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赤津川分水路に架かる「中ノ町橋」が復旧していました [栃木市の河川と橋]

先日、暖かな陽気に誘われて、栃木市新井町方面に出かけました。
その際、前々から気になっていた赤津川分水路の「中ノ町橋」の様子を確認すると、2019年10月12日の台風による増水で被災した後、復旧工事が進められていましたが、三径間の内無事だった右岸側の一径間の橋桁は残して鋼桁が被災部分に架けられていました。
2021年12月5日復旧した中ノ町橋.jpg
(復旧した「中ノ町橋」 2021年12月5日撮影)
橋手前右岸側は従来からのコンクリート桁、一方崩れた橋脚部に架かっていた橋桁は撤去され鋼製の橋桁に、高欄も色気も愛想も無い白色のガードレールタイプに。
2021年5月22日復旧工事中の中ノ町橋.jpg
(復旧工事中の様子 2021年5月22日撮影)
今年5月に確認した時には、橋はまだ被災した当時のままで、復旧工事は左岸の土手部分が先行して進められていました。橋の周辺左岸上下流部分とも土手の決壊は免れましたが、堤内側法面がかなりえぐられていました。
左岸上流側.jpg左岸下流側.jpg
(堤内法面は越流した水の勢いで削られている。)

2019年11月21日被災した中ノ町橋.jpg
(2019年11月21日撮影、被災直後の「中ノ町橋」)
橋の高欄部にも多くの藁くずが引っかかっていて、増水時には橋の上まで川の水が洗っていた様子が覗えます。
2019年3月2日撮影中ノ町橋.jpg
(被災前の「中ノ町橋」 2019年3月2日撮影)

赤津川分水路については、ここで何度か取り上げて紹介をしてきました。
かつて毎年のように栃木の街中を床上まで水浸しにした巴波川。だが実際はこの赤津川が洪水の元凶で、今も箱森町中央部を蛇行をくりかえしたその旧赤津川の河道が、今もその姿を留めています。
そんな赤津川を1951年竣工したこの分水路により、それまで栃木の街方向に流れていた水を、吹上町の新田橋の下流部(今東北自動車道が交差する辺り)から真っ直ぐ南方向へ田畑を開鑿して、錦着山の北西部にて西から流れて来ている永野川に落とすように流れを変えました。
2012年11月25日撮影赤津川分水路.jpg
(2012年11月25日 栃木インターチェンジ付近、県道栃木粕尾線の平和橋下流部より赤津川分水路を南方向に向かって撮影した写真。)
写真手前に架かる橋は「鹿島森橋」その下流に「中ノ町橋」更にその奥に「新井橋」も望む。写真左奥に写る山は錦着山に成ります。
赤津川分水路には地元の要望を受けて、かつての農道に合わせて多くのコンクリート橋が架けられていました。

それ以来、栃木の街は平穏な年を重ねて来て、「映画館もショッピングモールも無い町だけれど、災害も無い安心して住める町」でしたが、2015年9月9日の50年に一度と言われる豪雨災害により、この赤津川分水路も濁流が流れ、老朽化していた多くのこれらの橋が被災しました。
落橋した鹿島森橋.jpg
(2015年9月27日撮影、落橋した「鹿島森橋」)

この「鹿島森橋」は被災後架け替えは無く撤去に成りました。この時は赤津川分水路の多くの橋が被災して一時通行が出来なく成りました。上流側に架かっていた「田原橋」も被災、撤去に成りました。更にその上流の「永宮橋」も老朽化も重なり、新しい橋へと架け替えられています。
此の時は、この「中ノ町橋」は被災を免れました。
2015年9月27日中ノ町橋.jpg
(橋脚部に多くの藁くずとうの瓦礫が引っかかった「中ノ町橋」 2015年9月27日撮影)
ところが、それからたった4年後の2019年10月、今度は持ちませんでした。

現在、栃木市内を流れる多くの河川では大規模な河川改修工事が進められてます。二度と悲惨な水害に遭わないために。
以下の写真は永野川で進められている河川改修工事の様子。(2021年11月3日撮影)
P1130868.jpg
P1130895.jpg
P1130906.jpg
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栃木市内、もう一つの清水川 [栃木市の河川と橋]

「清水川」とは、清く澄んだ水が流れる川で有れば、自然と呼ばれてくる名前である。
恐らく栃木市内でも、地元では「清水川」と呼ばれている川は結構有るのではないかと考えます。
このブログでも、4月と5月に2回に分け、「箱森町の清水川とその上流域」と、「柳橋町から湊町そして巴波川に落ちる清水川」を紹介しましたが、今回はもう一つの、栃木市内を流れる清水川流域を巡りたいと思います。
私がもう一つの清水川の存在を確認したのは、1993年5月23日子供達とサイクリングを兼ねて寺尾地区の橋巡りに行った時です。
尻内町に有った寺尾南小学校の南東部、国道293号に架かる小さな橋の親柱に「清水川」と記した銘板を見つけました。ちなみに橋の名前は「観音橋」と有りました。
清水川(尻内町).jpg
(国道293号に架かる小さな橋の親柱に「清水川」の文字が確認出来ます)
観音橋(清水川・尻内町).jpg
(東側の親柱には「観音橋」の銘板が付いています)

しかし、この清水川の河道を調べると、観音橋から下流は容易に確認出来ましたが、上流側についてはハッキリしませんでした。
国土地理院発行の地形図を発行年代ごとに表記されている川筋を上流に遡って行くと、幾つかのルートが見えてきましたが、「清水川」と表記するものは、一枚も有りません。「清水川」と表記がされているものはゼンリンの住宅地図だけで、それも観音橋の直ぐ上流部分に記されているだけで、その上流が何所なのかは判断できませんでした。

それが昨年ハッキリした回答が得られました。栃木市図書館に「寺尾地区地名の由来と自然災害」、サブタイトル「我が身と郷土を守るために」とあり防災士の栗原 栄さんが令和元年5月に非売品として発行された本を見つけたのです。
その本の中に、梅沢町を流れる清水川に関する記述が何カ所かありました。この本から得た情報を元に再度現地を巡って確認して来ました。

梅沢町を貫流する「清水川」の流れを、強引に簡略化した模式図に表してみました。実際はこの清水川流域を中心に行われた寺尾南部土地改良区による圃場整備が平成4年から平成12年の期間で実施された事で、田んぼは碁盤の目の如く整備され、水路も分散して直交する道路沿いを分流する様になっています。
それでもメインの流れは、宮下沢に流れ落ちるまでは確認出来ました。
分流した水路も最後は、愛宕神社が鎮座する舌状台地の先端部を回り込む水路に流れが集まって来て、国道293号に架かる「観音橋」の下を潜って、南西方向から流れてきた「内宿川」に合流、その先で永野川に戻っています。
梅沢町を貫流する清水川模式図2.jpg
(梅沢町を貫流する「清水川」の河道を模式図に描いてみました)
模式図の下側愛宕神社の右上から、斜め上に永野川まで破線で記した河道は、明治19年発行の迅速測図に記されていた河道の概略に成ります。

その本の、「梅沢町の小字の由来 1.立野(たての)」の説明の中に、<前略・・土地改良事業を導入するまで当地に湧水が2ヶ所存在していた。1ヶ所は清水川の源流で暗渠の最奥で渾々と湧いており、この湧水と永野川から取水された用水が合わさり、梅沢町「新町」、「木戸内」、「前田」を経て50haの水田を潤して尻内町「川入」で永野川に還流している。地元にとって貴重な水源であった。また、清水川源流の岩舟石で積まれた護岸工の下には「ハヤ」が潜んでおり、沢ガニもバケツ1杯も捕れるほど生息していた。>と、清水川の源流周辺の状況を記しています。
清水川源流付近の石垣.jpg
(模式図撮影点Aの写真、寺尾中学校の南東側、永野川の右岸脇に石積の護岸を確認)
撮影点Aから50メートル程脇を流れる永野川を遡った所に、堰が設けられ取水された水が先ほどの岩舟石の護岸付近で、合流しています。
梅沢大久保堰.jpg
(清水川に流す水を取水する、永野川に設けられた梅沢大久保堰)

梅雨の為増水した永野川から取水され、満々と水路を流れる水は、寺尾公民館と永野川との間の河道を南流、寺尾公民館の南側を西から東に流れ永野川に落ちる「梅沢」と交差することに成る。
寺尾公民館脇を流れる清水川1.jpg梅沢の下を潜る清水川.jpg
(寺尾公民館と永野川右岸の土手との間を南流して、梅沢の下を潜る清水川)

清水川の水はここで逆サイフォンの原理で梅沢の下を流れて、少し永野川の土手沿いを南流してから右方向に流れを変え、永野川から離れて行き、旧鍋山街道を抜け、住宅街の西側に出て南流しています。
D清水川上流域.jpg
(模式図撮影点D:旧鍋山街道沿いの住宅地を抜け西側の田畑と宅地の境を南流する清水川)

ここでチョッと寄り道を。
先ほど清水川の行く手を阻んだ「梅沢」について、参考にさせて貰った「寺尾地区地名の由来と自然災害」の本の中に、この「梅沢」について興味の有る説明がされていますので、抜粋して紹介させて頂きます。
<当地区を流れる「梅沢」は明治時代当初まで梅沢村と鍋山村の境界であった。河川名は一般的には流域名を付けた「坂の入沢」であるが、地元ではその呼び名は通用していない。当河川は洪水の時には一瞬のうちに水が流れるが直ぐに涸沢となるため地元では「キチゲガワ」と呼ばれていた。昭和初期には「深堀」、現在は「境堀」又は土木事務所名では「梅沢」である。>
ひとつの沢でも地元では色々な名前で呼ばれているものなんだと、教えられました。
C梅沢町靖国神社前を流れる梅沢.jpg
(模式図撮影点C:「梅沢」は中流域で「靖国神社」の前を流れています。今年3月31日、沢に水は無く涸沢状態でした)
B梅沢に架かる新宿橋.jpg
(模式図撮影点B:旧鍋山街道の梅沢郵便局脇の「梅沢」に架かる「新宿橋」です。撮影の時は丁度桜が満開でした。)

もう少し寄り道。
永野川の右岸土手に沿って流れてきた清水川が、右に曲がって土手から離れるところに古い水門が有ります。
永野川から離れる清水川.jpg錆びた水門開閉用ハンドル.jpg
(永野川右岸土手から離れて行く清水川と水門の開閉用ハンドル)

昭和52年9月30日発行の地形図には、西側の山並みと鍋山街道との間の水田地帯を一筋の青色の線が描かれています。この線が清水川の河道だと、例の本と突き合わせてハッキリしました。
その地形図には永野川の取水口に堰の記号が付いていますが、その位置は、この古い水門から100メートル程永野川を遡った、丁度現在の梅沢の落ち口辺りに成ります。現在の堰から260メートル程下流に当ります。
栗原さんの本には、かつてこの場所に有った堰の名は「おかえり堰」と記されています。何故その名前で呼ばれる様になったのかは、残念ながら記されていません。興味の有る所です。

大分寄り道をしてしまいました。清水川の流れに沿って下って行きましょう。
一度街道を抜けて西側の住宅街の裏手を回り込む様に流れた後、再び鍋山街道の道路の脇を流れて行きます。
E旧鍋山街道の脇を南流する清水川.jpg
(模式図撮影点E:鍋山街道の西側道沿いを南流する清水川)

この後清水川は梅沢ドライブインの北側で街道から離れて行きますが、ここに清水川の流れを分流させる水門が設けられ、ここから水路は二つの分けられて、梅沢ドライブインの裏手を南流していきます。
又、その水門の脇に「寺尾南部土地改良区」の「圃場整備事業竣工 記念碑」が建っていました。
分流水門.jpg圃場整備事業竣工記念碑.jpg
(梅沢ドライブイン北側の街道西側に見える分流水門と「寺尾南部土地改良区」記念碑)

碑陰の事業沿革.jpg
(記念碑の碑陰に刻まれた「事業沿革・事業概要」等)

梅沢ドライブインの南側に街道から西に抜ける脇道が伸びています。この道は西の山際に建つ「華藏寺」に突き当たります。この道路と清水川と交差する場所に架かる橋には高欄と親柱が有り、親柱を良く見ると右側に橋名、左側の親柱に竣工年月が刻されていました。
大門橋親柱左.jpg大門橋親柱右.jpg
(橋の親柱右側には「大門橋」、左側には「昭和九年十二月架設」と刻して有ります。写真奥山際に見える大きな屋根は華蔵寺の本堂屋根です。)

大門橋を潜った清水川は、橋の直ぐ下流部にて水路を交差させて流れを変えています。
F大門橋付近の清水川.jpg
(模式図の撮影点F:大門橋の直ぐ下流で、まるで高速道路のジャンクションの様な水路)

この後清水川の本流は、南流して西から東に流れる「宮下沢」に流れ落ちています。
G宮下沢に落ちる清水川の流れ.jpg
(模式図撮影点G:写真左奥から手前に流れる水路は「宮下沢」、手前右側の水路が清水川本流)

現在宮下沢は一直線に初音山に出来た「アゼリアヒルズカントリークラブ」への、鍋山街道からの取り付け道路の北側を流れていますが、このゴルフ場が建設される前は、地形図には描かれていない水路でした。
土地改良事業が始まる以前の宮下沢の流れは、星宮神社前から南東方向の、鍋山粉塵公害集団移転住宅地方向に流れ、90度転換して、三信砕石(株)社宅の近くで北西側から流れてきた清水川と合流し、そこから鍋山街道際まで流れ、清水内の「エネオス栃木梅沢SS」の前を暗渠となって流れ、愛宕神社の鎮座する舌状台地の先端を回り込んで、国道293号線に架かる「観音橋」へと流れて行きます。
H観音橋1(清水川・尻内町).jpg
(模式図の撮影点H:国道293号線に架かる「観音橋」、鉄パイ部のガードレールが追加されています。)
写真左端に愛宕神社の社標柱と奥に石の鳥居が写る)

この観音橋は、1963年3月に架けられましたが、交通量の増加に伴い1972年に拡幅工事が行われ、6.5メートルから9.25メートルに広げられました。

清水川はこの先で、南西方向から流れて来ている内宿川に合流して、その後すぐ永野川に戻って行きました。
これで梅沢町を貫流している「清水川」流域巡りを終了します。

今回の参考資料:「寺尾地区地名の由来と自然災害」栗原栄著
            国土地理院発行地形図25,000分1、「下野大柿」及び50,000分1、「栃木」
            ゼンリン住宅地図「栃木」


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箱森町から柳橋町そして湊町へと流れる清水川を模式図にしてみました [栃木市の河川と橋]

前回とその前と、2回に分けて栃木市箱森町から、柳橋町を縦断して湊町へと流れ、最後巴波川へと流れ込む清水川の流域とそこに架かる橋を、写真と文にて紹介しましたが、説明が下手と感じていましたので、清水川の流域全体を模式図にしてみましたので、合わせてご確認ください。
栃木市を流れる清水川・河道と橋の模式図.jpg
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箱森町源流の清水川流域を巡る(その2) [栃木市の河川と橋]

二年連続の新型コロナウイルス感染拡大の中のゴールデンウイークも終盤に入ります。
人流を抑える為不要不急の外出の自粛が叫ばれ、それでも自粛疲れも有ってか、少し郊外で英気を養いたいと、自然を求める人達が多くなっているとテレビニュースで報じていました。

私も今はひたすら我慢、ステイホームの毎日です。
ぼーっとして時間が有り余ると、不思議なものでブログを書く気力も減退するのか、暫らく更新をしていませんでした。書きたいテーマは幾つか有るのですが、筆が進みませんでした。

でも、そろそろ連休も終わるので、重い腰を上げます。清水川の話第二段です。
前回は源流側を遡って行きましたが、今回は流れに沿って下って行きます。起点は前回同様、河川の名前から命名された「清水川橋」から下流に向かいます。
1980年清水川橋2.jpg

「清水川橋」から下ると、150メートル程で、堰の様な構造物が有り、河道が二方向に分かれます。本流は右方向、南に流れて行きますが、一方左方向は南東方向へ河道が曲がって行きます。
清水川橋下流の堰.jpg
(上の写真は上流側から、川の分岐点を写したもので、清水川本流は右方向、コンクリートの護岸が有る方です。写真奥中央右寄りに建つ二階家の先に黒く杉木立が覗いていますが、日限富士浅間神社
この辺りは子供の頃家からも近かったので友達と良く水遊びに来ていました。春には川の土手で「ノノヒロ」を採って味噌を付けて食べていた記憶が有ります。その頃は周りは一面の田圃でしたが、今は周りに住宅が迫って、南東方向に分岐した河道は、もうハッキリしませんが、こちらの流れは「元県庁堀」に繋がっています。(大正6年7月30日大日本帝国陸地測量部発行「栃木」の2万5千分1の地形図には、清水川のこの分岐と河道が良く描かれています。)

ここは本流を下ります。分岐点から150メートル程で「日限冨士浅間神社の西側に出ます。ここも子供の頃は良く遊びに来ていました。正月三箇日や四月一日の春の大祭には大勢の参拝者が行列を作っていました。境内には露店も出て賑やかだった記憶が有ります。
日限冨士浅間神社拝殿.jpg
日限冨士浅間神社春の大祭.jpg
(昔程では有りませんが今も正月や春の大祭は参拝者が訪れています)

清水川の左岸に沿って150メートル程の参道が一直線に伸び、そこには百基以上の白木の鳥居がトンネル状に建てられていました。
日限富士浅間参道鳥居郡.jpg
その頃は子供心に何本有るのか、友達と一緒に必死で数えた思い出が有ります。が、現在は残念ながら古くなって朽ちた鳥居が撤去され、新しく寄進されるものも少なくなってしまった為、かつての様な鳥居のトンネルは無くなってしまいました。
寂しくなった鳥居の参道.jpg

この参道の入口、一の鳥居の建つ場所は、栃木の市街地と皆川とを結ぶ「皆川街道」(現在は主要地方道栃木佐野線)の脇で、清水川はこの街道に架かる「浅間橋」の下を潜っています。
2021年浅間橋.jpg
この「浅間橋」の北西側橋詰に、「日限屋」と言う店舗が有りましたが、最近更地に変わってしまっていました。
1980年浅間橋.jpg

参道の途中にもう一ヶ所橋が架かっています。先ほどの皆川街道と平行に北側を走る、市道11134号線が参道を横切っています。そこに架かる橋は「藤宮橋」で、現在の橋は昭和11年1月に竣工しました。
藤宮橋.jpg
藤宮橋親柱.jpg
(斜めに傾いた親柱に「藤宮橋」の文字がはっきりと確認出来ます。

皆川街道の「浅間橋」を潜った清水川は、その先で「く」の字に方向を変えて、南南東の方向に一直線に進み、「県道太平公園線」まで流れて行きます。現在のドミノ・ピザ栃木湊町店さんの前辺りで県道を斜めに抜けて行きます。ここは橋の形跡は無く、暗渠化されて道路の下を潜っています。

この間、清水川を3筋の市道が横切っていますが、そこに架かる橋の名前は確認できません。
この3本の市道は北側から、市道11164号線・市道11169号線・市道11175号線に成ります。元々これらの道路は薗部村が明治38年3月から明治40年にかけて行った耕地整理事業によって碁盤の目の様に整然とした平行・直交の姿を呈しています。ですからこれらの道路は全て県道太平山公園線と平行に作られました。
3本の中でも一番早く地形図上に描かれた道路は一番北側の市道11164号線で大正6年発行の地形図に表れています。残りの2本も次に発行された昭和7年発行の地形図には碁盤の目がかなり広がって出来て来ています。
それでは北側から見ていきます。
市道11164号線.jpg
上の写真が市道11164号線です。まっすぐに太平山方向の向かって伸びています。手前の橋が清水川に架かる無名橋です。私は中学生の時この橋を、この道路を通って、西中学校に歩いて通学をしていました。懐かしい道路です。
市道11164号線に架かる橋1.jpg
清水川に架かる橋を下流側から撮影しました。橋の奥は木々がこんもりしていますが、右に曲がった先に「浅間橋」が有ります。

私が1965年10月にこの市道11164号線から北側男体山方向を撮影した写真が有ります。
1965年10月撮影柳橋町の西部.jpg
写真中央奥に薄っすらと男体山、左手電柱の先に鍋山も写っています。左手電柱の建つ道路は、かつてトロッコの軌道が敷設されていた、市道2051号線です。柳橋町の西部域は一面の田圃風景でした。

次の道路市道11169号線です。
市道11169号線.jpg
やはり太平山に向かって真っすぐに伸びています。
市道11169号線に架かる橋1.jpg
清水川に架かる無名橋です。清水川の奥に写っている橋が先ほどの市道11164号線に架かる橋に成ります。

3本目市道11175号線の道路の写真は有りませんでした。橋は上流側から写した写真が有りました。次の白いパイプガードが見える橋が市道11175号線に架かる橋です。
市道11175号線.jpg市道11175号線の橋から上流側を写す.jpg
もう一枚の写真は市道11175号線に架かる橋から上流側を写したもので、これまで紹介した2本の橋が確認出来ます。

先へ進みます。県道太平山公園線を斜めに抜けた清水川は、ここから湊町に入り東方向に流れ、白旗山勝泉院裏手の墓地の北側を回り込んで、そこから巴波川に流れ落ちています。

県道太平山公園線の南側の流れ.jpg
県道太平山公園線の下を抜け、南側湊町を流れる清水川。奥に白旗山勝泉院の墓地が見えます。清水川は墓地の北側を回って更に東へ向かいます。

白旗橋.jpg
巴波川沿いの道路の一つ西側の通りです。手前の橋は「白旗橋」。
橋の下流側の赤い屋根の建物は、毎年8月上旬に巴波川で行われる「百八燈流し」の際、お目見えする「二荒山神社御神船」の保管場所に成ります。
百八燈流しの風景.jpg
毎年8月上旬に行われる巴波川の「百八燈流し」の様子

湊橋上流側.jpg
いよいよ清水川に架かる最後の橋「湊橋」の上にやって来ました。川の上流側奥に先程の御神船の保管場所が見えています。

湊橋.jpg
清水川も「湊橋」の下を抜けると、巴波川に合流することに成ります。

清水川とそこに架かる橋を巡る散歩におつきあい頂きありがとうございました。
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栃木市内を流れる清水川流域を巡る① [栃木市の河川と橋]

今回巡る栃木市内を流れる川は、私の家の脇を流れる幅2.5メートル程の小河川です。川の名前は「清水川」です。どこにも有りそうな名前の川です。
この川の名前を現地で実際に確認の出来るところは、一ヶ所しか有りません。
万町交番前交差点から西にのびる市道1031号線、錦町五差路を過ぎて更に西に進むと、この清水川に架かる橋が有ります。橋の手前左側に「ポアッソン」というフランス料理店が有ります。その橋の親柱に「清水川」と記した橋名板が付いています。橋の名前もそのまま「清水川橋」です。
清水川橋.jpg
現在は清水川橋の下流側に側道橋が追加されています。この橋を毎朝大勢の学童さんが集団登校をしている為、その安全を図るために数年前に設置されたました。

清水川橋no.jpg清水川橋の橋名板.jpg
(清水川とハッキリと表示された親柱)

先ずは、この川の源流はどうなっているか、それを探索して行きます。川沿いに通行できる道路が無いので、回り込んで一つ上流の橋へ向かいます。
中乃橋.jpg
「中乃橋」とコンクリート製の親柱に陰刻されています。架橋されたのは「昭和五年六月架設」と親柱に見る事が出来ます。
中乃橋架設年.jpg中乃橋の橋名表示.jpg
(南西側親柱には橋名が陰刻されています。ひらがなでしょうが達筆なので私にはどう読むのか分かりません。北東側の親橋には漢字で「中乃橋」とハッキリ陰刻されています。ただ何故この橋の名前が「中乃橋」と命名されたのか、考え付きません。入舟町に有る元県庁堀と巴波川との間を舟で往来できるよう開鑿された漕渠には同様に「中ノ橋」と言う橋が架かっていますが、この漕渠には「学橋」「中ノ橋」「入舟橋」の三本の橋が架かっています。従ってその中央に位置する場所に架けられているから「中ノ橋」は納得がいくのですが)

現在の河道は両岸・河床とも鉄筋コンクリート製になっていますが、40年前に撮影した写真を見ると、雑草が生えた土手でした。
1980年撮影の中乃橋.jpg2021年撮影の中乃橋下流側.jpg
(40年、橋自体は何も変わっていませんが、河道の姿はコンクリート化され大きく変わっています。)

河道は、この中乃橋の直ぐ上流側で二筋に分かれています。ひとつは北の方から真っ直ぐ橋に向かって流れて来ています。もう一筋は右岸(西側)から合流する形で流れて来ています。
清水川橋脇で舘野川が合流.jpg
(二筋の水の流れが、中乃橋の所で混ざり合い、橋を潜って流れて行きます。)

現在この脇から流れ込む河道は暗渠化されていますが、平成26年の河川改修以前は開水路で、川の脇を走る道路にガードレールが無かった為、時々自動車が脱輪するトラブルが発生していたようです。
暗渠化された館野川下流域.jpg危険だった舘野川.jpg
(道路脇の水路が暗渠化されて安全走行が可能になった)

河川改修工事の際の掲示版に、「舘野川河川改修工事」と記載されていたので、この時こちらは清水川では無ないことが確認されました。

現在舘野川の上流域に調整池が築造されています。その場所は中乃橋からずっと西に行った、栃木環状線の外側に成ります。
調整池化工事中の舘野川上流域.jpg舘野川上流域.jpg
(ほぼ完成した舘野川上流部の調整池と元の舘野川の様子)
清水川も2019年10月12日から13日未明に通過した台風19号で増水し溢れ、下流域に大きな浸水被害を発生させています。この調節池の築造もその対策の一環に成ります。

もう一つの北側からの河道を遡って見ます。川幅はづっと狭くなって住宅の間に隠れていますが、その先は旧鍋山街道(現在の市道1027号線)を抜け、関口海苔店栃木本店の直ぐ北側を流れています。
十二社橋.jpg
(ガードレールタイプの橋の高欄にこの道路が以前県道栃木粕尾線であったことを示す表示が残っています。ちなみにこの旧鍋山街道が敷設されたのは、明治27年頃で、明治33年7月5日、ここに鍋山人車鉄道が開通しました。)
ところで、ここに架かる橋の名前は「十二社橋」となっています。すぐ北側に鎮座している十二社神社からこの名前になったと考えます。
更に上流に向かいます。先ほどの十二社神社の前から東に延びる市道2056号線に、小さな親柱を備えた橋が架かっています。
岡堀橋.jpg
親柱を良く観察すると「岡堀橋」の文字が陰刻されています。「昭和五年四月竣功」と有ります。こちらの水路名は「岡堀」と言う事が分かります。
1980年岡堀橋親柱.jpgカワチ薬局さん敷地内に消える河道.jpg
この「岡堀」はこの橋の上流側は、カワチ薬局栃木インター店の敷地に入り、縞鋼板に覆われ、その先は暗渠化されてルートの確認が出来ません。
周辺をジックリ観察して回ると、そこから北方、栃木環状道路を越えた先、パチンコ店「ベガスベガス」の南東部に有る居酒屋「ゆきの」さんの店舗前に、以前の開水路の一部が残っていました。
栃木環状線脇に残る岡堀の一部.jpg
(栃木環状線の脇、居酒屋「ゆきの」さん店舗前に残る「岡堀」の一部と思われる開水路)

以上から推察するに、清水川の上流点は「中乃橋」で、それより上流側は北側からの「岡堀」と、西側からの「舘野川」とに分かれている。
「岡堀」が地形図上に現れるのは、昭和40年発行の2万5千分1の「栃木」の地形図で、それには「中乃橋」が地図記号で記載されています。そこから北方向に河道をたどってくと、箱森町の北隣りの野中町に至ります。そこで北西から来ている旧赤津川から分流しています。その地点は現在の栃木総合運動公園の正面ゲートの南側辺りに成ります。
吹上地区まちづくり協議会(歴史ロマン委員会)の編集・発行となる、「知っていますか、郷土の地名 吹上地区小字の由来 野中町・宮町・千塚町編」で野中町拡大図を見ると、先ほどの運動公園正面ゲート付近の小字名は「岡堀」と記されていました。
「岡堀」と呼ばれるところで赤津川から分かれた水路だったところから「岡堀」と呼ばれるようになったものと思われます。

一方の舘野川の源流を地形図から調べると、明治19年発行の迅速測図「栃木」に現在の舘野川に相当する位置に水路が表されています。この地形図には「岡堀」は描かれていません。
描かれている舘野川と思しき河道を目で遡って行くと、現在造られている調整池の先で河道は時計回りで大きく曲がり、現在の「セレモニーフラワーホールつかさ」さんの付近に大きな沼が描かれています。かつてここに湧水によって出来た大沼が有り、これが舘野川の源流だったと思われます。
大正6年発行の2万5千分1「栃木」の地形図では、すでに大沼は水田に変わっています。ただ現在の調整池付近に小さい沼が認められそこから東側は湿地になっています。ここが「たてぬま」と思われます。
これはあくまでも私の推論ですが、かってこの「たてぬま」や「おおぬま」の湧水に囲まれた内側にこの地方に住む豪族が舘を構えていた。それが「舘の沼」「舘の川」と呼ばれ、「舘沼」とか「舘野川」となったのではないかと。
栃木市教育委員会事務局 文化課編集・発行の「栃木市遺跡分布地図の中に、この地を「舘野城」の遺跡として記しています。

今回は清水川の上流域を巡りました。清水川は赤津川から分流した「岡堀」と、「舘野川」との二つの流れが合流した「中乃橋」から下流が「清水川」と呼ばれ、そこから南流して柳橋町から祝町・湊町を経て巴波川に流れ込んで行きます。次回はその下流側を巡って行きたいと思います。



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栃木市内を流れる、もうひとつの赤津川 [栃木市の河川と橋]

かつて赤津川と言えば、栃木市民にとっては、毎年のように市内に洪水災害をもたらす、暴れ川として困った存在の川でした。
その赤津川は源流を栃木市の北端西方町真名子の男丸まで遡ります。鹿沼市との境界となる大倉山(455m)の南麓の沢水に求めています。そしてこの赤津川は栃木市街地の洪水対策の為に昭和23年から26年にかけて、吹上町の新田橋の下流部で、それまで南東方向現在の栃木市総合運動公園方向に流れていた河道を遮断して、真っ直ぐ南に開鑿して、「赤津川分水路」として錦着山の北西部で永野川に繋いでいます。が、今回紹介をする赤津川は、タイトルの通り上記の赤津川では無く、栃木市内を流れるもうひとつの赤津川に成ります。

もうひとつの赤津川は、大平町蔵井で永野川に堰を設け、その水を右岸から取水して、大平町の真弓・西水代・伯仲を縦断する様に流れ藤岡町蛭沼に入り、西前原の排水機場を抜けて渡良瀬遊水地内で、江川と合流しその後巴波川に流れ込んで行く「赤津用水路」の事で、国土地理院地図上には「赤津川」と表記されています。
新西野田堰1.jpg
(大平町蔵井の永野川に設けられた、新西野田堰)
新西野田堰2.jpg
(堰の上流側右岸に有る、赤津用水の取水門)
新西野田堰3.jpg
(取水された水は永野川右岸の堤を抜けた後、開水路と成り南流していく)
この後赤津用水は大平中学校の東側の道路脇を流れて行きます。この間住宅街の幾筋もの通りに架かる橋を潜りますが、それらの橋の名前は確認できません。親柱に橋名板が埋め込まれていた跡が残っていますが、銘板自体は外されて載っていません。
大平中学校東側を流れる赤津用水.jpg
(左手の建物は「大平中学校」、赤津用水は奥から手前に流れています。)

そこから「さくら通り」の下を抜け、今まさに満開を迎えている「さくら樹木公園」の北側から東側にかけて流れています。
大平町の桜公園脇を流れる赤津川.jpg
(大平運動公園の東端に位置する「さくら樹木公園」はいままさにいろんな品種の桜の花が、ピンク色の花びらをほころばしています。)

赤津用水はこの後「県道蛭沼川連線」に架けられた「新愛宕橋」の下を流れ、県道の東側に流れを変えます。
2021年新愛宕橋.jpg
(県道蛭沼川連線に架かる「新愛宕橋」。橋高欄の向こうに色とりどりの桜が咲いています。)
新愛宕橋銘板1.jpg赤津用水銘板1.jpg
(「新愛宕橋」の親柱には、嬌名と河川名が表示されています。)
河川名として「赤津用水」と表示されています。この赤津用水には多くの橋が架かっていますが、私が確認した中で河川名が表示されているのは、この「新愛宕橋」だけです。
此の橋名の「愛宕」はどうして命名されたものか、今のところ私は確認できていません。「愛宕」とは神社名に良くありますが、付近にそれらしい神社は見当たりません。架橋地点の北東側に有る磯山に鎮座しているのは「諏訪神社」ですし。

次に架かる橋は「中才橋」ですが、現在の橋には橋名等の表示が有りません。高欄は普通の白色のガードレールタイプで親柱も有りません。
2021年中才橋.jpg
(現在の「中才橋」、橋の高欄は白色のガードレール式で何の表示もされていません)
1993年8月に私が撮影した時は親柱も有りそこに「中才橋」と表示が有りました。
1993年中才橋.jpg
(1993年撮影した時の「中才橋」、橋名が確認出来ます)

この「中才橋」の名前は地名から命名されています。国土地理院2万5千分1地形図「栃木」を見ると、架橋地点の左側に「中才」の地名が表記されています。

この後赤津用水は県道から離れて南東方向「ゆうゆうプラザ」の西側に出て、そこから又南流しています。
県道小山大平線の下を抜けた後は、ほぼ南北に縦断している市道1071号線の道路の西側に沿って流れています。
ゆうゆうプラザ南側より道路脇を南流する赤津川.jpg
(写真右端の道路の奥に「ゆうゆうプラザ」を遠望出来ます。赤津用水は道路脇を流れています)

暫らく土地改良で碁盤の目の様に整然と開けた田んぼの中の道路を南に向かうと、やっと親柱が建つ橋が道路脇に現れました。この橋を渡って真っ直ぐ西に向かうと、市立大平南中学校に突き当たります。
みづきばし1.jpg
(学校への入口となる橋、高欄が「ハ」の字状に造られています)
みづきばし2.jpg
親柱に掲げられた橋名は「みづきばし」、左右共に同じひらがなの橋名で河川名は有りません)

赤津用水はそのまま真っ直ぐに南流を続けて、主要地方道岩舟小山線(旧国道50号線)に架かる「下宿橋」を抜けて行きます。この橋なんの変哲も無く、高欄も白色のガードレールタイプですが、橋桁側面にしっかり橋銘板が付いていました。さすが元国道に架かっている橋です。
下宿橋.jpg銘板下宿橋の.jpg

赤津用水はまだまだ、ひたすら一直線上に南に向かって流れ、国道50号の所で西側に200メートル程移動しますが、その後も又整然と区画された水田の中の真っ直ぐな水路を流れて、大平町西水代から大平町伯仲を抜け、藤岡町蛭沼へと変わります。
竣工碑1.jpg竣工碑2.jpg
(国道50号の南側、田んぼの片隅に建てられた「大平南部土地改良区 竣工記念」の碑)

この大平町から藤岡町に変わる所で再度西側に100メートル流路を変えています。この境界線の堤上に1本の石碑が建っています。
赤津川の土手上に建つ石柱.jpg石柱の追記文.jpg
(赤津用水の本流と支流の合流点の堤の上に建つ「堤高標」)
「堤高標」と大きく陰刻された下側に、「大正元年八月十二日」「大字伯仲」と刻まれています。又、側面には「追記 新規事業の実施に当り地元より消滅を惜しむ声あり 由って新川の名と共に神の倉堤の名が語り継がれんことを祈念して水入の地よりこの地に移す」と刻した石版が新たに埋め込まれています。
恐らく土地改良事業によって、元々この石碑が建っていた場所が消滅した為、「新川」や「神の倉堤」の事を後世に語り継ぐため現在の場所に移設したもので、それは「昭和五十五年一月 大平南部土地改良区」のことになります。
碑文に有る「神の倉堤」や「水入の地」とは何所だったのか、元々この「堤高標」はどんな目的で建てられたのか更に調査が必要です。

この石柱の建つ場所から南側は、いよいよ藤岡町蛭沼と成ります。そしてここからの赤津川(用水)の流れは、西側を縦断して走る県道蛭沼川連線とおよそ80メートルの間隔を保つように並行して南流していきます。そして南の主要地方道藤岡乙女線に架かる「倉前橋」との間、五カ所に橋が架けられていますが、これら五つの橋の名前が確認出来ました。
藤岡町蛭沼を流れる赤津川.jpg
(写真中央を流れるのが「赤津川(用水)」手前から3番目の橋の右側に石柱が建つ)

それらの橋名は上流側から、「3-204-2号橋」・「三蔵橋」・「川端橋」・「寺西橋」・「赤津橋」です。
三王寺大桝塚古墳遠望.jpg
(南側の「倉前橋」から赤津川(用水)の上流方向を望む。中央奥、茶色の小丘が古墳)

「寺西橋」の南東部の小丘が「山王寺大枡塚古墳」です。小丘の標高は23.7メートルで古墳の上に国土地理院の三角点が設置されております。
山王寺大桝塚古墳1.jpg
(山王寺大桝塚古墳 全長96m、後方部幅48m、前方部長さ48mの前方後方墳)
三角点.jpg
(古墳の頂部に設置されている、四等三角点「蛭沼」、後方に赤津川(用水)を望む)

「寺西橋」の名前は、この古墳の上に山王寺という古寺が有った事から、寺の西側部に架かる橋と言う事です。
寺西橋.jpg
(かつての古寺の名残の卵塔、後方に赤津川に架かる「寺西橋」)

主要地方道藤岡乙女線の「倉前橋」を抜けた赤津川(用水)は南西方向に進み、西前原工業団地内にて、富吉方向から流れてきた「静戸川」を合わせ、新しくなった西前原排水機場に流れ込みます。
静戸川との合流点.jpg
(西前原工業団地内にて右岸に静戸川が合流する。前方奥に排水機場の建物)
西前原排水機場.jpg
(新しくなり、周辺整備が進む西前原排水機場)
渡良瀬遊水地内へ.jpg
(渡良瀬遊水地内に流れてゆく赤津川(用水)、この後江川と合わさり巴波川に落ちて行く)
 
大平町の蔵井で永野川から分かれた赤津川(用水)の、約9.5キロメートルにわたる橋巡りでした。
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巴波川に関して色々 [栃木市の河川と橋]

今回は、この私のブログ名でも使わせて貰っている「巴波川」に関した、あれやこれやです。
「巴波川」、この川の名前を読める人は、栃木県内の人、それも県南のこの川の流域に住んでいる人か、その知人や関係者位では無いでしょうか。
「巴波川」を広辞苑で検索しても出て来ません。「うずまがわ」と読みますが、「巴波」を「うずま」と読ませるのは他に有るのでしょうか。
ちなみに<漢字源>にて、「巴」(ともえ)の文字を検索しても、読み方が「うず」とは出て来ません。
<字音>では「ハ」とか「ヘ」だけで、<意読>で「ともえ」と出てきます。そして「巴」を用いた難読語として、巴西爾(ブラジル)・巴波那(ハバナ)・巴比倫(バビロン)・巴拉圭(パラグアイ)・巴黎(パリ)の最後に巴波川(うずまがわ)が出てきます。
もう一方の「波」(なみ)の文字も、読み方が「ま」とは出ません。<字音>では「ハ」だけです。
そこから導くと「巴波川」は、「ははかわ」とか「ともえなみかわ」としか読めなくなります。とても「うずま」とは成らない訳です。

「栃木郷土史」(栃木郷土史編纂委員会著・歴史図書社発行)の第六章第二節「栃木の水系」に、
<一、うづま川>として、<川原田村鹿島神社御手洗沼に源を発している。うづま川は宇津間川・巴波川等の字をあてているが、元禄度箱森村書上に、一、鶉妻川 幅十間、村東方ヲ通リ申候。水上壱里 北方川原田村ト申所ヨリ出水ニ而流申候而栃木ヘ落合申候 とあり、鶉妻川の字を用いている。
元来、うづま川西方箱森村より薗部村地内にかけてなだらかな起伏多く、うずらがおびただしく棲息していたので、一名うづらが岡と呼ばれ、江戸時代、死刑場及牢屋等あつた現入舟町の禊教分院及其の東北方は、薗部村鶉島といった。(後略)>

それではどこで「巴波川」の文字を当てるようになったのでしょうか。
栃木県文化協会発行の「栃木の水路」の四章「母なるうずま」の中に<うずま川の名称>として、上記の説を記していますが、更に<江戸時代後期になると栃木町では巴波川の文字をあて、さらに渦川の文字をあてるものもあらわれる。小学校の教科書として編さんされた改正栃木県地誌略(明治十五年一八八二刊)には、「渦川は標茅が原および真名子山中より流出し・・・・・」と書いている。 (中略) 水流中へ水が湧き出るさまに「巴波」「渦」の文字をあてたものであろうか。このようにかわった文字をあてることは文化・文政(1804~1829)ごろの栃木町の文人好みのものであった。>とも。

結局ハッキリした事は分かりませんが、現在は「巴波川」の文字に統一されています。
が、ここで又ひとつ、新たな疑問が湧き上がりました。
上記の二つの文献の抜粋にて、最初の「栃木郷土史」では「うづま川」と、後の「栃木の水路」では「うずま川」と表記していました。

私が若い頃に参加していたアマチア写真同好会の名称は「うずま写友会」と表記しました。
うづま写友会作品目録.jpg
(うずま写友会、写真展作品目録)
うづま写友会写真展会場.jpg
(うずま写友会、初期の頃の写真展風景、まだ現在の文化会館が出来て無く、商工会議所ホールを借りて開催をしていました。)

同じころ栃木市で初めてだと思いますが、「うづまっこ」という月刊タウン情報誌が創刊されました。この月刊誌では、編集室だよりに「うづま有情」、他に初期の頃連載漫画「うづま君」やうづま文芸等々、うづま川との表記に基づいていました。
タウン情報誌うづまっこ.jpgタウン情報誌うづまっこ2.jpg

そこで、「巴波川」に関連した書籍や資料について少し調べてみました。
まず、「うずま」との表記を使っているものです。
①栃木市発行の「目で見る栃木市史」やその他の「栃木市史」
②藤岡町発行の「藤岡町史」や「ふじおか見てある記」
③平凡社発行の「栃木県の地名」
④「角川日本地名大辞典9 栃木」
⑤下野新聞社発行の大嶽浩良著「下野の明治維新」や荒井邦著「巴波川 部屋河岸」
⑥栃木市文化のまちづくり協議会発行の石塚倉子遺著「室の八島」
など、多数確認出来ます。

一方、「うづま」との表記を使っているものは、
①金剛出版発行の坂本冨士朗著「うづま記」
②東京新聞出版局発行の牧口正史著「巴波川 江戸期の歌人石塚倉子の生涯」
と、あまり確認出来ませんでした。他に「うづま」の表記が見られるものとして、
①「うづま焼」 入舟町
②「うづまクリニック」 川原田町
③「うづま運転代行サービス」 小平町
などが、確認出来ました。

それでは実際に巴波川に架かっている橋に表示されている「巴波川」のひらがな表記を見ていきたいと思います。但し範囲は栃木市街地です。上流部より川を下って見ていきます。表記の無いものや確認出来ないものは除きました。
それではまず「うずまがわ」「うずまかわ」と表記された橋です。
①前原橋 ②新高瀬橋 ③原ノ橋 ④嘉右衛門橋 ⑤泉橋 ⑥開運橋 ⑦常盤橋 ⑧幸来橋 ⑨公園橋 ⑩開明橋 ⑪平成橋 以上11橋確認出来ました。
嘉右衛門橋1.jpg開運橋1.jpg公園橋1.jpg

次に「うづまかわ」「うづまがわ」と表記された橋です。
①小平橋 ②大川橋 ③新橋 以上3橋だけでした。
大川橋1.jpg新橋1.jpg

これまで私は、巴波川に架かるこれらの橋を沢山撮影してきていますが、今回分かった事は橋名表示部分は良く撮影して有るのに、川の名前の銘板部分は意外に写していなかったのです。当然「巴波川」と言う事は分かり来たことだったので、改めて写真に撮る必要も感じませんでしたからね。
今回掲載した川名部分の写真は今回改めて撮影をしてきた物です。

以上から、「巴波川」のひらがな表記は、一般的には「うずまがわ」ですが、「うづまかわ」でも又良しです。
電子辞書の「漢字源」で「渦」を検索する時、「うず」と入力すると「渦」の漢字がヒットしますが、「うづ」では出て来ません。ただその意味の解説に、<{名}うず(うづ)。うずまき。水流がへこんだところに旋回してできるまるいうず。「旋渦」。>と表記されていて、「うづ」とも表記されています。

冒頭に紹介した栃木市初の月刊タウン情報誌「うづまっこ」でも、「うづま今昔 栃木の心巴波川」と題して記事が載っていたことが有ります。その中で「うづま川-その名の由来」が有りましたので、一部重複に成る所も有りますが抜粋して紹介させて頂きます。
<うづま川には、鶉妻川・渦川・宇津間川・それに現在の巴波川という字が使われていた。「元禄度箱森村書上」によると 鶉妻川(うづまがわ)幅十間、村東方ヲ通リ申候。水上壱里、北方川原田ト申所ヨリ出水ニ而流候而、栃木ヘ落合申候。と書かれている。また「大日本地名辞典、坂東、第六巻」には、巴波川は古名寒川にてウヅマとは渦巻の義なり、巴波の文字を仮りたるも真理なきにあらず。 とある。この書から考えると、巴波川のうづまとは渦を巻く川という意味からきているようだ。しかし、何時頃から巴波川という字が使われるようになったかは判明できない。面白い説には、鶉が巴波川に棲息していたことから、うづま川となったというものもある。>

「母なるうずま」であり「栃木の心巴波川」では、一年中色々な催しが企画され行われています。
先日はこのブログでも紹介した通り「ダックレース」が有りました。そしてまた、まさに今日も巴波川では「流し雛」が行われていました。
流し雛1.jpg流し雛2.jpg
流し雛3.jpg流し雛4.jpg

折り紙で折ったお雛さまに思い思いの願い事を書いて巴波川に流していました。そこには、コロナ収束を願ったもの、世界平和を、戦争が起きない様にと、長生きが出来ますよう、100点採れるようになど大きな願い、ささやかな願いが巴波川のさざ波にゆられて流れて行きました。

巴波川ではこの後、五月の青空に向かって、多くの鯉幟が泳ぐ姿が見られることでしょう。




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栃木市ダックレース見てしまいました。 [栃木市の河川と橋]

今日、用事が出来た為、久しぶりに自転車に乗って栃木の街に出かけました。
巴波川の脇の道を通るとチョッとした人の群れが。
何だろうと巴波川の川面を見ると、何やら無数の黄色い物体が流れていました。みかんの様な。
ダッグレース2.jpg

良く見てみると、樹脂製のアヒルが大量に流れています。良く子供が湯船に浮かべて遊ぶおもちゃです。
何時もバックに入れて持ち歩いているカメラを取り出し、早速撮影しました。
ダッグレース1.jpg

対岸の柵に張られた横断幕を見ると、「TOCHIGI Duck Race」の文字が。
プラスチック製のアヒルを川に流して、競争させている様です。
ひとつひとつのアヒルさんを見ると、ひっくり返って腹を上にしたまま流されているもの、ごちゃごちゃかたまって流れるもの、一匹離れているもの、川岸につかえて係員に助けられているもの、色々です。
同時にスタートしたのでしょうが、それでもアヒルの列は長く伸びています。どこで差が付いたのでしょうか。
そんな事を考えて流れて行くアヒルさんを見ていると、チョッと心がほっこりします。

そしたらこんな看板を目にしました。
ダッグレース3.jpg
「巴波川沿いでのレース観覧や応援等はお控えください。」と。
知らずに見ていましたが、見てはいけないものを見てしまったような、少し気恥ずかしくなり、その場を後にしました。
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三杉川の橋巡り④ [栃木市の河川と橋]

三杉川の橋巡りも、今回で4回目。
前回は頑張って、9カ所の橋を巡って来ました。前回は下岡に架かる「下岡橋」まで見て来ました。
下岡を抜けるといよいよ栃木市岩舟町の西端「古江」の集落に流れて行きます。
「下岡橋」から南流する事500メートル余りで、下岡と古江の境界に至ります。
三杉川はそこで90度流れを東方向に変えます。
樋の口橋南側より.jpg
(右側の橋が「樋の口橋」、中央の流れが三杉川。奥左の小丘が上岡、右が下岡)

川の左岸に沿って走る道路はそこで三杉川と交差する形と成り、橋が架けられます。「樋の口橋」です。
樋の口橋1.jpg樋の口橋橋名板.jpg
鉄筋コンクリート製桁橋で、橋桁中央部にこれまたコンクリート製のガッチリとした橋脚が橋桁を支えています。親柱はガッチリとした直方体のコンクリート製で、その一ヶ所に竣工年月を記した銘板が埋め込まれています。「昭和三十一年二月竣功」となっています。橋の南東側橋詰に「堤塘擴張工事記念碑」「大正十一年五月」「大字古江」と刻した石碑が建てられています。他に「小野寺経栃木町二里半」側面に「御成婚記念」と刻した道標も建てられています。
樋の口橋西側より.jpg樋の口橋2.jpg

三杉川はこの「樋の口橋」の下流で直角に折れるように再び南流をします。そしてその曲がった先に橋の幅員が1.5メートル程の人道橋が架かっています。橋桁には木製の丸太が使われており、まさに土橋の造りになっています。
番場橋1.jpg番場橋2.jpg
橋名は「番場橋」、大字古江の字名に番場という地名が有り、その地名から命名されたものと思われます。

この後、三杉川は大字古江と東隣りの大字新里との境界線として田圃の中を南流して行きますが、古江の集落の東端で東西に横断のする、市道1052号線の三杉川に架かる「東川橋」のしたを潜り、南に望む三毳山に向かって流れて行きます。
東川橋1.jpg東川橋橋名板.jpg
東川橋2.jpg
(東川橋より下流方向、三毳山を望む。最高峰は229メートルの青龍ヶ岳)

写真に写る三毳山の左側山裾にこんもりとした小丘(標高55メートル)が見える。「天狗山」と言います。
明治32年11月に当時の栃木町を中心に栃木第二中学校(現在の県立栃木高等学校)を行在所として実施された、近衛師団小機動演習の演習場の一ヶ所で、この天狗山の山頂を御野立に三杉川流域を中心に繰り広げられた演習をご覧になられています。
この件に関しては、この巴波川日記2018年5月22日の「草むらに埋もれる石碑の残骸」にて記しています。

三杉川はこの後三毳山に向かって流れ、三毳山北麓を東西に走るJR両毛線の手前で西南西に流れを変え、そこから両毛線の線路と平行して、西隣の佐野市へと流れて行きます。
此の流れを変えた場所で、東側から三杉川左岸に小河川が合流しています。これは三杉川の支流のひとつ「谷田川」です。
谷田川の上流は岩舟総合運動公園の北方の山の中に至ります。この谷田川には公園内を縦貫する間、多くの橋が架けられました。上流側から紹介すると「希望橋」「桜橋」「コスモス橋」「かたらい橋」そして「出会橋」です。
希望の橋1.jpg希望橋2.jpg
桜橋1.jpg桜橋2.jpg
こすもす橋.jpgこすもす橋2.jpg
かたらい橋1.jpgかたらい橋2.jpg
出会い橋1.jpg出会い橋2.jpg
谷田川を合わせた後、西南西に260メートル程流れた所に、小野寺地区での最後の橋「三杉橋」が有ります。
三杉橋3.jpg三杉橋4.jpg
(左側道路の先に新しい「三杉橋」、右側道路は前の橋の取り付け道だった。旧橋は撤去済)

この橋は三杉川に架かっている橋の中では、一番新しい橋(2016年2月竣工)に成ります。
三杉橋1.jpg
(小野寺地区を流れる三杉川に架けられた最後の橋「三杉橋」奥に岩舟山を望む)
三杉橋2.jpg
(三杉川の下流方向を望む。右岸側は栃木市岩舟町古江、左岸側佐野市町谷町です。)

今回巡った三杉川に架かる橋、4ヶ所の位置を又頑張って模式図に表してみました。参考に見て下さい。
三杉川古江付近の模式図.jpg

三杉川はここで一旦栃木市から離れ、佐野市内を流れることに成ります。
何時か佐野市内を流れる三杉川についても、巡ってみたいと思います。


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三杉川の橋巡り③ [栃木市の河川と橋]

今回も市内を流れる三杉川に架かる橋を巡って行きたいと思います。
1回目、2回目とも寄り道も有って、1回で三杉川に架かる橋を3橋づつしか回れなかった。今回は少しスピードアップして、多くの橋を巡って行きたいと思います。

早速、前回最後に見た「中妻南橋」の下流に架かる橋を探していきます。
「中妻南橋」を渡ると直ぐ東北自動車道のアンダーになりますが、その手前に三杉川の左岸に沿って細い道が通っています。その道を350メートル程進むと鋼桁橋が現れました。「杉本橋」です。
7杉本橋.jpg
(「中妻南橋」から下流側350メートルに架かる「杉本橋」)
橋長は11メートル弱、幅員3メートルと小ぶりです。現在の橋は1982年に架けられていますが、地形図上ではそれ以前より橋が有った事が確認出来ます。ただ橋名の「杉本」は何から命名されたものか、架橋地点の字名は「上耕地」としか確認できません。気になるのは周辺に「杉本」と言う姓のお宅が何軒か確認出来、それらとの関係性が有るのか、もう少し調査が必要です。
先を急ぎます。三杉川はこの後東北自動車道の下を抜けて東側に流れて行きます。そこで東北自動車道のアンダーを抜けて、東側に沿って走る側道に出て南に進み、次の橋を目指します。
この側道は最初の「中妻南橋」から東北自動車道のアンダーを抜けて来た道路に成ります。側道上に橋が現れました。
この橋も鋼桁橋です。橋の長さは23メートルと三杉川に架かる橋としては比較的長くなっています。幅員はガードレールタイプの高欄間は4メートルほど有りそうですが、橋詰に建つ道路標識には「2.0t」「2.2m」と表示されています。橋長が長い割りに橋の中程に有る橋脚が心もとなく、その為耐荷重が2トンしか無い為、大型車両の通行には耐えられないのでしょう。
8中川原橋2.jpg
(鋼製の桁を支える橋脚が何とも心もとない)
そこで橋自体の幅員は4メートル有る所、その橋の両側に幅員2.2メートルに抑える鉄パイプのポールを設置して通行制限を行っている様です。実際ポールは根元からへし曲げられていますが、それでもコンクリート製のブロックが頑張っています。
8中川原橋.jpg
(東北自動車道側道に架かる「中川原橋」、南側から撮影)

橋の名前は「中川原橋」、架橋場所の字名から命名された様です。直ぐ脇の東北自動車道の高架橋に掲示されている占用許可標識に<岩舟町大字小野寺字中川原地先>の場所名が確認出来ます。

次の橋は側道をそのまま南に進んで行くと、道路の左手に見えてきます。私が行ったときは丁度橋の高欄の付け替え工事の真っ最中でした。
9石橋橋.jpg
(高欄付け替え工事中の「石橋橋」)

橋の名前は「石橋橋」で、石橋は現地の字名になります。昔この辺に石の橋が架けられていてそこから地名が「石橋」と成って、今度は石橋に架かる橋に成るから「石橋橋」となった訳。こんな命名は他にも有ります。栃木市柏倉町の藤川には、「土橋橋」と名付けられた橋が有ります。命名の経緯は同じでしょう。現在架かる橋はきちんと高欄の有るコンクリート橋ですが「土橋橋」です。
土橋橋.jpg
(栃木市柏倉町の「土橋橋」)

先に進みます。又、側道を真っ直ぐ南進して行くと、Y字路が現れますのでここで側道から外れ、左の道を200メートルほど行った所で又、三杉川の橋を渡ることに成ります。今回4番目の橋は「小野寺橋」です。
現在の橋は昭和34年(1959)3月に竣功したもので、橋の上流側左岸に「小野寺橋竣工記念碑」が建てられています。
10小野寺橋.jpg10小野寺橋竣功記念碑.jpg
(「小野寺橋」と上流側左岸に建つ竣工記念碑)
題字は昭和10年12月から10年間小野寺村村長だった野尻金一郎氏によるものです。

5番目の橋は「小名路橋」です。「小名路」は大字小野寺の小字の一つに成ります。橋長18.7メートル、有効幅員6.5メートル、昭和57年(1982)3月に竣工しています。
11小名路橋1.jpg11小名路橋橋名板.jpg
(「小名路橋」橋詰より下流側を望む。写真左側は上岡の小丘)

三杉川はこの「小名路橋」から一直線に南流して上岡の小丘に遮られ、流路を小丘の西側に変えています。
この直線状の河道は昭和59年頃人工的に開鑿されたもので、それ以前は小名路橋の下流から「く」の字に西方向に蛇行していました。橋の西詰から南西方向に走る道路は旧河道の右岸に沿っていた道路の残りです。
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(かつての三杉川の河道は、写真右側に見える道路に沿って南西方向に蛇行していました)

新しい河道は「く」の字の上下を結んだ直線状で、その間約100メートルの間隔で、6番目の橋「湊橋」そして7番目の橋「新小名路橋」と、三つの橋が並んでいます。
12湊橋.jpg12湊橋銘板.jpg
(下流側に架かる「新小名路橋」より上流「湊橋」とその上「小名路橋」を望む)

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(「新小名路橋」 後方の山並みは唐沢山地、その手前に「岩舟JCT」を望む)

三杉川は上岡の小丘の西麓を蛇行しつつ更に南流しています。そして上岡の地で架かる「上岡橋」そしてその下流下岡に架かる「下岡橋」を潜り、岩舟町古江に向かって流れて行きます。
14上岡橋.jpg14上岡橋竣功記念碑.jpg
(「上岡橋」橋詰の桜の古木とその脇に建つ「上岡橋竣功記念碑」)

以前来た時は、橋の袂の桜の古木が満開でした。桜の木の横に建つ石碑には「上岡橋竣功記念碑」と刻されています。碑陰には「昭和三十年三月竣工」「総工費七拾万圓也」等の文字が確認出来ます。
又、桜の咲く頃に訪れたいですね。

橋を渡らずに、先ほどの道路を更に南下して行くと、三杉川が左手から右手方向に流れて行きます。架かる橋は土地名を採った「下岡橋」に成ります。ここで今回9橋目に成ります。
この橋の写真は17年前にも撮影しています。現在の橋は2005年1月竣工です。

15旧下岡橋.jpg15現下岡橋.jpg
(1993年11月撮影の「下岡橋」と2005年1月竣工の現在の「下岡橋」)

今回はここまでにします。今回の9橋の位置関係が判る様に頑張って模式図に表してみました。少し小さくて見にくいでしょうが、参考にして下さい。図の右手方向が北になっていますので、三杉川はこの間北から南に蛇行しつつ流れています。
三杉川中流域北部模式図.jpg
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