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永野川改良復旧工事現場を寄り道しながら巡る [栃木市の河川と橋]

一級河川永野川の改良復旧工事が、着々と進行しています。
改良復旧工事が済んでスッキリとした永野川.jpg
河道を掘削し、水の流れる幅を広げて、新たに法面を整形、大型連結ブロックを敷き詰めた護岸で、スッキリとした永野川。太平山を背景にして、ゆったりとした曲線を描いて続いています。

護岸上の道路わきに、何やら謂れの有りそうな、大きな石が置かれています。周辺に何も説明板も、見られませんが、きっとこれが、かつて薗部町の人達が信仰を寄せていた、「疱瘡石」と言われる石に違いない。今回私はこの石に、初めてお目にかかりました。以前はここには無かったと思います。多分今回の河川改修工事で、ここに移動されたものと思います。
この大きな石を見て、ふと思い出しました。この「疱瘡石」の話しは、長沼英雄著「わが町さんぽ 栃木周辺見てある記」に、掲載をされています。
<明治の頃、栃木市地方に天然痘が流行したとき、この石を拝むと不思議にも病に冒されず、またかかっても軽くすんだと言われ、人々は「疱瘡を鎮める神霊を宿す恵みの石」と尊敬し、種痘の発明されない昔は、村民すべてこの石を頼りにし、詣でる人も多かったという。>と、記されています。
改良復旧工事が完了した永野川堤脇の大きな石.jpg
今、この石は、永野川に架かる「睦橋」の下流右岸に、見ることが出来ます。

永野川の改良復旧工事、護岸工事が多くの工区にて完了をして来ています。今、工事の主体は、工事対象区間内に有る三か所の灌漑用水取水堰の改築と、三か所の橋梁架け替え工事の様です。

工事の様子は、関係者以外は立ち入りが制限されていますので、遠くから眺めてみました。
まず、三か所の取水堰です。上流側から見ていきます。
最初は「二杉堰」です。この取水堰は、「二杉橋」の下流側に有ります。
2013年7月二杉堰.jpg
この写真は、2013年7月11日に撮影したものです。写真右端に写る橋が「二杉橋」になります。
下の写真は、2023年12月3日の工事の様子です。上流「二杉橋」からと、下流側「大柳橋」から撮影した写真です。
二杉堰改築現場1.jpg二杉堰改築現場2.jpg

この「二杉堰」から取水した水は、現在永野川の西側を川に並行する「八箇村用水堀」を流れ、下流側の大平町から岩舟町の田んぼを潤しています。かつて下流側「大柳橋」の西側でこの用水堀に架かっていた「恵光院橋」の親柱の一つに「八箇村用水堀」の文字が刻まれていました。
恵光院橋.jpg八箇村用水堀.jpg

この「八箇村用水堀」は、その昔は「六ヵ村用水」でした。
「栃木県の地名」(平凡社 1988年8月25日発行)の大平町の所に「六ヵ村用水」として掲載されています。
<永野川より取水した近世の灌漑用水。同川上流の平井村(現栃木市)にある二杉に大口堰を設け、その下流筋に和田山堰を設け取水し、現町域の下皆川村・富田村・現岩舟町の古橋村・沖島村・赤塚村・曲之島村の六ヵ村を潤した。・・・後略>と記されています。
何時、六ヵ村から八ヵ村に変わったのか興味が有りますが、現在「栃木市都市計画図3」の中には、「八箇村堀」とだけ記されています。

横道にそれてしまいました。工事現場に戻ります。次は「新西野田堰」に行きます。
この取水堰は、東武日光線橋梁の下流の橋「川谷橋」の200m程の場所に設置された固定堰です。写真は2015年4月16日に撮影したものです。
新西野田堰(現状).jpg
今年11月18日に行われた、「永野川改良復旧工事 第3回現場見学会」に参加して、現地を訪れた時は、まだ工事は着手されていませんでした。その時の説明では現在の場所より下流側に新たに「鋼製自動転倒堰」に改築され、永野川の水量が増水等で一定のレベルに達すると、自動的に堰のゲートが倒れて解放され、増水した水を下流側にスムースに流せるようにするとのことでした。

この「新西野田堰」より取水した水は、右岸の水門を抜けて、大平中学校の東側を南流して、県道蛭沼川連線を抜け、ゆうゆうプラザの西側を流れ、大平南中学校の東方の水田地帯を、真っ直ぐ南に向かって流れていく「赤津用水」となります。
県道蛭沼川連線に架かる「新愛宕橋」の親柱に「赤津用水」の文字が刻まれています。
新愛宕橋.jpg赤津用水.jpg

「新西野田堰」が有る場所は、大平町蔵井ですが、堰の名称はなぜか「赤津用水」の下流域となる、大平町西野田の地名となっています。この取水堰からの灌漑用水を主に利用しているのが、西野田と言う事なのか。ちなみに江戸時代、享保14年(1729)の「用水堀普請証文」(須藤喜一郎文書)に、「十二ヵ村用水」に蔵井村・野田村・新井村の村名が確認出来ます。(前出、「栃木県の地名」 平凡社の大平町「蔵井村」に掲載有り)流域的に「赤津用水」に当たるものと想定いたします。
それでは、この「十二ヵ村」はどこか。先の古文書は「蔵井村」「野田村」「新井村」の他は不詳となっているので、手元の「明治前期測量 2万分1 フランス式彩色地図」で赤津用水の水路と思しきルートたどって、そのルート上に江戸時代存在した村を追ってみた。
「蔵井村」「真弓村」「野田村」「新井村」「豊後新田村」「西水代村」「戸恒村」「兵庫新田村」「三蔵新田村」「蛭沼村」「緑川村」「前原村」などが候補として挙がる。
「野田村」は明治12年に「西野田村」に改称。「戸恒村」と「兵庫新田村」は明治9年に合併して「伯仲村」となって、同年「新井村」と「豊後新田村」が合併して「新村」となっています。

三ヵ所目は、「榎本堰」です。
榎本堰(現状).jpg
この写真は、2017年4月14日に撮影したもので、写真の右端に取水用水門が見えます。
この取水堰は、永野川左岸側で取水して下流の大平町榎本の街で道路の両側の水路に流れていきます。
榎本用水新堀1.jpg榎本用水2.jpg
現地の人に話を聞くと、現在の「榎本堰」は明治の初めごろに作られた物で、以前はもっと下流側に有ったとの事。新しく開鑿された用水路は「新堀」と呼ばれているそうです。
上の写真は永野川左岸に沿って南流する用水路です。
榎本用水3.jpg榎本用水4.jpg
左側の写真は、榎本の街を東西に走る道路に出てきた所。右の写真は東側から西に向かって撮影したもので、道路わきに水路が流れています。道路奥の突き当りが、八坂神社です。

新しい「榎本堰」は現在の場所から少し下流側にて、工事が進められています。
榎本堰改築現場1.jpg榎本堰改築現場2.jpg
工事現場を下流側から眺めてみると、新しい堰の下部構造が姿を現していました。写真はこの12月14日に撮影しました。

三つの堰共、工事はまだまだこれからの様でした。
次に、現在工事が進んでいる橋梁架け替え工事の様子も、見てみましょう。
これも上流側から確認します。
最初は大平町蔵井に架かる「諏訪橋」です。
諏訪橋架け替え現場1.jpg諏訪橋架け替え現場2.jpg
2023年11月18日の現場見学会の時には、橋台と親柱だけが残されていました。
この「諏訪橋」は、昭和9年に架けられた古るいRC橋で、以前も橋桁が一部落ちて部分的に鋼桁に架け替えられていました。この橋は大平中学校の裏手に有り、この橋を利用して通学する生徒を多く見かけました。2019年の台風の豪雨で又落橋して、通行できなくなっていました。
諏訪橋(2013年5月).jpg諏訪橋(2023年6月).jpg

次は大平町榎本に架かる「両明橋」です。
両明橋架け替え工事現場2.jpg両明橋架け替え工事現場.jpg
現在架け替え工事の為、通行止めに成っていて、榎本に渡るのにチョッピリ不便を感じますが、幹線道路では無いので、下流の「永和橋」迂回となっています。
この「両明橋」も、諏訪橋と同じ昭和9年架橋の古い橋でしたが、2015年8月に高欄を替える等の修繕を行なっており、その後の増水に何とか耐えてきていましたが、今回新しく架け替える事に成ったようです。
2013年5月両明橋.jpg両明橋(2016年1月).jpg

そして3番目は同じく大平町榎本に架かる「千部橋」です。
千部橋架け替え工事現場.jpg千部橋架け替え工事現場2.jpg
この「千部橋」は、主要地方道岩舟小山線が通っており、交通量も多いため、現在迂回用の仮橋を架けている段階の様です。
2013年5月25日千部橋(側道橋).jpg

この「千部橋」の直ぐ下流側には、旧道に架かる昭和9年架橋の「(旧)千部橋」が、2015年の豪雨で落橋した後、生活道路として修復して残されています。
今回の工事で、新しく立派な橋が架けられた後、撤去される計画と聞いています。ただ右岸の橋詰に建てられている、「千部橋供養塔」は残して頂きたいと思います。
修復した旧千部橋.jpg1993年8月旧千部橋西橋詰供養塔.jpg

これらの工事がすべて完了したとき、強い永野川が誕生します。

今回参考にした資料:
・「わが町さんぽ 栃木周辺見てある記」長沼英雄著
・「栃木市史 資料編 近世」栃木市発行
・「栃木県の地名」平凡社
・「栃木市都市計画図3」栃木市発行
・「明治前期測量 2万分1 フランス式彩色地図」(下都賀郡大平町地区) 日本地図センター発行
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変貌する永野川 [栃木市の河川と橋]

私が生活している北関東は、ここの所梅雨の中休み状態で、蒸し暑い日が続いています。
一方、ニュースを見ると連日、西日本の各地で線状降水帯が発生して、洪水や土砂崩れ等で、多くの方が被害に遭われ、大変な生活を送っている様子を、伝えています。
でも、今こうして静かに生活を送っている私たちも、4年前の令和元年10月12日、台風19号による想像を絶するような被害で、栃木市の大半を濁流の中に落とし込んだ情景は、今も眼の奥に焼き付いて消える事は有りません。
現在、被害をもたらした、市内を流れる河川の改良復旧工事が、進められています。
今回は、いち早く工事が進んでいる「永野川」の状況の内、大平町北域の永野川の復旧の様子を、定点撮影の手法を使って、見ていきたいと思います。
以前の姿は、被災以前の永野川の風景を撮影した写真を、アルバムの中から選び出し、その写真と同じ場所にて、現在の状況を撮影、比較対比する感じで、変貌する永野川の様子を確認していきます。

上流側から見ていきたいと思います。先ずは大平町下皆川の「大平橋」の上流地点に設置されている、「永野川大平橋上水位観測所」の周辺を見てみます。
大平橋上流部の水位観測所付近1.jpg大平橋上流部の水位観測所付近2.jpg
以前の写真は、令和元年(2019)2月15日に撮影したもので、その年の10月12日に通過した台風19号により、上流の両毛線永野川鉄橋の右岸上流の堤防が決壊して、鉄橋も被害を受うけています。写真の永野川堤防の向こう側、下皆川地区の田んぼは、完全に濁流に飲み込まれ、下流のカインズモールからケーズ電機、更にその下流一帯に大きな被害をもたらしています。その時この水位観測所からは、どのような情報を発信していたのか。

次は、県道栃木藤岡線の「永久橋」の上流側の状況です。
永久橋上流域1.jpg永久橋上流域2.jpg
以前の写真は、上と同じ令和元年2月に撮影したもので、手前に写る高欄は「旧永久橋」の物です。上流側に見えるのが「大平橋」になります。

次は東武日光線巴波川鉄橋の下流部分です。下流側「川谷橋」の橋上から上流部分を撮影しています。
川谷橋上流域1.jpg川谷橋上流域2.jpg
以前の写真は、平成25年(2013)5月25日の撮影です。丁度今から10年前になります。
写真奥に、東武日光線の永野川鉄橋が見えます。

次は「川谷橋」の下流域の状況です。写真に写る橋は「川谷橋」になります。
川谷橋下流域1.jpg川谷橋下流域2.jpg
以前の写真の撮影日は、上の写真と同じ日平成25年5月25日です。

そして次の写真はその下流に有る「新西野田堰」周辺の様子です。
新西野田堰付近1.jpg新西野田堰付近2.jpg
以前の写真は、平成27年(2015)4月16日に撮影したものです。
堰の上流側堤防は綺麗になっています。堰から下流側は以前のままです。この堰の下流側に架かる「諏訪橋」は、増水の被害を受けて、橋中央部の桁が流されてしまい、現在橋の架け替えに向けて工事が始まっている所です。橋の架け替えは、令和7年2月3日完成の工事予定が掲示されていました。
この橋は、川の右岸近くの市立大平中学校に通学する生徒達が、朝夕利用していた橋ですから、1日も早い完成を待ち望んでいます。

次、「山下橋」下流域の状況です。この辺りは現在のところ、まだ工事が行われている様子は有りません。
山下橋下流域1.jpg山下橋下流域2.jpg
従来の写真は、平成25年(2013)10月17日撮影ですが、現在も同じような情景のままです。写真右側に写る小丘は、諏訪神社が祀られる「磯山(標高51m)」です。

次は、「町田橋」の上流域の状況です。
町田橋上流域1.jpg町田橋上流域2.jpg
従来写真は、平成25年(2013)5月25日撮影の物です。前方に写る橋が「町田橋」になります。この辺りは、すでに綺麗に工事が完了している様子です。

比較写真はここまでです。この橋の下流に「永豊橋」が有ります。その周辺まで両側の堤防は綺麗に出来上がっていました。更にその下流まで行こうと予定していましたが、まだ工事中の様で、堤防上の道は通行止めとなっていました。

その「永豊橋」の橋上から、下流側を眺めると永野川の河道が大きく狭まっている様子を見る事が出来ます。
永豊橋下流域1.jpg永豊橋下流域その先1.jpg
「永豊橋」の直ぐ下流部分は、改良工事が終わっていて、河道幅が広くなっていますが、その先のまだ工事が着手されていない部分は、河道が狭いままです。
その部分を拡大すると、以前の永野川の姿が残っています。
今、下流側の榎本堰の改良工事が進行中で、その堰が出来たら、その区域の河道部分の改修も進むと思われます。
今、目の前に改修前後の「永野川」の風景を、はっきりと同時に確認することが出来ました。

「永野川」の改良復旧工事は広範囲に渡っている為、まだ完全完成まで数年かかると思いますが、流域住民が安心して暮らせる日が、一日も早く来ることを、そして炎天下の中、工事に従事している方々の、健やかなることを、切に願っています。
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馬草川(吹上地区)に沿って歩く [栃木市の河川と橋]

先日、久しぶりに「歴史と文化を歩く会ー栃木」の企画に参加して来ました。
新型コロナの感染拡大等で、開催が困難になって休会状態が続き、私自身の都合でそれ以降ずっと足が遠のいていましたが、今回は地元栃木市内を歩くというので、3年ぶりに参加をして来ました。

今回の企画は、栃木市内の「吹上地区を流れる馬草川沿いを歩く」という内容でした。
この「馬草川」は地元の人達から「まぐさっ堀」とか「まぐそっ堀」などと呼ばれ、吹上地区の大森町から吹上町の街の中を流れ、野中町で東北自動車道の下を抜け、赤津川に架かる「永宮橋」の上流右岸で赤津川に落ちています。
この川幅2メートル程の水路については、以前(2017年8月9日付け)に、「栃木市吹上町の街中を貫流する水路」と題して、このブログの中で書いています。もう5年以上も前の事で、その頃はずっとこの水路の名前も分からずに、たまたま現地で出会った農家の方に尋ねた時に「まぐさっぽり」と教えて頂き、感激した事を今も覚えています。
まぐさっ堀22.jpg
上の概略地図は、そのブログに添付したものですが、吹上地区の「大森町」「吹上町」そして「野中町」へと流れる馬草堀の流れを記しています。

その後、多くの資料を見る機会も増えて、この「馬草川」について書かれた資料も集めることが出来ました。
令和元年12月25日に発行された、「知っていますか、郷土の地名 吹上地区小字の由来」(吹上地区まちづくり協議会「歴史ロマン委員会」編集発行)の冊子に、この「馬草川」の事が何カ所か紹介されています。その一部を抜粋します。
大森町の小字に、「上」・「中」・「下」が有ります。その小字名の由来に関して、<大森町の中央部を北西から南東へと馬草堀がながれている。大きな川(堀)ではないが、左岸沿いは上流から、上(カミ)・中(ナカ)・下(シモ)と呼ばれる3つの小字がある。数百年前の大森村集落はこの堀を境に山際に接して立ち並び、馬草堀南側には人家は殆どなく「犬塚村」の近くに数軒あるのみであった。この小字「上」の位置は、馬草堀の北側で仲方町から薬師堂までをいう。堀の上流に位置することから上(カミ)と呼んだ。中(ナカ)は、馬草堀の北側にあり薬師堂から鹿島神社まで。堀の中流に位置することから中(ナカ)と呼ばれた。下(シモ シタ)は馬草堀の北側で鹿島神社から吉野工業西側までを言い、下流に位置することから下(シモ)と呼ばれた。・・(中略)・・ところで、馬草堀の呼び名について触れたい。隣の吹上町では「馬ぐそっぽり」などと呼ぶ人もいるようだが、ここ大森町では決してそのようには言わない。この堀は「姥ヶ沢」「千田入り」「富士の入り」などの沢水を集めた川で、昔は、実にきれいな水が流れており、人々は鍋や釜・野菜等を洗ったりする重要な川であった。(後略)>と、記されています。

以前、調べた時は今思えば川の上流域は確認していませんでした。馬草堀に沿って吹上町から大森町へと歩いて来て、サントリー梓の森工場の手前まで遡って来て、これ以上は工場の敷地内に入ると思い、それより上流についてはあきらめていました。が、今回はサントリーの工場入口の取り付け道を越えた、更に上流側を案内して頂きました。

栃木の市街地から、星野遺跡や出流山満願寺の有る寺尾地区に向かう、主要地方道栃木粕尾線(通称鍋山街道)を北西方向に進み東北自動車道の栃木ICの前を通過して、吹上地区を進んで行くと、道路左手に千塚小学校の明るくモダンな造りの建屋が現れます。そこも通過して道路が少し右のカーブした先に信号のある丁字路が現れます。この丁字路を右に折れると、サントリースピリッツ梓の森工場方向に向かう市道13029号線。この道路を横断してサントリーの工場方向に歩くと、左手からこんもりとした森が道路際まで迫って来ています。
その森に沿って左手に入る小路を60メートル程行くと、道路右手脇、木立に覆われ柵に囲われた小さな池が現れました。
磯池1.jpg
地元で「磯池」と呼んでいる湧水池とのこと。位置的にここで湧き出た水も「馬草川」に流れ込んでいたと思われます。現在はサントリーの工場への進入道路として拡張された為、水の流れはどうなっているものか確認できません。小さな湧水池の為、地形図にも反映されていません。
地元「吹上地区まちづくり協議会 歴史・文化・自然保護委員会」が平成21年2月1日に発行した「吹上地誌Ⅰ(西部編)」を開くと、「名所・旧跡の部」の所に「10.磯池(仲方町)」として、この池の説明が書かれています。一部抜粋させて頂きます。
<10.磯池(湧き水) 栃木市仲方町のサントリー工場入口の脇を少し入ると、山陰に水が湧き出る箇所がある。とても澄んだ水に小魚が泳ぎ、なんとも心まで澄んでくる思いがするところである。この磯池の由来は、その昔、弘法大師が旅の途中、この地に立ち寄った際、水不足に困っている民を見て気の毒に思い、手にしていた杖を地面にさしたところ、その地から水が湧き出てきたという。(後略)>
磯池2.jpg
磯池は中央が渡れるように左右に分かれています。その先の小丘を少し上った所に、小さな石造りの祠が祀られています。水神様は、<行事として年1回(4月1日頃)、地元住民の間で水神講が行われ、旗を立て赤飯や料理を持ち寄り水神様を祭っている。>との紹介もされています。

次は、一度市道まで戻って又、サントリーの工場の方に進んで行くと、正面の道路中央に「SUNTORY」のプレートが付いた煉瓦造りの門扉、「関係者以外立入禁止」の文字も見えます。
市道13029号線は、その手前で左手方向に分かれています。
梓の森へ.jpg
ここから市道はサントリーの工場敷地の北側に沿って沢の奥に向かって伸びてます。途中広い駐車場を抜けると、道路の左側は「梓の森」が迫り、道路の右側はフェンスを距ててサントリーの工場、フェンスと道路の間に水路が有ります。この水路が「馬草川」の様です。ここから大森町の間は暗渠となってサントリー工場の入口道路の下あたりを抜けて繋がっているようです。
馬草川源流をめざす.jpg
少し進んだ先で、左手に森の中に入る道路が有ります。

入口には丸太の杭が打たれて、車が進入出来ない様になっていて、ロープも張られ「危険!立入禁止!」の看板。下側に「サントリー」の会社の名前が付いています。この「梓の森」もサントリーの所有地になっているようです。
「サントリー㈱梓の森工場」は、昭和52年(1977)この地に建設され操業を開始しています。私も、まだ子供たちが小さかった頃、年に一度だったと思いますが、工場見学会の様な催しに訪問した事が有り、工場内を見学しました。ガラス窓越しに銅色に輝く蒸溜タンクを見た記憶が有ります。
建設当初のサントリー梓の森工場.jpg
上の写真は昭和48年頃に梓の森周辺を撮影したもの、サントリー工場も建設が進んでいます。写真右手の山が「梓の森」。右手奥に三峰山(通称鍋山)が見えます。

その当時は確か、「サントリー梓の森」はバードサンクチュアリとして野鳥の保護区域としていたと記憶しています。
現在は立入禁止の看板の脇に、「里山林循環整備プロジェクト実施中」の掲示が有り、その内容については、<サントリー「梓の森工場」の森林では、新たな整備活動を始めることになりました。>として、<森林全域を複数のエリアに分割。十数年サイクルで、木々の伐採・収穫、管理・育成を繰り返していく、循環型の里山的管理を行っていきます。>などと記されています。
新緑輝く梓の森2.jpg新緑輝く梓の森3.jpg

森の中から鶯の鳴き声が聞こえてきます。「梓の森」は新緑が芽吹き始めていて、その輝きは目に心地よく写ります。
新緑輝く梓の森1.jpg

更に市道を進むと又左手に入る道が現れました。そちらの道を少し入ると、大きな溜池が目に飛び込んできました。
馬草川源流近くの沼1.jpg
馬草川源流近くの沼2.jpg
野鳥のさえずる声、溜池の水面に映る梓の森。栃木の街からそれほど離れていないのに、すっかり自然の中に入り込んだ錯覚に驚きます。

地図を見ると「梓の森」の中にはいくつかの溜池(4カ所)が記されています。市道が切れた先、北の方角に入り込む沢の奥にも小さな溜池が描かれていますが、そこへの道路は地図上に描かれていません。
ただ平成30年8月1日発行の最新の2万5千分1、「下野大柿」の地形図を確認すると、「馬草川」の河道を遡ると、その一番奥の小さな溜池まで繋がっているので、源流はそこになるものと思われます。
しかし、今回はそこまで確認することはしませんでした。
明治初期に作られた地形図「迅速測図」で確認する馬草川の源流は、現在の場所より一つ西側の沢へ入っています。溜池は一つも描かれていません。その当時は無かったのか、記載されなかったのか。それは分かりません。
馬草堀の上流域、梓の森周辺の概略図を作ってみました。図面上に現在の馬草川(水色で記載)と、明治初期の馬草川の河道(赤色で記載)を描きました。
馬草堀上流域概略図.jpg

市道13029号線の東端付近で道は北に向かったところで終点になります。
馬草川源流への山道.jpg
上の写真は市道の終点付近を写したもので、道路脇を流れる水は夜に降った雨が、流れているもので、地図に描かれた「馬草川」の河道はこの道の左の雑木の中を流れていると思われます。
その河道が市道を北から南に抜ける地点に、小さな水溜りが有りました。ここが今回確認した最上端です。
馬草川源流近くの沼3.jpg

梓の森で自然を満喫して帰路に付きました。
馬草川沿いを歩く2.jpg
大森町を流れる「馬草堀」に沿って歩いて戻りました。
皆さん相変わらず健脚です。最高齢者は90歳を超えているのも驚きです。私もまだまだ頑張らなければと、あらためて思いました。
今回歩いた歩数は、12,550歩(約7.5km)でした。

今回の参考資料:
①当日配布された資料。
②「知っていますか、郷土の地名 吹上地区小字の由来 吹上町・大森町・仲方町・梓町 編」
      (吹上地区まちづくり協議会 歴史ロマン委員会編集発行)
③「吹上地誌Ⅰ (西部編)」(吹上地区まちづくり協議会 歴史・文化・自然保護委員会編集発行)
④2万5千分1「下野大柿」(平成30年8月1日 国土地理院発行地形図)
⑤明治前期測量 2万分1 フランス式彩色地図「栃木縣下野國下都賀郡尻内村」
      (日本地図センター発行)

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永野川改良復旧工事現場見学会の第2回に参加して来ました。 [栃木市の河川と橋]

先日(3月18日)、現在行われている永野川改良復旧工事現場見学会に参加して来ました。今回は2回目と言う事で、見学場所は大平町の「町田橋」と下流の「両明橋」の区間を、ゆうゆうプラザの駐車場を起点に、永野川沿いの堤防上の道を歩いて巡りました。
永野川沿いのウォーキングはこれまで何度か歩いていますが、その時撮影した写真と今回撮影した写真と見比べて、工事の様子を見てみたいと思います。
今回は土曜日でしたが、途中榎本堰の下流部分では、雨の中大きなクレーン車が稼働して工事が行われていました。素人目にはどんな工事なのか知る由も有りませんが、見ていると興味が湧いてきました。

最初は、護岸工事が完成間近となっている「町田橋」と「永豊橋」の3工区の様子を、丁度10年前に撮影した写真と比較して見てみます。写真は共に橋の下流側右岸から撮影をしています。
先ず「町田橋」
2023年3月18日町田橋.jpg2013年5月25日町田橋.jpg

そして「永豊橋」
2023年3月18日永豊橋.jpg2013年5月25日永豊橋.jpg

「永豊橋」の橋桁がさわやかな若草色に塗装されていたのが、印象的でした。
その永豊橋の直ぐ下流側に、護岸工事の完了した工区とまだ工事前の工区との境が有りました。
そこを見ると、河道掘削により従来の堤防の表小段部がそぎ取られて、河道が大幅に広くなっていることが分かります。護岸工事がほぼ完了している町田橋と永豊橋間の河道の中に、多くの岩石のかけらが並んでいました。河道掘削工事によって河床や、削られた旧護岸内から掘り出された岩石だと言います。
工事前と後が一目でわかる.jpg掘り出された岩石.jpg

下流側の両明橋の上から上流側の様子を写した写真を見ると、今回の河道掘削と護岸工事が完了した事で、川幅が広くスッキリと変わった事が、一目瞭然です。
2023年3月18日両明橋上より上流側を望む.jpg2017年4月14日両明橋上より上流側を望む.jpg

今回渡った両明橋は、新しく架け替えられると言います。この後架け替え工事の為3年間ほど、通行止めになるそうです。
その為でしょう、両明橋の部分は護岸工事などもまだでした。
2023年3月18日両明橋.jpg2013年5月25日両明橋.jpg

この両明橋は、架橋年が1934年で、現在永野川に架かる橋では、令和元年(2019年)の東日本台風(台風19号)で橋桁が流された「諏訪橋」や、その前2015年9月10日の豪雨により落橋した「旧千部橋」等と、同時期に架橋された古い橋の一つです。たまたま、この「両明橋」は、2015年8月に修繕をしていた事で、何とかこれまで耐えてこられたのかと思われます。
今回の永野川改良復旧工事に合わせて、ついに架け替えられるようです。

今年になって工事が始まった「榎本堰」は、堰本体の基礎部分の工事が行われていました。大きな2台のクレーン車が稼働して多くの作業員が雨の中働いています。
くい打ち工事1.jpgくい打ち工事2.jpg

現在の「榎本堰」や堰から取水した用水路は、今回の工事によってどんな姿に変わって行くのか、工事の行方が待ち遠しいです。
2023年3月18日榎本堰.jpg2023年3月18日榎本用水路.jpg

「両明橋」の上流部の完成まじかな工区の護岸法面に、この日の為に付けられたのか、「つよくなる ながのがわ」の文字が有りました。
つよくなる.jpgながのがわ.jpg

大変な作業がまだまだ続きます。工事に従事されている作業員の皆様には、くれぐれも事故の無いようお祈りしております。


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巴波川に架かる「吾妻橋」が新しく変わっていました。 [栃木市の河川と橋]

今年の4月、久しぶりに、大平町横堀の春日神社に出かけました。ここの参道の桜並木が綺麗なので見に行ったのです。その時神社の東側を流れる巴波川に架かる「吾妻橋」が、新しい橋に架け替えられているのに、驚きました。
吾妻橋遠望.jpg
上の写真は、巴波川に架かる「寿橋」から上流側を写したもので、写真奥に小さく写る、白い橋が「吾妻橋」。その右側に写る集落は、大平町北武井になります。(2022年4月9日撮影)
吾妻橋の銘板.jpg吾妻橋東橋詰より1.jpg
橋桁に設置された銘板には、「2021年3月」の日付が見えます。新しい橋は昨年完成していたようです。新しい橋には親柱は有りません。橋名や河川名のプレートは、スッキリとした高欄の四隅に設置されています。
吾妻橋東橋詰より.jpg
橋の向こう側に見える森が、春日神社の鎮守の森、そこから左方向に桜の並木が続いています。
ここからは、架け替え前の、旧吾妻橋の写真を紹介します。
吾妻橋東橋詰より2.jpg
橋の東詰から撮影。親柱の橋名プレートに「吾妻橋」の文字が読み取れます。奥に春日神社の参道の桜と鎮守の森が見えます。(2016年4月10日撮影)

吾妻橋西橋詰より.jpg
上の旧吾妻橋の写真は、橋西詰から撮影したもの、対岸は大平町北武井です。
橋の長さは38.6m、幅員は3.8mと狭かったです。竣工したのは昭和14年(1939)1月でした。その前はおそらく木の橋が架けられていたのでしょう。
この場所(横堀と北武井とを渡すルート)に橋が架けられたのは、巴波川の橋では比較的早くから架橋されています。明治19年発行の迅速測圖にも、ここに橋記号が描かれています。
この場所より上流側には、旧古河道に架かる「開明橋」まで、橋記号は確認できません。
吾妻橋東橋詰より3.jpg
上の旧吾妻橋の写真は、東橋詰から撮影したもので、背景に太平の山並みが見えます。手前、春日神社の赤い鳥居の前に、祭礼の幟旗が見えています。

旧吾妻橋遠望.jpg
上の写真は旧吾妻橋を上流側から遠望したものです。昔の橋は径間を長く取れなかったため、橋脚が沢山必要になりました。それに対し新しく架けられた「吾妻橋」は、橋脚は川の中ほどに一ヶ所だけです。写真左手後方に写る、茶褐色の桁を持つ橋は「寿橋」です。寿橋は昭和48年(1973)3月に架橋されています。

最後に、その時一緒に撮影した春日神社参道の桜並木の写真を紹介します。
(2016年4月6日撮影)
春日神社参道入口.jpg
春日神社桜の参道.jpg

今回参考にした資料:
明治前期測量2万分1フランス式色彩地図、(財)日本地図センター発行
「栃木町」「榎本村」「中里村・伯仲村」
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赤津川分水路に架かる「中ノ町橋」が復旧していました [栃木市の河川と橋]

先日、暖かな陽気に誘われて、栃木市新井町方面に出かけました。
その際、前々から気になっていた赤津川分水路の「中ノ町橋」の様子を確認すると、2019年10月12日の台風による増水で被災した後、復旧工事が進められていましたが、三径間の内無事だった右岸側の一径間の橋桁は残して鋼桁が被災部分に架けられていました。
2021年12月5日復旧した中ノ町橋.jpg
(復旧した「中ノ町橋」 2021年12月5日撮影)
橋手前右岸側は従来からのコンクリート桁、一方崩れた橋脚部に架かっていた橋桁は撤去され鋼製の橋桁に、高欄も色気も愛想も無い白色のガードレールタイプに。
2021年5月22日復旧工事中の中ノ町橋.jpg
(復旧工事中の様子 2021年5月22日撮影)
今年5月に確認した時には、橋はまだ被災した当時のままで、復旧工事は左岸の土手部分が先行して進められていました。橋の周辺左岸上下流部分とも土手の決壊は免れましたが、堤内側法面がかなりえぐられていました。
左岸上流側.jpg左岸下流側.jpg
(堤内法面は越流した水の勢いで削られている。)

2019年11月21日被災した中ノ町橋.jpg
(2019年11月21日撮影、被災直後の「中ノ町橋」)
橋の高欄部にも多くの藁くずが引っかかっていて、増水時には橋の上まで川の水が洗っていた様子が覗えます。
2019年3月2日撮影中ノ町橋.jpg
(被災前の「中ノ町橋」 2019年3月2日撮影)

赤津川分水路については、ここで何度か取り上げて紹介をしてきました。
かつて毎年のように栃木の街中を床上まで水浸しにした巴波川。だが実際はこの赤津川が洪水の元凶で、今も箱森町中央部を蛇行をくりかえしたその旧赤津川の河道が、今もその姿を留めています。
そんな赤津川を1951年竣工したこの分水路により、それまで栃木の街方向に流れていた水を、吹上町の新田橋の下流部(今東北自動車道が交差する辺り)から真っ直ぐ南方向へ田畑を開鑿して、錦着山の北西部にて西から流れて来ている永野川に落とすように流れを変えました。
2012年11月25日撮影赤津川分水路.jpg
(2012年11月25日 栃木インターチェンジ付近、県道栃木粕尾線の平和橋下流部より赤津川分水路を南方向に向かって撮影した写真。)
写真手前に架かる橋は「鹿島森橋」その下流に「中ノ町橋」更にその奥に「新井橋」も望む。写真左奥に写る山は錦着山に成ります。
赤津川分水路には地元の要望を受けて、かつての農道に合わせて多くのコンクリート橋が架けられていました。

それ以来、栃木の街は平穏な年を重ねて来て、「映画館もショッピングモールも無い町だけれど、災害も無い安心して住める町」でしたが、2015年9月9日の50年に一度と言われる豪雨災害により、この赤津川分水路も濁流が流れ、老朽化していた多くのこれらの橋が被災しました。
落橋した鹿島森橋.jpg
(2015年9月27日撮影、落橋した「鹿島森橋」)

この「鹿島森橋」は被災後架け替えは無く撤去に成りました。この時は赤津川分水路の多くの橋が被災して一時通行が出来なく成りました。上流側に架かっていた「田原橋」も被災、撤去に成りました。更にその上流の「永宮橋」も老朽化も重なり、新しい橋へと架け替えられています。
此の時は、この「中ノ町橋」は被災を免れました。
2015年9月27日中ノ町橋.jpg
(橋脚部に多くの藁くずとうの瓦礫が引っかかった「中ノ町橋」 2015年9月27日撮影)
ところが、それからたった4年後の2019年10月、今度は持ちませんでした。

現在、栃木市内を流れる多くの河川では大規模な河川改修工事が進められてます。二度と悲惨な水害に遭わないために。
以下の写真は永野川で進められている河川改修工事の様子。(2021年11月3日撮影)
P1130868.jpg
P1130895.jpg
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栃木市内、もう一つの清水川 [栃木市の河川と橋]

「清水川」とは、清く澄んだ水が流れる川で有れば、自然と呼ばれてくる名前である。
恐らく栃木市内でも、地元では「清水川」と呼ばれている川は結構有るのではないかと考えます。
このブログでも、4月と5月に2回に分け、「箱森町の清水川とその上流域」と、「柳橋町から湊町そして巴波川に落ちる清水川」を紹介しましたが、今回はもう一つの、栃木市内を流れる清水川流域を巡りたいと思います。
私がもう一つの清水川の存在を確認したのは、1993年5月23日子供達とサイクリングを兼ねて寺尾地区の橋巡りに行った時です。
尻内町に有った寺尾南小学校の南東部、国道293号に架かる小さな橋の親柱に「清水川」と記した銘板を見つけました。ちなみに橋の名前は「観音橋」と有りました。
清水川(尻内町).jpg
(国道293号に架かる小さな橋の親柱に「清水川」の文字が確認出来ます)
観音橋(清水川・尻内町).jpg
(東側の親柱には「観音橋」の銘板が付いています)

しかし、この清水川の河道を調べると、観音橋から下流は容易に確認出来ましたが、上流側についてはハッキリしませんでした。
国土地理院発行の地形図を発行年代ごとに表記されている川筋を上流に遡って行くと、幾つかのルートが見えてきましたが、「清水川」と表記するものは、一枚も有りません。「清水川」と表記がされているものはゼンリンの住宅地図だけで、それも観音橋の直ぐ上流部分に記されているだけで、その上流が何所なのかは判断できませんでした。

それが昨年ハッキリした回答が得られました。栃木市図書館に「寺尾地区地名の由来と自然災害」、サブタイトル「我が身と郷土を守るために」とあり防災士の栗原 栄さんが令和元年5月に非売品として発行された本を見つけたのです。
その本の中に、梅沢町を流れる清水川に関する記述が何カ所かありました。この本から得た情報を元に再度現地を巡って確認して来ました。

梅沢町を貫流する「清水川」の流れを、強引に簡略化した模式図に表してみました。実際はこの清水川流域を中心に行われた寺尾南部土地改良区による圃場整備が平成4年から平成12年の期間で実施された事で、田んぼは碁盤の目の如く整備され、水路も分散して直交する道路沿いを分流する様になっています。
それでもメインの流れは、宮下沢に流れ落ちるまでは確認出来ました。
分流した水路も最後は、愛宕神社が鎮座する舌状台地の先端部を回り込む水路に流れが集まって来て、国道293号に架かる「観音橋」の下を潜って、南西方向から流れてきた「内宿川」に合流、その先で永野川に戻っています。
梅沢町を貫流する清水川模式図2.jpg
(梅沢町を貫流する「清水川」の河道を模式図に描いてみました)
模式図の下側愛宕神社の右上から、斜め上に永野川まで破線で記した河道は、明治19年発行の迅速測図に記されていた河道の概略に成ります。

その本の、「梅沢町の小字の由来 1.立野(たての)」の説明の中に、<前略・・土地改良事業を導入するまで当地に湧水が2ヶ所存在していた。1ヶ所は清水川の源流で暗渠の最奥で渾々と湧いており、この湧水と永野川から取水された用水が合わさり、梅沢町「新町」、「木戸内」、「前田」を経て50haの水田を潤して尻内町「川入」で永野川に還流している。地元にとって貴重な水源であった。また、清水川源流の岩舟石で積まれた護岸工の下には「ハヤ」が潜んでおり、沢ガニもバケツ1杯も捕れるほど生息していた。>と、清水川の源流周辺の状況を記しています。
清水川源流付近の石垣.jpg
(模式図撮影点Aの写真、寺尾中学校の南東側、永野川の右岸脇に石積の護岸を確認)
撮影点Aから50メートル程脇を流れる永野川を遡った所に、堰が設けられ取水された水が先ほどの岩舟石の護岸付近で、合流しています。
梅沢大久保堰.jpg
(清水川に流す水を取水する、永野川に設けられた梅沢大久保堰)

梅雨の為増水した永野川から取水され、満々と水路を流れる水は、寺尾公民館と永野川との間の河道を南流、寺尾公民館の南側を西から東に流れ永野川に落ちる「梅沢」と交差することに成る。
寺尾公民館脇を流れる清水川1.jpg梅沢の下を潜る清水川.jpg
(寺尾公民館と永野川右岸の土手との間を南流して、梅沢の下を潜る清水川)

清水川の水はここで逆サイフォンの原理で梅沢の下を流れて、少し永野川の土手沿いを南流してから右方向に流れを変え、永野川から離れて行き、旧鍋山街道を抜け、住宅街の西側に出て南流しています。
D清水川上流域.jpg
(模式図撮影点D:旧鍋山街道沿いの住宅地を抜け西側の田畑と宅地の境を南流する清水川)

ここでチョッと寄り道を。
先ほど清水川の行く手を阻んだ「梅沢」について、参考にさせて貰った「寺尾地区地名の由来と自然災害」の本の中に、この「梅沢」について興味の有る説明がされていますので、抜粋して紹介させて頂きます。
<当地区を流れる「梅沢」は明治時代当初まで梅沢村と鍋山村の境界であった。河川名は一般的には流域名を付けた「坂の入沢」であるが、地元ではその呼び名は通用していない。当河川は洪水の時には一瞬のうちに水が流れるが直ぐに涸沢となるため地元では「キチゲガワ」と呼ばれていた。昭和初期には「深堀」、現在は「境堀」又は土木事務所名では「梅沢」である。>
ひとつの沢でも地元では色々な名前で呼ばれているものなんだと、教えられました。
C梅沢町靖国神社前を流れる梅沢.jpg
(模式図撮影点C:「梅沢」は中流域で「靖国神社」の前を流れています。今年3月31日、沢に水は無く涸沢状態でした)
B梅沢に架かる新宿橋.jpg
(模式図撮影点B:旧鍋山街道の梅沢郵便局脇の「梅沢」に架かる「新宿橋」です。撮影の時は丁度桜が満開でした。)

もう少し寄り道。
永野川の右岸土手に沿って流れてきた清水川が、右に曲がって土手から離れるところに古い水門が有ります。
永野川から離れる清水川.jpg錆びた水門開閉用ハンドル.jpg
(永野川右岸土手から離れて行く清水川と水門の開閉用ハンドル)

昭和52年9月30日発行の地形図には、西側の山並みと鍋山街道との間の水田地帯を一筋の青色の線が描かれています。この線が清水川の河道だと、例の本と突き合わせてハッキリしました。
その地形図には永野川の取水口に堰の記号が付いていますが、その位置は、この古い水門から100メートル程永野川を遡った、丁度現在の梅沢の落ち口辺りに成ります。現在の堰から260メートル程下流に当ります。
栗原さんの本には、かつてこの場所に有った堰の名は「おかえり堰」と記されています。何故その名前で呼ばれる様になったのかは、残念ながら記されていません。興味の有る所です。

大分寄り道をしてしまいました。清水川の流れに沿って下って行きましょう。
一度街道を抜けて西側の住宅街の裏手を回り込む様に流れた後、再び鍋山街道の道路の脇を流れて行きます。
E旧鍋山街道の脇を南流する清水川.jpg
(模式図撮影点E:鍋山街道の西側道沿いを南流する清水川)

この後清水川は梅沢ドライブインの北側で街道から離れて行きますが、ここに清水川の流れを分流させる水門が設けられ、ここから水路は二つの分けられて、梅沢ドライブインの裏手を南流していきます。
又、その水門の脇に「寺尾南部土地改良区」の「圃場整備事業竣工 記念碑」が建っていました。
分流水門.jpg圃場整備事業竣工記念碑.jpg
(梅沢ドライブイン北側の街道西側に見える分流水門と「寺尾南部土地改良区」記念碑)

碑陰の事業沿革.jpg
(記念碑の碑陰に刻まれた「事業沿革・事業概要」等)

梅沢ドライブインの南側に街道から西に抜ける脇道が伸びています。この道は西の山際に建つ「華藏寺」に突き当たります。この道路と清水川と交差する場所に架かる橋には高欄と親柱が有り、親柱を良く見ると右側に橋名、左側の親柱に竣工年月が刻されていました。
大門橋親柱左.jpg大門橋親柱右.jpg
(橋の親柱右側には「大門橋」、左側には「昭和九年十二月架設」と刻して有ります。写真奥山際に見える大きな屋根は華蔵寺の本堂屋根です。)

大門橋を潜った清水川は、橋の直ぐ下流部にて水路を交差させて流れを変えています。
F大門橋付近の清水川.jpg
(模式図の撮影点F:大門橋の直ぐ下流で、まるで高速道路のジャンクションの様な水路)

この後清水川の本流は、南流して西から東に流れる「宮下沢」に流れ落ちています。
G宮下沢に落ちる清水川の流れ.jpg
(模式図撮影点G:写真左奥から手前に流れる水路は「宮下沢」、手前右側の水路が清水川本流)

現在宮下沢は一直線に初音山に出来た「アゼリアヒルズカントリークラブ」への、鍋山街道からの取り付け道路の北側を流れていますが、このゴルフ場が建設される前は、地形図には描かれていない水路でした。
土地改良事業が始まる以前の宮下沢の流れは、星宮神社前から南東方向の、鍋山粉塵公害集団移転住宅地方向に流れ、90度転換して、三信砕石(株)社宅の近くで北西側から流れてきた清水川と合流し、そこから鍋山街道際まで流れ、清水内の「エネオス栃木梅沢SS」の前を暗渠となって流れ、愛宕神社の鎮座する舌状台地の先端を回り込んで、国道293号線に架かる「観音橋」へと流れて行きます。
H観音橋1(清水川・尻内町).jpg
(模式図の撮影点H:国道293号線に架かる「観音橋」、鉄パイ部のガードレールが追加されています。)
写真左端に愛宕神社の社標柱と奥に石の鳥居が写る)

この観音橋は、1963年3月に架けられましたが、交通量の増加に伴い1972年に拡幅工事が行われ、6.5メートルから9.25メートルに広げられました。

清水川はこの先で、南西方向から流れて来ている内宿川に合流して、その後すぐ永野川に戻って行きました。
これで梅沢町を貫流している「清水川」流域巡りを終了します。

今回の参考資料:「寺尾地区地名の由来と自然災害」栗原栄著
            国土地理院発行地形図25,000分1、「下野大柿」及び50,000分1、「栃木」
            ゼンリン住宅地図「栃木」


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箱森町から柳橋町そして湊町へと流れる清水川を模式図にしてみました [栃木市の河川と橋]

前回とその前と、2回に分けて栃木市箱森町から、柳橋町を縦断して湊町へと流れ、最後巴波川へと流れ込む清水川の流域とそこに架かる橋を、写真と文にて紹介しましたが、説明が下手と感じていましたので、清水川の流域全体を模式図にしてみましたので、合わせてご確認ください。
栃木市を流れる清水川・河道と橋の模式図.jpg
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箱森町源流の清水川流域を巡る(その2) [栃木市の河川と橋]

二年連続の新型コロナウイルス感染拡大の中のゴールデンウイークも終盤に入ります。
人流を抑える為不要不急の外出の自粛が叫ばれ、それでも自粛疲れも有ってか、少し郊外で英気を養いたいと、自然を求める人達が多くなっているとテレビニュースで報じていました。

私も今はひたすら我慢、ステイホームの毎日です。
ぼーっとして時間が有り余ると、不思議なものでブログを書く気力も減退するのか、暫らく更新をしていませんでした。書きたいテーマは幾つか有るのですが、筆が進みませんでした。

でも、そろそろ連休も終わるので、重い腰を上げます。清水川の話第二段です。
前回は源流側を遡って行きましたが、今回は流れに沿って下って行きます。起点は前回同様、河川の名前から命名された「清水川橋」から下流に向かいます。
1980年清水川橋2.jpg

「清水川橋」から下ると、150メートル程で、堰の様な構造物が有り、河道が二方向に分かれます。本流は右方向、南に流れて行きますが、一方左方向は南東方向へ河道が曲がって行きます。
清水川橋下流の堰.jpg
(上の写真は上流側から、川の分岐点を写したもので、清水川本流は右方向、コンクリートの護岸が有る方です。写真奥中央右寄りに建つ二階家の先に黒く杉木立が覗いていますが、日限富士浅間神社
この辺りは子供の頃家からも近かったので友達と良く水遊びに来ていました。春には川の土手で「ノノヒロ」を採って味噌を付けて食べていた記憶が有ります。その頃は周りは一面の田圃でしたが、今は周りに住宅が迫って、南東方向に分岐した河道は、もうハッキリしませんが、こちらの流れは「元県庁堀」に繋がっています。(大正6年7月30日大日本帝国陸地測量部発行「栃木」の2万5千分1の地形図には、清水川のこの分岐と河道が良く描かれています。)

ここは本流を下ります。分岐点から150メートル程で「日限冨士浅間神社の西側に出ます。ここも子供の頃は良く遊びに来ていました。正月三箇日や四月一日の春の大祭には大勢の参拝者が行列を作っていました。境内には露店も出て賑やかだった記憶が有ります。
日限冨士浅間神社拝殿.jpg
日限冨士浅間神社春の大祭.jpg
(昔程では有りませんが今も正月や春の大祭は参拝者が訪れています)

清水川の左岸に沿って150メートル程の参道が一直線に伸び、そこには百基以上の白木の鳥居がトンネル状に建てられていました。
日限富士浅間参道鳥居郡.jpg
その頃は子供心に何本有るのか、友達と一緒に必死で数えた思い出が有ります。が、現在は残念ながら古くなって朽ちた鳥居が撤去され、新しく寄進されるものも少なくなってしまった為、かつての様な鳥居のトンネルは無くなってしまいました。
寂しくなった鳥居の参道.jpg

この参道の入口、一の鳥居の建つ場所は、栃木の市街地と皆川とを結ぶ「皆川街道」(現在は主要地方道栃木佐野線)の脇で、清水川はこの街道に架かる「浅間橋」の下を潜っています。
2021年浅間橋.jpg
この「浅間橋」の北西側橋詰に、「日限屋」と言う店舗が有りましたが、最近更地に変わってしまっていました。
1980年浅間橋.jpg

参道の途中にもう一ヶ所橋が架かっています。先ほどの皆川街道と平行に北側を走る、市道11134号線が参道を横切っています。そこに架かる橋は「藤宮橋」で、現在の橋は昭和11年1月に竣工しました。
藤宮橋.jpg
藤宮橋親柱.jpg
(斜めに傾いた親柱に「藤宮橋」の文字がはっきりと確認出来ます。

皆川街道の「浅間橋」を潜った清水川は、その先で「く」の字に方向を変えて、南南東の方向に一直線に進み、「県道太平公園線」まで流れて行きます。現在のドミノ・ピザ栃木湊町店さんの前辺りで県道を斜めに抜けて行きます。ここは橋の形跡は無く、暗渠化されて道路の下を潜っています。

この間、清水川を3筋の市道が横切っていますが、そこに架かる橋の名前は確認できません。
この3本の市道は北側から、市道11164号線・市道11169号線・市道11175号線に成ります。元々これらの道路は薗部村が明治38年3月から明治40年にかけて行った耕地整理事業によって碁盤の目の様に整然とした平行・直交の姿を呈しています。ですからこれらの道路は全て県道太平山公園線と平行に作られました。
3本の中でも一番早く地形図上に描かれた道路は一番北側の市道11164号線で大正6年発行の地形図に表れています。残りの2本も次に発行された昭和7年発行の地形図には碁盤の目がかなり広がって出来て来ています。
それでは北側から見ていきます。
市道11164号線.jpg
上の写真が市道11164号線です。まっすぐに太平山方向の向かって伸びています。手前の橋が清水川に架かる無名橋です。私は中学生の時この橋を、この道路を通って、西中学校に歩いて通学をしていました。懐かしい道路です。
市道11164号線に架かる橋1.jpg
清水川に架かる橋を下流側から撮影しました。橋の奥は木々がこんもりしていますが、右に曲がった先に「浅間橋」が有ります。

私が1965年10月にこの市道11164号線から北側男体山方向を撮影した写真が有ります。
1965年10月撮影柳橋町の西部.jpg
写真中央奥に薄っすらと男体山、左手電柱の先に鍋山も写っています。左手電柱の建つ道路は、かつてトロッコの軌道が敷設されていた、市道2051号線です。柳橋町の西部域は一面の田圃風景でした。

次の道路市道11169号線です。
市道11169号線.jpg
やはり太平山に向かって真っすぐに伸びています。
市道11169号線に架かる橋1.jpg
清水川に架かる無名橋です。清水川の奥に写っている橋が先ほどの市道11164号線に架かる橋に成ります。

3本目市道11175号線の道路の写真は有りませんでした。橋は上流側から写した写真が有りました。次の白いパイプガードが見える橋が市道11175号線に架かる橋です。
市道11175号線.jpg市道11175号線の橋から上流側を写す.jpg
もう一枚の写真は市道11175号線に架かる橋から上流側を写したもので、これまで紹介した2本の橋が確認出来ます。

先へ進みます。県道太平山公園線を斜めに抜けた清水川は、ここから湊町に入り東方向に流れ、白旗山勝泉院裏手の墓地の北側を回り込んで、そこから巴波川に流れ落ちています。

県道太平山公園線の南側の流れ.jpg
県道太平山公園線の下を抜け、南側湊町を流れる清水川。奥に白旗山勝泉院の墓地が見えます。清水川は墓地の北側を回って更に東へ向かいます。

白旗橋.jpg
巴波川沿いの道路の一つ西側の通りです。手前の橋は「白旗橋」。
橋の下流側の赤い屋根の建物は、毎年8月上旬に巴波川で行われる「百八燈流し」の際、お目見えする「二荒山神社御神船」の保管場所に成ります。
百八燈流しの風景.jpg
毎年8月上旬に行われる巴波川の「百八燈流し」の様子

湊橋上流側.jpg
いよいよ清水川に架かる最後の橋「湊橋」の上にやって来ました。川の上流側奥に先程の御神船の保管場所が見えています。

湊橋.jpg
清水川も「湊橋」の下を抜けると、巴波川に合流することに成ります。

清水川とそこに架かる橋を巡る散歩におつきあい頂きありがとうございました。
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栃木市内を流れる清水川流域を巡る① [栃木市の河川と橋]

今回巡る栃木市内を流れる川は、私の家の脇を流れる幅2.5メートル程の小河川です。川の名前は「清水川」です。どこにも有りそうな名前の川です。
この川の名前を現地で実際に確認の出来るところは、一ヶ所しか有りません。
万町交番前交差点から西にのびる市道1031号線、錦町五差路を過ぎて更に西に進むと、この清水川に架かる橋が有ります。橋の手前左側に「ポアッソン」というフランス料理店が有ります。その橋の親柱に「清水川」と記した橋名板が付いています。橋の名前もそのまま「清水川橋」です。
清水川橋.jpg
現在は清水川橋の下流側に側道橋が追加されています。この橋を毎朝大勢の学童さんが集団登校をしている為、その安全を図るために数年前に設置されたました。

清水川橋no.jpg清水川橋の橋名板.jpg
(清水川とハッキリと表示された親柱)

先ずは、この川の源流はどうなっているか、それを探索して行きます。川沿いに通行できる道路が無いので、回り込んで一つ上流の橋へ向かいます。
中乃橋.jpg
「中乃橋」とコンクリート製の親柱に陰刻されています。架橋されたのは「昭和五年六月架設」と親柱に見る事が出来ます。
中乃橋架設年.jpg中乃橋の橋名表示.jpg
(南西側親柱には橋名が陰刻されています。ひらがなでしょうが達筆なので私にはどう読むのか分かりません。北東側の親橋には漢字で「中乃橋」とハッキリ陰刻されています。ただ何故この橋の名前が「中乃橋」と命名されたのか、考え付きません。入舟町に有る元県庁堀と巴波川との間を舟で往来できるよう開鑿された漕渠には同様に「中ノ橋」と言う橋が架かっていますが、この漕渠には「学橋」「中ノ橋」「入舟橋」の三本の橋が架かっています。従ってその中央に位置する場所に架けられているから「中ノ橋」は納得がいくのですが)

現在の河道は両岸・河床とも鉄筋コンクリート製になっていますが、40年前に撮影した写真を見ると、雑草が生えた土手でした。
1980年撮影の中乃橋.jpg2021年撮影の中乃橋下流側.jpg
(40年、橋自体は何も変わっていませんが、河道の姿はコンクリート化され大きく変わっています。)

河道は、この中乃橋の直ぐ上流側で二筋に分かれています。ひとつは北の方から真っ直ぐ橋に向かって流れて来ています。もう一筋は右岸(西側)から合流する形で流れて来ています。
清水川橋脇で舘野川が合流.jpg
(二筋の水の流れが、中乃橋の所で混ざり合い、橋を潜って流れて行きます。)

現在この脇から流れ込む河道は暗渠化されていますが、平成26年の河川改修以前は開水路で、川の脇を走る道路にガードレールが無かった為、時々自動車が脱輪するトラブルが発生していたようです。
暗渠化された館野川下流域.jpg危険だった舘野川.jpg
(道路脇の水路が暗渠化されて安全走行が可能になった)

河川改修工事の際の掲示版に、「舘野川河川改修工事」と記載されていたので、この時こちらは清水川では無ないことが確認されました。

現在舘野川の上流域に調整池が築造されています。その場所は中乃橋からずっと西に行った、栃木環状線の外側に成ります。
調整池化工事中の舘野川上流域.jpg舘野川上流域.jpg
(ほぼ完成した舘野川上流部の調整池と元の舘野川の様子)
清水川も2019年10月12日から13日未明に通過した台風19号で増水し溢れ、下流域に大きな浸水被害を発生させています。この調節池の築造もその対策の一環に成ります。

もう一つの北側からの河道を遡って見ます。川幅はづっと狭くなって住宅の間に隠れていますが、その先は旧鍋山街道(現在の市道1027号線)を抜け、関口海苔店栃木本店の直ぐ北側を流れています。
十二社橋.jpg
(ガードレールタイプの橋の高欄にこの道路が以前県道栃木粕尾線であったことを示す表示が残っています。ちなみにこの旧鍋山街道が敷設されたのは、明治27年頃で、明治33年7月5日、ここに鍋山人車鉄道が開通しました。)
ところで、ここに架かる橋の名前は「十二社橋」となっています。すぐ北側に鎮座している十二社神社からこの名前になったと考えます。
更に上流に向かいます。先ほどの十二社神社の前から東に延びる市道2056号線に、小さな親柱を備えた橋が架かっています。
岡堀橋.jpg
親柱を良く観察すると「岡堀橋」の文字が陰刻されています。「昭和五年四月竣功」と有ります。こちらの水路名は「岡堀」と言う事が分かります。
1980年岡堀橋親柱.jpgカワチ薬局さん敷地内に消える河道.jpg
この「岡堀」はこの橋の上流側は、カワチ薬局栃木インター店の敷地に入り、縞鋼板に覆われ、その先は暗渠化されてルートの確認が出来ません。
周辺をジックリ観察して回ると、そこから北方、栃木環状道路を越えた先、パチンコ店「ベガスベガス」の南東部に有る居酒屋「ゆきの」さんの店舗前に、以前の開水路の一部が残っていました。
栃木環状線脇に残る岡堀の一部.jpg
(栃木環状線の脇、居酒屋「ゆきの」さん店舗前に残る「岡堀」の一部と思われる開水路)

以上から推察するに、清水川の上流点は「中乃橋」で、それより上流側は北側からの「岡堀」と、西側からの「舘野川」とに分かれている。
「岡堀」が地形図上に現れるのは、昭和40年発行の2万5千分1の「栃木」の地形図で、それには「中乃橋」が地図記号で記載されています。そこから北方向に河道をたどってくと、箱森町の北隣りの野中町に至ります。そこで北西から来ている旧赤津川から分流しています。その地点は現在の栃木総合運動公園の正面ゲートの南側辺りに成ります。
吹上地区まちづくり協議会(歴史ロマン委員会)の編集・発行となる、「知っていますか、郷土の地名 吹上地区小字の由来 野中町・宮町・千塚町編」で野中町拡大図を見ると、先ほどの運動公園正面ゲート付近の小字名は「岡堀」と記されていました。
「岡堀」と呼ばれるところで赤津川から分かれた水路だったところから「岡堀」と呼ばれるようになったものと思われます。

一方の舘野川の源流を地形図から調べると、明治19年発行の迅速測図「栃木」に現在の舘野川に相当する位置に水路が表されています。この地形図には「岡堀」は描かれていません。
描かれている舘野川と思しき河道を目で遡って行くと、現在造られている調整池の先で河道は時計回りで大きく曲がり、現在の「セレモニーフラワーホールつかさ」さんの付近に大きな沼が描かれています。かつてここに湧水によって出来た大沼が有り、これが舘野川の源流だったと思われます。
大正6年発行の2万5千分1「栃木」の地形図では、すでに大沼は水田に変わっています。ただ現在の調整池付近に小さい沼が認められそこから東側は湿地になっています。ここが「たてぬま」と思われます。
これはあくまでも私の推論ですが、かってこの「たてぬま」や「おおぬま」の湧水に囲まれた内側にこの地方に住む豪族が舘を構えていた。それが「舘の沼」「舘の川」と呼ばれ、「舘沼」とか「舘野川」となったのではないかと。
栃木市教育委員会事務局 文化課編集・発行の「栃木市遺跡分布地図の中に、この地を「舘野城」の遺跡として記しています。

今回は清水川の上流域を巡りました。清水川は赤津川から分流した「岡堀」と、「舘野川」との二つの流れが合流した「中乃橋」から下流が「清水川」と呼ばれ、そこから南流して柳橋町から祝町・湊町を経て巴波川に流れ込んで行きます。次回はその下流側を巡って行きたいと思います。



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