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隅田川のナイトクルーズ船に乗船しました。 [橋梁]

先日、隅田川ナイトクルーズに参加して、隅田川に架かる橋のライトアップを楽しんできました。
その日はたまたま真冬のような天候になってしまいましたが、完全防寒体制で乗船、当然客室には入らず、上部デッキの最前列に陣取りました。
日が暮れてからのクルージングは、予想以上に冷たい空気が、顔に容赦なく当たってきます。が、ライトアップされた隅田川の橋梁群が見られる興奮が、その寒さを跳ね返してくれます。

船は両国の船乗り場から一度、隅田川を遡り、桜橋の手前でUターン。ここから隅田川を下って河口に向かって行きます。
スタート地点は、東京スカイツリーをまじかに臨む、言問橋ですが、言問橋は残念ながらライトアップされていなかったので、闇の中に沈んで気が付くこともなく、スカイツリーに目を奪われたまま、言問橋の下を通過。
0.東京スカイツリー.jpg
東武スカイツリーラインの鉄橋を通過すると、目の前に三つの滑らかなアーチが、ライトアップで浮き出ています。上路式三連アーチ構造の「吾妻橋」です。
2.吾妻橋1.jpg
橋長は、150.1m 幅員23.4m 竣工したのは昭和5年(1930)です。
欄干の中央部分が、江戸紫色に照明されています。

次に現れるのは、「駒形橋」です。
3.駒形橋1.jpg
吾妻橋が暖かい照明だったのが、一変して青系色に照明されています。
三径間の中央の構造は、アーチの中間に橋桁が位置する中路式、左右の景観は橋桁の下でアーチが支える上路式と言う構造になっていて、リズミカルな印象が有ります。
橋長は146.3m、幅員25.8m 竣工は昭和2年(1927)です。

駒形橋を潜ると、次は「厩橋」が現れます。
4.厩橋1.jpg
三連のアーチで下側の橋桁を支える、下路式構造で、三径間の中央部の桁が青系、両サイドが紫系に照明されて、スッキリとした感じがします。
橋長は151.4m、幅員24.5m 竣工は昭和4年(1929)です。

次に現れるのは、「蔵前橋」です。
5.蔵前橋1.jpg
三径間で橋桁が上部に設けられ、下側になだらかなアーチで支える上路式構造で、大人しい感じの橋です。
中央径間の欄干の照明は緑系で、左右の径間は淡い紫系でしょうか。
橋長は173.4m 幅員23.0m 竣工は昭和2年(1927)です。

蔵前橋を過ぎると、左岸に両国の船乗り場が有ります。この船も最後はこの発着場に戻ってきますが、今はさらに隅田川を下って行きます。船はJR総武線の鉄橋の下を潜り、次は「両国橋」です。が、両国橋はなぜかライトアップされておらず、闇の中に街灯の明かりだけが灯っていました。
船は首都高速6号、7号が交差する「両国ジャンクション」を頭上に見て、先に進んでいくと、前方に黄色く輝く「新大橋」が近づいて来ます。
黄色に照明された橋桁が横一直線に右岸と左岸を結んでいます。その中間より左岸側に寄った辺りにやはり黄色に輝く2本の柱が建ち、そこから橋桁を支持するためのケーブルが斜めに伸びています。
7.新大橋1.jpg
二径間連続斜張橋の「新大橋」です。
橋長は170.0m 幅員24.5m 竣工は昭和52年(1977)になります。

新大橋を過ぎると、隅田川は少し右方向にカーブしているのか、その先から次の橋が見えてきました。
ライン川に架かっていたケルンのつり橋をモデルにした「清州橋」です。
2基の主塔から左右になだらかに垂れ下がるケーブルが、白く照らし出され、紫色に光る中央径間の欄干の上部に優雅な曲線を造っています。
8.清州橋1.jpg
清州橋の近くから、その主塔を見る白色のライトアップが下に下がると、徐々に影となりリベットの頭がその影の中に光浮き出る。上部からのグラデーションが主塔を力強く浮かび上がらせている。
清州橋主塔部.jpg
清州橋は、平成19年(2007)に国の重要文化財に指定されました。
橋長は186.2m 幅員26.1m 竣工は昭和3年(1928)です。

清州橋を過ぎると、目の前に現れたのが「隅田川大橋」です。
この橋は二階建て構造になっていて、上を走るのが首都高9号、下が東京都道475号。
9.隅田川大橋1.jpg
写真左側で、橋脚部に架かる緑色の橋桁が東京都道。その上に照明で白く照らされている橋脚が、首都高部分です。その空間の先に垣間見える橋が、次の「永代橋」です。大きなアーチが青色で照らされています。さらにその奥、写真中央に白く輝いている主塔はその奥の「中央大橋」になります。

「永代橋」です。中央の大きなアーチと、そこから左右に水平に伸びる桁が、青色でライトアップされて、ドッシリとした重量感が漂います。
10.永代橋1.jpg
関東大震災の復興事業で内務省復興局により架け替えられた、隅田川で最も古い橋とのことです。
清州橋と同じくこの永代橋も、平成19年(2007)に国の重要文化財に指定されました。
橋長は184.7m 幅員25.6m 大正15年(1926)の竣工です。

永代橋を過ぎると、川筋はYの字に分かれています。右方向が隅田川、左方向が晴海運河です。中央の高層ビルが林立している所は「「石川島」。船は右側の隅田川に進路を進めます。
その高層ビル群の中に、白く照らし出されている斜張橋の主塔が聳える様に建っています。
「中央大橋」です。
11.中央大橋1.jpg
橋長は210.7m 幅員25.0m 竣工は平成5年(1993)です。

次に現れた橋は、「佃大橋」なんとも飾り気のないシンプルな箱桁橋です。
12.佃大橋1.jpg
橋長220.0m 幅員25.4m 竣工は昭和39年(1964)になります。

船は更に隅田川を下って来ました。現れたのは「勝鬨橋」になります。
13.勝鬨橋1.jpg
三径間で、中央部はかつては橋桁が中央部から分かれ、「ハ」の字に上方に開く構造になっていました。左右の側径間は下路式のアーチ橋になっています。しかし交通量が増えた為、昭和45年に開閉を中止しています。
この勝鬨橋も、平成19年(2007)に国の重要文化財に指定されました。
橋長246.0m 幅員26.6m 竣工は昭和15年(1940)です。

次はいよいよ隅田川の、最下流部に架かる「築地大橋」になります。
14.築地大橋1.jpg
三径間連続中路式アーチ橋の、飛び跳ねる様に大きな曲線を描くアーチ部を赤色の照明を当て、その中央を横に貫く橋桁をスッキリとした白色に照らし、モダンなイメージです。
橋長は245.0m 幅員は32.3m~47.9m 竣工は平成26年(2014)と、新しい橋です。

築地大橋を抜けると、隅田川河口で東京湾に至ります。
ここに来て、右手のビルの合間に暖かなオレンジ色にライトアップされた、東京タワーが姿を現しました。
東京タワー.jpg

東京スカイツリーから始まった「隅田川ナイトクルーズ」、最後は東京タワーで終了です。


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初めて巡る、愛媛・高知 [橋梁]

先日の連休を利用して、初めて四国の西側半分、愛媛県と高知県を訪れました。
香川県の金毘羅神社や栗林公園には、高校の修学旅行で行っていましたから。
今回は2泊3日の予定で、レンタカーを使って、少し気になる橋梁を中心に、観光しましたが結構ハードスケジュールでした。初日・2日と天候に恵まれなかったことも有り、思うように見て周れませんでした。

先ずは松山港にカーフェリーに乗って上陸。そこからレンタカーを駆使して進むことに。と言っても、私自身は助手席で、車窓の移り変わる風景を撮影したり、睡魔と闘ったりしていたのですが。
1.松山港上陸.jpg
<松山港に到着後、車で下船する。前の車のテールランプに続いて四国上陸>

先ずは愛媛県松山といえば道後温泉と言う事で、目的地に向かいます、30分程で市街地に入ってきましたが、道後温泉本館周辺の道路が狭く、駐車場を探すのに同じ道をグルグルと走る羽目に。やっとコインパーキングに止めて、歩いて道後温泉本館前へ出て来ました。建物は現在保存のための改修工事が行われている為、建物全体を覆うテントが設置されていて、明治27年(1894)最初に建てられた、神の湯本館棟のシンボル、屋上に有る宝形造りの塔屋(振鷺閣)は見られず、建屋南面の様子を写真に収めました。。
2.道後温泉本館.jpg

最近は何処に行っても必ず改修工事中になっている時に出くわします。2020年1月に岩国の錦帯橋を訪れ達時も、丁度数年に1度という改修工事中でした。今年4月、比叡山延暦寺を訪れた時も、根本中堂は改修工事の真っただ中で、建物は完全に覆屋に隠れていました。
29.岩国錦帯橋.jpg30.比叡山根本中堂.jpg

次に、道後温泉駅と坊ちゃん列車を見る為、アーケードの商店街を抜け道後温泉駅前へ
3.道後温泉駅と坊ちゃん電車.jpg

この場所には、正岡子規の像や坊ちゃんカラクリ時計、足湯「放生園」等々が有りますが、のんびり見ていられません、いよいよ雨が降ってきてしまいました。車で松山城下近くの駐車場に移動、途中車中から松山城を撮影しました。4.松山城遠望.jpg
<勝山山頂の天守は、慶長7年(1602)から26年の歳月をかけて築城され、現在国の重要文化財>

城山の南山麓に建つ純フランス風洋館「萬翠荘」は、旧松山藩主の子孫、久松定謨(さだこと)伯爵が、大正11年(1922)に建てた別荘で、見事な建物です。
5.晩翠奏荘.jpg

雨が、本格的に降ってきたので観光を諦めて、まずは四国の西に出っ張る、佐田岬半島の付け根、八幡浜方向に、車を進めていきます。途中是非寄りたい街が、「大洲」です。旅行ガイド本には、<清流肱川沿いに開けた小京都>と出ている街です。
肱川(ひじかわ)の流れに突き出た小丘上に、現在天守閣が復元されて建っています。
6.肱川橋.jpg
<岸辺に屋形船が並ぶ川が、肱川。手前に架かる橋は「肱川橋」。その先、川の流れの中に突き出た小丘の上に天守が見えます。>
天守閣部分をズームアップして、写真に収めます。
7.大洲城.jpg
<復元された大洲城天守閣です。>
私がこの地を選んだのは、肱川対岸の河原、この大洲城天守閣を望む緑地公園に建つ、松根東洋城の句碑を見てみたかったからです。
栃木市の太平山謙信平にも、松根東洋城の句碑が建ています。2020年4月24日に書いたブログ「太平山謙信平に建つ石碑を巡る」の中で、紹介しました。
松根東洋城は、父親が大洲裁判所の判事だったため、明治25年に大洲小学校を卒業しています。
残念ながら雨が強くなってきたので、河原に下りるのを断念しました。
上掲の肱川の写真にて、左側石垣の様な堤防の内側には、かつての大洲城の城下町が形成されています。ここに、「おはなはん通り」と呼ばれる通りが有ります。
1966年の4月から、NHK朝の連続テレビ小説第6作「おはなはん」のロケ地になった街並みです。
8.おはなはん通り.jpg
この通りは、明治・大正の面影を残しています。

ここからは、進路を海岸線から山中に方向を変え、四国の清流「四万十川」を目指す事に。四万十川には、川の増水時に水面下に沈む「沈下橋」が多数渡されています。支流を含めてその数は47とも48とも言われます。
今回はその中で観光するのに車が駐車出来て、河原に下りやすい「勝間沈下橋」を見てきました。
9.勝間沈下橋.jpg
勝間沈下橋は全長171.4メートル、幅員4.4メートル。架橋年は昭和40年。橋は水中に沈下した際、川の流れを妨げない様欄干が有りません。見ている時に自動車が対岸から渡ってきましたが、見ている私の方がハラハラしてしまいました。
勝間沈下橋を後に、ここから四万十川に沿って下流に進み1日目の宿の有る、四万十市中村に架かる「四万十川橋」通称「赤鉄橋」を望むホテルに。部屋の窓から四万十川の流れと、右手に赤褐色に塗装された9径間、橋長507.2メートル、幅員5.5メートルの鋼トラス橋が見えます。
10.四万十川橋.jpg
左手奥には、雨に霞んで、「四万十くろしおラインの宿毛線」の橋梁が見えました。

旅行2日目の朝、やはり今日も雨、本日最初の目的地は、四国最南端足摺岬展望台。
四万十川を下り、途中から国道321号、足摺サニーロードを南進。県道27号線で中浜・足摺岬方面へ。
11.足摺岬.jpg
足摺岬展望台から、雨天の為前方に広がる太平洋と空との境が、モノトーンに繋がっています。手前には岩間に波しぶきを上げ、渦を巻く海面。断崖絶壁の上に建つ白亜の灯台。荒々しくも何故か静寂に包まれた世界が広がる感じがしました。

なかなか止まない雨に急かされる様に、足摺岬を後にします。先程通ってきた道を戻るように、四万十川に向います。高知方面に進むには必ず四万十川を渡らなければ。
最も河口に近い「四万十大橋」渡ります。
12.四万十大橋.jpg
四万十大橋は、橋長687メートル。PC連続8径間有ヒンジラーメン箱桁橋。幅員は8.75メートル(歩道含む)
橋の写真を撮るため、左岸橋詰の公園に車を止めて、橋の親柱のモニュメントを、強風に傘を取られながらやっとの思いで撮影してきました。天気が良ければ橋の中央辺りまで行って、四万十川を真正面から撮りたかったのですが。
13.四万十大橋親柱のあかめ.jpg
親柱に付いた巨大な魚のモニュメント。四万十川の下流域で成長する「アカメ」という魚だそうで、目の部分が赤くなっています。大型になると全長1.3メートル、体重は30kgを越えるそうです。

四万十川の川面を吹き抜ける風はとても冷たく、逃げるように四万十川を後にしました。

次の目的地は一気に高知市・南国市を通過して東側の香南市長須町手結港へ、この港に有る可動橋を見に行きます。
14.可動橋1.jpg15.可動橋2.jpg
手結港の可動橋は、おおむね1時間の間隔で開閉する様で、私が到着した時は橋は大きく上がった状態でした。私たち以外にも見学に訪れた人たちで、駐車場には結構車が止まっていました。ここで可動橋が下がるのを待って、通行が再開した風景を収めて来ました。

2日目の宿泊地、高知駅近くのホテルに到着。部屋に荷物を置いて、今日の最後の目的地へ。
土佐の高知と言えば、ペギー葉山さんが歌う「南国土佐を後にして」に歌われ、一躍全国区になった「はりまや橋」です。四国高知に来たら、ここは外せません。
いつの間にか雨も止んで、夕暮れとなった高知の街に出かけます。
JR高知駅南口より、路面電車が走るはりまや通りを、800メートル程歩くと、通りの右手脇に鮮やかな朱色に塗られた橋が見えてきました。
16.はりまや橋.jpg
「はりまや橋」はかつての堀川に架けられた橋。堀川は1960年代下流部を除いて、大半が埋め立てられて現在は、「はりまや橋公園」として整備され、この朱塗りの橋は平成10年(1998)に、江戸時代から明治末期までかかっていた木造橋を再現したものです。
手前に建てられているモニュメントは「純信お馬像」。よさこい節で、<土佐の高知の はりまや橋で 坊さんかんざし 買うを見た よさこい よさこい>と、歌われる純信とお馬さん、恋物語の主人公二人を、高知市出身の漫画家「横山隆一」氏がデザインしたものです。

又、通りの反対側にはペギー葉山さんの「南国土佐を後にして」の歌声が1時間おきに流れる歌碑や歌に合わせて潮吹きをする親子鯨のモニュメント、そして明治の末に架けられ、昭和初期の路面電車開通と共に撤去された、鋳鉄製の「はりまや橋」も有ります。
32.大正期のはりまや橋.jpg31.現在のはりまや橋.jpg
そしてもう一枚の写真は、現在のはりまや橋通りに建つ、御影石の重厚な欄干になります。

ホテルに帰る途中、江ノ口川に架かる「高知橋」から眺めた西の空、夕焼けが川面に映り、川岸のヤシの街路樹がシルエットに写し出されています。明日はやっと晴れ間が見られそうです。
17.高知市街地夕景.jpg

3日目、今回の旅も最終日、本土に向けて出発。先ずは車窓から高知城の雄姿を狙います。やっと青空を見る事が出来ました。
18.高知城.jpg
高知城は、初代土佐藩主山内一豊が築いた城で、重要文化財に指定されています。土佐二十四万石、本丸内の建造物が当時のまま全て残る全国唯一の城だそうですが、今回はゆっくり見られません、出来れば今度は四国の城郭巡りを計画したいと思いました。

土佐の高知を後にして、一気に四国の中央を縦断して、瀬戸内海側に出て、本土に渡るため今回は、橋梁巡りの最後、しまなみ海道の橋梁郡を堪能しながら、渡って行きます。
しまなみ海道の四国側の起点は、今治市です。そこでせっかくなので、今治城の姿を一目見て行く事にしました。
19.今治城.jpg
今治城は、城を囲むお堀の幅が広く、瀬戸内海の直ぐ脇に築城され、お堀には海水が引かれ、船入も備えられた海城。
お堀の脇の道路に車を停車させ、記念の写真を撮りました。

いよいよ、瀬戸内海を渡る「しまなみ海道」へ、と気持ちが前のめりになるのを抑えて、先ずは最初に渡る「来島海峡大橋」全体が見渡せる展望台を目指す事に。
20.来島海峡大橋.jpg
写真は来島海峡大橋の今治側橋詰近くにある展望台から撮影。
<来島海峡大橋は、大島と今治の間約4kmの来島海峡に架かる、総延長4.1kmの3つの吊橋の総称になります。
上空を飛ぶ飛行機から撮影した来島海峡大橋の写真が有ります。昨年7月に撮ったものです。
21.上空からの来島海峡大橋.jpg
飛行機の窓越しに精一杯ズームアップした写真で、少し見難いですが、三つの吊橋が一直線に繋がっている様子が分かります。写真右側が今治で、左側が大島になります。

展望台からの吊橋の美しさと、そのスケールの大きさを実感して、いよいよ高速道路に入り、しまなみ海道の、色々形式の異なる橋梁を走り抜けていきます。
展望台から見た、来島海峡大橋を渡ります。橋梁の側道をサイクリングする人がいます。
33.来島海峡大橋を渡る.jpg

次の橋は、伯方・大島大橋で、伯方橋(橋長325m、箱桁橋)と大島大橋(橋長840m、吊橋)の2橋の総称です。
22.伯方大島大橋.jpg

次に渡るのが、大三島橋(橋長328m、アーチ橋)
23.大三島橋.jpg

次は多々羅大橋になりますが、その前に大三島ICで一度高速道路から降りて、トイレ休憩を兼ね、多々羅大橋が見える、道の駅今治市多々羅しまなみ公園に立ち寄りました。
24.多々羅大橋.jpg
写真を見ればわかるように、この橋は斜張橋になっています。
この橋は中央支間長890mで、1999年完成時は世界最長の斜張橋です。
この道の駅には、「サイクリストの聖地」の碑が建てられ、その碑と橋をバックに多くのサイクリストが愛用の自転車と一緒に、記念写真を撮っていました。

多々羅大橋を渡ります。
多々羅大橋は橋長1480m、塔の高さは226mも有ります。
その塔の形がスラッとそびえていて、とても美しく感じました。
次の生口橋も同様に斜張橋です。こちらは、少し小ぶりで、橋長が790m、塔の高さは127mです。
25.多々羅大橋主塔.jpg26.生口橋.jpg

次は、因島大橋です。橋長1270m、吊橋です。
27.因島大橋.jpg
この因島大橋が、本州四国連絡橋の最初の吊橋として1983年に完成しました。

そしていいよしまなみ海道の一番本州側に架かる、新尾道大橋を渡ります。この橋も斜張橋です。橋長546m、塔の髙さは77mです。
28.新尾道大橋.jpg
そして、写真右側に見える橋は、尾道と向島を結ぶ尾道大橋になります。昭和43年(1968)3月に開通した、尾道水道(幅約200m)を渡る橋になります。

これで、瀬戸内海を渡り本州に上陸しました。最終日は天候にも恵まれ、色んな形式・形状の橋を見て・渡って、素敵なドライブが出来ました。又出来れば四国を訪れたいと思います。

今回参考にさせてもらった資料は
・本州四国連絡高速道路㈱ホームページ「しまなみ海道」
その他、現地にて収集した観光パンフレット。

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勝鬨橋を歩いて渡る [橋梁]

昨年、九州旅行をいた際、関門海峡を望むホテルに宿泊をしました。
部屋の窓から、海峡を行き来する船や、関門橋が見え、眼下には門司港の観光スポットのひとつ、「ブルーウィングもじ」が有ります。
ブルーウイングもじ.jpgブルーウイングもじ銘板.jpg
(ホテルの窓越しに撮影、奥に関門橋、手前の青色の支柱が立つ橋が、「ブルーウィングもじ」です。親柱に取り付けられた「ブルーウィングもじ」のプレート)

関門海峡日本遺産協議会発行の観光パンフレットに、<全長約108m、全国で最大級の歩行者専用はね橋です。1日に6回、音楽に合わせて橋が上がります。橋が跳ね上がって閉じたのち、1番目に手をつないで橋を渡ったカップルは一生結ばれると言われ、「恋人の整地」に選定されました。>と紹介されています。
「ブルーウィングもじ」は、平成5年(1993)10月に架橋。中央付近から左右に橋桁が跳ね上がります。親橋は長さ約24mでワイヤーウインチ式、小橋は長さ約14mで油圧シリンダー式、約60度まで跳ね上がると言います。残念ながら私は日程の関係で、この橋の開閉を見る事は出来ませんでした。
夜のブルーウイングもじ.jpg
(関門海峡の夜景、奥に「関門橋」のケーブルの存在を知らせる照明が暗闇に弧を描いて点灯しています。足元の「ブルーウィングもじ」の支柱が、ライトアップされ綺麗なブルーを見せてます。)

こうした可動式の橋は、日本各地に跳ね上がり式や回転式等色々ありますが、その代表的な物は、隅田川に架かる「勝鬨橋」だと思います。残念ながら道路の通行量等諸般の理由により、昭和45年11月29日を最後に開閉が中止されています。
平成19年(2007)6月18日、国の重要文化財に指定されています。

勝鬨橋全景.jpg
(現在の「勝鬨橋」、隅田川の最下流に架かる「築地大橋」から、上流側「勝鬨橋」を撮影。橋の後方に多くの高層ビルが並んでいます。)

1990年7月隅田川舟下り.jpg
(平成2年(1990)7月、家族で隅田川の船下りをしたときに撮影した「勝鬨橋」です。約30年前ですが、まだまだ高層ビルは少ない感じです。)

昭和45年(1970)前後、私は年に1、2回当時晴海ふ頭に有った東京国際見本市会場に行っていました。
そこでは、「東京モーターショー」や「エレクトロニクスショー」「省力機器展」等が開催されていて、東京駅丸の内側から、会場までの無料シャトルバスが運行されていて、それを利用して行き来していました。
1晴海国際見本市会場.jpg2晴海国際見本市会場.jpg
そんな当時、昭和48年(1973)9月初めて晴海通りを歩き、勝鬨橋を渡って晴海の見本市会場に向いました。
その時撮った写真が有ります。
勝鬨橋(昭和48年9月)2.jpg勝鬨橋(昭和48年9月)1.jpg
上の写真2枚目は。勝鬨橋の上から下流側に向って撮影したものです。写真左奥の高層ビルは「国際貿易センタービル」で、他に高い建物は有りません。右端に霞んで写るのが「東京タワー」です。
現在は、車道と歩道の間を区切る遮蔽物が設置されていますが、この写真ではまだ何もありません。

最近、約50年ぶりに「勝鬨橋」を渡ってきました。今回撮影した写真と同じ場所では有りませんが、比較して下さい。
勝鬨橋(令和4年12月)2.jpg勝鬨橋(令和4年12月)1.jpg
(2枚目の写真は「勝鬨橋」の上から上流側を撮影、中央奥に「中央大橋」(斜張橋)の主塔が見えます。車道と歩道を区切る遮蔽柵が設置されています。)

高欄の飾り1.jpg高欄の飾り2.jpg
(上の写真は、歩道と車道を遮蔽する柵に施された、勝鬨橋の開閉をデザインした飾り絵)

昔の写真と良く比較すると街灯の形も変わっています。現在の方が重厚そうです。

勝鬨橋の右岸橋詰に、「かちどき 橋の資料館」が有ります。無料で見学する事が出来ます。
かちどき橋の資料館.jpg

資料館では、100分の1スケールの「勝鬨橋」の模型が展示されていて、手前の押しボタンを押すと、解説と同時に模型の勝鬨橋が開閉し、開いた後その下を船が通過する様子が再現されます。
全開の勝鬨橋.jpg閉じた勝鬨橋.jpg

その他、「勝鬨橋」の橋梁構造や機械設備、電気設備等の写真パネルの展示や、映像コーナーでは橋建設の歴史や開閉の仕組みが分かりやすく説明する映像を視聴できます。
資料館内の様子.jpg
(資料館内の様子。勝鬨橋の開閉を担っていた「直流発電機」が、当時のまゝ保存・展示されています。)

資料館を見学して、橋の名前の由来や、建設目的、河道橋にした理由等を知ることが出来ました。
勝鬨橋、左岸下流側より.jpg
(勝鬨橋を左岸下流側より撮影)
外の隅田川に架かる橋とともに、夜はライトアップされている様なので、今度機会が有ったら見に行きたいと思います。

<参考資料>
・「北九州市・下関市 日本遺産」観光パンフレット 発行:関門海峡日本遺産協議会
・「かちどき 橋の資料館」 パンフレット 発行:東京都建設局道路管理部/(公財)東京都道路整備保全公社



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渡良瀬遊水地内の水路に架けられた橋を巡る [橋梁]

2023年は穏やかに迎える事が出来ました。新年最初は栃木市南端に広がる渡良瀬遊水地内に架けられた橋を巡りたいと思います。

渡良瀬遊水地は、栃木市の南の端、群馬県や埼玉県などとの境界に位置します。栃木の市街地から行くには、車で片道1時間ほど必要です。子供達が小さかった頃は、良く出かけていました。一度家から自転車に乗って行った事が有りますが、帰りは北に向かう為、僅かな登り勾配に成る。子供達は元気だったのに、私の膝関節が悲鳴を上げ、途中大平町辺りで休憩を取る羽目になった覚えが有ります。
芦原を家族で.jpg
(平成10年(1998)1月、渡良瀬遊水地内の葦原をサイクリング)

渡良瀬遊水地は、面積約33平方キロメートル、南北約9キロメートル、東西約6キロメートル、周囲の長さ約30キロメートル。日本で最大級の遊水地です。
遊水地には、渡良瀬川を始め、思川や巴波川などの河川が流入、遊水地内で合わさって約4キロメートル下流にて、利根川に合流しています。そして遊水地内にはハート型の谷中湖も有ります。
渡良瀬遊水池案内板.jpg
(少し古いですが、遊水池の説明板です。)
渡良瀬遊水池(谷中湖)は、広さ約4.5平方キロメートル。池の外周距離は約9.2キロメートル。

渡良瀬遊水地の「地」を書いた表現は、葦原を含めた遊水地全体(約3,300ha)を示して、「池」を付けた場合は谷中湖部分(約450ha)を表す区別になっている様です。

この広大な遊水地内に架けられた橋を、今回巡って行きます。これまで何回も出かけて現地確認をしてきた結果、名称がハッキリしている橋の数は21か所有りました。この中には現在通行できない橋も含まれています。
思川に昔架けられていた「松原橋」は、上流に「松原大橋」が出来た為、後に撤去され現在は有りませんので、除外しています。
松原橋1(思川).jpg松原橋(思川).jpg
(現在は撤去されている「松原橋」。1993年10月撮影)

それでは、渡良瀬遊水地内に架かる橋を見て行くに当って、先ずはそれらの橋の分布状況が分かるように概略図を作成しました.
渡良瀬遊水地内の橋の地図.jpg
(渡良瀬遊水地内の橋分布図)
先ずは主役ともいえる「渡良瀬川」を辿って行きます。
渡良瀬川は遊水地の北西端、「藤岡大橋」の下を抜け遊水地に流入してきます。そこから遊水地の中央部を南東方向に流れ、遊水地の東で北東方向から流れて来た思川と合流して向きを南に変え、谷中湖の東側を南流し。渡良瀬遊水地の南東端にて「三国橋」の下を流れ南側を流れる利根川に合流します。
このメインの河川「渡良瀬川」に架かる橋の最初は「西赤麻橋」に成ります。
西赤麻橋(渡良瀬川).jpg
渡良瀬遊水地内の葦原を貫く一本の道路、その先にそびえる山は茨城県の霊峰「筑波山」です。直線距離でここから約38キロメートル東方に成ります。目的の「西赤麻橋」は目立ちませんが前方の黄色に染められた円柱の処に成ります。
西赤麻橋1(渡良瀬川).jpg西赤麻橋下流側の流れ(渡良瀬川).jpg
橋の近くに寄ってもう一枚写します。橋の両サイドに車幅制限用の支柱、橋からの転落防止の為の簡単な高欄が設けられています。写真右手に見える建物は「第三排水門」に成り、橋が架かるこのエリア―は「第3調節池」と呼ばれる地域です。もう一枚の写真は「西赤麻橋」の上から下流側を写しています。渡良瀬川がゆったりと流れています。

次は「新赤麻橋」です。1988年3月の銘板が設置されていました。先程の「西赤麻橋」とは打って変わって川の両側に立派な堤防を持った橋です。
新赤麻橋(渡良瀬川).jpg
上の写真は下流側右岸堤防上よりの遠望です。
橋の後方に「岩船山」、その奥にかすんで写るのは、雲の上に頭を出した日光連山の山々です。
新赤麻橋1(渡良瀬川).jpg新赤麻橋2(渡良瀬川).jpg
「新赤麻橋」をさらに近くの下流側右岸から写した写真と、橋上から渡良瀬川上流方向を写した写真です。前に紹介した「西赤麻橋」と、橋も川の風景も全く違っていますが、渡良瀬川の流れそのものは、同じようにゆったりと流れている感じがします。
この橋は5径間の中央の橋桁の幅員が、他の桁の幅員より2メートル程広くなっています。なぜ中央径間のみ幅が広く採ってあるのか、この橋左右の2径間部分が幅員が狭く乗用車が1台しか通れないのに橋長が長い事で、両側から同時に渡って来た時、中央部の幅員を広くすることで、すれ違い出来る様にしたものと思われます。

次の橋は「赤麻橋」です。現在この橋は封鎖されて通行できません。この橋は先の「新赤麻橋」の下流側300メートルに有り、「新赤麻橋」の完成で、その役目を終えたものです。
赤麻橋(渡良瀬川).jpg
上の写真は新赤麻橋の上より移した「赤麻橋」の写真です。
赤麻橋1(渡良瀬川).jpg
「赤麻橋」通行できない様封鎖されています。この橋も前の「西赤麻橋」同様、橋の高欄が御情け程度に張られたワイヤーロープです。こうした簡単な高欄しかない理由は、これらの橋が増水時に水をかぶってしまった場合でも、水の流れに極力邪魔に成らない配慮をした構造だからと思われます。このような形の橋はこの後紹介する橋にも言える事です。

次は渡良瀬川の4カ所目、遊水地の東の端に架かる「野渡橋」です。この橋の直ぐ上流側に思川との合流点が有ります。
野渡橋(渡良瀬川).jpg
この橋は結構自動車の通行が有りました。その為か歩行者用の通路帯が確保されています。また、写真に有る通り大型車両が渡れない様に、幅員制限のゲートが橋の両側に設置されていました。
思川との合流点(渡良瀬川).jpg
上の写真は、「野渡橋」の上から上流側を写したもの、写真左から渡良瀬川、右側から思川が合流しています。

巴波川は渡良瀬遊水地の北側に架かる「巴波橋」の下流から南流して遊水地内に入ってきて、渡良瀬川左岸に合流しています。その途中1カ所「石川橋」が架かっています。巴波川は大正7年(1918)に藤岡大地を掘削して、藤岡新川として通水が始まりました。それまでの部屋や新波・白鳥の集落内を蛇行して流れていた旧巴波川の河道は、今は僅かにかつての河岸の面影を残すだけとなっています。(前出の概略図上に、巴波橋付近から南西方向に蛇行して描かれた破線が旧巴波川の河道に成ります。)
石川橋(巴波川).jpg
上の写真は、遊水地内流れる巴波川の右岸堤防上より石川橋を撮影したもので、巴波川は左から右に流れています。この橋も増水時には水をかぶる潜水橋で、車が通れるだけの簡単な構造です。
石川橋下流の巴波川.jpg
上の写真は「石川橋」の上から下流側の巴波川の流れを撮ったものです。遊水地内を流れる巴波川は予想以上に細く感じました。

渡良瀬遊水地の東の縁に沿うように流れる「思川」は、松原大橋の下流に架かっていた、前述の「松原橋」が撤去された現在、遊水地内に架かる橋は無くなりました。

一方渡良瀬遊水地の西側からは、板倉川と谷田川が遊水地内に流れ込んでいます。丁度谷中湖の北西部辺りから流入した板倉川は谷中湖と西側の周囲堤との間を南流、途中で谷田川の流れと合流、谷中湖の南端にて、遊水池(谷中湖)や池内水路からの水を合せて遊水地の南端、三国橋の上流部にて、北側から南流してきた渡良瀬川の右岸に合流しています。この間の橋の数は一番多く5橋を数えます。
上流側から見て行きます。最初は「思い出橋」です。この場所にどのような思い出とする歴史が有っ他のだろうか。楽しい事か、悲しい事か。この橋で何を思い出すのでしょうか。

想い出橋(谷田川).jpg
1993年の12月に子供たちと遊びに来た時、この「思い出橋」の写真を撮っていました。現在は川の周辺は草木が生い茂っていますが、以前の写真はスッキリと見通せて、橋全体の姿も見る事が出来ました。
想い出橋1(谷田川).jpg想い出橋2(谷田川).jpg
昭和63年(1988)渡良瀬遊水池総合開発事業周辺環境整備工事が始まり、谷中湖周辺が一般に開放されたのが平成3年(1991)4月28日の事です。ですから私たちが遊びに来たのはまだ整備されたばかりの頃だったので、「思い出橋」の白亜のスッキリとした姿を見る事が出来たのでした。

次の橋の名前も凝っています。「まごころ橋」です。遊水地内の橋では一番新しい橋の様です。
まごころ橋(谷田川).jpgまごころ橋の由来(谷田川).jpg
親柱に谷中湖のハートの形がデザインされています。右岸下流側親柱に「まごころ橋の由来」を記したプレートが取り付けられています。
<平成16年10月、渡良瀬貯水池(谷中湖)において埼玉県北川辺町実行委員会によって第59回国民体育大会「彩の国まごころ国体」セーリング競技会が開催されました。この国体開催を記念して、橋名をその埼玉国体の愛称に因み「まごころ橋」と命名しました。> なるほどね。
このように橋の名前の命名由来を表示して頂くと、とてもありがたいのですが。

三番目は「下宮橋」です。この橋は渡良瀬遊水地の西側から谷中湖畔に入る中心的な場所に有り、東武日光線柳生駅からのアクセスも良く、中央エントランスから入場、橋の西詰には駐車場やトイレも完備されています。
下宮橋と西橋(谷田川).jpg
中央エントランスの堤防の上より「谷中湖」を望む。手前の茶褐色の高欄を持つ橋が「下宮橋」。その先に白く見える高欄が有るのが、谷中湖内に架かる「西橋」。更にその奥木立が生い茂っている所が、谷中湖中央部に有る「中の島」に成ります。
下宮橋(谷田川).jpg
上の写真が「下宮橋」、下を流れる川が「谷田川」です。

この橋も29年前に撮影した写真が残っていました。右岸橋詰より上流方向を撮影しました。現状は川岸の木々が生い茂り視界が妨げられていますが、以前は写真の様に「谷田川」を見通す事ができます。
下宮橋2(谷田川).jpg下宮橋1(谷田川).jpg

四つ目の橋は「谷田川橋」です。川の名前をそのまま橋名にしています。谷中湖の南の端に位置します。
谷田川橋(谷田川).jpg

5番目の橋は谷田川の左岸に、谷中湖の東側に沿う池内水路や谷中湖南端の「貯水池機場」からの流れを合流させ、巨大な第一排水門を抜けた後に架けられた「柏戸橋」ですが、この橋も現在は通行止めとなっています。
第一排水門.jpg柏戸橋封鎖(谷田川).jpg
上の写真は「第一排水門」と「柏戸橋」の封鎖の様子を撮影したものです。
「第一排水門」は谷中湖を含む第一調節池内の水の排水を制御する水門で、この水門の下流に「柏戸橋」が架かっています。さらにその下流にて北側から流れて来た渡良瀬川の右岸に合流していきます。
柏戸橋(谷田川).jpg
上の写真は、第一排水門から下流側を写しました。手前が「柏戸橋」です。その先に渡良瀬川に架けられた「三国橋」(左側)や「新三国橋」(右側)を望むことが出来ます。

次はハート形をした遊水池(谷中湖)に架かる3橋を見て行きます。これらの橋は池の中に有る「中の島」と、北・西・東の三方向から結ぶ通路に架けられました。
遊水地内に水を蓄えた貯水池(谷中湖)が姿を現したのは、昭和が60年代を迎えたころの様です。戦後の昭和22年(1947)9月、カスリーン台風による大洪水で渡良瀬遊水地周辺は、向古河・海老瀬・部屋・生井で堤防が破れ、大きな被害をもたらしました。(前出の概略図の堤防が決壊した地点に赤色の×印を表示しています。)
その後渡良瀬遊水地の強化を図るべく、昭和38年(1963)渡良瀬遊水地調節池化工事が着工しました。それから20年以上の月日を経て、ハート型の遊水地の姿を現したのでした。

先ず「北橋」は、遊水池北側に有る「谷中村史跡保全ゾーン」や「子供広場ゾーン」と「中の島」を結んでいます。
北橋(渡良瀬遊水池内).jpg
上の写真は「北橋」の上から北方向を写しました。橋の左右に湖面が広がっています。左手奥に写る白い建物は「北水門」に成ります。
北橋2(渡良瀬遊水池内).jpg北橋1(渡良瀬遊水池内).jpg
上の二枚の写真は橋の様子を写したもので、池の西側からと、橋の北西橋詰からで、橋は3径間になっています。池内3橋の中では一番短い橋に成ります。

「西橋」は遊水池の西側と「中の島」とを結んでいます。渡良瀬遊水地の西側には、遊水地に沿って県道が走っている為、アクセスポイントが複数有ます。その中でこの「西橋」は「中央エントランス」と結ばれている為、多くの利用者が訪れる場所に成ります。
西橋(渡良瀬遊水池内).jpg
上の写真は「西橋」を南方向から写しました。橋の後方に多くの山脈が写っています。近い所では、写真右手に「岩船山」や太平連山の「馬不入山」、そして左側には「三毳山」や「諏訪岳」。その後方にかすんで見えるのが、日光連山の「男体山」や「女峰山」などに成ります。
西橋2(渡良瀬遊水池内).jpg西橋1(渡良瀬遊水池内).jpg
上の二枚の写真は「西橋」を近くによって写したもので、後の写真は1993年12月に撮影したものです。

そして「東橋」です。この橋は今回初めて渡りました。「北橋」や「西橋」は何度も渡っていますが、東側にはなかなか足が向きません。
東橋(渡良瀬遊水池内).jpg
上の写真は「北橋」上から「東橋」を写しています。後方の木立から野木町の国の重要文化財に指定されている「ホフマン式煉瓦窯」の煙突がのぞいています。
東橋1(渡良瀬遊水池内).jpg東橋2(渡良瀬遊水池内).jpg
「東橋」の上から真直ぐ伸びる道路は、「西橋」から続いて谷中湖を南西側から北東側に横断しています。橋の高欄に設置されている背の高いフェンスは、以前は有りませんでした。現在も「北橋」には設置されていませんが、「西橋」と「東橋」に設置されました。設置理由は確認していませんが。転落防止なんでしょうか。でしたら「北橋」もと、考えますし。

次に谷中湖の北側、ハート型のへこんでいるところ。「谷中村史跡保全ゾーン」内の水路にも観光用でしょか木橋が三箇所架かっています。
橋の名前は旧谷中村の地名や社寺の名称になっているようです。
「鎌立橋」これは地名です。「延命橋」これはお寺の名前「延命院」から。そして「雷電橋」は「雷電神社」からです。
鎌立橋(旧谷中村跡).jpg
上の写真は「鎌立橋」、延命院共同墓地内に建つ庚申塔に<下野國都賀郡小山庄 古川・鎌立 両講中>と刻まれています。
延命橋(旧谷中村跡).jpg
上の写真は「延命橋」
雷電橋(旧谷中村跡).jpg
上の写真は「雷電橋」 

渡良瀬遊水地内には、他にも池内水路が幾つも流れています。これからはそんな遊水池内水路に架かる橋を見て行きます。
最初は巴波川の西側をほぼ並行して流れる水路に架かる「東赤麻橋」です。
東赤麻橋(江川).jpg
この橋は、第三遊水池内で、巴波川に架かる「石川橋」から西に伸びる道路上に架かっています。遊水地の北側から流入する「江川」の下流に位置するものと思われます。
東赤麻橋1(江川).jpg東赤麻橋2(江川).jpg
上の写真は東赤麻橋の上から、上流側、下流側の水路の風景を写したもので、かつて漁に使った小舟が川岸に放置された状態になっています。明治のころ前は「赤麻沼」や「石川沼」など大小の湖沼が点在する湿地だった所で、舟を使った漁も盛んなところだった様です。

次は渡良瀬川の西側を流れる池内水路で、下流域は谷中湖の東脇に沿って流れ谷中湖の南端部にて谷田川に合流している水路です。
「谷中橋」は渡良瀬遊水地のほぼ中央部を、西側の「北エントランス」から入り、西から東にほぼ一直線に横断する道路が、上記の池内水路を渡る場所に架かる橋で、現在は上流側を迂回する道路が造られて、元の谷中橋は通行止めになっています。
谷中橋(地内水路).jpg
上の写真は、現在は通行できない「谷中橋」で、上流側のう回路から撮影しました。この橋の下あたりで釣りをしている人が数人釣り糸を垂らしていました。
地内水路(谷中橋上流部).jpg
上の写真は「谷中橋」上流側う回路から水路の上流側の風景を写した写真です。水路の中に漁網らしきものが設置され、川舟の姿も見えます。手前に横に連なる山脈は「三毳山」。右方向に見える円錐状の山は岩舟町小野寺の「諏訪山」と思われます。

「谷中橋」の直ぐ下流側で、水路は南方向と西方向とに分流しています。
地内水路(谷中橋下流部).jpg
上の写真で、右手奥に向かう水路は、谷中村史跡保全ゾーンの北側を西に流れ、北水門を抜けて、谷中湖に流れ込んでいます。その途中に架かる橋が「西谷中橋」に成ります。
西谷中橋とウォッチングタワー(地内水路).jpg
「西谷中橋」の北西側橋詰に建つ「ウォッチングタワー」は、渡良瀬遊水地を高所から展望できる施設です。下の写真はそのタワーの上から「西谷中橋」を写したものです。
西谷中橋(地内水路).jpg

一方分岐で写真左方向に流れ、谷中湖内の「東橋」から北東に伸びる道路が、谷中湖の東側の池内水路と交差する地点に架かる橋が「東谷中橋」です。
東谷中橋(地内水路).jpg
この「東谷中橋」は、昭和60年の頃は現在の地点から下流側に架かっていました。が、平成5年頃には現在の場所に架かる橋の名前になっています。以前架かっていた場所にはその名残は有りません。
地内水路(東谷中橋下流部).jpg
上の写真は「東谷中橋」から池内水路下流方向を写したものです。ここにも釣り人の姿が有りました。

最後21番目の橋は「下生井橋」です。第2調節池内を流れる水路に架かっています。この水路は生井の桜堤辺りから遊水地内に流入する「与良川」の下流に成ります。
下生井橋(地内水路).jpg
この第2調節池は近年、コウノトリのつがいが人工巣塔に住み着いて、孵化したヒナを育て、無事に成長して巣立つ様子がニュースとなって、連日多くの見学者が巣立ちの様子を見守っていました。
コウノトリ2.jpgコウノトリ1.jpg
上の写真は昨年の6月1日に、生井の桜堤に出かけた時に撮影しました。この数日後に成長したヒナが巣立ったそうです。

最近、20年以上前に家族4人でサイクリングを楽しんだ、渡良瀬遊水地の葦原を一人で歩いて来ました。懐かしいあの日の事を思い出しながら。葦原に冷たい北風が吹いていました。
葦原を歩く.jpg

参考資料:
「渡良瀬遊水地 ~生い立ちから現状~」 財団法人渡良瀬遊水地アクリメーション振興財団編集発行
「渡良瀬遊水地ガイドマップ」 同上
国土地理院発行5万分1地形図 「古河」平成11年2月1日発行

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隅田川のサンセットクルーズを予約していましたが! [橋梁]

先週の土曜、インターネットで探した「隅田川のサンセットクルーズ」を予約して、意気揚々と上京をしました。しかし、集合場所の日本橋船着場で聞いたのは、「今日のクルーズは欠航となりました。」と、その理由は「船のスクリュウ―に異物がからんだ為、安全航行が出来ない。日本橋川は結構異物が漂流していて、こうしたアクシデントが発生する事が有ります。」と説明が有りました。
残念ですが仕方が有りません。あきらめて帰ることとしましたが、せっかく来たのでせめて近くの東京駅のライトアップを写真に収めて行こうと考え、東京駅前で暗くなるのを待って撮影してきました。
東京駅.jpg

幸い、それほど冷え込みがなく、東京駅丸の内駅前で時間を潰し、あきらめて浅草駅に向かうことに、地下鉄に乗ったものの、せっかく久しぶりの東京。思い切って途中の「東銀座」の駅で下車。
歩いて最寄りの「両国橋」を目指しました。が、「両国橋」はライトアップされておらず、親柱上の球体に光が灯っているだけ。
両国橋.jpg

仕方なくここから隅田川に沿って浅草まで歩いて、途中の橋のライトアップを見て行く事にしました。
現在、隅田川の両岸は「隅田川テラス」として整備されているようです。
総武線鉄橋近くで「隅田川テラス」に出て、隅田川右岸を歩いて遡って行きます。
最初に迎えてくれたのは、「蔵前橋」です。
蔵前橋.jpg
三連の上路アーチ鋼橋の、三径間の中央部高欄が赤に、左右の高欄は白。下のアーチもはっきりと浮き出ています。
下部構造の鉄骨にも照明が入り、鉄骨構造の美しさが目に快いです。
橋の後方には東京スカイツリーが、色々と照明を変化させています。
蔵前橋の下を抜けて行くと、次の「厩橋」の三連下路アーチ鋼橋の姿が近づいてきます。
厩橋.jpg
三つのアーチが連なる優美なフォームが白く輝き、中央部の高欄が青色に、左右の高欄がオレンジ色に照明、川面もキラキラと光を写しています。提灯を下げた屋形船が橋の下を抜けて行きます。
私も、予定では船に乗ってこうした風景を目にしていたはずだったのですが。

先を急ぎます。次は「駒形橋」です。
駒形橋.jpg
この橋の形は、三連のアーチ鋼橋ですが、中央径間は下路アーチ、左右の径間部が上路アーチと、リズミカルな曲線を描いています。その曲線部が水色に、そしてその曲線を横に一直線に貫く高欄の色は、中央は赤、左右が白に配色されて、横にそびえる東京スカイツリーと光の競演を見せています。

最後は東武浅草駅最寄りの「吾妻橋」です。
吾妻橋.jpg
この橋も三連の上路アーチ鋼橋です、橋の直ぐ脇に東京スカイツリーの外、アサヒビールのシンボリックな金色のオブジェが目を引いています。吾妻橋の中央径間部高欄の照明の色は江戸紫でしょうか、粋な感じです。
ここまでライトアップされた隅田川の橋を見ながら、歩いて来ました。お蔭で寒さを感じることなく、逆に体が火照ってきました。
電車の時間まで少し間が有ったので、浅草寺にお参りをして、帰路に就きました。
次回こそは船での「隅田川ナイトクルーズ」をしたいと考えています。
浅草寺.jpg
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青の洞門と耶馬渓三橋を巡る [橋梁]

「青の洞門」と聞いて、それがどのようなもので、何処に在るか分かりますか。でも、もしわからなくても、「恩讐の彼方に」と聞いて、あ、どう言うものなのか分かる方は、多いと思います。
「恩讐の彼方に」は、文藝春秋社の創設者で、「芥川賞」や「直木賞」を設定し、作家の育成や地位向上に大きな功績を残した、大正から昭和にかけて、多くの文芸作品を発表した作家「菊池寛」の短編小説の題名です。私も高校生時代にこの作品を読んだ記憶が有ります。
菊池寛肖像.jpg「恩讐の彼方に」と菊池寛.jpg
(青の洞門近くに設置された「恩讐の彼方に」の作者菊池寛の肖像と説明盤)

小説の概要は、江戸時代のこと、主人のお妾さんとの密通がばれてしまった、主人公の男が、主人を殺害して其の妾の女性と一緒に逃げ、さらに生きるために峠道で、行きかう旅人達を、脅したり殺害して金品を奪って生活をしていたが、ある日そんな生活から逃れるため、女を置いて一人諸国を放浪する。其の後出家をして尚、これまで自分が犯した悪業の数々に苦しみつつ旅を続けていたが、豊前の国の山国川を遡り羅漢寺に向かう途中、山国川沿いの絶壁に有る鎖渡りの難所で多くの通行人や馬が、川に落ちて命を落としていることを知り、其の岩山に隧道を掘ることを決心する。
青の洞門遠景.jpg
(山国川上流側より、青の洞門の有る競秀峰の岩壁を望む)

一人其の岩壁に向いノミとツチを持って、ひたすら岩壁を削り続けること五年十年。一方、殺害された主人の息子が成人をし、親の仇を打たんと全国を探し回る。そしてついに仇討ちの相手を目の前にする。しかし目にした仇の相手は、掘り進んだ洞窟の中でただひたすら、目の前の岩盤に向い、髪も髭も伸び放題の痩せ細った老僧の姿。逃げも隠れもしない、その場で切って捨てても貰っても良いと言う。そこで隧道が貫かれるまで待つこととする。その日が一日も早く来るようにと、仇打ちの若侍も一緒に掘ることに。
青の洞門手掘りの跡.jpg
(青の洞門内の岩壁に残る、手掘りの鑿のあと)

終に隧道の最後の岩が砕かれて貫通をする。その劇的なクライマックスの場面を小説から抜粋させて頂くと。<・・・彼は「アッ」と思わず声を上げた。その時であった。了海のもうろうたる老眼にも、紛れもなくその槌に破られたる小さな穴から、月の光に照らされたる山国川の姿が、ありありと映ったのである。了海は「おう!」と、全身をふるわせるような名状しがたき叫声をあげたかと思うと、それにつづいて狂したかと思われるような歓喜の泣き笑いが、洞窟を物すごく動揺めかしたのである。
「実之助どの。ごらんなされい。二十一年の大誓願端なくも今宵成就いたした。」こう言いながら、了海は実之助の手を取って、小さい穴から山国川の流れを見せた。・・・(中略)・・・実之助は、了海の前に手を拱ねいてすわったまま、涙にむせんでいるばかりであった。心の底から湧き出ずる歓喜に泣くしなびた老僧の顔を見ていると、彼を敵として殺すことなどは、思い及ばぬことであった。敵を打つなどという心よりも、このかよわい人間の双の腕によって成しとげられた偉業に対する驚異と感激の心とで、胸がいっぱいであった。彼はいざり寄りながら、再び老僧の手をとった。二人はそこですべてを忘れて、感激の涙にむせび合うたのであった。>
青の洞門車歩道.jpg青の洞門明り取り窓.jpg
(青の洞門の有る山国川沿いの岩壁と、洞窟内に作られた明り取りの窓)

以上は、小説「恩讐の彼方に」のストーリーですが、実際この青の洞門を悲願30年を懸けて、342メートルにおよぶ隧道を貫通させた人物は、「禅海和尚」という越後の人、仏道修行の為回国行者となって諸国を巡り、享保(江戸の中期、1716年6月22日から1736年4月28日)の頃この地に来ました。たまたま、山国川ぞいの岩壁にかかる鎖渡の桟道で、踏み外して墜死する惨事を目撃、仏道修行者として、この危難を取り除き、衆生救済の門を開かんものと大誓願を発し大岩壁に向って鑿と槌をふるい、目的を達成させたのが実際の話になります。
小説の21年よりも実際は長く、30年の月日を懸けていたのです。
禅海和尚の像.jpg「禅海和尚と青の洞門」説明盤.jpg
(青の洞門を背景に、鑿と槌にて岩盤に向かう禅海和尚の像と説明盤)

この山国川は、大分県と福岡県との県境にそびえる英彦山東麓の山中に源流を持ち、大分県中津市山国町から、耶馬渓町・本耶馬渓町を流れ、中津市三光に至って福岡県築上郡上毛町と接する地点から大分県と福岡県との県境を流れ周防灘に落ちています。
その中津は、かつて豊前の国の中心に位置し、鎌倉時代この地方を治めていた野仲氏は、我が下野国の名族「宇都宮氏」の分流。豊前守護職に任じられた宇都宮信房の弟・重房が、野仲郷を所領して、野仲氏を名乗ったのがはじまり。意外なところで身近に感じます。
 
山国川の上・中流域の渓谷は耶馬渓と呼ばれ景勝地も多い、又、この耶馬渓には「耶馬渓三橋」と呼ばれる、石造りアーチ橋が有り、今回これらの橋も巡って見てきました。上流側から見ていきます。

【馬渓橋】
・中津市指定有形文化財
・1923年(大正12年)10月竣工
・5連石造りアーチ橋、橋長:82.6m、支間:13.9m、拱矢(アーチの高さ):4.8m
馬渓橋全景.jpg
(馬渓橋全景、右岸上流側より撮影)
馬渓橋説明板.jpg
(馬渓橋説明板、右岸橋詰設置)
馬渓橋右岸橋詰の記念碑.jpg
(馬渓橋右岸橋詰に建つ「山国川水害復興記念碑」と「馬渓橋周辺の河川整備に至るまでの経緯」の碑)

【羅漢寺橋】
・大分県指定有形文化財
・1920年(大正9年)9月竣工
・3連石造りアーチ橋、橋長:91m、径間長:26.8m、拱矢:4.6m
羅漢寺橋全景.jpg
(羅漢寺橋全景、下流側の羅漢寺大橋の橋上より撮影)
羅漢寺橋説明盤.jpg
(左岸橋詰に設置された、羅漢寺橋の説明盤)
羅漢寺橋親柱(河川名).jpg羅漢寺橋親柱(橋名).jpg
(羅漢寺橋親柱に刻まれた、河川名と橋名)

【耶馬渓橋】
・大分県指定有形文化財
・1923年(大正12年)3月竣工
・8連石造りアーチ橋、橋長116.0m、最大支間12.8m、拱矢:3.0m
耶馬渓橋全景.jpg
(耶馬渓橋全景、左岸橋詰より撮影)
8連の石造りアーチ橋は、日本でこの橋だけです。橋の長さも、石造りアーチ橋では日本最長です。
耶馬渓橋説明盤.jpg
(耶馬渓橋説明盤、左岸橋詰に設置)
耶馬渓橋左岸橋詰モニュメント.jpg
(耶馬渓橋左岸橋詰に設置されているモニュメント)

今回は、大分県に足を延ばして、石造りアーチ橋を見て回りました。そして耶馬渓の観光名所の中心的「青の洞門」も歩いて潜り抜けてきました。
日本国内の石造りアーチ橋の9割近くが九州地方に分布しています。その数約1,800基にもなります。その内大分県は、石橋王国とも言われる熊本県に負けず劣らず、約500基を占ると言われています。今回紹介した中津市だけでも53基。もっとも多いのは豊後大野市の115基、そして宇佐市には100基。その宇佐市の中でも、院内町には65基が集中して分布、設置密度も高く「日本一の石橋のまち」と称しています。
短時間で多くの石造りアーチ橋を見たいのであれば、まさに宇佐市院内町がお勧めといえます。
荒瀬橋遠望.jpg鳥居橋遠望.jpg
(橋髙18.3mと院内町最も高い「荒瀬橋」と石橋の貴婦人と呼ばれる「鳥居橋」)

分寺橋遠望.jpg石工顕彰碑.jpg
(「分寺橋」と「鷹岩橋」の橋詰に建てられた「石工顕彰碑」)

院内町にはこんな所にも、石造りアーチ橋のデザインが施されていました。
院内町マンホール蓋.jpg院内町消火栓蓋.jpg
(院内町のマンホール蓋と消火栓の蓋)

今回参考にした資料
・旺文社文庫「父帰る・恩讐の彼方に」 菊池寛著
・大分県中津市観光パンフレット
・「いんない石橋マップ」宇佐市発行観光パンフレット

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栃木市周辺に残るホタルの話 [橋梁]

インターネットを見ていたら「ほたる出現予想2022」(ウェザーニュース)が目にとまりました。
<今年は、3月以降に平年より暖かい日が多く、西日本の太平洋側を中心にほたるが出現し始めています。
今後は、西日本や東日本では5月下旬までに飛び始め、5月中旬~6月中旬に出現のピークを迎える予想です。>そして、宮崎県西都市 2022年5月7日撮影のほたるの光が写った写真が掲載されていました。

私の子供の頃の記憶では、ホタルは夏の夜、部屋に吊った虫よけの蚊帳の中で、捕まえてきたホタルを放し、部屋を暗くして蚊帳の中を動くホタルの光を追って過ごした、7月末から8月の出来事だったように思い出されます。
家の脇を流れる清水川も、今ではコンクリート製の水路に変わってしまい。ホタルの生息環境では無くなっています。
1980年中の橋(清水川).jpg2017年中の橋(清水川).jpg
(1980年頃の中の橋下流部の清水川と2017年撮影の清水川)

巴波川のホタルの話になると、巴波川をズット下って行くと、小山市上泉に「蛍橋」という橋が架かっていますが、ここはその昔、ホタルの名所でした。栃木県文化協会が発行した「栃木の水路」と言う本の、4章に”母なるうづま”が記されていますが、その中に「うずまぼたる」と題する記事が載っています。冒頭部分を抜粋してみると、<うずま川に発生するほたるは大型の源氏ぼたると呼ばれるものである。その飛びかうさまは、まさにうずま川ならではの夏の夜の景観であった。時に、直径三~五尺、高さ一~二丈におよぶほたるばしら(螢柱)がたつ。ほたるが密集して飛びかい、闇に舞いあがるのである。渦を巻きながらつくるこのほたるばしらは、見事というより表現の法を知らない。(後略)>
尺貫法の単位をメートル法に置き換えると、直径0.9m~1.5m、高さ3m~6mとなります。こんなサイズのホタルの柱を見たら驚くしかないでしょう。
蛍橋(小山市上泉).jpg
(現在の蛍橋、昭和9年(1934)に架けられたものです。)

稲葉誠太郎さんが著わした「巴波川物語」第一巻の10に「蛍の川」と題する一文が記されています。
こちらも冒頭部分を紹介させて貰います。
<江戸時代後期の文献に巴波川の蛍について「蛍御用」という一文が残っている。その全文はこう記している。
巴波の蛍と云へば栃木名物の一つに数えらるる程ありて、その大いさの熒々たる火は他に類稀にして一歩市街を出てて川沿を下れば耿々たる万点の蛍はげに丸天の衆星の一時に流れ出したらむかと疑う計りなり、されば此事古くより領主の上聞に達しけむ、毎年五月節句のころ十日間に蛍御用と称し御役所より各町へ御切手にて御渡あるを例とす、依って各町内にては十五人乃至二十人の人夫を出し、各町三百疋位宛の見積にて可成一夜に狩り集め、是を町役人の手を経て御役所へ納めたりと云ふ。名におふ名物の蛍の事とて御用の外に町民各自の娯楽に供せられしなればその当時箒団扇を振翳し我一の功名せむと宙に舞ふ光につれて己も躍り狂ひつ追い廻る数多の蛍狩の模様こそ今に想ひやらるなれ。
このような有様であったから明治になっても巴波川べりの人たちは夏の宵に相さそって蛍火を楽しんでいたのである。(後略)>
文中に”毎年五月節句のころ”と有りますが、これは旧暦ですので新暦の端午の節句(5月5日)とは違い、新暦では6月頃に成りますから、時期的には蛍の出る季節と言う事です。

更に蛍の話題を記した書籍を探してみると、坂本冨士朗さんが著わした「うづま記」の”栃木市の今昔と未来物語”の中に見つけました。
<(前略) ところで、栃木景観の王者は、何んといっても巴波川の河畔であった。当時は、倭町の材木商である塚田屋敷を南端として、素朴な黒塀が北に向かって、どこまでもどこまでも果てしないように続き、それは泉町の天海橋のあたりで終わっていたが、その間千二、三百メートルはあったろうか。(中略) またこれは、万町白沢屋敷裏、巴波川岸のことであるが、六月下旬から七月の上旬にかけての夜更けになると、それまで草むらの中で時たま光っていたほたるの群の動きが活発になって、一匹また一匹と中天に舞い上り、やがて無数の星となって燦くのだった。今でも伝説的な話として念頭に残っているが、ほたる柱が中空に登る見事な光景を明治八年生まれの父親の口から耳にしたことがあったが、それは幕末のことらしい。(後略)>

ここで出てきた”万町白沢屋敷裏、巴波川岸”とはどの辺りに成るのか。明治後期市街地の商店の位置が分かる「栃木縣營業便覧」(明治40年10月1日、全国營業便覧発行)にて、栃木町の萬町を確認すると、”質屋白澤利平”の名前が載っていました。その場所は丁度現在の栃木市役所の場所で、その当時は大通りの西裏を平行に走る”蚤の市通り”は無く、それらの屋敷は大通りから裏手は巴波川岸まで有りました。
営業便覧抜粋.jpg

その条件から白沢屋敷の裏手は現在の市役所駐車場ビル辺りに比定されます。
坂本冨士朗さんが「うづま記」を発表した昭和51年頃の巴波川は生活排水等が流入し、相当汚染されていました。その頃の開運橋周辺の様子を写した写真が有ります。
1980年頃開運橋.jpg
(開運橋上流右岸より1980年撮影、その頃は駐車ビルでは無く、「うずまコーポ」と言う9階建ての高層アパートが建っていました。写真左手大きな屋根の建物は「栃木セントラル劇場(映画館)です。)

1978年4月開運橋.jpg
(開運橋下流左岸より1978年4月撮影、この頃の巴波川はゴミも多く流れていました。)

その後は、下水道の整備や、地元自治会等の年2回の一斉川掃除の活動等によって、現在巴波川は綺麗な川に戻っています。
2015年頃開運橋.jpg
(開運橋上流右岸より2018年6月撮影、開運橋は2000年に現在の橋に架け替えられています。うずまコーポも映画館も無くなり大きな駐車ビルの建物に変わっています。)

2014年9月開運橋.jpg
(開運橋下流左岸より、2014年9月撮影、巴波川はすっかり綺麗に復活しました。)

更に探していくと、お隣「壬生町」にも江戸時代に蛍の名所が有った事を記す資料が有りました。
壬生町が発行した、壬生町史 史料編 近世 付録の、「壬生領史略」の中に、「古川の螢」という記録が残されていました。
この「壬生領史略」は、嘉永三年(1850)に碧山季美なる人物によって編纂された壬生領の地誌書です。
「古川の螢」(抜粋)
<古川橋 表町地内 栃木道柳原渡船場へ通する処の橋をいふ
 螢は梅雨前より出 梅雨い三日目を出盛と云 橋の上流尤多 螢狩又は眺め等に出頗る愉快を尽したり・・・(後略)>

この「古川橋」はどこか、そして古川とは。
この古川橋を私はたまたま撮影をしていました。栃木から思川(小倉川)にかかる保橋を渡った先、栃木市から壬生町に入った所に小さな橋が、架けられていました。高欄親柱に「古川」の銘板が付いています。
古川橋右岸より.jpg古川橋左岸より.jpg

私は通勤時に毎日この橋を渡っていたのですが、バイパス道路が開通した後はすっかりご無沙汰でした。
現在の「古川橋」は、コンクリートブロックに白色のガードレールが設置されただけで、渡ってもそこに橋が有る事も気が付かない状態です。
現在の古川橋.jpg古川橋上流方向.jpg
(現在の古川橋と、橋から眺めた上流側の様子)

私が昨年の11月に撮影に行った時「古川」には水は無く、ただ草原が上流まで伸びていました。
ここが、かつて沢山の蛍が飛び交い、それを多くの壬生の街の人達が見物に来て、夏の宵を楽しんでいたなどとは、現在では想像も出来ません。

ここ数年、新型コロナの影響で多くのイベントが開催され無い状態が続いていました。現在はわずかづつ収束して行くような期待を持っています。
今年は以前の様に各地から、ホタル祭のニュースが届いてくるのか。
近い所で、栃木市都賀町大柿の逆川流域や、都賀町原宿の荒川流域は。
蛍が飛び交う時期は、もう目の前まで来ています。

今回参考にした資料:
・「栃木の水路」 栃木県文化協会発行
・「巴波川物語」 稲葉誠太郎著
・「うづま記」 坂本冨士朗著
・「栃木縣營業便覧」 全国營業便覧発行所
・「壬生領史略」 壬生町発行



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石橋を巡る旅。鹿児島市 [橋梁]

これまで、長崎や熊本の石橋を見て来ましたが、今回は鹿児島県の「石橋記念公園」を訪れました。
日本国内での石造りアーチ橋の歴史は浅く、江戸時代以降に成ります。その石橋の多くが九州7県に分布しています。その分布の状態を、手元に有る工学博士太田静六氏が著わした「眼鏡橋」という著書から引用させて貰いますと、<江戸期から明治末までに限定すると、一番多いのは熊本県で150橋前後、次は鹿児島県だが、その数は半分以下に減って70橋位。3番目は大分県の約50橋、4番目は長崎県の約35橋、次いで福岡県は25橋位、宮崎県は約6橋と愈々少なく、最低は佐賀県の約5橋である。>と、記されています。そして又、大正期以降を見ると、<大正から昭和にかけての橋が大変多いのが大分県である。大分県には大正から昭和にかけての橋が200橋近くも有るらしい。>と、こんな分布状況になっています。

それでは今回見る鹿児島県の石造りアーチ橋は、「甲突川五石橋」と称された石橋五つの内の三つです。
甲突川は薩摩藩の城下町・鹿児島市内を北から南へ縦断して錦江湾に流入する周辺第一の大河で、江戸時代の末期、弘化2年(1845)から嘉永2年(1849)に、「新上橋」(弘化2年)・「西田橋」(弘化3年)・「高麗橋」(弘化4年)・「武之橋」(嘉永元年)・「玉江橋」(嘉永2年)と、毎年架けられています。

しかし、平成5年(1993)8月6日、集中豪雨による洪水で五石橋の内「武之橋」と「新上橋」が流失。鹿児島市街地約1万2千戸が浸水する大災害が発生してしまいました。
かつて長崎の大洪水で多くの石橋を失ったのと同様です。
歴史的に貴重な石橋を保存しようと、流失を免れた3橋を移転保存する為、翌年の平成6年から同11年にかけて、石橋の調査解体、復元と慎重に進め、石橋3橋が一体となった公園として平成12年「石橋記念公園」として、稲荷川の河口近くに開園したものです。

最初は「西田橋」です。
西田橋(右岸下流側より).jpg
先の著書「眼鏡橋」には、
<甲突五橋のうち最も重要な橋で、出水の関所を通って城内に入る表玄関に当たる。参勤交替を始めとして、島津公が渡る橋も常に西田橋である。それ故、五橋のうち西田橋だけは堂々とした勾欄の親柱の全部に青銅の擬宝珠を付けて格式と威厳を誇る。>と、説明されています。
架橋された年は、弘化3年(1846)で公園に移築された三橋では一番古い橋です。
橋長は49.5m、幅員6.2m、4連アーチ橋で、建設費も「甲突川五石橋」で一番高く7,127両と言われています。
西田橋(右岸橋詰より).jpg
橋面敷石は上の写真に見える通り、「斜め敷き」で、整然と敷かれています。橋を渡った先、左岸橋詰近くに立派な御門が建っています。「西田橋御門」です。
西田橋左岸に建つ御門.jpg
現地に建てられた説明文には、<城下の武士や町人、領内を通過する旅人は、御門脇の番所で改めを受けて通行していました。御門は、明治5年(1872)の天皇行幸際に撮られた写真に写っていますが、その後西南戦争で焼失したと思われます。> 現在の門は、発掘調査で確認された橋との位置関係を保って、写真や遺構、市内の仙巌園門などを参考に復元的に整備したものだそうです。

二つ目の橋は、「高麗橋」です。高麗橋(右岸上流側より).jpg
下流から二番目の橋なので、橋長も一番下流側に架けられた「武之橋」(橋長:71.0m・流失)に次ぐ長さで、54.9m有ります。幅員は5.4mで「西田橋」同様、4連アーチ橋に成ります。
高麗橋は、弘化4年(1847)の創建以来、その時々の実情に合わせて、橋面勾配の改修や水道管の添架、昭和20年から30年頃は戦災や通行する自動車による破損に対する改修が行われていました。
移設後の現在の形状は、明治末から大正末期の姿に復元されました。
高麗橋(右岸橋詰より).jpg

最後、三つ目は「玉江橋」です。
玉江橋(右岸上流側より).jpg

甲突五石橋で最後に架けられた橋で、甲突川の一番上流に有りました。石橋の形状は前記の2橋と同じで四連アーチ橋ですが、城下町郊外で通行量も少ない為か、橋長は50.7mですが幅員は4.0mと狭く、建設費も他の橋と比較しても格段に安く、1,560両でした。
玉江橋(左岸橋詰より).jpg
橋面敷石の形状は「乱張り」と、造りもやや粗末に見えます。

公園内の三つの石橋を見た後、公園の北側に有る多賀山公園に登り、東の海上に聳える桜島を眺めましたが、その時は山頂部に雲がかかって良く見えませんでした。
桜島(多賀山公園より).jpg

高麗橋近くに「岩永三五郎之像」と表示された石造が建てられており、その脇に「岩永三五郎顕彰の由来」を刻した石碑が有りました。
松永三五郎像.jpg松永三五郎顕彰の由来.jpg

岩永三五郎は、前著「眼鏡橋」によると、
<岩永三五郎は肥後の石工だが、島津藩に招かれて城下町・鹿児島市内を貫流する甲突川に、いわゆる甲突五橋を架けたことから、熊本より寧ろ鹿児島で有名になった。この点、同じ城下町でも熊本では、鹿児島と違い江戸時代を通じて市街を流れる白川を始めとする主な河川には一つの石橋も架けられなかったので、名工・三五郎も反って地元の熊本市内で腕を振るうことが出来なかったのは面白い>と、記しています。

鹿児島市の公園に移設保存された石橋、四連アーチ橋の立派な石橋でした。

今回参考にした資料は
・「眼鏡橋 日本と西洋の古橋」 工学博士太田静六著 理工図書株式会社発行
・石橋公園内説明案内板等
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橋巡り「聖人見返り橋」 [橋梁]

今回巡る橋は、「聖人見返り橋」です。
この橋が有るのは、お隣の茨城県に成ります。栃木市から車で行けば1時間程、茨城県笠間市稲田の田圃の中にその橋は有りました。
聖人見返り橋1.jpg
(茨城県笠間市稲田の田圃の水路に架かる、「聖人見返り橋」)

ここで言われる「聖人」とは、親鸞聖人の事で、橋の脇に2基の石碑が建てられています。
聖人見返り橋3.jpg聖人見返り橋2.jpg
(「聖人見返り橋」の脇に建つ、二基の石碑)

右側(橋の近く)に建つ、小さめの石碑は正面に「聖人みかえりはし」とだけ刻されています。
言うなれば、橋の案内碑、極端に言えば橋の親柱代わり的な役目を果たしている様、これが無ければ水路に架かる湾曲して太鼓橋状に削り出された一枚の石の橋桁の仔細が分からない。

左側の石碑は、何やら和歌の様なものが、刻まれています。
石碑中央には、少し大きな文字で「親鸞聖人みかえりはし」 
右側には「和かれしを さのみなげくな 法のとも」 と上の句が、
左側には下の句の 「またあう國の ありと思えは

そして、橋の袂から北東の方を望むと、深い杉木立の山裾に沿って瓦屋根を載せた、上半分が白壁で下側が黒色の板張りの塀が連なっています。浄土真宗別格本山の西念寺です。木立の合間に本堂の大屋根が見え隠れしています。
西念寺1.jpg

この「聖人見返り橋」は、数多い親鸞聖人の伝承のひとつでしょう。現在のこの橋もその伝承のひとつのモニュメントと言えます。実際に伝承の元となる橋が有ったとしても、恐らく場所も橋そのものの形も違っているでしょう。現在の場所を見ると周りの状態は土地改良が行われ、畦道も水路も直線的で、在りし日の姿を留めてはいません。でも今この場所に立って、田園風景の真ん中から西念寺の杉木立を望むと、文暦2年(1235)春、20年近くを過ごした草庵を後に、京に戻る親鸞の姿と、見送る人達の情景が浮かんでくるような思いが過ぎって来るものです。橋の袂に建てられた石碑の、親鸞聖人の作と伝える和歌の内容を、もう一度かみしめます。
<念仏の友よ 別れをそのように嘆く事は無いですよ  また何時の日か阿弥陀様の元で 会う事が出来るのだから>
その年の9月元号は嘉禎に改められた。
 
ここで西念寺にお参りして行きます。
西念寺の正面参道の入り口は、上の写真の右方向、国道50号線の直ぐ脇に成ります。
聖橋1.jpg
(西念寺参道入口に架けられた「聖橋」。写真後方に国道50号線に架かる歩道橋)

聖橋を渡ると、民家の間に参道が真っ直ぐ伸びています。奥の木立の中が西念寺です。)
聖橋2.jpg
(国道50号線側から、聖橋とその奥に伸びる参道を望む)

真っ直ぐと天の突くように伸びた、何本もの杉の大木の間に伸びる参道を進むと、趣のある茅葺屋根を備えた山門の前に出ます。
西念寺山門.jpg
(茅葺き屋根の山門が、落ち着いた雰囲気を醸し出しています。)

上層の軒下に山号の「稲田山」の扁額が掲げられています。左脇の石柱に「親鸞聖人教行信證御製作地」「浄土真宗別格本山」と大きく刻されています。
山門を潜ると、正面奥に大きな伽藍が迎えてきます。御本堂です。
西念寺本堂.jpg
(御本堂)

本堂内で参拝を済ませ、本堂右手の坂道を登り、親鸞聖人御頂骨堂や太子堂・鐘楼を巡り、戻っては山門入った時左手に見えた太鼓楼や県指定文化財の「お葉つきイチョウ」の大木などを見て回りました。
今度はこのイチョウの紅葉の時季に、また来ようと思いました。

鐘楼.jpg御頂骨堂.jpg
(鐘楼)(親鸞聖人御頂骨堂)
太子堂.jpg太鼓楼.jpg
(太子堂)(太鼓楼)
ハツキ銀杏.jpg
(お葉つきイチョウの大木)


今回参考にした資料:
・丹羽文雄著「親鸞」
・「日本の名著6 親鸞」 中央公論社発行

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福岡県八女市の星野川に架けられた「ひふみよ橋」 [橋梁]

今回巡る橋は、「ひふみよ橋」と称されている、福岡県八女市の星野川に架かる石橋です。
名前の通り、1(ひい)、2(ふう)、3(みい)、4(よお)の4本の橋をまとめた名称で、それぞれの橋には上流側から、「洗玉(せんぎょく)橋」、「寄口(よりぐち)橋」、「大瀬(だいぜ)橋」、「宮ヶ原(みやがはる)橋」という、橋名を持っています。
それでは何故「ひ・ふ・み・よ・橋」と称されるのか、「ひふみよ」はそれぞれの石橋の持っているアーチの数を表しています。即ち一番上流側に架かる「洗玉橋」は<単一式アーチ橋>、次の「寄口橋」は<二連式アーチ橋>、三番目の「大瀬橋」は<三連式アーチ橋>、そして一番下流に架かる「宮ヶ原橋」は<四連アーチ橋>に成っているので、この4本の石橋を総称して、「ひ・ふ・み・よ・橋」と呼ばれています。

八女市は福岡県の南端、南側は熊本県、東側は大分県と県境を成しています。
「ひ・ふ・み・よ・橋」が架かる星野川は、有明海に流れ込む「矢部川」の支流で、八女市の東の端、大分県との県境を成す山中(星野村)の沢水を源にしています。「ひ・ふ・み・よ・橋」が架けられている所は、星野川の下流域に有り、上陽町の北川内、上横山、下横山そして一番下流に架かる「宮ヶ原橋」が長野で、矢部川の合流点から5kmほど遡った地点に成ります。

それでは、「ひ・ふ・み・よ・橋」を上流側から順に巡って行きます。
まず最初は単一式アーチ型の「洗玉橋」です。
現在は直ぐ上流側に昭和36年(1961)3月に新しい鋼桁橋が架けられています。
洗玉橋全景.jpg

洗玉橋親柱の架橋年月示.jpg洗玉橋親柱の橋名表示.jpg

洗玉橋全景2.jpg

石造りの立派な高欄を持った、単一式アーチ型の石橋です。
擬宝珠を模った石の親柱に、橋名「洗玉橋」や架橋河川名「星野川」、そして架橋年月日「明治26年(1893)5月3日竣功」等が刻まれています。
右岸橋詰に平成7年11月21日上陽町教育委員会により、「上陽町指定文化財」として、橋の概要と架橋に至るエピソード等を記した石碑が設置されています。それによりますと石工棟梁は、橋本勘五郎と有ります。この人物は、熊本県の国指定重要文化財「通潤橋」架設時に副頭を務め、明治政府に呼ばれ、東京初の眼鏡橋である「神田筋違い眼鏡橋」などを架設しています。

「洗玉橋」の大きさは、橋長:32.5メートル、幅員:5.0メートル、径間:22.5メートルと記されています。

次の橋は、二連式アーチ型の「寄口橋」です。
現在は、上流の「洗玉橋」との中間に新しく「上名橋」が架けられ、「桜トンネル」とともに県道70号線のバイパス道で、旧道に架かる石橋「寄口橋」の負担軽減が図られています。

「寄口橋」に行った日は天候がよく暑い盛りでしたので、橋の下の川で水遊びする人が大勢来ていました。
寄口橋全景.jpg

寄口橋竣工表示1.jpg寄口橋竣工表示2.jpg

寄口橋全景2.jpg

高欄の端に竣工年を記したプレートが埋め込まれていますが、橋の右岸側と左岸側で異なった日付けが記されています。
大正9年(1920)7月竣工と有るのは、元々この橋本体が架橋されたもので、もう一方の、昭和45年(1970)2月竣功と有るのは、交通量の増加に伴い橋の両側を拡幅して歩道を設けた時の日付けに成ります。
「寄口橋」の大きさは、橋長:42.0メートル、幅員:4.0メートル、径間:16.5メートルと記されています。

3番目の橋は。三連式アーチ型の「大瀬橋」です。
大瀬橋全景.jpg

大瀬橋製造年月表示板.jpg大瀬橋橋名板.jpg

大瀬橋全景2.jpg

昭和50年(1975年)3月、石橋「大瀬橋」の下流側にピッタリとつけた形で桁橋が架けられ交通量の増加に対応した様です。アーチの間から増設した橋の橋脚が覗いています。
石橋の架橋年は、大正6年(1917)と伝えられています。洗玉橋を架けた橋本勘五郎の弟子「萩本卯作」や「川口竹次郎」などが建築に関わった大工や石工の名前が、アーチの頂上真ん中付近に刻銘されているそうですが、確認出来ませんでした。

「大瀬橋」の大きさは、橋長:45.5メートル、径間:12.0メートル、幅員データは確認できませんでした。
理由が分かりませんが橋詰に建てられた案内板の表示が剥がされていました。

最後、4番目は、四連アーチ型の「宮ヶ原橋」です。
宮ヶ原橋全景.jpg

宮ヶ原橋全景2.jpg

宮ヶ原橋災害復旧記念碑.jpg

宮ヶ原公園橋.jpg宮ヶ原公園橋橋名板.jpg宮ヶ原公園橋竣工年.jpg

上流から下流に来るにしたがって、川の幅が広くなっていくので、それに伴いそこに架けられる橋の長さも次第に長くなるのは当然でしょう。そこで橋のアーチの数が増えて行くのも必然の結果なのかもしれませんね。
この4番目の「宮ヶ原橋」の情報ですが、現地には何も掲示されてはいませんでした。
国土地理院地図(電子国土Web)を確認すると、橋の右岸近くに記念碑の地図記号が記されていますが、現地には違う場所に成りますが、「災害復旧事業 竣工記念碑 平成24年7月九州北部豪雨」が建てられていましたが、恐らくこれとは違う石碑が以前は建っていたのです。
私の蔵書「眼鏡橋」工学博士太田静六著にこう記されています。
<福岡県下には石造りアーチ橋が比較的に少なく、それも全部1連アーチ橋ばかりなのに、星野川にだけ2連・3連・4連アーチ橋が全部揃うのは面白いが、このような例は九州全体でも珍しい。上陽町の人も1連・2連・3連と各一つずつ揃うのに興味を抱いたと見えて、上記3橋を一括して一二三(ヒフミ)橋と呼んでいる。4連アーチ橋の宮ヶ原橋を抜かしたのは、厳密にはこの橋が上陽町でなく八女市に入るからであろう。代表して宮ヶ原橋を写真118にだしておくが、これは下流側から見た全景である。橋の左端に大きな記念碑が立ち、大正11年4月に竣工したことや、請負人は隣接する黒木町の豊嶋虎二郎であることなどが記されている。>この本が発行されたのが昭和55年ですから、事情が現在と少し異なっています。上陽町は現在は合併して八女市になっています。ただかつてあった大きな記念碑は現在無くなっています。おそらく平成24年の豪雨災害かなんらかで、流されてしまったのか、又はその復旧事業で、星野川の右岸側に、分水路の様な新しい河道が作られた折に撤去されたものか。(抜粋文中に有った「写真118」は著作権の関係で転載出来ませんが、確かに写真の左隅に大きな石碑が写っています。八女市ホームページ「上陽の石橋 ひふみよ橋」に掲載されている「宮ヶ原橋」の写真の橋の左端に石碑らしき物が写っています。もしも実際の石碑が今も保管されているのでしたら、現地に設置して頂きたいと願います。)
現在「宮ヶ原橋」の右岸側の河道に、新しい桁橋が架けられています。橋名は「宮ヶ原公園橋」、架橋されたのは「平成28年9月完成」となっています。

星野川に架かる4種類の石造りアーチ橋を巡って、今まで以上に「眼鏡橋」の虜になた気がします。

今回の参考資料:
八女市ホームページ「上陽の石橋 ひふみよ橋」
「眼鏡橋 日本と西洋の古橋」 工学博士太田静六著

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