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栃木市尻内町で神社三昧 [栃木市の神社]

栃木市の市街地から北西方向へ向かう、主要地方道栃木粕尾線、四車線の整備された道路は、車を走らせると快適に走行できる。箱森町から野中町、吹上町、大森町、仲方町、梓町と過ぎると、左右に山が迫ってきます。寺尾地区に入ると国道293号線に至る。
この国道293号に沿った地域が、今回神社巡りを行う尻内町です。そして、その尻内町の中心地点は永野川に架かる「尻内橋」周辺です。
下流側からの尻内橋、奥の山が三峰山.jpg
(永野川に架かる「尻内橋」、下流側から撮影。奥に望む山が寺尾地区のシンボル「三峰山」です。栃木の市街地から見ると、鍋を伏せた様に見える事から「鍋山」と呼ばれています。地元の子供達からは、「ゾウ山」と呼ばれています。大きく丸まった背中の右に頭が見え、確かにゾウの形に見えます。)

その尻内橋の上から西の方角を望むと、手前に信号機に「尻内町」の表示が有る交差点、左奥に時計塔のとんがり屋根が有る、元の寺尾南小学校の建物。その学校の裏手の山がズット手前に迫って来ています。
この山の上に今回最初に訪問する神社、元尻内村の村社だった「愛宕神社」が鎮座しています。
右手前の山に愛宕神社が鎮座.jpg
(写真右手のこんもりとした小丘の上に、最初に訪れる「愛宕神社」が鎮座しています。)

尻内町の信号機の有る大きな交差点から、国道293号を西方向に100メートル程行くと、元の寺尾南小学校の手前、道路の右手に「愛宕神社」の参道入口が有るので、そこを右折します。前方に石の鳥居が見えます。車はその手前右側に地区の公民館が有るのでその空き地に駐車させて貰います。
愛宕神社入口.jpg
(国道沿いに建てられた「愛宕神社入口」の標柱、正面奥に石の鳥居と石段が見えます。)

愛宕神社石段と石碑.jpg
(鳥居を潜り、石段を登る。最初の踊り場、目の前に1基の石碑が建てられています。「愛宕神社 本殿石段 改築記念碑」です。石段は斜め左方向に進み、その先で「く」の字に折れて山の上に向かいます。)

愛宕神社社殿.jpg
(社殿前に出ました。境内は意外と広々してます。拝殿の左方向に神楽殿、右手奥に1基の石碑が建ています。参拝を済ませてから、石碑の元に向かいます。)

改築記念碑(碑表).jpg篆額部分.jpg
石碑を見てみましょう。正面に大きく「改築記念碑」、右側に建立時期でしょう、「昭和三十八年四月十四日」、左側には「栃木県知事 横川信夫書」。石碑上部の篆額には「頌徳」の文字が篆書体で浮き彫りされています。「頌徳(しょうとく)」の意味は、広辞苑によると「功績をほめたたえること」と有ります。
石碑の後ろ側に回り、碑文の内容を確認してみます。
改築記念碑(碑文).jpg
(石碑に刻まれている内容を書き写してみました)

碑陰冒頭に祭神の名前が記されています。「加具土命(カグツチノミコト)」とは、調べてみると記紀神話の火の神で、「古事記」では<火之夜藝速男神>とか<火之炫毘古神><火之迦具土神>と表記され、「日本書記」では<軻遇突智>とか<火産霊>と表記されています。
愛宕神社は栃木市内に14社確認出来ますが、主祭神を確認すると、「火産霊神(ほむすびのかみ)」が6社、「火産霊命(ほむすびのみこと)」4社、「軻遇突智命(かぐつちのみこと)」3社、そして「軻遇突智神(かぐつちのかみ)」1社となっていますが、全て同じ「加具土命」です。
この神社の創設は慶長年間【1596年~1615年)と伝えられています。
この石碑は、昭和38年4月14日社殿や神楽殿、石段等を造営し遷宮式を執り行った時に、改築に必要な資金を社有林の杉桧を売却して得る事が出来た事で、大正12年に村の財産の一部山林を愛宕神社の社有林とした当時委員の功績たたえ、後世に伝え遺す為に建立したものと碑文に刻まれています。

それでは次の神社に向かう事にします。愛宕神社を出て、更に国道293号を西に進んで行くと、400メートル程で道路右手の小丘の上に朱塗りの鳥居が見えます。国道から車1台が入れる急勾配の細い道路に入り、鳥居の前の広場に車を止めます。
星宮神社鳥居.jpg
(国道293号の右手高台に朱塗りの鳥居を望む)
星宮神社の神額.jpg庚申塔や男體山と刻まれた石仏.jpg
(鳥居には「星宮神社」と記した神額が掲げられています)(鳥居脇の灌木内に3基の石仏)

鳥居の左側、灌木の中に、「庚申塔」と刻した安政七庚年申二月廿五日の日付けの有る文字塔(西暦1860年でその年の3月18日から元号は万延に変わっています。)や風化が激しい青面金剛像を刻した石仏、そして力強い文字の「男體山」と刻した石塔が祀られています。
鳥居を潜り、石段を登って行くと最初の踊り場に石灯籠が1基建っています。
石燈籠11.jpg石燈籠12.jpg
(参道石段途中の踊り場に建てられた石灯籠)

石灯籠の正面柱の部分には、「奉納 子安觀世音」と刻されています。その左側面には「野州佐埜上彦間 綪屋清七」、右側面には「嘉永三年庚戌正月吉日」(西暦1850年)が刻されています。
何故、観音様の奉納灯篭がこの神社境内に建つのか、別の所から移されたものか分からない。

更に石段を登り社殿の前へ、参拝を済ませて境内を散策、石碑等は有りません。石灯篭が3基建っています。
星宮神社参道石段.jpg星宮神社社殿覆屋.jpg
石燈籠21.jpg石燈籠22.jpg
社殿は覆屋の中に祀られています。石灯篭に刻された日付けを確認すると、「正徳元辛卯年九月吉祥日」(1711年)が、確認出来ました。
南向きの山の斜面で杉木立に囲まれた境内は、静寂に包まれていました。
星宮神社を名乗る神社は栃木県が日本国内で圧倒的に多いと言われています。
昭和39年栃木県神社庁発行の「栃木県神社誌」によると、「星宮神社」の名称で登録されているのは、156社となって、2番目に多い「稲荷神社」98社の約1.5倍も有ります。その栃木県内の中でも下都賀郡が41社です。(2番目が芳賀郡で33社、3番目が河内郡32社、4番目塩谷郡25社となっております。)
ちなみに、最初に訪れた「愛宕神社」も多く、栃木県内で3番目で83社の登録が有ります。
栃木市内に有る「星宮神社」の数は、20社確認出来ます。しかし、この20社には今回訪れた尻内町の「星宮神社は含まれていません。
「星宮神社」の主祭神は「磐裂・根裂」を祀る所がほとんどです。(20社中14社)
この「イワサク・ネサク」は日本神話に登場する神で、「イザナミ」が火の神「カグツチ」生むと同時に火傷を負ってしまい、それが元でお亡くなりに成り、それを悲しみ怒った「イサナギ」が「カグツチ」の首を切った際に、十拳剣の先に付いた血が垂れて生まれた三神の一番目と二番目の神で、三番目の神は「イワツツノオ」となります。
「イワサク・ネサク」では無い神を主祭神とする神社も有ります。「香々背男命(カガセオオミコト)」2社、「瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)」2社、「経津主命(フツヌシノミコト)」1社、その他1社です。

それでは三番目の神社に移動します。
国道293号線を来た方向に戻り、永野川に架かる「尻内橋」も渡り、主要地方道栃木粕尾線との交差点を越えた先、国道が再び山間部に差し掛かる手前、道路右側に目的の神社の鳥居が見えてきました。
駒岡神社1.jpg
(三番目の神社、写真左端に写る道路は国道293号に成ります)

鳥居の前の広場に車を駐車して社殿に向かいます。参道の階段は昭和六拾年十二月吉日の竣工で、中央にステンレスパイプ製の手摺りが設けられています。ただ階段のピッチが狭い感じで、登りは気に成らなかったが、下りは少し歩幅に合わなく、下りるのに少し気を使いました。
駒岡神社参道石段.jpg駒岡神社2.jpg

この神社の名称を記した鳥居の神額はかすれていて判読できません。拝殿には扁額等無く、何んと言う神社か確認出来るのは、社殿の右方向に建てられた石碑に依りました。
石碑には「駒野神社改築記念碑」と刻されており、神社名は「駒野神社」と判明しました。
駒岡神社31.jpg
この神社について調べてみると、「栃木県神社誌」には先ほどの「星宮神社」と同じく掲載されていませんでした。神社の由緒を調べる糸口は、先ほどの改築記念碑の冒頭に刻されている「駒野神社風土記」の文章に有りました。そこには「源義家と尻内について」記されています。
駒岡神社風土記.jpg
内容的には、その様な言い伝えが残っていると言うものだろう。令和元年5月に発行された「寺尾地区地名の由来と自然災害」(栗原 栄著)の中に、「尻内」町名の由来についても、防災士と言う専門的な見方で解説されています。更にこの「駒野神社」の事についても解説されておりました。

先の石碑の「駒野神社風土記」に記されている、神社名の由来について<源義家が乗っていた馬が永野川を渡ったこの地で子馬をうみ、死んだので小祠をたてて、駒の明神と称した。現在の駒野大明神(駒野神社)である。>との話が夢が有ってそれも良いなと思うものです。

これで尻内町の神社三か所を巡りました。
尻内町三社巡り図.jpg
(尻内町の三つの神社の位置関係を概略図に表してみました)

「愛宕神社」「星宮神社」「駒野神社」の三社。この三社の内栃木県神社誌に登録されているのは、最初の「愛宕神社」の一社だけで、他の二社は掲載されていませんでした。その訳が何となく理解できる事実が、最初に訪れた「愛宕神社」の参道の途中に建てられた石碑の碑文の中に有りました。
愛宕神社本殿石段改築記念碑.jpg愛宕神社本殿石段改築記念碑(碑陰).jpg
(愛宕神社参道途中に建つ「愛宕神社本殿石段改築記念碑」の表と裏)

碑陰の確認は斜面の山側で足場が悪く、近くまで行けなかったが何とか写真で確認出来ました。碑陰に刻されている碑文は、駒野神社祭神と星宮神社祭神の合祀を記念する内容になっていました。碑文を書き写しました。
愛宕神社本殿石段改築記念碑(碑文).jpg
(「愛宕神社本殿石段改築記念碑」の碑陰に刻まれた、駒野神社・星宮神社祭神祀記念碑文)

戦前の国家神道の際、神社境内は献上して国有に編入されていたが、碑文に有る様に昭和20年の大東亜戦争終結により、国家神道が宗教法人に改正されたが、その折り駒野神社・星宮神社を宗教法人として申請しなかった為国有地と成ってしまった。そこで愛宕神社所有の山林を売却したお金で、駒野神社・星宮神社の境内地を払い下げし、愛宕神社境内地として二社を末社として合祀して対処した事が刻まれております。
この碑文により「駒野神社」と「星宮神社」が「愛宕神社」の境内地末社と成った事で、「栃木県神社誌」には単独で登録されなかった理由が理解できました。改めて神社誌に掲載されている尻内町の「愛宕神社」の紹介文を読むと確かに末社として「駒野神社」と「星宮神社」が記されておりました。
尻内町の氏子の皆さんの三社への崇敬の心持を窺い知る事も出来ました。色々勉強にもなりましたし、楽しい尻内町の神社三昧でした。


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栃木市箱森町の鷲宮神社 [栃木市の神社]

今回は、地元の鷲宮神社について調べてみました。
私の写真集の中に、今から50年程前に撮影をした、鷲宮神社の写真が一枚有ります。
その頃の私は、栃木市内の神社仏閣の写真を撮影して回っていましたので、その中に偶然ですが、この鷲宮神社の写真も有りました。
1968年6月撮影鷲宮神社.jpg
(私が昭和43年6月に撮影した、箱森町の鷲宮神社の写真です)

写真には改築されたばかりの新しい拝殿の姿が写っていました。そして、その写真の左端に石碑が写っていますが、その石碑を確認すると、「鷲宮神社拝殿改築記念碑」とあり、「昭和43年4月15日竣工」の日付けが碑陰に刻まれていました。
鷲宮神社(箱森町)石碑1.jpg鷲宮神社(箱森町)石碑2.jpg
(境内の西側塀際に建てられた「鷲宮神社拝殿改築記念碑」、表と裏)

栃木県神社誌(昭和39年2月発行)によると、この「鷲宮神社」について、旧村社、栃木市箱森町453番地、主祭神は天日鷲命(あめのひわしのみこと)、由緒沿革については、天正年間の創立とのみわかり、由緒は不詳である、と記されています。
又、栃木市老人クラブ連合会の伝承活動昭和63年度「栃木市の社寺」には、「運営及び由来」に、≪中世期日向野四郎兵衛の祖先が、武州に戦い鷲神に祈り生還することを得、勧請し守護神とした。天明年間村の鎮守としたが、明治年間まで同家が奉幣していた。現在は自治会が運営している。・・・(後略)≫
他に、栃木県の地名(平凡社・1988年8月25日発行)には、「箱之森村」の解説の文中に、≪約一町四方の郭をもつ中世の御辺(ごへん)館跡は、江戸時代に名主日向野が祖の館として名付けたといい、今も当地一帯を御辺とよぶ。この北東に箱森小屋城があったとみられる。名主日向野が勧請したという鷲宮神社に隣接して松樹院があり、境内に長沼宗光が草庵を結んだと伝える阿弥陀堂があった。これを宗光の通称にちなんで悪五郎堂とよんだ。明治初年に松樹院は廃寺となり、同堂は南坪に移された。≫
これらの文献からも、この鷲宮神社の由緒はハッキリしないのが実態と考えます。

そもそも鷲宮神社の名称が有る神社は栃木県内には、先の栃木県神社誌に登載されているものは、7社しか有りません。良く目にする「星宮神社」は156社、「稲荷神社」が98社、「八幡宮」78社と数が多い神社です。ただ神社には地域性が強いものも有ります。例えば数的には79社と多い「温泉神社」ですが、栃木県南地域では、見る事は有りません、そのほとんどが県北の那須・塩谷地区です。
栃木県内の「鷲宮神社」7社の内2社が栃木市内に有ります。その一つがここ箱森町の「鷲宮神社」で、もう一つは都賀町家中の「鷲宮神社」になります。
鷲宮神社(都賀町)3.jpg鷲宮神社(都賀町)2.jpg
(都賀町家中の鷲宮神社、毎年11月23日の勤労感謝の日には、盛大に例大祭が行われます)

「鷲宮神社」で有名なのは、埼玉県久喜市鷲宮一丁目にある神社で、そのホームページを開くと、「関東最古の大社」「お酉さまの本社」と称しています。
同じ「鷲宮神社」と称していますが、主祭神を見ると、我が箱森町は先に記したとおり「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」、都賀町家中の鷲宮神社の主祭神は、同じ「天日鷲命」の外、「大己貴命(おおなむちのみこと)」「豊受姫命」「火産霊命」の四柱です。一方埼玉県の「鷲宮神社」の主祭神は、「天穂日命(あめのほひのみこと)」「武夷鳥命(たけひなとりのみこと)」「大己貴命」の三柱です。

私は普段神社に参拝する際(寺院の場合も)、そこに祀られている神様(仏様)について、ほとんど気にしていませんし理解していません。こうして改めて調べて行くと、神社と言うものが全く理解できなくなってしまいます。良く日本の神様は「八百万(やおよろず)の神」と称し、実に多くの神様の名前が出てきます。
旧栃木市内に有る神社に祭られている神様だけでも84柱も有ります。その中には、同じ神様でも呼び方や違う漢字で表す神様も居りますので、混乱して来ます。
例えば「大山祗命(おおやまつみのみこと)」を祀っている神社が6社有ります。「大山咋命(おおやまつみのみこと)」読みは同じですが漢字一字が異なっています、3社有りました。他に「大山津見命(おおやまつみのみこと)」の漢字を使っているのが1社。「大山祗神(おおやまつみのかみ)」「大山咋尊(おおやまつぎのみこと)」と書くところが各1社見られました。

「鷲宮神社」に戻ります。栃木県内に7社有ると書きましたが、その内5社が主祭神に「天日鷲命」を祀っています。後の2社は「武夷鳥命」を祀っていました。
鷲宮神社(真岡市)1.jpg鷲宮神社(真岡市)2.jpg
(真岡市鷲巣に鎮座する鷲宮神社、主祭神は「武夷鳥命」になります)
鷲宮神社(佐野市)1.jpg鷲宮神社(佐野市)2.jpg
(佐野市犬伏上町に鎮座する鷲宮神社、主祭神は「天日鷲命」、配神に「武夷鳥命」など)

それぞれの神社の成り立ちが、そこに秘められているのかもしれません。

我が箱森町の「鷲宮神社」は、旧村社と成っています。箱森町の中には他にも「十二社神社」や「雷電神社」の無格社、そして指定社の「錦着山護国神社」が、先の栃木県神社誌に登載されています。その他にも町内には「弦巻神社」や「長江八幡宮」も祀られています。他に無くなってしまったものか「熊野神社」や「小川八幡宮」などもかつては祀られていたようです。
明治4年(1871)の太政官布告に伴う「社格制度」、村社も「一村一社」と言う事で、「鷲宮神社」が選ばれたものと思われます。それも昭和21年(1946)に廃止されました。
現在、この「鷲宮神社」は箱森町西部自治会によって管理されています。 昭和24年度版栃木市勢要覧に有る、「町内別人口及世帯」では箱森町として441世帯・2,230人と記されていますが、その翌年の昭和25年度版では、箱森町西部193世帯958人、箱森町東部176世帯864人、箱森町一丁目99世帯465人、と三つの町内に分割されています。ちなみに現在は自治会は箱森町東部が更に二つに分かれ、「東部」「中央」「西部」そして「一丁目」の4自治会と成っています。但し栃木市の人口統計では分割されず箱森町2,311世帯5,537人(令和2年3月31日現在)と成っています。

冒頭に紹介した「鷲宮神社拝殿改築紀念碑」の碑陰に有る「寄附者芳名」には、寄附金額と名前が刻まれていますが、その中に「東京都」とか「越谷市」「鹿沼市」などの外に、「萬町」「泉町」「箱一」「錦町」などの住所が付記されています。住所の但し書きのない人達は、地元の箱森町西部に在住されている方達であると思われます。

箱森町の鷲宮神社の例祭は、毎年11月23日に行われていますが、かつての賑わいは無くなりました。
それでも地元のお囃子保存会の演奏披露やバザーなどが行われているようです。
私はこの日、神前に参拝した後、境内で販売している、藁苞(わらずと)に米粉を卵の形にこねて作った団子を入れたものを、買って帰ります。この団子を食べるとその年風邪をひかないと、子供の頃から大人たちに聞かされていました。
鷲宮神社(箱森町)幟旗.jpg鷲宮神社(箱森町)卵団子.jpg
(鷲宮神社例祭に掲げられる幟旗) (例祭に販売される卵型団子を入れた藁苞)

この藁苞に入れた卵型の団子については、先の真岡市鷲巣の鷲宮神社にも有り、地元では「つとっこ」と称して神前に供える古式の伝統が受け継がれています。
この神社の有る真岡市鷲巣は旧二宮町長沼の直ぐ南に位置していますが、二宮町長沼と言うと、下野国長沼淡路守宗政より七代、従五位駿河守宗光が正慶二年、由緒ある皆川庄筥森に来て如来堂(松樹院)を建て、念仏三昧に入り、この地で入寂したと言う話に、何か繋がりを感じるものが有ります。
箱森の成り立ち、鷲宮神社の由来等々、地元の事と言いながら、知らない事ばかりです。

※参考資料 栃木県神社誌(昭和39年2月11日、栃木県神社庁発行)
         私見皆川氏・長沼氏と栃木郷(平成15年11月吉日、岸慶蔵著)
         目で見る栃木市史(昭和53年3月31日、栃木市発行)
         栃木市の社寺(栃木市老人クラブ連合会、伝承活動昭和63年度)
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藤岡町甲の六所神社 [栃木市の神社]

栃木市藤岡町甲の本郷地区は蓮花川の蛇行によって形成された、緩い河岸段丘の上に有り、字本郷東は台地の東方向に張り出しています。そんな台地を北側から東側へと回り込む様に、現在の蓮花川が静かに流れています。
台地の東端となる本郷東に、今回訪れた六所神社が有ります。
六所神社.jpg
(藤岡町甲の本郷東の台地の上に祀られた「六所神社」)

私が訪れた12月の始め、鎮守の森には木漏れ日の中に紅葉が輝いていました。
六所神社の紅葉.jpg
(六所神社境内の紅葉)

参道を進み拝殿にて参拝を済ませ周辺散策へ。
この神社の主祭神は「天照皇大神」、配神として「伊弉諾命」「伊弉冊命」「月読命」「誉田別命」「素盞鳴命」が祀られています。主祭神と配神合わせて六柱を祀った社から、「六所神社」です。
六所神社1.jpg六所神社2.jpg
(六所神社正面拝殿)                            (「六所神社」神額)

昭和39年に発行された「栃木県神社誌」によると、栃木県内に見られる「六所神社」は、当社の外には宇都宮市宝木町二丁目の一社が見られるのみです。神社の由緒沿革には、≪寛文11年上野国邑楽郡藤岡町より、当字部落に移住し、前住地の氏神六柱を勧請した。≫と、記されています。
寛文11年(1671)は、江戸時代の第4代将軍徳川家綱のころ、上野国は群馬県、邑楽郡は栃木県の南隣に接する、利根川と渡良瀬川とにはさまれた地域、現在の館林市を中心に周辺の板倉町・明和町・千代田町・邑楽町・大泉町などの区域です。藤岡町は上野国邑楽郡では無く下野国下都賀郡に属する地域に成りますが、寛文11年頃は館林藩は徳川綱吉が藩主で25万石の親藩ですが、当時渡良瀬川の左岸に位置する藤岡は古河藩領でした。「藤岡町史」に有る年表の中に、≪寛文9年(1669)から延宝3年(1675)、藤岡村ほか、古河藩領の領民らが、宇都宮西原新田開発のため移住≫との記載が有ります。このことから藤岡の地から宇都宮の此の地に移り住んだ人達が居たことが確認出来ました。
グーグルマップにてこの宇都宮に有る六所神社を検索すると、社殿の横の建物に「藤岡公民館」との表示もみられ、その繋がりを物語っています。
それでは、移住前の藤岡町の「六所神社」は何所なのか、私は当初県内に残るもう一つの藤岡町甲に鎮座している「六所神社」と考えていました。このブログを書いた時は、そのように書いてしまっていましたが、その後更に調べて行くと、現在の「藤岡神社」が元々は「六所神社」で有った事を知りました。
確かに藤岡町甲は、昔は甲村でであり藤岡では無かった訳ですから。
現在の藤岡神社境内に建てられた説明板には、≪天慶3年(940)の創立にして、旧くは六所大明神と称せられ、藤岡町の総鎮守とされています。御祭神は、伊弉諾命、伊弉冉命、天照皇大神、月読命、天児屋根命、天宇受売命の6神を奉斉しています。(中略)文政4年(1821)紫岡神社と称せられるも、明治8年(1873)藤岡神社と改称します。≫と記しています。
藤岡神社.jpg六所大明神1.jpg
(古くは「六所大明神」と称した「藤岡神社」)   (藤岡神社の鳥居に「六所大明神」の神額)

それではもう一社、藤岡町甲の六所神社の由緒沿革は、「栃木県神社誌」によると、≪持統天皇の8年正月28日の創立で、天正5年4月13日兵火にかかり、ことごとく焼失した。寛永5年3月15日再建し、昭和33年本殿雨覆、幣殿拝殿を改築現在に至る≫と、記されています。
持統天皇は第41代天皇(690年2月14日~697年8月21日)、その8年と言う年は694年と成りますから、相当に歴史の有る神社です。
六所神社4.jpg六所神社3.jpg六所神社5.jpg
(拝殿向拝部を飾る彫刻)


現在の社殿は昭和33年に改築されたものです。
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(本殿廻りに施された彫刻)

拝殿に向かって左手奥の木立の中に、「六所神社」「社殿改築記念碑」と刻した大きな石碑が建てられています。揮毫したのは当時の内閣総理大臣、岸信介です。
碑陰には寄附をされた人達の名前と金額がびっしりと刻されています。その数478名、上段半分ほどに大字出身寄附者237名、その下に「本郷」124名、「中耕地」70名、「高取」47名の名前が連なります。
最下段には建築委員会35名。左下部に設計者、棟梁、副棟梁、鳶の名前そして宮司の名前を読み取ることが出来ます。
境内に建つ石碑.jpg社殿.jpg
(境内に建てられた「社殿改築記念碑」)      (社殿を西側より撮影)

今も地元の人達に愛されている様子が、境内の整備状態から窺い知ることが出来ます。
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続く猛暑のなかで [栃木市の神社]

今日、8月1日も早朝から30℃を越える暑さとなりました。
日本一暑い町を競う、埼玉県熊谷市と群馬県館林市、そこに最近は我が栃木県の佐野市の名前も顔を出し始めています。このまま行くと私の住む栃木市も、「今日、最高気温となった町」に名を連ねる様になるのではと心配に成ります。
今、23時に成ろうとしているのに、目の前の温度計は「29.6℃」を表示しています。エアコンの設定温度は「27℃」ですが、部屋の温度はそこまで下がってくれません。扇風機も併用してやっと暑さを凌いでいます。

私が勤務をしていた会社は、エアコンの部品を製造する会社でした。現在のエアコンはオールシーズン対応の空調機(冷暖房・除湿)が主流になっていますが、私が会社に勤め始めた頃は「ルームクーラー」で、冷房専用でしたから、毎年夏が暑くなることを願っていました。長期天気予報で「今年の夏は冷夏になる恐れが有ります」とか出ると、家電メーカーからの注文が少なくなって、減産を余儀なくされました。
生産が減れば、会社の売り上げも落ち、我々従業員の給料や賞与にも大きく影響しましたから。
エアーコンデショナーとなった現在でも、夏の暑さに影響を受けるのは、変わらないかもしれません。数年前の猛暑が続いた年には、家電量販店のエアコンが売れて売れて、売り場から展示しているエアコンまでもが消える事が有りました。今年はどうなのでしょうか。

気になる今後の天候ですが、明日も明後日もこの暑さが続くと言います。そして多少の変動も有りますが、8月いっぱいは暑い日が続きそうだと、天気予報。
こうなると少しでも涼しい所に避暑に行く事を考えますが、日本地図で気温の分布を見るとどこもかしこも真っ赤に塗られています。さらにその上の紫色の地域も広がっています。何処に行っても暑そうです。

あとは神頼みでしょう。毎年8月中旬頃の日曜日に太平山神社では「涼風祭」と言う祭事が執り行われています。神官と氏子の皆さんが、畳3・4枚程の大きな団扇を使って、境内に有る社殿の一つ一つをそして、参拝に来られた皆さんをその大きな団扇で扇いで下さいます。
涼風祭3.jpg涼風祭1.jpg
(2015年8月9日撮影、太平山神社拝殿等に涼風を送る氏子の皆さん)
そして更に栃木の街に向かって扇いで、太平山から栃木の街に涼風を送られます。栃木の街に住む皆さんが涼しく感じる様に、その風は太平山の山肌を駆け下りて行きます。

早くその日が来ます様に。
太平山神社の「涼風祭」については、2015年8月9日に紹介をした事がありますので、少し写真も重複しています。(初めて涼風祭を撮影したのは、もう35年以上も前の事に成ります)

涼風祭4.jpg涼風祭5.jpg
(太平山神社本殿に涼風を送る神官と氏子の皆さん)(栃木の街に向かって1・2・3回と大団扇で扇ぐ)
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栃木市箱森町の悪五郎神社 [栃木市の神社]

私が住んでいる栃木市箱森町に、悪五郎神社と称する小さな建物が建っています。
場所は「とりせん栃木店」のお店の丁度裏手、市道2051号線の道路脇に石の鳥居が建っているので、神社で有る事が認識出来ます。
悪五郎堂1.jpg
(市道2051号線の脇に見える石の鳥居、後方の建物は「とりせん栃木店」)
ところが、鳥居を潜って建物の前に来ると、神社としては少し違和感が有ります。建物は間口1間、奥行き1間ほどで、正面は観音開きの扉、側面及び背面は大谷石が積まれ、防火対応に成っています。その正面上部中央に掲げられた扁額に書かれた文字は「悪五郎堂」。その手前に吊るされているのは、鈴では無く鰐口です。この様子を見る限り神社と言うより寺院の様です。
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(悪五郎神社正面)                  (「悪五郎堂」と記した扁額、そして鰐口も)
それもそのはずで、元々は「正樹院」と言い、銅仏の阿弥陀如来を安置する堂宇でした。現在はこの場所に祀られておりますが、「栃木郷土史」によると、
≪現今悪五郎神社と云うは、明治維新の折り、全村神道と化し、仏像院破壊せられ遂に散失せり、後、森戸家にて先祖を思う余り、神社として此所に安置す≫と、記されています。元は箱森の鷲宮神社境内に有りましたが、前記の如く神仏分離令により離れ、4回ほど場所を変え現在に至っています。

明治元年十一月、箱森村より知県事様ご役所に提出された「箱森村明細書上帳」(栃木市史、資料編近世)の中に、≪阿弥陀堂壱ヶ所、舗地二間二間、除地ニ御座候。 但、正寿院地内ニ有、之同院支配ニ御座候、真言宗吹上村正仙寺末寺≫又、≪正寿院、当時無住 本寺兼代ニ御座候≫と、記されています。
「箱森村明細上帳」には、この正寿院の他、宝蔵院と宝珠院の寺院名が記されています。これら箱森村に有った三つ寺院は明治維新の廃仏毀釈にて全て姿を消しています。
そんな中で正寿院(松樹院・正樹院と同じ)地内に有った阿弥陀堂だけは場所を移し、悪五郎神社として今に至っています。

「悪五郎堂」の事を調べてみると、江戸時代の後期に河野守弘が20年余の歳月をかけて著した「下野国誌」を初めとして、栃木市の歴史を扱った多くの文献の中に見る事が出来ました。
昭和12年4月1日、栃木市役所が発行した、「栃木史蹟」(大浦倉蔵編著)の中にも、「悪五郎堂及び弦巻神社」と題して以下の様に記されています。
≪下野國長沼淡路守宗政より7代目の、従五位下駿河守宗光は、幼名藤五郎、無双の強勇なるが故に世に悪五郎と呼ばれた。鎌倉に出で、征夷大将軍久明親王(92代伏見天皇の御弟)に仕へ、軍功に依り菊紋を賜わりました。其の後遁世して鎌倉の大御堂に住ひましたが、其の後長沼及び皆川に関係深き下野國皆川庄筥森に来り、松樹院(草庵)を建て、阿彌陀佛如来を安置して念佛三昧に入り、皇紀2011年第97代後村上天皇、正平6年8月6日、79歳で入寂松樹院悟峰融覚と號しました。≫
長沼宗光の没年、正平6年の年号「正平」は南朝のもので北朝は観応2年になります。西暦では1351年に成ります。下野国誌では観応2年となっていました。 
「栃木史蹟」によると、その後の長沼氏は≪12代目成宗の時、古河公方滅亡と共に氏族各地に散在し、成宗の孫宗春は奥州会津に走り、芦名氏を頼りて在りしが、天文11年卒し其の男光寛光隆兄弟は、芦名氏没後旧領筥森に立帰りて居りましたが、光隆は後 備後福山侯に仕え、其の子孫は森戸を名乗りて連綿として居ります。光隆より3代目の雅楽之助の弟藤兵衛は、筥森明ケ戸に来りて、森戸を名乗りて住ひました。光寛は筥森に於いて天正4年11月10日に歿し、其子孫は民間に在ると言われて居ります。≫
今「悪五郎神社」の建つ周辺には多くの森戸姓の家を確認する事が出来ます。




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栃木市泉川町の稲荷神社 [栃木市の神社]

栃木の市街地から県道75号線(栃木佐野線)を西に向かい、錦着山の北西部にて赤津川に架かる「泉橋」を渡ると、その先に直ぐ信号機の有る交差点、そこを右折して北方向に進みます。
この道路は現在市道1021号線と言う1級幹線に成っていますが、明治の初期に発行された地形図には「従出流村至栃木町道」と、栃木町と寺尾・出流方面とを繋ぐ幹線道路でした。これは明治中期以降に鍋山の石灰を栃木町へ運ぶ為の「鍋山人車鉄道」の軌道が敷設される「鍋山新道」が出来る迄、まさに重要な道路で有りました。
コンビニの有る交差点から入って暫らくすると、道路左手前方の田んぼの先、木立の中に石の鳥居が見えて来ます。ここが今回紹介する、旧泉川村社の「稲荷神社」に成ります。
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(2018年7月撮影、市道1021号線より左奥の稲荷神社を望む)

「栃木県神社誌」を開くと、栃木市泉川町352番地 旧村社として、主祭神 稲荷神。配神 稲倉魂命。境内神社 鹿島神社・星宮神社・八坂神社と有ります。
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(稲荷神社社殿を参道入口の鳥居手前より撮影)

神社の由緒沿革として、≪後花園天皇の頃、嘉吉2年(1442)伊勢内外より遷座し祀り、稲荷神社と称し奉り享徳年間(1452~1454)、檜村と称した事が有る。その当時檜の大樹が有って、幹中より清水が湧いたのでその後、泉川と変更した。≫と、そして≪本社に現存する大欅は、その大樹である檜を中心として、2本の欅を植付たものが、檜をかこんで、現在周囲が二丈四尺(7.27メートル)余となり、一本の様に見える程成長した。この大欅は享徳年間に植樹したといわれる。天保十二年(1841)の頃、本殿及び拝殿を改築して現在に至っている。≫と記されています。

私が2013年の秋に訪れた時には、この大欅は無くなっていました。
先ほどの神社の東側を南北に走る市道1021号線を更に北に進むと、新井町の旧村社「天満宮」の東脇を舐めるように通過していますが、この天満宮社殿の直ぐ手前左脇にドッシリと根を張る立派な大欅が聳えています。この大欅も近年大きく成りすぎた為上部を詰めてしまいましたが、栃木市が天然記念物に指定している「大欅」です。
一方、こちらの稲荷神社境内に聳えていた欅も、私がまだ若かった頃に見た時は大きく感じました。1979年の3月に遊び半分でその欅の根元に登り、大地に映った木の影を写真に収めました。その影を見ると確かに神社誌に記されたように幹が2本に分かれて写っていました。
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(1979年3月撮影、稲荷神社境内の大欅)(大地に伸びる大欅の影、同日撮影)

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新井天満宮の大欅 [栃木市の神社]

栃木市新井町に鎮座する旧村社天満宮の拝殿脇に、ドッシリと力強く根を張る大欅が有ります。
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(新井天満宮の拝殿脇に根を張る大欅)
手前に栃木市教育委員会によって立てられた「天然記念物 欅」の案内。
「高さ20メートル、太さ目通り4.15メートル、根本5.5メートル、枝張り東西24.5メートル、南北22メートル、根張りも堂々として樹齢三百年ほどと思われる」と記されています。
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(大欅が天然記念物に指定されている事を示す案内板)
私はこれまで何度となく新井の天満宮を訪れ、撮影をして来ましたが、2011年の3月13日に訪れた時、欅の枝がバッサリと切られていました。恐らく枝が広く伸びすぎて社殿に被害をもたらす危険が出て来た為、予防処置として枝下ろしを行ったものと思われます。
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(2011年3月13日撮影。大欅の枝下ろしが行われた後。)
昨年の9月1日に訪れた時には、切断された枝の周りから新たに伸びた枝が元気よく緑の葉をビッシリと広げていました。
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(今又、シッカリと枝葉を広げる大欅。2017年9月1日撮影)
そこで枝下ろし前と現在の復活を始めた欅の写真を比較してみます。
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(枝おろし前の欅)                  (2017年9月1日 枝葉が復活して来ている)
私が初めて撮影した新井の天満宮の写真。現在境内の東側を南北に縦貫している道路はまだ抜けていません。以前は南側から来た道路は、天満宮を時計回りに迂回する形で、社殿前を通り西側を回り込んで、天満宮の北側より北に向きを変え松原の集落を抜け、梓村方向へと向かいました。
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(1968年に撮影をした新井の天満宮)
社殿の屋根の瓦等にも「梅鉢」の紋が付いていますが、天満宮と言えば梅の花です。そこで以前から天満宮と梅の花を一緒に写真に納めたいと、社殿の前にまだ細い梅の木が一本植えられていましたので、1999年の2月に訪れて何とか写真に収める事が出来ました。今年も2月に成りましたが、梅の木は無事に花を付けたか、又、訪れてみたいと思います。
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(1999年2月撮影、新井天満宮 社殿前の梅の花)

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栃木のお伊勢さん、神明宮へ初詣に行ってきました [栃木市の神社]

2017年の元旦は、青空が広がり風も無く、陽射しも暖かく穏やかな一日と成りました。
今年も初詣は家族揃って、旭町の神明宮まで歩いて出かけました。
我家から神明宮までは、ゆっくり歩いても30分ほど、御節で満腹と成った身には、手ごろな運動に成ります。
神明宮の参道はすでに初詣に来られた大勢の人で、行列を成していました。列の後に並んで順番を待ちます。拝殿の前まで進むのに30分ほど、それでも例年の事で、皆さん静かに前の人に続いています。
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(神明宮参道、初詣の列が出来る)

「お神明さん」、地元では神明宮を親しみを込めてこう呼んでいます。そして「お神明さん」は私の子供の頃からの遊び場のひとつでした。
幼い頃は両親と共に行きました。その頃は参道を入った左側に、電動仕掛けで動く象の乗物や、前後にスイングする馬、上下するキリンを模した乗物には、良く乗った。チェーン駆動にて楕円を描いて動く豆自動車はコーナーを回る時、速度が増し遠心力が発生する為、小さい頃はとても怖かった記憶が有ります。社殿南側の現在鳥小屋の付近に設置された、街頭テレビを見に行った事も覚えています。
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(写真は太平山上の第一公園移設後のものを、1973年7月撮影したものです)
小学校の高学年に成ると社殿裏手、東側の池の脇に有った駄菓子屋さんや稲荷神社(現在は参道入口北側脇に移されています)の周りで遊んだり、社殿南側の瓢箪池の周りや築山の木に登ったりして遊びました。
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(社殿裏手に有った稲荷神社、1979年4月に撮影)
今はもう有りませんが瓢箪池に架かる「要橋」の橋のたもとにもお店が有りました。
現在、大きく育ったクスノキの有る児童遊園は、私の子供の頃は、夏には広場の中央に櫓が組まれ、盆踊りが行われたり、サーカスの大テントが張られたりと、催し広場として利用されていた気がします。
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(児童遊園にて遊具に乗って遊ぶ子供達、1979年4月撮影)
長い時間の流れの中で「お神明さん」も色々と変化を続けていますが、社殿は今も昔のままの姿を今も留めています。

今日一日の歩数は9,712歩、歩いてると少し汗ばむ陽気でした。

箱森町鷲宮神社の、お酉様 [栃木市の神社]

今日11月23日は「勤労感謝の日」です。私の家の近く、箱森町の「鷲宮神社」ではお酉様が行われ、神社の境内において、地元自治会のバザーやお囃子の演奏が行われて、我家まで太鼓の音が聞こえてきました。
この日は地元の農家で作った、鳥の卵を模した米の粉で作った団子を藁で包装して、境内にて販売されます。「これを食べると風邪をひかないよ」と子供の頃、親から聞かされました。
私も昼近くに成ってから、自転車を飛ばして神社に向かいました。
箱森町鷲宮神社1.jpg箱森町鷲宮神社2.jpg
境内は地元の関係者の方が大勢集まっていました。まずは神前で参拝を済ませた後、さっそくお目当ての「米団子」を2本買って家に戻りました。
箱森町鷲宮神社3.jpg箱森町鷲宮神社4.jpg
さっそく藁の包装を開け、中身を取り出し電子レンジで「チン」して、私の好きな「砂糖醤油」を付けて食べました。「これで、この冬も元気で乗り切れるかな。」

天気予報では明日は雪の朝になると言っています。11月に雪が降ると54年ぶりだそうです。
幸い一昨日、車のタイヤを冬用に交換しました。少し早いかなと考えていましたが、今年は例年よりも早く雪が降る予感がしていたので、少し安心です。でもどちらかというと雨に成って欲しいです。

栃木市旭町神明宮境内の石灯籠 [栃木市の神社]

栃木市旭町に鎮座している「神明宮」は、私の子供の頃からの遊び場の一つでした。現在では正月、家族揃っての初詣に行くのが恒例になっています。
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(神明宮参道入口の大鳥居、正面奥に神明宮の社殿を望む)
大きな鳥居を潜って参道に入ると、参道の両側に石灯籠が対と成って、社殿まで4対建てられています。それらの燈籠と少し様子の違う石灯籠がただ一基、丁度手水舎の反対側に建てられています。
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(参道車止め前より社殿を撮影。右手手前は手水舎、左手手前が目的の石灯籠)
この石灯籠について、社務所にて配布している「神明宮略誌」の中で、[境内建造物]として、≪琴平宮奉献の石燈籠(亀田鵬斎揮毫)壱基≫と記されています。
神明宮石燈籠1.jpg神明宮略誌.jpg
(琴平宮奉献石灯籠)                       (神明宮略誌の表紙)
この石灯籠について、もう少し細かく見て行きます。上部から順に見て行きますと、
神明宮石燈籠2.jpg神明宮石燈籠3.jpg
(石灯籠の最上部)                  (屋根の部分、上部に文字が確認出来る)
最上部は擬宝珠の形の石が見えますが、石の色や艶の具合を見ると、この部位だけ新しく取り付けられた様です。以前撮影した写真を見ると形が変わっています。
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(昔、撮影した石灯籠、最上部の形状が異なる)
その下の屋根の部分をカメラをズーミングして確認すると、六分割した部分の一つ一つに文字が刻まれています。参道の入口方向を正面とし、時計回りにその文字を読んでみると、「金比羅大権現」と彫られている事が分かりました。
神明宮石燈籠13.jpg神明宮石燈籠14.jpg
①正面部分「金」の文字                     ②正面の左隣り「昆」の文字
神明宮石燈籠15.jpg神明宮石燈籠16.jpg
③「羅」の文字                           ④「大」の文字
神明宮石燈籠17.jpg神明宮石燈籠18.jpg
⑤「權」の文字                           ⑥「現」の文字

屋根の下に「火袋」、その下には龍の姿が刻されています。
神明宮石燈籠4.jpg神明宮石燈籠5.jpg
(屋根の下「火袋」の部分)              (火袋の下側、龍が刻されている)

龍の下側にひとまわり大きく「象」が刻されています。
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(龍の下には、体を丸めて休んでいる「象」が刻されています)

更にその下側の台座の部分、四面に刻された文字を見て行きます。文字は国語の教科書に記されるように、右から左に刻されていますが、その内容は、
まず正面に位置する面、「常明神燈」。その右側面には、「五穀豊穣」
神明宮石燈籠7.jpg神明宮石燈籠8.jpg
(正面:常明神燈)                        (右側面:五穀豐饒)
そして、左側面の文字は「慈航安穏」。そしてうしろ側の面には、「文化十四年丁丑秋九月十日 立之 鵬斎興書」と刻されています。
神明宮石燈籠9.jpg神明宮石燈籠10.jpg
(左側面:慈航安穏)                    (後面:建立年月日と鵬齊の名前)
「文化14年」と言うのは、今から199年前の1817年になります。「鵬斎」とは、江戸時代、化政文化の書家・儒学者で、栃木町に来遊していた様です。
この石燈籠は、台座に刻された日付に有る様に、文化十四年(1817)に建立されたものですが、その後慶応二年(1866)にその下に更に石の台座を組んで高くしていました。
その追加された下の台座には、多くの人名が連ねて刻されています。「太々講中」の文字も読み取る事が出来ました。台座裏面左端の部分に「願主」と有り、少し間を空けて「清水儀左衛門」「押田彌次郎」の名前が確認できます。
神明宮石燈籠11.jpg神明宮石燈籠12.jpg
(後ろ側台座の左隅の「願主」の文字と人名)(台座積石後ろ側左上隅の石に「石工」の名前)
その下台座の石組みの左上端の石の表面を少し削り、「石工」の文字の下側に「野口藤右衛門」「宮田清兵衛」の名前を何とか確認できます。
何気なく見過ごしてしまう石燈籠ですが、ジックリと観察すると、色々と発見が有るものです。

※人名など漢字の判読が難しい所も有り、違っているかも知れませんが。
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