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渡良瀬遊水地内の水路に架けられた橋を巡る [橋梁]

2023年は穏やかに迎える事が出来ました。新年最初は栃木市南端に広がる渡良瀬遊水地内に架けられた橋を巡りたいと思います。

渡良瀬遊水地は、栃木市の南の端、群馬県や埼玉県などとの境界に位置します。栃木の市街地から行くには、車で片道1時間ほど必要です。子供達が小さかった頃は、良く出かけていました。一度家から自転車に乗って行った事が有りますが、帰りは北に向かう為、僅かな登り勾配に成る。子供達は元気だったのに、私の膝関節が悲鳴を上げ、途中大平町辺りで休憩を取る羽目になった覚えが有ります。
芦原を家族で.jpg
(平成10年(1998)1月、渡良瀬遊水地内の葦原をサイクリング)

渡良瀬遊水地は、面積約33平方キロメートル、南北約9キロメートル、東西約6キロメートル、周囲の長さ約30キロメートル。日本で最大級の遊水地です。
遊水地には、渡良瀬川を始め、思川や巴波川などの河川が流入、遊水地内で合わさって約4キロメートル下流にて、利根川に合流しています。そして遊水地内にはハート型の谷中湖も有ります。
渡良瀬遊水池案内板.jpg
(少し古いですが、遊水池の説明板です。)
渡良瀬遊水池(谷中湖)は、広さ約4.5平方キロメートル。池の外周距離は約9.2キロメートル。

渡良瀬遊水地の「地」を書いた表現は、葦原を含めた遊水地全体(約3,300ha)を示して、「池」を付けた場合は谷中湖部分(約450ha)を表す区別になっている様です。

この広大な遊水地内に架けられた橋を、今回巡って行きます。これまで何回も出かけて現地確認をしてきた結果、名称がハッキリしている橋の数は21か所有りました。この中には現在通行できない橋も含まれています。
思川に昔架けられていた「松原橋」は、上流に「松原大橋」が出来た為、後に撤去され現在は有りませんので、除外しています。
松原橋1(思川).jpg松原橋(思川).jpg
(現在は撤去されている「松原橋」。1993年10月撮影)

それでは、渡良瀬遊水地内に架かる橋を見て行くに当って、先ずはそれらの橋の分布状況が分かるように概略図を作成しました.
渡良瀬遊水地内の橋の地図.jpg
(渡良瀬遊水地内の橋分布図)
先ずは主役ともいえる「渡良瀬川」を辿って行きます。
渡良瀬川は遊水地の北西端、「藤岡大橋」の下を抜け遊水地に流入してきます。そこから遊水地の中央部を南東方向に流れ、遊水地の東で北東方向から流れて来た思川と合流して向きを南に変え、谷中湖の東側を南流し。渡良瀬遊水地の南東端にて「三国橋」の下を流れ南側を流れる利根川に合流します。
このメインの河川「渡良瀬川」に架かる橋の最初は「西赤麻橋」に成ります。
西赤麻橋(渡良瀬川).jpg
渡良瀬遊水地内の葦原を貫く一本の道路、その先にそびえる山は茨城県の霊峰「筑波山」です。直線距離でここから約38キロメートル東方に成ります。目的の「西赤麻橋」は目立ちませんが前方の黄色に染められた円柱の処に成ります。
西赤麻橋1(渡良瀬川).jpg西赤麻橋下流側の流れ(渡良瀬川).jpg
橋の近くに寄ってもう一枚写します。橋の両サイドに車幅制限用の支柱、橋からの転落防止の為の簡単な高欄が設けられています。写真右手に見える建物は「第三排水門」に成り、橋が架かるこのエリア―は「第3調節池」と呼ばれる地域です。もう一枚の写真は「西赤麻橋」の上から下流側を写しています。渡良瀬川がゆったりと流れています。

次は「新赤麻橋」です。1988年3月の銘板が設置されていました。先程の「西赤麻橋」とは打って変わって川の両側に立派な堤防を持った橋です。
新赤麻橋(渡良瀬川).jpg
上の写真は下流側右岸堤防上よりの遠望です。
橋の後方に「岩船山」、その奥にかすんで写るのは、雲の上に頭を出した日光連山の山々です。
新赤麻橋1(渡良瀬川).jpg新赤麻橋2(渡良瀬川).jpg
「新赤麻橋」をさらに近くの下流側右岸から写した写真と、橋上から渡良瀬川上流方向を写した写真です。前に紹介した「西赤麻橋」と、橋も川の風景も全く違っていますが、渡良瀬川の流れそのものは、同じようにゆったりと流れている感じがします。
この橋は5径間の中央の橋桁の幅員が、他の桁の幅員より2メートル程広くなっています。なぜ中央径間のみ幅が広く採ってあるのか、この橋左右の2径間部分が幅員が狭く乗用車が1台しか通れないのに橋長が長い事で、両側から同時に渡って来た時、中央部の幅員を広くすることで、すれ違い出来る様にしたものと思われます。

次の橋は「赤麻橋」です。現在この橋は封鎖されて通行できません。この橋は先の「新赤麻橋」の下流側300メートルに有り、「新赤麻橋」の完成で、その役目を終えたものです。
赤麻橋(渡良瀬川).jpg
上の写真は新赤麻橋の上より移した「赤麻橋」の写真です。
赤麻橋1(渡良瀬川).jpg
「赤麻橋」通行できない様封鎖されています。この橋も前の「西赤麻橋」同様、橋の高欄が御情け程度に張られたワイヤーロープです。こうした簡単な高欄しかない理由は、これらの橋が増水時に水をかぶってしまった場合でも、水の流れに極力邪魔に成らない配慮をした構造だからと思われます。このような形の橋はこの後紹介する橋にも言える事です。

次は渡良瀬川の4カ所目、遊水地の東の端に架かる「野渡橋」です。この橋の直ぐ上流側に思川との合流点が有ります。
野渡橋(渡良瀬川).jpg
この橋は結構自動車の通行が有りました。その為か歩行者用の通路帯が確保されています。また、写真に有る通り大型車両が渡れない様に、幅員制限のゲートが橋の両側に設置されていました。
思川との合流点(渡良瀬川).jpg
上の写真は、「野渡橋」の上から上流側を写したもの、写真左から渡良瀬川、右側から思川が合流しています。

巴波川は渡良瀬遊水地の北側に架かる「巴波橋」の下流から南流して遊水地内に入ってきて、渡良瀬川左岸に合流しています。その途中1カ所「石川橋」が架かっています。巴波川は大正7年(1918)に藤岡大地を掘削して、藤岡新川として通水が始まりました。それまでの部屋や新波・白鳥の集落内を蛇行して流れていた旧巴波川の河道は、今は僅かにかつての河岸の面影を残すだけとなっています。(前出の概略図上に、巴波橋付近から南西方向に蛇行して描かれた破線が旧巴波川の河道に成ります。)
石川橋(巴波川).jpg
上の写真は、遊水地内流れる巴波川の右岸堤防上より石川橋を撮影したもので、巴波川は左から右に流れています。この橋も増水時には水をかぶる潜水橋で、車が通れるだけの簡単な構造です。
石川橋下流の巴波川.jpg
上の写真は「石川橋」の上から下流側の巴波川の流れを撮ったものです。遊水地内を流れる巴波川は予想以上に細く感じました。

渡良瀬遊水地の東の縁に沿うように流れる「思川」は、松原大橋の下流に架かっていた、前述の「松原橋」が撤去された現在、遊水地内に架かる橋は無くなりました。

一方渡良瀬遊水地の西側からは、板倉川と谷田川が遊水地内に流れ込んでいます。丁度谷中湖の北西部辺りから流入した板倉川は谷中湖と西側の周囲堤との間を南流、途中で谷田川の流れと合流、谷中湖の南端にて、遊水池(谷中湖)や池内水路からの水を合せて遊水地の南端、三国橋の上流部にて、北側から南流してきた渡良瀬川の右岸に合流しています。この間の橋の数は一番多く5橋を数えます。
上流側から見て行きます。最初は「思い出橋」です。この場所にどのような思い出とする歴史が有っ他のだろうか。楽しい事か、悲しい事か。この橋で何を思い出すのでしょうか。

想い出橋(谷田川).jpg
1993年の12月に子供たちと遊びに来た時、この「思い出橋」の写真を撮っていました。現在は川の周辺は草木が生い茂っていますが、以前の写真はスッキリと見通せて、橋全体の姿も見る事が出来ました。
想い出橋1(谷田川).jpg想い出橋2(谷田川).jpg
昭和63年(1988)渡良瀬遊水池総合開発事業周辺環境整備工事が始まり、谷中湖周辺が一般に開放されたのが平成3年(1991)4月28日の事です。ですから私たちが遊びに来たのはまだ整備されたばかりの頃だったので、「思い出橋」の白亜のスッキリとした姿を見る事が出来たのでした。

次の橋の名前も凝っています。「まごころ橋」です。遊水地内の橋では一番新しい橋の様です。
まごころ橋(谷田川).jpgまごころ橋の由来(谷田川).jpg
親柱に谷中湖のハートの形がデザインされています。右岸下流側親柱に「まごころ橋の由来」を記したプレートが取り付けられています。
<平成16年10月、渡良瀬貯水池(谷中湖)において埼玉県北川辺町実行委員会によって第59回国民体育大会「彩の国まごころ国体」セーリング競技会が開催されました。この国体開催を記念して、橋名をその埼玉国体の愛称に因み「まごころ橋」と命名しました。> なるほどね。
このように橋の名前の命名由来を表示して頂くと、とてもありがたいのですが。

三番目は「下宮橋」です。この橋は渡良瀬遊水地の西側から谷中湖畔に入る中心的な場所に有り、東武日光線柳生駅からのアクセスも良く、中央エントランスから入場、橋の西詰には駐車場やトイレも完備されています。
下宮橋と西橋(谷田川).jpg
中央エントランスの堤防の上より「谷中湖」を望む。手前の茶褐色の高欄を持つ橋が「下宮橋」。その先に白く見える高欄が有るのが、谷中湖内に架かる「西橋」。更にその奥木立が生い茂っている所が、谷中湖中央部に有る「中の島」に成ります。
下宮橋(谷田川).jpg
上の写真が「下宮橋」、下を流れる川が「谷田川」です。

この橋も29年前に撮影した写真が残っていました。右岸橋詰より上流方向を撮影しました。現状は川岸の木々が生い茂り視界が妨げられていますが、以前は写真の様に「谷田川」を見通す事ができます。
下宮橋2(谷田川).jpg下宮橋1(谷田川).jpg

四つ目の橋は「谷田川橋」です。川の名前をそのまま橋名にしています。谷中湖の南の端に位置します。
谷田川橋(谷田川).jpg

5番目の橋は谷田川の左岸に、谷中湖の東側に沿う池内水路や谷中湖南端の「貯水池機場」からの流れを合流させ、巨大な第一排水門を抜けた後に架けられた「柏戸橋」ですが、この橋も現在は通行止めとなっています。
第一排水門.jpg柏戸橋封鎖(谷田川).jpg
上の写真は「第一排水門」と「柏戸橋」の封鎖の様子を撮影したものです。
「第一排水門」は谷中湖を含む第一調節池内の水の排水を制御する水門で、この水門の下流に「柏戸橋」が架かっています。さらにその下流にて北側から流れて来た渡良瀬川の右岸に合流していきます。
柏戸橋(谷田川).jpg
上の写真は、第一排水門から下流側を写しました。手前が「柏戸橋」です。その先に渡良瀬川に架けられた「三国橋」(左側)や「新三国橋」(右側)を望むことが出来ます。

次はハート形をした遊水池(谷中湖)に架かる3橋を見て行きます。これらの橋は池の中に有る「中の島」と、北・西・東の三方向から結ぶ通路に架けられました。
遊水地内に水を蓄えた貯水池(谷中湖)が姿を現したのは、昭和が60年代を迎えたころの様です。戦後の昭和22年(1947)9月、カスリーン台風による大洪水で渡良瀬遊水地周辺は、向古河・海老瀬・部屋・生井で堤防が破れ、大きな被害をもたらしました。(前出の概略図の堤防が決壊した地点に赤色の×印を表示しています。)
その後渡良瀬遊水地の強化を図るべく、昭和38年(1963)渡良瀬遊水地調節池化工事が着工しました。それから20年以上の月日を経て、ハート型の遊水地の姿を現したのでした。

先ず「北橋」は、遊水池北側に有る「谷中村史跡保全ゾーン」や「子供広場ゾーン」と「中の島」を結んでいます。
北橋(渡良瀬遊水池内).jpg
上の写真は「北橋」の上から北方向を写しました。橋の左右に湖面が広がっています。左手奥に写る白い建物は「北水門」に成ります。
北橋2(渡良瀬遊水池内).jpg北橋1(渡良瀬遊水池内).jpg
上の二枚の写真は橋の様子を写したもので、池の西側からと、橋の北西橋詰からで、橋は3径間になっています。池内3橋の中では一番短い橋に成ります。

「西橋」は遊水池の西側と「中の島」とを結んでいます。渡良瀬遊水地の西側には、遊水地に沿って県道が走っている為、アクセスポイントが複数有ます。その中でこの「西橋」は「中央エントランス」と結ばれている為、多くの利用者が訪れる場所に成ります。
西橋(渡良瀬遊水池内).jpg
上の写真は「西橋」を南方向から写しました。橋の後方に多くの山脈が写っています。近い所では、写真右手に「岩船山」や太平連山の「馬不入山」、そして左側には「三毳山」や「諏訪岳」。その後方にかすんで見えるのが、日光連山の「男体山」や「女峰山」などに成ります。
西橋2(渡良瀬遊水池内).jpg西橋1(渡良瀬遊水池内).jpg
上の二枚の写真は「西橋」を近くによって写したもので、後の写真は1993年12月に撮影したものです。

そして「東橋」です。この橋は今回初めて渡りました。「北橋」や「西橋」は何度も渡っていますが、東側にはなかなか足が向きません。
東橋(渡良瀬遊水池内).jpg
上の写真は「北橋」上から「東橋」を写しています。後方の木立から野木町の国の重要文化財に指定されている「ホフマン式煉瓦窯」の煙突がのぞいています。
東橋1(渡良瀬遊水池内).jpg東橋2(渡良瀬遊水池内).jpg
「東橋」の上から真直ぐ伸びる道路は、「西橋」から続いて谷中湖を南西側から北東側に横断しています。橋の高欄に設置されている背の高いフェンスは、以前は有りませんでした。現在も「北橋」には設置されていませんが、「西橋」と「東橋」に設置されました。設置理由は確認していませんが。転落防止なんでしょうか。でしたら「北橋」もと、考えますし。

次に谷中湖の北側、ハート型のへこんでいるところ。「谷中村史跡保全ゾーン」内の水路にも観光用でしょか木橋が三箇所架かっています。
橋の名前は旧谷中村の地名や社寺の名称になっているようです。
「鎌立橋」これは地名です。「延命橋」これはお寺の名前「延命院」から。そして「雷電橋」は「雷電神社」からです。
鎌立橋(旧谷中村跡).jpg
上の写真は「鎌立橋」、延命院共同墓地内に建つ庚申塔に<下野國都賀郡小山庄 古川・鎌立 両講中>と刻まれています。
延命橋(旧谷中村跡).jpg
上の写真は「延命橋」
雷電橋(旧谷中村跡).jpg
上の写真は「雷電橋」 

渡良瀬遊水地内には、他にも池内水路が幾つも流れています。これからはそんな遊水池内水路に架かる橋を見て行きます。
最初は巴波川の西側をほぼ並行して流れる水路に架かる「東赤麻橋」です。
東赤麻橋(江川).jpg
この橋は、第三遊水池内で、巴波川に架かる「石川橋」から西に伸びる道路上に架かっています。遊水地の北側から流入する「江川」の下流に位置するものと思われます。
東赤麻橋1(江川).jpg東赤麻橋2(江川).jpg
上の写真は東赤麻橋の上から、上流側、下流側の水路の風景を写したもので、かつて漁に使った小舟が川岸に放置された状態になっています。明治のころ前は「赤麻沼」や「石川沼」など大小の湖沼が点在する湿地だった所で、舟を使った漁も盛んなところだった様です。

次は渡良瀬川の西側を流れる池内水路で、下流域は谷中湖の東脇に沿って流れ谷中湖の南端部にて谷田川に合流している水路です。
「谷中橋」は渡良瀬遊水地のほぼ中央部を、西側の「北エントランス」から入り、西から東にほぼ一直線に横断する道路が、上記の池内水路を渡る場所に架かる橋で、現在は上流側を迂回する道路が造られて、元の谷中橋は通行止めになっています。
谷中橋(地内水路).jpg
上の写真は、現在は通行できない「谷中橋」で、上流側のう回路から撮影しました。この橋の下あたりで釣りをしている人が数人釣り糸を垂らしていました。
地内水路(谷中橋上流部).jpg
上の写真は「谷中橋」上流側う回路から水路の上流側の風景を写した写真です。水路の中に漁網らしきものが設置され、川舟の姿も見えます。手前に横に連なる山脈は「三毳山」。右方向に見える円錐状の山は岩舟町小野寺の「諏訪山」と思われます。

「谷中橋」の直ぐ下流側で、水路は南方向と西方向とに分流しています。
地内水路(谷中橋下流部).jpg
上の写真で、右手奥に向かう水路は、谷中村史跡保全ゾーンの北側を西に流れ、北水門を抜けて、谷中湖に流れ込んでいます。その途中に架かる橋が「西谷中橋」に成ります。
西谷中橋とウォッチングタワー(地内水路).jpg
「西谷中橋」の北西側橋詰に建つ「ウォッチングタワー」は、渡良瀬遊水地を高所から展望できる施設です。下の写真はそのタワーの上から「西谷中橋」を写したものです。
西谷中橋(地内水路).jpg

一方分岐で写真左方向に流れ、谷中湖内の「東橋」から北東に伸びる道路が、谷中湖の東側の池内水路と交差する地点に架かる橋が「東谷中橋」です。
東谷中橋(地内水路).jpg
この「東谷中橋」は、昭和60年の頃は現在の地点から下流側に架かっていました。が、平成5年頃には現在の場所に架かる橋の名前になっています。以前架かっていた場所にはその名残は有りません。
地内水路(東谷中橋下流部).jpg
上の写真は「東谷中橋」から池内水路下流方向を写したものです。ここにも釣り人の姿が有りました。

最後21番目の橋は「下生井橋」です。第2調節池内を流れる水路に架かっています。この水路は生井の桜堤辺りから遊水地内に流入する「与良川」の下流に成ります。
下生井橋(地内水路).jpg
この第2調節池は近年、コウノトリのつがいが人工巣塔に住み着いて、孵化したヒナを育て、無事に成長して巣立つ様子がニュースとなって、連日多くの見学者が巣立ちの様子を見守っていました。
コウノトリ2.jpgコウノトリ1.jpg
上の写真は昨年の6月1日に、生井の桜堤に出かけた時に撮影しました。この数日後に成長したヒナが巣立ったそうです。

最近、20年以上前に家族4人でサイクリングを楽しんだ、渡良瀬遊水地の葦原を一人で歩いて来ました。懐かしいあの日の事を思い出しながら。葦原に冷たい北風が吹いていました。
葦原を歩く.jpg

参考資料:
「渡良瀬遊水地 ~生い立ちから現状~」 財団法人渡良瀬遊水地アクリメーション振興財団編集発行
「渡良瀬遊水地ガイドマップ」 同上
国土地理院発行5万分1地形図 「古河」平成11年2月1日発行

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