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江戸時代中期の女性歌人、石塚倉子 [草花]

昨日の雨もやみ、今朝は靄で遠くが見えませんでした。
昨日、藤岡町冨吉の「感應寺」を紹介いたしましたが、今日はその藤岡町富吉で江戸時代中期の女性歌人として有名な「石塚倉子」の事を取り上げたいと思い、朝食後早々に車で出かけました。
途中大平町の農道を走ると、今朝の陽射しで昨日降った雨が、水蒸気になって田畑から白い湯気を登らせています。
国道50号線の鎧ヶ淵交差点を曲がって、藤岡町富吉に入る。感應寺の横を通り抜け更に南下する事450m。道路の左手に石塚倉子の御屋敷が見えます。車をその先の信号の有る交差点を右折、広い道路の左端に駐車させて、石塚邸を写真に収める為カメラを持って、家の前まで向かいました。
石塚倉子の家0.jpg
「藤岡町史」に「石塚家の系譜」が載っています。
先祖、小田氏は小田城(茨城県筑波郡小田村)にって、天正二年(1574)に佐竹氏と戦って敗れる。その後筑波郡平沢村に居住し、その子孫が江戸幕府成立後に野州皆川(栃木市)に移った。そこで姓を石塚と改めた宗興が、皆川藩主の和歌の朋友となったと言う。宗興から数えて四代目は倉子の父に当たる貞克で、享保十三年(1728)に没している。
倉子は六人兄弟だったが、兄の貞基と倉子の二人を残して若死にし、兄も家督を倉子に譲り佐渡に渡って、そこで没する。
倉子は二十二歳で鈴木度易を婿に迎えている。
倉子は若い時から老年にいたるまで和歌や文章を綴り、今小町と近在では呼んでいる。温柔で静淑、才を顕さず、女性の徳と文質とを備えた人である。
貞享三年(1686)十月に生まれ、宝暦八年(1758)十二月、七十三歳で没する。

石塚倉子の生涯に関しては、牧口正史著「巴波川(うづまがわ)・石塚倉子の生涯」と言う本が有ります。私も昨年、喜多川歌麿の浮世絵版画に石塚倉子が紹介されていたとするニュースを読んで、興味を持ちこの本を読んでいます。
巴波川(石塚倉子の生涯).jpg
石塚倉子の場合も、巴波川水運で栄えた部屋や新波河岸が近くに有った事が、この田舎に有っても江戸との文化交流が出来たものと思われます。

富吉の石塚家の御屋敷は見るからに風格が有って、落ち着いたたたずまいを感じさせます。
石塚倉子の家1.jpg
塀の先の小道は竹林の中を抜け東に流れる静戸川の方に続いています。
石塚倉子の家3.jpg石塚倉子の家4.jpg
入口の横の梅の木も丁度今、蕾が膨らみ始め、花びらを広げている物も有りました。
石塚倉子の家2.jpg石塚倉子の家5.jpg
石塚倉子の晩年の作品「花短冊」は春夏秋冬四季折々の花や鳥を描き、それに和歌を付けたものです。現在「栃木市藤岡歴史民俗資料館」に展示してあります。
石塚倉子の花短冊.jpg
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八島 守

石塚倉子(1686-1758年)著
[室八島](1756年上梓)巻第五 日光紀行 (1722年旅)

<名に立てる ー煙やいづこー春ふかくー室のやしまはーかすみわたりて>

これが石塚倉子時代に下野国の人達が知っていた室の八島の場所です。
今と全然違う場所です。

蛇足
牧口正史著「巴波川(うづまがわ)・石塚倉子の生涯」は確かフィクションでしたよね。
by 八島 守 (2022-12-30 12:45) 

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