歩道の境界にもなっています。
白沢宿メイン道路(両側に水路).jpg

そして、今来た道を振り返ると坂道をずっと下りてきたことが分かります。
白沢宿南端の丁字路から今下ってきた道を振りかる.jpg

この辺が白澤宿メイン道路の南の端に当たります。ここから街道に沿って北方向に歩いて行きます。
本通りを進むと直ぐ左側に、大谷石を組んでその合せ部を漆喰で固めたような、石蔵造りの重厚な家が目に入りました。
石蔵造りの家.jpg
「堺屋」という屋号表示が付いています。元はどのような商いをしていた家だったのだろうか。

道路右側に四階建てのビルを構えた家が有ります。屋号の表示は「高砂屋」となっています。失礼して門扉越しに御庭を拝見させて頂きました。
高砂屋の表示板.jpg高砂屋の邸内.jpg
石灯籠の外に一基の石碑が目に留まりました。遠目ですが「明治天皇御休之所」と読む事が出来ます。

明治天皇御休之所.jpg

田代善吉著「栃木縣史」にて、明治天皇が白澤を訪れた記録は、「河内郡古里村大字白澤福田源太郎宅 明治九年六月十一日東北御巡幸の御時御小休所に充てさせらる、今其建物はなし、碑もなし、明治十四年八月奥羽御巡幸の際は、大田東一郎宅を御小休所に充てらる、其当時の建物存す、建碑なし」と、2回訪れている様で、こちら「高砂屋」さんがそのどちらかに当たるのか確認出来ませんでした。

先へ進みます。今度は道路左手に石造りの鳥居が見えてきました。
白沢宿本通り(左手に鳥居).jpg

鳥居の前まで来ました。鳥居脇に建つ標柱には「村社白髭神社」と刻されています。「村社」の文字はコンクリを埋め込んで有りますが、シッカリ確認出来ます。鳥居の先に参道が真っ直ぐ伸びて居ます。突き当たりに石段が見えます。
白髭神社参道入口.jpg
鳥居の左横の家の連子格子が昔の佇まいを見せています。屋号は「住吉屋」と掲示されています。
鳥居前の水車.jpg
手前の水路に設置された水車がゆっくりと回っています。

白髭神社に参拝をして行きたいと思います。神社境内まで結構な高さが有ります。
白髭神社参道階段.jpg白髭神社社殿.jpg

白沢宿付近の地形図を見ると、南から北に向かう街道筋に並行するように街並みの西側に南北に崖の地図記号が伸びています。白澤宿に来るとき坂を下って来ましたが、宿場の西側は台地に成っていて、神社の社殿はその台地の上に位置しているのでした。
地形図に記された標高の数値を探すと、白澤宿の信号機の有った丁字路の場所が、標高143メートル、台地の上に有る三角点の標高は159.1メートルと有り、其の標高差は16メートル程にもなっています。
その石段を登って、神社の境内へ。
社殿の前に来ると、予想外に広々としています。台地の縁に建てられていので、晴れれば東の白澤宿側は眼下に開け、遠く鬼怒川を望めそうです。
白髭神社境内からの展望.jpg

街道に戻り、先に進みます。参道入口から少し歩くと「宇都宮東警察署白沢警察官駐在所」、そして水路際に赤い郵便ポストが建っています。
駐在所の北隣りに立派な門柱の建つ家が有ります。家屋は庭の奥、庭の木に隠れて良く見えませんが、大きな屋根を持った建物が見えます。門柱の横に「本陣」と言う掲示や、ここ白澤宿から奥州街道の各宿場までの距離を表示した案内板が塀際に建てられています。
白沢宿本陣跡.jpg
ちなみに<江戸江 参拾里 四町 弐拾間(118.4km)>そして<白河宿江 拾八里 参拾四町 拾九間半(69.6km)>だそうです。

先に進みます。目の前に「関東八十八カ所霊場 第二十五番札所 真言宗智山派 明星院」と記した案内板が現れました。街道から左に折れます。その道路の奥突き当たりに寺院の建屋が見えます。
境内に入り、先ず参拝を済ませます。
明星院.jpg
本堂建屋の左側に御堂があります。御堂前方の枝垂桜は、だいぶ葉の緑が目立った来ています。

街道に戻ります。もう目の前には、宿場本通りの北の端です。通りの突き当たりは「井上清吉商店」で、清酒「澤姫」の醸造元と言う看板を掲げています。
白沢宿北の端、井上清吉商店.jpg

街道はこの突き当りから右に折れて行きます。左手の奥にお堂が見えます。薬師堂です。
薬師堂.jpg

薬師堂の右側に本陣だった「宇加地家」の立派な墓所が有ります。

「井上清吉商店」から右に折れる南東角に、小さな神社が祀られています。「經力稲荷大明神」の扁額は掲げられています。その左側の先に橋の欄干が見えます。
稲荷神社.jpg

橋を渡りましょう。この橋の名前は「九郷半橋」、そして下を流れる小川は「九郷半川」です。現在の橋は1883年に架け替えられています。
「九郷半川」は、白沢町の北隣「下ヶ橋町」にて「西鬼怒川」から取水した灌漑用水で、灌漑がおよぶところが、「下ヶ橋村」「上岡本村」「中岡本村」「下岡本村」「白沢村」「上平出村」「中平出村」「下平出村」「芦沼村」と、「石井村」の半郷を加えて、九ヵ村と半郷になるので九郷半川と称した。

橋の上から下流側を望むと、左岸の先に鳥居が見えます。チョッと寄って見たいと思います。
北野神社.jpg

その前に橋を渡った左橋詰に小さな道標らしき石柱が建てられています。
橋の袂に建つ馬頭観世音の石碑.jpg
道路側の面には<昭和二十九年二月初午 白沢甲部>と彫られています。その右側面にハッキリとは確認できませんが<馬頭観世音>らしき文字。

橋を渡った先で道路は三つの方向へ。メインの道路は左の方向へカーブしています。が、旧奥州街道は中央の真っ直ぐに北東方向に伸びる道路です。そしてもう一本は右に折れて川の左岸沿いに神社へと行く道です。今は右に折れる神社への道を選びます。
北野神社鳥居前.jpg

道路は神社の鳥居の前までです。鳥居を潜って境内の中へ神社の標柱が有りました。
「北野神社」と「須賀神社」の名前が彫られています。境内には「白沢彫刻屋台収納庫」と書かれた高さ4メートル程全面3枚のシャッターで閉じられて中は確認出来ませんが、来る途中に説明板が建てられていました。それによると、<白沢甲部彫刻屋台 明治初期に鹿沼から購入したと伝わる黒漆塗彩色彫刻屋台で、形式は宇都宮形のものです。(中略) 製作年代:天保4年(1833) 作者:彫師-富田宿 三代目磯部義兵衛(敬信)他 (後略)>と記されています。
前に、鹿沼市の彫刻屋台を見る機会が有りましたが見事な彫刻を施した屋台でした。この収納庫の中の屋台もその系統と言う事に成ります。
参考に鹿沼市彫刻屋台展示館に収納展示されてる久保町の彫刻屋台の写真を掲示します。
鹿沼久保町の屋台.jpg

機会が有れば白沢宿の、彫刻屋台も一度見てみたいと思いました。

脇を流れる九郷半川に沿って木道が設置されています。
白沢宿は西側は、高さ10メートル以上の崖で阻まれ、東側はこの川で阻まれる形になっています。
せっかくですから、川に沿って歩いて見たいと思います。
神社の先川の東側は「白沢公園」として整備がされていて、旧九郷半川と新たに整備された一直線に流れる九郷半川との間に花壇や芝生広場・雑木林・菖蒲園・水遊び場等を備えています。
天神橋.jpg

旧九郷半川沿いに設置された木道を進むと、季節柄岸辺には菜の花が群生 雑木林の木々は新緑が芽吹いています。
白沢公園.jpg
 
水車小屋も有りました。「グラウンドワーク活動センター」と言う管理棟で、トイレを拝借しました。
白沢公園水車小屋.jpg

更に旧九郷半川沿いの木道を歩いて行くと、「万年橋」と名付けられて橋の袂まで行く事と成りました。この「万年橋」の道路は、白沢宿の南側の端から南に向かう岡本街道から別れた道で、結果的に白沢宿の北の端から南の端まで戻った形となりました。
万年橋.jpg

川の右岸に須賀神社は祀られています。
須賀神社.jpg
そしてこちらの神社の前にも「白沢南彫刻屋台」と記された収納庫が有り。その前にも説明板が建っていました。<白沢南彫刻屋台 明治6年(1873)に鹿沼新町(現:麻芋町)から購入した黒漆塗彩色彫刻屋台で大型の鹿沼屋台の特徴を持っています。(後略)>
こうして観ると、白沢宿は北と南と二つの地域に分かれている様子が覗われます。
それを確認する資料を見つけました。
「栃木県の地名」(平凡社)の中に、「白沢宿」の解説が記されていて、抜粋させて貰うと<宿は南北に道路が走り、その両側に旅籠屋・茶店・商家が軒を並べ、宿の長さは南北四町半、道路中央に用水路が流れ、旅人はここで洗足して宿屋に入る。宿の中ほどの西方高台に鎮守白髭明神が祀られ、同社を境に北方が白沢村、南方が上岡本村である。>

寄り道してしまいましたが、街道歩きに戻ります。
宿場の北の端の分かれ道を真ん中の道路を進むことに、450メートル程来た所で、川を渡ります。橋の親柱に川の名称「西鬼怒川」と橋梁名「西鬼怒川橋」そして架橋年「昭和38年3月竣功」の表示を確認しました。
「西鬼怒川」についても、「栃木県の地名」では、<逆木用水ともいう。上河内村宮山田の高間木で鬼怒川から南に分流し、上小倉・今里・上田・芦沼を経て河内町に入り、下ヶ橋を南流し、東岡本で再び鬼怒川に合流する。延長約18.2キロ。鬼怒川の西部を流れるので、西鬼怒川の名が有る。西川ともいわれ、ここから元和六年(1620)御用川・九郷半川などが派生している。(後略)>

西鬼怒川橋から白沢宿方向を振返る.jpg
上の写真は橋を渡った所で、白沢宿方向を振り返って撮影したものです。写真奥の小高い台地の手前に白沢宿はひらけました。

西鬼怒川橋を渡って150メートル程進むと道路左側に広場が有り、「白沢河原」のバス停留所の看板が建ち、その奥に、「開田之碑」と大書された石碑に「白澤の一里塚址」と刻した石碑が建っています。
白沢河原の一里塚.jpg
この広場は関東自動車のバスの旋回所の様で、ここの「白沢河原」の停留所でバスは折り返して行く様です。ここから宇都宮駅西口までは、30分程です。

この辺りの事を「栃木の街道」には、<白沢宿の終わった所を右折する。今の道は小川(※九郷半川)を渡ってすぐ左折していくが(※河内郵便局前の交差点)、昔の奥州街道はまっすぐ田園の中を東へと進む。西鬼怒川を渡り曲がりくねる道を行くと、松の茂った堤防が南北に尾をひく。そこは鬼怒川の堤防である。白沢宿を出て27町余(※約2,946m)で、鬼怒川の川幅は30間(※約55m)、出水の時には8町程にもなり、「川留め」もしばしば見られ、道も流れによって変わったらしい。(後略)>と、記しています。
(※印部分は筆者が参考に追記したもの)

最後に、今回白沢宿を歩いて巡ると同時に、「奥州街道白澤宿七福神めぐり」も楽しみました。その七福神の像を写真に収めましたので紹介します。
七福神めぐり案内図.jpg寿老神像.jpg
(最初の地蔵堂の境内で見つけた案内図と寿老神像)
大黒天像.jpg布袋像.jpg
(白髭神社境内に立つ大黒天像)     (明星院境内に立つ布袋像)
毘沙門天像.jpg恵比須像.jpg
(薬師堂境内に立つ毘沙門天像)     (北野神社境内に立つ恵比寿像)
弁財天像.jpg福禄寿像.jpg
(須賀神社境内に立つ弁財天像)      (白沢一里塚址に立つ福禄寿像)


今回参考にした資料:
・「栃木の街道」栃木県文化協会発行
・「栃木県の地名」平凡社発行
・「栃木縣史 第十六巻 皇族編系図編」田代善吉著
・「白澤宿ウォーキングマップ」奥州街道白澤宿の会発行
旧奥羽街道白沢宿ウォーキングマップ.jpg



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橋巡り「聖人見返り橋」 [橋梁]

今回巡る橋は、「聖人見返り橋」です。
この橋が有るのは、お隣の茨城県に成ります。栃木市から車で行けば1時間程、茨城県笠間市稲田の田圃の中にその橋は有りました。
聖人見返り橋1.jpg
(茨城県笠間市稲田の田圃の水路に架かる、「聖人見返り橋」)

ここで言われる「聖人」とは、親鸞聖人の事で、橋の脇に2基の石碑が建てられています。
聖人見返り橋3.jpg聖人見返り橋2.jpg
(「聖人見返り橋」の脇に建つ、二基の石碑)

右側(橋の近く)に建つ、小さめの石碑は正面に「聖人みかえりはし」とだけ刻されています。
言うなれば、橋の案内碑、極端に言えば橋の親柱代わり的な役目を果たしている様、これが無ければ水路に架かる湾曲して太鼓橋状に削り出された一枚の石の橋桁の仔細が分からない。

左側の石碑は、何やら和歌の様なものが、刻まれています。
石碑中央には、少し大きな文字で「親鸞聖人みかえりはし」 
右側には「和かれしを さのみなげくな 法のとも」 と上の句が、
左側には下の句の 「またあう國の ありと思えは

そして、橋の袂から北東の方を望むと、深い杉木立の山裾に沿って瓦屋根を載せた、上半分が白壁で下側が黒色の板張りの塀が連なっています。浄土真宗別格本山の西念寺です。木立の合間に本堂の大屋根が見え隠れしています。
西念寺1.jpg

この「聖人見返り橋」は、数多い親鸞聖人の伝承のひとつでしょう。現在のこの橋もその伝承のひとつのモニュメントと言えます。実際に伝承の元となる橋が有ったとしても、恐らく場所も橋そのものの形も違っているでしょう。現在の場所を見ると周りの状態は土地改良が行われ、畦道も水路も直線的で、在りし日の姿を留めてはいません。でも今この場所に立って、田園風景の真ん中から西念寺の杉木立を望むと、文暦2年(1235)春、20年近くを過ごした草庵を後に、京に戻る親鸞の姿と、見送る人達の情景が浮かんでくるような思いが過ぎって来るものです。橋の袂に建てられた石碑の、親鸞聖人の作と伝える和歌の内容を、もう一度かみしめます。
<念仏の友よ 別れをそのように嘆く事は無いですよ  また何時の日か阿弥陀様の元で 会う事が出来るのだから>
その年の9月元号は嘉禎に改められた。
 
ここで西念寺にお参りして行きます。
西念寺の正面参道の入り口は、上の写真の右方向、国道50号線の直ぐ脇に成ります。
聖橋1.jpg
(西念寺参道入口に架けられた「聖橋」。写真後方に国道50号線に架かる歩道橋)

聖橋を渡ると、民家の間に参道が真っ直ぐ伸びています。奥の木立の中が西念寺です。)
聖橋2.jpg
(国道50号線側から、聖橋とその奥に伸びる参道を望む)

真っ直ぐと天の突くように伸びた、何本もの杉の大木の間に伸びる参道を進むと、趣のある茅葺屋根を備えた山門の前に出ます。
西念寺山門.jpg
(茅葺き屋根の山門が、落ち着いた雰囲気を醸し出しています。)

上層の軒下に山号の「稲田山」の扁額が掲げられています。左脇の石柱に「親鸞聖人教行信證御製作地」「浄土真宗別格本山」と大きく刻されています。
山門を潜ると、正面奥に大きな伽藍が迎えてきます。御本堂です。
西念寺本堂.jpg
(御本堂)

本堂内で参拝を済ませ、本堂右手の坂道を登り、親鸞聖人御頂骨堂や太子堂・鐘楼を巡り、戻っては山門入った時左手に見えた太鼓楼や県指定文化財の「お葉つきイチョウ」の大木などを見て回りました。
今度はこのイチョウの紅葉の時季に、また来ようと思いました。

鐘楼.jpg御頂骨堂.jpg
(鐘楼)(親鸞聖人御頂骨堂)
太子堂.jpg太鼓楼.jpg
(太子堂)(太鼓楼)
ハツキ銀杏.jpg
(お葉つきイチョウの大木)


今回参考にした資料:
・丹羽文雄著「親鸞」
・「日本の名著6 親鸞」 中央公論社発行

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岩舟町小野寺につたわる小野小町伝説 [石碑]

<はなのいろは うつりにけりな いたずらに わがみよにふる ながめせしまに>
小倉百人一首にもある、有名な小野小町の和歌ですね。平安時代の女流歌人で六歌仙のひとり。絶世の美人と言われ、美人の代名詞にもなっている。しかしこの小野小町は出生や没年など不明な所が多く、その為か全国各地に小野小町に関する伝説が有るのだそうです。「群書類従正編」には小野小町は小野篁の孫、出羽国司だった小野良実の娘と言われていますが、父とする良実についても、不明な点が多いと言われています。

そして、我が栃木市にも「小町の墓」などと言うものが有ります。そこは栃木市の西の端、岩舟町小野寺の里です。
小野小町の時代は、丁度慈覚大師円仁が活躍した時代に重なります。その円仁が少年時代修行をした、小野寺山大慈寺の境内、薬師堂の近くに現在、小野小町の碑が建てられています。
私が向かった日は、春の日差しも暖かく、境内には桜を始め、春の花が咲き誇っていました。
大慈寺薬師堂.jpg
(天平九年開山別格大慈寺。正面奥が薬師堂)
大慈寺境内.jpg
(春の花が咲く境内、六地蔵と鐘楼)
小町の碑.jpg
(薬師堂脇に建てられた「小町の碑」)

この「小町の碑」に関して、「小野の小町と大慈寺の薬師如来」を記した、佐野市在住の田口巳喜男さんの著書「東山道を往く」(昭和62年5月3日発行)を見つけましたので、一部抜粋させて頂きます。
<前略・・・小野小町は晩年一人旅立ち、この地で病にかかったため、大慈寺の薬師堂にこもって祈願を続けたところ、病気は全快した。その時、薬師如来の慈悲深い顔が悲しくなり、如来と同じ蓮の上へ身を投げたと云う。 小町の死を哀れんだ村人がその地にお墓を建て、供養したと云われている。今は同町の小野寺から葛生町へ通ずる道路の「西の沢の岩山」を中心に「身投げ堂」という地名が残っている。・・・後略>

この薬師堂が向く東方向150メートル先に、「小町墓」と刻した自然石が有ります。前記の「東山道を往く」に掲載されている写真を見ると、「小町の墓」と言われる石は、田圃の畔の草むらに埋もれるように転がっている唯の大きな石ころにしか見えません。
現在は写真の様に雨風をしのぐ為、東屋の中に祀られています。
小町の墓(全体).jpg
(綺麗に整備された「小町の墓」)

「小町墓」と刻された石の背後を良く見ると、何やら文字が刻まれている様に見えますが、不鮮明で判読する事は出来ません。
小町墓.jpg
(風雨から守るために、東屋状の建屋に収められた「小町の墓」)

昨年、京都市山科区小野の「随心院」を訪れました。京都市の地下鉄東西線は、その名の通り西の「太秦天神駅から、東の南禅寺近くの「蹴上駅」まで京都の街を東西に横断していますが、蹴上駅から東側終点「六地蔵駅へは方向を大きく南に変えていきます。山科・東野・椥辻と過ぎるとその名も「小野駅」とする、小野の里が有ります。小野駅を出れば随心院まで350メートル程で、歩いても5分程度で行くことが出来ます。
ここは小野小町が、仕えていた仁明天皇が嘉祥三年(西暦850年)に崩御された後、宮仕えを辞め暮らしたところと言われ、小町の屋敷跡には、「化粧の井戸(けわいのいど)」と言われる井戸が残っています。小町が朝夕この水で化粧をこらしたと伝えられています。又、随心院の裏手竹藪の中には、当時の貴公子たちから小野小町に寄せられた恋文を埋めたところと伝えられる「小町文塚」が有ります。
化粧の井戸.jpg小町文塚.jpg
(小野小町屋敷後に残る「化粧の井戸」と「小町文塚」)

尚、随心院の入口の前には、冒頭に記した小野小町の歌碑が建てられていました。
小野小町歌碑(随身院).jpg

今回参考にした資料は
・「東山道を往く」田口巳喜男著
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親鸞上人大蛇済度の地に咲く桜 [自然の恵み]

今年も桜の開花が始まりました。
早速、栃木市内の桜の様子を見て来ました。
場所は、栃木市域の東の端に当たります。小金井街道を東進、思川に架かる大光寺橋はその東側で大きく左にカーブ、渡った先で道路は下って行きますが、下野市との境界を過ぎると今度は、右に大きくカーブし、再び道路は登って行きます。すると道路左側に「蓮華寺」と言う寺院が現れます。今回目的の桜はこの寺院の丁度裏手に有ります。
山門横に有るスペースに車を止め、先ず本堂に参拝し、そこから歩いて本堂裏手に回り込みます。
本堂の裏手は4メートル程低くなっていて、前方にピンクの花を咲かせた桜の木が一本見えます。
手前に農業用水路が有りますが、水路の手前が下野市国分寺町で、水路を渡った先が栃木市大光寺町に成ります。
大光寺町の桜3.jpg

石段を下り水路に架かった橋を渡って、桜木の傍へ行きます。
桜は丁度見頃を迎えて、青空にピンク色の花が映えます。相当な老木の様で幹の部分はおおきく北側に傾いていて、倒れない様に後ろ側から補強棒で支えられています。
大光寺町の桜.jpg

樹齢はどれくらいになるものでしょうか、幹の部分は大きな室が出来ています。周囲には立派な玉垣が作られ、南側正面左脇に「親鸞上人大蛇済度御旧蹟」と刻した石碑が建てられています。
大光寺町の桜2.jpg
 
桜の木の根元近くにも古い石碑が建てられていますが、表面が剥がれていて、僅かに上部に「親鸞」の文字が確認出来るだけです。
辺りを見渡すと蓮華寺本堂の裏手墓地の北側が低くなっています。そこにも石碑が建てられています。近づいてみると、「親鸞上人大蛇齊度之池」と記されています。確かに石碑の建つ北側辺り一帯が、一段と低くなっていますが水は確認出来ませんでした。以前はここに池が存在していたものと思われます。

親鸞上人大蛇御済度之池.jpg

「親鸞上人大蛇済度」とは、ここ花見ヶ岡の蓮華寺に伝わるお話の様です。
その由来などを記した石碑が、先に車を止めた場所の東隅に建てられています。
花見岡碑.jpg花見岡碑(碑文).jpg
(石碑正面写真と碑文の書き写し)

碑文冒頭に一回り大きなサイズの文字で「花見岡碑」、石碑上部の篆額には、篆書体で「大典記念」と有ります。揮毫した人物は、下野壬生藩第八代(最後)の藩主(知藩事)の長男です。幕末の頃この辺り(国分村や大光寺村)は、壬生藩領でした。
石碑に刻まれた碑文を書き写してみましたが、旧字体や不明な字が多く、その内容を正しく読み解く力が私には有りませんので、山門近くに環境省と栃木県が立てた「蓮花寺」の案内文の写真を一部抜粋して掲載させて頂きました。

蓮華寺案内板.jpg

私が記憶する伝説によると、妻が病気と成り、心配した夫が、近くの室の八島神社に毎夜お参りに行っていたが、その行動に不信を抱いた妻が、病の体を押してある夜夫の後を追っていく。しかし途中の川面に映った自身の顔が嫉妬心で恐ろしい大蛇の姿に成っているのを憂い川に身を投げると言うストーリーだったような。
伝説ですから色々変化した話が有るのでしょうが、どちらも大蛇と化した妻が、親鸞聖人によって救われると言うところは共通しています。

今、そんな言い伝えの残る地に、春の鮮やかな桜の花が見頃を迎えていました。
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春をさがして [草花]

ここ数日、20度を超える陽気が続いています。天気予報では昨日栃木県南部は25度を超える夏日だったと伝えています。
新型コロナの影響で、無用な外出は控えていますが、これだけ良い天気が続くと、チョッと外出もしたくなります。
そんな感じで今日は、少し街を歩いて来ました。
すると、新栃木駅前通りの「巴波桜」がピンク色の花を付けていました。五分咲きぐらいでしょうか。
新栃木駅前通りの巴波桜1.jpg

この桜の街路樹は数年前に、新栃木駅前通りの新しい目玉として、地元自治会関係者や法人・個人などが寄附をした「巴波桜」という地元栃木の「巴波川」にちなんで命名された品種の桜です。

新栃木駅前通りの巴波桜.jpg新栃木駅前通りの巴波桜(箱一).jpg

この木には、「箱森町一丁目自治会」のプレートが付いています。
私が所属する自治会ですが、始めの頃は他の木と比較して、育ちが悪く花の付きも少し物足りなく、このままでは枯れてしまうのではと心配をするような状態でしたが、今日見てみるとしっかりと花を付けていて、見ていて嬉しくなりました。

もう一ヶ所気になる桜は、家から一番近い「小平橋の桜」です。近くで直ぐに見に行けるから私の一番お気に入りのスポットです。
小平橋の桜.jpg
ここもウォーキングの定番ルートですが、さすがにこちらは開花はまだまだ先の様です。
小平橋の桜の蕾.jpg
小平橋の桜の蕾2.jpg

それでも近くに寄ってよく見ると、蕾が結構大きくなって来ています。
「暑さ寒さも彼岸まで」 もうすぐ桜の季節の到来です。
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岩舟町小野寺で、石碑見て回り [石碑]

栃木市の西の端、岩舟町小野寺で、石碑を巡ります。と言っても、小野寺地区に建てられた石碑を全てとはいきません。もちろん全てを把握している訳でも有りませんので。
今回巡る石碑の所在を、最初に概略図に描きました。図中に6ヶ所記念碑地図記号を載せました。記号に付された番号は、石碑が建てられた順番を表しています。
小野寺地区の石碑所在概略図.jpg
(岩舟町小野寺地区、石碑所在地概略図)

この概略図は昭和33年に撮影された空中写真を基に作成していますが、現在地との関連が分かる様に、県道栃木佐野線の新道部分を黒の破線で、又、東北自動車道のルートをピンクの2点鎖線で追記しています。
石碑の古い順に確認して行きます。
①は概略図左上隅。謡坂(旧道)脇に建つ「坂路改修紀念碑」です。昭和4年頃の建立と思われます。
謡坂に建つ石碑.jpg
(坂道を登った先が佐野市側に成ります)

②は概略図右隅。藤坂の佐野市との境界道路脇に建つ「隧道竣工記念碑」です。昭和10年頃の建立と思われます。現在は隧道は有りません、昭和46年2月に取り壊し工事が行われました。
藤坂に建つ石碑.jpg
(石碑を右手に見て、坂道を下って行くと佐野市葛生町方面に向かいます。)

③は概略図中央付近上側、住林寺の右側道路脇に建つ「溜池工事記念」の碑です。昭和27年頃の建立と思われます。
西根の大芝原溜脇に建つ石碑.jpg
(石碑の後ろ側が溜池に成っています。)

④は概略図右下、三杉川と高速道路が交差している辺りに建つ「水神堰改修紀念碑」です。昭和31年頃の建立と思われます。
三杉川水神堰の脇に建つ石碑.jpg
(三杉川左岸、堰の直ぐ脇に建てられています。石碑手前に取水用の水門が見えています。)

⑤は概略図の③の石碑の下側、旧県道の小さな交差点の角に建つ「野尻金一郎翁の顕彰碑」です。昭和33年頃の建立と思われます。
旧県道脇に建つ石碑.jpg
(西根の旧県道の小さな交差点の北西側角に建てられています。奥に向かう細い道路を進むと、③の石碑の前に行きます。)

最後⑥の石碑は概略図中程、⑤の下方向、石橋と小名路の間の三杉川左岸に建つ「小野寺橋竣工記念碑」です。昭和34年3月に建てられています。
三杉川小野寺橋の橋詰に建つ石碑.jpg
(石碑の横を流れるのが三杉川。この川の流れの先に小野寺橋が架かっています。かつての県道岩舟中線に当たります。写真に写っている橋は2012年3月竣功の「三杉川小野寺橋側道橋」です。)

それでは順番にもう少しジックリ石碑を眺めて行きます。
①の謡坂に建つ「坂路改修紀念碑」について。この石碑については昨年の10月9日に「謡坂(栃木市)に建つ石碑」と題して公開していますが、今回はチョッと別な角度から。
坂路改修紀念碑.jpg坂路改修紀念碑(碑陰).jpg
(石碑正面からの写真と碑陰に記された「改修貢献者芳名」や「寄附者芳名」並びに「工事関係者氏名」の書き写し文)

石碑の題字を「謡坂改修記念碑」では無く「坂路改修紀念碑」とした理由が、碑陰の記載内容から納得できます。この石碑は小野寺地区で大正11年から昭和4年までの間に行われた、謡坂だけでなく、長尾坂・中妻坂・中坂改修や縣道西耕地地内改修等、複数の改修工事をまとめて紀念する為に建てられた石碑だからです。
「記念」と「紀念」の違いは、広辞苑に依ると、「記念」の項に<(「紀念」とも書いた)後々の思い出に残しておくこと。また、そのもの。後略>と、同様に使われても良いようですが、「記」と「紀」のニュアンスの違いは無いのか漢字源を開いてみた。「記」の項には<「字音」は、キ/しる・・す 「意読」は、しる・・す/おぼえる/き  「意味」は幾通りか有りますが、{名}書きとめたもの。記録や文書。>一方「紀」の項には、<「字音」は、キ 「意読」は、おさめる/のり/いとぐち/しるす/き 「意味」はこちらも幾通りも有りますが、{名}順序よく、または年を追って書きしるした書。>と言う少し違った記載も。

石碑の題字を揮毫した「栃木縣會議長 松永和一郎」と言う人物は明治6年(1873)6月古江村(明治22年の町村制施行に際して古江・新里・三谷・上岡・下岡・小野寺の六ヵ村が合併して小野寺村大字古江となる)に生まれています。大正4年(1915)9月、推されて下都賀郡会議員、同5年(1916)4月より第八代小野寺村村長、同8年(1919)栃木県会議員に当選、昭和2年(1927)1月、宇都宮市長に当選するなど、広範囲に活躍をされた人物です。

②の藤坂峠の佐野市との境界手前で、雑木に隠れる様に建つ「隧道竣工記念碑」を見てみます。この石碑に関しては少し前の2019年3月17日付「栃木市岩舟町小野寺の藤坂峠に建つ石碑」で公開をしました。その際は碑陰部分は雑木に覆われて十分に確認出来なかった為、今回改めて石碑の裏側の確認を行いました。
隧道竣功記念碑.jpg隧道竣工記念碑(碑陰).jpg
(石碑正面写真と碑陰に記された内容を書き写した文)

そこで気に成った部分は、碑陰の工事施行関係者の中に、「小野寺村長 野尻金一郎」と有ります。ただ石碑表の「隧道竣工記念碑」の題字を揮毫した人物は「栃木県会議員 野尻金一郎書」と刻されている点です。
碑陰冒頭に隧道工事の起工日と竣工日が記されておりますが、石碑のひび割れとその補修の為か、
   起工昭和■年十二月二十五日
   竣工昭和十年■月三十日
とハッキリと確定できなかったのです。
揮毫者の野尻金一郎は、明治21年(1888)8月14日下都賀郡小野寺村に生まれた人物で、昭和9年(1934)の県会議員補選に当選しました。翌年の県議会選挙には立候補をせずに昭和10年(1935)12月より第12代小野寺村長として村発展の為に、村政に尽くしてます。
石碑は丁度その頃に建てられた為、違う役職名で名を連ねる状況となったと考えられます。
ちなみに上記①の石碑の中にも、功労者の一人に「栃木県農会議員 野尻金一郎」として名前を連ねています。

③の「溜池工事記念」の碑は、県道から西に入った、住林寺の北西裏手の道路脇に建てられています。道路は狭く車1台がやっと通れる程度で、その先に建つ人家で行き止まりの様です。
「溜池工事記念」の碑.jpg「溜池工事記念」の碑文.jpg
(石碑正面写真とそこに刻された内容を書き写した文)

石碑の丁度後ろ側が溜池に成っています。確認をした時は2月だったので、水は無く枯れた葦原がひろがっていました。
この石碑にも貢献者に「元県会議員 野尻金一郎」の名前を確認しました。

④の「水神堰改修記念碑」は三杉川左岸の堰の直ぐ上に川側に正面を向けて建てられている為、石碑正面は対岸からの確認で、夏場は周辺が蔦に覆われて、石碑が隠れてしまうほどで、やはり石碑の調査は冬場が適していることを実感させられた石碑です。
水神堰改修記念碑.jpg水神堰改修記念碑(碑陰).jpg
(石碑正面写真と碑陰に刻された内容を書き写した文)
冬の水神堰.jpg夏の水神堰.jpg
(冬の水神堰と夏の水神堰、夏はどこに石碑が建っているのか分からない)

三杉川を挟んでの確認の為、石碑の題字「水神堰改修記念碑」は何んとか読み取れたのですが、題字を揮毫した人物及び石工の確認は出来ませんでした。
碑陰冒頭に記された通り、この水神堰の改修は、「災害復旧工事」として、国庫補助金と村補助金にて行われています。竣工したのが昭和31年3月と記されていますから、むらの補助金とは「小野寺村」と言う事に成ります。その年、昭和31年9月30日に、小野寺村・岩舟村・静和村の三村が合併して新生岩舟村が誕生しています。
この石碑は、小野寺村時代の最後に成ります。

⑤の石碑は、これまでも何度もその名前が出て来ている、野尻金一郎翁の「顕彰碑」です。今回巡っている6基の石碑の内5基は道路改修や堰や橋梁改修等、土木事業の竣工を記念して建てられた石碑ですが、この石碑は地元の出身で、小野寺村の発展に尽力した人物を、その功績などを世間に知らせる事を目的に建てられた「顕彰碑」に成ります。
野尻金一郎彰徳碑.jpg野尻金一郎彰徳碑(碑文).jpg
(石碑正面写真と正面下側に刻されている碑文の書き写しです)

石碑正面最上部の篆額「彰徳碑」を揮毫した人物は、当時農林大臣だった赤城宗徳氏です。篆額の下にネクタイを締めスーツ姿の野尻金一郎翁の顔が線刻されています。その左に「昭和三十三年一月建之」と有ります。その下に刻された碑文の中に、<・・・東奔西走席温まる日なく一意専心郷土住民の福祉増進に没頭せらるこの間における翁の功績はわが郷土史上特筆大書せらるべきもの多し・・・>等々讃辞の言葉で埋め尽くされています。
これまで見て来た石碑の多くにも、野尻金一郎翁の関係が覗われます。

碑陰に回って見てみます。
野尻金一郎彰徳碑(碑陰).jpg
(碑陰の記載内容を書き写しました。)

この顕彰碑を建てる為に、協力して寄附をしてくれた個人・団体・法人含めて368の名前が刻されています。
上記の書き写し文を良く見ると不思議な点に気付きますか。名前は13段になっていますが、下段2段は建設委員関係者ですが、上から11段は協力者芳名に成ります。
各段の並んだ名前の数が違っています。上から1段目25名、2段目28名、3段目から5段目が30名、6段目35名、7段目から11段目が37名となっています。
ところが、実際の石碑を眺めているとその違和感が無いのです。
野尻金一郎彰徳碑(碑陰写真).jpg
(碑陰の写真)
石碑の幅一杯に名前が並んでいます。
これは石工さんが、上の方の名前が小さく、見にくくなってしまう事を配慮、字のサイズを変えて大きくしている為と分かりました。さすがです、佐野市相生町の石工、小田鉄碩さん。

最後⑥の「小野寺橋 竣工記念碑」を見ていきます。
小野寺橋竣功記念碑.jpg小野寺橋竣功記念碑(碑陰文).jpg
(石碑正面写真と碑陰の書き写し文)

この石碑の題字を揮毫したのも、ここまで何度も出てきた、野尻金一郎氏です。
橋が竣工したのは、昭和三十四年二月と碑陰にあり、この時の野尻金一郎の関係は、碑陰工事委員の冒頭に連ねる、「相談役小野寺顧問 江田浅次郎・阿部善三郎の二人と共に刻されています。
野尻金一郎氏の揮毫した字を見ると達筆な人物だと、改めて感心させられます。

この橋が完成した時期は既に小野寺は合併した後で、岩舟村大字小野寺となっていますから、上段には、栃木県知事や県会議員、栃木土木事務所長などの関係者の列には、岩舟村長 相良行一、助役 寺内正、収入役 大竹菊次郎の三役の名前等が大きく刻されています。

現在は橋ひとつ新しく架けられても、こうした記念碑を建てる事は少なくなりました。土木技術が発達して架橋工事の難易度が下がった為でしょうか。確かに今でも大型プロジェクトで大規模工事で架橋された橋であれば、その経緯を刻した記念碑が建てられるのでしょうが。

岩舟町小野寺地区に建てられた6基の石碑を見て来ましたが、小野寺には他にも石碑は建てられています。機会が有ったらそちらも見て回りたいと思います。
小町の碑.jpg小野寺城址の碑.jpg
(小町の碑と小野寺城跡の碑)

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白鳥、撮って来ました [自然の恵み]

風も無く穏やかな日差しの下、川面に遊ぶ白鳥の姿を撮って来ました。
優雅に泳ぐ白鳥.jpg

撮影した場所は鹿沼市と壬生町との境近くの黒川、予想以上に群れる白鳥。この時期にしては豊富な水量が流れる黒川。遠く下流側流れの先に筑波山が見えます。
黒川で遊ぶ白鳥の群れ.jpg

白鳥が群れ遊ぶ川の直ぐ上流側に架かる黒川橋。川の右岸河原に駐車場となる十分なスペースが有り、川岸近くに三脚を構え、望遠レンズで白鳥の様子を、写真に収めようと数人のアマチュアカメラマンの方々が陣取りをしています。
白鳥を見つめるアマチアカメラマン.jpg

静だった風景が突然、白鳥の群れが騒然となりました。数匹の白鳥が泣き叫んで川面を駆け回っています。
それに合わせてカメラマンたちが一斉にカメラのシャッターを切り初め、連写してそのチャンスを写真に捕らえています。
水上をかける白鳥.jpg

でも次の瞬間、あの喧騒は何だったのか、また元の静かな風景の戻っています。
川岸近くの流れの静かな所では、多くの白鳥がゆったりと羽を休めています。
この白鳥達は、何時か又、北の空に戻って行くのでしょう、今はその長旅の為の休養を十分にとって置いて欲しいものです。
羽を休める白鳥の群れ.jpg
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京都タワーに初めて登りました

今、新型コロナウイルスによる第6波の大きなうねりの中にいます。
先週、無事に3回目のワクチン接種を受けましたが、生活は週に2から3回近くのスーパーにて当座の食材を買ってくるだけの自粛生活を、続けています。
外出がままならない昨今、今回は昨年の11月下旬の紅葉真っ盛りの京都に旅行した時の京都タワーについて書かせて貰います。
その当時は感染状況も収まり、京都府の感染者数も毎日10人以下、ゼロの日も有ったので、そのチャンスに京都に向かいました。
迎えてくれるのは京都駅前に聳え立つ「京都タワー」です。
私が初めて京都に旅行したのは、今から50年以上も前に成ります。高校の修学旅行で関西の京都・大阪・奈良そして四国香川を巡った最初の日です。当時はすでに東海道新幹線が走っていましたが、それは帰路のお楽しみで往路は在来線で京都に向かいました。ですから京都駅に着いた時は日も暮れて、駅から迎えのバスで宿泊先に向かいました。
その際にライトアップされた京都タワーの姿を初めて見ました。その姿はろうそくの様に白く輝いていました。私の京都で最初に撮った写真がその時の京都タワーでした。
京都タワー(1968).jpg

その後も、京都には何度か足を運びましたが、その都度京都タワーを横目に、東山方面や嵐山方面の観光スポットに直行するものでした。
そこで昨年11月の旅行で初めてその京都タワーに登ってみました。ただ昼間他を観光した後で、受付では間もなく入場終了時間に成りますよとの事でしたが、ともかく今回は登る選択をしました。
京都タワー(2021).jpg

チケット代金大人800円を払い、最上階展望室へのエレベーターに。

京都タワー展望室.jpg
展望室5階はブルーとオレンジの照明が。そこから360度広がる京都の夜景が神秘的に感じてきます。
展望室をずっと1周して回る。円盤に乗って地上を見ている様。そんな夜景の光の中に観光スポットを探します。

ライトアップされた東寺.jpg

ライトアップされた五重塔を確認。京都駅の西南西方向、東寺です。塔の右方向に東寺の伽藍が同じくライトアップされて輝いて見えます。紅葉のライトアップです。おそらく大勢の見物客がその明かりの中にいるのでしょう。昼間、その東寺を訪れました。講堂の中に展開する立体曼荼羅。檀上中央の大日如来を中心に5体の如来。その右側には金剛波羅蜜を中心に5菩薩。反対側には不動を中心に五大明王。その他壇四隅の四天王など全部で二十一体の像が安置された世界がそこに有りました。

ぐるっと回って東の方向奥にオレンジに輝く空間から真っ暗な空に向かって一筋のサーチライトの光の線が伸びています。清水寺です。
ライトアップされた清水寺.jpg

清水寺もライトアップにより浮かび上がる紅葉を見る為、大勢の人が夕暮れ前から詰めかけていました。私が訪れた時は丁度太陽が西の山に隠れるころで、京都の街は夕闇が迫り、京都タワーがそんな闇の中にすっと立っていました。
清水の舞台から見た京都タワー.jpg

周囲が暗くなると、清水寺の紅葉はライトアップの明かりで、輝きを増してきます。新しくなった清水の舞台には、そんな紅葉を見ようと見物客が溢れ、ビューポイントを求めて人の波がゆっくりと動いています。
その清水の舞台の先に白く光る京都タワーが有りました。
清水の舞台と京都タワー.jpg

今の新型コロナ感染拡大が終息したら、またゆっくりと訪れたいものです。



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栃木県壬生町に建てられた明治天皇関係石碑を巡る。 [石碑]

今年最初に公開した「栃木市柳原町に建つ石碑」は、明治32年11月に現在の栃木県立栃木高等学校を行在所として実施された、近衛師団機動演習の3日目、栃木市と壬生町との境、小倉川(思川)の河川敷を中心に展開された演習の最後に、演習講評と除隊式に望まれた明治天皇が御野立ちに成った場所を記念して、当時の地元柳原村民を中心に建立されたものですが、同日、明治天皇の行幸を得た壬生町側においても、同様に記念の碑が建てられています。
今回はそんな壬生町における明治天皇行幸に関する、記念の碑を巡りたいと思います。

現地を訪れる前に、いつものように田代善吉著「栃木縣史」の16巻、「皇族・系図編」より、明治天皇御聖蹟の章から壬生町について確認をすると、3基の石碑が掲載されています。それらの石碑が建てられた場所は
①壬生小学校、②壬生町大字今井、③壬生町大字下山の三か所と記されています。
1番の壬生小学校の場所は直ぐ分かりますが、2番・3番は大字名までしか記されていませんので、石碑の建てられた場所を特定できません。
そもそも壬生町の大字に「今井」とか「下山」は無く、恐らく小字名の間違えと思われます。
国土地理院発行の2万5千分1地形図「壬生」を確認すると、「今井」と言う地名が記載されていますが、この「今井」の地名は壬生町壬生乙」の地域に含まれます。「下山」と言う地名は地形図上に記載されていません。
早速場所の分かる壬生小学校に向かいます。
有りました。校庭の東側、東門の南側に建てられています。
壬生小学校構内に建つ石碑.jpg
右側に建つ標柱正面には「明治天皇壬生行在所」と大書され、その左下側に「樞密顧問官陸軍大将男爵奈良武次謹書」と有ります。右側面には「史蹟名勝天然記念物保存法ニ依リ史蹟トシテ昭和十二年七月文部大臣指定」、左側面に「昭和十五年十一月建設」と、刻されています。
左側の石碑正面には「天皇御注蹕所」と篆書体文字で大書されています。揮毫した人物は石碑正面左脇に「陸軍大将正三位男爵鮫嶋重雄 謹書」と刻されています。
碑陰を確認すると、「明治三十二年十一月十七日」と「明治四十年十一月十五日」そして「大正七年九月建之」の三つの日付けが並んで刻されています。
最初の日付けは、近衛師団機動演習の時、次の日付けは茨城県結城小学校に大本営を設け挙行された、陸軍大演習の時に当たります。
ここ、壬生小学校には二度、お昼食の為に明治天皇が来られていることを、この石碑が物語っているのです。そして思川河川敷では、近衛師団機動演習と陸軍大演習の二度、明治天皇御行幸を以て挙行されたのです。
次に②と③の石碑を探します。
しかし、その所在とされる「今井」と「下山」の場所の特定にも結構手こずりました。
これまで発行された「壬生」の地形図を調べてみると、大正6年9月30日と昭和7年1月30日発行の地図の「今井」の文字の下側に、石碑の地図記号を確認しました。その後発行された地図からは石碑の記号は無くなっています。状況的にはこの石碑記号が探している明治天皇に関連した石碑であることは間違いないと思われました。
とりあえずその情報を基に、現地確認を行いました。が、石碑の地図記号が記された周辺に、石碑は確認出来ませんでした。でも現地に立ってみると、その場所は西側に古川更にその先に思川が南流している場所で、しかも丁度この場所は5メートル程の段差の有る高台の縁に当たっています。
現在は西側の一段低くなっている所も住宅や工場が有り、見通しが悪くなっていますが、明治の頃はこの場所に立って西方を望むと、北の端から南の端まで思川(かつては小倉川と称していた)の河川敷が広がっていたと想像できます。
壬生町今井の石碑が建っていた周辺.jpg
(壬生町今井の石碑は、写真中央奥の二階家の手前付近に建てられていたと思われます。写真左側、工場の建っている場所は一段低くなっているのが確認出来ます。明治32年11月17日午前、明治天皇はこの高台に御立ちに成って、西方の思川河川敷で行われた演習をご覧に成られたのです。)

その時丁度近くに住まわれている御婦人の姿が見えたので、早速石碑の件をお尋ねしたところ、「石碑は現在、東雲公園の方に移設されている。」と、その経緯も含めて教えて頂くことが出来ました。

壬生町を貫流する三筋の川(東側から、姿川・黒川・思川)で、街の中央を流れる黒川、その川に架けられた国道352号が通る「東雲橋」。黒川の両岸沿いに整備された東雲公園の北東部、東雲橋の東橋詰、国道の北側児童公園の一角に2番目の石碑を確認しました。
壬生町金井に建っていた石碑.jpg
(壬生町東雲児童公園の一角に建つ、かつて今井の里に建てられていた②の石碑)

碑の正面に「天皇觀兵之所」の文字、揮毫した人物は、その近衛師団機動演習の総司令官、近衛師団長男爵長谷川好道です。碑陰には「明治三十二年十一月十七日為紀念建之」、石工は「栃木泉町 彫刻師 清水政」と刻されています。
そしてその石碑の傍らに小さな石碑が建っています。そこには今井の里でご婦人が話して下さった、石碑を現在地に移設した経緯が刻されています。日付けは「昭和五十四年八月」となっていました。

次に、三番目の壬生町下山に建てられた石碑を探します。
壬生町下山の地名が何所なのか分かりません。そこで壬生町立歴史民俗資料館で尋ねる事に、そしてそこで思いもよらない1冊の小冊子を見せて頂くことが出来ました。
冊子の表紙には「明治天皇行幸記念誌」と有ります。著者は元壬生尋常高等小学校訓導の山田徳静氏、発行されたのは昭和9年4月壹日で、関係者だけに配布された非売品。この冊子は現在壬生小学校にも無く、恐らくこの1冊のみ資料館で保管されてるものだそうです。
その巻頭写真には今回私が探し巡っている3基の石碑の写真の外、栃木市柳原町に建つ石碑の写真も掲載されていました。

この冊子の著者、山田徳静氏はその人生において、明治天皇の壬生行幸に深く関わっています。
氏が栃木中学校4年生の時、学んでいた栃木中学校が行在所と成り、壬生小学校職員として勤務していた時に、小学校が天皇御休憩御昼食の所と成って、近くでその時を過ごしていたと言います。
そんな著者ならばこその手によるその冊子は、実に細やかに二度にわたる明治天皇の行幸の様子を記しています。その文章を読んでいると、その当時にタイムスリップしたような、目の前にその時の情景が表れてくるように感じてきます。
明治40年11月15日壬生町下山、御野立ちの部分を抜粋掲載させて頂きます。
<11月15日、大帝は早暁結城の大本営出門、結城駅より列車に召され石橋駅に御下車遊ばされ御馬車にて壬生街道に向かわせらる。  中略  奉迎者の群れは恰も水を打ちたるが如く御馬車の軋りは粛々と表町を経て栃木街道の方へと聞え今井にて止まる。大帝は畏くも御徒歩にて砲兵陣地にすすませらる。此處は8年前近衛師団の演習を御統監遊ばされし折の御注蹕の地にして日露戦役後今日再び大帝の御偉容を拝し加うるに御軍装は陸軍大元帥の改正式を御着用遊ばされあるを仰ぎ誰れか無量の感慨に勝へざるものあらんや。 中略 再び御馬車に召され小山街道より壬生の町外れを経て小倉川黒川の合流点の北にある下山の御野立所に成らせらる。  中略   下山御野立所附近より西方には近く遠つ祖宗を祀れる国府村大神神社の森欝蒼と茂り南方を眺むれば小倉川の水は涸れ思川の河原は広々と帯を曳き丸山の断崖は褐色を帯びて水に映り黒川の橋梁は杉並木に連なり晩秋の霜葉錦繍の如し。北方を望めば今井の砲兵陣地仄かに見え、南方遠くかすかに豊田村八幡宮の森は見ゆ。田園人家参差點綴して紫色に烟る。大帝は戦況を幕僚より御聴取あらせられ還幸仰せ出さる。 後略 >
(原文カタカナ送り文のところ、ひらがなにしました。又、一部旧漢字も書きかえています。)

以上の引用文より、壬生町下山の場所を「思川と黒川の合流点の北」と表記有り、周辺を歩いて探索して遂に3番目の石碑を発見しました。
壬生町下山に建つ石碑.jpg
(県道宇都宮栃木線惣社今井バイパスの新保橋の北東側、畑地の畔に建つ「天皇御野立之所」の石碑)

前記の冊子「明治天皇行幸記念誌」の巻頭に掲載されている写真には、石碑の回りは玉垣で囲まれていますが、現在は石碑だけがポツンと建っているのみです。
標柱の大きさは、正面幅30cm、側面幅28cm、高さは約165cm(台座部含まず)、碑陰に「明治四十年十一月十五日と大きく刻されています。

現在石碑の建つ場所より南方を眺めても、思川の流れは見る事は出来ません。
壬生町下山より南方を望む.jpg
(石碑が建つ場所から南の方角を望む。右側から思川、左側から黒川が流れ来て、はるか前方にて合流していますが、現在その河道を見る事は出来ません。)

明治40年頃には思川には現在の様な土手は築かれておらず、黒川の合流点からずっとその先まで視野が開けていたのでしょう。<南方遠くかすかに豊田村八幡宮の森は見ゆ。>という神社の森は、小山市小宅の八幡神社と考えられます。距離的には約4km南に成ります。この神社には社殿の横に天然記念物に指定された御神木のカヤの大木が有ります。樹齢5百年余と推定されるこのカヤは、樹高が約28メートル、枝張りは東西14メートル、南北14メートルと立派な大木です。この大木が遠く離れたにもかかわらず見えたのかもしれません。
小宅八幡神社.jpg
(小山市小宅の八幡神社、社殿右側に御神木というカヤの大木が見えます。)
小山市小宅八幡宮.jpg

今回壬生町に建つ、明治天皇関連の石碑を巡りましたが、思う様に石碑の位置を説明できない感が有りましたので、明治前期に発行された迅速測図を参考に、壬生町南西部から栃木市柳原町付近の概略図を作成しました。
明治前期の思川保橋周辺概略図.jpg
(明治前期頃の壬生町南西部、思川保橋周辺の概略図)

小さくて見にくいですが、明治前期測量2万分1フランス式彩色地図を参考に作成、石碑の地図記号に番号を付けて本文の①②③の石碑に対応しています。但し②の場所は当初に石碑が建てられた今井の場所です。④の石碑は今年1月に公開した栃木市柳原町に建つ石碑に成ります。
場所を確認し易いように、当時には無い「東武宇都宮線」と「県道宇都宮栃木線惣社今井バイパス」を破線にて追加表記しました。

今回の参考資料:
・栃木縣史 第16巻 皇族・系図編 田代善吉著
・壬生町史 通史編Ⅱ 壬生町編集発行
・明治前期測量2万分1フランス式彩色地図栃南2 日本地図センター発行
・明治天皇行幸記念誌 山田徳静著


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