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青の洞門と耶馬渓三橋を巡る [橋梁]

「青の洞門」と聞いて、それがどのようなもので、何処に在るか分かりますか。でも、もしわからなくても、「恩讐の彼方に」と聞いて、あ、どう言うものなのか分かる方は、多いと思います。
「恩讐の彼方に」は、文藝春秋社の創設者で、「芥川賞」や「直木賞」を設定し、作家の育成や地位向上に大きな功績を残した、大正から昭和にかけて、多くの文芸作品を発表した作家「菊池寛」の短編小説の題名です。私も高校生時代にこの作品を読んだ記憶が有ります。
菊池寛肖像.jpg「恩讐の彼方に」と菊池寛.jpg
(青の洞門近くに設置された「恩讐の彼方に」の作者菊池寛の肖像と説明盤)

小説の概要は、江戸時代のこと、主人のお妾さんとの密通がばれてしまった、主人公の男が、主人を殺害して其の妾の女性と一緒に逃げ、さらに生きるために峠道で、行きかう旅人達を、脅したり殺害して金品を奪って生活をしていたが、ある日そんな生活から逃れるため、女を置いて一人諸国を放浪する。其の後出家をして尚、これまで自分が犯した悪業の数々に苦しみつつ旅を続けていたが、豊前の国の山国川を遡り羅漢寺に向かう途中、山国川沿いの絶壁に有る鎖渡りの難所で多くの通行人や馬が、川に落ちて命を落としていることを知り、其の岩山に隧道を掘ることを決心する。
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(山国川上流側より、青の洞門の有る競秀峰の岩壁を望む)

一人其の岩壁に向いノミとツチを持って、ひたすら岩壁を削り続けること五年十年。一方、殺害された主人の息子が成人をし、親の仇を打たんと全国を探し回る。そしてついに仇討ちの相手を目の前にする。しかし目にした仇の相手は、掘り進んだ洞窟の中でただひたすら、目の前の岩盤に向い、髪も髭も伸び放題の痩せ細った老僧の姿。逃げも隠れもしない、その場で切って捨てても貰っても良いと言う。そこで隧道が貫かれるまで待つこととする。その日が一日も早く来るようにと、仇打ちの若侍も一緒に掘ることに。
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(青の洞門内の岩壁に残る、手掘りの鑿のあと)

終に隧道の最後の岩が砕かれて貫通をする。その劇的なクライマックスの場面を小説から抜粋させて頂くと。<・・・彼は「アッ」と思わず声を上げた。その時であった。了海のもうろうたる老眼にも、紛れもなくその槌に破られたる小さな穴から、月の光に照らされたる山国川の姿が、ありありと映ったのである。了海は「おう!」と、全身をふるわせるような名状しがたき叫声をあげたかと思うと、それにつづいて狂したかと思われるような歓喜の泣き笑いが、洞窟を物すごく動揺めかしたのである。
「実之助どの。ごらんなされい。二十一年の大誓願端なくも今宵成就いたした。」こう言いながら、了海は実之助の手を取って、小さい穴から山国川の流れを見せた。・・・(中略)・・・実之助は、了海の前に手を拱ねいてすわったまま、涙にむせんでいるばかりであった。心の底から湧き出ずる歓喜に泣くしなびた老僧の顔を見ていると、彼を敵として殺すことなどは、思い及ばぬことであった。敵を打つなどという心よりも、このかよわい人間の双の腕によって成しとげられた偉業に対する驚異と感激の心とで、胸がいっぱいであった。彼はいざり寄りながら、再び老僧の手をとった。二人はそこですべてを忘れて、感激の涙にむせび合うたのであった。>
青の洞門車歩道.jpg青の洞門明り取り窓.jpg
(青の洞門の有る山国川沿いの岩壁と、洞窟内に作られた明り取りの窓)

以上は、小説「恩讐の彼方に」のストーリーですが、実際この青の洞門を悲願30年を懸けて、342メートルにおよぶ隧道を貫通させた人物は、「禅海和尚」という越後の人、仏道修行の為回国行者となって諸国を巡り、享保(江戸の中期、1716年6月22日から1736年4月28日)の頃この地に来ました。たまたま、山国川ぞいの岩壁にかかる鎖渡の桟道で、踏み外して墜死する惨事を目撃、仏道修行者として、この危難を取り除き、衆生救済の門を開かんものと大誓願を発し大岩壁に向って鑿と槌をふるい、目的を達成させたのが実際の話になります。
小説の21年よりも実際は長く、30年の月日を懸けていたのです。
禅海和尚の像.jpg「禅海和尚と青の洞門」説明盤.jpg
(青の洞門を背景に、鑿と槌にて岩盤に向かう禅海和尚の像と説明盤)

この山国川は、大分県と福岡県との県境にそびえる英彦山東麓の山中に源流を持ち、大分県中津市山国町から、耶馬渓町・本耶馬渓町を流れ、中津市三光に至って福岡県築上郡上毛町と接する地点から大分県と福岡県との県境を流れ周防灘に落ちています。
その中津は、かつて豊前の国の中心に位置し、鎌倉時代この地方を治めていた野仲氏は、我が下野国の名族「宇都宮氏」の分流。豊前守護職に任じられた宇都宮信房の弟・重房が、野仲郷を所領して、野仲氏を名乗ったのがはじまり。意外なところで身近に感じます。
 
山国川の上・中流域の渓谷は耶馬渓と呼ばれ景勝地も多い、又、この耶馬渓には「耶馬渓三橋」と呼ばれる、石造りアーチ橋が有り、今回これらの橋も巡って見てきました。上流側から見ていきます。

【馬渓橋】
・中津市指定有形文化財
・1923年(大正12年)10月竣工
・5連石造りアーチ橋、橋長:82.6m、支間:13.9m、拱矢(アーチの高さ):4.8m
馬渓橋全景.jpg
(馬渓橋全景、右岸上流側より撮影)
馬渓橋説明板.jpg
(馬渓橋説明板、右岸橋詰設置)
馬渓橋右岸橋詰の記念碑.jpg
(馬渓橋右岸橋詰に建つ「山国川水害復興記念碑」と「馬渓橋周辺の河川整備に至るまでの経緯」の碑)

【羅漢寺橋】
・大分県指定有形文化財
・1920年(大正9年)9月竣工
・3連石造りアーチ橋、橋長:91m、径間長:26.8m、拱矢:4.6m
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(羅漢寺橋全景、下流側の羅漢寺大橋の橋上より撮影)
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(左岸橋詰に設置された、羅漢寺橋の説明盤)
羅漢寺橋親柱(河川名).jpg羅漢寺橋親柱(橋名).jpg
(羅漢寺橋親柱に刻まれた、河川名と橋名)

【耶馬渓橋】
・大分県指定有形文化財
・1923年(大正12年)3月竣工
・8連石造りアーチ橋、橋長116.0m、最大支間12.8m、拱矢:3.0m
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(耶馬渓橋全景、左岸橋詰より撮影)
8連の石造りアーチ橋は、日本でこの橋だけです。橋の長さも、石造りアーチ橋では日本最長です。
耶馬渓橋説明盤.jpg
(耶馬渓橋説明盤、左岸橋詰に設置)
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(耶馬渓橋左岸橋詰に設置されているモニュメント)

今回は、大分県に足を延ばして、石造りアーチ橋を見て回りました。そして耶馬渓の観光名所の中心的「青の洞門」も歩いて潜り抜けてきました。
日本国内の石造りアーチ橋の9割近くが九州地方に分布しています。その数約1,800基にもなります。その内大分県は、石橋王国とも言われる熊本県に負けず劣らず、約500基を占ると言われています。今回紹介した中津市だけでも53基。もっとも多いのは豊後大野市の115基、そして宇佐市には100基。その宇佐市の中でも、院内町には65基が集中して分布、設置密度も高く「日本一の石橋のまち」と称しています。
短時間で多くの石造りアーチ橋を見たいのであれば、まさに宇佐市院内町がお勧めといえます。
荒瀬橋遠望.jpg鳥居橋遠望.jpg
(橋髙18.3mと院内町最も高い「荒瀬橋」と石橋の貴婦人と呼ばれる「鳥居橋」)

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(「分寺橋」と「鷹岩橋」の橋詰に建てられた「石工顕彰碑」)

院内町にはこんな所にも、石造りアーチ橋のデザインが施されていました。
院内町マンホール蓋.jpg院内町消火栓蓋.jpg
(院内町のマンホール蓋と消火栓の蓋)

今回参考にした資料
・旺文社文庫「父帰る・恩讐の彼方に」 菊池寛著
・大分県中津市観光パンフレット
・「いんない石橋マップ」宇佐市発行観光パンフレット

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栃木市周辺に残るホタルの話 [橋梁]

インターネットを見ていたら「ほたる出現予想2022」(ウェザーニュース)が目にとまりました。
<今年は、3月以降に平年より暖かい日が多く、西日本の太平洋側を中心にほたるが出現し始めています。
今後は、西日本や東日本では5月下旬までに飛び始め、5月中旬~6月中旬に出現のピークを迎える予想です。>そして、宮崎県西都市 2022年5月7日撮影のほたるの光が写った写真が掲載されていました。

私の子供の頃の記憶では、ホタルは夏の夜、部屋に吊った虫よけの蚊帳の中で、捕まえてきたホタルを放し、部屋を暗くして蚊帳の中を動くホタルの光を追って過ごした、7月末から8月の出来事だったように思い出されます。
家の脇を流れる清水川も、今ではコンクリート製の水路に変わってしまい。ホタルの生息環境では無くなっています。
1980年中の橋(清水川).jpg2017年中の橋(清水川).jpg
(1980年頃の中の橋下流部の清水川と2017年撮影の清水川)

巴波川のホタルの話になると、巴波川をズット下って行くと、小山市上泉に「蛍橋」という橋が架かっていますが、ここはその昔、ホタルの名所でした。栃木県文化協会が発行した「栃木の水路」と言う本の、4章に”母なるうづま”が記されていますが、その中に「うずまぼたる」と題する記事が載っています。冒頭部分を抜粋してみると、<うずま川に発生するほたるは大型の源氏ぼたると呼ばれるものである。その飛びかうさまは、まさにうずま川ならではの夏の夜の景観であった。時に、直径三~五尺、高さ一~二丈におよぶほたるばしら(螢柱)がたつ。ほたるが密集して飛びかい、闇に舞いあがるのである。渦を巻きながらつくるこのほたるばしらは、見事というより表現の法を知らない。(後略)>
尺貫法の単位をメートル法に置き換えると、直径0.9m~1.5m、高さ3m~6mとなります。こんなサイズのホタルの柱を見たら驚くしかないでしょう。
蛍橋(小山市上泉).jpg
(現在の蛍橋、昭和9年(1934)に架けられたものです。)

稲葉誠太郎さんが著わした「巴波川物語」第一巻の10に「蛍の川」と題する一文が記されています。
こちらも冒頭部分を紹介させて貰います。
<江戸時代後期の文献に巴波川の蛍について「蛍御用」という一文が残っている。その全文はこう記している。
巴波の蛍と云へば栃木名物の一つに数えらるる程ありて、その大いさの熒々たる火は他に類稀にして一歩市街を出てて川沿を下れば耿々たる万点の蛍はげに丸天の衆星の一時に流れ出したらむかと疑う計りなり、されば此事古くより領主の上聞に達しけむ、毎年五月節句のころ十日間に蛍御用と称し御役所より各町へ御切手にて御渡あるを例とす、依って各町内にては十五人乃至二十人の人夫を出し、各町三百疋位宛の見積にて可成一夜に狩り集め、是を町役人の手を経て御役所へ納めたりと云ふ。名におふ名物の蛍の事とて御用の外に町民各自の娯楽に供せられしなればその当時箒団扇を振翳し我一の功名せむと宙に舞ふ光につれて己も躍り狂ひつ追い廻る数多の蛍狩の模様こそ今に想ひやらるなれ。
このような有様であったから明治になっても巴波川べりの人たちは夏の宵に相さそって蛍火を楽しんでいたのである。(後略)>
文中に”毎年五月節句のころ”と有りますが、これは旧暦ですので新暦の端午の節句(5月5日)とは違い、新暦では6月頃に成りますから、時期的には蛍の出る季節と言う事です。

更に蛍の話題を記した書籍を探してみると、坂本冨士朗さんが著わした「うづま記」の”栃木市の今昔と未来物語”の中に見つけました。
<(前略) ところで、栃木景観の王者は、何んといっても巴波川の河畔であった。当時は、倭町の材木商である塚田屋敷を南端として、素朴な黒塀が北に向かって、どこまでもどこまでも果てしないように続き、それは泉町の天海橋のあたりで終わっていたが、その間千二、三百メートルはあったろうか。(中略) またこれは、万町白沢屋敷裏、巴波川岸のことであるが、六月下旬から七月の上旬にかけての夜更けになると、それまで草むらの中で時たま光っていたほたるの群の動きが活発になって、一匹また一匹と中天に舞い上り、やがて無数の星となって燦くのだった。今でも伝説的な話として念頭に残っているが、ほたる柱が中空に登る見事な光景を明治八年生まれの父親の口から耳にしたことがあったが、それは幕末のことらしい。(後略)>

ここで出てきた”万町白沢屋敷裏、巴波川岸”とはどの辺りに成るのか。明治後期市街地の商店の位置が分かる「栃木縣營業便覧」(明治40年10月1日、全国營業便覧発行)にて、栃木町の萬町を確認すると、”質屋白澤利平”の名前が載っていました。その場所は丁度現在の栃木市役所の場所で、その当時は大通りの西裏を平行に走る”蚤の市通り”は無く、それらの屋敷は大通りから裏手は巴波川岸まで有りました。
営業便覧抜粋.jpg

その条件から白沢屋敷の裏手は現在の市役所駐車場ビル辺りに比定されます。
坂本冨士朗さんが「うづま記」を発表した昭和51年頃の巴波川は生活排水等が流入し、相当汚染されていました。その頃の開運橋周辺の様子を写した写真が有ります。
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(開運橋上流右岸より1980年撮影、その頃は駐車ビルでは無く、「うずまコーポ」と言う9階建ての高層アパートが建っていました。写真左手大きな屋根の建物は「栃木セントラル劇場(映画館)です。)

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(開運橋下流左岸より1978年4月撮影、この頃の巴波川はゴミも多く流れていました。)

その後は、下水道の整備や、地元自治会等の年2回の一斉川掃除の活動等によって、現在巴波川は綺麗な川に戻っています。
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(開運橋上流右岸より2018年6月撮影、開運橋は2000年に現在の橋に架け替えられています。うずまコーポも映画館も無くなり大きな駐車ビルの建物に変わっています。)

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(開運橋下流左岸より、2014年9月撮影、巴波川はすっかり綺麗に復活しました。)

更に探していくと、お隣「壬生町」にも江戸時代に蛍の名所が有った事を記す資料が有りました。
壬生町が発行した、壬生町史 史料編 近世 付録の、「壬生領史略」の中に、「古川の螢」という記録が残されていました。
この「壬生領史略」は、嘉永三年(1850)に碧山季美なる人物によって編纂された壬生領の地誌書です。
「古川の螢」(抜粋)
<古川橋 表町地内 栃木道柳原渡船場へ通する処の橋をいふ
 螢は梅雨前より出 梅雨い三日目を出盛と云 橋の上流尤多 螢狩又は眺め等に出頗る愉快を尽したり・・・(後略)>

この「古川橋」はどこか、そして古川とは。
この古川橋を私はたまたま撮影をしていました。栃木から思川(小倉川)にかかる保橋を渡った先、栃木市から壬生町に入った所に小さな橋が、架けられていました。高欄親柱に「古川」の銘板が付いています。
古川橋右岸より.jpg古川橋左岸より.jpg

私は通勤時に毎日この橋を渡っていたのですが、バイパス道路が開通した後はすっかりご無沙汰でした。
現在の「古川橋」は、コンクリートブロックに白色のガードレールが設置されただけで、渡ってもそこに橋が有る事も気が付かない状態です。
現在の古川橋.jpg古川橋上流方向.jpg
(現在の古川橋と、橋から眺めた上流側の様子)

私が昨年の11月に撮影に行った時「古川」には水は無く、ただ草原が上流まで伸びていました。
ここが、かつて沢山の蛍が飛び交い、それを多くの壬生の街の人達が見物に来て、夏の宵を楽しんでいたなどとは、現在では想像も出来ません。

ここ数年、新型コロナの影響で多くのイベントが開催され無い状態が続いていました。現在はわずかづつ収束して行くような期待を持っています。
今年は以前の様に各地から、ホタル祭のニュースが届いてくるのか。
近い所で、栃木市都賀町大柿の逆川流域や、都賀町原宿の荒川流域は。
蛍が飛び交う時期は、もう目の前まで来ています。

今回参考にした資料:
・「栃木の水路」 栃木県文化協会発行
・「巴波川物語」 稲葉誠太郎著
・「うづま記」 坂本冨士朗著
・「栃木縣營業便覧」 全国營業便覧発行所
・「壬生領史略」 壬生町発行



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石橋を巡る旅。鹿児島市 [橋梁]

これまで、長崎や熊本の石橋を見て来ましたが、今回は鹿児島県の「石橋記念公園」を訪れました。
日本国内での石造りアーチ橋の歴史は浅く、江戸時代以降に成ります。その石橋の多くが九州7県に分布しています。その分布の状態を、手元に有る工学博士太田静六氏が著わした「眼鏡橋」という著書から引用させて貰いますと、<江戸期から明治末までに限定すると、一番多いのは熊本県で150橋前後、次は鹿児島県だが、その数は半分以下に減って70橋位。3番目は大分県の約50橋、4番目は長崎県の約35橋、次いで福岡県は25橋位、宮崎県は約6橋と愈々少なく、最低は佐賀県の約5橋である。>と、記されています。そして又、大正期以降を見ると、<大正から昭和にかけての橋が大変多いのが大分県である。大分県には大正から昭和にかけての橋が200橋近くも有るらしい。>と、こんな分布状況になっています。

それでは今回見る鹿児島県の石造りアーチ橋は、「甲突川五石橋」と称された石橋五つの内の三つです。
甲突川は薩摩藩の城下町・鹿児島市内を北から南へ縦断して錦江湾に流入する周辺第一の大河で、江戸時代の末期、弘化2年(1845)から嘉永2年(1849)に、「新上橋」(弘化2年)・「西田橋」(弘化3年)・「高麗橋」(弘化4年)・「武之橋」(嘉永元年)・「玉江橋」(嘉永2年)と、毎年架けられています。

しかし、平成5年(1993)8月6日、集中豪雨による洪水で五石橋の内「武之橋」と「新上橋」が流失。鹿児島市街地約1万2千戸が浸水する大災害が発生してしまいました。
かつて長崎の大洪水で多くの石橋を失ったのと同様です。
歴史的に貴重な石橋を保存しようと、流失を免れた3橋を移転保存する為、翌年の平成6年から同11年にかけて、石橋の調査解体、復元と慎重に進め、石橋3橋が一体となった公園として平成12年「石橋記念公園」として、稲荷川の河口近くに開園したものです。

最初は「西田橋」です。
西田橋(右岸下流側より).jpg
先の著書「眼鏡橋」には、
<甲突五橋のうち最も重要な橋で、出水の関所を通って城内に入る表玄関に当たる。参勤交替を始めとして、島津公が渡る橋も常に西田橋である。それ故、五橋のうち西田橋だけは堂々とした勾欄の親柱の全部に青銅の擬宝珠を付けて格式と威厳を誇る。>と、説明されています。
架橋された年は、弘化3年(1846)で公園に移築された三橋では一番古い橋です。
橋長は49.5m、幅員6.2m、4連アーチ橋で、建設費も「甲突川五石橋」で一番高く7,127両と言われています。
西田橋(右岸橋詰より).jpg
橋面敷石は上の写真に見える通り、「斜め敷き」で、整然と敷かれています。橋を渡った先、左岸橋詰近くに立派な御門が建っています。「西田橋御門」です。
西田橋左岸に建つ御門.jpg
現地に建てられた説明文には、<城下の武士や町人、領内を通過する旅人は、御門脇の番所で改めを受けて通行していました。御門は、明治5年(1872)の天皇行幸際に撮られた写真に写っていますが、その後西南戦争で焼失したと思われます。> 現在の門は、発掘調査で確認された橋との位置関係を保って、写真や遺構、市内の仙巌園門などを参考に復元的に整備したものだそうです。

二つ目の橋は、「高麗橋」です。高麗橋(右岸上流側より).jpg
下流から二番目の橋なので、橋長も一番下流側に架けられた「武之橋」(橋長:71.0m・流失)に次ぐ長さで、54.9m有ります。幅員は5.4mで「西田橋」同様、4連アーチ橋に成ります。
高麗橋は、弘化4年(1847)の創建以来、その時々の実情に合わせて、橋面勾配の改修や水道管の添架、昭和20年から30年頃は戦災や通行する自動車による破損に対する改修が行われていました。
移設後の現在の形状は、明治末から大正末期の姿に復元されました。
高麗橋(右岸橋詰より).jpg

最後、三つ目は「玉江橋」です。
玉江橋(右岸上流側より).jpg

甲突五石橋で最後に架けられた橋で、甲突川の一番上流に有りました。石橋の形状は前記の2橋と同じで四連アーチ橋ですが、城下町郊外で通行量も少ない為か、橋長は50.7mですが幅員は4.0mと狭く、建設費も他の橋と比較しても格段に安く、1,560両でした。
玉江橋(左岸橋詰より).jpg
橋面敷石の形状は「乱張り」と、造りもやや粗末に見えます。

公園内の三つの石橋を見た後、公園の北側に有る多賀山公園に登り、東の海上に聳える桜島を眺めましたが、その時は山頂部に雲がかかって良く見えませんでした。
桜島(多賀山公園より).jpg

高麗橋近くに「岩永三五郎之像」と表示された石造が建てられており、その脇に「岩永三五郎顕彰の由来」を刻した石碑が有りました。
松永三五郎像.jpg松永三五郎顕彰の由来.jpg

岩永三五郎は、前著「眼鏡橋」によると、
<岩永三五郎は肥後の石工だが、島津藩に招かれて城下町・鹿児島市内を貫流する甲突川に、いわゆる甲突五橋を架けたことから、熊本より寧ろ鹿児島で有名になった。この点、同じ城下町でも熊本では、鹿児島と違い江戸時代を通じて市街を流れる白川を始めとする主な河川には一つの石橋も架けられなかったので、名工・三五郎も反って地元の熊本市内で腕を振るうことが出来なかったのは面白い>と、記しています。

鹿児島市の公園に移設保存された石橋、四連アーチ橋の立派な石橋でした。

今回参考にした資料は
・「眼鏡橋 日本と西洋の古橋」 工学博士太田静六著 理工図書株式会社発行
・石橋公園内説明案内板等
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橋巡り「聖人見返り橋」 [橋梁]

今回巡る橋は、「聖人見返り橋」です。
この橋が有るのは、お隣の茨城県に成ります。栃木市から車で行けば1時間程、茨城県笠間市稲田の田圃の中にその橋は有りました。
聖人見返り橋1.jpg
(茨城県笠間市稲田の田圃の水路に架かる、「聖人見返り橋」)

ここで言われる「聖人」とは、親鸞聖人の事で、橋の脇に2基の石碑が建てられています。
聖人見返り橋3.jpg聖人見返り橋2.jpg
(「聖人見返り橋」の脇に建つ、二基の石碑)

右側(橋の近く)に建つ、小さめの石碑は正面に「聖人みかえりはし」とだけ刻されています。
言うなれば、橋の案内碑、極端に言えば橋の親柱代わり的な役目を果たしている様、これが無ければ水路に架かる湾曲して太鼓橋状に削り出された一枚の石の橋桁の仔細が分からない。

左側の石碑は、何やら和歌の様なものが、刻まれています。
石碑中央には、少し大きな文字で「親鸞聖人みかえりはし」 
右側には「和かれしを さのみなげくな 法のとも」 と上の句が、
左側には下の句の 「またあう國の ありと思えは

そして、橋の袂から北東の方を望むと、深い杉木立の山裾に沿って瓦屋根を載せた、上半分が白壁で下側が黒色の板張りの塀が連なっています。浄土真宗別格本山の西念寺です。木立の合間に本堂の大屋根が見え隠れしています。
西念寺1.jpg

この「聖人見返り橋」は、数多い親鸞聖人の伝承のひとつでしょう。現在のこの橋もその伝承のひとつのモニュメントと言えます。実際に伝承の元となる橋が有ったとしても、恐らく場所も橋そのものの形も違っているでしょう。現在の場所を見ると周りの状態は土地改良が行われ、畦道も水路も直線的で、在りし日の姿を留めてはいません。でも今この場所に立って、田園風景の真ん中から西念寺の杉木立を望むと、文暦2年(1235)春、20年近くを過ごした草庵を後に、京に戻る親鸞の姿と、見送る人達の情景が浮かんでくるような思いが過ぎって来るものです。橋の袂に建てられた石碑の、親鸞聖人の作と伝える和歌の内容を、もう一度かみしめます。
<念仏の友よ 別れをそのように嘆く事は無いですよ  また何時の日か阿弥陀様の元で 会う事が出来るのだから>
その年の9月元号は嘉禎に改められた。
 
ここで西念寺にお参りして行きます。
西念寺の正面参道の入り口は、上の写真の右方向、国道50号線の直ぐ脇に成ります。
聖橋1.jpg
(西念寺参道入口に架けられた「聖橋」。写真後方に国道50号線に架かる歩道橋)

聖橋を渡ると、民家の間に参道が真っ直ぐ伸びています。奥の木立の中が西念寺です。)
聖橋2.jpg
(国道50号線側から、聖橋とその奥に伸びる参道を望む)

真っ直ぐと天の突くように伸びた、何本もの杉の大木の間に伸びる参道を進むと、趣のある茅葺屋根を備えた山門の前に出ます。
西念寺山門.jpg
(茅葺き屋根の山門が、落ち着いた雰囲気を醸し出しています。)

上層の軒下に山号の「稲田山」の扁額が掲げられています。左脇の石柱に「親鸞聖人教行信證御製作地」「浄土真宗別格本山」と大きく刻されています。
山門を潜ると、正面奥に大きな伽藍が迎えてきます。御本堂です。
西念寺本堂.jpg
(御本堂)

本堂内で参拝を済ませ、本堂右手の坂道を登り、親鸞聖人御頂骨堂や太子堂・鐘楼を巡り、戻っては山門入った時左手に見えた太鼓楼や県指定文化財の「お葉つきイチョウ」の大木などを見て回りました。
今度はこのイチョウの紅葉の時季に、また来ようと思いました。

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(鐘楼)(親鸞聖人御頂骨堂)
太子堂.jpg太鼓楼.jpg
(太子堂)(太鼓楼)
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(お葉つきイチョウの大木)


今回参考にした資料:
・丹羽文雄著「親鸞」
・「日本の名著6 親鸞」 中央公論社発行

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福岡県八女市の星野川に架けられた「ひふみよ橋」 [橋梁]

今回巡る橋は、「ひふみよ橋」と称されている、福岡県八女市の星野川に架かる石橋です。
名前の通り、1(ひい)、2(ふう)、3(みい)、4(よお)の4本の橋をまとめた名称で、それぞれの橋には上流側から、「洗玉(せんぎょく)橋」、「寄口(よりぐち)橋」、「大瀬(だいぜ)橋」、「宮ヶ原(みやがはる)橋」という、橋名を持っています。
それでは何故「ひ・ふ・み・よ・橋」と称されるのか、「ひふみよ」はそれぞれの石橋の持っているアーチの数を表しています。即ち一番上流側に架かる「洗玉橋」は<単一式アーチ橋>、次の「寄口橋」は<二連式アーチ橋>、三番目の「大瀬橋」は<三連式アーチ橋>、そして一番下流に架かる「宮ヶ原橋」は<四連アーチ橋>に成っているので、この4本の石橋を総称して、「ひ・ふ・み・よ・橋」と呼ばれています。

八女市は福岡県の南端、南側は熊本県、東側は大分県と県境を成しています。
「ひ・ふ・み・よ・橋」が架かる星野川は、有明海に流れ込む「矢部川」の支流で、八女市の東の端、大分県との県境を成す山中(星野村)の沢水を源にしています。「ひ・ふ・み・よ・橋」が架けられている所は、星野川の下流域に有り、上陽町の北川内、上横山、下横山そして一番下流に架かる「宮ヶ原橋」が長野で、矢部川の合流点から5kmほど遡った地点に成ります。

それでは、「ひ・ふ・み・よ・橋」を上流側から順に巡って行きます。
まず最初は単一式アーチ型の「洗玉橋」です。
現在は直ぐ上流側に昭和36年(1961)3月に新しい鋼桁橋が架けられています。
洗玉橋全景.jpg

洗玉橋親柱の架橋年月示.jpg洗玉橋親柱の橋名表示.jpg

洗玉橋全景2.jpg

石造りの立派な高欄を持った、単一式アーチ型の石橋です。
擬宝珠を模った石の親柱に、橋名「洗玉橋」や架橋河川名「星野川」、そして架橋年月日「明治26年(1893)5月3日竣功」等が刻まれています。
右岸橋詰に平成7年11月21日上陽町教育委員会により、「上陽町指定文化財」として、橋の概要と架橋に至るエピソード等を記した石碑が設置されています。それによりますと石工棟梁は、橋本勘五郎と有ります。この人物は、熊本県の国指定重要文化財「通潤橋」架設時に副頭を務め、明治政府に呼ばれ、東京初の眼鏡橋である「神田筋違い眼鏡橋」などを架設しています。

「洗玉橋」の大きさは、橋長:32.5メートル、幅員:5.0メートル、径間:22.5メートルと記されています。

次の橋は、二連式アーチ型の「寄口橋」です。
現在は、上流の「洗玉橋」との中間に新しく「上名橋」が架けられ、「桜トンネル」とともに県道70号線のバイパス道で、旧道に架かる石橋「寄口橋」の負担軽減が図られています。

「寄口橋」に行った日は天候がよく暑い盛りでしたので、橋の下の川で水遊びする人が大勢来ていました。
寄口橋全景.jpg

寄口橋竣工表示1.jpg寄口橋竣工表示2.jpg

寄口橋全景2.jpg

高欄の端に竣工年を記したプレートが埋め込まれていますが、橋の右岸側と左岸側で異なった日付けが記されています。
大正9年(1920)7月竣工と有るのは、元々この橋本体が架橋されたもので、もう一方の、昭和45年(1970)2月竣功と有るのは、交通量の増加に伴い橋の両側を拡幅して歩道を設けた時の日付けに成ります。
「寄口橋」の大きさは、橋長:42.0メートル、幅員:4.0メートル、径間:16.5メートルと記されています。

3番目の橋は。三連式アーチ型の「大瀬橋」です。
大瀬橋全景.jpg

大瀬橋製造年月表示板.jpg大瀬橋橋名板.jpg

大瀬橋全景2.jpg

昭和50年(1975年)3月、石橋「大瀬橋」の下流側にピッタリとつけた形で桁橋が架けられ交通量の増加に対応した様です。アーチの間から増設した橋の橋脚が覗いています。
石橋の架橋年は、大正6年(1917)と伝えられています。洗玉橋を架けた橋本勘五郎の弟子「萩本卯作」や「川口竹次郎」などが建築に関わった大工や石工の名前が、アーチの頂上真ん中付近に刻銘されているそうですが、確認出来ませんでした。

「大瀬橋」の大きさは、橋長:45.5メートル、径間:12.0メートル、幅員データは確認できませんでした。
理由が分かりませんが橋詰に建てられた案内板の表示が剥がされていました。

最後、4番目は、四連アーチ型の「宮ヶ原橋」です。
宮ヶ原橋全景.jpg

宮ヶ原橋全景2.jpg

宮ヶ原橋災害復旧記念碑.jpg

宮ヶ原公園橋.jpg宮ヶ原公園橋橋名板.jpg宮ヶ原公園橋竣工年.jpg

上流から下流に来るにしたがって、川の幅が広くなっていくので、それに伴いそこに架けられる橋の長さも次第に長くなるのは当然でしょう。そこで橋のアーチの数が増えて行くのも必然の結果なのかもしれませんね。
この4番目の「宮ヶ原橋」の情報ですが、現地には何も掲示されてはいませんでした。
国土地理院地図(電子国土Web)を確認すると、橋の右岸近くに記念碑の地図記号が記されていますが、現地には違う場所に成りますが、「災害復旧事業 竣工記念碑 平成24年7月九州北部豪雨」が建てられていましたが、恐らくこれとは違う石碑が以前は建っていたのです。
私の蔵書「眼鏡橋」工学博士太田静六著にこう記されています。
<福岡県下には石造りアーチ橋が比較的に少なく、それも全部1連アーチ橋ばかりなのに、星野川にだけ2連・3連・4連アーチ橋が全部揃うのは面白いが、このような例は九州全体でも珍しい。上陽町の人も1連・2連・3連と各一つずつ揃うのに興味を抱いたと見えて、上記3橋を一括して一二三(ヒフミ)橋と呼んでいる。4連アーチ橋の宮ヶ原橋を抜かしたのは、厳密にはこの橋が上陽町でなく八女市に入るからであろう。代表して宮ヶ原橋を写真118にだしておくが、これは下流側から見た全景である。橋の左端に大きな記念碑が立ち、大正11年4月に竣工したことや、請負人は隣接する黒木町の豊嶋虎二郎であることなどが記されている。>この本が発行されたのが昭和55年ですから、事情が現在と少し異なっています。上陽町は現在は合併して八女市になっています。ただかつてあった大きな記念碑は現在無くなっています。おそらく平成24年の豪雨災害かなんらかで、流されてしまったのか、又はその復旧事業で、星野川の右岸側に、分水路の様な新しい河道が作られた折に撤去されたものか。(抜粋文中に有った「写真118」は著作権の関係で転載出来ませんが、確かに写真の左隅に大きな石碑が写っています。八女市ホームページ「上陽の石橋 ひふみよ橋」に掲載されている「宮ヶ原橋」の写真の橋の左端に石碑らしき物が写っています。もしも実際の石碑が今も保管されているのでしたら、現地に設置して頂きたいと願います。)
現在「宮ヶ原橋」の右岸側の河道に、新しい桁橋が架けられています。橋名は「宮ヶ原公園橋」、架橋されたのは「平成28年9月完成」となっています。

星野川に架かる4種類の石造りアーチ橋を巡って、今まで以上に「眼鏡橋」の虜になた気がします。

今回の参考資料:
八女市ホームページ「上陽の石橋 ひふみよ橋」
「眼鏡橋 日本と西洋の古橋」 工学博士太田静六著

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出会いの場、二俣橋 [橋梁]

熊本県のほぼ中央部に位置する美里町には、日本で一番大きな石造り単一アーチ橋から、長さ幅共に2m足らずの石橋など、町内全域に多くの石橋が架けられています。その数は何んと30橋以上に成ります。
霊台橋.jpg
(江戸時代の石造り単一アーチ橋としては日本一大きな「霊台橋」。橋長:89.86m、橋幅:5.45m架橋は弘化4年(1847)です。)

岩清水橋.jpg
(霊台橋に向かう手前脇道に架けられていた「岩清水橋」。橋長・橋幅共2m足らずの小さい石橋)

そんな石橋の町「美里町」に、「恋人の聖地」に登録された「二俣橋」が有ります。
恋人の聖地・二俣橋.jpg
(2018年、第4回恋人の聖地、観光交流大賞を受賞した、「ハートができる石橋」の現地案内板)

ハートは何時でも見られるものではなく、アーチ橋に差し込む太陽の光の入射角の関係で、案内板に記載されている様に、11月から2月の、午前11時30分から12時頃と有り、天候との兼ね合いも有り、見る為には結構な努力が必要かもしれない。
ただ、チョッと気になるのが、その橋の名称。「二俣」ですが、恋人の二俣は良くないですよね。そこで、ここでは異なる観点からその意味を考えてみます。この橋が架かっている場所が、二つの川が合流する地点に成ります。二筋の川の流れがこの場所で落ち合うと言う状況から考えれば、橋の袂に設置された幸せの鐘の基礎に記された言葉に、納得出来ました。
     「川が、であい    道が、であい     人が、であう」
ここは全ての出会いの場所に成っているのです。

二俣橋.jpg
(二俣橋を下を流れる「釈迦院川」上流側に架かる「新年祢(しんとしね)橋」から撮影)

釈迦院川は二俣橋(二俣渡)の下を流れた直後、右岸に津留川が合流しています。そしてその津留川に架かる石橋が「第二二俣橋(二俣福良渡)」で、架橋時期はどちらも同じで文政年間です。更にその第二二俣橋の直ぐ上流部に、「第三二俣橋」が架かっています。

釈迦院川に架かる。橋長:28.0m 橋幅:3.3m 橋高:8.0m 文政12年(1829)架橋。
二俣橋(二俣渡).jpg
(二俣橋(二俣渡)を第二二俣橋(二俣福良渡)側から撮影、ハートはこのアングルから)

津留川に架かる。橋長:27.0m 橋幅:2.5m 橋高:8.0m 文政13年(1830)架橋。
二俣福良渡.jpg
(第二二俣橋(二俣福良渡)を、右手前から流れてくる釈迦院川下流側より撮影、

津留川の第二二俣橋の直ぐ上流側に架けられた現代橋。昭和2年3月に竣工しています。
第三二俣橋.jpg
(第三二俣橋、津留川の左岸橋詰より撮影)
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タイ王国の首都バンコクの橋巡り [橋梁]

テレビのニュースでは、今日から本格的なゴールデンウィークに入る中、新型コロナウイルスの感染拡大防止の外出自粛要請で、人影が消えた各地の様子を、昨年の映像と比較して流していました。
私も感染するのは嫌だし、他の人にうつすのはもっと嫌なので、極力自宅に引き籠もる生活を続けています。体力が衰えるのを少しでも抑える為、朝はラジオ体操第一・第二を、そして本当に久しぶりに縄跳びに挑戦をしました。最初はビックリするほど体が動かず、1回も飛べない始末。それでも毎日続けていると、10秒・20秒と続く様になって来て、今は何んとか40秒程度まで、連続で飛べるようになって来ました。
それでも、時間を持て余す為、家の周りを掃除するので、埃だらけだった家の周りが、少し見られる様になって来ました。
そんな事で、このブログの話のネタも過去に撮影した写真がベースになって来ています。
今回は10年程前に撮影したバンコクの橋を取り上げました。

バンコクと言えばタイ王国の首都で、「天使の都」とも呼ばれています。その街を流れる川と言えば、チャオプラヤ川が有名です。この川にはバンコク域内だけでも12カ所に架橋されていますが、今回はその中で私が歩いて渡った二つの橋をまず紹介します。
最初に渡った橋は、戦勝記念塔から真っ直ぐ西方向に走る「ラチャウィティ通り」がチャオプラヤ川を渡る場所に架かる「クルントン橋」です。この橋は曲弦トラス式6径間で、1957年に開通した4車線、全長366メートルの立派な橋です。が、老朽化の為に2012年8月28日から、6輪トラック以上の大型車両は通行禁止に成っています。
クルントン橋(.jpg
(曲弦トラス式6径間のクルントン橋、右岸橋詰のレストランより撮影)
クルントン橋1.jpgクルントン橋(親柱).jpg
(4車線、両側に歩道も付いています)(橋の親柱です。タイ語表示が有りますが読めません)

次に渡った橋は、「クルントン橋」の一つ下流側の「ラーマ8世橋」です。
タイ国政府観光庁ホームページによると、≪ラーマ8世橋は、ラタナコシン島からトンブリーへの交通渋滞を緩和するための王室プロジェクトとして建てられました。ウィスカサット通り(Wisut Kasat Road)とアルンアマリン通り(Arun Amarin Road)を結ぶチャオプラヤー川を渡るこの橋は、非対称の斜張スタイルで世界5番目に長い橋としてバンコクのランドマークにもなっています。≫と、紹介されています。
非対称斜張橋で、2002年5月7日に開通、全長475メートル、主塔高さ160メートルに成ります。

ラマ8世橋(公園より).jpg
(ラーマ8世橋、右岸橋詰下流側の「ラーマ8世公園」より撮影しました)
ラマ8世橋(主塔と親柱).jpgラマ8世橋(ライトアップの主塔と親柱).jpg
(斜張橋の主塔と親柱) (ライトアップされた主塔と親柱、ナイトクルーズの船上より撮影)

次はチャオプラヤー川からはなれます。バンコク中心部主要交通システムのBTS(通称スカイトレイン)に乗って、少し北に行ったモチット駅の直ぐ目の前に有る「チャトチャック公園」です。公園の南隣には「チャトチャック市場」も有り、休日には多くの人が訪れます。公園内では木陰で休む時に、下に引くゴザを貸し出すサービスが有ります。そんな公園の北の橋近くに有る池に3番目に紹介する橋は有ります。
チャオチャック公園内の橋1.jpg
(チャトチャック公園内の池に掛けられている橋)
チャオチャック公園内の橋2.jpgチャオチャック公園内の橋3.jpg
(休日公園には沢山の人が憩いを求めて集まります)(緩やかな曲線を描く橋)

チョッと変わった形の橋が王宮近くの運河に架けられています。その形は有名な画家ゴッホが描く「アルルの跳ね橋」の片側だけにした様な形の橋です。
王宮近くの運河に架かる跳ね橋1.jpg王宮近くの運河に架かる跳ね橋2.jpg
(ゴッホの名画「アルルの跳ね橋」の片側だけにした様な橋)
この橋は、スクンビットから乗り合いバスで王宮へ出かけた時、バスの終点近くで見つけました。

スクンビットから王宮方面に移動する手段としては、水上バスで行く方法も有り、私も何度か利用しました。水上バスが走る運河の名前は「セーンセーブ運河」と言い、バンコクの街の中心部を東西に横断しています。
セーンセーブ運河の水上バス2.jpgセーンセーブ運河の水上バス3.jpg
(セーンセーブ運河の水上バスは、いつも満員状態です)
セーンセーブ運河の水上バス1.jpg
(運河の川面に白波を立てて走る水上バス)

この「セーンセーブ運河」には、人が歩いて渡る小さな橋から、パヤータイ通りの様に車線が八つも有る広い橋等、多くの橋が架けられています。そんな運河の西端、民主記念塔の東、マハーカーン砦の脇の運河に架かる橋が「パーンファーリラート橋」です。
パーンファーリーラート橋1.jpg
(右側の橋が「パーンファーリーラート橋」です。左奥がマハーカーン砦)
パーンファーリラート橋(親柱).jpgパーンファーリラート橋(親柱の飾り).jpg
(背の高い堂々とした親柱)     (親柱中程の装飾品)

親柱の装飾と言い、高欄の装飾と言い、他には見られない豪華な橋です。
この橋の外にも、セーンセーブ運河に架かる橋には、親柱や高欄に嗜好を凝らした橋が有ります。
私が気付いたものを紹介します。

№2高欄.jpg№4高欄.jpg
(マハトタイウット橋の高欄)            (チャロエンラット橋の親柱)

№8高欄.jpg№9高欄.jpg
(シャレルムラ56橋の象の親柱)   (シャレルムワールド55橋の高欄)

外にも気になる橋がまだまだ沢山有ります。出来る事なら又、行ってみたいものです。
その為にも、早くこの「ステイ・ホーム」が終わって欲しいです。

今回参考にした資料は、グーグルマップですが、著名な地名等は日本語や英語で記載されていますが、マイナーな地名はタイ語記載のみの為、読解不可に成ります。簡易翻訳機能で確認を試みたりしましたが、誤解釈の心配も有りますので、ご容赦下さい。

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今回は全く私の趣味「橋」の話題 [橋梁]

時節柄、毎日毎日家籠りの生活を続けています。昨日は一日心地よい晴天、本来なら行楽日和と成るところ。それでも新型コロナウイルスに感染しない為、そして感染を広げる事にならない為、我家の敷地から一歩も出ずに過ごした。今日は幸いと言うか、朝から雨で家籠りにも、諦めが付きます。
ここの所ずっと外出を控えているので、昔のアルバムを引っ張り出しては、それを眺めて時間を潰す事が、多くなっていますが、その中で今までずっと疑問を抱えていた、一枚の橋の写真が有りました。そこの、この際その写真に写る橋の事を調べる事としました。
ウェーコ吊橋2.jpg
(テキサス州ウェーコ市のブラゾス川に架かる「ウェーコ吊り橋」)

その写真は、40年ほど前にテキサス州のダラスから車で、フリーウェー(一級州間高速道路)35Eを南に走り、州の首都「オースチン」を経由して、更に南の「サン・アントニオ」まで、ドライブをした時に撮影をしたものですが、それが何所で撮った写真か全く記憶に残っていなかったのです。
写真に写る橋は吊り橋で、近くに銘板が設置されている所から、結構有名な建造物と思われ、橋大好き人間としては、それを分からないままにする事が、如何にも諦めきれないので、時間に余裕が有る今こそと考え、グーグルマップを利用して、フリーウェー35のルート上を毎日の様に探し回っていました。そして遂にその橋を見つけ出すことが出来ました。
テキサス州.jpgテキサス州内関連都市.jpg
(テキサス州の合衆国内のロケーション)    (テキサス州内の案内図)

グーグルマップには、「ウェーコ・サスペンション・ブリッジ」と記されています。その橋が架けられている場所は、ダラスのダウンタウンから南に約140キロメートルの都市「ウェーコ」の中心部です。西北西から東南東方向に流れる、ブラゾス川右岸のブラゾスと左岸イースト・リバーサイド間に架けられています。
周辺の状況を、グーグルマップを参考にして概略地図を作成してみました。
ウェーコ吊橋周辺概略地図.jpg
(ウェーコ吊り橋の架橋場所概略地図)

橋の名前が分かったので、それで検索をすると、有りました。やはり歴史的建造物として、「アメリカ合衆国国立史跡登録」と成っています。
その解説文を引用させて頂きます。関係の薄い部分は削除しています。
≪ウェーコ・サスペンション・ブリッジは、テキサス州ウェーコ市のブラゾス川に架かっている。主径間475フィート(145m)を持つ、単径間吊り橋です。竣工は1870年、その主塔には約3万個におよぶ煉瓦が使われています。橋の架かる場所は、ウェーコ市中心部の北部に有り、川の南西側(右岸)のインディアン・スプリング・パークと、北東側(左岸)のドリス・ディ・ミラー・パークを継いでいます。”インディアン・スプリング・パーク”は、「そこは凍るような冷たい水が湧く泉」の有る川岸で、ウェーコの町の起源と成る所で、かつてヒューコ・インディアンが定住していました。
1869年以前は、ブラゾス川を渡る唯一の方法は、渡し船に依らなければ成らなかったが、それも時間は掛かるし、時には厳しく危険を伴うものでした。地元のビジネスマン達は、産業をサポートしていくには橋が必要で有る事を理解していました。彼らは州より承認を受けた「ザ・ウェーコブリッジ会社」を設立して、資金調達と建設のプロジェクトを立ち上げました。
戦後ウェーコに移り住んだ、オースチンの弁護士で銀行家のジョン・ティ・クリント氏は、「フリント&チャリバン」という商社を設立、単身ニューヨークに出かけ架橋の為の契約を行いました。
1868年10月に雇用された技術者トムズ・エム・グリフィスは、橋建設の為の建材やケーブルを、ニュージャージー州トレントンの「ローブリング会社」より、調達を始めました。建設地にて材料を調達するには、当時のウェーコ地区では機械工場が不足していて、最も近い鉄道ルートも100マイル(160km)以上離れていました。又、十分な技能を有した職人達のいる最寄りの町「ガルベストン」は、ここから212マイル(341km)以上も離れていました。
原材料は「ガルベストン」にて蒸気船に載せて輸送し、「ブライアン」にて牛が引く荷馬車に積み替えて、輸送しました。「ブライアン」から「ウェーコ」への道路は、路面がデコボコした悪路で、19世紀のテキサス州基準に対しても劣っていました。
吊橋のケーブルを支持する対の二重主塔は、地元で製造された約3万個の煉瓦にて築かれました。その時代の土木技術としては、高く評価をされるものでした。
初めて通行料を徴収したこの吊橋は、1870年1月1日に開通しました。
径間が475フィート(145m)有るこの橋は、テキサス州にて最初の重大な吊り橋と成りました。この橋は、駅馬車が互いに通行が出来る為の、十分な広さが有りました。
橋の建設費用は14万ドルでしたが、ブラゾス川を当たる為の唯一の橋だった為、歩行者や牛が渡る為の通行料5セントにて、速やかに償却する事が出来ました。
1889年に、この橋は「マクレナン郡」に売却され、通行料は無くなっています。
1913年から1914年に掛けて、橋の大規模補修が行われ、古い材料を交換して、ハイグレード材のトラスを設け、両サイドに歩行者用歩道を備えた、強固な橋と成りました。
1971年に開通100周年を越えて、馬車橋から自動車橋へと変換したウェーコ吊り橋よりより大きく、安全が保障された橋が建設され、州歴史委員会はウェーコ吊り橋の引退を判断しました。
この橋によってウェーコの町は、小さな開拓の町から、主要な商業の中心地にと発展する事が出来ました。今日、この橋は徒歩での通行のみと成っています。国立史跡登録が成されています。≫
ウェーコ吊橋1.jpg
(約3万個の地元産煉瓦で造られた、重量感のある対の二重構造主塔)

下を流れる「ブラゾス川」についての、少し調べていました。
このブラゾス川はアメリカ合衆国を流れる川の中で、長さが1,390kmで14番目にランクします。日本の川で流路延長が一番長い信濃川でも、367kmですから、比較になりません。ちなみに合衆国で一番長い川は、ミズリー川で、3,768kmにもなります。
≪ブラゾス川はテキサス州を流れる大きな川の一つで、かつては東テキサスと西テキサスの境界を示すために使用された事も有ります。川はテキサスの歴史、特にオースティンも入植地と、テキサス革命の時代と密接に関連していた。≫との説明が有りました。

日本とアメリカとでは、国土面積が比較になりませんので、参考になりませんが、栃木県内の吊り橋で同じような規模の物は無いか探しましたが、チョッと見当たりません。現在は架け替えられて姿を消しましたが、日光市足尾町の渡良瀬渓谷に掛けられていた吊り橋が思い浮かびました。
砂畑橋(渡良瀬川).jpg砂畑橋(渡良瀬川)2.jpg
(日光市足尾町、渡良瀬川に架かっていた旧砂畑橋)

この吊橋の写真は、2002年2月に撮影したもので、青空に白亜の門構えのケーブルを吊る主塔が印象的でした。竣工は主塔部分に銘板が有り、「昭和三十八年三月竣工」と表示されていました。自動車一台通過するのがやっとでした。残念ながら2010年3月に現在の橋(桁橋)に架け替えられ、残念ですが吊り橋は姿を消しました。

テキサス州ウェーコの吊り橋は、この砂畑橋より約100年前に架橋されたものですが、スクラップ&ビルドのアメリカにて、現在まで保護され残されて来ているのも感動です。
グーグルマップには、このウェーコ・サスペンション・ブリッジの表示の下には、ランドマーク・ブリッジと付記されていました。この吊橋はまさに、ウェーコ市の象徴と成る建造物だったのです。
再度、訪れて見たいと思いますが。

参考資料:グーグルマップ
       ウィキペディア「アメリカ合衆国の河川の一覧」「ウェーコ(テキサス州)」など

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上空からの本州四国連絡橋 [橋梁]

先月、北九州空港から羽田へ向かう飛行機の窓から、ひたすら眼下に見える風景を眺めていると、雲の切れ間から瀬戸内海の島々が現れては又、雲の陰に消えていきます。
昨年は、羽田から福岡空港への途中、富士山の姿を窓越しに見る事が出来たので、今回は逆ルートで又、富士山を観られればと計画しましたが、天気予報的には期待できない雲行きでした。
富士山.jpg
(飛行機の窓越しに望む富士山、昨年1月撮影)

飛行機には滅多に乗ることが有りませんが、新婚旅行で北海道に行った帰り、眼下に現れた風景が、まさに日本地図を見ている様で、真っ青な海に緑の山並み、ハッキリと東北の海岸線が見えたときの感激は、今も忘れられません。
そんな気持ちで、ずっと移り変わる雲の行方を追っている内に、島から島へ延びる一筋の線を発見しました。急いでカメラのレンズをズームアップして見る。間違いなく本州四国連絡ルートのひとつ、しまなみ海道の超大吊橋群を捕らえました。
来島海峡大橋.jpg
(瀬戸内しまなみ海道の「来島海峡大橋」、手前が四国側今治市)

「瀬戸内しまなみ海道」は、本州側「広島県尾道市」と、四国側「愛媛県今治市」を、大小七つの橋で結んだ全長約60kmの自動車専用道路ですが、雲の切れ間から姿を現したのは、その一番四国側に当たる、「来島海峡大橋」です。写真手前(下)が四国側に成ります。
写真には連続して三つの吊り橋が写っていますが、手前から「来島海峡第三大橋」(橋長1,570m)、「来島海峡第二大橋」(橋長1,515m)、「来島海峡第一大橋」(橋長960m)で、合わせて「来島海峡大橋」です。

そこから4分程経つと再び雲の切れ間から新たな吊り橋の姿が見えてきました。
瀬戸大橋.jpg
(本州四国連絡橋、児島・坂出ルートの「北備讃瀬戸大橋」)

本州四国連絡橋の3ルートの中で、一番最初に開通した岡山県倉敷市と香川県坂出市とを結ぶ、「児島・坂出ルート」となる「瀬戸大橋」で、ルート上には6橋が架けられていますが、私の視界に現れたのはその中で、四国坂出側の「南備讃瀬戸大橋」(橋長1,648m)と「北備讃瀬戸大橋」(橋長1,538m)です。南側は半分雲に隠れて来ていました。

橋影が視界から消えた後6分程で、今度は神戸市と淡路市とを結ぶ「明石海峡大橋」(全長3,911m)が、眼下に姿を現しました。
明石海峡大橋.jpg
(神戸市と淡路市とを結ぶ、「明石海峡大橋」、主塔の高さは海面上約300mにも)

吊橋の規模を示す中央支間長(塔と塔の間の距離)は1,991mで現在世界第一位に成っています。
考えてもいなかった「本州四国連絡橋」3ルートの橋の一部ですが、上空から見る事が出来てラッキーでした。
今回の旅行の一つの目的は、北九州市の「若戸大橋」を見る事でした。

若戸大橋.jpg
(北九州市の洞海湾に架かる「若戸大橋」。日本で最初の長大橋)

幸い「若戸大橋」を訪れた時は、季節外れの雨が上がった後で、朱色の橋が夕焼けを浴びて、黒い雨雲をバックに浮かび上がって見えました。
「若戸大橋」は北九州市の洞海湾に架かる、若松区と戸畑区を結ぶ橋長が627mの吊り橋で、着工は昭和33年(1958)、開通したのは昭和37年(1962)9月27日、この橋は日本での長大橋のさきがけで、建設当時は東洋一の吊橋でした。
現在で、日本国内には更に大きく長い、多くの長大橋が、架橋されています。

吊橋で、世界的に有名なものは、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコの、「ゴールデン・ゲート・ブリッジ(金門橋)」だと思いますが、私は40年程前に訪れ、その壮大な姿を写真に収めました。
ゴールデンゲートブリッジ1.jpgゴールデンゲートブリッジ2.jpg
(南橋詰より)                    (北橋詰より)

私にとってこの時が初めての海外、それも一人旅でした。ですからサンフランシスコ空港に到着した時、「タクシーはこちらへ」と促され、そこにはリムジンが止まっていて、ホテルまで向かいました。親切な運転士に相応なチップを渡しましたが、あとで考えると、私は白タクの餌食に成ってしまったようです。それでも無事にホテルにたどり着きました。翌日早速今回の旅の一番の目的地「ゴールデンゲートブリッジ」へ。まずホテルの前からタクシーに乗って南側(サンフランシスコ市側)から橋を渡り、北側橋詰に有る展望台へ。しかし、逆光でシルエット状にしか見えない、数枚写真を撮って、すぐに南側橋詰に戻って貰い、タクシーを降りました。必要以上の金銭を財布に入れていなかったので残金が僅かに。仕方なくそこからブラブラとサンフランシスコ湾の波打ち際を歩いて、もう一つの吊り橋「ベイブリッジ」に移動しました。

ベイブリッジ.jpg
(サンフランシスコ市とオークランド市とを結ぶ「ベイブリッジ」)

現在、世界最長の吊り橋は、今回私が上空からわずか1分間程ですが、雲の切れ間から眺めた、1998年完成の「明石海峡大橋」(中央支間長1,991m)、に成ります。2位が1981年完成したイギリスの「ハンバー橋」(中央支間長1,410m)、3位が1964年完成アメリカニューヨークの「ベラザノ・ナロウズ橋」(中央支間長1,298m)、そして4位が1937年完成の「ゴールデンゲート橋」(中央支間長1,280m)、となています。記録はどんどん破られていっています。

今度は是非、現在世界一位と言う「明石海峡大橋」を近くで眺め、渡ってみたいと思います。

※参考資料:「橋のはなし Ⅰ」吉田巌編(技報堂出版)、編者は「本州四国連絡橋公団の理事をされていました。この書籍は吊橋の事が詳しく解説されています。
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岩国の錦帯橋で私、新年早々失敗しちゃいました。 [橋梁]

昨年の正月休みに、長崎の眼鏡橋を堪能して来たので、今年は是非日本三大奇橋のひとつ、山口県岩国市の錦帯橋を見に行こうと、昨年の夏から旅行計画を立て、宿泊も錦帯橋近くのホテルに予約を取って先日行ってきました。
が、私を待っていたのは予想もしていない姿の、錦帯橋でした。その姿が次の写真です。
錦帯橋1.jpg
(橋の高欄部分が全体的にシートで覆われてしまった錦帯橋)
ホテルの部屋から錦帯橋.jpg
(錦帯橋が見えるホテルの部屋を取ったのだけれど)

計画していた時はグーグルマップのストリートビューを使って、撮影ポイントをあれこれ検討、上流側の橋から錦帯橋の全体像を狙おうとか、河原に下りて岩国城をバックに収めるとか、夜はライトアップされ暗闇に浮び上がるアーチ橋を写そうかと、あれこれ考えていましたが、全てあきらめました。確認不足でした。

なぜこんな姿に成っているのか、宿泊したホテルの方が説明してくれました。
錦帯橋は木橋の宿命で、鋼橋やコンクリート橋より寿命が短い為、5年毎に定期点検を行っているが、今丁度その時期に当たっている為で、錦帯橋全てに老朽化調査・保全工事用の吊足場を設置、足場部分や橋の側面をシートで覆っているのだそうです。
確認をしたら錦帯橋の左岸橋詰に、工事概要を記した掲示が建てられていました。それによると工期は「令和元年9月9日から令和2年3月16日まで」と成っていました。

気を取り直して周辺観光へ、まずは錦帯橋を渡ります。橋詰のチケット売り場で「入橋券」往復310円を購入して、あこがれの錦帯橋を渡ります。
錦帯橋入橋券.jpg
(錦帯橋入橋券、この写真の様なライトアップされたアーチ橋を撮影したかった)

1985年9月10日に発行された吉田巌編「橋のはなしⅡ」(技報堂出版)に、この錦帯橋について≪錦帯橋 - 城の代わりの橋≫と題して書かれています。一部抜粋させて頂き紹介いたします。
≪山口県岩国市を流れる錦川に、その名のとおり、川を横切る帯のように架かる見事な橋が錦帯橋です。五径間からなり、中央の三径間が、世界でも珍しい木造のアーチ橋になっています。この錦帯橋はいまは岩国城の城門橋ですが、建設当時(1673年)は城は有りませんでした。歴史は1615年(元和元年)の家康の「一国一城令」にまでさかのぼります。この「令」によって岩国城は廃却されていたので、正確な意味での城門橋ではありません。この「令」より58年後、城をおけない岩国藩の「城」というシンボルの代わりに、この錦帯橋が架けられたのです。(後略)≫
錦帯橋2.jpg
(錦帯橋の中央3径間のアーチ橋は勾配が急の為、部分的に階段状に作られていました)

地形図を見ると、錦帯橋の架かる錦川は岩国市を西から東へと流れていますが、かつて岩国城が建てられていた標高200メートル程の山が北側に突き出て地形と成っていた為、錦川はヘアピンカーブの如く大きく迂回して、山の西麓から北麓を巡り東麓に流れています。岩国城はこの錦川を城の三方を守る堀に見立て建てられてもの。廃城となった後も城山の東麓は吉川家代々の居住地となり、錦川の対岸となる「錦見地区」は城下町として開けています。

錦帯橋を渡ると「横山地区」です、かつて藩主や上級武士が住んでいたところで、今も立派な長屋門などが残っています。川沿いの道を歩いていると、銅像やら胸像、石碑などが並んで建てられていますが、その後方に気になる像が目に留まりました。
佐々木小次郎の像.jpg説明碑.jpg

「剣豪佐々木小次郎の像」です。横に据えられた石碑に説明文が記されています。
≪「先祖以来、岩国の住、姓は佐々木とうう、名は小次郎と親からもらい、また剣名を”巖流”ともよぶ人間は、かくゆう私であるが・・・・・」 吉川英治氏の小説「宮本武蔵」の一説である。 当地では、古くから佐々木小次郎が、ここ錦帯橋畔において、柳の枝が燕を打つのを見て、燕返しの剣法「巖流」を自得したと言伝えられている。≫と。そして又その横に、「岩国城」と題した歌の歌碑がたっています。歌詞がこの地を端的に表していると思いました。

岩国城歌碑.jpg
(佐々木小次郎の像の脇に建つ「岩国城」の歌碑)

そこから「吉香公園」周辺をぶらりと歩いていると、園内には多くの石碑が建てられています。
一番目立ったのが、錦帯橋から50メートル程の、公園入口に長裃姿に大刀を差し、右手に扇子を持ち錦帯橋の方向をジッと見つめる「吉川広嘉公像」です。
吉川広喜公像.jpg錦帯橋記全景.jpg
(「吉川広嘉公像」 左後方に写る石碑が「錦帯橋記」です)(「錦帯橋記」と篆額に有る石碑)

台座の裏側に銅像の人物に付いて説明されてます。冒頭部分だけ紹介します。
≪錦帯橋の創建者吉川広嘉公は旧岩国藩主三代目の領主で1621年第二代藩主広正公の長男として生まれた その天性の聡明さは岩国城を築き岩国の町を開いた藩祖広家公譲りのようである。(後略)≫

その銅像の左後方に見える玉垣をめぐらした石碑が「錦帯橋記」、弘化2年3月(1845年4月)岩国藩士の儒学者「玉乃九華」(名を惇成という)が撰した文を、明治8年9月明治前期の書家「桂洲伊藤信平」が碑文と篆額を書いています。
錦帯橋記(碑文).jpg
(「錦帯橋記」の篆額の文字と碑文を書き写しました)

江戸時代の儒学者が記した文書で、私には読み解く事が出来ませんが、一字一字漢字を拾って読んで行くと何となく内容が分かってきます。しかし読み下し文を書く力は有りません。

園内に建つ他の石碑も見てみます。
さくらの名所100選の碑.jpg日中友好の碑.jpg
(さくら名所100選の地「吉香公園・錦帯橋」)  (「日中友好の架け橋-錦帯橋」の碑)

さくらの名所らしく、吉香公園も錦帯橋の右岸堤も沢山の桜の木、さぞかし桜の咲く時期は見ごたえのある錦帯橋が見られるのだろう、出来ればもう一度桜の咲くころに訪れて見たいものです。
「日中友好の架け橋-錦帯橋」の碑は、中国語・英語・日本語の三ヶ国語で記されています。
日本文を見ると、2004年11月6日、岩国市と杭州市の交流促進のために錦帯橋友好協定が締結された事。なぜ杭州市なのか、それが1673年に創建された錦帯橋の架橋に、杭州市出身の高僧であり医師でもあった独立(どくりゅう)の存在が有っと伝えられている事などが記されています。

今回、残念ながら日本の代表的な名所として、「山は富士、滝は那智、橋は錦帯」と、並び賞される、その橋の優雅さを見る事は叶いませんでしたが、メンティナンス中の時期に来たことで、錦帯橋に対する岩国市民の、錦帯橋に対する強い愛情を知る事が出来た気がします。





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