サザンカの開花が進んでいます。 [自然の恵み]
毎日のように片付けていた庭の枯葉も、もう最後を迎えました。
夏椿の木もすっかり葉を落として、すっかり冬の装いです。
でも、今度新たに庭に散る物は、
サザンカの花びらです。
11月14日に最初に開花したのを確認してから、早いもので半月が経ちましたが、サザンカの開花が進んでいます。
次々と開花すると同時に、一方で次々と花びらを散らしています。でも、今のところは開花する数の方が多いので、次第に緑色の木は、濃いピンク色に変わって来ています。
夏椿の木もすっかり葉を落として、すっかり冬の装いです。
でも、今度新たに庭に散る物は、
サザンカの花びらです。
11月14日に最初に開花したのを確認してから、早いもので半月が経ちましたが、サザンカの開花が進んでいます。
次々と開花すると同時に、一方で次々と花びらを散らしています。でも、今のところは開花する数の方が多いので、次第に緑色の木は、濃いピンク色に変わって来ています。
壬生用水について [歩く]
壬生町城址公園の西側周辺を歩いていると、「御用水通り」と称する散策路の説明板が目に留まりました。<壬生用水を利用した歴史的散策路>との事で、その「壬生用水」について説明文には、<壬生用水の起源は、江戸時代の万治二年(1659)三浦志摩守が検地の際に、黒川の当山の地から水を引き入れ、壬生城内の防火用水とともに、その末流を田に引き入れたことに始まると言われています。>と記されています。
(御用水通りの案内掲示板)
取水地とされる、<黒川の当山の地>とは、壬生の市街地の東側、東雲公園内を南流する黒川を上流に遡ること約7km、北隣の鹿沼市北赤塚(かつての都賀郡赤塚村)です。ここで、黒川右岸から取水された「壬生用水」は、そこから「日光道中壬生通」の街道脇に沿って壬生の城下まで流れていきます。
(壬生町稲葉、「日光道中壬生通」現在の国道352号西側沿いを流れる壬生用水と「稲葉の一里塚」)
壬生城下の日光口(現在の国道352号と壬生バイパスとの交差点角のコンビニ店辺り)にて街道から南に外れ、バイパス東側「御用水通り」の入口付近で分流して、一つの流れはかつての「壬生城三の丸」の西側に沿って南流します。それが最初に記した「御用水」として整備、現在もその姿を止めています。
もう一つの流れは現在の壬生寺の南西部付近にて、日光道中壬生通りの南側から街道中央に流れ出て、道路中央を水路となって、東に流れて城下北東部にて、右(南方向)に折れる街道に従って、その中央を南流していきます。
(壬生の市街地中央を南北に走る「日光道中壬生通」を北から南に向かって撮影)
ただ、日光道中壬生通りの街道中央を流れる水路は、かつて有った高札場の前辺りまで来た所で、左に折れて街道から離れて行ってしまいます。(現在の松本内科医院とみぶ薬局の間の路地がその水路跡ではないかと考えられます。)
(壬生通りから東に外れた「壬生用水」が流れたと思われる路地)
最近「日光道中壬生通分間延絵図」第一巻(平成2年9月発行)を、偶然見る機会が有り、「壬生宿」の様子を確認しましたが、そこには下稲葉村方面から街道の西側に沿って南流してきた水路は、壬生宿の北の入口(日光口)付近にて、街道の右側(南側)から街道の中央に流出て、街道の中央をそのまま流れ、壬生宿の南の入口(江戸口)近くの、壬生の一里塚付近で左(東方向)に折れ、街道から外れる姿で描かれています。すなわち、壬生宿の北の入口から、南の入口まで一本の水路が流れる様に描かれています。が、実際は違っていました。
壬生城址公園内に建つ「壬生町立歴史民俗資料館」の展示物の中、何枚もの壬生城下を描いた古地図が目に留まりました。その中の一枚、精忠神社に伝来された「壬生城下絵図」を見ると、「日光壬生通り」の道路中央を流れる水路がハッキリと確認することが出来ます。
(右端が壬生町立歴史民俗資料館。中央の建物は図書館)
その絵図に依ると、日光口辺りで分岐し南流した「御用水」が壬生城の西側から南側へと流れ、豊栖院の北側を東西に抜ける通りを東流しました。
そこから南東の壬生交番北側に抜ける通りに沿って流れ、日光道中壬生通りに流れ出し、街道の中央水路となって南流、壬生宿の南の入口に有る「壬生一里塚」まで流れ、そこで左(東方向)に折れて街道から外れ、最終的に黒川に戻っています。
どうも文章で説明する事は苦手なので、今回の壬生城下における「壬生用水」の流れるルートを、概略図にしてみました。
この概略図は、先に紹介した誠忠神社伝来の「壬生城下絵図」を参考にしています。
略図の左上隅部分が「日光口」です。現在の「本丸一丁目交差点角のコンビニ店」辺りに成ります。
ここまで、上稲葉・下稲葉と日光道中壬生通(国道352号)の西側に沿って南流してきた「壬生用水」は、壬生バイパスを渡った辺りで二つの流れに分岐します。
そして一方は街道に戻って、壬生通り中央の水路を東に流れていきます。
もう一方の流れは南に向きを変え、かつての壬生城三の丸の西側に沿って南流しています。この部分が現在「御用水通り」としてかつての「壬生用水」を再現し、ベンチや東屋を設置して歴史を感じながら楽しく歩ける散策路として整備されています。
大手門通りを過ぎた用水は、流れを蛇行させつつ南東方向に流れていきます。
(流れの向きを南東方向に変える壬生用水)
(蛇行して来た壬生用水は、南門通りの西側に出てきました)
南門通りに出てくると、少し南流した後東方向に曲り、豊栖院北側を東西に抜ける「御長屋通りに沿って、東方向に流れていきます。
(現在の御長屋通り、もちろん水路は有りません)
御長屋通りの途中から、壬生交番北側に出る通りを抜けて、日光道中壬生通に出てきた後は、壬生通りの中央を流れ真直ぐ南流して、壬生一里塚前まで流れて行き、一里塚の所で東に折れそこからは道路の東側に沿って、最後黒川に落ち合います。
話は少し変わりますが、昭和56年2月、「ふるさとの想い出 写真集 明治大正昭和 栃木」が㈱国書刊行会から発行されました。編著者は栃木市の郷土史家で高校教師の日向野徳久さん。
私はその時早速その本を入手しました。その本の中「街並み」として、明治10年頃の栃木市大通りの写真が掲載されていて、道の中央に水路が流れている様子が写っています。添え書きに<一間幅の堀は、大通り(例幣使街道)の中央を通り、岩舟石できちんと組み、両側に洗い場が設けられていた。>と記されています。その隣のもう一枚の写真には、<明治16年、福島県令三島通庸が、栃木県令兼務として着任すると、さっそく大通りの堀を道の両側に流れるよにする工事が行われた。これにより堀は三尺幅となった。・・・>と、その工事中の写真も掲載されています。
その頃の私の考えは、道路の中央の水路の状況は不自然で、三島県令が堀を道路の両サイドに変えたのは、栃木町の特徴と捉えていましたが、実際は江戸時代の多くの宿場町では、街道の中央に堀を作って用水を流すのは一般的だったと知るのは、ずっと年を重ねた後に成ります。
今回、見ることが出来た「日光道中壬生通分間延絵図」を見ると、「壬生宿」の外に「楡木宿」・「鹿沼宿」・「奈佐良宿」にも街道中央を用水が流れていました。宿場でない「上稲葉村」も同様でした。
ただしそれは絶対的なもので無く、「飯塚宿」は確認できませんでした。
そうして見ると、明治16年に三島県令が発した、道路中央の堀を、道路両サイドに変更させる指示は、栃木町だけの事では無かったことが今となって分かりました。
いろいろ教えてくれる「壬生用水」でした。
栃木市は、明治の初めに「片岡寫眞館」が出来たことで、こうした明治初期からの、街の姿を写真で確認できることは、とても素晴らしい事だと改めて考えさせられました。近現代の歴史を知る貴重な財産です。
(御用水通りの案内掲示板)
取水地とされる、<黒川の当山の地>とは、壬生の市街地の東側、東雲公園内を南流する黒川を上流に遡ること約7km、北隣の鹿沼市北赤塚(かつての都賀郡赤塚村)です。ここで、黒川右岸から取水された「壬生用水」は、そこから「日光道中壬生通」の街道脇に沿って壬生の城下まで流れていきます。
(壬生町稲葉、「日光道中壬生通」現在の国道352号西側沿いを流れる壬生用水と「稲葉の一里塚」)
壬生城下の日光口(現在の国道352号と壬生バイパスとの交差点角のコンビニ店辺り)にて街道から南に外れ、バイパス東側「御用水通り」の入口付近で分流して、一つの流れはかつての「壬生城三の丸」の西側に沿って南流します。それが最初に記した「御用水」として整備、現在もその姿を止めています。
もう一つの流れは現在の壬生寺の南西部付近にて、日光道中壬生通りの南側から街道中央に流れ出て、道路中央を水路となって、東に流れて城下北東部にて、右(南方向)に折れる街道に従って、その中央を南流していきます。
(壬生の市街地中央を南北に走る「日光道中壬生通」を北から南に向かって撮影)
ただ、日光道中壬生通りの街道中央を流れる水路は、かつて有った高札場の前辺りまで来た所で、左に折れて街道から離れて行ってしまいます。(現在の松本内科医院とみぶ薬局の間の路地がその水路跡ではないかと考えられます。)
(壬生通りから東に外れた「壬生用水」が流れたと思われる路地)
最近「日光道中壬生通分間延絵図」第一巻(平成2年9月発行)を、偶然見る機会が有り、「壬生宿」の様子を確認しましたが、そこには下稲葉村方面から街道の西側に沿って南流してきた水路は、壬生宿の北の入口(日光口)付近にて、街道の右側(南側)から街道の中央に流出て、街道の中央をそのまま流れ、壬生宿の南の入口(江戸口)近くの、壬生の一里塚付近で左(東方向)に折れ、街道から外れる姿で描かれています。すなわち、壬生宿の北の入口から、南の入口まで一本の水路が流れる様に描かれています。が、実際は違っていました。
壬生城址公園内に建つ「壬生町立歴史民俗資料館」の展示物の中、何枚もの壬生城下を描いた古地図が目に留まりました。その中の一枚、精忠神社に伝来された「壬生城下絵図」を見ると、「日光壬生通り」の道路中央を流れる水路がハッキリと確認することが出来ます。
(右端が壬生町立歴史民俗資料館。中央の建物は図書館)
その絵図に依ると、日光口辺りで分岐し南流した「御用水」が壬生城の西側から南側へと流れ、豊栖院の北側を東西に抜ける通りを東流しました。
そこから南東の壬生交番北側に抜ける通りに沿って流れ、日光道中壬生通りに流れ出し、街道の中央水路となって南流、壬生宿の南の入口に有る「壬生一里塚」まで流れ、そこで左(東方向)に折れて街道から外れ、最終的に黒川に戻っています。
どうも文章で説明する事は苦手なので、今回の壬生城下における「壬生用水」の流れるルートを、概略図にしてみました。
この概略図は、先に紹介した誠忠神社伝来の「壬生城下絵図」を参考にしています。
略図の左上隅部分が「日光口」です。現在の「本丸一丁目交差点角のコンビニ店」辺りに成ります。
ここまで、上稲葉・下稲葉と日光道中壬生通(国道352号)の西側に沿って南流してきた「壬生用水」は、壬生バイパスを渡った辺りで二つの流れに分岐します。
そして一方は街道に戻って、壬生通り中央の水路を東に流れていきます。
もう一方の流れは南に向きを変え、かつての壬生城三の丸の西側に沿って南流しています。この部分が現在「御用水通り」としてかつての「壬生用水」を再現し、ベンチや東屋を設置して歴史を感じながら楽しく歩ける散策路として整備されています。
大手門通りを過ぎた用水は、流れを蛇行させつつ南東方向に流れていきます。
(流れの向きを南東方向に変える壬生用水)
(蛇行して来た壬生用水は、南門通りの西側に出てきました)
南門通りに出てくると、少し南流した後東方向に曲り、豊栖院北側を東西に抜ける「御長屋通りに沿って、東方向に流れていきます。
(現在の御長屋通り、もちろん水路は有りません)
御長屋通りの途中から、壬生交番北側に出る通りを抜けて、日光道中壬生通に出てきた後は、壬生通りの中央を流れ真直ぐ南流して、壬生一里塚前まで流れて行き、一里塚の所で東に折れそこからは道路の東側に沿って、最後黒川に落ち合います。
話は少し変わりますが、昭和56年2月、「ふるさとの想い出 写真集 明治大正昭和 栃木」が㈱国書刊行会から発行されました。編著者は栃木市の郷土史家で高校教師の日向野徳久さん。
私はその時早速その本を入手しました。その本の中「街並み」として、明治10年頃の栃木市大通りの写真が掲載されていて、道の中央に水路が流れている様子が写っています。添え書きに<一間幅の堀は、大通り(例幣使街道)の中央を通り、岩舟石できちんと組み、両側に洗い場が設けられていた。>と記されています。その隣のもう一枚の写真には、<明治16年、福島県令三島通庸が、栃木県令兼務として着任すると、さっそく大通りの堀を道の両側に流れるよにする工事が行われた。これにより堀は三尺幅となった。・・・>と、その工事中の写真も掲載されています。
その頃の私の考えは、道路の中央の水路の状況は不自然で、三島県令が堀を道路の両サイドに変えたのは、栃木町の特徴と捉えていましたが、実際は江戸時代の多くの宿場町では、街道の中央に堀を作って用水を流すのは一般的だったと知るのは、ずっと年を重ねた後に成ります。
今回、見ることが出来た「日光道中壬生通分間延絵図」を見ると、「壬生宿」の外に「楡木宿」・「鹿沼宿」・「奈佐良宿」にも街道中央を用水が流れていました。宿場でない「上稲葉村」も同様でした。
ただしそれは絶対的なもので無く、「飯塚宿」は確認できませんでした。
そうして見ると、明治16年に三島県令が発した、道路中央の堀を、道路両サイドに変更させる指示は、栃木町だけの事では無かったことが今となって分かりました。
いろいろ教えてくれる「壬生用水」でした。
栃木市は、明治の初めに「片岡寫眞館」が出来たことで、こうした明治初期からの、街の姿を写真で確認できることは、とても素晴らしい事だと改めて考えさせられました。近現代の歴史を知る貴重な財産です。
秋も終わりに [草花]
4年ぶりの栃木市秋祭りを堪能してきました [祭]
新型コロナウイルス感染拡大の為、4年ぶりの開催となった、栃木市秋祭り人形山車巡行を、見に行ってきました。
街の中を流れる巴波川の川面が、カラフルな色で波立っています。
正体は巴波川に架かる幸来橋を渡る人形山車が、映っていたのです。
(幸来橋を渡る倭町二丁目の神武天皇の人形を乗せた山車)
4年ぶりに見る人形山車は、秋晴れの青空の下、一段と輝きを増したように見えるのは、私の気持ちの高揚の性なのでしょうか。
リズミカルに打ち鳴らされる神田囃に誘われて、蔵の街中を取り留めも無く歩いて、人形山車を写真に収めてきました。お囃子連のメンバーも最近は女性や子供の姿が増えてきて、益々祭が華やかになって来た感じです。
(祭本部脇で待機する、萬町一丁目の山車)
(歌麿館前を巡行する、萬町三丁目の山車)
(櫻井肥料店前を巡行する、大町の山車)
(昼休みの為待機場所に押して移動する、倭町三丁目の山車)
(土蔵造りの町並み前を巡行する、泉町の山車)
(山車を支える木製の車輪と彫刻も見事な山車)
(山車巡行の先頭を行く、お揃いの祭姿の女性たち)
(栃木蔵の街大通りを巡行する、豪華絢爛な人形山車の列)
祭り会場に来ている大勢の見物客も、それぞれにコロナの感染対策をして、大会本部が呼びかけるマナーを守って、祭を楽しんでいます。
山車同志がまじかに寄って、お囃子の打ち合いをする「ぶっつけ」。ここにも感染対策が確実に申合せられていて、山車の間隔も開けて、大声も出さずに形だけのイベントとして行われました。
本来の「ぶっつけ」の様なエキサイティングな盛り上がりは有りませんでしたが、これもコロナ対応の為、仕方が有りません。
最後にすべての山車等を紹介しておきたいと思います。
①室町の「桃太郎(ももたろう)」 ②倭町一丁目の「獅子頭一対(ししがしらいっつい)」
③倭町二丁目の「神武天皇(じんむてんのう)」 ④倭町三丁目の「静御前(しずかごぜん)」
⑤萬町一丁目の「天照大神(あまてらすおおみかみ)」 ⑥萬町二丁目の「日本武尊(やまとたけるのみこと)」
⑦萬町三丁目の「素盞鳴尊(すさのおのみこと)」 ⑧泉町の「諫鼓鶏(かんこどり)」
⑨嘉右衛門町の「仁徳天皇(にんとくてんのう)」 ⑩大町の「弁慶(べんけい)」
一日も早く、新型コロナの感染が収束して、以前の様な激しい「お囃子のぶつけ合い」が復活する事を願って止みません。
街の中を流れる巴波川の川面が、カラフルな色で波立っています。
正体は巴波川に架かる幸来橋を渡る人形山車が、映っていたのです。
(幸来橋を渡る倭町二丁目の神武天皇の人形を乗せた山車)
4年ぶりに見る人形山車は、秋晴れの青空の下、一段と輝きを増したように見えるのは、私の気持ちの高揚の性なのでしょうか。
リズミカルに打ち鳴らされる神田囃に誘われて、蔵の街中を取り留めも無く歩いて、人形山車を写真に収めてきました。お囃子連のメンバーも最近は女性や子供の姿が増えてきて、益々祭が華やかになって来た感じです。
(祭本部脇で待機する、萬町一丁目の山車)
(歌麿館前を巡行する、萬町三丁目の山車)
(櫻井肥料店前を巡行する、大町の山車)
(昼休みの為待機場所に押して移動する、倭町三丁目の山車)
(土蔵造りの町並み前を巡行する、泉町の山車)
(山車を支える木製の車輪と彫刻も見事な山車)
(山車巡行の先頭を行く、お揃いの祭姿の女性たち)
(栃木蔵の街大通りを巡行する、豪華絢爛な人形山車の列)
祭り会場に来ている大勢の見物客も、それぞれにコロナの感染対策をして、大会本部が呼びかけるマナーを守って、祭を楽しんでいます。
山車同志がまじかに寄って、お囃子の打ち合いをする「ぶっつけ」。ここにも感染対策が確実に申合せられていて、山車の間隔も開けて、大声も出さずに形だけのイベントとして行われました。
本来の「ぶっつけ」の様なエキサイティングな盛り上がりは有りませんでしたが、これもコロナ対応の為、仕方が有りません。
最後にすべての山車等を紹介しておきたいと思います。
①室町の「桃太郎(ももたろう)」 ②倭町一丁目の「獅子頭一対(ししがしらいっつい)」
③倭町二丁目の「神武天皇(じんむてんのう)」 ④倭町三丁目の「静御前(しずかごぜん)」
⑤萬町一丁目の「天照大神(あまてらすおおみかみ)」 ⑥萬町二丁目の「日本武尊(やまとたけるのみこと)」
⑦萬町三丁目の「素盞鳴尊(すさのおのみこと)」 ⑧泉町の「諫鼓鶏(かんこどり)」
⑨嘉右衛門町の「仁徳天皇(にんとくてんのう)」 ⑩大町の「弁慶(べんけい)」
一日も早く、新型コロナの感染が収束して、以前の様な激しい「お囃子のぶつけ合い」が復活する事を願って止みません。
渡良瀬遊水地をレンタサイクルで回りました [自然の恵み]
先日秋晴れの好天に恵まれた日曜日、栃木市の南の端に広がる渡良瀬遊水地に出かけ、レンタサイクルを借りて遊水地周辺を回ってきました。
同じ栃木市内ですが、我家から車で約1時間かかります。それでも広大な自然が広がる遊水地は、子供が小さいころから幾度となく訪れています。
今は、一人でのんびりと時間をすごすのに、もってこいの癒しの空間です。
ハート形をした谷中湖の北側、「谷中村史跡保全ゾーン」西横に有る「谷中湖子供広場・レンタサイクルセンター」で、ママチャリを借りました。
今回の目標は遊水地の南側、三国橋を渡って渡良瀬川左岸堤防脇に建つ石碑「渡良瀬川治水紀功碑」を見てくること。渡良瀬遊水地ハートランド城で頂いた「渡良瀬遊水地ハートランドマップ」と「渡良瀬遊水地サイクリングマップ」を持って、いざ出発です。
先ず真直ぐ南に向かって、谷中湖の湖畔へ出ます。湖を周遊する道路を右に曲がって、北方向に進みます。目的地は湖の南方向ですが、貯水池内道路を走行する場合は「反時計回り(左回り)」というルールが有るので、遠回りになりますが、がんばって先ず北水門方向に行きます。
周回道路は、ランニングする人や、本格的にサイクリングする自転車が、さっそうと走っています。私の選んだママチャリは、チョッと体にフィットしません。前回はスポーティーな機種を選択して、サドルが高くて、足が付きにくく危険だったので今回はママチャリを選びましたが、やはりスポーティーな自転車の方が乗り心地は良いようです。戻って交換するのも面倒なので、今回はこれで頑張ります。
北水門過ぎた後、道路の脇に建つ展望台に登ると、遊水地を360度見渡すことが出来ます。
周回道路は、ウォーキングする人、犬を連れて家族で散策する人達、走っている人達等、思い思いに秋晴れの青空の下で、楽しんでいるのが見えます。
ここで今回私が回ったコースを概略図にしてみましたので、参考にこの後の話に付いて来て下さい。
谷中湖を左手に眺めながら進んでくると、湖畔にヨットが止められ、遠く湖面には白い帆を張ったヨットが数隻見えます。湖の奥に白く見える建物が「北水門」です。結構西側に回り込んで来ています。
以前来た時は、ウインドサーフィンも見えましたが、今回は見えませんでした。
谷中湖の西側の中心地に来ました。ここから湖を横断する道が左手、湖の中央に有る中の島に向って伸びていますが、私は逆に谷中湖の西側に沿って流れる谷田川に架かる「下宮橋」を渡って、中央エントランスから渡良瀬遊水地の西側周囲堤上のサイクリングロードを南に自転車を走らせます。
谷中湖の南端の施設「貯水池機場」が左手に見えてきました。この辺りは「海から137km・利根川から5km」に当ると道路脇に表示が建てられています。
写真奥に連なる山並みは、太平山から晃石山・馬不入山に続く、足尾山系南端の山々です。
「三国橋」迄来ました。橋を渡って渡良瀬川左岸に渡ります。目の前は茨城県第二の街「古河の市街地が広がります。
橋の上から渡良瀬川の川面に目を落とすと、小舟が一艘陽の光を受けています。
自転車は橋を渡った所で左に折れます。車道が下って行く途中右側に有る公園に、今回の目的の一つ「渡良瀬川治水祈功碑」の背の高い石碑が見えます。
公園の名前は「古河公園」。石碑は他にも「渡良瀬川改修殉業諸氏記念碑」や「佐藤洋之助先生像」と記した胸像なども建てられていました。写真に収めて先を進めます。
渡良瀬川左岸の堤防上の道を北上します。左手には渡良瀬川河川敷の「古河ゴルフリンクス」が広がっています。
右手は古河の街並ですが、前方にこんもりとした森が有ります。「雀神社」の森です。その森をバックにした堤防の端に、又石碑が一基建てられています。
石碑脇の案内板に依れば、古河の地名が読まれた万葉歌碑に成ります。
【まくらがの 許我の渡りの からかじの 音高しもな 寝なへ児ゆえに】
「許我」とかいていますが「古河」の地名に成るそうです。
先を急ぎます。渡良瀬川の左岸を北上して「野渡橋」を渡って渡良瀬川右岸に移ります。
橋の両側には、大型車両を規制する為、普通車の車幅一杯にポールが設置されています。
「野渡橋」の直ぐ上流側に渡良瀬川と思川との合流点が有ります。合流点近くで釣り人数人が釣りを楽しんでいました。
「野渡橋」を渡った所で道路が交差しています。真直ぐ進むと渡良瀬川右岸の堤防を越えて谷中湖の有る渡良瀬遊水地第一調節池内に入りますが、今回のコースはここを左に折れ、渡良瀬川右岸に沿って南に又下って行きます。
道路の脇、ところどころに車が止められています。「つくば」や「熊谷」、「群馬」ナンバーの車が多くみられます。道路の直ぐ東側を南流する渡良瀬川の河畔で、釣りを楽しむ人たちの物でした。
道路脇に建つ螺旋階段を供えた施設、「水位観測所」の表示が付いています。
この施設、遊水地内のあちらこちらで確認できます。台風や豪雨等で川の水位が上昇して、遊水地内に流入した推移を把握する為の施設と思われます。その為でしょう施設の位置情報が掲示されています。
更に先に進むと右手の堤防が異様な光を放っています。まるで鏡の様に太陽の光を反射させています。
確認する為、その先で堤防の上に向います。気になった輝く堤防には立ち入り禁止でいけませんでしたが、近くに石碑が有り「第一調節池 下流越流堤」と刻まれていました。
≪この越流堤は、利根川や渡良瀬川の流域を、洪水の被害から守るための重要な治水施設です。越流堤表面の特殊アスファルト舗装面を保護するため、法律に基づいて立入禁止としている≫との掲示がされていました。
堤防上を南に走ると。巨大な水門が有ります。
「渡良瀬遊水池第一水門」の銘板が取りついています。大きな鋼鉄製の扉が、今は三箇所全て全開状態になっていますが、下流側の利根川の水位が上昇して危険性が増した場合、この水門を閉じる事で渡良瀬川とそこに合流している「思川」や「巴波川」等の流れを止めて、遊水地内に溜める為の施設です。
水門から下流側を望むと「三国橋」やその先の「新三国橋」の姿が見えます。
ここから又、遊水地西側周囲堤を走って途中、谷田川橋を渡って、貯水池機場から谷中湖沿いの道にて下宮橋の所まで戻り、そこから谷中湖内に架かる「西橋」を渡って「中の島」へ行きます。
「西橋」付近で谷中湖の北方向を写真に撮りました。「北水門」や「太平連山」が望めます。
又、反対側南方向も写しました。写真右側に貯水池機場や第一排水門、左方向に古河の町並みが見えます。
中の島から北方向に進み「北橋」を渡って、スタート地点へ戻ります。
青空に黄色に色付いた木が鮮やかでした。
レンタサイクルを返却して、家路に戻ります。途中遊水地の北エントランス付近で、ススキの紅葉が綺麗だったので1枚写真に収めました。
ちなみに、レンタサイクルの料金は2時間以内で300円です。
同じ栃木市内ですが、我家から車で約1時間かかります。それでも広大な自然が広がる遊水地は、子供が小さいころから幾度となく訪れています。
今は、一人でのんびりと時間をすごすのに、もってこいの癒しの空間です。
ハート形をした谷中湖の北側、「谷中村史跡保全ゾーン」西横に有る「谷中湖子供広場・レンタサイクルセンター」で、ママチャリを借りました。
今回の目標は遊水地の南側、三国橋を渡って渡良瀬川左岸堤防脇に建つ石碑「渡良瀬川治水紀功碑」を見てくること。渡良瀬遊水地ハートランド城で頂いた「渡良瀬遊水地ハートランドマップ」と「渡良瀬遊水地サイクリングマップ」を持って、いざ出発です。
先ず真直ぐ南に向かって、谷中湖の湖畔へ出ます。湖を周遊する道路を右に曲がって、北方向に進みます。目的地は湖の南方向ですが、貯水池内道路を走行する場合は「反時計回り(左回り)」というルールが有るので、遠回りになりますが、がんばって先ず北水門方向に行きます。
周回道路は、ランニングする人や、本格的にサイクリングする自転車が、さっそうと走っています。私の選んだママチャリは、チョッと体にフィットしません。前回はスポーティーな機種を選択して、サドルが高くて、足が付きにくく危険だったので今回はママチャリを選びましたが、やはりスポーティーな自転車の方が乗り心地は良いようです。戻って交換するのも面倒なので、今回はこれで頑張ります。
北水門過ぎた後、道路の脇に建つ展望台に登ると、遊水地を360度見渡すことが出来ます。
周回道路は、ウォーキングする人、犬を連れて家族で散策する人達、走っている人達等、思い思いに秋晴れの青空の下で、楽しんでいるのが見えます。
ここで今回私が回ったコースを概略図にしてみましたので、参考にこの後の話に付いて来て下さい。
谷中湖を左手に眺めながら進んでくると、湖畔にヨットが止められ、遠く湖面には白い帆を張ったヨットが数隻見えます。湖の奥に白く見える建物が「北水門」です。結構西側に回り込んで来ています。
以前来た時は、ウインドサーフィンも見えましたが、今回は見えませんでした。
谷中湖の西側の中心地に来ました。ここから湖を横断する道が左手、湖の中央に有る中の島に向って伸びていますが、私は逆に谷中湖の西側に沿って流れる谷田川に架かる「下宮橋」を渡って、中央エントランスから渡良瀬遊水地の西側周囲堤上のサイクリングロードを南に自転車を走らせます。
谷中湖の南端の施設「貯水池機場」が左手に見えてきました。この辺りは「海から137km・利根川から5km」に当ると道路脇に表示が建てられています。
写真奥に連なる山並みは、太平山から晃石山・馬不入山に続く、足尾山系南端の山々です。
「三国橋」迄来ました。橋を渡って渡良瀬川左岸に渡ります。目の前は茨城県第二の街「古河の市街地が広がります。
橋の上から渡良瀬川の川面に目を落とすと、小舟が一艘陽の光を受けています。
自転車は橋を渡った所で左に折れます。車道が下って行く途中右側に有る公園に、今回の目的の一つ「渡良瀬川治水祈功碑」の背の高い石碑が見えます。
公園の名前は「古河公園」。石碑は他にも「渡良瀬川改修殉業諸氏記念碑」や「佐藤洋之助先生像」と記した胸像なども建てられていました。写真に収めて先を進めます。
渡良瀬川左岸の堤防上の道を北上します。左手には渡良瀬川河川敷の「古河ゴルフリンクス」が広がっています。
右手は古河の街並ですが、前方にこんもりとした森が有ります。「雀神社」の森です。その森をバックにした堤防の端に、又石碑が一基建てられています。
石碑脇の案内板に依れば、古河の地名が読まれた万葉歌碑に成ります。
【まくらがの 許我の渡りの からかじの 音高しもな 寝なへ児ゆえに】
「許我」とかいていますが「古河」の地名に成るそうです。
先を急ぎます。渡良瀬川の左岸を北上して「野渡橋」を渡って渡良瀬川右岸に移ります。
橋の両側には、大型車両を規制する為、普通車の車幅一杯にポールが設置されています。
「野渡橋」の直ぐ上流側に渡良瀬川と思川との合流点が有ります。合流点近くで釣り人数人が釣りを楽しんでいました。
「野渡橋」を渡った所で道路が交差しています。真直ぐ進むと渡良瀬川右岸の堤防を越えて谷中湖の有る渡良瀬遊水地第一調節池内に入りますが、今回のコースはここを左に折れ、渡良瀬川右岸に沿って南に又下って行きます。
道路の脇、ところどころに車が止められています。「つくば」や「熊谷」、「群馬」ナンバーの車が多くみられます。道路の直ぐ東側を南流する渡良瀬川の河畔で、釣りを楽しむ人たちの物でした。
道路脇に建つ螺旋階段を供えた施設、「水位観測所」の表示が付いています。
この施設、遊水地内のあちらこちらで確認できます。台風や豪雨等で川の水位が上昇して、遊水地内に流入した推移を把握する為の施設と思われます。その為でしょう施設の位置情報が掲示されています。
更に先に進むと右手の堤防が異様な光を放っています。まるで鏡の様に太陽の光を反射させています。
確認する為、その先で堤防の上に向います。気になった輝く堤防には立ち入り禁止でいけませんでしたが、近くに石碑が有り「第一調節池 下流越流堤」と刻まれていました。
≪この越流堤は、利根川や渡良瀬川の流域を、洪水の被害から守るための重要な治水施設です。越流堤表面の特殊アスファルト舗装面を保護するため、法律に基づいて立入禁止としている≫との掲示がされていました。
堤防上を南に走ると。巨大な水門が有ります。
「渡良瀬遊水池第一水門」の銘板が取りついています。大きな鋼鉄製の扉が、今は三箇所全て全開状態になっていますが、下流側の利根川の水位が上昇して危険性が増した場合、この水門を閉じる事で渡良瀬川とそこに合流している「思川」や「巴波川」等の流れを止めて、遊水地内に溜める為の施設です。
水門から下流側を望むと「三国橋」やその先の「新三国橋」の姿が見えます。
ここから又、遊水地西側周囲堤を走って途中、谷田川橋を渡って、貯水池機場から谷中湖沿いの道にて下宮橋の所まで戻り、そこから谷中湖内に架かる「西橋」を渡って「中の島」へ行きます。
「西橋」付近で谷中湖の北方向を写真に撮りました。「北水門」や「太平連山」が望めます。
又、反対側南方向も写しました。写真右側に貯水池機場や第一排水門、左方向に古河の町並みが見えます。
中の島から北方向に進み「北橋」を渡って、スタート地点へ戻ります。
青空に黄色に色付いた木が鮮やかでした。
レンタサイクルを返却して、家路に戻ります。途中遊水地の北エントランス付近で、ススキの紅葉が綺麗だったので1枚写真に収めました。
ちなみに、レンタサイクルの料金は2時間以内で300円です。